**6月1日~2日(中村 透)

 

6月1日(土) 

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

エペソ人への手紙 1:20〜21

 

十字架で死なれたキリストを父なる神は死人の中からよみがえらせたばかりでなく、天に引き上げて御座の右に座せしめた。わたしたちの主イエス・キリストはいま天の御座にいましてすべてをみ手におさめておられる。

わたしはかつて中央アフリカの某国でその国の元首が首都の街を最高級車を連ねて移動しているのを見たことがある。貧しい国であるにもかかわらず、目を見張るほど立派な金のかかった行列であった。こんな小さな国の、こんなに貧しい国の元首というだけでこれほどの富と権力を思うがままに行使できるのだ、という事実に圧倒された。これが世界有数の大国であったら比べ物にならないくらい物凄いものだったろう。いや、それがもしも、地球全体の元首であったら。。。貧しいわたしの想像力では思い描いてみることさえ覚束ない。

キリストは、すべての支配、権威、権力、権勢の上におかれたのである。つまり、どんなに大きな権力、権勢をもつものでも、それはキリストの支配の下におかれている、ということである。あらゆる力、あらゆる権力の上に立つお方、それがキリストであるのだ。全宇宙のナンバーワンの権力者がキリストであるとしたら、わたしのこのお方への態度はそれにふさわしいものだろうか、と心配になる。

虎は皮を残し、人は名を残す、という。大いなる業績を打ち立てた人の名は永く覚えられ崇められる。しかし、キリストの名はどのような大いなる名にもまさるのである。すばらしい主のみ名をほめたたえよう。これに勝る名はない。わたしたちを救いうる名はキリスト以外には天下のだれにも与えられていないからである(使徒行伝4:12)。(さ)

 

6月2日(日) 

そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。 

エペソ人への手紙 1:22〜23

 

父なる神が万物をキリストの足の下に従わせ、キリストを万物の上にかしらとして与えられた、というのはわからないでもない。そうだろうなあ、と思う。しかし、この聖句によれば、そのキリストは、万物を従わせ万物のかしらとなったキリストは、教会に与えられたのである。この世に与えられたというなら理解しやすい。だって、万物のかしらなのだからこの世に与えられて当然だろう。なぜ、教会に?天地万物の支配者が、それほどに大きな方がなぜ教会に与えられたの?教会ってそんなにすごいものだったっけ?

いや、実は教会ってそんなにすごいものだったのだ。23節が説明している。教会はなんとキリストのからだなのだ。かしら、頭はキリストである。頭が考え、頭が決断し、頭が命令を出す。しかしその命令を実行するのはからだである。キリストのみこころをなんとわれわれ教会が遂行していくことが期待されているのだ。

正直に言ってしまおう。われわれのような者をお使いになるより、キリストはすべてをご自分でやってしまった方が、はるかに早く、はるかにうまくいくのだ。キリストはそんなことははなからご存じなのだ。そして、キリストはわれわれの弱さ、もろさ、そのくせすぐに傲り高ぶってしまうダメさ、そのすべてをよくご存じなのだ。それでも教会をご自分のからだとしてくださる。そればかりか、万物を満たしておられるキリストがこの教会にも満ちみちていてくださるのだ。

あなたは自分の教会がキリストで満ちみちていると感じているだろうか?全宇宙を満たしつくしておられる方があなたの教会にも満ちみちている、というのは本当だろうか?あなたがどう感じているかは実はあまり問題ではないのだ。われわれの「感じ」などあてになるものではない。からだと同様、「感じ」などというものは最も強くサタンの影響をうけているものなのだ。「感じ」に頼るのはやめにしよう。もっと間違いなく頼りになるものを信じよう。それが聖書のみことばである。聖書こそ誤りのない信頼できる道しるべなのだ。その聖書のことばがここで明確に告げている。教会にはキリストが満ちみちているのだと。

キリストは手足を必要としておられる。「ここにわたしがいます。わたしをつかわしてください」と一歩進み出る主の勇者はいないか。「主よ、あなたの手足となってどこへでも行きます。あなたの命じられるままに従います。あなたを信じます」と主の召しにこたえる主の弟子はいないだろうか。(ま)

 

**6月3日~9日(佐久間典臣)

 

6月3日(月)

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。

Ⅰコリント13:4-8

 

私は結婚式で、この聖句を何遍も読み上げてきました。結婚式も礼拝なので説教があります。説教は、教訓話しでも、信仰体験談でもなく、訓話でもありません。それは神の言葉でなければなりません。だから、普通の話しのように聞いてはいけないのです。結婚式も聖なる礼典ですが、そこには神と人の関係を表す神秘があります。男と女が結婚によって一つとなるように、人もイエスに救われて神と一つとなる、と救いの神秘を説明することができます。一つになるというのは、愛の関係に入るといっても説明になります。今日の聖書箇所は愛とは何かを説明しています。よく読んでください。不思議なぐらいこんなにすばらしい言葉を簡単に忘れてしまうでしょう。なぜでしょうか。神を愛することから始めていないからではないでしょうか。神は初めからあなたをこの愛の通りに愛しぬいています。それに気がつかなったのですから、愛を知らなかったといえます。ですから、神をここに書いた通りに愛しましょう。そして、あなたも神に愛されていることを知りましょう。神の愛がわかったなら、あなたの隣人を愛してみましょう。決して、ロマンチックなことではありませんね。忍耐したり、ねたまず、自慢せず、高ぶることなく、礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨むを抱かず、不義を喜ばず、すべてを忍び、すべてを耐える。どうですか、愛するということの意味が分かってきましたか。これが、あなたの課題です。今日から、始めましょう。ただ、自分の力に頼らずに、神に頼って愛することができるよう祈ってから始めましょう。すばらしい人生が始まりますよ。(佐久間)

 

6月4日(火)

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。

Ⅰペトロ5:8-10

 

あなたがクリスチャンであれば、今日の御言葉を真剣に受け止めるべきです。聖書には、はっきりと「あなたの敵である悪魔」と書いてあります。つまり、あなたには敵がいて、それは人間ではなく悪魔だと教えているのです。悪魔のしていることといえば、誰かを食いつくそうと探し回っているということです。だから、あなたがクリスチャンであれば、悪魔は食い尽くそうとあなたを狙っていると思えばいいのです。でも、それではたまったものではありません。ひどい目に遭うことなどまっぴらです。対策は、信仰にしっかり踏みとどまる事と、悪魔に抵抗することです。そうすれば、次の聖句の通りになります。「神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」 つまり、あなたも悪魔と戦うのです。無理やり戦うのではありません。信仰を強めていくことです。それは、神様を絶対信頼することです。神様に従順になることです。そして、悪魔が何かしかけてくれば、それはすぐにわかります。不快なことや、不安になること、心配でどうしようもなくなること、嫌な人が現れること、自分に妙な自信が湧いてきて神様を必要としなくなること、誘惑を強く感じること、神様に疑いを持つこと、等、いろいろな形で心を悩ませることになります。そして、悪魔が攻撃のターゲットを見つけた時に、あなたがその被害者となる人を守る立場にあれば、あなたも直接攻撃されます。効果的に脅しをかけてきます。その時に、あなたがまだ対抗する術を知らないなら、イエス・キリストだけがあなたを助けることができることを覚えてください。そして、イエス様は弟子を召した時にすぐに悪魔を追い出す権威を授けています。ですらか、あなたもキリストの弟子なので権威があることを覚えて、自分ではなく信じている主イエス・キリストの御名によって悪魔を撃退しましょう。必ず、勝てます。キリストにへりくだって服従しているのなら大丈夫です。さあ、いよいよ再臨前の最後の時間を迎えます。これは、弟子たちの勝利の時です。勝利という言葉がふさわしいのは戦っているからです。祈りで、信仰で、主の御名で、あなたは、必要な時に勝利できます。そして、いろいろな苦難を通り過ぎて、キリストのみ姿へと変えられていくのです。明るく、元気に、今日も油断なく、敵と遭遇しても冷静に勝利できるので勇気をもって前進しましょう。(佐久間)

 

6月5日(水)

命を与えるのは〝霊〟である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

ヨハネ6:63

 

信仰の世界は不思議です。言葉の力が大きいので人間が普通に考えている以上のことが起こります。愛のこもった言葉は、人を癒したり、不安を取り除いたり、自信を与えたり、積極的な気持ちになったり、優しさを取り戻したり、と確かに人の心を変えてしまいます。しかし、イエス様のお言葉はさらに重要です。それは霊であり、命だからです。それで、肉つまり人間の力で聖書を解き明かそうとしても限界があります。しかし、聖霊が信仰者に聖書の御言葉を解き明かしてくだされば、その人は自分自身の深いところから造り変えられる変化を体験できます。「義人にして罪人」と宗教改革者の言葉の通りに、クリスチャンは罪人のまま救われていて自分の力で義となったわけではなく、ただキリストの義を身にまとっているので義とみなしていただいているのです。そのため、残念なことに罪を犯してしまうのです。この人の課題は、キリストを模範として、倣う者となることです。それを可能にしているのが、聖霊の助けなのです。その働きの中で、聖書を読み、イエス様のお言葉の中に宿る命を聖霊の助けで受け取ることが肝心です。聖霊のバプテスマを受けると、聖書がよくわかるようになったとか、言葉が飛び出てくるとか、文字を超えて霊的真理が理解されてきた、といった不思議なことが起こります。勿論、良いことなので全ての人に体験していただきたいと思います。聖霊に満たされることを祈りましょう。そして、主のお言葉の意味を体験的に理解したいものです。(佐久間)

 

6月6日(木)

王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。・・・招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。

マタイ22:12、14

 

クリスチャンの課題は、実に礼服を身に着けることに尽きるかもしれません。勿論、キリストの義を着るという意味で理解できますが、今日は礼服を品性として考えてみましょう。19世紀に神の愛をセンチメンタルなものとしてしまったために、聖化の重要性が軽視されてしまいました。信仰に生きることを決めた人には聖霊は献身的に働いて聖なるものへと変える働きを続けてくださいます。しかし、センチメンタルな神の愛に終始していると、自分を変える聖霊の働きに協力することができません。つまり、罪を見逃したり、聖書に一致していないところを無視したりしてしまうのです。それは危険なことなのに、センチメンタルな神の愛はこれぐらい赦してくれるだろうという錯覚に陥っているとしか言いようがありません。ヒューマニズムの罠ですね。今日の聖句は、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と結びます。ですから、クリスチャンになったということだけでは安心できません。神は選ぶからです。その基準が礼服にたとえられた品性なのです。その品性を聖霊に作り上げていただくのですが、それは聖書の中に示されているキリストの標準に照らして足りないところを自覚することから始めます。そして、コロサイ3章に書かれているようなことを信仰によって身に着けていくのです。肉に頼ることをやめます(家柄や学歴や輝かしい職歴や自慢できること、自分の功績、力、など。ローマ3:3以降参照)。聖霊に満たされ、敬虔な信仰を実現するように努めます。愛の実践は品性を作り上げます。すべて聖書に書かれた通りです。自分の力や努力ではできないことですが、聖霊に取り扱われて神へ従順になっていくことは可能なのです。人本主義ではなく神本主義に生きることが鍵なのです。(佐久間)

 

6月7日(金)

目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。・・・だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。

マタイ24:42、44

 

イエス・キリストは必ず迎えに来られます。しかも、私たちが考えているよりは早く、突然に来られるでしょう。「目を覚ましていなさい」と命令されています。主が再臨されることをいつも自覚して待っているということです。それは同時に「用意していなさい」という命令と共に考えなければなりません。ただ待つのではなく用意していなければいけません。あなたは、キリストのお語りになった終末預言の箇所を読まれたことがあるでしょう。それで、あなたは目を覚まし、用意をしていたでしょうか。この世の人たちと同じように生きているのなら、残される者になるでしょう。主と共に新天新地に連れて行っていただける者のグループに入っていたいですね。そのためには、主に祈って聞かなければなりません。何をするか、しないか。主のご命令をいただき、その働きを忠実にやり遂げたいのです。ただ、悲壮感を漂わせるほど頑張るという意味ではありません。私たちが生きている神の国は恵の世界なのですから、恵があなたの生活にも満ちていることを発見してください。あなたの普通の日常生活の中で、神が恵みを注ぎ続けてくださることを信じましょう。悪魔がたまに妨害してきても、何の効果もありません。ただ、居眠りをしているのなら、害を受ける危険があります。聖書の約束を信じて、主に忠実になる決心が大切です。東日本大震災の時に、地震の準備を仙台市はやっていたのですが、あれほどの津波が来ることは想定外だったのでしょう。地震が非常に高い確率で来ることはわかっていました。だから、我が家では本棚のような倒れてくるものは全部壁に固定していました。それで何も倒れませんでした。固定していなかった家は、家具は倒れ、食器は飛び出て割れましたから、後始末が大変でした。再臨は必ず来ます。準備を怠っていたら絶対に後悔します。再臨の時には、ただ主イエス・キリストを見上げて感動に震えながら天にあげられたいものです。(佐久間)

 

 6月8日(土)

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。

ヨハネ15:26

 

クリスチャンの悩みは、イエス様のようになれない、というものです。キリスト教の教義を熱心に勉強しても、これはかないません。クリスチャンになりながら、イエス様の与えられた「互いに愛しなさい」という戒めも守れない人がいるでしょう。どうして、たった一つの戒めが守れないのでしょうか。しかも、イエス様の説明によるとこの戒めは大きな試金石になっていることがわかります。弟子たちも残念ながら3年もの長期間イエス様の指導を受けたのに最後まで変わることはなかったのです。しかし、この弟子たちがある日をもって、変わってしまいます。見違える程変わって、イエス様のように大勢の人を救いに導きました。イスラエルの権威ある者たちの前でも恐れずに大胆に主イエス・キリストを証ししました。それは、今日の御言葉と関係あります。イエス様は約束の聖霊を信じた人に送ってこられます。ペンテコステの日にその事が始まりました。あまりのすごさに圧倒されます。その聖霊が今も求める者に与えられています。その聖霊が来られると、人の内側に入って来られるのです。内住のキリストと言えばわかりますか。あなたの外側ではなく、内側からあなたを聖霊が変えるときに変わることができるのです。キリストが生きているので、イエス様を証しします。それは、そのクリスチャンを通してイエス様が聖書時代になされたように、今、働くことを意味しています。イエス様の愛の業があなたを通して現れてくるのです。このことなしには、教会はいつまでも苦しみつづけることでしょう。聖霊が人に満ちるときにイエス様のお言葉が成就していくのです。あなたは聖霊に満たされる必要があります。このことは最優先事項です。そして、絶対に必要な唯一のことなのです。祈り始めましょう。聖書で確かめましょう。聖霊を求めましょう。聖霊に満たされなさい。(佐久間)

 

6月9日(日)

天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。

へブライ1:14

 

天使が存在することを聖書は語ります。天使は救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために遣わされたのです。そこで、あなたにも天使は遣わされていることを覚えましょう。天使は霊であるので、基本的には目に見えないでしょう。しかし、あなたを守り、助け、支えようとするでしょう。天使は奉仕する霊なので、献身的にあなたの歩む救いの道を右にも左にもそれないように支えてくれるでしょう。ときに危険が迫れば、その危険を回避し、安全であるようにと働くでしょう。神様に命じられて、あなたに大切な言葉を伝えることもあるでしょう。悪霊と戦ってくださることもあります。あなたが正しいことをしようと勇気を出せば天使は喜び、励ましてくれるでしょう。時には、目に見える姿をもって現れ、親切に助けてくれるでしょう。不思議ですが真実です。もうすでに、あなたは天使に出会っているかもしれません。あなたには心強いボディーガードのような存在が守っていてくださることを覚えていましょう。見知らぬ人が急に現れて、あなたを助けてくれたならそれは天使である可能性があります。あなたが、聖書に書かれた通りに聖なる生き方を選んでいるならば、天使は近くにいると思います。(佐久間)

 

**6月10日~16日(中村 透)

 

6月10日(月) 

さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。

エペソ人への手紙 2:1〜3

 

「先には」、また「かつては」とくり返されている通り、それは以前の状態であって今はもう別の存在だ、とパウロは教えている。先には、罪過と罪とによって死んでいた者だったのだ。

この世のならわしに従っていたので、表面的には生きているように見えてもそこには命がなかった。神の敵であるサタンに従って歩いていたも同然であるのだ。そしてそのサタンは不従順なものの中に今も働いているのである。だから、われわれは常にサタンの陰険で執拗な攻撃にいつもあうのである。

忘れてはいけない。われわれはみな、それらの人々と同じように生きていたし、自分の思い通りにのみ生きてきたのだった。自分の欲、自分の誇り、自分の財産、自分の利益、それらがすべてであり、それらのものがわれわれにとっての神だったのだ。その結果、われわれは生まれながらに怒りの子であったのだ。自分の欲が満たされないと怒り、自分の誇りが傷つけられると怒り、自分の財産が奪われると怒っていたのだった。

われわれはかつてはそんなところに生きていたのだ。

しかし、われわれはもうそこにはいない。われわれが従っているのはサタンではなく、神ご自身なのだ。だから、怒りを捨てよう。もう十分に怒ってきたではないか。欲や誇りや財産や利益がすべて取り去られても、われわれには神が、キリストが共におられるのだ。神ご自身が、われわれの従うべきお方となられた。この方に従って生きていくとき、われわれは本当の意味で生きている者となるのだ。(な)

 

6月11日(火)

しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。

エペソ人への手紙 2:4〜7

 

キリストはわたしたちの罪のために十字架につけられ死なれた。しかし、あわれみに富む神は、死せるキリストをよみがえらせ、生かしてくださった。なんという驚くべき力であろう。

さらに驚くべきは、その同じ神が罪過の中に死んでいたわたしたちをも、同じ恵みによって「キリストと共に」生かし、「共に」よみがえらせ、「共に」天上で座につかせてくださったということである。この罪深いわたしが!!?それをなさしめたのは、慈愛による神の恵みであった。

恵みとは、価しないものに与えるから恵みなのである。たとえばあなたが時給1000円という契約をして働きはじめ、その日8時間働いて8000円の給料を受け取るとする。それは恵みであろうか?否、あなたは契約に基づいて働いて、正当な報酬を受けたに過ぎない。あなたはその報酬を受けるに価する働きをしたのだから、それは恵みではない。

では、わたしたちは神の子キリストの命と引き換えにされるような、それに価するような働きをしただろうか?神に救っていただくような功績がなにかあっただろうか?否、である。そんなものは全然ないのだ。にもかかわらず、わたしたちは「キリストと共に」天の座につかせていただいた。これは価しないのに与えられたものであるがゆえに、恵みである。なんというあわれみ深い神であろうか。それほどまでに、わたしたちを愛する神の愛は大きいのである。

恵み、恵み、恵み、ただ恵みあるのみである。もしも、神があわれみ深い方でなかったとしたら、もしも、神が恵みをくださらなかったなら、罪深いわたしたちはとうに滅んで、消え失せてしまっていたであろう。主よ、わたしたちに恵みをお与えくださったことを感謝します。(か)

 

6月12日(水) 

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 

エペソ人への手紙 2:8〜9 

 

聖書はこの一点に関して非常に明確にしている。それは、罪人が救われるのはただ神の恵みのみによるのだ、ということである。神以外にわれわれを救うことができるものは天にも地にもない。だからこそ、主イエスは十字架にかかって死んでくださったのである。

われわれが救いのためにできることは、ただ一つ。その神の恵みを信仰によって受けるだけである。受けるか受けないかは、その人の自由な選択にまかされている。その人が救いの恵みを信仰によって感謝して受け入れれば、救われる。

受け入れなければ、あるいは受け取らなければ救われない。どんな贈り物だって受け取らなければあなたの物にはならないではないか!

だから信仰が必要なんだ!だから信仰が大事なんだ!だから信仰が必要不可欠なんだ!

われわれの行いはわれわれを決して救えない。行いには救いの力がないからだ。もしわれわれが行いで救われるなら、主イエスは十字架にかかって死なれる必要もなかったことになる。行いによって救いを得ようという試みは必ず失敗する。もし、人が自分の行いで自分を救うことができるなら、キリストは十字架にかかる必要はなかったことになる。それはキリストを十字架から引きずりおろすことになるではないか!?それは律法主義であり、反キリストである。スクエア・ジャパン・チャーチはこの律法主義と云う悪魔の教えを断固として排除するものである。(む)

 

6月13日(木) 

わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。 

だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

エペソ人への手紙 2:10〜12

 

わたしたちは神さまの作品だと聖書は告げている。他の被造物は、ただ言によって造られたというのに、われわれ人間だけは最高の創造者が自ら「土をこねて」造られたのだ、と書いてある。しかも、われわれはイエスを信じて救われ、聖霊を受けたときあらたに再創造されたのだ。最高の創造者によってイエスにあって再創造されたのだ。失敗作などであるはずがない。ある英語の聖書の訳によれば、われわれは、「神の最高傑作(マスターピース)」である、とされている。そのように価値あるすばらしい傑作として創造されたわれわれは、よい行いをするようにと、神によってあらかじめ定められているのだ。

それは、まだキリストを知らなかったときに比べるとなんという大きな恵みであろう。あの頃はこの世の中で希望もなく神もない者であったのだから。

このことをしかと記憶しておこうではないか。われわれは全能の神の最高傑作なのだから。(ら)

 

 

 

6月14日(金) 

ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。 

エペソ人への手紙 2:13 

 

そうだ、わたしたちはかつてはキリストを知らず、この世の中で希望もなく神もない者であったのだった。「遠く離れていた」のだ。このことばを聞くとわたしはすぐに、ルカによる福音書に出てくる放蕩息子のたとえばなしを思いだす。このバカ息子は父親(もちろん神を象徴する存在)のすぐ近くにいたのだがそれをつまらないことと感じて、父親が亡くなったら受け継ぐべき遺産を父が達者なうちに要求するという破廉恥な愚行にでたのだ。莫大な財産を受け取った彼は、「幾日もたたないうちに」、「遠い所へ行」ってそこで放蕩に身を持ちくずして全財産を使い果たしたのだ。

なんという愚かな男だろう、と読者は思われるであろう。しかし、これなのだ。これがかつてのわれわれの姿なのだ。彼は、「遠い所へ」行ったのだ。彼は父から、つまり神から遠く離れていたのだ。

この息子はしかしどん底にまで落ちたとき本心に立ちかえって自分でしてきたことの愚かさに気がついた。そして、父のもとに帰る決心をした。父は自分を裏切りとんでもない親不孝なマネをしたこの息子をもろ手を広げて大喜びで迎え入れた。なんという寛大な、なんというやさしい、愛に満ちた父親であることか!

われわれも、自分の功績ではなく、ただひたすら「キリストの血によって近いものとなった」のだ。それはただ一方的な神の恵みによるのである。感謝しよう。われわれは、今は、神に近いものとされたのだから。(と)

 

6月15日(土)

キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。

エペソ人への手紙 2:14〜15(上)

 

われわれ今の時代の日本人は、平和ボケしてしまっているとよく言われるが、平和のない世界に生きる人はこころの底から平和を渇望するであろう。いや、外国との戦争や内乱、テロなどを引き合いにだすまでもない。あなたは知り合いのだれかと平和を失っていないだろうか。お互いに悪い感情を抱いているとか、だれかの心ない言葉によって深く傷つけられてしまったとか、友人と絶交状態になってしまっているとか、家族のだれかと口もきかないでいるとか、例を挙げればきりがない。人間関係ほど難しく、また、疲れさせるものはない。どこに解決があるのだろう、と思う。しかし、キリストはご自分の肉によって、つまり、十字架で命を捨てることによって、敵意を抱く二つのものを一つにされた。十字架の前でわれわれは自分の罪の深さを思い知らされる。そのときに、自分を傷つけた言葉だとか、親子喧嘩だとか、向こうが先に手を出したとか、そういったことはどうでもよくなってくる。キリストは平和であって二つのものを一つにするのだ。

このエペソ人への手紙が書かれた頃は、この手紙の著者であるパウロのようにユダヤ人である者と、そうでない異邦人の間には高い壁が立ちはだかっていたのだ。彼らは互いに憎みあい、軽蔑しあい、決してひとつになどなれなかった。しかも、彼らのお互いに対する激しい敵意をかき立てていたのは一つにはユダヤ人たちが大事にしていた律法であった。ユダヤ人たちは律法を守らねば救われない、と理解していたし、異邦人はそれを守らないどころか、知りもしない、と言って拒絶し、排斥していたのだ。その隔ての壁をキリストは十字架で命を捨てることによって、たたき壊したのだ!パウロはそのことをこそ、常に声高に主張し続けた。

人が救われるのは律法の行いによるのではない。異邦人のみならず、ユダヤ人でさえ律法を守れないではないか。もうそのような生き方をしなくてもよいのだ。律法を隔ての壁として互いを憎み、差別するのはやめなさい、とキリストは言われる。律法によるのではなく、十字架によって、すなわち神の恵みによって人は救われるのだ、ということをキリストは自らお示しになった。この十字架の前に、すべての人は平等であり、ひとつになることができるのである。(お)

 

6月16日(日) 

それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。 

エペソ人への手紙 2:15(下)〜16

 

昨日も記したようにユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)は互いに決して相容れない敵同士であった。それが「ひとりの新しい人」、「一つのからだ」とされたというのである。もちろん、それは「彼にあって」、すなわちキリストにあってIn Christである。敵対する二つのものが二つのものとして仲良く和合することは非常に難しいことは誰もが知っている。しかし、パウロが言うのは、敵対する二つのものが、一人の新しい人に、一つのからだとなる、ということなのだ。これは、通常の世界では不可能であろう。しかし、「キリストにあって」、「キリストのうちにおいて」ならば可能である、と使徒は告げる。なぜならば、キリストはあらゆる敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったからである。それは十字架以外の場所では起こり得ないことであった。いや、むしろ、このためにこそキリストはこの世においでになり、このためにこそキリストは十字架にかけられたのだ。十字架はユダヤ人だけのためのものではない。もちろんクリスチャンだけのためのものでもない。そこに敵意あるかぎり、キリストの十字架は高く高くそびえ立つ。

さらに驚くべきことには、ユダヤ人と異邦人という二つの人間集団が和解される、という歴史的出来事ばかりでなく、その両方がじつに神との和解を得るということである。

わたしたちは確かにかつては神の敵であったかもしれない。しかし、今はキリストにおいて、十字架によって神と和解させられたのである。神と罪とは決して相容れないものである。しかし、キリストは命にかけて罪を十字架につけてしまわれたのである。

わたしたちはもはや神の敵ではない。また、すべての敵意は十字架にかけて滅ぼされてしまったのである。十字架とはなんと偉大なものであろう。十字架にかけられた神の小羊はなんと大いなる方であることか!(る)

 

**6月17日~23日(佐久間典臣)

 

6月17日(月)

主に従う人の救いは主のもとから来る/災いがふりかかるとき/砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる/主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。

詩篇37:39、40

 

クリスチャンは、災いがふりかかる危険性を理解しなければいけません。それは悪魔があなたを狙っているからです。どこかの安っぽいドラマのように、明らかにあなたを嫌い苦々しい思いで見ているものがいるのです。あなたが熱心なクリスチャンであれば、敵も熱心に計画的に攻撃してきます。罠であったり、その人の弱点をつく最も巧妙な攻撃だったりします。 一番は、その人が自分を責め続けて落ち込んでいくように仕向けることです。そのために、まずは罠を仕掛けて、その罠にかかるように密かな誘導を始めます。その誘導が露見しないように、ダミーを使うこともあります。つまり、人を使って攻撃したり、罠へ誘導したり、怒りを爆発させたりして、大失態を演じさせます。そうなれば、その人は繰り返し落ち込むことになり、自分を責めることになります。それが、悪魔の巧妙な仕業であることとは気がつかないものです。それでは、どうやってそのような敵に対抗すればいいのでしょう。それは、今日の御言葉にあります。「主に従う人」、「主を避けどころとする人」を主は救ってくださるのです。「主にさからう者」とは悪魔のことです。主に反抗するのは悪魔のすることです。そして、ブルンナーによれば、人間はそれほどすごくはなくて、悪魔に誘惑されて罪を犯すような者なのです。だから、このような悪魔の攻撃から身を守るために、主に従順になり、この世のいかなるものにも頼らずに(それが自分あるいは自我にも)ただ主にのみ頼って、避けどころとすることが大切なのです。何も考えていないクリスチャンは、まず知らないうちにやられている可能性があります。すぐに祈りましょう。神様に点検していただくのです。そして、主に従順に生きることをしているかどうか、反省してみてください。神の国へ入る人はこの従順な人だからです。これには簡単なテストがあって、主は「私に従いなさい」と言われたのです。それで、すべてのものを捨ててすぐに従った人だけが弟子となっていったのです。「従順」なのですから、主に言い訳をしてはいけないことも覚えていましょう。(佐久間)

 

 

6月18日(火)

思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。

Ⅰコリント15:33、34

 

「悪いつきあい」とは何のことだろう。あなたに心あたりがあるのならそれが答です。どうでしょう。それは良い習慣を台無しにするものですか。パウロの場合は、復活を否定する者でしたが、あなたを救うことのできる真理を否定する者も含まれるでしょう。そして、偽りの霊も考慮してください。信仰者が恐れるべきものは神のみですが、自らが神を装って偽りを語る霊はタチが悪いもので、信じる心に土足で入ってきて自分への服従を要求してくるので十分気をつけていなければ危険だし、恐ろしいのです。あなたが神との交わりを十分に時間をかけられないと思っているのなら、その理由こそが「悪いつきあい」です。良い習慣を台無しにしているからです。それから、日々の生活の中でストレスを避けることはできません。そのストレスをどのように解消しているでしょうか。それが「悪いつきあい」になっていないか反省してみましょう。愚痴をいうことは否定的な思いなので良いことではありませんが、危険なストレスを貯めるよりは吐き出した方がいい場合があります。問題は、調子に乗って言い過ぎてしまうことです。そうなると、その否定的な言葉が罪になることがあります。どうか、肯定的な言葉を多くしましょう。聖書を読んで神を知っているというのなら、なぜ神を知らないこの世の人たちと同じようにふるまうのでしょう。あなたは明るく自信を持って、どんな時でも肯定的な言葉を語り、逆境の中でも神を讃美する人となりましょう。それを習慣としてください。(佐久間)

 

6月19日(水)

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。

ヤコブ5:7、8

 

世界の様子を見ていると、主の再臨が迫っていると確信できます。事実、聖書は主が来られる時が迫っていると告げています。キリストの初臨の時から二千年が経ちましたが聖書の預言がことごとく成就し、もはや最後の時代に入りいつ再臨が起こってもおかしくないところまで来ています。聖徒たちは、各時代に渡って忍耐の連続でした。そして、私たちの番になりました。「秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」と書かれてある通りに、雨は聖霊降下のことで、秋の雨は初めの雨のことです。それは二千年前のペンテコステに日に成就しました。そして、再臨前に春の雨、つまり最後の聖霊降下が間もなく起こるのです。そうであるのなら、聖霊を受けることのできるように身を正し、信仰をもって清め、祈りながら待つことを「忍耐」と言っていると理解すべきです。間もなく滅びてしまうこの世に何を求めるのですか。私たちは神を信じ、神の国に生きるべきです。心を固くしなさい。主が来られる時が迫っているからです。(佐久間)

 

6月20(木)

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

マタイ14:14

 

あなたは大勢の群衆の中にまぎれている一人のように感じるかもしれません。特別の一人でありたいと願っても、実際はイエス様はお忙しいので私のようなものの事までは手が回らないだろうと思っていませんか。ところが、イエス様はどうも違って見ているようです。大勢の群衆の中にあなたを見つけておられるのです。もしあなたが病人ならば、あなたを癒してくださるでしょう。どうしてか?あなたを見て深く憐れまれたからです。だって、あなたはこの世で随分ひどい扱いを受けたのではないですか。それで、傷ついて誰かに癒してもらおうとしても、そんな面倒な人を誰が愛情をもって接してくれるでしょうか。いろいろ試して、もっと傷んで、深く落ち込んで、でも同情されることもなく、希望の灯がくすぶって今にも消えそうになったのではないですか。そんな時に、イエス様のことを聞いてもうこの方しかいないと思って探しに行くと、もうそこを去っていたのです。それで途方にくれていると誰かがイエス様の居場所を話していてこれからそこへ行くというのです。だから、皆のあとについて行きました。遠い道のりを足を引きずりながら追いかけたのです。ホコリと汗にまみれて、何も口にせずに、疲れきって枯れた棒のようになって、やっとたどり着いたのです。その姿をイエス様は遠くからご覧になられました。悲しそうなお顔をして深く憐れみ、あなたのそばに近寄って来られたのです。そして、不思議なことに何も言わなかったのに、気づけば全部癒されていたのです。イエス様が笑い、あなたも笑います。・・・だから、その他大勢だって思わないでください。ただイエス様を追いかけてください。イエス様はどんなに大勢の人がいても、ちゃんとあなたを見つけてくださいます。(佐久間)

 

6月21日(金)

イエスは・・・、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そして、・・・その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。

ルカ6:8、10

 

あなたの手は萎えてないだろうか。良いことをするのをためらったことはないだろうか。誰かが困っていて、救いの手をさしのべれば助けられるという場面であなたの手が萎えてしまったことはなかっただろうか。勇気がなくて手を挙げられなかったことはなかっただろうか。手の萎えた人はどんな人生を送っていただろうか。いろいろなことができないと思っていたのではないですか。不自由だと思っていたでしょう。でも、それにも慣れてしまって萎縮して生きていたことでしょう。イエス様はその人を真ん中に立たせました。つまり、その人の生きている社会のただ中に引き戻してくれたのです。それだけでは、やがてまた社会の端に追いやられてしまうでしょう。しかし、今日は違います。イエス様が命じて立たせたのですから、何かが起こるのです。イエス様はこう命じられたのです。「手を伸ばしなさい」。その時、この人は言われたようにしたのです。すると、手は元通りになったのです。この話は不思議ですね。主は、あなたに語っているのです。「手を伸ばしなさい」と。いつの間にか失われていた自信や輝きをあなたは取り戻すことができます。主は、あなたがいつのまにか不自由にしてしまったことを今日元通りにしてくださいます。そうそう、この日は安息日だったのです。ですから全てを休んで主のもとに行ってみましょう。そこで、主の命令に従いましょう。「手を伸ばしなさい」。(佐久間)

 

6月22日(

主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

22:61、62

 

主は知っていました。ペトロが三度も「主を知らない」と言うことを。ペトロはまさか自分が主を裏切るとは夢にも思っていませんでした。ペトロは、自分こそが主を一番愛し、一生涯に渡って従って行く忠実な弟子であると自認していました。その言葉に嘘はありませんでした。あなたはいかがですか。イエス様が大好きで、信じているから裏切ることなど絶対にできないと思っていますか。ペトロもあなたに負けないほど主を愛して信じていたのです。では、なぜ人は主を裏切るのでしょう。自分を捨てるのが嫌だからです。最後の最後で主を取るか自分を取るかという場面に遭遇すると必ず自分を取ることになるでしょう。そのあなたを主は振り向いて見つめられるのです。ペトロは主を裏切ったという自責の念で激しく泣いたのでしょうか。それも大いにあるでしょうね。でも、主は振り向いて見つめたのですよ。その目は責めていたでしょうか、それとも憐れんでいたでしょうか。驚くことに主の目は愛に満ちていたのです。主は不当にひどい扱いを受け、殺そうと企む者共のただ中に一人置かれました。どんなにお辛いことだったでしょう。だれ一人味方がいない中で主は孤独だったでしょう。弟子たちはどこにいったのでしょうか。やがて、はじめからイエス様を殺すことに決めていた茶番劇が終わり、主が引き出された時です。敵に囲まれて愛する弟子が一人そこにいたのです。彼は、ただ主を心配して必死に危険の中にとどまりどうなることかと不安にさいなまれていたのです。自分の正体がバレないかとハラハラしどおしでした。そんな彼を「イエスの仲間じゃないか」と声をかける人がいたのです。心臓が止まりそうです。「違う」と言っていました。なんと三度もです。彼はお世辞にもかっこいいヒーローには見えません。ただ主が心配でそこから立ち去ることができなかったのです。主は、否むペトロの声を聞いたでしょう。そして鶏の鳴き声も。そして、振り返ったのです。そこには、やはり弟子が惨めな姿でオロオロと立ってこちらを見ていました。主は、その弟子を愛おしく思って見つめていました。弱くてどうしようもないけれど一途に主を慕っているかわいい弟子ペトロ。そのペトロは主がこれから辿る酷く残酷な死への道を耐えなければならないのです。主は、もうペトロの傍にいてあげることすらできない。主はこうペトロに言いたかったはずです。「ペトロ、よくこんな危険なところまで来てくれたね。さぞ怖かっただろうに。私は十字架の道を歩むから、やがて立ち直って神の国の福音をあなたが伝えるのだよ、あなたにあとのことを託すからね」と。だから、その見つめる主のまなざしは優しくも憂いを含んだものだったでしょう。あなたも自分がどれほど主に愛され、しかも使命を託されているか理解できていますか。主を悲しませるようなことが万が一にもあったなら、ただ素直に悔い改めましょう。主のあなたへの思いは驚く程で、あなたを奇跡の人生に導いていくことでしょう。(佐久間)

 

6月23日(日)

シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

ルカ5:4-6

 

シモンは漁師でした。それで昨夜徹夜で漁をして何もとれなかったのです。この湖があまりに透明で昼間では魚が逃げてしまうため暗くなってから漁をするのです。ですから、明るい今網をおろしても常識では魚はかからないはずです。これは、まるで日本の伝道の話をしているようです。漁師つまり牧師や伝道師たち、そればかりかクリスチャンの全てが一生懸命に伝道をしてきたのに成果があがらないのです。まるで闇夜の中で徒労に終わるような仕事をしてきたように感じているかもしれません。ところが、突然キリストは舟に乗ってきたのです。舟は教会を象徴しています。そして、教会ではこの物語のように、イエス様の教えが今でも語られているのです。キリストは光のあるうちに働けとおっしゃいました。シモンはイエス様に命じられて、常識ではしない昼間の漁をしたのです。その結果はどうでしょう、その網にはありえないほどの魚がかかったのです。シモンの舟だけでは魚を舟にあげることができません。仲間を呼んで他の舟も来て一緒に魚をあげたのです。舟は沈みそうになりました。これを象徴的に読んでみると、昼間とは光のこと、光はキリストの臨在を、そしてそれは聖霊降下によって実現します。つまりこれはリバイバルのことをあらわしています。つまりリバイバルの預言のように読むことができるのです。一つの教会だけでは手に負えないほどの魂(魚)の救霊が起こるのです。教団、教派の壁をこえて協力して救霊の働きをするならば、大勢の尊い魂が救われ、教会はいっぱいになるということです。この物語の最後に、イエス様はシモンたちを人間をとる漁師に召し出します。つまり、弟子の召しが描かれています。だから、この物語全体が弟子である召し出されたクリスチャンの教会に聖霊降下が起こり、その途端にありえなほどの救霊が起こる、そのことをイエス様が望まれているという話になります。それで、教会は今もリバイバルを、それはとりもなおさず聖霊のの到来を祈り求めているのです。驚嘆すべき最後の救霊の時はすでに近づいています。あなたも弟子に召されていることを理解しているでしょうか。奇跡はあなたの目の前で起こるでしょう。その日に備えていることは良いことです。さあ、リバイバルを求めて祈りましょう。(佐久間)

 

**6月24日~30日(中村とおる)

 

6月24日(月)

それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

エペソ人への手紙 1:17〜19

 

パウロは13節で、「あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなった」と書いていたのを覚えておられるだろうか。パウロは「遠くに離れていた」あなたがた、すなわち非ユダヤ人の異邦人たちに並々ならぬ強い思いをもっていたのがよくわかる。ここでは、キリストが遠くにいる異邦人に、そして近くにいるユダヤ人にも平和を宣べ伝えられた、というように順序を逆転させてまで異邦人伝道の重要さを強調しているかのようだ。

キリストのそのような伝道によって、異邦人たちとユダヤ人たちとは「一つの御霊の中にあって」父なる神に近づくことができるというのである。そのことによって、ついに異邦人とユダヤ人は一つになるのみならず、もはや異邦人は遠く離れたものでなく、イスラエルの国籍、すなわち天に国籍を持つものとなり、神の家族とさせられたとパウロは宣言する。そして、パウロはこれらすべての事を行い平和をもたらしたのは、「彼」、すなわちキリストであることを明確に示している。

キリストこそがその血潮によってすべてのものを兄弟、家族としてくださる方なのである。(中村)

 

 

6月25日(火)

またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

エペソ人への手紙 2:20〜22

 

いままで、ちょっと難しすぎることを書いてしまったな、と激しく反省しています。福音とは単純なものですし、わからなかったらなんの意味もないものですからね。

つまり、こういうことなんでしょうね。家を建てるにはしっかりした土台が必要ですし、イエスの時代には建てる家のすべての重量が一点にかかるような建て方をしたそうです。その一点に置かれたのが「隅のかしら石」だったのですね。このかしら石こそがその建物の中でもっとも重要な役割を果たしていたわけです。

わたしたちは、教会と云う目に見えない家、建物に組み込まれているのです。その構造の最重要点はキリストにあります。キリストがなければこの建造物は成り立ちません。

しかし、同じように重要なのはそれぞれの構成部分です。いくら土台がしっかりしていても、全体が正しく組み合わされていなかったら、その建物は主にある(In Christ ですよ!)聖なる宮として成長などできるはずもありません。われわれ一人一人がどれほど重要な役割を背負っているか、深く考えさせられますね。あなたがいなければ、この教会は成り立たないのですよ!

そういう意味においてわれわれは主にあって(In Christ)共に建てられていくのですね。そしてわれわれは霊なる神の住まいとなる、あれほどきよく大いなる方が住んでくださるのですね、われわれのただ中に。(とおる)

 

6月26日(水)

こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロ――わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務について、あなたがたはたしかに聞いたであろう。すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。

エペソ人への手紙 3:1〜4

 

このときにパウロ先生は実際ローマ帝国政府の囚人として獄中におり、「鎖につながれて」(6:20)いたのですね。しかし、かれは自分をローマの囚人とは呼びませんでした。負け惜しみでもなんでもなく、かれは心底から自分を「キリスト・イエスの囚人」であると信じており、そう呼んで憚らないのでした。自分をこう呼ぶ時のパウロは自信と誇りに満ちているようですね。

彼はこの手紙の1章1節では、自分のことを「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロ」と呼んだのでしたが、ここに至ってかれは「キリスト・イエスの囚人」と呼んでいるのです。しかもそれは「あなたがた異邦人のため」であったのです。かれのこころはこれほどまでに異邦人の救いのことでいっぱいだったのですね。そして、かれにとって異邦人の救いは「神から賜わった恵みの務」だったのです。

パウロはこれより以前にはカイザリヤですでに約2年の獄中生活をしているのです。そのあとローマに移されてやはり2年ほどを獄中で送っているのです。それでもこの働きは「恵みの務」であると言い切れるこの人はいったいどういう人なのか、と考えてしまいます。かれにとっては真実キリストこそがすべてであったのですね。

パウロが知らされた「奥義」というのはなんだったと思いますか?すぐその後でかれは「キリストの奥義」と言い換えていますよね。きっとそれはパウロのすべてであったところのキリストそのもののことだったのでしょう。キリストのすばらしさ、それは神から「知らされ」なければ決して理解できないものなのです。

わたしたちも、もっともっとキリストのことを知っていきたいですね。パウロはピリピ人への手紙の中でこう書いています、「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」(3:8)と。「わたしたちは主を知ろう。せつに主を知ることを求めよう」(ホセア書6:3)を合い言葉にして前進していきましょうよ、ね?(こじかちゃん)

 

6月27日(木)

この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。

エペソ人への手紙 3:5〜6

 

キリストという聖なる奥義は御霊によって啓示していただく以外にはわれわれに知らされることはできないのです。聖霊さまの助け無しにはわれわれはキリストに出会うこともできないし、かれを知ることもできません。もちろん救いにあずかることもできないのです。

そして、ここでもパウロの関心はひたすら異邦人の救いに向けられていることがよくわかります。かれらをユダヤ人とともに神の国をつぎ、一つのからだとなり、神の嗣業にあずかるものとさせるのが、パウロの一番の願いでした。

もともとユダヤ人は異邦人の救いなどというものはかけらも考えていませんでした。ある時代のユダヤ教のレビが言ったことばですが、「異邦人とは、地獄の釜にくべられる枯れ枝のようなものだ」というような思想が支配的でした。そのようの宗教に、「外へ出て行って救いを宣べ伝えよ」などという思想が発達していくはずもありません。ユダヤ教はこのようにして、救いを捨て、救いから遠く離れていってしまったのです。

しかし、キリストは初めから、外へ出て行くことをわれわれに命じているのです。ユダヤ教がますます先鋭化し、ますます内側に向いて行こうとしているときに、キリスト教は早くも外にいる人々、すなわち異邦人たちへの救いを最大の課題として掲げていきます。

わたしたちはすべからくキリストにあって一つのからだなのですね。こんなにうれしいことはありません。一つになって主をほめたたえようではありませんか。(とんちゃん)

 

6月28日(金)

わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。

エペソ人への手紙 3:7

 

福音の僕。それはひとりパウロだけのことではありません。あなたも、わたしも、福音に仕える僕なんですね。正直言いますと、わたしは自分が福音の僕だ、ってあんまり考えたことありませんでした。いや、もちろん、神の僕、あるいはキリストの僕である、とは考えてましたよ。でも、福音の僕とは考えてなかった。そうか、わたしたちは福音に仕える僕なんだ、っていう新しい発見でした。

で、福音に仕える、っていうことは、福音のためなら何でもする、っていうことですよね。福音とは「よいしらせ」、英語で言えば”Good News”っていう意味です。

聖書は告げます、「罪人は天国へ行くことができない。そしてすべての人が罪人である、すなわち、天国へ行ける者など一人もいない」。これはどう考えたって「悪いしらせ」、

“Bad News” ですね。ところがキリストがあなたの罪をあがなうために、あなたの身代わりとして刑罰を受け、十字架で死んでくださったので、あなたにも救われて天国へ行く道が開かれた、というのは”Good News” じゃないですか?

あなたのために命を捨てちゃうくらいあなたを愛してくれる神、キリストがいる。そして彼を信じ彼を救い主として受け入れるだけであなたは救われる。これが福音です。わたしたちはこの”Good News” を携えて全世界に出て行くのです。まだ、このよい知らせを知らない人々に伝えるためにわたしたちは召されたのです。だからわたしたちは福音の僕なのですね。

そして、わたしたちが福音の僕となったのは、決して自分の力によるのではなく、ただ神の力が働いて、神の恵の賜物としてわたしたちは福音の僕とされたのです。賜物ですから、タダで与えられたものです。これからもわたしたちは福音に仕える僕として、そのすばらしい”Good New” を全世界に宣べ伝えていきましょうね。そのためにわたしたちは神さまによって、召されたのですから。(こじかちゃん)

 

6月29日(土)

すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。

エペソ人への手紙 3:8〜9

 

パウロはここで自分のことを「最も小さい者」と呼んでいますね。新共同訳では、「最もつまらない者」って訳されていますよ。これは見せかけだけの謙遜さではなく、キリストという真実に大いなる方の前に、自分がどれほど小さい存在であるかを身に沁みて知らされた結果なのです。わたしたちがお仕えしているお方がどれほど大いなる方であるかを忘れるとき、傲り高ぶりが生まれます。そうなるともはやその人は神の僕ではありません。自分に仕える者となってしまうのです。

わたしたちは傲り高ぶっているヒマなどありません。わたしたちに託されているものは、無尽蔵の富であり、創造主の中に世々隠されていた奥義なのです。これはどれだけ研究しても研究しつくすことなど到底ありえないほどものすごいものなのです。だからこそ奥義なんですけどね。

わたしが驚嘆するのは、そんなにものすごいメッセージを託されているのが、わたしたち、「最も小さ」く、「最もつまらない」者たちなのだということなのです。どうして神はそのような大いなる務を、もっと立派な人々に託すか、いや、それよりもどうしてご自分でなさらなかったのでしょうか。そのほうがずっと力強く、効果的に、問答無用の説得力をもって伝えられたであろうに、と思ってしまうんですよ、わたしは。

でもね、うれしいですよね。だって、神さまはこんな小さな、つまらないわたしたちを信じてくださっているわけでしょう?信じているから、この務がわたしたちに与えられているわけですからね。

神さまが恵みによってあたえてくださったこのメッセージを一人でも多くの人に宣べ伝えていきましょうね。わかりにくく、じゃなくて、「明らかに」示していきましょう。(とおる之介)

 

6月30日(日)

それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。

エペソへの手紙 3:10〜11

 

天上にあるもろもろの支配や権威とは、天使群を意味すると考えていいでしょうね。おもしろいですね。昨日のところでは、パウロは自分自身のことを「最も小さい者」「最もつまらない者」と呼んでいましたが、神からあずかった務のことになると、ついには天使の軍勢にも知らしめようと言い切るのですからね。彼にとっては自分のことはどうでもいい、キリストが命かけて成し遂げた真理があまりにも絶大な価値があるので、それはなにを措いても伝えていかねばならないほど大事なものだったんでしょうね。

しかも、その重要な知恵は「教会をとおして」伝えられていくのですね。そう考えると、教会って一体何なんでしょうね。この教会を通して神の多種多様な知恵が知らしめられるんですからね。そんなにすごいのかね、教会って、って思いません?教会こそ、神の栄光を世に示していく、大きな力になるべきものなんですね。

もっと驚いちゃうのは、「わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである」というのは、パウロが神の恵みの賜物により、福音の僕とされたということを言っているのだ、ということです。わたしたちは、偶然神の僕になったわけではないし、能力があったからでもないし、じつにそれは神の永遠の目的にそって実現されたことだったんですね。初めから神の永遠の目的の中にわたしたちは置かれていたんですね。それも異邦人だけでなく天使にまでもこの務を知らせるためだった、とは!いやあ、神さまってホントにすごいんですね!(こじか之丞)