**12月1日(日)(佐久間典臣)

 

12月1日(日)

しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。

Ⅱテサロニケ2:13

 

あなたを聖なる者とするのは聖霊の働きです。聖霊があなたを聖なる者へと変えるのです。それは「聖霊の力」と言うとおりです。聖なる者になるためには、人の努力ぐらいでは足りないのです。では、人間ができることはないのでしょうか。聖書は、「真理に対するあなたがたの信仰」という言い方で説明しています。つまり、あなたの信仰が要求されています。真理を教えるのは聖霊です。聖霊があなたを助けて超自然の力をもって真理を示してくださるので、あなたは真理を理解できるようになります。その真理を信じることはあなたの責任です。あなたが救われるには、以上の二つによるのです。つまり、あなたを聖なる者とする聖霊の力と、真理に対するあなたの信仰の二つがあなたを救うのです。真理は、イエス・キリストのことです。聖書はイエス・キリストのことを証ししています。だから、真理なのです。その聖書の証言によれば、主の御言葉として、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(ヨハネ14:16,17)と真理の霊があなたのもとへ遣わされることになっていて、その真理の霊が永遠にあなたの内にいることになるのです。そして、この真理の霊がすべてのことを教え、イエスの御言葉をよみがえらせるので、あなたは聖なる者へ変わることが容易になるのです。そのことを信じて疑わないなら、聖書に書かれたとおりの救いを体験し、神の国へ入る特権にあずかれるのです。(佐久間)

 

 

**12月2日(月)〜12月8日(日)(中村とおる)

 

12月2日(月

こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

これが天地創造の由来である。

創世記 2:1〜4

 

天地創造の第七日目ですね。この日、主なる神は「そのすべての創造のわざを終って休まれた」とありますから、この日にはなにも造られなかったんですね。しかし、天地創造は明らかにこの日を含む七日間で行われた、というか、この第七日に完成したと書かれているようです。どうしてなんでしょうね?だって、七日目にはなにも造られていないんですよ。それなのに、この日に完成したっていうことは。。。六日目には完成していなかった、ということになります。

すると、この第七日目の「休み」ということには、なにか、創造を完成させるような意味合いがあった、ってことになりますよね。ずっと後で、イエス・キリストが、「安息日(つまりこの第七日目=創造の記念日)は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない 」(マルコ2:27)と言っているように、この日は人のために備えられたものなのですね。人は第六日に生きたものとはなりましたが、この日があってはじめて人は人として完成した、ということです。じつに重要な意味が含まれているんですね。

第一、どうして神は休まれたんでしょうか。疲れたから?そんなバカな。神は疲れることなどないお方です。人間が休むため?でも、造られたばかりでもう休まなくちゃいけないほど人はお粗末なものには造られていないでしょうね。つまり、「休む」とは、通常わたしたちが使う「疲れたから休む」というものとはまったく違う意味の「休み」なんですね。多分、この日、神は人と交わられたんだと思います。これまでに造られたすべてのものは、人のために造られたものばかりです。そして、造られたばかりのひとと神は関係を持ちたい、それも極めて深い関係、つよいつながりと絆を持ちたい、と思われたんですね。

そして、このような神との深い絆こそ、人が人として完成するのに必要なものだったんです。もう少し、続けて考えてみましょうね。(とる)

 

12月3日(火)

すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

これが天地創造の由来である。

創世記 2:1〜4

 

さて、第七日目に、神は、人を人として完成させるために、ご自身との深い関係、切っても切り離せないほどの強い絆を確立させたかったんですね。それがあって、ひとは初めて人として完成するわけです。で、その神と人との深い関係というのは一体何かというと、礼拝というものであったと思われます。

ここでまたイエスが言われたあの言葉が思いだされます。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。もちろん生物としての人間が命を保つということだけを考えれば、パンがあればそれでいいでしょう。しかし、神のかたちに造られた人間が、神の意図された生き方をするためには、パンだけでは不十分でした。神のことばによって、人は生きる。神のことばを受けるために、人は神に出会う必要がある、と思います。神と人とが出会うとき、なにが起こるか。造られたものとして、ひとは、造ってくださった神を拝むんでしょうね。別の言葉で言えば、先ほど申し上げた「礼拝」です。

これこそが、ひとと他の生き物とを区別する重要な点です。人間の他の生き物はなんであれ、礼拝することはできません。そういう風に造られていないからです。人は、造り主であるまことの神を礼拝するように造られているんです。だから、どんな時代にも、世界中のどこにおいても、他の文明にまったく触れたことのなかった人々もなにかを礼拝していました。そういう風に造られたからです。

そして、そういう風に造られた人間が、第七日目に神と出会い、まじわり、礼拝をとおして神を知りました。これでめでたく完成となったんですね。(とるノミクス)

 

12月4日(水)

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。

創世記 2:7〜8

 

まだ神も聖書も信じていなかった頃、初めてこの部分を読んだとき、わたしは笑いました。「神は土のちりで人を造」っただって?なんと非科学的なおとぎ話みたいなことが書いてあるんだろう、聖書というのは!こんなバカげたことを信じる人がいるとは!!!と、呆れはてました。

しかし今はこれが真理なんだろうと信じています。聞いたところでは、土の中に人間の身体を構成しているすべての成分が含まれているのだそうです。だから、後で出てくるように、「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)。人は死んだら土に帰るんですね。もちろん、土が人になるわけはない。しかし、神という全能の創造者がいるならば、土から人を造ることなど朝メシ前でしょう。

土で造られただけなら、ただの土のかたまりにすぎません。しかし、神はいのちの息を鼻に吹入れられた。ここで、「息」と訳されている言葉は「霊」とも訳せる言葉です。それが吹き込まれたとき、人は生きた者となったんですね。だから人間は、「肉体」と「霊」とから成り立っている者なんですね。その複合体が人間だというわけです。

この部分、創造の第六日目に行われたことですから、時間的に少しさかのぼって説明してくれているわけなんですね。

ともあれ、こうして人は生きた者となって、いわゆる「エデンの園」に置かれたんです。そこは美しく、豊かなすばらしいところでした。そこで人は幸せに暮らすことができるはずだったんです。(とるてなし)

 

12月5日(木)

主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

創世記 2:15〜17

 

神は、人を置かれたエデンの園にあるたくさんの木から、好きなようにいくらでも「心のままに取って食べてよろしい」と言われました。でも、たった1本だけ食べてはならない木があったんですね。それが「善悪を知る木」と呼ばれた木でした。

なぜ、この木から取って食べてはならないのかというと、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」からでした。ここでは原語ではとても強い言葉が使われていて、もう絶対間違いなく死ぬ、の未来形なんですね。死ぬかもしれないし、死なないかもしれない、なんていうレベルじゃないんです。

ご存じのとおり、エバはこれを食べてしまうんですね。

もしも、これがエデンの園にあるたった1本の木だったら、まだわかるような気がします。木が1本しかなくて、それを食べちゃいけないっていうのはツラいですからね。

しかし、園にはものすごい数の木があって、どれでも心のままに、好きなように食べていい、って言われていたんです。たった1本だけ、食べると死んじゃうのがあるから、それだけは食べちゃダメだよ、って言われていたのに、ね。

だから、問題は、神さまがケチくさいから食べちゃダメ、って言ったんじゃんなくて、神さまは気前よく、どれでも食べていいよ、1本以外は、って言ったのに食べちゃったところにあるんですね。どうしてそんなことしたんでしょうね。。。これからその点も考えながら読んでいきましょうね。(残念とる)

 

 

12月6日(金)

また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

創世記 2:18〜20

 

「人という字は、2本の線が寄り添いあい、支えあって成立している。人とはそのようにお互いを必要とし、支えあって生きていくものだ」などというもっともらしいことを言う人がいます。漢字の成立過程はともかくとして、神は言われたんです、「助け手が必要だ」ってね。つまり、人間は交わりのなかで生きていくものなのだ、そういう社会的、社交的な存在として造られているんだ、とね。「うさぎはねえ、さびしいと死んじゃうんだよお」などとも言いますけどね(すいません)。

人間はひとりでは生きていけません。知らずにでも、だれかに助けられ、また助けて、生きているんですね。〽ぼくらはみんな生きている、ミミズだあって、オケラだあって、アメンボだああってえ〜〽(すいません)。

そして、神は人に、いろいろな生き物の名前をつけさせてくれました。ミミズとか、これはオケラだ、とか、あれはアメンボにしよう、とかね。

でも、どの生き物も人にふさわしい助け手ではなかったんですね。もちろん、イヌやネコに癒される、とか、ペットが生きる力を与えてくれるということはあるでしょう。でも、人にとって真の助け手、力をあわせて神とともに生きていく仲間としては、やはり人でなければならなかったんでしょうね。そのことはまた明日ね。(オケラとる)

 

12月7日(土)

そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

創世記 2:21〜24

 

さて、神は「ふさわしい助け手」である「女」を造られましたが、その造り方がちょっとおもしろいですよね。男のあばら骨から造ったんですね。

まず、男のからだからあばら骨の一つを取るにあたって、神は男を深く眠らせました。そして、眠った時にあばら骨を取り、そのあとを肉でふさがれた、とあります。なんと、これが人類初の外科手術ですね。いまやっていることの原点がここにある、という感じがします。手術の時に、まず麻酔で眠らせてから施術して、あとをふさぐ。おんなじですね。おもしろいですね。

で、なんであばら骨なの?ってよく訊かれるんですが、そうですね、神は男の頭部のてっぺんの骨からでも、あるいは足の指先の骨からでも女を造ることができたはずなのに、なぜあばら骨だったんでしょうね?もちろん、ひとつには、あばら骨はいっぱいあるから、一つくらい取ってもたいした支障はないということもあるでしょうね。

でもね、もっと他の理由を考えてみると、これは男女の平等性を神は示しておられたんじゃないか、って思うんですよ。女を、男の足の下に踏みつけられる存在として神は見ておられないし、また逆に男の頭上に君臨する者としても造らなかった。男の傍らに立つ、男より上でも下でもない、平等な存在として、助け手として造られたんじゃないですかね。

ともあれ、男は連れられてきた女を見てとても喜び、「これぞわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と呼びました。一心同体ということでしょうね。

外科手術にしても、男女の平等性にしても、さすがに神さま!進んでいますね。(師走のとる)

 

12月8日(日)

人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

創世記 2:25

 

人ははじめ、「裸であったが恥ずかしいとは思わなかった」と書いてあります。いずれ皆さんと御一緒に読むことになると思いますが、のちに罪というものが入り込んできた時に、「自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」(創世記3:7)とあるように、かれらは裸であることが恥ずかしいと思うようになるんですね。

そして、神が近づいてくる足音を聞いたときに、彼らは隠れたんです。

で、神が、「あなたはどこにいるのか」と訊かれると、こう答えました。「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」(同3:10)

ひとが罪を犯したとき、裸が恥ずかしくなった。「恐れて身を隠」さねばならない、と考えるようになったんですね。つまり、いまや、隠さねばならないことができてしまった、ということなんでしょう。

ひとが造られたとき、まだ罪を犯す前には、お互いの間に、また神の前に隠すべきことなどなにもないという満足の状態があったんです。ひとと神との交わりの中で、隠すべき恥の経験そのものがなかったわけです。だから、恥ずかしいと思わなかった。恥ずかしいということ、そのものを知らなかったんですね。別のことばで言えば、完全に自由であった。なにも恐れる必要も、隠す必要もなかった。本当に自由で解放された存在であったんですね。(師走でもヒマなとる)

 

**12月9日(月)~15日(日)**(佐久間典臣) 

 

12月9日(月)

更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。

ローマ13:11-12

 

私が仙台に赴任した時には、宮城県沖地震が必ず来ると言われていました。そして、5年後にあの東日本大震災が起こったのです。本当にきたと思いました。私がクリスチャンになった時に、聖書に記された預言としてキリストの再臨があることを教えられました。それがどれほど身近にあるか、最期の審判の時が切迫していると教わったのです。それが今から約40年ほど前のことです。その間に5つの神学校で学び、牧師となっていました。大地震も本当にきたように、キリストの再臨も本当にくるのです。その正確な日時はわかりませんが、時の近づいていることは間違いありません。まさに「夜は更け、日は近づいた」と言うべきです。大震災の時には、残念ながら多くの被害が出てしまいました。その恐ろしさは今でも残っています。聖書にもノアの大洪水物語が書かれています。ノアの物語でも、恐ろしい洪水が来る前に警告の時間が一年あったのです。それなのに、皆滅びました。警告を生かすことができなかったのです。彼らにとっては、それまで地球に雨が降った事がなかたので洪水の話が突飛も無い話としか思えなかったのです。それで、警告期間を生かせなかった為に滅んでしまったのです。しかし、聖書の預言する再臨はけたはずれです。何しろ、それで歴史が終わるからです。さあ、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」。悔いを残さない生き方が待った無しで始められるようにしましょう。(佐久間)

 

 

12月10日(火)

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

ルカ6:35,36

 

憐み深い者になりなさい。イエス様はあなたに語りかけています。しかし、聖書の中でも聞きたくない箇所の一つかもしれません。敵を愛することはとても難しく感じます。人に善い事をする、というのはできるかもしれないと思うでしょう。でも、敵を愛することが人に善い事をするという事の本来の意味ならどうでしょうか。「何も当てにしないで貸しなさい」というのは、返してもらうことを当てにしないで貸すということです。これも厳しい教えに思えます。しかし、これらのキリストの命令に従うと、たくさんの報いがあり、神の子となれるというのです。常識ではできないことですし、する必要もないことばかりです。しかし、私たちはキリストの御言葉が真理であることを知っています。ということは、人の常識の逆ではないかと思える今日の教えには理解を越えたすばらしいことが隠されていると気が付くべきです。この御言葉を忠実に守れば、具体的な報いがたくさんあるというのです。神の子となるということは、救われて天国へ行けるということです。一見困難に見える事をキリストの故に守るということは、保身の心を捨てるほどの信仰が必要です。つまり、自分の中のこだわりを捨て、自分のプライドまでも捨て去ることが肝心です。そして、情け深い神に倣って人を赦せるようになりたい、と思うところからキリストの御言葉の力がダイナミックに開かれて行きます。思いもかけないことが起こるからです。さあ、もう一度今日の御言葉を読んでみましょう。罪人のことを考えてみてください。神の敵です。あなたも救われるまでは罪人で神に逆らって生きていたのです。神から借りたものは返さないで平気でした。神はあなたに対して憐み深い方でした。それで、あなたがその事に気が付けば、あなたも今度は罪人に憐み深い者となるべきです。そうすれば、あなたが救われたように、あなたの敵も救われるという大きな喜びが起こるかもしれません。敵には復讐ではなく恵みを与える。このことを実践できるように祈ろうではないですか。あなたもキリストのように生きる者となれるでしょう。(佐久間)

 

12月11日(水)

主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

詩編23:3

 

人生はおもしろいもので、信じることによって天と地ほどの差が生じるものです。信仰者であっても全員が幸福な人生を歩んでいるわけではありません。その理由はいろいろありますが、もったいないのは考え方が間違っている人の場合です。たとえば、積極思考の権威であるノーマン・V・ピールは、売れないセールスマンの話を紹介しています。彼は何を扱っても対して売る事ができなかったのですが、ある時、仲間のセールスマンが三つの短いお祈りを書いたものをくれました。それをお客を訪問する直前に、必ず祈るように教えられたのです。そして、実行したところ奇跡が起こったといってもよいほどの成績を残しました。最初の週には訪問した85%の人に売ることができました。そのうち、それが95%まで上がりました。そして、最後には、訪問した全部のお客に売れた週が16週もあるようになったのです。彼は、他のセールスマンにもその奇跡の祈りを教えると、どの場合にも驚くべき結果をもたらしたのです。その祈りとは次のようになものでした。「私は常に神によって導かれていることを信じます」。「私は常に正しい道を進んでいることを信じます」。「私は神が道のないところにも常に道を作ってくださることを信じます」。どうでしょうか、難しいものではありませんね。ただ唱えただけではダメです。信じることが奇跡を生むのです。世の中の悲しさは、この反対のことを信じる人に満ちていることです。でも、あなたは違います。あなたは、今日この御言葉を読み、このメッセージを読むことになっていたのです。あなたは、自分が何者か知るべきです。神に選ばれて、世の光り、地の塩になる人です。成功に導かれ、どんなことでも肯定的に捉え、信仰で問題をことごとく解決する人になるのです。そのためには、まず小さなことから始めてください。つまり、この三つの短い祈りをあなたも試してみることです。奇跡は身近にあることを知ることでしょう。神を信じる者の姿をあなたは実現するはずです。良い事、正しい事、愛のある事を信じましょう。人が何をしようと、何と言おうと、あなたはあの三つの祈りを唱えて、すばらしい成果を実現してください。さあ、人生に奇跡を起こしましょう。(佐久間)

 

12月12日(木)

その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。

ルカ9:42-43

 

イエスが戦っておられたのは、悪霊に対してであった。この物語を聖書からじっくり読んでもらいたい。どんな情景が浮かんでくるだろうか。一言でいえば悲惨な子供の姿だろう。今日ではなんでもかんでも病気の一言で片づけてしまうが、少し前までは人間はもう少しましだった。悪霊が自分を苦しめていると理解できたし、そのことを訴えることもできたのだ。しかし、現代は悪霊が自分の本当の敵であることを知らない人が増えている。今日の聖句でもイエスのもとへ子供を連れてこようとしただけなのに、悪霊は投げ倒し、ひきつけさせた。同じような場面にあなたがもし遭遇したら一体どうしているだろうか。子供の病気の異常さにただ驚いているだけかもしれない。悪霊は、たとえそばにイエスがいても、このように逃げることもなく、憑りついた子供を攻撃し続けていたのだ。イエスは汚れた霊を叱ったとある。これが権威だ。イエスは圧倒的に強く悪霊を叱り飛ばすことができたのだ。その権威をあなたがクリスチャンであれば、無償でいただいているはずだ。勿論、その権威を使うためだ。敵は悪霊なのだから。悪霊が退散しない限り、人間の悲劇は終わる事はない。イエスも悪霊を叱って追い出し、それから子供の病を癒している。これと同じことができるのだ。そして、必要ならばやるべきだ。自分に権威があるのに悪霊に攻撃されている人を助けないということがあってはならない。勇気をだしましょう。癒された子供を父親に返してあげたいのです。イエスのなさったこの光景は深い感動を見ている人たちに与えたようだ。これは、すでに人間の働きではなく神の御業に違いない。それゆえに、目の前でイエス様のなされたことを見て、人々は皆、神の偉大さに心を打たれたのである。あなたはいたずらに悪霊を恐れてはいけない。「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(Ⅰヨハネ3:8)と聖書にかいてあるのだから。この神の子とは、あなたのことであると覚えよう。イエスに心を向けて、恵みの中にとどまろう。そうすれば、おのずと義の道は開かれ、悪魔は退散し、人が救われるのだ。勝利はすでに決まっているのなら、聖書に書かれた通りに生きてみようではないか。(サクマ)

 

12月13日(金)

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

使徒言行録2:37-38

 

人が救われる時に通る順番のようなものがあります。それは、聖霊が人の外から働いて罪を認めさせ、悔い改め、イエス・キリストの御名によって洗礼を受け、罪を赦していただきます。それは罪に汚れた人の清めをも意味しています。洗濯のように汚れを洗い落とすというようなイメージです。そうすれば、清められた人へ聖霊が入ることができます。聖霊は内側からその人を造りかえることができます。それは、罪に縛られていた古い人から主イエス・キリストが解放して、新しい人として生きるようにしてくださることです。アダムが最初に造られた時も神の息である霊を人の鼻から吹き込み、それで生きる者となりました。それと同じように、罪によって死んでいた人を救うために、罪についてはキリストの十字にの死に結びつけて死んだ者とします。そして、そこに聖霊を吹き込むことによって、新しく息を始めた聖徒となって生きるのです。この聖霊は、口語訳の「聖霊の賜物を受ける」という訳ではなく、新共同訳の「賜物として聖霊を受けます」が正しい訳です。聖霊の賜物はⅠコリント12:8-10に出てくるような癒しの力や預言などの超自然的な能力のことです。しかしここでは、人間の救いの過程を教えているところですから、聖霊を与えられる理由として、賜物なのだと説明しているのです。また、聖霊を人の功績の対価として受けるのではなく、ただ主の憐みにより恵みのみで与えられると教えています。つまり、罪人が生まれ変わるためには努力などでは足りなくて不可能なのですが、神の霊の働きで創造の時と同じく、再創造するために聖霊が不可欠だということなのです。聖霊を受けたいとお考えの方は、この聖書箇所を読み、書かれた通りに悔い改めを徹底します。そして、洗礼を受けていなければ水の洗礼を受けます。すでにクリスチャンならば、悔い改めて罪を赦していただきます。この部分がとても重要なのです。聖霊は少しでも汚れがあれば近づけないのです。十字架の力は強大で、悔い改めた者のどんな罪をも赦すことができるのです。だから大胆に神に近づいてください。聖霊を受けるには、信仰が必要です。信じることをおろそかにしていると、聖霊を受けるだけの信仰を高めることができません。それすら悔い改めて、信じることから始めてください。父なる神は、聖霊を与えたいと願っているのです。だから、あなたがどんな過去があっても大丈夫です。人間の小さな心では受け入れられないとしても、神の寛大で、寛容な心は広いのです。聖霊を賜物としていただくためには祈り続けるのです。もらうまではあきらめないと決めて祈ります。信じるということを学びましょう。驚くべき世界が待っています。(佐久間)

 

12月14日(土)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

フィリピ1:9-11

 

あなたは、知る力、見抜く力を身に着けておられますか。あなたが、再臨の日までに清い者となることを主は願っています。そのためには、義の実を結ぶ必要があります。これは、もっぱらイエス・キリストとの関係において義の実を結ぶことが求められているのです。普通の生活ではなく、愛のあふれる生活へと私たちは変わらなければなりません。神はそのように導いておられます。あなたが真実を知ること、見抜くことができてもなお愛をもって生きることができるか、そこが問題です。人にはかならず理由があるのです。それが、どこからきているのか見抜きなさい。そして、それが愛で終わるようにしましょう。裁くことは我々の仕事ではありません。愛があれば、悪魔の誘惑にすら勝つことができるのです。愛は、感情すら制御する力なのです。主の愛があなたのうちにあふれるほど豊かになりますように。(佐久間)

 

12月15日(日)

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる

マタイ21:21-22

 

今日の聖句は、新共同訳では「いちじくの木を呪う」と題がついている箇所です。イエスが空腹でイチジクの実を食べようとされた時に、近寄ると葉が茂るばかりで実がついていなかったのです。それで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった、というお話しです。聖書には御霊の実を結ぶようにと書いてあるので、これは葉が茂ってさも実をたくさん結んでいるように見えるのに、実際は実をつけていなかった木、つまり外見はりっぱなクリスチャンに見えるのに御霊の実を結んでいない人のことを象徴的に話している箇所です。それで、今日の聖句につながるのですが、イエスがイチジクの木を言葉で簡単に枯らしてしまったことに驚いて、すぐさま弟子が聞いた時のイエスの答えが上記の聖句です。

さて、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」という御言葉は真理です。ですから、信じる者には可能なはずです。ところが実際には困難を感じている人が多いのです。もしそうならば、信仰について考える必要があるわけです。イエスは「疑わないならば」とおっしゃいました。信じると言いながら、心のどこかで疑っていないでしょうか。もっとも、間違った祈りは聞かれるはずもありません。「信仰を持ち」というイエスのはじめの御言葉がやはり肝心なのです。山をも動かす信仰とはどのようなものか考えてみましょう。ヒントは御霊の実を結ぶ人はどんな人か考えればよいでしょう。ガラテヤ5:22~25をまずは読んでみましょう。(佐久間)

 

**12月16日(月)〜22日(日) (中村とおる)

 

12月16日(月)

第3章

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

創世記 3:1

 

さて、今日から残念なことに、ひとが罪を犯すという悲しい場面を学ばねばなりません。神の似姿に造られ、本当に幸せで、最高の助け手を与えられた人が、罪を犯してしまったんですね。

女(エバ)がへびに誘惑され、だまされて罪を犯してしまったんです。へびというのは聖書の中では悪魔(サタン)を象徴する言葉でもあります。悪魔がへびの姿で現れて、巧みに彼女を誘惑していくんです。

まずへびは彼女の心に、神への不満を掻き立てようとしました。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」と彼は訊きましたが、もちろん神はそんなことは言っていないし、へびもそのことをよくわかっていました。神が言われたのは、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2:16〜17)であって、「園のどの木からも取って食べるな」ではありませんでした。どれでも好きなだけ食べていいんだよ、たった1本の木を除いてね、と神はとても寛大でやさしく言っているのに、しかし、へびは、まるで神が非常に吝嗇な、小煩い存在であるかのようにエバに思わせようとしているんです。なんて汚いヤツでしょう!

こうやって少しずつエバの心に不満のタネを植え付けていくんですね、悪魔は。(こじかとる)

 

12月17日(火)

女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、

ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

創世記 3:2〜3

 

寛大な神さまを、すこしでも吝嗇で小煩い存在だとエバに思わせようとする狡猾なへび、その正体は悪魔(サタン)でしたね。

残念なことに、そのへびの目論みは少しずつエバの心に浸透していっているようです。

「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」というへびの欺瞞にはだまされなかったようですが、それでもエバの心には神への不満のようなものが燻り始めていたみたいですよ。そのことが二つの点に現れているように思われます。

一つは、「ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」というエバの言葉ですが、「これに触れるな」とは神は言っておられないように思われます。つまり、エバはへびの欺瞞に乗っかって、「食べてはいけないって言うだけじゃなくて、さわってもいけないって言うんですよ、神さまって」というような、神への不満が現れ始めているようです。

もうひとつは、「食べてはならない」と言われた木のことです。神さまは、「善悪を知る木」と名指しで明確に1本の木を特定されましたが、エバは、「園の中央にある木」というふうに焦点をぼやかそうとしているようです。

ただね、エバがアダムと一緒ではなく、なぜかひとりで、なぜか「善悪を知る木」のあたりをウロチョロしていた時点で、もうアウトかな、って思います。どうしてそんなことしていたんでしょうね。。。つづきはまたあした。(ぎんのことる)

 

12月18日(水)

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

創世記 3:4

 

エバの心に神さまへの不満をわき起させようとするへび。その目論みは次第に成功していきました。エバが自分の言葉にだまされ、自分の土俵に引きずり込めたと確信するや、へびは大胆にも神のことばを真っ向から否定します。

神が言われたのはこうでした、「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(2:17)。それに対してへびはこう言ったんですよ、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」。ウソですよ、これ。

はじめは少しずつエバの心を操作しようとしていたへびは、いまや、神のことばを全否定しました。へびは悪魔(サタン)の仮の姿です。悪魔はうそをつくのが常套手段ですが、これが悪魔が人間に対してついた記念すべき初めてのうそです。これ以降、悪魔はじつにさまざまなうそをついていくことになります。

神は、「きっと死ぬ」と言われ、悪魔は「決して死ぬことはないでしょう」と言いました。どちらが正しかったでしょうか?もちろん、神さまです。悪魔がうそをついてエバをだまそうとしていたんです。

しかし、悲しいことには、すでに悪魔の土俵に引きずり込まれていたエバは悪魔のうそが見抜けませんでした。(金目鯛だいすきとる)

 

12月19日(木)

それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

創世記 3:5

 

エバを自分の土俵に引きずり込んだ狡猾なへび。神のことばを真っ向から否定する大ウソをつきました。「決して死ぬことはないでしょう」ってね。

つぎにへびは、というよりも悪魔は、切り札を出してきました。決定的な一打をエバに浴びせたんです。それは。。。

「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる」ということばでした。もしかしたら、へびはこう言ったのかも知れません、「どうしてへびがしゃべるんだろう?って思っていませんか、エバさん?それはね、この木の実を食べたからですよ。わたしのような下等な生き物でも、これを食べたらしゃべれるようになったんです。わたしなどよりよっぽど上等な生き物である人間のエバさんがこれを食べたら、どうなると思います?『神のようになる』んですよ。ひっひっひ」って。考えすぎですかね。

でもね、「神のようになる」、このことばがエバに決心させてしまったのは間違いないでしょう。これを聞いてエバはついに食べちゃったんですよ。

神でないものが神になろうとする。じつはこれが罪というものの本当の大本にあることだとおもいます。明日、このことについてもう少し考えてみましょうね。(とるちん)

 

12月20日(金)

それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

創世記 3:5

 

「それを食べると神のようになる」というへびの言葉に誘惑されてエバは食べてはならない木の実を食べてしまいました。「神のようになる」、これが決まり手でした。そして、この、神でないものが神になろうとするということが罪の根本にあるんですね。

聖書によれば、この宇宙の中で初めの罪は天使のかしらであったルシファーが犯したものでした。ちょっと長いですが引用してみましょう。

「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』」(イザヤ書14:12〜14)

ここで、「黎明の子、明けの明星」と呼ばれているのが、天使のかしらであったルシファーです。かれは天使のかしらですから、もう上を見てもほかにはだれもいなかった。言ってみれば頂点にいたわけです。

彼はそれでも満足できず、創造者である主なる神を妬んだんです。このことばの最後の部分、「いと高きもののようになろう」ですが、いと高きものとは神のことです。天使のかしらとはいえ、造られたものです。それがこともあろうに、造った方、創造者をねたみ、自分をその地位にまでひきあげようとした。これが罪の始まりである、と言われています。そしてこのことが、罪の歴史の中を一貫して流れているんですね。そして今日でも人間のなかにいつでも見られる問題なんじゃないですかね。。。(とんころくん)

 

12月21日(土)

それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

創世記 3:5

 

神でないものが神になろうとする、これが罪というものの根本にあることなのだ、ということを考えてきました。そして、宇宙の歴史の一番はじめに起きた罪も、この「神でないものが神になろうとする」というところにあったんです。

考えてみれば、わたしたち人間の抱えている問題の大部分はこのことが元にあるんじゃないでしょうか。もっとえらくなりたい、もっと位が上になりたい、もっと出世したい、もっと有名な学校に行きたい。。。

ある中学校で、ひとりの生徒が悲しいことに自ら命を絶ってしまいました。取材に行った記者がある生徒がなにげなく口走ったことばに衝撃を受けたんです。その子はこう言ったそうです、「よかった、これで競争相手が一人減ったよ」って。冗談のつもりだったのかも知れません。しかし、そういう気持ちが少しは心のなかにあるから出てきた言葉でしょう。

一所懸命に勉強していい学校を目指す、それ自体ちっとも悪いことじゃありません。むしろ立派なことでしょう。しかし、その意識が昂じて、仲間や友人を蹴落としてでも自分が上に行きたい、とおもうならば、それはもはや健全な向上心とはとても呼べません。それが罪というものの一つの現れと思うのは、考えすぎでしょうか。。。

わたしやあなたのこころの中にも、そんな小さな罪が隠されていないでしょうか。(こじとる)

 

12月22日(日)

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

創世記 3:6

 

「神のようになれますよ」というへびのことばにエバは心を奪われてしまいました。へびは内心「しめしめ」と思っていたことでしょうね。

エバはもう一度あらためてその木を見ました。それはとても魅力的に見えたんでしょうね。見たところ非常に美しい木であり、実であったわけですね。また、きわめておいしそうに見えました。

「こんなにおいしそうな木の実を神さまは食べちゃいけない、なんて言うんだ」

エバの心に神への不満があらためて湧き上ってきました。決定的だったのはやはりへびのあの言葉、「食べれば神のようになれますよ」でした。「賢くなるには好ましい」と見えたんですね。このことが最後の一押しとなってしまいました。

その結果、エバは「その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」んです。こうして、行いとして、人は罪を犯してしまったんです。

でもね、口に入れて食べてしまうという行為に走る前に、ひとはもうすでに罪を犯していた、と言うこともできるでしょうね。神のやさしさ、恵み深さを疑った。神のことば(きっと死ぬ)を信じず、悪魔のことば(決して死ぬことはないでしょう)を信じた。すでに十分に与えられている知恵に満足できず自分に与えられていない知恵を欲しがった。被造物にすぎないのに神のようになろうとした。これらがすでに罪なのであって、実際に木の実を口に入れる前から罪を犯してしまっていた、ということになると思います。

ともあれ、このようにして、わたしたち人間のなかに罪が入り込んでしまいました。すべて神が言われた通りになっていきます。かなしいことですね。(ももいろトルーバー)

 

***12月23日(月)~29日(日)*(佐久間典臣)

 

12月23日(月)

主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。

サムエル記上10:6

 

サウルは、預言者サムエルから王となることと神に対する恩恵と義務を説かれた。そして、預言者の一団と出会い、聖霊がサウルに激しく降ってサウルも預言すると語った。そして、「あなたは別人のようになるでしょう」と言った。これは、新しい人に変えられる、という意味だ。聖霊降下による個人的体験を預言したのだ。今日でも聖霊の人への降下はある。というよりも、人の救いは罪の赦しだけではなく、聖霊が降り、内住し内側から神の子へと造り変えることも含まれているのだ。それを新しく生まれると言っている。ただ、これだけ初めのペンテコステの経験から時が経過し、世が世俗化してしまうと、教会までが宗教と思えぬほど霊的なことに無関心となり、知識も経験も消えてきたのだ。そのために、この聖霊体験をした人が少なくなっている。イエスが水と霊とから新しく生まれなければ、神の国へ入れないと言っている通り、この聖霊体験無しには始まらないのである。勿論、聖霊が降下してきたと喜ぶだけではだめだ。この先、サウル王がいかに簡単に神に対する全き従順を守れなかったかが描かれている。つまり、聖霊降下がそれだけの経験で人を完全するわけではない。信仰が試され、完全に主に服従するまで訓練が続くのだ。主に対する全幅の信頼、絶対服従が身につくまで続く。聖霊は聖書も解き明かせば、寝ている間も働き内なる人を新しくする。聖霊との交わりを密にすれば、それだけ喜びも増すだろう。あなたは、天の王家の一員としてふさわしくなるまで、聖霊はあなたのために働き続けてくださるだろう。神はあなたの心を変えることですらできるのだ(10:9参照)。あなたは、世俗に属するのか、神の国に属するのか、問われるだろう。あなたは自由に選ぶことができる。しかし、その結果は天国か地獄かのどちらかしかないのだ。聖霊に満たされることを求めなさい。祈ることを聖なる義務としよう。なぜなら、すべては祈りから始まるからだ。そして、あなたの祈りは聞かれているからだ。人生を変えよう。神の力があなたにみなぎってくるだろう。愛がこれほどまでにすばらしいものかと感激するだろう。愛が溢れても止まる事がないことに驚くだろう。預言するかもしれないし、異言を語るかもしれない。もし、何も語らなくても疑ってはいけない。聖霊が来たことはあなたに分かるだろう。信じることの大切さが実感できるはずだ。聖霊は約束なので、信仰で受けるものだ。大胆に信じようではないか。恵みはすでにあなたの上にあるのだから。信仰の世界を広げよう。(サクマ)

 

12月25日(水)

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

イザヤ9:5

 

今年もクリスマスがやってきました。一年のどの日よりも、人々の心を幸せに満たす日です。冬であっても心を温めてくれる良きおとずれの日です。「今日、私たちの救い主がお生まれになった」、御使いの厳かな声が聞こえてきそうです。エッサイは、ダビデ王のお父さんの名前です。根とは文字通りルーツですね。ダビデ王の家系からキリストがお生まれになるのです。ナザレのイエスには、イザヤ預言の通りに主の霊がとどまりました。洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受けた直後にイエスの上に天が開け聖霊が鳩のようにくだったのです。それは、知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、恐れ敬う霊でした。私たちの人生は、振り返れば後悔することばかりかもしれません。自分の愚かさや、恥は思い出したくないことです。もっと困るのは罪を犯した事実です。また、この世の非情さや理不尽に人生が翻弄されることも、同情すべきことも、人の貧しさも、一体誰が贖ってくれるというのでしょうか。神は必ず人を裁くのです。正義を示す日がくるからです。キリストは、その裁きに絶えることができるように、あなたを弁護するお方なのです。あなたのためにありえないほどの犠牲を払ってでもあなたを救ってくださるお方です。彼は人とは異なります。人はうわべで人を判断しますが、キリストはその人の心の声を聞くことができるし、真実を知ることができるので、あなたを弁護できるのです。そればかりか、あなたを今も愛し、同情し、憐み、隣にいて支えておられるのです。あなたが本心立ち返り、悔い改めて罪赦され救われるように、そればかりか新しく生まれて神の子となれるようにと、十字架にかかられたお方がキリストなのです。そのキリストが今日お生まれになった、と御使いは告げたのです。「主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。あなたの救い主はすでに来られたのです。イエス・キリストに感謝と愛をささげましょう。(佐久間)

 

12月26日(木)

「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」

Ⅰペトロ3:10-12

 

人間の幸せの秘訣を聞いてみると、さほど難しくはない。当たり前といってもいいような正しいことをするだけだ。それなのに、この世の中には不幸な人が多すぎる。だれもが命を愛し、幸せな日々を過ごしたいと願っているかというと、実はそうでもない。自分を嫌う人が少なくないし、親に愛されなかった人も珍しくない。問題なのは、最も近い関係の親と子の問題が一生を左右することだ。何歳になっても親が生きていれば子供は子供なのだ。その親に苦しめられてきた子供は、その苦しみを大人になっても引きずるものだ。しかし、自分の親が歳を取り、衰え、弱って行く姿を見ると、はじめて自分がもう親に苦しめられる子供ではなく、大人なんだと納得するので、心の呪縛から解放されるきっかけになる。やっかいなのは、これで終わらずに今度は親から愛されたいという欲求が残ってしまう。A君は、子供の時に里子に出された。その新しい両親は大変すばらしい方で愛情深く育ててくれた。それでも、養子ではなく里子だったために子供は悩むことになった。新し育ての親は、本当の父親に養子を申し入れたが断られてしまった。その理由が、自分が歳を取った時に面倒をみてほしいから、というものだった。なんというエゴだろう。さて、里親制度では、子供が18歳になると独立しなくてはならない。事務的にもう親子ではなくなるのだ。それも、誕生日が来ると役所からハガキ一枚で、里親の期間が終わったと本人に告げられるのだ。その時の子供の気持ちはいかばかりであろう。A君の里親は、クリスチャンだったので、定めの期間が終わっても親であり続けようとした。しかし、A君は地方にいる実の父を訪ねることにした。父のもとに行ってみたら、新しい家庭があって子供までいた。そして、その幸せな家庭が壊れないように、A君を父は受け入れなかったのだ。その悲しみは深く、心をひどく傷つけられたA君であったが、彼は里親のもとへは帰らなかった。父のいる地方で就職した。そして、ステキな女性と出会い、彼女のお父さんに紹介されることになった。その父さんは人間のできている人で、正直に自分のことを話したA君のすべてを受入れてくれたのだ。そして、息子のように接して可愛がってくれるようになった。A君はそれがとても嬉しかった。その陰で、里親のお母さんがA君の気持ちを一番理解しているので心配して毎日祈り続けていたのだ。イエス様は神様ことを「天のお父さん、と祈れ」と教えられた。そう、クリスチャンは天のお父さんに愛されて癒されるのだ。何べんとなく「天のお父さん」と呼んでいいのだ。そして、天の親に愛されることだ。愛情無しには人間はうまく生きることができない。無条件にあなたを愛して愛しぬく天の親がいることを忘れないでほしい。あなたはやっぱり愛されるために生まれてきたのだ。愛されているのなら、今日の御言葉は全部守れるだろう。そうゆう幸せがあなたの生きる道なのだ。(サクマ)

 

12月27日(金)

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

Ⅱペトロ3:9-13

 

主の日あるいは神の日について、今日は考えてみましょう。聖書に書かれた主の日は盗人のようにやってきます。つまり、いつくるかわからないが油断していると必ず来るということです。東日本大震災の時に仙台にいて、これが主の日かもしれないと思いました。大きな音が鳴り響いて地の揺れが止まらなかったからです。しかし、最後の日は考えられないような光景なのです。「天が激しい音をたてながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし」とあります。何か、とんでもないことが起こるのです。天変地異どころではありません。この地球にとどまっている者はだれも生き残る事はできないでしょう。それどころか全てが高熱で溶けてしまうような事態になるというのです。地上で空を見上げていた人は、天は焼け崩れたと見えるような異変が起こるのです。なぜこれほどの恐ろしい事が起こるかは、聖書を学んだ人には理解でするはずですが、人間のエゴ、思い上がり、高慢、貪欲、愛の欠如、無慈悲、神を認めない事、こうした一連のことを聖書は罪という言葉で表します。良く考えれば、飢えに苦しむ人が何億といて、僅かのお金を誰も援助しないために教育も受けられず、子供でも奴隷のように働かされ、病気でも医療を受けることもできない、そうゆう人たちが今でも世界のいたる所にいるのですが、ニュースなどで知っても全くの無関心でいられる豊かな国の人達。また、その国の人達にも悩みがあるのです。聖書に世の終わりには「愛が冷える」と書かれていますが、その通りだと実感する人は少なくないはずです。毎日のように誰かが殺され、また、誰にも気づかれずに孤独死することも珍しい事ではなくなりました。あまりにも悲惨なニュースを見るたびに、このような世界は早く終わるべきだと感じている人もいるでしょう。しかし、イエス・キリストは罪人を探して救うために来られました。だから、まだこの世界は主の日を迎えていないのです。なんとか一人でも多くの人が救われるようにと神はその時を遅らせているのです。それでも、終わりの日、主の日は必ずやってきます。地球上の全人類がその日、神に裁かれるのです。罪に対する神の怒りがこの地に容赦なく向けられるのです。これで、もう人は人の血を流さなくてすむようになります。悪は絶たれるのです。勿論、イエスが救うために来られたのですから、今日でも、イエスを信じる人は救われます。救われるというのは、この地球から神の国へと移されることが含まれています。ですから、文字通りに救われる人と滅ぼされる人に分けられることになります。救われる側の人になりたいのですが、ここでは、「聖なる信心深い生活を送らなければなりません」と書かれているように、クリスチャンは自分の生活をこの世の人に合わせてはいけません。聖と俗は自ずと分かれていくものです。聖なると言う言葉はあまりにも気高く、自分の到達できないもののように感じるかもしれませんが、実際には聖霊の助けを受けて、信仰で聖なる者へと変えられていくのです。あなたは、神と一つになるという奥義を信仰によって実現し、人の魂の救いのために献身することになります。つまりあなたの内に神を見つける人が次々に出てくるということです。また、教会は個々のクリスチャンの聖霊の賜物を活用します。それで、救われる人が飛躍的に増えるのです。それが、神の日が来るのを早める、ことにつながるのです。祈って主の日のことを考えてみましょう。(佐久間) 

 

12月28日(土)

冠は頭から落ちた。いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ。それゆえ、心は病み/この有様に目はかすんでゆく。シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。

哀歌5:16-17

 

なぜか哀歌にいつも心が惹かれます。人から「好きな聖書箇所はどこですか?」と聞かれたら、まず哀歌とは言いません。でも、本当は聖書の中のベスト3には入ると思います。なぜ、素直に哀歌が好きですといわないかと言えば、たぶん、恐ろしいからだと思います。もっと楽しそうなところとか、感動的とか、重要とか、書名を言えばちょっとかっこいいとか、人に語る時には、その時の動機が答えを変えたりするのです。たとえば、ローマ書が好きですと言えば、ちょっとインテリぽいかもとか、創世記が好きですと言えば、ロマンがある人なんだと思われるかもしれないとか、ヨナ書が好きと言えば、子供っぽいか魚好きと思われるかも、とか、詩編がと言えば、この人は詩人なんだと思われるかもしれないし、ヨブ記が好きだと言えば、この人はよっぽど困って悩んでいるんだろうとか、でも、哀歌は・・・・。今日の箇所を見てみましょう。「冠は頭から落ちた」と聞けば、何を想いますか。イスラエルから栄光は去ったのです。高貴な者が卑しめられる屈辱ほど耐え難いものはありません。イスラエルの王は戦いに敗れ、威光と尊厳の象徴であった王冠が頭から落ちたのです。それが、どれほど悲しいことか。唯一真の神の町、世界随一の聖都エルサレムも汚され、破壊され、神の宝の民は殺され、凌辱され、何もかも奪われたのです。身分の高い高貴な者から捕囚となって連れ去られました。残りの貧しい者は、飢えて食べ物もなくついには自分の子供を食べたのです。「いかに災いなことか」。なぜこうなったのか。「私たちは罪を犯したのだ」。罪がどんなに恐ろしいか、その結末がいかに残酷か、その罰に人は耐えられないのです。「シオンの山は荒れ果て、キツネがそこを行く」。シオンの山は美しさの極み、主の足を置く踏み台なのです。そこを今は獣だけが歩いているのです。美しい乙女も、屈強な男も、預言者も紫の衣を着た王も今はいないのです。罪の結果が明らかならば、罪を放置しておくわけにはいかないのです。主の日が来てからでは遅いのです。罪からの救いこそが福音なのです。もう一度、罪の問題がどのように解決していくのか聖書から調べてみましょう。(佐久間)

 

12月29日(日)

主よ、あなたはとこしえにいまし/代々に続く御座にいます方。なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ/果てしなく見捨てておかれるのですか。主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。

哀歌5:19-21

 

哀歌の最後は、「主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。」という言葉です。罪の結果、神の怒りを受けたとイスラエルの民は思い知ったのです。私たちも多くの神からの恵みを受けながら、罪深い生き方を続ければ罰を受けるでしょう。それは、滅び去る事のないように今罰を受けているということがあるのです。悪い事はできないのです。最も悪いことは、神を忘れる事、神に故意に背くことです。罪はどんな罪でも結局は神に対する罪なのです。あのダビデですらこう言っています、「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました」(詩編51:5-6)。この詩は、ダビデがウリヤの妻バト・シェバと姦淫の罪を犯し、それを隠ぺいする為にウリヤを故意に戦死させた罪が預言者を通じて裁かれたことを受けて作られた詩です。一旦神から裁きを受けると、立ち直る事が大変難しいのです。殺してしまった人の命を取り戻すことはできないように、罪の結果を帳消しにする事も人間にはできないのです。ただ十字架にかかられたイエスに助けていただかなければ罪の問題の解決は無いのです。それも、悔い改めと共に主に立ち返る決心がなければなりません。イエスを信じて救われた人の喜びは、驚くほどです。イエスに人生をすべてゆだねようと決心した人は、やはり最良の結果を経験します。それから、月日を重ね、気が付けば罪にまみれていたとするなら、その罪の故に神の怒りを覚悟しなければなりません。だから、罪を犯してはならないのです。イスラエルの悲しい経験を私たちは学び生かすことが求められているのです。主にしっかりと立ち返ることは、何よりも大切なことなのです。(佐久間)

 

 

**12月30日(月)〜2014年1月5日(日)(中村とおる)

 

12月30日(月)

すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

創世記 3:7

 

神さまから、これを食べるときっと死ぬから食べてはいけない、と言われていた「善悪を知る木」からエバとアダムは取って食べてしまいました。すると、「ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかった」んです。

聖書では、「裸」というのは罪の恥の象徴です。罪を犯すや否や、かれらは自分たちが罪の恥をさらけ出してしまっていることを知りました。これが、「善悪を知る」ことの結果だったんです。

「善悪を知る」?とんでもない!知ったのは「悪」ばかりでした。「悪」とその結果である恥の苦しみばかりでした。

それで、かれらは「いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」んです。なんとか罪の恥を隠そうとしたわけですが、いちじくの葉で裸の恥は隠せません。百歩譲ってなんとか隠せたとしてもいちじくの葉では長続きしません。すぐに枯れたりやぶれたりしてしまうでしょう。これは人間の努力を象徴しています。わたしたちはどんなに努力しても自分の罪を覆い隠す、あるいは罪を消すことはできません。これは非常にはっきりしています。聖書は初めから終わりまで、人は自分の罪を消したり穴埋めしたりすることはできない、と明確に教えています。いちじくの葉ではダメなように、人間の努力では罪は消せないんです。(いちじくより桃がすきとる)

 

12月31日(火)

彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

創世記 3:8

 

このことばは非常に象徴的ですね。罪というものの大きな性質の一つとして、神と人との関係を引き裂く、というのがあります。いや、罪の働きとはこれにつきる!と言っても過言ではないと思います。

これまで本当に仲良しでいつも一緒にいた神と人でしたが、罪が入るや否や、その関係は破壊されてしまったんです。罪が入ったあとで、最初に神と人とが出会いそうになったとき、つまり人が神の足音を聞いたとき、かれらは隠れたんです。それまで、隠れたことなんてなかったんです。しかしいまや彼ら人間には、隠さねばならないことができてしまった。

人間同士だって、なんにも隠すことなんてない、っていうのが理想的な関係ですよね。でも、なにか隠さねばならないことができると、その関係は一変します。平安がなくなります。

神との間でもそうだったんです。それまでは、隠さねばならないことなんて一つもありませんでした。ところが、罪が入ると隠さねばならないことが生まれてしまったんです。裸であることの恥というのもその一つの現れです。

神さまにしてみれば、こころから愛する人たちが自分を避けた!自分が来るのを知って隠れた!!!神さまはどんなにさびしい思いをされたことでしょう。。。これが罪の働きなんです。神と人との関係は破壊されてしまったんです。これを修復するのは、人間にはできません(いちじくの葉ではだめなんです)。これができるのは、ただ神だけなんです。ただ、キリストの十字架だけが、破壊されてしまった神と人との関係を修復できるんです!!!

今年1年ありがとうございました。皆さんの熱心さに支えられてきました。(トルトルミトル)