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2022年5月14日

🔸説教題:安息は残っている

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ヘブライ4:1〜10

 

 私たちはクリスチャンであっても、不平不満を言いますし、自分の思い込みを捨てようとはしません。人を批判することもなかなかやめません。これらが聖書では重大な不信仰として実例付きで警告されています。ヘブライ書では、出エジプトの出来事からヘブライ人が水が無い、食べ物が無いと、不平を言います。その結果が、約束の地カナンに入れず、荒野で死んだということでした。結局、ヨシュアに導かれてカナンに入りましたが、それが安息に入るという神様のお言葉の成就にはなりませんでした。さて、その安息は、未だ開かれていて、信仰によってのみ入れるのです。その意味を聖書から解説します。

2022年5月7日

🔸説教題:今日、神の声を聞いたら

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ヘブライ3:7〜19

 

 聖書の朗読箇所の文字が出ませんので、聖書を開きながらご覧ください。

 

 出エジプトの出来事は、クリスチャンにとっても大きな教訓となっています。イスラエル人は、神様に対する不信仰が原因で、カナンに入ることができなかったのです。聖書では、心をかたくなにしてはならないと教訓と警告で戒めています。クリスチャンの人生はとても長くなるかもしれません。その間に、誘惑も試練もあるでしょう。そればかりか、この世の情報もあふれるほどで。キリストから離れさせようとする力も働いています。ですから、互いに信仰を励まし合う必要があるのです。今日の聖書箇所から考えてみましょう。

2022年4月30日

🔸説教題:神の家を治める方

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ヘブライ3:1〜6

 

 クリスチャンにとって、イエス様がどのような存在であるのか知ることは大切です。ヘブライ人にとっては、何と言ってもモーセが一番なのですが、そのモーセのことは知っていても、イエス様のことを正しく理解しているかどうかは確かめる必要があります。そして、モーセはイエス様を理解するのには最も適当な存在なのです。そこから、忠実、確信と希望に満ちた誇り、このようなキーワードを通してモーセに勝るイエス・キリストを説きます。

2022年4月23日

🔸説教題:救いの創始者

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ヘブライ2:20〜28

 

 私たちは、福音書からイエスの物語を読み、イエスの教えを学んだ。罪からの解放は、パウロから学んだ。では、ヘブライ書からは何を学ぶのだろう。これは、初代教会の説教のように見える。かなり重要な話がなされているので、私たちの信仰に直接関わる重要さがある。私たちとイエスの関係、父なる神との関係、これらが正しく整理されるだろう。何より励ましを受けるだろう。

2022年4月16日

🔸説教題:いまだ、

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ヘブライ2:5〜9

 

 聖書を読んでいると、意味がわかりそうでわからない、というような箇所があります。今日の箇所もそのように感じる人がいても不思議ではありません。イエス・キリストは御子であったのに受肉し人間になられました。文字通り、天使よりも神よりも低くされたのです。それは、人間を救うためにはキリストだけが救う方法を実現できたから、そのために短い期間だけ人間になられたのです。そして、キリストは見事に十字架にかかり、栄光をお受けになりました。さらに三日めに復活し、昇天されました。キリストの勝利は確定したのですが、この世界を見れば、いまだキリストの支配に全てのものが服しているようには見えないのです。それは、キリストの再臨によって実現するからです。

2022年4月9日

🔸どえらい救い

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ヘブライ2:1〜4

 

 ユダヤ人が律法にこだわり、キリストの弟子たちが福音に救いを見出したことが好対照になっています。ヘブル書の作者も、律法が天使からモーセを通してイスラエルの民に渡されたのに、彼らが守り行わなかったから、報酬を支払った、と言います。それは、律法違反なので、罪を犯したと言う意味になりますから、罪の支払う報酬は死です、となります。事実、荒野で罪を犯したイスラエルの民は、皆死んでしまいました。それにもまして、御子イエスが人となって、救いの業をやり遂げた結果、罪の問題の解決と、新しく生まれて神の子になる救いを信じる信仰によるとした、福音を、どれほど大きな途方もない恵みの救いであると認めて、律法の罰があったのだから、それ以上の福音ならば、どうなるか考えてみよ、と警告し、さらに福音の素晴らしさに心を向けるようにとの励ましになっている箇所を学びます。

2022年4月2日

🔸説教題:天使に勝るキリスト

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ヘブライ1:5〜14

 

 キリスト教で天使は当たり前のような存在と思われるでしょうが、現代では奇跡と同じように存在しないと考える神学者も多くいて、教会でも子供のクリスマス劇に出てくるぐらいの存在になっているかもしれません。では、実際にはどうなのでしょうか。ヘブライ書から考えてみましょう。