3月1日(水)
イスラエルの聖なる神、あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる。わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように恵みは海の波のようになる。
イザヤ48:17、18
人生をどのように生きれば良いのか迷っている人は多いものです。この世の人たちは誰に聞けば良いのかわからずにいます。人間を信頼できないのです。そこで、意外なほど多くの人が霊媒師を頼るのです。これは宗教など信じないという人も例外ではありません。特に責任の重い人ほど目に見えないものに頼りたくなるようです。神社に行けばしきたりを守り、おみくじを引くのです。しかし、その虚しさも忘れていないので、真剣には考えないようにしています。ただ、祟りとかには恐れを感じているのです。それに比べると、聖書の神を信じている人たちは比べ物にならないほどの確かさで、今日のみ言葉のような祝福を確実に受けることができます。それで、主の戒めに耳を傾けようと聖書に向かい、真剣に祈るのです。いつでも神の愛を意識し、ことごとくすべてのことを主に感謝することを習慣とし、日常の出来事の中に主の教えを適用しようと考えるのです。それは難しいことではありません。楽しいことなのです。何しろ、「あなたの平和は大河のように恵みは海の波のようになる」のですから。(佐久間)
3月2日(木)
平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。
詩篇4:8
救われた喜びは、生活の隅々に及びます。おそらく一番は夜眠れることです。心配事や悩みがあれば、夜すぐには眠ることができません。夜はどうしても考えが否定的になりやすく、放っておけば安眠は遠ざかり、ますます闇が深くなりやすいのです。何か問題がある時には、昼間の明るい時間に改めて考えればいいのです。夜、寝る前に聖書を読む人もいますが、それはオススメです。読んでいるうちにいつの間にか寝ているとなれば、聖書は副作用のない睡眠導入剤といえそうですね。最もいつでも聖書を見ると眠くなったら困りますが・・・。今日の聖句のポイントは、信仰者は安らかに生きていけるということです。勿論、神様が守っていれくださり、住まいも何もかも生活を良いものにしてくださるからです。それに、信仰は神様を信じることですから、問題があっても、何があっても、主を信じていることができるのです。神様との関係を正しくすると、神様の愛がいつでもわかるようになります。愛されている存在であれば、心は穏やかになり、布団の中で神様へ感謝しているうちに眠りにつくことができます。神様は義人を守ってくださるからです。なかなか寝付けない方も少なくありませんが、そのような人も今日の聖句を使って祈ってみましょう。「この聖句のようにしてください」と祈るのは良いと思います。(さくま)
3月3日(金)
彼らは、荒れ野で迷い、砂漠で人の住む町への道を見失った。飢え、渇き、魂は衰え果てた。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった。主はまっすぐな道に彼らを導き、人の住む町に向かわせてくださった。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。主は渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を善いもので満たしてくださった。
詩篇107:4~9
聖書の中で出エジプト記は特別な意味があります。主の救済がどのようなものであるか青写真か何かのように、その全貌が象徴的に書かれています。イスラエルの民は古代の歴史の中でそのことを証言する役割を果たしてきました。詩篇にも、後の時代の私たちにも役立つ預言が見事に描写されているのです。今日の聖書箇所も聖徒たちが信仰の道のりで荒野の経験をすることが書かれています。主は彼らを見殺しにすることなく、慈しみ深く接してくださるのです。そして、私たちも魂の渇きを感じたら、主に助けを求めればいいのです。この世で苦しみの中に置かれている人もいますが、主の驚くべき御業を体験することができるのです。全能者があなたを助けるのです。あなたは特別だからです。主の御名を呼びましょう。あなたの人生がどこに向かっているのかあなたは知るでしょう。ハレルヤと主を讃美しましょう。(佐久間)
3月4日(土)
まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
ルカ18:7、8
クリスチャンの祈りは特別なのです。イエス様もお語りになったとおりです。ちょっと祈っても何も起こらないからと、すぐにあきらめてしまう人がいます。残念ですね。その祈りが明らかに間違っていたり、快楽のためであれば祈りは聞かれませんが、そうでなければ聞かれるのです。ましてや、裁きを求めるものであれば、主は果敢に聖徒のために速やかに裁いてくださるでしょう。さて、主が地上に現れた初臨の時から2000年が過ぎ、聖書の長い預言もいよいよクライマックスへと近づいているのです。そのような時に、最後のイエス様のお言葉に目を止めないわけにはいきません。主の御再臨の時に「地上に信仰を見いだすだろうか」とお語りになりました。それほど厳しい状況が予想できます。ノアの時代の人々は、豊かになり今の世界のようになっていたのです。滅ぼされたソドムやゴモラの堕落した精神は、今日にも見られるのです。その中で信仰を守ることがどれほど大変かわかるでしょうか。つまり、この世と妥協しないということです。聖書を学び、いつでも主に忠実な信仰を養って行きたいと思います。(さくま)
3月5日(日)
キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
ヘブライ9:28
救いの計画は恵みに満ちているのです。私たちの罪の問題は、自力では到底解決できないものでした。私たちの救いを例えると、海で遭難した人が沈みゆく船の中でただ死を待つだけの状態にある時、海難救助隊が荒天の中、命がけで救助に来てくれるようなものです。その時、できるのはただ救われるのを待つだけです。キリストの再臨を待望することは、忍耐のいることです。信仰者にとって必ずしも良い条件の中で待つことは難しいからです。無神論者が「神などいない」と信仰者を嘲笑っても、その人が信じている科学よりもはるかに確かな神の存在を信じ抜かなければなりません。信じることの難しい状況は、世俗化が進むほど顕著になります。この世が居心地がよく、神がいない方がなんでもでき、快楽への誘惑も強ければ、信仰は揺らぐかもしれません。そこで聖徒たちのふるいがあるのです。この聖句からも明らかなのは、キリストの初臨の意味を知ること、そして再臨はキリストを信じて待っている人たちに救いをもたらすと信じていることが必要なのです。キリストは、聖書に書かれた通りに私たちを迎えに来てくださいます。天国に入った時に救いの意味が明瞭にわかるでしょう。(佐久間)
3月6日(月)
上品な声を出すからといって信用するな。心には七つの忌むべきことを持っている。
箴言26:25
クリスチャンだからといって無思慮に誰でも信じていいわけではない。人生を振り返ってみれば、この聖句が言わんとしていることがわかるはずだ。上品な声を出す人が必ずしも信用に値するとは一概に言えないのだ。これは、人がこうしたうわべで簡単に騙されることを戒めているし、自分が何によって人の良し悪しを区別しているかが試されることにもなる。よく、人に騙された時に「騙されてた方も悪い」と人から慰めにもならない諭さしを受けることがある。そこで、私たちは知恵を得ることにする。このように自分に近寄ってくる人がいた時に「心には七つの忌むべきことを持っている」という御言葉を思い出すことにしよう。そうすれば人を恨むようなことにはならないし、大きな損失を防ぐこともできるだろう。(サクマ)
3月7日(火)
慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう。
箴言3:3、4
成功したいと思う人は、今日の聖句を瞑想してみると良い。「慈しみとまこと」、この二つが肝心なことだと教えている。あなたはどんな人に好意を感じるだろうか。実は、「慈しみとまこと」のある人に人は一番好意を感じるものなのだ。そのためには信仰が不可欠となる。なぜなら、自分の中の感情が邪魔して、いつでも誰に対しても「慈しみとまこと」の人になるということが自然にできるわけではないからだ。これは聖書の知恵であり、信仰によって身につけるものだ。意識しなければ、到底できるものではないし、意識したからといってできるものでもない。信仰と祈りがあなたを「慈しみとまこと」の人に作り変えていくだろう。そして、できたなら、聖書の約束はあなたに必ず成就する。(サクマ)
3月8日(水)
愛する人の与える傷は忠実さのしるし、憎む人は数多くの接吻を与える。
箴言27:6
愛してくれているからこそ、自分に厳しいことを言う、時には傷つけることすらあるが愛していないのではなく、愛しているからこそそうなった、ということもあるのだ。顔では笑い、親しげであっても心が裏腹で憎んでいることだってある。人間は複雑だ。こちらがしっかり見分けなければとんでもない誤解をして判断を誤るかもしれない。外から見えることではなく、相手の心を見ることができるように主に願おう。愛の鞭は確かにある。偽りの愛も人の心を惑わすことがある。人間関係を愛を基準に見ることは正しいが、愛の表現は実に奥深い、誰が自分を本当に愛しているか見誤ってはならない。(サクマ)
3月9日(木)
主は私の力、私の盾。私の心は主により頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。
詩篇32:7
聖書に出てくる人も現代のクリスチャンも心から主に依り頼む人は、主に助けていただいています。信仰者はこのことを知る必要があります。私たちの不思議は主が私の力となり、私の盾となることです。自分の力で勝利するのではなく、主を信じて心から依り頼む時、主が最高の方法で助けてくださいます。時も何もかも絶妙にこれしかないというタイミングで解決してみせるのです。苦しんでいればいるほど、その時の喜びは大きく、小躍りして喜ぶはずです。この時、心から溢れる讃美が主のものとなるのです。ですから、このみ言葉を覚えて、主により頼んでください。主への絶大な信頼心が身につくでしょう。(佐久間)
3月10日(金)
主は憐れみ深く、正義を行われる。私たちの神は情け深い。哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てたわたしを救ってくださる。わたしの魂よ、再び安らうがよい、主はお前に報いてくださる。
詩篇116:5~7
一旦不調に陥るとしばらく苦しむことになります。それは人間的な問題であれ、霊的な問題であれ、同じです。私たちが一番解決しなければならないことは、神様をあまりよく知らないことです。そこで、自分の思い込みが入り込んできます。人間の常識であったり、自分の考えに縛られることだったり、自分を認めてもらえないと思い込んでそこから抜けられなくなるなどいろいろです。結局、自分の自信が消えているような状態です。自分を信じられなくなれば、混乱するだけです。安定を欠きます。このような時にヒューマニズムは役に立ちません。自己憐憫を引き起こし、問題の解決に背を向けて、他人が悪いと思い、自分が認められない理由をどうしてか正しく理解しようとしません。それは他人の自分への批判を認めないことにあります。せっかくの成長のチャンスを逃しているのにです。そして、自分を責め始めます。そうなると、簡単には正常な状態に戻れなくなります。これは信仰者にも起こり得ることなので注意が必要です。聖書に書かれた言葉は聖霊の助けなしには理解できません。自分で勝手な解釈をして、それでうまくいかないと神をも責めるようになります。どうして信仰を捨てないのか不思議になります。イエスがイスラエルに現れた時に、宗教家がメシアと認めなかったこととも関係があります。自己を神様に明け渡すと言うのは、自分のこだわり一切を放棄することですが、まるで自分が死んでしまったようなものです。そうなれば、一気に解放されるので楽になります。聖霊はその難しいことをいとも簡単に実現させてくださるお方です。聖霊に満たされ、リバイバルしたいと神様に願うことは正しいのです。これは毎日でも必要なことです。何しろ、私たちの神様ほど素晴らしいお方はいらっしゃいません。実に、全部神様がやってくださるのですから。このことに集中して祈り始めることは大きな実りを期待できるのです。(さくま)
3月11日(土)
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
詩篇19:7、8
聖書の効能を説明せよと言われたら、この聖句を読めばいい。これで、健全に元気にならない方がどうかしている。これが賢人のただの言葉なら信用はないが、神の言葉なのだから信頼できる。そこで、クリスチャンが不調に陥ったなら、それは聖書を遠ざけたからかもしれない。そもそも義務で聖書通読をする人がいるが、それは異教のお経やおまじないとあまり変わらない。聖書の秘密は、この聖句を読めば明らかになる。つまり、御言葉を読む者に起こる現象は、まず、すっかり落ち込んで精彩を欠いていた人の魂を生き返らせることができる。そればかりか、賢くなる。落ち込んでいた人も心が喜びだす。そして、何と言っても人の目を明るくするのだ。目は心の窓というほど人の心を無防備に開いて見せている場所なのだ。そこが明るくなる方法がここにある。これほど現代人に必要なことが他にあるだろうか。驚くほどの効用は義務からは生まれない。信仰をあらわそう。大いに期待して主に聞こう。(サクマ)
3月12日(日)
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されたて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
コロサイ3:15
さて、不思議な言葉です「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」。あたかも私たちがこのみ言葉を文字どおりに実現できると読めます。そうなればどんなにいいでしょうか。そこで、この御言葉を実現させることを考えてみることは意義深いことです。ヒントは、クリスチャンはキリストと一体に結び付けられていることです。ブドウの木の譬えと同じです。ブドウの枝が木にくっついているかどうかで結果が違ってしまうのですから、木とつながって実を結ぶ方になりたいのです。ではどうやればいいのでしょう。このようにキリストと一体となれるのは、自分の力ではありません。神様のお力で可能なのです。では、私たちは何もしなくていいのかと言えば、信じる必要があります。難しい理屈抜きに御言葉を信じることです。それがわかれば、キリストの平和が私たちの心を支配することは可能なのです。もちろん、信仰によってです。このことがどれほど素晴らしいことか早速実践してみましょう。それから、感謝の心はみ言葉を信じて実現させる信仰を容易にすることも覚えておきたいものです。(さくま)
3月13日(月)
ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。・・・ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上に注がれるのを見て、大いにお驚いた。異邦人が異言を話し、また神を讃美しているのを聞いたからである。
使徒言行録10:44~46
この記録は、最初にユダヤ人以外の外国人が聖霊のバプテスマを受けた歴史的な場面です。ペトロたちはなぜ、聖霊のバプテスマが異邦人に与えられたことがわかったかと言えば、それは聖霊の賜物である異言を外国人たちが話したからです。初代教会時代には聖霊のバプテスマと水のバプテスマの両方が全ての信者に与えられていたのです。そして、聖霊のバプテスマを記録した他の聖書箇所でも、やはり異言を語ったり、預言を語る者もいたことが書かれています。今日でも、同じことです聖霊のバプテスマを受けていないと思えば、聖書を調べ確信を持って祈り求めるべきです。そして、恐れずに異言を語っても良いのです。異言は聖霊の働きによる賜物ですが聖霊のバプテスマを受ける時に現れやすいことと本人が自分は聖霊のバプテスマを受けたと確信を持てるので役に立ちます。そして、異言で祈ることは霊で祈ることですから、祈りの幅が広がります。「異言を語ることを禁じてはなりません」(Ⅰコリント14:39b)と聖書にあるので、軽率に異言を批判してはいけません。また、異言が語れたからと高慢になってはいけません。聖霊のバプテスマを受けても異言を語らない人も勿論います。異言が信仰の優劣を決めるものではまったくありません。それらを踏まえて、異言を求めることは良いことです。(佐久間)
3月14日(火)
わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。
サムエル記上1:27、28
男性と女性の違いは大きい。女性は子供をみごもり産むことができる。だから、男性と女性では子供との絆の深さが違っているように思える。もっとも、聖書には女性が子供をみごもることが簡単ではないことを示す例がいくつもあり、そこに神の介入があることも実例として出ている。ここにハンナという女性が出てくるが、彼女もまた妊娠できずに苦しんだ者の一人だ。その人が神殿で泣いて嘆願した時に約束されて生まれたのが偉大な預言者のサムエルだった。ハンナは息子が乳離れした時に主の元へ行き、主に息子をゆだねたのがこの場面だ。このハンナの強い信仰が神の偉大な計画を実現することになった。母の強い信仰はそれまでの苦しさの中で培われたのだ。息子を手放すことをしなければ、一体人類救済の歴史はどうなっただろう。そう思うと、ハンナの信仰が主の望んだものだったことがわかる。私たちも将来を見通すことができなくても、主を信じて決断する時には躊躇してはいけないのだ。(さくま)
3月15日(水)
悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出してください。
詩篇25:17
人の悩みには際限がありません。なんでも悩みになります。ところがある人たちは、同じことが起こっても悩みにしないのです。不思議なことに見えますが、人の心が肯定的になっているのか、それとも否定的になっているのかで、結局自分で悩みにするかどうかを決めているのです。大失敗をしても、人から不当な扱いを受けても、別離や喪失すらエネルギーに変えてしまう人の存在は、私たちに何か知らない世界を見せられているような気がして来ます。聖書を読み、聖霊の助けを求めている人は、祈りながら自分の限界を超えていけるのです。こうであるというような人間特有の思い込みを捨て去ることができるのです。それは、簡単な方法では、いつでも神様に感謝する癖をつけることです。感謝は肯定的な姿勢を自分に作ります。出来事にいちいち負けないのです。全てを感謝に変えていく人はそもそもの悩みの原因を消し去っているのです。悩まなくても良いことで悩むのは、大きな損失を生みます。神様があなたの助け主であるのですから、あなたの悩む心を解き放ち、痛みから引き出すことができるのです。元気を出しましょう。主に助けられることを良しと認めましょう。(さくま)
3月16日(木)
物乞いをする者は哀願し、金持ちは横柄に答える。
箴言18:23
さて、この聖句を読んで何をあなたは感じただろうか。当たり前のことだ!どこに知恵があるかわからない!このように思っただろうか。それとも、これは道徳の問題だ!と考えただろうか。ここでもう一つ別の視点を考えてみよう。あなたは金持ちの側からこの情景を見ただろうか、それとも物乞いする人に我が身を置いて想像しただろうか。小説家ならば、ここに物語を見るはずだ。さて、クリスチャンにも益となることがある。それは、神様に嘆願するときのことだ、その姿はちょうどここに出てくる物乞いのようではないだろうか。哀願する祈りだ。人間の金持ちはその願いをかなえることができるが面倒をかけるなと横柄に答えるだろう。しかし、神様は違っている。ちゃんと聞いてくれる。そして、優しく答えてくれる。それは、イエス・キリストの物語にしばしば目にする光景の中にある。そのような主を知っているだけで、私たちはどれほど気が楽になるだろうか。神は愛なり、と心から唱えることができるのだ。(サクマ)
3月17日(金)
さて。わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
ヘブライ4:14
大祭司は、神と人の間に立って執り成す役割を担っています。その際、犠牲の血を携え、祈りを天にのぼらせ、人の罪を完全に赦していただけるように働くのです。人間の祭司よりもさらに優れた大祭司としてイエスは天の聖所で今も私たちの罪の執り成しを続けているのです。そのことが私たちの希望です。イエスが大祭司として人の罪を赦すために自ら犠牲となって、十字架で血を流されました。そのことを通して悔い改め、キリストを信じた人の罪が赦されるのです。クリスチャンはこのことを知っています。自らが体験したことです。そして、さらに毎日、このキリストの救いによって信仰の道を歩み続けることが私たちの人生になりました。たとえ信仰生活に波があったとしても、クリスチャンであることを公にしているのですから、悪魔の誘惑や攻撃にも負けずに、どんなことがあってもキリストを信じて生きて行きたいのです。何しろ神の子イエスがあなたのために天で執り成していてくださることをいつでも覚えていれば、良い選択ができるでしょう。失敗してもすぐに主に謝って、赦しを得ましょう。天に向かって主に感謝をささげましょう。(佐久間)
3月18日(土)
わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
マタイ5:44、45
クリスチャンはよく、「わたしは神の子です」と言うが、それはどのような意味があるのだろう。ここにイエス・キリストの教えがある。有名な聖句である。ここで言っていることを守れば神の子と言っても良いはずだ。しかし、実際には敵を愛することは容易ではない。「クリスチャンとて人の子だ、ひどいことを言われれば涙もこぼれる」だから敵を愛することはできない、と言うわけだが、待てよ!「神の子」と言っていたのではないだろうか、それがいつの間にか「人の子」になってしまったのだろう。つまり、自分の正直な気持ちでは敵を愛することはできないのだ。そこで、なぜ神の子と言えるようになるかを考えてみると、ここに父はどうゆうお方であるかが描かれている。悪人にも善人にも太陽を昇らせていると言うのだ。雨だって降らせてくださる。その子供だから、同じようにするはずだ、と言うことなのだ。これは今までの教育で教えられて来た考え方ではない。全く違った考え方をしなければ、「やっぱりできない」となっておしまいになるだろう。そして、この新しい考え方、生き方こそがイエス・キリストの教えたかったことなのだ。それを学ばなければ、クリスチャンと言っても昔のままの人でしかないのだ。ここには、やってみなければ理解不能の奇跡がある。一見大変そうだが、創造主が創った世界では、主の教えの方が正しいに決まっている。古い人間の教えから天の父の教えに切り替えることを課題にしてみよう。この世にいながら、神の国に生きる経験が待っているだろう。(サクマ)
3月19日(日)
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
マタイ6:1
さて、あなたはどのような善行をしただろうか。改まって聞かれると困るかもしれない。ボランティアなどをしている人は、そのことを思い出すだろう。チャイルド・スポンサーのように恵まれない子供を助けていればそのことを善行と思うかもしれない。何か善行について考えれば、思いつかない人もいるだろう。ここでは、善行をしなさいとは言われていない。問題にしているのは、自分の善行が他人に気づかれるように見せびらかしのようになってはいけないと言っている。それは、人から報いをすでに受けてしまうからだ。人に「偉いね」とから言われたら、それが報いとなっていると言うのです。だから、天の父に報いていただくために、気づかれないように善行を行いなさいというわけだ。ところが私たちは、何か良いことをしたら人から褒められたいと思うところがある。それで、褒められないとがっかりするので、気づいてもらえるように善行を行ってしまう傾向があるのだ。でも、善行が自分にとって普通になればとても楽しいことだ。人が喜んだり、感謝している姿は、お金のような対価をいただくより、よっぽど気分がいいものだ。あからさまに「あなたのおかげで助かりました」などと感謝されたら、どうしていいかわからなくなる。だから、誰かの役に立てただけで本当にありがたいことなのだ。人が喜ぶ姿が自分の中でお金などでは買えない価値を生み出す。それは、天の父も喜ぶことだと思う。それだけで満足できる。天に帰った時に天の父はなんと言ってその喜びを私たちに見せるのだろうか。それだから、この世で誰かに褒められることは何としても避けたいと思ってしまう。(サクマ)
3月20日(月)
苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが、あなたの戒めはわたしの楽しみです。あなたの定めは、とこしえに正しいのですから、わたしに理解させ、命を得させてください。
詩篇119:143、144
この詩篇記者は、苦難と苦悩がふりかかった時に、主の戒めが楽しみとなっていたと言うのです。聖書を読むようになり、さらに信仰を持ってからわかったことは、この世の常識で聖書を理解することができないこと。そのため、聖書を神の御言葉と信じるのなら、この世の常識ではなく聖書の戒めに従って生きることが良いということです。そうは言っても簡単なことではありません。この詩篇記者ですら、「わたしに理解させ」て欲しいと願っています。さらに言えば、神の定めはとこしえに正しいので、理解させてください、というのですから、主の戒めに奥義があるので、神に理解させていただければ命を得ることができるということになります。そこで、この世の苦難ですら忘れさせて、楽しみだとまで言わせた主の戒めを真理の御霊に助けていただいて理解できるように祈ることは御心にかなっているのです。苦難の時にこそ体験できる宗教経験があることを覚え、聖書を手に祈ってみましょう。(佐久間)
3月21日(火)
わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして、あなたに賛美の歌をうたいます。目覚めよ、わたしの誉れよ、目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。詩篇57:8、9
あなたは主を信じて救われました。そして、イエス・キリストを信じています。それはすごいことなのです。あなたがこの世から受けるどんなにひどいことも、敵も、災いも、病いも、サタンですら、あなたに勝利することはできません。主が許すはずがありません。主はあなたを瞳のように大切にしています。ですから一時、あなたを苦しめるようなことが起こっても、倒れたままでいてはいけません。嵐の最中では主に助けを求めることしかできないでしょうが、落ち着いたら心を確かにしてください。そして、主を賛美するのです。賛美歌はきっとあなたの気持ちを変えてくれるでしょう。そして、目覚めるのです。あなたが何者であるか、しっかり目を覚まして自覚してください。あなたは神の子で、イエス・キリストはこの宇宙を支配する権威をサタンから取り戻して、あなたに渡されたのです。恐れてはいけません。暗闇の中で曙を呼び覚ますのです。主はあなたのためにすでに勝利されているのです。勝利はあなたのものです。ハレルヤ!(佐久間)
3月22日(水)
誠にあなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれていく。
イザヤ55:12
神に従順に生きるなら、このみ言葉の通りの人生を歩むことになる。周りがどのような状況であっても、同じなのだ。あなたの心を人は自由にできない。あなたは、正しい選択がその結果となることを忘れてはいけない。アダムは間違った選択をしたので、エデンの園を追放されてしまった。イエス・キリストは正しい選択をしたので、天国の門を開き、自ら天国への道となられた。弟子たちは、イエスを信じると正しい選択をした、それは彼らに神への従順を教えてることになった。パウロは随分ひどい目にあったが、いつも喜ぶように語り続けた。神への従順は愛の奇跡を起こし、この世の悪が怒り狂って襲ってきてもそれに打ち倒されることがない。試練すら、従順を身につけるためであることを知るようになる。自分を不幸にしてきたアダム以来の間違った選択をやめ、イエスに習って正しい選択をすることができるようになる。それは神への従順という美しい結果だ。あなたは、この道を歩んでいる。だから、今日の御言葉はあなたのことになる。(サクマ)
3月23日(木)
神は、あなたがたをいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ち
あふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります
Ⅱコリント9:8
受けることばかり考えてはいけません。「喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(9:7b)。クリスチャンがこの約束を信じていれば、困ることがないということがわかるでしょう。神様は生きておられ、主に忠実に生きれば、恵みの中を歩んでいけるのです。この世の仕組みは悪魔に関わりがあります。そして、救われる前の肉の性質がそのまま現れている欲で動かされ、罪に至る世界なのです。そこに生きれば、みじめになる可能性が高いのです。その中で、クリスチャンが困らずに生きていけるのは、ここに書いてある通りの恵みが働いているからです。だから、この世の常識に縛られてはいけません。信仰によって不可能を可能にするような生き方をすることができるのです。「いつでも喜んでいなさい」と言う聖書の命令は、この信仰によって生きる人にだけ適用できるのです。状況や人に左右されない生き方が信仰の世界なのです。あなたは、今日の聖句を信じることができますか。ぜひ、信じてください。そして、恵みに満ちあふれて生きていただきたいと思います。(さくま)
3月24日(金)
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
ローマ8:18
今、苦しみの中にいる人は、今日の聖句をしばし考えてみましょう。この世はいずれ終わります。天変地異が起こり何かもが滅びることを聖書は預言しているからです。しかし、それは罪と死と悪魔がついに終わりを告げ、イエス・キリストに属する人たちが天国へ行くことを意味しています。自由な選択ができる時間を私たちはいただいていました。その中で、福音に接し自分の自由意思でイエス・キリストを信じるかどうか決めることが意図されていたのです。そのために宣教があり、福音を伝える者がいたはずです。その人たちは聖書をあちらこちら調べて、新天新地の約束が確かであると知ったのです。それがあまりにも素晴らしいので、この世での苦しみがあったとしても絶えることができると忍耐したのです。この地上のことだけであれば、忍耐できなかったかもしれませんが、黙示録に描かれた新しい天の情景は、聖徒の心を震わせるに十分足るものだったのです。そして、天国の真理はそこにこそ主イエス・キリストが待っていてくださると言うことです。それだけで十分なのです。ですから、信仰は燃えるべきです。生ぬるいなら主は口から吐き出すと語られました。だから、信仰を燃え立たせて勝利の栄冠をいただくまで、この道を進むのです。(佐久間)
3月25日(土)
実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
伝道5:19
お金のことをよく聞かれます。クリスチャンはお金についてどう考えればいいのか気になるのです。どちらかと言うとたいていの人は、お金を儲けてはいけないのではないかと思っているようです。聖書が言っているのは、お金が主人にならなければいいのです。主はただ一人ですから、間違ってはいけません。それどころか、イエス様は僕たちに財産を預けて旅に出て、帰ってくるとどれだけ増やしたか、と問いただしています。お金をしまって、増やすことをしなかった僕は不忠実な僕として追い出されました。増やした僕は褒められて増やした分もその僕に預けたのです。ですから、お金を上手に増やすことを考えます。それはこの世の人と同じとは限りません。クリスチャンは、すべて神様が自分に与えてくださったものを感謝することを知っています。ですから、富だけではなく、日常の苦労や苦難まで感謝するのです。これが神様の賜物であることを知っているからです。そうなると、全てが互いに働いて益となるのです。成功法則も実にシンプルで、神様を喜ばせようとすればいいのです。そすれば、他人も喜ばせようと考えます。真面目に頑張って働けばいいということではないのです。無理はどこかで帳尻合わせをするので、長続きしないのです。夢があれば頑張れるというのは楽しいからです。主は、楽しいお方なのです。(さくま)
3月26日(日)
神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。
Ⅰテサロニケ5:9
あなたがこのディボーションを読まれているのなら、今日の御言葉はあなたへのメッセージです。聖書を読むと、確かに神の定めがあることに気がつきます。たまたま救われるというようなことはありません。神は中途半端なお方ではないのです。ですから、あなたが考えるよりももっと、神はあなたのことを大事に思い、深く関心を持っておられるのです。それは、あなたを祝福された人生へと導きたいからです。そのために救いにあずかるように定められたというのです。もちろん、主イエス・キリストの救いがあっての話です。あなたはイエスを個人的な救い主として信じたので、神の不思議が始まっているのです。あなたは、自分の生きてきた過去を振り返って、ため息をついたり、後悔してはいけません。罪は悔い改めなければいけませんが、自分の人生はダメだったという必要はありません。そこから、成長すれば良いのです。神は怒ってはいません。まずは、救いに定めてくださったことを神に感謝します。そして、そのように定められた者として生きるのです。これから良い人生を送ることができます。主を喜ぶことがあなたの生きる力となります。今日も、その祝福された一日であることを信じましょう。(佐久間)
3月27日(月)
歩む道が曲がったりそれたりしていても、清く正しい行いをする人がある。
箴言21:8
みんなに合わせなくていい、とヴィトゲンシュタインは言っている。みんなと歩調を合わせなくても良いじゃないか、というのだ。日本のような文化では、協調性が一番重要視されるところがあるが、それでは画一的になりやすい。だから、立ち止まって足元に目を向けて面白いものを発見しよう。美しいものを見つけたら、みんなが立ち止まって振り返ると、ヴィトゲンシュタインは教えてくれる。だから、変わっていてもいいし、みんなと違った考え方をしてもいい、イエス様を信じて清く正しく生きることができればそれでいいのだ。誰かと比べることはない。自分の個性を大切にしよう。自分で良かったと神様に感謝しよう。そして、自分の人生を良しとしよう。イエス様はきっと親指を立ててウィンクしてGOOD!って言ってくれると思うよ。(サクマ)
3月28日(火)
鳥が巣から飛び去るように、人もその置かれたところから移って行く。
箴言27:8
春は移動の季節です。永く住み慣れたところから見知らぬ場所へ引っ越して行くことは大変なことですが、学校への進学や就職、結婚に転勤と人は節目に移動するようです。私も転勤族だったので嫌になる程引っ越しましたが、今となってはそれは楽しい恵みであったと思えます。外国への引っ越しも二回経験しましたが、それも貴重な経験でした。なぜならた新しい場所で今まで全く知らなかった人たちと出会えるのです。人と人の出会いほど価値あるものはありません。そのことが人を成長させ、人生を豊かにすることができるからです。今では、定年退職後に外国でロングステイを楽しむ人も増えてきたそうですが、たった一度の人生を悔いのないように過ごしたいものです。(さくま)
3月29日(水)
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
申命記5:7
日本では無宗教の人が多いように思われていますが、実際には政府に登録された宗教法人は181、645(平成27年12月31日現在)もあるのです。もちろん登録されていないものもあるので、かなりの数になります。信者数においてはトップテンに名を連ねる宗教法人だけで軽く日本の人口を超えてしまいますから、いい加減なものですが、なんらかの形で宗教に関わっている人が想像以上に多いということです。そのような日本で、私たちはこの聖書の神を唯一の神として信じています。出エジプトしたイスラエルの民がカナンに入る時に、カナン人の神々を信じないように注意がありました。それは、文化に至るまで影響を受けないようにしなければなりませんでした。私たちは、イスラエルの民と同じです。回心して、キリストによって神との和解をした者は、この神だけを神とするのです。それは、生き方に明瞭に現れます。私たちは恩知らずではありません。この世から、そして、罪と死から救い出してくださった主への特別な思いがあります。十字架の意味がわかり、その十字架に今でも頼って生きているのです。だから、他の神々に心変わりすることなどあり得ないのです。主の恩に報いて生きたいのですが、実際には主に愛されて生きています。そして、この神は今も生きて働かれるので、偶像とは全く異なったお方なのです。信頼に足る神を私たちは信じ、心を尽くして愛して生きるのです。(佐久間)
3月30日(木)
愛する人たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
ローマ12:19
私たちは誰とでも仲良くやって行きたいと思っているのですが、時に自分では理解できないような恐ろしい人と出会うことがあります。そして、初めは良くても、いずれ人間関係が破綻するほどのひどい目にあうことがあります。そこで、復讐心が湧いてくるかもしれません。恨みに思ったり、このままでは腹の虫が収まらないと思ったりするかもしれません。それほど傷つき、相手が人としての道に反することをしてくる時、主は、その悪意に悪を持って復讐してはいけないと言うのです。聖書に書いてあることは真理なので、その通りに守れば、結果も聖書に書かれた通りになるのです。そこで、クリスチャンは復讐をしません。腹は立つでしょうが赦すことさえ考え始めます。これは、誰にとっても簡単ではありません。しかし、聖書の御言葉には力があることを知っている人は、自分でするのではなく、神の怒りに任せるのです。私はそれでどうなるのかを見てきました。今日の御言葉の通りになります。だから、自分で復讐しないようにと戒めています。理不尽な目にあうこともありますが、主にゆだねることにしています。とにかく復讐はしないことです。(佐久間)
3月31日(金)
世界の諸国よ。神様をほめたたえなさい。地に住む人はみな、賛美しなさい。私たちを、目に入れても痛くないほどに思ってくださる神様に、心変わりはありえません。神様をほめたたえなさい。
詩篇117:1、2
つまらないことを考えてくよくよすることほどバカバカしいことはありません。そんな暇があれば、すぐに神様をほめたたえましょう。神様に感謝するのは当然です。それほどまでに神様は私たちによくしてくださるからです。愚かな人は、試練で学ぶことがないので不平・不満を言葉にしてしまいます。今の自分では天国には入れないので品性と信仰を整えてくださるために、試みられ、鍛えられているのです。信仰に燃え上がると、悪魔は敏感に感知して、その信仰が本物になって悪魔の脅威になる前に叩き潰そうとするのですが、その悪魔の攻撃ですら、神様を知り、本物の信仰者になるために役立つのです。それに、人間の弱さが出て失敗したとしても神様はその程度のことで見捨てることはありませんし、気分が変わって見捨てるようなこともしません。ましてや、神様がひどい目に合わせるようなことはしないのです。聖徒が、もし落ち込むようなひどいことが起こっているのなら、それは背後に悪魔がいるということでほとんど間違いありません。すぐに信仰を奮いたたせ、神様に祈り、悪魔に立ち向かいなさい。悪魔は逃げ去ります。これも皆神様のおかげなのです。だから、讃美することを習慣になるまで、毎日何回も時間をかけてほめたたえましょう。その効果はやがて明確に現れてきます。不信仰な世界にいる人にとって、信仰はたやすくないのです。だから、感情に頼らずに、賛美しなさい。「主よ、感謝します」と唱えることを繰り返しているとある時、不思議が起こるはずです。心からのあふれる賛美がとめどなく流れだすでしょう。不信仰の壁が壊れたのです。神様は世界中の人々が賛美するにふさわしいお方なのです。神様はあなたにとてもよくしてくださっていることを知るでしょう。(さくま)