2016年11月ディボーション

11月1日(火)

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。

ルカ6:38

 

『心は天につながっている』(金澤翔子:書、金澤泰子:文)と言う本を読みました。とても感動しました。翔子さんは知的に障害を持つダウン症の書家です。その書は驚くほど心を虜にします。その本の中から、お母様が書かれた文を一つだけご紹介します。「夕暮れの道で、私の後を翔子が小さなライト付きの自転車を引いて付いてきた。すっかり暗く、寒くなったので、先にお家に帰りなさいと言っても、まだ後ろをついてくる。「早く自転車に乗って帰りなさい!」と私が怒ると、「お母様を照らしているのよ」と蚊の鳴くような小声で呟く。夜道での黒い服の私を守ろうと、叱られても懸命に黙って後ろから照らしてくれていたのだ。翔子は与えて与えて、叱られてもなお与え続け、しかもその行為を認められることもなく佇んでいることがよくある。与えても何も求めないこの想いは、まるでマイナスばかりを引き受けているように思える。しかし、この頃私は、この行為を嘆かなくても良いのだと思う。与えるだけが人生の翔子に、天上から降りてくるご褒美はとびきり大きいから」。イエス様のお言葉の通りなんですね。(さくま)

 

11月2日(水)

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

ヘブライ11:1、2

 

クリスチャンにとって信仰は大切な課題です。全てが信仰によると教えられているからです。自分が正しい者になれるのも、聖なる者になれるのも、ただ信仰によるのです。そうであるのなら、信仰のことをもっと考えてみる必要があります。今日の聖句は、信仰の意味とそのような信仰が神に認められることを教えています。この昔の人と同じように信仰を持つことがクリスチャンの課題なのです。信じているという言葉だけでは足りないのです。「望んでいる事柄を確信する」「見えない事実を確認する」この二つがヒントです。この二つのことがどうすればできるか考えてみてください。信仰の飛躍が期待できます。(佐久間)

 

11月3日(木)

わたしの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。

フィリピ4:19

 

クリスチャンが欠乏することは、この御言葉からないことがわかります。「必要なものはすべて満たしてくださいます」との約束は信じることができます。ですから、これから先の将来のことで心配しないほうが良いのです。パウロはどんな状況にも対処する秘訣を授かったと言っています(12節)。つまり、大きな変化がある時でも、神様がなんとかしてくださるのです。クリスチャンが困るようなことになることはありません。あるとしたら、その人の問題を解決するために必要なことであったり、不信仰が原因であることが考えられます。しかし、普通に信仰生活を送っていれば、この約束は真実です。ですから、約束を信じて感謝したいと思います。特に若い人は、あなたに必要なものをすべて満たしてくださるのですから、夢を実現させてください。信仰の完成を目指している人は、そのために必要なものをすべて満たしてくださるのだと信じることです。もちろん、神様はあなたのお財布の中身もちゃんと見ていてくださるお方ですから心強いですね。このように神様は本当にありがたいお方なのです。(さくま)

 

11月4日(金)

どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなた方の内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

エフェソ3:16、17

 

あなたがクリスチャンであるのなら、ここに書かれたことが起こります。ここに書かれたことが必要だからです。信仰で生きることは恵みに満ちたことなのですが、ここに書かれてある通りに、内なる人を強めることが必要です。自分の力では達成できなことを目指しているのですから、すでにキリストの復活の命をいただいて内なる人が生きていることを信じましょう。何も感じないかもしれませんが、この聖書の祈りが自分のためであることを信じて、内なる人を強めていただくのです。そうすれば、同じように心の内にキリストが住んでくださいます。そのキリストが心にいてくださるので、心から愛が出てくるわけです。この愛によって生きることがわたしたちの目標なのです。これらは祝福に満ちた最高の喜びなのです。愛は全てを神の国のように変えていくことができるのです。人間の弱さをまとった愛ではなく、キリストの愛があなたから溢れて流れだすでしょう。その愛に気づく人が出てくるはずです。キリストの御心のままにわたしたちが用いられますように。(佐久間)

 

11月5日(土)

主は世界中至るところを見渡され、ご自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。

歴代誌下16:9

 

私たちは自分のような者をお忙しい神様が見ているはずがないと思いがちです。もっと世界には重要な働きがあって、そうした偉大な人たちに神様は関心を向けているだろう、とかってに決めてしまっているかもしれません。しかし、人間の思いと神様の思いは違っています。神様は何でもできるお方です。そして、あなたのことをちっぽけな存在などとは決して思っていません。あなたへのまなざしはいつでも優しく慈しみにとんでいます。あなたが神様へ心を寄せる時、神様は必ず応えてくださいます。人知れず、聖書を読み、祈るあなたへ神様は関心を深めます。そして、神様にお仕えしたいと思っている人の心を見ているのです。神様の救いを感謝して、感情に左右されることなく、聖書のお約束を信じて信仰を拠り所としているなら、たとえ苦難が訪れようともへこたれることがありません。通るべき道であるならば、主を讃美して前に進むのです。その人は、主を信じる心が何よりも強いことを知るでしょう。そして、主はそのような人を力づけてくださるのです。(さくま)

 

11月6日(日)

ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまたもバアルに従って姦淫し、バアル・ベリトを自分たちの神とした。イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を心に留めなくなった。彼らはまた、イスラエルのために尽くしてくれたエルバアル、すなわちギデオンのすべての功績にふさわしい誠意を、その一族に示すこともしなかった。

士師記8:33~35

 

歌にも歌われた勇者ギデオンは、イスラエルの命の恩人です。海辺の砂のように地を覆い尽くした敵をわずか三百人の兵で打ち負かした英雄なのです。しかし、この神の人が亡くなると、イスラエルはたちまち主なる神を捨てて偶像を拝み始めるのです。聖書は、姦淫という強い忌み言葉を使って、神を裏切ることの深刻さを伝えています。彼らは、人間の尊厳に関わる恩を忘れて、「ギデオンのすべての功績にふさわしい誠意を、その一族に示すこともしなかった」のです。恩知らずは万国共通で最も恥ずかしいことです。私たちが願うべきは、最後の最後まで主に忠実であることです。主が十字架に架けられた時、弟子たちは逃げ出していました。やがて復活された主は彼らの元へ来られました。そして、励まされたのです。その後の弟子たちは、別人のようになってどんな迫害にも負けずに、主の使命を成し遂げたのです。その主の教会に私たちは召されました。ですから、人からではなく、神からの報いを信じて私たちの主のために生きるのです。(佐久間)

 

11月7日(月)

神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。

詩篇67:2、3

 

わたしたちは神様に祝福してくださるように求めることがあります。それは、なんのためでしょう。ただ、自分に都合がいいようにと願うのなら、祝福の意味を勘違いしているかもしれません。わたしたちは神様を知っているのです。もし、そうであれば、この圧倒的に素晴らしい天地万物の創造主であり、唯一真の神様をすべての人間が礼拝するべきであると考えるはずです。少なくとも主の慈しみが日々注がれ、罪深く生きていた自分のような者を哀れんで、ただ恵みで救ってくださったことを感謝しないではいられないからです。主を信じる者は、神様の憐れみの中で安心して生きていけるのです。困難が苦しめるようなことが起こっても、ひたすら主に祈って助けを待つことができます。主が共にいてくださるので、不思議になるほど恵みが自分に流れてくるのです。魂は決して乾くことなく命の水で潤されています。聖霊は心の友となって絶えず良き導き手となり、カウンセラーとなり、聖なる神の子供となるようにと古い生き方をする外なる人を壊して、内なる人を新しく創造してくださるのです。この偉大な神様の救い無しには人間に希望がありません。ですから、わたしたちはすべての民が知ることができるように、わたしたちを見て納得ができるように神様へ祝福を願い求めているのです。(さくま)

 

11月9日

銀から不純物を除け。そうすれば細工人は器を作ることができる。

箴言25:4

 

銀は贖いの象徴でした。ですから、ここでは贖われた者、つまりクリスチャンのことを言っていると理解してみましょう。クリスチャンになってからも人間は成長することになっていますが、それは信仰が正しく理解され実践されることと関係しています。そして、不純物を除くとは、その信仰生活の中で気づかされる悔い改めが必要な様々な事柄です。この働きも聖霊の助けを得ることができます。重要なことは、神は創世記で人間を創造した時に、神にかたどって造られたのですが、その神のかたちを罪によって失ってしまいました。そして、神の救済計画によって恵みで救われたクリスチャンは、神の手によって再び神のかたちを取り戻すことができるのです。それこそが救いの意味です。そして、それは「細工人は器を作ることができる」と書かれたことの意味そのものです。ですから、クリスチャンは信仰によって悔い改めをして、不純物を除く必要があるということなのです。悔い改めの数だけ、あなたはへりくだり、品性も変えられてきているはずです。自分の力が失われていると感じるかもしれませんが、実は、それこそが神の子の品性を得ている証拠なのです。(佐久間)

 

11月10日(木)

主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても、命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてください。

詩篇30:5、6

 

私たちは信じることができます。主が私たちに慈しみ深いことを信じることができるのです。そして事実、私たちは主の慈しみによって生きているのです。そのことがどれほどありがたいことか忘れてはいけません。そこで、聖書に書かれた通りに私たちは主に賛美の歌をうたうのです。歌が上手かどうかではありません。声の出ない人も賛美できます。この賛美の時は天に近づく特別な経験となります。内住の聖霊が喜んで内側からあふれてくるからです。そして、私たちは自分の神様の聖なる御名を唱えて感謝をささげるのです。あなたの生涯が主と共にある特別なものであることを覚えてください。たとえどんな悪いことが起こってたとしても、涙は必ず喜びの笑顔に変わるのです。主がそうしてくださるからです。主を信じましょう。主を賛美しましょう。主を喜びましょう。主はあなたにとって特別なのです。ハレルヤ!(さくま)

 

11月11日(金)

我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。

ホセア6:3

 

旧約聖書の預言がことごとく御子イエス・キリストの初臨によって成就したように、キリストの再臨は新旧両約聖書の預言のであることから必ず成就することを覚えておきましょう。あなたがクリスチャンであるのなら、今がすでに聖書の預言で言えば終末であることを理解しているはずです。そして、今日の聖句もやはりキリストの来臨を預言しています。秋の雨を先の雨と呼び、春の雨を後の雨と言います。雨が降るように聖霊が降ることを意味しています。つまり、主の御再臨は後の雨、再臨直前に聖霊が降ることを意味しています。そして、私たちにとって重要なことは主を知ることです。そのために主を追い求めるように勧められています。そこで、この聖句から、主は春の雨のように聖霊降下としてまず来てくださることを知っていてください。聖霊降下は主を追い求める人たちの上に起こります。それをリバイバルと呼ぶのですが、その足音が聞こえるぐらい近づいていることも事実です。まずあなたの人生の第一に神様をおきましょう。神様に従順に従う決心をしておきましょう。その報いは必ずありますから、ためらってはいけません。(さくま)

 

11月12日(土)

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。

エフェソ5:1

 

聖書の御言葉を真理と信じているクリスチャンは、今日の御言葉をそのまま受け入れるべきです。あなたが毎日どのように過ごしていても、良いことや悪いことで一喜一憂していても、あなたが忘れてはいけないことがあります。それは、あなたは神に愛されている子供だということです。それは、感じるとか感じないというような次元の話しではありません。はじめに認めた通り、これは真理なのです。それで、聖書の真理を疑わずに信じる人が神によって義人とされるので、「義人は信仰によって生きる」と書いてある通りに、聖書に書かれている御言葉を信じてください。神に愛されている神の子供であれば、神を愛し、神に倣うことも可能なのです。つまり、あなたも愛によって歩むのです。それがどれほど気分の良いものであるか笑顔の中で知ることができるでしょう。難しく考えないでください。自力で頑張るのではなく、聖霊が助けてくださるので、できると信じてみてください。きっと不思議な経験をすることができると思います。(佐久間)

 

11月13日(日)

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

テトス2:11~13

 

クリスチャンの生活はシンプルなのです。今日の聖句にある通りです。ですから、複雑にしないことです。やたら忙しくならないように気をつけましょう。ことごとく、イエス様を意識し、すべてのことに感謝を忘れないことです。人には親切にし、弱い人たちには思いやりを、強い人には赦しを与えましょう。呼吸のように祈り、見えないものも見えるように、聞こえないものも聞こえるように、求めてみましょう。どんな人にも良いところがあるので、見つけては褒めてあげましょう。よく笑いましょう。いつも喜びましょう。(さくま)

 

11月14日(月)

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みをあふれさせてくださいますように。

ローマ15:13

 

あなたが人生を悲観することはありません。それどころか、何があっても喜ぶべきです。なぜならば、あなたは今日の聖句の通りに祈られている人だからです。誰か他の人か、時には聖霊自らが祈ってくださっているのです。だから、祈りは聞かれます。そこで、あなたは感情や気分に振り回されたり、一喜一憂して疲れる必要はありません。あなたの力以上の天の力が働いているのですから、信仰をあらわしてください。そこで、早速練習して見ましょう。今の気分に左右されずに、自分は望みがあふれてくると信じてください。聖霊が自分のために力を持って働いてくださっていると信じるのです。だから、周りの人の影響を受けずに安定して正しく生きていけます。あなたが信仰を使うと喜びがあることを発見できるでしょう。そして、どのような状況の中でも平和が満ちてくることも経験できるのです。力が入らないように、ゆったりとリラックスして聖霊の力が自分に働いていることを信じて、祈ってみましょう。あなたは恵みの中にすでにいるのです。(佐久間)

 

11月15日(火)

愛は死のように強く 熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。大水も愛を消すことはできない 洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと財宝などを差し出す人があれば その人は必ずさげすまれる。

雅歌8:6下、7

 

雅歌の愛は、大人の人間なら理解できるだろう。一旦、愛に呼ばれたら誰も逆らえない。それは、驚くことに燃え盛る炎のようだ。大水も洪水も愛を消すことはできないのだ。それほど愛はコントロールなどできるようなものではない。誰かを愛することは素晴らしいことだ。母が子を愛することも、長女が弟妹を愛することも、恋人を慕って愛することも、これほど圧倒的な力で愛しているのだ。それは、女性だけのものではない。男性の愛は強さに隠れているが、深いものがある。これだけの力だから、常識などが通じるわけがない。親に結婚を反対された若いカップルは、あきらめるどころか逆に炎を燃え立たせるだろう。それなのに、愛を支配しようとする人だって現れる。それは大抵金を積むことでできると思っている。当然、さげすまれることになるのだが。「熱情」とはじめに訳されている言葉は他の訳では「ねたみ」となっている。否定的なニュアンスは無い。「愛」と「ねたみ」はセットなのだ。ところが、新約聖書になると「愛」に種類があることがわかる。そして、キリストは、Ⅰコリント13:4~8に出てくる有名な「愛」を文字どおりに生き抜いて見せたのだ。それは、そのまま、私たちの生き方であり、私たちが新しい命に生きている証しである。雅歌に示された人の愛の姿が、キリストの到来によって、約束の聖霊により神の愛に生きることができるように変えられたのだが、気がついているだろうか。(サクマ)

 

11月16日(水)

あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒よりも多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。

詩篇139:17、18

 

わたしたちは、神様を信じています。初めて信じた時よりもはるかに信じることが大きくなっています。だから、この御言葉がわかるのです。私たちが毎日の生活を生きている時には理解していないかもしれませんが、神様はちゃんと最善を尽くしてくださっているのです。いろいろなことが起こりますが、どれも偶然ではありません。それどころか、あなたのことを良く知っておられる神様があなたのために一番良いことをお考えくださって、計らってくださっているのです。それが、あまりに素晴らしいのでわかると感動します。神様が私たちのために何かをしてくださることはわかると言う人はいますが、その良い働きの数が圧倒的なのです。数え切れないほどだからです。私たちが自分勝手に神様を無視して生きていくことだってできるのですが、その間でも勝手にしろとばかりに無視して放っておくようなことは決してしないのです。あなたは理解していないかもしれませんが、神様はあなたを造られた創造主なのです。だから、あなたを今まで見守って来られたのです。ただ見ていたのではなく、あなたのためになることを与え続けてきてくださったのです。あなたが信仰がなければ、それは全くわからなかったでしょうが、あなたは信仰すら与えられて、だんだん、神様が愛であることを理解してきたのです。しかも、その愛が自分に向かっていることをです。そして、あなたは神様が自分に驚くほど良くしてくださっていることをだんだん理解しているはずです。素直に神様の計らいを認めて感謝しましょう。静まって、今日の御言葉を瞑想してみましょう。(さくま)

 

11月17日(木)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

1ペトロ5:7

 

信仰生活が長くなると信仰も成長し、思い煩うこともなくなるかといえばそうでもありません。神様に何もかもお任せできるかどうか試されるのです。そこで、だんだん経験を積むとこのみ言葉の通りにしていることが最善の道であることが理解できるようになります。そうなると周りからは一見お気楽に生きているように見えるかもしれませんが、心も体も健やかに生きることができます。そして、何よりも力まずに前に進めるようになりますし、大変だと思えば無理せずにじっと待てばいいのです。自分のために楽しみを禁じることもありません。自分の小さな心で考えて行動するだけでは、信仰の道とはいえないのです。神様に自分の人生を任せることが肝心なことなのです。しかも、神様は私たちが気がついていない大切なことをいつでも教えてくださっているのですが、委ねる信仰を持っていないとそのことに気がつけないものなのです。神様がどれほどあなたのために最高の準備をし、天国への道へと導いておられるか理解できるように祈ってください。今日は、早速、自分の思い煩いを神様にお任せすることにしましょう。安心して一日を過ごしましょう。(さくま)

 

11月18日(金)

このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。・・・良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。

ルカ8:11、15

 

私たちは種である神の御言葉を聞きました。幸い、信仰を持ってクリスチャンになることができたのです。ところが、大切なことは、その後のことです。一つ目は、「立派な善い心で御言葉を聞く」ことです。聖書を毎日少しずつでも読むことが大事なことですが、心のことを考慮しなければなりません。「立派な善い心」と聖書に書いてあるからです。それに、心だけに「聞く」と書いてあります。神様から聞くように読むことを考えてみましょう。二つ目は、「よく守り」とあります。聞きっぱなしではいけないのです。だからと言って、聖書に出てくる律法主義者のようになれという意味ではありません。彼らの問題は、「立派な善い心で御言葉を聞く」ことをしなかったのです。読んで、人間的に考えて自分の力で守ろうとしたのです。だから、一つの律法を守るためにいろいろ規則を増やしてしまったのです。もし、神様から聞いていたなら、そうはなりません。何を神様が意図していたかわかるからです。我々は、自力で善い業ができないので、聖霊に助けていただくことを知っています。そこで、へりくだり主に忠実を尽くそうと考えます。力が入らないようにしなければ、聖霊を無視して自分の力で頑張ってしまいますから、結果は失敗します。そこで、主の恵みで生かされていると考え、何があっても喜び、すべてのことを感謝するようにし、絶えず神様に祈るのです。そのような信仰態度は敬虔な信仰者を造るのです。彼らにとって大切なことは、この地上にとどまる限り忍耐して実を結ぶことなのです。(さくま)

 

11月19日(土)

自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。・・・これが自分の力に頼る者の道、自分の口の言葉に満足する者の行く末。陰府に置かれた羊の群れ、死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き、誇りたかったその姿を陰府がむしばむ。しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。

詩篇49:12、14~16

 

今日の聖書箇所はちょっと長くなりました。本当は49篇を全部読んでいただきたかったのですが、とりあえずこれだけにしました。ちょっとシニカルにも聞こえる感じがしますが、クリスチャンがこの世をどう見ているかわかりやすい例となると思いますので、取り上げました。この世で栄華を誇る人たちもいますが、そのような人たちを嫉妬する必要はありません。人間は皆、やがて死んでしまうからです。そう考えれば、何か空しくなりますがクリスチャンには当てはまりません。ただ陰府にくだって滅びるようなことはないからです。クリスチャンなら知識があると思いますが、救いとはキリストによる贖いであると知っているはずです。だから、陰府の手から神が取り上げてくださるのです。そこで、神の救いが完全であることを覚えていてください。信じて疑わないことです。あなたは恵まれた人なのです。(佐久間)

 

11月20日(日)

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

フィリピ4:13

 

クリスチャンは神様のおかげで何でもできるのです。ただし、御心にかなわないことは別ですが・・・。これは、置かれた厳しい境遇や様々なハンディキャップにも負けずに勝利できることをも意味しています。奇跡が現代の教会にあまり見られなくなっていますが、それで消極的に考えることが一般的になってしまっては信仰とは言えなくなります。新しいことにだってチャレンジすることは良いことです。年齢で諦めることはありません。私たちが幸福になることを神様は願っているのですから積極的に考えることができます。ぜひ、今日の聖句を声に出して唱えてください。暗記するぐらい言ってみましょう。そして、素晴らしい人生を生きてください。(さくま)

 

11月21日(月)

イスラエルの聖なる神、あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力を持たせ、あなたを導いて道を行かせる。

イザヤ48:17

 

私たちは時々道に迷うことがあります。どうすればいいのかわからない、決断しなければならないと思っていても迷うばかりでなかなか決断できない、そんなことが起こることがあります。携帯電話で神様に電話できたらすぐどちらが良いか聞けるのに、と思ったりするでしょうか。牧師に聞けば、たいてい祈って答えを得るようにと指導すると思います。ところが祈っても、答えが得られないと嘆く人も多いのです。しかし、祈って答えを聞いたという人も実際にいるのです。また、聖書で答えを求める人もいます。その人にあった方法が示されるのだと思います。では、今日の聖句は何を教えているでしょうか。神様は明らかに、正しい道へ導いてくださると約束しておられるのです。私も何度も道を求めて祈りました。そうやって生きてきたのです。明確に答えを得られない時は、実は、どちらでも良い時です。実は、祈る前から主は正しい道へ進むことができるように教えているのです。それだけでなく、正しい道へ進む力を持たせてくださるのです。間違った道を選択しそうな時には、御声でお答えになるだけでなく、様々な納得できる方法で導きを与えてくださいます。ですから、間違うことがないと確信して、自分のために用意された道を主に導かれて進めばいいのです。何度も何度も祈らなければならないこともあることを覚えていましょう。(さくま)

 

11月22日(火)

水が顔を映すように、心は人を映す。

箴言27:19

 

自分がどのような者であるか、その責任は自分にあります。誰かのせいにしても意味がありません。自分の人生に対する考え方がそのまま自分というものを作り出しているのです。水に顔を映すと自分そのものがありのままに映ります。聖書は、「心は人を映す」と明言します。このことは誰でも心あたりがあると思いますが、実際にはすっかり忘れているか、知らない人のようにふるまっています。そこで、一度点検してみましょう。私たちの心はどのように私を映しているでしょうか。多分、他人のことで考えればよくわかると思いますが、自分のことはどうでしょうか。心はあなたのことをキリストに似たものとして映しているでしょうか。それともどのように映しているのでしょう。心を見れば、そこに今の私が映っているのですね。時々、心を見て自分を点検してみましょう。(佐久間)

 

11月23日(水)

シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きなさかなでいっぱいであった。

ヨハネ21:10

 

これは、イエス・キリストが復活後に弟子たちの前に現れた三度目の時の出来事です。一見153という数字は、意味がないように見えますが、実は大きな意味があります。それは、へブル語やギリシャ語のアルファベットにそれぞれ数字が割り当てられているのですが、それをゲマトリアと言います。つまり、単語のそれぞれのアルファベットを数字に直すことができるのです。それで、153というの数字は、三角数で、数字の中でも特別な数字なのです。例えば、1から17までの数字を順番に足してみると153になります。そもそもペトロたちは、イエスから「人間をとる漁師にしてあげようと」と言われていました。そして、ローマ時代に迫害されていたクリスチャンは、十字架ではなく魚をマークとして使っていました。「魚」(ギリシャ語でイクスース)の各アルファベットが「イエス・キリスト・神の・子・救い主」の頭文字になっていたからです。そして、イエス・キリストを信じた人たちは「神の子たち」と聖書の中で呼ばれています。その「神の子たち」のゲマトリアは153なのです。さらに、ローマ8:17でキリストを信じる者たちを「共同の相続人」と呼んでいます。その「共同の相続人」も153の倍数になります。そして、「網」153×8、「魚」153×8となります。こうしてみると、もう人間業ではありません。神の意図されたものであることがわかると思います。あなたがキリストを信じて、神の子であることはやはり特別なことなのです。(佐久間)

 

11月24日(木)

イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

ヨハネ21:7

 

注解書にもこの部分の解説は特に詳しく書いてあるものは見当たりません。しかし、一人の霊的に優れたクリスチャン女性がここの意味は何かあると気がついたのです。そこで、一緒に考えてみましょう。イエス・キリストが復活した後の出来事です。湖で漁をしている弟子たちが、岸辺にキリストが立っておられるのに気がつくのです。それで、ペトロは湖に飛び込みました。彼女が気がついたのは、今から湖に飛び込むのにわざわざなぜ上着を着たのか?という疑問です。もちろん、主の御前に出ようというのですから、裸では失礼だから上着を着たということは理解できます。しかし、聖書なのでもう少し意味があると思われます。復活されたイエスはキリストであることが明らかです。そのキリストに出会った者は信じて水の洗礼を受けるのです。さらに、黙示録3:17、18に「裸」が出てきます。18節には、「裸の恥をさらさないように、身につける白い衣を買い」と出てきます。ここで出てくる「白い衣」はキリストの義を意味しています。ですから、キリストに出会って信じた人は洗礼を受けますがそれだけではなく、キリストの義を着ることになっているのです。ちなみにヨブ記に「裸で生まれたのだから裸でかしこに帰ろう」というの言葉があります。ここから、洗礼が死と誕生を表していることもペトロの行動に描かれているのだと思います。また、黙示録のラオディキア教会の預言は終末の時代に当てはまるので、私たちは、キリスト抜きでは裸の恥をさらしているのに気がつかない人のようだとこの箇所で指摘されていることに注目するべきなのです。キリストの義の衣を着ているか自己吟味してみる必要がありそうですね。(佐久間)

 

11月25日(金)

こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

コロサイ1:9

 

クリスチャンでない人でも信心を持ち、神社仏閣を詣でています。つまり、クリスチャンになった人たちは、初めは信仰の意味がよくわかっていません。一般の人が知っているほどの信心で始めるわけです。では、学べばいいかと言えば、それだけでは足りないのです。そこで、神様の導きと訓練が始まりますが、欲が残っていることと、自由意志があることと、さらに悪魔の誘惑があるために、とんとん拍子に信仰が成長するというわけでもありません。聖霊が注がれても、私たちは一時は喜んでも、結局目先のことで神様を煩わせることが多いのです。それも、何を食べようか、何を着ようかというようなレベルで思い煩うのです。もちろん、今日のパンが重要であることは間違いありませんが、本来クリスチャンが知るべきことは、「神のみこころに関する真の知識」であり、聖書は、それに満たされるようにと言っているのです。そのために、あなたの牧者は今日のみ言葉のように祈り続けるわけです。つまり、一人で信仰の道を心細く歩むようには、なっていないのです。イエス様が真の牧者となり、別の助け主として聖霊が内住し、御使も教会も牧師もあらゆる助けに囲まれて、天の父の救いは恵みのうちに完全に成就して行くのです。だから、あなたは心配することなどないのです。(さくま)

 

11月26日(土)

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

詩篇46:1

 

私たちが真に強くなれるのは、神を知ったからです。それは、この世の人と違って、頼りにすることのできる確かな神を知っているからです。それも、自分が弱くてもかまわない、立派でなくてもいい、たとえ失敗して苦しむときですら、そこにある助けなのです。多分、多くの人は「神はわれらの避け所」という考えはないでしょうね。クリスチャンの皆さんには絶対と言える避け所があるのです。自分が正しいと思える時だけではありません。たとえ、自分に負い目があって後悔するようなことがあっても、神の元へ行くべきです。そこにしか安心できる場所はありません。たといこの世から逃げ出したくなるような事が起こっても、神に背を向けるようなことは愚かなことです。そのような時こそ、主の元へ急ぎ行きましょう。不思議な力があなたにくだるでしょう。赦し、慰め、励まし、・・・その時に一番ふさわしことを主はあなたのためにしてくださいます。今日のみ言葉を暗記していつでも唱えていましょう。圧倒的な主のお守りがありますように。(佐久間)

 

11月27日(日)

神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 主なる神は女に向かって言われた。「なんということをしたのか。」 女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

創世記3:11~13

 

私たちはだいたい毎日小さな失敗を繰り返します。ところがそのことで責められたくはないのです。病院の待合室に老夫婦がいました。その待合室にはテレビがあって料理番組を見ていた奥様が隣に座っているご主人に「ネギのチジミですって」と話しかけたのです。するとご主人が耳が遠いのか、「えっ!なに」と聞き返しました。実はそれまでに何回も同じようなことがあったのです。その度にトンチンカンな会話になっていました。ところが、この時、ご主人は事もあろうに「お前の発音が悪いからだ」と言ってしまったのです。当然のように奥様は怒り出してしまいました。やっぱり人間ってアダムの子孫なのですね。責任転嫁が起こるのは、自分が悪いと認めたくないからです。認めたら責められるのでそれが嫌なのです。そこで、自分は悪くないと言いたくなり、悪いのはお前だ!となってしまうのです。イエス様は、十字架にかかる前の不当な裁判の時に、ピラトが不思議がるぐらい何もお語りになられませんでした。私なら「私は悪くない、悪いのは祭司やファリサイ派の連中の方だ」ぐらいのことは言ったと思います。ところが、主はそのまま黙って十字架にお架かりになりました。人間の罪の問題を解決する唯一の手段であった十字架に主は黙って架かられたのです。私たちも、天の父が何もかもご存知であるから、全てを神様にゆだねて黙って主の十字架の道をたどって行こうという日もあるのです。「男はつらいよ」という映画がありましたが、「クリスチャンはつらいよ」と言いたくなる日もあるものです。ただ、天の父は全てを見ていてくださるので、最後は報われるのですけどね。(さくま)

 

11月28日(月)

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ヨハネ16:33

 

この世に生きて大変だと思うことはしばしばあるでしょうが、キリストの約束は平安の約束だったのです。たとえ、心配したり、迷ったり、悩んだりしたとしても、不思議と心には平安があるのです。それは、キリストを信じているからだと思います。もし、あなたが患難に遭遇すれば、やはり悩んだり苦しんだりするでしょうが、まもなく祈り始めるでしょう。そして、聖書を読み始めるはずです。主に話しかけ、答えを求めるでしょう。その時に、主は答えてくださるはずです。もし、祈りの習慣が無い人でも、躊躇せずに熱心に祈ればいいのです。やがて心に平安が満ちてくるまで祈るのです。そして、勇気が湧いてくるはずです。主が共におられれば、道は必ず開けると信じます。信仰は人を勇敢にするのです。主は、「すでに世に勝った」とおっしゃいました。ですから、クリスチャンはキリストにあって、この世の出来事では勝利が初めに決まっているのです。だから、全て信仰で解決すると決めておくことです。(佐久間)

 

11月29日(火)

主よ、あなたの御言葉のとおり、あなたの僕に恵みをお計らいください。

詩篇119:65

 

このように祈っても良いのです。聖書が神様のお言葉であると信じているのなら、そこに多くの祝福と恵みの約束を見つけることは容易ですから、その通りに実行してくださいと願っても良いのです。そもそも、天のお父様は、あなたを愛して正しい者としてくださいました。あなたのしたことは、自分の罪を悔い改めて、イエス様を信じたことぐらいです。アダムは、神様のおっしゃった通りにしなかったので、パラダイスを追われることになりました。イエス様はその点、天のお父様に従順でした。それも十字架の死に至るまで従順でした。だからこそ、主は天のパラダイスに帰られたのです。私たちは、そこから学び、神様に従順な者へと生き方を変えたのです。もちろん、私たちの力では無理なので、聖霊のお助けを得ています。そうなると、今日のみ言葉が生きてくるのです。ですから、このように祈りましょう。あなたの人生は主の備えてくださる恵みを一つ一つ見つけて味わうことです。深い感謝の思いが溢れてくるようになるでしょう。(さくま)

 

11月30日(水)

兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。

Ⅰテサロニケ5:14

 

 

今日の聖句は、分かりやすいですね。クリスチャンなら誰もがこの勧告を実践することになります。しかし、自分の感情やその時の気分で人を見ると、うまくいかないかもしれません。特に最後に出てきた「すべての人に対して寛容でありなさい」ということに関しては結構ハードルが高いと感じるかもしれません。しかし、私たちはもっぱら自分の訓練を日々受けているので、時には痛い思いをしながらだんだん変わってきたのです。それは聖書が教えているクリスチャンの真の姿がわかってくるからです。つまり、自分の罪深さを見せられ、砕かれて、キリストの恵みに触れ、聖霊に助けられ、神の愛の尊さに心を熱くし、へりくだることを覚えたのです。そうするといつの間にか寛容が生まれてくるのです。だから、自分はダメだとは言ってはいけません。ダメな人を神様が選ぶはずはないのです。ただ、自分の本当の素晴らしさにまだ気づいていないだけです。信じる力に焦点を当てるのです。信仰はいつでも恵みで応えてくれるものです。聖霊のお導きがあることを信じて良いことが起こると期待していましょう。(佐久間)