**11月1日~10日(中村透)

 

11月 1日(金)

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

創世記 1:3

 

神はなんとことばによって、万物を創造されました(唯一の例外はありますが)。

しかし、聖書的に考えれば驚くほどのことでもないのかもしれません。「光」というものが、神を象徴的に表わすものである、というのはすでにお話ししましたが、じつは、「ことば」も神を、とくにキリストをあらわす単語だからです。

少し引用が長くなってしまいますが、福音書には次のように書かれています。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ1:1〜4)

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)

このことから明らかなように、「言」(ギリシャ語では『ホ・ロゴス』)とは神の子キリストのことを表わしています。

だとすると、神が「光あれ」とことばをだすことによって光を創造なさったのは、当然と言えば当然なのかもしれません。「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」とあるのですから。

そのように考えてくると、いちばんはじめに神が「ことば」によって「光」を造られたのも理にかなったことなのでしょうね。神の思慮の深さと創造の力はわたしたちの想像を絶していますね。(とーる)

 

11月 2日(土)

神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

創世記 1:4

 

神という方は非常に標準の高い方だと思います。レベルが高いんですね。そのレベルの高い神が光を見て、「良しとされた」んですから、本当にこの「光」はすばらしいものだったんでしょうね。で、この「光」は、創造週の第四日に造られた太陽とは違うものらしく、「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである」(コリント第二4:6)とあるように、わたしたちの心を照らす神の光と同じもののようです。すばらしいわけですよね。

そして、神は「その光とやみとを分けられ」ました。その結果、光とやみとが交互にあらわれるという秩序ができたわけですね。では、やみもまた、光と同等に重要なものなんでしょうか。そうではないと思います。光あってのやみ、と言いますか、光の裏側としてのやみが問題にされているんだと思います。神はこの二つを「分けられ」ました。区別されました。このときから、光とやみとは決して相容れない、まったく区別されたものとなったのです。

わたしたちも、この「光」にこころを照らされて、光のうちを歩んでいきたいですね。(なかむらくん)

 

11月 3日(日)

神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

創世記 1:5

 

妙な言い方かもしれませんが、神は名前をつけるのがお好きなように思われます。わざわざ名前を付けて呼ぶ、ということの中に、ひとつひとつの物事を大切に見ようとする神の姿勢が感じられるような気がします。

ここでも、光とやみとを明確に区別され、そしてそれぞれに名前を付けて呼ばれました。そしてここに、一日が昼と夜とからなるものとして成り立ったんですね。昼と夜。わたしたちが当たり前のように使っている言葉であり、概念ですが、ちゃんとここに起源があるんですね。

「夕となり、また朝となった」とあるのは、原語では、「そして夕があった。そして朝があった」というように書かれています。夕が終わったとき朝がある。そして朝が終わったとき夕がある。一つの区切りが終わったときに次の区切りが始まる、そういう考え方のようです。

そして異論はありますが、伝統的にユダヤの民は、一日は夕から始まる、すなわち日没から日没までが一日である、と考え、その考え方に従って生きてきました。

ともあれ、神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられ、「そして夕があった。そして朝があった」のです。これが、Day 1、すなわち第一日となったわけです。そう考えると、夕が来て朝が来るたびにこの神の創造のわざを思いだして、厳粛な思いに駆られますよね。このようにして神は第一日を始められたのだ、ってね。(とるすけ)

 

11月4日(月)

神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。

そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。

神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

創世記 1:6〜8

 

第二日です。神はおおぞらを造られたんですね。

「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(2節)とあったように、地は一面水によっておおわれていたようですが、この水を上と下に分けて、その間におおぞらが造られた、というわけです。

この「おおぞら」ということばは、別の箇所で、「あなたは鋳た鏡のように堅い大空を、彼のように張ることができるか」(ヨブ記 37:18)とあるように、堅い金属のひろがり、といったようなイメージがあるようです。もちろんそれは物理的な「堅さ」ではなく、神のわざの「確かさ」をあらわすものであり、またその果てしないほどの壮大な広がりをイメージさせてくれますよね。

われわれの現在のことばでいうならば、大気圏のことでしょう。わたしたち、地上の生物を包み込む空気の層。地表から百kmから数百kmの厚さと言われています。ずいぶん厚いように思われますが、地球全体の大きさからいったら、ひじょうに薄い、りんごの皮のようなもののようです。

この大気圏のゆえに地球は「青い星」とよばれます。月面に立ったひとびとによると、地球はなんとも青くうつくしい、しかもはかなく見える星のようで、他の星とはまったく違って見える、とのことです。そのような星が宇宙に浮かんでいるというのは、偶然では決してあり得ない、おどろくべき奇跡のあらわれである、ということが理屈を超えて納得させられる経験であるようです。特別に計画され創造された、愛されている星、それが地球であり、そこにわたしたちは今日も生きているというわけです。(しみじみとる)

 

11月 5日(火)

神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。

神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。

創世記 1:9〜10

 

ここから三日目が始まりますが、どうも二日目との関係が深いように思われます。二日目に神はおおぞらの上の水と下の水とを分けられましたよね。ここでは、おおぞらの下の水がさらに一カ所にまとめられていきます。

水といえば、つい先日も大雨の水によって多くの尊い人命が失われましたよね。2011年には津波によって万を超える方が命を奪われました。わたしたちは水の力の恐ろしさを思い知らされました。しかし、神はやすやすと水を治められます。聖書にこんなことばがあります。

「彼(神のこと)が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき」(箴言8:28〜29)

「あなたは水に境を定めて、これを越えさせず、再び地をおおうことのないようにされた」(詩篇104:9)

神が定めた「限界」、あるいは「境」のなかに水は治められます。それによって、かわいた地が現れたんですね。神はそのかわいた地を「陸」と名づけ、水の集まったところを「海」と名づけられました。

このようにして、ひとが地に住むことができるように、神は着々と創造を続けていかれ、環境が整っていくんですね。(とる)

 

11月 6日(水)

神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。

地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。

夕となり、また朝となった。第三日である。

創世記 1:11〜13

 

水をも支配される神は、水に命じて一つところに集められました。その結果、海とかわいた地、すなわち陸とが生まれましたよね。

次に神がなさったのはかわいた地、陸に植物を生じさせることでした。そして、またもやことばによって造られたのは、「青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹と」でした。

おしまいの方から考えていきましょう。「種類にしたがって種のある実を結ぶ木」とは、たとえばりんごや、マンゴー、柿などといった果物類がまず考えられますよね。その他には、栗とか、くるみ、アーモンドなどといった堅果類(ナッツ)もこれに含まれるでしょうね。これらが、秩序正しく、「種類にしたがって」造られていったんですね。

おもしろいのは、神は初めからこれらを「種類にしたがって」造られた、という点です。これらのものは、造られたときから、これはこれ、あれはあれ、というふうに種類にわけられていたんですね。このことはもっとあとでも出てきますから、そのときにもう少しくわしく考えていきましょうね。

海と陸とが分けられ、陸地にこれらの植物が造られたとき、「神は見て、良しとされた」と書いてあります。造られたこれらのものを見て、神は喜ばれ、満足されたんですね。なんだかうれしいですね。

そして、夕となり、また朝となって、三日目が終わりました。(とる)

 

11月 7日(木)

神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。

神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。

神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。

創世記 1:14〜18

 

さて、四日目です。ここを読んで、「あれっ?おかしいなあ」って思った人いますか?なかなかするどいですね。

数日前に読んだところに、「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」(1:3〜5)ってありましたからね。もうすでに光があって、光とやみとが分けられて、光は昼、やみは夜って名づけられたわけですから、ここで四日目にまた「光があって昼と夜とを分け」って、一体どういうことだろう、ってね。

ここで神が造られた、「二つの大きな光」のうち、「大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ」た、というのは、きっと太陽と月のことでしょうね。

だとすると、3〜5節で語られ、昼と名づけられている「光」は、太陽からくる光ではなかった、と考えられます。太陽という光源がなければ存在できないような光ではなく、コリント第二4:6に記されている「キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さった」光のことなんですね。そういう光が、ただ「光あれ」と言われた神の命によってすでに第一日目からあった。

そして、この第四日目に造られた「大きい光」が、すでに存在していた「昼と夜とを分け」、「昼をつかさど」る働きを与えられたと考えます。

世界中には太陽を神としてあがめる宗教や思想がたくさんありますが、ここで明らかになっているのは、太陽はすばらしいものではあるが神ではない、ということです。かえって、「これらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられ」たまことの創造主なる神がおられる、という厳粛な事実が明らかにされているんです。もうすこし続けてこのことについて考えていきましょうね。(とるん)

 

11月 8日(金)

神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。

神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。

神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。

創世記 1:14〜18

 

今日は川口大三郎君が殺害されてから41回目のご命日です。わたし一人で黙祷。(ご存じない方はごめんなさい)

さて、第四日目のこの記事が、第一日目の、神が光を造られ、光とやみとを分けられたという記事と似ていると書きましたが、もっとおもしろいことがあるんですよ。第一日目と第四日目が似ているだけでなくて、第一日〜第三日に書かれていることは、第四日〜第六日に書かれていることと似ているんです。一と四、二と五、三と六が平行するように並んでいるんです。

一と四についてはもう書きましたので、二と五を見てみましょう。

第二日目には水(海)と天(おおぞら)が造られましたが、第五日目には(これはこれから読んでいくところですが)水の生き物と翼のある鳥が造られたんですね。すなわち、第二日目に造られたものの中に生きる生き物たちです。

第三日目には地(陸)が造られましたが、第六日目には同じく地(陸)に住む動物と人が造られたんです。

つまり、構成として六日間の創造は、A-B-C-A’-B’-C’ の形になっているということです。おもしろいでしょう?え?おもしろくない?えらいすんまへんな。

さて、第四日目ですが、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」とあるように、ここで造られた天のおおぞらの「光」は、三つの働きが与えられているんです。それは、⑴「昼と夜とを分け」ること、⑵季節のしるしとなる、⑶「地を照らす」の三つです。どれも、現在もわたしたちが大きな利益を得ている、とても大切な役割ですよね。神はそこまで考えてすべてを造られたんですね。ありがたいことですね。

⑴に関しては、「大きい光」(太陽)が昼を受け持ち、「小さい光」(月)と星が夜をそれぞれ受け持つという意味なんでしょうね。(とるぴょん)

 

11月 9日(土)

神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。

神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。

神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。

夕となり、また朝となった。第四日である。

創世記 1:14〜19

 

第四日目に造られた大きい光と小さい光、そして星。これらが季節のしるしとなったんでしたよね。

「季節のため、日のため、年のため」と神は言われました。そのとおりで、おもしろいことに、現在でもわたしたちが使っている暦にもそれは反映されています。つまり、日、月、年、また春夏秋冬の四季も、すべてがここに描かれている天体の動きによって決定されているんですね。

人は、神が造られ神が命じたとおりに動き働いている「光」たちの動きにしたがって、これらすべての暦の単位を作り上げてきたんですね。時間の単位だってそうです。

一日を二十四等分して一時間という単位ができているわけですし、一時間を六十等分して一分を、またさらにそれを六十等分して秒という単位を得、それを今日でも使っているわけです。すべて天体の動きに基づいています。

しかし、たった一つ、天体の動きにその根拠を見いだせない時間の単位があります。それは、「週」です。

では「週」という単位が成立した根拠はどこにあるのかと言えば、これも面白いことに、今わたしたちが読んでいる創造の記事にあるんです。今日読んでいるところは、創造の第四日目ですよね。これが第七日目まで続きます。それで創造が完成しました。そこから、七日間という「週」の単位が生まれたんですね。

ごくわずかな人しか神の存在など認めていないこの日本でも、ずっと一週間という単位が用いられています。知らずに、この「週」というもの、聖書創世記の創造の記事にしか根拠のない「週」というものを使っているんですね。

そしてこれらの天体を完成された神は、これをも「見て、良しとされた」んですね。ここまでで、地上、水中、空中を問わず、すべての生き物の生きていくための環境が完成しました。このあとは神はもっぱら生き物の創造に携わられます。そうして、最後に人が造られていくんですね。(とりゅりゅ)

 

11月10日(日)

神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。

神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。

夕となり、また朝となった。第五日である。

創世記 1:20〜23

 

さて、第五日目です。いよいよここから様々な生き物たちの創造が始まります。

「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」と神は言われました。なかなか詩的な表現だと思いませんか?まず水に満ちる生き物のことですが、ここで「生き物」と訳されていることばは、「命の魂をもつ群がるもの」とでもいうようなことばです。これもすてきなことばですね。水よ、そういうものに群がらせよ、というのが原語の意味です。

また、「鳥」と訳されたことばは、「飛ぶいきもの」といういみのことばで、従って、「飛ぶ生き物におおぞらを飛ばしめよ」ということになり、「飛ぶ」ということばと概念が強調されているみたいですね。つまり、こういうことではないでしょうか。神は、「飛ぶものは飛ぶもの」、「這うものは這う」という風に、明確な区別をおいて生き物をつくられたのだ、と。そのことは、「種類にしたがって」という表現にも表れているんじゃないでしょうか。

神は一つ一つの生き物をその種にしたがって造られたのであって、水中にいたものが進化して陸を這うものとなったり、空を飛ぶものとなったり、ということではないのではないか、と思われます。とりあえず今日はここまでにしておきましょうね。(と〜る〜)

 

 

 

 

**11月11日~17日(佐久間)

 

11月11日(月)

癒しをもたらす舌は命の木。よこしまな舌は気力を砕く。

箴言15:4

 

今日の聖句は、新共同訳から取りました。では、他の訳ではどうなっているでしょう。口語訳は「優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける」とあります。新改訳では、「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅」となっています。少しずつ使われている言葉が違っていますね。人に癒しをもたらす舌は、優しい舌、穏やかな舌、となっています。現代人が一番欲しいのはこの舌です。つまり、あなたはちょっとした心がけで人々を癒す、命の木になることができます。でも、感情に振り回されているならば、「よこしまな舌」、それは「乱暴な言葉」であり、「偽りの舌」のことです。それが、どんな結果を招くかあなたは知っているはずですが、嫌な思い出となっているかもしれません。それなのに、繰り返し同じ状況に陥る事があるのならば、反省しなければなりません。悪い舌は、「気力を砕き」、「魂を傷つけ」、「魂の破滅」を招くというのです。つまり、人に対してはいつでも穏やかに優しく良い言葉だけ言うべきです。そうでなければ、あなたは人生で取り返しのつかない損失をこうむるかもしれません。魂を破壊することだって、あなたの舌は簡単にできるのです。信仰者は、心に愛をもって人を癒す舌を持っていることを心がけている人です。あなたの舌は良い言葉のためにあることを覚えましょう。あなたが口を開けば、誰かが癒されると信じてみませんか。早速、今日癒しをもたらす舌を使ってみましょう。(佐久間)

 
11月12日(火)

悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。わずかな物を持っていて【主】を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。箴言15:15-17

 

櫻木健古著「生きるヒント『一日一話』」の中に、幕末の越前(福井)藩に実在した、橘曙覧(たちばなあけみ)という歌人のことが書いてありました。彼は国学者でもあり、幕末の志士でもあったそうです。この人の作品に『独楽吟五十二首』という短歌の連作があり、形式がすべて「たのしみは・・・」ではじまり、「とき」で終わっているものです。たとえば、「たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどい頭(かしら)ならべてものを食ふとき」、「たのしみは三人(みたり)の子どもすくすくと大きくなれる姿見るとき」、「たのしみはまれに魚煮て子らみながうましうましと言うて食ふとき」、「たのしみは珍しき書(ふみ)人に借りはじめ一枚(ひとひら)ひろげたるとき」、「たのしみはとぼしきままに人集め酒飲め物を食へといふとき」。橘の一生はずいぶん貧しいものだったようです。彼の家は壁は落ちかかり、畳はすりきれていて、書斎は土間にムシロをしいただけのものだったそうです。ところが、彼は一流の研究と著述に短歌まで書いたのです。さて、今日の聖句は幸福のありかたを教えています。日本の橘も清貧の中でも幸福に生きることを知っていました。聖書の知恵は、貧しい人は貧しさ故に辛いことも多いだろうし、何でも思い煩う人は当然のごとく毎日が嫌なことが起こりそうで不安になる。しかし、心が朗らかで楽しみをすぐ見つけ感謝する者は、いつでも宴会のように楽しく生きられると教えています。橘は生活のなにげない普通の事の中に楽しみを探し、「たのしい」と言葉にしたのが良かったのではなかったでしょうか。橘のもとを訪れた藩主はこう言ったそうです、「おのれは富貴の身にして何ひとつ足らざることなけれど、心は寒く貧しくして、うしろめたく、顔の赤らむ心地せり」。高級レストランのような食事ができても憎み合うような人間関係の中にいるよりも、たとえ粗末な食事であっても愛し合う人間関係の中に生きているなら幸福なことだ、と聖書は教えているのです。どうでしょう、今日一日を楽しみ発見の日にしてみませんか。声に出すか、紙に書いて、「楽しいことは・・・」と幸福を探してみましょう。きっと、良い日になりますよ。(佐久間)

 
11月13日(木)

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。

マタイ12:36-37

 

私たちは口を開いて話す時に、どれだけ自分の言葉に気を付けているだろうか。否定的な言葉や人を裁く言葉、下品な言葉に傷つける言葉、悪い言葉をどれだけ垂れ流していることだろう。そして、そのほとんどの悪い言葉に反省どころか、気にも留めていないのではないだろうか。聖書を読んでいくと時々怖くなることがあるが、今日の箇所もその一つに数えることができるだろう。この聖句を語っているのはイエスである。だから、文字通りに成就するだろう。裁きの日は世の終わりの日で、クリスチャンでもはじめて自分が天国に行くのか、それとも地獄で滅ぶのかがわかる日だ。自分の話したつまらない言葉で滅びたいとは誰も思わないだろうが、「裁きの日には責任を問われる」ことになっている。そして、油断していたと思うが、義とされるか罪とされるかは、実に自分の言葉によると言うのだ。これは一大事だ。毎日、どれほどの言葉を話しているだろう。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(マタイ12:34)だから、神は言葉で人を裁くことが重要なことだとお考えなのだ。日本でも有名になった牧師の中には毒舌で有名な人も混じっている。聴衆は喜んで笑っているが、実はご本人にとっては大変な危険をおかしていることになる。人間は調子に乗るからである。そもそもの仕組みを聖書は次のように教えている、「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」(マタイ12:35)。善い人は、心の倉に良いものを入れていると言うのだから、何を心にしまうかで善い人か悪い人かが決まってくることになる。それが誰にでも明白になるのが言葉だというのだ。それなので、言葉は自分が何者であるかを絶えず告げていることを覚えておきたい。(サクマ)

 

11月14日(木)

あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。

マタイ18:35

 

今日のお話しは、21節から始まっています。赦すことについてのペトロの質問から始まりました。ペトロは、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」とイエスに聞いたのです。さあ、この質問のポイントになるところはどこでしょうか。何に対して赦しているのかということです。それは、ペトロの言い方ですと、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」となります。つまり、自分に対して兄弟が罪を犯してきた時に赦さなければならないが何回までだろう、というのです。ペトロの考えでは7回でした。しかし、その答えは正解ではなかったのです。まず誰を赦しているかといえば兄弟です。つまりクリスチャンと言ってもいいでしょう。クリスチャンが別のクリスチャンに罪を犯すことがあるという前提です。しかも、一度ならまだしも何度も罪を犯すことを前提としているのです。ペトロは12使徒のひとりで、いつでもみんなが一緒に行動をともにしていました。そのために、人間関係に問題が発生することもしばしばだったのでしょう。しかし、イエスの教えは繰り返し「赦しなさい」と言うのです。それで、ペトロは考えたのです。もしかしたらちょうどこの時に別の弟子からひどい目にあったのかもしれません。それを我慢して赦してきたのではないでしょうか。しかし、ペトロは自分ばかりがひどい目にあってもいつも赦しているので、いったいいつまで赦し続けなければいけないのだろうと思ったかもしれません。それで、イエスに聞きにいったとしたら、ペトロの限界は7回ということになります。ところがイエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と諭したのです。ペトロが数学が得意だったかどうかは知りませんが、とても驚いたと思います。「それでは、一生赦し続けなければならないではないですか」といいたくなったでしょう。この後イエスは譬話をします。ぜひ読まれたほうがいいと思いますが、その譬話のしめくくりに今日の聖句が出てくるのです。イエスのいわんとしていることは、神もあなたの罪をずっと赦し続けているのだから、あなたも兄弟の罪を赦し続けるべきではないのか、もしあなたが7回まで赦してやると言えば、神もあなたの罪を7回赦せばいいと思うのか、それではあなたが困るのではないか。聖書でいう罪は人間のエゴと言ってもはずれてはいないでしょう。兄弟が罪を犯すというのは、その兄弟のエゴが出てしまったということです。それを赦さないというのは今度は腹を立てた自分のエゴが出てくると言う意味になります。その結果、あなたの罪を神は裁かなければならなくなるということです。もし、赦すと決めると、エゴは出てこないのです。だから、あなたは罪を犯さなかったので神は裁く必要がなくなり、相手の罪についてだけ裁くことになります。本当に人を裁けるのは神だけなのです。(佐久間)

 

11月15日(金)

怒りやすい者の友になるな。激しやすい者と交わるな。彼らの道に親しんで/あなたの魂を罠に落としてはならない。

箴言22:24,25

 

この知恵はとても古いものです。エジプトの知恵文学にも同じようなものがあります。人間の本質は時代によって変わるということはありませんから今日でも大切な教えです。別の訳では、「怒る人と決して親しくなってはならず、きげんの悪い者と同行してもならない」とあります。あなたの周りにもこのような人はいませんか。もし、避けることが出来るのならこの知恵を生かしてください。このような人は怒りで人を支配しようとします。それに対抗するすべがないのです。そのままにしておくと支配関係の中に陥り、びくびくして顔色をうかがう人になるか、その人と同じような怒りをあらわす人になる危険があります。怒りやすい者が成功することはまずありません。その反対に災いが待っているものです。ですから、自分を反省してみて怒りやすい傾向があると思ったなら、そのことが祈りの課題になります。真剣に祈らなければなりません。一方、権威ある者を怒らせてしまったなら「ひそかに贈り物をしておけば怒りはなだめられ/賄賂をふところに入れてやれば激怒も静まる」(箴言21:14)と書いてあります。これなどは、小説やドラマに出てくるような話ですね。残念ながら、謝罪や言葉だけでは人は容易に怒りを鎮めないということです。しかし、我欲が強い人はお金で気持ちが変わったりします。さて、クリスチャンはどうしたらいいでしょうか。不当な怒りを受けたら、まず神に祈ることです。自分で復讐をしてはいけません。ろくな目にあわないでしょう。「倍返しだ!」と息巻いてみたいでしょうが、ちゃんとまたその倍返しが待っていることになります。ドラマならなんとかなるのですが、現実はそううまくはなりません。イエスのように愛の心で生きることが大切ですが、自分の力を過信しては失敗するかもしれません。とりあえずは、今日の聖句を読み直して知恵を身に付けておきましょう。(佐久間)

 

11月16日(土)

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

マタイ9:35-38

 

社会の中で生きていると、自分自身の中に問題があることに嫌でも気づかされる。それを認めてしまうとどうしようもなくなるので、いつの間にか何事も自分に都合よく考えるようになっている。何か失敗すれば、それを人のせいにして責任転嫁してしまう。決して、すぐに謝ることがなかなかできない。そのような人が今度こそ正しく生きようと思っても、あざ笑うかのごとく悪が出てくる。もちろん自分の中からだ。それをパウロは法則と言っている。まさに何度繰り返しても善ではなく悪がでてきてしまうのだから法則というのは当たっている。聖人が自分のもとへ来れば、正しく生きろと説教されるだろうが自分でもどうしようもないこの法則から救ってはくれないだろう。ところが、ある日イエスが来たのだ。彼の説く福音は、聞いたことのない教えだ。しかも、自分をみじめにしてきたあの法則からの無条件の救いなのだ。イエスは神の支配に服するように語っている。そう言われてわかったのは、自分の問題を誰かのせいにしていたが、自分を支配していたのは自分であった。神を信じていないのだから当然そうなる。その自分が支配できない力が自分の中にあって善を行いたいと思っても悪を行ってしまうのだ。これはもはや自分ではなく自分の中にある罪だ。イエスは、この罪からの解放を約束しているのだ。罪から自由ではないとういうことは、究極的には罪に支配されているということだ。それだから良い行いをしようとしてもできないので、ありのままで救ってくださるとイエスは教えている。イエスから私たちを見れば、まるで飼う者のない羊のような哀れさに映るらしい。罪は心をむしばみ体に悪い影響を与える。その結果、心も体も病気になる人が決して少なくない。イエスは、その人たちも憐れんで癒してくださった。ただイエスの癒しは、体の命の癒しともう一つ目に見えない霊の命の癒しだ。すごいことに、イエスのもとへ来た人は大群衆であったのに全員癒されたのだ。イエスは、魂の救いのために来られた救い主だ。だから、人々の本当の姿をご覧になり、救われたいと願っている人を見逃さない。救われたいと願う人たちの数の多さをイエスはご覧になって、今日の聖句にある言葉を語られたのである。さて、刈り取りをする人は誰だろう。先に救われたクリスチャンではないだろうか。あなたが招かれたのは魂の収穫のためであることを考えてみよう。大きな感動と祝福が待っているはずだ。あなただから聞いてくれる人がいるし、あなただからイエスは一緒に働いてくださるのだ。収穫の時は限られていることを覚えよう。(サクマ)

 

11月17日(日)

あなたがたの内面に良い働きを始めた神様は、引き続き、必ずそれを恵みのうちに成長させ、やがてキリスト・イエスが帰って来られる日に、ついに完成させてくださると、私は堅く信じています。

ピリピ1:6

 

今日の御言葉はすばらしい約束です。あなたを救われた神様は、そのまま放っておかれることはされません。必ず恵みの内に完成させてくださるのです。それは、あなたがイエス・キリストを信じたことから始まりました。あなたの内側に目には見えない変化が始まったのです。それは、お母さんのおなかに赤ちゃんが生まれ、だんだん大きく成長していくようなものです。あなたの内面には、内なる人と聖書で呼ばれている新しい人がいるのです。罪に苦しんでいた時の古い人ではない、新しいあなたです。それは、神の新しい息を吹き込まれた時に始まっています。あなたが自分をどうにかするというような次元のことではありません。世界の万物を創造した創造主の御力があなたの内であなたを再創造しているのです。これは神の御業なのであなたは何もできないのです。ただ、肝心なのはあなたはイエスを信じたのでこのことが始まりました。それで、信仰だけはあなたに求められることになります。つまり、いっぺんに造りかえられたわけではなく、神様の時間の中でだんだん変えられていきます。それで、あなたの古い感情や考えが古い人の常識を持ち出して、信仰に反逆してくることがあるために、信仰の戦いが生じます。勿論、はじめから神を信じるという人は今では少なくなってしまい、疑いからスタートします。しかし、イエス・キリストは今も生きておられるので神の恵みに触れるとすぐに信じることができます。なぜ、すべての人が一度のこのような恵みを体験しないのか理由はわかりません。そして、あなたがすでに信仰を持ち救われているのなら、その選びの理由も人間には答えることができません。だれもが納得できる理由があるのでしょうがおそらくこの世ではわからないでしょう。しかし、イエス・キリストがおられなかったら、あなたが救われることもなかったのです。さて、この救いの面白さは、内住する聖霊の働きが大であることです。そして、あなたはイエス・キリストから分け与えられた信仰を露わにして、この聖霊に従うことが肝心です。そすれば、内面に働く聖霊がキリストがおいでになる日までにあなたを神の子に完成させてくださるのです。不信仰に陥らないように注意しましょう。悪魔は必ず誘惑してきます。利己心を捨てないとこの誘惑を防ぐことが難しいので、自分を捨ててキリストに従うことを信仰でやり遂げましょう。さあ、今日の聖句の初めにある「あなたがた」の箇所にあなたのお名前を入れて、自分に語られた言葉として読んでみましょう。ハレルヤ!これは、本当に神様がパウロを通してあなたに語られた真実の御言葉なのです。(佐久間)

 

 

 

  

**11月18日(月)〜24日(日)(中村とおる)

 

11月18日(月)

神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。

神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。

夕となり、また朝となった。第五日である。

創世記 1:20〜23

 

さて、また先週の続きで、第五日の物語です。おもしろいのは、この第五日目の記事には「創造」ということばが使われているということなんです。このことばは、1章1節で、「はじめに神は天と地とを創造された」と書かれて以来、一度も使われてこなかったことばなんですよ。一日目から四日目まで神はいろいろなものを造られたことが書かれてきましたが、この「創造」ということばは使われていないんです。それが、この第五日目、植物を含まない、「生き物」を造るにあたっては、「創造」ということばが1節以来はじめて使われているわけです。

第四日目までに造られたものによって、「生き物」の生きていける環境が整ったわけですが、そこで神は「生き物」を「創造」された、というふうに表現されているんですね。

「海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物」というのもおもしろいですね。後者は比較的ちいさな生き物なんでしょうが、前者は「大いなる獣」ですから、クジラとか、シャチとか、ジンベイザメとか、そういったもののことでしょうか。神はそういうものを、小さな魚などとはあきらかに区別して造られたようですね。魚が大好きな人は神に感謝したくなりますね。

神はこの日造られた生き物たちに、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」と祝福して命じられました。生き物が繁殖するのは、神から与えられた能力と祝福のゆえなんですね。

こうして第五日目が終わりました。(魚好きとる)

 

11月19日(火)

神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。

神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。

創世記 1:24〜25

 

さあ、いよいよ第6日めですよ。この日、主なる神は動物と人を造られますが、まずは動物です。このときも神は地に命じられて、「生き物を種類にしたがっていだせ」と言われました。すると、動物が地からニョキニョキと。。。というわけではないでしょうね。後半の25節では、ちょっと言い換えて、「神は」「造られた」と説明していますから、あくまでも生き物を造ったのは地ではなく、神さまですよね。

生き物を三種類に分けているのがおもしろいですね。「家畜」というのは人が手なずけて飼うことができるような動物のことでしょう。犬、ねこ、馬、牛、羊なんかでしょう。

地の獣ってのは、家畜と区別されているところから考えると、人が手なずけられず飼うことができない類いの動物ですか。ライオンとか象なんかですかね。まあ、動物園では飼ってますけど。。。

「這うもの」は区別されてるんですね。真っ先に思い浮かぶのはヘビですよね。トカゲみたいに極度に足の短いヤツらも入りますかね。案外ネズミや地リスなんかも、這い回ってますからこの類いに入るかな。。。

こうして地はだんだんにぎやかになってきましたね。すべてが整ってきて、さあ、最後はいよいよ人の登場です。(ひとのひとりとる)

 

11月20日(水)

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

創世記 1:26〜27

 

神は創造の最後に人を造られました。もうすでに生き物が地上で生きていくための環境はすっかり整っています。

鳥や魚たち、そして地上の動物たちも造られました。そして、いよいよ人間の創造となったわけですが。。。

ここでまず絶対に忘れてならないことは、ひとは神によって造られた存在なんだ、っていうことです。これは、一番はじめに造られたアダムとエバさんだけのことではありません。わたしたちも、みな、神によって造られたからここにいるんです。神によって造られ、神によって命を与えられ、今日も神によって生かされているんですね。

でも。。。あれっ!?なんかちがう!いままでいろいろなものを造ってきた時とちがう!なんだろう?気がつきましたか?

それは。。。人間だけが神のかたちに造られた、っていうことなんですね。つまり、人間はほかの生き物たちと決定的にちがうものとして造られたんです。単に、人間は生き物の中で一番頭がいい、とか、能力が図抜けている、とかいったことだけではなしに、人間だけが神のかたちに造られているんです。これはほかのどんな生き物にもない、非常に特別なことなんです。

もちろん、手があって、足があって。。。っていうふうに、外見的に神のかたちににせて造られた、っていう意味ではないでしょう。もっと深いところ、深く内面的なところで神のかたちに造られているんですね。

ときどき、誤解されるようですが、神は得体の知れない、なにか空気のような、霧のような、無機質な存在だと考える人がいます。神とは、宇宙の支配法則のことである、とか、宇宙を支配する意志である、とか、ね。でも、神はそんな漠然としたものではなく、明確な人格をもった(人ではないから、人格ってことばは適切じゃないかな。神格?)存在です。知性も感情も、それから個性だってもっている人格です。その神の人格にかたどって人間は造られたんですね。長くなっちゃいますから、明日続きを考えましょうね。(とるちん)

 

11月21日(木)

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

創世記 1:26〜27

 

だいたい、神さまはなぜ、「われわれ」って言ったんでしょうね?だって、聖書の教えでは神はただひとり、ですよね?それなのに、「われわれ」って?

じつは、これにはいろいろな説があって、よくわからないんです。でもね、こういう考え方が伝統的というか、ずっと評価されてきたんですが、ひとりの神が自分のことを「われわれ」と呼ぶからには、ひとりの神の中に自分を「われわれ」と呼ばざるを得ない、なんらかの複数性がある、という考え方です。

父と、子と、聖霊と、三つの人格を持った神が、ひとりの神を形成している、これがいわゆる三位一体の教えですね。

後半では、「創造された」ということばが、3回くり返されてますね。「自分のかたちに」、「神のかたちに」、「男と女とに」創造された、とね。これは明らかに詩ですね。ひとつの文学的な美しい詩であるわけです。

ほかの生き物たちとは決定的に違って、ひとは神の持っておられる人格、こころも意志も感情も持っておられる神に似たかたちに造られたんですね。そして、神はそのように神のかたちに造られた人間に、他のすべての生き物を治めさせた、と書いてあります。人間はこの地球に、その自然環境に、生物たちに責任をもって任されているんです。人間の利益のために、地球を、生き物たちを好きなようにしていいわけがありません。神から任されたこの大切な使命をきちんと果たしていきたいですね。(とるとるとる)

 

11月22日(金)

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

創世記 1:28

 

新しい1週間の始まりですね。神は、造られた人に繁殖を約束され、その能力を祝福されました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」ってね。それは祝福だったのです。地に満ちるまでに増え広がって、その能力を持って「地を従わせよ」と主は言われたのです。

このときから、地上のすべての生き物や環境は、造ってくださった神から、被造物である人間にゆだねられたんです。言うならば、それらすべてのものの管理者としての任命を受けたようなものです。すべてを「治めよ」とね。

これはこのとき突然与えられたご命令ではありませんでした。初めから神のご計画にあったことでした。すべての生き物が自分の支配下にある。これがまずはじめに人間たちが理解しなければならないことでした。理解し、そして、そのことを実現しなければなりませんでした。

わたしたちは神から非常に多くのものを預かっています。そのうちのあるものは、まあ、よく預かっている、と言えるようなものかも知れません。しかし、あるものは、確実に落第点をもらいそうです。わたしたちは、地上の生き物をうまく管理しているでしょうか。

自分の利益のために、生き物を殺戮したり、皮を剥いでそれを売って金にしたり。。。

自然を大切にしましょうね。(とるちゅちゅ)

 

 

 

11月23日(土)

神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。

また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。

神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

創世記 1:29〜31

 

第六日目の終わりです。翌第七日目は目に見えるかたちでなにかを造るということはありませんでしたので、造る作業のおしまい、ということになります。その第六日目の最後に、神は食物に関する指示を与えられたんですね。

イエスが、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と言われたように、もちろん食物さえ食べられればいい、というわけではないですよね。でも、もしかりにわたしたち人間が食事をしなくても生きていけるように造られていたとしたら。。。そりゃあ、生きてはいけるんでしょうが、なんだか楽しみがなくなっちゃうような気がしますよね。神さまはそんなことまでわかっていて、わたしたちに食物を与え、食べる喜びを教えてくれたんじゃないかな、と思います。

実際、新約聖書の福音書を見てみると、イエスさまが食事をするシーンが驚くほど多いんですよ。悪いヤツらから、「食をむさぼる者、大酒を飲む者」なんていう悪口を言われたほどです。特にイエスは他の人たちと(とりわけ、取税人や売春婦などのきらわれ者たちと)一緒に食卓を囲むのがお好きだったようです。

さて、この日神がわたしたち人間に与えてくださった食物は、「全地のおもてにある種をもつすべての草(これはきっと穀物のことですね)と、種のある実を結ぶすべての木(これは果物と堅果類—ナッツ類ですね)」だったんです。これが人間初の食べ物でした。そして、これが人間の身体にとっていちばんいいものだったんでしょうね。(たべとる)

 

11月24日(日)

神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。

また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。

神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

創世記 1:29〜31

 

さて、人間に食事をする喜びを与えてくださった神さま。でも、世の中にはいろいろな人がいて、食べることに何の興味もない人っているんですね。あなたはそういう人に会ったことありますか?わたしの知っている人は、アメリカ人ですがこんなことを言っていました。「世界には、食べるために生きる人と、生きるために食べる人がいる」って。わたしは食いしん坊なので、生きるために食べる人ではないですが、食べるために生きるというほどでもありません。よろこんで、感謝しておいしくいただいています。大抵の人はそうなんじゃないでしょうか。そのアメリカ人は、自分は「生きるために食べる」というわけなんでしょうが、なんだか味気なくてつまらないですね、そんなの。まあ、人それぞれですが。。。

ともあれ、おもしろいことに、青草(これがいわゆる野菜類ですね)は、他の生き物のための食物として与えられているんですね。ここで人間に与えられた食物はあきらかに菜食であるようですが、現代のわたしたちが考える菜食とはずいぶん違うようです。だって、野菜は他の生き物に与えられたもので、人には与えられていないんですから。

のちに、人にも青草—野菜類が食物として与えられることになるのですが、それはまたあとで。

さて、第六日の終わりがきました。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」んです。これまでは、神は「良しとされた」としか書いてなかったんですが、第六日は、「はなはだ良かった」んですよ。なんだか、うれしくなっちゃいますね。人間も、神さまはごらんになって、すごくいい、って言ってくださったんですからね。(食いしん坊とる)

 

**11月25日~12月1日(佐久間典臣)

 

11月25日(月)

あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。

フィリピ4:5

 

聖書の中にも心の大きさにふれている箇所があります。クリスチャンの人にとって大切なことは広い心を持つことです。あなたは自分の心が広いと思いますか。もし考えないで生きているとしたら残念です。男性なら器の大きさが問われます。そのことを第一に考えている人は今の時代どれほどいることでしょう。しかし、人生が限りあることを忘れてはなりません。人は金や物のために生きているわけではありません。最後にどんな人間に成長したか、徳がある人といわれるまでになれたか、クリスチャンなら完全な者、聖なる者になったかどうかが問われるのです。有名なソロモンが王になった時に、「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。」(列王上5:9)一般にソロモンは世界一の知恵ある者として知られています。しかし、神は知恵だけ授けたのではなく、洞察力と共に海辺の砂浜のような広い心を授けたのです。知恵は心の広さに比例しているのです。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」(箴言16:32)。この御言葉を心に刻んでおきましょう。あなたも修行者のように広い心をもてるように努めるのです。広い心は、初めから赦しています。相手に非があっても責めることをしません。イエスの「汝の敵を愛せよ」は広い心がなければできないでしょう。あなたが信仰者であるのなら、主の訓練が続いているはずです。自分を捨てるまで、試練は終わる事はないでしょう。主にすべてを明け渡した人の心は広いのです。それゆえに、色々な人があなたの周りに来ては問題を起こすかもしれません。あなたが広い心を持つために・・・。小さなことにくよくよするのはやめましょう。無駄です。問題といっても、実はたいしたことありません。あなたは神に祈るでしょう。神は祈りを聞いてくださるのです。そして、神が問題を解決してくださいます。だから、悩むだけバカバカしいのです。あなたが復讐ではなく、愛を現す時のことを考えてください。それは広い心です。そして、主はそこにおられるのです。(佐久間)

 

 11月26日(火)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

ローマ8:31-33

 

クリスチャンもいろいろいます。個性があることは良いことです。自分の個性を感謝しましょう。誰かと比べると、おかしなことになります。自分と異なった個性であるのに、違っている個性と一緒に合わせようとすれば無理が生じるだけです。自分を良く作ってくださった神様に感謝しましょう。地上のどこかに自分の持ち場があるのです。そこにいれば個性が役立ちます。さらに働きを拡大したければ、霊の賜物を用いる事です。そのように、正しいと思った生き方を目指してもこの世には罪が蔓延し、悪魔がわがもの顔に闊歩しているためにいろいろな障害が現れて来るものです。キリストの側に立って自分がクリスチャンであることを明らかにすれば、すぐに挑戦者が現れてくるかもしれません。時には脅かされて、ひどい目にあうことすらあるでしょう。でも、恐れてはいけません。あなたの味方は神様なのです。神様に適う者は一人もいないのです。だから、神様の後ろ盾があるあなたに敵対してくることなど誰も、悪霊でもできないのです。あなたが困る事のないように神様は必要なものをなんでも与えてくださいます。勿論、これは肉欲を満足させるような意味ではありません。あなたにとって、最高の贈り物はイエス様の命だったはずです。それ以上の価値あるものはありません。それだから、あなたはそれ以下の必要なものは恵みで何でも与えられることを信じることができます。あなたは神様に選ばれた人です。悪魔が神様の傍らであなたを訴えても無駄です。あなたが正しいと認めてくださったのは神様だからです。不思議ですね。あなたがイエス様を信じることを神様は知っていたのですね。あなたは、神様の愛がわかったのですよね。普通では決してわからないのです。それなのにあなたは神様が自分を愛してくださったことを悟ったのです。神様がわかれば、自分のことも自ずとわかってくるものです。自分の罪深さがわかったら、神様に泣いて謝りたくなるものです。そして、自分のエゴに気が付いて、傲慢だったと悔い改めることができます。勿論、このことも奇跡なので聖霊が助けてくださいます。こうやって、あなたは救われてきたので、人を恐れてはなりません。正しいことをして、毅然としていればいいのです。あなたを脅かす者は、あなたと共におられる神様を脅かしているので、黙っていれば相手は当然の報いを受けることになるのです。こうしたことがあなたの身に起こるのは、あなたが神様の愛に応えて生きているからです。信仰によって生きることを心がけましょう。何しろ、あなたは神様にものすごく愛されているのですから。(佐久間)

 

11月27日(水)

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

テトス2:11-14

 

キリスト教を説明しなければならないことがあります。その時に、覚えておきたい箇所がここです。とてもシンプルで、しかも真理に満ちています。この御言葉を覚えましょう。そうすれば、自分自身の信仰生活において何がポイントとなるかわかるでしょう。押さえておくべき要点が短い言葉で言えれば、おのずと自分を主の御心に近づけていけるのです。現代、最も必要とされているのは本物のクリスチャンがキリストに倣って生活している姿です。生き方を変えることができれば、どこにいても、どのような境遇でも、あなたは主イエス・キリストと一つになることができます。そのことの喜びは、はかり知れないのです。中途半端な信仰で終わらせてしまうなら後悔することでしょう。あなたの使命は生けるキリストの証人となることです。それだけがあなたに求められていることなのです。そのために、大いなる恵みが約束されているのですから、大胆に主に近づく決心をしましょう。奇跡は実にあなたの身近にあるのです。内住の聖霊があなたを力づけ、信心深い生活を実現させてくださいます。その清さの中にこそ、本来あなたがあるべき「神にかたどって造られた」姿があるのです。あなたが最も望んでいた姿です。主の再臨の前に、準備を整えておきたいものです。(佐久間)

 

11月29日(金)

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。

ローマ10:9-11

 

八木重吉の詩に次のようなものがある。「むつかしい路もありましょう/しかしここに確かな私にも出来る路がある/救ってくださると信じ 私をなげだします」。誰にでもできる方法で救ってくださることに決めた神に感謝したい。簡単な方法だからこそ、時に難しいと感じることもあるだろう。立派なクリスチャンにならなければ救われないと人はついつい考えてしまうものだ。だから、無理をするすることになる。はじめから続かないことを人は熟慮することもなく始めては挫折することを平気で繰り返す。ただ、口でイエスは主であると公に言い表し、心でイエスの復活を信じるなら、あなたは救われるというのだ。これでは、簡単過ぎると思うのか、聖人のようにふるまおうとしてしまう。それは、できないことなのに一生でもやり続けようとする。自分の力でできないことをさもできるように始めると、とても疲れはじめ、自分がみじめになるのがおちだ。もう一度、聖書を読んでみよう。口で公に言い表して救われる、とはっきり書いてある。それ以外に救われる方法がないのなら、イエスを信じて、口で告白し、八木重吉のように「私をなげだし」てしまおう。そうやって主を信じる者は、だれも失望することがないのだ。救いはシンプルに考える方がいい。(佐久間) 

 

11月30日(土)

ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。

使徒言行録10:44-46

 

この箇所が、ユダヤ人以外で、つまり異邦人が初めて聖霊のバプテスマを受けた記録です。聖書に記録された新約時代のキリスト教会では、宗教体験として著しく大切な事として天から聖霊がイエス・キリストを信じる人の上に降る、いわゆる聖霊のバプテスマと呼ばれる現象が普通に起こっていました。イエスご自身も「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)と語っていましたし、復活後に「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(ヨハネ1:5)との御言葉も残されました。それが、聖霊のバプテスマだったのです。ですから、今日もイエスの教え通りに聖霊のバプテスマを受けることは非常に大切なことなのです。聖俗化し目に見えないものを信じる事が困難となった現代の日本においても、この霊的体験は必要なのです。なぜなら、「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(ヨハネ3:3)と言われたからです。つまり、罪人が救われるということは、罪人の古い自分に死ぬことであって、それはイエスの十字架に自分も結び合わされてイエスの死にあずかることです。しかし、死んでしまうだけでは救いとは言いません。そこから新しく生まれることが肝心なのです。そのことの保証はイエスの復活です。その力をいただかなくてはなりません。罪を洗い清める水のバプテスマと新しい命を吹き込む聖霊のバプテスマを通して、イエスの語られた「新しく生まれる」ことが実現するのです。そこまでいけば、突然に神のことがわかり、聖書に書かれている御言葉の真理がわかりだすのです。しかし、イエスが来られなかったなら、ユダヤ人も異邦人も共に希望がなかったのです。聖霊は神の約束として信じた者、求めた者に注がれます。そのしるしとしての異言や預言は現代では理解されなくなってきましたが、他に聖書には書いてありませんので、これらは宗教体験として現代も聖書時代と変わってはいないのです。聖書時代も驚くほどの奇跡を行ったクリスチャンも出てきましたが、失敗して滅んだクリスチャンもいたのです。そして、重要なことは、善い行いをしたからいただけるのではなく、これまた神の約束を信じて、求めた人には惜しみなく与えられるのです。聖霊をいただいたなら、へりくだって主に従順に信仰を現す生活が求められます。聖霊は人を自由にするので、肉の思いを満足させるような危険を冒してはいけません。肉で律法を守ろうとした時には律法主義に陥ったりしましたが、霊に服従するなら御霊の実を結ぶことになります。つまり、キリストの品性に近づくということです。それで、生活や考え方、言葉遣いまで変化しないなら問題が自分の中にあると反省しなければならないでしょう。時間は限られています。主のご再臨の時は近づいているからです。(佐久間)