*2月1日~3日(佐久間典臣)

2月1日(金)

非の打ちどころのない生活を送りたい、と心がけている私ですが、神様のお助けなしには何もできません。ことに、おこころにそった歩みをしたいとせつに願う家庭の中でこそ、お助けいただきたいのです。

    詩篇101:2(リビングバイブル)

 

正しい生活を送りたいと思う人は、その難しさを知っているはずです。だからこそ、神様に頼る必要があります。神様のお助けなしには無理なのです。外ではおとなしい人でも、家庭では別人のように振舞うことができます。そこには、家族がいて裏表なくすべてをさらしています。遠慮がありません。それだけに、本当の自分がでてきます。そこで、問題が起こります。他人には親切にできるのに、なぜか家族には同じようにはできないのです。家庭には危険がいっぱいです。さあ、あなたも心当たりがあるのなら、神様に急いでお祈りしましょう。神様に助けていただくことができるからです。

 

2月2日(金)

命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。  詩篇23:6

 

私の家の墓石にこの聖書の御言葉が彫られています。黒い大理石に彫られた文字は、はじめ白く塗られていました。それで、とても目立ったのです。墓前に立つと、自然とこの聖書の御言葉を読んでしまいます。この墓に入れられた人は生前、このように生きたのだろうか。そして、この人は主の家に帰り、つまり天国に永遠に住まうというのです。このように生きたいと思います。墓の前で故人を偲んで悲しむということはありません。なぜなら、イエス様を信じた者には恵みと慈しみが約束され、死んでも天の父の家に帰ることができるからです。

 

2月3日(日

主はこう言っておられます。「わたしを愛する者を、救い出してやろう。わたしを信頼する者を偉大な人物にしよう。その者が呼べば答えてやり、苦しんでいる時にはそばにいてやろう。その者を救い出し、面目をほどこしてやろう。彼を救って充実した人生を送らせよう。」 詩篇91:14-16(リビングバイブル) 

 

神様とあなたの関係はどのようなものですか。神様を愛するとは、神様を信頼するとは、一体どのようなことを意味するのでしょうか。誰かを愛していれば、同じように神様を愛しているでしょうか。誰かを信頼していれば、同じように神様を信頼していますか。聖書の神様は、あなたに驚くほど良くしてくださいます。あなたを救い出し、偉大な人物にしてくださるのです。呼べば答え、苦しむ時にはそばにいてくださるのです。あなたの面目をほどこすために救い出されます。あなたが充実した人生を送ることができるように救ってくださるのです。なぜですか、あなたが神様を愛しているからです。ただ、それだけです。今日、自分の気持ちを確かめてから、主を愛していますと言ってみましょう。そして、あきれるほど単純に主を信頼しましょう。

 

**2月4日~10日(中村 透)

2月4日(月)

主はわたしの牧者であって

詩篇23:1a

 

ここで「主」と訳されていることばは、言語のヘブライ語では、全能の主なる神の聖なるみ名「ヤーウェー」である。ほかの誰でもない、ヤーウェーがわたしの牧者(羊飼い)なのである。羊は動物の中でも最も依存性の強い生き物である。かつて、ある国で羊飼いをしている男から話しを聞いたことがある。「自分が面倒を見てやらないと羊たちは食事もできないくらい無能なんだ」と彼は言っていた。われわれも主に面倒を見てもらわないと生きていくこともできないほどに自分では何もできないのだ。しかし、おそれることはない。全能の主がわれわれの羊飼いでいてくださるのだ。

 

 

2月5日(火)

わたしには乏しいことがない

詩篇23:1b

 

有名な言葉である。しかしわれわれのどれだけの者がこのみ言葉の意味を本当に味わってきただろうか。ヤーウェーがわたしの牧者なので、わたしには乏しいことがない、と言っているのだ。われわれはいつも、あれがない、これがない、もっとお金が必要だ、新しい服が要る、などと不平を言って暮らしているようだ。しかし、真理の言葉は、われわれには、乏しいことなどないのだ、と告げている。お金も、勇気も、強さも、信仰も、友だちも、幸せも、愛も、なにひとつ乏しいことなどないのだ、とこの詩篇は教えているのだ。なんと心強いことであろう。問題はあなたがそれをどれだけ本気で信じているかなのだ。

 

2月6日(水)

主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

詩篇23:2

 

見渡すかぎりのみどりの草原、すみきったつめたい泉の水。主はわれわれをそういうところに導いてくださる。生きるのに必要なもの、いや、それ以上のものを、もっともすばらしいものを主はお与えになる。われわれは主のみ手にみちびかれ、守られている。主はわれわれを伏させ(休ませ)、いこわせてくださる。これはただ主だけが与えることのできる最高の祝福である。主がお与えになる平安は世が与えるものとは異なる。なにものにも代えがたい平安なのである。

 

 2月7日(木)

主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

詩篇23:3

 

罪の中に生きていたとき、わたしの魂は死んでしまっていた。死んだ魂をいきかえらせることができるのは主のみである。十字架上でたしかに死なれたイエスを3日後によみがえらせられた方は、われわれの罪の中に死んだ魂をいきかえらせることがおできにならないわけがない。壊れてしまった魂を主は回復させてくださるのだ。そればかりではない。新しいいのちに生きるわれわれを主は正しい道に導かれるのだ。まことの羊飼いに自分をゆだね、明け渡そう。明日と言わず、今日。

 

2月8日(金)

たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

詩篇23:4

 

われわれには全能の主がついていてくださるのだ。いつでも、どんなときでも、主は共におられる。彼のみ名はインマヌエルであることを忘れてはならない。だから状況がどのようであろうともわざわいはわれわれを恐れさせることはできない。どんなわざわいよりも大いなる方が共におられるからだ。そんなときに主がお与えになるものは慰めである。全知全能の主はわれわれの悩みを知っておられる。どんな小さな悩みをも主は見過ごされない。隠れた涙をも主は見ておられる。主こそ、まことのなぐさめ主であることをおぼえていよう。

 

2月9日(土)

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。

詩篇23:5

 

なんというおどろくべきみ言葉だろう。敵がわれわれに襲いかかってくる、そのとき主はなんと敵の見ている前で宴を設けるのだ。ご馳走をならべてパーティーを開かれるのだ。

そのときわたしの杯はあふれる。主の愛と恵みにわたしの杯はあふれる。われわれは戦いを恐れてはならない。主が共におられる。敵が攻めて来ても怖じ惑う必要などない。主が戦われる。パーティーがはじまるのだ。あふれるほどのご馳走と飲み物が目の前におかれるのだ。これが霊の世界での現実なのだ。主はほむべきかな。

 

2月10日(日)

わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

詩篇23:6

 

主の恵みといつくしみとは気まぐれに与えられるものではない。それは、必ず与えられるものであり、生きているかぎりは決して離れ去らないものなのだ。われわれが最後の息をひきとるまでそれは惜しみなく与え続けられる。われわれは主の宮に住む。主の聖なる御臨在の中に住む。それはもうすでに始まっている。主の力と支配のおよぶところ、われわれが主に引き寄せられて集まってくるところ、主に従うものたちの群れ、そのムーブメント。それが主の宮である。スクエアジャパンチャーチは主の御臨在あふれる主の宮であり続けたい、と思う。

 

**2月11日~17日(佐久間典臣) 

2月11日(月)

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 ヨハネ6:35

 

イエス様を信じることができる幸いがあります。今日の御言葉も、とてもありがたく感じます。イエス様が命のパンであるということの意味を考えてみてください。人が生きるということは、それほど簡単なことではありません。何か仕事をしてお金を稼がなければなりません。仕事も決して楽ではないかもしれないし、人間関係に悩むかもしれません。そして、十分な賃金を得ることはまた大変です。病気もするかもしれないし、リストラされたり、失業しても次の仕事が見つからないかもしれません。いじめや、体罰、DV、離婚、シングルマザーの不安、等、生きることに疲れて、飢え乾きを覚えるとき、命のパンのありがたさを知ることができます。ただ、イエス様のもとに行き、イエス様を信じるだけでいただける命のパンのありがたさをあなたも味わってみませんか。

 

2月12日(火)

心よ、主はお前に言われる/「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。 詩篇28:8

 

この世で生きることに疲れたら、静まって祈りましょう。その時、あなたはなんと祈れば良いのかわからないかもしれません。せいて言葉を出す必要はありません。ただ、静まって主を呼びましょう。そして、耳を傾けて待ちましょう。主は、心に語っているのです。「わたしの顔を尋ね求めよ」と。そのみ声が聞こえてきませんか。主は、待っておられます。あなたが差し迫った問題で悩んでいても、そのことの解決よりも、主のみ顔を尋ね求めることを主は命じます。すべての解決はそこから始まるからです。本当の自分の問題は、主を知ることなしには解決しないのです。主は、そのことを諭しておられるのですよ。

 

 

2月13日(水)

あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。 Ⅱコリント3:3

 

クリスチャンであるあなたは、神様の手紙です。書いた方はキリストです。神の霊で、あなたの心に書きつけられています。この手紙は、この世の人々に公に現すものです。ここで分かることがあります。クリスチャンが伝道をするということは、あなたの心に書かれた手紙を読んでいただくことだということです。だから、だれでも伝道できるのです。自分で考えて何かもっともらしいことを言う必要はありません。あなたの言動はみな心からでてくるからです。そこに神様は手紙をお書きになったわけですから、神様を信じて委ねてみれば、きっと自分でもびっくりするような言葉や愛の業が出てくるはずです。それをじゃましないでくださいね。手紙になりきるのです。あなたがいれば、誰でも神様の手紙を読むことができるのです。楽しいですね。

 

2月14日(木)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。Ⅰペトロ5:7

 

毎日の生活で不思議に思うほど、思い煩いが起こってきます。他人がそのことを話している時には、なぜ思い煩うのだろうと思うのですが、いざ自分の番になるとバカバカしいことでも思い煩ってしまっています。これは、信仰者にとっては、重要な信仰の問題です。聖書は、「何もかも神にお任せしなさい」と命じています。それは、神様があなたのことを心にかけているからです。だから、安心して、イエス様に委ねきることが肝心です。それにしてもありがたいことですね。

 

2月15日(金)

待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。箴言13:12

 

人生で一番辛いのは、待ち続けることです。私は6年間待ち続け、7年目に望みが叶えられました。この年月は長いと思いますか、それとも短いでしょうか。私の場合は、「 たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」(ハバクク2:3)との御言葉が与えられたので待てました。もちろん、叶えられた望みは命の木となりました。もし、あなたが待ち続ける人ならば、立ち止まって神様に確かめてみませんか。祈ってみるのです。率直に聞いてみてください。主は、正しい願いを叶えられるお方です。待ちくたびれて心が折れそうになるのを放っておかれる神様ではありません。神様が全てを整えて、準備されているのです。あなたの願いを叶えるために。

 

2月16日(土)

主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。

哀歌3:31-33

 

私たちの人生に起こる悩み事は、時に自分のしでかした過ちや罪に対する罰であると思える事があります。神様は私たちが滅んで地獄に行くことを望んでいません。天国に連れ帰りたいと思われておられるはずです。そこで、罪の悔い改めに導くため、そして、場合によっては罰として私たちを苦しめ悩ます事があるかもしれません。しかし、それが御心ではないと聖書に書いてあるので、一刻も早く悔い改めて、主の憐れみにすがりましょう。主の慈しみは深いから、早く立ち直れるでしょう。そして、もう同じ罪を犯さないように主の取り扱いを認めて、信仰によって義しい者となるのです。

 

2月17日(日)
どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす。 箴言14:23

 

人生を振り返ると、ずいぶん苦労があったはずなのに、その多くを忘れているものです。しかし、その苦労を乗り越えてきたからこそ今があります。自分では分かりにくいものですが、どのような苦労にも利益があったのです。それは、目に見えないことも含まれます。自分が成長し、たくましくなり、自信を持ち、愛せるようになってきたはずです。ですから、苦労は意味があるのです。その苦労を避けて、口先だけの言葉で過ごしてきた人には、人間としての欠けがあるはずです。実際に、欠乏を経験することになるでしょう。さあ、あなたは苦労に対する見方が変わりましたか。「どのような苦労にも利益がある」、この言葉を覚えていつも唱えてください。

 

**2月18日~24日(中村 透)

2月18日(月)

わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

イザヤ書 43:4

 

あなたは自分の目にはどう見えているだろうか。欠点だらけ、失敗ばかり、誘惑に弱くすぐ負けてしまう、こころは汚れ、思いはかることはわるいことばかり、そんなところではないだろうか。しかし、大切なことはあなたが、神の目にはどう見えているか、ということである。われわれの判断力は敵(サタンとその悪霊ども)によってゆがめられてしまっていることが多いのであてにはならない。確かなのは神の言葉である。神はあなたをこう見ておられるのだ。「あなたはわたし(神)の目には高価で尊い、と。あなたがどう思うか、ではない。神はあなたがかけがえのない存在である、と見ておられるのだ。あなたが自分を、最低の、何の価値もないものと思っているときに、主はこう言われるのだ。「いや、ちがう。あなたはこの上なく高価で尊い。あなたの価値はプライスレスだ」と。主はあなたを愛しておられるのだ。恋焦がれておられるのだ。

 

2月19日(火)

ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ」。

イザヤ書 43:1

 

忘れてはならないことはあなたは主(ヤーウェー)によって造られた、ということだ。その主がいまあなたに言われる、「恐れるな」と。この世で生きているかぎり恐れることはいくらでもある。不況、病気、失業、事故、地震、天災、放射能、、、挙げていけばきりがない。しかし重要なのはそんなことではない。あなたを造られ、あなたのことを一番よくわかっておられる主が「恐れるな」と言われるのだ。なぜかと言えば恐れる理由がないからだ。これらすべてのものよりも大いなる方、力ある方があなたを造り、あなたのことを熟知しておられる。その万軍の主があなたをご自分のいのちをもって買い取ってくださった、主があなたの名前を呼んでくださる。あなたは主のものなのだ。主に属するもの、その額に主のみ名が彫り刻まれているものなのだ。だから恐れる理由などない。恐れてはならないのだ!主を信ぜよ!

 

 2月20日(水)

あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。

イザヤ書 43:2

 

残念なことだがわれわれの人生は幸福感や喜びばかりに溢れているわけではない。川の中を行くような経験もすれば、火の中を行かねばならないこともある。それはあなたのせいではないし、避けようと思って避けられることばかりではない。しかし、感謝すべきことには、たとえ川の中を行くときにも水はあなたの上にあふれることがないし、火の中を行くときにも炎はあなたに燃えつかない、と主は言われるのだ。それはあなたがどんな辛く苦しい経験をしようとも主があなたと共におられるからである。あなたのことを心の底から愛しておられる主が、あなたのためならご自分の命をも投げ出される主が、あなたと共にいてくださる。だからわれわれは災いを恐れない。恐れる必要がない。すべてにまさる主が共にいてくださるからだ。

 

2月21日(木)

わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救い主である。わたしはエジプトを与えてあなたのあがないしろとし、エチオピアとセパとをあなたの代わりとする。

イザヤ書43:3

 

わたしの神はこう言われる、彼こそがわたしの神、宇宙の造り主ヤーウェーである、と。わたしには他に神などいない。このお方だけがわたしの神である。それだけではない、彼はわたしの救い主である。わたしを罪の泥沼から救うのはこのお方しかいない。他にはいない。だれもいない。最も強大な敵であったエジプトをもわたしの救いのために与えられたのだ。エチオピアもセパをも。つまり、主はこのわたしを、罪深く、弱く、どうしようもないこのわたしを、他の何にもかけがえのないものとして愛し、救ってくださるのだ。わたしの救いのためにはどんな犠牲でも惜しみなく払ってくださるのがこのお方である。このように強烈な愛があろうか!だからわたしたちもこう言うのだ、「キリストにはかえられません、世のなにものも」と!

 

2月22日(金)

主は言われる、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。ただわたしのみ主である。わたしの他に救う者はいない」。

イザヤ書 43:10〜11

 

われわれは主によって選ばれた主を証しする者である。だからわれわれは主を知ることができるのだ。主のすばらしさを、その愛の深さを、その恵みの広さを、その力を知ることができるのだ。ヤーウェーのほかに救う者はいない。このお方だけがわれわれの救い主である。預言者ホセアはこのように告げた、「わたしたちは主を知ろう。せつに主を知ることを求めよう。」(6:3)そうだ。このお方を知ることはわれわれにゆるされた大いなる恵みなのだ。この恵みをムダにすまい。われわれは選ばれたのだ!主が流された血潮によって!毎日、少しずつでもこのお方と話し合う時間をもとう。少しずつでも聖書を読み、祈りを通して主に語りかけ、また、主が語ってくださることを聞こう。それはなににも代えがたい最高の宝となるのだ。スクエア・ジャパン・チャーチは主を知る教会である。

 

2月23日(土)

あなたがたは、さきのことを思いだしてはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。

見よ、わたしは新しいことをなす。やがてそれは起る。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。

イザヤ書 43:18〜19

 

主は新しいことをなさるのだ。これまでのあなたの経験や先入観で判断してはならない。われわれの見たことも聞いたこともないような驚くべき新しいみわざがなされるのだ。たとえいまはそれが感じられなくても、そんなことが起るはずがない、と思われても、やがてそれは起る。乾ききり、荒れ果てた荒野、主のみわざなどあり得ないと思われるような荒野に忽然と道が設けられる。水の一滴も流れていないように思われるさばくに、主は川を流れさせる。東京に、仙台に、横浜に、名古屋に、大阪に、九州に、北海道に、沖縄に、道が設けられ川が流れるであろう。あなたはそれを知らないのか。スクエアジャパンチャーチはそういうまぼろしを主から与えられた教会である。

 

2月24日(日)

わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。

イザヤ書 43:25

 

この聖句の少し前、22節で、「ところがヤコブよ、あなたはわたしを呼ばなかった。イスラエルよ、あなたはわたしをうとんじた」とある。われわれ人間はこの偉大な神に対してこのような仕打ちをしてきたのだ。なぜわれわれは主を呼ばなかったのだろう。なぜ主をうとんじるようなことをしたのだろう。われわれを心から愛される主はどんなに寂しい思いをされたことだろう。われわれの不信仰が神を傷つけ悲しませるのだ。しかし主はわれわれのとがを消される、われわれの罪をこころにとめない、と言われるのだ。こんなにも不信仰で主を悲しませてばかりのわれわれを、主は最後まで愛し抜き、罪をゆるしてくださる。そしてわれわれがあたかも罪などかけらもない者であるかのように受け入れてくださる。主はなにゆえにこれほどまでにわれわれを愛してくださるのだろうか!

 

**2月25日~3月3日(佐久間典臣) 

2月25日(月)

主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い

わたしは主を待ち望む。

哀歌3:22-24

 

不思議なことに、主を待ち望むのは、人生の全てがうまく運んでいるときではありません。そうではなく、その反対で、自業自得のように砕かれ、打たれ、血を流しているような有様の時にこそ、人は主を待ち望みます。つまり、もう体裁をつけて自分をよく見せようなどと思うゆとりもなく、自己憐憫に酔いしれることすらゆるされず、罪人の自分が丸裸でさらしものになってしまったような状態で、神を侮って生きてきたことの恐ろしさを思い知らされた時に、進退窮まって、はじめて私の魂は主なる神に向かうのです。そして、知ることになります。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」ことを。つまり、はじめて真剣に神を知ろうとした時に、神がわたしに何をしてくださるか理解するのです。全てを投げ出して主に向かいなさい。主は圧倒的な恵みを携えてあなたのもとへやってくるでしょう。

 

2月26日(火)

神に従う人は七度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。

箴言24:16

 

聖書を読むと、「神に従う人」の反対は「神に逆らう人」であることがわかります。あなたはどちらでしょうか。その中間はないのです。どちらが良いかは明白です。どこで差がでるのでしょうか。それは災難にあった時です。それまでは、気がつかないかもしれません。しかし、一旦災いが襲いかかると、「神に逆らう人」はダメージを受けて挫折してしまうのです。それに比べ、「神に従う人」は災いに遭遇しても何度でも立ち上がり、再起できるのです。人間的な考えで神を欺く人は、「神に逆らう者」です。人はごまかせても災難にあった時に思い知ることになります。それでは手遅れになります。ですから、今、主に従いましょう。

 

2月27日(水)

口の言葉が結ぶ実によって/人は良いものに飽き足りる。人は手の働きに応じて報いられる。箴言12:14

 

聖書を読む人は、言葉の不思議に気がつくはずです。毎日、自分の口から出てくる言葉がいろいろなことを動かし、何かの形を実現して行きます。それで、良い言葉から良いものに満ち足り、良い行いから良い報いを受けるという法則があることに気がつきます。だから、何も考えずに悪い言葉を発すると悪いことに覆われてしまいます。それは、悪い行動にも同じように現れていて、悪い結果を刈り取ることになります。とても、簡単で単純な法則です。それなのに、どれだけの人が言葉に気をつけているでしょうか。あなたは大丈夫ですか。すべて良いことは良い言葉から始まることを覚えておきましょう。

 

2月28日(木)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。  

マタイ6:33、34

 

このイエスの教えは、有名なわりには実行されにくい。なぜだろう。これほど安心できる約束はないし、思い悩むことの最善の解決策であるのに実行されないことが多いのです。たぶん、神の支配に服従することを喜びとしないからではないでしょうか。そして、神の裁きに服することから逃げているからではないでしょうか。神様を第一にしない限り、悩みを簡単に解決することはできないし、苦労はつきないでしょう。この、驚くほど祝福された生き方が教えられているのですから、悩みのある人はすぐにこの教えを実践しましょう。