10月1日(土)
世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。Ⅰコリント1:21
聖書に書かれているとおり、人間は自分の知恵で神を知ることができません。もし、知ることができのなら、もっと大勢の人々が信仰を持っていました。日本は豊かになり、大学進学率も大幅に上がったのですが、それで神を信じる人が増えることはありませんでしたし、逆に聖書を神を信じる人は減ってしまいました。某有名大学のキリスト教学科を卒業した人が信仰を持つに至らなかったのですが珍しいことではありません。神学とか聖書学とか本来良いものなのに、いつの間にか人間の知恵で神を知ることを求めてしまうようです。それよりも普通のクリスチャンが信仰体験を証しする方がよっぽど魂の救いに貢献しているのです。教会では宣教という言葉を使ってイエス・キリストを伝えています。それがつたない言葉であっても、その人が本当に信じているならば、人の心に届くのです。不思議なことに、宣教という方法をお考えになられたのは神なので、イエス・キリストを信じた人だけが救われるのです。そのイエス・キリストをあなたは知っています。洗礼を受けてキリストに結ばれたからです。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」。このみ言葉を覚えていてください。(佐久間)
10月2日(日)
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
Ⅱコリント1:4
今日のみ言葉は苦難の意味を考えさせます。聖書はクリスチャンになっても苦難が来なくなるとは書いてありません。それでもいざ自分に苦難が襲ってきたら、わたしたちはそこから逃れることばかり考えるかもしれません。たぶん、神様に助けを求めるだけでなく、文句を言うかもしれません。しかし、信仰者はその苦難の中で信仰を学ぶことになります。時には、残っている肉の性質を罪もろとも砕かれることだってあるでしょう。それでも問題はなぜ苦難があるかということです。5節にはこんなことが書いてあります。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる」とあります。何か納得するものがありますね。本当にキリストと結ばれて一つになっているのです。そればかりか、「同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれている」(5節)というのですから、ありがたいことです。ですから、たとえ苦難に悩まされることがあったとしても負けることはないし、耐えることもできるのです。そして、何より素晴らしいことは、わたしたちは苦難の中にある人を慰めることができるのです。確かにこの世界が必要としているのは、この慰めることのできる人なのです。キリストが天におられても、この地上にはキリストに結ばれたあなたがいるので、主の慰めはあなたを通して必要な人へと流れるのです。その効果は絶大です。あらゆる苦難はあなたを通してキリストのゆえに慰めと救いになるでしょう。(さくま)
10月3日(月)
主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に豊かに慈しみをお与えになります。主よ、わたしの祈りをお聞きください。
詩篇86:5、6a
私たちが信じている神は恵み深い。一番驚くことは赦すことがおできになることだ。それも罪を犯した者を赦すのだから世に神々がいると言われてもそのようなものと比べることもできない本物の神なのだ。なぜならば、罪を犯したものを裁く神々はいるだろうが、罪を犯した者を誰が完全に赦せるだろうか。イエス・キリストにしかできないことなのだ。あなただって、自分に罪を犯した者が赦せないと思ったことはないだろうか。クリスチャンにならなかったなら誰かを赦すことなどなかなかできなかったと思う。受けたダメージが大きかったり、心に受けた傷が癒えていなければなおさら赦せないだろう。ところで、厄介なことに一番難しいのが実は自分を赦すことなのだ。そのためクリスチャンになってからも自分を責めることがやめられないことがある。その人にとって重要なことは、神に赦される体験なのだ。それも、何度もだ。自分を責めたくなる時には、主に祈ろう。そして、深い恵みの中に入れていただこう。それだけではなく、赦していただくことが肝心なのだ。私たちは主を呼ぶ者だ。だから、困ったらすぐに主を呼べばいい。嬉しい時もいつでも主を呼ぼう。主の慈しみを知ることも大切なことなのだ。あれこれ考えすぎることなく、主を呼んでみよう。あなたはすでに赦されている、だから安心して自由になればいいのだ。祈りは聞かれるのだから。(サクマ)
10月4日(火)
目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。
Ⅰコリント16:13、14
これは、クリスチャンに語られた神の預言です。この世で生きていくことは誰にとっても大変なことです。それに、信仰をもって生きていくことは時に困難を覚えることだってあるでしょう。しかし、信仰が裏切られることはないのです。み言葉を信じていると、不思議なことがよくあります。今日もある姉妹が証を聞かせてくださいました。それは、旅行へ行かれた時の経験でしたが、いくつも主の奇跡がありました。これを覚えて感謝することが大切ですね。実は、クリスチャンの毎日が神様に守られ祝福の中にあるはずです。それに気がつくかどうかは自分自身の問題です。今日のみ言葉には四つの命令があります。早速、この四つを心に留めて、実行しましょう。良いことが待っています。(佐久間)
10月5日(水)
神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。Ⅰヨハネ2:6
信仰生活は素晴らしいものです。当然のことながら神のみ言葉に従うことが求められますが、聖霊の助けがあります。み言葉の力はそれを信じ守る人のうちに愛となって現れるのです。そのような人は、聖霊の内住という恵みを信じています。それは同時に、神の内にいつもいると言う事実に結びつくのです。聖書を読めば、まさにそれは主イエス・キリストの生涯に現れました。そして、キリストは私たちの模範となったのです。ただ、私たちの方は、それほど偉大ではないのです。主の慈しみの中でしか安心して正直に自分をさらけ出すことができません。ですから、主を知る前は、この世に負けないように自分をいろいろなよろいで包み、本当の自分がわからなくなるほどでした。しかし、キリストと出会ってからは変わりました。なかなか臆病で、自分を主にさらけ出すことがうまくできなかったかもしれません。それでも、時間の経過の中で主に向かうことの意味がわかってきたのです。それは、主のうちにいつもとどまるという信仰の歩みの中で得た平安が喜びとなったからです。ファリサイ派の人たちのように自力で義人になろうとは思いません。つまり頑張ってキリストのようになろうとは思っていないのです。それよりも主を愛することが自分を変えるのだと理解できます。主に愛されていることが自分の生きる力になるのです。それが祈りとなり、主との交わりとなります。あなたにとっても、今日のみ言葉は特別な意味があると思うのです。全てはあなたが主に深く愛されていることから、このみ言葉の通りになるのです。(佐久間)
10月6日(木)
主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。その人は恵みに満たされて宿り子孫は地を継ぐであろう。主を畏れる人に主は契約の奥義を悟らせてくださる。詩篇25:12~14
信仰の歩みは主に対する思いで変わってくる。聖書には「畏れる」という言葉が出てくるのだが、これはその思いを表す言葉の一つだ。信仰者は主へと向かうので、この畏れる態度をとることになる。すると、人生につきものの道を選択する時に、主が選ぶべきを道を示されるというのである。あなたはご自分の人生を振り返ってどうであろう。今も信仰を守り通しているのなら、それは選ぶべき道を示され、それを選んできたことになる。そのようにして信仰者は恵みに満たされるというのだ。それも、子孫へと祝福は継承されていくことになる。信仰は決して裏切られることはない。さらに聖書は、主を畏れる人に主は契約の奥義を悟らせてくださる、と書かれている。これは驚くべき約束である。そもそも聖書は、旧契約と新契約になっている。つまり、聖書にすべて書かれているのだが、ただ聖書を読んでもその奥義がわかるわけではない。聖書を読んでわからないということは、その奥義を聞いてもわからないということなのだ。そこで、信仰が必要となるし、聖霊の助けが必要となる。それだけではなく、信仰者が「主を畏れている」ことが奥義を悟らせていただく条件となっているのだ。これは決して無理な要求ではない。誰でも、幼子のように神を信じ、主を畏れることなのだ。それなら、人間の理屈など捨ててしまって、ただ主を畏れ敬うところから始めればいい。主はあなたのことをすべて理解してくださっているのだから、体裁を繕うことも、信心深く装うことすらない。ありのままで、主を畏れることなのだ。今日のみ言葉は、あなたに語られたことである。(サクマ)
10月7日(金)
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
フィリピ3:12
今日の聖句を読んでパウロも私たちと同じだと納得する人もいるでしょう。つまり、あのパウロですらまだ完全ではなかったということです。福音を理解しようとして、私たちは聖書をあちらこちらと調べるのですが、私たちの救いが神の恵みによることを福音と言っていることがわかってきます。そして、さらにその恵みの意味が私たちの罪をイエス・キリストが十字架で贖ってくださったことにより赦されたことであり、新しい神の息である聖霊を吹き入れてくださったので新しく生まれることができるということであるとわかるのです。さらに、神が義を与えてくださるということは、神が私たちを義にしてくださることだと理解します。そのために、み言葉を信じることが私たちの務めであり、主イエス・キリストの言葉を守ることが求められていることを理解することになります。それは、決してユダヤ人たちが律法を遵守することに失敗したこととは同じではないのです。主イエス・キリストが昇天されて、その後に別の助け主である約束の聖霊を送ってくださったので、個々のクリスチャンにはそれぞれ聖霊の助け主がマンツーマンでいることになります。その聖霊がクリスチャンをイエスの言葉を守らせてくださるのです。そして、義と作り変えてくださるのです。問題は、すべて信仰によって義とされるために、信仰の戦いが生じます。悪魔の誘惑はもっぱらそこにあるのです。そこで、完全になるには時間がかかることになります。しかし、主イエス・キリストがあなたを捕らえていてくださるので、心配することはありません。あなたは、喜ぶべきです。たとえ、今の自分に満足していなくても、大丈夫です。キリストは失敗しないのです。そして、あなたはキリストに愛されているので、あなたも主を愛しているはずです。それは奇跡なのです。この奇跡が起こったのは福音を信じたからです。恵みで始まったのですから、主を最後まで信じましょう。(佐久間)
10月8日(土)
わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
マタイ10:16
イエス様は私たちを「遣わす」と決めておられるのです。セールスマンのように、百戦錬磨の達人のようであれば元気よくどこにでも出かけていくのですが、見知らぬ人の中に入って伝道するなどできるわけがないと思うのは普通のことでしょう。今日の聖句を読むと、行き先がまた最悪です。「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」とイエス様がおっしゃるのですから、悲鳴をあげてしまいそうです。さて、人生もだいぶ長く生きてしまった私の場合はこのみ言葉はどうだったでしょうか。確かに、この最後に出てくる「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」というみ言葉は何度唱えたかわかりません。自分に言い聞かせ、人に言い聞かせ、と、遣わされる者の合言葉のようなものです。私の場合は、巳年生まれなのに、それほど賢くもなく、それほど素直でもなかったので、ストレスを感じることも多かったのですが、魂の収穫があれば大したことではありません。それ以上に圧倒的に遣わされてよかったと思っているのです。それは、素晴らしい人たちと出会えたことです。その方々が救われて、信仰に成長する姿を見ていることができたのは一番の喜びでした。このような人生は他にはありません。永遠に一緒に天国にいたいと思う人と出会えるのですから、遣わされることは恵みなのです。イエス・キリストという看板を背負って歩きたいですね。(さくま)
10月9日(日)
深い穴の底から 主よ、私は御名を呼びます。耳を閉ざさず、この声を聞き 私を助け、救い出してください。呼び求めるわたしに近づき 恐れるなと言ってください。
哀歌3:55~57
このような祈りは、必ず聞かれます。主は「人の子らを苦しめ悩ますことがあってもそれが御心なのではない」(3:33)と言われます。主は愛なのですから、その愛を壊す何かが自分にあるいは親や親族にあったのでしょう。本来なら、そのような罪には破滅しかありえないのですが、主は私たちを惜しまれたのです。何故なら、主が私たちを愛してくださっているからです。自分がうまく生きていけないと思ったとしても、あるいは自分に何か欠けがあるからと落ち込んでいても、それでも希望があるのです。本当に深い穴に落ちてしまったと思わずにはいられない状況が人生にはあります。他の人にはどうすることもできないでしょうが、私たちが主の御名を呼べば、主はちゃんとその声を聞いてくださるのです。そして、助け、救い出してくださいます。私はこの通りに救われましたし、それ以上にこの経験に意味がありました。ここまで行かなければ、自分が変わらなかったし、聖書に書かれた通りに聖霊のバプテスマを受けることもありませんでした。ただ、渦中にある時は、「呼び求めるわたしに近づき 恐れるなと言ってください」と思うのです。主が、助けてくださると喜びが爆発します。今、困難を覚えている方は、主に熱心に祈ることです。聖書を調べ、主の約束を信じるのです。必ず、救いはやってきます。想像を絶する救いです。それがいかに大きな祝福であるか知ることでしょう。だから、心配しないでください。主は、もうすでにあなたのために働いています。(さくま)
10月10日(月)
神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。
ルカ18:7、8a
私たちは人間なので、時には失敗することもあります。誤解されたり、中傷されることもあるかもしれません。また、騙されたり、傷つけられて悲嘆にくれることもあり得るのです。しかし、万一そのようなひどい目にあって窮地に追いやられたら、叫んで祈ってください。昼も夜も叫び求めるように主もお語りになられています。私たちは時に、無力に見えても祈り続ける信仰があります。人間的な方法とは大違いですが、主が裁いてくださるとの約束があるのですから、聖書の時代から今に至るまで、信仰者はこのみ言葉の通りにしてきたのです。神様のことを信じない人たちが大勢いますが、その中であなたが神様を信じているのは、実に主があなたを選ばれたからです。その恵みを忘れないでください。あなたは、この地上でも幸福に暮らすことができます。ですから、日々の生活を主への感謝として生き生きと生きて見せるのです。万が一の時にも、慌てずに祈りによって解決できますから、ただ信仰だけは失わないように気をつけていましょう。(さくま)
10月11日(火)
生きているのはもはやわたしではありません。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤ2:20
私たちは本当に主イエス・キリストの弟子になる気があるのだろうか。聖書を調べてみると、キリストの弟子になって主に従うことは、十字架の死に結ばれることを意味している。そのことがあるので、キリストに似た者へと変えられる、という仕組みなのだ。今日の箇所を見ても古い自分がもう生きていないと断言している。それでも、肉において生きている事実があるが、それは主イエス・キリストが私たちを愛し、私たちを罪から救うために十字架にお架かりになられたことへの信仰のゆえだと言うのだ。ペトロも漁師であった時にキリストと出会い、主から召命を受けるとすぐに全てを捨てて従ったのである。私たちにしても、クリスチャンになるために洗礼を受ける時に大きな決心があったはずだ。これからは、クリスチャンとして生きるという自負もあっただろう。しかし、聖書を読み進めると、弟子たちは主が十字架にお架かりになったためにつまずいた。それまでの弟子たちの問題は、全てを捨ててイエスの弟子になって従ったはずなのに、肉の思いが消えることはなかったということだ。弟子の中で誰が一番偉いか競い合っていたのだ。ここからわかることは、単にクリスチャンになっただけでは、問題は克服できないということだ。ところが、主が十字架で死んでくださったことにより、全てが変わった。それは、使徒言行録に書いてある通りだ。そして、パウロはその意味がわかった。つまり、私たちも主の十字架に共につけられて死んでいるということだ。そのことを信仰で認めることから始めることがキリストの道なのである。私たちの命は、十字架を通って死んでいるのだ。そしてキリストの復活の命をいただいて新しい命に生かされているのだ。そのことを決して忘れてはいけないということだ。(サクマ)
10月12日(水)
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その恐れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
ヘブライ5:7
キリストという生き方があります。私たちは、その生き方を学んでいるのです。人となられたイエスは、この世の人間の有様をご覧になって嘆かれました。憐れに思い、苦しみに喘ぐ人たちを次々に助けたのです。イエスの評判を聞きつけて頼って来た全ての病人を癒し、悪霊を追い出しました。そして、イエスを信じる者も大勢いましたが、拒む者や敵対する者もいたのです。このように救い主が目の前にいても罪深い人間はイエスをキリストと信じなかったのです。キリストは人となって、肉の弱さを知りました。罪の恐ろしさも、飼う者のいない羊のような憐れな人間のことも知ったのです。そして、主の祈りは激しかったのです。美辞麗句で立派な祈りではなかったでしょう。魂の叫びであり、主が涙を流されたのです。イエスの御足の跡をたどる者は時にはイエスのように祈り、父なる神を恐れ敬うのです。その信仰態度がイエスを信じる者の姿となることを目指しているわけです。信心深くと力んでしまうと、反動のように悪い思いが押し寄せてくるでしょう。だから、戸惑って挫折する人は珍しくありません。ここに、イエスに倣う方法が必要となります。それは、人間の考え方とは違っているかもしれません。明日、さらに学んでみますが、今日は、主が祈られた祈りを考えてみてください。あなたの祈りが意味深いものとなりますように。(佐久間)
10月13日(木)
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ 汚れたものがその道を通ることはない。主ご自身がその民に先立って歩まれ 愚か者がそこに迷い入ることはない。・・・解き放たれた人々がそこを進み 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る。
イザヤ35:8~9
このみ言葉は35章の初めから始まる「栄光の回復」と題された(新共同訳)箇所の最後の部分です。4節には「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」とあります。この神とはイエス・キリストのことです。それは、5節以降を読めばすぐにわかります。そこにはイエス・キリストのなさったことが書かれているからです。クリスチャンの皆さんは、キリストの敷かれた大路を歩む人なのです。この世でどのようなひどいことがあったとしてもキリストによって解き放たれたのです。自分の罪の重さに気がつけば絶望しかありませんが、罪とがの汚れもキリストが贖ってくださったのです。それだけではありません。私たちは主のものとなり、主と共にシオンに帰るのです。それは、「とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く」とあります。つまり、クリスチャンはこの世のいかなることにももはや影響されないのです。弱さゆえに右往左往することがあるかもしれませんが、大したことではないのです。私たちは喜びの行進をしているのです。キリストのゆえに勝利者の行進となっているのです。悪魔ですら妨げることができないのです。それが、キリストが敷かれた大路の意味です。あなたが信じるなら、その道があなたの人生そのものとなるでしょう。主はあなたを助け、救ってくださったのです。ハレルヤ!(佐久間)
10月14日(金)
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1ヨハネ1:3
聖書は神の啓示です。そこには霊感された聖書記者がいました。彼らは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」を持っていました。そして、クリスチャンになって大切なことは、この三位一体の神との交わり持つことなのです。クリスチャンのための信仰書の中で祈りをテーマにしたものが多いのは、この神との交わりと大いに関係があります。パウロも「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:17)と命じていますが、普通祈りはごく短いものであると思っている人が多いのです。それは、教会で同じことをくだくだと祈るのは主を疲れさせてしまう、というような表現でダラダラ長いだけの祈りを戒めていることもありますが、何を祈ればいいのかわからないのですぐに祈りが尽きてしまうというのが実際のことでしょう。それなら、なぜ「絶えず祈りなさい」と聖書に書いてあるのでしょう。それは、主との交わりを絶やさないようにということです。漠然と主の臨在の中にとどまる、という言い方もありますが、本当に交わることを考えるべきです。そのためにも霊的な覚醒を求めて熱心に祈り求める必要があります。聖霊が降れば、ここに書かれている「交わり」を体験できます。聖書の証言をことごとく信じることがただ教理を覚えることであれば、交わりは関心が払われないでしょう。しかし、聖書にはっきり書いてあるのですから、この交わりを真剣に求めて祈るべきです。それは、信仰の深化へとつながります。素晴らしいことがそこにあるのです。あなたに真理が開かれているのですから、神との交わりに集中してみましょう。(佐久間)
10月15日(土)
恐るな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神 イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
イザヤ43:1b~3a
私たちは大きなエールを送られている。それも神からだ。だから、人生を恐れずに進めばいい。たとえ困難に直面しようともなんとかなる。私たちは決して一人ではないから。私たちに常識は通じない。何が起ころうが救い主がいるのだから、信仰を持って進めばいい。信仰の大敵は恐ることだ。だから、何か良くないことが起こった時に驚くことがあっても恐れてはいけない。どんな災いもあなたに被害を被らせることはできないのだ。それなら、人間関係でも恐る必要はない。あるがままに誠実に愛を忘れなければいい。何しろ愛ほど強いものはないから。イエス・キリストがそのお手本を示されたのだから、その弟子であるあなたもどうすればいいのかわかるはずだ。それに、何といっても聖霊があなたの内におられるのだから愛が流れることは普通のことだ。恐れなければ、自分の感情もコントロールできるから、今日のみ言葉の通りになる。自信を持って今日を生きよう。(サクマ)
10月16日(日)
いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。
詩篇84:6、7
自己啓発の本を読まなくても、聖書には人の必要な真理がすべて書かれているのでそれを探してみることが大切です。今日の聖句もそのような箇所の一つです。信仰を持つことは神様を知ることですから、神様が自分のことを驚くほど愛していることに気がつきます。それは、今までの常識とは全く違っています。自分の負い目を赦して贖ってくださるイエス様との出会いは、人生を一変させました。それでも、何か自分が努力しなければいけないのではないかとクリスチャンになったからこそ思ってしまいましたが聖書にはその逆のことが書かれていて、神様の恵でしか救われないことを知りました。それは同時に、神様の目がいつでも慈しみに溢れたものであることを悟らせ、自分が神様に守られていることを理解したのです。そうなると、自分への肯定的な気持ちが増します。勇気が必要な場面では、信仰が大いに役立つのです。そして、イエス様への信頼が増していけば行くほど、人生の歩む道が広がって行くのです。そうなると、悪いことが起こっても逆転させてそれが益に変わるようになります。試練が襲ってきても信仰が試されているだけです。ですから、自分の弱さをさらしてイエス様への信頼を表明するのです。そのような信仰で得るものは、想像を超えた祝福となるのです。だから、今の状況がどうあろうとも、信仰で乗り切ることを決めて、自分の力を頼らないことです。主は生きています。あなたは、そのことを恵のうちに知るでしょう。(さくま)
10月17日(月)
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。
ローマ15:1~3a
クリスチャンになってよかったことに、強くても、弱くても良いということがあります。これはこの世には無い考え方です。今の世の中を見ていると、弱い者は切り捨て、ということが平気で行われているように思います。神様を無視するとそうなるのですが、そのような中で、クリスチャンがこの世に倣わずに聖書の通りに生きることは、この世界を少しでもよくすることにつながります。さて、強い人というのは、パウロのように偶像にささげられた肉でも、そもそも偶像などいないのだからどうということはないと平気で食べることができる人のことが一例としてあげられています。しかし、ある人たちは、偶像にささげられてから市場で売られている肉を食べずに野菜だけ食べていたのです。この人をパウロは弱い人と表現したのです。今だって、これと同じようなことはいくらでもあります。伝統に縛られないで自由にやれば、それは強い人と呼ばれるかもしれません。しかし、伝統を守ることも現代的な新しいことを進めることも、正しい信仰によっていればどちらが良くてどちらかが悪いとは言えないのです。ただ、人間にはそれぞれの器があるのです。それを否定してはいけないし、自分は自由であると思っている強い人は、その自由を弱い人のために使うことが良いというわけです。イエス様に倣って、自分の満足を求めないで隣人を喜ばせることを心がけてみましょう。ただ、いつでも無理をすることはありません。(さくま)
10月18日(火)
信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。
マタイ21:22
神様はケチではありません。それどころか驚くほど寛容で私たちの願いをかなえたいと思っておられます。イエス様のこのお言葉は有名ですが、よく理解して実行している人は限られているようです。否定的な思考がいつでも邪魔している可能性があります。貪欲に神様に自分の欲望を満たしていただこうというのでは、満たした結果滅んでしまうかもしれませんから、祈っても聞かれないでしょう。しかし、祝福されることを拒むような否定的な考え方をしているのなら、それは修正する必要があるのです。神様が自分を愛していると信じているのなら、大いに恵まれるはずです。イエス様も信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる、とおっしゃっています。それでは、求めても得られないのは、「信じて」という箇所に不足があるのではないかと点検してみるとよいのです。信じることが重要であることは知っていると思いますが、日常生活でも信じることを訓練する必要があります。何しろ主の教えでは、山もを動かす信仰ですから、自分自身の信仰を高めるのに時間がかかるのです。信じたことを否定しない、疑わない、自信を失う、こうしたことが身についていると不信仰となってしまっているのです。ですから、誰にでも公平に教えられている主のお約束を信頼して、疑いが心に起こらないような考え方を身につけてください。あなたの人生は幸福で祝福に満ちたものになるはずです。(さくま)
10月19日(水)
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で作られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
Ⅱコリント5:1~2
クリスチャンの方々が持つ悩みは共通しています。それは、今日のパウロの言葉にも見出せます。ここでは、自分の体のことを幕屋と言っています。つまり、洗礼を受けた後の生活が聖なる完全なものでありたいのに、そうは簡単にいかないという現実があります。何が悪いのかもわからずに、色々と試みるのですが、それらが問題が解決になることはまずありません。それで、何を求めているかといえば、天から与えられる住みかを上に着たいと願っているというのです。それは、わたしたちが目指しているキリストのような者になることを意味しているのです。罪に完全勝利し、キリストの徳を身につけて、愛に生きる人になりたいのですが、自分という体には罪の傾向が染み付いていて、愛ではないことが出てくるのです。それで、クリスチャンはどうにかして理想の姿になろうと苦しみ悶えているのです。もっとも、クリスチャンではない人には想像もつかない話です。そこで、今もクリスチャンとして完全になれないと嘆いている方は、元気を出してください。望みはあるのです。この続きを読めばいいのですが、それは次回に回して、今日知っておくべきは、生まれたままの自分をどうにかすることではないということです。これはたとえ滅びてもかまわないものなのです。そうではなく、天から与えられる新しい住みか、それこそが私たちが目指しているものなのです。当然それは家ではなく体といったほうが正確です。ローマ7章には、「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのがわかります」(22、23節)と書かれています。この五体を脱ぎ捨てたいと思っているわけです。その代わり、天から与えられる住みかを上に着たいと切望しているわけです。ですから、あなたはクリスチャンとして失敗したとか恥ずかしとか色々悩むことになりますが、それほど決定的なことと戦っているのです。しかし、神の救いは完全なので、心配はいりません。着実に前進しています。主があなたにできないことをしてくださいます。信仰を働かせましょう。主があなたを義とすることが信じられるのなら、そのようになります。今日もそのための一日となります。主の祝福がありますように。(佐久間)
10月20日(木)
恐れをいだくとき わたしはあなたに依り頼みます。神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉に過ぎないものがわたしに何をなしえましょう。
詩篇56:4、5
わたしたちは、このみ言葉の意味を知っています。それは、この通りにしているからです。詩篇記者の言った通りに、困った時にこのように主に依り頼みます。それ以外にどんな良い方法があるでしょうか。人に頼っていても、いざという時にその人はあてにならないものです。でも、主は違います。圧倒的にわたしたちを助けることができます。しかも、わたしたちの将来まで見据えてわたしたちの益となるように、最善を尽くしてくださいます。主に勝てる者は誰もいません。この世でわたしたちを苦しめる者がいれば、主は赦さないでしょうでしょう。ですから、日々の生活で、人間からひどいことや理不尽な目に遭わされても、主を知らない者のように恐れてはいけないのです。自分の弱さは問題になりません。ただ、主に依り頼む信仰を奮い立たせるだけです。そのことを通して、主は生きてあなたのために働いてくださるこお方であることを知るのです。自分で、対処すれば決して良い結果を期待できません。いつまでも嫌な思いが苦しめることになりかねません。ですから、聖書に書いた通りにやってみることです。あなたは特別なのです。主に救われた奇跡の人なのです。だから、信仰で解決することです。それは、あなたは主に依り頼み、主が解決してくださるということです。主を信じましょう。(佐久間)
10月21日(金)
主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。
詩篇112:6、7
私たちは、イエス・キリストを信じています。それは、素晴らしいことなのです。自分がどうであろうと主の恵みは変わりません。以前は、人を恐れて顔色を伺って摩擦を避けるために、自分の本心を押さえつけて十分ストレスを溜め込んで生きていたのですが、主を信じて救われてからは、解放されたのです。それは、恐れの対象が変わったからです。主を恐れる者へと変わったのです。それは、人を恐れることをやめたという意味です。だから、正直に自分の心を偽ることなく正しく生きることにしたのです。それは、時に波風を立てることがあっても、悪にくみすることなく、神への忠実を貫く生き方です。しかし、主は慈しみに富み、愛情の深いお方なので、心にはいつでも喜びがあります。たとえ、悪評が立てられてももう恐れないでいられます。それは、主を信頼する心が何よりも大きくなったからです。これは、決して難しいことではありません。聖霊の助けを受けられるし、自分の弱さをさらけ出しても平気だし、頑張って立派に振る舞う必要すらないのです。主を信頼して、どうなるか見てみましょう。ありのまま愛されていることを実感できると思います。(佐久間)
10月22日(土)
・・・高い天には わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友 神を仰いでわたしの目は涙を流す。
ヨブ16:19、20
この地上で誰も自分のことを弁護してくれなくても、天に弁護してくださる方がいることを聖書は教えています。あなたの味方は天にいるのです。誰もかなうことのできない最強の弁護者です。あなたが一生懸命生きていることを知っていてくださり、あなたの悩みを理解していてくださる方こそ、イエス様です。あなたは、信仰を持っているのでイエス様は天であなたのためにいつでも執り成していてくださいます。イエス様こそ、あなたの友なのです。辛い時には神様を仰いで涙をこぼしてもいいのです。主は、その涙が地にこぼれ落ちないように涙袋にとって、あなたの思いを無にしないのです。だから、あなたは勇気百倍で元気に生きることができます。あなたはどんな相手でも正義を貫くことができます。あなたの支えはイエス様ですから、あなたは勝利者になれるのです。今日を喜びと感謝の日にしましょう。(さくま)
10月23日(日)
わたしを愛する人をわたしも愛し わたしを探し求める人はわたしを見いだす。
箴言8:17
一番ワクワクすることは神様が生きておられることを知る時です。そして、神様が愛してくださるという意味を体験する時です。そこで、神様を知った人は神様を愛するようになります。その愛は決して裏切られることはありません。不確かな人生に初めて光を見出すでしょう。今日の聖句は、神様を探し求めるように教えています。ですから、今日は神様を探し求める日にしましょう。そして見出してください。あなたは人生を一変するはずです。大いに恵まれますように。主の平安がありますように。(さくま)
10月24日(月)
人を偏り見るのは良くない。誰でも一片のパンのために罪を犯しうる。
箴言28:21
私たちは人を見るのですが、ある人は値踏みし、ある人は疑い、またある人は相手の良い所を見ようとします。ビジネスマンは騙されまいと信用できるかどうかを見極めようとします。クリスチャンは、誰にでも公平に接することを心がけています。見た目に左右されることはあるかもしれませんが、それでもその人に優しい目を向けるのです。アメリカの教会にいた時に、黒人の女性が二人訪ねて来て、食べ物をくれと言うのです。以前に隣の教会で食料を配るミニストリーをやったことがあったらしいのですが、そんなことは知らないので、そのようなサービスはやっていないと説明するのに、彼女たちは納得しなくて大声で怒って詰め寄られ、とても困ったことがありました。それだけ切羽詰まっていたのでしょうね。人間は「誰でも一片のパンのために罪を犯しうる」。ジャンバルジャンではありませんが、そうゆう存在なのです。だからこそ憐れみ深い心は必要だし、知恵も必要なのです。今日の御言葉の意味を考えてみましょう。(佐久間)
10月25日(火)
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何もあてにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
ルカ6:35
心を病んでいる人たちの世界観は程度の差はあっても悲観的になりやすい傾向があります。その反対に楽観的に生きている人もいるわけです。人間はそのどちらかになりきれずに両方を行ったり来たりすることがあります。しかし、人の世界観は他人に伝染することがあるのです。主イエス・キリストは誰もが考えもしないようなことを言われました。どこをどうすれば自分の敵を愛することができると言うのでしょう。最後まで読めばわかることですが、つまり神様のようになれと言われているのです。不思議なことに私たちはそんなことは無理だと思っているのです。だから、実際に試してみる人はそう多くはないのです。ところで、クリスチャンとはイエス・キリストに救われた人たちです。もともと救われたと言うのには理由があって、今日の聖句にある神様に対して恩を知らない者、悪い者と書いてあったのは、実に私たちのことでした。しかも、自分のことを知ることができないものだから悪いのは他人で自分は正しいと思っていたのです。それが、聖霊のお働きで自分が罪深い者であることに気付かせていただきました。その結果悔い改めて、情け深い神様に救われたのです。しかも私たちに神の霊を注ぎ新しい命に生きることを可能にしてくださいました。そのことがあるので、私たちには主と同じように情け深く生きることができるのです。そうやって生きてみると、どれほど楽なことか驚くほどです。基本は、無理をしないことです。できることから始めるつもりでいればいいのです。(さくま)
10月26日(水)
人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。
ヤコブ4:17
悪いことをしなければ、罪を犯すことはない、と言い切れないことをこの聖句は思い出させてくれます。人生は慎重であっても良いが消極的である必要はないのです。クリスチャンは時に、難しい選択をせまられる場面に遭遇します。私たちにとって「恐れ」や「面倒」「保身」といった言葉は信仰の妨げになることがあります。まさに、そうした言葉が自分の心に現れると、驚くほど消極的になるのです。そのような状況で選択を迫られると、今日の聖句が心に重くのしかかってきます。私の娘が小学校4年生の時に、クラスである生徒がいじめにあったのですが、その時にその子を娘が助けようとしたのです。そのために、娘まで無視されたりひどい目にあうことになりました。では、その時に、正しいことを知っているのに、恐れて何もしなければどうだったでしょう。いじめのとばっちりは受けなくて済んだでしょうが、良心は苦しんだでしょう。これが大人になれば、もっと複雑になるかもしれません。誰かが困っている時に、自分一人が助けなくても誰かが助けてくれるだろう、と何もしないでいたらそれが罪になることだってあるのです。クリスチャンは昔から、この聖句で心を悩ませてきたのです。今の時代だからこそ考えてみる価値がありますね。(佐久間)
10月27日(木)
父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
ヨハネ6:46、47
この文章を読んでおられる方は、天の父によってキリストのもとへと引き寄せられた方なのです。それは、この6章にあるキリストの証言でもあります。私たちは、ナザレのイエスこそがメシアであると信じています。そして、大切なことですが、イエスは「信じる者は永遠の命を得ている」と真理を伝えたのです。世の中にはイエス・キリストを信じない人たちがいますが一方では私やあなたのように誰がなんと言おうと信じる者もいるのです。永遠の命の神秘はありますが、私たちはへりくだって主の御言葉を聞いて、ただ信じる者でありたいのです。今は、キリストのもとへ引き寄せていただけた恵みをありがたく感謝したいと思います。(佐久間)
10月28日(金)
お前たちのうちにいるであろうか、主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。
イザヤ50:10
主イエス・キリストがどのような苦難の中を忍耐していくのか預言されている箇所に続いてこの御言葉が出て来ます。福音書を読めば明らかですが、イスラエルの民はキリストを十字架につけたのです。では、私たちはどうでしょうか。クリスチャンの歩む道程は、今日の御言葉にどう答えるか、と問われているもののように思えます。クリスチャンといえども大変なことが起こり不安に苛まれ悩みの中に落ちてしまうことがあります。また、神様がいるのかどうかわからなくなったり、信仰が空しく思えてくるような時があるかもしれません。その時に、それでもイエス様を信頼する人、その神様を支えとして乗り切る人であるかないかが問われているのです。だいぶ前に出版された本の中に、苦難の中で神様に助けを求めてもすぐに助けていただけなかった、たといそうであっても主を信頼している、というような話がありました。実は、このような信仰が私たち全員に問われているように思います。なぜなら、私たちの模範である主イエス・キリストこそが苦難の僕として、私たちの救いのためにこの道を通っていかれたからです。自分勝手な信仰ではなく、主にならう信仰でありたいものです。(さくま)
10月29日(土)
神に従う人は苦難に陥っても助け出され、神に逆らう者が変わってそこに落とされる。
箴言11:8
韓国のドラマはわかりやすい筋立てになっているので人気があります。実際に韓国人に話を聞いても、ドラマにあるような展開で考えていることに気がつきます。日本人の水戸黄門好きと同じようなところがあるのでしょうが、逆に日本の現代のドラマは複雑でわかりにくいと言われることもあるようです。今日の聖句は、まさにわかりやすい神様の摂理を明確に教えています。なぜ、信仰を持っているかわかりますね。あなたは人生を恐れることなく進めるのです。たとえ、苦難に陥ることがあっても神様が助け出してくださいます。ですから、人生を堂々と生きてください。(さくま)
10月30日(日)
悪口を言い歩く者は秘密をもらす。誠実な人は事を秘めておく。
箴言11:13
社会に出て行けば、大勢の人に出会うでしょう。その中で、実にいろいろな人間がいることに気がつくのです。さて、神様が気にしていることは悪口を言いふらすことです。わたしたちの心が弱ければ、一緒に悪口を言いかねないのです。それは、悪意からだけではありません。妬みや自分の弱さから出てくることもあります。また、そうすることが楽しいと思う人だっているのです。そのような人は必ず身近にいるものです。その人には決して秘密を漏らしてはいけません。あとで後悔することになります。あなたがクリスチャンであれば、悪口は自分に死刑を宣告するようなものです。でも、頭にきたり、自分を守るために怒って、悪口を言ってしまうことだってあるのです。そこで、私たちは誠実な人を目指すのですが、本当に誠実かどうかは事を秘めておくかどうかで測られているのです。こう考えると、毎日が自分の誠実さを確かめているようなものですね。誠実な人には神様の恵みがあるでしょう。(さくま)
10月31日(月)
主よ、あなたの慈しみと救いが、仰せのとおり、わたしを訪れますように。
詩篇119:41
主を信じるということは、素晴らしいことなのです。聖書をただ読むのではなく、そこに主の息遣いを感じることです。そうすれば、聖書は語りだすでしょう。そして、あなたはただ主を信じるということが神への畏れから生まれることを知っているはずです。そして、神があなたを愛しているとちゃんと聖書に書いてあるので、今日の御言葉もあなたの敬虔な祈りとして献げることができるのです。どうぞ、声に出して聖句をあなたの祈りとして読んでみましょう。このとおりになりますように。(佐久間)