8月1日(月)
わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々とともに恵みの分け前にあずかるようになるためである。
使徒言行録26:17
これはパウロがアグリッパ王の前で弁明したときのこと、自分がいかにしてイエスをキリストと信じたか証をしたときに、ダマスコ途上で強い光の中からイエスがパウロに語りかけた、そのみ言葉を伝えている場面です。このパウロの働きを約二千年に渡って教会は引き継いできたのです。時代は移り変わってもその証言は変わっていません。私たちが皆パウロのように宣教師や使徒の働きをするようには召されていなくても、福音を伝えるようにとの主のご命令はやはり引き継いでいるのです。ですから、ここに書かれた主のお言葉は、伝えるべき働きの要点がまとめて述べられているのです。このことを覚えることによって、私たちは容易に福音を語ることができます。パウロは、このイエス・キリストのお言葉を受けて、キリスト教を世界に広めたのです。そして、律法のような良い教えを守る人間の努力では救われないことを明らかにし、イエス・キリストの贖いを信じて悔い改め、神が与えてくださる義をただ信じて受けることを教えたのです。罪ははなはだ悪性で、人間の努力では克服できないのです。ですから、イエス・キリストの救い以外には解決できないのです。その救いを受けるにはイエスを信じることが不可欠です。信じるためには、誰かが伝えなければならいのです。そのために神が選んだ人の一人があなたなたっだのです。(佐久間)
8月2日(火)
わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知(って)・・・いた。
エレミヤ1:5
中学生の時に、新しく赴任した美術の先生が授業で陶芸をやろうということになり、早速粘土をこねて作品を造ることになった。初めてのことでみんな苦心しておもいおもいのものを形造った。その出来栄えは、お世辞にも上手なものはほとんどなく、これはゴミになるだけだろうと思わせるものが大半だった。ところが、作った本人にとっては違っていた。不恰好なものができたのに、かけがいのないものがついに誕生した、といった感じで、皆自分の作品を大事にしていたのが印象に残っている。聖書にも、神が人間を創造されたことが書かれている。土塊で体の形を造り、その鼻から神は息を吹き入れたところ生きたものとなった、と創世記に書いてある。そして、今日の聖句にも、もっと驚くことが書かれていた。つまり、胎内に生まれる前にすでに神は私たちを知っていた、というのだ。そうであれば、私たちの本質は、はるか以前より神を知っていたことになる。神が目に見えなくても信じたいと思うことも、何か超自然的なことが我が身に起こることも不思議に思わない。だから、普段は無関心であっても、いざ危急の事態にでもなれば誰でも「神様、助けて」と魂のある深いところから声が出てしまうのだ。それにしても、神と人間の関係はとても深いものがある。あなたが神を信じているのなら、それ以前に神があなたを知っていたということを覚えていたい。(サクマ)
8月3日(水)
神にはどんなことでもできます。
マタイ19:26
人間にはできないことがたくさんあります。できないことがあるので悩むのだともいえるでしょう。しかし、神にはできないことがないのです。そして、聖書が教える救いは、ただ単に罪の贖いや清めだけではなく、イエスが天で父にお願いして別の助け主である聖霊を信じる者へ送るという約束があるのです。そこで、どんなことでもできる神が信仰者の内にいつでも共にいてくださるということです。まさに一つになることが聖書に書かれているのです。それなのに、信仰者がどんなことでもできるようにならないのは、信仰の問題があるからです。そのことは新約聖書を調べればわかるでしょう。古い罪人の自分がキリストの十字架の死に結びついて、死んでいるということを信じきれないでいれば、クリスチャンになる前とあまり変わっていないと思うかもしれません。私たちはたいていの場合に、「自分にはできないが神には何でもできる」と信仰告白します。そして、へりくだった信仰から神の奇跡を経験してきたと思います。主は、「できればというのか」と疑り深い信仰をたしなめます。間髪入れずに、「主よ信じます。不信仰の私をお赦し下さい」と信仰を現してきたのではないでしょうか。ありがたいことに、あなたは小さくても弱くても大丈夫です。あなたの神が圧倒的にすごいからです。何しろ、あなたの信じる「神にはどんなことでもでき」るからです。ハレルヤ!(佐久間)
8月4日(木)
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
マタイ6:7
大昔から宗教は人々の中にありました。そして、そこには祈りが不可欠だったのです。日本でも祈祷を捧げる宗教は身近にあるのではないでしょうか。それは、祈祷文が定型で決まっていたり、呪文を繰り返しているように聞こえるものもあります。さてキリスト教ではどうでしょうか、これも教派によって異なります。祈祷書に書かれた通りに祈るような成文祈祷や私たちのように自由に祈る自由祈祷とに分かれます。聖書にはイエス・キリストご自身が弟子たちに祈りを教えている場面が記録されています。その一つが今日の聖句です。皆さんは、どのように祈りますか。私は牧師なので、しばしば大勢の人の前で祈ることがあります。それが何か大きな大会であったり、大勢の知らない人たちの前で祈る時には、緊張することもありますが、目をつぶって神様に祈るので気持ちで祈ることが多いと思います。しかし、時には何か祈りがくどくどと同じようなことの繰り返しになっていることもあります。そのような時には、自分で良い祈りをしなければと力が入り、頭もだんだん真っ白になっていると思います。なぜ、そんなことになるのかといえば、「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」からでしょう。それにしても、短く祈ることは難しいものです。マックス・ルケードは「私の望むとおりにしてくださいと神に願ってはいけない。正しいことをしてくださるように願おう」と書いています。私はもう少し神様との距離を縮めて祈りたいと思います。ダビデは、敵に囲まれて切羽詰まって祈るときに、どう祈っているだろうか。詩篇にはそのような祈りがたくさん出てきます。それを読むと、ダビデと神様との距離が近いことを思わされます。そうそう、少なくともだらだらと祈って神様を疲れさせないように気をつけたいものです。(さくま)
8月5日(金)
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
ヘブル10:23
厳しい修行を行い超人のようになって人々を導く地位に就いたとしても、人間としての弱さを克服できるわけではありません。ましてや罪の問題を解決することは自力では不可能です。しかし、厳しい戒律を遵守したり、命がけの修行をやり通したりすると、何がしかの精神世界に入り込むことができるのも人間の不思議です。それで、宗教は人間のいるところではどこでも無くなることはありません。人間が解決できない苦境を脱するには、神に頼るしかないからです。それでも、この世では汚れたことも罪深いことも日常茶飯事ですから、神の目を気にしない世界もあります。そのような世界に生きていれば、ソドムやゴモラのような状態が出現してきます。いくら頑張っても影響を全く受けないということはできません。もしできるとしたら、本物の信仰を持っていることが条件です。さて、今日の聖句を考えてみましょう。あなたの置かれた場所で、動揺するようなことが起こることがあるのです。信仰が揺り動かされてしまい、失望落胆するか、信仰自体が消え去ってしまうような感覚です。あるいは、神様を信頼できなくなるような非常事態が起こるかもしれません。み言葉には、「約束された方は真実な方」とあります。そうなのです、神様を「約束された方」と呼んでいるのです。そこで、信仰とは、神様の約束を信じて、希望を告白することであると言えます。その信仰を揺るがすようなことが起こったときにこそ、神様の約束に希望を置いていることを告白するのです。果たして、神様は驚くべき御力を持ってあなたの告白に答えてくださるでしょう。再臨前にはふるいの時があると言われていますから、今日の聖句を心に覚えることにいたしましょう。(さくま)
8月6日(土)
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
詩篇23:3
夏に体育のクラスをとったことがありました。汗をかいて死にそうになって、近くの喫茶店に入り、冷房の良くきいた席でアイスコーヒーを飲むのです。それは、まさに生き返る瞬間でした。お酒を飲む人なら良く冷えたビールとなるのでしょうが、いずれにしろ「生き返った!」と言うことがあるわけです。しかし、それは肉体の話で、魂のことではありません。魂だって、飢え渇くことがあるのです。ただ、一度も魂が生き返る飲み物とかのCMを見たことはありません。面白いことに、聖書には魂が生き返る飲み物の話が出てきます。イエス様自らが、「生きた水を与えることができる」とおっしゃり、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と語りました。それどころか「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と断言されました。つまり、魂を潤すような泉が飲んだ人の内側にできて、その水が永遠の命に至らせる、というのです。これがイエス様のなさる救いです。これでわかることは、律法を頑張って守ったら、というような条件が無いのです。ただ、悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じ、命の水をちょうだいすればよいのです。イエス様はそのために来られたのです。この方法によらなければ義となることができません。神様が義としてくださるのです。ありがたいですね。この恵みを素直に受ける人だけが生きた水を飲むことになります。(さくま)
8月7日(日)
わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
ヨハネ4:35、36
我が家の周りの田んぼには稲がはち切れそうなぐらい育っています。今年もこの分だと八月中に刈り入れが始まると思います。イエス様の時代にも麦を作り、収穫していました。そのような身近な光景をイエス様はよくお話の中に織り込んでいました。だいたい、この聖句が話題になるのは、伝道して種蒔きをした人と、それを収穫してバプテスマを施す人がいるというような時です。ある牧師が、「私は種を蒔く係だ。だから、次の牧師がバプテスマを授けることになるので、バプテスマがあまりないのだ」と話していました。そこには言外に損な役割だと言っているのです。ニール・アンダーソンの本の中に、あなたは大勢の人をキリストに導くと預言された牧師が、ガンを宣告されて、まだ200人ぐらいしか導いていないと嘆く話が出てきました。実は、一人の牧師が洗礼を授ける数はそれほど多くないのです。健康で生涯牧師として奉仕できたとしても、とても200人もの人に洗礼を授けることのできない牧師が普通なのです。ここに出てきた牧師は、まさに刈る人だったのです。皆さんも蒔く人にも、刈る人にもなることができます。自分に与えられた場所で奉仕すればよいのです。もちろん牧師だけが働くわけではありません。イエス様のお言葉を信じてください。既に色づいて刈り入れを待っているというのですから。そして、報酬もあることがわかりますね。祈って、主に願ってみてはどうでしょう。(さくま)
8月8日(月)
見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。
イザヤ49:16
あなたは賞賛されたり、賞状をもらったことがあるだろうか。あなたの功績がたたえられて立派な記念碑が建てられたり、永くその栄誉をたたえ名前を記す、といったことは普通の人にはなかなか起こることではない。ところが聖書を読んでいると驚くことに、神様があなたのことを絶対忘れることのないように手のひらに刻みつけるというのだ。神様は自分よりももっと偉い人とか、重要な人物のためにお働きになっているはずだから、自分のような取るに足りない者のことなど関心を向ける暇など無いはずだ。そんなふうに思っている人が意外と多いことを知っている。直にそのようなことを言う人たちを見てきたから、その人たちの気持ちがわかる。しかし、その人たちは大きな勘違いをしている。神様はそんなにちっぽけなお方ではない。全能なのだ。何しろ、人間ではなく神様なのだから。だから、人間には想像もできないすごい能力を持っておられるのだ。その神様ができないことなど何一つ無い。その神様はなんと、あなたのことが大事でならないのだ。オリンピックで金メダルを獲らなくても、あなたを愛して、あなたを励まし、誇りにしてくださる。手のひらに刻むって、半端ではないでしょ。それぐらい、あなたは価値があるのだから、自信を持って生きて欲しい。大きなトロフィーの銘板にあなたの名前が刻まれるよりも、もっとすごいことがすでに天で起こっていることを忘れないで欲しい。あなたは、最高なのだ。(サクマ)
8月9日(火)
御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
Ⅰヨハネ1:7
このみ言葉は聖書の最後の方に出てきます。それだけ、信仰者でも上級クラスの人のために書かれたようにも見えます。しかも、初心者のためのバプテスマクラスでも、必ず読むことになっているのです。つまり、クリスチャンにとっては初めから終わりまでこの真理に信頼して、何度も唱えて、初めて信仰の道を前に進める特別なみ言葉なのです。私たちは自分が何者なのかよく知っています。ですから聖なる者として生きたいのですがその難しさを知っています。肉に死んで、キリストに生きるならば、それだけで良いのですが、さまざまな誘惑にさらされて肉はすぐにでも起き上がってくるのです。それを放置していれば罪を犯すことになり、汚れてしまうのです。その度に、キリストの血で洗い清めていただくのです。人生で病気や虐待や貧困、それに差別など理不尽なことは決してなくならないのです。その当事者は、どれほど悩むことでしょうか。まさに罪の世界です。そのような悲惨な状況の中でも、キリストの血は力があります。自分の汚れをきよめ、また病をきよめ、罪を清めることができる唯一の方法なのです。罪をきよめられたなら、明るく、まっすぐに歩むことができるのです。早速、祈ってみましょう。(さくま)
8月10日(水)
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
エペソ3:19
罪人は神に背を向けて逃げているイメージで説明できる。神は愛なのだから、なぜ愛から逃げ出しているのか、不思議になる。それは神に罪を犯したからだ。創世記はそのことを実に巧みに説明してくれる。アダムがエデンの園で神に禁じられた木の実を採って食べてしまうという話を通してだ。この真理は孫たちを見ているとよく分かる。危ないことや親にやってはいけないと言われたことをその直後にやっている。日本語の文法をまだ習得していないので、否定文がまだわからずに肯定文だけしかわかならいから「ダメ」という意味が「イイ」に変換されているのではないか、と疑ってしまうほどだ。しかし、親に叱られると言い訳をしているから、いけないことがわかっていないわけではない。子供時代からこうなのだから、これが大人になればもっと大胆に神に逆らうことになる。しかし、神の御前に立つことは到底できない。だから、神がいないことにしてしまいたいのだ。そのためには、神に背を向けて逃走するしかない。このような人間の有様に神はたいそう失望されたのではないだろうか。ところが、驚くことに旧約時代の預言者たちを通してキリストが救いに来てくださることが預言された。そして、本当にキリストはナザレのイエスとして人間になって現れたのだ。しかし、結果はご存知の通りに十字架に磔にされて処刑されたのだ。人間の罪の恐ろしさでもある。ところが、神はイエスが十字架で命を犠牲にすることにより、私たちの罪の贖いとしたのだ。自分勝手に神に逆らって罪を犯し、逃げ出してしまうような人間をどうしてイエスは自分を犠牲にしてまで救ってくださったのだろうか。その答えは、今日の聖句の中にある。人知をはるかに越えたキリストの愛が答えなのだ。そのキリストの愛を知ることができるように祈り求めよう。そのことだけが、あなたを生まれ変わらせることになるだろう。(サクマ)
8月11日(木)
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、誰でも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
ヨハネ9:31
信仰は決して難しいものではありません。神様は何もかもご存知です。地球上に何十億人いようが、決して一人もおろそかにはしません。そこで、私たちの祈りはことごく神様の元に届いているのです。ところが、祈ったのに主は願いを聞いてくださらない、と文句を言う人が出てきます。そすると教会の中などで、それは自分の快楽のために求めているから聞かれないのだ、とたしなめられたりします。まだその時が来ていないから待たねばならないと言われます。別の人は、自分などの祈りは忙しい神様にとっては煩わしいことでしかないのだろうと勝手に祈りをやめてしまうのです。しかし、今日のみ言葉は単純でわかりやすですね。罪人の祈りは聞かない、ということは当たり前だと納得できます。また、下の句もしかりです。そこで、自分自身を反省してみることは意味があります。時々、自分を省みてみないと惰性で祈っていたり、自分に都合よく解釈して、信仰の質が低下してしまっていることだってあるのです。肝心なことは、神様を敬うことができているかどうか、この物差しで自分を測ってみるということは、大変わかりやすい良い方法なのです。神様の御心を行うということも自分を量る秤になります。そのいずれも試していないのなら、祈が聞かれるかどうかでわかることもあります。なぜなら祈りは信仰のバロメーターでもあるからです。ていさいの良い祈りよりも、正直に自分の胸を打つような祈ができればいいですね。(さくま)
8月12日(金)
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
ヨハネ15:4
今日、ハーブガーデンに行ってきました。そこにぶどう棚があって、大きなぶどうの実がぶら下がっていました。実際に枝につながっているぶどうの実を見てみると、イエスのお話が説得力を増して理解できました。私たちは、実を結ぶことができます。しかし、誰でもが実を結ぶことができるわけではありません。イエスとつながっている人だけです。それは、品性の実です。人間がいかに麗しく素晴らしい存在になれるのか、それはこのキリストによって実を結ぶ人にだけ可能なことなのです。自分がキリストのようになれるとしたらどうでしょう。それは、ありがたいことに人間の努力によって達成するようなことではありません。ですから、厳しい修行のようなことを必要としていないのです。キリストにとどまる、という条件だけを満たせばいいわけです。それによって、実を結ぶのです。これはイエスのお言葉なので確実です。今日からキリストにとどまることだけに集中してみましょう。(佐久間)
8月13日(土)
あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。
ルカ10:20
天国の仕組みがどうなっているのかは知りません。何しろまだ行ったことがないのです。しかし、聖書には今日の聖句のように、はっきりと名前が書き記されているというのです。確かに、他の箇所には「いのちの書」に名前が書き記されている人が天国に入ることができるということが示されています。そこで、何としても「いのちの書」に名前を書いて欲しいと願うことは正しいのですが、どうすればいいのでしょう。そのことは聖書に書いてあります。問題ならは、ユダヤ人の教訓があるということです。それは、ユダヤ人は自分たちは選民で特別だと思っていました。律法があるし、神殿もある。それだけではなく、割礼だってあるのだ。そのようにして、彼らは初め祝福されていたのですが、イエス様が現れた時には、対立し自分たちがいかに高慢であるかを暴露することになったのです。これと同じことが今日ではクリスチャンに起こっている危険があります。聖書をよく読み、福音をよく理解し、イエス様への信仰を深めていかなければなりません。つまらない教理論争や、自分の教派が一番正しい、とか自分の考えが正しくそれに反するものは裁く、と行ったようなことをいつの間にかやっていないだろうか。このようなつまらないことにならないように、主を知ろう。聖霊の恵みを味わい、喜ぼう。肉を喜ばせるこのないように色々なこだわりを放棄しよう。主との生きた交わりを求めて、主と共に歩んで行きましょう。救いは恵みであったのだから、素直に感謝して今日のみ言葉を信じましょう。(さくま)
8月14日(日)
ですから、私達は今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。
Ⅱコリント5:16
私が苦手なのは、詮索好きな人だ。これは男性でも女性でもいるし、決して少なくないのだ。そのために人のゴシップで食べている人たちも多いわけだ。身近なテレビでも雑誌でもご近所の主婦達の井戸端会議でも、どこにでもこの世の中に溢れている。汚い言葉に「ゲスの勘ぐり」というのだってあるぐらいだから、これは品性の問題なのだ。人には知られたくないことが何かしらあるものだ、それを何とか知ろうとするのは失礼なことだ。そっとして知らん顔するのだって礼儀だ。大切なことはどの人にも尊厳があって、尊ばれる権利があるということだ。今は、不幸な事情が重なって、ザアカイやマタイのように人から嫌われる徴税人となっていたとしても、イエスは声をかけた、サマリアの女にだって当時のタブーをおかしてまで声をかけた。どうして彼らを知ったのだろうか。このようなイエスのような知り方を身につけたいと思わないだろうか。いつだって、イエスの関心と同じように、人への同情と深い洞察力を持って、魂の声を聞けるようになりたいのだ。外見や、職業や人種も関係ない。今目の前で話している言葉すら関係ないかもしれない。大切なことは意外と言葉では語らないからだ。それよりも魂が叫んでいる声が聞きたいのだ。一旦、聖霊が触れると何かが起こる。私の前に来て人はいかにも良くしゃべる。しかし、そうした声のすべてが言いたいことではない。自分を縛るものがあって、なかなか言えない。二時間以上話してとうとう一番言いたかったことを一言も言わずに去ってしまう人だっているぐらいだ。だからこそ、人間的な標準で人を知ろうとはしない。主に祈りながら、内住の聖霊が働いてくださるように願いながら、対面することにしよう。愛がすべてに優先すれば、事態は必ず良い方向へ向かうから。主はお優しいからきっと助けてくださる。そのことをクリスチャンは知っている。(サクマ)
8月15日(月)
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
イザヤ40:28~29
人は時々疲れてしまいます。神様がわからなくなってしまうことだってあるのです。マックス・ルケードの「み言葉の宝石」の中に強制収容所の壁に書かれたある囚人の言葉が書かれていました。「私は太陽を信じます。たとえ、空は曇っていても。私は愛を信じます。たとえ、愛が示されなくても。私は神信じます。たとえ、神は何もおっしゃらなくても。」・・・どうでしょう。・・・信仰はとても個人的なものです。皆同じように見えても、実際にはだいぶ違っているものです。そして、その中で模範となるのはイエス・キリストの信仰です。イエス・キリストを知りたいのは、その同じ信仰を持ちたいと願うからです。私たちの創造主は、圧倒的なお方です。人間が想像しても理解し尽くせない高きにいます方なのです。その天地万物すべてをお造りになられた神が、あなたがいろいろなことがあって疲れた時に力を与えてくださるのです。そのことを信じることができるのは、あなたが主を知っているからです。そしも、主に愛されていることを知っているのです。だから、何か困っていても意気消沈するのではなく、信仰を持って祈ることです。主は必ずあなたのために最善を尽くしてくださいます。喜びましょう。感謝しましょう。讃美しましょう。人間的には無理難題でも、超自然の力で主が必ず解決してくださいます。だから、心配しなくても大丈夫です。(佐久間)
8月16日(火)
主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業。
イザヤ64:7
学校で授業中に作った本立てを随分長い間、捨てずに使っていました。中学校の時に作ったもので、それほど見栄えのいいものではありませんが、アイディアをかって技術の先生は通信簿に5をくれたのです。それで、なんとなく捨てられなかったのかもしれません。だから、他の人が見たら多分、「こんなの捨てちゃったら」と言われたかもしれませんが大事にしていたのです。もう一つ美術の時間に陶芸をすることになって、なんでも作って良いことになりました。それで、小さな花瓶を作ったのです。その時も美術の先生は通信簿に5をつけてくれました。その花瓶は一つだけ欠陥があって、水が漏るのです。そのために鉛筆立てになりましたが、これも捨てられずに長く使っていました。神様は、粘土でアダムを造り、そして私たちを創造してくださいました。聖書も「わたしたちは皆、あなたの御手の業」と書いてあります。私が作った花瓶がたとえ水が漏っていたとしても、私にはとても大切なものだったので長く大事にしていたのですから、神様は造られた私たちのことを大切にされることがわかります。人はとやかく言うかもしれませんが、神様の目にはあなたは尊い存在で特別の愛情を注いでいてくださるのです。だから、自信を持って今日を生きましょう。(さくま)
8月17日(水)
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
詩篇23:3
昨日嬉しいことがありました。このみ言葉の通りに主に生き返らせていただいた人がいました。絶望の淵から奇跡的に助け出されたのです。そして、正しい道へと導かれました。それは、その人本来の素晴らしい姿が現れていたことでわかります。人生は時には悩み、苦しむことがあるかもしれませんが、主を信じる者には必ず助け主がいます。神の知恵で最善を尽くしてくださるのです。ですから、希望があることを忘れないでください。人間にはできないことでも神にはできるのです。だから、行き詰ることがありません。信仰が試されることがあっても、同時に執り成してくださる方も備えられているのです。主のお苦しみが我が身に及ぶこともお恵みであると聖書は教えています。時には、善意が誤解され、不当な仕打ちを受けることだってあるかもしれませんが、主はもっと理不尽なひどい目にあったことを覚えましょう。そして、主が愛してくださったように、隣人を愛しましょう。それが主と共に働かせていただく者の特権なのです。これはやはり義の道ですね。(佐久間)
8月18日(木)
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
ヘブル10:37~39
私たちは弱そうに見えますが、未だ信仰を捨てることなく置かれた場所で待っています。主が必ず迎えに来てくださると信じているのです。その信仰をなんとか覆そうと、敵である悪魔があの手この手で攻めてきても、主がそれを上回って助けてくださるので、信仰はさらに強くされました。なんの取り柄がなくても、約束を待望することができます。この世が全てであれば、なんとつまらないことでしょう。しかし、聖書は明確に世の終わりが来ることを告げ、それだけでなく主が再び来られることを預言しています。その時に、忍耐して信仰を守り続けた人たちに驚くべき報いがあるのです。そのことを励みに、多くの聖徒たちは信仰によって生きているのです。敵の脅かしがあろうと、何が起ころうとひるむことはありません。イエス・キリストは圧倒的に私達の主の主、王の王なのです。私たちは知っているのです。主の愛が迫ってくることを。そして、自分自身が主を慕っていることを。人間の努力などたかが知れていますが、信仰は別です。イエス様の信仰をそれぞれがいただいています。イエス様にならい、なんとか近づこうとしています。自分へのこだわりも捨て去り、何もかも失った物乞いのようになって主を求めるのです。目の前に押し迫る困難も信仰で乗り切るしか方法がないので、信仰を奮い立たせるのです。そうやってもうどこにも自分を誇ることができないようになって、「イエス様」と呼ぶのです。主は遅れることはありません。(さくま)
8月19日(金)
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。
ルカ12:15
人間は何が最も大切なのかいつの間にか忘れてしまいます。この世に物があふれていて翻弄されているのです。また、いかに良いもの高価なものをたくさん持っているかが重要だと思ってしまうことだってあるのですが、それではきりがなくなります。ここでイエスは「貪欲」という言葉を使われました。貪欲はもちろん罪です。もともと貪欲は、本来神のものを自分のものとすることだと言われてきました。日本のような社会に住んでいれば、物があふれている消費世界にいるために、ものを集め始めるときりがなくなります。そのために収納の問題が出てきて、購買が止まるのです。買いたいのに家にもう入らないので買えない、ということです。消費が冷え込めば景気が悪くなる、それじゃあ困るから住宅事情を改善し、もっと家を広くする政策を立てれば、また人々は買い始めると考えるのです。しかし、イエスはここで「貪欲」のもつ本当の意味を教えています。つまり、命を財産で測ることを貪欲というのだと説明しています。しかし、実際には人の命は財産によってはどうすることもできないのです。私たちが問題にしているのは永遠の命ですが、それは神を知り、イエス・キリストを知ることだと聖書を教えているのです。この世の財産でできることではありませんね。ところが、人間は財産がたくさんあれば安心だと言い、有り余るほど物を持っていたいと願うのです。それを達成したとしても、死んでしまえばおしまいです。何の意味があったというのでしょう。イエスはそのことを気にしていたのです。(佐久間)
8月20日(土)
主はご自分に属する者を知っておられる。
Ⅱテモテ2:19
あなたは不思議に思わないだろうか。なぜ、自分のような者を主は十字架で苦しまれるほど愛してくださるのだろう。それに、今までの自分の生活を振り返ってみれば、決して自慢できるようなものではない。それどころか、恥ずかしいことばかりだ。特に、信心深いわけでもなく、パウロのように「律法については落ち度がありません」、などと決して言えないし、後悔することは山ほどある。主に喜んでいただけることなど何もしたことがない。それなのに、主は何度でも罪を赦してくださる。洗礼を受けてからもう何年が経つのかすぐにはわからないほどの時間が経過したが、一体どれほど信仰に成長したのだろう。恥ずかしい限りだ。それでも、私たちは知っている。主が特別、心を注ぎ、愛情深く見守っておられることを。聖書には「主はご自分に属する者を知っておられる」とある。そう、私たちは主に属する者なのだ。だから、今日まで信仰を持ち続けることができたわけだ。主があなたを見捨てないのは、あなたを知っているからだ。表面的なことを言っているのではない。あなたの深いところまで主は知っているから、だから、決してあなたを見捨てることなどしないのだ。あなたは、主を信じて救われ、ブドウの枝につながっている実のように、主につながることによって確実に実を結んでいる。これこそが救いなのだ。あなたは主に愛され、そして主は愛する者を知っている。過去に縛られてはいけない。あなたは特別で、主に知られ、そして主を知ることができる存在なのだ。なんといっても主に属している者だと素直に認めて、今日は少し気分良く一日を過ごすことにしよう。(サクマ)
8月21日(日)
心尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
箴言3:5
これほど簡単な真理はありません。なのに、主に拠り頼むことよりも自分の悟りに頼ってしまうので問題が起こっても解決できずに結局悩んでしまうのです。キリスト教の難しいところは、自己放棄と言えるようなことがあるからです。どうも私たちは何もせずに主に頼ることが納得できないのです。普段は頑張っていると何とかなるのですが、ある日気がつくと難しい問題が起こっていて、自分の力ではどうすることもできないとわかると、言いようのない不安にさいなまれ始めます。そこで、「神様・・・」と祈るのですが、今日のみ言葉はすっかり忘れているのです。そこで、今度悩みに襲われたなら、このみ言葉を何度も声を出して読んでみましょう。そして、実行するのです。試行錯誤して、悩みから解放されるまで、このみ言葉の通りにやってみるのです。きっと、何か大きなことを体得すると思います。(佐久間)
8月22日(月)
あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。ヘブル10:35
信仰生活も長くなるといろいろな危機が訪れることがあります。人につまづくことだってありえるし、何となく信仰が弱ってくることも起こり得るのです。悪魔は、情け容赦なく人の弱みに付け込みます。油断していれば、たちどころに何か問題が起こってきます。その逆に信仰が充実していれば、平和が続くのです。信仰が大きな報いをもたらすことに気がついていない人はいないと思いますが、時に信仰を投げ出してもいいかな、と誘惑に遭うのです。誰が何と言おうと、イエス・キリストを信じる、という信仰が大きな助けとなっているクリスチャンは多いのです。主は悪魔とも戦ってくださいますし、強い天使を送ることもできます。また、信仰者の手のわざを大いに祝福することもできますし、どのような状況に置かれても平安でいられるようにすることもできるのです。それに、聖霊のバプテスマを受けたかどうか、確信が揺さぶられる人もいますが、人間の感覚で測っても意味がないのです。信仰は確信なのです。だから、受けたと信じることがその後に大きな違いを生むのです。今日は、確信を深めているかどうか自己吟味してみましょう。悪魔に翻弄されない秘訣も、確信を持ち続けることですから重要ですね。(佐久間)
8月23日(火)
彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのずべての苦しみから救い出される。
詩篇34:17
通常は平凡に暮らしていても、何か困ったことが起こると主に頼る。その困難な問題がどんどん深刻になると私たちはとうとう叫び出す。主に叫ぶ。その叫ぶ声が虚しく消え去ることはない。主は聞いてくださるからだ。これは驚くことだが真実だ。そして、聖書は、「彼らをそのずべての苦しみから救い出される」と明言している。だから、私たちは、どんな時でも主に望みを置き、主を待つことができるのだ。今日、何か悩みがある人は、主に叫んでみよう。いつまでもいたずらに苦しむ必要などない。主の解決を驚きを持って見ることになる。主の御名をほめたたえよう。忠実な信仰は必ず報われる。(サクマ)
8月24日(水)
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
ルカ24:32
これは有名な「エマオへの途上」と言われるイエスが復活した後に起こった出来事の中の一節です。キリスト教に導かれて、クリスチャンとなり、それからここに書かれているように「心は燃えていたではないか」というような経験が何度かありました。イエスを求めて行く中で起こる経験だと思います。青年会の時代にも、牧師になってからもありました。また、信仰を共にする者の間に起こることもあります。この経験をした二人、そしてイエスの復活を確かめた十一人の弟子たちとその仲間も心を燃やしたのです。それから約二千年の後に、私たちも同じイエスの弟子となって、心を燃やすのですから不思議です。復活したイエスは今も生きておられるのです。あのエマオへの途上で二人に出会った時のように、イエスは、あなたの後から追いかけてきて、あなたに話しかけるかもしれません。きっとあなたは気がつかないかもしれませんが・・・。主があなたの近くにおられて働かれるときに、あなたの心が主の啓示に反応するので、心が燃え立つのです。パンを裂く主にお目にかかりたいものです。(佐久間)
8月25日(木)
あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。
詩篇63:8
あなたは思っているだろうか。「わたしの神は必ずわたしを助けてくださる」と。これはとても大切なことだ。このことを信じないで何を信じると言うのだろう。人生にピンチは度々訪れるが、それはいろいろな姿をとっている。何か失敗してしまう時、上司や誰かに叱られた時、罪を犯してしまい自責の念に苦しむ時、誰かに不当に攻撃される時、お金が無い時、病気の時、誤解されてしまった時、騙された時、裏切られた時、孤独になってしまった時、突然不幸が襲う時、とにかくいろいろなことが起こるものだ。その時に、クリスチャンはどうするだろう。クリスチャンで無い人との違いはなんだろう。それは、そのような時にこそ、「あなたは必ずわたしを助けてくださいます」と神に告白できることだ。そう告白する人だけが知ることのできることが下の句にある。「あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います」。これは明らかに神に助けていただいたことを意味してる。苦しみが喜びに変わる、ということをわたしたちは忘れてはいけない。だから、神の助けを必要とする人は、このみ言葉を唱えて信じる。神の助けを経験したら、喜び歌おう。(サクマ)
8月26日(金)
わたしは信じる 「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
詩篇116:10-11
面白いことに、「信じる」ということは、良いことがあったから信じるとか、奇跡を見たから信じるということだけではない。「激しい苦しみに襲われている」と言うときだってなおさら信じるし、不安の中でこそ信じるものだ。最も傷つく時だって、そう、人に欺かれるときだって主を信じることができる。もう何も信じられない、と普通なら言うだろう最悪のときにも、クリスチャンは「私は信じる」と心から言えるのだ。それほど、主は信じるに値するお方で、決してその信仰を無にするようなことはしない。「信じる」と信仰を現すなら主は必ず報いてくださる。だから、私たちは弱そうに見えても決して倒れない。主を信頼して報いられないことなどないのだ。さあ、「わたしは信じる」と言ってみよう。主をほめよ、ハレルヤ。(サクマ)
8月27日(土)
天地の造り主、主が あなたたちを祝福してくださるように。天は主のもの、地は人への賜物。
詩篇115:15、16
クリスチャンの特権は、主の祝福を知っていることだ。そして、互いに祝福を祈りあえることも素晴らしい。人生は悪いものではない。まして、クリスチャンは祝福された人生を歩むことができる。問題や困難がやってきたとしても、いつの間にか消えてなくなっている。自分の力を超えて難しいことをすることだって求められていない。ただ、自分で挑戦することは自由だ。そして、祝福は時に試練の中にあってもその人の品性を磨くことによって普通では得ることのない大きな財産となる。そして、この地上の生活も信仰者にとっては祝福に満ちているものだ。神がこの地を人への賜物としているからだが、罪人にはきっとその価値がわからないかもしれない。しかし、試練の中で悔い改めに導かれたなら、その人は目が開かれた人となって、この地の真の価値を見出すことになる。このように、天地の造り主が、あなたを祝福していることを信じていただきたい。そうであれば、あなたが困って行き詰るようなことは決して起こることはない。あなたの手の業が多くの祝福を生み出していくことだろう。あなたは恵まれた人なのだ。(サクマ)
8月29日(月)
生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵のある心を得ることができますように。
詩篇90:12
毎年、誕生日が来ることが楽しみであったのは一体いつのことだったろう。もう思い出せないほど遥か昔のことで、気がつけばずいぶん長く年月を重ねてきた。会社で働く人には定年があるが、その後どうやって暮らすのだろう。悠々自適に暮らすことができれば文句はないだろうが、そうでなければいつまでも生きることが大変だろう。では、クリスチャンはどうしているのだろう。今日のみ言葉は知恵に富んでいる。詩篇90篇はお葬式でも使われる聖句の一つだ。それだけ、人生について何かを考えさせる力があるのだ。人生といえば、どのように生きたかと問われているような気がする。たとえば、老人になっても魅力を増す人がいい。人が耳を傾けてこの老人の話を聞いてみたいと思われるような人の人生は、その人の生き方が良かったことを物語っている。ただ、偉人になることはない。平凡でも一生信仰を守り通した、ということこそが素晴らしいことだと思う。さて、今日の聖句を少し考えてみれば、今日という一日を無為に過ごすことはできなくなる。知恵ある人とは、今日という一日の大切さを知っている人のことだ。まだまだ生きられるといった考えからは、充実した意味ある人生は生まれてこない。今日一日の人生と心に決めて悔いなく生きることにしよう。(サクマ)
8月30日(火)
わたしはあなたの僕です。あなたが分からせてくだされば あなたの定めを知ることができます。主の働かれるときです。人々はあなたの律法を破棄しています。それゆえ、金にもまさり純金にまさって わたしはあなたの戒めを愛します。それゆえ、あなたの命令のすべてに従ってわたしはまっすぐに歩き 偽りの道をことごとく憎みます。
詩篇119:125~128
律法主義という言葉があります。とても嫌な意味の言葉です。律法を守ることを強調します。これはイエス様の時代にも見ることができたので、イエス様はその律法主義と対立する場面がいくつも書かれています。つまり、イエス様は律法の完成者でありましたので、律法を守ることの真の意味を理解しない者は結局律法主義者になり、それが害悪をまき散らすことを明らかにしたのです。どれぐらいたちが悪いかといえば、イエス様を十字架にかけて殺すぐらい悪いのです。この問題は深刻でパウロも初代教会で戦わなければならなかったのです。そこで、今日の聖句を読んでみましょう。律法は神様が分からせてくださらなければ正しくはわかることができません。困ったことに、律法主義の反対は自由という言葉を使って、放縦になることです。そのために、律法が破棄されてしまうと聖書に書かれています。下の句を読んでみると信仰者と神様の関係が際立っています。これは、明らかに神様を愛することによって律法の真価がわかったのです。神様に忠実に従いたいという思いの強さが律法、つまり主のご命令に従いたいという熱意になっているのです。そうなって初めて、偽りの道が見えてくるというわけです。私たちの神様は熱情の神様なので、私たちもこの詩篇記者のようにへりくだって僕の姿をとって、主に近づきましょう。信仰の世界は奥が深いのです。主への情熱は必ず大きな報いとなって返ってくるでしょう。(さくま)
8月31日(水)
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
ガラテヤ2:16
モーセの時代にイスラエルの民は神と契約を結びました。それで、律法を守り行ってきたのです。だから、律法を遵守することによって義となることをだれも疑いませんでした。それなのに、厳格な律法の遵守を実践するファリサイ派のエリートであったパウロが、こともあろうに「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」と言ったのですから、これはよっぽどの真理を悟ったはずです。その真理は、「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って」と語っていますから、義は人間の力で獲得するものではなく、イエス・キリストを信じることにより、神が義としてくださるということです。このことをめぐって長い間戦いがありました。今も例外ではありません。イエス・キリストを信じる信仰によって神が義としてくださる、という真理を信じることができる人は幸いです。(佐久間)