9月1日(木)
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
マタイ18:19
夜に電話をかけてきて、牧師に一緒に祈って欲しいと願う人がいた。その頃は携帯電話のない時代で、真冬の北海道から外の公衆電話で電話をかけてきていた。彼は一方的に一人で祈って、それで電話を切った。そんなことが何回もあった。それならば一人で暖かい家にいて祈ればいいのに、と思ったのものだが、今思えばこの聖句があったために、私に電話をかけてきて、二人で祈ることに意味があったのだろうと思う。確かに、今日の聖句は二人というところに意味がある。一人で祈る時には誰もいないために、かなり利己的な祈りや人前では恥ずかしくて決して言えないようなことでもあつかましく祈ることがある。しかし、二人いれば、そのような祈りはできなくなる。抑制がかかるので、純粋に信仰の祈りを考えるようになる。そこには本当に神に願わなければならい真実の祈りが生まれる。そして、一人よりははるかに二人の方が力強い祈りになるし、信仰も相乗効果で倍加する。それに、一人の時では抜けてしまっていた大切な事柄ももう一人が補って祈ることが可能だ。そもそも二人の人が心を一つに合わせることなど滅多にないことだろう。しかし、祈りの場では心は自ずとイエス・キリストへと向かうから心は一つになっていく。特に大切な願い事などがあって二人で祈ろうとなれば、祈りの中で一人の人のように心が一つに集中していくものだ。だから、何か問題が起こったり、主への願い事が起こった時には、信頼できるクリスチャンと一緒に祈ることは正しい。それが牧師や伝道師などでももちろん良い。牧師は守秘義務があるので、軽率に願い事の内容を漏らすことはない。それに魂に責任を感じているのだから、親身になるはずだ。このように、必要があればこのみ言葉の通りに二人の祈りをささげることも大切なことなのだ。夜に電話してくる彼は、決して自分のことを祈らなかった。教会員の〇〇さんが病気になったから癒してください、といった内容がほとんどだった。彼が寒さで震えながら祈っていたことを今でも懐かしく思い出す。(サクマ)
9月2日(金)
彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
使徒言行録19:2
旧約聖書よりも新約聖書を読む人が多いし、牧師の中には新約聖書さえ読めば良いと教えている人もいるそうです。プロテスタント教会であれば、旧約聖書と新約聖書を聖典と認めているのに、不思議な気がします。さらに言えば、今日の聖書箇所のようなことが今でも起こっていることです。それも例外的にではなく、広く起こっていることが深刻なことだと思います。聖霊のことをどのように説明しているか、これがその後の信仰者に大きな違いを生むことになるのですが、そこがうまくいっていないように見えます。パウロがエフェソ教会の信者さんと会った時にすぐに感じた違和感は、聖霊を受けているかどうか、という質問になりました。それぐらい明確に聖霊のバプテスマを受けたかどうか、その違いを感じ取ることができたわけです。これは人間の優劣ではありません。信心深いかどうかということですらないのです。知っているか知らないかの違いぐらいの差です。しかし、これが深刻な問題をはらんでいるのは、パウロが真っ先に問題にしていることからもわかります。救いの真理が聖書時代の教会と今日の教会では違ってしまった、などということはありえません。それこそ、聖書を唯一の拠り所としているのがクリスチャンであれば、どうして他のことは大抵聖書に書かれた通りに信じるのに、こと聖霊のバプテスマに関しては理屈を捻くり出しては聖書に書かれたことを公然と否定してしまうのはどうしてだろうと疑問に思います。一つには、聖霊のバプテスマを受けたと公言する人たちがいろいろ問題を引き起こすことが多々あるからです。勘違いしてはいけないのは、聖霊を受けたら全て自動的に変えられてうまくいくというようなものではありません。信仰の成長には本人の責任がやはり伴うし、品性をキリストのように変えていくには、聖霊の力によりますが、それに見合う信仰も要求されるのです。救いはいたってシンプルで間違いようがないのですが、それだけサタンの妨害や攻撃が激しいということなのでしょう。対抗するためにも聖書を学んでまいりましょう。(佐久間)
9月3日(土)
善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。
ルカ6:45
さて、自分の倉には何が入っているのだろう?イエス・キリストがお語りになったのだから、今も主は私たちの心をご覧になるのだろう。その時、どう思われているのか・・・。これは、自分が日頃何を語っているか気をつけていればきっとわかることだ。私たちが善い人となるかそれとも悪い人になるかは、自分の選択が多いに影響している。それは良心の問題のようにこれをして良いかどうかいちいち選択している。だから、聖書をしばらく読んでみるといい。その後の心の様子は良いはずだ。ただ、聖書を読む前に心の状態を悪くすれば聖書が読めなくなっているかもしれない。読んでも何も心に残らない時には、悩み事とか他の何かが心をいっぱいにしている時だ。それで、知恵ある人は好み言葉の通りに実行している。つまり、日頃から心の倉に良いものを入れることを意識的に実行しているのだ。そして、大切なことは、悪いものは絶対心に入れないと戒めていることだ。祈りながら聖霊の助けを借りて、このように実行すると生活自体が良くなっていくし、災いは近寄ってこなくなる。万が一何か良くないことが起こっても、その時にためていた良いものをすぐに取り出すことができるので、上手に対処することができるのだ。早速、この聖句の通りに実行してみよう。(サクマ)
9月4日(日)
しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世世限りなく神にありますように、アーメン。
Ⅰペトロ5:10、11
クリスチャンが苦しむことはあります。今も苦しみの中にいる方がおられるかもしれません。しかし、今日のみ言葉をよく読んでみてください。この苦しみは長く続きません。それどころか、この苦しみを通してあなたを完全な者にしてくださるというのです。確かに、何もなければ真剣に祈らないかもしれないし、聖書も答えを求めて必死に読むことなどないかもしれません。そして、自分の高慢や貪欲を悔い改めたり、人への思いやりが深められたり、赦せないと思っていた人をキリストのもとで赦せたり、肉の欲をすべて捨てたり、といったことや、信仰によらなければ何もできないと知ったり、聖霊の交わりを知ったり、人を恐れなくなったり、思い煩いを何もかも神にお任せするようになったり、と具体的に私たちは変わることになります。神を知らなかった時のように自力で何とかしようとしていたら失望するだけでしょう。このように、クリスチャンにとっては、苦しみですら良いものと積極的に捉えて、自分の信仰を成長させる機会とするのです。主は、私たちをキリストのような品性に得るために苦しみの荒野をあえて通らせるのです。主は、私たちを完全な者としようとしています。それこそが私たちが求めているものなのです。ですから、何が起こっても慌てずに、恐れずに、まず主の御前にひざまずき心を注いで祈りましょう。私たちは祈ることしかできません。しかし、その祈りに応えて神は完全に問題を解決してくださるのです。ハレルヤ!(佐久間)
9月5日(月)
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
ローマ14:17
イエス・キリストを信じてよかったと思うことは多いのですが、聖霊が何であるか知らなかった頃には理解できないことがありました。それは何かと言えば、今日の聖句にある通り、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」です。そのことがわからないうちは、食べ物のことでも安息日のことでも、すべてが律法主義だったと言われてしまっても仕方がなかったと思います。それだけ真面目に努力したのですが、完全には守れるわけもなく、自分に都合よく守っっていたのです。そのような人間的な努力は、人を裁く弊害が生じるので、疑問が生まれてきますし、努力すればするほど苦しくなるものです。それをごまかすようにして信仰生活を続けると、力の無い宗教に堕落するだけです。しかし、聖書には初めから正しい福音が書いてあったのです。それが目に入らないのですから驚きです。初めから偏見を持っている人には神の国は見えないのですね。神の国は神の支配のことだと言いますが、あまりピンとこないかもしれません。それで、今日の聖句を読んでみると聖霊は信じる者を義とすることができるし、神と和解できたことが明確になる平和を実感させてくださり、神が自分のためにいつでも働いてくださるので喜びがどんな時でも湧き上がるのです。これは、神に服従している者に現れることなのです。すべて恵みです。(佐久間)
9月6日(火)
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
ヨハネ17:15~17
イエス様を信じて救われたのに未だこの世に残っているのは、主の願いだからです。私たちにはそれぞれに使命があります。人と比べても意味がありません。一人一人に主がお決めになった使命です。それを果たすためにこの世に残されているのです。ですから、この世は悪魔が支配している世界ですから、「悪い者から守ってくださる」ようにとイエス様は天の父にとりなしてくださるのです。主の御言葉の中に、私たちクリスチャンがイエス様のように、もはやこの世に属していないことがわかります。それだから、聖なる者となるように真理が示されます。真理には聖なる者とする力があるのです。その真理とは聖書のみ言葉であることがこの聖句に書かれているのです。イエス様が天に帰って父にお願いして聖霊を送ってくださるとおっしゃったのは、神様のみ言葉が霊であるので、真理を解き明かすために真理の霊が必要だからです。人間の知力だけでは聖なる者にならないのは、このような信仰の法則が働いているからです。イエス様がこうして天の父にお願いしてくださったのですから、私たちは主を信頼して聖書に向かい、祈って真理の御霊が働くことを願い求めるのです。人間の能力や努力とは関係なく、ただ信じて聖なる者としていただきましょう。(さくま)
9月7日(水)
あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって わたしを囲んでくださる方。
詩篇32:7
人間は時々、隠れがに逃げ込みたくなる時があります。真面目に生きていても、問題が起こる時は避けることができません。誤解されたり、理解されなかったり、まして失敗したりしたら逃げ出したくなるでしょう。たとえ敵に囲まれてしまったとしても、私たちには救い主がいます。私たちは「イエス様」と、一生懸命に祈るでしょう。その祈りがむなしく消え去ることはありません。あなたを愛してやまない主は、苦難から必ず守ってくださいます。そのような信仰の経験は大きな報いとなって味わうことができます。救いの喜びは、この世の悪意ある者からも邪魔されることはありません。主が、信じる者を喜びで取り囲んでくださるからです。だから、元気を出して、主の御手に自分を任せるのです。どこから力が出てきたのだろうと驚くほどのエレルギーが湧いてきて、正しい道を歩み出せるはずです。主に感謝しましょう。(さくま)
9月8日(木)
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
Ⅰヨハネ3:1
クリスチャンの自分に対する評価は意外なほど低いものです。それが聖なる謙遜であれば良いのですが、間違った知識や思い込みならば、すぐに正す必要があります。今日のみ言葉を読んでみると、あなたが天の父なる神様に愛されていることがわかります。そして、聖書は、そのことを「考えなさい」と命じています。あなたは、ご自身を「神の子」と思っていますか。神の子であると自信を持って言えないのなら、やはり考えなければいけません。天の父なる神様はあなたを愛しているので、神の子にしました。そのために必要なことは全部神様が成し遂げられたのです。ありがたいですね。だから、胸を張って神の子であることを認めるべきです。信仰は何のためにあるのか、このためにあると思ってください。イエス様の犠牲も贖いも復活も全て、あなたを神の子にするためでした。あなたは、ありのままの自分を差し出して、信じて救われたはずです。だから、神様の救いが中途半端でないことを認めてください。アフタケアー付きで完璧なのです。だから、毎日笑顔で素晴らしい人生を生きることができます。周りの人たちがあなたが神の子であることを知らないのは、そもそも彼らは天の父なる神様を知らないのです。神様がわからないのなら、神の子もわかるはずがないのです。それで、あなたまで、神の子であるかどうかはっきりしないのなら問題です。どうか、「私は神の子である」と信仰を振り絞って宣言して下さい。「天の父が恵みでそうして下さいました」と告白しましょう。とにかくあなたは神の子であることを認めてください。そして、神の子として生きてください。(さくま)
9月9日(金)
イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
ヨハネ19:38-39
親しい人が亡くなった時に駆けつけたことがあるだろうか。私は牧師なので何度もそのようなことがあった。亡くなったばかり人のご遺族がどうしていいのか途方に暮れているような時に駆けつけるのだ。聖書にもイエスが十字架で処刑され、亡くなった時に二人の人が駆けつけたことが記録されている。この肝心な時に側近の弟子であった十二使徒たちは誰もいなかった。イエスが捕らえられ、弟子たちにも身の危険が迫ったために恐れて逃げていたのだ。しかし、皮肉なことに弟子であることを隠していた二人がそれぞれの思いを持ってイエスのもとに駆けつけたのだ。結局、ヨセフがローマ当局と掛け合いイエスの亡骸を引き取ることになった。イエスがまだ生きていた時にはユダ人を恐れて弟子であることを隠していた彼らが、なぜイエスが犯罪者として処刑された時にその遺体を引き取りに行ったのだろう。黙って知らん顔をしていたら、何の危険もなかっただろう。それなのに、彼らは多くのものを失う危険を冒して、いや命すら危険にさらして死んだイエスのもとへと走ったのだ。ここに人間の不思議がある。彼らはイエスがキリストであることがわかっていたのだろう。イエスが生前に語っていたことの意味を理解していたと思う。それは伝統的だが腐敗していたユダヤ人の宗教とは全く違っていた。重荷を負わせるだけだった重苦しい宗教ではなく、人々の重荷を降ろして解放するような驚きと喜びがある教えだった。イエスには愛があったのだ。イエスが死んだ時、彼らはイエスを信じていることを隠していてはいけないと思った。隠していたらきっと後悔すると思ったのだ。イエスの教えに感動し、心が震えた。そのことが今、鮮やかに蘇ってきた。イエスの弟子であることを表明したかった。イエスこそ旧約聖書で預言されていたメシアなのだ。そして、自分はその弟子だ。だからこそ、異邦人に汚されないように最愛の先生の遺体を手厚く葬りたい。このようなことが実際に起こった。あなたもイエスの弟子である。そのことを隠していないだろうか。私たちは十字架にかかられたイエスの弟子であることを隠さない。その十字架こそが私たちの救いであることを知っているからだ。(サクマ)
9月10日(土)
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から恵みの上に、さらに恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
ヨハネ1:16、17
イエス様は私たちをいつでも愛してくださいます。パウロによれば、「律法は罪の自覚が生じるだけだ」と言いますが、罪の許しを得させる悔い改めはイエス様の恵みの中から生じます。残念なことに私たちは何度も失敗するでしょう。だから、律法に裁かれてしまうのです。律法を遵守したいと思っていても罪に勝つことは容易ではないのです。ところが、イエス様によって恵みと真理が現れたのです。圧倒的な神様の愛が私たちに届いたのです。誰が私を愛してくれるのだろうと、思うと自信がなくなります。罪人の世界で十分愛されて成長することは稀なのです。皆自己中心なのですから、自分に都合の良い愛ばかりが与えられても、それで心が癒されることはありません。〇〇したら愛してあげる、といったことには散々傷つけられてきたはずです。律法はまさにそのように使われてしまいました。ところが何が神様の御心であるかイエス様は明確にされたのです。それは福音書に中に律法を守っていると豪語していた人たちから蔑まれていた、憐れな人たちにイエス様が示した愛によって明らかにされました。そして、イエス様が真理であることが伝統的な宗教の悪い考えをあぶり出し、間違っていることを証明したのです。ですから、イエス様を信じましょう。イエス様に近づくのです。イエス様の憐れみにすがることは大きな救いにつながります。あなたの主に対する信仰は恵みの中に導かれ、必ず報われます。最後まで主に忠実な者でありましょう。(さくま)
9月11日(日)
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らはに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
ヨハネ10:27、28
聖書を読んでイエス様を信じる、ということはここに書かれた通りに、イエス様の声を聞き分けているということです。やがて明らかになりますが、あなたがイエス様を信じると言うのなら、その信仰がだんだん強められ、イエス様を羊飼いとしてどこまでもついて行くという人生になります。いったいゴールはどこかといえば、当然天国です。天の家郷に帰るのです。羊飼いは羊を命がけで守ってくださいます。ですから、年をとって人生を振り返る時に、何度も危機を救われてきたことに気がつくでしょう。そして、すべて恵みであったと感謝がわいてくるのです。天の父があなたを選びイエス様にお与えになられました。イエス様はあなたをこよなく愛し、あなたを見る眼差しはとても優しいのです。どのような境遇に生まれていようと、ハンディキャップがあったとしても、なおさらイエス様は慈しんでくださるでしょう。私たちは人間の常識で裁かれることはありません。だからいつでも堂々と生きることができます。時には奇跡だって起こしてあなたを助けてくださるのです。イエス様はよくご覧になっているので、あなたのことをきっと褒めてくださいます。それがとても小さなことであっても、主は喜んでくださるのです。あなたはイエス様がわかればわかるほど、大好きになるでしょう。そして、だんだん小さな心が変わって行きます。イエス様のように考えるようになるからです。信仰は裏切られることはありません。時には、たった一人で奮闘しているような気になるでしょうが、もし目が開かれたなら、主が一緒にいて瞳のように守っていてくださったと知るでしょう。イエス様にかなうものは誰もいません。そのイエス様こそがあなたの主であり、救い主なのです。ハレルヤと讃美いたしましょう。(さくま)
9月12日(月)
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが 我らは力に満ちて立ち上がる。
詩篇20:8、9
クリスチャンが神様を信じるということは、本当にすごいことなのです。この世の人たちは人間の力で作ったものや人間の持ち物で自分の優位を認めようとしています。それが力になると思っているのです。ところがクリスチャンはそのようなやがて朽ちていくものや衰えて死んでしまうようなものにはより頼んでいません。だから、時に無力のように勘違いされて侮られたり、蔑まれたりすることすらあるかもしれませんが、時間が必ず答えを出します。どちらが真に力に満ちているのか明瞭になります。そこで、時には人が何か自慢していたとしても、そのことで心を悲しませてはいけません。また、この世の力を誇示して、あなたを圧迫してきたとしても、主の御名を讃美していましょう。やがて、あなたはその人が力を失ったことを知るでしょう。そして、あなたは、主に祝福され力に満ちてまさに立ち上がるのです。(さくま)
9月13日(火)
人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。
ルカ6:37
私たちはイエス様の教えを守りたいと願っています。しかし、一つ一つ読んでみるとなかなか難しいことに気がつきます。つまり、人間的な常識が全く通用しないのです。この通りに守れば、損をしたり、ひどい目にあったりするだけで、ちっとも良いことがないのではないか、そんな考えが浮かんでくるのではないでしょうか。つまり、人間的にだけ考えればこの教えは受け入れがたいと言いたくなるのです。しかし、後半部分はもっと考え込ませるはずです。なんと人を罪人だと決めなければ、自分も罪人だと決められることがない、というのですから。つまり、連動しているというのです。もちろん、後半部分は神様が罪人だと決めないと言っているわけです。これがイエス様のお言葉でなければ、納得がいかないかもしれませんが、イエス様のおっしゃったことであるので、真理と理解しなければなりません。すると、あなたの常識を超えて、神様の不思議が働き、主の全能で罪人だと決められることがないのです。このような命令が実はもっとあるのですが、いずれも人間の常識ではなく、自分を捨てて信仰で主に従わなければできないことばかりです。ただし、それを忠実に実行することで聖書の御言葉の通りの経験をすることができるのです。チャレンジがありますね。このようにイエス様の教えを守る人が神の国に生きることになるわけです。もし葛藤が生じても、それは無駄にはなりません。神様に早く降参する方がいいのです。こうして、私たちの心は変えられ、思いも思考も感情までも変化して行くのです。イエス様の徳の高さに少しでも近づきたいものですね。(さくま)
9月14日(水)
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
マルコ10:43、44
イエスの弟子たちは誰が一番偉いかと議論していた。その時に、今日のみ言葉と同じことを語っている(9:34、35参照)。つまり、弟子たちはイエスに諭されても悟れなかったのだ。では、私たちはどうだろうか、以前所属していた教団でも、外国の教団でも、この教えが理解されていないことをつぶさに見聞きしてきた。役職者を選ぶ選挙などがあれば、そこでは選挙運動が始まり、政治的な駆け引きが水面下で行われる。留学している時に、ある国の長老格の牧師はこんな話を聞かせてくれた。「わが国では、三人の派閥の長がいるのだ。第一の者は教団の理事長になり、第二の者は機関の理事長になった。そして、第三の者は私なのだが、何かなければ派閥を維持できないので、博士号を取ることになったのだ」と言うのだ。呆れたが、その国の文化と言うしかない。もっとも人間は生まれた時から自分が所属するグループの中で自分の順位を気にすることになっている。学校に入った時も、クラス替えになった時も、そのクラスで瞬時に自分の順位を見極めているのだ。そのような能力を持ったものが、会社や団体、あるいは教会などでも自分の順位を少しでもあげたいと思ったとしても、何ら不思議ではない。これは人間の深い本質だろう。ここから色々な人間の問題が派生しているのだ。ところがイエスは、逆説のように、常識の逆を説くわけだから、弟子たちは戸惑ったはずだ。もし、生まれたままの人間であれば、イエスが何遍同じことを教えても、弟子たちは変わることはなかっただろう。しかし、イエスの言った通りに、水と霊から新しく生まれたなら、彼はこの世の逆が神の国であることを理解し始めるだろう。ちょっと想像してみればわかる。皆が偉くなりたい、一番上になって権力を振るい、支配者になりたいと思うとしよう、そのような関係では相手を尊敬したり愛したりといったことは非常に難しくなる。その逆にみんなが偉くなりたいので皆んなに仕えることにし、一番下になって僕になろうとしたら、どうだろう。そんな社会では、事件は起こらないはずだし、ずいぶん気が楽になるのではないだろうか。多分、楽しく生きることができるはずだ。つまり、神の国はそうゆうものなのだ。(サクマ)
9月15日(木)
「見張りの者よ、今は夜の何どきか 見張りの者よ、夜の何どきなのか。」見張りの者は言った。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ もう一度来るがよい。」
イザヤ書21:11、12
聖書によると今は終末であり、しかもその終わりに限りなく近い位置に私たちはいることになる。終末を看板に掲げたような教会も少なくない。もちろん、世俗化の進んだ教会ではそれは大した意味があるわけではないだろう。ただ、聖書を普通に読めばキリストの預言の言葉にはっきりと世の終わりが出てくるし、聖書のいたるところに終末の記事を見つけることができる。キリストは時は天の父しか知らないと語ったが、弟子が「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」(マタイ24:3)と質問したときに、かなり詳細にその前兆を教えている。また、黙示録のような終末の教科書のような文書もあるのだ。それらを解き明かし、キリストの再臨の時、つまり世の終わる時を知ろうと多くの人たちがチャレンジしている。それこそ新約聖書の時代からだ。そして、少しずつ歴史に当てはめてはその徴の成就を確かめてきた。それはそれは長い時間の忍耐が試されてきたのだ。ちょうど、今日の聖句のように、夜明けを待ってきたのだ。しかし、まだ夜なのだ。ただ、この聖句には希望がある。「夜明けは近づいている」。どんなにひどい暗黒が続いてきたとしても、夜明けは確実に近づいているのだ。明確な時の徴があれば、まだ頑張れるだろうが、ただひたすら時を待って忍耐しなければならないことだってあるのだ。聖徒の忍耐ここにあり(黙示録14:12参照)。現状に満足できなくても、必ず夜明けが来ることを覚えて希望を持ち続けよう。なぜなら神は今も忠実に働いていてくださるからだ。(サクマ)
9月16日(金)
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
ローマ12:2
自分のクリスチャン生活を振り返ると、この世の常識を超えるような大きな価値観の転換が起こってきたように思います。時には、主の教えが難しくてできないことのように思っていましたが、「心を新たにして自分を変えていただき」、神の価値観に心を変えていただく過程であったと思えてきます。それまでは、自分の心のままに生きて、この世の人となんら変わらなかったと思います。それが信仰が与えられ、聖霊の助けを得て、時には試練に遭遇しながら、だんだん変えられてきたのだと言えます。この世で生きていながらそのような変化が起こるのですから、不思議になります。ですから、今はまだ自分に起こっていることの意味がわからずに困惑しているようなことがあっても、大丈夫です。主を信じなさい。感情に振り回されないように、み言葉を蓄えましょう。いつでも、信仰で物事を考えてみましょう。主に愛されているのですから、本当に途方にくれるようなことは起こりません。考えすぎないように気をつけてください。それよりも、主を信頼して、言葉に出して信頼を告白しましょう。あなたは、この世ではなく、神の国に生きていることをわきまえていてください。そうすれば、迷いは消え、主に従順になって、神の子として生きることができるのです。(佐久間)
9月17日(土)
彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますま、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。
ルカ18:38~40
イエス一行がエリコに向かって道を行くと、道端に盲人の物乞いがいた。今でも物乞いのいる国々があるので二千年経っても人間はなかなか変わることができないことを思う。アジアのある国へ行った時も、たくさんの物乞いを見た。アメリカにもいた。しかし、今日の聖書に出てくる盲人の物乞いは、私たちに大切なことを教えてくれる。イエス・キリストに「憐れんでください」と叫んでいる。人々が黙らせようとしてもますます叫び続けたという。その結果、イエスは立ち止まったのだ。この先を読めば、彼はイエスに目を開けていただいて見えるようになった。その時、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃっている。印象深い言葉だ。彼はイエスなら自分の目を癒すことができると信じていたのだ。だから、叫ぶことをやめなかった。私たちにかけていることがあるとしたら、それはイエスを立ち止まらせるほどの叫び続ける信仰だろう。他には方法がないのだとわかったら、イエスに叫ぼう。人々は常識を持ち出して、無理だというかもしれない。しかし、私たちは違う。主に憐れんでいただきたいのだ。主の憐れみにすがることが信仰なら、周りの人に左右されるべきではない。恥をかいても構わない。主が通り過ぎてしまわないうちに、勇気を出して主に叫び続けよう。何故なら私たちも目が見えていないのだから。イエスに「あなたの信仰があなたを救った」と言っていただこう。(サクマ)
9月18日(日)
あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。
ユダ24~25
これは、あなたのための祈りです。あなた自身の祈りとなるように、何遍も唱えてみましょう。もし、あなたがクリスチャンになっても罪に勝利できないと嘆いているのなら、このみ言葉にあなたを助ける答えを見出すでしょう。そして、主イエス・キリストこそが私たちを天の父のみ前に立つことができるように、あなたを非のうちどころのない者へと整えることのできるお方なのです。あなたは、この真理を知って、信じるでしょう。その信仰が奇跡を生み出すのです。私たち自身の変化は神との距離を変えます。前は、すぐに信仰が萎えて、世俗に染まっていたとしても、この真理を体得すれば聖なる者へと変わるのです。あなたは主を讃美する者へと生活そのものが変わるでしょう。主イエス・キリストがあなたのためにどれほど素晴らしいことをしてくださるか、それを体験してみましょう。あなたにとって、最も重要で必要な祈りがここにありました。それを今日知ったのですから、クリスチャンの醍醐味を味わってください。気がつけば、いつでも主を賛美していることでしょう。喜びにあふれたあなたの顔がいつも主に向かっていますように。(佐久間)
9月19日(月)
慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び心の中の板に書き記すがよい。そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう。
箴言3:3、4
あなたを知っている人はあなたをどのように評価しているだろう。私たちは、人の評価を無視することができない。そんなの関係ない、と言う者もいるがそういう人でも実際に否定的な評価を受けると落ち込むものだ。だから今日の聖句は読みとばして終わってはいけない。聖書はとてもシンプルで間違えようがないほど明確に言葉を伝えてくる。問題は、それを私たちが謙虚に受け取るかそれとも意に沿わない時には無視してしまうかで結果が大きく違ってしまうことだ。ほとんどの人が人生に成功して賞賛を浴びたいと思うのだが、実際にはほとんどの人がそうはならない。その理由は、あまりにも単純なのだが気がつくこともない。み言葉を信じて実践するだけなのだ。さて、あなたはどうしたいだろう。今日のみ言葉をよく読んで考えてみるべきだ。聖書は真理を示している。だから、慈しみとまことがあなたがいつも心がけることであるなら、あなたは「神と人の目に好意を得、成功するであろう」。もしそのモデルを必要とするなら、それこそがあなたの主、イエス・キリストなのだ。あなたの信仰は、このみ言葉のように成功へと導くだろう。(サクマ)
9月20日(火)
ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。彼らは竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した。
歴代誌上25:1
ダビデ王の物語は感動的であるが、いよいよ最晩年に主の神殿を造営する事になった。王位も息子ソロモンに譲る事になるが、ダビデはイスラエルの高官を集めてこう命じた。「今こそ、心と魂を傾けてあなたたちの神、主を求め、神なる主の聖所の建築に立ち上がれ。主の御名のために建てられる神殿に、主の契約の箱と神の聖なる祭具を運びいれよ」。最近のテレビは豊洲市場の地下問題で大騒ぎしているが、なんという違いだろう。歴代誌によると、国家総動員の大事業であることがわかる。さらにダビデは神殿運営がどれほどの大きな働きになるかを予見して、レビたちを組織したことが書かれている。さて、神殿の奉仕の中に賛美の務めがある。今日の礼拝とは随分違っている。そもそも神殿がないのだから本質的に違っているのだが、それでも詠唱者が組織化され、専門に訓練を積んでいたことがわかる。しかも、楽器の演奏と歌、それに預言がセットになっている。ダビデは、そのように楽器演奏と賛美者の聖歌隊を作り、一緒に主を賛美したようだ。その様子を見ることができればどんなにか壮麗で感動深いものであったろう。今日でも、教会に音楽はつきもので何かの楽器と聖歌隊の組み合わせは珍しくはない。オーケストラとパイプオルガンに聖歌隊という豪華な組み合わせの礼拝にも出席したが感銘深いものがある。しかし、そうした立派な礼拝においても預言があるということはないのが普通となっている。ただし、説教が神の言葉を語るものだから預言であるとする考えがある。事実、誰かは神の御声を聞いているものだ。「今日の説教は私のためのものでした」といった言葉を何度も聞いてきた。そういえば、このディボーションでも、「いつも私にぴったりの話で驚きます」といった言葉も珍しくない。つまり、信仰者には聖霊が働き、主はいつでも語ってくださるということだ。あなたは決して主に忘れ去られているわけではない。それどころか、主はあなたのことを自分の瞳のように大切に守っていてくださることを知らないのだろうか。あなたほど、主に愛されている人はいないのだ。その証拠に、あなたが主に心を向けて聞けば、主は何を使ってでも必ず語りかけてくださるではないか。あなたは主の関心事なのだ。主はあなたを心の楽しみにしている。だから、賛美して今日も明るく生きていこう。(サクマ)
9月21日(水)
わたしが小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。
詩篇119:176
(写真:LAW_KEVEN)
クリスチャンと神様の関係は麗しいものです。神様は決してあなたのことを無関心でいることなどできません。知恵を持ってあなたのことを将来にわたって考えていてくださいます。あなたは聖書が神様のみ言葉であることを知っています。しかし、時にはただの文字のようにむなしく読むことがあるでしょう。しまいには聖書を読むこともしなくなって、日常の忙しさの中で祈ることも忘れてしまうかもしれません。自分の心なのに神様から離れているように感じても、無視することだっってできるのです。どうしてそうなるかはわかりませんが、イエス様が道であることを知っているのに、いつの間にか違う道をさまよっていることがあるかもしれないのです。詩篇記者も今日の聖句を読むと同じことを経験したようです。ですから、「小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください」と祈ったのです。これは、私たちにとっても意味のある祈りですね。私たちは聖書を貪るように読んだことだってあるし、難しい言葉でも意味を理解しようと努力したことだってあるのです。そして、み言葉の素晴らしさや力を味わい知りました。だから、信仰が弱って、道に迷ってしまったように見えても、実はみ言葉は私たちの中にしっかり根を下ろしていて、忘れることはないのです。私たちにとってイエス様は主なのです。必ず、主は私たちを探しに来てくださるお方なのです。(さくま)
9月22日(木)
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
申命記30:14
聖書を読んでいると不意打ちのように心を打つ言葉に出会うことがあります。今日の聖句はそのような言葉の一つです。クリスチャンにとって何が力となるかと言えば、それは御言葉なのです。聖書に書かれたことを行うことができるのは、御言葉が「あなたの口と心にある」からです。そうであれば、御言葉を行うことができないのは、ごく近くにないからということにもなります。旧約時代の人たちは残念ながらうまくできませんでした。もちろん、今のように印刷技術もありませんし、現在のような本もないのですから条件は悪かったのです。それでも、律法を学ぶことはできましたし、守ろうとする文化があったのです。しかし、うまくいきませんでした。それで、新約時代を待つことになりました。つまり、私たちのよく知っている通りに、主イエス・キリストの到来により、救いの業がなされたのです。その仕上げのように、キリストの昇天後に約束の聖霊が弟子たちに降下して全く新しいことが始まりました。それは、エレミヤ31:33に見られるように、新しい契約で、「律法を胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」といった内容でした。パウロは、クリスチャンのことを「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に書きつけられた手紙です」(2コリント3:3)と証言しています。また、キリストが「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ6:63)とお語りになられました。ですから、内住する聖霊が働くこととみ言葉自体が霊であることにより、はじめて人に命を与えるのです。つまり、この状態になってようやく御言葉を行うことができるようになるのです。その結果が祝福となり、永遠の命へとつながっているのです。さて、御言葉はどこにあるでしょう。もうあなたは答えを知っていますね。(佐久間)
9月23日(金)
軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。
箴言12:18
言葉で失敗することがあります。たったひと言で人を傷つけてしまうことも決してめずらしいことではありません。ただ、言った本人は気がつかないことがあるのです。おしゃべりな人は言葉数が多いだけに人の神経を逆なでするようになことを言う危険がいつでもあります。最も深刻なことは、今日の聖句のように軽率なひと言が致命的な打撃を与えることがあるのです。そんなことにはなりたくないですね。そこで、聖書は知恵を授けてくれます。それが下の句の「知恵ある人の舌は癒す」という真理です。不思議ですね。同じ人間で同じ言葉を話しているだけなのに、知恵ある人は相手を癒すことができるのです。あなたはどうでしょうか。軽率に言葉を発するのではなく、知恵を用いて話すことを心がけてみましょう。知恵は、相手を見極め、相手の心に語りかけるものです。お世辞ではいけません。いつでも正直になることが良いのですが、相手を裁いてはいけません。ユーモアがあればもっと良いのです。相手をありのままに認め、キリストの愛が相手に流れることを願います。時には、沈黙という言葉だってあるのです。相手の心に寄り添うことができれば自ずと知恵の言葉が出てくるでしょう。今日は、一日自分の言葉に気をつけてみましょう。願わくば、自分の舌が誰かを癒すことになるよう主に祈ってみましょう。(佐久間)
9月24日(土)
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。
ルカ12:15
罪を考える時に、高慢と貪欲が真っ先に出てきます。貪欲は、神の物を自分の物とすることです。神に委ねて生きていると、自分の物が全て神から与えられた恵みであることに気がつきます。自然と感謝の思いが心から溢れてきます。しかし、人間はちょうどよく与えられているだけでは満足しない傾向があります。もっともっと欲しい、と思ってしまうのです。そのために頑張って働く人もいますし、物を溜め込む人も出てきます。また、あれも欲しい、これも欲しいと貪欲が溢れ出す人だって珍しくはないのです。では、クリスチャンは、やはり清貧でなければいけないのでしょか。そうではありません。ごく一部の人たちは、清貧の賜物をいただいているのでそれは無理のない祝福となっているのです。しかし、そうでない人にとっては偽善になる危険すらあるのです。クリスチャンになって一番良いことは、永遠を思うことができるようになったことです。主を信じれば、たとえ死んでも生きる、とのキリストの言葉を信じているのです。そして、キリストの再臨を待ち望むようになります。そうなると、何が最も価値のあるものであるかが見えるようになります。それで、お己を神の如く振る舞う高慢も、神のものを自分のものとするような貪欲にも大きく距離を置こうとしているのです。もちろん、信仰がなければ何もできないのですが。それから、普通にクリスチャンが生きていけることも忘れてはいけません。禁欲ではないのです。良き管理者になって主が与えてくださるものを上手に管理していると思えばいいのです。時々主が精算してくださいます。自分の管理能力にぴったりに主の財産を管理させてくださる、というような感覚です。ですから信仰に成長していけば、それだけ多く管理することになります。それも、自分に与えられた才能や霊の賜物を生かすことによって成立しているのです。いつも喜んで、すべてのことに感謝し、絶えず祈る、そうゆう生き方であれば何も心配することはありません。きっと祝福されます。(佐久間)
9月25日(日)
昔の方がよかったのはなぜだろうと言うな。それは賢い問いではない。
コヘレトの言葉7:10
「昔はよかった」と言う人がいます。それが自分であれば、自分は愚かだと言っているようなものです。なぜなら、「昔の方がよかった」と言うことは、「今は良くない」と認めているからです。自分の人生は失敗だった、取り返しがつかない、運がなかった、いずれも否定的な言葉しか出てきません。後ろ向きな人生などろくなものではありません。今を生きることが人間の醍醐味なのです。そもそも、人間は普通に生きていれば成長できるものです。たとえ年をとったとしても、過去よりも現在の方がはるかに魅力的な者になっているはずです。それが、そうではないというのなら、一体何をしてきたのだろうと反省することになります。現在の姿はいきなりできたわけではありません。過去の一日一日の積み重ねの結果なのです。だから、間違っても「昔の方がよかったのはなぜだろう」などと言わないでください。一生懸命生きてきたのなら、今の方がいいに決まっているのです。嫌なことは昔も今も変わりません。昔は良いことしかなかった、などということはありません。悪いことを忘れているだけです。それよりも、今が良い人生になっていないのなら、すぐにひざまずいて主に悔い改めることです。そして、今日までの主の恵みを数えて感謝するのです。現状を感謝できないのなら、それは自分の愚かな選択の結果であるのですから、そのツケは払うことになるわけです。ただ、主は知恵の尊さを重ねて教えています。その天来の知恵があれば、今を笑って喜べるようになるのです。しかし、自分の口から出る何気ない問いが、賢くないと気づいたなら、それは知恵を求めずに生きてきた結果であることを聖書は教えています。さて、今からでも遅くはありません。知恵を求めて祈りましょう。自分の考えに固執している限り知恵とは無縁であると覚えてください。(佐久間)
9月26日(月)
イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできなります。
ヘブライ7:24、25
聖書に慣れてきたら、聖所についての知識を持つことがより深いキリスト理解につながります。それは、救いへの正しい理解を助けることになります。ですから、このような箇所をヒントに旧約聖書の聖所に目を向けることが信仰の助けになると知っていてください。さて、いろいろな理由でクリスチャンになっても、悩みが生じてくるものです。そのような時に、正しい信仰を学んでいれば、勝利することも早いのです。しかし、聖書に書かれていることを正しく理解していないか、信じていないか、はたまた自分の考えや思いの方を優先していれば、試練に打ち勝つことも、悪魔の誘惑に勝利することも大変困難になるでしょう。何より重要なことは、あなたのためにイエス・キリストは天の聖所で執り成しておられるということです。過去に何かあなたを傷つけることがあれば、悪魔は見逃すことはありません。何べんでもあなたの心の傷を突っついて苦しめるはずです。それがまずいことに、福音を徹底的に理解していないと、不安になって、結局自分を責め、自分に自信が持てなくなってしまうのです。すでに、イエス・キリストを信じて救われたのに、自分が神の子になったことも信じられないのです。キリストも人となりましたが神の子として悪魔に勝利していました。あなたも神の子にしていただいたのです。だから、聖書に書かれた驚くべき勝利と祝福はあなたのものなのです。あなたが、まだ確信を持てないのなら、この言葉を信じてください。「イエスは、あなたのために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づくあなたを、完全に救うことがおできなります。」アーメンですね。(佐久間)
9月27日(火)
ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
ルカ16:10
成功する人とそうでない人の差は、実にこのみ言葉の中にはっきりと説明されています。この事実は、当人には気がつきにくいことなのです。「ごく小さな事に忠実な者は」と書かれた事に思い当たる人もいると思います。賢明な人は、すぐに自分を反省して客観的に見ようとするでしょう。こんなことどうでもいい、と些細なことには注意を払わないならば、そのツケを必ず自分で払うことになります。しかし、失敗することを良い機会として、何がいけなかったか探して発見する人がいるのです。当然、それが原因なのですから、修正することができるわけです。人のせいにすることもありません。人のせいにしている限り、あなたの将来はその人が握っているも同然なのです。自分は変えることができますが、他人は変えることができないからです。愚かなことですよね。すぐに問題の発見に努めれば、それは多分ごく小さなことに過ぎない問題であるはずです。だから、ごく小事に忠実である者は、失敗を通して完全になれるわけです。それができれば、大きな事も心配する必要がありません。ごく小さな事の応用でしかないからです。大きな事ほど、ごく小さな事から破綻しやすのですが、ごく小さな事も忠実なのですから、完全になれるわけです。これは習慣です。そして、プロフェッショナルな人の特徴なのです。不器用な人なら手抜きをしないで忍耐強くやればいいし、器用な人なら、謙遜に注意深くなればいいのです。そうしたプロセスも楽しめるようになるでしょう。さて、ごく小さな事から考え直してみましょう。(佐久間)
9月28日(水)
破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。
箴言18:12
人間の到達するところは、実に様々だ。しかし、聖書に記された通り心の状態が先立つということは忘れてはいけない。つまり、その人の心の通りの者になるということだ。心は厄介なもので自然のままに放っておいてはいけない。良い環境に置くことが最も良いのだが、残念なことにほとんどの場合、悪い環境に置かれている場合が多いのだ。それでも、人は破滅か名誉か二つに分かれていくことになる。驕り高ぶりはやがて破滅するし、謙遜は名誉にたどり着くものだ。物事があまりにもうまくいくと心に変化が起こってくる。それが驕りとなるならば、やがて破滅が来る。厄介なことに心の驕りは自分では気がつかないので、確実に何らかの破滅に至るのだ。一方、クリスチャンは謙遜を奨励され、謙遜になることを目標にしているものだ。だから、謙遜という言葉がことあるごとに思い出される。本物の謙遜を目指すことは信仰者にとって、キリストに似た者になる道である。聖書の中で神が認めた謙遜はモーセのものだった。だから、今でもモーセは世界のクリスチャンから名誉を受けているのだ。(サクマ)
9月29日(木)
週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
使徒20:7
「週の初めの日」とは日曜日のことです。「パンを裂くため」とは、聖餐式のことです。後のカトリック教会では聖餐式こそが礼拝そのものとなります。ここから、ユダヤ教では土曜日の安息日を律法に従って遵守し礼拝していたが、そこから別れたキリスト教会は日曜日に礼拝を守っていたのだ、と主張する人たちがいます。後の時代には、ローマ教会の法皇が安息日を土曜日から日曜日に変えました。これはいくら何でもおかしなことで、安息日は第七日目であることは聖書を読めば誰でもわかることですから、それを聖書に背いて勝手に変更するということ自体が無謀なことなのです。そのような無茶なことをしたためにカトリック教会の十戒は聖書と異なっていて、第七日目を消してしまいました。そのために、安息日の恵みを今の教会は知ることができなくなっています。さて今日の聖書箇所です。パウロは翌日には出発しなければならなかったために、集会での話は夜中にまで続いたのです。この記事を読むと、昔のことを思い出します。集会が夜中まで続き、終電を心配したり、帰れなくなった人の寝袋を用意したり、そうゆうことが毎週続き、それでも足りなくて、修養会を二泊三日で何回もやりました。もっと話が聞きたい。祈りたいし、讃美したい。そして、祈って欲しいし、預言して欲しい。主が祈りにどのようにお応えになるか皆んな見たかったのです。牧師会に行っても、プログラムが終わった後に、ホテルの部屋に牧師たちが集まってきて、夜中まで話すことが常でした。では、一体何を話していたのかといえば、聖霊の真理についてでした。聖霊の話は実はなかなか聞けないし、実際に聖霊が働いて不思議、しるし、奇跡が起こることを話せば、人々はもっと聞きたいと思うし、宗教の本当の意味を知ることになります。そのために、あちらこちらで話すように主に導かれてきたのです。今でもこうやって聖書の真理は人々に伝えられているのです。伝道者として召された人はその働きを忠実にやり遂げればいいし、各自に与えられた賜物を用いれば、心おどる素晴らしい信仰体験へと導かれるでしょう。それこそ、熱中して時間を忘れるほどの宝をあなたはすでに持っているのです。(佐久間)
9月30日(金)
牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力。
箴言14:4
何かを成し遂げようとすれば、他の代償を支払うことになる。新しい車を買った人は、新車の綺麗さをいつまでも保っていたいだろうが、そのためには車に乗らないことが一番良いことになる。しかし、車は飾るために買うのではなく、乗って移動したり人や荷物を運ぶことのために買ったはずだ。同じようなことはいくらでもある。食事をするために食器や鍋を使って調理すれば、その片付けや洗い物は避けることができない。それが嫌だと言って何も食べないことは愚かだ。人間関係は傷つくかもしれないし疲れるからと人を避ければ寂しさと孤独を招く。そこで恐れずに人の中に出て行けば、楽しいことも嬉しいことも感動するだって経験できる。さらに言えば、何をするのにも面倒だと思えば、何も得ることができないのだ。人生には大きな転機がある。その時に、消極的に対処するか積極的に対処するかで、その後の人生は大きく違ってくるものだ。私も結婚する時、牧師になる時、留学する時、アメリカで働く時、家を買う時、新しい教会を始める時、と大きな人生の転機があった時に、祈ったし、神様の御心を求めたものだ。そして、決断していった。それはいつでも「今のままでも十分ではないか」という心の声と主の御心がなるようにという信仰の葛藤を生んだが、主を信じているのだから大丈夫という気持ちが勝っていたので、今持っているものを失っても構わないという気になったのだと思う。その結果は、やはり主が全てを祝福してくださったので良かったと感謝の気持ちが今でもある。困難が全くなかったかと言えば、やはり人並み以上に苦労することもあったと思うが、そよりも主の恵みの方が圧倒的に大きかったと思う。それは、積極的に生きたから言えることなのだ。だから、牛にどんどん餌をやって、汚れた飼い葉桶もどんどん綺麗に洗えばいいのだ。そんなことは大したことではないのだ。その労力の何倍も牛は利益をもたらしてくれるはずだから。小さなことに気を取られて、大きなことを見失うことの方がよっぽど損をするのだから、そんな愚かなことにならないようにしたいものだ。(サクマ)