2019年1月ディボーション

2019年1月1日(火)

はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。マタイ18:3、4

 

これも昔からよく聞いたきた言葉です。実は、よくわかるようでわかない箇所でもあります。そこで、御言葉を注意深く見てみると、「心を入れ替えて」という言葉から始まります。そうです、心を入れ替える、などということはなかなかできないことです。年をとればそれだけでなんでもわかり、立派な人格者になれるかといえば、全くそなんことはなく、かえって、いい加減になったり、無気力で自分勝手になるかもしれません。そこで、年をとればなんとかなるような話ではありません。事実、子供のようになれ、と言っているわけですから、勉強して知識を身につけるようなこととも違い、立派な功績を残すことでもありません。イエス様がおっしゃったのは、「自分を低くして」ということでした。謙遜な人になるということは、クリスチャンの目標としてよく言われています。しかし、それだけではなさそうです。それは、その後に「子供のようになる」と書かれているからです。子供は、とるに足りない者、力の弱い者、小さな者、無力な者と、いいところがなかなか出てきません。それだから、常識と逆行しています。普通は、子供ぽい人は、早く大人になれと言われます。それが、子供のようにならなければ、と言われます。それは、立派に見せなくていい、ありのままでいいのだ、ということならば、神様の御前にも出て行けそうです。今年は、幼子のようにありのままに主に近づく者となることを意識して見ましょう。自分を飾ることもありません。あれこれと余計なことばかり考えずに、楽に生きましょう。自分を低くしていても大丈夫な気持ちの持ち方を幼児から学びましょう。なんか冴えないなと思っていても、天国では一番偉い人になっているかもしれませんよ。クリスチャンというのは、なんと楽な生き方でしょう。(さくま)

 

2019年1月2日(水)

イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

マタイ19:26

 

イエスは、「金持ちが天の国に入るのは難しい」と言われました。それを聞いた弟子たちは非常に驚いたのです。それは、「それでは、だれが救われるのだろうか」という彼らの言葉にあらわれています。当時のユダヤ教では、律法の遵守が厳格化されていて、そのために規則が次々に作られ、完全に守るためにはお金も必要となったのです。犠牲は動物でしたから牛や羊を用意するお金がかかったのです。そのために、お金持ちでなければ、規定通りに犠牲を献げることができませんから、金持ちが天の国へ入るのは難しい、と言われれば、金持ちでない他の人たちは絶望的であると思ったのです。これ自体が神の意図するものではなく、人間が掟を守ることを歪めて行ったことがわかります。確かに、律法を守れればいいわけですが、罪人には難しいことだったのです。しかし、金持ちは律法の定め通りに動物を犠牲とすることによって贖うことができていると思っていたから、天の国に入れると思っていたのです。ところがイエスが、そうではないと言い出したので、憎まれることになったのです。さて、本題ですが、律法を罪人の人間が守れない、ということは理解できます。しかし、律法を守れない人を天国へ入れるわけにはいかないのも事実です。そこで、神の救済計画としてイエス・キリストの十字架の贖い、死からの復活、といった、人間には決してできないことを、神はキリストの犠牲を通して出来るように道を作られたのです。それは、イエス・キリストを信じるだけで義とされる救いでした。まさに、「神は何でもできる」と言われた通りなのです。(佐久間)

 

1月3日(木)

主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

マタイ20:13、14

 

まだクリスチャンになる前に、聖書を読み始めた時、この箇所が理解できなかった。朝から働く者も、夕方に来てちょっとだけ働いた人も、結局日当は同じ一デナリオンだという譬え話だ。イエスが、何を言いたいのかがわからなった。聖書初心者には難しすぎると思った。朝から働いていた人が夕方少しだけ働いた者と賃金が同じというのは、ひどいと思ったわけだ。そこで、何度も読んで考えた、しまいには何をしていてもこの譬え話のことを考えてしまう。そして、しばらく経った頃、突然、意味がわかった。もちろん、聖書学者の言うように時代背景とか専門的なことがわかったわけではない。しかし、天啓とでも言えばいいのか、スッキリしたのだ。そうか、そうだったのか、というような感じだ。そして、それが聖書を理解することだと知ったのだ。人間の知恵ではなく、祈っても求め、御言葉を何度も読み、考える。そして、聖霊が突然解き明かしてくださる、という経験だ。今日の箇所は、様々に解釈できる箇所だが、今日注目するのは、一デナリオンというのは、救いそのものを意味するということだ。主人は神、労働者はこの世の罪人、そして、わたしは夕方になっても雇ってもらえなかった哀れな人だ。主人は、もう一日の仕事が終わる頃なので雇う必要がない。それなのに、雇った。しかも、支払う時に一日分の賃金をちゃんと払ってくれた。これは、夕方は終末を意味しているが、自力では救われない憐れな人を意味している。それなのに、神は憐れんで、功績がないのに義と認めて救ってくださる、ということを教えている。日雇い労働者は、一日の生活費のために働く。だから、雇ってもらえなかったら、その日は空腹を抱えて惨めに我慢するしかない。それで、朝、雇ってもらわないと大変なことになる。それが、雇ってもらえないと空しく誰かがまだ雇いに来てくれるのではないかと、立ち続けるのだ。そして、望みが完全に消えかかる夕方になった。その時、声をかけてくれた人が現れた。そして、本当に仕事くれて、すぐに賃金をなんと一日分払ってくれた。このように自分が当然もらえる賃金をはるかに超えて予期せずお金をもらえた時の喜びがわかるだろうか、家でお腹をすかせて待っている子供や妻の顔を思い出して涙が出るぐらいありがたいと思ったのではないだろうか。それが、神の救いなのだ。(サクマ)

 

1月4日(金)

信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。

マタイ21:22

 

今日の聖句を読んで、あなたは何を求めようと思いましたか。あるいは、すでに求めましたか。私は聖霊を求めて、「信じて祈るなら」という上の句に注目して、ただ祈るのではなく、信じて祈ることに集中しました。その結果、このみ言葉が現代でも効力があることを確かめることができました。新しい年を迎え、自分が神様に何を本当に求めるのか、良く考えてみましょう。そのために、今、時間をとって祈ってみましょう。今年は、良い年になると信じましょう。(さくま)

 

1月5日(土)

招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。

マタイ22:14

 

イエスの譬え話は、私たちに色々と考えさせる内容になっています。この「婚宴」のたとえ話も私たちに教えています。まず、イエスが話しかけている人たちは、祭司長やファリサイ派の人たちです。イエスを憎んでいた人たちがそこにいました。その目の前で語り出したのです。王様に招かれても、自分の用があるからと来なかった人たちがいたのです。これはユダヤ人たちととれば、旧約聖書の歴史がそのことの記録になっています。王の僕が招待したのに来ない人の元へ使わされ、説得するのに、拒まれ、終いには殺されるということは、預言者たちの働きに符合します。王の怒りで町は焼かれてしまいます。そして、王の命令により、通りで見つけた人は、善人も悪人もいたが、どちらも招かれた。これも、異邦人もユダヤ人も両方招かれた、ととれます。問題は、礼服です。これは、義を着ていると言えばいいでしょうか。招かれた人たちは、王の怒りで町を焼かれてしまった人たちが含まれます。だから、家に帰って礼服に着替えてきたというわけではありません。王宮で全ての礼服を準備し着せたのです。しかし、一人だけ礼服を着ていない人がいたのです。正確には、原語では受動態で書かれているので、義を着せていただいていない、というべきです。そうなると、この人の問題ではなく、王宮の僕がこの人に礼服を着せ損なった、ということになります。そこで、王が直接、この礼服を着せられていない人に、「友よ、あなたは結婚式の服を持っていないのに、どのようにしてここに入ったのか」と話しかけて確かめますが、本人は困ってしまいます。というのも、町が焼かれ、そこに王の軍隊がやって来て、王宮に連れていかれたのです。そして、婚宴に出席するために、僕たちによって礼服に着替えさせられたのです。ただ、彼の場合は、大勢の人たちが一斉に連れて来られ、礼服に着替えさせられるのですから、大混乱になってしまい、忘れ去られたのではないでしょか。一人だけ、不手際が生じたのです。そこで、粗末な服のまま宴会場に入れられるてしまったので、王に問いただされた時に、答えることができなかったのです。そうなると、13節の言葉は、礼服を着ていない人への厳しい宣告ではなく、彼に礼服を着せ損なった王宮の係りの人へのユーモアに満ちた注意ということになります。それは、周りが立派な礼服を着せられた人たちに囲まれているのに、自分だけが火事場から焼け出されたままのみすぼらしい服で座らされ、まるで手足を縛られているかのように恥ずかしくて固まっていたのです。彼は、その不面目で面子が潰され、嘆きと歯ぎしりして、そこにいたのです。王は、彼の心情を察し、王宮の礼服係りが彼をそのような状況にしてしまったと注意したわけです。「歯ぎしり」は回心を意味しています。町を焼いた火も聖霊の働きを象徴しています。聖霊によって、人々が回心するということです。礼服はキリストを着せられるという意味です。そのことで義となるのです。14節ですが、「選ばれる人は少ない」とは、礼服を着せてもらえなかった人のことです。彼は、王の招きをはじめは断ったかもしれませんが、町が焼かれ、王宮に連れて来られたました。その途中で聖霊によって回心しました。ところが、王の僕の手違いで礼服をただ一人着せていただけなかった。そのため、王が直接「友よ」と呼びかけ、最初に王に選ばれたわけです。他の人たちも、礼服を着せられ婚宴に出席したのですから、王に一人一人挨拶され、選ばれることになるのです。このように読むと、とても興味深くなりませんか。(佐久間)

 

1月6日(日)

あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

マタイ23:11、12

 

もし、実際にこのような人がいれば、尊敬されるでしょう。そして、人格者と呼ばれるはずです。もともと人に認められようとする人には到底到達することができないのですが、人間は社会の中で生きているので、そこに何人か人間がいれば、その中で一番偉い人になろうとする傾向があります。能力の問題で一番偉い人が決まるのではありません。誰の中にも人から認められたいといった欲求があるです。でも、一番は一人だけです。そこで、いろいろな葛藤が生まれます。イエスの弟子たちでさえ、誰がいちばん偉いかで争いがあったわけです。それでは、私たちクリスチャンはどうでしょう。へりくだっている人が多いのです。それは、主がクリスチャンのかたくなな心を砕くからです。時には、それは試練や災いであることすらあります。その人が自分の本質をちゃんと吟味しないと、神が砕くことになります。それは、もちろん、喜ばしいことではありません。むしろ、避けたい、嫌なことでしょう。そこで、悔い改めて、試練から解放されようとします。それだけでは、足りないので、神を知り、イエス・キリストを知り、聖霊を知るように導かれます。このように三位一体の神を知ることが人間には必要なことなのです。その結果として、心が変えられ、へりくだる者へと変わっていくのです。その人こそが神が使命を与えたい人なのです。神の不思議を味わい知りたい人は、少なくとも、ここまでは順調に進まなければなりません。ご一緒に、仕える者、へりくだる者となりましょう。(佐久間)

 

1月7日(月)

そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。

マタイ24:30、31

 

再臨の話を主は弟子たちに語り、それは、時満ちて実現する。それは、クリスチャンが初代教会の時代から待ち望んでいたが、未だ実現していない。しかし、24章の主の説明を聞いていると、いよいよその時が近ずいていることを感じさせる。もちろん、生きている内に再臨が実現した方が良いと思う人と、そうでない人に別れるだろう。しかし、いずれにしろ、主がいつ帰ってこられても良いよいに忠実に生きていることが肝心だ。アメリカのガラスの教会で、復活祭の時に、天使が教会の中を飛ぶ演出がされる。大きなガラス張りの教会でワイヤーで吊るされた天使役の人たちがたくさん空中を飛び交う、それが頭上近くをかなりのスピードで飛び交うと、今日の聖句を思い出してしまう。きっと、再臨の時、このような光景を見ることになるのだろうと、感激したものだ。これが、本物だったら、どんなにか感動するだろう。そして、主をこの目で見ることができる日でもある。この地上生涯でどれほど、慈しみ、愛して、助けてくださったことか、感謝が溢れるだろう。私たちは極東の外れにいるが、ここまで天使は飛んで来るだろう。そして、日本からも大勢の人たちが空中に引き上げられ、雲に乗った主イエス・キリストを拝するだろう。再臨を悲しむ人の方ではなく、喜ぶ人たちの側にいることにしよう。(サクマ)

 

1月8日(火)

愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

マタイ25:3~5

 

10人のおとめの譬え話です。とてもわかりやいのですが、「5人は愚かで、5人は賢かった」とあります。おとめたちは、イエスの再臨を待つクリスチャンあるいは教会です。油は聖霊です。花婿はイエス・キリストです。そして、花婿は来るのが遅れたのです。つまり、再臨が遅れたということです。そのために、クリスチャンや教会は眠り込んでしまったということのです。それを証明するように、世界中の教会が教勢を衰えさせています。まるで再臨は来ないと思っているように、教会から再臨の話がなかなか聞こえてこなくなってしまいました。そして、「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』という叫ぶ声が」するでしょう。つまり、教会が眠りこけているような状態が世界中に蔓延している、その時です。再臨は突然起こるのです。その時に、聖霊が消えかかっているクリスチャンが出て来るというのです。信仰によって生きているクリスチャンは、聖霊を求め続けていました。そのために、聖霊の導きや助けを経験しています。聖霊のバプテスマを求めた人たちは、御心にかなったことなので、受けることができるように信仰が強められました。そして、聖霊によって覚醒しただけでなく、聖書を学び、御言葉を研究しました。主に祈り、祈りで信仰を成長させました。実生活において、信仰が生きているので、困難なことすら信仰の糧にしてきたのです。聖霊に明け渡す経験を重ねて、気がつかないほどゆっくりでしたが自分の消極的・悲観的性質を取り去っていただきました。前のようには、心配しなくてもすむようになり、人からみれば楽観的に変えられてきたのです。それは、自分の努力ではなかったので、昔の何でも悲観的に考えるクセが消えて、思い出せなくなります。それと同時に、否定的になる状況や自分を悩ませる問題のある人が消えてなくなっていることに気がつくでしょう。聖霊が別の助け主なのです。あなたのための個人的な助け主があなたと共にいてくださるので、あなたはキリストのように変わることができ、神の子の姿を形成していけるのです。聖霊を軽く考えてはいけません。油ぎれにならないように、いつも聖霊を注いでいただけるように求めて祈りなさい。油断していると、愚かなおとめになってしまいます。(佐久間)

 

1月9日(水)

誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。

マタイ26:41

 

ゲッセマネの園で祈っていた時のことです。いよいよイエスが捕まる時が迫っていました。それは、イエスの死を意味していました。弟子たちは、恐ろしいことが起こりそうな予感はあったと思いますが、それがいつかはわかっていませんでした。ただ、どこでどうなったのか、ユダヤの王になるはずのナザレのイエスにつき従ってきたのですが、それが急に破滅に向かっているのです。ひどく疲れていた弟子たちは、起きていることができませんでした。この時に、起こされて聞いた主の言葉が、今日の聖書箇所です。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。この御言葉は私たちの心に刺さってきます。そして、「心は燃えても、肉体は弱い」という言葉は、教訓のように、忘れることができません。確かに、教会の中で威勢の良い声や掛け声を何度も聞いてきましたが、少しでも困難が来れば、たちまち意気消沈してしまうのです。そして、やがて疲れてしまうと、心は簡単に折れてしまいます。そこで、私たちは、頑張っても限界はある、心がいくら燃えていても、それだけでは勝利できないと学ぶのです。派手なパフォーマンスよりは、誘惑と戦いながら地味に祈っている方が優っていることを知るのです。キリストは知っていたのです。私たちが寝てしまったように祈ることを忘れ、祈らなくなることを。それで「目を覚まして祈っていなさい」と言われたのです。弟子たちにとって先生を守れずに、逃げ出してしまったことは、悪夢のようであったはずです。このように、最悪の日もあるのですが、主はあなたのために戦っているのです。だから、悲しんでいないで、祈ることです。主は、あなたのために必ず勝利してくださり、あなたを喜ばせてくださいます。だから、元気を出してください。(佐久間)

 

1月10日(木)

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

マタイ27:45、46

 

詩篇22篇はメシア預言と言われる箇所です。その2節が今日の箇所と同じ言葉になっています。新共同訳では、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」となっています。そこで、イエスは十字架上で詩篇を暗唱していたのだと言う人もいます。しかし、私たちは、そもそもイエスが本物の神の独り子であることを知っています。そして、私たちを救うために、神の身分を捨てて、この地上に人としてお生まれになり、罪の贖いとなるために、罪のないご自身を犠牲として十字架につけられたのです。問題は、十字架の意味です。イエスは、神の独り子ですから、神性を持たれていたでしょうが、地上ではそれを隠されました。そして、私たちと同じ人生をまとって生きられたのです。イエスは、弟子たちにも話していたように、三日目に復活すると言っていたのです。しかし、十字架上で、突然、将来のことが何も見えなくなりました。墓の先が真っ暗で見えなくなったのです。つまり、復活の保証がなくなったわけです。どれほど恐ろしいことだったでしょう。全ての人間の罪、とが、呪い、病を皆イエスお一人が背負い、死んでしまおうとされたのですが、肝心の三日目に復活する保証が消えたのです。墓の先が真っ暗で見えなくなりました。その時の恐怖はどれほど大きかったでしょう。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と言う言葉の意味することがイエスに起こったのです。それでも、イエスは十字架から降りようとはしなかったのです。上空に完全武装で待機していた万軍の天使たちは、イエスの命令があれば、すぐにでも地上に降り立ち、イエスを十字架から救い出したでしょう。しかし、そうしていたら、だれも人間は救われることはなかったのです。イエスはこの恐ろしい事態に、もうやめてしまっても良かったのです。イエスはこのままでは本当に復活できずに死んでしまう危機に、自らを救うことをせずに、たとえ自分が犠牲になっても、私たちを救おうとされたのです。この時に、イエスが十字架で死んでくださったので、私たちは救われのです。このことを決して忘れずにいつでも感謝しましょう。(佐久間)

 

1月11日(金)

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あながたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えないさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

マタイ28:18~20

 

マタイの福音書は、この御言葉をもって終わります。これが教会では、大宣教命令と言われ、私たちにも命じられていることだと理解して来ました。そして、現代でもすべての民をキリストの弟子にしようと伝道が進んでいるのです。この命令を守るために、宣教師を海外へ派遣することが行われて来ました。彼らを支えるために特別な献金が献げられて来ました。日本にもフランシスコ・ザビエルが来たように、明治以降、そして太平洋戦争以降には大勢の宣教師がやって来て、教会を各地に組織し、今日の基盤を作りました。ある人たちは、なぜ伝道などしなければならないのかと、伝道することを嫌う人もいますが、もし伝道しなければ、その人も福音を聞くことはなく、救われることもなかったのです。伝道は必ずしも上手くいくとは限りません。しかし、今日の御言葉の最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と主イエスがお約束になられたことは重要です。つまり、私たちは一人で伝道するのではありません。主イエスと共に伝道するのです。ただ、全員がパウロのように伝道することはありません。私たちは、自分のできる方法がそれぞれにあるのです。自分の使命と言った方が正確です。それは、超自然の力が働いているように、上手くいくはずです。導きを求めて、主に祈りましょう。救われて欲しいと思う人の名前を出して、祈り続けるのです。その人が救われるのを見るのは何よりの喜びとなります。その人の救いのために祈り続けたのはあなただけであったと知れば、祈りの意義を感じるでしょう。(佐久間)

 

1月12日(土)

いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

詩編1:1~3

 

ディボーションに最もふさわしい詩編に入ります。神様は人を選ぶというのは本当だなぁ、と思います。どういう基準かはしりませんが、およそ人間の見方とは異なって、不思議な選びです。私はクリスチャンではなく、聖書も見たこともないのに神学校に入学することになりました。もちろん、牧師になど絶対になりたいとは思いませんでした。その神学校は全寮制でそこに入ってくる学生は将来の牧師を目指した人たちです。そこに、一人異邦人のように神様を信じていない人が入って来たのです。すぐに、神様が間違ったと思いましたが、神様は間違うことがありません。入学してすぐにやめようと思いましたが、どうしても、やめることができません。すると、祈ることを通して神様が生きているこを知り、驚きました。神様って本当にいるんだ!と人生観がひっくり返りました。そして、どうしてか忘れましたが、バスで先輩と一緒にどこかへ行ったのですが、その人が退屈なので、詩編を互いに暗唱し合いましょう、と言ったのです。目が点になりました。詩編を暗唱している人がいるとは思いませんでしたから、冗談だと思いましたが、それでは、私からと言って、この詩編1篇を暗唱したのです。私は必死に記憶を呼び覚まし詩編2篇を暗唱しようとしましたが、完全にはできませんでした。皆さんは、どうでしょうか。詩編を暗唱していますか。最近の日本人は、学ぶことは暗記することだということを忘れています。自分の特技と脳の老化防止に聖書を暗記し始めたらどうでしょう。今日の聖句を覚えれば、幸福な人生を送ることができる助けになりますよ。(さくま)

 

1月13日(日)

なにゆえ、国々は騒立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」と。

詩編2:1~3

 

この聖書が一体いつ書かれたのかと考えてしまうほど、現在の国際社会を反映している詩です。中国でキリスト教弾圧が厳しく行われていることを聞きます。政府が認めた三自愛国教会ですら、十戒の第一条を削除するように圧力をかけていると報道されています。十戒の名称を変えるようにとも言っているのですから、驚きです。なぜ、神様に逆らうのか、救い主である主に逆らうのか、聖書の御言葉が預言であることを改めて思います。世界が自分の国さえよければ、それで良い、という考えに傾き、貧富の差が激しくなり、ほんの数%の富める者と90パーセント以上の貧しい者とに分かれていく世界になってきたことは、恐ろしく感じます。日本の経済もいつ破綻するかわからないと、経済の専門家が話していました。社会の秩序が崩れ、キリスト教会の中にも問題が噴出し、平成が終わろうとしている今、テレビで報道されていることは、この詩編2篇そのままなのです。古代のイスラエルや周辺国で起こっていたことが、現代になってもあまり変わっていないということです。「地を治める者よ、諭しを受けよ」とあるように、世界の指導者たちが「畏れ敬って、主に仕え」ることが実現するように、私たちの祈りの課題があるのです。(佐久間)

 

1月14日(月)

身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。

詩編3:6

 

一生恵まれて平和に暮らせる人はいるのだろうか。この世界は、人間を試すための実験場のように見える。あらゆる人間の可能性を試しているようだ。もっとも、200年ぐらい前までは聖書時代とあまり変わらない生活をしていたのに、今はどうだろう、高齢者と若者ではまるで文化が違い、知識も価値観も異なっているように見える。電車を待ってホームにいる時も、電車の中でも、いたるところで目にするのは、スマホを手にしている人たちだ。彼らの情報量は洪水のようだ。そして、彼ら自身もその情報の送り手に簡単になれる社会だ。そのような社会で、心配や不安は消えることなく、さらに危険にさらされている。人間が夜眠りにつく時、眠れない人もいる。それが毎晩続けば、とても辛いことだ。大きな恐怖が襲って来た日、ダビデは眠ることができた。しかも、命を狙う敵に追われていたのに無事に目覚めたのだ。彼は、「主が支えていてくださいます」と言った。これが、ダビデの信仰だ。私たちも、ダビデのようになりたい。敵がいて、苦しめられても、悩みがあって困っていても、それでも信頼できる主の支えがあるなら、きっと眠ることができる。その人生は幸福だ。私たちも、主に支えられているのだから、何が起ころうと、身を横たえて眠り、また目覚めることができるだろう。どうか、主のお守りがありますように。(サクマ)

 

1月15日(火)

主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。

詩編4:4

 

この世に苦難があるので、ここが天国でないことを知るのです。それでも、信仰者は天国に帰ることを願い、やがて天国の王である天の父が救い出してくださると信じています。信仰は裏切られることがありません。私たちが神様を知っているのは、イエス様によります。聖書を学び、イエス様が神様を表していることを理解したのです。そして、罪深い私たちも、罪の赦しと恵みによる救いがあることを知りました。そればかりではなく、イエス様を信じたので、主の慈しみを体験したのです。何とイエス様は慈しみ深いのでしょう。そこで、私たちは主の慈しみに生きることを学びました。だから、心が楽になったのです。そればかりか、自分の思い通りにならないと悪意を向ける人がいるのですが、そのような人たちに苦しめられることがあっても、私たちにはイエス様がいてくださるのです。まさに守護神として、私たちの声を聞いてくださいます。私たちは主に祈ります。それがどんな意味であるか、悟らなければ、私たちを苦しめているはずが、主を敵にして、主と戦っていることになると知ることになります。それほど恐ろしいことはありません。クリスチャンの存在はそのようなものです。ですから、人を恐れずに生きる事ができるのです。主の平和がありますように。(さくま)

 

1月16日(水)

あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜びうたいます。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。

詩編5:12

 

急に夕立が降って来たら、どこか雨宿りできる所へ走って入るだろう。同じように、私たちには夕立のように突然押し寄せる災難や困難から身を守ってくれる避けどころが必要なのだ。この世の人たちが避けどころを探して右往左往する時に、私たちは主を避けどころとする事ができる。それも、これ以上のものはなく、圧倒的な力強さで必ず助けていただける絶対的なさけどころなのだ。おそらく、あなたは主に助けてくださいと祈った事があるだろう。その結果はどうだったろう。今、こうしてディボーションを読んでいるのだから、避けられたという事だ。その事がわかってくると、それがどんなにありがたく、人生の旅路を安全に進める確実な保障であることを理解できるだろう。そうであれば、「喜び祝い」と詩編記者が書いている事が共感できるはずだ。私たちはいつでも主を讃美することを喜ぶ。主の御名を愛する者とはあなたのことだ。あなたは、天の神様に守られている。あなたが気がつかないうちに守られている事もたくさんあるはずだ。あなたにとって人生は、保険以上の安全と安心がついている。その事がよく分かれば、人生はとても良いものになる。さあ、主を喜ぼう。主はあなたの誇りとなる。(サクマ)

 

1月17日(木)

わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。苦悩にわたしの目は衰えて行き、わたしを苦しめる者のゆえに、老いてしまいました。

詩編6:7、8

 

あなたはどんな祈りを献げているでしょう。事務報告のように短い簡潔な祈りでしょうか。私たちは、人間なので悩むこともありますし、失敗することもあります。また、敵に苦しめられることだって起こるかもしれません。病気で苦しみ、人間関係で落ち込み、大きなストレスにさらされて消耗してしまうことだってあるものです。そんな時には、私たちは神様に祈ります。普段の祈り以上に祈るでしょう。ダビデは、敵に苦しめられた時に、だんだん消耗して、うつ病のようになり、いっぺんに年をとってしまったように弱った自分を感じました。これほどの大きな悩みを経験すると、自分の罪のせいだと思い、神の怒りを心配します。だから、率直にそのように祈るのです。自分の守護神が呆れて見かぎり、離れ去ってしまったら、どんなに恐ろしいことでしょう。だから、主に立ち帰って欲しいと嘆願し、死んでしまえばおしまいだとまるで主を脅しているかのごとくに迫ります。そして、今日の聖句です。なんとオーバーな祈りでしょう。寝床が漂うほど泣いて涙が溢れたというのですから、どれだけ大量の涙を流したのだろうと、突っ込みたくなります。実際にはそんなことはないでしょうが、気持ちとしてはそれほどの苦悩であり、嘆きであったと、主に訴えているのです。こんな祈りをあなたはした事がありますか。ダビデは詩人でしたから表現が豊かで特に感情表現が巧みなのです。それが聖書に残されたのは、祈りを学ぶようにという主の配慮によると考えても間違えではないでしょう。「わたしを苦しめる者のゆえに、老いてしまいました」と祈れば、主はなんと応えるのでしょうか。祈りがこれほど豊かで自由であり、自分の気持ちを表現する事が祈りでは重要であることを知るのは、とても大切なのです。焦らずに、自分の正直な気持ちを祈ることに集中すれば、魂の祈りとなり、もっと深い霊の祈りとなって行くでしょう。ダビデの祈りから学んでみるのは益となるでしょう。(さくま)

 

1月18日(金)

わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から、だれも奪い返し、助けてくれないのです。

詩編7:2、3

 

私たちがどんなに頑張って正しく生きていても、快く思わずに、敵となって攻撃してくる者が現れる事があります。何が気に入らないのか、じわじわと圧力をかけ、追い詰めてきます。詩編では、「魂を餌食とする」とあります。ただ意地悪されたというようなことを超えています。ですから、精神的にダメージを受けて、それがかなり長い間トラウマのようになることもあり得ます。多分、精神的に苦しめられる事が「魂を餌食とする」という表現に一番あっていると思います。そのような時に、だれも助けてくれないので、精神的苦痛がひどくなるのです。会社の上司や同僚も、学校の先生も、仕事の信頼しているパートナーですら、助けてくれないと言わなければならない状況が起こり得るのです。人間はあてにならないと嘆いて、怒ってもどうしようもありません。しかし、私たちは神様を知っています。ですから、人間には不可能でも神様には可能であると知っています。そして、神様はあなたを愛しているのです。あなたの救い主であり、最高の理解者なのです。そして、無敵の守護者なのです。あなたは、問題が深刻になれば、祈ると思いますか。実は、深刻になればなるほど、祈れなくなるかもしれません。自分の力でなんとかしようと必死になって、いつも頭の中はどうしようかとグルグル堂々巡りの思考でいっぱいになるのです。神様しか助ける事ができないのに、神様にすがりついて離れない、という事ができないのです。つまり、それは「あなたを避けどころとします」という詩編の御言葉の反対になっているという事です。平和の時には、主を避けどころとします、と言えるのに、いざ、敵に脅かされたり、苦難が押し寄せると、神様に祈る時間が1分も祈れなくなります。悲観的な悪い考えばかりで頭の中がパニックを引き起こしているのです。そして、何もかもやりつくして、力も尽きるとようやく、神様の所へ来て祈り出すのです。ここが、避けどころなのです。自分で自分を助けることをやめたので、ようやく、神様が自分を助ける事ができるようになったのです。このような経験は人生で何度もあることではありません。一度経験すれば十分です。このようにして、主を信頼する、とか主にゆだねるとか、主を避けどころとする、という事が理解できるようになるのです。(さくま)

 

1月19日(土)

主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。

詩編8:2

 

8篇も圧倒されるような詩です。2節の言葉と同じ言葉が最後の10節に置かれて、この言葉で囲んでいるような詩です。はじめに2節を読んだ読者は、自然と心を神に向け、礼拝し始めます。そして、天の神を讃美します。「幼子、乳飲み子の口によって」(3節)と、わたしたちの弱さと、弱さゆえの信仰を象徴し、無力であっても、口ではかなわなくても、それでも敵に主が勝たせてくださることを語ります。そして、天に見える月星も、森羅万象も全て主の指の業である。それなのに、神は人間に心を留めてくださるのはなぜなのだろう。主は、人間に神の委任統治権を与え、この地を治めさせたのです。この地上の全てが神のものであり、神の支配の下にあります。自然のどこを見ても、主の御名が記されているのです。その力強さに圧倒されます。その主こそが、私たちの主であり神なのです。私たちも主にかたどって造られ、主の御姿を現す者なのです。たとえ、罪によってそのかたちが損なわれても、その神秘に畏怖し、主イエスによって神の似姿を回復できると信じているのです。このことのゆえに主に感謝いたします。(佐久間)

 

1月20日(日)

主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。

詩編9:11

 

私たちは、毎日同じことの繰り返しだと退屈だとかつまらないと言い出し、少しでも困った事が起こると不安になり、文句を言い出す。クリスチャンでも同じで、祝福を欲しがるが、すでに祝福されているとはなかなか思わない。ところが主を知っている人は違っている。困難が押し寄せると、すぐに主に依り頼むのだ。その結果は言うまでもないが、最善の結果になり、主を賛美することになる。そこで、今、何か悩みを抱えている人は、主の元へ急ぐべきだ。詩編記者は、「あなたを尋ね求める」と表現している。つまり、形式的に助けてくださいと祈ればいいという事ではない。主を探す必要があるという事だ。お経か呪文のように、ただやみくもに祈る人がいるが、イエス・キリストは人格を持たれていたから、人間同士が相談したり、懇願したりするように、お会いする事ができるのだ。それは、キリストと全く同等の聖霊があなたに注がれたのだが、全く自覚がないかもしれない。その聖霊が確かに自分の内におられ、聖書でキリストにすがった人のように、私たちが聖霊にすがってお願いする事ができるという事だ。まず、静まって想いを自分の内におられる聖霊に向ける。そこにおられる事が感じられれば、聖霊に話しかけてみるのだ。イエス・キリストが重い皮膚病の人を憐れんで、優しく癒してくださったように、聖霊も同じように、あなたを憐れみ助けてくださる。決して、見捨てられる事がない。どうか、聖霊があなたを奇跡的に救い、助け、導き、願いを聞いてくださるように。アーメン