6月1日(水)
さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。
使徒言行録17:30
これは、パウロのアテネでの説教です。使徒の言葉はわかりやすいです。大切なポイントが整理されています。まず、この世界が真の神を見分けていないのは無理な時代だからだ、と言っています。神の知識も人間が陥っている罪の知識も何もわかっていないのです。それなのに全てわかったいるような気になっています。不思議ですよね。神はそのような人間を大目に見てくださっているのですね。しかし、神の独り子イエス・キリストがこの地上に人としてこられたことから事態が変わりました。福音書に書かれた通りにイエスは歴史上イスラエルに現れ、十字架で死に、三日目に墓より復活し、弟子たちの眼の前で天に昇って行かれたのです。人間の救済の歴史で最も大きな出来事です。ここから全てが変わりました。人間の罪の問題をイエスが解決されたからです。私たちにできないことをただイエスを信じるだけで可能にしたのです。つまり、イエスを信じるだけで救われるということです。そして、これ以降全ての人が悔い改めるように命じられているのです。それは、いよいよイエス・キリストによってこの世を裁く日が決まったからです。つまり、この人間の歴史は終わるということです。それも遠い未来というわけではありません。少なくとも、悔い改めることのできるのは生きている間だけですから、死ぬ前に悔い改める必要があります。何を悔い改めるかわからない方は、神に祈ってみると教えていただけます。自分の本当の罪が神によって示されるからです。その時に、イエスが救い主であることがどんなにありがたいことかわかるでしょう。イエス・キリストの恵みが今日もあなたの上にありますように。(佐久間)
6月2日(木)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
コロサイ1:13
この世界でたくさんの人間が生まれて生きています。価値観や文化の違い、あるいは個性や性質の違いはありますが、それが直接人間の問題になるわけではありません。実は、そもそもの問題はこの世には闇の力が働いているという事実です。力というのは、私たちの行動や思考に影響を与えることができるということです。闇というのは悪と同義語です。聖書によれば、この世界の初めに人間は神に罪を犯したとあります。そこから神と人間の間に断絶が生じていたのです。まるで遺伝罪のように今日まで罪の問題は人間を悩ませ続けています。そして、罪を犯した人間に闇の世の主権者である悪魔は自らを神として支配してきたのです。そのために、人間はずいぶん苦しめられてきました。良い心があったとしても簡単に踏みにじられ、心が傷つき、自分に自信が持てなくなるのです。そして、悪いことはすべて人のせいにして責任転嫁を繰り返します。自分中心に物事を考えるのでストレスが増えるばかりです。なんとかしようと頑張ってみても、闇の力から逃れることができないのです。だから、自分の心から醜いものや汚れたものが出てくることも珍しくありません。このような人間が惨めであることは当然です。そこで、神はこの闇の力から救い出してくださったのです。それだけでなく、イエス・キリストの支配下に移してくださいました。ここが重要な点です。罪や悪魔から救われたとクリスチャンは知っていますが、御子イエスの支配下にあることを正しく理解していないことがあるのです。そのために、いたずらに自力で頑張って失敗している場合があります。イエスの支配下にあるということは、恵みと愛の世界に生きていることと同じです。それを信じることです。目に見えている世界に惑わされないことです。神は救ってあとは自力で頑張れと放り出すようなことはしません。ちゃんと最後まで心配のないようにイエス・キリストの支配の下に置いてくださっているのです。ですから、私たちは思い煩うことなく笑顔で生きていけるのです。(佐久間)
6月3日(金)
わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。
Ⅰテモテ3:13
はじめのキリスト教会は、今のように立派な会堂も無く、組織としても緩やかなものでした。使徒によって福音が述べられ、ユダヤ人だけでなく異邦人も次々にイエス・キリストを信じて救われていったのです。そして、現地の信者の中から長老や執事が選ばれていくことになります。長老は今日の牧師の働きをしていました。そこで、アメリカなどでは牧師と呼ばれるよりも長老と呼ばれることを誇りとするところがあります。今日の聖書箇所も、使徒が教会を作り、次の伝道地へ行く時に現地の信者の中から奉仕者を選びその人に教会での奉仕を任せていったことがわかります。彼は聖書の朗読と勧めと教えをするように命じられています。「専念」と言っていますから、もっぱらこれらのことをすればよかったのです。そして、今日も同じです。日本のような伝道地では福音がまだまだ伝わっていません。そこで、クリスチャンは神の国の大使のように自分の任地を任せられていることを覚えることです。そこで、することは自分に与えられた賜物を活用して、神の国を広めることです。誰かが救いを求めて魂の叫び声を上げているのですが神はその声を聞いて、あなたを使者として使わすのです。この世の人と自分が同じだと思っていると気がつきませんが、神の側から見てみるとその使命に気がつくのではないでしょうか。自分がいかに通り良き管となってキリストの愛と恵みを流すことができるか信仰のチャレンジがあります。自分が救われたように、今度は誰かが自分のように主の恵みによって救われるのです。その方法があまりにも簡単なので、驚くかもしれませんが今日のみ言葉を実行するだけです。何が起こるか楽しみですね。(佐久間)
6月4日(土)
誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれていくようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の努めを果たしなさい。
Ⅱテモテ4:3
A姉妹から電話をいただきました。それは、だいぶ時間をさかのぼりますが、ある地方の教会で牧師が変わった時から問題が起こりました。前任者の牧師が霊的で聖霊のことを知っていたのですが、後任の牧師は聖霊のことをあまり知らなかったのです。そのために、人間の力で頑張ったのですが、結果は当然悪くなり、信徒がどんどん離れ、A姉妹も奮闘したのですが疲れ果ててしまいました。その間、A姉妹の祈りのリクエストを聞いて私も教会の人たちも祈ったのです。それから、ずいぶん長い時間が経ち、遂に神様がその牧師に触れてくださったのです。そこで、何があったのかはわかりませんがその牧師が見違えるように変わって、霊的にも優れた説教をするようになり、教会の雰囲気が良くなり、姉妹は神様に感謝する日を迎えたわけです。その喜びを電話で伝えてくれました。日本にも教会はたくさんあります。牧師や宣教師に伝道師など聖職者も決して少なくありません。しかし、キリスト教の強勢は他の伝統宗教や新興宗教と同じように衰えています。カルトだけが強勢を広げているようですが、宗教離れがここまで進むと、誰にとっても耳障りの良いことを語る宗教者が増える危険があるのです。聖書の預言であれば避けることができませんが、私たちは真理だけを語る者であり続けたいのです。そのために、ひどい目に遭うこともありますが、聖書に忠実であれば苦しみを耐え忍び、自分の努めを果たしたいのです。それはイエス様の命に服したいと言う情熱です。私たちは自分がどの程度の者か知っていますが、決して誇れるほどの者ではありません。それでも、つたない言葉で福音を伝えないではいられないのです。聖書の真理を掲げて人々に伝えたいのです。そんなことできないと尻込みするなら、きっと後悔します。私たちは信仰の力をもっと知るべきです。私たちの内には聖霊が住んでいるのです。主の奇跡はそこにあります。あなたを通して聖霊は誰かに語ります。信仰を発揮してください。(さくま)
6月5日(日)
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
Ⅰペトロ5:7
生きていれば悩みの一つや二つ起こってくるものです。自分の力では何ともしようがないのに、何とかしなければならない時も困ってしまいます。ところが、聖書の教えは「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」とあります。そこで、このみ言葉の通りにしてみようとする人とこのみ言葉とは正反対のことを選ぶ人がいるのです。当然、後者の人は思い煩いを始めざるをえなくなります。ところが前者の人はどうでしょう。神様がちゃんと万事を益に変えてくださることを体験することになります。信仰の世界は、一般常識が全く通用しません。一旦神にお任せすると、そこからはあなたの心配を取り除くために主がちゃんと働いてくださいます。それが度重なると、神への信頼は揺るぎないものになります。そのために、神を信じることが当たり前になり、精神状態はいつでも良い状態を保つようになります。奇跡も体験するようになります。そして、自分のことを神が心にかけていてくださることのありがたさを実感するのです。それでは、早速今日のみ言葉を実践してみましょう。(佐久間)
6月6日(月)
そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。・・・」
ルカ10:21
「イエスは聖霊によって喜びにあふれて」とあるのは、どのようなことかと聞かれました。21節は、よく考えなければならない箇所です。というのは、クリスチャンなら誰もが体験的に知らなければならないことが実際に知られていない問題です。そもそもは聖霊のことを語ることさえ禁じる教会や牧師がいると昨日も聞かされて唖然としました。聖書に忠実なはずの教会で、なぜそのようなことが起こるのか理解できませんが、実際聖霊が不当に偏見にさらされていることも事実なのです。そこで、聖霊による喜びがあることをまず覚え、そのことを体験することを祈り求めることは正しいことです。よく聖霊に満たされるという言い方がありますが、まさにそのような体験はクリスチャンの特権なのです。では、なぜこのように重要な聖霊体験をすること自体否定されてしまう傾向が強いのか考えてみましょう。一つはキリスト教が難しいものになってきたことが考えられます。人間的な賢い知識が追い求められると、神学や聖書学という学問に進んでしまい、キリストを知ることと離れてしまうのです。キリストの神学的知識が詳しくなっても、キリストを知ることとは違うわけです。聖書の通りに信じることが基本ですが、キリストは天に帰り、父に約束の聖霊を送るように頼むと約束しています。しかも、「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)と同じ文脈で語られました。ですから、聖霊がキリストを信じて救われた人のもとへ送られて来るときに三位一体の神が信仰者のもとへ来て、その人の内側に住むわけです。そうであれば、使徒言行録に書かれたような奇跡が現代でも起こることは不思議ではありません。ただ、キリストが聖霊に満たされてお語りになった通りに、「幼子のような者」にしか、聖霊の現れは起こらないことになります。ですから、やはり信仰が重要な鍵を握っているのです。聖書の知識がたくさんあるから良いというようなことではありません。単純に聖書のみ言葉がそのまま心に溜まっていくような人、アブラハムのように人間の理屈を無視して神の言葉をそのまま信じることのできる人、キリストを信仰によって知っている人、「イエス様」と慕って一緒について行く人、主に愛されていると喜び、感謝の気持ちが湧いてくる人、つまり幼子のようにイエスを見ている人を目指してください。そうすれば聖霊に満たされて喜ぶことができます。(佐久間)
6月7日(火)
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。
Ⅱコリント9:8
自信を持って生きることができれば、どんなに楽しいでしょうか。しかし、子供の時から今に至るまでに、その自信をへし折られ、傷つくこともたびたびあったでしょう。それで、人間関係を恐れるようになることもあるのです。心の中で人から愛されたらどんなに幸せなことかと考えたり、ありのままに愛されることを願っている姿は決して自分だけではありません。しかし、この世はそれほど甘くないので、願いとは正反対のことの方が多いのです。ですから、誰かが愛されて幸せであると知ると嫉妬や妬みが出てくるのです。さて、ではクリスチャンはどうでしょう。神様は今日の聖句にもあるように素晴らしい約束をされています。ですから、ありがたいことに過去はどうであろうとそのことに縛られる必要はもうありません。イエス様がすべてを解決してくださったのです。悪魔は嘘をついて、まだまだ過去を引きずって生きていると思わせようとします。それがあまりにしつこいとつい悪魔の否定的な嘘を受け入れてしまうことがあるのです。そうすれば、思考が汚染され、感情にも、行動にも悪影響が出てきます。そんなことを何度も繰り返しているなら、今日そんなことはもうやめると決心しましょう。あなたがイエス様の救いを信じているのなら、今日このみ言葉が暗記できるまで繰り返し読んでみることです。そして、次のように信じるのです。「主は私をこの聖句の通りにできるお方であると信じます。ですから、私はあらゆる恵みをあふれるばかりに与えられます。私は喜びにあふれて、敵も悪い者も消え去ります。毎日、安息の中に留まり、主に愛されて幸せになります。」 悪魔がまた嘘を言い始めたら、この聖句を霊の剣と信じて言ってください。悪魔が消え去るまで唱えましょう。それから、このみ言葉の通りになってください。信仰があれば、この約束はすでにあなたのものです。(さくま)
6月8日(水)
「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主の家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。
アモス7:14
神の言葉を伝える方法として、預言者がたてられました。その中で、アモスはもともとは農夫であったことがここからわかります。普通の人で特別な預言者の学校に行ったわけでもなく、訓練を受けたわけでもありません。それなのにある時主によって選ばれました。そして、書く預言者の第一号になったのです。それまでは、人々に口頭で語る預言者しかいなかったのです。神様は人間のようにこうでなければいけないといった先入観や偏見を持たないお方です。ですから、今でも普通のクリスチャンを用いて主の御用をさせることが頻繁にあります。誰かのために助けになりたいとか、なんとか励ましたいといった思いが出てくるような時に自分でも驚くような素晴らしい言葉が勝手に出てきて驚いたことはありませんか。あなたも主の口になり、声になることができます。信仰を持って時には大胆になりましょう。それで誰かが元気になれたら嬉しいですよね。「主はあなたを愛してます」という言葉も預言になるのです。(佐久間)
6月9日(木)
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
ヨハネ9:2、3
人間の他人に対する目は厳しいものですが真実を見抜いているとは限らないのです。昔は日本でもこの弟子たちのような見方が普通でした。ですから障害者や何らかのハンディキャップを背負った人たちは気の毒なことになっていたのです。その中には女性も含まれていました。女性の解放を叫んで世界中で戦いが続けられ、男女の差別が解消されてきたのが人間の現代史です。それに伴うように、弱者や差別の対象にあった人たちにもようやく配慮がなされるようになりました。先進国でも未だこのような偏見を持つ人たちがいるのですから、今日のイエスのお言葉は重要です。生まれつき目が見えない、というだけで本人か両親が罪を犯した因果応報だと判断したわけです。それに対するイエスの答えは明快です。罪の因果応報ではないと断じてくださいました。それどころか、「神の業がこの人に現れるためである」と驚くようなことを言われました。そして、奇跡が起こり目が見えるようになったのです。これが「神の業」です。キリスト教会はイエスの弟子たちが集まっているのですから、障害者にも優しいと思います。本来ならば、その障害を神の業で治してみせるべきだと思うのですが、現代ではそのような奇跡を滅多に聞きません。私たちの信仰が薄いと言われてもしかたありません。願わくば、教会においてこのような神の業がもっと頻繁に起こりますように。そのためにも、私たちはこの世の常識に縛られないことが肝心です。いつでもイエスの目で、心で、人を見たいですね。うわべと内面が違っていることはしばしばです。イエスに愛されてはじめて癒される人は多いのです。主のお働きを願い求め、自ら信仰を発揮することを意識したいものです。(佐久間)
6月11日(土)
イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ち込め、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
出エジプト記14:19-20
有名な映画の「十戒」でモーセが海を分ける感動的なシーンがここです。古代の戦争を知っていれば、エジプト軍が世界最強で最新鋭の戦車を持ち圧倒的に有利であることがわかります。一方のイスラエルは軍隊ではなく奴隷集団でした。子供も女も年寄りもいました。そこへ、恐ろしいエジプト軍が迫ってきたのです。前は海で塞がれています。その時に、主はイスラエルを守っていたことがよく分かる箇所がここなのです。直接天使が民を導いて先頭を進んでここまできました。そして、敵が近づくと途端に天使は民の後方へ回り、敵との間に入ったのです。そして、象徴的な雲が御使と共に敵との間に立ちはだかりました。エジプト軍は目の前に強い軍隊がいたのなら勇猛果敢になったでしょう。しかし、真っ黒い雲が目の前を遮り、しかも光が闇夜を貫いたのです。おじけて前に進むことができなかったのです。天使は完全に敵を押さえつけていたわけです。さて、この出エジプト記は霊的教訓が満ちている書です。このエジプトの軍勢も悪霊を象徴し、イスラエルの民はクリスチャンを象徴しているということができます。クリスチャン人生は神様のお導きによって歩んでいるのですが、そのクリスチャンを悪魔から救い出してくださったのも神様なのです。ところが悪魔は元は奴隷であった人間が惜しくて取り戻そうとするのです。クリスチャンになった直後に悪魔の取り返しがある可能性があって、最も危険な時期なのです。しかし、神様を信じて聖書に書かれた通りに生きて行こうとしていれば、「昼は雲の柱、夜は火の柱」と書かれているように神の御使いが正しい道へと導いてくださいます。そして、一旦危険が迫ると悪魔との間に立って絶対的な守りで安全をはかってくださるのです。ですから、主を信頼していましょう。このような直接的な攻撃はこのように主の御守があることを覚えていてください。(さくま)
6月12日(日)
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自身でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。
ヤコブ1:13-14
「人生がうまくいかないのは神のせいだ」という人たちがいます。不思議でなりません。「悪魔のせいだ」と言えばそうかな、とまだ思えるのですが神のせいにするのは恐ろしいことです。聖書にはっきりと「人を誘惑したりなさらない」と書いてあるからです。人が不幸になるように神が働くことはできないのです。神は愛であり、愛は人を生かすからです。私たちは、聖書の書かれたことをあまり理解していないかもしれません。当たり前のことですが原因と結果があるわけです。ですからもっと神様を信頼して、人と自分を比べたり、悲観したり、ニヒルになってはいけません。悪魔は誘惑するものとして書かれていますから、誘惑はあります。それに負ける理由は「自分自身の欲望に引かれ」るからだと教えています。そこで、神様はそのことも織り込み済みの救いを提供してくださっているのです。ですから信仰を発揮してください。私たちができることは信仰のみなのです。神様はその信仰に対して働くことができるからです。長い間自分を苦しめていたものから自由にする救いです。肉ではなく、霊で生きることを聖書は教えています。聖霊で始めたのですから、聖霊で完成させるのです。(さくま)
6月13日(月)
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
創世記12:4
あなたは今何歳でしょうか。創世記を読むと神様のことが少しわかってくる気がするのですが、アブラムは信仰の父と呼ばれる人ですから、重要人物です。特にパウロは、信仰による義を説明するときにこのアブラムを引き合いに出すのです。学ぶべき人はこの人だ、というわけですね。そのアブラムがいよいよ主人公となって物語が始まるときに年齢が七十五歳であったことは驚きです。二十五歳とか三十五歳なら体力的にみても十分ですが、今流に言えば後期高齢者になったところで、ようやく「では重要な働きを始めよう」と、言われたようなものです。元気な高齢者は増えてきていますが、だからと言って「大事業を今から始めよう。まずは故郷を離れて外国へ移住しよう。」というのは無理があると感じるのが普通ではないでしょうか。しかし、どうも神様は人間が信仰を持って成熟するのを待ていらっしゃる気がします。若いうちはどうしても、自力に頼る傾向が強ですが、歳をとり老人になってくれば、自力に頼れなくなってきます。そのぐらいにならないと、神様に信頼を置き委ね切ることができないのではないでしょうか。そして、神様のみ言葉に従っている時には、年齢に縛られることなくいつまでも元気に活躍できるのだということです。さて、あなたにとっての七十五歳はどのようになっているか楽しみです。(さくま)
6月14日(火)
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
マタイ9:13
海街Diaryという映画を観ました。舞台となった鎌倉で牧師をしていたので共感しやすかったと思います。物語は、父親が別の女の人と出て行き、母親も三姉妹を置いて家を出て行き、長女が母親代わりに姉妹三人で古い家で生きてきたのです。その父親が亡くなって姉妹が葬儀に行くと、そこに別の女の人との間にできた娘が中学生になっていました。その中学生の娘を妹として引き取ることになって・・・四姉妹が織りなす美しい物語です。この物語に出てくる人たちは、クリスチャンではありません。普通の日本人です。個性が一人一人違っていて、心に思っていることも異なります。でも、四姉妹が互いを大事にしているのが心地よいのです。この姉妹たちのような普通の生き方をしている人たちをイエス様は招きにやってこられたと思います。問題がない人などいないのです。自分に自信が持てないことだってあるし、小さなことでもくよくよして、人に話すことも恥ずかしく、どうすれば幸せになれるのか、せめて小さな幸せを求めてもいいんじゃないかと考えてようやく生きているようなものです。立派なこともできずに、神様に胸を張って誇れるようなこともないかもしれませんが、逆に毎日「神様ごめんなさいと」言って生きている、そんな人の神様がイエス様だと思います。ありがたいことです。(さくま)
6月15日(水)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で永らえるよりは わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。
詩篇84:11
この詩篇も心にグッとくるものがあります。何か大きな門が見えてきてその傍らに立っている人が見えてきそうです。もしかするとそれが自分かもしれないと思えてくるのです。人間関係で悩む時、それはどの人も完全ではないことから起こります。特に人間的に未熟だと相手の気持ちを考慮することがなかなかできません。ですが、表面的な付き合いを超えてぶつかり合い、逃げずに向かい合うと独りよがりな自分の考えが自分を不幸にしていたと気がつくことがあります。こうやって、他人には自分との違いがあるからこそ気づけることがあり、自分を甘やかせずに謙虚に批判でも聞けるようになると成長することができます。もっとも、こうした良い結果を導き出すには善意や好意が、そして何よりも正義が必要ですが、この世の中ではそうそう出会えないかもしれません。そのような厳しい状況の時には、この詩篇を思い出してください。そして、自分が神の家の門口に立っている様子を思い描いてください。たとえ、この世の中でうまく生きることができなかったとしても、不幸だと思わないでください。ある人が「小さな希望を夢見てもいいですか」と言いました。もちろん良いのですが、それ以上に良いことは、「神の家の門口に立っている」ことです。イエス様はこうおっしゃったのです。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。」(ヨハネ10:7)。わたしたちにとって最善の選択は、いつでもイエス様の傍らに立っていることなのです。それがどんなに大きな喜びとなるかさらに体験して行きたいですね。(さくま)
6月16日(木)
ヤコブはまた、誓願をたてて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」
創世記28:20~22
昨日は神の家の門口に立っていることを願った人の話でしたが、今日はその門を見つけた人の話です。つまりクリスチャンの話として象徴的に読んでみたいと思います。どうして神様と出会ったかはよくわかりません。しかし、良い意味で皆さんは神様に選ばれたということです。そこで、クリスチャンになると同時に生き方が変わることになります。「わたしが歩むこの旅路を守り」とは、あなたがたどることになっている人生を文字通り守っていただくことを意味しています。食べ物と着る物が与えられれば、生きていけます。主に求めるものはつましいのです。そうやってそれぞれの人生を生き、最後に天国に帰ることができるようにとの祈りです。そして、重要なことは、この聖書の神様が自分の神様となってくださるのならとヤコブはそこに立てた記念碑としての石を神の家とすると言っていることです。面白いことにその石はヤコブが枕にしたものです。そこで、夢を見ました。天と地をつなぐはしごの夢です。ヤコブはこの石に油を注ぎました。これはキリストの象徴のようにも見えます。キリストが天国への入り口であることは理解しやすいでしょうか。また、石を「神の家」という言葉から象徴的に教会と捉えることもできそうです。十分の一は神様から全ていただいているということの徴です。つまり、キリストを自分の思考の土台とすることによって、神様との交わりを体験し、この神様を自分の主としてつましく暮らし、無事に天国へ帰ること、これが信仰者の生き方だということです。ヤコブの場合は、アブラムへの神様の約束がヤコブに引き継がれていることを知らされたということです。(さくま)
6月17日(金)
もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。
ルカ17:3-4
赦しはクリスチャンの専売特許のようなところがあります。問題なのは、赦すことの難しさです。ですから、クリスチャンは悩むことになります。しかし、よく聖書を見てみると、兄弟が罪を犯したら、となっていますからクリスチャン同士の問題であることがわかります。それで、「戒めなさい」と主は命じました。これが問題なのです。そんなことをしたら人間関係が壊れちゃうし、恨まれたり、怒り出すのではないだろうか?と心配になるわけです。しかし、相手も信仰者なので、明らかな罪であれば戒めることはその人のためになることなのです。そこで、勇気を出して戒めることにします。もし、相手が素直に自分の罪を認めれば悔い改めへと続けば良いわけです。そこまでくれば、もちろん赦してあげます。これはお互いのために良いことです。しかし、本当の問題は、その相手が「ごめんなさい、もう二度とこのような罪は犯しません」と言っていたのに、また同じ罪を犯したらどうだろう、それがなんと七度にまで及んだら、果たして赦せるだろうか。主の命令は「赦してやりなさい」なのです。どうしてでしょう。「悔い改めます」とか言っていて、また同じ罪を犯すとは、それも何度も繰り返すというのはいい加減赦せない、と怒り出すのではないでしょうか。ところが神様は私たちが何度も同じような罪を重ねても、悔い改めると赦してくださるのです。そのことはあなたが一番よく知っているはずです。これこそが私たちと神様の関係そのものなのです。ですから、主に罪を赦された者は同じように兄弟に対して何度でも赦すことができるのです。(さくま)
6月18日(土)
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
コロサイ3:1、2
信仰者は信じて正しいとされているのですが、問題は何を信じているかということなのです。ここを読めばお分かりになると思いますが、信仰によって劇的に変化することが当然のように語られています。つまり、キリストの復活には秘密があって、信じた者を救うということは、単に罪の贖いだけではなく、古い人に死に、あのキリストの復活の中に自分も置かれて復活しているということです。そこで、生き方を変えなければならないのですが、何か清い生活を考えて行うというようなことではありません。すでに地上の者ではないことを認め、天にあるものを求めるように命じられているのです。自分の救いの根拠はただキリストの義によるのです。そのキリストは天に帰ってそれっきりということではなくて、天においても私たちの救いのために未だ働いていてくださるのです。神の右の座はまさに私たちが罪を悔い改める時の執り成しの座なのです。そのことのゆえに私たちは地上でまだまだ失敗することがあっても救いが失われていないのです。そして、クリスチャンが神の子として全く新しく生まれた者であることは、天にあるものに心を留める生き方において実現していくのです。聖書に警告が書いてあるのは、それを無視して、地上のものに心を向けると地上の欲に引かれてしまうので、結果として昔の肉の人に戻るからです。そこには救いはないのです。信仰者は信仰によって生きるのです。(佐久間)
6月19日(日)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられた通りの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝なさい。
コロサイ2:6、7
クリスチャンが信仰を全うして生きることがいかに難しいか、それはすべてのクリスチャンが実感していることでしょう。特に現代の世情は世の終わりが迫ったためか、ひどい有様です。そこで、神様がどのようにお考えなのかを知っておきましょう。今日のみ言葉を読んで、その通りにする人はいるでしょう。でも、ただ読み飛ばして終わり、という人もいるのです。神様は預言者を通して語ります。そして聖書のように書き残すこともあります。いずれにしろ公正にあらかじめ教えておいて、その通りにするかどうかを試みるお方なのです。出エジプト記のお話はそのことを明確に教えています。主に忠実でなければなりません。主に対しては素直になって、み言葉には謙虚に聞き従うのです。あなたが救われたのは、ただキリストによるからです。あなただけではどんなに頑張っても救われることはありません。キリストに対する信仰をあなたの拠り所として、油断しないことです。今日のみ言葉に従ったなら、必ずその結果が伴います。こうして、み言葉が人を二つに分けてしまうのです。「人がなんと言おうと私は主イエス・キリストに結ばれて歩みます。その証拠にあふれるばかりの感謝を惜しみません」。このような単純な信仰が実を豊かに結ぶことになるのです。(佐久間)
6月19日(日)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられた通りの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝なさい。
コロサイ2:6、7
クリスチャンが信仰を全うして生きることがいかに難しいか、それはすべてのクリスチャンが実感していることでしょう。特に現代の世情は世の終わりが迫ったためか、ひどい有様です。そこで、神様がどのようにお考えなのかを知っておきましょう。今日のみ言葉を読んで、その通りにする人はいるでしょう。でも、ただ読み飛ばして終わり、という人もいるのです。神様は預言者を通して語ります。そして聖書のように書き残すこともあります。いずれにしろ公正にあらかじめ教えておいて、その通りにするかどうかを試みるお方なのです。出エジプト記のお話はそのことを明確に教えています。主に忠実でなければなりません。主に対しては素直になって、み言葉には謙虚に聞き従うのです。あなたが救われたのは、ただキリストによるからです。あなただけではどんなに頑張っても救われることはありません。キリストに対する信仰をあなたの拠り所として、油断しないことです。今日のみ言葉に従ったなら、必ずその結果が伴います。こうして、み言葉が人を二つに分けてしまうのです。「人がなんと言おうと私は主イエス・キリストに結ばれて歩みます。その証拠にあふれるばかりの感謝を惜しみません」。このような単純な信仰が実を豊かに結ぶことになるのです。(佐久間)
6月20日(月)
そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになったものを信じること、それが神の業である。」
ヨハネ6:28-29
イエス・キリストを信じることは誰でもできそうなものなのに、実際はそうでもありません。信仰者自身も時には不安になり、信仰をぐらつかせることすら起こります。しかし、今日のキリストの言葉は、圧倒的な言葉なのです。世界中の神々の中から一番良さそうなものを選んで信じるというようなこととは全く異なっています。偶像を拝んでもそれは神の業とはなりません。しかし、ナザレのイエスをキリストと信じるならば、そこには人知を超えた神のわざが実現するのです。そうでなければ、罪人が救われるはずがありません。信じている人には明らかに神の不思議があります。それはこの世の常識が吹っ飛んでしまうほどのものです。信じても何も起こらないと言う人もいますが、その人はまだ信じることがよくわかっていないのだと思います。そもそもアダムは神の言葉を聞いていたのに悪魔の言葉を信じたので罪を犯しました。何を信じるかが重要なことであることはわかると思います。聖書を読むと明らかですが、すべての良いことが信じることによって起こります。罪人は正しく信じることができなくってしまったので、信仰も神様が与えています。それを使って自分の信仰を引き起こすことが大切なのです。主イエスのたとえ話を思い出してください。主人が僕たちに財産を預けて旅に出ると、僕たちがその財産を使って増やしたか、それともそもまま何もしなかったか、そのが大きな問題となっていませんでしたか。よく考えてみましょう。ユダヤ人でさえ、ナザレのイエスを信じた人と信じなかった人に分かれました。その差は圧倒的な開きとなりました。だから、偶像を信じるようにイエスを信じないでください。きっとイエスを信じなかったユダヤ人のようになってしまいます。そうではなくて、神の業としてイエスを信じるのです。それで何が起こるかワクワクしてきますね。(佐久間)
6月21日(火)
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」といった。
ルカ10:29
これは、善いサマリア人と言われるお話の中の一節です。それは、そもそも律法学者が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょう」という質問から始まりました。イエス様は「律法には何と書いてあるか」と質問で返しました。すると、「神を愛することと隣人を自分のように愛しなさい」と書いてあると答えたのです。それで、イエス様は、「それを実行しなさい」と言いました。その時に、律法学者が言った言葉が今日の箇所なのです。聖書を学び、キリストの教えを知り、教理も理解した。では、実行しなさい、と言われると、この聖句にある「では、私の隣人とはだれですか」という言葉が出てくるのではないでしょうか。困ったことに、気に入っている人を愛することはできても、そうではない人を愛することは難しいのです。表面を取り繕ってもむなしいだけです。そこで、クリスチャンは悩むことになります。問題の解決は、律法学者がなぜ愛のないことを言ったか、それは自分を正当化しようとしたからでした。つまり、正直ではなかったのです。愛せないなら、「主よ愛せません」と言えばよかったのです。そすれば道は開かれたはずです。それなのに、自分を正当化しようとしたために、律法を守れない自分をごまかしたのです。そのような生き方は罪人の生き方そのものです。学者になるほど聖書を学んでも、ただの知識なら、自分を偽善者にしてしまうかもしれないのです。ペンテコステの後、お弟子さんたちは並み居る偉い人たちの前で、堂々とイエス・キリストを語りました。それで、ビックリされたのです。ただの無学な人たちのはずなのに、と。真理はキリストなのです。ですから、キリストを知れば真理を知ることができるわけです。そのキリストは何と十字架で死なれたのです。私たちも同じように死ぬことをよしとすれば、自己を正当化する必要はありません。私たちを正しいとするのは神様だけなのです。だから、周りの人に批判されたり中傷されても、正しければ大丈夫です。イエス様ですら、死刑にされたのに甘んじて受けられたではないですか。このように考え方を変えると気が楽になります。無理して愛そうとしなくてもいいからです。困って助けを必要とする人に自分のできることをすればいいのです。できない時には、神様にそう素直に言えばいいのです。そのようなことを通して、何かがわかり、何かが変わっていくのです。お弟子さんたちもそうやって変わっていったのです。(さくま)
6月22日(水)
彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者全てを救う言葉をあなたに話してくれる。』わたしが話し出すと、聖霊が最初私たちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。
使徒言行録11:13-15
十章でコルネリウスという百人隊長とその家族が聖霊のバプテスマを受ける話が出てきます。これが重要なのは、異邦人も救われるということをキリスト教会が認める事件だったからです。ここでいう、救われるは聖霊を受けることができるということです。ユダヤ人の言う通りに異邦人が汚れているのなら、聖霊は降ることはないでしょう。しかし、異邦人に聖霊は降ったのです。そこで、私たちも救われると言えるようになったわけです。今日、心に留めたいことは、「あなたと家族の者全てを救う言葉」とでてくる箇所です。驚くことに、救う言葉があるということです。イエス・キリストのことをペトロのように話すことができればいいですね。そして、救う言葉を語らせていただきたいと思いませんか。それから天使が現れたと書かれた箇所でもあります。十章では、幻で見たと言っています。現実でも幻でも天使にお会いしてみたいですね。(佐久間)
6月23日(木)
水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると明かししたのである。
ヨハネ1:33-34
これは、バプテスマのヨハネが語った言葉です。彼は、ヨルダン川でイエスに水で洗礼を施しました。その時、聖霊が鳩のようにイエスの上に降ったのを見たと証言しています。そして、重要なことは、イエスが「聖霊によって洗礼を授ける人である」とヨハネが証言したことです。もっともヨハネ自身がそれは、自分ではなくて自分を水で洗礼するように遣わしたお方が言われた、と言っています。おそらく神の遣わした御使いであったと思われます。いずれにしろ、神の示したかったことがここで語られたのです。これは一体どのような意味があるでしょうか。それは、「イエスの使命は聖霊による洗礼である」ということです。ヨハネによる洗礼が悔い改めのバプテスマであって、キリストをお迎えするためのものであったことは明らかです。そして、キリストの出来事は福音書に書かれた通りです。罪を贖うための十字架、それは、罪と死と悪魔に対する勝利を意味していました。さらに、復活は死を打ち破り、新しい命に生まれることを可能にしたのです。そこで、終わるならば、バプテスマのヨハネの言葉は意味がありません。しかし、続く使徒言行録には、昇天前のキリストの言葉が聖霊のバプテスマの約束であり、その成就が二章に記録されています。そして、それがキリスト教の始まりとなったのです。この聖霊の雨は未だに降り続き、悔い改めてイエス・キリストを主と信じた者が求めるなら得ることができます。この聖霊によって洗礼を授けるお方がイエス・キリストであり、そこが重要なことなのです。ですから、聖霊のバプテスマを決して軽視してはいけません。一途に求めることが信仰となって、約束の成就となっていくのです。(佐久間)
6月24日(金)
証しするのは三者で、霊と水と血です。この三者は一致しています。
Ⅰヨハネ5:7、8
この箇所は6節から始まり、その見出しが「イエス・キリストについての証し」(新共同訳)とあります。時間のある方は6節から12節を読まれることをお勧めいたします。さて、まず血は、人間の罪の問題を解決するキリストの死を証ししています。水は、人間の汚れが神のみ前にあることを解決するキリストの死を証しします。聖霊は、「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。・・・そして、霊はこのことを証しする方です。」とあるように、キリストの死が人間の罪と汚れの解決であることを証ししているということです。クリスチャンになるということは、この三者を抜きにしてはありえないのです。そして、この神の証しを信じて、内に持っている人こそ救われた人なのです。(佐久間)
6月25日(土)
あなたは、階段を用いて祭壇に登ってはならない。あなたの隠しどころが露わにならないためである。
出エジプト記20:26
この霊的教訓は、神に近づくために人間的な努力がいかに意味がないかを示しています。それは、普通私たちが勝手に考えることなのですが、良いことをしなければならないとか、信心深くならねばならないとか、罪深い習慣を頑張ってやめるとか、清い生活を送るように努力するとか、敬虔に振る舞うとか、宗教的規則を設けてそれを守るとか、つまり人間の業によって神に近づけるとか天国へ行けるといった考えは間違っているということです。では、どうすればいいのか、それはイエス・キリストが十字架にかかられた贖いの道が唯一の神への道なのです。それだけ?と驚かないでください。それだけで十分なのです。パウロは、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ2:8-9)とそのことを確認しています。イエス・キリストの十字架を信じて、神のみもとへ近づきましょう。(佐久間)
6月26日(日)
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
Ⅰヨハネ4:16
私たちは、クリスチャンになった時に何もかも教理がわかったからとか、真理が悟れたからといったことで洗礼を受けたわけではありません。圧倒的にこの世のことの方がより多く知っていました。それでも、神様は洗礼へと導いてくださったので、多分最低の知識で救ってくださったのだと思います。それは、信じたからです。信じることの力がいかに大きなものであるかがわかります。では、何を信じたのでしょうか。もちろん、イエス・キリストの福音を信じたのです。それは、難しい教理というよりも、神様の愛が伝わったからだと思います。そこで、この神様の愛にとどまるかどうかが大切なことになります。ここまでくると神秘であり、奥義といった感があります。しかし、一人一人の信徒の中で神様への愛は真実なのです。それは、神様に愛されているからです。悪魔は、それが最も苦手です。神様の愛の中にある人を攻撃できません。それは、同時に私たちがキリストの掟を守って、互いに愛し合うことが悪魔の攻撃からの最大の防御となっていることを示しています。人が成長し、幸福になっていくのはこのみ言葉の通りに愛にとどまるかどうかです。キリストはこの愛の模範となりました。キリストに似た者になるということは、このみ言葉を実行することなのです。それは、楽しいことだし、難しくありません。ただ、信仰が必要です。悪魔は何としてもこれを阻止するつもりなのです。だから、悪魔と対決っするよりも、神様にとどまり、愛にとどまるのです。特に、あなたは神様に愛されていることを信じ続ける必要があります。何もしなくても愛されています。信じることがとどまることになります。(さくま)
6月27日(月)
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
Ⅱコリント4:16
このみ言葉は本当です。クリスチャンになってしばらくすると停滞期に入ることがあります。自分の信仰がちっとも成長していないのではないかと思えてくるのです。ところが本人の感情とは異なって、内なる人は日々新たにされています。外なる人は、古い自分そのものです。いろいろな癖があって、個性と呼べば聞こえはいいのですが、問題がありました。こんな自分では救われないのではないかと心配になるような自分が外なる人です。しかし、聖霊はしっかりわたしたちの益となるように働いてくださり、問題の原因となっていた外なる人を衰えさせていくのです。それだけなら、だんだんみじめになるような気がしますが、実際は聖霊は内なる人を新しくしておられるのです。それは、やがて自分の意識の変化や信仰生活の変化に現れてきます。キリストのように造り変えてくださっているのです。つまり、よくなっていくのです。ですから、今日も元気に一日を過ごしましょう。見えないところで自分は成長し、キリストのように変えられていることを信じて喜びましょう。(佐久間)
6月28日(火)
主に従う人の救いは主のもとから来る 災いがふりかかるとき 砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる。主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。
詩篇37:39、40
クリスチャンがどんなに恵まれているか正しく理解できたなら、人生はもっと実り多いものなるだろう。信仰の基準は主への従順ではかられると思っていればまず間違いはない。この世の神と自称するサタンは、人間を自分の奴隷と考え、ひどいことをたくらむ。それで、クリスチャンにもサタンの攻撃はあるし、敵とみなしているのでしつこく誘惑したり、罠を仕掛けたり、直接攻撃することすらあるのだ。もっとも、人間は目に見えるものにしか、存在を認めないので、攻撃されている本人自身も気がつかないことが実に多い。残念なことに、悪霊を見分ける賜物を持っていると言う人がただ肉の力に振り回されているだけだということもある。そのために、なんでも悪霊のせいにしてしまうのは、かえって悪いし危険だ。私たちは、主への正しい信仰は難しいものではなく、素朴で単純な心から生まれると思っている。それは、他人に左右されない。神は圧倒的な力をその人の救いのために解き放つことができる。鉄壁の守りで保護し、災いが来ても害されることがないのだ。正直に主を信頼する人は、たとえ敵が悪魔であっても逃れさせてくださる。主を避けどころとしなさい。主は救ってくださる。(サクマ)
6月29日(水)
神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
Ⅱコリント9:8
イエス様を信じているあなたに神様は語っています。あなたがどんなに恵みの中にあるのか、考えたことがありますか。あなたが必要とするものは全てすでに備えられているのです。「いつもすべての点ですべてのものに十分で」あることが約束されています。あなたが生きて働けば、そこには善い業が満ち溢れるのです。そのためにあらゆる恵みをあなたに満ちあふれさせることがイエス様ならおできになるのです。ですから、望みのない人のようにうつむいて疲れ果ててはいけません。本当に疲れているのなら安息を、心がざわつくのなら平安を、淋しいのなら喜びを、必要なものがあるのならお金ですら与えられるのです。自分を通して神様の業が現れるのです。神様を愛していると思っていたらそれ以上に神様に愛されていることがきっとわかるでしょう。神様の願いはあなたに恵みをあふれさせることなのです。ですから、今日は恵みにあふれる一日としていただきましょう。もう一度み言葉を読んで「主よ、信じます」と言ってみましょう。(さくま)
6月30日(木)
わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を追うに求めることを恥とした。「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵みが溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」と王に言っていたからである。
エズラ記8:22
アメリカで生活が始まった時に、まず銀行に口座を開くことが大切でした。それは二つの口座で、預金と当座の二種類でした。銀行で手続きをしてくれた行員が「小切手のデザインは何にしますか」と聞かれた時に自分の名前の入った小切手を作ることを理解し、そのための当座預金口座が必要であることがわかりました。買い物をした際に、いちいち小切手をその場で書いて支払うのです。クレジットカードやデビッドカードが手に入るまでは、もっぱら小切手を切りまくりました。月末には電気ガス水道となんでも請求書が送られてきて、それに小切手を書いて郵送するのです。小切手というもののありがたさを初めて実感しました。私たちの人生は、旅のようなものです。その旅路には危険が潜んでいます。そこで、人生が安全であるように人は様々なものに頼るのです。一方、クリスチャンは神様が生きて働くお方であることを知っています。そこで、神様に安全を守っていただくことを選択するわけです。それは、紙切れにすぎない小切手に必要なだけ数字を書き込むようなものです。この世の軍隊は目に見えますが、神様の軍隊は目に見えません。小切手は一見頼りなく見えます。信仰も同じように頼りなく見えるかもしれません。しかし、小切手をレジで出すと何の問題もなく、商品を手渡してくれるのです。同じように、信仰によて願うと神様はいつでも忠実に答えてくださるので、この世の軍隊よりも確実に頼りになります。小切手に数字をかけばお金と同じ価値を生むように、信仰も信じて疑わなければ、信じたとおりになるのです。そのために、祈り、時には断食して祈ることだってあるのです。神様を信頼することが信仰であることがよくわかります。恵みあふれる主の御手が差し伸べれることを信じましょう。(さくま)
7月1日(金)
人の言うことをいちいち気にするな。
コヘレトの言葉7:21
知恵の書が教えていることは、よく考えなければなりません。確かに、人の言葉がどれほど誠意に満ちているかといえば、それは稀であるかもしれません。よく考えもせずに思いつきで無責任に言ってしまう言葉の方が多いでしょう。ところが、心ないことを言われてしまった当人は、ひどく傷ついてしまったり、くよくよ悩むことも珍しくありません。それで、人を過敏に恐れて何って言われるかいつもビクビクしている人もいます。ここまで極端でなくとも、人の言葉に腹を立てたり、悩むことは誰にでも起こります。しかし、聖書は「人の言うことをいちいち気にするな」と教えています。自分も人のことを噂したり、周りの人と一緒に誰かのことを裁いて、悪く言ったりすることがあるからです。それは大して意味のないことで無責任に言ってしまうことがあるのですが、その程度のことでいちいち気にして、落ち込むことはありません。聞き流して忘れてしまうことです。そのためにも、いつも正々堂々と生きている必要はありますが、神経質になることはないのです。神様を信じている人の生き方は、神様がご存知なのです。(さくま)
7月2日(土)
その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散っていった。・・・さて、散っていった人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。
使徒言行録8:1、4
聖書にはエルサレム教会に対して大迫害があったことが記録されています。そのために、信徒たちは地方へと散っていったのです。そこまでなら、なぜ神様は彼らを助けなかったのかと不思議に思うでしょうが、その続きを読むとなるとほど、と意味がわかってきます。つまり、中央のエルサレム教会から福音が地方へと拡散していったのです。そうすることによって、伝道は進展したのです。今日でも伝道の必要が奨励されていますが、キリスト教とは、初めから福音を広めていく運動のような性格があるのです。ですから、居心地の良い教会を作り、その中だけで仲間を作り、伝道はやめてしまうということは、本来ありえないのですが、悪魔は教会攻撃を着実に進めたので、何もせずに停滞する教会がたくさんできてしまったのです。私たちはキリストの生きた証人です。福音を伝えることをためらわないで、導かれるままに主の御用を務めたいものです。(さくま)