8月のディボーション

**8月1日~4日(佐久間典臣)

 

8月1日(木)

わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください。わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。あなたの都、あなたの民は、御名をもって呼ばれているのですから。

ダニエル書9:18、19

 

嘆願の祈りとよばれるものがあります。ちょうど、今日のダニエルの祈りがそうです。イスラエルは神との契約を破り、律法を守ることをしませんでした。そのために、モーセの律法に記された誓いの呪いが、イスラエルの上に降りかかってきたのです。それは史上最大の恐ろしい災難でした。ダニエルはこのようなことがあって、それで祈り始めたのです。不思議ですね。預言者はみな神に背き、神を恐れないで罪を犯し続けました。神の民の中に誰か偉大な神に執り成し主の怒りを沈めようとした者がいたでしょうか。それは、忠実で義しい神の人、ダニエルでした。彼は、聖書の聖徒の中でも傑出した偉大な義人です。彼は自分のことを祈ったのではありませんでした。神の名で呼ばれる聖なる民と聖なる都のために、嘆願していたのです。罪を認めて悔い改め、そして罪の赦しと、救いを願ったのです。そこで、私たちも考えてみましょう。現代の神の民であるクリスチャンのために執り成す必要があること、そして、それぞれの教会が救われた人々で溢れ、大いに栄えて栄光の教会となっているでしょうか、決してそうではないでしょう。私たちは日本人伝道は難しいと口に出して言うことはりますが、ダニエルのように執り成して、ひれ伏し嘆願しているでしょうか。ダニエルはこう祈りました。「わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます」と。これが、私たちのあるべき信仰です。クリスチャンや教会に何かしら責められるところがあるかもしれません。だから、当然のように祈ることはできませんが、私たちの主は憐れみ深いのです。その愛にすがる以外に一体何があるでしょうか。主は悔い改め、砕けた魂の近くにいてくださるお方なのです。ダニエルは、クリスチャンもキリスト教会も主の御名によって呼ばれていることを理由に、速やかなる救いを嘆願したのです。それほどに、主の名で呼ばれるあなたは価値が高いのです。イエス・キリストは「互に愛し合え」と新しい戒めを授けられました。それ故、私たちは互いに執り成し、祈りあう者でありたいのです。(佐久間)

 

 8月2日(金)

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

ルカ21:25-28

 

キリストの再臨は確実に起こります。それも、遠い未来ではありません。手の届く範囲で、です。東日本大震災の時も仙台にいて、怖い思いをしました。その時に、再臨を強調するキリスト教のグループに属する人たちは、特に再臨の切迫を感じたのではないでしょか。確かに、私も地震が止まらずに長い時間揺れ続けていた時には、これはいよいよ世の終わりではないかという思いが脳裏をかすめました2000年前にイエス・キリストは、弟子たちに世の終わりの徴を語りました。実際のところ徴は、イエスのことだったのです。しかしイエスの話は、想像を絶するものでした。誰か巨大なものの手に地球がつかまれて揺らされるようなことが起こるというのです。人類の知っているような大災害をもってしても、遠くおよばない未曾有の危機が迫っているのです。そして、イエス・キリストが雲に乗って来られるのです。それを人々は見ることになります。どんなにイエスを信じないと言っても、無神論だと言い続けても、失神しそうな恐怖の中でイエス・キリストの再臨の光景を見ることになります。勿論、その時では遅いのです。あなたの知っている人でクリスチャンではない人たちは、あなたに「なぜちゃんと教えてくれなかったのか」と恐怖の中で訴えるでしょう。そんな人たちが大勢出てくるかもしれません。だから、なんとかしなければなりません。手遅れにならない今のうちにです。「イエスが雲に乗って天から来られる」と言うと、バカにして笑っていた人たちが、その日青ざめて震え上がるのです。さて、今日の聖句の最期を見てください。「あなたがたの解放の時が近いからだ」と書いてあります。そうです、再臨の日はあなたがたの解放の日となるのです。この世は終わるのです。悪魔の支配と誘惑、罪との戦い、死への恐れ、人間が逃れることのできないこれらの苦しみからの完全な解放が再臨の時に訪れるのです。その日、イエスと共にあなたも家族も一緒にパラダイスへ帰りましょう。(佐久間)

 

8月3日(土)

悪事を働く者に怒りを覚えたり/主に逆らう者のことに心を燃やすことはない。悪者には未来はない。主に逆らう者の灯は消える。

箴言24:19-20

 

さて、悪い人と遭遇しないことが一番良いのですが、この世の中で生きる限り悪者に出会うこともあるでしょう。その時のあなたの対応が重要なのです。ニュースでも毎日、悪者の話しでもちきりです。ひどい話を聞けば怒りがわき、悪事を働く者のことで復讐心が出てくるかもしれません。反対に、人を恐れてしまうこともあります。あの人さえいなければ、と思うことも自然に出てくるでしょう。しかし、聖書は、非常に面白い教えを語ります。悪者には未来はない、悪事を働くとは、結局、主に逆らうことを意味しているので、彼らの火は消える。つまり、死んでしまうというのです。いなくなるということです。それならば、なぜ、空しく怒り、心を燃やす必要があるでしょうか。主がいなければ、そのようなことはないでしょうが、主は生きておられます。それ故に、主が見ているということを覚えてください。あなたは、悪者のために悩むだけバカをみます。無駄だからです。彼らの灯は消えるのですから。(佐久間)

 

8月4日(日)

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです

Ⅰコリント3:16、17

 

当時のコリント教会には、教会を建てる人の他に教会を壊す人がいました。パウロは、そのことについて語りだします。教会が建つと、教会を育てることが大切なになりますが、それどころか破壊する人が入ってくるかもしれません。事実、教会の歴史にそこのことは何度も起こってきたのです。新約聖書の時代にもこうして、すでに起こったことなので現代の教会も注意が必要です。彼らは結局神と戦うことになります。当然、彼らは滅ぼされることになるのです。教会は、召し出された者の集まりです。その人たちには昔から隠されていた神の秘密が明らかにされました。そして、神の方法で、つまり恵みで救われたのです。それ以外には罪人を救う方法がなかったからです。罪を赦すということは、身代わりに罪の罰を受けることを意味していました。私たちがイエス・キリストを十字架で悟り、復活で信じ、昇天で希望を抱いたことは、正しいのです。そして、不思議な聖書の記録と教えの通りに、罪を清められた人の上に聖霊が降ることも事実で、その人に神が宿ることから聖霊の宮と呼ばれることになったのです。その神殿に罪を犯せば、滅びることになるのは明白なのです。だから、知恵が必要です。聖書の教えに従う必要があります。内住する聖霊との交わりを大切にするのです。イエスは憐れみ深いので、何度でも赦し、あなたを聖なる者に変えてくださいます。過去に縛られ続けている人はキリストの十字架の力をちゃんと理解しているとは言えません。十字架の力は偉大なのです。その力だけがあなたの過去を精算して解放するのです。だから、あなたは神の神殿なのです。もっと自分を大切にして生きてください。聖霊は必ずあなたを助けます。信じて今日を生きましょう。(佐久間)

 

 

**8月5日~11日(中村透)

 

8月5日(月)

すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。

エペソ人への手紙 4:22〜25

 

新しき人を着る。これがパウロの大テーマの一つであったようです。今まで着ていた古き人は、情欲に迷って滅びゆくものなのだからすみやかに脱ぎ捨てて、新しき人を着よう。それは神にかたどって造られたものなのだから、というのですね。

創世記によればもともとわたしたち人間は神にかたどって造られたんですね。ところが、罪が入り込んですべてをぶち壊しちゃった。神にかたどって造られ、造られたときには神でさえもが、「はなはだよい」と言われたほどすばらしい存在だった人間が、今はどうです?見るカゲもないほどその形が損なわれてしまったのですね。

そんなわたしたちを神さまは、ご自身にかたどって造られた新しき人を着せてくださるんです。もうね、心の一番深いところまで新たにされちゃうんですよ。すごいと思いませんか?まるで新しい存在になっちゃうんですよ。

だから互いに偽りをもってするのでなく、真実をもって仕え合って生きて行きたいですね。同じキリストを頭(かしら)とする一つのからだのそれぞれの部分なんですから。そのとき初めて真のクリスチャンの交わり、真の教会の交わりが生まれていくんでしょうね。そんな風になりたくありませんか?わたしはなりたいですね。

 

2日前の8月3日の礼拝の時、スクエア・ジャパン・チャーチ東京は、わたしたちみんなが聖霊に満たされ、この教会が初代教会のように力のある教会となり、人々が癒され、解放され、救われていくような教会を祈り求めていくことを決めました。また、神さまが日本にリバイバルを与えて下さり、日本を解放し救ってくださるようにと、毎日正午の12時に祈りましょう、と誓い合いました。みなさんもこの祈りの輪に加わって下さるようにお願いします。毎日昼の12時です。(ロサンゼルスの方は今は毎日午後8時です)。その時間になったら、何をしていても一時それをやめて、長い祈りである必要はありません、ひとときでもみんなの祈りにあわせて神さまに心を向けて祈りましょう。(とーる)

 

8月5日(火)

怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。

また、悪魔に機会を与えてはいけない。

エペソ人への手紙 4:26〜27

 

これはおもしろいですね。わたしたちって、怒ることが罪だって思ってきませんでした?なんか、怒ったらおしまいだ、みたいな、ね?でも、聖書は怒ること自体が罪である、とは決して言っていません。だって、イエスさまだって怒って、ちゃぶ台じゃなかった、神殿で両替人の台や、いけにえの動物を売っているヤツのテーブルをひっくり返したじゃないですか。まあ、あれは義憤でしょうけどね。

聖書が教えているのは、怒ったままでいてはいけない、ということなんですね。怒ることはあるだろう、しかしその怒りをずっと持ったままでいてはいけないよ、と教えているんですね。「憤ったままで日が暮れるようであってはならない」、というのはそのことです。

そのことは悪魔にチャンスを与えることにつながるから気をつけなさい、っていうんですね。怒ったままで、怒りをこころに抱いたままでいると、次第にそれが憎しみに変わり、絶対許さないぞ、っていう思いが湧いてきて、極端な話、それが殺意にさえつながりかねません。

もうひとつ、許さずに怒りをこころに抱き続けることは、悪霊があなたのなかに入り込み、もっと悪い結果をもたらす結果になります。「ゆるすことをさせない霊」は、もっともよく見られる悪霊の一つです。こんなヤツにチャンスを与えちゃいけません。

第一、あなたがだれかに怒ったとして、その怒りの炎を心の中で燃やし続けたとしても、相手は痛くも痒くもないんですよ。それによって苦しむのはあなただけなんです。あなたをひどい目に遭わせただれかは、なんともなくて、ひどい目にあったあなただけが苦しんでるなんて、損じゃないですか。あなたが傷つき、あなたが損するだけなんです。

ゆるしちゃえ!イエスさまだってあなたの罪を許してくださったんですから。お祈りすれば許す力をキリストはきっと与えてくださいますよ。今日はいいこと言ったなあ。(とーる)

 

8月7日(水)

盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。

神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。

エペソ人への手紙 4:28〜30

 

ううっ、痛いですね、今日のことば。特に、「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない」ってヤツね。わたしは心はきれいでやさしいんですけど、口が悪いもので、神さまから怒られるようなことをずいぶん言ってきただろうと思うんですよ。

でも、そうですよね、「人の徳を高めるのに役立つような言葉」とか、「聞いている者の益になるよう」な言葉を語りたいですね。ヤコブの手紙にもありますけど、「舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない」(3:8〜10)

このようなことは聖霊を悲しませるんですね。そんなことはしたくないですよね。そうではなくて、聖霊が喜ぶような、感謝と讃美と、よろこびとがいつもわたしたちの口から出てくるようにしたいですね。

だって、わたしたちは、「あがないの日のために、聖霊の証印を受けた」のですからね。(とる)

 

8月8日(木)

すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。

互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。

エペソ人への手紙 4:31〜32

 

この言葉にあるようなことが本当に行われたら、世界中に争いごとなどなくなり、犯罪も戦争もなくなるでしょうね。ひとはみんなどうしても自分にはあまく、他人には厳しくなりがちです。教会においてさえ、人を裁き、厳しく批判するような人がいます。そんな人は決して人を許そうとしません。そこに生まれるのは、さらなる怒り、憤り、騒ぎ、そしりであり、その根には悪意が隠されています。

パウロはそれを捨て去ってしまえ、と言うんですね。「いやあ、そんなに簡単に捨てられないから問題なんだよ」とよく言われます。たしかにそうかもしれません。でも、じつはそういう人は、初めから悪意を捨てようともしていないことが多いようです。捨てるどころか、それにしがみついて生きているような場合さえあるのです。長年しがみついてきたので、もうそれがその人のアイデンティティーになってしまっているかのようです。

ここでのキーワードは、「神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい」ということです。わたしたちは本来ゆるされるようなことは何もしていないのです。わたしたちがゆるされたのは、ただただ、キリストがわたしの受けるべき罰を身代わりとして受けてくださったからです。それはまったくの恵みなのです。恩寵なのです。それほどのゆるしを受けたわたしたちが、他の人をゆるさないというのは、やはりちょっとおかしいのではないでしょうか。

人に対してハラがたったときにはキリストの十字架を思いだしましょう。キリストは罪がないのに、あなたの身代わりとなってあなたの罪を負ってくださった、それによってあなたはゆるされたのだ、ということを思いだしましょう。

ゆるす力も神さまが恵みとして与えてくださいます。それを受けるのがあなたの信仰なのです。ここでも、信じるのか、信じないのか、それが問われているんですね。(とるきち)

 

8月9日(金)

こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。

また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。

エペソ人への手紙 5:1〜2

 

さあ、もう5章に入りましたよ。忘れてはならないことは、あなたは神に愛されている、ということと、もう一つ、あなたは神の子供だ、ということですね。あなたはキリストの十字架で流された血潮によってもうすでに神の子供とされたのですね。あなたは主イエスの血潮によって買い取られたのです。あなたは神のものなのです。神に属するものなのですよ、もうすでに、ね。これだけは忘れないようにしましょうね。

だから、愛のうちを歩きましょう。そうする資格があるのです、あなたには。神の子供なんだから、愛のうちを歩かなきゃいけない、そういう考え方はもうやめましょう。わたしたちはもうさんざん、「あれをしなきゃいけない。こうでなくちゃいけない」と言われ続けてきたでしょう?もうこりごりですよ、そんなものは。

そうじゃないんです。神の子とされたんだからこれからはもう憎しみだとか、妬みだとか、そんなものに捉われていなくていいんだよ、もうこれからは堂々と愛のうちを歩いていこう。あなたには、そうする資格も、そうする力も神さまからあなたに与えられているんだよ、と主は言われます。

どう思います?神さまって最高でしょ?

キリストはあなたのために、ご自身をかんばしいささげもの、このうえないすばらしいささげものとして、もうすでにささげてくださったんですよ。ね?(とるきん)

 

8月10日(土)

また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。

また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。

あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。

エペソ人への手紙 5:3〜5

 

悪いことば、卑しいことば、みだらな冗談、それらから遠ざかるようにとパウロは厳しく語ります。厳しいですよね。口にすることさえしてはならない、ですからね。標準が非常に高い。

それもそのはず、神さまですから。神さまは本当にきよい、聖なる方ですから、その子供とされたわたしたちも神の標準に近づいていかなければならない、というわけです。

でもね、ここが神さまのすばらしいところなんですが、神さまがわたしたちに何かご命令をされる時は、必ずそれは同時に約束でもあるんです。つまり、神さまはわたしたちに、「これこれのことをせよ。それはすべておまえたちが自分の努力でがんばってやらねばならない。じゃあね。さよなら」などとは決しておっしゃらない、ということです。

神さまがわたしたちに、これこれのことをせよとお命じになる時は、必ず神さまがそれをさせてくださる、その力を与えてくださる、かならずそばにいて助けてくださる、という約束なんです。

そしてパウロは偶像礼拝の危険について語ります。偶像礼拝とは何か。まさかわたしたちは本当に自分で木や粘土や金属を彫り刻んで偶像を造ることはないでしょう。しかし偶像礼拝の危険はどこにでもあるのです。なんでもいい、あなたが「なにか」を神さまよりも大切にしたらそれは偶像礼拝です。「なにか」を(それは悪いものである必要はありません。それ自体良いものでもいいのです)神さまよりも上においたら、その瞬間あなたは偶像礼拝をしていることになります。

でもね、このことについても神さまは助けてくれますよ。あなたがいつもあなたの目と思いとを神さまに向けているなら、なんの心配もないんですよ。イエスさまから目をそらしちゃダメ。それはあぶない。第一、イエスさまってどんなにじ〜〜〜っと見ていても飽きないくらいすばらしい方ですもんね。(とるえもん) 

 

8月11日(日)

実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。

だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。

エペソ人への手紙 5:11〜14

 

(更新が遅れてごめんなさいよ。今日はめでたい日なんでね)

やみのわざにくわわるのはやめなさい。それは実を結ばないよ、とパウロは続けます。光のわざを行い、それに加わりなさい、と。やみに隠れて行っていることはよくないですよね。やがて光にさらされる時が来るのですから。そのときすべてのものは明らかになる。

しかし、神は驚くべきことにはこのように続けるのです。「明らかにされたものは皆、光となる」のだと。闇の中を歩くものは眠っている者、あるいは死人に等しい。そこに光が照りわたるとき、すべてがあきらかにされ、すべてが光になるのだ、と主は言われます。

もしかしたらあなたはいま眠っているかもしれない。あるいは死人に等しい状態かもしれない。しかし主はそんなあなたにも光を照らしてくださる。そしてあなたに言われるんですよ、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい」とね。

キリストに照らされよ。キリストの光を受けよ。キリストのあわれみの光を拒むことがないように、と主はあなたに嘆願しておられるのです。

キリストのすべてを照らす光に照らしていただきましょう。主キリストはあなたを決してお見捨てにならないお方なんですね。(とる仮面)

 

8月12日(月)

主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。

サムエル記下6:16

 

イスラエルで最も卑しい羊飼いからとうとう天下統一の王になったダビデは、豊臣秀吉に似ています。その主人である初代イスラエル王のサウルは預言者を通して神に見限られたことを知り、ダビデをライバルと見るようになり、なんとかダビデを亡き者にしようと企みます。ところが、そのダビデがまだ近衛隊の隊長の時に、サウル王の娘ミカルがダビデを慕い恋に落ちます。そして、ダビデの最初の妻になるのです。ところが、いよいよ命が危なくなりダビデが逃亡すると、サウル王はダビデの妻ミカルをパルティエに与えてしまいました。それから長い月日が過ぎ、いよいよダビデが敵の将軍アブネルと契約を結びユダとイスラエルの統一王国の王になれる絶好の好機がやってきたのです。その時に、ダビデが出した条件が驚くことにミカルを要求するというものだったのです。ダビデはすでに他に二人の妻がいたのです。それなのに、ミカルを忘れることができなかったわけです。ところが、時の流れがミカルを変えていました。サウル王の策略でダビデと離縁させられ、その後無理やり結婚させられた夫のパルティエはダビデのような英雄ではありませんが、ミカルを愛してくれたのです。ミカルはその夫の愛に心を開いていったようです。ところが、またしても無理やりパルティエと離縁させられ、ダビデのもとへ戻らなければならなくなったのです。その時、夫のパルティエは泣きながらミカルを追いかけます。それをミカルは見ていました。ダビデは、ミカルが昔のままであるはずがないのにそのことを理解していなかったのです。さて、ダビデは新王朝を作るために、都を移す遷都を実行します。その新都がエルサレムなのです。しかし、国民がそのことを納得するためには神がその都に祀られることが必須だったのです。それは、聖所に安置され、神の住まいとされた契約の箱をエルサレムに運ぶことを意味していました。ところが、その途中に事故が起こり、人が死にました。これは、新しい都移りにケチがついたとダビデも怒ったのです。しかし、契約の箱を運ぶ方法が間違っていたのです。それで、ダビデも二度目は慎重になり、正しい方法で運ぶことにより成功しました。その時の喜びを全身で現し、ダビデは裸で踊ります。民衆は喜び、大騒ぎとなったのですが、その光景を冷ややかに見ていたのが連れ戻されたミカルでした。ミカルがダビデを迎えて言いました。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」(6:20)。ダビデは激怒しました。その結果、聖書はこう結びます。「サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた」(6:23)。夫婦の関係がこの日に終わってしまったのです。ミカルの女の一生は悲しいものでした。皆さんはミカルの心の変化がどうであったかわかりましたか。聖書を開いてミカルの気持ちを考えてみましょう。(佐久間)

 

8月13日(火)

この人たちが甚だしい辱めを受けたという知らせがダビデに届くと、ダビデは人を遣わして彼らを迎えさせ、王の伝言として、「ひげが生えそろうまでエリコにとどまり、それから帰るように」と言わせた。

サムエル記下10:5

 

疑心!今日のキーワードです。イスラエルの隣国アンモンの王が死に、その息子ハヌンが王となります。そこで、ダビデはハヌンの亡き父がダビデに忠実であったことから、弔問団をアンモンへ送りました。ところが、アンモンの重臣たちはダビデにたちする恐れから疑心案儀になり、経験の無いハヌン王へダビデは弔問団ではなくスパイを送ってきたのだとささやくのです。そこで、ハヌン王の取った行動は思慮にかけるものでした。ダビデの使節をこともあろうに捕らえ、ヒゲを半分剃り落とし、衣服も下半身を露出するように切り取ってしまいます。それだけの甚だしい恥ずかしめを受けた使節団は生きて王の前に出ることはできないと思ったでしょう。イスラエル人の男性はヒゲを生やさねばならない風習があったのです。ですから、ヒゲをそられて人前にできることなど、プライドの高いイスラエル人にはできないことだったのです。江戸時代の武士ならば、ちょんまげを切られてしまったようなものです。ダビデの素晴らしさは、その知らせを聞いた時に怒ることなく、まずは使節団の気持ちを考えたことです。それで、ヒゲが生えそろうまでは帰らなくてよいと告げました。対面を重んじる官吏にとって、国に帰ってからの恥は二重の苦しみになるはずでしたが、ダビデ王は叱ることもなく心遣いを見せたのです。さて、人の上に立つ者の姿としてダビデは一つの理想なのです。出身が貴族ではなく、貧しい家の出であったこともあって、堅苦しい風習や意味のない形式に縛られることがなかったのです。そして、ダビデは寛容な心を長年の苦労の実として身に着けていました。それ故に、多くの民がダビデを慕っていたのです。さて、アンモンの新しい王は取り返しのつかないことをしてしまったのです。つまり、ダビデを怒らせたということです。それは、アンモン人がすぐに戦争の準備に入ったことからもわかります。その結果は惨めなほどの惨敗です。援軍を求めたアラム人すら退け、大打撃を与えたのです。これで、ダビデは決定的に中東における覇者に上り詰めることになりました。神の驚くべき祝福の預言は、その通りにダビデの人生に無敵の強さと強大な国家を手中に収めさせました。それにしても、アンモン人は愚かでした。外交が忍耐強い話し合いであることを考えれば、隣国のダビデに忠誠心を示す絶好のチャンスであったのに、恐れに飲み込まれ、正常な判断もできずに、最も愚かな選択をしてしまったのです。私たちも、人を恐ると失敗します。恐れてよいのは神だけです。人を恐るぐらいならば、胸襟を開いて相手の懐に飛び込むほうがはるかに良いのです。人は相手の反応を見て行動するものなのです。だから、先手必勝で、相手に好意を持って飛び込めば、あるいは誠実に向かえば自ずと良い結果を引き寄せるものです。一番いけないのが相手のプライドを傷つけるような言動です。辱めるなど、憎しみを買うだけのことであるのに人間はしばしば感情にまかせて失敗するのです。あなたの教訓は何でしたか。(佐久間)

 

8月14日(水)

ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。サムエル記下11:2-5

 

人間にとってやっかいなことは、律法をやすやすと破ることです。今日の話は、ダビデの油断から始まります。ダビデの人生は戦から戦へと明け暮れる厳しいものでした。しかし、全国の制覇と近隣諸国の危機を取り除くことがほぼ終わろうとしていたのです。そして、最後の戦へとダビデは出陣することなく、家来に託せばよかったのです。そこに、心の緩みが生じたとたんに誘惑が起こりました。屋上から見ると、一人の女が沐浴をしていたのです。これは、女の月のものが終わってから一定の期間後に行われる律法の清めの儀式でした。それは排卵日に関わります。そのために、妊娠してしまったのです。ダビデは、バト・シェバが人妻であることを知ります。それも、ダビデの30勇士の一人で、長年の戦争でダビデを助けてくれた忠臣のウリヤの妻だったのです。それにも関わらず、ダビデは姦淫の罪を犯しました。原文には、「その顔かたちの美しさたるや・・・」とありますから、絶世の美女だったのです。また、ある古い日本語訳では、「やがて彼は彼女を抱きとめると、彼女は彼のふところに入った。彼は彼女と同衾したのであった」と書かれています。男女の難しさは、このような場合のように、魔が差すとでも言えば良いのか、一線を簡単に越えてしまうことです。どちらも互いに惹かれ合ってしまったのです。もっと早く、バト・シェバが結婚する前に出会っていたなら問題はなかったのですが、結婚した後のことでした。神はこのようなことには大変厳しいのです。律法通りなら、二人共死刑です。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(レビ20:10)。現代にこの法律があれば、離婚率も浮気率も極端に下がるかもしれません。ただ、ダビデの事例をみれば、そうともいえないかもしれません。そして、「子を宿しました」と告げられたダビデは、卑怯にも隠蔽工作をはじめます。罪を犯すと、それを隠そうと、また別の罪を犯します。その連鎖は止まらないのです。そして、姦淫は悪なので、神の民の中からは取り去らなければならないと規定しています。神の御前に正しいダビデが犯した過ちは、その後恐ろしい呪いとなっていきます。後悔先に立たず、ですね。(佐久間)

 

8月15日(木)

「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と、主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い
国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。 彼らは、荒れ野で迷い/砂漠で人の住む町への道を見失った。 飢え、渇き、魂は衰え果てた。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから救ってくださった。

詩篇107:1-6

 

主の救いを感謝しましょう。恵み深い主に感謝しましょう。主に贖われた人は、「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と讃美しましょう。あなたを贖い、集めてくださった主に讃美の言葉はふさわしいのです。あなたは、試みの荒野で迷い、不毛の砂漠で道を見失いました。その苦しみは深く、衰え果てるのです。その時、苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった、とあります。主はあなたに恵み深いお方です。その慈しみは永久に続くのです。だから、もう苦しむことはありません。あなたが自分で解決できない問題も、主が贖ってくださるから。あなたは救われるのです。さあ、讃美しましょう。(佐久間)

 

8月16日(金)

深い穴の底から/主よ、わたしは御名を呼びます。耳を閉ざさず、この声を聞き/わたしを助け、救い出してください。呼び求めるわたしに近づき/恐れるなと言ってください。

哀歌3:55-57

 

聖書の中に、とても厳しい状況から主に助けを求める言葉を見つけることができます。いつも苦しみばかりと訴える人もいるかもしれませんが、大抵は一時の苦しみです。しかし、今日の御言葉に書かれている「深い穴の底から」という言葉は、凄みがあります。人の問題は見えている肉体ではなく、心の中のことです。精神といってもいいし、魂と言っても同じです。しかし、その心が「深い穴の底から」と言うのです。体が安全な場所にいても、魂の声は「深い穴の底から」と呻くのです。人間は時に、そこまで追い込まれることがあります。そんな所にいる人を誰が助けることができるのでしょうか。この人は、その深い穴の底から主の御名を呼びました。私にも同じ経験があります。ある時、文書伝道者の大会がありました。そこに講師として呼ばれて、その時に詩篇40篇の「滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ・・・」(3節)という箇所から講演しました。これは、哀歌と同じ穴のことですが、講演終了後に責任者の偉い先生が来られて、「実は私も滅びの穴から救われた者です」と告白されました。更に沖縄のキャンプミーティングの講師で招かれた時も、講演の後でご商売をされている方から、「私も同じ経験をしました」と「深い穴の底から」主を呼んだことを聞きました。人生の試練はいつ来るかわかりません。避けることも、逃げ出すことも容易ではありません。ならば、立ち向かえるかといえば、それが出来ないので救い出してくださいと神の御名を呼び続けるのです。究極の救いは主からきます。もし深い穴の底にあなたがいるならば、「恐れるな」という主の言葉がどんなに心強いものであるか理解できるでしょう。主は試練の中からあなたを救ってくださいますが、あなたがどうして深い穴の底にいるのかは考えてみなければいけません。自分のことばかり考えていると全くわからないかもしれません。周りの人の気持ちにも気づかなければなりません。そして、自分が卑怯でなかったか、自己を正当化してばかりいなかったか、罪をくいあらためなかったのではないか、と反省し、神と自分の間にある障壁を取り除くことをすべきです。イエス様はそのためにあなたを助け、十字架にかかってくださったのです。自己憐憫で泣くのではなく、イエス様の十字架を見て泣くのです。そうすれば、あなたを引き上げ、岩の上に立たせてくださるでしょう。(佐久間)

 

8月17日(土)

兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

ローマ12:10

 

自分と出会う人の中に尊敬できる人はいますか。きっと、あまり多くは思い浮かばなかったのではないでしょうか。もしかすると一人もいないという人もいるかもしれません。私も昔、長女が私立の小学校を受験した時に両親の面接があり、校長先生が私に「尊敬する人はどなたですか」と聞かれて、とっさに「今は人間不信の時代ですから、誰もいません」と答えてしまいました。面接が終わった後で刑法学者の団藤重光先生とでも言えばよかった、と反省しましたが後の祭りでした。しかし、今考えると高名な偉い学者で最高裁判事も務めたからということで尊敬するということと、まったく別の見方があるのです。たとえば、校長先生は「父です」という答えを期待していたのかもしれません。それは意味のあることです。子供の家庭環境を知るにはもってこいの質問となるでしょう。ところが、聖書の教えは常識の範疇を越えています。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」と命じているからです。教会にはクリスチャンがいるのですが、その中でもこの命令は簡単ではありません。だって、誰でも自分の目の前の人を尊敬して優れた者と思え、と言っているからです。クリスチャンが友達を得るということは、この命令のように人に接することによって得ることができるのです。相手を同等と思うとうまくいきません。それと、肝心なことは「互いに」というところです。自分からこの命令に従って兄弟愛を示すと相手からも兄弟愛が返ってくるというならば前進できますが、そうでなければ撤退することになります。しかし、相手を尊敬して自分よりも優れている者として接すると、自分が変わり人間関係がとても良好になります。人付き合いがかなり楽になります。そして、良い事はあなたを尊敬する人が増えていくことです。人は愛され、尊敬されると、最も良いところが現れてくるのです。相手は尊敬されているのだから、あなたに尊敬されるように振舞うことになります。だから、嫌な思いをさせられることが無くなっていくのです。なんとか自分の立場を良くしようとして、人は相手をコントロールすることがあります。それも、無くなってしまいます。無条件にあなたが愛をもって、尊敬し相手を優れた者とするからです。もし、この方法であなたを見下したり、重荷をずうずうしく負わせようとする人があれば、距離を置けばいいのです。さあ、あなたはゴールデン・ルールを手に入れました。何度も、今日の御言葉を復唱してください。あとは人間関係を劇的に変えて幸せな毎日をお過ごし下さい。(佐久間)

 

8月18日(日)

ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

詩篇51:5

 

クリスチャンだからといって、罪の問題から無縁であるとは言えません。たとえ、聖霊の洗いを受け聖霊に満たされたと言われても、罪の問題に悩むことはありえるのです。ある信仰の偉人がご自身の罪のことを告白しています。齢70歳を数えてもなお罪のことは消えないと言うのです。随分と正直な告白です。ダビデも、歴戦の勇士ですが、信仰者としても立派な王様でした。しかし、天下をとる目前にして大罪を犯しました。その時に、詠んだ詩が今日の御言葉です。聖書の言葉は全て霊感を受けて書かれているのですから、ただダビデ一人の問題ではありません。この御言葉の通りに考えれば、私たちの罪は遺伝罪です。つまり、生まれながらにしての罪人ということになります。これを原罪といいます。代々親子で受け継いできた罪なのです。あまりに根が深く、悲惨です。せっかく、信仰の道を懸命に登っていても、あっという間に奈落の底に転落してしまうことがあるのが罪の恐ろしさなのです。自分で努力してもどうすることもできないのなら、信仰を精進しても、聖霊に満たされるような体験をしても、意味がなくなるのではないでしょうか。では、キリスト教の希望の灯はどこにあるというのでしょう。みなさんは、イエス・キリストの十字架を知っているはずです。これが、希望の灯なのです。何遍も、何遍も性懲りもなく、罪を犯しては嘆く罪人の傍らにイエス様は立ち続け、決して見捨てないのです。その人が、罪人の古い自分を本当に捨て去るまでは救いは完成しません。捨てるということは、死ぬことを意味しています。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。」(ローマ6:6、7)。ですから、この信仰の奥義に到達することを考えましょう。嘆いていてもはじまりません。振り向けばそこにイエス様がおられるではありませんか。十字架はやっぱり、あなたのためだったのです。イエス様の愛だけが、あなたの罪を赦し、あなたを生まれ変わらせることができるのです。たとえ、それが原罪であったとしても十字架があなたを解放し、救ってくれるのです。イエス様と呼んでごらんなさい。良い事がおこりますよ。(佐久間)

 **8月19日(月)〜8月25日(日)(中村とおる)

 

8月19日(月)

御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。

そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。

エペソ人への手紙 5:18〜21

 

ヤコブの手紙に書いてあることですが、「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(3:8)わたしたちは油断するとすぐに不平や不満が口から出てきてしまいますよね。あるいは人の悪口を言ってしまったりすることがあります。

また、人の心をボロボロに傷つけてしまうような、配慮のないキツいことばを言ってしまう人もいます。言っていることは間違っていないとしても、言い方がキツすぎるので、ただ心を傷つけるだけで、いい結果をもたらすことはありません。

聖書は教えてくれます。そうではなくて、御霊に満たされなさい、と。御霊がこころに満ちあふれると、そのような人を傷つける無神経なことばはきっと出てこなくなるでしょうね。かえって、さんびと感謝がこころから、また、口からあふれ出てくるんですね。そうありたいものですね。

わたしたちは、人に厳しく、自分にはどうしても甘くなる。人を責めたり、誤りを指摘したりするのは得意でも、自分の弱さはなかなか見えて来ないようですね。

御霊に満たされていたいですね。そして、すべてのことについて神さまに感謝できるようでありたいですね。すべてのことについて、ですよ。いいことばかりが続くときに感謝するのは簡単ですよね。でも、そうでないときにはなかなか難しいかもね。

それができるのは御霊の力だけだと思います。

どうですか?御霊に満たされて、もう押さえきれない力で、こころに喜びと感謝があふれ、口から讃美と感謝のことばが出てくる、そんな経験をしたいですね。主はそれを与えようとして待っておられるのですね。(ボクとるメン)

 

8月20日(火)

妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。

夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。

エペソ人への手紙 5:22〜25

 

そうだ!女よ!男に仕えろおっ!男は女のかしらなんだぞおっ!えらそうにグダグダぬかすんじゃねえっ!聖書にそう書いてあるんだぞおっ!

世の男のみなさま、そんなことを言ってはいけません。聖書はこうも言っているんですよ、「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい」ってね。

聖書はたしかに古い書物です。しかし、おどろくほど斬新な教えに満ちています。この時代には男尊女卑は当たり前であり、もっと言ってしまえば、女性は数に入れる必要もないと考えられていたほどにその地位は低かったのです。

しかし、聖書のなかでも多分最も古い時代に書かれた書物である創世記は、神が人を造られたときに、男のあばら骨をとって女性を造られました。なぜ、足の指の骨ではいけなかったのでしょうか。なぜ、頭のてっぺんの骨ではいけなかったのでしょうか。

それは、神が男と女とを造られたとき、両者を等しいものとして造りたかったからなんですよ。足の指の骨から作って、女が男の足の下に踏みにじられるような存在にはしたくなかったし、頭のてっぺんの骨から女を造って、女が男の頭上に君臨するようにはしたくなかったのでしょうね。だから、男のあばら骨から女を造った、つまり男と同等の価値と尊厳を持つものとして女を造られたのですね。男尊女卑が当たり前の時代から、聖書は男と女を同等の価値を持つすばらしい存在として認めているんです。

だからパウロも、「教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである」し、男に対しても、「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい」と堂々と告げているんですね。

このように男女の問題に関しても、聖書こそ時代を超えてわたしたちの土台であり、基盤であるのですね。(月に吠えるとる)

 

8月21日(水)

キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。

エペソ人への手紙 5:26〜28

 

キリストは教会を、つまりわたしたちを愛してそのためにご自身をささげられた、と昨日の箇所にありましたね。

今日の言葉によれば、キリストはそればかりでなく、水と言葉によってわたしたちをきよめてくださるのだ、しみもしわも傷もない栄光の姿にかえてくださるのだ、というんですね。こんな欠点だらけのわたしたちは捨ててしまって、もう一度あらたに造りなおした方が簡単なのに、なんて思っちゃいますが、キリストはそんなことはなさらないんですね。足りない所ばかりのわたしたちを決して見捨てず、あきらめず、めぐみ、あわれみ、そして大きな忍耐をもってわたしたちを育ててくださる。なんというやさしい方なんでしょう。

さて、ここでパウロは再び夫婦の問題に話をちょっとだけ戻します。キリストがわたしたちを愛してくださったように、夫は妻を自分を愛するように愛しなさい、と言っています。妻を愛するものは自分自身を愛するのだ、逆に言えば、妻を愛さないものは自分を愛さず、傷つけてしまっているんだよ、という斬新な教えですね。でも、この斬新に見える教えは聖書の初めからずっと神さまがわたしたちに教えてきたことなんですね。

神さまのやさしさ、愛、忍耐。。。わたしたちも神の恵みと助けによって、こういうすばらしいものを少しずつ身に着けていきたいものですね。(吾輩はとるである)

 

8月22日(木)

自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。

いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。

エペソ人への手紙 5:29〜33

 

神さまは人間のことをなにからなにまでお見通しだな、とつくづく思いますね。わたしたちは、どうしても自分がかわいくて、自分の利益ばかり考えちゃいますよね。自分を憎む?つまり自分の利益や自分の得ばかり考えずに、たとえ自分が損をしても正しいことを貫こうではないか、と教えているのではないでしょうか。だって、わたしたちは皆、教会というキリストの体の一肢体であるのだから、それぞれの分をきちんと果たしていくことこそがその使命であって、たとえ自分がそれによって誉められなくても、認められなくても、からだ全体のために自分の役割をつくす、これこそがわたしたちの務めなのでしょうね。でも、難しいですよね、これをその通り行っていくことは。。。

パウロはさらに、妻を愛するとはそこまで自分をささげて自分自身を愛するように妻を愛せ、と教えるのですね。これは正直言ってきびしい言葉です。キリストと教会が一体となったように、あなたと妻とも一つになるように、と言います。

誰がこんなことができるのでしょうか?もしそれができるとしたら、神の恵みによるしかありません。人にはそれはできないけれども、神には何でもできないことはありません。神の恵みによって、造りかえられ、生まれかわって、自分を捨てて他の人を愛することができるようになりたいですね。(AKBとる)

 

8月23日(金)

子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。

「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。

エペソ人への手紙 6:1〜3

 

これは十戒の第5条にあるものですね。「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記 20:12)と全能の主ヤーウェーは言われました。子が親を敬い、大切にするのは当然と言えば当然ですよね。

でも、先日、わたしが牧師であることを知ったある人がこう言いました。「聖書が、子が親を敬うように教えているのは知っていますし、それはいいことだと思います。しかし、わたしはどうあっても自分の親を敬うことなどできません。わたしの親はわたしと弟とをさんざん虐待したうえ、捨ててしまいました。あんな人間は親になる資格などないのです。わたしは自分の生きているかぎり自分の親を憎み続けますし、決して彼らを赦すことなどできないでしょう。もしも罪に問われずに殺す方法がもしあるならば、わたしは躊躇わずに親を殺すでしょう」とね。

わたしはショックで答えるすべがありませんでした。もちろん神はその人と弟さんの痛みや苦しみを知っておられるし、彼らがなぜそんなにも自分の親を憎んでいるかもご存じでしょう。あなたなら、この人になんとお答えになりますか?

それでも神はこう言われるのです、「あなたの父と母を敬え。そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」と。現在のあの人は、幸福なんでしょうか?良い奥様に恵まれて健康な子供たちがいます。安定した仕事ももっています。

どんな罪でも赦してくださるわたしたちの神が、あの人の心にご両親を赦す力を与えてくださり、あの人が本当の幸せをつかんでくれることを祈るばかりです。(とーるくん)

 

8月24日(土)

父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。

僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。

エペソ人への手紙 6:4〜7

 

夫婦の絆と愛、両親への尊敬と愛、と語り継いできたパウロは、今度は父の子に対する態度、僕の主人に対する仕え方、という風に論を進めていきます。結構、具体的というか、実践的というか、現代のわたしたちの生き方にとっても役に立つ情報ですよね。こんな風な人間関係を築いていけたらいいだろうな、と思わせられます。同時に自分の至らなさに気づかされて、ああ、これではいけないなあ、と反省しばし。

でもね、聖書の教えは単なる人間関係の教えではないんですね。つまり、「こうすればあなたは人間関係の達人!」的なハウ・ツー本ではない、ということです。聖書が教えているのは、その教えの目的は、単に人との関係がよくなることではないと思うんです。

そりゃあね、関係が良くないよりは良い方がいいに決まってます。でも神さまが望んでいるのはもっとはるかに深くて大切なことであると思います。どんな人間関係においても最も大切なのは、その関係の間に、その関係のまん中に主を置く、ということではないでしょうか。

父が子を育てるのに必要なものは主の薫陶と訓戒だ、と聖書は教えます。聖書を通して、また、日々の神さまとの交わりを通して、わたしたちは主の教えを身をもって知っていくわけですよね。それがなければ、父として、また母として、子を正しく育てるのは難しいでしょうからね。

目上の人に対するときも同じなんでしょうね、きっと。ヘツライなんかいらない。お世辞もいらない。主に仕えるように、まごころをもって仕えよ、とパウロは教えます。欠点だらけの上司でも、人の言うことを聞こうとしないような教師でも、ロクデナシな牧師でも(だれのことだ!?)、たとえそれが仕えにくい相手でも、キリストに従うように、まごころこめて従っていくように、と教えているんですね。やがてはそれが相手にも伝わっていく。やがてはそれが仕えにくい、尊敬できなかった相手をも変えていくのかもしれません。神の教えを信じて実践してみましょう。すばらしい祝福が伴うことが約束されていますよ。(とるりんりん)

 

8月25日(日)

あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。

主人たる者よ。僕たちに対して、同様にしなさい。おどすことを、してはならない。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたとの主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらないのである。

エペソ人への手紙 6:8〜9

 

昨日の箇所で、しもべがどのように主人、つまり目上の人に仕えるかを教えたパウロは、今度は上に立つものが目下のものに対してどのように接するべきかを教えてくれます。

ともすると、上に立つものはその権力を使って僕たち、すなわち部下や教え子をコントロールしたがるかもしれません。特に、かれらが言うことを聞こうとしない場合、恫喝をもって無理矢理言うことを聞かそうとすることさえあります。

ここでパウロが教えているのはこうです。あなたにとって目下であり、あなたの権力のもとにいるとあなたが思っている部下や教え子たちは、じつは神の子であり、あなたと同じく、主イエスを神と仰ぐものなのだ、ということなのです。すべての人が、主イエスにあって(ひさしぶりですね、In Jesus ですよ)同じ、大切なこどもなのだ、というのです。そしてこの神は、決して人をかたよりみることをしないのです。

この世では人は平等ではないかもしれない。不平等や不当な抑圧に虐げられている人はたくさんいます。しかし、この一点を忘れてはいけない。神はひとをかたよりみることはなさいません。主にあってすべてのひとが平等であり、同様に大切な存在なのです。

だから、おたがいに善をもって報いあおうではないか、とパウロは言うのです。そうすれば自分が祝福されるよ、とね。

第一ね、ちょっと上に立つ人が(あるいは、上に立つと思い込んでいる人が)、いばりくさっている姿って本当にみっともないですよね。恥ずかしいですよね。たいした学校や組織でもないのに、お山の大将になってる人って、ああ、はずかしい!そんな人が自分のまわりにイエスマンばかりを集めて、そこに加わらない部下をいじめているなんてのは最低ですね。そういうお山の大将みたいな人間は、かたよりみない神さまの祝福を受けられるとはおもわないほうがいいでしょうね。神は見ておられますよ。虐げられているあなたの痛みをもね。(ちょっと怒りのとる)

 

**8月26日~9月1日(佐久間典臣)

 

8月26日(月)

悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。

エフェソ4:29-30

 

私は子供の頃からおしゃべりで、よく親や学校の先生から注意されていました。あなたは、おしゃべりですか、それとも無口なほうですか。もし、普通と言われれば、たぶんおしゃべりだと思います。たとえば、だれかと二人だけの状況になった時に沈黙が訪れたとします。あなたはどうするでしょうか。何か話さなければ、何を話そう、早く何か言わなければこの沈黙に耐えられない。このように思いますか。若い頃の私はもともとおしゃべりなので、こんな時に先に口を開くことになります。ところが、牧師に召されて歳を重ねるにつれて、聞くことの大切さに気づかされるようになりました。つまり、自分が話していては聞くことができないということです。それに、大切な相談を受けるときには沈黙を恐れてはいけないということも肝に命じていることです。また、今日の御言葉にあることは、ことのほか重要なことです。「悪い言葉を一切口にしてはなりません」・・・。これは命令なので、絶対に守らなければいけないことです。なかなか難しいことです。クリスチャンは、聞く人に恵が与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を語るように命じられています。それも必要に応じてです。このようなことを考えたことがありますか。なぜ、この命令が重要かといえば、これらの命令を守らないと聖霊を悲しませることになるからというのです。あなたは、普通の人間ではありません。聖霊が内住している新しい人です。聖霊があなたの内で留まり、生き生きと働かれることは素晴らしい経験となります。何より、霊によって生まれたあなたが聖霊の力によって造り変えられていくのですから、昔のままというわけにはいかないのです。それで、今日の御言葉を実行することに躊躇しないでください。聖霊を悲しませたくはありませんよね。聖霊が全ての希望なのです。あなたがどうであったとしても、神の子になって天国で生きることができるようにキリストに似た者へ造りかえることができるのは聖霊しかいないのです。その聖霊が悲しむということは、あなたのために働けなくなるということです。だから、今日のところはとても重要なのです。祈って、心の内に御言葉を吟味してみましょう。(佐久間) 

 

8月27日(火)

無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

エフェソ4:31-32 

 

なぜ聖霊が重要かといえば、普通、人は自分のことが本当に驚くほどわかっていません。それとは逆に隣人のことはわかる気がします。本当は見当違いかもしれないけれど、自分なりの判断をくだしてしまうのです。私は図々しくて、威張っている人が苦手なのです。そうゆう人がいると、どんなに地位の高い偉い人でも、おかしいことはおかしいと言いたくなってしまうのです。それで、相手にも伝わってしまうので厄介です。ところが、同じ人の友達になれたらどうでしょう。きっと、その人は良い面をたくさん見せてくれるでしょう。つまり、同じ人でも良い面と悪い面があるのです。クリスチャンは人の良い面を見ることにするのです。悪い面をいくら批判しても、それでその人が変わることはまずありません。でも、嘘をつくのではなくその人の良い面を探すと必ずありますから、それを見て正当に評価してあげます。相手は、褒められたと思うかもしれませんが、本当のことを言っただけです。ですから、人を変えることはできないのですけれど、もともと持っているその人の良い面を大きく引き出すことはできるのです。そすれば、その人は自分の良い面を現して生きることの快適さを知るので、自ずと良くなったね!と周りの評価が変わってくるし、その人も本来の神様が創造された良い人になってくるというわけです。それで、自分の中の悪意や悪感情を捨てることにして、御言葉の通りに互いに親切にし、憐れみの心で接する事のできる人を増やすことに心を向けるのです。そのことを可能とする条件は、互いに赦し合うということです。たった一度の人生、主に罪を赦されて生まれ変わったのですから、赦して気持ち良く生きましょう。そすれば、あなたも赦してもらえるので、人生は楽しく思えてくるのです。(佐久間)

 

8月28日(水)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

コロサイ3:23-24 

 

クリスチャンはどうやって生きるのか、そのことを知りたいと思っている人がいますが、それはここに書いています。どうしてクリスチャンが評判がいいかといえば、まさにこの通りに生きている人がいるということです。しかし、この御言葉を知らないクリスチャンもいます。だから、不満がでてきます。でも、今日の御言葉を何度も読み返してみましょう。これは、人生をよくする方法なのです。クリスチャンが何が起こっても平安でいられるのは、キリストが一緒にいてくださると信じているからです。それは、とてもありがたい恵みの世界です。キリストが一緒に歩んでくださるので、とても嬉しいのです。ですから、いつでもキリストに仕えたいのです。心の中にきざみつけておく言葉は、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いないなさい」。これで、あなたは、クリスチャンの生き方ができるようになります。あなたの手の業はなんであれ、真心がこもっているので、すばらしい結果がついてきます。時には誰からも認められないこともあるでしょうし、気づかれることもないからもしれませんが、あなたの心は清々しいはずです。思いはいつも「主に喜んでいただきたいから」と、決して主以外を向くことはありません。主に仕えることのできる喜びを今日も味わうことができるのです。あなたの人生は恵まれているのです。(佐久間)

 

 

8月29日(木)

ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出して、町の長老に、「わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。

申命記21:18-21


子育てで悩む親は多いのですが、それを助ける良い仕組みがありません。結局、親が頑張るしかないのです。しかし、それにも限界があります。では、その時にどうしたら良いのでしょう。良い社会を作るには良い家庭を作ることです。それは、大変重要なことなのです。親が子供を愛して慈しみ、子供がその親を敬い親孝行に努める。これが正しいことなのです。しかし、日本の社会は悪くなり、その原因は家庭が悪くなっているからと学者やコメンテーターは言います。聖書の律法はこのような社会にならないようにと戒めを教えているのです。さて、あなたの子供が親に逆らい、戒めても聞かないなら、町の裁判にかけて死刑にしてしまう、などとできるでしょうか。聖書時代にも、親は悩んだのです。それで、あんまりこの律法は守られなかったようです。そのために、子供は反社会的になり、問題が広がった例が聖書には書かれています(サムエル上3:13)。それが祭司なら、聖なるものへの挑戦となってしまうので、親子共々に神の裁きは免れないこととなりました。親不孝が神の民の社会秩序を破壊する重大な罪であったので、昔から死刑と決まっていたのです。現代人は神の律法を全くしらないか、クリスチャンであってもよく知らない方が多いでしょう。律法を守るように教える教会でも、祭儀律法は守らなくてもよいが、道徳律は全部守らなければいけないと言う場合があります。しかし、この律法はどうでしょう。だれも守ろうとはしないでしょう。それでも、「父と母とを敬え」(十戒の第五戒)ということがどんなに重要なことかは理解しなければなりません。罪の世界では、子供だけでなく親も罪深いかもしれません。だから、なんとも悩ましい律法なのです。しかし、よく考えれば、いつまでも子供であるわけではありませんから、同じ人が立場が入れ替わって親になるのです。すると、その子が・・・と連鎖するかもしれない恐ろしさがあります。さて、そうは言っても親子なのです。讃美歌510番の歌詞を紹介しましょう。「おさなくて罪を知らず、むねにまくらして、むずかりては手にゆられし、むかし忘れたか。(おりかえし)春は軒の雨、秋は庭の露、母な涙乾く間なく、祈ると知らずや。・・・・汝が母のたのむ神の、みもとにはこずや、小鳥の巣にかえるごとく、心やすらかに。(おりかえし)。汝がために祈る母のいつまで世にあらん、とわに悔ゆる日のこぬまに、とく神にかえれ。(おりかえし)」。クリスチャンの母のありがたみが胸に迫ります。(佐久間)

 

8月30日(金)

しかし、人の中には霊があり/悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのではなく/老人になればふさわしい分別ができるのでもない。

ヨブ32:8-9

 

人生の長さは、長くもあり、短くもあるのです。その間に、あなたは何を悟ったのでしょう。確かに、長く生きれば賢くなるというものでもないし、老人になればふさわしい分別ができるというのでもないでしょう。そうであるからこそ、ただ生きていてはダメなのです。まず、人の中に霊があることを思いだしてください。それこそ神秘が自分の中にあるのです。もはや、現代人は目に見えることばかりに気を取られて、自分が霊的な存在であることすら忘れて生きているのです。神様がお作りになった自然法則の中で、自分もまた自然の一部になって生きているように自動で生きているので(罪のためにそれすらうまくいっていないのですが)、自分の中にその法則を超える別の法則があることに気が付きません。つまり、悟ること無しには人生の意味を知ることもないし、幸福や富や成功もただの憧れにすぎません。人生の大半を過ぎても、まだ依然として朝、目覚めたらまだ生きていたので生きているとでも表現したくなるような生き方をしている人は多いのです。誰でも、成長して立派な人になれたらいいと思うし、賢くなりたいのです。老人になっても、お金が欲しいという思いは消えません。お金さえあれば何でもできると信じているし、お金がなければ心配なのです。でも、大金を手にすることができたらどうするのでしょう。実は、お金は万能ではないのです。買えないものだらけです。人の愛は買えないし、命も買えません。もし知恵があれば、お金を上手に使うことができます。そうです、お金がなくても知恵があれば心配することはありません。お金は良いものですが、賢くなければ大して役に立たないのです。それどころか、お金など比べ物にならないほど高価な命を失う原因になるかもしれません。だから、悟りが必要なのです。それは、神様がくださる聖霊によるのです。神の息吹は、あなたの呼吸となり、全身をかけめぐります。ですから、霊的な呼吸をする霊の人に目覚めることです。財産を貯めるために、大きな倉庫を作ろうとした人の話をイエス様はなさいました。明日死ぬかもしれないのに、何を考えているのだろう、ということです。人間には寿命があるので、必ず死ぬのです。それも、いつ死ぬか知らないのです。ならば、いつ死んでもよいように生きることが肝心です。のど自慢大会で歌の途中で鐘が一つ鳴って、そこまでと止められてしまうようなものです。しかし、少ないけれど歌の上手な人が途中で合格の鐘が気持ち良く鳴り響くことがあります。誰もがのど自慢大会に出ているようなものです。あなたの番がきて、曲の途中で鐘が鳴ります。鐘一つか、それとも喜びの鐘が鳴り響くことになるのか。あなた次第なのです。自分の力に頼っていれば、いつまでも合格の鐘は鳴らないでしょう。あなたに、与えられた聖霊の力を信じましょう。あなたを内側から清め、キリストの品性へと造り変えてくださるその力を認めましょう。あなたの思い通りには、危険なのです。聖霊が思い通りにあなたのために働かれることを願い、委ねて生きましょう。良い結果が待っています。(佐久間)

 

8月31日(土)

あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。

ローマ14:22

 

神様があなたを幸福にしたいと思われていることは間違いありません。それなのにあなたが信仰を持っていながら幸福であると思えないなら、何か問題があります。今日の聖句はヒントを与えてくれます。新共同訳で同じ箇所を読むと、「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。」 大切な事は、あなたの考える幸福がどうゆうものかということです。この世の人と同じ考えであるのなら、問題はそこにあります。なぜなら、私たちは神様にお仕えするものですが、この世の人たちは、神を使って自分の願い通りに神を働かせることによって、幸福を手に入れようとします。神社で手を合わせている人たちは、大抵このようなことを行っています。しかし、クリスチャンは、このような人と同じではいけません。なぜなら、私たちはイエス様が希望なのです。イエス様が共にいてくださるということで、困難な病気にも立ち向かえるし、感謝すらできるようになります。それは、明らかにイエス様が愛してくださるから、そして、共にいてくださることがわかるからです。それが嬉しくて、幸福と感じるのです。ですから、自分の信じていること、信仰がイエス様中心であれば、幸福になれるのです。どのような境遇になっても、たとえ困難に悩まされていても、イエス様と呼んで助けを求めながら身を震わせていても、十字架の主が私を知っていてくだる。私の信じるイエス様にすべてをゆだねたのだから、信頼しようと決心します。するとイエス様の愛が実感できるのです。イエス様に愛されているという事実にただ幸福を感じるのです。これが、クリスチャンの幸福なのです。(佐久間)