**7月1日~7日(佐久間典臣)

 

7月1日(月)

おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」この時、わたしは献酌官として王に仕えていた。

ネヘミヤ1:11

 

ネヘミヤはペルシャのアルタシャスタ王の献酌官でした。それは、王に直接仕える者で王の宮廷では重要な役割を担っていました。王は絶対の権威をふるっています。それで、王に何かを願いでたり話すことは危険を伴いました。もし王の好意を得ることができなければ死刑になることもあるので、うかつなことを口にすることは許されないことでした。でも、ネヘミヤはエルサレムの惨状を知り、もはや知らん顔をすることはできなかったのです。すぐにでもエルサレム再建のために行動に移りたかったのでしょう。それで、主に熱烈に祈ったのです。あなたは、神のことを思ったり、教会の建物のような神聖な場所や神殿のために祈ったことがありますか。そのために命の危険をも顧みないで、強烈な願いを主にささげたことがあるでしょうか。ネヘミヤがもし、献酌官でなければ、王に直接話すことはそう簡単ではありませんでした。ネヘミヤもまた、良い地位についていたからといって何でも気軽に王に願えるわけではなかったのです。それなのに、主はネヘミヤを選び、これから何をするか導いておられるのです。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)とあるように、ネヘミヤにも主は働かれたのです。あなたにも、何か主が願いを起こさせることがあるでしょう。それは、普通の方法とは違って、主の力が明らかに働き、その願いを実現させるはずです。そのような、主の器になることを願いましょう。(佐久間)

 

7月2日(火)

「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」・・・わたしたちの神はわたしたちのために戦ってくださる。

ネヘミヤ4:8

 

ネヘミヤは多くの困難を抱えることになりました。それはエルサレムの城壁を修復しはじめたからです。敵がいました。それは外国人であり、また臆病になったユダもネヘミヤにさからったのです。それで、ネヘミヤは貴族や役人やその他の戦闘員を鼓舞するために今日の箇所の言葉を語りました。霊的に考えれば、信仰の道は敵との戦いの連続です。敵とは人間ではなく、悪魔、罪、死であると考えます。それでは、あなたはこの敵とどのように戦っているでしょうか。あなたが悪魔の誘惑にあい、罪を犯し、その結果として死ぬことになれば、あなたは負けたことになるでしょう。興味深いのは、神は私たちのために戦ってくださるので心強いのですが、私たちも必死に戦うことが要求されているのです。必勝法は「家族のために戦え」です。あなたの信仰の戦い次第で家族にも影響がでるということです。孤軍奮闘するのではなく、自分の持ち場を守り、修復するために仲間と共に、また主なる神と共に働き戦うのです。城壁が完成すれば、敵は攻撃を仕掛けてくることが困難になります。それは、信仰者にとっては、聖化することです。聖霊と共に信仰を働かせて自分自身を変えることです。どう変えればよいのかわからないなら新約聖書に書いてあることを聖霊の助けを得て実行することです。(佐久間)

 

7月3日(水)

わたしは言った。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。わたしも、わたしの兄弟も部下も金や穀物を貸している。わたしたちはその負債を帳消しにする。あなたたちも今日あなたたちに負債のある者に返しなさい。畑も、ぶどう園も、オリーブ園も、家も、利子も、穀物も、ぶどう酒も、油も。」

ネヘミヤ5:9-11

 

正義を行うとはどうゆうことだろうか。クリスチャンとして生きる時、私たちは正義を行うことを大切に考えまた実行すべきです。今日の箇所では、ネヘミヤはユダヤ人から苦しい実情を訴えられました。世の中では、貧しい者が貧困で苦しむのはしかたがないと切り捨ててしまいがちです。そのような者たちから僅かな貸した金が返せないと農地を取り上げ、娘を奴隷として売らせることを同じユダヤ民族、同胞がしていたのです。しかも敵にユダヤ人の娘が売られていくなど、なぜ許せるでしょうか。それを貴族も役人も見過ごし何もしなかったのです。ネヘミヤはユダヤ人を集めてこう言ったのです。「敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか」。私たちならば、ノン・クリスチャンに卑しめられないために、神を畏れて生きるはずではないのか」と言われたようなものです。神を畏れて生きるとは、正義に生きることです。正義は不正を駆逐するのです。ネヘミヤのしたことを見てください。自分に負債を負っている者に返さなくてよいと言いました。それどころか、すべての民に同様に貧しい同胞の負債を免除するように誓わせたのです。キリストは、私たちの罪の負債を全て自分の命の代価を十字架で支払って贖ってくださいました。これは、人間の常識では考えることのできないものです。クリスチャンの正義は、このキリストに倣うことです。常識に縛られていると、それ以上のことは何も期待できません。しかし、一旦正義を貫くと大きな愛が動くのです。「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(Ⅰペトロ4:8)。この御言葉の通りにネヘミヤは生きたのです。さあ、あなたはこのチャレンジを受けています。人は見ていなくても主は見ておられます。主はあなたを用いて正義をあらわしたいのです。(佐久間)

 

7月4日(木)

エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。

ネヘミヤ8:5、6

 

祭司エズラは、律法の書を開きました。その時、民は全員立ち上がったのです。それは壮観な光景だったでしょう。エズラが主を讃めたたえると、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と声を合わせて唱和しました。そして、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝したそうです。一つの民族が揃って主を礼拝しているのです。さて、新約聖書では神殿は救われた人のことを指しています。聖霊の宮と言いますね。罪のために汚れた体、モラルの破壊、神との断絶、自己中心な考え、堕落した愛、いずれも破壊された城壁が象徴しているものです。しかし、城壁は修復できるのです。敵に屈することのない勇気と必ず完成させるという強い意志は神から来ていました。ネヘミヤは大切な場面で「心に神の指示を受けて」いたことを記録しています。ところで、エズラが読み上げた律法とはモーセの五書であったろうと言われています。それをレビ人がアラム語に翻訳して、朗読も交代しながら続けたようです。そのため、夜明けから正午まで読み上げたのです。今と違って本が発明されていないので、ただ一度耳で聞いて理解したのです。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(8:10)。この御言葉は今も変わりません。さあ、今日も主を喜び祝おうではありませんか、力が湧いてきますよ。(佐久間)

 

7月5日(金)

律法に立ち帰るようにと/あなたは彼らに勧められたが/彼らは傲慢になり、御命令に耳を貸さず/あなたの法に背いた。これを守って命を得るはずであったが/彼らは背を向け、かたくなになり/聞き従おうとしなかった。

ネヘミヤ9:29

 

律法に立ち返ることは、これを守って命を得ることでした。しかし、イスラエルの民は背いたのです。クリスチャンは、律法を守り行うことの困難を知っていますし、行うことによる義は無いことも理解しています。しかし、律法そのものは守れば命を得るものです。守れないのは生まれながらの人間が罪人だからです。肉に罪が宿っていたのです。この罪を消す方法がイエス・キリストの十字架の贖いです。信仰によって成り立っています。まさに信じた通りになるのです。ところが、イスラエルの民のようにクリスチャンでも傲慢になり、背を向けて聞き従おうとしない人が現れます。聖霊は律法を守れるように助けます。それは、主に愛されて、初めて愛がわかったので愛という目で全てを見るようになったということです。勿論、聖霊が働いて愛が現れます。聖霊の愛の思いが心に溢れます。人間的になってしまって、愛を見失い、人を傷つけることも起こります。そのような時には聖霊が働くことを願っていません。心がイラついた時にこそ、「私ではなく主が○○してください」と祈るのです。否定的な考えを自由にさせてはいけません。また、全てがうまくいっていると自分勝手に主を忘れ傲慢になることがあります。これも、危険なことなのです。傲慢ということは、主の戒めを守らなければいけないことを知っていながら、自分の力では守りきれないことを体験的に理解し、福音による聖霊の支配と助けに服従することで守れるのに、それをしていないで未だ自分勝手に生きていることを傲慢といいます。この戦いこそがクリスチャンの課題なのです。では、どうすればいいのか。聖霊にへりくだって、いつでも主を愛し、主が愛してくださったように隣人を愛することです。律法とは愛することに尽きるからです。聖書を読んで教訓を学ばなければ、旧約聖書のイスラエルのようになる危険が待っているのです。(佐久間)

 

7月6日(土)

実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。祭司とレビ人は神への務めと清めの務めを守り、詠唱者と門衛はダビデとその子ソロモンの定めによく従った。ダビデとアサフがいた昔の時代のように、詠唱者の頭がいて、神への賛美と感謝の歌をつかさどった。ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの民は皆、毎日詠唱者と門衛に生活の糧を提供した。また、レビ人には奉納物を与え、レビ人はその奉納物をアロンの子らに分け与えた。

ネヘミヤ12:44-47

 

ついにエルサレムの城壁の奉献がなされました。それは、異邦人の手による破壊、捕囚、そうした悲惨な悲しみから随分と月日が流れてのことでした。誰もが不可能だと思ったことを信仰者はやり遂げたのです。その成果がここに書かれていました。ユダの人々が祭司とレビ人の働きを喜んだのは、あの平和で栄えていた古の聖都エルサムが蘇ってきたように思えたからです。そこでは神殿で聖なる働きに就く大勢のレビ人や祭司がいました。その奉仕を二度と見ることはないと誰もが思っていたのです。神殿中心の宗教国家が滅んでその象徴であった、神殿が使われることなく放置されていたのです。それが昔にタイムスリップしたかのように、全く同じように祭司、レビ人、門衛、詠唱者、神殿の使用人などがそれぞれの働きに就いているのです。ついにエルサレムに主の威光が取り戻されたのです。そこには、聖職者への生活の糧を提供することが付け加えられています。この仕組みも神の定めだったのです。それは、十三章で一つの問題となって現れてきます。城壁ができてようやく平和がやってきたと思えば、罪は容赦なく内側から起こってくるのです。その罪のせいでエルサレムは破壊されたはずなのに、また同じ過ちを犯しそうになるのです。ネヘミヤは改革を断行することになります。ネヘミヤから学ぶことはまだまだありますね。あなたも、救われて平和を得たなら、神のために生きなさい。自分のために生きるなら、かならずや罪に戻っていくことになるからです。この世に属さないで神の国に生きる者になりなさい。ネヘミヤのような主のために生きるという信仰の人を目指すのです。そうすれば、さまざまな思い煩いにも勝利して生活することが容易になるでしょう。(佐久間)

 

7月7日(日)

わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください。

ネヘミヤ13:31

 

ネヘミヤ書の最後の章は、宗教改革リストのようになっています。それは、宗教上の罪をやめさせ、律法を遵守させることをネヘミヤは果敢に、しかも断固と実現したことがわかります。この国がどうしてこれほどの破壊を受け、悲惨な有様になっていたのか彼らは知っていたはずです。そして、神の憐れみによりようやくエルサレムの城壁が修復され、永い屈辱から解放されたのです。それなのに、また、同じ罪を犯すとはどうゆうことでしょうか。もう一度主の怒りを受けたいのでしょうか。それとも主を侮っているのでしょうか。だから、ネヘミヤは怒り、徹底的に罪を排除したのです。この聖書箇所を読むと、人間の強烈な罪の傾向に驚かされます。そして、人間はやはり二つのグループに分かれて行くのです。神の御心に忠実な者と、自分の心に忠実な者とに。神を愛しているのなら、神を喜ばせようとするはずです。もし、あなたもそうであれば、その正しい方を選び、ネヘミヤのように言うことができます。「わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください」と。(佐久間)

 

**7月8日(月)〜7月14日(日)中村とおる

 

7月8日(月)

この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。

ヨハネによる福音書 3:12

 

知っておいていただきたいのは、神はわれわれが軽はずみに近づくことなど絶対にできない、そんなことは考えるのも愚かなくらい、聖なるお方であったということなんです。昔のイスラエル人は神、主の名を口にするのも許されないと考えて、どうしても神の名を呼ばねばならないときは、別名で呼んでいたほどに、神はわれわれ人間からかけ離れた存在であられたのです。

その大いなる神にわたしたちは確信を持って大胆に近づくことができるようになったのですが、それはひとえに主キリストにあって(In Christ ですよ)、しかも彼に対する信仰によって、なのです。確信を持っていいんです。こんなに罪深く、こんなに汚れたわたしたちが大胆に神に近づくことができるとは!!!これはたしかに「いい知らせ」(Good News) ですよね。これを福音といいます。

あなたが神に近づきたくないのなら、それはそれでいいでしょう。それはあなたの自由な意思による選択なのですから。問題は、あなたが神に近づきたいと思っているけれども、自分の罪深さのゆえにそれがかなわないと思っている場合なのです。

あなたは神を愛しており、愛する神に近づき、共に生きてゆきたいと思っている。しかしそれが許されないならばこんなに寂しく悲しいことはありません。

ところが、キリストがすべてを可能にしてくれたのです!神に近づくことなどできないはずのわたしたちが、キリストの犠牲のゆえにそれが可能になったのです。しかも、わたしたちは確信を持って大胆に神に近づくことができるのです。大好きな神さまになにも思いわずらうことなく大胆に近づいて行けるとはなんとありがたいことでしょう!

わたしたちのすべての望みはただキリストにあるのです。 (Toru Nakamura)

 

7月9日(火)

こういうわけで、わたしはひざをかがめて、

天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。

エペソ人への手紙 3:14〜15

 

ここからパウロの祈りが始まります。その内容はこれから学んでいきますが、みんなが神の愛によって満たされ力づけられていって欲しいという祈りです。パウロは手紙の中でしばしば祈りを書いていますが、どれも読む者のこころを打つような真情あふれるものばかりです。

さて、ここでパウロは「こういうわけで」ということばで書き始めていますが、3章のはじめあたりから脱線していた話の流れをもとに戻しているわけです。2章のおわりでは、あなたたち異邦人が自分たちと(すなわちユダヤ人と)一体になったということを強調していましたが、ここではそれを受けて、あなたがたも内在するキリストの愛に満たされて生きていくようにと切に祈るのです。

そして、パウロは祈る自分の姿勢を、「ひざをかがめて」と書いていますが、わたしたちが忘れてならないのはこの手紙をパウロはローマの獄中で書いた、ということです。殺風景な、もしかしたら陰惨でもあるかもしれない牢の中にいるパウロが、そんな環境などおかまいなしに自分の働きの実であるエペソのクリスチャンたちのために、獄中でひざまずいて祈っているのです。そんな彼の姿を想像してみると、わたしたちはパウロの真摯な愛にこころを打たれるのです。わたしはこういうパウロの言葉に接するたびに、自分の祈りのいい加減さを思い知らされます。もともといい加減な人間なのだからしょうがない、などと言い訳するわけにはいかない。少なくとも神との関係においてはもっともっと真摯でなければいけない、と感じさせられるのです。あなたはいかがですか?

そしてパウロは「父」に祈ります。その「父」はあらゆるものの源なのです。すべてのものはこのお方によって造られた、その創造主に祈る。ですから、ユダヤ人も異邦人もない、すべての人はこのお方を父とする神の家族であるのだ、という大胆な思想です。異邦人伝道のために命をかけた偉大な伝道者、パウロの面目躍如というところでしょう。(T.N.

 

7月10日(水)

どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、

エペソ人への手紙 3:16

 

 

パウロの祈りの初まりは、エペソの信徒たちの内なる人が強くされるように、ということでした。彼は13節で、「落胆しないでいてもらいたい」と書いていました。それは投獄され、苦難を受けているパウロを見て、彼らが落胆することのないようにというパウロの願いでした。そのことと直接関係しているかどうかはわかりませんが、エペソには信徒が落胆してしまうような状況があったのは間違いないでしょう。そのことを心配したパウロは真っ先に神にそのことを祈ります。

ここでパウロは、「力をもって」、「強くして」と二度も繰り返すようにして強められることを願い求めています。そこにパウロの真剣さを感じます。

そして重要なことは、これほどまでにパウロが強められることを願っているのは、「内なる人」であるということです。キリストを受け入れることによってわたしたちは「新しき人」を着ます。「古き人」は投げ捨てられたのです。このようにしてわたしたちの「内なる人」は新しくされました。その部分、いまやわたしたちの主となられたイエスの支配しておられる「内なる人」が、なによりも強められなければならない、とパウロは知っているのです。

それは決して人間の力でできることではありません。自分の力に頼っていては決して成し遂げられないことなのです。「父」だけが、ただ神だけがおできになることなのです。「父」がわたしたちの「内なる人」をも聖霊によって強化してくださいますように。(とおるこ)

 

7月11日(木)

また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、

エペソ人への手紙 3:17

 

そうですね、キリストがわたしたちの心のうちに住んでくださることによって、わたしたちは変えられていくんですよね。そのとき、わたしたちの生活は愛に根ざし愛を基としたものに変えられていくのですね。

今のあなたの生活は何に根ざし、何を基にしていると思いますか?

自分の経験や知識?自分の常識?自分の能力?仕事?自分の欲望?

きっとそれらは立派なものなのでしょうね。

でもね、聖書によるとそれらはたぶん本当にあてになるものではないようですよ。いや、普段はけっこうあなたの力になってくれるのでしょう。けっこう頼りになるものなのでしょう。しかし、問題は本当にあなたが助けを必要としたときの話なんですよ。

たとえばあなたが仕事に失敗してすべてを失ったとする。誰があなたのそばにいてくれますか?だれがそれでもあなたを支えてくれますか?

あなたが自分ではどうしようもないような重い病気にかかってしまったとする。誰があなたに勇気を与え、慰めと励ましを与えてくれますか?問題はあなたが本当に助けを必要としたときの話なんですよ。。。

キリストがあなたの心の中に住み、あなたが愛に根ざし、愛を基として生きていくことができさえすれば。。。

パウロは、もし、あなたにそれができるとすれば、「信仰によって」、ただ、信仰によってのみそれらは達成されるのだ、というのです。他に道はない。キリストを信じる信仰こそがわたしたちに与えられている力なんですね。(AKBとおる)

 

7月12日(金)

どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

エペソ人への手紙 3:20〜21

 

結局、「わたしたちのうちに働く力」なんですよね、決め手は、っていうか、すべては。どうしてわたしたちはわかりきっているはずなのに、すぐにこのことを忘れてしまうんでしょう。。。すぐに忘れて自分の力に頼ってしまう。自分の努力や才能で何かができると思ってしまう。もちろん、わたしたちには神さまからさまざまな才能(というよりも賜物と呼ぶ方がいいでしょうね)が与えられているし、努力だってしなければならない。でも、神さまを忘れてそれらに頼ってしまう、というのがワナなんですね。

神さまはわたしたちが求めることや思うことのいっさいを、はるかに越えてかなえてくださる方なんです。それを「うちに働く力」によって成し遂げてくださるんですね。それを忘れちゃあいけませんよね。

こんなことってありませんか?なにかをしようとする。そのときにまず神さまに訊いてみるどころか、神さまをまずそのプランから閉め出す。神さま、これは自分でやれそうですから大丈夫です、しばらくむこうに行っていてください、ってね。無意識のうちにそんなことをしてしまっている。

「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ人への手紙 2:20)

このことを忘れないで生きていたいですね。神さまに栄光がありますように。(とおる)

 

7月13日(土)

さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、

エペソ人への手紙 4:1〜2

 

アップが遅くなってごめんちゃい!

一般的に言われることですが、エペソ人への手紙は前半1〜3章はパウロによる教えが中心であり、後半の4〜6章は、実践的な内容、行いとか道徳とか、そういうものが中心になっていると考えられています。そうすると、ここからいよいよパウロはクリスチャンたるもの、どのように生きていくべきかという彼自身の論を進めていくことになります。

そこでまず彼は自分を「主にある囚人である」と呼んでいます。実際パウロはこのとき獄中にいてこの手紙を書いていたのです。その意味においてかれは確かに囚人でした。しかし彼は自分をローマ帝国の囚人とは呼びませんでした。どんな境遇にあろうともかれは主の囚人であり続けたのです。

そんな彼がエペソの信徒たちに真っ先に勧めたのは彼らの召しに関することでした。皆さんは、召しなどというものは牧師や宣教師といった特別な人だけに与えられているものだとは思っていませんか?だとしたらあなたの考えは間違っていると言わざるを得ません。すべての人がイエスに召されています。あなたも、あなたでなければできないことのために主から召されているのです。なによりもまず、そのあなたへの召しが何であるかを知っておく必要があります。それはとても神聖なものなのです。全能の神が、この宇宙を造られた大いなる神があなたに持っておられる召しです。それにふさわしく歩きたいですよね。

そのためにまず必要なことはできる限り謙虚である、ということです。いや、それはたしかに難しいことですよね。いつでも、どんなときでも、謙虚であるのは非常に困難なことであると思います。でも、主はそれをあなたに求めておられますし、そうなれる力を主は約束しておられます。問題は主が与えて下さる力なり能力をあなたが受け取っているかどうか、ということだと思います。それは主があなたにくださるプレゼントなのです。プレゼントはあなたが受け取るまではあなたのものにはなりません。主の賜物を感謝していただきましょう。そこから、第一歩が始まるのですから。(とんちゃん)

 

7月14日(日)

あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。

エペソ人への手紙 4:2〜3

 

次に主が求められるのは柔和と寛容であることです。これってどうでしょう?言われて、はいそうですか、じゃあ、柔和で寛容でありましょう、ってできますか?こんなことで怒っちゃいけない、って思うけど怒っちゃうことってないですか?人には寛大でありたいと思っても、どうしても自分には寛大で人には厳しくなってしまう、、、そんなことってない?

忘れないでいただきたいのはこれが神からの召しである、ということです。神があなたを召された。あなたでなければできない尊い働きにあなたは召されている。そのときにあなたが謙虚で、柔和で、寛容であることが求められているとすれば、それは神さまが与えて下さいますよ。わたしたちの神さまは、勝手にわたしたちを召しておいて、「あとは自分でがんばれよ、謙虚で柔和で寛大であれよ、そうじゃなきゃだめだよ」などとはおっしゃいません。そんな神さまじゃあありませんって。

神様のご命令は同時に約束でもあるのです。「このようにしなさい」とおっしゃるときには、そうなれる力を必ず与えて下さる方なのです。だからわたしたちはこの神さまが大好きなんでしょう?そういう神さまのうちにあって、わたしたちは愛と、平和と、一致とが与えられるのです。

教会なんてまるっきり違う人の寄せ集めじゃあないですか。どうすりゃあ、これほどまでに違っている人々が一致できるんですか?

イエスの十二人の弟子たちだってそうだったんです。とてもじゃないけど、一致どころか、仲良く暮らしていくことだってできっこないような人々が集められたんです。しかし、かれらは、初めはダメだったけど、次第に柔和、寛容、愛、平和、一致が与えられていったのです。弟子たちが立派だったからではありません。主が与えられた賜物だったのです。それをもらうかどうか、受け取るか否かはあなたが決めることなのです。(とこちゃん)

 

**7月15日~21日(佐久間典臣)

 

7月15日(月)

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

へブル12:11

 

クリスチャンが避けて通れない事があります。それは、神の子として鍛錬を受ける事です。高校に入学した時にテニス部に入りました。初めは基礎体力を養うために、走ったり体を鍛える辛い練習ばかりしていました。それが、後で役に立つのですが当座は喜ばしいものではありませんでした。同じように、信仰者の道も鍛錬が必要なのです。「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」(10節)とその目的が何であるかが書いてあります。クリスチャンが呼び出された者であることは確かですが、その全員が天国に行くとは決まっていません。選ばれた者だけが天国に行くことになります。それで、ただ、洗礼を受けてクリスチャンになったことで済ませていてはいけません。聖なる者になることを目指します。それは、神の神聖にあずかるためです。それは、決して人間的なものではありません。だから、律法学者やファリサイ派の人達は間違ったのです。聖霊が内住しているのなら、その聖霊のお働きに従うことです。すぐさま鍛錬が始まります。悲しむことになるかもしれません。そこで、聖書の登場人物がそのような時にどうしているか見てみましょう。信仰で乗り切るのですが、問題に背を向けることはありません。自分の無力を知れば、それだけ主により頼むでしょう。自分の力でできることがほとんどなければ、絶望的になりますが、それだけに一生懸命に祈るでしょう。そして、助けてくださるまで、離しません、と主にすがるように祈ることでしょう。そこに、秘密があるのです。私の思い通りに生きたいという思いが取り去られていきます。また、批判されたりすれば、落ち込んだり、怒ったりするものですが、その批判を謙虚に受け止めて反省してみると足りない自分を変える事ができるようになります。主が許さない無意味な批判はないと思えば、何かしら益となることが得られます。立派な事を言うだけで実行しない人は少なくありません。それは、人のために生きている人です。自分のために生きようとすれば、実質を取ります。つまり、未完成の自分をより良くしていくためには、人の目に映る事実を知る事の方が的確で早いのです。誹謗中傷は傷つくことなので気をつけなければいけませんが、正しく批判してくれた場合は、へりくだり素直に反省して悪い所を変える努力をすべきです。それをやり遂げると、後で大きな祝福となります。力あるクリスチャンになることが出来るのです。試練も、環境の変化も、失業も、病気ですら、鍛錬に使われます。そこで、信仰がなければ益になることはないかもしれません。だから、今日の御言葉を読んで正しく考えてください。今の困難の意味を理解して、鍛錬としてうけとめればやがて義の実を結ぶことができます。  (佐久間)

 

7月16日(火)

神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。

ヨハネ3:22-24

 

祈りの素晴らしさは、「神に願うことは何でもかなえられます」と聖書に約束されているからです。ただ、条件があります。神の掟を守ることと、御心に適うことを行うことです。では掟とは、イエスの御名を信じ、互いに愛し合うことです。これは十戒の前半と後半のことです。心を尽くして主なる神を愛することと自分を愛するごとくに隣人を愛するということです。この愛の掟が守れなかった人たちは、聖霊のことを学ばなければなりません。神の掟は、肉では守ることができません。ただ、内住の聖霊の支配に委ねる時に、つまり自分の愚かな考えや行いを捨てて、聖書に書かれた通りにできるよう聖霊に任せるのです。それは、自分を捨てることになります。そうすればその分聖霊の愛が溢れ出てくるのです。それがあまりにも素晴らしいので、たとえ喧嘩して傷つけられた相手でさえ愛する思いが溢れてくるのです。昔、まだ若い頃に母親と妹と同居していた時期がありました。その時に、家内は妹と大喧嘩をしてしまい大変傷ついたのです。それで、何年経っても癒されることがありませんでした。それからしばらしくして、私が牧師となった1年目に私も家内も聖霊のバプテスマへと導かれました。そして、ある日家に帰って来ると家の中が真っ暗でした。家内はどうしたのだろうと心配して電気をつけると家内がそこにいて泣いているのです。驚いて聞いてみると、「あなたの妹を愛する思いが溢れて止まらないので泣いているのです。妹のことを赦します。そして、どんなに愛しているか妹に伝えるために手紙を書いていいですか」と言われました。これが、聖霊のバプテスマを受けて起こった出来事だったのです。神が家内の内にとどまっておられることがはっきりわかりました。神が与えてくださった聖霊によってわかったのです。(佐久間)

 

7月17日(水)

わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。

詩篇27:13、14

 

詩篇記者は敵に脅かされています。そこで、祈り始めます。その祈りがこの詩篇27篇です。私たちはこの世の中で働き、生きているので、神を恐れぬ者から攻撃されることがあります。時には、理不尽な扱いを受けることも避けられません。もし、神を信じていなければ、ただ落ち込むだけでしょう。しかし、主はあなたの光、あなたの救いなのです。誰を恐れることがあるでしょう。主があなたの砦なのです。あなたは誰の前でおののくことがあるでしょうか。あなたを苦しめる者が迫ってきても、その敵こそがよろめき倒れるのです。万が一、災いの日が訪れるなら、主はあなたを聖所の奥に隠すので安全です。あなたは主を礼拝し、歓声をあげて主を讃美するでしょう。だから信じるのです。この世で主の恵みを見ることを。「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ」。すでに、あなたの祈りは聞かれています。「主を待ち望め」。(佐久間)

 

7月18日(木)

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。

テトス3:4―6

 

聖書の教える、救いがここに書かれています。どうでしょう、教会で聞く救いは普通、罪の赦しの話が十字架の贖いとして語られています。そのことは、ここでは「御自分の憐れみ」という言い方で済ませています。しかし、救いは、「聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造り変える洗いを通して実現した」と書かれています。それで、この部分について学ぶことが重要なのです。聖霊の働きは、新しく生まれさせることです。それは、罪人が霊的に死んでいるために、新しく神の息である聖霊を人の内側に吹き入れることで、新しく生まれさせるのです。聖霊がその人の息となることが重要です。古い人が入り込む余地を残してはいけません。自分の息をしないということです。聖霊が生きていることです。そうやって、信じることでスイッチを切り替えるのです。古い人スイッチを切りにして、新しい人スイッチを入れるのです。さらに、重要なことは、「新たに造りかえる洗い」です。水と霊の洗礼ととってもいいのですが、実は、クリスチャンになってから古い人でなく新しい人として生きるために、新しく造りかえる必要があります。それを実現する方法が聖霊によって聖なる者になるように働いていただきます。それに同意して、熱意をもって取り組みます。聖霊が働くことによってのみ実現することなので、聖霊が自由に働くことができるように信仰を働かせる必要があります。聖霊が自分を造りかえることに協力するのです。聖霊がどうしたいのかは新約聖書に書いてあります。普通では読んでも何も起こりませんし、実行しても長続きしません。それで、聖霊が聖書に書かれた通りに変えてくださると信じます。その分、この世で自分が持っていたものを失います。そのことが惜しいとは思わない心が与えられているのです。それで、聖化が始まっていきます。まさに、洗うという表現通りに自分の聖でない部分が洗われて、清められ、聖なる生活をはじめるのです。律法を自分の力で守ろうとした失敗とは違って、聖なる者は神との交わりができるので、その価値に目覚めるのです。クリスチャンの目標がキリストの徳の高さであるとするなら、キリストの徳とは何かを理解したいですね。それは、公生涯に現れていました。この世的には何も持っていなかったイエス様が多くの人に与え続けました。それも、癒しや悪霊の支配からの解放、死人を蘇らせる奇跡、5000人の給食や嵐を一言で静めるなど、この世のお金ではどれ一つ買うことのできない高価なものばかりを無償で与え続けたのです。このイエス様に倣うことができるように聖霊の洗いがあるのです。そして、あなたにもその恵が与えられているのですが、あなたが聖化することを願わなければ聖霊は働けなくなります。どうでしょうか、イエス様に目を向け、聖なる者へ作りかえていただけるように、祈ってみませんか。あなたのための聖霊の計画がすぐに始まると思います。(佐久間)

 

7月19日(金)

イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

ルカ17:14-18

 

少し長い引用ですが、ここから神を讃美することを考えてみましょう。ここには重い皮膚病で苦しむ10人の人々が登場します。彼らはイエスを待ち構えていて、憐れみを請います。そこで、イエスの処方箋は祭司の所へ行って体をみせるというものでした。彼らはすぐに出かけます。そして、その途中で10人全員が清められます。しかし、大声で讃美しながら戻って来たのは一人だけでした。しかもユダヤ人ではなくサマリア人でした。ここにも、キリスト教が外国人に広まることが暗示されていますが、その理由は明白で、救われたことに対する神への感謝です。そこで、考えてみましょう。あなたは神に救われましたか。罪からどうやって清められたのですか。罪が赦されて清められた時に、あなたはどうしましたか。そして、現在、あなたは罪赦され救われたことを感謝し続けていますか。それで、感謝して主を讃美しているでしょうか。主に救われて感謝しない人は、罪を犯しています。その罰は恐ろしいものです。ですから、主を讚美し、感謝の心を忘れてはいけません。聖書のこの箇所の最後には、たった一人戻ってき男へイエスが、「あなたの信仰があなたを救った」という箇所があります。戻ってこなかった9人には当然、語られなかった言葉です。この意味は、はじめ10人全員が肉の命を清められ病気が癒さます。そして、一人だけ感謝しに戻ってきた男は、霊の命も癒され救われたのです。それは、信仰によるものです。このように、大切なことは霊の命が救われることです。それは、あなたの信仰によって成し遂げます。それは、このサマリア人のように清められたことを大いに感謝して神を讃美することを忘れないということです。バプテスマから時間が経ちました。あなたは、今も主に救われたことを感謝していますか。そのことをイエスの御前に出ていって日毎に感謝しましょう。(佐久間)

 

7月20日(土)

神は一つのことを言われた。そして私は二つのことを学んだ、「力は神に属する」ことと、「主よ、まことの愛はあなたのものである」ことを。あなたは人おのおののわざに従って報いをなしたもう。

詩篇62:12、13

 

今日、嬉しいメールをもらいました。知人のお子さんMちゃんが、今度高校生になるのですが、アメリカでも有数の名門校の医学部を目指すというのです。このMちゃんは小さな時から賢く、目指したものを得るために努力することを怠らないことを知っていました。だから、良い目標を持って頑張ることはすばらしいことなのです。さて、今日の聖句です。聖書の詩にはさまざまな技巧が凝らされています。今日の詩でも一つ・・・、二つ・・、というような一般的に用いられている技巧が用いられていますが、数の多い方が重要です。聖句の意味は、神について知るべきことは二つに要約できます。一つ目は、「神の祝福の約束は必ず実現する。なぜならば、神はそれを実現させる力を持っておられるから」。二つ目は、「神の祝福の約束は必ず実現する。なぜならば、神が主を信じた者たちを愛することは真実であるから、彼らと結んだ契約に対して忠実である」。そのため、信仰者の信仰が行いとなって現れた事に応じて報いることになるのです。あなたも聖書を読んで、小さなことにも忠実になりましょう。信仰は行いとなってその人を現します。だから、イエス様の徳の高さという良い目標を持って、精進することは楽しいことなのです。人に見せようとした義は、イエス様に嫌われました。だから、神を慕い、主に忠実になることです。内住の聖霊は力です。聖霊によって神と一つになれば、その力によって主の戒めを守ることができます。この世の困難は、人に神に頼って生きることを教えます。そうやって、自分へのこだわりから解放させられるのです。こだわるものが少なければ人生は軽く楽になり、自由に生きることができるのです。その自由をもって、良い目標を持つこと、そのための努力を惜しまないこと。主はおのおののわざに従って報いられるのです。(佐久間)

 

7月21日(日)

主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。

歴代誌下16:9

 

人間がいて、国がある限り、戦争はやまない。アサ王の記録が歴代誌に書かれています。イスラエルの王が責めて来た時に、アサはアラム王を頼みとして、主を頼みとしなかったのです。そこで、預言者が遣わされ、そのことを責められる場面で語られた言葉が今日の聖句です。アサは、怒って預言者を投獄します。神が遣わした預言者がいかに権力者から迫害されたか、聖書を読むとあきれるほどそのような事例が多いのです。それは、実際には預言者ではなく神に逆らっているのです。さて、アサが重い病気になった時にも、「彼は主を求めず、医者に頼った」と記されています。あなたはどうでしょうか。医者にかかるのは不信仰だということではありません。問題は主を求めなかったことにあります。アサのような人は、主を求めても癒されないと思っているのです。今日の聖句を見てください。主は、ご自分と心を一つにする者を力づけようとしています。そのために、あなたのことも探していますから、安心してください。残念なことですが、信じない人には奇跡が起こらない理由がここにあります。あなたに預言者が語る時、つまり聖書を読んで、あなたがその神の言葉に力づけられるのなら、主と心を一つにしているからだと思えますね。人間は正しく生きることもできるし、悪く生きることもできるのです。同じ人間がどちらにも生きることができるのです。勿論、正しく生きなければ幸福になれません。そこで、人生のどこかで目覚める必要があります。正しく生きていなければ、必ず挫折が訪れます。その時に、正しく生きることを選ぶようにチャンスが訪れるのです。このチャンスを活かす人は幸いです。特にイエス様を信ずる信仰に結びつくならば最高です。ありがたいことにこのチャンスは度々訪れます。クリスチャンになった人には、今日の御言葉が教訓となります。主はご自分と心を一つにする者を力づけようとしているのです。それで、心を主と一つにすることを考えてください。そうすれば、主の力を体験できるでしょう。(佐久間)

 

**7月22日(月)〜28日(日) 中村とーる

 

7月22日(月)

からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。

主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。

すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。

エペソ人への手紙 4:4〜6

 

直前の3節で「御霊による一致」の大切さを力説したパウロ先生は、今日のところではその一致の内実を七つの観点から説明します。それはぜんぶ、「一つ」っていう言葉で始めているんですね。「からだは一つ」、「御霊も一つ」、「一つの望み」、「主は一つ」、「信仰は一つ」、「バプテスマは一つ」、「父なる神は一つ」と云う七つです。まず、「からだ」というのは、頭をキリストとする教会というからだのことです。これはもう本当に一つなんだと。いろいろな教派や教団に分かれているけれども、基本的には教会というのはキリストにつながるからだなんだから一つなんだ、というのです。そしてからだを一つにまとめているのは聖霊であってこれも一つなのだ、というのがパウロの主張です。聖霊は背後霊や浮遊霊などとは違って人格を持った神であり、お一人しかいません。

またわたしたちはキリストによる救いと命と云うすばらしい望み、それもここにしかない、たった一つの望みを抱いているのです。

なお、この部分では、「三つで一組」という図式がしきりに用いいられている、ということを申し上げておかねばなりません。「からだ、御霊、望み」がそれぞれ一つ、「主、信仰、バプテスマ」が一つ、という風に三つで一組がふたつ列挙されていますね。この「三つで一組」方式は最後の6節にも含まれていて、すべてのものの、「上にあり、貫き、うちにいます」という三つ、それぞれがギリシャ語では異なる前置詞で区別されているのです。それらの前置詞は英語に訳せば、「above, through, in 」という三つなのです。つまり、above all, through all, in you all なわけですから、これはもうはっきりとした三つ一組なのです。

このようにして、三つ一組方式を用いることによって、その指し示す「一つ」というものが明確になってくる、という仕組みです。

主イエスが一人ならば、彼を信じる信仰もひとつでなければなりません。その一人のキリストを信じる一つの信仰のいいあらわしであるバプテスマ(洗礼)も当然一つであるべきでしょう。

それらすべてのおおもとにある父なる神は当然お一人であり、唯一絶対の神であるわけです。

ちょっと難しかったですね。ご質問がありましたらメルでどうぞ。佐久間が懇切丁寧にお答えします。(無責任こじか)

 

7月23日(火)

しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。

エペソ人への手紙 4:7

 

昨日のところで読んだ6節では、パウロはしきりに「すべての」「すべての」「すべての」と4回も「すべての」という言葉を使って強調していましたね。

ところが、今日の7節は、「しかし」ということばで始まっています。つまりここでは「すべての」ことが問題にされているのではなく、「ひとりびとり」が強調されている、すなわち「個」が扱われているのです。教会員の一人一人がそれぞれ賜物をうけているのだ、というわけです。

教会の大本は父なる神であり、このお方こそが「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神」であられます。このお方によって教会は一つにまとめられているのです。

しかし、神はわたしたちを十把一絡げにして捉えているわけでは断じてありません。神はわたしたちひとりひとりと向き合い、ひとりひとりを愛し、ひとりひとりに働きかけてくださるかたです。そして、わたしたちひとりひとりに賜物と云う恵みが与えられているわけです。「器官は多くあるが、からだは一つである」とパウロは書きました。逆に言えば、教会と云うからだは一つであるが、それぞれの器官(教会員ひとりひとりのこと)は異なった能力を持ち、異なった働きをする、ということです。教会の中の、誰が誰よりも重要だ、ということは誰にも言えません。誰は誰よりも劣っているなどとは口が裂けても言ってはいけないことです。

自分に与えられている賜物を見つけ出し、その恵みに応じて主の手足となって働いていきたいですね。(中)

 

7月24日(水)

そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。

さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。

降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。

エペソ人への手紙 4:8〜10

 

「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。というこのことばをパウロは旧約聖書から引用して(詩篇68:18)、キリストの勝利がいかに大いなるものであって、いかに輝かしく天の御座につかれたかを情熱的に語っています。とりこというのは、キリストの勝利によって敗北し征服された悪魔や罪などをあらわしているのでしょうね。

イエスは神であられたので天におられたのですが、わたしたち罪人を救うために低い底にまで降りてきて下さったのですね。そして、生涯を通じて父なる神に忠実であられ、十字架の死に至るまで忠実であられたのち、よみがえられ、そして天に昇られました。

忘れてならないのはここでパウロは賜物のことを語っているのだということです。天に昇られたイエスは、賜物を携えて行ったのです。そして、賜物をもってあらゆるものに満ちたのです。過去においてあらゆるものに満ちた、だけではなくて、現在も変わらず満たし続けておられる、という意味を持つことばなのです。

あなたにもそんな尊い賜物が備えられているんですね。あなたは自分にどんな賜物が与えられているか知っていますか?考えたことがありますか?

自分に与えられている賜物を見つけ出すのも神の恵みのわざにほかなりません。祈り求めてみましょうね。そして、恵みによって自分の賜物を見いだしたら、おそれず、大胆にそれを用いていきましょうね。(と)

 

7月25日(木)

そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。

それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

エペソ人への手紙 4:11〜13

 

ここで一つはっきりしているのは、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師といった人々は、キリストによって立てられた、ということですね。ですから、これらの働きに就くものたちは神からの「召し」(calling)というものを重要視し、その働きに就く前に果たして自分は神から召されているのかどうか、召しというものをどう考えるか、ということについて祈り熟考します。

その目的もここでパウロがはっきりと書いている通りです。それは人々がキリストの体の一部として成長し、一致して、神の栄光が現されるためなのです。そこに必要なものはキリストを信じる信仰の一致であり、キリストを知る知識の一致です。そして、最終的にはすべての者がキリストの満ち満ちた徳の高さにまで至るのが目標なのですね。これは驚くほど高い目標ですよね、考えてみれば。。。でも神さまもパウロもそれだけ高い目標を持って働いているということです、逆に言えば。ですから、その目標がどれほど高いものであって、とてもじゃないけどそんなところにまで行けるわけがない、と思えるようであっても、神さまが立てた目標ですから必ず実現して下さるのでしょう。

そのことを信じて神に従っていくのか、そうでないのか、と、これはいつも同じようなことを言うと思われるかもしれませんが、問われているのは信仰なのだと思います。わたしはかみさまのおっしゃることはすべて本当であり、実現に至らせて下さると信じて従っていく者でありたいなあ、と思っています。(とる)

 

7月26日(金)

こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。

エペソ人への手紙 4:14〜15

 

もはや子供ではない、とパウロは語ります。幼な子のようであることのすばらしさをイエスはくり返し語っていましたよね?幼な子のように素直に信じる信仰はうらやましいほどすばらしいですね。しかし、わたしたちにはだまし惑わす策略が張り巡らされているのです。しかも人々は悪巧みをもってさまざまな教えの風を吹きまわしてきますし、うっかりすると、波にもてあそばれたりします(新改訳参照)。つまり、嵐のように攻めてくるというわけですね。たしかに、神の教えに関していろいろな教えがなされ、いろいろなことが言われているので、どれを信じたらいいのかわからなくなってしまうことがありますよね?こういう場合、幼な子の単純な信じやすさは、逆にさまざまな教えの風や波に翻弄されてしまう危険があります。だから、わたしたちは成長しなければならないのだ、とパウロは教えているのです。

ここで必要なことの一つは、真理を語ることです。このことばは、「真理を歩む」とも訳される言葉です。真理を歩まなければ真理を語れるわけがありません。しかもそれは愛にあって語られるべきことなのです。そのときにわたしたちは成長します。

わたしたちの神さまはわたしたちが成長することを望んでおられます。その成長はかしらなるキリストに達するほどのものなのです。

これまでパウロはわたしたち教会をキリストの体であると語ってきました。今や、彼はわたしたち教会のかしらはキリストである、と明言しました。ここにキリストをかしらとするからだである教会の姿が完成しました。わたしたちはそのからだの一部分として神さまからいただいた賜物を用いていくのです。それはあなたにしかできない働きです。主はあなたをその尊い働きに召しておられるのです。ハレルヤ!ですね。(とるこ)

 

7月27日(土)

16)また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。

エペソ人への手紙 4:16

 

人間のからだって実によくできていますよね。むだなものが一つもない。

変な話ですが、ヤクザの人が指を詰めるって言いますでしょ?たとえば一番必要度の低そうな小指を詰めることにしたとします(小指よ、ごめん)。で、実際小指の指先を切り落としたあとで、あまり必要ではないと思っていた小指は実はとても重要な役割をしていたのだ!と気づくんだそうですよ。それはね、小指を切っちゃうとからだのバランスがとれなくなって、よろよろしちゃうんですって。指の中では一番小さな、そしてあまり役に立っていそうもない小指でも、実に大切な働きをになっているんですね。

そういうふうに、人間のからだはそのすべての部分がお互いに助け合い、補いあい、しっかりと組み合わされ結び合わされて、それぞれの働きをするから、全体として成長し、大きな働きをすることができるんですね。

わたしたちも、教会の一員として、それぞれの働きを担っているんです。自分なんかなにもできない、とか、あの人のように能力もないから自分はいなくてもいい、などという言葉を時折聞くことがありますが、とんでもない間違いですよ。あなたでなければできない働きのためにあなたは召されているんですね。

働きの大きい、小さいは関係ない。からだも同じです。目は耳より重要ですか?足は手よりも大事ですか?肝臓は膵臓よりも大切ですか?そんなことはありません。役割が違うんですから。

あなたは神さまにとって、そして教会にとってかけがえのない大切な、たった一人の人なんですね。

「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)と神さまは言われます。(かむ)

 

7月28日(日)

そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。

しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。

あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。

エペソ人への手紙 4:17〜21

 

わたしたちはキリストに学んだ者なのです、とパウロは言います。わたしたちはたしかにキリストに聞き、キリストにあって教えられたのだと。

そうですね、わたしたちは世の中の立派な教えに聞いたわけでもないし、有名な先生にあって教えられたわけでもない。キリストから直接聞き、キリストにあって教えられたのでした。そこでわたしたちが学んだことは、「イエスにある真理」でした。それをそのまま、つまり、混ぜ物なしに、純粋な真理として学んだのでした。混ぜ物のない純粋な真理には力があります。真理は諸刃の剣である、と云われます。だれもが喜んで受け入れるようなものではないのです。ある人々は純粋な真理を突きつけられると怒って席を立ってしまうかもしれません。真理とはそういうものなのでしょう。イエスが語られたとき、ある人々は喜んでその真理を受け入れましたが、ある人々は怒り狂ってイエスを殺してしまおうとさえしました。それをわかっていて、イエスはご自分の語る真理を少しも薄めようとしませんでした。薄めていさえしたら、十字架について殺される必要などなかったかもしれないのに、です。真理とはそのようにして、ときには自分の寿命を縮めるかのように、文字通り命がけで語られるべきものなのでしょうね。

わたしたちはそのようにキリストがご自分の命にかけて語られた純粋な真理によって学んだのですから、それにふさわしく生きるべきではないのか、というのがパウロ先生の勧めです。

知力が暗くなったり、生き方に無感覚になってはいけないのです。キリストに学んだ通りに生きていきましょう。恐れることはありません。主を見上げ、主を信じて、主に教えられた通りに歩んでいきましょうね。(おる)

 

**7月29日~8月4日(佐久間典臣)

 

7月29日(月)

あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩篇55:23

 

あなたが負担に思っている事があるのなら、その重荷を主にゆだねましょう。主はあなたを支えるとのお約束があるからです。クリスチャンになった、あなたには特別の恵みがあります。あなたが自分の意思でイエス様を主と信じ心に迎えたからです。あなたは、信仰が試されたでしょう。そして、試練の中でこそ、あなたは主を信じることの意味や大切さを学んできたはずです。主に従いなさい。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださるのです。主は生きておられます。それゆえに、このお約束は守られます。確かです。あなたは、もう一人で悩まなくても良いのです。主がどのようにあなたを支えるか、体験してください。とこしえに動揺しない人生があなたのものなのです。主を讚美し、従順に従いましょう。(佐久間)

 

 7月30日(火)

どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。

コロサイ1:9、10

 

主の御心に適った生き方をしたいとクリスチャンなら思うはずです。では、主の御心をどのように知るのでしょうか。多くのクリスチャンは、主の御心を求めてまず祈ります。明確に答えを得られる人は意外と少ないのです。祈って、明確に主のお答えを聞こうとします。しかし、それが簡単でないことを実感している人は少なくないでしょう。では、どうすればいいのでしょう。今日の聖句を見てみると、「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り」とありますから、聖霊が関わっていることがわかるでしょう。聖霊を求める理由は霊的覚醒を受けるためにほかなりません。その時に初めて、神の御心を悟ることが容易になるのです。ですから、聖霊のことを聖書から学び、また飢え乾く者のように聖霊を求めて祈ることが肝心です。聖書の奨めは「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩むことです」。主に従って歩むということは、従順な信仰、服従している姿が問われます。これがすべての点で要求されています。私の問題でよく例にだすのが食欲です。聖霊に食事の量を管理していただくことができるのですが(勿論、健康のためにです)、聖霊が食事中にストップをかけてきます。私の場合は、食事中にこれ以上食べてはいけないという時に、急に気持ちが悪くなるような感じになるのです。それでも、どうしても食べたい物が残っていたり、あと少しで食べ終わるのに、と思ってしまうと残したくないので食べてしまったりするのです。そうすると、数回そのようになことがあると、もうストップがかからなくなります。ストップがかかったと思った時にやめておけば、継続的にストップはかかるのです。この一時をみてもわかるように、聖霊は信仰問題と思えないような食事のような瑣末なことであっても(実は重要なことですが)、ちゃんと指導されるのです。そこで、服従ということの重要さが出てきます。もし、聖霊による知恵が与えられているのなら、他のことでも聖霊が指導されることを悟れるようになります。そして、善い業を行うことで実を結ぶというのです。神が創造されたこの自然界を見ると、植物が花を咲かせ実を結ぶ様を見ることができます。これが神様の創造された規範なのです。ですから、同じ被造物である人間も実を結ぶことになっています。それは、善い業を行えば良い実を結び、悪い業を行えば悪い実を結ぶということです。罪人は後者の実を結ぶことになります。さて、クリスチャンはどうでしょうか、この聖句の通りに聖霊のお助けなしに善い業を行うということ自体が難しいのです。さて、このように聖霊に従順に従うと結果として神を深く知るようになっているのです。では、あなたは信仰をもって、どのような決心をなさいますか。この御言葉の通りになれることを主に願うでしょうか。そして、恵みの世界を歩みだすでしょうか。もう一度聖句を読んでみましょう。(佐久間)

 

7月31日(水)

愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。

箴言29:11

 

人間の悩みを作るものは、たいてい感情をコントロールできなかった時です。感情ほど厄介なものはありません。聖書は、感情を制し静めることの出来る人を知恵ある人と呼んでいます。一方、感情に負けてさらけ出す人を愚か者と言います。あなたは、どちらでしょうか。感情的になってもかまわないのだと思っている人も中にはいます。それは、ひどい結果を味わってもすぐに忘れる人です。だから、繰り返します。「犬が自分の吐いたものに戻るように/愚か者は自分の愚かさを繰り返す」(箴言26:11)。手厳しいですね。でも、感情を爆発させて失敗した経験を誰しも持っているものです。それで、こりればいいのですが、まったく反省なく繰り返せばその人生は淋しいものになっていくでしょう。今日は、一日、自分の感情を制することを意識してみませんか。そんなことをすれば、ストレスが溜まって、益々感情が爆発してしまう、と思っているあなたこそ、「知恵」という言葉に注意しなければなりません。聖書で「知恵」はとても大切なこととして出てきます。感情をただ我慢する、力づくで押さえ込む、というようなことでは長続きしません。解決の鍵は、「知恵」です。感情を自由にさらけ出すことをしていたら、一人相撲のようになってしまいます。自分の姿すら見えないために、自分が何をしているのかも気がつかずに相手を責めてしまったり、相手を見下して批判したりしてしまうこともあります。「知恵」は神様を知ることです。神様は、あなたに気づきを与えようとされます。それを受けようとすれば、へりくだるしかありません。それをクリスチャンは「悔い改める」という事の中で実現しています。さて、あなたも知恵ある人になることができます。イエス様を見上げてください。十字架の上からイエス様がお語りになっていませんか。主の取り扱いを受けることです。そうすれば、感情をさらけ出す必要がなくなります。感情は一方からしか見ていませんが、知恵は多方から見渡すことができます。聖霊がな移住していてくださるので、聖霊の見方を教えていただくこともできるのです。普段から肯定的、楽観的に考える習慣をもてば、知恵が感情を上回るでしょう。さあ、新たなるチャレンジです。幸福になるためには欠かすことのできない資質を身につけましょう。(佐久間)

 

8月1日(木)

わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください。わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。あなたの都、あなたの民は、御名をもって呼ばれているのですから。

ダニエル書9:18、19

 

嘆願の祈りとよばれるものがあります。ちょうど、今日のダニエルの祈りがそうです。イスラエルは神との契約を破り、律法を守ることをしませんでした。そのために、モーセの律法に記された誓いの呪いが、イスラエルの上に降りかかってきたのです。それは史上最大の恐ろしい災難でした。ダニエルはこのようなことがあって、それで祈り始めたのです。不思議ですね。預言者はみな神に背き、神を恐れないで罪を犯し続けました。神の民の中に誰か偉大な神に執り成し主の怒りを沈めようとした者がいたでしょうか。それは、忠実で義しい神の人、ダニエルでした。彼は、聖書の聖徒の中でも傑出した偉大な義人です。彼は自分のことを祈ったのではありませんでした。神の名で呼ばれる聖なる民と聖なる都のために、嘆願していたのです。罪を認めて悔い改め、そして罪の赦しと、救いを願ったのです。そこで、私たちも考えてみましょう。現代の神の民であるクリスチャンのために執り成す必要があること、そして、それぞれの教会が救われた人々で溢れ、大いに栄えて栄光の教会となっているでしょうか、決してそうではないでしょう。私たちは日本人伝道は難しいと口に出して言うことはりますが、ダニエルのように執り成して、ひれ伏し嘆願しているでしょうか。ダニエルはこう祈りました。「わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます」と。これが、私たちのあるべき信仰です。クリスチャンや教会に何かしら責められるところがあるかもしれません。だから、当然のように祈ることはできませんが、私たちの主は憐れみ深いのです。その愛にすがる以外に一体何があるでしょうか。主は悔い改め、砕けた魂の近くにいてくださるお方なのです。ダニエルは、クリスチャンもキリスト教会も主の御名によって呼ばれていることを理由に、速やかなる救いを嘆願したのです。それほどに、主の名で呼ばれるあなたは価値が高いのです。イエス・キリストは「互に愛し合え」と新しい戒めを授けられました。それ故、私たちは互いに執り成し、祈りあう者でありたいのです。(佐久間)

 

 8月2日(金)

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

ルカ21:25-28

 

キリストの再臨は確実に起こります。それも、遠い未来ではありません。手の届く範囲で、です。東日本大震災の時も仙台にいて、怖い思いをしました。その時に、再臨を強調するキリスト教のグループに属する人たちは、特に再臨の切迫を感じたのではないでしょか。確かに、私も地震が止まらずに長い時間揺れ続けていた時には、これはいよいよ世の終わりではないかという思いが脳裏をかすめました2000年前にイエス・キリストは、弟子たちに世の終わりの徴を語りました。実際のところ徴は、イエスのことだったのです。しかしイエスの話は、想像を絶するものでした。誰か巨大なものの手に地球がつかまれて揺らされるようなことが起こるというのです。人類の知っているような大災害をもってしても、遠くおよばない未曾有の危機が迫っているのです。そして、イエス・キリストが雲に乗って来られるのです。それを人々は見ることになります。どんなにイエスを信じないと言っても、無神論だと言い続けても、失神しそうな恐怖の中でイエス・キリストの再臨の光景を見ることになります。勿論、その時では遅いのです。あなたの知っている人でクリスチャンではない人たちは、あなたに「なぜちゃんと教えてくれなかったのか」と恐怖の中で訴えるでしょう。そんな人たちが大勢出てくるかもしれません。だから、なんとかしなければなりません。手遅れにならない今のうちにです。「イエスが雲に乗って天から来られる」と言うと、バカにして笑っていた人たちが、その日青ざめて震え上がるのです。さて、今日の聖句の最期を見てください。「あなたがたの解放の時が近いからだ」と書いてあります。そうです、再臨の日はあなたがたの解放の日となるのです。この世は終わるのです。悪魔の支配と誘惑、罪との戦い、死への恐れ、人間が逃れることのできないこれらの苦しみからの完全な解放が再臨の時に訪れるのです。その日、イエスと共にあなたも家族も一緒にパラダイスへ帰りましょう。(佐久間)

 

8月3日(土)

悪事を働く者に怒りを覚えたり/主に逆らう者のことに心を燃やすことはない。悪者には未来はない。主に逆らう者の灯は消える。

箴言24:19-20

 

さて、悪い人と遭遇しないことが一番良いのですが、この世の中で生きる限り悪者に出会うこともあるでしょう。その時のあなたの対応が重要なのです。ニュースでも毎日、悪者の話しでもちきりです。ひどい話を聞けば怒りがわき、悪事を働く者のことで復讐心が出てくるかもしれません。反対に、人を恐れてしまうこともあります。あの人さえいなければ、と思うことも自然に出てくるでしょう。しかし、聖書は、非常に面白い教えを語ります。悪者には未来はない、悪事を働くとは、結局、主に逆らうことを意味しているので、彼らの火は消える。つまり、死んでしまうというのです。いなくなるということです。それならば、なぜ、空しく怒り、心を燃やす必要があるでしょうか。主がいなければ、そのようなことはないでしょうが、主は生きておられます。それ故に、主が見ているということを覚えてください。あなたは、悪者のために悩むだけバカをみます。無駄だからです。彼らの灯は消えるのですから。(佐久間)