4月1日(金)
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
ローマ8:31
クリスチャンもこの世で生きているので、嫌な目にあうこともあるし、不当に敵対してくる人もいるでしょう。言葉や態度で傷つけられることもよくあることです。しかし、聖書は神様があなたの味方であることを教えています。そうなると自分に敵対してきた人たちは、実は神様に敵対しているということになります。神様に勝てる人間はいませんから、初めから勝負はついているのです。ですから自分で戦う必要はないのです。神様がどうなさるか見ていればいいわけです。もっと、呪ったり、恨んだり、仕返しを考えることは自分で戦ってしまっているので、そうなると神様は黙って見ていることになります。そのように理解していても嫌なことや傷つくことは何度も考えてしまうので、しまいには自分で戦ってしまうのです。その結果は最悪であることを経験で知っているでしょう。そこでどうすれば良いかといえば、敵を祝福しないさい、と聖書は教えています。そうすれば神様が戦ってくださるのです。感情に流されずにみ言葉を思い出して祝福するのです。できれば鏡を見て、優しい顔を取り戻してから祝福します。この強い信仰があれば、もっと楽に生きることができます。すべての人に愛されたり理解されたい、という考えは欲張りというものです。わたしたちもかなり個性的なのです。だから、自分の個性を好きだと言ってくれる人がいるかと思えば、嫌いだと言う人もいるわけです。でも、わたしたちは神様の後ろに隠れていることも可能なのです。神様は全ての人を創造されたので、わたしたちよりも上手に相手に接することができます。そうなればもう大丈夫です。急に相手の態度も変わるでしょう。そのような奇跡を味わうためにも、どんな時にも主を信じてください。(さくま)
4月2日(土)
大水も愛を消すことはできない 洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと 財宝などを差し出す人があれば その人は必ずさげすまれる。
雅歌8:7
現代人は愛がわかりづらい世界に住んでいる。人間の本性は愛を求めているが、悪魔は愛を歪めて偽りの愛で幻惑している。主は無条件の愛を与えてくださるのに、人間は誤解している。神は愛なのにそれがとうにわからなくなってしまった。それでも、愛が必要であることに変わりはない。本心に立ち返って本当に大切なものだけを考えてみよう。そこには愛があるはずだ。その愛を信じてみよう。神の独り子イエスは、私たちの救いのために犠牲となった。そこにあるのは真の愛である。その愛が私たちを変えたのだ。だから、聖書時代の人たちが愛を歌う時、私たちは理解できる。現に愛に生かされているのだから。(サクマ)
4月3日(日)
そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。
エレミヤ29:12-14
不思議なもので宗教にも信仰にも全く興味がなかったのに気がつくと神様のおそば近くにいる、といったことが起こります。聖書のみ言葉も右から左へとただ通り抜けていくだけだったのに、意味がわかり、人生の決定的な選択をすら聖書によって決めることになったりするのです。いつどうやって信仰が成長していったのか説明できません。しかし、蒔かれた種がいつしか目を出し、気がつくと美しい花を咲かせ実を結ぶのと同じなのです。このようになれば、今日の聖書箇所は重要になってきます。神様はあなたが呼び求めることを待っておられるのです。それだけではありません。「心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」のです。そうです、信仰者はここまで到達できるのです。主はあなたを待っておられます。(佐久間)
4月4日(月)
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マルコ2:17
今年も3月11日が来て、震災のその後を取材したテレビ番組が多数放映されました。また、わざわざ地方新聞の特集記事や福島で被災した佐藤彰牧師の記事などを親切に送ってくださった方がいました。人間の記憶はどんどん風化し、忘れていくものなのに、この震災のことは特殊で未だなんとも言えない感覚が蘇ってくるのです。福島原発の事故のために閉鎖してしまった原町集会所のことが今でも気になります。それは信者さんたちが未だに自宅に帰れないからかもしれません。イエス様は病人を癒す医者であり、罪に苦しむ人たちを救ってくださる救い主です。弱い者やこの世で理不尽な目にあっている人たちを探し出して神の力で助けてくださるお方です。ですから、なんとかしていただきたいと思ってしまいます。被災者の救済と癒しのために主に祈りたいですね。(さくま)
4月5日(火)
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
Ⅰコリント9:24
一等賞の信仰ということでしょうか。皆様は一等賞をとったことがありますか。残念ながら何人で走っても一等賞は一人だけです。私は子供の頃とても体が弱くて小学校で運動会に出れたのは5年生からでした。その記念すべき徒競走で、先頭を走っていた人が転んだのです。それに巻き込まれてさらに二人転びました。そのおかげで初めて三等賞になれたのです。一等賞ではありません。一体何番目を走っていたのかと呆れますが、三等賞までリボンをくれるのです。それまで自分は運動ができないと諦めていたのに、そのリボンのおかげでやる気になったのです。もともと単純なので努力するのは得意なのです。それで、走る練習をしたりして、6年生の時にはリレーの選手になっていました。そうなると腕の曲げる角度とか早く走るために研究しました。中学生になるとクラスで一番早く走れるようになっていました。パウロは、信仰者は一等賞をとる競技者のようにキリストという道を走りなさいと言っています。適当にとか、いい加減にとか、生ぬるくといった信仰ではダメだというのです。ただ、律法主義者のようになってはいけません。人間的にがんばり過ぎればすぐに挫折します。人間の力に頼ればろくなことになりません。狂信でもありません。そうではなくて徹底的に主を信じて委ね切る生き方を身につけることです。一途に主を求めれば当然良い結果がついてきます。本来、信仰生活はとても楽しいものです。主を信じる者誰もが幸福になれる道なのです。勝利の栄冠を得るまでは走り続けましょう。(さくま)
4月7日(木)
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
箴言3:5
信仰のことを教える時に、結局説明していることは今日の聖句の通りです。問題は、実生活でこのみ言葉を思い出せないということだと思います。牧師になっていったい何年経つのだろうとすぐには数えられないぐらいの年月が過ぎましたが、その間に人々が最も必要としたみ言葉はこの箴言だったと思います。例えば、何か悩みを抱えている人は、「自分の悟りにたよ」っているのです。その証拠に、堂々巡りの考えから抜け出せないで、不安と恐れを交互に繰り返しているだけです。「神様助けてください」と祈るのに、主に依り頼むことができません。それは、「心を尽くして」という部分を理解していないからです。心は悩むことに忙しいのです。つまり、心を尽くして自分のどうしようもない役立たずの考えに頼っているのです。そうすると悩みがさらに悩みを生み出し続けます。これでは夜も眠ることができません。もう一度今日のみ言葉を注意深く読んでみましょう。この短い神様の教えを実践してみましょう。主は頼り甲斐のあるお方です。心配が喜びに変わります。一旦身につけば、信仰の力は飛躍的に伸びるはずです。信仰が主への信頼であることがわかるでしょう。(さくま)
4月8日(金)
信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
ヘブル11:1
信仰とは何かと問えば、真っ先に開く箇所が今日の聖句です。子供時代にどのような体験をしたかということが大人になっても影響を与えることがあります。それが良いことであればいいのですが、悪いこともあるのです。これが大人になってからの経験ならば、大人として理論的に理性で解決できることが多いのですが、子供時代のことは、子供時代のままの心で考えているので、引きずることが多いのです。ところがイエス様と出会って、信仰を与えられた時からそれらはすっかり変わったのです。自分が弱くても、欠点があっても、過去に負い目があったとしても、それらをいっぺんに片付けてくださったのがイエス様なのです。そのために、私たちが何か努力をしたことは一切ありません。それで、半信半疑になるのも仕方ありませんが、それを乗り越える力が信仰なのです。聖書を読めば明らかですが、イエス様に出会って救われた人は大喜びしています。そして、過去の罪も病も全て瞬時に解決し、罪赦され、癒されるのです。すごいと思いませんか。あなたも全く同じようにイエス様に救われたのです。ですから、あなたはその事実を認めて喜ぶべきです。もう、過去に悩まされることはありません。長年の辛い習慣も癖も引きずらなくていいのです。恵みを手放しで味わってください。あなたの権利です。主を目で見ていなくても喜んでいるはずです。この世の人々が「神はいない」と言っても、私たちは目に見えないものを信仰で見ているのです。その信仰で恵みの中に生きていることがわかったので、神様を信じているのです。信仰が私たちを救い、奇跡を可能にしているのです。ですから、悪魔のささやきに耳を貸してはいけません。大胆に主を信じましょう。(さくま)
4月9日(土)
リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐ立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上って歩き出した。
使徒言行録14:8-10
キリストはすべての人を癒しましたが、使徒たちはそうではありませんでした。ちょうど、この箇所のパウロのように、相手に信仰があると認めたときに奇跡的な癒しが起こっています。現代も癒しは起こっていますが、たぶんにこの癒してもらう側の信仰が重要であることを思います。つまり、人は自分の状態を信仰によって変えることができるのですが、例えば、悪魔の言葉を信じて心や体の病気や障害などの状態から解放されないでいる場合があるのです。もっとも、本人は悪魔に囁かれているとは気がついていないでしょうが、否定的な言葉を知っていて信じています。それがいかにも根拠のない無意味な言葉であっても、それを信じていれば、その通りになっているのです。キリストも使徒たちもその状況を神の力で打ち破っています。キリストに至っては、相手の信仰を引き出して強めています。そこで、私たちも聖書に照らして正しいこと、真理を信じるように心がける必要があります。信仰は人を笑顔にします。神様が罪人を義としてくださる恵みを受け取る方法が信仰なので、恵みを味わっているので笑顔なのです。信仰が自立する力となります。(佐久間)
4月10日(日)
この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。
ルカ7:47
皆さんは誰か人から赦された経験がありますか。赦すことは時に難しいことがありますが、赦されることもまた難しいことなのです。親とか先生、あるいは友人や同僚、上司、いろいろな人たちと関わって生きているのですから、赦したり、赦されたりして生きているのです。それでも赦してもらえないことだってあります。それはまたどうしても赦せないということがあるということです。もし、イエス・キリストと出会っていなければ、罪が赦されるということは知らなかったでしょう。そして、多くの罪を赦されたこともわからなかったと思います。同時に、主に対する愛の大きさが主に赦された自分の罪の多さであることもわかります。ですから、自分を責め続けるようなことはやめて、悔い改めた罪は赦されていることを認めることです。それは、自分ではなくイエス・キリストに心を向けることでもあるのです。主を愛することこそ、あなたのすることです。主に罪を赦されたことを認めなければ、主を愛することもしないからです。主を愛することは難しくありません。私たち以上に主が愛していてくださるからです。すべての罪がすでに主によって赦されていることを信じて主に感謝しましょう。恵みと平和がそこにあります。(佐久間)
4月11日(月)
主よ、あなたは情深い神 憐れみに富み、忍耐強く 慈しみとまことに満ちておられる。
詩篇86:15
この詩篇記者は、神様のことを知っています。ですから、このように書けたのです。そして、読者も神様を個人的に知ることができます。本当は、すでに出会いを経験しているのですが、目で見ることに慣れてしまっているので、目で見ない知り方が心もとないものになりやすいのです。ですから、具体的に何かしるしなどが与えられると大きな驚きと喜びがいっぺんにあふれます。たとえ、そのようなことが起こらなかったとしても神様は何も変わりません。あなたへの愛は真実で、まことに情深い神様なのです。このような素晴らしい神様なので、私たちは信頼して勇敢に生きていくことができます。安心して、今日も元気に過ごしてください。主が共にいて助けてくださいますように。(さくま)
4月13日(水)
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。
ルカ12:15
フィリピンに住んでいた時に持っていたものは、非常に少なかった。それでも、アフリカから来た牧師をはじめ、多くの国から来た人たちよりは物を持っていた。ところが、韓国人の牧師たちは、私などとは比べ物にならないほど多くの物を持っていた。彼らはピアノもマイカーも持っていた。実は、フィリピンに入国した時に免税店であらゆる家電製品を買い揃えていたのだ。そうやって安く買って母国に持って帰ることを初めから計画していたのだ。それで、帰国する時には大型のコンテナいっぱいに荷物を入れて帰って行った。貧しい国から来た人たちにとっては、さぞや羨ましいことだったと思う。私は帰国する時には売れるものは売り、ほとんど大抵のものは現地の人たちにあげてきた。だから、ダンボール箱とスーツケースで引っ越しができた。同じキャンパス内に世界中から留学してきた学生たちがいた。持ち物も生活の内容も皆違っていた。日本人はいつでも金持ちと思われ、羨ましがられた。給料は一体いくらもらっているのか、と皆が聞いてきた。そこでは、金持ちの日本人から何かもらうことは当たり前だ、という考え方があった。日本人だというだけで、何か買ってくれとか、お金を恵んでくれとか、雇ってくれとか、とにかく知らない人たちが訪ねてきたものだ。それで人助けと思っていらないものまで買うことになる。それはいいのだが、休みになるとマニラまで出かけてデパートで買い物をするのだ。日本の物価よりかなり安いのでなんでも買える。そこでまたいらないものまで買うのだ。今度は自分のためだ。それで、今日の聖句だ。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」。自分はそれほそ貪欲ではないと思っているのに、どうなんだろう。少なくとも、フィリピンで価値観が大きく変わったと思うが、日本に帰ればすぐに物にあふれた生活に支配されてしまい、貪欲の問題は忘れてしまっているかもしれない。今日のみ言葉からあなたは何を考えるだろうか。(サクマ)
4月14日(木)
苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが あなたの戒めはわたしの楽しみです。あなたの定めは とこしえに正しいのですから わたしに理解させ、命を得させてください。
詩篇119:143,144
私たちの生活に突如ふりかかってくる災いを経験することは誰にとっても大変なことです。避けることができれば避けたいのですが、しかしそれは突如やってくるのです。その時に味わう苦難と苦悩は人間的に見れば最悪ですが、信仰者は神様を信頼しているのでそのような逆境の中にあっても、その試練を神の戒めとして受け入れようとします。もちろん、すぐにそうできる人は稀ですが。ある程度の時間をかけてこの詩篇記者の言葉と同じ信仰に届くのです。なぜなら、神様はそうなるように導いておられるからです。ところが、ここで、信仰が試みられているために自分の信仰の欠陥があらわになることもあるのです。「あなたの定めは、とこしえに正しい」と思えるかどうかです。自分の思いが神様よりも優先されるなら、ただ苦難に遭って苦しんだだけで結局何も得るところがなかった、ということになりかねません。そこで、試練に遭っている人は、今日のみ言葉をご自分の祈りとすることをお勧めいたします。神様があなたのために立てた計画は、最善であるのです。ですから、試練の苦しさや目先の困難にばかり目を注がないことです。祈りで解決すると決めてかからなければなりません。自分の力では解決できないのですから、主に助けを求めることは正しいのですが、困難から逃れることだけではなくて、主の本来の目的を悟ることができるように、そして主の御心が自分のために実現するようにと祈るのです。それが、今日の聖句によく表れています。(さくま)
4月15日(金)
あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
フィリピ4:5
クリスチャンが心がけていることの一つに、「広い心」を持つことがあります。私たちは人間の罪を知っています。もちろん、主の贖いについても理解しています。さらに、すべての者を裁くことのできる主を恐れたのですが、イエス様を知ると罪人への接し方が全く違っていました。罪を憎んで人は憎まずという姿を聖書から確認することができます。主ご自身のお言葉の通り、罪人を探しに来てくださったのです。ですから、私たちのことを探し当てたわけです。その時は、何も知らずに罪人の生き方に浸かっていたのですが、それでひどい罰を受けたり、怒られたりしたことはありませんでした。それどころか、本心に立ち返ることができるように、つまり自分の罪に目が開かれて罪の重さに気がつくように導いてくださいました。それで、自分の罪におののき救いを求めたのです。その救いは、イエス様が私たちを救うために自ら罪の罰を身代わりに受けて十字架に架かって死なれることでした。私たちがあまりにも弱くて、ただイエス様を信じることしかできなかったのです。主は、それで良いと、ただイエス様を信じるだけで救ってくださったのです。そのことがあるので、私たちは恵みで救われたと言っています。そこで、人に対しても以前の様に小さなことで裁くことができなくなりました。赦すことを教えられましたから、時には難しくて簡単には赦せないことがあっても、イエス様に赦せるようにと祈るようになったのです。そのようにして、だんだん心が広がっていったのです。偉人や聖人のようにはいきませんが、自分の心の葛藤がイエス様への祈りの中で解消していくのです。自分が取るに足りない者であると素直に思えるようになると、その土くれに過ぎない者のために尊い命を犠牲にして愛を貫いてくださったイエス様にお仕えしたくなるのです。それがあるので、心が広げられたのです。ですから、主がいらっしゃらなければできないことですが、今は主が共にいてくださって、皆様は広い心を持つことができているのです。その広い心をすべての人に知られるようにしようではありませんか。(さくま)
4月16日(土)
イスラエルの聖なる神 あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神 わたしはあなたを教えて力をもたせ あなたを導いて道を行かせる。わたしの戒めに耳を傾けるなら あなたの平和は大河のように 恵みは海の波のようになる。
イザヤ48:17ー18
あなたの神が誰であるかを知ることは全ての始まりです。誰があなたを贖うことができるでしょうか。イスラエルの聖なる神だけです。この方があなたを救ってくださったのです。それで、私たちはこの神を主と呼び、お仕えしているのです。この世の偶像の神は何もできませんが、私たちの主は、御自ら私たちの神となられました。そして、私たちを教えて力を持たせくださるのです。そればかりか、あなたを導いて行くべき道を行かせるのです。つまり、人生の行き先が死ではなく永遠の御国へと導いて行かれるのです。クリスチャンの生きる秘訣は主の戒めに耳を傾けることです。それがもたらす恩恵は想像を絶するものなのです。なぜなら私たちの主こそが天地万物の創造主だからです。この世界の仕組みも秘密も主だけがご存知です。それだから、あなたはこの世の考えに従ってはいけません。主を慕うなら、主はいつでもあなたと共にいてくださるのです。海の波が繰り返しいつまでも押し寄せてくるように、恵みもあなたの元へ繰り返しいつまでも押し寄せてくるでしょう。これほど確実な人生はありません。主を信じて平和の内を歩みなさい。(佐久間)
4月17日(日)
わたしは主、あなたの神 海をかきたて、波を騒がせるもの その御名は万軍の主。
私たちの主は、すごい神様です。それなのにどうして小さな神様にしてしまうのでしょうか。あなたの悩みを解決できるのはこの神様なのです。思い煩ってクヨクヨするのは最悪の選択です。悪魔が心配するようにそそのかしても、私たちの主がどれほどすごいか思い出して追い出してしまいましょう。この世に主はすでに勝利しました。もちろん、悪魔にも勝利したのです。ですから、誰を恐れるのですか。私たちの主は人間に侮られるようなお方ではありません。愛に溢れ、慈しみ深い最高の神様なのです。あなたのことを何でも知っています。お財布の中もいくらあるか知っているのです。それで、あなたが恥をかいたり、惨めに感じないように、お金だって入れてくださる神様なのです。健康のことだってちゃんと知っています。でも、私たちは自由に生きているので長年の積み重ねで今の健康状態になりました。それでも、主は憐れむことができるのです。ですから、希望がいつでもあります。主は良い神様ですから私たちの益になることしかできません。それで、聖書を与えて健康に豊かに幸せに暮らせる方法を教えています。私たちは強制はされていませんが、主の教えに従いたいのです。そして、主のお役に立ちたいのです。今、何か困っている人も悩んでいる人も、奮い立ってください。意気消沈している場合ではないのです。あなたの信じる神様は海をかきたて、波を騒がせるものすごいお方です。その名は万軍の主です。その主があなたを助けるのですから、一体何を心配する必要があるでしょうか。それよりも霊的戦いに勝利するために、勇ましく自分を鼓舞して主の戦列に加わりましょう。主の御力をあなたの目でしっかり見ていてください。万軍の主があなたの神様なのですから戦いは勝利に決まっているのです。ですから、安心してください。(さくま)
4月18日(月)
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
イザヤ53:6
羊を飼ったことがないので、勝手にさまよって何処かへ行ってしまうものかどうか、よくわかりません。牧場の羊ショーでは、もっぱら牧羊犬の素晴らしさばかりが目立ち、羊はその引き立て役のように見えます。つまり、臆病で自分勝手で群れたがるが、牧羊犬がいなくなれば、一匹で何処かへさまよい出てしまう。自分が勝手なことをして迷惑をかけている自覚はない。こう言うといいところが全くないように見えますが、実はとても可愛いいのです。特に羊は羊飼いが大好きです。羊飼いに従順な時はとても幸せです。しかし、また悪い癖が出てフラフラと出て行くと、迷子になったり、危険な目にあったりと、とんでもないことになるのが常で、結局羊飼いに助けてもらうことになります。罪人は、この羊に似ているというのです。羊飼いはイエス様です。イエス様に従順であれば安心です。牧羊犬は牧師でしょうか。羊飼いの命令を受けて羊を集めたり、柵に追い込んだりと忠実に働きます。でも羊飼いがいなければ働けません。羊飼いであるイエス様は愛情豊かで、先の先まで読んで、羊であるクリスチャンの安全から生活のことまで、信仰生活に必要なすべてを備えてくださいます。ですから、イエス様について行きましょう。今日も、イエス様が導いてくださいます。(佐久間)
4月19日(火)
なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない。神は一つのことによって語られ また、二つのことによって語られるが人はそれに気がつかない。
ヨブ33:13-14
クリスチャンは神様についてどれほど敏感だろうか。知らない間に神様と争っているかもしれない。自我が強いと自分にこだわってしまって、私は正しいのに神様が私を苦しめている、と言いかねないのだ。すべてのことに原因と結果があるのに、うまくいかないと全て神様のせいにしてしまいかねない。神様は自分にとっては都合のいいものであって、人生がうまくいかない時の責任転嫁をするかっこうの存在となる。ヨブのことを友達はそう考えていた。しかし、ヨブはそれとは違っていた。財産も子供たちですら失った時に、神様を責めていない。「『私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ』この様な時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。」(2:21、22)。信仰者でもヨブの友人の様な人もいれば、ヨブのような人もいた。しかし、いずれもまだ足りなかったかのだ。ヨブは神様に対して自分で義となろうとしていた。しかし、神様の御前では人間の義など全く神様の要求を満たせなかったのだ。ただ神様が義としてくださらなければ、誰も義とはなれないのだ。そのことが理解できたら、神様との関係ができてくるのだ。(サクマ)
4月20日(水)
ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。・・・」
使徒言行録9:3-5
これは、後にパウロとして知られるサウロの回心の場面である。キリスト教の信仰を考える時に、大切なことは、教会組織や教団、教派ではなく、教理でも神学でもない。カトリックかプロテスタントなのかといったことでもない。重要なことは、神に召されたか、ということだ。つまり召命の問題なのだ。人間が何かの形で神と出会うことが起こる。サウロほど劇的な出会いは滅多にないだろうが、神と出会うということは事実なのだ。それは、聖書のどの聖徒にもあることだし、現代でも起こるのでおびただしい証人がいることになる。その一人があなたというわけだ。さらに召命を受けたということは、あなたに使命があるということでもある。それがわからないままにしていると信仰が弱っていく傾向がある。もし、明確に使命を理解していないのなら、祈って聞いてみることだ。そして、神の啓示を敏感に捉えることが肝心だ。すでに、神の導きの中に生きているのだから、実際には使命をすでに始めているかその準備をしているのに、気がついていないだけということもある。いずれにしろ、この神の使命があなたの人生を意味あるものにするのは間違いない。ただ、仕事をし家事をし勉強をしているだけではない。忙しいから何もできないということもない。普通の人とは違うから、と消極的に考えること必要もない。主はあなたを選んだのだから、そこには素晴らしい計画があるはずだ。あなたは神の愛の深さに気がつくだろう。そして決して後悔しない人生を生きることになるのだ。(サクマ)
4月21日(木)
主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります。押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
エレミヤ20:9
エレミヤは預言者でした。預言者なので主の言葉を語らなければなりません。そこで神様のメッセージを語ると、その言葉を聞いた人々から笑い者にされ、あざけられてしまいました。恥ずかしいし惨めだったので、もう二度と語りたくないと黙っていようとするのですが、神の言葉は力があって燃え上がるのです。神様の言葉を語ればひどい目にあうので語りたくないのに、心の中で神様の言葉が燃え上がるのです。預言者の苦しみがわかりますね。さて、私たちはどうなのでしょう。クリスチャンなら誰でも聖書を持っています。持っているだけでなく読んでいるはずです。読んでも、黙っていて人に話さないでいると、聖書の言葉の意味がなかなか深く理解できません。そうなるとそのうち読みたくなくなるのです。そこで、祈って読んでみると意味が深く理解させられることがあります。そうすると、黙っていられません。誰かに教えたくなるし、感動を誰かと分かち合いたくなります。もっと良いのは人に聖書を教えることです。キリストに導き、伝道できれば喜びが大きいのです。ただ、それぞれの霊の賜物が異なっていますから、それに応じて働くことが一番理想です。それでも、神様から語るようにと命じられたら、笑い者になっても語るしかありません。ただ、エレミヤのようにひどいことにはならないでしょう。彼は特別でした。皆さんは恵みの中で、神様に忠実であればいいのです。そして、くれぐれも神の言葉の力を侮らないことです。聖書はあなたの人生に奇跡を起こす力であることを覚えていましょう。(さくま)
4月22日(金)
弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。
箴言19:17
熊本で大震災が起こり、連日テレビでその後の様子が報道されている。5年前の東日本大震災のことを思い出す。当時の経験を生かして仙台からも支援者やボランティアが現地に入っていることを聞いた。ありがたいと思った。各地から送られる大量の物資を被災者に届けることは意外と難しい。無駄なく、善意を必要な人に迅速に配るには経験のある専門家が必要となる。仙台で物資の責任者だった課長が現在は部長になり、部署も変わったのに今回熊本に乗り込んだ。一番頼りになる人が助けに行ったのだ。私も仙台で色々な人達が心配して助けの手をのべてくださったことを覚えている。神様ならなおさらそのことを見ておられたはずだ。そして、今日の聖句のように、「弱者を憐れむ人は主に貸す人。行いは必ず報いられる」。助けられた人が今度は助けようとしている。(サクマ)
4月23日(土)
乳を飲んでいる者はだれでも、幼な子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によて訓練された、一人前の大人のためのものです。
ヘブライ5:13、14
信仰者にも幼な子と大人がいると聖書は語ります。しかも肉体は放っておいても時間の経過で大きく成長できますが、霊的成熟は時間の経過だけでは達成できません。もっぱら神様の訓練によるのです。それは時に試練と感じるかもしれません。真面目に頑張れば良いというものでもありません。神様のなさる御業は人間には理解できないことがしばしばあるのです。その時に、神様に文句を言う人と神様を信頼してゆだねることができる人に分かれます。神様が人間を正しくする、という意味が理解されていないと、信じることの大切さをすぐに忘れてしまいます。それは、自分で正しくなろうと頑張ることに現れてきます。しかし、すぐに挫折するので、自分を責めるか神様を責めます。つまり、神様は間違わないから、善悪を見分けることができていないのです。自分が正しいと思ったやり方は間違っていて、正反対のことが正しいことだってあるのです。そうしたことをクリスチャンはいろいろ経験して、だんだんわかっていくのです。しかし、途中で諦めてしまう人や、いつまでも神様に降参して、全面的に降伏しないなら、いつまでも乳を飲み続けることになります。義人は信仰で生きるのです。(さくま)
4月24日(日)
あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
詩篇139:14
神様はあなたを探し出し、救ってくださいました。どうしてなのかは天国で神様に聞いてください。それで、あなたもイエス様を信じました。そこが素晴らしいのです。そして、十字架の意味も何もかも聞いて信じました。ただ、注意していただきたいのは、神様がなさっておられるのは、あなたを義とすることです。神の義を与えることに全力を傾注しているのです。そこで、あなたの罪を贖い、汚れを清め、聖霊を送ってくださったのです。それは、あなたに神様が奇跡を起こして、神の子にするためです。天国の住人になるには、この地上の古いままのあなたでは残念ながらダメです。新しく作り変える必要があるのです。人間の努力では到底追いつけない程の聖なる者に変えなければならいからです。そこで、神様があなたに働くことができるように協力しなければなりません。それは、信じるということです。あなたにしかできません。初めから終わりまで信仰なのです。だから、一回だけ信じればいいということではありません。聖書に書いてある通りに信じるのです。自分で勝手に解釈したり、自分の考えに固執してはいけません。そのようなことは、自分の義でしかありません。それよりも聖霊のお働きを喜び、感謝しましょう。主への信頼を言い表す事も良いことです。神様はあなたに驚くようなことをことをなさっているのです。どうか、信仰を表してください。(さくま)
4月25日(月)
あなたを知る人の上に 慈しみが常にあるように。心のまっすぐな人の上に 恵みの御業が常にありますように。
詩篇36:11
私たちは願う、神様を信じている人の人生が常に主の慈しみに溢れているように。神様を見つめて心が目移りしない人にこそ主が恵みを注ぎ、主の不思議な御業が常にあるようにと。聖書は、明らかに神様の祝福が信じる者すべてに与えられると教えています。しかし、人間は自分の考えや思いにとらわれてしまい、なかなか神様の御心がなるようにとは求めません。神様を信頼して任せていれば、たとえひどいことが起こっても讃美できるのに。そうすれば、神様がお考えになった通りに素晴らしい結果を得ることができます。せっかく神様がご自分を信頼して御手につかまるようにと伸ばされた御手も、自分の思いにとらわれて堂々巡りをしていると見えなくなってしまうのです。信仰はいさぎよさが肝心です。主に降参してしまうのです。主の慈しみは変わることなく尽きません。信仰者には素晴らしい約束があることを覚え、一日を元気に始めましょう。(さくま)
4月26日(火)
何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。
コヘレト9:10
人間はいつかは確実に死ぬことになっている。誰も例外はない。死んだらもうおしまいなのだ。それなら、後悔しないように残りの人生を生きるべきだ。やり遂げたい目的があればそれを達成するために必要な力が出てくるが、ただ毎日を生きているだけだと衰えてくる。頭でも体でも使わなければ必要がないとみなして衰えてしまうのだ。そこで、聖書は一度手をつけたことは何でも熱心に取り組むように勧めている。人生を精一杯生きた人は命を終えるときに、悔いはないものだ。神様が造られた人間は、潜在的な能力がとても大きい。その潜在的な能力は人間が何かやりたいと思ったときに、それを実現することができるように必要に応じて出てくるようになっている。何かの競争で順位をつければ、何番ということになるが、それはスポーツなどの競技者には重要なことなのかもしれないが、一般的に順位はそれほどの意味があるわけではない。それよりも重要なことは夢を叶えるということだろう。人から見れば小さな夢と笑われるかもしれないようなものでも、本人がどうしても叶えたい夢だと思えば、それはかなり重要なことになる。そして、そのような夢を叶える能力を、たとえ潜在的であっても、神様はすでに与えているはずだ。そして、能力以外にも必要なことはいくらでもあるが、夢を達成するために必要なそれらを神様は知っておられるので、その人にふさわしい助けをされるのだ。しかし、それも信仰を必要とする。神様の力を必要とするときには必ず神様が働けるように私たちが神様に信頼している意思表明が必要となるのだ。それを信仰と呼んでいる。それだけだ。だから、夢は叶うと言える。やりたいと思ったことは、途中で投げ出したり、諦めずに、最後までやり遂げよう。御心であれば、それは叶うから、心をときめかせて熱心にやってみよう。(さくま)
4月27日(水)
シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
ルカ5:4-6
この話は、神と戦わない人の結果を教えている。創世記のヤコブは神と相撲を取った人として描かれていた。決して神に降参せずに戦い続ける人の姿を現していた。一方、今日のシモンは、プロの漁師だった。透明度の高いガリラヤ湖では、昼ではなく夜に漁をすることが常識だった。この時のシモンは、一晩中漁をしても何もとれなかったので明るくなってから網を降ろしても無駄だと思っていたはずだ。だから、イエスにそのことを言ったのだが、違っていたのは、「無駄だ」とは言わずに、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と従順にイエスの言葉に従ったことだ。するとどうだろう、常識ではありえないことが起こった。漁師がありえないと思うほどの大漁となったのだ。このように、イエスを信じるということができる人が神の奇跡を目にすることとなる。イエスを信じる、というのは自分の考えに固執しないで、バカバカしいと思わずに行動に表すことだ。もし、シモンが、自分の方が漁師でよく知っているから、「網を降ろさない」と言っていたら、はたしてシモンは使徒となれただろうか。そして、本当の奇跡はその後に起こった。イエスは、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とシモンに言われた。そして、驚くことにシモンはすべてを捨ててイエスに従った。自分の人生に主の奇跡が起こることを願う人は多いが、奇跡は信仰によって起こる。自分の考えを主に押し付けるのではなく、主に降参して従順に従うことが、その後の人生を大いなる祝福に変えることになるのだ。(サクマ)
4月28日(木)
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
Ⅰペトロ4:12
私が牧師になった年に火のような試練が与えられました。牧師としてやっていけるように神様が与えてくださったのです。しかし、試練ですから苦しいものでした。人生最大のピンチだったのです。その時に、一人の姉妹が手紙を下さいました。そこに今日のみ言葉が書いてありました。これは明らかに神様が私のために送ってくださったみ言葉でした。神様の支配に委ねた時から、神様は私たちのためになるようにと無駄なく働かれるのです。モーセのような最高の信仰者ですら、大きな試練に遭いました。聖書に出てきた偉大な信仰の人たちは例外なく皆「火のような試練」に遭いました。ですから、あなたが試練と思っている時には、これは神様の恵みであると信じましょう。恐れや不安に負けないで、言葉にも出して主を讃美するのです。この試みは、主の御再臨の時に、あなたに「賞賛と光栄と誉れとをもたらすもの」となるのです。ですから、なぜ私にこのような試練が来るのかと嘆かずに、これで私も精錬された金よりも素晴らしくなれると信仰を表明しましょう。事実その通りなのですから。(さくま)
4月29日(金)
つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれたものとなさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちを全ていやされたのですが、それは、神がご一緒だったからです。
使徒言行録10:38
この記事は注目に値します。というのも、これはペトロの証言ですが、イエスが悪霊を追い出し、病を癒していたのは神がご一緒だったからだ、と説明しています。イエスについては昔からいろいろと議論がなされてきました。つまり、「イエスは人であったが神ではない」とか、逆に「イエスは神であった」と。しかし、聖書の説明を調べてみれば明らかですが、イエスは神の独り子であったのですから当然神であったのです。それが、罪人を救うためにその神の独り子の身分を捨てて、人間となり、私たちと同じになられたのです(フィリピ2:6-8参照)。そして、福音書に書かれた通りに全ての病を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせたのです。ペトロはそれは「神がご一緒だったから」と説明しているのです。イエスが私たちの模範であることは間違いありませんから、私たちはイエスにならって、そのお働きの一部を引き継いで果たさなければなりません。それは、自分にぴったりの使命です。信仰を持っていれば、自然と導かれ、訓練されて、その仕事を奇跡的に行っていくのです。仕事を持っていようが、家庭の主婦であろうが、障害があろうが、そのようなことは問題ではありません。必要な時には病気で入院しているかもしれません。とにかく人間的な努力を超越したこと(奇跡)が主のために起これば、それはイエスが共にいたということです。ですから高慢になることもなく、感謝されても、それはイエスのものですと思えるわけです。クリスチャンは結構ワクワクするような素晴らしい人生を歩めるのです。(佐久間)
4月30日(土)
あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
Ⅱコリント3:3
あなたはキリストの手紙なのです。不思議な方法で使徒や牧師などの聖職者を用いて主があなたの心に書いたのです。キリストに救われてから月日が流れ、救われる前の罪人だった自分のことがだんだんわからなくなってくるでしょう。神の知識がだんだん増し、キリストに似た者と変えられて行くからです。新しくされるのです。心にみ言葉が書きつけられています。聖霊の不思議なお働きで心の板に書き加えられていくのです。手紙であるからには、受け取る人がいて、読むことになります。それはすでに始まっているでしょう。あなたがそばにいるだけで誰かがその手紙を読んでいるのです。それで話しかけてくる人もいれば、黙って読んでいる人もいるのです。知られていないようで知られているのです。全ては主のお導きの中で起こることなので負担になることはありません。それよりも嬉しいことなのです。誰かがあなたという手紙を読むからです。そして、それは主の手紙なのですから、不思議なことが起こるのです。ワクワクしてきますね。(佐久間)