2013年1月1日~6日 メッセンジャー:佐久間典臣

*1日~6日(佐久間典臣)

 1月1日  

イエスは・・・「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。      

                                          ルカ5:27

今日、このイエスの招きを聞いたなら、あなたはどうするだろうか。イエスに従うとは、今までのすべてのしがらみを捨てる事を意味する。それは、生き方の大転換である。「人は何のために生きるのか」私は決して自分では答えることができなかった。しかし、何もかも捨ててイエスに従った時に、私はもはや答えを探す必要がなくなった。答えを知る人生がそこにあったからだ。この喜びを知ってほしい。

 

1月2日

イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである。」 ルカ5:31

                              

イエスがなぜこの世にお出でになったのか、その答えでもある。私たちは、正しい良い人になりたいと思っていても実際にはうまくいかない。理由は山ほどあるだろう。このままの人生で天国へ行くか地獄へ行くかが決まるとしたら、どちらにいくのだろう。天国と答えたいが自信を持って言えない、というなら正直な答えだ。だが、イエスは、正しい人を招くためではないと語り、天国に行くことを阻んでいる罪を悔い改めさせてくださるというのだ。それは天国に行けないはずの人を天国に入れる唯一の方法なのだ。そして、イエスは今日もあなたを招いている。

 

1月3日

イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである。」 ルカ5:31

                        

今日の御言葉は、イエスがなぜこの世においでになったのか、その答えでもあります。私たちは、正しい良い人になりたいと願っていても実際にはなかなかうまくいかないものです。理由は山ほどあるでしょう。このままの人生で天国へ行くか地獄へ行くかが決まるとしたら、あなたはどちらにいくでしょうか。「天国と答えたいですが自信を持って言えません」と、いうなら正直な答でしょう。だが、イエスは、正しい人を招くためではないと語り、天国に行くことを阻んでいる罪を悔い改めさせてくださるというのです。実は、それは天国に行けないはずの人間を天国に入れる唯一の方法なのです。そして、イエスは今日もあなたを招いているのです。

 

1月4日

どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす。     箴言14:23

 

苦労したことがないという人にあったことがあります。その人をはたから見ていると人並みに苦労があるはずなのに、どうやらそれを苦労と思っていないようです。苦労を苦労にしないように積極的に対処しているのでしょう。物事をお気楽に考えているというよりも、ポジティブに捉えているのです。問題から目を背けたり、逃げだすことをしません。いたずらに可能思考のように言葉だけ繰り返すようなことで問題を考えないようにしているのではなく、ひたすら神に向かって祈り、時に叫んでいるのです。そうして、主を信頼し前に進もうとする時に得るものがあるのです。

いつ会っても誰にでもハレルヤと笑顔で迎えてくれる人も同じです。苦労の中でまず行動しています。だから、すべてがうまくいくというわけではないでしょうが、口先だけの人ではないので多くの人に奉仕することができているのです。それはただ無償で与えているだけなのですが、決して欠乏に陥る事がありません。与えた以上に利益を得ていることは確かなのです。「苦労にも利益がある」この言葉は真実です。

 

1月5日

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうと。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。    イザヤ49:15,16

 

初めって会ったRさんは心を病んだ可憐な中学生だった。それからずいぶん月日が流れ20代の青年になった。その間に辛い事がたくさんあった。良い事と言えば、教会に通うようになり、ついにクリスチャンになったことだ。そしてある日、声が聞こえてきた。それは優しいイエスの御声だった。はじめはわからなかったが、確かにイエスが語りかけておられたのだ。たとえ、だれからも忘れ去られたとしてもイエスだけは決して忘れることはない。あなたのことを愛する神は熱情の神なのだ。だから、今日も元気に生きよう。見ていてくださる方がいるのだから。

 

1月6日

イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。  ヨハネ7:37~39

 

 毎日忙しく生きていると自分が今どうなっているのか考えることもなく過ごしています。そのうち、立ち止まらざるをえない出来事が起こります。そして、自分がすっかり乾いてしまっていることにようやく気がつくのです。今日のイエスのお言葉は、そんな時にしみます。乾きをいやすだけではなく、生きた水が川となって流れ出るようになるとは考えたこともない大きなことが自分の中に起こるということです。それは、本当の自分が生き返るために神の霊が注がれることです。これこそが私たちが一番欲しいものなのです。ただイエスを信じるだけで、起こる現代の奇跡なのです。イエスを信じて乾きをいやしましょう。

 

*7日~12日(中村 透)

1月7日(月)

主はあなたがたにこう仰せられる、この大軍のために恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである 歴代志下 20:15

 

このときユダの国は強大な敵を目の前にしていました。 とても勝ち目のないような戦いに思えました。ユダが意気消沈しあきらめムードが漂っていたまさにその時、主、ヤーウェーが語られたのです。「これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである」と。わたしたちには最強、最大の神がついておられます。主がわれわれの味方なのです。主自らが戦われる、これ以上に心強いことがありましょうか。主を信じて生きるものの力はここにあるのです。

 

1月8日(火)

ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダの人々、およびエルサレムの民も主の前に伏して、主を拝した。その時、コハテ人の子孫、およびコラ人の子孫であるレビ人が立ち上がり、大声を上げてイスラエルの神、主をさんびした。  歴代志下 20:18〜19

 

昨日と同様、ユダが敵の大群に囲まれている状態です。これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いである、と言われたとき、彼らはまず主のみ前にひれ伏して礼拝しました。

次に主の勤めのために聖別されたレビ人たちが主をさんびしました。どのような状況のもとにあろうとも、まず主を礼拝し、また主をさんびします。わたしたちはこれを忘れてしまいがちです。時がよくても悪くても、すべてがうまくいくときも、いかないときも、主への礼拝と讃美とを忘れてはいけません。これがどれほど力あることか、わたしたちは学んでいきたいと思います。

 

1月9日(水)  

彼らは朝早く起きてテコアの野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立って言った、「ユダの人々およびエルサレムの民よ、わたしに聞きなさい。あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる」。

歴代志下 20:20

 

強大な敵との戦いに赴くにあたって王ヨシャパテはその民にこう告げました。「あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる」と。これが主に従うものとしてもっとも大切なことだと思います。あなたは主を信じますか。とても信じられないと思うときにも、本気で、心の底から主を信じますか。そうすれば堅く立つことができる、と主は言われるのです。主を信じるのか、信じないのか、結局我々に問われているのはこのこと以外にはないと言っては言い過ぎでしょうか。

 

1月10日(木)

彼はまた民と相談して人々を任命し、聖なる飾りを着けて軍勢の前に進ませ、主に向かって歌をうたい、かつさんびさせ、「主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と言わせた。

歴代志下 20:21

 

戦いに先立って王は讃美の勤めのために聖別し特別に任命した人々を「軍勢の前に進ませ」たのです。通常このような戦いはあり得ません。最強の軍隊が最先端を行くはずです。しかし、主の戦いにおいてはそうではありません。讃美者が最前線を行くのです。戦争においてミュージシャンが一番先に行くのです。まず主に感謝し、そのいつくしみをほめ讃える。主の戦いはここから始まるのです。

 

1月11日(金)

そして彼らが歌をうたい、さんびし始めた時、主は伏兵を設け、かのユダに攻めてきたアンモン、モアブ、セイル山の人々に向かわせられたので、彼らは打ち敗られた。すなわちアンモンとモアブの人々は立ち上がって、セイル山の民に敵し、彼らを殺して全く滅ぼしたが、セイルの民を殺し尽すに及んで、彼らもおのおの互に助けて滅ぼしあった。

歴代志下 20:22〜23

 

この戦いは、数において、武器においてはるかに劣っていたユダの軍勢の大勝利に終わりました。強大な敵は互いに同士打ちして滅んでしまうというまったく意外な結果に終わりました。それは彼らが「歌をうたい、さんびし始めた時」でした。讃美には力があります。それは主の臨在を呼び起こすがゆえに、讃美が捧げられるとき驚くべき奇跡が本当に起こるのです。讃美を軽く見てはいけません。あだやおろそかに讃美してはいけません。スクエアジャパンチャーチはそういう讃美を心がけています。

 

1月12日(土)

そしてユダとエルサレムの人々は皆ヨシャパテを先に立て、喜んでエルサレムに帰ってきた。主が彼らにその敵のことによって喜びを与えられたからである。すなわち彼らは立琴、琴およびラッパをもってエルサレムの主の宮に来た。そしてもろもろの国の民は主がイスラエルの敵と戦われたことを聞いて神を恐れた。

歴代志下 20:27〜29

 

主の勝利は民の間に大きな喜びをもたらしました。そしてこの戦いは宮における讃美で幕を閉じました。讃美で始まった戦いが讃美で終わりました。ユダ・イスラエルの大勝利は、主ヤーウエー自身が戦われたことを聞いた周辺諸国に神への恐れを呼び起こしました。讃美は主の御臨在を招き、主がおられるところかならず勝利があります。これこそが神の支配される神の国です。この力をご一緒に体験してみませんか。

 

*13日~20日(佐久間典臣)

1月13日(日)

わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」 詩編39:2

 

私たちは苦難に陥ると神に助けを求めるものです。それは同時に神を恐れる思いを持つことになります。「神は正しい者を助けるはずだ」と思うからからです。だから、神に背いて罪を犯すことを避けようとします。深刻な苦難であれば、自分の振る舞いを正し、言葉で神に罪ありと言われないように気を付けるようになります。そんな時に神をも畏れぬ人が近づき、話しかけてくるのです。当然、神がお怒りになるようなことを平気で口にする。普段ならそれに相槌を打ち、輪をかけたようなひどい言葉をはいていたのに、そのことの意味する恐ろしさが今は、はっきりとわかるのです。だから、口を開かないように、神の御前に正しい人となるように努力するのです。そうすれば神は助けてくださるはずだと考えているのです。実は、これは恐れの宗教で、正しい信仰ではありません。それでは、どうすれば良いのでしょう。今週はこの問題を考えてみたいと思います。

 

1月14日(月)

わたしは口を閉ざして沈黙し/あまりに黙していたので苦しみがつのり心は内に熱し、呻いて火と燃えた。わたしは舌を動かして話し始めた。「教えてください、主よ、わたしの行く末を/わたしの生涯はどれ程のものか/いかにわたしがはかないものか、悟るように。」          詩篇39:3-5

 

苦難の中で人は沈黙します。しかし、その苦しみが人を内側からさらに苦しめ続けます。神に向かってついに口を開く時がきます。ところが、口をついて出たその祈りは、「苦難から助け出してください」というようなものではありませんでした。「自分の人生の長さはいかに短く、はかないものか、そのことを悟るように教えてください」と祈ったのです。自分の命がいつ終わるかもしれないはかないものであることを悟ることは人生を正しく生きることなのです。ここに思い至ることが知恵なのです。

 

1月15日(火)

御覧ください、与えられたこの生涯は/僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも/すべて空しいもの。〔セラ]ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし/だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。主よ、それなら/何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。  詩編39:6-8

 

ふだん考えることもなかった自分自身のこと。仕事や家族や財産など、自分が毎日忙しく暮らしてきた中で大切だと思っていたことを取り去られてみると、残ったものは自分だけだった。この私は、では一体何のために生きているのだろう。確かだと思っていた毎日も簡単に崩れ去るようなはかないものであることを知ると自分がやけに弱々しく見える。この世に確かなものなど存在していないと思えてくる。一体何に望みをかければいいのだろう。そうだ、神だ。神の憐れみにすがりたい。神ならばきっと私を救うことができるから。この何もかも取り去られた裸の私を憐れんで救ってくれるはずだ。それゆえに神を待つ。ひたすらあなたを待ち望みます。

 

1月16日(水)

あなたに背いたすべての罪からわたしを救い、神を知らぬ者というそしりを受けないようにしてください。わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。       詩篇39:9-10

 

人が救いを求める時、それは実は罪からの解放を願ってのことです。それは、神に背くという罪です。人は何をしても自由なはずなのに、なぜか罪責感を感じたり、やましいという思いや恥ずかしいという感情に苦しむことがあります。それが神に背いたことと関係しているからです。正しいことをすれば神のみ前に立てるのに、正しくないことをしているなら神から隠れたい、逃げたいと思うはずです。そこに思い至った時に、救いは始まります。自分では弁明もできません。ただ、憐れみ深い神の愛があなたに向かって動き出すことを信じましょう。

 

1月17日(木)

わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。あなたに罪を責められ、懲らしめられて/人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい。   詩編39:11-12

 

罪を犯しても何も起こらないと笑っている人は、神に見捨てられたのかもしれません。神が救うと決めたなら、罪を犯し続ける人に超自然的な方法でその人にとって警告のように恐ろしいことが起こるからです。もっとも、そうしなければ、その人は罪に勝利することなく滅びることになるでしょう。罪が恐ろしいものであることを理解しなければ、決して罪をやめることはできません。だから、罪を軽視してはいけません。神が災いをもって警告し、その人が真に悔い改めたかどうか悪霊が見ています。そして、悪霊は試みてくるでしょう。それに打ち勝つために、神は徹底的に人の罪を懲らしめるのです。欲望が罪を生んだのですが、その欲望も消え失せてしまうほどに打たれるのです。そこまで追い込まれると、はじめて人は空しいと思うのです。

 

1月18日(金)

主よ、わたしの祈りを聞き/助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。わたしは御もとに身を寄せる者/先祖と同じ宿り人。
あなたの目をわたしからそらせ/立ち直らせてください/わたしが去り、失われる前に。            詩篇39:13
14

 

人にとっての一番の奇跡は、神を信じること。そして、神に祈ることです。ふだんは考えることもありませんが、神の事を考えなければならない時が必ずやってきます。たぶん、試練の中で辛くても頑張っていたのですが、ついに力尽きてもう神に叫ぶことしかできなくなった時に、涙が溢れます。自業自得だと思っても、それでも助けてほしいのです。神ならば私を立ち直らせてくださるはずです。だから祈りはこうです。「だって、私が頼れるのはあなただけです。あなたが立ち直らせてくださらなければ、私は失われて消え去ってしまいます。神様、あなたはまだ私を愛しているはずですよね。」

   

1月19日(土)

主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。

詩篇37:23-24

  

人生の中で、予期せぬ災いが突然襲ってきて慌てることがあります。その時に、人は自分の計画が狂ったことでパニックに陥ります。神を信じている人にも同じように起こります。神に人生を委ねていても、自分の安全が脅かされるようなことになれば、大慌てで神に泣きつくのです。でも、聖書には「主は人の一歩一歩を定め」と書いてあります。つまり、あなたの人生の一歩一歩は神が定めておられるので、必ず良い結果が待っています。試練の時には、主が自分の手を掴んで離さなかった、と後になれば言うことでしょう。だから、今、困っている人は自分勝手に道を間違えているのではないかと祈ってみましょう。 神の備えておられる道に進めるように、へりくだって神に願いましょう。


1月20日(日)

神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。 ローマ3:22(リビングバイブル)

 

自分の人生で誰かを信じきることはあっただろうか。ちょっとでも油断していると裏切られるかもしれない人間関係の中で、本当に信頼できる人と友達になりたいと思っている人は少なくない。でも、人の弱さがあだとなって本当に信頼できる人を見つけることは難しい。それどころか、私たちの個人的な問題を解決して、救ってくれる人などいるだろうか。しかし、聖書はイエス・キリストを信じきるならば救われると教える。すっかり忘れていた、信じきるということを試してみるのはいかがだろう。イエス様にはその価値が十分あるはずだから。

 

*21日~26日(中村 透)  

1月21日(月)

わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。

わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。

詩篇103篇 1〜2

 

そのすべてのめぐみを心にとめよ、とあるが、この部分は新共同訳では、「主の御計らいを何一つ忘れてはならない」と訳されている。日常生活の中で普段は考えてもいないかもしれないが、われわれが今日生かされているのはただただ主の御計らいによるのである。気づいてさえいないところで、われわれはどれほどの主の御計らいによって守られ、支えられ、慰められていることだろうか。なによりも、われわれはただ主の御計らいによって罪を赦され救いの恵みを受けたのである。受けた主のすべてのめぐみを、御計らいを何一つ忘れずに感謝と讃美をもって生きて行きたいものである。

 

 

1月22日(火)

主はあなたのすべての不義をゆるし、

詩篇103:3(前半)

 

あなたの罪がいかに数多くとも、あなたの不義がいかに深くとも、主はすべての罪、すべての不義をゆるすお方なのである。この詩篇を詠んだダビデもまた罪を犯した。しかし彼が「わたしのとがを主に告白しよう」と言ったそのとき、主は「わたしの犯した罪をゆるされた」(詩篇32:5)と彼は証しした。すべてを知っておられる主の前に隠し立ては無用である。すべてをさらけだし告白するときにすべての罪はゆるされる。このことをわれわれはもっと大胆に信じる必要があるのではないだろうか。主が「わたしはゆるす」と言われたのだ。それでもまだゆるされていないかのように振る舞うのは不信仰ではないだろうか。主を信じよう。あなたはどこまで主を信じきれるだろうか。結局のところ、それが問われているのだ。スクエアジャパンチャーチはそのことを大胆に信じる者たちの群れである。

 

1月23日(水)

(主は)あなたのすべての病をいやし、

詩篇103:3(後半)

 

主はあなたのすべての病をいやされるお方である。ここでもあなたの信仰が問われている。カゼやちょっとした怪我ていどならば主にもいやすことができるだろう、というのは信仰ではない。ここで問題にされているのは「すべての病」である。「その(イエスの)傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(ペテロ第一の手紙 2:24)「あなたがたはいやされるであろう」というのではない。すでに「いやされたのである」と過去形で書いてある。主はすべての病をいやされる、いや、信仰の現実としてすでにすべての病はいやされたのだ。スクエアジャパンチャーチはこの信仰の現実をあなたとともに本気で信じ、宣言するのである。

 

1月24日(木)

あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、

詩篇103:4

 

われわれは罪のうちに死んでいた者であった。そんなわれわれを滅びの墓から主はあがないいだし、あらたないのちを与えてくださった。しかもみ子のいのちによってあがないいだし、つまり、イエスのいのちと引き換えに買い取ってくださったのだ。これが十字架において起こった驚くべき出来事である。さらに主は、あなたをいつくしんでくださり、どんなときにもあなたをあわれみをもって守り、持ち運んでくださるのだ。これが、主に反逆したわれわれに対して主がしてくださることなのだ。われわれはこの信じ難いほどの主の愛に驚嘆するのだ。

 

1月25日(金)

あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。

詩篇103:5

 

主のいつくしみとあわれみとは、あなたの生きながらえるかぎり、最高に良い物をもって飽き足らせてくれる。なんという恵みだろうか。ダビデは詩篇23篇でこう詠んだ。「主(ヤーウェー)はわたしの牧者であってわたしには乏しいことがない」と。乏しいことなど一つもないのだ。お金も、健康も、幸福も、安全も、愛も、友だちも、若さも、すべて飽き足りるほど与えられるのだ。なぜならば、われわれの主、全能の主がわれわれの羊飼いであられるからだ。

 

 

1月26日(土)

主はすべてしえたげられる者のために正義と公正を行われる。

詩篇103:6

 

残念なことにはこの世界では正義が行われることは滅多にないし、不公正なことばかりが目につく。正義の名の下に不正が行われ、公正であるべきものが平気で不当な行いをする。その犠牲になるのは常に弱者であり、しえたげられる者たちである。彼らのために立ち、彼らのために戦う者はほとんどいない。しえたげられる者は自分のために立ちあがることも、声を上げることもできないのが現実なのだ。しかしわれわれの主はそういう人々と常にともにおられる方であることをわれわれは知っている。われわれの主が、しえたげられる者のためにいつでも正義と公正を行われるかたであることをわれわれは誇りに思う。主はしえたげられる者の味方である。

 

*27日~31日(佐久間典臣)

1月27日(日)

怒るのをやめ、憤りを捨てなさい。くよくよ思い悩んではいけません。自分が傷つくだけです。悪者は滅ぼされますが、神様に信頼する者には祝福が降り注ぐのです。もうしばらくすれば、どれほどひとみをこらそうと、悪者の姿は見あたらなくなります。

  詩篇37:8-10 (リビングバイブル)

 

人生には、怒りがこみ上げてくるようなことが突然に自分の身に起こることがあります。それは同時に、自分を苦しめる者が現れることを意味しています。そんな時に、いったいどうしたらよいのでしょう。たいていの場合は、くよくよと思い悩みます。そして、怒り、傷つき、弱り、復讐心に燃え、また傷つき、どうすることもできずに、またはじめから繰り返し同じことを何べんも悩み続けるのです。でも、ばかばかしいと思いませんか。そんなことをしても自分が傷つくだけなのですよ。とっとやめてしまいましょう。ただ、神様を信頼するだけにしましょう。悪者は滅ばされてしまうのです。神様の御前に謙遜になりましょう。その人は「ありとあらゆる祝福を受け、ここちよい平安にひたるのです」(11節)。さあ、さっそく試してみましょう。

 

1月28日(月)

神様を喜びとしなさい。神様は心の願いをみな、かなえてくださいます。自分のしようとすることをみな、神様にゆだねなさい。信頼する者を、神様は助けてくださいます。

    詩篇37:4、5(リビングバイブル)

 

神様を信じるようになってから、人生はとても良くなりました。そして、神様のことがだんだん理解できるようになってきたのです。一般的に漠然と思っていたような、ご利益を求めるだけの神様ではありませんでした。ご利益を求めて人間の思い通りになっても必ずしも幸せになるわけではありません。私たちは未来を見通せないのです。それで、自信過剰になっている時には自分に危険が迫っています。うまくいっているならば、次にはその逆が待ち構えているものです。だから、そのような考え方は役に立ちません。考えてみてください。神様を喜びとするという意味を。それから、あなたのしようとすることを全て神様に任せてみましょう。今までにない、すばらしい事が待っています。神様を信頼する者を誰も倒すことはできないのです。なぜならば、神様が助けてくださるからです。

 

1月29日(火)

自分でしようと思わず、神様に任せなさい。そうすればうまくいきます。・・・神様の考えを無視して、計画をたててはいけません。 箴言16:3、9  (リビングバイブル)

 

神様を知らない人は気の毒です。なにもかも自分でしなければなりません。この世には大勢の人がいて、それが自分よりも優れた人も多いのです。そして、自分と同じように考えたり、好みが一緒ならいいのですが、全く違っている人だらけなのです。そして、私たちは成功したいとか、賞賛をあびたいとか、あの人に好かれたいとか、とにかくうまくやりたいのです。もし、本当にあなたがそう思っているのなら、神様に任せない。あなたがどんなに有能で頑張ったとしても、それでなんとかならないこともあるのですから。そして、先見の明があると言ったところで、神様のように将来を見通すことはできないのです。神様はあなたのためになることをして助けたいと思っておられるのです。あなたに幸福になってほしいのです。それだから、自分勝手に計画をたてたりしたら、後で後悔することになります。神様を信頼してお任せすることこそ、うまくいく秘訣なのです。頑張らずに、ただ任せる。この秘訣を身につけましょう。

 

1月30日(水)

友達に励まされるのは、香水をつけたように気持ちのいいものです。

    箴言27:9(リビングバイブル)

 

あなたは友達を励ましていますか。もし、あなたが友達から励まされたことがあれば、その時のことを思い出してみましょう。きっと、素直に嬉しくなって心が晴れ晴れとしたことでしょう。友達は大切です。だから、心から励ましてあげましょう。それが、奇跡を生むことをあなたは知ることになります。良い香水は気持ちを引き上げ、精神に力を与えます。同じように、友達から励まされるなら気持ちのいいものです。ならば、今日、あなたも友達を励ましてあげましょう。友達が喜べば、あなたも嬉しくなりますよ。

 

1月31日(木)

進んで誤りを指摘してもらう人は、充実した人生を送り、忠告を聞かない者は、またとないチャンスを逃します。 箴言10:17  (リビングバイブル)

 

私がこの人はすごい人だと思った人は、女性でした。その人は、有能な人で才能にも恵まれ、努力家です。そして、人生の成功者として人々から認められた人です。ところが、この人は犯罪者の更生のために自分の才能を使うことにして、囚人たちにビジネスを教えるという誰もやったことのない試みを行い実績をあげたのです。この人の、すごいところは、自分が関わった囚人や刑期を満了して出所し、彼女のスタッフになった人たちから自分を批判してもらうことです。あなたは誰かから批判されたいですか。自分の足りないところや誤りを指摘されるのはとても嫌なことです。だから多くの人は批判されると怒るし、批判されまいとします。しかし、これこそが人生を充実させる最良の方法なのです。どんな人からでも、自分が気づいていない誤りや足りないところを教えてもらうことで、はじめて気づき、自分をより良く成長させることができるのです。もっとタフになり、忠告をありがたく感謝できるようになりましょう。