**10月1日~6日(中村透)

 

10月1日(火)

愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。

ユダの手紙 3

 

主イエスの兄弟ユダは、まずわたしたちに向かって、「愛する者たちよ」って呼びかけてくれています。なんだかうれしいですね。でも、クリスチャンの交わりってそういうものなんですよね。お互い欠点もあれば短所もある。でも、主にあってひとつで、主にあって愛しあっているんですものね。そのことをユダはまず教えてくれているんですね。

そして、次にユダが語るのは「救について」です。しかもかれは、「わたしたちが共にあずかっている救」と呼んでいます。主イエスの恵みによる救いは、すべての人のためです。そういう大きな救いにわたしたちは「共にあずかっている」。ひとりぼっちで救われているわけじゃない。互いに、主の恵みの中で、からみあって、影響しあって、引き上げあって、共に救いにあずかっているんですよね。だから、神の救いってなんだか本当にあたたかいもの、こころが温められていくようなものなんでしょうね。

さて、次にユダさんはわたしたちに信仰のために戦うことを勧める必要を感じたって言ってますよ。信仰はもうすでに聖徒たちによって伝えられましたね。そしてわたしたちは救いに共にあずかっているんです。でも、そこで戦いが必要になることがある。

それは、敵である悪魔や悪霊がわたしたちを攻撃してくるからです。明日のところで一緒に読みますが、かれらは本当に汚い手を使ってわたしたちをなんとか滅ぼそうと攻撃して来るんです。だから、ひとたび伝えられた信仰のために、立ちあがって戦う必要があるんですね。

戦いの勝利の秘訣ははっきりしています。それはまず初めがキリストであり、途中はキリストであり、最後はと言うと、キリストなんです。要するにキリストがすべてです。それ以外に勝利はありません。キリストをいつでも高く掲げましょう。(とーる)

 

10月2日(水)

そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。

ユダの手紙 4

 

信仰のために戦うことを勧める主イエスの兄弟ユダ。この4節で、なにゆえにわたしたちが信仰のために戦わねばならないかを教えてくれます。

非常に単純です。わたしたちが攻撃を受けているからなんですね。で、それはどんな攻撃なのかと言えば、その中心はひとつです。それは「唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定」させることにあるのです。わたしたちの敵である悪魔や悪霊はつまるところわたしたちが「キリストを否定」することを望んでいるのです。そのために彼らはどんな汚い手でも使います。テキサスのある牧師がこう言ったことが今でも忘れられません。”Satan never fights fair” (サタンは決して正々堂々と戦ったりしない)

わたしも本当にその通りだろうと思います。サタンはいろいろな手段に訴えますが、ときにはわたしたちを誘惑するために信仰の仲間を使ったりします。彼らのこころに不信仰な思いを与えて、神の恵みをねじまげて解釈させます。わたしたちの神の本領は恵みにある、とわたしは思っています。その恵みを否定させたり、ねじまげたり、誤解させたり、サタンは本当になんでもします。非常な働き者ですね。そして、かれらの究極的な目的はキリストを否定させることです。

そんな風な生き方をしてしまうこと、そのものが「さばき」であると、ユダは教えます。もうすでにさばきを受けてしまっているのだと。

このあとユダはさらにこれらの人々の生き方やよくない働きについて語り続けます。しかし、わたしたちはなにがあっても、どんなことになろうとも、キリストを否定することだけはしてはならないのです。キリストこそがわたしたちの唯一の主であり、最高の希望なのですから。(引っ越しおとことる)

 

10月3日(木)

あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。

ユダの手紙 5〜6

 

イスラエルの民が長年苦しめられてきたエジプトのドレイ状態から解放されたとき(つまり出エジプトですね)、かれらはどれほどうれしかったでしょうね。辛くて苦しくて神さまに叫び求めていたんですからね。そこからやっと解放された。ところが、その直後から不信仰な人々が現れはじめました。不信仰は自分だけの問題でなく、周囲の人々にも悪い影響を与えます。よく使われるたとえですが、箱のなかにあるひとつの腐ったリンゴは、やがてほかの腐っていなかったリンゴをも腐らせはじめます。それが問題なんですね。

ですから主はときどき不信仰なものを涙をのんで滅ぼされることがあります。それは御使いだって同じです。かれらは主からすばらしい特権的な地位と働きとを与えておられたのに、一部の御使いらは不信仰なものとなって神に反逆し、そのおるべき所を捨て去りました。

主は彼らの与える悪影響の甚大であるがゆえに、かれらをさばかれました。

つくづく思います。不信仰は捨て去りたい、と。それはやがて主を否定してしまうところまであなたを引きずり込んで行くでしょう。単純に幼な子のように主を信じましょう。幼な子が両親を無邪気に信じきっているように、わたしたちも主を信じましょう。主よ、わたしたちの信仰をまもり、育ててください。いつも、どんなときもあなたを信じさせてください。(とるんぷるん)

 

10月4日(金)

ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。しかし、これと同じように、これらの人々は、夢に迷わされて肉を汚し、権威ある者たちを軽んじ、栄光ある者たちをそしっている。

ユダの手紙 7〜8

 

主の尊い恵みを放縦に変えて、わたしたちを戦いに引きずりこむ「不信仰な」人々がここではソドム、ゴモラにたとえられています。ええ〜、そんなにぃ?ちょっと言い過ぎじゃない?なんて思ったりしますが、でも「これらの人々」の危険性が強調されていますよね。

さて、彼らのことについて書かれているのは、「夢に迷わされて肉を汚し」と、「権威ある者たちを軽んじ」ることと、「栄光ある者たちをそしっている」という三点ですね。

この部分を読んで強く感じることのひとつは、これらの人々は自ら進んで悪を選び取り、自分の意志で真理から離れて、自滅の道を歩んでいるのではないか、ということです。ソドムやゴモラもそんな風だったのでしょうね。そして、ここで言及されている人々も、ソドムなどにくだされた神のさばきをまるで意に介していないことが明らかになっているようです。旧約聖書に、過去の歴史がなんのために記録されているのかをわたしたちはきちんと学んでおくべきでしょうね。

主がソドムを滅ぼされるということを知ったアブラハムが、自分の甥であるロトのことを思い、ソドムに50人の正しい人がいたとしても、その町を滅ぼされるのですか、と尋ねたことをおぼえていますか?その後、アブラハムは信じ難いほどの熱心さで、「では45人では?」「30人では?」とバーゲンをつづけ、ついには、10人いたらその町を滅ぼさない、という約束を取り付けました(創世記18;23〜33)。

ところが、結局ソドムにはたった10人の正しい人さえいなかったことが明らかになり、ソドムは滅亡してしまいます。初めからソドムには悪人しかいなかったのか?そんなことはないでしょう。悪は伝染していくという見本なのかもしれません。

ユダのいう、軽んじられた「権威ある者たち」や、そしられた「栄光ある者たち」とは誰のことなんでしょうね。そして、不信仰な人たちは彼らに一体なにをしたんでしょうか。「権威ある者」とは、主御自身を指し、「栄光ある者」とは天使を指すのだ、と指摘している学者がいます。そうなのかもしれません。

「夢に迷わされ」た者たちは、たぶん自分の考え方を正当化するために、あたかも神からのお告げであるかのように、自分の「夢」を、それも汚れた夢を用いたのでしょうね。

ああ、いつも主の前に謙虚でいたいですね。主を軽んじるとか、御使いをそしる、だとか、そんなこととは無縁な信仰者でいたいですね。(いまは豊島区在住とる)

 

10月5日(土)

御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。

しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。

ユダの手紙 9〜10

 

昨日の所で、この不信仰な人々は、「権威ある者たちを軽んじ、栄光ある者たちをそしっている」と言われていましたが、ミカエルの態度はそれと正反対でした。悪魔こそ、「ののしりさばく」のが当然の存在でしたが、ミカエルはそうしようとはしませんでした。さばきはただ神にのみ属することです。「主がおまえを戒めて下さるように」、これはイエスも悪霊どもに対してとった態度でした。(ルカ 4:41など)さばきは主のものです。わたしたちは決してこれを忘れてはいけません。

ところが、にせクリスチャンたちは、「自分が知りもしないことをそしり」とあるように、神に属すること、霊的なこと、について、知ることができないことをそしるという恥をさらしているんです。霊のことは霊に従って生きている者にしか理解できません。肉に従って生きているかれらには知ることができないことなのです。それをそしっている。

つまり、かれらは「自らの滅亡を招いている」のです。以前にも指摘しましたが、彼らの歩いている道は自滅への道です。それこそが、かれらが自分の身に招いてる「さばき」なのです。ひとをさばき、それどころか、主や御使いをさばいている間に、かれらは自らの身に滅亡を招くというさばきをうけてしまっている。

パウロの言葉にあるように、「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」(ローマ 8:6)ことが、ここで明らかにされているのでしょうね。(とるきち)

 

10月6日(日)

彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、自分の恥をあわにして出す海の荒波、さまよう星である。彼らには、まっくらなやみが永久に用意されている。

ユダの手紙 11〜13

 

彼らは、「風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、自分の恥をあわにして出す海の荒波、さまよう星」ですって。う〜む、なかなか文学的な表現ですね、ユダさん。

初めの部分では、カイン、バラム、コラという旧約聖書の悪の実例から引用していますね。カインは(創世記4章参照)弟への妬みと神さまへの不正な思いとささげもの、を代表しているのでしょうね。バラムは神の言をいただきながら結局は報酬に目がくらんで神のみこころと正反対の働きに身を売ったひと。コラはモーセという神から召された指導者の地位を妬み、反逆した人、というふうに、彼らの問題点を明らかにしていきます。

彼らは一応「あなたがたの愛餐に加わる」とあるので、クリスチャンの交わりに参加するけれども、それは「自分の腹を肥や」す、というきわめて利己的な、他者を思いみない動機のゆえであり、それゆえに彼らの存在はクリスチャンの交わりを汚しているのです。「愛餐」ということばには、ギリシャ語の「アガペー」(神の至上の愛、無限の愛をあらわすことばです)が使われているのです。クリスチャンの交わりはそれほどに聖なるものであり、喜びに満ちたものであるはずなのに、それをぶち壊してしまうのが彼らです。

ここでも、明らかなのは、彼らは周囲におびただしい悪影響を振りまき、挙げ句の果てに自滅の道を歩んでいくということです。主の前に謙虚でありたいですね。だれよりも謙虚であられたキリストは、本来、誰よりも高い存在であられたことを思い起こし、謙虚なこころを神さまからいただくように祈り求めていきましょうね。(とるたん)

 

**10月7日~13日(佐久間典臣)

 

10月7日(月)

ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」

列王記上17:1

 

あの預言者エリヤがアハブ王に預言した場面から偉大な預言者の物語を読んでいきます。預言者の生き方は、全てを捨てて主に従う者の生き方を表しています。主の口になり、言葉となるのです。相手がこの世の権力者であろうと、悪魔に心を売ったものであろうと、その国の頂点に君臨するものであろうと、主のご命令があれば行って預言するのです。今日の預言は干ばつがこの国を覆うというものです。しかも、数年に及ぶ干ばつです。日本でそのようなことが起これば、いったいどんなことになるでしょう。多くの生き物が死ぬでしょう。人間も例外ではありません。赤ちゃんやお年寄りから始まり、恐ろしいことが起こるでしょう。工場も止まり、水だけでなく生活に必要なものが全部無くなってしまうでしょう。一時、海外から水を買っても追いつくことはないでしょう。そう考えると、預言者の言葉はとてつもなく恐ろしいものであったとわかります。このようなことを王様に語るのですから預言者も命懸けです。預言者も我々と同じ人間ですから弱さもあるのです。ただ、神様からの伝言です、とあとは無関係をよそおっても無駄です。その言葉を語った者を憎み、怒り、王に呪いを語るものを生かすことはないでしょう。だから、預言者になることは油注がれなければ務まりません。さて、アハブ王とはどのような人だったのでしょう。「アハブは・・・・それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。」(列王上16:33)。神と悪魔の闘いは、人間レベルにもあるということです。あなたが、主に忠実になり、正しい信仰を持っているのなら、あなたもこの霊的な戦いに参戦していることになります。もはや悪魔の奴隷ではないので、イエスを司令官と仰ぐ主の軍勢の戦士なのです。それで、時に恐ることもなく主のメッセージを語ることになります。その結果は、いつも良いとは限りません。主の信頼が厚いほど、エリヤのように大胆な預言をすることになるかもしれません。たとえ、国中の人が偶像を拝んでも、私は主なる神様だけを拝みますというような人が必要なのです。日本にもキリシタンの弾圧の歴史があります。だから、人ごとではありません。いつなんどき同じようなことが起こるかわかりません。しかし、主に忠実な者を主ご自身が超自然の力を使ってでも守ってくださるのです。そのことは、エリヤの物語の続きを読めば明らかです。霊の闘いは、水が表しているように命に直結するような深刻な闘いです。その時に、主の側に立ち、主に忠実に仕えることができるかどうか、その日のために日々の信仰の鍛錬があるのです。あなたが主のみを拝む者であり続けるなら、その報いは想像を超えたものとなるでしょう。勇気を出しましょう。(佐久間)

 

 10月8日(火)

兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。

Ⅰテサロニケ2:17-20

 

パウロの手紙は今から2000年ほど前に書かれました。しかし、教会はその頃と大して変わっていません。そして、教会の牧者と信徒の関係も同じです。牧者の関心はもっぱら羊のことです。毎日、羊のことを考えます。祈ることも具体的です。神の子供たちが、ちゃんと主の御心に適って成長し、天国へ無事に帰って行くことができるように願っているのです。日々の生活の中で主の訓練は続きます。誰も主の目から逃れることはできません。もっとも、罪を犯して木の間に隠れたアダムのようになれば、主は「どこにいるか」と問わなければなりませんが。信者は僕者の「希望、喜び、そして誇るべき冠」なのです。だから、一緒に喜び、一緒に泣くのです。時にはがっかりすることもあるかもしれませんが、それで、見捨てたり、あきらめることなどありえません。羊飼いは、二種類いるそうです。雇われて羊の世話をする者と、自分の羊を飼っている者です。もし、獅子や狼が襲ってくれば、雇われている羊飼いは羊を置いて逃げ出します。しかし、自分の羊を飼っている者は、命懸けで羊を守るために敵と戦うのです。真の大牧者である主イエス・キリストは十字架にかかって本当に羊の命を守るために死んでくださいました。だから、羊は主イエスのみ声を聞き分けます。愛されていることを知っているからです。クリスチャンは決して一人ぼっちではありません。主イエス・キリストが羊飼いとして守っておられるからです。でも、目に見えないと不安になるので、牧師を立てておいているのです。牧師は頼りなく見えるかもしれませんが、実は主イエスが大牧師者として共におられるので、いざとなれば主イエスが助けてくださいます。それにしても、不思議です。牧師はパウロの言葉通りに思っているからです。ありがたいことです。さて、羊たちはメーエー、メーエー鳴いているかな?(佐久間)

 

10月9日(水)

良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。

エレミヤ42:6

 

これは、ユダの民が預言者エレミヤに神に祈って聞いて欲しいことがあると頼んだ時に言ったことばです。どうですか、主からのお答えが良くても悪くても、主のみ声に聞き従うと語っています。その上、主のみ声に聞き従うことこそ最善なのですから、と模範解答をしています。でも、10日後に主がお答えになった時に、前言を簡単に翻して預言者エレミヤの語った言葉に従わず、自分たちのしたい通りにしたのです。あなたは、どうでしょうか神様に祈って聞いたことがあると思います。あるいは、霊的な人に主の御心を求めて祈ってくださいと頼んだことがあるかもしれません。いずれにしろ、主のお答えが自分の願いと違っていたんら、あなたはどうしますか。私は、このようなところで人の信仰が本物かどうかはっきり現れると思います。ユダの民の場合は、主の預言に反した行動を選んだ理由は、敵であるバビロンの剣を恐れたからです。だから、安全なエジプトへ行きたかったのです。ところが主は、必ず守ってあげるからユダの地に留まれと命じたのです。ユダの民のとった行動は、預言者を非難することと、恐れのために判断力を欠いて自分たちの思い通りにしたことです。それは主のみ声に逆らった、ということです。どうでしょう、自分の望んだ通りの結果がでなければ、預言を偽りだと否定してでも自分の思い通りにしてしまう力、それが罪なのです。このようなことをすれば、当然、神の怒りに震えることが待っているのに、理性も働かなくなるのです。このような、失敗を犯さない方法は自分を捨てることしかありません。確かにクリスチャンになる時に、全てを捨てて主のあとに従ったはずです。でも、自分の十字架を負うことをしなかったのではないでしょうか。クリスチャンになって、隣人愛を覚えたり、正しいことや良いことを行うようになっても、このようなテストが来れば、たちまち自分を十字架に付けているのか、そうでないのか、はっきりわかるのです。古い自分を生かし続けている限り、主に服従することはできません。よく生きることはよく死ぬことなのです。そのことを聖霊が教えてくださいます。主イエス・キリストは模範を生きて見せてくださったのです。主に倣う者となりたいものです。(佐久間)

 

10月10日(木)

それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。

へブル10:19-23

 

天の聖所、つまり神のおられるところへあなたはキリストの愛ゆえに行けるようになったのです。天の聖所のひながたと言われたモーセを通して与えられた聖所は、神を知るための知恵に満ちていました。そこでなされることのすべてが実に神を現し、罪人のままでは無理でも信仰を持った者には理解できるように天の知恵が隠されていました。この聖所で実に人の罪が律法に従って贖われていたのです。それは、イエス・キリストそのものを教えていました。今日の聖句では、垂れ幕という言葉が目につきます。キリストが十字架で息を引き取った時に聖所の分厚い垂れ幕が真っ二つに裂けたのですが、これは隔ての幕とも言われ、祭司が奉仕する部屋と、さらに奥に最も聖なる至聖所と呼ばれる部屋を仕切る幕でした。とても厚いもので、地上に置けばそのまま立っているほどでした。当然、真っ二つに人が簡単に切ることなど困難な特製の幕だったのです。それは、罪を犯し続ける人間に義の基準である律法を渡してみても、義となるどころか罪は止まることがなかたために、神に直接会うことができなかったのです。そのためにまるで隔ての壁のように、罪人の力だけでは超えることのできない領域に神はいたのです。神の民となって、聖なる民と言われても、神の領域はさらに聖なる者だけが入れる世界だったのです。一年に一回、大祭司がこの至聖所へ入ることができましたが、それは、自らが聖なる者となったからではありませんでした。祭司自身のために犠牲の血が必要だったのです。つまり、キリストの血無しに神の領域へ入って行くことはできないということです。キリストの血は全ての罪を贖うことができるからです。それから大切なことは、真のクリスチャンは祭司のように直接神に仕える者であるということです。勿論、クリスチャンも全てを清め聖とするキリストの血は不可欠でした。ただ、聖書の祭司と違っていることは、キリストの十字架の贖いにより、隔ての幕が無くなったことです。動物よりも聖いキリストの血によって、聖所へ入ることができるのです。さて、奥義です。垂れ幕は裂かれたイエスの肉を現していたのです。だから、キリストの十字架を信じて始めて通ることのできる新しい生きた道がそこにあるのです。だから、あなたはもう決して昔のあなたではないし、昔と同じ生き方をするはずがないのです。新しい生きた道にすでに足を踏み入れているから疑ってはだめです。イエス・キリストが天の大祭司なのですから、心は清められ、良心のとがめはなくなっているのです。イエスを信じなさい。もう一度言います。イエスを信じなさい。(佐久間)

 

10月11日(金)

バルジライは高齢で八十歳になっていた。彼は大層裕福で、マハナイム滞在中の王の生活を支えていた。

サムエル下19:33

 

歳を取るという意味を考えたことがありますか。若いうちはあまり考えられませんでした。しかし、ある程度の歳になってくると考えた方が良いと思います。ここに、バルジライという80歳の男がいます。彼は、ダビデがクーデターに敗れて敗走する時に、ダビデとその勇士である家来たちの生活の面倒をみた人です。かりにも一国の王様とその家来である大勢の兵隊たちを食べさせることはよっぽど裕福でなければできないことです。それ以上に、ダビデを追い出して新しい王様がたったわけですから、ダビデは賊軍であり敗者だったので、万が一にも助けたなら後で新しい王様からひどい仕打ちを受けることを覚悟しなければなりません。誰もが、手のひらを返したように、ダビデに対して非情に振舞うというのが普通です。ところが、戦国時代には本物の勇士が出てくるのです。友が困ったときに自らを省みることなく犠牲を払ってでも助けるのが勇士なのです。しかも、見返りを望まず、何事もなかったかの如くに友をさらりと助けること、このような人を友としなさい。そのためには、ダビデのように、魅力的に生きることが欠かせません。人の心がわかる人になりたいですね。最もこのクーデターの首謀者は自分の息子だったのですから、ダビデも息子の扱いでは上手くはいかなかったのです。息子に反旗を翻された時には、自らが進んで城を明け渡します。そして、結局は息子アブサロムは不名誉な戦死という形で幕が降ろされたのです。こうした一連の流れの中で、ダビデはバルジライに助けられていたのです。バルジライのすごさは、老齢になっても衰えることはなかったということです。肉体的には衰えていくでしょうが、人間としては、一国の王を助けて支えるほどの人に成熟していたのです。日本人の好きな言い方でいえば、彼こそが侍だったのです。クーデターもあっけなくアブサロムの戦死で終わりました。そこで、ダビデは勝利したのですが、息子の死が代償となりました。それでも、また王としてエルサレムへ戻れることになりました。ここで、戦時中の苦境を支え助けた見返りを求めても良さそうな場面で、バルジライは王に何も求めなかったのです。王の負担になりたくない、と言い、それどころかダビデを助けるために自分の信頼できる若者を差し出すのです。自分の代わりに僕に王の傍にいて助けさせようというのです。これが侍的男の友情です。バルジライのように、カッコよく歳を重ねていきたいものです。(佐久間)

 

10月12日(土)

献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。

列王記上18:36-39

 

聖書を読んでいて、ワクワクして胸が高鳴る物語があります。近頃流行ったテレビドラマの半沢直樹よりも、痛快な話しは今日の聖書箇所に出てくる預言者エリヤとバアルの預言者の闘いです。何しろ王様を影で操る悪女の代表のようなイゼベルがした非道な殺戮により、預言者はエリヤ一人残りました。それで、1対450人の対決をすることになったのです。相手は一国の王様とイゼベルです。始めから無茶な闘いです。しかし、神の民は考えるべきです。国を相手にしてでも、ひるまず神のために勇気を振り絞るべき時があるということを。エリヤはその模範です。戦いはバアルの預言者が先攻でした。しかし、昼にはエリヤに「バアルは寝ているのか」と嘲笑されます。ありもしない神に人々は従っていたのです。呼んでも答えぬ神を拝んでいたのです。世に神々と呼ばれるものが多数ありますが、エリヤが証明したのは、アブラハム、イサク、ヤコブの神、つまり、我らの主のみが唯一の神なのだ、ということです。さて、エリヤはどうやって天から火を降らせたのでしょう。今日の聖句がまさにその祈りなのです。エリヤは、主の御言葉に忠実でした。そして、「わたしに答えてください」と祈ります。主なる神は、祈りに答えてくださる神なのです。火が降りましたが、水まで舐め尽くしました。この火が人の罪を清めるのです。だから、犠牲であるキリストがおられなかったら、だれも生き残ることはできないのです。火は犠牲に向かって降ってきたのです。そう考えれば、罪をキリストの十字架に完全につけなければ望みはないこともわかります。我々も主にひれ伏して、「主こそ神です。主こそ神です」と告白しましょう。(佐久間)

 

10月13日(日)

あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。

申命記18:10-14

 

まだ牧師になる前の20代の頃に、クリスチャンの友達がある女性を教会に連れてきました。その人を紹介されて、その女性が友達が下宿している大家の娘であることがわかりました。それだけなら良かったのですが、その人が何をしているか聞いた時に、心の中で警報が鳴り響きました。それは、占い師だったのです。しばらくその人の話しを聞くことになりました。その中で、占い師の元締めのような役の方がいて、その人の家系はひどく呪われているということを聞きました。自殺者が絶えないというのです。自殺しないまでも、交通事故とかまともな死に方をしていないと、その人は恐ろしそうに話していました。占いなどインチキだと思われている人もいるでしょう。それで、占いに近づかないのならそれでもいいでしょう。しかし、多くの人は興味本位で占いを信じてしまうのです。勿論、ご都合主義で自分に都合のいいことだけを信じればいい、と言う人もいますが、そのような甘いことを言っていると取り返しのつかない事態になるかもしれません。というのは、人間の能力はだれもそれほどの違いがあるわけではありません。その中で、人の将来を見通すというのは無理なのです。だから、心理学を応用して人を欺くような人もいます。

さて、易経という古い書物があって、そこには、人間理解の面白い話が書かれています。哲学と言ってもいいだろうし、宗教といってもおかしくないし、理学や統計学と言っても通じる、不思議を感じさせる本です。しかし、占い等の聖書で禁じているものは、危険なもので、悪霊と関係があります。悪魔はもともと、自分をこの世の神として、真の神に公然と反逆しているものです。やがて、悪魔と手先の悪霊どもは、地獄に落とされることになっていまが、まだしばしの時間が与えられています。そこで、いろいろな悪いことをしているのですが、その一つに占いや、死人との交信などの霊媒師のような働きの影の支配者として暗躍しているのです。その証拠に、コックリさんのような特別の霊能者を介さなくても、霊的な不思議が起こったりしています。悪霊の目的が人を苦しめ、破滅へと導くことだから、霊媒師を通しても通さずに直接でもどちらでもかまわないのです。驚いたことに、フィリッピンから来たクリスチャンの女性が、聖書を使ったコックリさんをやっていたことを聞き、驚いたことがありました。聖書が霊の力で右回り、左回りと勝手に動いてイエス・ノーを教えるというのです。また、強い霊能力がある人が、悪魔と契約を結ぶと恐ろしいことが始まります。その終は残酷なことが待ち受けています。もし、あなたが占いなどを信じているのなら、想像以上に危険な状態にいます。信じていないと言っても、占いを読んだり、聞いたりしただけでも、汚れることがあるります。イスラエルの民は、律法で禁じられたのにもかかわらず、霊能者に伺いを立てるようなことをしていました。他にも、農業神のバール(夫)やアシュタロテ(妻)を拝むことも、禁じられていた偶像礼拝でした。これも、何もないものを神とすることの問題がありましたが、宗教としては悪霊の働きの温床となるわけです。今日の聖句を読み直してください。冒頭の友達は、結局自殺してしまいました。どのように関係しているかは、わかりませんが、その頃は悪霊のことをほとんど理解していなかったので、何か後味の悪い悲しい結果となってしまいました。皆様も占いにはお気を付けください。(佐久間)

 

**10月14日(月)〜10月20日(日)(中村とおる)

 

10月14日(月)

アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。

ユダの手紙 14〜16

 

ここで、ユダは主イエスの再臨のときのことについて語っていますね。そのときにすべての人が主の前に立つのです。ある人々は、不平、不満のかたまりのようです。今受けている恵みを感謝することなく、いたずらに不平、不満ばかりをもらす。そういう人を見るとつくづく気の毒になります。喜びのない生活の中に生きるこういう人々は、不平、不満のかたまりなので、その不平、不満を他者へのさばき、攻撃に向けて行きます。

それは、ひいては、「主にそむいて語ったすべての暴言」にまで至ります。別の訳では、「神を恐れない罪人どもが主にいい逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定める」と訳しています(新改訳参照)。「主に言い逆らう」とは、不平、不満の導き、行き着く所はこういうものなんですね。

「自分の欲のままに生活し」、「口は大言を吐く」ような生き方からは決別したいですね。

不平、不満は悪魔にその源があるものなのです。天使のかしらという、最高の地位にいたルシファーはそれでも満足せずに、ついには神ご自身の地位をも妬み、窺いはじめたのです。そのとき彼は天使長の地位を追われ、地に投げ落とされて悪魔になりました。

不平、不満ではなく、感謝と喜び、そして讃美がいつもあなたの口にあるようにしたいですね。(とるのすけ)

 

10月15日(火)

愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。

彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。

ユダの手紙 17〜19

 

ユダはにせクリスチャンたちにずいぶん厳しい言葉を浴びせかけてきましたが、本当の兄弟たちには、「愛する者たちよ」とやさしく呼びかけていますね。にせクリスチャンたちとの対比が明らかにされています。あなたたちは、あのような、にせクリスチャンとは違うのだ、あなたたちこそ主に愛され、互いに愛しあっている主のしもべなのだ、という気持ちなんでしょうね。

厳しい言葉をならべてきた主の兄弟ユダですが、実はこの「思いだしなさい」ということばがこの手紙で初めて使われる命令形なんですね。その命令というのも、すでに使徒たちが預言していたことを「思い起こしてください」(新改訳)というものでした。かれらは、預言されていたとおり、「あざける者」として登場します。

「彼らは」ということばで、ユダは、あなたがた「愛する者たち」とにせクリスチャンたちとを、明確に区別してくれていますね。かれらの決定的な問題点は、「御霊を持たない者たちである」という点だったと思います。だから当然霊に属する者ではあり得ない。「肉に属する者」だったんです。聖霊こそが、本物と偽物とを切り分ける諸刃の剣なんですね。

聖霊を求めましょう。霊に満たされた教会を求めて行きましょう。それが、わたしたち、スクエア・ジャパン・チャーチのメンバーたちが毎日正午に祈り求めていることなんですからね。日本を、悪魔・悪霊どもの手から取り戻してください、主よ!!!日本にリバイバルを!500万人の魂をお救いください!!!イスラエルを祝福し、ユダヤの民をお守りください、わが神よ!(スクエアとる)

 

10月16日(水)

しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、

神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

ユダの手紙 20〜21

 

主の兄弟ユダはここで再び「愛する者たちよ」って呼びかけてくれます。なんだかうれしくなりますね。だって、そもそもなぜユダは「愛する者たちよ」って呼びかけることができるんでしょうか?それは、主ご自身がまずわたしたちを愛してくださったからですよね。その同じ愛でユダも満たされている。わたしたちもです。だから、ユダも、そしてわたしたちも安心して心からお互いを「愛する者たちよ」って呼び合うことができるんじゃないでしょうか。

言うまでもないことですが、わたしたちになにか優れたところがあるので、愛されたワケじゃあない。本来、主に愛される値うちなどない者たちなんです、わたしたちは。でも、価しないわたしたちを主は本気で愛してくださった。

その愛が、ユダの中に現れている。その同じ愛がわたしたちの中にもあらわれてきている。

さらにユダは、「あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ」って続けます。

わたしたちが自分を築き上げることができるとしたら、それはただ信仰の上にしかありません。わたしたちには、主をこころから信じること以外に何かできることがあるのでしょうか。いや、その信仰さえ、神さまが下さるものなのです。あなたは自分自身の力で主を信じたのですか?いや、主が与えてくださったからこそ、信じることができたのです。その信仰を、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2)とあるとおり、イエスが完成させてくださるんですね。

だから、わたしたちは与えられた信仰の、それも、最も神聖な信仰の上に自分を築いて行くことができるんでしょうね。信仰の上以外に自分を築いて行こうとしたら、きっと失敗しますよ。自分に頼っちゃいけない。自分でやろうとしちゃいけない。自分を見つめていちゃいけない。主イエスがわたしたちのすべてです。

さて、その後でユダは、「聖霊によって祈り」って書いていますね。そもそも、祈りたいという願いはどこからくるんでしょうか?それは聖霊さまの促しだと思います。神さまは寂しがっているんですよ。だって、わたしたちが、神さまの他のものにばかりこころを向けているから。だって、わたしたちがちっとも神さまに話しかけないから。。。

そこで聖霊さまが思いださせてくれるんですね。「さあ、ここらで神さまとお話ししましょうよ。きっと寂しがってるよ。喜んでくれるよ」って。

祈りさえも聖霊に依存しているんですね、わたしたちは。だから祈るときは聖霊によって祈りましょう。聖霊によって満たされて祈るとき、思いもよらないことが起きるかも!

思ってもみなかった言葉が口から出て来ることに驚かされるかも。まるで忘れていた人のことを必死で祈っている自分に気がつくかも。自分でもわからないことばで、長〜〜い間祈っている自分を発見して驚いちゃうかも。。。そして、そのここちよさが忘れられなくなっちゃうかも。(とるリンパ)

 

10月17日(木)

しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、

神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

ユダの手紙 20〜21

 

昨日と同じ箇所ですが、今日は後半のところを読んでみましょうね。

まず、ユダは「神の愛の中に自らを保ち」と書いていますね。神の愛とは、第一義的には、神からわたしたちへの愛のことでしょう。しかし、聖書の中で神の愛ということが語られるときにはしばしばそうなのですが、神から与えられた愛によって今度はわたしたちも神を愛するようになる、その愛をも含んでいると思います。つまり、神とわたしたちは相互に愛しあっている、つまりラブラブなんだ、ってことですね。その愛の中に身を置き、いつもその愛の中を歩んで行きなさい、とユダは勧めているんじゃないでしょうか。

次にユダは、「永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」と続けます。「永遠のいのち」とは、滅び、それも永遠の滅びに対してのものです。本当は滅びる者でしかなかったわたしたちは、主イエスが本来わたしたちのものであった「永遠の滅び」をご自分に負ってくださったがゆえに、わたしたちには永遠のいのちが提供されているんです。それを目あてにして毎日を生きて行きなさい、とユダは書いているのです。

主イエス・キリストはわたしたちにあわれみを下さっています。そのあわれみこそが、罪深いわたしたちの状態にも関わらず主が示された「永遠のいのち」への道なんですね。そのあわれみは、主がわたしたちを迎えにもう一度来てくださる、再臨のときにクライマックスに達します。その日を待ち望んで行きましょうね。そのときまで、一人でも多くの人々に、キリストのあわれみを宣べ伝えていきましょう!!エイッ、エイッ、オー!!!

(とるくん)

 

10月18日(金)

疑いをいだく人々があれば、彼らをあわれみ、火の中から引き出して救ってやりなさい。また、そのほかの人たちを、おそれの心をもってあわれみなさい。しかし、肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらいなさい。

ユダの手紙 22〜23

 

主の兄弟ユダはその手紙を締めくくるにあたり、愛する者たちにさまざまな勧告をしています。まず、以前から言及していた、にせ兄弟たちのいつわりの教えに影響され、真理に対する疑いをいだいてしまっている人々への対し方を教えているんですね。

ユダはこれらの人々を憎み排斥してしまうのではなく、かえってあわれみをもって接することを教えています。そのことによって、かれらを罪の苦しみの火、またさばきの火から救いだしてあげるように勧めています。「引き出す」ということばが使われていますが、文字通り、引っ掴んで有無を言わせず引きずり出す、というほどの意味です。神さまが、迷ってしまっている人々をどれほど大切に思っているか、なんとしても救いたいとおもっていることがよくわかりますね。

次に出てくる「おそれの心をもってあわれみなさい」というのは、これらの人々に接するときに、悪い影響をうけないように、自分も罪に落ち入ってしまうことがないように、重々気をつけなさいということなんでしょうね。わたしたちは、いつでも神への健全なおそれをもって生きていきたいものですね。

最後に、「肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらいなさい」ときびしい言葉が語られていますね。下着さえも忌みきらいなさい、とはね。でも、原語ではちょっと順番がちがっていて、「火の中から救ってあげなさい、その汚れた下着は憎みながらね」というカンジです。ということは、それらの人を憎めと言っているんじゃなくて、彼らの罪そのものは焼き捨てるほどに憎み、しかしかれらのことは憐れみをもって救いだしなさい、と勧めているのかもしれません。いつでも愛を忘れてはいけないよ、と言われているようにわたしは感じました。(あいのこじか)

 

10月19日(土)

あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなく、あるように、アァメン。

ユダの手紙 24〜25

 

あらためてユダに言われてみると、わたしたちは本当によくつまずきますよね。わたしだけかな。。。でもね、わたしたちには「救主なる唯一の神」がついていてくれる。いつも守ってくれる。この方だけは絶対裏切らない。わたしたちを捨てない。

そういうすばらしい神さまが、この、すぐつまずくわたしを守って、つまずかない者としてくれる。もうつまずくことなんか怖れなくていいんだ、っていうことがどれほどの励ましになるでしょう!

それだけじゃありません。この方は、「その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さる」んですね。神の前に立つんですよ!なんか、悪事が暴かれそうで怖い!!!って思う必要はありません。「喜びのうちに立たせてくださる」んですから。いや、むしろ、あなたを救うために命まで捨ててくださったお方の前についに立つんです!ついにあのお方に顔と顔を合わせてお会いできるんです!それはまさに最高の喜びのときですよね。

しかもね、そのときわたしたちは、「栄光の前に傷なき者として」立つんですからね!!こんな傷だらけなのに、こんな欠点だらけなのに、こんな汚れまくってるのに、傷なき者として神の前に立たせてくださるんですよっ!

もう言葉もない!言葉なんかなくていい!!こんなすばらしいことがあなたを待っている。こんなすばらしいお方があなたを守ってくれている!!!こんなに愛されている!まさにこのお方にこそ、すべての栄光が帰せられるべきですよね。わたしたちにじゃなくて。(いまは傷だらけのとる)

 

10月20日(日)

あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなく、あるように、アァメン。

ユダの手紙 24〜25

 

いよいよ、ユダの手紙の最後の言葉です。たくさんのことがここで語られていますが、まず、神はただお一人である、ということ。世の中に神と呼ばれる存在は多々ありますが、まことの神は一人しかいない、ということです。そして、その神は救主であるということです。わたしたちを罪から救いうるのは、この方しかいない。唯一の神は救う神であるということですよね。

そして、その神だけが栄光、大能、力、権威をもつにふさわしい方であるということです。まかりまちがっても、神に与えられるべき栄光を自分のものとするようなことはしてはならないと思います。この栄光を自分のものとしようとして、天使のかしらルシファーは悪魔となってしまいました。わたしたちもよくよく気をつけていなくてはいけませんね。

また、この神は、キリストと共に世々の初めから、今も、そして世々限りなく、永遠におられる方です。時間をも、物理的な空間をも超えたお方であるということですね。この神に、栄光、大能、力、権威を究極的にもたらすのはキリストに他ならないし、そのことこそがユダの手紙の締めくくりの祈りであり、願いなんですね。アァメン。(とおる)

 

**10月21日~27日(佐久間典臣とサクマ)

 

10月21日(月)

終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。

1テモテ4:1-5

 

聖書は、世が終わることを明確に示しています。そして、いよいよ終わりが近づくと惑わす霊と悪霊どもの教えに心を奪われて、信仰から脱落する者がでると預言されています。それは、結婚の禁止や食べ物の制限であったりします。そこで、これはしるしになっているので、気をつけましょう。食物は神がお造りになったものなので、全て良いものです。ですから感謝して食べます。よく、クリスチャンが食前の祈りをするのは、このことと関係しています。聖書は、神の言葉と祈りによって聖なるものとされる、と明確に書いてあります。ですから、祈り無しには食事をしないのです。クリスチャンは聖なるものを食しているのです。それは、聖霊の宮として体を大切にしているから必要なことなのです。あなたの自覚がどうあるかにかかっています。一方、神が食べ物としていなかったものも売られるようになりました。作物も品種改良を繰り返すことで、また、腐らないで長時間売ることができるように食品添加物が入るようになり、神ではなく人の作ったものが多く出回り健康の心配がでてきたのです。昔ながらの食事という言い方を耳にするようになりましたが、人の手で何かされていない安全な神の造られた食べ物という意味でなら大切なことです。ましてや人間の敵による惑わしがあるのならなおさら、クリスチャンは食事のこともおろそかにはしないのです。(佐久間)

 

10月22日(火)

あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩編55:23

 

気づいてみれば、孫がいる歳になっていた。確かに孫は特別に可愛い。しかしだ、2,3歳の男の子の恐ろしさを知っているだろうか。ワンパクといえば、まだ可愛らしさがあるが、小さな猛獣かなにか得体のしれない怪物と言いたくなる存在だ。つまり、やっちゃいけないことだけ精力的にやり続ける小さな生き物で、「それはダメ」と言えば、次のダメなことをすぐに見つけてやり始める生き物なのだ。「それはダメ、そっちもダメ、あっ!それもそれも全部ダメ」と、ひたすら言い続けるのって本当に疲れる。どこかに停止スイッチはないかと探したくなる。良い子に見えるのは寝ているときだけだ。それでも、優しく言い聞かせると、従順になることがある。その時は、ものすごく可愛いと思う。たぶん、神様も同じように僕たちを見ているのではないだろうか。「主は従う者を支え」と詩編記者は記した。そうだ、何も言うことを聞こうとしないでいけない事ばかりする孫には手を焼くが、時々みせるチャーミングな瞳で真剣に僕の言うことを聞いている時は、大好きなおもちゃ屋へ連れて行って何でも好きなものを買ってあげたい、と思ってしまう。神様ならなおさらだろう。なにしろ、イエス様が「天のお父さんって呼びなさい」と教えてくれた通りなんだから。「大胆に天のお父さん」って呼んでみよう。ただ、男子はお父さんに甘えることがうまくできない。その点、僕の家内の天分は父親におねだりする天才なのだ。それで、昔は弟の分までおねだりして、おこずかいをもらってあげていたそうだ。だから、義弟は父親におねだりするのではなく、姉に自分の分も上手におねだりするように頼んでいたのだ。ということは、そうゆう才能に恵まれた女性を妻にしたのだから、「天のお父さんに僕のぶんも上手くおねだりしてね」って頼んだ方がいいかもしれない。ただ、条件がある。それは主に従うことだ。そうすれば、永遠に何が起ころうとも動揺しなくていいようにしてくださるというおまけつきだ。

そもそも、信仰を持つと言うことは、すばらしいことなんだ。人生の重荷を神様に任せることができるのだから。この世界で誰が一体、あなたを支えていてくれるだろう。人間には人を支え続けることは不可能だ。でも、信仰を持っている人には神様がその人を支えてくれるのだ。こんないいことはない。ただ、多くの人がこの恵みを知らないのだ。どうだろう、あなただけがこの特権にあずかっているのは申し訳ないだろう、だから親しい人たちにもこっそり教えてあげたらどうだろう。きっと、いいことが起こるだろう。あなたは、皆から感謝されるだろう。あなたのドヤ顔が見えるようだ。(サクマ) 

 

10月23日(水)

成功する人は忍耐する人。背きを赦すことは人に輝きをそえる。

箴言19:11

 

人生は一度きりだ。だから誰しも成功した人生を歩みたいと思うのは当然なのだろう。世の中で一番成功に関心を抱いているのは誰か知っているだろうか。それは、社長という肩書を持っている人だ。成功の秘訣を知るためならお金だって惜しまずに出すだろう。では、聖書は成功について何と教えているだろうか。その答えが今日の箇所だ。「成功する人は忍耐する人」、これが答えだ。あなたはどうだろうか。たいていの人は忍耐の難しさを知っているものだ。さて、成功するために必要なことを考えれば、努力とか才能、あるいは資金、チャンス、コネ、発明、人脈、技術、などいくつでも思い浮かぶが、忍耐という言葉はなかなか出てこないかもしれない。しかし、努力も才能もちょっとやってみてダメだとすぐにあきらめてしまえば成功には届かない。他のものもそれらを活かして成功を導き出すには忍耐が必要なのだ。さて、聖書はそのことだけを教えたいのだろうか。この聖句には下の句がある。ユダヤ人は、上の句と下の句で同じことを言うという方法をよく用いる。そこで、下の句を読んでみると「背きを赦すことは人に輝きをそえる」とある。新改訳聖書の訳はもっとわかりやすい「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである」。つまり、成功する人は、反抗されたり、裏切られても、平静に思慮深く、忍耐し、その背きを赦すものだ、と言っているのだ。それは、その人を輝かせることになる。これは、信仰者が悟った時の特徴そのままである。もちろん、世俗の社会でも通用するだろう。ただ、世俗の社会ではもっと醜いことがまかり通っているのも事実だ。それでは、この成功とはどういうことだろう。それは、人として美しく生きることだと思う。人を赦せると忘れることができる。恨みは骨を枯らす。自分にひどい事をした人を赦すことができるなら、心がどんなに軽くなるだろうか。巷では、「やられたらやり返す、倍返しだ」という言葉が流行っているが、心の負担は軽くなる事はないだろう。人生を思慮深く生きたいものだ。(サクマ) 

 

10月24日(木)

ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである。

創世記32:8,9

 

この話は、兄弟の話である。兄は粗野で野生的な男で、弟は繊細で人の心を見抜こうとする男だった。だった、というのは、苦労して忍耐を学んだので今や成功者になっていた。本来なら故郷に錦を飾るという晴れの日になるはずだったが、そもそもが兄から長子の権を奪い、不思議な一子相伝の祝福を本来兄のものであったはずなのに、父をだまして弟が奪ったのである。そのことで兄は怒り狂い、弟を殺すと心に誓ったのだ。それで、慌てた弟ヤコブは母の故郷へ逃げ、やがて叔父の二人の娘を自分の妻とし十二人もの子供をもうけたのだ。彼は祝福を受けたので、何をしても栄えた。財産も家族も増えていった。叔父は、ヤコブが金づるであることを知ると人が変わっていった。狡猾にヤコブを離さないために、あの手この手とヤコブを利用しようとした。そこで、ヤコブは叔父と決別し故郷に帰ることを決めたのだ。ところが、故郷が近づけば兄への恐怖が募ってきた。今や、兄もひとかどの人物になっていた。配下の手下も沢山いたのだ。そこへ、かつて自分を欺いた弟が膨大な家畜と奴隷、そして大家族と共に向かっているのだ。ヤコブは時間が兄の怒りを鎮めてくれたと思いたかった、しかしそれを打ち消すように兄の怒りがいまだ解けていないのでは、と不安にさいなまれた。ヤコブは財産の半分を失ってもしかたないと覚悟しなければならなかった。もしかすれば、半分は生き延びるだとうと考えたのだ。その後、二人の妻のうち、姉のレアとその子供たちを行かせ、その後に妹のラケルと子供を行かせる。もともと、結婚したいと叔父に申し出た相手は妹のラケルだった。それなのに結婚式の翌日に自分の隣に寝ていたのは姉のレアだった。血相を変えて父親のもとへいけば、彼は平然と妹もくれてやるからさらに7年の年季奉公をしろと言われた。そのようなわけで、愛していない姉のレアも妻にすることになった。殺されるかもしれない緊迫した場面でも、レアは犠牲になるかもしれない先を進まされ、その後からラケルが行くことになったのである。聖書のすごさは、およそ人間が遭遇する可能性のあることがちゃんと書かれてあるということだ。きれいごとなど何もない、あからさまに赤裸々に書かれている。ここから何を学ぶかはその人しだいだ。ここから危機管理を学ぶ人もいるだろう、財産を守ると言うことの意味を悟る人もいるだろう。男の人生にやがて来るだろう運命を決する試練について考える者もいるだろう。自分のしてきたことの結果をいつか刈り取るという教訓を学ぶものもいるだろう。しかし、主人公のヤコブは、族長と呼ばれる聖書の最も偉大な信仰者だったのだ。かれは、やがて神に改名を命じられイスラエルと名乗ることになる。そう、彼こそがイスラエルの父なのである。最後に、教えよう。ヤコブは、悩んだが彼の帰郷は神の意図だったのだ。だから、信仰者には悩みがないとは言わない。しかし、信仰者という意味は神の意図を知る人と言う意味だ。それ故に、常識では無理と思われることにもあえて立ち向かっていく人のことなのだ。それだから、悩むことがあるのは当然だ。しかし、その向こうに大いなる祝福が待っていることを忘れてはいけない。あなたにも臆することなくここを見事に通り抜けてほしい。(サクマ)

 

10月25日(金)

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

ルカ6:37-38

 

不思議な言葉を今日は瞑想してみましょう。クリスチャンであれば、何度も聞いた御言葉です。つまり、それだけ重要な御言葉であるということです。聖書の御言葉は、人の常識とは違っていることがよくあります。そして、なにか法則のように聞こえます。この御言葉も実は法則あるいは、神の約束なのです。神に裁かれることは決まっています。誰ものがれることができません。そして、最後に罪ありと裁かれたら、この世で死ぬことよりももっと怖い地獄が待っています。そうならないように、神に裁かれない方法が私も裁かないということです。人のことを見てとやかく言う事は時に裁いている場合がありますから要注意です。あの人は罪人だという係のように人を見ることほど危険なことはありません。罪人だと決めなければ、あなたも罪人だと決められません。同じように、赦せばあなたも赦されます。与えれば、あなたも与えられるのですが、同じだけ与えられるというのではありません。「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」のです。このような法則を知ったなら実践あるのみです。決して、できないような難しさは全くありません。だれでもすぐにできることばかりです。それが、あなたに祝福をもたらします。人間として考え得る最高の道がここにあります。繰り返しますが、これは法則なのです。試してごらんなさい。この通りのことをあなたは経験することになります。不思議なのは、このように単純で簡単なことを聞いても実行しない人が多いということです。だから、祝福を逃しているのにその理由に気づくことはないようです。今日は、絶対覚える言葉を最後にお知らせいたします。「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」。このことが瞑想課題です。これで、あなたの人生は大いに恵まれるでしょう。(佐久間)

 

0月26日(土)

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

創世記12:1-4

 

高齢化社会と言われて久しい。今日の主人公はその名をアブラムといい、後に神によってアブラハムと改名された人の話だ。その人が、これから次々と起こる冒険の旅に出発したのが75歳であった。聖書を読み始めたばかりの初心者だと思っている人のために少し付け加えるなら、アブラムの登場した時代ぐらいから人間の寿命は今の人間の寿命ぐらいに落ち着いてきた。だいたい120歳ぐらいだ。もっとも、今でも最高に生きることができて120歳ということらしい。さあ、本題にもどろう。ここで、覚えることは歳を取るメリットはあるということだ。ようやく、若い時のように気負うこともないし、功名心や野心など余計なものもない。体は衰えてくるから勢いで生きようとはしなくなる。そして、一番いいのは謙虚になれることだ。残念なことに頑固になる人もいるが、損なことだ。人間が成熟するということがなければ淋しい人生で終わってしまうだろう。アブラムは、75歳で神の声を聞いた。その内容が今日の聖句である。とてつもない話だ。だから、アブラムは聖書の中でも特別な人なのだ。現代の我々にも関係がある。中東問題を日本人がなかなか理解できないのは、このアブラムのことを理解していなからだ。その話はまた後日しよう。今日のポイントは、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」というところだ。あなたはできるだろうか。突然神の声を聞いて、そうですかでは全てを捨てて、未知の世界に出発しましょう、とすぐに実行できるだろうか。「もう歳だから新しい事は何もできない」と言うのではないだろうか。年齢を理由にして消極的になる必要は何もない。問題は、あなたの準備が整った時にあなたは神の声を聞くだろう、ということだ。神の声を聞きたいと言う人がいるが、聞いたら従わなければならない。その従順さこそ神が求めるもので、イエスの人生に良く現れていたものである。神の御声を聞けるまでにへりくだり、従順になる事ができたなら、主はあなたを用いることを望むだろう。そして、さあ、旅にでようと祝福の旅路へ導かれるだろう。なにしろ、あなたはすでに神に選ばれているのだから。(サクマ)

 

10月27日(日)

主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。

歴代誌下16:9

 

人生の中で心配になったり、不安にかられたりすることは避けられないだろう。そんな時にあなたはどうやって、その不安を払しょくしているのだろう。多くの場合、ただ時間が過ぎ去る事によって、何かしらの結果を見て、また次の不安があなたを捕まえるまでの束の間忙しく生きているだけかもしれない。だから、人間は自分を助けてくれたり、支えてくれる信頼のできる友を探しているのではないだろうか。しかし、どんな時でも味方になって、無条件に愛してくれる友達などいるのだろうか。クリスチャンは、イエスと出会った人だ。彼のことを「友なるイエスよ」歌い、涙を流している人だ。不安に襲われた時に、「イエス様」と助けを求める人なのだ。なぜだろう。そう、探し求めていた絶対に裏切らない、安心できる友だからだ。イエスは神だ。その神が聖書から語りかけている。「御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」というのだ。あなたのことも当然、見ているだろう。今日、あなたに考えていただきたいことは、神と心を一つにするということだ。あなたに必要なことだと思う。あなたは、神から力づけられる存在だからだ。あなたを喜ばせ、困難をみごとに乗り越えさせ、本当の安らぎと幸福を与えたいと神は願っておられる。あなたはこの世でも、この世の友でもなく、イエスに目を向け、心を一つにするべきだ。この世の中にあなたに安息を与えてくれるものなどないことをあなたは知っているではないか。クリスチャンは、水と霊から新しく生まれ、神の国に入った人である。神の国は神の支配を意味しているから、神に服従している人になったこということだ。神は愛だから、愛に生きる人といってもかまわない。神に愛され、神を愛しかえす、これが心を一つにすることなのだ。誰に強いられたのでもない、真心から神を愛することがあなたの人生にすばらしい奇跡を起こすことを思い出してほしい。主は、今日も世界を見回し探しているのだから。(サクマ)

 

**10月28日(月)〜11月3日(日)(中村とおる)

 

10月28日(月)

はじめに神は天と地とを創造された。

創世記 1:1

 

「はじめに」とありますね。つまり、宇宙の万物には「はじめ」があったんですね。「そんなの、あたりまえじゃないか」と思う人もいるでしょうね。でもね、そもそも「はじめ」などというものはなかった、というような考えをする人はたくさんいるんですよ。しかし、聖書は、すべてのものには、明確な「はじめ」があった、と教えています。

「はじめ」があった、ということは、また「おわり」もあるだろう、ということになります。「はじめ」があって、「おわり」がある。言ってみれば、数学的には「線分」のように歴史というものを考える、これが聖書の歴史観です。

しかも、その「はじめ」に、神が天と地とを創造された。これは、日本で生まれ育ったわたしたちが学校でずっと教わり続けてきたことと違いますよね。わたしたちは、学校で、宇宙のすべてのものは「偶然」生まれたのだ、と教わってきました。それが、長い年月の間に、進化を続けていまの「ひと」すなわち人間が誕生したのだというのです。

しかし、聖書はもっと単純に、もっと明確に、「はじめに神は天と地とを創造された」と書いています。

「そんなバカな!」、「そんな非科学的な!」とあなたは思われますか?では、何もないところに、偶然に物質が誕生し、それが偶然進化して、人が生まれた、というのが果たして科学的な「考え方」でしょうか?考えさせられますよね。

「はじめに神は天と地とを創造された」というこのことばは、信じるかどうかは別として、確かにインパクトのある言葉ですよね。これまでに多くの人々のこころを動かし、新しい洞察を与えてきたことばです。

これからも少しずつこのことばを、一緒に噛みしめていきましょうね。(中村とおる)

 

10月29日(火)

地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

創世記 1:2

 

「地は形なく、むなしく」ってありますが、「むなしく」は、ある聖書は「何もなかった」と訳しています。形がないだけでなく、何もない地。命のない世界のさびしさ、厳しさのようなものが伝わってきますね。

しかも、闇がおもてをおおっていたんですね。光というもののまったくない地。さらに荒寥感が増してきますね。

しかし、次のことばにわたしたちは励ましを受けます。「神の霊が水のおもてをおおっていた」。形もなく、荒涼として、命もない、真っ暗闇の世界。しかしそのおもてを「神の霊がおおっていた」んですね。まだ何もない地。もちろん人もいない。命というものがまったく見られない地。しかし、それでも神の霊がおおい、混沌とした地をおおっていてくださる。

やがて、もう間もなく主なる神は創造を開始される。そこに光があらわれ、大気がおおい、海が集められてかわいた地に植物がそして動物たちが造られていく。最後にひとが造られる、神の形にかたどって造られた人が。。。

そういった、命にあふれる地の姿を神は期待をもって見守り、すでにその完成を思い見ておられるかのような神の霊の守りがもうすでにそこにある。まだなにもないのに。。。まことに神は永遠の昔から永遠の未来に至るまで生きてそこに「有る」お方なのですね。(とるちん)

 

10月30日(水)

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

創世記 1:3

 

さあ、いよいよ神さまの創造物語の初まりです。形もなく、なにもなく、むなしい地に、神は最終的にはひとを造ろうとしていました。ひとが住んで生きていくのにふさわしい環境を一つ一つ整えてくださるんですね。

で、一番はじめに神が造られたのは、「光」でした。ひとが生きていくのに必要なものはほかにもたくさんありますよね。でも、その中で「光」が一番はじめに与えられたことに考えさせられます。もちろん、物理的な「光」がひとにとって必要不可欠のものであることは、疑いありません。でも、なぜ光が最初だったのかを考えると、もう少し象徴的な意味も浮かんで来るような気がします。

イエスはこう言われました。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)、「わたしは、この世にいる間は、世の光である」(同9:5)、「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである」(同12:46)。

人が生きていくのに大切なもの、必要なものはいろいろありますが、最も大切で必要なものはと言えば、それは神以外にありません。そうですよね?そのまことの「光」を一番はじめに備えてくださった。わたしたちが、神さまをわたしたちの人生の一番初めにできるように、一番大切なお方とできるように祈りましょうね。神さまはあなたを一番にしてくださっているんですから。(とおる)

 

10月31日(木)

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

創世記 1:3

 

さて、ひとにとって、最も必要なもの、そしてたいせつなもの、だから神が一番初めに造られたもの、それは「光」でした。

おどろくのは、神は光を造られるときにどのようにしたか、というその方法です。普通わたしたちはなにかを造ろうとするときに、どのようにするでしょうか。たぶん、まずどのように造るかという設計図や青写真を用意してから、必要な材料を揃え、必要な道具を用意し、それから手や足を動かして作業を開始するでしょうね。

ところが、神の方法は違いました。神は、ただ、「光あれ」と言われたのです。「すると光があった」んですって!なんという驚くべき、というか、信じ難い方法か!てなカンジですよね。わたしたちはこんな風に何かを造ったことって一度もないですよね。

ただ、ことばによってなにかを創造する。神がことばを出されるとき、無から有が生じる。材料も道具も、手も足も要りませんでした。ただ、ことばを出されただけでした。

でもね、考えてみると、ことばっていうものは確かに力がありますよね。ことばなんて、目には見えませんし、さわることもできません。でも、ことばには良くも悪くも人を動かす力があるように思います。だれかの何気ない一言で傷ついたり、打ちのめされたりしますし、また逆に、ちょっとしただれかの一言で勇気をもらったり、励まされたり、倒れていたのをもう一度起きあがらせられたりします。

わたしたち人間のことばでさえそうなんですから、神の「ことば」にはどれほどの力があるんだろうか、って考えちゃいますね。そういう神のことばが、「光りあれ」って命じたんですから、光だって、「いやだよ、そんなの」なんて言えるわけがありません。すみません、ふざけてるわけじゃないんです。神のことばがでるとき、この世のなにごともそれに逆らうことはできません。それだけの力がある!ということなんです。(とるとる)