**3月1日~3日(佐久間典臣)

3月1日(金)

神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。へブル10:36-39

 

ひるんで滅びるほど恥ずかしい事はありません。それならば、信仰によて命を得ましょう。神の御心を行う生き方があります。そこには約束されたものを受けるという祝福があります。ただ、決してたやすくはありません。なぜなら忍耐して待つ必要があるからです。それは、この世で信仰を試されて生きるということを意味します。短い時間ならば、なんとか頑張れるでしょう。でも、長い歳月が必要とされるならばどうでしょうか。普通の生活の中での長い時間のかかる忍耐です。しかし、主はもう少しすると必ず来られます。遅れることはありません。あなたは、ひるむでしょうか。それとも信仰によって勝利するでしょうか。すでに勝負は始まっています。

 

3月2日(土)

しかし、イエスは・・・常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。 

へブル7:24、25

 

人のための救いには、ちゃんと決められた方法があります。やみくもに人を救うという方法ではありません。だから、ご利益信仰とは違って、自分にも保証されている自由意思を使って自分で救いを願うかどうかを決めます。つまりイエス・キリストを本当に信じることです。その選択が後に何かしらの結果をもたらすわけです。真面目な人は、自分のためにイエスが執り成してくださることが受け入れがたいかもしれません。もっとイエスが認めるぐらいに立派な行動がとれるようにとならなければだめだろうと勝手に思っているのです。では、その人はいつになれば大丈夫なるのでしょう。聖書は、はじめからイエスが執り成すからと書いてあるのです。自分の弱さを知っている人は、どんなに努力してもだめだと思っているでしょう。しかし、それだからこそ、イエスがあなたを執り成しているのです。そうゆう救いです。イエスに近づきましょう。そして、完全に救っていただきましょう。

 

3月3日(日)

知恵ある女は家庭を築く。無知な女は自分の手でそれをこわす。

箴言14:1

 

聖書の中で大切なものは知恵であることが教えられています。決して富ではありません。知恵のある女は家庭を築くので偉大なのです。家庭は、実にもろく崩れ去り安いものです。今日の離婚数の多さを知れば納得できます。女は家庭の女王と言った人がいますが、まさに至言です。妻であれ、母であれ、女が知恵を大切に生きれば、家庭は円満に築かれていきます。一方、反対に無知な女は自ら招いた災いで家庭を壊してしまうことがあるのです。あとになってから大変後悔します。そこをみても愚かですね。真の知識と知恵はイエスのことですから、イエスを知っているか、知らないかで人生は大きく二つに分かれてしまうわけです。家庭を築く女と家庭を壊す女。勿論、知恵ある女でありたいですね。

 

**3月4日~10日(中村 透) 

 3月4日(月)

あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。

ルカ 7:36〜38

 

この女性は一体なぜ「うしろで」イエスの足もとに寄り香油を塗ろうとしたのだろうか。36節には彼女が「罪の女であった」と記されている。罪のゆえに、それが町中の人々に知れ渡っていたために、彼女は堂々と正面からイエスの元に行けなかったのだ。彼女は町の人々から激しく糾弾されてしまうことを恐れたからこそ「うしろで」イエスのもとに行ったのだ。いまもこのように人々から裁かれ、責められ、罪を糾弾されて傷つき、ボロボロにされてイエスから遠ざけられてしまっている人がどれだけいることだろう。

わたしたちが忘れてならないことは、イエスは彼女を退けたりなさらなかったということだ。イエスは彼女の必死の思いと信仰とをお受け入れになった。そのとき彼女自身も思いもよらなかったことには、彼女の目から涙が溢れはじめた。それはとめどもなく流れ続けた。町中の人から排斥されてきたこの女性はいまイエスに愛され、受け入れられていることを知ったのだ。そのとき溢れ出る涙を彼女はとめることもできなかったのだ。この尊い涙をイエスは見過ごされない。あなたはイエスの愛に思いもよらず涙を流したことがないだろうか。。。

 

3月5日(火)

あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。

ルカによる福音書 7:36〜38

 

同じ聖句から昨日に続きこの女性のしたことを考えてみよう。もともとこの女性がしようと思っていたこと、彼女の予定していたことは、たった一つ、イエスに香油を塗って差し上げる、ということだけだった。そしてそれは彼女の与り知らぬことであったが、一つの預言的な意味を持つ行為だったのだ。「この女はできる限りのことをしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである」(マルコ14:8)イエスはまもなくご自分が十字架にかけられて殺されていくことをご存じであった。この女性は香油を注ぐことによって、そうとは知らずに、人類史上もっとも大いなる出来事を、すなわちイエスの死とその葬りを預言していたのである。主はこの夜、彼女のしたことをことのほか喜ばれた。主は言われた、「全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のしたことも記念として語られるであろう」(マタイ26:13)そのとおり、二千年後の今日、私たちもこの女性のしたことを語り伝えているのである。最善のものをイエスにお捧げしたい、たとえ嘲笑を受けようともイエスにお仕えしたい、そんなひたすらな信仰の行為の尊さに打たれる。

 

3月6日(水) 

イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。 

ルカ7:39〜40

 

ここでもこのあわれな女性を裁き、非難し、傷つける者が登場する。しかもそれはイエスを招待した本人であるシモンであった。興味深いことにマタイとマルコによればこの男はらい病人であった。(協会訳)このときすでに彼の病は完治していたと思われるが、この時代この病は汚れたものとされ、通常の社会生活ができなくなるほど差別され隔離された。そういう痛みを知っているはずのこの男が彼女に差別と裁きの矛先を向けたのである。しかもシモンは彼女にご自分の身体に触れることを許しておられるイエスをも非難している。このように他者を裁き、非難し傷つけるようなことを、教会においてさえ平然と行う人がいることは実に悲しむべきことである。それは主イエスご自身を非難することになりかねないのだ。われわれはキリストの次の言葉を肝に命じておかねばならない。「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」(マタイ7:2)

 

3月7日(木)

イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。

ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。

ルカ 7:41〜42

 

自分の罪は棚に上げてこのあわれな女性を容赦なく裁き傷つけるシモンに対し、イエスはたとえをもって諭された。額はちがうが借金をしている二人の男がいた。ところが金貸しは二人とも借金を帳消しにしてくれたのだ。このたとえは驚くべき真理を包含している。この金貸しがふたり共ゆるしてやった理由に注目してほしい。「返すことができなかったので」これが借金を帳消しにしてやった唯一の理由である。もちろんイエスは金貸しの仕事について教えているのではない。これは神がわれわれの罪を許してくださる理由を教えているのである。「返すことができないから」、つまり、われわれは自分の罪の負債を決して自分で払うことはできない。だからこそイエスは十字架でそれを払ってくださったのである。「良い行いをして自分の罪を消そう」とか「あれを守ることによって、これを守ることによって救われよう」という生き方は、行いによる義であり、律法主義である。このような生き方は必ず失敗する。それは人間にはできないことなのだ。それをあたかも自分がちょっとした良い行いをすれば罪を帳消しにできると考えてそのように生きることは、十字架上のイエスを引きずり降ろすことなのだ。あなたのために十字架で死なれたイエスに向かって、「あなたの十字架など必要ない。それはムダなことだ」と言うに他ならない。これだけは決してしてはならないことである。それははっきり言うが反キリストである!

神は、我々が自分で「返すことができなかった」からこそ、ご自分で我々の借金を支払ってくださったのである。主のみ名はほむべきかな!

 

3月8日(金)

それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。

ルカ 7:44〜46

 

イエスのお言葉はいつでも鋭く真実をついてくる。シモンがどれほど自分の正しさを誇り、それによってこの女性を見下げ、裁き、傷つけようとも、イエスの御目はごまかされない。シモンのうわべだけの敬虔さは、実は主イエスに対する愛も思いやりもかけらも持っていないことを明らかにした。彼はイエスを招待しておきながら、足を洗う水も出さず、心からの挨拶である接吻もしなかったのだ。

それにくらべてこの女性のイエスへのひたむきな愛はどうだろう。彼女はイエスにうしろから近づいただけで涙を滂沱と流し、女性の命である髪を解いてそれを雑巾代わりにしてイエスの足を拭いて差し上げた。シモンはしなかったが、彼女は高価な香油を惜しげもなくイエスに捧げた。

もううわべだけの、心の伴わない奉仕はやめようではないか。あるがままの姿で自分を主に明け渡そう。そして、わたしのために十字架で命を捨ててくださった主に心からの感謝をささげようではないか。

 

 3月9日(土) 

イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。

マルコ 14:3〜5

 

引き続きイエスに香油を塗って差し上げた女性の話しであるが、今日はマルコから引用してみよう。彼女がイエスに注いだ香油は三百デナリ以上の価値があったようである。この時代、1デナリが1日の給料ほどであったので、これは約1年分の給料に匹敵する高価なものであった。それを彼女はイエスに捧げたわけであるが、われわれが見落としてしまいがちなのは、ある人々が「なんのために香油をこんなにむだにするのか」と言ったことである。マタイによれば、これを言ったのは弟子たちであった。驚くべきことに、弟子たちはイエスに香油をお捧げしたことを「むだ」と言ったのだ!「貧しい人たちに」などと言うのは単なる言い訳であり、詭弁に過ぎない。なんと愚かしいことであろう。神の子イエスにお捧げすることをむだと呼ぶとは!どんなに高価で希少なものであっても、イエスのすばらしさの前にはかすんでしまう。イエスにお捧げするにふさわしいものなどこの世にはない。それを、この香油はイエスにお捧げするのには高価すぎる!もったいない!むだだ!と言ったのだ、この愚かな弟子たちは!われわれはどんなに高価なものでもイエスにお捧げするのをむだだなどとは呼ばないようにしよう。イエスに勝るものなどない。至高の主に惜しげもなくすべてを捧げようではないか!

 

3月10日(日) 

そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。 

ルカ 7:48〜50

 

イエスの限りない愛に打たれてこの女性は涙を流し、大変高価な香油をも惜しげもなくお捧げした。これに対してイエスは、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。この女性はたしかに罪深い生活をしていたのだろう。そしてそのことが自分でもわかっていたので、ずっと自分を責め続け、罪責感に苛まれていたのだ。そんな彼女にとってイエスのゆるしの言葉はどれほど喜びをもたらしたことだろう。これこそ彼女が最も聞きたかったこと、最も必要としていた言葉だったのだ。主はいつでも、われわれが最も必要としているところに答えてくださる。

ところがここにも裁く者たちがいた。このあわれな女性を裁き、さらには神の子イエスをも裁く不遜な者たちが。

しかしイエスはそのような汚れたことばに耳も貸さなかった。イエスはこのあわれな女にやさしく言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい」と。われわれもこのような信仰を持ち続けたい。人が何を言おうともイエスを信じ続け、自分の最善のものを捧げ続ける信仰を。するとイエスはあなたにこう言われるのだ、「安心していきなさい」「平安のただ中へと行きなさい」と。世が与えるものとは異なるまことの平安のただ中へとイエスはお招きになるのだ。

 

**3月11日~17日(佐久間典臣)

3月11日(月) 

その日に、わたしはあなたを救い出す、と主は言われる。・・・命だけは助かって生き残る。あなたがわたしを信頼したからである、と主は言われる。

エレミヤ書39:17

 

あの日から2年がたち、3月11日を私たちはまた迎えます。誰がこの平和な日々は永遠に続くと言えるでしょうか。東日本大震災のあった、あの日からすべてが変わりました。涙がこぼれるのを止めることができなかた破壊と悲惨は本当に起こったのです。聖書の預言を知っている人は、あらためて戦慄を禁じ得なかったのではなかったでしょうか。神の御言葉の通りに主は裁きを携えて間もなくこの世界に来られます。その時に、いったい誰が救われるのでしょうか。預言者は語ります。「その日に、わたしはあなたを救い出す」と。あの震災以上の恐ろしい破壊が起こる日に、イエス・キリストを信頼した人たちは助かって生きることになります。だから、何も考えてこなかったあなたにお願いします。イエス・キリストを信じましょう。すでに信じているあなたには、信仰を吟味するようにお薦めいたします。その日は突然来るからです。

 

 

3月12日(火)

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

フィリピ3:13-14

 

クリスチャンにとって大切なことは、後ろのものを忘れることです。心を悩ませている人の多くは、過去の出来事に縛られています。もう過ぎてしまったことが、その人を不自由にしているのです。どんな嫌なことでも、悲しいことでも、恐ろしいことでも、それが罪であったとしても、イエス・キリストを信じて救われたのであれば、すでに赦されていることを覚えましょう。もう過去のことで悩むのは十分です。今は、それどころではありません。天国で与えられる賞を目指してマラソンランナーのように、ひたすら前のものに自分の全てを向けてひたらすら走ることです。そうではないですか、過去のことはもう過ぎてしまったのです。新しいことが目の前にあるのです。その新しいことはあなた次第なのです。人生の最後に天国に行き、そこでみごと賞をいただいている自分の姿を想像してみてください。あなたは、そのために今日を生きているのです。

 

3月13日(水)

あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

Ⅰペトロ1:2

 

クリスチャンになるということは、まるで新しく創造されるようなことです。神の霊によってその人は聖なる者とされます。それは、神のご計画なのです。ですから、人間はその全貌を理解することはありません。しかし、悪魔とその手下の悪霊たちが手出しすることのできない、決定的で神的な清めと霊的守りが十字架で流されたキリストの血潮で覆うことにより実現します。それだけでなく、恵と平和が豊かに与えられるのです。だから、人間は偶然の連続の中にたまたま生きていたと思ってはなりません。あなたは、神に選ばれたのです。人生の意味をあなたは知ることができるし、価値ある生活を送ることができるのです。信仰によって、生活を聖書に一致させてください。もし神に逆らって生きるなら、あなたはその場所から消えてしまうでしょう。だから父なる神に従順になり、喜んでイエスに従うことにしましょう。その報いは間もなくわかります。

 

3月14日(木)

怒りやすい人はいさかいを引き起こし/激しやすい人は多く罪を犯す。

箴言29:22

 

あなたは、ご自分のことをどのように理解していますか。もし、あなたが「怒りやすい人」か「激しやすい人」であるのなら、今日、悔い改めてください。そして、この恐ろしい習慣をきっぱりとやめてしまいましょう。そうでなければ、いままでと同じように人間関係を情け容赦なく壊していくことがほぼ決まってしまいます。激しやすい人には恐ろしいことが起こります。それは、多くの罪を犯すことが予知されているからです。罪は負の連鎖です。とどまることをしりません。イエス様の十字架によらなければ、この種の問題は解決しません。決してタカをくくっていては解決しません。そして、しかたがないとは絶対に言わないでください。イエス様の愛の力は絶大なのです。すべてが愛によって変えられたと言えるようになりましょう。

 

3月15日(金)

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

ローマ14:7-8

 

神のために生きるということこそ、クリスチャンの生きる目的です。昔の武士は主君のために生きました。必要とあらば命すら投げ出し捨てたのです。滅私奉公という言葉も今では死語に等しいでしょう。皆が自分のために生きる時代です。その結果は、どうみても芳しくありません。一方クリスチャンは、自らを主のものと公言します。ですから、生きるのも死ぬのも主のためと思っているのです。その生き方は潔いものです。そこで、如何に主をお喜ばせすることができるかと考えます。主のために、と考えるだけで生きる力がみなぎってくるのです。今日の御言葉を読み返し、考えてみてください。あなたの言葉となるまで。

 

3月16日(土) 

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

ヨハネ16:20-22

 

クリスチャンにも悲しみがあります。それは、もちろんこの世の悲しみのように、痛みだけが残るようなものとは異なっています。なぜなら、どんな時にも痛みを代わりに負ってくださるほど、愛し続けてくださるイエス様がいらっしゃるからです。私たちの辛い悲しみや痛みを負ってくださるお方がたとえ見えなくなっても、必ず試練を乗り越えた時に会えるのです。人は変わることができるのです。自分の力でなんとかしようとしてもそれは無理でしょう。間違っていることは、自分の問題はしかたがないと思い込んでしまうことです。それは、信仰とは反対のことなので誰も助けることができません。自分で一生懸命に罪を克服しようと思わないで、主イエス様が私を救ってくださったのだから私は変えられたと信じましょう。感情を聖霊に明け渡して、服従すべきです。信じる力は本当に主を信じた人のものなのです。

 

3月17日(日)

主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。
このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。

ペトロの手紙二 3:10-11

 

聖書は、実にはっきりと世の終わりが来る事を告げています。それは、ただの自然災害とはわけが違います。私も東日本大震災を仙台で経験しました。その時も、世の終わりかと思いましたが、もっと恐ろしい事が聖書には記されています。すべてのものが滅び去るとあります。その日は、泥棒のように気づかないうちにやってくるのです。聖書ではこの日を主の日と呼んでいます。これは、人間の今までの歴史が終わる日です。イエス・キリストが裁きを携えてこの世に再び来られる日です。だから、救われる人たちにとっては天国に連れ帰っていただく希望の日でもあるのです。問題は、罪を裁かれて天国に行けない人たちです。それがどんなに恐ろしい事か想像を絶する事が待ち受けています。この時になって、誰もが後悔することでしょう。しかし、もう手遅れなのです。そうならないために、まだ間に合う今のうちに真剣に救いのことを考えてください。イエス・キリストだけが無条件にあなたを救うことができるのです。イエスを信じましょう。

 

**3月18日~24日(中村 透)

 

3月18日(月)

ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。

ガラテヤ 3:1

 

彼らも初めから物わかりのわるいものではなかったであろう。だれかが、あるいはなにかがかれらを惑わしたのだ。かれらはそのことに気づいてさえいなかったであろう。我々の敵はそのようにして隙をついてくる。気がついたらいつのまにかすっかり惑わされ、道を逸れてしまっている、そんなことがないように目を覚ましていなければならない。だからこそ十字架につけられたイエス・キリストのお姿をはっきりと、毎日描き出していかなければならない。血まみれの、苦悶に顔を歪ませた、釘づけられて身動きできないほどに惨めに傷つけられた神の子の姿を!である。ガラテヤ人はそれを忘れてしまっていた。われわれは忘れやすい生き物である。しかし、何を忘れようともこれだけは、十字架につけられた神の子イエスのお姿だけは忘れてはならないのだ。日々、十字架のもとに行き、わたしのために釘づけられたイエスを仰ぎ見て感謝を捧げて生きていくこと以外に、敵の欺きに惑わされないでいる方法はないのだ。

 

3月19日(火)

わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

ガラテヤ 3:2〜5

 

ガラテヤ人を惑わせたのはこのこと、すなわち律法を行うことによって義を得ようとする生き方だったのだ。彼らは御霊によって始めたのだった。御霊によって救われ、御霊によって力をいただいてきたのだった。それなのに神の恵み、御霊の力を忘れ去り、自らの力で、自らに頼って義を得ようとし始めたのだ。もしわれわれ罪人が律法の行いによって、すなわち自分の力によって救いを得られるならばキリストは十字架で命を捨てる必要などなかった、ということになる。御霊が罪人の心を十字架のキリストに向けてくれるのに、敵である悪魔はそれを律法による行いに向けようとする。結局のところ真のキリスト者の戦いは、初めからずっと律法主義に対するそれであったのだ。われわれは惑わされてはいけない。ただ御霊によって心を十字架のキリストに向けていただき、キリストを唯一の救いの道として仰ぎ見て行こうではないか。

 

3月20日(水)

このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。

ガラテヤ 3:6〜7

 

アブラハムは欠点の多い人であったけれども、主が、「あなたは国を出て親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と言われたときに行き先も知らずに出て行った。ただ、主を信じて。また、高齢になり妻も不妊であったので跡継ぎが生まれる望みはまったくなかったときに、主が、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」と言われたときにも主を信じた。そして主はこれを彼の義と認められたのだった。われわれはこの信仰さえも主から与えられたものであり、その信仰を導き、完成に至らせてくださるのもまた主であることを忘れない。スクエアジャパンチャーチは、信仰によって生きるものの群れである。常に十字架の主を見上げ、われわれはただ信仰によって生かされているものであることを日々確認して、主に従っていくものである。

 

3月21日(木)

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。

ガラテヤ 3:13〜14

 

キリストは十字架にかけられたとき、単に命を捨てただけではなかった。わたしたちのためにのろいとなってくださったのである。本当ならばわたしが自分の罪のために受けねばならなかったのろいを、キリストは身代わりに受けてくださった。その結果、最愛の父なる神からさえ切り離されて地獄の滅びを経験されたのだ。主は文字通り父から見捨てられた。それによって、ただそのことのみによって、わたしたちは救われ、いやされ、解放され、御霊を受けたのである。わたしたちは主があたえたもうすべてを信仰によってうけるのである。あなたはこのことを信じるか、と十字架の主はあなたに問われるのだ。

 

3月22日(金)

あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。

ガラテヤ 3:26

 

わたしたちは神を信じるということ、信仰の重要性を今週さらに深く教えられてきた。

わたしたちの罪をあがなうために神の呪いを受けてくださったキリストを信じることの重要性を、である。今日のみ言葉はさらにこのように言うのである。わたしたちはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである、と。わたしたちはいつの日か神の子になれるかもしれない、ではない。がんばって律法を守り、きよく正しく生きるならば、神の子になれるであろう、でもない!わたしたちは信仰によってすでに神の子なのである!わたしたちを神の子とするために、神はどれほど大きな犠牲を払ってくださったことだろう。それを忘れてはいけない。惑わされてはいけない(ガラテヤ3:1)わたしたちは、すでに、神の子なのである。その実感はないかもしれない。しかし、あなたがどう感じるかは重要ではない。大事なのは神の言葉がなんと語っているか、である。聖書は、あなたがすでに神の子であると告げている。それが真理であり、真実なのだ。それを力強く信じて主に従っていこう。

 

3月23日(土)

キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。

ガラテヤ 3:27

 

キリストを信じて受け入れるものはキリストを着るのである、と聖書は告げる。キリストを着るとはどういうことであろうか。キリストに似たものとなる、もちろんそういう意味もあるだろう。しかしわたしは昔よく見た夢を思いだす。夢の中でわたしは人通りの非常に多い雑踏の中を歩いている。すると人がわたしをみていることに気がつく。そこでわたしは自分が素っ裸で街を歩いていたことに気がついて愕然とする。この失態、取り返しのつかない大失敗のゆえに恥ずかしさのあまり死んでしまいたいと思う。そこで夢は終わる。夢としては最低の夢であるが、いまはわたしは今日のこの聖書のことばを読むたびにこの夢を思いだす。この夢に続きがあることを。人混みの中で裸でいる恥ずかしさに身悶えするわたし。そのとき、突然だれかが大きな外套をわたしの身体にかけてくれるのだ。その瞬間もはやわたしは裸ではない。裸の恥は一瞬にして消え去った。キリストを着るというのはこういうことではないだろうか。聖書は罪というものを裸の恥に喩えている。(創世記3章参照)キリストを受け入れた瞬間にキリストは彼の義の衣によってわれわれの罪を覆い隠してくださる。もはやわたしは裸ではない。「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」(創世記3:21)これがキリストを着るということである。いちじくの葉では罪は覆い隠せない。キリストの血潮による皮の着物、義の衣だけがわれわれの罪を覆い隠してくれるのだ。

 

3月24日(日)

もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

ガラテヤ:28〜29

 

世の中に、差別ほど根が深く解決困難な問題もないであろう。差別のない社会などあり得ない、それは解決不可能な問題である、と言っても過言ではない。国籍によって、人種によって、階層によって、性別によって人は他者を差別する。これは多分罪の根本に関わることであるが故に、絶望的なまでに心の奥深くまで食い込んでしまっているのだろう。

しかし、聖書はこう告げる、「あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」と。われわれは皆、同じ神によって造られたものであり、また同じキリストの血潮と命によって買い戻されたものなのだ。だから、キリストにあって初めてこの解決不可能に見えた問題に一条の光が射す。同じ神を父と仰ぐ。同じキリストを救い主と仰ぐ。この点においてわれわれは初めて一つになり得る可能性が生まれる。いや、われわれはすでに一つとなったのだ。われわれはすでに神の子なのである。同じ嗣業を受け継ぐ相続人なのであるから。神の御目にはわれわれはまったく等しく大切であり価値あるものなのである。

 

**3月25日~31日(佐久間典臣)

 

3月25日(月)

大水も愛を消すことはできない/洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと/財宝などを差し出す人があれば/その人は必ずさげすまれる。

雅歌8:7

 

人の価値は、愛を基に生きているかどうかです。それは、相手に対する優しい思いやりです。愛の面白さは、理屈では説明できないところにあります。愛が大切であるとは、おぼろげに誰もが理解しています。 しかし、正しく理解している人は少ないのです。人が愛を正しく理解するにはイエス・キリストとの関係を通してしか方法がありません。他人に対して親切だったり、愛情の深い人もいますが、少しのことで愛を怒りに変えてしまうのは人の常です。それは、決してよいものではありません。だから、そのような愛は人のためにも自分のためにもなっていないのです。今日の聖句はイエスがあなたを愛していることを教えています。しかし、本当に神が自分を愛していてくれたのか疑問に感じている人もいるでしょう。疑問の元は、罪の連鎖による呪いです。人の罪が自分を苦しめ、その罪が自分の罪になってしまう罪の連鎖です。これを断ち切るために、イエスは十字架で呪われた者となり苦しみながら死んでくださったのです。これが、あなたに献さげられたキリストの愛なんです。だから、その愛を疑わないでください。そして、自分を苦しめた者をゆるしましょう。

 

3月26日(火)

夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。・・・・マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。

ルツ記1:3、5

 

ここに一人の女がいます。名前はナオミといい、紀元前千年頃に生きた人です。飢饉のために故郷を捨てて外国に移り住み、随分苦労して生きたのですが、頼みの夫に先立たれ、女手一つで立派に育て上げた二人の息子にも先立たれたのです。人生とは一体何なのだろうと思って嘆いたとしても仕方がないですね。彼女の人生の肝心な時に神は一体何をしていたのでしょう。ナオミが神が私の人生からみな取り上げて空っぽにしたのだ、と嘆くのを痛ましく思います。では、あなたの人生で、どうして神はあの時に助けてくださらなかったのだろう、と問うことはありませんか。もしそう思うのなら、ルツ記を最後まで読んでみてください。答えはそこにあります。ナオミの人生にも、あなたの人生にも偉大な神の愛がどのように現れるか知ることができます。この物語の中にもイエス・キリストが隠されているのです。あなたのことを神は決して見捨てているのではありません。思いもかけぬ神の愛と慈しみをあなたは受けるのです。

 

 

3月27日(水)

二人はまた声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。

ルツ記1:14

 

人生に岐路はつきものです。自分が選択して決めるのです。ここに夫に先立たれた二人の嫁と同じく夫と二人の息子に先立たれた姑がいます。その嫁たちに姑が実家に帰って再婚の道を捜しなさいと諭したのです。姑自身は懐かしい故郷に帰ろうとしているのです。ところが、二人の嫁の決心は二つに分かれました。冷静に考えれば実家に帰って人生をやり直す方が理にかなっています。しかし、嫁のルツは義母にすがりついて別れようとしないのです。このあとの結末を知っているので、どちらの選択がよかったか読者はわかります。不思議なことに、新約聖書の1ページ目にイエス・キリストの系図があるのですが、そこにこのルツの名がしっかりと書かれているのです。もう一人の嫁の名はありません。この二人の嫁はそれぞれ別の選択をしました。選択する基準が違っていたのでしょうか。「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる」(箴言21:2)。人生の岐路に立った時に、誤ることなく正しい道を選びたいですね。

 

 3月28日(木)

ルツは言った。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」

ルツ記2:13

 

生きてきて本当に困ったことはありましたか。その時に、誰か親切にしてくれた人はいましたか。ルツはその日暮しで、落穂を拾ってなんとか生きていました。外国人の貧しい女。よそ者でしかない存在。誰が親切にするでしょうか。しかし、その日、ルツはボアズという人からありえないほどの親切を受けました。与えられる必然性のない厚意を得たのです。だから、率直に聞きました、「・・・なぜですか」と。その答えは、驚きでした。ルツが何をしていたか知っていたからです。そして、主があなたの行いに報いてくださるように、と語り、主がそのみ翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように、と言いました。このボアズはイエスを象徴しています。イエスがあなたのことを見ていてくださる。そして、神に執り成してくださる。「報いるように」と。イエス・キリストを信じることは、「主のみ翼のもとに逃れる」という言葉の通りの保護と安心を得ることです。きっと今日、イエスはあなたに、心に触れる言葉をかけてくださるでしょう。今は辛くても、あなたが一生懸命に生きてきたことを主はご存知で、理解してくれます。だから、報われる日がくるのです。驚くほどに。

 

3月29日(金)

人は女から生まれ、人生は短く/苦しみは絶えない。
花のように咲き出ては、しおれ/影のように移ろい、永らえることはない。
あなたが御目を開いて見ておられるのは/このような者なのです。このようなわたしをあなたに対して/裁きの座に引き出されるのですか。

ヨブ14:1-3

 

人とは何だろう。皆が母から生まれ、その人生は短い。しかもその人生は苦しみの連続だ。人の人生は、まるで花のようだ。一時咲き誇るがたちまちしおれてしまう。影のように移ろいやすく、いかにも頼りない。実際そこに本当に在ったのかさえおぼつかない。決して永らえることはない。

これは、人が苦難に陥る時に心にうかぶことです。苦難を受け入れることができずに、「なぜだろう。なぜ自分ばかりが理不尽に苦しむのだろう」と思いが言葉になります。

これは、神の罰なのか。確かに自分の罪を認めよう。罪を犯したのは自分だから。過去の過ちを告白しよう。しかし、人間は弱く、罪深く、悲しみがつきまとうということを訴えたい。そもそも子供の時から不当な扱いを受けてきたのなら仕方のないことだ。それなのに、裁きの座に引き出すのですか。

人はこのようにしか考えないので、イエスが救い主として私たちのもとへ来たのです。神が人をどれだけ深く愛しているのか、しかし、正義を守るために罪を放置できないので、罪を犯す人を裁かなければならない。この矛盾を神が解決した方法は、罪の無いイエスが身代わりに十字架で裁かれることでした。罪の重さの分、残酷にイエスを苦しめました。血を流しているイエスは一言もあなたを責めていません。そうではなくて、ただあなたを愛しぬいたのです。それは今も変わっていません。この愛を見てください。この愛をちゃんと受け取ってください。あなたが癒されるまで。

 

3月30日(土)

ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。

マタイ27:59ー61

 

イエス様は十字架で亡くなり、その遺体はアリマタヤのヨセフが引き取りました。そして、自分の新しい墓に遺体を納めたのです。墓は岩に穴を掘ったものです。その入口を大きな石で塞ぎました。この文章の最後に、「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」と記されています。その情景を想像すると、なんともいえない淋しさと悲しみが胸にこみ上げてきます。愛するイエス様がむごたらしく殺されて、もう触れることも優しい声を聴くこともできない。愛する者を失うことの切なさと、亡くなってもなお離れることのできない思いが伝わります。ここに、男弟子は誰もいませんでした。女弟子のこの二人が残ったのです。愛する人が亡くなり、納骨し、すべてが終わったのに、立ち上がれない。その場を去ることができない。墓にしがみついて泣きたい。そんな心象風景が見えてきます。イエス様を信じることと愛することの違いは何でしょう。このマグダラのマリアたちの姿に主を愛する者の凄まじさがないでしょうか。だって、罪人としてイエス様が殺され、その弟子であれば命の危険があったのに、自分の命のことなど忘れて、イエス様にすがっていたい。大切な先生が血だらけになった酷い仕打ちをされたのを見ていたのです。女たちは主の血だらけの体をきれいにぬぐい、葬りの準備を忙しくしたのですが、傷の一つ一つが彼女たちの心に刃物を突きたてるような痛みを与えました。今墓の前で女たちが座っています。主が死んだことを認めたくない。いやだ、もう会えないなんて。「イエス様おいて行かないで」。このように心の声が聞こえてきそうです。イースターのこの時期に十字架の主を黙想してみましょう。

 

 

3月31日(日)

マリアは墓の外に立って泣いていた。・・・イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

ヨハネ20:11、15

 

マリアが墓の外で泣いていたのは、墓が空でイエスの亡骸が無くなっていたからです。墓が空だということは、男弟子たちも確かめたのですが、結局家に帰って行きました。そして、マリアだけが墓に残って泣いていたのです。マリアは、復活したイエスが分からずに園丁だと思って語ります。しかし、マリアの言葉に驚かされます。「あの方を引き取ります」と、言ったからです。この一連の出来事から、誰がイエスを一番愛していたかがわかりますね。だからでしょうかイエスは復活後、真っ先にマリアに会ったのです。「まだ父のもとへ上っていないから、すがりついてはいけない」とイエスがおっしゃったことからも、それがどんなに特別なことであったかがわかります。ここで思うのです。これほどまでにイエスは人の情が通じるお方だと。ならば、私たちの主への思いも通じているはずです。あなたは、マリアにも勝る主イエス・キリストへの愛をもっているでしょうか。マリアのように、主を慕い、主のお言葉を求め、どこにいても主を追い求め、たとい死の危険が伴おうとも主のおそばから離れないでいることができますか。その報いは十分にあるはずですよ。主は復活しあなたに会いに来られるはずです。ハレルヤ。