ディボーション2016年7月

7月1日(金)

人の言うことをいちいち気にするな。

コヘレトの言葉7:21

 

知恵の書が教えていることは、よく考えなければなりません。確かに、人の言葉がどれほど誠意に満ちているかといえば、それは稀であるかもしれません。よく考えもせずに思いつきで無責任に言ってしまう言葉の方が多いでしょう。ところが、心ないことを言われてしまった当人は、ひどく傷ついてしまったり、くよくよ悩むことも珍しくありません。それで、人を過敏に恐れて何って言われるかいつもビクビクしている人もいます。ここまで極端でなくとも、人の言葉に腹を立てたり、悩むことは誰にでも起こります。しかし、聖書は「人の言うことをいちいち気にするな」と教えています。自分も人のことを噂したり、周りの人と一緒に誰かのことを裁いて、悪く言ったりすることがあるからです。それは大して意味のないことで無責任に言ってしまうことがあるのですが、その程度のことでいちいち気にして、落ち込むことはありません。聞き流して忘れてしまうことです。そのためにも、いつも正々堂々と生きている必要はありますが、神経質になることはないのです。神様を信じている人の生き方は、神様がご存知なのです。(さくま)

 

7月2日(土)

その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散っていった。・・・さて、散っていった人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。

使徒言行録8:1、4

 

聖書にはエルサレム教会に対して大迫害があったことが記録されています。そのために、信徒たちは地方へと散っていったのです。そこまでなら、なぜ神様は彼らを助けなかったのかと不思議に思うでしょうが、その続きを読むとなるとほど、と意味がわかってきます。つまり、中央のエルサレム教会から福音が地方へと拡散していったのです。そうすることによって、伝道は進展したのです。今日でも伝道の必要が奨励されていますが、キリスト教とは、初めから福音を広めていく運動のような性格があるのです。ですから、居心地の良い教会を作り、その中だけで仲間を作り、伝道はやめてしまうということは、本来ありえないのですが、悪魔は教会攻撃を着実に進めたので、何もせずに停滞する教会がたくさんできてしまったのです。私たちはキリストの生きた証人です。福音を伝えることをためらわないで、導かれるままに主の御用を務めたいものです。(さくま)

 

7月3日(日)

フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。

使徒言行録8:5-8

 

初期の伝道が驚くべき力を伴ったものであったことがここからもわかります。人々はフィリポの行うしるしを見聞きしたので、話を聞いてくれたのです。しるしというのは、悪霊を追い出したり、病気などの癒しでした。奇跡が目の前で起こったのです。それも、一人や二人ではなく、多くの人が奇跡を体験したのです。ですから、普通では考えられないようなことが町中の人を巻き込んで起こりました。その結果、たくさんの人々がバプテスマを受けたのです。これがペンテコステの聖霊効果でした。同じようなことが再臨直前に起こります。後の雨と言われる聖霊の大降下が集中的に起こるのです。その時に、聖霊のバプテスマを受けていないと聖霊が降ってきていることに気がつかないと言われています。私たちも聖霊に満たされて、力に満ちて福音を宣べ伝えたいと思います。(佐久間)

 

7月4日(月)

どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力を持ってあなたがたの内なる人を強め、・・・

エフェソ3:16

 

どうしてか心を動揺させて、落ち着かなくなることがありませんか。それはきっかけがあるはずですが、ほとんどの場合、他人が関わっているでしょう。一旦心が混乱したり、慌てたりすると、急激に心が重くなり、不安やおちこみが押し寄せてくるかもしれません。これらは、悪霊の働きであることがあります。ですから、自力で逆らっても抵抗しきれないで苦しむことになります。しかし、落ち着いてください。あなたには素晴らしい神様の約束があります。悪魔が聞いたら、向こうが慌てふためいて悔しがるでしょう。それは、今日のみ言葉です。そうです、天の父が、あなたのうちな人を強めてくださるのです。それも、聖霊によって、力を持ってです。あなたの内には神様のパワーがあるのです。悪霊に騙されないでください。自分ではどうしようもなくてもかまいません。うちなる人が強められているのですから、心をすぐに安定させることができます。聖書を研究する意味があることに気がついてください。あなたへの神様の約束は驚くほどです。安心して、今日も元気に過ごしましょう。(さくま)

 

7月5日(火)

主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。

詩篇116:5~7

 

私たちが幸いなのは、神様を知っていることです。それも、私たちの神様が憐れみ深いお方であることを知っているのです。それは、私たちがこの世で一生懸命に生きていても、思いもかけないことが起こり、すっかり弱り果ててしまうことがありますが、そんな時に主は救ってくださるのです。私たちには弱いところがあって、何度もその弱さが現れては苦しめられてきました。しかし、パウロも体験的に理解したことは弱さの中で神様の御力が発揮されるということでした。それは、神様が情け深いからです。決して、見捨てることがありません。ですから、自分で自分が情けないと思うような時でも、主を信頼してください。主は、同情することはってもあなたを責めるお方ではありません。信仰は無駄に終わることはありません。主はあなたの信仰を覚えてくださり、あなたの愛を心に留めておられるのです。ですから、主はあなたに良くしてくださいます。心が疲れたら、主の安息に入れていただけるように祈りましょう。あなたは安息できるでしょう。そうすればまた元気になって前に進めます。主をほめたたえよ。ハレルヤ!(さくま)

 

7月6日(水)

互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

エフェソ4:32

 

クリスチャンの特徴は、どんな人にも親切に接することです。これがうわべだけの親切なら短い時間ならなんとか親切で通すことができるでしょうが、長い時間接したり、度々であれば相手次第でうまくいくときとそうでないときに分かれるでしょう。これが一般的に普通のことです。しかし、クリスチャンであったならどうでしょうか。そもそも、この世の人のことはここでは触れていません。教会員同士の間で互いに親切にしなさいと命じているのです。それでも、赦し合わなければならいということを神様は知っていたのです。ですから、この聖句が書かれているわけです。自分にとって都合のいい人とだけ付き合えればいいのですが、そうはいかないようになっているのです。ですから、クリスチャンであっても人間関係でトラブルことがあるわけです。それを防ぐ方法は一つしかありません。つとめて親切にすること、そして赦すことです。これは、相手も一緒に赦すことをが求められています。つまり、どちらにも正しい言い分があるからです。それを引っ込めて、愛を最大限に現すことがどちらにも求められているということです。では、相手がクリスチャンでなかったらどうでしょう。その時はあなたが親切にし、相手を赦すのです。不公平ですか。そう思った時には、キリストが罪人のために十字架に黙って架かられ、天の父に赦しを求められたことを思い出しましょう。悪魔はあなたが怒りを爆発するように誘惑するでしょう。しかし、主はあなたがみ言葉を守って勝利するかどうかご覧になっているのです。(さくま)

 

7月7日(木)

タマルの出産の時が来たが、胎内には双子がいた。出産の時、一人の子が手を出したので、助産婦は、「これが先に出た」と言い、真っ赤な糸をとってその手に結んだ。ところがその子は手を引っ込めてしまい、もう一人の方が出てきたので、助産婦は言った。「なんとまあ、この子は人を出し抜いたりして。」そこで、この子はペレツ(出し抜き)と名付けられた。その後から、手に真っ赤な糸を結んだ方の子が出てきたので、この子はゼラ(真っ赤)と名付けられた。

創世記38:27~30

 

長男か次男かでその家での立場が大きく変わることから、最初に出てきた赤ちゃんの手に緋色の糸を巻きつけることになっていました。ところが、その子は手を引っ込めてしまい、もう一人の弟が先に生まれてきてしまったという物語です。リベカの双子も弟が兄を出し抜いて長子の権を取ってしまった物語でした。そういえば、新約聖書でも「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16)というみ言葉がありました。聖書の世界は不思議ですね。ところで、この名前のつけ方はどうでしょう。「出し抜きちゃん」とか「真っ赤ちゃん」なんて名前は付けないでしょうね。今なら、確実にいじめられそうですね。皆さんのお名前はどういう意味がありますか。ユダ族のこの二人はやがて大きなグループを作り抗争に発展しただろうと想像する学者もいます。もっとも、このペレツからダビデが生まれ、その系図の先にイエス様がお生まれになるのですから重要な人物であることに変わりはありません。人間のすごさは、自分一人の一生では終わらないということです。その子孫が残れば、自分の人生の続きのようにつながっていくのです。ですから、せいぜい良い人生を無事に過ごしたいものです。(さくま)

 

7月8日(金)

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人よ 主に申し上げよ 「わたしの避けどころ、砦 わたしの神、依り頼む方」と。

詩篇91:1~2

 

私たちの人生観が変わったのは、この詩篇記者の言葉にアーメンと唱えられるようになったことです。この意味を知っています。そして、このみ言葉は真実でした。この世では、罪や呪い、という言葉がなければ説明がつかない悲惨なことがあります。人間は愛によって生きることが正常なのですが、この世界に愛は年々枯渇しているようにしか思えないと感じている人も大勢いるのです。愛が冷えた世界に生きることはとても恐ろしく、辛いのことです。しかし、救い主イエス・キリストが驚くべき自己犠牲の愛を現してこの地上に降り立ったのです。そのキリストがあなたや私を探し出してくださったのです。そして、福音の使者を送り、聖書を与え、聖霊を降らせ、あなたが神に愛される尊い存在であることを教えてくださったのです。キリストがあなたにお語りになった言葉は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)という優しい言葉でした。それだけではなく、今日のみ言葉通りに、私たちには特別な避難所があるのです。だから、この世で何があっても耐えていけます。それは、3節に「神はあなたを救い出してくださる」との約束があるので、心配ないのです。あなたの神様がどれほどすばらしいお方であるか、あなたはさらに知ることになります。だから、何があってもうつむかないで、顔をあげましょう。「見上げよ、天の御神を」と、天使も叫んでいます。(佐久間)

 

7月9日(土)

五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどこか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

ルカ12:6、7

 

 

我が家にシマトネリコの木を植えたら、雀が遊びに来るようになりました。それが砂浴びを始めて、毎日晴れていれば気持ちよさそうにお風呂に入っているのです。そのうち、友達も来るようになり、気がついたら五羽の雀が気持ちよさそうにお風呂に入っているのです。そのうち、スズメ温泉になってしまいそうです。さて、今日のみ言葉を見ると昔からスズメは人々のそばにいて、一羽では値段がつかないほど安くて、五羽で二アサリオンで売られていたのです。一アサリオンで二羽、そして、一羽はおまけなんです。その取るに足りないスズメの中でも、おまけの一羽にすら主は目を注がれているのですね。あなたは、時々自分の存在を悲しんでいることはありませんか。「自分があまりにも小さな存在で神様は忘れているのではないか」と、思ったことはありませんか。イエス様は、そのような時に、スズメの話をされたのです。「あなたは、たくさんのスズメよりもはるかにまさっているのですよ」と。だから、恐れてはいけません。主はあなたのすべてを知っているのです。そして、あなたは神様にこのうえなく愛されているのです。心配することはありません。主はいつでもあなたのために良い結果へと導いているのです。(さくま)

 

7月10日(日)

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

ルカ12:31、32

 

昔、教団の大学院に留学している時に、各国から来ている留学生たちが集まって何かをしていた時のことです。フィリッピン人の牧師がある国の牧師のカバンを見ていて悲しそうに、何かをつぶやきました。それは印象的だったので、隣にいたマレーシアからの留学生に聞くと、「フィリッピン人はプライドが高くて、この辺りでは一番裕福な国民だと思っていたのに、今ではタイにも抜かれてタイ人の牧師のカバンが高価で立派だったことにがっかりしたのだ」と言うのです。確かに、同じキャンパスの学生アパートには18か国ぐらいの留学生がいましたが、その当時、アジアやアフリカから来た留学生たちは経済的には恵まれていない人が多かったと思います。そして、お金の話がよく出ました。日本人は金持ちで羨ましいと思われていたのです。牧師がそうゆう話をすることに初めは驚いていましたが、文化の違いであることがだんだん理解できるようになりました。そして、日本人が豊かであることから、理解できていない人間の基本的な欲求も見えてきたのです。イエス様のここでのお話は、着るものにも食べるものにも困っていない人にはピンときません。それで私は、アジアの牧師たちに囲まれて、日本人は金持ちで羨ましいと言われるたびに、そうかもしれないが日本人でも牧師は貧しいのだと何度も弁明していたのです。でも、それは意味がないことでした。実際にキャンパスで他の国の人たちよりも豊かに暮らしていたからです。テレビも洗濯機もコンピューターもミキサーもフードプロセッサーも携帯電話も電気温水シャワーだってありました。みんな冬でも水のシャワーなのに。アフリカ人の先生のところへ行ったら、部屋に何もありませんでした。日本にいるとこの恵まれていることが当たり前になります。だから、私たちは時々思い煩うのです。主は、私たちの尊厳を気にされているのです。あまりにも辛く悲しいことや惨めなことを経験すると人間の心は歪んでしまうのです。それで、主は神の国を求めるように教えられました。「必要なものはちゃんと与えてあげるから、それよりも重要なことはこの世のことではなく、神の国に生きることなのだから、神の国を求めなさい。父なる神は喜んで神の国をくださる。」と教えられたのです。そこで、私たちは信仰をもって神の国を求めるのです。(さくま)

 

7月11日(月)

イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

マルコ9:23、24

 

 

私たちには、イエス様が必要です。この父親は、この前にお弟子たちに息子の癒しを願ったのですが、弟子たちの奮闘空しく息子を助けることができなかったのです。そこに現れたイエス様に父親は、「おできになるなるなら」と、信仰のない言葉を発してしまったのです。さて、現代の教会ではほとんど奇跡が起きません。それが当たり前になってしまい、奇跡が起こればそれは何の力によるものかと疑いが起こったりします。つまり、強烈な不信仰です。それは、ここに出てきた父親と同じです。弟子たちに期待したのに癒せなかった。それで、イエス様が登場した時も、つい不信仰が現れてしまったのです。イエス様は今日でも、私たちに「信じる者には何でもできる」とおっしゃっていると思います。問題は、私たちです。この父親のように、イエス様に叫べるだろうか、いや、叫んだことがあるだろうか。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と。このような経験が私たちには必要なのです。イエス様は、この信仰を喚起してくださるし、実際に信仰のない者を助けてくださるのです。もし、イエス様がおられなかったなら、誰が信仰を現すことができるでしょうか。イエス様は、あなたの信仰を引き出してくださるはずです。素晴らしい信仰の世界がいつでもあなたのものでありますように。(佐久間)

 

7月12日(火)

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

ヨハネ10:11

 

あなたは大変恵まれています。それは、イエス・キリストがあなたの羊飼いだからです。この意味は計り知れません。しかも、今日の聖句はイエス様ご自身がお語りになった言葉ですから、心に響きます。それは、わたしたちのためにイエス様が本当に十字架で死んでくださったことを知っているからです。あなたは、過去にどんなことがあったとしてもそのことで悩まなくても良いのです。なぜならば、イエス様があなたを贖って死んでくださったからです。そのイエス様が死んだだけではなく、復活されました。そこで、あなたは一人ではなく、復活されたイエス様が現在もあなたの羊飼いとなってくださっているのです。ですから、喜びましょう。辛いことや困ったことが起こったとしても、羊飼いであるイエス様が必ず助けてくださいます。あなたの最善をいつでもはかってくださるのです。イエス様のあなたへの真実さは、あなたのために死んでくださったことにあります。ですから、あなたもイエス様を絶対的に信頼して従って行きましょう。そのゴールは、驚くほどの最高の場所です。そうです、天国なのです。わたしたちはこの世だけで終わる人生を歩んでいるのではありません。この世はすでに天国への旅路でしかありません。ですから、旅行者のように通り過ぎるだけです。イエス様につき従う忠実な羊でありたいですね。(さくま)

 

7月13日(水)

平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに わたしをここに住まわせてくださるのです。

詩篇3:9

 

毎日の生活が穏やかで平和であれば、夜眠りにつく時に神様への感謝がわいてきます。一旦、感謝の言葉が出てくれば、いろいろなことが思い出されてきます。その一つ一つを感謝していくと大きな喜びに変わっていくのです。今、信仰を持ち平和のうちに眠りにつける場所があれば、それがどんなにありがたいことかわかるでしょう。主によって人生につきものの苦難から解放されているからです。それは、人々がこの世の富や成功に喜ぶことにもまさり大きな喜びとなります。主を信じる者にはこのように不思議な喜びがあるのです。(さくま)

 

7月14日(木)

城門を開け 神に従い、信仰を守る民が入れるように。堅固な思いを、あなたは平和に守られる。あなたに信頼するゆえに、平和に。どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。

イザヤ26:2~4

 

人間の心の不思議があります。誰にでも心あたりがあることは、自分が死ぬ存在であることを知っていながら不安に思ったり心配していないことです。医師が深刻な顔をして「余命三ヶ月」などと言われた時にはじめてうろたえるぐらいのものです。人間の命の仕組みから考えても年齢に関係なく、いつでも死ぬ可能性があるのに、そのことで悩む人はめったにいないのです。そのくせ、誰かが「あなた太ったんじゃない」などと言われると、途端に悩み始めます。また、自分を守るために心の病になることだってあるし、自分が衰えたと感じると急に色々なことが心配になったり、自分に誰も関心を持って親切にしてくれないとなると、病気になることもあるのです。何があっても揺るがない心を持っていたいと願いますが、自力では難しいことです。万事がうまくいっている時には自信満々の人でも、一旦、つまずくと別人のように弱々しくなることもあります。大抵の場合は、最悪の事態を受け入れられないことから、逃れようと心が急ブレーキをかけたように、全てが機能不全に陥るようなことが起こり得るのです。残念なことにクリスチャンも例外でないことがしばしばあります。しかし、クリスチャンはこの世が全てとは思っていない珍しい存在です。そして生き方に確信があります。それは、神様にいかに信頼をおくか、いかに神様に全てを委ねるか、こうしたことを課題に信仰の道を通って行こうとしていることです。そして、災いとしか言いようのないことからでも信じるという意味を体得して行くのです。それは、ちょうどエルサレムに強固な城壁と砲塁が築かれ、神の民がそこに入るために城門が開かれるような経験となるのです。心が聖霊によって強められ、悪魔がどんなに不安になるように攻撃しても、全くビクともしない信仰ではねのけるようなものです。その信仰を支えているのが岩なるキリストです。決してあなたへの忠実な愛が変わることのない岩なるキリスト。そのことが信じられるようにとあなたの人生は導かれているのです。それは、主への信頼から始まる平和へと心が変えられていく信仰体験となるでしょう。明日のことは誰もわかりませんが、クリスチャンには主の保証があるのです。だから、安心してください。主に信頼を寄せてください。心に平和がありますように。(佐久間)

 

7月15日(金)

神に従う人はどのような災難にも遭わない。神に逆らう者は災いで満たされる。

箴言12:21

 

これほど単純で明快な真理はありません。「神に従う人」のことを考えてください。それは、あなたであるべきです。このことがよく分からない人は、下の句の「神に逆らう者」とはどのようなことか、考えてみればいいのです。これは、あなたが今日考える課題です。そして、あなたの選択となるでしょう。こうした取り組みこそが、信仰に生きることを具体的に教えてくれるものです。ヒントは聖書です。聖書はこのことを多く語っています。自分で見つけることができれば、それはあなたの喜びとなり力となるでしょう。もう一度、聖句を読んで考えてみましょう。(佐久間)

 

7月16日(土)

エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度みを洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、私の前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病を癒してくれるものと思っていた。・・・」

列王記下5:10、11

 

思い皮膚病になって、イスラエルの神を頼ってきたナアマン将軍の話は、とても面白ので昔から大人だけでなく子供の話にも使われたものです。さて、今日はナアマンが偉大な預言者を頼って何かしてもらえると期待していると、ただ使いの者が言葉を伝えに来ただけだったので、怒ってしまった話です。このナアマンの憤慨して出てきた言葉をよく読んでみてください。ナアマンの気持ちが共感できるのではないでしょうか。私も牧師なので、今までに癒しの祈りを何度もささげてきました。時には、聖霊が降り人が倒れることもありました。それが毎回となってくると、頭に手を置いて祈ることもやめて、ただ祈っても倒れるのだろうかと試したものです。頭に手を置いていると無意識に押して倒れるように仕向けているのではないかと思えるからです。結果は、手を頭に置かなくても倒れることがわかりました。そこで、私ではなく主の御力が必要な時には人を聖霊で圧倒して倒れることがあると理解できました。ある人は、わざと倒れているのではないかと疑って、自分は絶対倒れないように足を踏ん張っていようと心に決めていたのですが、祈ると吹き飛ばされてしまいました。あるおじいさんは、倒れまいと必死にこらえていて、なんと45度ぐらい傾いているのに頑張って周りで見ている人の方がハラハラしていました。神様に信頼して委ねるということがわからないという人には、この聖霊によって倒れるという体験はいっぺんで委ねることの意味を体得できるのです。しかし、私たちは神様を過小評価していて、何かそれらしい大げさな儀式を必要と考えてしまうのです。実際には、神様はすぐに癒すことができますが、その人の信仰をまずは見るのです。なぜならば、信仰は主へのへりくだりだからです。主を絶対に信じることは不可欠なのですが、それが難しい人たちがいるのです。ナアマンはそういった人の代表です。自分のプライドを捨てることから癒しは始まったのです。人の信仰を引き出すことは、意外と大変なのです。だから、何もなくても、神様を信じることができるようになりたいのです。ただの期待ではなくて、主を信じることです。主の御力を体験したいですね。(さくま) 

 

7月17日(日)

レビの詠唱者全員、すなわちアサフ、ヘマン、エドトンおよび彼らの子らと兄弟らは、麻布の衣をまとい、シンパル、竪琴、琴を持ち、百二十人のラッパ奏者の祭司たちとともに祭壇の東側に立っていた。ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器とともに声を張り上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。

歴代誌下5:12~14

 

 今日は、少し長い引用となりました。私の大好きな箇所です。神様がおおいにほめたたえられて、それに応えるかのように主が現れた場面です。それは、超自然の力が働き、神殿に雲が満ちたのです。その密雲の中に主はとどまられました。私たちが主を賛美するのは義務でも、式次第に書いていあるからではありません。ソロモンがこの後で言ったことは私たちにも関係があります。ソロモンはエルサレム神殿を建てて、「いつの世にもとどまっていただける聖所をわたしはあなたのために建てました」と言いました。しかし、私たちは、パウロの説明の通りに自分自身が神様の聖所になって、主の臨在を体験することができるのです。それは、イエス・キリストの救いが完全で、信じる者を新しく造り変えることができたからです。私たちの内に聖霊がお住みになっておられます。そこで、主をほめたたえると、賛美を受けるにふさわしいお方が臨在をあらわにされるのです。主をほめたたえる言葉を覚えましょう。「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」。そして、「私は主イエス・キリストを信じて救われ、水と霊から新しく生まれました。主によって、私は永遠に聖霊の宮となりました。」と、告白しましょう。(さくま)

 

 7月18日(月)

恵みと慈しみを追い求める人は命と恵みと名誉を得る。

箴言21:21

 

私たちは毎日何を考えて生きているでしょう。社会に出て行けば、いろいろな人がいて競ったり、駆け引きをしたり、時には争うことすらあります。ある人たちは、金儲けのために頑張り、名誉が欲しいと努力する人もいます。安定や成功を求める人もいるでしょう。しかし、クリスチャンは人生の正しい道は聖書に記されていると信じています。例えば、今日の聖句もその一つです。自分の人生なので、自分で生きることの目的や指針を決めることができます。そして、ただ漫然と生きるよりも聖書から学んで自分はこう生きると決める方がはるかに良いのです。そこで、「恵みと慈しみを追い求める」と決めてみることにしてはどうでしょう。すると、毎日の出来事がきっと変わってくるでしょう。あなたの生き方が素晴らしいと周りの人たちはすぐに気が付きます。そこからみ言葉の通りに良い結果が生まれてくるでしょう。良い人生はいつでもあなたのものです。あなたが決めたらその通りになるのです。(佐久間)

 

7月19日(火)

イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

ヨハネ9:35~39

 

今日のお話は、9章のはじめから始まります。そこで起こったことをよく見て考えることは意義があります。イエス・キリストは裁くためにこの世に来たと言っていますが、それは、イエスと出会った人が信じるか信じないかで二つにはっきり分かれることを意味しています。そして、イエスを信じることは時にこの世では不利益となるのです。この生まれつきの盲人がそうでした。しかし、象徴的ですが、見えない者が見えるようになるとは、イエスがキリストであると見えるようになる者のことを言いたいのです。一方、ユダヤ人は、「見える」と言いますが、神から来た人が見えなかったのです。そこで、キリストのしるしであった盲人の目を癒して見えるようになった奇跡も、証人が目の前にいるにもかかわらず認めなかったのです。どうしてこのようなことが起こるのかと不思議に思う方もいるでしょうが、今も同じことが起こっています。教会の中でもキリストを疑い、聖書の奇跡を疑い、別のキリストである聖霊が現代でも送られて奇跡が起こると疑う人たちがいるのです。ですから、二つに分かれてしまうわけです。キリストとはそのように裁くためにこの世にいらしたのです。私たちは、イエスをキリストと信じて、聖書のみ言葉を神の言葉と信じましょう。今も主は私たちのために奇跡を起こすことも信じましょう。新約聖書に書かれた通りに聖霊の現れがあることも信じましょう。それでひどい目にあったとしても、み言葉の通りにイエスはあなたを慰め励ますために来てくださるでしょう。イエスはお優しいお方なのです。(佐久間)

 

7月20日(水)

イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むよがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。

マルコ6:31

 

使徒たちですら多忙を極めていたことが今日の聖句からも理解できます。そのような時に、主は休むように指示を出しています。つまり、休むことは大切なことであることがわかります。疲れ果ててはいけないということですね。働き盛りの人は、良い仕事ができるでしょうし、クリスチャンとして誠実に仕事をしたいと願う人も多いでしょう。しかし、どんなに忙しくても、休むことは必要なのです。効率学を作った人の最大の功績は、休まないよりも休みながら働く方が効率が上がって、多くの仕事ができることを実証したことです。休まずにダラダラと働くことは決して美徳ではありません。そもそも休むことを創造されたのは神様です。ですから、良く休む必要があります。正しく休むことは罪悪ではありません。休まなければ、必ずいつかしわ寄せがきて破綻します。そこで、上司は部下が休めるように気をくばる必要がありますし、休みをいただいた者は、上手に休む必要があるのです。なんでもバランスが大事ですね。主があなたを休ませてくださいますように。(さくま)

 

7月21日(木)

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

ヤコブ1:2-4

 

さて、今日の箇所は素晴らしい教えであり、実行すれば完全な者となれるという保証付です。では、この実行は難しいでしょうか。忍耐が大切であることは読めばわかります。しかし、多くの人はここで早とちりをして、自分の努力で忍耐しようとしてしまいます。それでは、うまくいかないでしょう。聖書を正確に読むと、「信仰が試されると忍耐が生じる」と書かれています。この忍耐のことです。この方法で完全になるというのなら、誰でも実行しなければなりません。しかし、忍耐が生じただけではまだ足りないのです。その忍耐を完全に働かせなければなりません。これが、課題となります。誰でも、聖霊の導きを受けて、この過程を通ります。しかし、この過程を成長へと結びつけることはそれほど簡単にはいかないのです。それは、忍耐できない人が多いからです。では、どうすればいいのでしょう。その答えは、意外にも簡単なのです。それは、もう一度聖句を読んでみるとすぐにわかります。「試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」。このみ言葉を実行することです。今風に言い換えれば、「ひどい目にあった時には、超うれしいと思いなさい」ということです。たいていの人は頭にきて怒ってしまうか、ひどく落ち込んでしまうかのどちらかでしょう。そうした当たり前の反応はしないことにします。そうではなくて、この上ない喜びと思うのです。ここに秘密があります。これは実行した人だけがその結果を知っています。そして、そこから信仰→忍耐→成長→完全、という仕組みで進んでいけるのです。あなたが望んでいたようなクリスチャンになることができるのですから、早速、このみ言葉を自分のものにしてしまいましょう。(佐久間)

 

7月22日(金)

こうして、ヤコブはラケルをめとった。ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、さらにもう七年ラバンのもとで働いた。

創世記29:30

 

ヤコブ物語は確かに面白い。ヤコブは、伯父のラバンのもとへ行き、そこで伯父の二人の娘のうち妹のラケルを愛した。そこで、伯父はヤコブがラケルと結婚する条件として七年間働くことを課した。そしてヤコブはラケルと結婚するできることを楽しみに働いた。七年が経って、いよいよ結婚式を挙げて翌日隣を見ると姉のレアが寝ていた。伯父に騙されたのだが、伯父はさらに七年間働けば妹のラケルとも結婚させると約束した。そこで、ヤコブはさらに七年間働いたのだ。ヤコブは愛するラケルと結婚するためになんと十四年間も一生懸命に働いたのだ。それゆえに未だユダヤ人に尊敬されている。十四年もラケルのために働くことにより、ヤコブにとってラケルはさらに大切な存在になっていった。さて、私たちも何かのために自分を犠牲にして働いたことがあるだろうか。それも長期間にわたってである。母親の場合は、子供のために長い時間無私で働いてきたのではないだろうか。そのために、母親にとって子供はとても大切なものとなるのである。家族のために一生懸命働いてきた父親もまた家族が何よりも大切なものとなるのである。天の父も驚くほどの犠牲を払って私たちのために働き続けているので、私たちが神にいかに愛されているかがわかる。(佐久間)

 

7月23日(土)

イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

マルコ2:15~16

 

レビはマタイのことです。後にマタイの福音書を書きました。つまり、彼は罪人として蔑視される人だったのです。イエス様の物語を読んでいくと、明らかにイエス様は人を探していてることがわかります。見つけると迷うことなく弟子にしています。問題は、その弟子の基準がどうも一般常識からすると外れているのです。つまり評判の良い正しい人というよりは、その逆の罪人や社会の嫌われ者でも平気で弟子にしています。漁師もいれば愛国者もいます。ここでは、食事の時の様子が描かれていますが、大勢の人が従ってきたのでその中に多くの徴税人や罪人も混じっていたのです。立派な宗教家であれば、そうした評判の悪い人たちと一緒にいるはずがないという常識があるのですが、当時の宗教でもラビ(宗教の教師、律法学者)は徴税人や罪人と一緒に食事をしてはいけなかったのです。しかし、イエス様はそんなことはお構いなしで、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と諭します。そうして主は罪人を招かれたのです。私たちもそう言って、探しに来てくださった、主にすぐに従って今日まできました。食事をする時に目には見えませんがイエス様が一緒に食事をされているのではないかと見回してみたくなります。たとえ粗末な食事だったとしても分かち合っていただく時、主がその中にご一緒にいてくださるのです。(さくま)

 

7月24日(日)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。

フィリピ1:9、10

 

この祈りはあなたのためにささげられています。ここで注意してみるなら、本当に重要なことを見分けられるようになることが大切であることがわかります。そのために、ここには「知る力、見抜く力」そして「愛」が必要であることもわかります。つまり、キリストの目で何が重要なことか見分けなければならないということです。世の中には勘が鋭い人や人を見抜く者もいます。しかし、キリストのような愛を持って全てを見る人はいないでしょう。愛のフィルターがかかればたちまち人を見たときに見えるものが違ってきます。ペトロはこの力を用いて、癒されるにふさわしい信仰があるかないかを見分けました。あなたにも主は、この力を与えたいと思われているはずです。そうであれば、誰かがあなたのために祈っているのです。主に献身を新たにしましょう。ワクワクする人生が待っています。(さくま)

 

7月25日(月)

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。

詩篇46:2~4

 

恐れてはいけないと度々教えられてきたが、詩篇には自ら恐れないと公言する信仰者がいる。たとえこの世界が天変地異で崩壊して行くとしても、決して恐れないと言うのだ。それに比べれば、人間関係で悩むことがあっても、試練に遭って苦しむようなことがあったとしても、恐れることはない。その根拠は、私たち信仰者には、とっておきの避難所があるのだ。それは、私たちの神だ。神こそが避けどころ、困った時の砦なのだ。そのことをまだ知らないのなら、このみ言葉を暗唱していつでも思い出せるようにしておくことだ。あなたを絶対的に守ることができるお方は、万軍の主と呼ばれる。この主がいつでもあなたと共にいるのだ。誰が敵対できるだろうか、悪魔も震えおののくであろう。「神がみ声を出されると、地は溶け去る」。圧倒的な主の御力があなたを守るから、その主を信頼して今日も元気を出そう。(サクマ)

 

7月26日(火)

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

詩篇37:4

 

あなたの願いは何だろう。「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と聖書に書いてある。さて、願ってもかなわないと言う人は、御心でないことを願っている可能性があるし、すべてに時があることを忘れているのかもしれない。しかし、根本的なことを理解していない人もいるだろう。実は願いがかなえられないもう一つの理由があるのだ。この約束の前に条件が書いていあるのだが、それを正しく理解していないか、実行していないのだ。「主をおのれの喜びとせよ」、このみ言葉を忘れている。主をおのれの喜びとするにはどうすれば良いのか考えてみよう。多くの場合、主ではなく自分をおのれの喜びとすることを願っているので願いがかなわない。これは信仰の問題であり、生き方の問題なのだ。強く考えることは、「主をおのれの喜びとすること」。そのことに心を向けていくだけで、良い変化が期待できる。早速、実行してみよう。(サクマ) 

 

7月27日(水)

しかし、人の中には霊があり悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になればふさわしい分別ができるのでもない。

ヨブ32:8-9

 

これは旧約聖書の中の知恵文学というジャンルに出てくる言葉です。こうした文章には、考えるヒントがたくさん詰まっているのです。ですから読んですぐにわかったと思ったら、それ以上考えることはないのでそれでおしまいです。こうした知恵と言われる箇所では、立ち止まって何日か頭の中で熟成させる必要があります。確かに、歳をとることは誰にでもできますがそれで何もかもわかるようになるわけではありませんし、分別のない老人だって少なくありません。そのことは、経験から十分に知ることができます。さて、皆さんが気になる箇所といえば、「人の中に霊があり」とか「悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」という言葉でしょう。悟りとは、何かを調べたり、学習して得るのではなく、天啓を得て突然全てがわかるような経験です。それが神の霊、つまり聖霊によって与えられると言っているのです。しかも、人の中の霊の存在を初めに出しているので、悟りのメカニズムが霊的な領域で起こることを示唆しているのです。そのことがわかると、真理を理解する方法が聖霊との交わりの中にあることもわかってくるはずです。ここに出てきたのものは全て目に見えないものですが、人間が十分理解できるもので、しかも人間に必要なことなのです。目に見えないものを否定する者には今日の聖句の後半が教訓となるでしょう。(佐久間)

 

 7月28日(木)

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

ガラテヤ3:26、27

 

ここでは、「あなたがたは皆」と二回も「皆」と言われています。この「皆」の中に私たちも入っていることが嬉しいのです。ガラテヤ書を読むと、律法がダメなら信仰があるさ、と言っているように感じます。それなのに、では信仰はどうだろうと考えだすと急に自信がなくなるかもしれません。どれだけ頑張れば合格と言われるのだろうかと不安になるのです。確かに立派なクリスチャンはたくさんいます。少なくとも自分よりも立派な信仰の持ち主は大勢いるだろう。それに比べ自分の信仰は風に揺らぐ葦(アシ)のようだ。いかにも頼りない。そんなふうに考えて自分の信仰はダメだと決めつける人もいるでしょう。しかし、聖書をよく見てください。はじめに指摘した通りに、「皆」と書いていあるのです。つまり、信仰の達人や勇者でなくても構わないのです。弱い弱いと認めても、そのことが問題にはならないのです。聖書に書かれた通りであると認めればいいだけです。そこが明確になれば、神の子として、キリストを着ている者として生きていけるのです。(佐久間)

 

7月30日(土)

わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

フィリピ3:9

 

今日の箇所は不思議な聖句です。読んですぐわかる人と何年経ってもわからない人に分かれてしまうからです。例えれば泳げる人と泳げない人、自転車に乗れる人と乗れない人のようにはっきり分かれます。しかし、水泳でも自転車でも、練習やコツをつかめれば誰でもできるものです。信仰による義は、もっと簡単です。泳げなくても、自転車に乗れなくても達成できます。それは、自分で達成しなくていいからです。しかし、真面目なクリスチャンは、長年の教育の賜物なのか、自分の義をなんとか達成しようといつまでも格闘しています。そのような苦労の果てにもし自分の義を達成したとしても、それで天国に入れるわけではないのです。本当に骨折り損のくたびれもうけ、となってしまうのです。彼らは、救いに関して見当違いなことを一生懸命やっていることになります。イエス様の時代から、現代まで残念ながらこのような人たちは後を絶ちません。たぶん、自分の身に着いた思いや思考が自分を縛っていることに気がついていないのかもしれません。そこで、どうすればいいのかと言えば、もっとも簡単な克服方法は、わかったとひらめくまで、ゆっくり繰り返して、この聖句を読んでみることです。それだけで、わかると思います。聖霊はちゃんと働いてくださるのですから、信じてみましょう。良いことが起こりますように。(さくま)

 

7月31日(日)

ダビデはそこを出て、アドラムの洞窟に難を避けた。それを聞いた彼の兄弟や父の家の者は皆、彼のもとに下って来た。また、困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆彼のもとに集まり、ダビデは彼らの頭領になった。四百人ほどの者が彼の周りにいた。

サムエル記上22:1-2

 

 

日曜日ぐらいゆっくりと聖書を味わいたいものです。英雄ダビデは、王になる前にはサウル王の側近である近衛隊の隊長でした。民衆の憧れの的です。それが一転して国家のおたずねものになってしまいます。いま流に言えば、反政府ゲリラの頭領みたいなものですが、実際には、ここに宗教と信仰が入り込んできます。神様はこの時代、大変身近に感じられたのです。そして、預言者サムエルを通して神意でダビデは王になることが告げられますが、簡単に王になれません。はじめの家来も、ここに出てきた通りに、家族か、貧しい者か、借金で首が回らなくなった者か、社会の不満分子のような者ばかりだったのです。かつての近衛隊のエリート集団とは訳が違います。彼らにとっては、社会がヒックリ返らない限り希望は無かったのです。それにしても、ダビデはこれでは戦っても勝てそうにありません。しかも、さらに悪いことに、四百人もの人たちを食べさせていかなければならなくなったのです。この悪条件のもとでダビデが王にふさわしい人となるように訓練が始まります。あなたは、このダビデの立場に立ちたいでしょうか。ダビデの訓練の主なものは、自分の力に頼らないこと、主への絶対的な従順を身につけることでした。肉の思いを断ち切らなければ、サウルの二の舞となることは目に見えていたのです。そこで、我が身を捨ててこそ、主は生きて働かれることを知らなければなりませんでした。そのダビデの信仰の様子が赤裸々に書かれているのがサムエル記ですから、面白くないわけがありません。是非、サムエル記をお読みください。信仰のあり方が学べます。(さくま)