**4月1日~7日(中村 透)

 

4月1日(月)

主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、み心をとめてください。わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください。わたしはあなたに祈っています。

詩篇 5:1〜2

 

ダビデのこの必死な嘆願に心うたれる。ダビデはいくつかの過ちはあったが終生主を心から愛し、主に忠実に生きた信仰の人だった。また、彼の人生は、前王から妬まれ命をつけ狙われたり、後にはわが子からも反逆され戦いを挑まれるというような波瀾万丈のものであった。そんなときダビデはいつもこのように主に叫びもとめた。彼は主のほかに頼るもののないことを身に沁みて知っていたからだ。主がみ心をとめてくださることを、聞いてくださることを必死で叫び求めている。このひたむきさを主はお見逃しにならない。主の前にただ立ち尽くし、ひたすら叫びもとめるダビデの姿勢はこの一言に集約されている。「わたしはあなたに祈っています」。われわれはこのようにひたむきに主に頼り切り、ひたすら叫びもとめることをしているだろうか。

 

4月2日(火)

主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。わたしは朝ごとにあなたのためにいけにえを備えて待ち望みます。

詩篇 5:3

 

主はいまも、今日も生きておられる。であるから、主の恵みは日々、また朝ごとに新たにされる。朝を迎えるたびに我々は自分に言い聞かせる。「今日というこの日は、歴史上一度もなかったまったく新しい日なのだ。今日の神の恵みはいままで一度もなかったまったく新しい恵みなのだ」と。だからわれわれは朝ごとに主に向かって叫ぶ。すると主は朝ごとにわれらの声を聞かれる。われわれは朝ごとに献身の思いを新たにする。そういういけにえを主は必ずお受け入れくださる。一日一日を新たな思いで主と共に始めよう。主は朝ごとに私の声を聞かれる方だからだ。

 

4月3日(水)

あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない。悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない。高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない。あなたはすべて悪を行う者を憎まれる。

詩篇 5:4〜5

 

ここではヘブライ的な文学形式として、同じことを言葉を変えてくり返す手法がとられているように思われる。すなわち、悪しきこととはつまるところ高ぶりである、ということであろう。人は高ぶるときに道を誤る。高ぶるときに主の恵みに生きることを忘れる。何より恐ろしいことは、高ぶるときに、自分が主を必要としていることを忘れてしまうことである。すると主のもとに身を寄せることもしなくなる。神の恵みによって生かされていることを忘れ、自分の力で生きていると思いこむ。人が神を必要としなくなるとき、最も大きな不幸が待ち受ける。主は、そうならないようにとあなたを招いておられる。


 

4月4日(木)

しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみによって、あなたの家に入り、聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます。

詩篇 5:7

 

高ぶることの愚かさを知った者は神のいつくしみによって生きることを知る。我々の神はいつくしみ深いかたである。われわれが神のみもとに行くことができるのは、ただいつくしみによる。主は罪人である我々を招かれる。ご自分のみもとに、その家に、その聖なる臨在へと招かれる。人は主のうちに生き、主は人のうちに宿られる。そのときわれわれは主をかしこみ伏し拝む。自分の無力さを知り、ただ恵みによって生かされていることを知り、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きているのである」(ガラテヤ2:20)と告白するのである。

 

 

4月5日(金)

主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。

詩篇 5:8


われわれにはあだ(敵)がいる。それは究極的には悪魔とその軍勢である。彼らはさまざまな攻撃をしかけてくる。しかし主はわれらを主の義をもって導いてくださる。十字架においてすべてを捨ててわれらの罪をあがない、苦しみと恥のうちに死んでくださることによって主はその義を達成してくださった。そのすべてにまさる尊い義をもって主に導いていただくことがわれらの願いである。そのときわが顔の前に主の道がまっすぐに示される。もはや見まごうこともない。進むべき道が真っすぐにしめされるのだ。我々の敵である悪魔やその軍勢を恐れることもない。主の勝利はわれわれのものなのだ。

 

4月6日(土)

しかし、すべてあなたに寄り頼む者を喜ばせ、とこしえに喜び呼ばわらせてください。また、み名を愛する者があなたによって喜びを得るように、彼らをお守りください。

詩篇 5:11

 

主に寄り頼むのか、寄り頼まないのか、今日主はそれをあなたに問われる。主に寄り頼む者は喜びがあり、とこしえに喜び呼ばわるのだ。それは抑えようとしても抑えきれない力として湧き上ってくる。本来、教会とはそのような主の喜びと力に満ちあふれている世界、すなわち神の国であったのだ。それを取り戻せ、と主は言われる。主に心から寄り頼むことによって、それを取り戻すことを主は待っておられる。そのような群れは主のみ名を愛する。主のみ名は愛と力と栄光にみちている。ほかの誰ももち得ない聖なるみ名である。「わたしは有る。わたしはそこにいる。わたしはいつもあなたと共にいる」という聖なるみ名である。これこそがわれらの喜びである。喜びをもって主の聖なるみ名をほめたたえよう!

 

  4月7日(日)

主よ、あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます。

詩篇 5:12

 

主 のみ名を愛し、主に心から寄り頼む者を主は正しい者とお呼びになる。かれらは主の祝福に満ちあふれるが、敵である悪魔とその軍勢は彼らを激しく憎み攻撃し てくる。しかしおそれることはない。主は恵みという盾をもってかれらをおおい守られる。恵みとは、価しないものに与えるものである。われわれは自分が立派 だから、がんばっているから、能力があるから、価するから主の恵みを受けるのだ、などと間違っても思ってはならない。英語のNKJV訳の聖書ではこの言葉はFavorと訳されている。主のあなたへの好意なのだ。それは主が好意によって一方的にお与えになるものなのだ。あなたは主の好意を受けているのだ。主は愛をもってあなたをおおい守られるのだ。主に感謝し、主のみ名をほめたたえよ!

 

 

**4月8日~14日(佐久間典臣)

 

4月8日(月)

貴いシオンの子ら、金にも比べられた人々が/なにゆえ、土の器とみなされ/陶工の手になるものとみなされるのか。

哀歌4:2

 

クリスチャンの不思議があります。クリスチャンは本人も自覚がないほど貴い存在とされています。信仰の喜びに生きるときには、まばゆい輝きがあります。主に誠実に仕える喜びもあります。主がくださった霊的な賜物を用いて、主の御用を務める幸いはたとえようもありません。しかし、いっぺん何かにつまずくならば、金が土の器に(つまり最高のものがつまらない価値の低いものに)変わってしまうのです。世の中で絶対あってはならないことは、高貴な者が身をやつして貧者になることです。さあ、あなたは自分自身のことを見つめ直してはいかがですか。あなたは何者ですか。あなたは神によって貴い者となったのではないですか。それなら、そのように生きるべきです。

 

4月9日(火)

我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」

ホセア6:3

 

聖霊に満たされて生きたい。そのためにはどうすればいいのでしょう。毎日の生活があり、仕事があります。忙しいし、雑用に追われてあっという間に一日を終わらせているのなら、どこかで、これではいけないと立ち止まりたくなります。そして、最初の願いに戻ります。聖霊に満たされたい、と。クリスチャンが目標や目的を持ってもそれがすぐに達成できるわけではありません。だから、聖霊に満たされることも正しいことだし、最も必要なことなのに、思うようにいかないと嘆く人は多いのです。では、方法はないのでしょうか。あります。それは、今日の御言葉の中にあります。主を知ることを求めましょう。そのことに全力をかたむけましょう。早起きをして朝日が昇るのを見てみましょう。春の雨が降り、大地が潤されると枯れ木に芽が出て緑の葉が出てきます。これらは、毎日、そして毎年必ず実現します。それと同じぐらいに確かに主は来られるのです。聖霊に満たされることは、難しくありません。季節を見て確信を持って待つことのできる農夫と同じような忍耐力があれば大丈夫です。


4月10日(水)

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

マタイ7:3

 

どうしてか、他人のことは些細な間違いでもすぐに気づいて裁いてしまう傾向が人にはあります。しかし、他人を裁いている自分のことは、全く振り返ることをしません。イエス様のお話は、ユーモアを感じるほど滑稽です。おが屑と丸太では比べようもありませんね。もし自分に罪があるのなら、他人を裁くべきではありません。しかし、「気づいていない」とイエス様はお語りになっています。だから、自分には気づいてしかるべき丸太のような罪があるのに気づいていないのかもしれないと、反省してみましょう。他人のことをとやかく言っている場合ではないのです。「あなたこそ目に丸太があるじゃないですか」と言われて、恥をかかないように気をつけましょう。

 

4月11日(木)

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。

Ⅱコリント4:8-10

 

私たちが気がつかなかったことは、「いつもイエスの死を体にまとっている」という事実です。その意味は、自分の体にイエスの命が現れるためです。 だから、苦しめられても、虐げられても、打倒されても、それで終わらないのです。実際に、あなたもひどい目にあうかもしれません。ふつうだったらそれでおしまいですが、クリスチャンであるあなたには、不思議なことが起こります。まるで、十字架上で死なれたイエスが三日目に墓からよみがえったように、あなたもひどい目にあうだけでおわるということはありません。最後が良いのです。あなたがイエスの死をまとっているので、イエスの命が現れてきます。この真理をよく考えてみましょう。

 

 4月12日(金)

お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」

ゼファニア3:17

 

これは、エルサレムに向かって主が語られた御言葉です。新約聖書によると主の神殿はクリスチャンに代わっています。つまり、主は聖霊としてあなたの只中におられるます。主は勇士なのです。それはあなたが勝利を得る者であることの保証です。主は、あなたを喜び楽しみます。あなたを無条件に愛してくださるので、あなたも新しく変わることができます。主自らがあなたの故に喜びの歌を歌い楽しまれるのです。さあ、あなたの只中に聖霊が満ち溢れるように求め祈りましょう。このようにして、あなたは主を知るのです。

 

4月13日(土)

どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

エフェソ3:16、17

 

クリスチャンは本来霊的存在です。パウロが執り成して祈っている内容を見るとそのことがよくわかります。あなたには内なる人が存在します。その内なる人を主が強めることができます。そして、大切なことは信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせるということです。その結果として、キリストのように愛に根ざし、愛にしっかり立つ者とならせてくださるのです。もし、このことをクリスチャンが求めて信仰によって実現しなければ、その人生はこの世の人とたいして変わらないものとなるでしょう。理屈で立派な人になろうとしないで、御言葉を信じて、このパウロと同じように祈ればよいのです。やがて、周りの人から愛の感謝が溢れてくるでしょう。

 

4月14日(日)

娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。

ゼファニア3:14

 

イエス様のことを救い主と呼びます。ありえない救いを恵として無償でくださるからです。罪の負債は当然、自分では払うことができません。重すぎるのです。当然、罪には苦しみが伴うものですから苦痛と不安から希望の灯も消えて行きます。ですから、本気でイエス様を信じて救っていただかなければ誰にも希望はありません。いつ救いが来るのか?それはイエス様が救ってくださると心からわかって信じた時です。救いの時は今やあなたの上に来ています。信じますか。喜びが沸き起こってきませんか。歓声をあげてもよいのです。裁きも敵ももうありません。何より、イスラエルの王があなたのただ中に凱旋していのです。もう、災いを恐れることはないのです。

 

**4月15日~21日(中村透)

 

4月15日(月)

心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

マタイ5:3

 

言わずと知れた山上の垂訓中、八つの祝福の第一番目である。しかし、われわれは本当にこの御言葉の意味を理解しているのだろうか。たとえば、天国とは何か。「彼らのものである」とあるが、人は天国を少有することができるのか。どう考えてもイエスはここでへブル語で話されたはずだが、へブル語では「国」は領土をあらわすよりも、むしろ神の力、統治、支配がおよぶところ。イエスに惹きつけられて集まってきた者たちの集団という意味合いである。彼らはその集団、運動の所有者ではなく、その構成者である。つまり、イエスの魅力に打ちのめされ、イエスに従って行く者たちの集団を構成するのは、自分に頼ることをやめ、心、魂、霊が打ち砕かれた者、ただもう神に叫び求めるしかないことを身に沁みて知った者たちであり、だからこそ幸いなのだ、というイエスの招きなのである。スクエアー・ジャパン・チャーチはそのような「神の国」であり続けたいのだ。

 

4月16日(火)

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

マタイ 5:4

 

ここでいう「悲しむ」はただただ悲嘆にくれる、というのではなく、前日の「こころの貧しい」ものと同様、自分自身の義などあり得ないことを知っているということである。かつては自分に頼り、自分の力を信じて生きてきたが、もうすっかり己の力は尽き果てた、自分自身のなかになんの希望も見出せず、神を唯一の希望として叫び求める者、そういう人々のことである。彼らはさいわいなのである。なぜなら慰められるからである。この慰めは、悲しみというマイナスをすこしでも埋めてくれるもの、などというケチくさいものではない。それは悲しみがなければ受けることのできなかった驚くべき恵み、すばらしい祝福であり、それゆえにこのような信じがたいほどの恵みを受けられるならまさに悲しんでいる人たちはさいわいだ、と心から言えるようなものなのだ。われらの神の他にはほんとうに頼れるものなどありはしないのだから。

 

4月17日(水) 

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 

マタイ 5:5 

あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 

マタイ 5:7 

 

これらは一見わかりやすそうなことばである。柔和な人たちはさいわい?そりゃあそうだろう。あわれみ深い人たち?そりゃあさいわいだろう、と。では、人はどうすれば柔和になれるのか?どうすればあわれみ深くなれるのか?これも過去二日間のみ言葉と同様のことが語られているように思われる。人は自分に頼り、自分の義を頼みとするとき、決して柔和にもあわれみ深くもなれない。かえって他者を裁き、自分を誇るようになる。そういう自我、あるいはプライドが粉々に砕かれて「こころの貧しい人」、「悲しんでいる人」だけが真の意味において柔和であり、あわれみ深くなりうるのだと信じる。自我や自分へのプライドを投げ捨てて、ひたすら主に寄り頼むもの、柔和であわれみ深いものこそがさいわいなのである。

 

4月18日(木)

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

マタイ 5:6

 

月曜日のところでも指摘したことだが、イエスはこの八つの祝福を含めて、ヘブル語で話されたと思われる。おもしろいことに、ヘブル語では「義」という単語は、「救い」ということばにかわる同義語である。であるとすれば、ここでイエスが言っておられるのは、「救いに飢えかわいている人たち、人々の救いを第一に考える人たち、そういう人々によって神の国、すなわちイエスの力と支配に服し、イエスに惹き付けられた人々の群れは成り立っているのだ」ということである。当然である。イエスはこう言われたのだ、「人の子が来たのは失われたものをたずねだして救うためである」。このイエスの大目的に向かって共に進んでいくのが弟子の群れであり、神の国であり、スクエア・ジャパン・チャーチなのだ。そして、彼らは救いに飽き足りるようになる、すなわち驚くべきリバイバルが起り、信じがたいほどの人々がイエスのもとにやって来て救われていくのをわれわれは目撃するのである。

 

4月19日(金)

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

マタイ 5:10

 

この聖句は一見すると、迫害を受けることにはなにか救いをもたらす力でもあるかのようである。実際、このみ言葉をそのように理解した人々は、迫害を受けることによって天国へ行けると信じ、特に紀元100年以降の教会においては多くの殉教者が生まれる要因の一つとなったようである。もしそうならば、われわれは救われるために迫害を追い求めていく必要さえ生じるのではないだろうか。しかし、ここで「迫害する」と訳されていることばの元になるヘブル語のことば「ラダーク」は、追求するという意味をも持つことばである。そしてここではそのように訳されるべきことばなのだ。つまり、ここでイエスが言っておられるのは、「義」を(これは『救い』をあらわす。18日の記事を参照)必死で追い求めるものは幸いということなのだ。明日もこの点について考えてみよう。

 

4月20日(土)

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

マタイ 5:10

 

正訳:「キリストによる救いをこころから願い、追い求める人々はさいわいである。キリストに従って生きるものたちのグループは、こういう人々から成っているのである」これがキリストの言われたことなのだ。18日(木)のところで読んだ「義に飢えかわいている人たち」というのも同じことである。キリストはこう言われたではないか。「まず神の国と神の義(救い)とを求めなさい」(マタイ6:33)と。神の救いをなによりも優先して求めなさい、というのがキリストのお心である。キリストは何にも増してこのことを最優先された。「人の子が来たのは、失われたものを尋ねだして救うためである」(ルカ19:10)教会の中で仲良しの人々と快適に暮らしているだけではいけない。そこから一歩外に出れば、救われた人々などほとんどいない。そういう失われた人々の救いのためにわれわれはつかわされているのではなかったか。スクエア・ジャパン・チャーチはそのために立てられたということを忘れてはいけない。

 

4月21日(日)

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

マタイ 5:9

 

この世は戦い、争い、憎しみに満ちている。平和がどこにあろう。もしも、平和を作り出す人がいるならそれは本当にさいわいなことであろう。しかし、これまで学んできた通り、自分でできる義に失望し、自分のうちにはなんの義もないことに打ち拉がれ、自分に頼ることを悲しみのうちにやめ、ただひたすら主に頼りきるもの、自分が救われたのだから他の人々をもお救いくださいと主に叫ぶもの、そういう人こそが幸いなのだ。そういう人によってイエスの共同体は成り立っているのだ。われわれは、主の僕として、真に心砕かれ、ただ主にのみ頼り、失われたものに対する主の愛を受けて、こころから他者の救いのために自分を捧げてしまおうではないか。そこにこそ平和が生まれるのだ!Peace Maker, わが主よ!この世に真の平和を、主の救いをもたらしてください!

 

 **4月22日~28日(佐久間典臣)

 

4月22日(月)

良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。

ルカ8:15

 

種まきのたとえと言われる箇所から今日は考えます。「種は神の言葉」(11節)です。神の言葉を種のようにまくとどうなるか、というお話です。種が落ちた土地には種類があるります。全文を読まれるとわかりますが、最後に今日の箇所になります。良い土地は「立派な善い心」と書いてあります。さて、この立派な善い心を私がもっているだろうか、という疑問がわきてきます。というのも、他のたとえでは、御言葉を聞くけれども悪魔に奪われたり、根がないので試練に遭うと身を引いたり、人生の思い煩いや快楽のために実が熟さない、といった話がでてきます。自分の信仰生活を振り返ると、これらのダメな例が人ごとに思えなくなるかもしれません。ではイエス様推奨の良い土地は、何が違うのでしょう。まず、心が違います。その心で聞くと、聞いたことをよく守り、実を結ぶまで忍耐するようになるのです。つまり、クリスチャンの成功する方法は、ここに書いてあるのです。不思議なのは、こんな簡単な成功法則を守っていない人が結構いるということです。そうなると、やっぱり、立派な良い心ってなんだろう?って思えてきますね。


4月23日(火)

わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

Ⅰヨハネ1:3

 

聖書を読む人はなんのために読むのでしょうか。何か真理がそこにあると思っているからでしょうか。聖書にはイエス・キリストの証が書かれています。だから、聖書を読む人は、人生訓のような役立つものを期待して読むならば、肝心の聖書の意図する啓示の内容を知ることができません。それでは、いつの間にか本棚でホコリをかぶるだけです。さて、今日の御言葉はよく考えるべきです。この聖書記者は読者に私たちの交わりに入るために書いたと言っているからです。その交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。であるなら、いるかいないかもわからにような神を信じるというのではなく、交わることができる神との出会いがこの聖書の意図することになります。そのように聖書を読み直してみましょう。そして、あなたも交わりを持つことができますように。


4月24日(水)

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

ローマ14:7-8

 

あなたは、誰のために生きているのでしょう。日本人の多くは「自分のためです」と答えるでしょう。昔の武士が生きていいれば、「主君のため」という答えが帰ってくるでしょう。クリスチャンは同じような響きで「神のため、キリストのため」と答えるでしょうか。聖書でも神を主と言います。似ていますね。だから、主人のためならばどんな命令にも従うことが忠義であり、たとえ命を捨てろと言われてもすぐに主命に従って死ねる準備をしていたのが武士です。どうりで、明治に鎖国が解けてキリスト教が 入って来た時に、文士の次にキリスト者となっていったのは武士だったわけです。今日の日本を救うためにクリスチャンが今日の御言葉の意味を自分のものにすることができれば、その使命を果たすことができるでしょう。なにしろ、すでに私たちは主のものなのですから。


4月25日(木)

わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。
わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。

イザヤ43:10、11

 

神の証人はあなたです。それは、神があなたを選ばれたからです。当然ですが、あなたは神を知り、信じ、理解します。神はあなたの主です。主とは、世界の創造者であり、支配者であるということです。そして、全能の神として、あるいは力の神として生きて働かれるのです。そうであるから、世界を創造し、支配することができるというわけです。その神が、あなたに語ります。「わたし、わたしが主である」と。驚くほど熱心に、情熱を込めてあなたの主であることを宣言します。「わたしのほかに救い主はいない」と、神の言葉は続きます。あなたにはどのように聞こえているのでしょうか。この世界であなたを救える方はこのお方しかいないのです。しかも、この神があなたを救うために力を込めて、あなたにご自身の真心を示しているではありませんか。プロポーズを受けている女性のように、今度は誠実にあなたがこの神に答える番です。「あなたこそ、わたしの神、わたしの主、あなただけが私の救い主です」と。

 

4月26日(金)

あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。

ガラテヤ4:6

 

日本人がクリスチャンになると、まず「神様」と呼び、そのうちに「主よ」と呼ぶようになり、そして「天のお父様」と呼ぶようになります。Yさんは、いつも「アッバ」と親しげに呼びます。Nさんは「天のお父さん」と呼びます。神様はそれを叱るわけでもなく、たぶん喜んでおられるのではないかと思います。もし、イエス様がこの地上に来られなかったなら、だれひとり「アッバ、父よ」とは言っていないでしょう。そして、極めつけは御子の霊を私たちの心に送ってくださったことで、イエス様のように「お父さん」と愛を込めて呼びかけることができるのです。ただ、イエス様が 「天地の主である父よ」と言われたことも忘れてはいけません。主であることと父であることの両面があることを覚えていましょう。私たちの主は愛情深き天の父であることに感謝しましょう。

 

4月27日(土)

神様。あなたは若いころから教えてくださいました。私は、今でもあなたの奇しい御業を宣べ伝えます。神様。私が年を取り、白髪になっても、あなたの御力を後世の人々に宣べ伝えるまで、私を見捨てないでください。

詩篇71:17、18(現代訳)

 

私は18歳の時にはじめて福音を聞きました。そして、19歳でバプテスマを受け、その年に沖縄に伝道旅行に行きました。20歳から教会で奉仕し、やがて関東連合青年会の会長になりましたが牧師への召命はありませんでした。そして、30歳を過ぎて父が亡くなった後に、神様から召命を受けました。東京の神学大学に入学し牧師の準備が始まりました。そして、奨学金など好条件で別の神学校へ移り、そのまま牧師になりました。札幌から始まった牧師の働きは、試練と祝福の混じりあったものとなりましたが、そのおかげで信仰が強められました。牧師1年目に聖霊のバプテスマを受けて、霊の目が開かれました。多くの奇跡が始まったのです。しかし同時に悪魔の攻撃も激しくなりました。そうした霊の戦いを何年も繰り返してきたのです。そのおかげで、言葉に尽くせない神様の偉大な愛の御業を見てきました。気がつけば、白髪になり髪も薄くなって年を取ったことに気がつきました。それでも、私の知っている神様を伝えないではいらないないのです。きっと、死ぬまで宣べ伝えることが、そして讃美することが、私へのお恵みであると思います。

神様。私を見捨てないでください。

 

 

4月28日(日)

すると、主は言われた。「信仰において大事なことは、強いか弱いか、大きいか小さいかということではなく、生きた本当の信仰かどうかということです。本当の信仰さえあれば、不可能なことは何もありません。・・・神様が私たちのすべてを支配していらっしゃることを信じるところに、生きた本当の信仰があるのです。」

ルカ17:6、10d (現代訳)

 

イエス様は、ここで譬え話をなさいます。僕は主人の命令に従うが、そのことを褒められることはない。それが当たり前のことだから、といったような内容です。そして、最後の言葉が続くのです。「神様が私たちのすべてを支配していらっしゃることを信じるところに、生きた本当の信仰があるのです」。ということは、神様のご命令に従順に従うことを生きた本当の信仰と言っていることになります。あなたが聖書を読んで、神様のご命令がわかれば、それを実行します。それが望まれている信仰ということになるのではないですか。だから、強い弱いとか大きい小さいというような言い方は違っているということです。イエス様が模範です。

 

 **4月29日~5月5日(中村とおる)

 

4月29日(月)

聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌 

わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。

詩篇 4:1

 

ダビデの王としての人生は波瀾万丈のそれであった。幾度も命をつけ狙われ、死の谷をさまよったこともしばしばであった。そんなダビデのよりどころはいつも神であった。彼は琴の伴奏によって讃美を歌い、神にこう呼びかけた、「わたしの義を助け守られる神よ」と。彼が悩みのただ中にいるとき、神はいつも彼をくつろがせてくださった。悩みのさなかにくつろげるとはなんという驚くべき祝福であろうか。初めから悩みがないことはすばらしいことだろう。しかし、悩みのまっただ中にあってくつろげることは、あるいはもっとものすごい祝福であると言えるかもしれない。ダビデはそのような経験を何度もしてくる中で、神がどのようなお方であるかを味わい知ったのである。われわれが呼ばわるとき、神は必ずお答えくださる。常に神はわれらをあわれみ、その祈りをきいてくださる方である。

あなたの人生もときには悩みに満ちたものであるかもしれない。いや、悩みのない人生など考えられない、と言った方が実情にあっているだろう。いま、悩みのただ中におられる人は、このみ言葉を味わい知ってほしい。われわれの神はあなたの悩みのただ中にあってあなたをくつろがせてくださるのだ。神しか与えることのできないくつろぎを日々経験していこうではないか。

 

 

4月30日(火) 

人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。いつまでむなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めるのか。〔セラ 

詩篇 4:2 

 

ことばそのものは口から出た瞬間に消滅してしまう。一瞬輝いたかと思うと、次の瞬間には跡形もなくなっている。ひとのこころに記憶されることさえない。しかし主のみことばはそのようなものではない。それはいつまでもこころに残るばかりか、あなたを永遠のいのちに導く力がある。そこには偽りのない純粋な真実がこめられている。偽りのことば、むなしいことばに満ちあふれるこの世にあって、唯一真実なことば、われわれの道しるべともなり、足元を照らす光ともなる頼りになることばである。神のみ言葉の前に、むなしいことば、偽りのことばはひれ伏す。消え失せてしまう。いつまでも残るもの、何があろうともどんなことが起きようとも、堅く立って燦然と輝きを増していくもの、それが真理のことば、神のみことばである。日々、み言葉を味わい、そこに込められた神の真実に触れていくときあなたの人生は変わる。毎日のディボーションがあなたの人生を変えて行くのだ。みことばをあなたのうちに蓄えなさい。

 

5月1日(水) 

しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。 

詩篇 4:3 

 

驚くべきみ言葉である。主はわれわれ神を敬う人を聖別されたのだ!特別なものとして、他から分ち、離し、聖なるものとされたのだ。しかし、なぜわれわれが!?それはまったく主のご自由なみこころによってなされたことで、われわれにはその理由もわからない。しかも、主は「ご自分のために」われわれを聖別された、というのである。こんなわれわれを、主はご自分のために、ご自分専用に、特別に祝福し、きよめ分ちて備えてくださるのだ。そのことを人々は知らねばならない。ご自分を敬う人を主がどれほど祝福してくださるかを人々にしめしていく必要がある。たとえば人がスクエア・ジャパン・チャーチに初めて来たときに、「ああ、この教会は特別だ。この人々は特別に祝福されている。主のために主によって聖別されるということはこんなにもすばらしいことなんだ!」と驚嘆するような教会でありたいのだ。われわれが呼ばわるとき、その祈りが主にきかれるのを見て、人々は主のもとへ馳せ参じるであろう。つい先日も、おどろくべきいやしを与えることによって、主はわれわれが呼ばわるときにおききくださることをしめされたばかりではないか!力ある主、あわれみ深い主、われらを聖別したもう主をほめたたえよ!

 

5月2日(木) 

あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。〔セラ 

詩篇 4:4 

 

おもしろいことに、聖書は怒ることそれ自体を罪とは規定していない。「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」(エペソ 4:26)とあるとおりである。問題は怒りをそのまま心の中に抱き続けるところにある。怒ることはあろう、しかしその怒りをもち続けて夜を迎えるようではいけない、というのが聖書の教えである。怒りを抱き続けることはあなたにとって精神的に良くないだけでなく、霊的に悪い影響を及ぼすのである。それは「怒りの霊」(英語ではSpirit of Anger)や、もっと悪い「ゆるすことをさせない霊」(Spirit of Unforgiveness)という悪霊どもにあなたの心の中に居場所を与えてしまうことになりかねない。するとほかの様々な悪霊が呼び寄せられてくる。あなたの状態はどんどん悪くなっていく。一時的に怒ってしまうことは、もちろんよくないことであるとしてもある程度やむを得ないことかもしれない。しかし、その怒りを抱き続けてはいけない、それは極めて危険なことである。だから、イエスはくりかえし、「ゆるしなさい」と言われたのである。第一、仮にあなたがだれかをゆるさないで怒り続けていたとしても、相手はそんなことを知りもしない、彼にとっては痛くも痒くもない。痛いのは、苦しむのはあなただけである。損するのはあなたである。だから、夜を迎える前に床の上で心静めて祈りなさい、とこの聖句はおしえているのである。