**5月1日~5日(中村 透)

 

5月1日(水) 

しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。 

詩篇 4:3 

 

驚くべきみ言葉である。主はわれわれ神を敬う人を聖別されたのだ!特別なものとして、他から分ち、離し、聖なるものとされたのだ。しかし、なぜわれわれが!?それはまったく主のご自由なみこころによってなされたことで、われわれにはその理由もわからない。しかも、主は「ご自分のために」われわれを聖別された、というのである。こんなわれわれを、主はご自分のために、ご自分専用に、特別に祝福し、きよめ分ちて備えてくださるのだ。そのことを人々は知らねばならない。ご自分を敬う人を主がどれほど祝福してくださるかを人々にしめしていく必要がある。たとえば人がスクエア・ジャパン・チャーチに初めて来たときに、「ああ、この教会は特別だ。この人々は特別に祝福されている。主のために主によって聖別されるということはこんなにもすばらしいことなんだ!」と驚嘆するような教会でありたいのだ。われわれが呼ばわるとき、その祈りが主にきかれるのを見て、人々は主のもとへ馳せ参じるであろう。つい先日も、おどろくべきいやしを与えることによって、主はわれわれが呼ばわるときにおききくださることをしめされたばかりではないか!力ある主、あわれみ深い主、われらを聖別したもう主をほめたたえよ!

 

5月2日(木) 

あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。〔セラ 

詩篇 4:4 

 

おもしろいことに、聖書は怒ることそれ自体を罪とは規定していない。「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」(エペソ 4:26)とあるとおりである。問題は怒りをそのまま心の中に抱き続けるところにある。怒ることはあろう、しかしその怒りをもち続けて夜を迎えるようではいけない、というのが聖書の教えである。怒りを抱き続けることはあなたにとって精神的に良くないだけでなく、霊的に悪い影響を及ぼすのである。それは「怒りの霊」(英語ではSpirit of Anger)や、もっと悪い「ゆるすことをさせない霊」(Spirit of Unforgiveness)という悪霊どもにあなたの心の中に居場所を与えてしまうことになりかねない。するとほかの様々な悪霊が呼び寄せられてくる。あなたの状態はどんどん悪くなっていく。一時的に怒ってしまうことは、もちろんよくないことであるとしてもある程度やむを得ないことかもしれない。しかし、その怒りを抱き続けてはいけない、それは極めて危険なことである。だから、イエスはくりかえし、「ゆるしなさい」と言われたのである。第一、仮にあなたがだれかをゆるさないで怒り続けていたとしても、相手はそんなことを知りもしない、彼にとっては痛くも痒くもない。痛いのは、苦しむのはあなただけである。損するのはあなたである。だから、夜を迎える前に床の上で心静めて祈りなさい、とこの聖句はおしえているのである。 

 

5月3日(金) 

義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。

詩篇 4:5

 

このみ言葉の前にわれわれは立ちすくむ。「義のいけにえをささげ」?われわれのどこに義があろう。義のかけらもないわれわれが、どうして義のいけにえをささげ得ようか。

旧約時代のイスラエルの民、十字架以前の神の民は罪のあがないのために犠牲の動物を捧げていたが、彼らはどのような気持ちでそれをしていたのだろうか。自分の義を誇って、これみよがしに捧げていたのだろうか。そうは思えない。自分の罪のために、自分ではなにもできないからこそ身代わりとして罪のない犠牲の動物をほふって捧げていたのだ。自分の罪のために身代わりとなって死んでいかねばならない動物を捧げつつ、彼らは自分の罪の重さを知ったのではなかったか。

今日も同じである。わが罪のために、本当ならばわたし自身が受けねばならない刑罰を受けて、血を流し死んでいかれた主イエスを思う。そのときにこそわれわれは絶望的なまでに罪深く、またその罪に対してなんの力もない自分の無力さを知るのである。イエスこそわたしの義である。イエス以外にわたしの義などどこにもあり得ない。だからわれわれは主に寄り頼むのだ。唯一の拠りどころ、唯一の希望である主イエスに寄り頼むのだ。

 

5月4日(土) 

多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光をわたしたちの上に照されるように」と。 

あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした。 

詩篇 4:6〜7 

 

誰しもよりよい人生を望んでいる。不幸な出来事が続くよりは、うれしいことがたくさんあるほうがいいに決まっている。しかし、言うまでもないことだが実際にはわれわれの人生は苦しみや悲しみに満ちている。問題ばかりが次々と襲いかかってくるように思われることがしばしばである。

主は、問題の起きない、不幸のない人生を約束されるわけではない。むしろ、主はこう言われる、「あなたがたは、この世では悩みがある」(ヨハネ16:33)主はわれわれひとりひとりの悩みをすべて知られる。そして、その悩みのただ中に驚くべき喜びでわれわれの心を満たしてくださるのだ。その喜びは農夫が豊かな収穫を得たときの喜びにはるかにまさるものである。ヨハネ16:33で主はこのように続けられる、「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と。なにも問題の起きない人生、すべてがうまく行く人生はすばらしいだろう。しかし、そんな人生はあり得ないだろうし、誤解を恐れずに言ってしまえば、そのような人生はおもしろくないような気がする。それよりも悩みのただ中で、喜びなどかけらもないようなところで、信じがたいほどの喜びが涌きだしてくる。その喜びはほかに喩えようもないほどのもので、これを得るためにはすべてを失ってもかまわない、と思うほどのものなのだ。それは、すべてを失い、命までも失うことによって世に勝たれた主イエスだけがお与えになれるものなのである。主イエスがみ顔の光をわれわれの上に照らされる。そういう喜びをあなたも経験できるのだ。

 

5月5日(日) 

わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。 

詩篇 4:8 

 

私事で恐縮だがわたしは眠ることがあまり得意ではない。寝つきは悪いしちょっとしたことですぐ目が覚めてしまう。一度覚めてしまうとなかなか眠りがこない。ヘタをするとそのまままんじりともせずに朝を迎えてしまう、などということもそれほど珍しくない。いつでもどこでも数秒で眠りに落ちることができる、などという人の話を聞くと、うらやましいよりも信じがたい思いがする。

それでも自分の寝慣れたベッドならばまだいい。枕がかわると寝られない。旅に出るのは大好きなのだが、熟睡できないのがくるしい。旅の間は通常寝不足が続いてしまう。

疲れはてて家に帰り、自分のベッドに横になると安心できる。そうであっても人並みな熟睡は期待すべくもないのだが、それでも安心感はちがう。

今日の聖句で、「安らかに伏し、また眠ります」とダビデは歌う。また、「わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです」と彼は続ける。安らかに伏し、また眠ることができるのはそれが寝慣れたベッド、布団であるからだ。こころから安心できるからこそ安らかに(in peace—平安のうちに)眠ることができるのだ。幼子が母の胸で安らかに眠るのは母に全幅の信頼を寄せているからに他ならない。ダビデは若い頃からたたかいに次ぐたたかい、転戦に次ぐ転戦の連続であった。どれほど苦しくても、敵がどれほど執念深く彼の命をつけ狙おうとも、ダビデが平安のうちに眠ることができたのは、彼が主なる神に全面的に信頼して安んじていられたからだ。わたしにとっても、最も寝慣れたベッドは主イエスのふところである。その他に本当の平安はない、と思っている。自分のおかれている状況がどれほど悪くとも、わたしの寝床は主のふところである。主はわたしを安らかに伏させ、また眠らせてくださるのだ。

 

**5月6日~12日(佐久間典臣)

 

5月6日(月)

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

ローマ5:8

 

まだ学生の頃、沖縄の小さな島を訪ねたことがあります。普段は人の住んでいない小さな教会に泊まることになり、近所にある雑貨屋に買い出しに行きました。その時、暗い夜道で大入道のようなハゲ頭の大男に会いました。よく見ると、片腕が肘から先無いのです。顔を見ると不気味で恐ろしくてどうしようと思いました。その時、その人が急に声をかけてきたのです。それで、自分は怪しいものではないと必死に説明しました。島にある教会を訪ねてきた牧師になるために勉強している学生で、島の子供達のために今日も人形劇をやったことなどを話しました。すると、満面の笑みを浮かべて、「あの教会なら知っている。F先生にお世話になった。F先生と仲良しこよし」と何度も言って笑ったのです。恐ろしそうな大男が「F先生と仲良しこよし」と言うたびに、そのギャップに笑ってしまいました。そのF先生とは 私も懇意にしていただいていて、よく知っていたのでたちまちその人と仲良くなりました。実は、F先生は牧師ではありません。文書伝道者だったのです。年をとってから神学校に学びに来られ親しくしていただいていたのです。大入道はF先生がイエス様のことを教えてくれたので、悪人から救われたと言いました。さて、神は愛するに価するものを持つ人だけを愛するのではありません。その人に愛する価値を何も見出させないとしても、その人を愛(アガペー)してくださり、神の子として受け入れてくださるのです。それは、神がその人を愛することにより、その人が価値あるものとなるということを意味しています。だから、この人もイエス様に出会って、救われた時に愛され、価値ある者になれたのです。不思議ですね。

 

5月7日(火)

聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。

サムエル記上2:2

 

私は本当に神様に向かって祈らなければならない時には必ず礼拝堂に行って、そこでひれ伏していました。そして、履物を脱ぎます。それは、私たちの神は聖なるお方だからです。聖なる神とは、人間が近づき難いお方であり、その栄光を崇められるべきお方であり、私たちに主なる神として命令に服従することを求めることのできるお方であるということです。ですから、愛の神という場合、それは聖なる愛の神という意味であることを忘れてはなりません。ただ甘やかすだけの愛では、人は救われないからです。礼拝堂で祈るのは、私が牧師で教会に住んでいたからかもしれません。自分が神様に会いに行く場所とでも言えばいいでしょうか。ちょうど王様にお会いするために宮殿に上がるように、そして、玉座の前で礼を尽くしてひざまずく者のようにです。その口上は心を尽くした讃め言葉から始まるでしょう。讃美を受けるのにふさわしいお方が聖なる神なのです。その聖なる神の臣民として、礼拝に参加することは特権ですが、同時に聖なるお方への畏敬の信仰が必須のことであると覚えましょう。では、家ではどうすればいいのでしょう。初代教会のキリスト者は礼拝堂を持っていませんでした。信者の家で礼拝や集会を持ち、祈ったのです。ですから、礼拝堂でなければ聖なる神に祈れないということではありません。要は聖なる場所を一隅でも、たとえ座布団一枚でも、ルターのようにひざまずき台でも、決めることも特別な祈りの助けになるでしょう。こうでなければならないということはありませんが、愛という言葉に甘えて、聖なる神という本質的に重要な面を見逃していないかという反省は必要でしょう。聖であるからこそ、モーセのように御前に招かれる意味があるのです。

 

5月8日(水)

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

へブル11:3

 

神は創造主と呼ばれます。では、創造とはどうゆうことでしょうか。何かの材料があって、それで形を作るということではなく、もともとの材料すら創り出したのです。だから、昔から「無からの創造」と言ってきたのです。そうであるならば、この世界には始まりがあったことになります。始まりがあれば終わりもあるのです。よく対比される古代ギリシャ人の考え方では、始まりも終わりもない、同じものの循環と見たのです。この考え方では、だんだん良くなるということがないので希望がありません。そこで、古代ギリシャ人は希望は悪徳であると教えました。一方、聖書がこの世界に終わりがあるという時には、世界の完成を意味しています。それは、神の国のことを指しているのです。つまり、神の国に向かっているのだから希望がもてるということなのです。さらに、この世界を創造する前には、神の意思、意図、あるいは計画がありました。つまり、神があり、神の意思決定があったのです。したがって、この世界は神の一定の意図の下に創造され、一定の目的をもっているのです。聖書が強調しているのは実にこの点なのです。

 

5月9日(木)

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

 創世記1:31

 

聖書の中でハッとさせられる言葉がここにあります。この世界を神が創造されたということの意味がわかる箇所です。それは、私たちが生きている世界が、実に神の恵の世界であるということです。神の創造による世界を神ご自身がご覧になると、それはすべて極めて良かったというのですから、良くも悪くもない中性的な世界を創造されたということではなかったのです。全能の神が極めて良かったという世界こそが、私たちのための世界なのです。それは、神の自由な恵の世界です。ですから、あなたも極めて良いと神が言われる被造物なのです。もっと、自分に自信を持って生きてください。悲観的に世界を見てはいけません。恵に満ちた、良い世界であると信じてみましょう。何かが変わっていくはずです。神の自由な恵の中にこそ、あなたが生きているのです。あなたは、極めて良いのです。

 

5月10日(金)

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

マタイ10:29-31

 

創造について考えてきましたが、神はこの世界を創造したままあとは放置したのでしょうか。勿論そうではなく、この世界を支配し、この世界の完成(神の国の実現)へとご計画を推進されているのです。このことを摂理と言います。たとえば、普段は気にもとめていない雀ですら、神のゆるしなしには地に落ちることはないのです。そうであれば、雀よりもはるかに優ったあなたのことを神様が心をとめてちゃんと考えていてくださることは確実です。心配することなどないのです。「見ゆるところにかかわらず」と、高名な神学者が語りました。「見ゆるところでは、この世界にも悪の暗い力が働き支配している。にもかかわらず、神は愛を持ってこの世界を支配していることを信ずるのである。摂理信仰といわれるのは神の愛の支配は、見えるものではなく、信仰の対象であるからである。」(ティリッヒ)。

 

5月11日(土)

そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。

Ⅱコリント12:7

 

神の創造されたこの世界は恵の賜物であるのに、どうゆうわけかこの世界には人間を苦しめる悪があります。新約聖書では、その悪は罪、死、苦難です。こうした現実をどう理解すればよいのでしょう。それは、神に反抗し敵対する悪の力が存在しているからです。聖書では悪魔とかサタン、あるいは悪鬼とか悪霊と呼ばれるものです。この悪魔が人間を苦しめ、罪を犯すように誘惑し、罪の奴隷としようとしているのです。ですから、この世界を完成させるためには、悪の力を完全に打倒し、勝利し、克服しなければならないのです。パウロは肉体に何か障害を持っていたようです。それが、パウロを苦しめたのでサタンの使いが打っているのだと言っています。しかし、一見苦難のような出来事もパウロを高慢にしないためだ、と理解するなら違って見えてきます。クリスチャンの生き方を知る一つの典型的な考え方です。キリストはこの悪に勝利するために来られました。十字架の本当の意味がそこにあるのです。

 

5月12日(日)

人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。

詩篇8:4-6

 

人間は神がお造りになった被造物ですが、特別な存在です。この世界の中で生き物はたくさんいますが、それら被造物を統治する権威を神は人間に委ねます。委任統治権といいます。それだけでも、人間が特別な存在であることは明らかです。創造の初めに人間が造られた時にアダムは現在の私たちには知る由もない、すばらしい権威を神から授かったのです。それがサタンの登場で、エバは騙され、大切な権威をサタンに奪われたのです。そして、逆にその絶大な力を持って、サタンは人間を攻撃してきました。それが、ずーっと続き、人間の苦しみとなってきたのです。時満ちて、キリストが現れて、サタンから権威の力を取り返して下さり、クリスチャンに再付与するのです。それで、本来の神がお考えになられた通りの、「神のかたちに創造した」ということが回復してきたのです。それは、神の内部にある父、御子の関係に似せて、人間を「我と汝」という人間関係に創造されたということです。だから、あなたの隣人とあなたは良い関係、愛の関係にする力があるのです。クリスチャンのあなたには、この自覚と信仰が必要です。

 

**5月13日~19日(中村 透)

 

5月13日(月)

神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。

エペソ人への手紙 1:1

 

エペソは当時の世界最大級の大都会であった。交通の要衝にあり、貿易やビジネスも盛んだった。言ってみればスクエア・ジャパン・チャーチの本部のある東京のようなところだったろう。大都市における伝道の困難さをわれわれは皆知っている。エペソ教会も大都市で苦闘していた教会だったろう。おまけにこの街にはアルテミス女神の神殿があり、ここは偶像礼拝の中心地でもあった。事実、パウロはこの街で伝道していたとき、偶像礼拝者の手によって殺されそうになった。(使徒行伝19章参照)伝道は困難を極めたろう。われわれはこのエペソ人への手紙を他人事のようには読めない。身につまされるところが沢山ある。また、ヨハネの黙示録は2章でエペソの教会へのメッセージとしてこのように記録している。「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)このようなみ言葉の前にわれわれは返す言葉を失う。それでもパウロは彼らを「聖徒」と呼んだ。それはかれらが、「キリスト・イエスにあっ」たからである。英語の聖書は、"In Christ Jesus"と訳す。「キリスト・イエスのうちに」、「キリストの中に」あなたは生きているだろうか。そうであるならばわれわれは「聖徒」なのである。われわれを「聖」とするものはただひとつしかない。それはキリスト・イエスである。キリストの内にある、ということである。キリストの内に生きていこう。パウロはきっとわれわれをも「スクエアにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たち」と呼んでくれるだろう。

 

5月14日(火)

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

エペソ人への手紙 1:2

 

われわれ罪人が今日も生きていられるのは何によるのだろう。自らの罪のゆえに、もうとっくに滅んでしまっていても仕方がないほどの罪人であるわれわれが、なにゆえに今日も祝福され、平安のうちに生きていられるのだろう。それがわれわれの正しさ、自分の功績、自分の義などによるものでないことは自明である。

「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――」(エペソ2:4〜5)ただただ恵みによってわれわれは救われ、生かされているのである。

今日のみ言葉はその恵みがどこから来るのかをこれ以上ないほどに明白にしめしている。それは、われわれの父なる神と主イエス・キリストから来るのである。他のところに求めてはいけない。われわれを救い得る恵みは他のどこにもないことを覚えなければならない。

また、主がお与えになるのは恵みだけではない。平安も約束されているのだ。主がお与えにある平安の価値を見下してはならない。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27)と主は言われる。世が与えるどんなにすばらしい平安も主がお与えになる平安とは較ぶるべくもない。だれも経験したことのないような恵みと平安があなたのために用意されているのだ。そして、それはわたしたちの父なる神と主イエス・キリストからのみくるのである。主の恵みと平安をこころから味わおうではないか。

 

5月15日(水)

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、

 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

エペソ人への手紙 1:3〜5

 

パウロはこの書簡を獄中で書いた。世の中にすばらしいものは沢山ある。心ひかれるもの、なんとしても欲しくなるもの、うっとりするほど美しいもの。そういうものは数えきれないくらいある。しかし、われわれが真にほむべきお方はただお一人、わが主イエス・キリストの父なる神である。なぜならば、父なる神は他のどんなものも与えられないような価値あるものを与えてくださるからである。それは、「天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し」、とある通り、この地上では望むべくもないものである。天上における祝福がどのようにすばらしく価値あるものであるかは、この地上にいるわれわれにはわかり得ないものであるのかもしれない。しかも、その祝福は霊のもろもろの祝福なのである。エペソ人への手紙の著者パウロはまずそのことをもって父なる神をほめ讃える。ここでは、二度も「祝福」(ユーロゲオー)というギリシャ語の単語がくり返されているが、実はそのまえの「ほむべきかな」ということばも同じ単語である。すなわちパウロは獄中という最悪の環境に置かれていながら、「祝福」、「祝福」、「祝福」、と三回も繰り返しているのである。これは決して負け惜しみではない。パウロはこころから主の祝福を喜んでいるのである。それほどにすばらしい祝福によってわれわれは祝福されているのである。あなたはもしかしたら、いまあまりいい状態にいないかもしれない。これまで経験したことのないほどひどい状況にある、とあなたは言うかもしれない。しかし、大胆に言ってしまえばあなたの今置かれている状況がどうであるかは、どうでもいいことなのだ。投獄という最悪の状況にあってさえ、パウロは三回繰り返して主の祝福を喜んだのだ。そして、同じ祝福があなたにも与えられているのだ、状況に関係なく。われわれの父なる神に、お父ちゃん(アバ)にこころからの讃美をささげようではないか。神は唯一、ほむべきお方であるのだから。

 

5月16日(木)

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、

 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

エペソ人への手紙 1:3〜5

 

昨日われわれは父なる神がキリストにあって与えてくださる祝福がどれほどすばらしいものであるかを学んだ。神はその祝福によって、われわれのような罪深いものを、聖なる神のみ前にきよく傷のないものとなるようにと選んでくださったのだ。しかもその選びは天地が造られる前からであったのだ。言うも愚かであるが天地が造られる前にはわれわれはもちろん存在してさえいなかった。しかし時空を超越しておられる主は、そのときからあなたを知っておられた。あなたを愛しておられた。あなたを選んでおられた、というのである。あなたがこの世に生まれてきたのは偶然などではない。天地が造られる前から、主はあなたの人生にご計画を持っておられたのだ。あなたは生まれる前から主によって選ばれていたのだ。もちろん、その選びに応えるか否かはあなたの選択である。しかし、たとえあなたが主を選ぶことを捨てたとしても、主の選びは変わらない。しかも主があなたを選ぶのは「キリストにあって」である。キリストの内に、すなわち、"In Christ" である。

こういう選びを受けているのはあなたをみ前にきよく傷のない者となるように、である。傷だらけのわれわれであっても、キリストが着せかけてくださる義の衣によって被われるとき、あたかもまったく傷などない者であるかのように受け入れてくださるのだ。いや、実際神の御目にはわれわれを被ってくれるキリストの義の衣だけが見えているのであって、「あなたはわたしの目には高価で尊い」(イザヤ書43:4)ものとして映っているのだ。まことにわたしたちの主イエス・キリストの父なる神こそ、ほむべきお方である。

 

5月17日(金)

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、

 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

エペソ人への手紙 1:3〜5

 

 

イエス・キリストの父なる神は、なによりもまずわれわれに神の子たる身分をさずけることを望んでくださっているのだ。われわれが、この罪深いわたしが、神の子!?神の子とは、ほかならぬイエス・キリストを呼ぶことばではなかったか?その聖なる称号がこのわたしに!?にわかには信じがたいことであるが、これが聖書の教える真理である。

しかし、罪人であるわたしを神の子と呼ぶために、イエスは神の子たる身分を捨ててこの世に下り、十字架にかかって神の呪いとなり、死んでくださったのだ。「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」(申命記21:23)と書いてあるとおりである。神の子が呪われた者となり、呪われた罪人が神の子となる。なんという驚くべき交換、トレードだろう!こんな不公平なトレードをイエス・キリストは甘んじてお受けになり、それによってわれわれは最高のものをいただいたのだ。そのことが、御旨のよしとすることだったのであり、神はそのように愛のうちにあらかじめ定めてくださっていたのだ。霊のもろもろの祝福とはこのようなものすごいものであり、天地の造られる前からキリストにあって選ばれたのは、罪と傷だらけのわれわれをみまえにきよく傷のない者とするためだったのである。ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神!


5月18日(土)

これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。

わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。

エペソ人への手紙 1:6〜7

 

過去3日間にわたって読み続けてきたエペソ1:3〜5の父なる神のすばらしいみわざは、なんのためだったのか。それは、わたしたちがほめたたえるためだったのだ、と今日のことばは告げる。それほどまでにわれわれの讃美は意味があるのだ。神がそれを求めておられるのだ。神がそれを待っておられるのだ。だから讃美には力があるのだ。これからも父なる神の愛する御子イエス・キリストによって賜わった栄光ある恵みをほめたたえていこう。

われわれは、御子にあって(In Him)罪過のゆるしを受けたのだ。ここでもパウロは御子にあって、キリストにあって、のみわざを強調する。キリストにあって、でなければ、霊のもろもろの祝福も(3節)、選びも(4節)、そしてゆるしもないのである。キリストにあって、キリストのうちに生きていくことがどれほど大切なことであるかわれわれはわかっていないのだろう。われわれが御子にあって受けたのはその血によるあがないである。あがないとは、代価を払って買い取ることである。キリストはご自分の持っておられたすべてのものを払って(捨て去って)罪人のわたしを買い取ってくださったのだ。なんという損な買い物であることだろう!全宇宙にあるすべての金、銀、宝石、価値あるものを、このわたしを買い取るために支払ってくださったのだ。なんという高い買い物であろうか!しかも、そんな高い代価を払って買い取ったのがこのわたしとは!!!百万円払って買ったのがヴィトンのにせバッグ!などというレベルではない!なぜ神はこんな損な買い物をなさったのだろうか。考えられる答えはたった一つしかない。それは、他の人がどう思おうとも、神の目には全宇宙のすべてのものよりも、そして、御子のお命よりもわたし、またあなたのほうが高価だったのだ、ということだ。「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)しばしば引用してきたことばだが、これに勝る説明はないだろう。神の目にはあなたは他の何よりも高価で尊いのだ。

 

5月19日(日)

神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、 

御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。 

それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。

エペソ人への手紙 1:8〜10

 

昨日までキリストのうちにあって与えられる驚くべき恵みについて学んできたが、8節にはさらに驚異的なみ言葉がある。「神はその恵みをさらに増し加えて」!

あたかも神はこう言われているようだ、「もうそれだけでいいのか?わたしはもっともっと恵みを増し加えようと思っているのだよ」と。

そうやって増し加えられた恵みによってわれわれはあらゆる知恵と悟りとをいただくのである。「ある程度の」ではない、「あらゆる」知恵と悟りである。それは神の御旨の奥義に迫るものである。奥義とは普通決して知ることのゆるされないものである。原語のギリシャ語ではこのことばはミステリオンといい、ミステリーの語源となったものである。神秘!神からの啓示なくしては絶対に知り得ないもののことである。それがわたしたちに示された、すでに示された!というのである。

神は時をも支配される方である。時が満ちるとき、神が立ちあがる。そしてご計画を実現してくださるのだ。そのご計画によれば、天にあるもの地にあるものをことごとくキリストにあって(In Christ)一つに帰せしめるのである。それはもうわれわれの理解も想像も超えたものである。全宇宙の万物がじつにキリストに集約されていく。キリストがすべてのものに満ち満ちていく。すべてのものがあたかも高熱に融けて混じりあっていくかの如く、万物がキリストにおいて一つに帰せしめられていく。聖書はなんということを教えているのだ!この奥義の前にわれわれはことばを失ってしまうのだ。

 

**5月20日~26日(佐久間典臣)

 

5月20日(月)

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
ヨハネ14:16-18

 

歴史の中で何か重大なことが起こりました。それは、イエスの到来です。イエスを見た人たちは二つに分かれました。すぐに従った従順な人たちと去って行った不従順な人たちです。従順な人たちは、自分を捨て自分の十字架を負ってイエスに従ったのです。彼らの人生はイエスによって一変しました。もう元へは戻れないのです。しかし、イエスと共に生きる喜びは驚くものでした。人を惨めに苦しめているものをことごとく打ちのめし、追い出し、癒したのです。しいたげられた人たちが、自分では絶対不可能と思っていた苦しみの原因から完全に解放されたのです。しかも、無償で、ただ恵みで。イエスの溢れる愛は、心に染みとおってきます。愛さていることをこれほど明確に感じたことははじめてでした。受けた恵みを人々に分け与える喜びもイエスが教えてくださいました。自己犠牲も惜しまない無我の愛をイエスに見たのです。この方に一生付き従おうとイエスを愛する者たちは思いました。しかし、イエスは来た所へ帰って行くと言い出します。弟子たちの困惑はいかばかりだったでしょうか。子供が親から見捨てられるような悲しみが心を満たしたことでしょう。その時、イエスが語った言葉が今日の聖句です。イエスの口から「もう一人の助け主」という言葉が聞こえました。そうです。聖霊のことです。あなたの内にもこのもう一人の助け主が宿っておられるのです。このもう一人の助け主が一体何をされるのか、あなたは詳しく知るべきです。あなたの助け主なのですから。

 

 

5月21日(火)

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

創世記1:27

 

「神の像」と言われている聖書箇所です。バルトという神学者の解釈から考えてみます。これは、神ご自身との類比(アナロギー)において人間を創造したと考えます。それは、神内部の我と汝の関係とのアナロギーに、神にかたどって人間を創造されたという意味を見たのです。バルトはこのアナロギーは男と女の関係に、そしてもう一つ共に生きる人間同士の関係において成立すると考えます。さて、重要なことは、神も人間も「他者と共にある存在」であるということです。神の内部にそのような関係もっているので、孤独ではないのです。ですから、人間を必要としていなかったのです。それではなぜ人間を造られたのか、それは自由な愛から人間を創造されたのです。そして、「人間と共にある存在」となられたのです。ですから、人間は「神と共にある存在」となり、また同時に「他の人と共にある存在」なのです。人間が「他者と共にある」ためには、愛が必要となります。誰かと一緒にいたい、という感情は愛なのです。だから、誰も共にいてほしくない、という感情は愛の拒絶にほかならないのです。その孤独は耐え難いものです。人間が他者と共にある存在に造られているからです。ですから、愛がどうして大切か理解できると思います。隣にいてほしいと思う人がいるのなら、その人を大切にしましょう。それが愛なのだから。しかし、あなたの隣にいつでも一緒にいたいと思っておられる方がいます。それはイエス様です。あなたには一緒に生きたいと願われるお方がいるということを覚えていてください。

 

 

5月22日(水)

この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。

ルカ13:16

 

「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」(ルカ13:11)。今日の聖句のそもそもの始まりの物語は、十八年間も病の霊に取りつかれていた女を、イエスが会堂で安息日に癒したために、安息日に癒してはいけないと叱られたことからイエスが語られた言葉です。安息日を守ることを知らない人にはピンと来ない話ですね。私は19歳から40年ぐらい安息日を守ってきました。だから、この状況がわかるのです。神の戒めを守ることがどんなに重要なことか、信仰者にとっては自明のことでした。その中でも、安息日(土曜日)を聖なる日とすることは恩恵に満ちたものなのです。人生がすっかり変わります。しかし、ここに落とし穴があったのです。自分の毎週通っている教会に18年間も腰が曲がって辛そうにしている女性がいたとします。医者も直せない難病です。その正体は病の霊だったのですから、人間の力では治せなかったのです。人ごとという言い方がありますが、18年間も腰が曲がっている姿を見ているうちにその姿が当たり前になってしまったのです。ご本人はどんなに苦しんでいたことか。人生が台無しです。しかし、とうとう奇跡の日はやってきした。その日は土曜日安息日でした。女はこう思ったでしょう。「こんなに惨めで見捨てられた病の女、腰が曲がったまま、どうしても伸ばせなかったのに、この私をイエスは探し出してくださった。そして、あっという間に完全に癒してくださったのです。腰がのびることの嬉しさをどう表現したらいいのだろう。」こうやって女が喜んでいるのに、安息日だから癒してはいけないという非情な言葉に、語った人はどうして気づけないのだろう。この人は自分に忠実だったのです。イエスには従えませんでした。キリストに従順になる者と不従順になる者。イエスはこうして、人を二つに分けている。何を考えても、何を言っても自由だろうが、永遠の命がかかっていることを覚えるべきです。あなたの熱心が人間からでているのなら、イエスに従い得ないでしょう。イエスに服従しなさい。

 

5月23日(木)

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

ヨハネ9:1-3

 

原罪という言葉があります。アダムの罪が遺伝罪のように私たちの上におよんでいるというものです。今日の箇所は、生まれつき目の見えない人とイエスの話です。弟子たちは目の見えない理由を誰かの罪のせいだと思っていました。本人か、両親か。しかし、イエスはそのどちらでもないと言いました。この話は、私たちが親のせいでこうなったとか、自分の負い目を感じる生い立ちや境遇、あるいは自分の欠点あるいはハンディキャップに悲しみや失望を感じる時に考えるべき大切な箇所です。もし、原罪というのならどうしようもない悲しみがあるでしょう。でも、今は原罪よりも罪責を問題にするようになってきました。お母さんのお腹の中に生まれた胎児から罪人ではなく、無垢で生まれて、その後自分の意志で罪を犯していくので罪の責任がある、という意味で罪責と考えるのです。そうであれば、後ろ向きに過去の呪いに苦しむ必要はありません。痛ましいほどにひどい過去があったとしても、イエスは「神の業がこの人に現れるため」と言われます。つまり、イエスによって傷が癒され、罪が赦され、救われて、新しく生まれ変わらせてくださる、ということです。イエスを見えなかった人が救い主として見えるようになるということです。救われたあなたは神を讃美するでしょう。そうやって神は栄光をお受けになられるのです。この世の否定的な見方ではなく、神の愛の眼差しがあなたの内にあって見えるようにさせてくださるのです。あなたは見えないものが見えるようになったのですよ。(佐久間)

 

5月24日(金)

神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。

ルカ18:7、8

 

この聖書箇所は「やもめと裁判官」のたとえ、という譬話の中に書かれているものです。その冒頭に、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」と、書かれています。気を落とさずに絶えず祈ることが重要なんですね。そもそも気を落とすようなことが予想されていたのです。私たちは再臨を信じています。「世は間もなく終わる」と、言ってきました。しかし、一世代、二世代、三世代・・・と時間ばかりが経過して、一向に主は迎えに来られないことを思うと、もう祈るのもやめてしまおうかと思ってしまうかもしれません。この世は、神はいないと公然と言い放ち、神がいないかのごとくに振舞っています。そうでない人でも、偶像に走り、ご利益を求めて異教の神々を拝んでいます。肝心のイエスを信じるものは減少し、クリスチャン人口も減っているのです。世界的に貧富の差が増し、理不尽がまかり通っているように見えるのです。だから、一時頑張っていても結果が伴わないと気落ちしてしまうのです。「絶えず祈れ」と聖書を開けば主のご命令があるのに、祈りに失望する危険があるのです。だから、気落ちせずに祈り続ける人を主は求めています。祈りの極意を譬話にして教えているのは、あなたを励まして、ちゃんと祈りは聞かれていること。そして、あなたの祈りに応えて主が裁きをなさること。その裁きは祈り続けるのならすぐにでも応えられるということを教えています。どうですか、あなたは祈り続けますか。主は再臨前のこの時にそのことを見ているのですよ。(佐久間)

 

5月25日(土)

 わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち/痛みからわたしを引き出してください。・・あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら/そのことがわたしを守ってくれるでしょう。

詩篇25:15-17、21

 

人の一生は同じようなのに、実は随分違っているのです。よく考えてみると自分はある日突然に一人で生まれてきたわけではありません。親が必ずいて、その親にも親がいて、と何世代も延々と続いてきた結果の中に生きているのです。だからいろいろなものを持って生まれてきます。いろいろな生い立ちもあります。健康な人ばかりではありません。病に苦しんでいる人も決して少なくありません。障害をもって生きなければならない人もいます。ひどい貧しさの中に押し込められている人もいるのです。あなたはそうしたものや過去に縛られていませんか。さて、ある心の病と戦い続けている人がいます。仮にA子さんと呼びます。A子さんがクリスチャンになったのは、お世話になった病院のスッタフにクリスチャンがいたからでした。その人は、うつ病のために地獄のような苦しみを味わった方でした。驚くことに、この人は錯乱しても、自殺したいと思っても、どんなに苦しくても、イエス様を信じ抜いたのでとうとう克服して癒され、今は喜びと希望の内に生活しているそうです。このクリスチャンのスタッフの方が聖書を開いてイエス様のことを教えてくださったのでクリスチャンになれたと、A子さんは証ししてくれました。

今日の聖句は、自分ではもうはどうしようもない苦境に陥り、まるで足が狩人の網にからみついて逃げ出せないもののようだと訴えています。それは、病か失業か倒産か貧しさか、老後の不安か、とにかくとても心細く震えながら夜も眠ることができないのです。そんな時に私は誰を見つめているのだろうか。勿論、それは主なる神様であるべきです。イエス様に望みをおき、無垢でまっすぐな信仰を持ち続けていけば、そのことがあなたを守ることになるのです。イエス様を見つめてもなお不安でいられますか。それはありえないですね。そして、やがてはっきりしてくることは、親でもなく、生い立ちや環境でもなく、社会でもなく、問題は私の罪であるということです。そのための罰がくだって苦しんでいるので、おゆるしください、と詩人は語っているのです。イエス様は必ずあなたを助けてくださいます。やがて時が過ぎた時にわかります。主に助けられたと。(佐久間)

 

**5月27日~6月2日(中村とおる)

 

5月27日(月) 

わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。 

エペソ人への手紙 1:11〜12 

 

われわれの神は御旨の欲するままにすべての事をなさる方である。言い換えれば、すべてのことは神の支配のもとにあるということである。全知全能にして絶対の神、そのお方が「目的」を持っておられるのだ。その「目的」とはなんだろう。

それは、われわれが神の栄光をほめたたえる者となることである。たしかにわれわれは神の民として選ばれたのであろう。しかしそのことで傲り高ぶってはならない。

「高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ」。(箴言 16:18)と神は警告しておられる。われわれが傲り高ぶって滅んでいくことはみ心ではない。傲り高ぶる心に神への讃美は生まれない。われわれは神の栄光をほめたたえる者となるために選ばれたのである。

忘れてはならない。サタン(悪魔)ももとは神を讃美する者であったのだ。それが傲り高ぶって神の反逆し自らを讃美する者となったとき、かれは天から落とされてサタンとなったのだ。あくまでもほめたたえらるべきものは神だけであり、その栄光のみなのだ。だからこそわれわれは早くからわれわれの神キリストに望みをおいてきたのではなかったか。キリスト以外に望みはないことを知っているからこそ、キリストをほめたたえるのである。そのためにあらかじめ選ばれているとはなんという驚嘆すべき特権であろうか!

傲り高ぶっちゃダメ!自分を低くして神のみをほめたたえようぜ!(と)

 

5月28日(火)

あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。

エペソ 1:13

 

ここにもまた「キリストにあって」が出てきましたね。”In Christ”ですよ。

わたしたちは、救いの福音を聞いたんです。そしてキリストを信じ、聖霊さまの証印を押されたんです、「キリストにあって」、ね。

言ってしまえば、「キリストにあって」でないかぎり、わたしたちは、救われることも、聖霊を受けることもなかったのだ、ということです。もっと別の言い方をすれば、神は、「キリストにあって」のみ、これらの大いなるみわざをなさるのだ、ということです。

あなたはどこで、どうやって、救いの福音を聞きましたか?友だちを通してですか?牧師を通してですか?あるいは、家族?どれもすばらしいですね。でもね、あなたが救いの福音を聞くことができたのは、究極的には「キリストにあって」なされたことなのです。「キリストにあって」でなければ、あなたは救いにあずかることなど、できなかったのです。

そして、あなたが救われたとき、あなたは聖霊の証印をおされたのです。この証印は、わたしたちが神の国をつぐことの保証なんですね。証印を押すとは、間違いなく確かであることの証明であり、所有権をあらわすものでもあります。つまり、神さまは聖霊によって証印を与え、あなたが神のものであることを明らかにしたのです。だれだって、他人のものに自分の名前を書いたりしないでしょう?名前を書くのは、自分のものである場合だけです。神さまは、あなたが間違いなくご自分のものであることをお認めになればこそ、あなたに聖霊の証印をおされたのです。あなたはだれがなんと言おうとも、神さまのものであり、神さまに属するものなのですよ。うれしくなっちゃいますね。うれしくて、なんだか今日は「ですます」調になっちゃいましたよ?(と)

 

5月29日(水)

こういうわけで、わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、わたしの祈のたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。

エペソ人への手紙 1:15〜16

 

パウロはエペソ教会のために祈っている。この教会は、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)というイエスの命令に従ってパウロが異邦人の土地に出て行き立ち上げた教会である。エペソでパウロは銀細工人たちの強固な反対に会い、もう少しで殺害されてしまうほどの迫害を受けた。だが、そのような辛苦の果てに立てられたこの教会をかれはことのほか愛したようだ。使徒行伝20:31でパウロは、「わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい」とエペソ教会への熱烈な愛を告白している。パウロはこのあと彼らを離れて、死の覚悟をもってエルサレムへ向かおうとしていた。「みんなの者は、はげしく泣き悲しみ、パウロの首を抱いて、幾度も接吻し、もう二度と自分の顔を見ることはあるまいと彼が言ったので、特に心を痛めた。それから彼を舟まで見送った」(使徒行伝20:37〜38)と涙の別れをしている。これほどまでに愛したエペソ教会の人々が主イエスに対するすばらしい信仰と聖徒に対する愛をもっているといううわさを聞いてパウロは心から感謝している。なにしろ三年間、涙をもって祈り続けてきたのだ。祈るたびパウロはエペソの人々を思いだす。一人一人の顔を思い浮かべながら、涙をもって祈るのだ。ロクデナシではあるが一応牧師であるわたしにも、そういうパウロの気持ちが少しだけだがわかるような気がする。

あのとき救われたあの人はどうしているだろうか。あんなことがあったあの人は元気で信仰を守っているだろうか。過去の任地教会で別れてきたあの人たちは今でも主と共に歩んでいるだろうか。

もう連絡も取れない人もいる。亡くなった方もいるだろう。そのひとりひとりを思いだす。

離れていても心は一つで、離れていても祈りあうことができる。これこそが「キリストにあって(“In Christ”)一つである」クリスチャンの喜びである。そう思わない?(お)

 

5月30日(木)

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、

あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、

エペソ人への手紙 1:17〜18(a

 

われわれが真の意味で神を認めるためには、自分の力ではまったく不十分である。この世の知恵を全部結集しても力及ばない。われわれが神を認めるためには、父なる神の介入が必要である。父がわれわれに知恵と啓示の霊を賜わることによってのみ、神を知ることができるのだ、と、このみ言葉は告げる。

ある人は、「それはわれわれ人類の英知に対する侮辱である」と言うかもしれない。しかし、われわれはすでに過去の経験からある程度は学んだのではなかったか。神という絶対者への畏敬の念なくしては、科学を初めとする人間の「英知」は悪魔の道具と成り果てる、ということを。そのことをわれわれ日本人は、今から68年前に、わが祖国でも最も美しい二つの街、広島と長崎を一瞬にして焦土と化したあの忌まわしい経験によって学んだのではなかったか。人類の英知?それはたしかに素晴らしいものであろうし、これからもわれわれは前進していかねばならない。

しかし、神はこう言われるのだ、「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである」(箴言 9:10)と。真の知恵は絶対者への恐れなくしては得られない。神が霊によって啓示(ひらき、示してくださる)してくださるときにのみ、われわれは神を認めることができ、神を恐れる、あるいは畏れることを学ぶのである。

ああ、わたしは切に望む、わたしの心の目が開かれ、明らかにされることを。わたしの心の目がまだ見ていないことを、父が聖霊によって見せてくださることを。

父よ、われわれに知恵と啓示との霊を与えたまえ。これがスクエア・ジャパン・チャーチの祈りである。

 

5月31日(金)

そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

エペソ人への手紙 1:18(b)〜19

 

昨日の聖句は18節の途中で便宜上切ったが、じつは17節の初め、「どうか」から19節の終わりまで、日本語では読点だけで句点の一つもない、実に長い文になっている。あたかも興奮して語り続けるパウロの荒い息づかいが聞こえてくるようである。「どんなものであるか」、「いかに栄光に富んだものであるか」、「いかに絶大なものであるか」と、次から次へと畳み掛けるようにしてパウロは語る。われわれが神に召されていだいている望みは、また、聖徒たちが継ぐべき神の国の栄光は、それほどまでにパウロ自身が驚嘆し興奮するほどに大きいのだ。われわれはそのすごさがわかっているだろうか。

「神の力強い活動によって働く力が」とパウロは書いたが、ここにでてくる「活動」ということばは原語のギリシャ語では“エネルゲイア”(エネルギー)ということばだし、「力」は

“デュナミス”(ダイナマイト、ダイナミック、などのもとになったことば)というギリシャ語で、いかにも力強さに溢れたことばが頻用されている。あの博学なパウロがこんなに興奮して、息も荒くして強烈なことばで表現しなければおさまらなかったのだ。

あなたは神に召されていだいている望みがどんなにすごいものであるか知っているだろうか。神があなたに継がせてくださろうとしているものがどんなに栄光に富んでいるかわかっているだろうか。神の力がどれほど絶大であるか身に沁みているだろうか。それをあなたが知ってくれるようにとパウロは祈るのだ。われわれもパウロとともに祈ろうではないか。

神にある望みをあまく見てはいけない。神の嗣業の栄光を軽視してはいけない。あなたに働く絶大な神の力を低く見てはいけない。だって、ものすごいんだよ!(さ)