6月1日(日)
キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
エフェソ2:6
クリスチャンであるはずの私たちが、意外なことに劣等感に悩むことがあります。人に言わなければ誰も気づくことはありません。しかし、本人にとってはしつこく悩ませるものなのです。これは、クリスチャンになる前に持っていた劣等感ですから、クリスチャンになった時に、十字架につけてきたはずのものです。生まれたままの人の持っていた劣等感を本当は持っているはずがないのです。なぜなら、洗礼を受けた時に水の墓に古い人共に葬ってきたからです。新しい命をいただいて神の子にしていただいたのですが、それを正しく理解していないようです。本当のあなたの姿は、今日の聖句を読めば明らかです。「キリスト・イエスによって共に復活させ」とあるように、罪人のあなたはキリスト共に死んだのです。それだけではなく、キリストの復活にあずかって、一緒に復活したのです。それだけでも、劣等感を持っていた古い人は死に、新しい人として復活しているのですから、劣等感で悩む必要はありません。さらに、聖句は「共に天の王座に着かせてくださました」と書いてあります。意味が分かりますよね。イエス様は今どこにおられますから、復活後に昇天されて、天の王座に着かれました。そして、あなたも共に天の王座に着かせてくださいました、と書いてあるのです。このような驚くべき特権を与えられた人が一体何を悩む必要があるのでしょうか。ましてや、劣等感を持つはずがありません。どうですか。あなたは悪魔に騙されていたのです。真実はあなたは大きな恵みの中に写されていて、イエス様と共に天の王座に着いている神の子なのです。そのことを信仰で受け止めましょう。
6月2日(月)
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪を拭い去り、もうあなたの罪を思い出さない。
イザヤ43:25
この聖句は、イスラエルが神に罪を犯してきたことが先に書かれていて、それを受けるように贖罪を神ご自身がなされるという感動的な箇所なのです。しかし、この箇所を私たちが普通に読んでみれば、「わたし」という言葉が三連続で出てきた時に、圧倒されます。私は、なぜ人間が犯してきた罪の責任をその人自身に負わせないで、独り子であるイエス・キリストに負わせたのだろうかと疑問に思っていました。もちろん、人間が罪の攻めを受け罰を受けるなら、自業自得であるが滅ぶだけになってしまいます。何の希望もなく、救いが無くなるのです。神が愛であるからこそ理解し難い、罪の無い神の子イエスがなぜ私たちの罪の罰を受けなければならないのだろうか。その罪の贖いによって私たちを救おうとされるのはなぜなのだろう、とどうしても思ってしまうのです。その答えがここにあるかもしれません。「わたし自身のために」とあることは意外です。「哀れな人間のために」とか言われた方が納得できます。しかし、神は人間が罪で苦しむことが看過できないのだろう。創造の時に人間アダムが完全に創造され、この地上を支配し、エデンの園で神との交わりを楽しみ、幸福に暮らすことが決まっていたのです。それが、罪を犯し、楽園を追放されてしまったのです。そこから始まる人間の悲劇と悲惨は、罪のせいであるというのです。さらには、罪の呪いが重く人間にかかっていたのです。そして、神の民イスラエルですら罪を犯し続けるのです。こうした人間の罪を神はどこかで決着をつけることに決め、罪の問題解決を決められたのです。御子イエスが十字架につかれて犠牲を払われたのは、他に罪を犯さない者が一人もいなかったからでしょう。「わたし自身のためにあなたのそむきの罪を拭い去り」と言われた神は、一度罪に落ちた人間は、自力で義となることができないことを見極めたのです。そうなると、ノアの洪水の時のように全人類を滅ぼすか、はたまた神の義と愛が両立する方法で人を救済するか、その場合にも、本人が信じる信仰で義と認められることを条件にしたら神の愛も正義も成立すると思われたのでしょう。罪をいつまでも見続けることは辛いはずですから、すぐにも人間を裁いて終わらせたいのでしょうが、まだ救われる人間がいるのです。そのために、時を伸ばして終わりを遅らせているのです。それも、間もなく終わるでしょう。神の赦しは、「もうあなたの罪を思い出さない」と言われたほど、徹底しているのです。神の愛と恵みがあなたに届いているでしょうか。
6月3日(火)
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、・・・
ヘブル5:8
この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。
ローマ16:25b、26
クリスチャンの大切な目標は、キリストのように従順を学び、信仰による従順に至ることです。それは、福音から始めります。皆さんが福音を聞いて信じたからこそ、クリスチャンになったのです。それは、神への従順が天国へ入るために必要なことだからです。罪人の状態は神への不従順なのです。それは、アダムが罪を犯してしまった時に起こりました。そこで、それ以来人間は罪を犯し続けています。それは別の言い方をすれば、神に不従順でいるということです。ですから、私たちを救うことは、私たちが神に従順になることと言えます。そこを理解していないと、クリスチャンになっても古い生き方から離れられないのです。それでは、救われたか分からなくなります。ただ、教会に通っていれば良いわけではありません。人間は成長した分しか分からないのです。これは、学校に行っている子供と同じです。習わないことは知らないのです。理解力も成長しなければなりません。ですから、小学生が中学生の問題を解くことができないのです。同じように、真理を理解する必要があります。そうしないと、本当に新しい人として生き、霊的に成長することができません。それは、信仰で言えば、神への従順がいつまでもできないということになります。真理は、イエスご自身であり、また神の啓示である聖書のことです。また、聖霊も真理として助けてくださいます。イエスですら、「お受けになった多くの苦しみによって従順を学」ばれたのです。ですから、クリスチャンに試練があってもおかしくありません。この世はパラダイスではないからです。皆さんは、神の導きを受けているはずです。それは、聖書を学ぶことであったり、説教かもしれないし、祈りの中かもしれません。信仰を現すことが必要になったり、神の家族から学ぶかもしれません。神はあなたを決して見捨てませんから、励ましがあります。自分が弱くても、理解力がなくても、今まで不信仰であっても、大丈夫です。これからが重要です。従順になることができるようになっているのですから、聖霊の助けを受けて心をキリストへ向けましょう。神への従順があなたの人生の目標です。
6月4日(水)
すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。あなたは御手を開き、すべてのいけるものの願いを満たされます。
詩篇145:15、16
人間の歴史は、不思議な御手に守られてきました。多くの飢饉があり、大災害に見舞われ、流行病に倒れ、大恐慌で多くの人が貧者になったりと、どうしていまだに人間が生き残っているのか不思議になります。聖書時代にも飢饉でヤコブたち家族は食べる物が無くなりました。でも、彼らはエジプトに逃れ、食べ物を心配しなくても良い備えがあったのです。それは、とても不思議で上手に説明ができません。私たちは、幸いにも聖書を信仰を持って読むクリスチャンなので、目には見えないけれど神様が危機の時に必ず助けを与えてくださることを知っています。結局人間にとって一番大事なものは、食べ物なのです。食べなければ生きていけないからです。ところが、アダムが罪を犯し、呪われてしまったために、苦労しなければ食べることができないことになったのです。それがどれほど恐ろしいものであったか、人類の歴史が証言してくれます。今まさに、日本でも主食の米が高騰し、買えないという誰もが考えもしなかったことが起こりました。日本人は、食べることが当たり前にできることと思い込んでいたのです。でも、過去を見えれば、人間は食べ物をめぐって争い、惨めに飢えてきたのです。人間の驕り高ぶりが、そのことを忘れさせていたのでしょう。しかし、今日の聖句を読んでみてください。人々は食べ物を得るのは、神の恵みであることを知ることになります。ですから、神に期待して待つのです。神は飢饉を起こすことも、豊作にすることもできるのです。私たちは、食物を食べる前に祈ります。それが当たり前のことではなく、神の恵みであることを知っているからです。本当に感謝がそこにあります。神の恵みが与えられているのに、感謝しないことはありえないことなのです。私たちは、主に感謝をする者なので、願いが満たされているのです。主をほめよ。主を賛美せよ。アーメン。
6月5日(木)
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
詩篇23:6
クリスチャンは、今日の聖句のように特別な恵みが伴うように祝福されています。それは、イエス・キリストを善い羊飼い、自分を羊と考えて従う者のことを意味しています。この世にいれば、色々なことが起こり、良いことばかりとも限りません。病気になることもあるし、災いを経験することだってあるでしょう。しかし、それをただ悪いことが自分に起こったと消極的に受け取ると、羊飼いを見失います。悪いことが起こった時こそ、自分には良い羊飼いがついていると信じましょう。神様はきっと人の目には悪く映ることでも、逆転させて驚くような良い御業を見せてくださるから、良いことに変わってしまうと信じます。それが試練であって、本人を打ち砕く必要があれば、砕かれることが自分のためになります。その時に、どんなに酷くなろうと主を信じて離れないことです。祈り、聖書を読み、信じるのです。これも後から見れば、どうしても必要な信仰者の成長のためであったと分かります。そうであれば、試練さえ、恵みと言えるようになります。しかし、この聖句に書かれている人は、そうしたことも信仰で乗り越えて、心から御言葉の通りになると信じることができます。事実、毎日、その人は感謝して生きて行くのです。主の家に住まうということは、主からいつも離れないで、主を仰いでいるということです。この状態で、不信仰に陥ることはありえません。逆に、落ち込むような時には、主を仰ぐのです。不思議と心が落ち着き、喜びさえ感じることができます。私たちは、主から離れてはもはや生きていけないのです。それは、大きな祝福で、この世の人がなんと言おうと、心配はありません。あなたは、本当に恵まれた方です。この御言葉の通りになりますように。
6月6日(金)
主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。
イザヤ35:10
皆さんは、主に贖われた者たちです。この預言では、帰って来ると言っています。どこに行くのかと見れば、それは「シオン」とあります。黙示録では「新エルサレム」と言っている、天国のことです。再臨の後、天に上げられた聖徒たちが入る所です。再臨を信じて眠りについた人たちは、キリスト教の歴史の長さだけいます。その聖徒たちが一斉によみがえるのです。朽ちてしまう肉の体ではなく霊の体をまとって、私たちは復活するのです。天使たちが飛び交い、上空では聖天使の聖歌隊がハープを奏でながら歌っています。それは、感動的な賛美で、地上では聞いたこともない壮大な響きです。救われた人たちは、初めて自分の目で主イエス・キリストを見ます。ひと目で王の王と分かります。威厳があり、大きな神です。私たちを約束通りに迎えに来てくださったのです。天の準備が整ったからです。地上は天変地異があり、壊滅的な有様ですが誰も地上を見ようとはしません。上空の主に目が釘付けなのです。本物のイエス様にお会いしているという感動が喜びとなって、われ知らず、大声で主を賛美しています。救われた者は主を先頭に天使たちと共に天の都へと向かいます。素晴らしい夢を見ているかのようです。天の都は、ヨハネが黙示録に書いた通りです。現実に見て、人間はこの光景をヨハネ以上には書けないとさとります。全く見たこともない壮麗で豪華であり、聖なるとしか言いようのない所なのです。そこでは、玉座にお座りにならている神に礼拝するために聖徒たちは初めて神に近づきます。皆が平伏し、感動を通り越した喜びで礼拝します。私たちにはそれぞれ冠が与えられます。神の御前では一同が自分の冠をとり前に投げ出します。そうやってひれ伏すのです。この冠は、「とこしえの喜び」と呼ばれます。ここでは、「楽しみと喜びがついて来ます」。もはや、地上で味わった嘆きや悲しみはありません。その記憶すら喜びに帰られて行くのです。これが、あなたが主イエスを信じて、受けた救いの内容なのです。
6月7日(土)
無慈悲、憤り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
エペソ4:31、32
キリスト教の教えは一貫して今日の聖句の通りです。このような聖句はたくさんあります。それほど人間の常識とは相容れない教えなのです。そのために、頑張ってこの通りにしても、誰からも理解されずに、悪意ある人が言いふらしている通りに受け取られてしまって、がっかりすることになるかもしれません。最近では、牧師さんでも本当のことを見抜く目を持つことは稀で、聖書の教えを説く人がそれを実践する人を理解できないで、裁いて来ることもあるのです。ただ、慰めは神様は知っておられるということです。ですから、気にせずに赦すべきは赦し、酷い目にあっても甘んじて受けているのみです。このように、初代教会から人間は変わらず、問題は存在していたのです。神様はそのことを知っておられて、私たちにも聖書から教えるだけでなく、慰めも与えておられるのです。悪意が捨てられない人は憐れです。厳しい神様の裁きが待っているからです。人間を恐れている人は愚かです。神様をこそ恐るべきです。しかし、神様の教会には素直に、聖書の教えを守ろうとする人たちが集まります。ここでの訓練は、「お互いに親切にし、心の優しい人となり、互いに赦し合」うことです。最後の「互いに赦し合う」は人間的に赦そうと思っていても、実際には赦せなくなる危険があります。ですから、「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」と条件が付いているのです。クリスチャンは、この課題をクリアーすることで、古い自分を十字架にかけ、肉を遠ざけ、聖霊に従うことを身につけます。信仰のみで救われるということは、このように実際には厳しい面があるのです。救いの道は一つなので、互いに励まし合いながら進んで行くことが肝心です。
6月8日(日)
かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。
申命記23:5
人間の根本問題は、自分が愛されているかどうかです。誰もが、愛されたいのです。愛の欲求は強いものです。しかし、この罪の世界では、無条件に愛してくれることはないのです。そのために、多くの悲劇が繰り返されてきました。愛されなければ生きていけないのは、創世記によれば、初めに愛である神にかたどって人を創造したからです。しかし、罪を犯して神との間が破綻し、断絶してしまいました。ですから、本来愛し愛されという関係が絶たれてしまったのです。罪人として生きる人間は、それでも愛を求めてしまいます。しかし、せっかく得たはずの愛は、人を満足させませんでした。それは、本物ではなかったからです。それでも、愛に満たされたいと求めることを辞めることができません。かろうじて、親子や夫婦などの間に愛情のやり取りがあるだけです。これらはのろいなのです。ところが、聖書に今日の聖句が書かれていました。「のろいを祝福に変えられた」とあります。これが、クリスチャンの救いのことを意味しています。「あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである」とある通りなのです。それは、キリストが私たちの救いのために人となって来られ、十字架にかかり、復活されたことを意味しています。これらは神の愛なのです。その愛によって救われた人は、どうするでしょうか。主を愛し、主に愛されという恵みを味わうことです。このことが私たちの力となります。
6月9日(月)
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その叡智は計り知れない。疲れた者には力を与え、勢力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
イザヤ40:28~31
ブルーマンデー症候群とは、休日最終日の夕方から休み明けに感じる憂鬱な気持ちのことなのですが、誰でも一度は感じたことがあるのではないでしょうか。大体、日曜日の午前中までは気分が良いのですが、午後になってくるとだんだん気持ちが沈んでくる症状が特徴です。月曜日になれば学校や職場に行って頑張らなければならない。それは嫌だなぁ。と考えてしまうのは、真面目だからかもしれません。月曜日は、ウォーミングアップの日で、ゆっくり力まずに勉強や仕事をしようと、考えるのです。こんなことを専門家が患者さんに教えています。と言うのも、症状があるのでこれは立派な病気だからです。では、クリスチャンはどうでしょうか。同じように月曜日の前は憂鬱になると言う人はいると思います。でも、今日の聖句をゆっくり読んでみてください。クリスチャンには特権がたくさんありますが、これなどは実際に即効性がある特権で、必ず役に立ちます。紙に書いて持ち歩いてもいいかもしれません。何度でも読んで、自分のものにしてください。自分より元気な若者でも疲れたとか、つまづいて倒れてしまうことがあります。それほど、大変な事態になっても、クリスチャンは疲れずに悠々と大空を羽ばたく鷲のようであることが可能なのです。栄養ドリンクよりも、御言葉を信じて祈ることです。困難な仕事でも、あなたには楽しい仕事になることも可能なのです。神様を信じている者の特権を忘れないようにしましょう。
6月10日(火)
見よ。神は潔白な人を退けない。悪を行う者の手を取らない。
ヨブ8:20
この世で残念あことは、潔白の人を陥れて罪をきせる輩がいるということです。しかし、この世だけではなく、もう一つ神の国があります。この神の国では、神が潔白な人を退けません。キリストは弁護者となって、この人の潔白を証明なさいます。良い国ですね。逆にこの世の権力者や指導者が、時に悪を行う者と手を結ぶということが実際にあるのです。権力を握っている者ほど危険な存在はありません。ですから、この人は神を認め信仰を持つことが救いとなります。しかし、ニュースになって報じられることは、いつでも権力者と悪を行う者が手を結ぶことで生まれる汚職や背任のようなタチの悪いことばかりです。一方、神の国では、神は悪を行う者の手を取らないのです。善悪の区別を間違うことなく見分け、悪を裁く方がいるのが神の国なのです。キリストは、この神の国が近づいたと宣教を始め、神の国を説いて行きました。結局、キリストがもたらしたのは、新しい世でした。それは、そのまま神の国なのです。信仰を持った者が入れる国です。新しい世と言うのですから、私たちの生きてきたこの世は、すでに古い世となっているのです。どちらに生きることが幸せかははっきりしています。潔白な人が理不尽な目に遭わない世こそが幸福な新しい世なのです。キリストのもたらしたものの大きさがわかるでしょう。クリスチャンは、この世に居ながらにして、信仰により新しい世、神の支配する神の国に生きているのです。
6月11日(水)
あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。
詩篇31:7
私たちが一生懸命に生きている時でも、世界は動き、悪魔のような力も働き、新しい病気が流行り、会社がリストラをしたり、物事がうまく運ばなくなって苦しみ、悩みことがあります。クリスチャンなので祈るのですが、自分の思いが優先して主の御心を知ろうとしないことがあります。そんな時には、道が開かれません。神様のご意志と自分の意思がぶつかり合っているのです。信仰者でも、このように立ち往生してしまうことがあるのです。それでも、信仰はいつでも私たちを正しい道へと導き、奇跡を起こすことができます。私たちは、学習能力があるので、なぜ自分の願う通りにならないのかと考え悩みますが、祈りの中で問題の整理ができるのです。そして、自分の思いが優先していて、神様の御心を求めていなかったことに気が付きます。その頃には、苦しいがゆえに手放すことのできなかったものをことごとく手放し、自分の願いと神様の御心が違っていたことを認め、悔い改めて正しい道へと人生を修正するのです。この時、私たちは主の恵みを得て、大いに喜ぶようになります。目が開けて問題が見事に解決し、へりくだることを覚えた自分がいます。誰にでも使命があり、主の御心を知り、正しい道を見つければ、人生はうまく動きだします。クリスチャンが悩みしかないという時には、立ち止まって、何かがおかしいと思い、主に聞くことです。必ず、何か主が私たちにしたいことがあって、始まっているのです。自分に自信を持って自分の道を行くと始めた途端に苦しみ、悩みがやってきたならな、自分に問題があると思って、主の御心を祈り求めて知ることが解決になるのです。それでも、苦しみを通して信仰は必ず強くなりますので、結果は良いものと期待できます。
6月12日(木)
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。
詩篇103:3~5
私たちが信仰生活を送るために必要なことは、自分の神がどのように助けてくださるのか、一体何をしてくださるのかを知っておくことです。今日の聖句もそのような質問に対する答えとなっています。このような神であることを信じるのです。どうですか、素晴らしい神ですよね。私たちは自分がどのように生きて来たかを知っています。良いことも悪いこともありました。その中で、自分がどこへ向かっているのかもわからずに、ただ生きているのでその時間を流れに任せて無駄なこともたくさんしてきたのです。後悔することもあったでしょうが、もちろん、楽しかったことや嬉しかったこともあったでしょう。しかし、どこへ行こうとしているのかがわからない人生は、やはり空しいのです。自分に罪や咎があれば、それが人生に影を落とします。自己評価を下げてしまいます。かといってどうすることもできません。自分で自分を赦すことができないからです。ところが、神に出会って、赦されたのです。神の恵みで赦されたのです。病気は誰にとっても嫌なことですから、万が一厄介な病気になれば人生が終わってしまうかもしれません。不幸の代名詞です。ですから、神がすべての病をいやしてくださると聞いて喜んだのです。本当は罪人だったので死ぬことが定めだったのですが、この命も十字架にかかられたイエスの贖いで奇跡的に救われたのです。神のなさったことは、「恵みとあわれみとの冠を被らせ」てくださったことです。これで、あなたの人生は心配がなくなりました。神は「あなたの一生を良いもので満たされる」と約束されたのです。ですから、毎日神への感謝を忘れてはいけません。今日も感謝から一日を始めましょう。今日も良い日です。
6月13日(金)
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
エレミヤ29:12、13
クリスチャンは素晴らしい人たちで、聖書では聖徒と呼ばれ、神の子と宣言されています。自分のアイデンティティを神の子として確立することは私たちがクリスチャンとして幸福に生きるために必要なことです。そのために信仰が役に立つのです。もちろん、祈りもですが、クリスチャンは自分が神の子であると信じその通りになるまで戦いが続きます。神の子の事実を認めさせたくなりサタンがいます。また、肉との戦いもあります。呪いがあれば、それは悪魔にも利用されて長引くかもしれませんが、キリストは呪いも十字架で解決し、呪いから解放してくださったのです。ですから、その事実を信じて確実に呪いの解放を受ける必要があります。肉との戦いは、自分を罪に引き込む欲望との戦いでもあります。この戦いは、神の助けが必要です。そもそもの神の子であることを確かめるためにも神を見つける必要があるのです。ここには、どうしても神に聞いて欲しい時の祈りの方法が示されています。そして、「あなたがたが心を尽くして」とあるので、心を尽くすということの意味を理解しましょう。通り一遍の祈りではダメです。あなたの真剣を見せる時です。中途半端に信仰とこの世の生活を生きてきたと思うなら、思い切ってこの聖句の通りにしてみましょう。神の約束はいつでも希望に満ちています。そして、誰でもできます。信仰の達人にならなくてもできるのです。問題は、心を尽くしとある通りに、心から願うことです。神を見つけることがあなたにもできるでしょう。
6月14日(土)
あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。
Ⅰコリント6:2、3
今日の聖句は考えさせられます。新聞もテレビもニュースは観ないと言う方はいるでしょう。難しい政治の話には興味が無いと言う方も少なくないでしょう。一方知識は無いが興味はあるという方もいます。そのためにテレビ番組を作って、一般の方に今話題の時事問題をやさしく解説するようなこともなされています。クリスチャンの完全を目指していると、聖書が重要であることが明らかになりますが、そこにもクリスチャンが聖徒たちと書かれていることに気が付きます。その聖徒であるあなたが、今日の聖句をどう受け止めるか興味深いです。世界が戦争にならないように、世界経済が破綻しないように、世界の異常気象を止めるために、少子化問題を解決するために、と難しい問題は山積みです。それをクリスチャンが解決できるでしょうか。「御使い」とはここではサタンのことでしょう。黙示録にある通り、最後に悪魔たちをさばくことになっています。スケールが違うのは、皆さんが神の子であるからです。ですから、自分の問題や自分が関わる教会や会社などの組織の中で起こってくる問題の解決をクリスチャンが難しくてできないとあきらめてはいけないのです。なぜなら、私たちは聖霊と一つであり、キリストと結ばれた者だからです。ですから、自分の能力だけでは難しくとも私たちは祈って主に聞くことができるのです。知恵がなければ求めていただけると聖書に書かれています。聖書を学んで主を信じて救われた者だからこそ、何が正しいかがわかる者となっているからです。ここでの裁きは、個人的に人を裁くということを意味していません。むしろ、隣人を裁くなと教わったはずです。そうではなく、問題が起こった時に、混乱することなく主の御心を求めてそれを実現するために正しいことをすることです。知恵を持って悪を正し、正義を実現して、起こった問題を速やかに解決することです。このように期待されているのなら、もっと聖書を学び、正しい判断力と問題を解決する力を主に求める必要があるとわかりますね。
6月15日(日)
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
ピリピ3:9
自分で義となれないのなら、望みがないはずでしたが、神の恵みは、イエス・キリストを通して現れました。それは、私たちがしたように、イエス・キリストを信じたことで義とされたことです。律法を完全に守ることができれば自分の力で義となれたと言っていたと思いますが、誰一人できないのです。悲しいことに、厳密には律法の一つも完全には守ることができません。自分の罪があらわにされてしまうばかりなのです。そこで、キリストを信じただけで救われたと私たちは喜んだのです。実際には、私たちは罪人だったので、信仰も無かったのです。そこで、一人一人を測りちょうどよく信仰を与えてくださいました。そうでなければ、信仰をちゃんと使えずに問題を起こしてしまうからです。そうならないように、私たちにとっては負担にならず、また与えられた信仰で天国に入れるようにしてくださったのです。その信仰によって、神から義を与えられ、義を持つことができるようになりました。義とは天国への入場券のようなものです。義人しか天国には入れないのです。しかし、イエス・キリストのおかげで私たちは希望があるわけです。私たちは、毎日キリストを信じて、義人として生きて行けるのです。
6月16日(月)
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
Ⅰテサロニケ2:19
私たちは再臨を信じています。それは、聖書に確実に来ることが預言されているから間違いありません。しかし、再臨を信じていない人も大勢います。クリスチャンでも再臨を文字通りには受け止めていない人もいるのです。神学校の時に、有名な大企業を辞めて牧師になろうと入学してきた人がいました。その人がある授業で、教授に質問しました。それは、再臨についてでした。聖書に書かれた通りに再臨が起こるのか、というような質問でした。その時の教授は、その青年が雲に乗ってキリストが来られるのか、と言ったので笑ったのです。質問した青年は、聖書に書かれた通りに文字通りに信じていたのです。しかし、リベラルな教授は、雲にはのれないでしょ、と笑ってしまったのです。その後に説明がありましたが、意味があったのかどうかわかりません。私は、その青年の言わんとしたことがよくわかりました。そして、多分、その人の教会で教えられたことを偉い先生に確かめようとしたのでしょう。このように、クリスチャンでも聖書に書かれた再臨を文字通りには信じられない人もいれば、そのままキリストは雲に乗って来ると信じる人もいるのです。もしかすると、再臨などないのだ、と信じている人もいるでしょう。しかし、イエス・キリストは旧約聖書に預言されていた通りに来られ、生きて、十字架にかかり、復活、昇天されました。ですから、聖書の預言を侮ってはいけません。再臨は必ずあります。その時、空中に挙げられる人、新エルサレムに入る人は、聖書を文字通りに信じている聖徒です。その信仰の生き方は、主の恵みに満ちたものです。たとえ、試練や迫害があったとしても、恐れることなく主の愛に生き、信仰が少しもブレない人、キリストの御言葉を信じて、その通りに生きようと信仰によって義とせられた人たちです。確かに、私たちには弱さや欠けがあるかもしれませんが、それでもキリストを信じて、聖書を研究して、神の完全な救いにあずかるために、何を信じるのかを知り、自分を変える聖霊に従うのです。再臨の日にあなたへの主の報いが何であるかがはっきりします。
6月17日(火)
いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。
「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。
詩篇91:1、2
「住む」という言葉に驚きます。「いと高き方」は神様です。その神様の「隠れ場」というところがあるのです。そこに「住む者」は、あなたです。あなたがクリスチャンで信仰を持って生きているなら、あなたはキリストに結ばれています。そうであれば、キリストのいる所に一緒にいるはずです。そこは、天国というよりは、あなたの信仰生活を送る所です。あなたがいる所には主もご一緒にいてくださいます。あなたは、以前は普通の人間としてこの世を棲み家としていました。しかし、キリストを信じてクリスチャンになってからは、目には見えませんが、キリストの「隠れ場」に住んでいるのです。「全能者」も神様ですから、その陰にあなたは宿っているというのです。それでは、この世にあっても何を恐れる必要があるでしょうか。この世の人はあなたに何もできません。あなたは、疲れ果てると、ようやく「いと高き方の隠れ場」にいると認めるのです。そこが安息の場であり、あなたが本当の自分でいられる場だからです。信仰を持って生きるというのは、「全能者の陰に宿る」ことなのです。だからあなたは特別な存在なのです。時々、人生がうまく行かなくなると、気落ちしたり、自己嫌悪に陥ったり、逃げ出したくなるかもしれません。そんな時には「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と声に出して唱えてみましょう。あなたは神様に守られていることがわかるはずです。そして、この世には逃げ場が無くても、神様のもとに逃げ込むことが可能なのです。主を信頼しましょう。主に助けを求めましょう。主は、あなたをすぐに助け出し、隠れ場に連れ戻してくださいます。あなたは、自分が神様の内に隠れる場所を持っていることを知るでしょう。
6月18日(水)
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。
ヨシュア1:9
創世記を読んでわかることは、アダムが失楽園後に苦労したことと、新たな家系がセトの誕生で生まれたこと。アダムから7代経つと人はこの地上に増え始めます。しかし、その彼らが離れて暮らせば、ある日知らない人たちがこちらに向かって来るのを見た時に、あなただったらどう感じるでしょうか。それが強そうな男たちで、手に棍棒のような武器になるものを持っていたら、どうでしょう。怖いと思いませんか。知らない人はすべて敵かもしれないのです。このような時代をどう生きたか、気になります。それから、気の遠くなるほどの長い時間が経過して、私たちの世代になっています。知らない人だらけです。家にいても、知らない人から電話がかかってきます。警察を装って詐欺を働く者も出てきます。古代人なら、人間が増えた時に、一緒に集まって町を作りました。団結して外敵の脅威に対処した方が有利であることは想像がつきます。ヨシュアの時代には、出エジプトを果たし、荒野を彷徨った人たちが、いよいよ約束の地カナンに侵入することになりました。どれほどの勇気が必要であったでしょうか。主が一緒におられなかったら、彼らはカナンを侵略することはできなかったでしょう。そこから、今日の聖句です。私たちは、この世では「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」という勇ましい言葉が今でも必要なのです。しかも、この通りにすれば、ヨシュアたちのような勝利が約束されているのです。私たちが気弱になる時、着手する前にもう負けているのです。ですから、この御言葉は私たちの掲げる信仰の旗に力強い字で書いてあるのです。この真の意味は、「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」ということです。つまり、あなたの力で頑張って勝てとは言われいないのです。主が共にいてくださるので、大丈夫だという約束です。それを信じて、今日も勇者らしく、雄々しく、家を出て学校や仕事場に向かいましょう。主が共にいてくださいます。
6月19日(木)
身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
Ⅰペテロ5:8、9
試練や試みはクリスチャンの歩みにいつか遭遇するものとして聖書は隠すことなく記録しています。確かに、クリスチャンでなくても人生で大変な目に遭うことは珍しくありません。逆に試練に打ち勝ったことで人生を成功に導けたと証言する人たちもいます。クリスチャンでも、証は大抵試練を信仰で乗り切った話や信仰と祈りで勝利した話が多いです。逆に試練のない人生は、味気なく、平凡な感じを受けるかもしれません。試練をどうやって乗り越えたのか、人々が聞きたいのはこのことなのです。クリスチャンは、まず敵である悪魔の存在を知っています。そして、敵が飢えた獅子のように獲物を探して徘徊しているのだ、と言われればその通りだろうと思うのです。ですから、クリスチャンは決して油断してはいけません。うまくいっているからとか、たまたまいいことがあったからというのでは、気を緩めないのです。高慢になれば、足元をすくわれるので、いつでも主のように謙遜な人であろうとしています。信仰者は、悪魔がどんな攻撃を仕掛けるかわからないので決して油断しません。「堅く信仰にたって、この悪魔に立ち向かいなさい」と言われているので、この通りにしようと意識しています。そして、イタズラに悪魔を恐れることもしません。信仰の故に家族や職場で苦しめられたりすることからも、主は守ってくださいます。ただ、悪魔からの攻撃であれば、多少の困難が避けられないでしょう。その時に、信仰に堅く立って、祈りで勝利しましょう。また、教会には主の家族がいて、互いに支え合っていますから、一人で悩まずに相談しましょう。みんなで考えて、主に一緒に祈って、信仰で悪魔にも勝利しましょう。初代教会から今日に至るまで、主にある兄弟姉妹は同じ試練を通り抜けて行ったのです。
6月20日(金)
私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。
ホセア6:3
私たちが信仰を持ち続けるのは、惰性ではありません。主を知ったからです。それでも、洗礼を受けてから牧師や教会員の方々に支えられて信仰を育んでききたのです。気がつくと、教会中心の生活になり、教会の兄弟姉妹が家族のように自分の人生の人間関係の中心にいるようになります。しかし、個人としては、信仰のマンネリ化が嫌で、もっと信仰の奥義に触れるような大きな経験をしてみたいと思うかもしれません。それで色々なキリスト教の本を読んでみるのです。すると、クリスチャンの常識の範囲で信仰の話をしている本とクリスチャンの霊的体験を教えている本の二種類に分けられることに気がつくのです。教会で自分勝手なことを言ったりやったりすることは危険なことで、してはいけませんが、人間の常識の範疇であれば安心しているということでは、信仰を語ったことにはなりません。昔から、霊的体験を求める信仰者がいましたし、神秘主義者もいました。それらは一つの流れとして認められていますが、中心的な流れではありません。もっと理性的なものや知的なものの方が安心できると思っている人たちもいますが、神様を扱っているのですから、それでは遠く近づく事は無理でしょう。理性的であるのは良いのですが、信仰なので、見えない神を信じる世界なのです。理性的すぎると科学の影響か、聖書も疑い、神の記述も疑うようになります。どうしてちょうどよくということができないのかと思いますが、その秘密は今日の聖句が解決しています。つまり、神を知ろうとすることから始めるのです。それも、ちょっと知ろうというのではなく、「切に追い求める」求め方が必要なのです。そうすれば、「主は暁の光のように」、つまり、暗い夜は神が見えず明確には何もわからないことを意味し、暁はその光で暗闇を一瞬にして消し去ってしまうので、神がそのようにはっきり明確に現れることを意味しています。その現れ方は、「大雨のように」「後の雨のように」と雨で表現されています。それは、昔から聖霊のことを意味していました。ですから、神を切に追い求めると聖霊としてはっきりわかるようにこられるという意味になります。ですから、神を知ることをやめてはいけません。今日からでも神を知ることを意識して、祈り、求めましょう。
6月21日(土)
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。
コロサイ3:12
あなたがクリスチャンであるなら、今日の聖句は無視することができません。あなたは、クリスチャンになる前にクリスチャンのイメージを持っていたでしょうが、それは、聖書的根拠からではなく、一般的なイメージだったと思います。ですから、教会に通うようになって、クリスチャンのイメージが思っていたような聖人ではなく、普通の人たちであることを発見して、安心と同時に今まで通りに生きて来たかもしれません。そうであれば、クリスチャンとしての満足があまり得られなかったのではないでしょうか。ただ、教会に通っているだけで聖なる者へと変わるわけではないからです。そこで、聖書がなんと言っているか、調べてみましょう。あなたは、まず「神に選ばれた者」です。特別なのですね。さらに、クリスチャンになって「聖なる」者になりました。さらに重要なことは、あなたは神に「愛されている者」なのです。だから、あなたは、次のような品性が期待されています。「慈愛、謙遜、柔和、寛容」です。いずれも御霊の実として聖書に書かれています。つまり、聖霊の助けなしには身につけることは難しいですが、逆に聖霊の助けがあるので従順な信仰を表せば可能なのです。さらに、「深い同情心」が要求されています。これは、教会の兄弟姉妹に対して必要なことなのです。私たちは、弱さや欠けなどの改善しなければならに問題を抱えているということです。それを認めがめて批判しても意味が無いのです。それよりは、主の掟である「互いに愛し合いなさい」という言葉には、互いに赦し合い、同情し合い、忍耐し合うことが必要なのです。神の期待に信仰を持って応えてまいりましょう。
6月22日(日)
まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼れらの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。
エゼキエル34:11、12
私たちにとって、主イエス・キリストは真の牧者です。これがどんなにありがたいことか。人間には限界がありますが、神にはそのようなものはありません。古代のイスラエルでは、主に立てられた牧者が自分のことばかり考え、羊である信仰者を牧会することがおろそかになっていったのです。キリストが天から降って来られた時に、イスラエルの民を見て、「飼うもののいない羊のようだ」と嘆かれた通りです。しかし、主はそれでいいとは思っておられず、牧者が働かないのなら、散り散りになった羊たちをご自分で探し出すとおっしゃったのです。そして、1948年になってイスラエル建国がなされ、世界中からユダヤ人たちがパレスチナに集められた時に、まさに主が飼うものの無い羊を集められたのだと思いました。しかし、今、そのイスラエルがどうなっているか、・・・。連日、イランとの戦争の話が騒がれています。その前のハマスをイスラエルの敵とみなして戦いが始まると、何の罪のないパレスチナ人たちが戦禍に巻き込まれて、大勢亡くなりました。さすがにこれは問題だと世界中から非難されてもイスラエルはやめません。人間の罪深さは人を愛するのではなく、憎むのです。イエスが、敵を愛しなさい、と命じてもとても難しいのです。伝統的な宗教にあいそをつかした大勢の人たちが伝統宗教から去ってしまい、ヨーロッパの国々では大きな由緒ある教会が1000以上売りに出ているそうです。教会を買ってそれをそのまま商業施設にすることが流行っているようです。まさに、キリストがエルサレム神殿で物の売り買いをしていた人たちを蹴散らした時のようなことが思い出されます。主は誠実なのに、信仰者がおぼつかないのです。私たちは最後まで主に忠実でありたいと思います。
6月23日(月)
光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。
詩篇97:11
しかし、もし神が光の中に居られるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
Ⅰヨハネ1:7
クリスチャンはキリストの故に正しい者とされています。それは、その人がキリストを信じているからです。キリストを信じるとは正しく生きる生き方でもあります。そのような信仰者には、特別に神は光を種のように蒔かれている、と聖書に書かれていました。とても興味深い表現です。神は光の内に生きておられるお方です。ですから、クリスチャンも同じように光の中を生きていかなければなりません。しかし、自力で義となることができないので、あくまでも神の恵みによらなければなりません。神の恵みは信仰を持つ者に与えられています。それは想像以上に豊かに与えられています。ただ、光はキリストの十字架によって血を持って清められた者に与えられるものです。それは、罪の無い生活を可能にします。神の臨在感があるのに罪を犯す人はいません。クリスチャンが肉や罪の影響を受ける状態にあっても、それに対抗できるように光が蒔かれているのです。それは、聖なる生き方に直結しています。ですから、このような特権にあずかっている者同士の交わりには意味があるのです。神の子の完全に近づくために必要なのです。互いに愛し合うことで、アガペーの愛によって生きているかどうかがわかるからです。このようにして、クリスチャンは完全な救いに入れるのです。