2016年1月

1月1日(金)

わたしは主、あなたの神 海をかきたて、波を騒がせるもの その御名は万軍の主。

イザヤ51:15

 

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。一年の一番初めの日というのはやはり特別なものです。その初めに、あなたの主なる神様を認めることはとても良いことです。私たちの主は力の神様であり、万軍の主と呼ばれます。ですから、偶像のようにどこかに祀られているようなお方ではありません。確かに十字架につかれた神であり、「その十字架から降りてきたら信じよう」と嘲笑されたのに降りることをしなかった主です。それは、あなたを救うために必要だったからです。十字架の上空にはおびただしい数の天使が完全武装でイエスの命令を待っていました。人間の罪深さは度を越して救い主をも殺そうとしていたのです。イエス様が愛想を尽かして、万軍の天使に命じれば、たちまちこの世界は終わってしまったでしょう。しかし、イエス様はそうはしなかったのです。ただ、十字架で耐えたのです。イエス様は罪人を救うために身代わりに罰を受けて罪の赦しを得られるようにしようとされていたのです。人間の犯した無数の罪が身代わりに犠牲となるイエス様の上に積まれていくのです。その恐怖は想像を絶するものだったでしょう。イエス様がそのような状況で天使長のガブリエルはいかばかりの心境だったのでしょう。ついに、十字架上でイエス様が亡くなられた時に、人間の誰が自分の罪を贖うために死んでくださったと思ったでしょうか。誰も尊いイエス様の犠牲の意味がわからなかったのです。再び、万軍の天使たちが姿を現したのは三日目にイエス様が復活された時です。墓の入り口に置かれた大きく重い円形の石の蓋をいともたやすく放り投げたのは天使長ガブリエルだったと言われています。ローマの兵隊たちは墓を見張っていたのでこの恐ろしい光景を見たはずです。そして、墓の中から光が溢れ、復活したイエス様が出てこられたのです。ついに死に勝利された瞬間です。このイエス様こそが私たちの主、その御名は万軍の主と呼ばれる。ハレルヤ!本年もこの主に仕えて御用を務めたいものです。(さくま)

 

1月2日(土)

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。行ってあなたがのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

ヨハネ14:1-3

 

人はいずれ死ぬことを知っていますが、それがいつなのかは知りません。それなのに、何の心の用意もなく平気で生きています。ですから死の病を告げられたりするとかなり動揺することになります。屈強な男性でも恐れおののくのです。では、なぜ死ぬことをこれほど恐れるのかといえば、死の先が全くわからないからです。クリスチャンは今日のみ言葉の通りに、イエス様がお約束されたので迎えに来てくださるのを待っているのです。ですから、それが遅くなっても疑うことなく待っています。それどころか、この約束で天国へ帰るという希望を確かなものにしているのです。私の場所がある、それが天国に備えられている、という希望です。これほど明確な約束があるので死を眠りぐらいにしか考えていないのです。ただ、時々は死のことを考えることは意味があります。それは信仰が試されることだからです。本当にこのイエス様のお約束を信じることができるかどうか、お考えになってはいかがでしょうか。できれば、リラックスして楽しく瞑想してみるのが良いでしょう。そして、この世での思い煩いをバカバカしいと笑い飛ばしてしまいましょう。神様は完全なので、私たちが心配するようなことは何もないのです。ありがたいですね。イエス様はあなたを必ず迎えに来てくださるのですから。(さくま)

 

1月3日(日)

あなたのみ言葉が見出されたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び踊りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもってよばれている者です。

エレミヤ15:16

 

この世の食べ物は体を作り肉の命となります。しかし、み言葉を食べる者は霊の糧を食べているので霊の体を作り、霊の命となります。そのような聖書の読み方ができればエレミヤのように「わたしの心は喜び踊りました」と言えるのです。漫然と聖書を読むだけではこのようなことは体験できないでしょう。しかし、私には無理だと思う必要はありません。そもそも、「私には無理」という考え方はおかしくないでしょうか。もう一度聖書に書かれた基礎をおさらいしてみましょう。人間は例外なく皆罪人です。ですから私もあなたも罪人なのです。そのままでは地獄行きが決定してしまいます。罪人であっても天国に行きたいのです。そこで、救済が必要となります。聖書では罪の支払う報酬は死である、とはっきり書かれていますからその通りになります。救い主イエス・キリストはこの部分でも明確に救ってくださいました。それは、私が死ぬのではなく、身代わりにイエス様が十字架で死を支払ってくださったのです。別の言い方をすれば、イエス様が命の代価を支払って私たちを買い取ってくださったということです。このことを贖うというのです。ここから、わかることは、自分には無理でできないことをイエス様が代わりにやってくださったということです。ということは、「私には無理」という考え方は、イエス様の救いを無にする考え方なのです。「私には無理でも、イエス様が助けてくださるのでできる」という考え方が正しいのです。そすると、初めて信仰の意味が明確になってきます。イエス様を信仰する意味もわかってきますね。さらに、自分の罪を認めて悔い改めることから救いが始まっていくこともわかるでしょう。そして、信仰を働かせて、今日のみ言葉の通りに自分もならせてくださいと願うことは良いことなのです。そすれば、最後の「万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもってよばれている者です。」というみ言葉はあなたのものとなるでしょう。(さくま)

 

1月4日(月)

だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

マルコ11:24

 

祈りの極意とでも呼ぶような記事が聖書に書かれています。今日のみ言葉はそのうちの一つです。クリスチャンにとって祈ることがどれほど重要か、昔から祈りをテーマとした書物が最も多いことからもわかります。誰でも、聖書を手にすれば自由に読むことができるのに、このみ言葉を実現させた人はそれほど多くはないでしょう。祈りの言葉が上手か下手かはそれほど問題ではありません。口の重いモーセのような人が一番神様に近づけたことを考えれば口が上手か下手かではないのです。そうすると、24節のわずかな言葉の中で気になるのは、「信じなさい」という言葉になります。そもそも、この教えの初めにイエス様は「神を信じなさい」と語り始めたのです。そして、山を動かす話をされて、「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と教えられました。これが祈りの極意であり、信仰の極意なのです。少しでも欲が出てきたり、疑いがあったり、信じきれなかったり、邪心があればダメなのです。さて、クリスチャンは祈りを通して信仰を成長させていくのですが、またこの信仰が祈りを実現させていくことは大切なポイントですね。今年は祈りを深めていければ意義深い一年となるでしょう。(さくま) 

 

1月5日(火)

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

詩篇37:4

 

主よ、と呼びかけると心に喜びが沸き起こる。主のために生きることが喜びとなったのだ。だから主は私の現実となり、いつでも共にいてくださる神なのだ。このような信仰は、主と最も近い関係ができるので、主の御心を求めるようになり、それがいつの間にか心の願いとなっていくのだ。ここには無理がない。あなたが主を求めていけば必ずこのようになる。そこには、いつでも主の最善がなされるので心配も思い煩いも消えていく。ただ平安があるのみ。「主をおのれの喜びとせよ」このことだけを今日は心に留めておこう。(サクマ) 

 

1月6日(水)

憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。

箴言10:12

 

今日の聖句の別訳も見てみましょう。「憎しみはいつもけんかを仕掛けるが、愛はすべての過失を見て見ぬふりをする」。この思想は、レビ記19:18と同じものです。「あなたはあなたの親戚に対して復讐の機会をねらったり、怒りを懐いたりしてはならない、あなたはあなたの隣人をあなた自身のような人とし愛さなければならない」。これは、イエス・キリストが律法の中で最も重要な掟は何かと聞かれた時に、二つ上げたうちの一つです。つまり、人間にとってこれだけはどうしても守るべきもなのです。このようなみ言葉と出会う時に自分のことを省みることは良いことです。本当は、愛に生きる方がよっぽど気楽なのです。(佐久間)

 

1月7日(木)

この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

ルカ7:47

 

子供の頃、父親が何かの記念の大きくて立派な壷を持っていました。それをこともあろうに家の中でバットを振って見事に粉々に割ってしまったのです。もちろん、わざとやったわけではありませんが。ことの重大さに子供心に大変なことをしてしまったと恐れました。その日、夜になって父親が帰ってきた時には生きたここちもしませんでした。どんなに叱られるかと小さな心を震わせていました。ところが、父に母がことの次第を告げると、なんと父は私を叱らなかったのです。形のあるものはいずれは壊れるのだから仕方ない、と言うのです。きっと私が悪いことをしたことを認めて一生懸命に謝っている姿を見て憐れに思ったのかもしれません。父にとってはきっと残念なことだったと思うのですが、無条件に赦してくれたのです。それが私の人生に大きな影響を残すことになったのは間違いありません。赦すことをためらってはいけないと思うようになりました。大人になれば、人は多くの罪を犯すものです。罪を正当化することはもちろんできません。ですからいい加減に考えてよいということではありません。しかし、赦されない辛さと赦された喜び、どちらが良いことでしょう。いうまでもありませんね。ならば、赦すことにしましょう。ただ、罪を本当に赦すことのできるお方はやはりイエス・キリストだけなのです。表面はともかく、心の中までは偽ることができません。ですから罪にともなう暗い部分はいつまでも人に影をさすのです。イエス・キリストが光とはよく言ったものです。確かに、罪の赦しは心の闇にさす一条の光のように、気持ちを晴れやかにすることができるのです。良い子供を育てるには、上手に赦すことです。甘やかすことは誰でもできますが、結果が伴わないことだってあるので注意がいります。もう一つ大事なことは、罪を赦されることの大きさとキリストを愛することの大きさの間には比例関係があるということです。あなたがどんなに罪深く生きてきたとしても、イエス・キリストはあなたの罪を赦すことができるのです。そのことが明確であればあなたはイエス・キリストをどんなに大きく愛していることでしょう。これが全てなのです。(佐久間)

 

1月8日(金)

さて、重い皮膚病の人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることができます」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」。

マルコ1:40-42

 

「あん」という小説を読んでいます。まだ途中ですがハンセン病患者が主人公の話です。特効薬がなかったばかりに徹底的に差別され、親兄弟とも離別し隔離されて、戸籍も失い、名前まで変えられというのですから徹底しています。罹患した途端に人生を強制的に奪われるその悲劇は恐ろしくなります。聖書にもこの病気の人のことが何回か出てきますから、古い時代から続く、人間にとって最も恐ろしい病気の一つだったのです。今では完全に治る病気となり、もう恐ろしい病気ではありません。しかし偏見はなかなか解けないで残っています。問題なのは、この小説の中でも14歳で発症したために辛い目にたくさんあった徳江というおばあさんが「神様を恨んだ」という場面があるのです。そうだろうな、と思わず納得してしまうのですが皆さんはどう思うでしょうか。普通の人が特に悪いこともしていないのになぜ、こんなひどい目に遭わなければならないのだろう。神様は何をしていたのだろう。こんなことを考え疑問に思う人もいるでしょう。確かに人間的に考えれば健康で幸せな人生を歩めるために神様はいるのではないかと考えてしまいますから、あまりにも不幸と思える人を見ると神様は何をしているのか、と怒るわけです。しかし、私たちは聖書を学びました。それでわかったことは、どんな生き方をしようと罪人であることに変わりないということです。それは、確かに人間の目では見てもわからないかもしれません。しかしまた、自分のことを汚れているという場合があります。一旦自分の罪に気がつくと、汚れているという思いに苛まれます。その人が何をしても汚れは取れないのです。ちょうど、今日の重い皮膚病の人みたいに、イエス様に「御心ならば、わたしを清くすることができます」と言ったように、イエス様だけがこの罪の汚れを清めることができるのです。だから、自分の罪に目が開かれた人は、イエス様のもとに来てひざまずき罪の清めを願うのです。イエス様は驚くべき愛のお方で、人が近づくことも嫌った汚れた人を深く憐れみ、その人をいたわり励ますように触ったのです。きっと、その人は皮膚はただれ、膿が出て血も出ていたでしょう。触ることなど論外なほど気持ち悪い人だったのです。それなのにイエス様は触ってくださった。きっと、私たちも罪に汚れて、この人と同じような者なのです。ですからこそ、イエス様の愛にすがりたいのです。イエス様は、「よろしい。清くなれ」と言われるでしょう。その通り、私たちは清くなるのです。(さくま)

 

1月9日(土)

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

ローマ15:13

 

どんなに気をつけていても失敗することはあります。人間関係で悩むことも仕方ありません。また、自分の現在の姿と理想が大きく隔っていることに失望することだってあるでしょう。叱られれば落ち込み、批判や中傷に傷ついて立ち上がれないことだってあるものです。それでも、私たちはただ者ではありませんよ。神のひとり子イエス様の御名によって呼ばれている者なのです。何しろ、聖霊を注がれていて、イエス様が悪魔から取り返してくださった権威を授けられている聖徒なのです。聖霊が愛をくださるのですべてを愛の力で解決出来る霊的な力をいただいているのです。ですから、バウロは今日の聖句のように祝福することができるのですね。私たちはちゃんと覚えていなければなりません。私たちは神の子であって、勝利が約束されているということを。それだけに、み言葉の通りに信仰をちゃんと現しましょう。誤解してはいけないのは、自分で頑張るのではありません。それはひどい結果が待っているだけです。今日のみ言葉を何遍も唱えればきっと理解できるはずです。笑顔を絶やさないで災いですら益に変えてしまいましょう。素晴らしいことが起こりますように。(さくま)

 

1月10日(日)

イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種まきに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。・・・だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こうゆう人である。

マタイ13:3、4、19

 

これは有名な「種まきのたとえ」というイエス様のお話の最初の部分とその解き明かしの部分です。お話の全部は長すぎますので上に選んだ最初の部分だけを考えてみましょう。これは聖書の御言葉を読むことが一般の本を読むこととはだいぶ異なっていることを教えています。本のなかったイエス様の時代には耳で聞くか村ごとにある会堂に置かれた手書きの聖書を読むしかありませんでしたが、現代は聖書が欲しければ簡単に手に入ります。それでも持っているだけで読まずにいる人も多いと思います。心の飢え渇きでもあれば、貪るように読むかもしれません。初めはわからない箇所はどんどん飛ばして読めばいいのです。その中に、必ず心に残る言葉があります。それが自分の心に蒔かれた種です。問題なのは、その人の心が土壌にたとえられていますので、その人個人の心が道のように踏み固められて硬くなっていないかということです。たとえ話の人の心は、聖書の活字だけを見たのかもしれません。誰かがそばに来て、「えっ!聖書なんか読んでいるの?やめとけやめとけ」と言われると「そうだね」と本棚に入れてそれっきりというような人の心のことです。日本人には結構いるタイプですね。ところで、クリスチャンはイエス様を信じて救われた実感があります。そして、信仰に対する偏見が取り去られ、その力の大きさをありがたく感じていますから、何か悩んでいる人を見ると、イエス様を信じて助けていただけばいいのにと思います。それで、その人がちゃんと真面目にイエス様のことを聞いてくれるとその人に聖書を読ませたくなるのです。実はこれこそが「御国の言葉」なのです。そしてたとえ話の「種」のことを意味しています。果たして、聖書をその人に渡すことができたとして、そこから先はその人の心の状態が大きく影響してくることをこのたとえ話は教えているのです。「悟る」という言葉の意味は、聖書を読んで心に残る言葉を見つけたら、その意味を考えてみるのです。そして、何かがわかればそれを生活に生かしてみることです。そうやって、天国の言葉があなたを天国の人のように作り変えていくことができるのです。もし、通り一遍の読み方ですぐに聖書を放り投げてしまうのなら、あなたに奇跡は何も起こらないでしょう。どうするかは自分で決めることができます。良い方を選んでください。(さくま)

 

1月11日(月)

わたしたちの神、主の喜びが わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを わたしたちのために確かなものとし わたしたちの手の働きを どうか確かなものにしてください。

詩篇90:17

 

この聖句は、「喜び」となっていますが、「楽しみ」とも「恵み」とも訳せます。詩篇90編は前半と後半では詩の様子が変わります。前半はお葬式などでもよく引用されるように、神の永遠性とに人間の儚さが語られています。それに比べると後半は、何か具体的な問題があって、それに対して主の救いを待っているようです。しかし、たとえ救いが到来しなくても主にひたすら忠実なままでいようという詩人の信仰が祈りとなっているのです。わたしたちも問題に直面することがしばしばあります。時には、神の助けなしにはどうすることもできないような深刻な問題に悩むこともあるものです。そのような時には、もう神の救いに期待するしかないので一生懸命にお祈りすることでしょう。そのように問題に直面して主の救いを待望する時に、一体どう祈ったらいいのか知りたいのなら、今日のみ言葉は重要になります。困っているのなら、「主の喜びがわたしたちの上にありますように」というような積極的な祈りが良いのです。孤立無援で困難に立ち向かって行こうとしている場合でも、「わたしの手の働きをどうか確かなものにしてください」と祈るのです。大変なことが起これば、「困った困った」と言うよりは、「きっと神様の大きな助けを見ることができるので感謝します」と言ったほうが結果が良いのです。いつでも主の喜びの中に留まりたいものです。(佐久間)

 

1月12日(火)

罪を耕すものは必ず迷う。善を耕す人は慈しみとまことを得る。

箴言14:22

 

人生は自分の選んだ選択の結果である。もちろん、すべてが選べるわけではない。両親や国籍や生まれてきた時期、男女の別もそうだ。このように自分が努力しても変えることのできないことはあるが、そうしたことも実は自分の益にすることができるのだ。それはやはり選択の問題のことを意味している。自分の生まれてきた境遇が悪いから自分は悪くなったのだ、というのももっともらしいが、実際は同じような悪環境のスラムに住んでいたのにギャングにならずに医者、弁護士、大学教授、それに有能なビジネスマンになった人たちがいた。それは、親からも虐待されて愛されていなかった子供時代に、愛情を惜しみなく与えてくれた女性がいたためだった。だから愛することはキリストの教えた通りに人生に奇跡を生むことができるのだ。さて、愛されることによって、そのスラム街の恵まれない子供達に何が起こったのだろう。彼らは、自分に価値があることを認めることができた。最も信頼出来る大人がちゃんと愛情を注いで、価値ある人間であることを証明してくれたのだ。そこで、諦めることをしなかった。愛されないと人間はダメになる傾向があるので、悪への誘惑にまんまと乗ってしまうのである。それは愛とは正反対の道だ。まるで愛されないことへの怒りと復讐のように罪を耕すことになる。愛されるにふさわしい自分の価値がわからないのだ。だから、劣悪の環境の中でイエスのように愛してくれる一人の婦人がいつも励まし続けてくれたのは大きかった。彼らは、善を選んだ。それは、不思議なことに慈しみとまことになって自分に返ってきたのだ。キリストの教えは間違っていなかった。今、世界に必要なことはこのことだ。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。愛は、いつでも正しい選択をする動機付けとなる。愛を与えることを惜しんではならない。自分の目で奇跡を見たいと思うのなら、愛を与え尽くしてみよう。それも、誰もができる選択なのでいつでも可能なのだ。(サクマ)

 

1月13日(水)

人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れたことを証明なさったのです。

使徒言行録15:8

 

これは有名なエルサレム会議で起こった大切な議論の中で語られた大変重要なペトロの言葉です。ユダヤ人にとって異邦人は汚れた民で救われないと教えられ信じてきたのです。それが、パウロ達が異邦人伝道に遣わされ、たくさんの異邦人がイエス・キリストを信じて救われたのです。本来喜ぶべきことですが、ファリサイ派から信者になった人たちから「異邦人に割礼とモーセの律法遵守」を要求するようにと声が出ました。そのために会議が開かれたのです。そこで、ペトロは重要な演説をしたのが今日の聖句です。これこそ、ペトロに示された神の啓示が異邦人にも聖霊を与えられる事実となって目撃したわけです。ですから、ペトロは黙っていてはいけませんでした。このように、初期のキリスト教でも、福音を正しく理解することは簡単ではなかったのです。それまで律法を遵守するように子供の時から教育されてきたのです。それが、イエスを信じる信仰で救われるという恵みをそう簡単には納得ができなかったのです。これは、今日でも同じです。恵みでなければ救われない、ということがどうも人間には受け入れがたいのでしょうか。自分の何らかの正しい努力がやはり必要ではないかと思ってしまうのです。彼らが理解していないのは、自分も罪人であるということです。罪をどうしても犯してしまうから罪人なのです。だから、努力しても無駄なのです。もっと人間を超えた大きな力でなければ罪人を救うことなどできないのです。その救いそのものが、罪人をキリストの十字架で殺して、復活したキリストの新しい命を頂いて神の子と生まれ変わるというような、とても人間の力では不可能な神の創造の力で初めて実現する途方もない救いなのです。ですから、神の憐れみによって信じるだけで実現する奇跡なのです。そして、大切なことですがこの恵みがユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられたのです。その証明を神自らが、証人の眼の前で聖霊を与えるという神しかできないことを通してなさったのです。それを覆すことは誰もできません。私たちが救われたのは信仰により、神の恵みによったのです。(佐久間)

 

1月14日(木)

神に感謝します。神はわたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

2コリント2:14-15

 

最近至るところで芳香剤が目につきます。いや、鼻につくといった方が正確かもしれませんが、いろいろな種類の芳香剤が売られています。それは、柔軟剤や日常生活に使うものにまで広がっています。もともと日本人は清潔好きな国民ですから、匂いも敏感なのです。それで、強い香りを撒き散らす必要はなかったのです。それでも、香りには癒し効果もありますし、季節の移り変わりを香りで知ることも日本の文化に古くからありました。聖書にも香りのことが書かれているのですが、それが「キリストを知るという知識の香り」と、クリスチャンを香りにたとえているのです。しかも「神に献げられる良い香り」とも表現されています。つまり、クリスチャンの生き方そのものが良い香りのようだということです。そこに、キリストを知る愛の姿があるということでしょう。神を愛する真摯な生き方が隣人への誠実な親切になっているのです。クリスチャンの正しく謙遜な生き方は、良い人にも悪い人にも影響を与えることになります。ところで、アメリカでよく知っている好きな匂いがあるのですが、ある日ラッシュというアメリカの強い香りのする石鹸などを売っているお店の前を通ると「あっ!懐かしい匂いだ」と思い、お店の人にこの匂いの石鹸をくださいと言いました。すると、「この匂いの石鹸はありません。これは全部の匂いが混じり合った香りなのです」と言われました。教会はそれこそ、いろいろな個性が集まり、それぞれがキリストの良き香りとなって、さらにそれが混じり合ってできる最高の香りがあるところなのです。勧誘されたり、議論では反感ばかりが湧いてくるでしょうが、謙遜で親切な人柄や隣人への無償の愛の奉仕には好感が持てることでしょう。このような方法だからこそ、伝道が進んで今日まで続いたのです。「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りで」あることを自覚していたいですね。(佐久間) 

 

1月15日(金)

たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

ガラテヤ6:9-10

 

クリスチャンにはおかしなジレンマがあります。普通の人でしかないのに善人であるかのようにと努力しがちです。それは、聖書では律法主義者とされて、悪い見本のように扱われています。残念ながら教会の中でも簡単に起こりやすいことです。決して悪意があるわけではありませんが、律法(善いことと思われていること)を守ろうとします。パウロがイエスと出会う前にサウロと名乗っていた頃がまさにこのタイプです。何が悪いかわかりにくいかもしれませんが、サウロはイエスの敵になり、クリスチャンを迫害しました。その理由が律法の遵守がイエスによって破壊されたと思ったからです。その同じ人がイエスに出会って、自分の考えがいかに間違っていたか悟ります。そして、イエスの教えに従うことになりました。パウロ自身が聖書でキリストの律法に従っていると言っています。このキリストの律法は別物で、「互いに愛し合いなさい」という言葉にその意味があります。ですから、内住の聖霊の導きに従い、誘惑に勝利し、イエスのように謙遜で愛を持って人に仕える、ということを実践すると「たゆまず善を行う」ということになるのです。クリスチャンだからいい人を演じようというのとは根本的に違っています。それでは、自分を誇ってしまうので問題があります。私たちがイエスに出会って救われ、わかったことは自分について誇れる事は無いということです。それでも、イエスが愛してくださるので嬉しくて生きているのです。だから、誇る必要が無いのです。そのような者として善を行うことを考えてみてください。(佐久間)

 

1月16日(土)

一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油が入った壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。

マルコ14:3-4

 

人の金銭感覚は人それぞれだろう。しかし、今日の聖句を読むと考えさせられる。私たちにはナルドの壷の価値が今ひとつよくわからないところがある。しかし、高価であると憤慨する人たちが少なからずいたのだから、かなり貴重なものであることは事実である。どうやら、当時の人たちが家の財産を残す方法の一つがナルドの香油を入れた壷であったようだ。それほどまでに高価なものであったのだから、イエスの頭に気前よく300万円ぐらいの香油をかけてしまった、と怒るのはわからないでもない。しかし、この女は見事にそれをやって見せたのだ。もったいないと思った人と香油をかけた女との間には大きな隔たりが見られる。もちろん、そこに当事者としてイエスがいたのだから、これは立派な信仰の問題であることは明らかだ。この世を見ている人の常識と、イエスだけを見ている人の常識の違いが見事に絵になって見えている情景なのだ。ともにイエスのそばにいて、信仰者でありながら、イエスの価値を高価だと思った人とそうではないと思った人の差と言ったらおかしいだろうか。これは献金でも同じことだろう。金額そのものというよりも、その人にとってイエスがどれほどの価値があるのかということが献金にも現れてくるのだ。聖書の中には、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。・・・乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:43-44)とイエスが語っている場面がある。このやもめやナルドの香油の女のような人はどう違っているのだろう。しかもイエスはちゃんとその信仰を見ているということも意味があるだろう。もし、自分が香油がもったいないと言っている人の仲間だったら悲しいことだ。主は、賽銭や香油というよりもそのようにした砕けた魂を受け取ったのだろう。主に最も良きものをお献げできる信仰者になりたいものだ。(サクマ)

 

1月17日(日)

七十二人は喜んで帰って来て、こういった。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

ルカ10:17-20

 

イエスは弟子たちに敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けてくださった。つまり、イエスの弟子たちの戦いはサタンとの戦いであったと言える。今日、どれほどの人たちがサタンの存在に気が付いているのだろう。はなはだ心もとない。もし、イエスから権威を授けていただいていないのなら、敵に勝てないのだ。その結果が人々の様々な不幸になっている。しかし、「悪霊が攻撃しているのであなたの状態が悪いのです」と言っても、頭のおかしな人だと笑われるのがオチだ。でも、誰も戦わなければどうなってしまうのだろう。リバイバルには癒しや悪霊追い出しが必ず伴っている。終末には、サタンは荒れ狂う獅子の如く聖徒たちをも餌食にしようとしている。聖書がそう警告しているのだ。伝道とは、ある意味悪霊に苦しめられている人たちの解放と救いを意味してる。新約聖書の記事はそのように書いてあるから明らかだ。しかし、悪霊を追い出せたからと喜ぶな、とイエスは諭し、「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と教えた。焦点がイエスから悪魔にずれると危険ですらあるのだ。悪魔の支配する世界で知らずに奴隷となっている人たちをキリストの権威で救い出すことは使命だ。もちろん、人それぞれの使命は異なっているのだろうが、福音を伝えることは全員変わりない。この戦いは主の再臨まで続く。勝利は決まっている。一人でも多くの魂の救いのために献身したい。(サクマ) 

 

1月18日(月)

主の律法は完全で、魂を生き返られせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、ここに喜びを与え 主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き 主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。

詩篇19:8-11

 

別の訳では、初めの部分は「主のみ教えは完全で」となっています。「律法」というと難しく考えてしまいがちですが、「み教え」であれば理解しやすいでしょう。ここで言われていることは、聖書のみ言葉はことごとく、人を生き返らせ、生きる知恵を与え、神を知り、心が晴れやかになって主を畏み、主が生きてすべてをさばかれ、支配されていることがわかるようになる。最も価値ある確かなものを金、特に純金とするなら、主が支配され、ちゃんとすべてをさばかれることはそれ以上の最高の理想であります。それは蜜よりも甘い、心からの平安を恵みとして味わうからです。このように、聖書には特別の力があるのです。初めは難しくても、信仰が進むに従いわかるようになり、その教えが自分を確かな者に成長させ、何よりも悩みの日に自分を慰めてくれるようになるのです。自分を基準にすることをやめ、聖書のみ言葉を基準にして生きるようになると人生は大きく祝福されて、聖書のみ言葉が心に残るようになります。私たちは、神のみ言葉をいつでも自由に読める時代に生かされていることを奇跡と感謝して、これからもその恩寵に預かっていきたいものです。(佐久間)

 

1月19日(火)

すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも 一切の業を、隠れたこともすべて 裁きの座に引き出されるであろう。

コヘレトの言葉12:13-14

 

テレビのクイズ番組が人気ですが、それほど多くの知識を知りたいのかもしれません。これは、古代から人間が生きるために必要だったのです。そして、聖書にも賢者が出てきますが、歴史上第一の賢者はソロモン王であると言われています。それは、神様がソロモンになんでも願いを叶えるてあげようと言われた時に、「知恵をください」と答えて、それで聡明なソロモンにさらに神からの知恵が加わったというわけです。そのソロモンが、ついに到達した結論が、今日の聖句なのです。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これが私たちに与えられた知恵です。間違いありません。そこで聖書を読むことになります。わからなくてもわかるところから少しずつ読み進め、信仰を高めていくことになります。そこで、お聞きしますが、あなたは「神を畏れ、その戒めを守れ。」と言われて、どう理解しますか。現代のように、価値の多様化と情報過多になり、世代間の考えの違いが大きくなると歴史上稀なる世界が出現してきています。皆が不確実な世界に戸惑いながらどうすれば一番良い生き方になるのか模索する時代です。年長者が若者に答えを簡単に出せる時代ではなくなっています。どこから来るのか不安が絶えず身近にあり続ける社会。そのような将来どうなるかわからない時代でも、今日の聖句を理解できるならどんなにか楽に生きることができるでしょうか。誰でもできることで、なおかつ目の前にある知恵を活かすことができますように。(さくま)

 

1月20日(水)

まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない。獅子がほえる 誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる 誰が預言せずにいられようか。

アモス書3:7、8

 

現代人に預言者といえば、予言者のことだと思うでしょう。未来を言い当てる、占い師みたいなものというイメージがあると思います。しかし、聖書の預言者は神様から言葉を預かった者という漢字を書きます。また、聖書はまさに神様のみ言葉であるのだから、預言といえるわけです。その聖書のみ言葉を解き明かして語る説教は預言といえることになります。新約聖書時代の人たちは、旧約聖書のことを「律法と預言者」と呼んでいました。そこで、今日でも私たちは預言者を持っているということになります。また、私が初めて入学した神学校は「預言者の学校」といっていました。そこで、いかにも預言の勉強でもあるのかと思っていたのですが全くそのような授業は無くて、普通の聖書の勉強をしていました。では、現代でも預言者はいるかといえば、いると言わざるをえません。霊の賜物に中にも預言の賜物が聖書に書かれていますから、その賜物をいただく人も出てくるわけです。そればかりか、クリスチャンは知らずに預言することも無いとは言えないのです。何かが主の意図で行われる時に必要であれば預言されることは何ら不思議ではありません。ただ、現代は霊的な事柄に全く知識を失い、無関心になっているために預言に気づかないこともおおいにありますし、解き明かしが必要なこともあります。しかし、重大なことや教会に関わることや大切なことはやはり預言されてそれからそのことが起こると思って間違いありません。霊的に目を開き、耳を開いていただきたいものです。主の御心が何であるかを知ることができるように祈り求めましょう。それから、偽りの霊による人を騙すための偽りの預言もありますから、見分ける必要があります。これらは、すべて聖霊によることなので、聖霊に満たされるように祈り求めることが肝心です。(さくま) 

 

1月21日(木)

あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。

ヨハネ8:24

 

ヨハネによる福音書は霊的で難しいと感じる人は少なくありません。それだけに、読者の心を惹きつける何かがあります。今日の聖句も訳者は苦労したと思われます。それは重要な言葉が出てきたからです。エゴー・エイミ(ギリシャ語)を新共同訳では、『わたしはある』と日本語としてどうだろうと思われる訳にしました。口語訳は「そうゆうものである」というように婉曲に訳しています。さて、出エジプト記3:14に神がご自分のお名前をモーセに告げる場面で、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と語ります。これと同じ言葉でイエスがご自分を説明したということは、イエスが何者かユダヤ人にはっきり示したことになります。それは、彼らがイエスが何者か知ろうとしていたからです。今までも明確にイエスが天から来られ、神に属するものであり、神であることが示されてきたのに彼らはかたくなに認めなかったし、イエスを信じなかったのです。そしてここでは、とうとうイエスを信じなければ死んで地獄へ行くことがはっきり示された場面なのです。ユダヤ人に限らず、イエスを信じる人と奇跡を見せても信じない人、この二つに分かれてしまうのです。今、イエスを信じることができている人は本当に幸せな人です。その結果は世の終わりにはっきりします。イエスのもとから離れないでいましょう。(佐久間)

 

1月22日(金)

人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば僕があなたを呪っても聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことをあなたの心はよく知っているはずだ。

コヘレトの言葉7:21

 

人の言うことを気にするな、と言われても気になるのが他人の言葉です。他人から褒められることはまずないことです。たいていは悪口や批判です。時には中傷されることだってあります。また、無責任に他人のことをあれこれ面白おかしく言うのが好きな人もいます。噂話をまた誰かにそのまま(というよりもちょっと自分なりの脚色をして)伝えてしまうことだってあります。そうした他人の言葉にいちいち反応していると疲れてしまいます。聖書は「いちいち気にしなければ、聞き流していられる」と教えています。生まれつきの聖人でもなければ、誰かの悪口を言ったり、呪ったりしたこともきっとあったはずです。それは、自分を守るためだったかもしれません。でも、自分が言った他人の悪口は、不思議なことに本人の耳にいつか届くものです。もちろん、その時には弁明することもできません。そのような愚かなことはやめるに限ります。確かにみ言葉の通りに「人の言うことをいちいち気にするな」です。これができれば度量は大きくなり、健康になり、信頼される人間になれます。今はSNSのような情報をすぐに伝える仕組みがあるので、今日の聖句はあなたを助けることでしょう。誰かに呪われても、聞き流せるようになるのです。その効果は実感できるようになると思います。他人に振り回されないで生きたいですね。(さくま)

 

1月23日(土)

死者が復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は虚しく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。・・・しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

1コリント15:17、20

 

キリスト教の教えの中に「復活」があります。キリストが私たちの罪を背負って十字架にかかり死んでくださったことにより、私たちは罪が赦されて救われたと言います。しかし、人間にとっての敵は罪だけではなく、死も決して避けられない敵なのです。ですから、十字架は死に勝利したと言われることがありありますが、預言通りに三日目に死からよみがえって墓からキリストが出てこられたので死に勝利したと言えるのです。私たちは死なないで天国へ行くことを願っていますが、たとえ死ぬことになっても復活する希望を持っています。死ねばおしまいだ、ではなく、しばし眠りについているだけで、世の終わりにキリストが必ず復活させてくださると信じています。キリストを信じて救われた人は、たとい死んでも生きるというのは、復活するからです。このように信仰を持って死んだ人たちが復活する保証がキリストの復活でした。それで「眠りについた人たちの初穂となられました」と書かれているのです。復活は確かな希望です。(佐久間)

 

 

1月24日(日)

もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。

ルカ17:3-4

 

キリスト教は赦しの宗教です。これは相手をただ甘やかせているわけではありません。「悔い改めれば」とちゃんと条件が付いています。このように書かれているのですから、私たちも同じように罪を犯しても「悔い改める」ので神様に赦していただけるのです。罪の自覚と後悔がなければ、その人は罪から方向を変えることができません。せっかく悔い改めてもまた失敗して罪を犯すかもしれません。それでも、自分の罪を認めて悔い改めるなら、やはり赦されるのです。方向と言ったのは、罪が背を向けることだからです。神様に罪を犯しました、といえば神様に背を向けているのです。私に罪を犯しました、といえば私に背を向けているのです。これでは、遠ざかっていくだけで希望がありません。しかし、悔い改めるなら、方向転換して、また神様に向かい、私に向かうのです。それだから赦してあげるべきなのです。罪を戒めることも愛を持ってするべきです。そうでなければ、相手を自分の正しさに合わせてコントロールするだけだからです。それは、多くの場合、反発され、拒絶されます。何がいけなかったのか認めることができやすくすることも知恵が必要です。赦すことは容易くありませんが主の十字架に近づくことにきっとなります。このチャレンジは信仰で受けたいですね。(さくま)

 

1月25日(月)

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

詩篇103:2-5

 

聖書のみ言葉から元気をいただくことは良いことです。人間的には良い時も悪い時もありますが、それを超越して感謝の心をあらわす人は、結局、すべてが益に変わって行きます。信仰は、主の恵みを数え小さなことでも喜び、決して忘れないことです。神様が私たちにしてくださったことは、すべての咎を赦すことです。すべてです。だから自分で自分を責めることや後悔はもうしなくても良いのです。もちろん、誰も責める必要がありません。私たちにはあために冠が被せられているというのです。恵みとあわれみの冠です。冠は頭にかぶせるものですから、私たちの考えが変わるということです。恵みを信仰で認め続けることとあわれみをいつでも忘れないことです。そうすれば、「あなたの一生を良いもので満たされる」と約束されています。ですから、クリスチャンは好み言葉の通りに将来のことも心配することなく、最高の人生を送ることができるのです。神様をほめたたえ、主に感謝します。(さくま)

 

1月26日(火)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:13

 

私たちは小さなつまづきでもすぐにあきらめたり、悲観しがちです。しかし、聖書にはこのみ言葉のように、「どんなことでもできる」とはっきり書いてあります。信仰には不思議な力があり、自分の弱さを苦にしません。ですから、すぐに「無理、できない」といった発想がありません。私には無理かもしれないが私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる、と言うことができるのです。そして、実際、あなたにはこのみ言葉の約束が本当に実現するのです。あなたの益となること、あなたの主の栄光となる偉大なことをあなたはきっと願い、信仰でやり遂げることでしょう。ですから、心を揺さぶるようなよくないことが起こったとしても、「私は大丈夫、私を強くしてくださる方がいる。その方によって、どんなことでもできる。だから、大丈夫」と言い聞かせるのです。そして、主への信頼をはっきりあらわすことです。悪魔の誘惑にははっきりとノーを突きつけて負けいないことです。主を讃美しましょう。主を喜びましょう。主は今日にもあなたのために奇跡を起こすことができます。イエス様を信じた時からあなたは特別なのです。(さくま) 

 

1月27日(水)

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのにわけあたえてくださった信仰の量りに応じて、慎しみ深い考え方をしなさい。

ローマ12:3

 

人間の美しさはその人が「慎しみ深い考え方を」するかどうかにかかっています。もっとも、その尺度が問題となります。限度を越えて思い上がってはいけませんが、かといって自分を卑下したり、やりすぎて卑屈を感じさせるようではもっと悪いです。信仰は、神様が与えてくださる分があるのです。さらには霊の賜物リストにも「信仰」はありますから、信仰という言葉だけでは簡単に測れません。それよりも、何もかもが恵まれてうまくいくと、私たちはつい調子に乗ることがあるのです。それで、だんだんこの世と妥協してしまうこともありますし、自分は大丈夫と過信することもあります。しかし、限度を超えて思い上がると最悪な結果が待っています。それで、今日のみ言葉の注意があるわけです。一つありがたいのは、イエス様の基準で量られると困るのですが、個々人が神様との関係でその人にちょうど良い信仰を与えられているのですから、その信仰の量りに応じていれば良いということです。ところで、あなたは慎しみ深い考え方をしているでしょうか。自己吟味してみましょう。(さくま) 

 

1月28日(木)

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ローマ4:5

 

ただイエス様を信じて救われる、この事以外にどんな希望があるでしょうか。人間の中には光と闇があって、真面目に生きていこうと思っても誘惑されればたちどころに闇の中に落ちてしまうような弱さがあります。光もあるので正義感もあれば、人への憐れみもあります。でも、そのような陰と陽のような矛盾する対立があるので、思うようには生きられないのです。ですから自分の人生を振り返ってみれば「不敬虔な者」とパウロが言ったように生きてきたのです。決して神様の御目に胸を張れるような者ではありません。そのために何か良いことをしたり、立派な業績がなければ神様も救ってはくれないだろうと思えてくるのです。ところが聖書を読むと意外なことに「何の働きもない者」と自分のことが書かれているのです。その者が、「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら」それだけでその者を神様が正しいとみなすというのです。では、「不敬虔な者を義と認めてくださる方」とは誰でしょうか。それこそがイエス・キリスト様なのです。これだで良いと言うのですから誰でも救われるでしょう。問題があるとすれば、ただ信じるだけでいいということに納得できない人がいることです。何かしなければならないはずだと頑なに考えてしまう人がいるのです。これは自分がどのような者であるかまだわかっていないから起こることです。人間には絶対できないことがあるのです。死なないこと、罪を犯さないこと。このことが悟れないなら、今日のみ言葉の恵みを理解し、自分のものとすることはできないのです。どうか、この言葉を読み返して主イエス様を信じてください。素晴らしい救いを得ることは心が晴れやかになることでわかるのです。(さくま)

 

1月29日(金)

主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたがその怒りを翻し、私を慰められたからです。見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。

イザヤ12:1-3

 

真の神様は決して罪をいい加減に見過ごしにはされません。ですから、私たちは罪人のままであれば、私たちが犯した罪のゆえに神様の怒りをかうことになります。神様の正義は罪に怒りを燃やすわけです。それだけならば、私たちは亡び去るだけです。何の希望もありません。しかし、今日のみ言葉こそが私たちの信仰告白となります。ちょっと考えてみましょう。実際に救われたのは私たちがまだ罪人の時に救われたのです。それでは、神の正義はどこに行ったのでしょうか。その答えは十字架にあります。イエス様が神様の怒りを身代わりに受けてくださったのです。私たちが苦しむのではなく、イエス様が私たちの罪のために十字架で懲らしめを受けられたのです。そして、その十字架の下に父なる神様が共に苦しんでおられたのです。それは、あなたを愛してくださったからです。これほどまでに愛されているあなたは、その愛をちゃんと受け止めているでしょうか。主の愛だけがあなたを変えることができるのです。あなたはもっともっと素晴らしくなります。徳を高めて主の御足の跡を辿るでしょう。あなたのうちに愛があふれ出てきます。もっと喜びましょう。主を心から讃美しましょう。あふれる感謝が天に昇って行きますように。栄光が永遠に私たちの主の上にありますように。アーメン。(さくま) 

 

1月30日(土)

主を恐れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。わたしによって、あなたの命の日々もその年月も増す。

箴言9:10-11

 

あなたは知恵をどう思っているだろう。もちろん知恵があったほうがいいに決まっている。しかし、あなた自身を顧みたときに知恵によって生きているだろうか。知恵を何よりも大切にしているだろうか。聖書を読んでみるとこれ以上に重要なことはないことに気がつく。何しろ知恵は、「主は、その道の初めにわたしを造られた」(22節。わたしは知恵のこと)とあり、「永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた 深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。」(23、24節)。ここまで読めば、創世記の天地創造の初めの場面を思い出すと思うがその前にすでに知恵が主によって造られていたということに驚く。それでは、知恵とは一体なんなのだろう。不思議な思いにとらわれる。一般に使われる知恵とはその深淵が違っている。肉の赴くままに生きている人には到底わかるはずがない。箴言では、そのような人を不遜な者とか愚か者、あるいは神に逆らう者、悪を行う者、浅はかな者、等と呼んでいる。確かにお年寄りを騙してわずかな老後の蓄えをだまし取ろうとする者が連日テレビで報道されているようなことがあると、それがどれほど愚かで恐ろしいことか、神の怒りがいかばかりであるか犯罪者は想像することもできないのだろうと暗澹たる思いになる。知恵が何かわからないのなら、知恵はイエス・キリストであると思えば良い。そのような神秘がある。クリスチャンは、イエスを知ったので知恵がわかっていくのだ。知恵はそもそも求めるものである。これは遠慮がいらない。求めることは奨励すらされている(ヤコブ1:5)。クリスチャンとして何か不足を感じているのなら、すぐに知恵を求めて祈ってみよう。(サクマ)

 

1月31日(日)

永遠の命とは、唯一真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

ヨハネ17:3

 

イエスがいよいよ十字架の時を迎えようとしています。イエスが神の子であり、天の父から遣わされたことが明瞭になります。イエスには父から授けられた権能があるのです。それは、終末の救いの権能です。イエスを神の子と信じる者、キリストと信じる者、イエスを受け入れた者、その名を信じた者を救う権能です。その救いは、「永遠の命」という言葉で説明されています。ここで重要なことは、「知る」という言葉です。父と御子との人格的な交わりのことであり、信仰よりもさらに上の深いものです。一つになるという言い方すらあります。ですから、単なる知的な知識だけではありません。聖霊を与えられることとも関係があります。信仰者は生きることの中に聖霊との交わりや祈り、聖書を通して神の啓示を求め、神の力の現れを待ちます。そのような歩みの中でだんだんわかっていくことなのです。主を知ることを意識して祈り求めましょう。あなたはすでに神の救いのご計画の中にいるのですから、信仰を通して永遠の命へと導かれているのです。さらに主の御心がなるように祈ってまいりましょう。(佐久間)