過去のディボーション 2013年9月

**2013年9月1日(佐久間典臣)

 

9月1日(日)

わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

ヨシュア1:9

 

人生にはいろいろな事が次々に起こります。時にうろたえ、またおののき、その度に悩むことになるのです。これでは、普通の人となんら変わりません。しかし、今日の命令は、「強く雄々しくあれ」です。そうできたら、相当かっこいいですね。しかし、決意も虚しく問題が襲ってくれば、たちまちうろたえ、おののいているのです。では、どうすれば、主の命令を守ることができるのでしょう。それは、今日の聖句の最後にちゃんと書いてあります。「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」。つまり、主が共にいるとわかった人だけが、この命令を実行できるのです。主が生きて働き、あなたのためになることだけを実現させていきます。主が共にいてくだされば、不思議なほど気持ちが平安に変わります。落ち着きが戻り、動じなくなります。冷静に対処するので、問題はあっけなく消え去ってしまうのです。一番悪いのは、臆病になって逃げ出したり、後回しにすることです。それでは、悩みが増すだけです。主の作戦を聞いてみましょう。主のご計画だけが必ずなるのですから、あなたは心配することはないのです。自分でなんとかしようとするのは、苦労をいたずらに背負い込むことにつながります。ですから、「大変」と言わないことです。もし、大変とおもったなら、ハレルヤ!主の御名を讃美いたします。ハレルヤ!主に栄光あれ。という感じで讃美を絶やさないことです。まだ、無名だったギデオンは、ある日、主の御使いが現れて「勇者よ、主はあなたと共におられます」と言われました。主があなたと共にいてくだされば、どんな問題もたちどころに解決するはずです。主が共におられる人は、勇者です。だから、あなたもすでに勇者であることを信じましょう。(佐久間)

 

**9月2日~9月8日(中村 透)

 

9月2日(月)

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。

ローマ5:6

 

私たちは、信仰もなく生きてきた時期がありました。クリスチャンになって、今は信仰によって生きていると思っています。しかし、その信仰がそれほどあてにならないと思えるのはすぐに不信仰に陥るからです。少しでも困ったことが生じれば、途端に不信仰になってしまうからです。そのような時にこそ、信仰を表すべきなのにと嘆きたくなります。しかし、今日の聖句は、「キリストが不信心な者のために死んでくださった」というのです。つまり、私たちが言うところの信仰は、自己義認の裏返しかもしれないのです。神が義と認めてくださるのでなければ意味がありません。それなのに、どこかで自分を正しいとしたい願望があります。自分が正しいといつでも言い張りたいのです。だから、人間関係も疲れてしまいます。何度でも赦せばいいのに、その知識があっても、自分が正しいという思いから赦せなくなってしまうことがあるのです。聖書の教えは、自分の罪深さに気づいてへりくだり、自分のような者のために死んでくださったイエス様を心にとどめて、ありがたいと心から湧き起こる感謝を生きる力とすることです。罪深くて良いことなど何もないのですから、キリストの義にすがって生きることしかできないのです。(ピンチヒッターの佐久間)

 

9月2日(月)

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

エペソ人への手紙 6:10〜11

 

パウロが愛してやまないエペソ教会の人々に宛てた手紙も終わりに近づいてきました。最後にパウロがどうしてもエペソの人々に伝えたかったことは、強くなって欲しい、という激しい願いでした。どうやって?なんのために?

一つめ問いの答えは、「主にあって」(In Jesus ですね)です。しかも、主イエスの偉大な力によって、です。自分で強くなれ、ではないんですね。自分に頼っていては決して強くなれないことをパウロはよくわかっていました。主イエスのうちにあって、彼に頼りきるときにあなたは強くなれる。強くなる道はそこにしかないのだ、というのです。

つぎに、なんのために、強くならねばならないのか、という問いですが、それは「悪魔の策略に対抗して立ちうるため」です。う〜〜〜む、なんだか、スクエア・ジャパン・チャーチらしくなってきましたね。そうです。わたしたちは戦いのなかにおかれているんですね、悪魔とその勢力との戦いに。この場合、悪魔が一番望むのは何だとおもいますか?わたしたちが悪魔との戦いのなかにいるのだということに気づかないでいることです。ですから、悪魔たちはなるべくわたしたちに戦いのことを悟らせまいとしているんですね。

わたしたちがまずはじめにしなければならないことは、自分が悪魔との戦いのなかにいつということを知ることです。知ったうえでなければ戦えません。知らずに負けてしまったいやでしょ?

ここでも悪魔との戦いに対抗してかたく立つために必要なことは、主にあることです。主にあって、主が与えて下さる霊の戦いの武具で身を固めることです。これ以外に勝利できる方法はありません。

このあと、パウロは事細かに、われわれが身につけるべき武具について説明してくれますよ。

引っ越しのためにインターネットに接続できず、更新が遅れてしまいましたことを心よりおわびします。(反省猿、じゃなかった、とる)

 

9月3日(火)

わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

エペソ人への手紙 6:12〜13

 

わたしたちは戦いのなかに置かれているのだ、とパウロは教えます。ここで血肉というのは、「霊」に対しての「肉」というほどの意味で使われています。すなわち人間、ということでしょう。わたしたちは人間と戦っているのではない、わたしたちの戦いの相手はそんなものではなく、悪の霊なのである、というのです。

もちろん、悪魔やその軍勢である「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊」どもは、その戦いに人間を利用します。ですから、表面的にはわたしたちは人間を相手に戦っているような気がすることもあるでしょう。しかし、戦いの本質はそんなところにはありません。これは、神と悪魔との戦いなのです。善と悪との戦い、光と闇との戦いです。わたしたちは神の軍勢として、悪魔や悪霊を相手にして戦っているわけです。

そして、悪魔・悪霊の世界にもヒエラルキー、すなわち階級のようなものがあるようです。それが、この「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊」という四つの支配階級のことのようです。わたしたちが戦っている相手はこのようなものなのです。

戦いに行くのに素手で行くものはいません。武具や武器が必要です。人間相手なら、刀や銃を用いるところでしょうが、なにしろ霊が相手です。わたしたちに必要なのは「神の武具」です。神の武具を身につけて、よく抵抗し、完全に勝ち抜いていくことができるのです。

「彼ら(悪霊どものこと)は小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らに打ち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」(ヨハネの黙示録17:14)わたしたちは小羊と共にいる者たちです。主と共にあって勝利を得るのです。(今日は間に合ったとる)

 

9月4日(水)

すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、

エペソ人への手紙 6:14

 

わたしたちが神の民として、悪魔・悪霊どもと戦うにあたって身につけるべく、一番はじめに挙げられている神の武具は、真理の帯なんですね。わたしたちに与えられている最高の武器の一つは真理です。悪魔には真理はないんですから。「彼(悪魔)は偽り者であり、偽りの父であるからだ」(ヨハネ8:44)とある通りです。真理と偽りとどちらに本当の力があるか、言うまでもありません。悪魔は偽り者なのです。彼の本質が偽り者なのです。どれほど巧みに語っても、どれほど真理らしく見せかけても、悪魔は偽りの父なのです。真理はわたしたちにあり、勝利もわたしたちにあります。

だとするならば、わたしたちはそのすばらしい真理を少しでも多く身に付けている方がいいでしょうね。真理はどこにあるんでしょうか。どうすれば真理の帯を腰に締めていることができるでしょうか。

そのためには聖書を良く知っていることが大切だと思います。純粋な真理である神のことをわたしたちにわかるように与えられているのが聖書です。聖書こそ真理です。毎日少しずつでも聖書を読んでいきましょうね。聖書は、神さまからあなたへ宛てられたラブレターです。うれしいでしょ、ラブレターもらったら?何度もひっぱりだして読むでしょ?読めば読むほど神さまのあなたへの愛がわかってきますよね?これがあなたの力となります。腰がしっかり締まってなきゃ力が入りませんよね。だから昔から「ふんどしを締め直して」って言うんでしょうね。聖書に書かれた真理の帯をしっかりと腰に締めましょう。そうすれば勝利の第一歩はあなたのもの!(ふんどし買ったとる)

 

9月5日(木)

平和の福音の備えを足にはき、

エペソ人への手紙 6:15

 

ここ読んであらためて思いましたよ。わたしたちに与えられている福音は、平和の福音なんだって。福音と訳されている言葉は、本来「よい知らせ」、Good News なんですね。

罪のゆえに滅びが定められていたわたしたちのために、キリストが十字架で命を捨てることによって、罪の代価を払って下さったので、わたしたちに救いの道が開かれた、っていうのはホントにいい知らせですよね。イエスさま、信じます、ありがとう、って言ってその恵みを受け取るだけでいいんですから、ね。そして、だからこそこの福音は平和をもたらしてくれるんですね。この福音に示された愛がすべてを支配していく。そういう力のある福音なんですね。

その平和の福音の備えを足にはく。これをはいて歩きまわる。これをはいて歩くと、平和の福音のかおりをまきちらす。人々がそのかおりを嗅いで、キリストのもとに引き寄せられてくる。そうやってスクエア・ジャパン・チャーチは大きくなっていくのでしょうね。

また、歩くときに、とげや石ころがあると歩きにくいけど、平和の福音の備えを足にはいていれば大丈夫!悪魔たちが、わたしたちが歩きにくいようにいろんな障害を道に残していくけど、そんなのへっちゃらさ!だって、キリストの平和に勝てるものなんかないんだから。(東京歩きまわるとる)

 

9月6日(金)

その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。

エペソ人への手紙 6:16

 

「信仰とは、目の前に注がれる神の恵みをつかみとる手である」と、宗教改革者のジョン・カルヴァンは言いました。

神の恵みは絶大です。どんなことをも可能にします。それよりもなによりも、罪人であるわたしやあなたを罪から救う力があるのです。信仰は、山に向かって、動き出して海に入れ、と命じればその通りになるとイエスは言われました。山をも動かす信仰!すごいですね!

でもね、本当は、すごいのは信仰ではなくて、神の恵みなんです。どんなことでも可能ならしめる神の恵みをわたしたちは信仰によってつかみとることができるんですね。

神の力が悪魔の放つ火の矢からわたしたちを守ってくれるのです。悪魔の放つ火の矢を甘く見ては危険ですが、同時に神の恵みの力を侮ってはいけません。悪魔の火の矢は強力でしょうが、神の力の方がはるかに強大です。問題は、わたしたちがその神の恵みを信仰によって受けるか否か、なのです。受け取るか受け取らないかは、あなたの自由です。神は決してあなたに強制はしません。あなたが自分で考えて決断して、神の恵みを受け取るならばそれはあなたのものです。悪魔の火の矢など恐れるに足りません。あなたが神の恵みをいただく信仰の盾を手に取っているならば。この盾を突き破ることのできるものはありません。悪魔はおののいて逃げ去ります。

信仰の盾を手に取りましょう。どんなに弱く小さな者をも守り強くする神の恵みを十分にいただきましょう。勝利は主のもの、そして主に従うわれらのものです。(とんころ)

 

9月7日(土)

また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

エペソ人への手紙 6:17

 

人間の身体ってどの部分も大切でなくてならないものですが、頭は急所ですのでここをやられると致命的なダメージを受けることがあります。ですからわたしたちは突然の襲撃を受けたりすると、本能的に頭をかばおうとするそうです。

わたしたちの敵である悪魔も最も大きなダメージを与えられるかもしれない頭を狙ってくるようです。そこで、その大事な頭を守るためには救いのかぶとをかぶりなさい、とパウロは教えます。救いほど大切なものはないし、救いほどわたしたちにとって大きな力になるものはないのかもしれませんね。

ですから、一番怖いのは救いの確信を失ってしまうことなんです。悪魔はそこを突いてきます。「自分のような罪深い者が救われるわけがない」とか、「こんなに罪の誘惑に弱いようではとても救われないだろう」とか、そんなことを思ったことはありませんか?

でもね、神さまはあなたが罪深すぎるから救えない、と聖書に書いてありますか?

逆です。あなたが罪深いからこそイエスはあなたの身代わりとなって、本来あなたが受けるはずだった刑罰を十字架において代わりに受けて下さったんでしたよね?

救われるためにはどうしたらいいんですか?イエスを自分の主と信じて告白すれば救われる、と聖書に書いてあります(ローマ10:10など)。イエスが苦難の果てに達成してくださったこの救いこそ、もっとも尊いもの、もっとも価値あるもの、もっとも力あるものです。わたしたちは、イエスのこのすばらしい賜物をこころから信じて誇りましょう。自分を誇るのではない、イエスの救いを誇りましょう。そして、イエスにあるこの救いの確信をもって、救いのかぶとを頭にかぶっていましょう。(とるとる)

 

 9月8日(日)

また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

エペソ人への手紙 6:17

 

昨日と同じ箇所ですが、今日は御霊の剣、すなわち神の言について聖書から学びましょうね。

イエスさまが達成して下さったすばらしい救いの賜物で、わたしたちは大切な頭を守っています。真理の帯、正義の胸当て、足にはく福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと。これで防御の備えは万全です。主イエスが守って下さいます。

でもね、聖書はこのようにも教えていますよ。「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃去るであろう」(ヤコブの手紙4:7)

神と共に立ちあがって悪魔に立ち向かいなさい、と主は言われます。攻撃は最大の防御です。その際、わたしたちには御霊の剣である神の言という最強の武器があるんです。これをとって悪魔に立ち向かいましょう。神の言とは聖書のことです。聖書を普段からよく読んで、み言葉を自分のうちに貯えておいた方がいいでしょうね。

もう一つ、神の言とはイエス・キリストのことでもあります。キリストご自身をわたしたちの武器として悪魔と戦うわけです。負けるわけないですよね。

もちろん、悪魔の力をあまく見るのは危険でしょう。でも、信仰によってキリストにしっかりとつながっていれば、恐れることはありません。これこそが御霊の剣です。この剣は骨の髄まで切り裂いてしまうほど強力です。聖霊さまとイエスさまによって武装し、父なる神が支配して下さる。これほど心強い味方はありませんね。(腰が痛いとる)

 

**9月9日~15日(佐久間典臣)

 

9月9日(月)

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

ルカ13:10-16


この物語を読んでどう思われたでしょうか。この文章の最初の言葉は「安息日」です。ユダヤの律法では安息日(土曜日)はいかなる労働も休まなければなりません。会堂長はイエスが病気を治したのは、安息日に労働をしたことになるから安息日を破ったと言うのです。しかし、イエスは、当時の人が家で家畜を飼っていたことから、安息日でも水を飲ませるために飼い葉おけから解いて、水を飲ませに連れ出していることを指摘しました。この腰の曲がった女は18年もサタンに縛られていたのですから、安息日に解いてあげることは正しいことだったのです。では、何が違いを生み出していたのでしょうか。宗教にもありがちなことですが、会堂長は規則を守ることを大切だと思っていたのです。しかし、その規則の趣旨は自分を愛するように隣人を愛することなのです。だから、イエスのおっしゃったとおりにこのサタンに苦しめられていた女を安息日であってもすぐに助けて解放することが隣人を愛することだったのです。世の中で最も大切なことは、隣人愛です。そして、イエスの誡めは「互いに愛し合うこと」です。あなたが隣人を愛し、その人も愛しかえしてくる。そういう社会を実現させることがクリスチャンの志です。どんなに立派な規則や戒めでも、愛がなければ偽善になります。人と人との関わりを自分中心に見ていると、隣人愛は起こりません。その人がどうして今の姿になっているのかもっと大きな視野で見ることができれば大抵のことは赦せます。しかし、その人に関心を持たなければ、その人を知る事はできません。そうなると、うわべで人を判断することになるので、自分の心が繁栄されてしまいます。否定的な気持ちの強い人は、その人に対しても否定的感情が出てきてしまうので、嫌いになったり、自分に悪い感情をもっているのではないかと思えてきてしまいます。クリスチャンは超がつくほど、肯定的で楽観的な考え方をします。ですから、多少のことでは悪感情が出てくることはありません。世の中には、理解するのは大変ですがこの物語の中の腰が曲がった女のように、サタンに縛られている人もいるのです。イエスは、その人を同情したでしょうし、背後の霊的問題を見事に見抜き、すぐさまその女を助けました。強い、肯定的な感情がそこにあったことを忘れてはいけません。会堂長に代表されるように、人はこのようなひどい有様の人がいても、何も感じていないようです。他人事とは淋しい言葉ですが、まさにそうなのです。イエスは見てすぐに助けようとしました。イエスと同じように、病気を癒せないとしても、あなたが助けることができる人が必ずいます。それも、身近にいると思います。その人をあなたの近くに置いているのは主です。隣人愛を試されているのですね。ここでも、自分の愛に対する無力を認めることが、偽善にならずに、しかも主に自らをゆだねていく一歩となるのです。隣人を愛するということはずいぶんと勇気がいることです。でも、クリスチャンはその勇気を持っているこの世の希望なのです。(佐久間)

 

 9月10日(火)

さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。

愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。

Ⅱヨハネ1:5-6


教会に通うようになり、キリスト教の独特の雰囲気にも慣れてくると、教会の居心地が良くなります。その理由は、「互いに愛し合う」という言葉で説明することができます。クリスチャンがいつも考えていなければならない戒めは、愛に歩むということです。実際に、愛に歩むことを心がけてみるとどうなるでしょうか。愛することの簡単だと思える子供や夫や妻でさえ、時に傷つけてしまうことがあります。愛して結婚したはずが破綻して離婚ということも珍しいことではありません。ましてや、教会に集う全ての人を愛するというのはそう簡単ではないのです。やがて、とても愛せない人が自分の傍らに置かれます。大ッ嫌いと言いたくなるような人が隣人となるのです。困りますよね。戒めなどどこかに吹っ飛んでしまいます。神様に泣きつき、あの人をどうにかしてほしいとしつこく祈ります。勿論、逃げ出すこともできますし、そうした方がよいことだってあるでしょう。では、どうして愛することがこんなに難しいのでしょう。夫婦で考えれば、わかりやすいかもしれません。結婚して、しばらくすると相手の嫌なことが見えてきます。とても些細なことです。自分のやり方と相手のやり方が違っていたり、考え方が違っていたり、そのうち喧嘩が始まるでしょう。何がいけないのでしょう。違いが認められないことでしょうか。赦せないことでしょうか。キリストの愛し方はどうだったしょうか。私たちがまだ罪人であった時に、つまり自己中心に生きていた時に、キリストは私たちを愛しました。それは十字架で私たちを救うために死ぬことが愛だったのです。だから、愛は自分に良くしてくれたから愛するのではないのですね。初めに愛することは、自己犠牲を覚悟しなければできないのです。罪人は、それが嫌なのです。でも、イエス様を信じて、古い生まれたままの自分に死ぬことを良しとし、水と霊から新しく生まれたのです。内住の聖霊は愛なのです。キリストが十字架にかかって死なれたのと同じ愛があなたの内に宿るのです。だから、あなたが主を信じて自分の力で愛そうとしなければ、愛は自然と出てくるはずです。人見る見方がすっかり変わるから、前のような嫌な感情は湧いてこなくなります。そして、主の愛が自分から出てくるので相手は必ず良く変わるのです。不思議な愛の世界があるのです。互いに愛し合う、ということを知るには、神様を知ることです。そこにお手本があるからです。世界を変えるほどの愛があなたの内にすでに宿っていることを感謝しましょう。愛が働くときに、邪魔をしないことです。否定的に嫌だ嫌だと考えずに、主を愛し、感謝しましょう。讚美して喜びましょう。奇跡は簡単に起こるのです。(佐久間)

 

9月11日(水)

しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。

ユダ20

 

クリスチャンが主の御心に適った生き方をするには、どのようなことが必要なのでしょうか。今日の聖句はそのことを教えています。最も聖名る信仰をよりどころにして生活するのです。信仰という言葉を意識してクリスチャンが生きることになれば、素晴らしいことが起こってきます。しかし、この世の人たちと変わらない生き方をするクリスチャンは決して少なくないのです。ここのポイントは、ただ、信じるから信仰というような考え方ではないということです。なぜなら、「最も聖なる」信仰と語っています。聖なるということを考えて努力する人もいますが、それはあまりうまくいかないかもしれません。信仰で最も聖なると言えるのは、イエス・キリストの信仰です。ですから、イエス様の信仰を拠り所にして生きるということを考えてみるのです。そのためには福音書を読む必要があります。例えば、病気が癒された女は、「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様に言われます。これは、イエス様を信じてその信仰が奇跡を起こした場面の話です。つまり、イエス様と関わる者が信仰の力を味わったのですが、それはイエス(の信仰)を拠り所としていたのです。そこで、私たちもイエス様を信じることと、イエス様に頼ればイエス様の最も聖なる信仰が働くことを日々の生活で実践してみることにします。祈るのも理性のみで祈るのではなく、聖霊の導きを求めて祈りましょう。聖霊はあなたの味方です。あなたを整えて天国へと導いてくださいます。聖霊は、あなたを通して魂の救いをはじめるでしょう。あなたの祈りが自分のことよりも熱心に隣人に向けられていくでしょう。神の愛に守られていることを知りましょう。あなたは特別な存在なのです。主のみ翼の陰に宿ることができます。鉄壁の守りがあなたを覆っています。それは、あなたが主に愛されていることを信じて味わうことから始まります。救われるとは、やっぱり天国へ入ることができることです。それは、人間的に考えれば難しく思えるかもしれません。なぜなら、クリスチャンになってもまだまだ未熟で、失敗を繰り返してしまうからです。つくづく罪深い存在だと思い知らされることがあるのです。それでも、希望があるのは、イエス様が憐れみ深いからです。一心にイエス様を見つめて、脇目をふらないことです。憐れみはイエス様から必ずきます。その心地よさに委ねることの容易さを知りましょう。(佐久間)

 

9月12日(木)

七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

ルカ10:17-20


現代人は、霊的なものに無関心です。しかし、悪霊に悩まされている人は聖書に書かれている人だけではありません。現代にも悪霊に苦しめられて困っている人はいるのです。目に見えない敵ですが、実は身近な存在です。あなたが悩む時に「自分は必要とされていない」とか「自分は駄目だ」といった自己否定をしていることはないでしょうか。それは、生きる力を奪います。そのようなことを習慣のように繰り返し行う人は少なくありません。それがサタンからきているのなら、どうでしょうか。気づきにくいのですがサタンは巧妙にあなたの弱みをついて責めてくるのです。そのうえ、誘惑が得意でさまざまな方法を駆使して無抵抗な人を攻めつづけます。クリスチャンが信仰に燃え出すと、チャンスをうかがって待ちます。やがて、まだ悔い改めていな隠れた事を見つけて誘惑してくるのです。しかも、サタンの存在などまったく消しているので、自分のせいだとしか思えません。今日、クリスチャンは今日の聖句のようにサタンに立ち向かい、主の御名によってサタンを追い出すことさえするようになってきました。そして、その効果を知ると驚きます。聖書に書かれていることが今でも起こるということを個人的に体験するからです。そして、今度はなんでもかんでもサタンのせいにして、サタンを追い出すことばかり考えるようになったりします。しかし、イエス様の御言葉を思い出してください。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。この御言葉を今日は考えてみてください。あなたは必要とされているのです。神様にあなたは選ばれて、悪魔に対する権威を授けられ、神の国のおとずれを人々に伝え、困っている人を助け、キリストの香りとなることができるのです。自分の力に頼らず、ただへりくだって聖霊の器となり、自分を通してキリストが働くことをよしとする生き方を身に付け、十字架の福音を時が良くても悪くて伝えるのです。イエス様はあなたを必要としておられるのです。祝福がありますように。(佐久間)

 

 

9月13日(金)

そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

使徒言行録20:22-24

 

パウロがエフェソの長老たちと最後の別れの時に語ったことばです。パウロの信仰がどのようなものであったのか理解できる箇所です。パウロの任務は、神の恵みの福音を力強く証しすることでした。しかも、そのためには命すら惜しまない覚悟があります。あなたはどうでしょうか。あなたの主からいただいた任務は何でしょう。命すら惜しくないと思えるものをあなたは持っているでしょうか。クリスチャンは、何かの宗教をやっていますというようなものではありません。神様から直接召し出されたのです。それは、イエス・キリストの証人になるためです。福音を全ての人に伝えるという任務です。それ以外のことは二の次なのです。では、どうして「“霊”に促されてエルサレムに行」かないのでしょうか?日々の生活の煩雑さに「忙しい、忙しい」と言っているだけでは、この世の人とかわらないのではないでしょうか。よく考えてください。神様はあなたに働きかけておられます。あなたに期待しているのです。あなたが聖霊の促しに耳を傾ける気持ちがあるのなら、何をするか知ることができるでしょう。多くの人は、信仰の偉人のように偉大なことをするのは、無理だとはじめから諦めています。しかし、聖書はあなたにも霊の賜物を与えていると告げています。ですからあなたの好きなこと、得意なこと、いつまでも疲れずにできること、なんら苦にならないこと、つまり楽しくできることをしなさい。霊的に大いに力が湧いて来ることです。主を讃美したくなるような喜びがあることです。パウロも辛いことばかりに遭遇していたように見えますが、パウロの霊の賜物や才能が発揮される場で活躍したのです。だから、成功したし、辛いことにも対処することができたのです。人に強いられたのではなく、自分から使命を全うしようと出て行ったのです。それは、イエス様に出会ったからです。イエス様に出会った人は、イエス様のために生きたいのです。それ以外のことを全部犠牲にしても惜しくないのです。それほど主イエス・キリストは最高のお方なのです。誠実に愛してくださるイエス様に喜んでいただくため、一緒に楽しく任務をはたそうではありませんか。(佐久間)

 

9月14日(土)

その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

使徒言行録23:11

 

巷では、テレビドラマの「半沢直樹」が大人気となっているそうです。銀行員の半沢が歯に衣着せぬ大胆な言葉で、たとえ上司であろうと、権威であろうと悪に立ち向かう姿が人気なのです。世の中はあまりにモラルが低くなり、皆自分の利益のことばかり考えて、正義や矜持などという言葉が死んでいます。もちろん、そのような世の中でも自分の保身を考えずに正義を貫こうとする人もいるのです。いや、いてほしいです。日頃、組織の中や社会で悔しい思いをしている人たちが半沢直樹を観て、溜飲を下げているのは、理不尽な事がまかり通っているからです。それでは、クリスチャンはどうでしょう。パウロの記録を読むと、胸が熱くなります。へこたれたり、泣きたくなるようなことが次々に襲いかかってくるのです。命懸けで懸命に主を証ししていても、人々からの賞賛もなく、不当な迫害や困難がパウロを悩ませます。パウロは主のために頑張っているのです。そして、今日も最高法院や祭司長たちの前で命懸けで頑張ってきたのです。その夜、主はパウロのもとを訪れたのです。そばに立ち、「勇気を出せ」とおっしゃいました。そうです、勇気を出さなければ、イエス様を証しすることなどできません。半沢直樹のいいところは、決して相手を恐れないところです。そして、相手が不正を働き、悔い改めるどころか、不正を正そうとする半沢に攻撃を仕掛けてくれば、決まり文句があって、「倍返し」というのです。クリスチャンである私たちは、復讐は主がなさることで私たちが復讐してはいけない、私たちは半沢とは逆に「祝福の倍返し」を旨とするのです。それにしても、パウロは現代でもヒーローです。あなたは、主の証人なのですから、あなたもまたクリスチャン・ヒーローなのです。さあ、勇気をだしましょう。(佐久間)

 

9月15日(日)

塵からは、災いは出てこない。土からは、苦しみは生じない。それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように。

わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう。

ヨブ記5:6-8

 

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。これは、創世記に書かれた初めて人間を創造した時の記録です。ここを読むと、今日の聖句の意味がわかります。塵や土で人間ができているのなら、塵からも土からも災いや苦しみは生じないというのは真理です。それなのに、人間は生まれてくれば必ず苦しむのです。小学校2年生の時に、運動の不得意な女の子がいました。体育の授業の時に、ドッジボールを使った三角ベースをやることになりました。二つのチームに分かれての試合形式です。運動の苦手な女の子の順番になりました。その子は一生賢明にボールを蹴ろうとしたのですが、空振りして思いっきりひっくり返ってしまったのです。注目して見ていたクラスメートは一斉に笑ったのです。大笑いでした。私はかわいそうで笑うことができませんでした。冬の寒い日で尻餅をついてどんなに痛かったことでしょう。その子は、今で言うところのいじめられ子だったのです。私は、どうゆうわけかそうゆう子と友達になる傾向がありました。3年生の時に私は転校しました。そこで一番初めに友達になったのが、後でわかったのですがいじめにあっていた女の子だったのです。読者の皆様に誤解のないように言いますが、女の子の友達ばかりいたわけではありません。男の子の友達の方が勿論多かったわけですが、将来牧師になることが決まっていたかのように、その頃から試されていたのかもしれません。今も同じような仕事をしているので不思議に思います。さて、悩み、苦しみというようなことは、この世に生まれれば避けることができないのです。あなたは、悩み、苦しみの問題をどうしていますか。聖書は、「わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう」と書いてあります。そこで、読者はこのみ言葉の通りにするでしょう。しかし、それで本当にうまくいくのでしょうか。たぶん、神に訴えるのはできるでしょう。難しいのは、神に私の問題を任せる、ということです。思い煩うとは、神に任せたといいながら、その後もくよくよ悩むことです。本当に神に自分の問題を任せきることを信仰による義といいます。問題を神に任せきって手放すことを主は助けてくださいます。そうです、十字架こそが問題を解決する保証なのです。もっと、楽に生きてみませんか。(佐久間)

  

**2013年9月16日(月)〜22日(日)(中村とおる)

 

9月16日(月)

絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

エペソ人への手紙 6:18

 

「絶えず祈りと願いをし」とありますが、「たとえば寝ている時はそんなのできっこないじゃないか!」って怒られたことがあるんです。わたしが書いたわけじゃないのに。。。でもね、パウロが言っているのは、いつでも神さまにこころを向けていなさい、っていうことじゃないでしょうか。

どこにいても、何をしていても、いつも神さまがこころにある。こころの中から神さまを閉め出さない(これ、実はよくやるんですよね、多くの人が)で、どんなときでも神さまに聞き、神さまに語りかけ、神さまと会話しながら生きることができたらいいですね。

さて、祈る時は御霊によって祈る、とパウロは言います。祈るときにも御霊に助けを求める。御霊はわたしたちの心の中にあるものをすべてご存じですから、御霊にまかせて祈りたい。自分勝手に祈るのではなく、神の心と一つになって祈るという経験をしたことがありませんか?それはもう本当に天に引き上げられるような得難い経験です。

そしてパウロはすべて聖徒のために祈り続けよ、と続けます。信仰の仲間のために(みんな悪魔の攻撃を受けていますからね、励ましあい、祈りあわなきゃね)、また、特別な主の働きのために召されている牧師たちのためにも祈りましょうね。(まだ腰痛のとる)

 

9月17日(火)

また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。

わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。

エペソ人への手紙 6:19〜20

 

パウロはもちろんそうですが、わたしたちもこの福音のために選ばれ、召されている使節です。わたしたちは、ただ救われているだけではないんです。もちろん罪人であり、滅びゆく運命であったわたしたちが、福音によって、恵みによって救われることは本当に大切であり、神さまの強い願いであったことは間違いありませんが、神さまはもっとすごい計画をわたしたち一人一人に持っておられるんですね。

それは、救われたわたしたちが、もっと他のまだ救われていない人々に福音の奥義を明らかに示すことなんです。そのためにはなんとしても神さまの助けが必要なんです。神さまから語るべき言葉をいただき、それを大胆に語ることが重要です。

教会でメッセージをとりつぐときにもこれを常に心がけています。牧師はみんなそうだと思いますが、自分の考えや思いではなく、神からいただいたメッセージだけを純粋に語りたいといつも思っています。

でも、これは牧師だけのことではないと思っています。わたしたちはみんなそのために召されているんですから、いつでもキリストと福音のすばらしさを語れるように心がけていたいですね。そういうチャンスがいつ、どこでやってくるかわかりませんからね。

いつでも、どんなときでも、どんな状況でも神さまから語るべき言葉を受け取って、それを大胆に語れるようになりたいですね。(主のしもべ)

 

9月18日(水)

わたしがどういう様子か、何をしているかを、あなたがたに知ってもらうために、主にあって忠実に仕えている愛する兄弟テキコが、いっさいの事を報告するであろう。

彼をあなたがたのもとに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるようになるためなのである。

エペソ人への手紙 6:21〜22

 

パウロの手紙があまりにも力に満ちているのでつい忘れがちですが、かれは獄中にあってこの手紙を書いているんですね。福音のゆえに、またキリストを宣べ伝えたがために、鎖につながれているんです。パウロによって建てられ、養われてきたエペソ教会の人々にとって、そのことは胸が張り裂けそうなほどつらいことであり、パウロのことがこころの底から心配だったでしょうね。

パウロはかれらの心配をよく理解していました。だから、パウロの世話をするためにそば近く仕えていたテキコを遣わしたんですね。テキコは、パウロの様子や彼が何をしているかをすべて報告してくれるでしょう、と。

驚くのは、そういうテキコからのパウロに関する報告を受けることによって、エペソの人々が「心に励ましを受ける」とパウロが信じていることです。だって、牢屋にいるんですよ。そこでの生活がそんなに自由で快適であるはずがありませんよね?でも、その報告が愛するエペソの人々を励ますことになるとパウロは信じてやみません。

きっとパウロは獄中にいる時も、外にいる時と同じように自由であり、(鎖につながれていてもこころと魂は自由なんでしょうね)、主にあって快適に、喜びと力に満たされて生きていたんでしょうね。パウロと共に生活しているテキコが、それを包み隠さず報告することがなによりも心配しているエペソの人々を励ますことになるとパウロにはわかっていた。つくづくすばらしい信仰者だなあ、と感動しますよね。(とおる)

 

9月19日(木)

父なる神とわたしたちの主イエス・キリストから平安ならびに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように。

エペソ人への手紙 6:23

 

いよいよこの手紙を締めくくる時が来ました。パウロの最後の挨拶です。彼が最後にどうしても言っておきたかったことがこの短い挨拶に含まれています。

ここでも、パウロが最も強く訴えているのは「愛」です。最初から最後までパウロのこころを一杯にしていたのは「愛」だったんですね。

わたしたちは、まず神によって愛されている。それもすべてを捨て去っても愛し抜くというような非常に強い愛です。そんな愛によって愛さているわたしたちも、やはり互いに愛しあうことが求められているんですね。

ただ、最も大切なことは、今日のことばにある通り、愛がどこからくるか、愛はどこで得られるのか、ということです。パウロはこのように書きました、「父なる神とわたしたちの主イエス・キリストから平安ならびに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように」と。愛は父なる神とわたしたちの主イエス・キリストから来るんです。他に愛の源はありません。

他にわたしたちが愛を得られるところはありません。

しかも、この愛は平安とともにやってきます。あなたは今平安がありますか?心配事や、あるいは怒りや、怖れに捉えられていませんか?あっても不思議はないんです。キリストはこのように言われました、「あなたがたはこの世では悩みがある」(ヨハネによる福音書 16:33)。でもどんなに悩みが多くても、それでも失われない平安があるんです。父とキリストが与えて下さるのはそのような平安なんですね。そういう平安であなたが包まれていることをパウロは最後の望みとして大胆に掲げているんですね。(脊椎管狭窄症のとる)

 

9月20日(金)

変らない真実をもって、わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人々に、恵みがあるように。

エペソ人への手紙 6:24

 

もう一つ、パウロが最後に祈っているのは、「恵み」です。恵み、とは価しないものに与えられるものです。価するものに与えられるのは恵みではありません。(たとえば、給料とかね)神さまは、罪人のわたしたちのためにそのひとり子の命を捧げたんです。あなたは自分が神のひとり子イエス・キリストの命と引き換えにされるに価すると思っていますか?思っていませんよね?だからこれは恵みなんです。

神の恵みというのはわたしたちの想像をはるかに超えるほど大きく、深く、広いんですね。神の恵みはすべてを可能にします。それがなければ絶対に不可能なことを可能にしてしまうのが恵みなんですね。

わたしたちに本当に必要なもの、なくてならないもの、すばらしく価値のあるもの、それが神の恵みです。そのことをパウロは最後の最後に祈り求めているんですね。

パウロはわたしたちのことを、「変らない真実をもって、わたしたちの主イエス・キリストを愛する」人々と呼んでくれています。本当にそうでありたいですね。気が向いた時だけでなく、状況がいい時ばかりでなく、いつでも変わらない真実をもってキリストを愛し続けて行きたいですね。それがパウロの、エペソ人とわたしたちへのこころの底からの願いだったんですね。この美しいことばをもってパウロはこの「エペソ人への手紙」を書き終えたのです。今週の残りあと2回(土曜日と日曜日)を使ってエペソ人への手紙を振り返ってみたいと思います。(toru)

 

9月21日(土)

神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

エペソ人への手紙 1:1〜5

 

パウロはこのような挨拶をもってこの手紙を書きはじめたのでしたね。初めから繰り返し書いてきたことですが、この手紙の一つの重大なテーマというか、キーワードは、”In Jesus” 「キリストにあって」、「イエス・キリストにあって」、「キリストのうちに」、「キリストによって」、そういった言葉でした。この冒頭の短い挨拶においても、パウロは4回もこのことばをくり返しています。パウロにとってこれこそが人生のキーワードであり、言ってみれば、これがなければ何も成り立たなくなるほどに重要な問題だったのですね。

でもね、言われてみれば当たり前ですよ。キリストのうちにいなくて、わたしたちに何ができます?「キリストにあって」でなくて、つまりキリストになくて、わたしたちが何者だというのでしょうか。キリストがいなくちゃもう全然ダメ!キリストのうちにいなけりゃ、もういないも同然、いや、いない方がまだマシかも。。。ってなもんですから。

わたしたちは、キリストにあって生まれ、キリストにあって救われ、キリストにあって生かされ、キリストにあってクリスチャンたるものであり、キリストにあって用いられ、キリストにあって伝道し、キリストにあって死んでいくんですね。そのことを忘れちゃダメだよ、というのがパウロのメッセージだったんじゃないでしょうか。

それは、パウロこそ、自分がキリストがいなければどうにもならない救いようのない存在だということを、よ〜くわかっていたからでしょうね。

このエペソ人への手紙を終わるにあたって、もし、もしも、あなたが、「自分はキリストなしでも生きていける」と思うようなことがあったら、そのときこそあなたは本当に危険な状態にあるのだということを思いだしてくださいね。

キリストはあなたを見捨てたまいません。あなたが、意識して、明確にキリストを捨てないかぎり、あなたはキリストから離れてしまうことはないでしょう。どんなときにもキリストはあなたと共にいてくださり、どんな困難からもあなたを救いだしてくださいます。それは間違いありません。そのことを、「キリストにあって」大胆に信じましょう。

忘れないでください、パウロはあなたを、「キリスト・イエスにあって忠実な聖徒」と呼んでくれているんですよ。(とーる)

 

9月22日(日)

さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、 

・・・(中略)・・・しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。

エペソ人への手紙 2:1、4〜6

 

かつては罪のうちに死んでいたわたしたちを、神はキリストと共に生かし、キリストにあって(In Christ) よみがえらせ、天上で座につかせてくださった、っていうんですね。キリストにあって、In Christ というこの言葉がどれほど重要であるか、わたしたちにはまだよくわかっていないんでしょうね。このことを教えるためにエペソ人への手紙は書かれたと言っては言いすぎでしょうか。

「われわれは神のうちに (In God) 生き、動き、存在しているからである」(使徒17:28)

「だれでもキリストにある (In Christ) ならば、その人は新しく造られた者である」(第二コリント5:17)

「わたしたちは神の作品であって、キリスト・イエスにあって (In Christ)造られた」(エペソ2:10)

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある (In Christ Jesus) 者は罪に定められることがない」(ローマ8:1)

「なぜなら、キリスト・イエスにある (In Christ Jesus) いのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」(ローマ8:2)

「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって (Through Him) 、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ8:37)

「わたしを強くして下さるかたによって (Through Christ) 、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)

どうですか?こんなふうに、聖書の中には、キリストにあって (In Christ) ということばがこれでもか、と言わんばかりにたくさん書かれているんですね。キリストにあって生かされ、キリストにあって救われ、キリストにあって新しく造られ、キリストにあって強くされ、キリストにあって解放され、キリストにあって勝利し、キリストにあって何事でもすることができる。すごいと思いません?キリストにあって生きていきましょう。エペソ人への手紙はとくにこのことをわたしたちにくわしく教えてくれました。In Christ! 楽しい学びでしたね。(次はなにをやろうかとる)

 

**9月23日~29日(佐久間典臣)

 

9月23日(月)

主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。あなたの慈しみはわたしの目の前にあり/あなたのまことに従って歩き続けています。偽る者と共に座らず/欺く者の仲間に入らず悪事を謀る者の集いを憎み/主に逆らう者と共に座ることをしません。

詩篇26:1-5

 

この詩はダビデのものです。それにしてもすごい詩を作ったものです。いきなり、主の裁きを望むというのですから。実は、別の訳によれば、「主よ、私に義をお与えください、私は責められるところなく生活をし、迷うことなく主に信頼してきたからです」(NEB)となります。それは、罪が全く無い生活を送ってきたということではなく、神の愛にかなう応答として迷うことなく主に信頼してきた、ということです。神を信じるということは、自己を献げて生きるということです。人の道は、無数の選択があります。その都度、人はどの道を行くか選ぶのです。そこに選択の自由がありますが、自由には責任も伴うのです。ダビデの詩を見れば道は一つ、主に信頼しているので、何が起こってもゆるがない。主こそ私の道です、と言っているのです。「はらわたと心を火をもって試し」とは、人の内なる思い、本心をあぶり出し調べて確かめて欲しいということです。聖霊は心の中に入って来るので実は全てを知っているのです。それで、ダビデは自己献身が本物であることを主に確かめていただきたいのです。「あなたの慈しみは・・・」、主を信頼して生きる者を神は忠実に守ってくださる。このことを知る者は、自分には何の功績も無いがこの忠実なお方を信じて生きようとします。そのまことに従っているので、それにふさわしく生きようとするのです。人間の不思議は、神に忠実に生きようとする人と、慈しみを知っても自分の生きたいように生きる人がいるということです。その結果は一目瞭然なのに、神よりも人を選ぶのはどうしてでしょう。「偽る者と共に座らず」とは、彼らのようなライフスタイルを選ばないということです。偽る者と共にいても孤独は癒されることはありません。乾きが増すので離れられなくなるだけです。一方、生ける主と共に歩む人に孤独はありません。主に従っているのですから、憩いのみぎわに導かれている羊のようです。安全で楽しい人生です。主に心を向けましょう。今日も良い日です。主があなたの羊飼いだから、あなたの名を呼んで正しい道を行かせてくださるのです。ハレルヤ。(佐久間)

 

9月24日(火)

 

世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。

 

コロサイ1:26-27

 

パウロがこの箇所で溢れるような思いを持って語っていることは、とても重要なことなのです。勿論、今や秘められた計画は明らかとなり、クリスチャンの皆様は知ることができるのです。教会では普通に話されていることでもありますが、本当の意味を理解している人は多くないのかもしれません。私は、この箇所を読んでいて、最後の「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」というところで、感極まってしまいました。旧約聖書を開き、天地万物の創造から始まり、アダムとエバが初めての人間になり、そしてアブラハム、イサク、ヤコブの族長物語が続き、モーセが出現し、跡を継いだヨシュアの奮闘で、ようやく約束の地カナンに侵入して、やがてイスラエルの民が強大な国家を建設していく物語でダビデの勇姿を想像しては胸躍らせ、やがてに王国時代に突入し、悲劇が待ち構えていて、北王国が敗れ捕囚に連れて行かれ、残ったユダもバビロンに捕囚となりました。聖所を持ち、レビ人と祭司を有する神聖国家がたどった月日は長いものでした。しかし、彼らはイスラエルの特権を生かすことはできませんでした。彼らの重要な出来事は、神と契約を結んだことでした。神は石板に律法を記しました。それを彼らは守ることを了承し、約束を結んだのです。しかし、彼らはその約束を守ることができなかったのです。一方、異邦人はイエス・キリストの到来により、初めて福音を聞くことになりました。それは、罪の赦しと、救いが主イエス・キリストを信じることによって与えられるというものです。キリストは十字架に掛かり、我々の罪を負って死んでくださった。その贖いこそが、福音です。なぜなら、なんの功績無しにただ恵で救われるからです。そして、救われた異邦人をクリスチャンと呼び、主は彼ら罪人であった者がどうやって生まれ変わるか方法を計画していたのです。それは、肉に罪が宿り、いくらでも罪を生み出すために、クリスチャンになっても罪の問題でまた苦しむという矛盾が起こるのです。それは、サタンが肉をコントロールできるからです。それで、肉についている限り人間は罪に勝てないという問題があったのです。それを克服するために、イエス・キリストの十字架の死に人を結びつけることで、肉に死ぬという方法で罪の問題を解決します。勿論、死んだままではなく、キリストの復活の命にあずかります。それは、水のバプテスマと聖霊のバプテスマによって起こることです。聖霊は、主を信じて贖われた信仰者の内に働きます。それは、エレミヤ31:31以降で預言された、新しい契約の通りに人の内に律法を書き記すことです。つまり聖霊が人の内に内住して生きて働くことです。律法は主が愛であるように、人もまた主のように愛する者として生きることを定めたものです。そこで、主の新しい戒めは「互いに愛し合う」ことだったのです。ただ一つ、このことを信仰で実現することが、実は全てを全うする秘密なのです。それで、ペンテコステ以降、イエス・キリストを信じる人には、聖霊のバプテスマを授けることができるようになったのです。(佐久間) 

 

9月25日(水)

 

イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

マルコ12:43、44

 

どうしてこの貧しいやもめは、生活費を全部賽銭箱へいれたのでしょうか。イエスの評価は明快です。金額の大小で量っているのではなく、その人の持っているものの中で有り余るものの中から差し障りの無い金額を献げているか、それとも生活費の全部を献げたか、という非常にわかりやすい基準で見ていることです。勿論、誰もが生活費の全部を献げるようにという話ではありません。イエスが見ていたのは、献げものの額ではなく、献げものは犠牲的なものであるかどうか、ということでした。この物語の場所は婦人の庭と呼ばれる所であったと思われます。そこにはその形からラッパと呼ばれる献金箱が13置かれていたそうです。その献金は、日毎の供え物(穀物、酒、油など)や神殿の費用のためのものでした。多くの人は多額の献金を献げていたのです。しかし、今日登場した貧しいやもめは、当時の貨幣で最も小さな額のものを二枚献げました。それが、イエスの口から、「だれよりもたくさん入れた」と言われたのです。ある教会では「犠牲献金」という名目の献金を年末に集めています。しかし、それは何かを買ったお釣りとか小銭が、特に1円玉が多く見られました。これは、24時間テレビの募金の時にみられペットボトルなどに入った小銭と似ています。私たちは、神に何を献げているのでしょうか。生活の一部を献げているのでしょうか。教会で献金を集めるときにある女子高校生に献金かごが回ってきました。すると、その女子高校生はその献金かごを下に置き、なんとかごの中に入ったのです。つまり、自分自身を献げたということなのでしょう。私たちが神をどのように信じているのかということを神は見ているのです。イエス・キリストのために、本当に自分を献さげる事をしないなら、どれほどの損失があるでしょう。少なくとも、献金を献さげる人たちを見ていると金額はわかるかもしれませんが、それがどのような意味で献げたのか、ということはイエス・キリストしかわからないでしょう。そして、キリストは見ぬいていたということです。そうであれば、その献げものはどれほどのことを成し遂げるのでしょうか。犠牲を伴う献げものは特別な意味があるのです。神殿の過ぎ越しの真の献げものは十字架におかかりになったイエス・キリストでした。それが、献げるということだったのです。キリストが命まで献げたのは、私たちを救うためにほかなりません。その尊い犠牲に、私たちはどのように応えればいいのか考える必要があるのです。神を愛し、信頼して生きる人々は、神に自分自身を献げたいのです。神に喜こんでいただきたいのです。この貧しいやもめは、決して強いられて献げたわけではありませんでした。そうせずにはいられなかったのでしょう。二枚の銅貨を持っていたのなら一枚は神のため、一枚は自分のために残しておけばよかったのではないかというのが多くの人の考え方かもしれません。それが、神に献げるということの意味をわからなくさせているのです。なぜなら、私たちの生活費の全てが神の恵であることがわかっているのなら、自分の稼ぎで生きているというような態度は取るべきではないからです。だれが私を生かしているのか、それがわかれば自ずと何をすればよいかわかるものです。神の恵みを数えてみてはどうでしょうか。(佐久間)

 

9月26日(木)

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30:14

 

これは、「あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。」(同30:10)という前提があります。これならば、ユダヤ人のように律法を守ることを義務にしても守れなかった歴史があります。しかし、新約時代を待つまでもなくすでにこの御言葉に先立って御言葉を守れる秘訣が書かれているのです。それは、「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。」(同30:6)という箇所です。新約聖書を見れば、「 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなくによって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:29)とあります。つまり、イエス・キリストの救いは贖いの業をもって、ただ罪を赦すにとどまらず、新しく生まれて、神の子になるという完全な救いだったのです。そのためには、心から悪いものが出てくることを断つために、心に割礼を施す必要があったのです。それは人間にはできないことなので、聖霊がその働きをなさってくださるのです。それで、へりくだって聖霊の働きを認めることが大切なのです。そして、神の御言葉は天の果にも、海の彼方にもあるのではなく、ただあなたの口と心にあるのです。あなたがクリスチャンであるのなら、このことはわかるはずです。だから、御言葉を知っているだけの人にならずに、聖霊に助けられて御言葉を行う人になろうではありませんか。それは、御言葉が聖霊によって理解できるものになるので、心から出てくるものが主のみ言葉の通りになるということです。それを愛と言う人もいます。あなたの心と口に何があるか吟味してみましょう。今日も恵があなたを追ってきますように。(佐久間) 

 

9月27日(金)

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。

Ⅱテモテ4:2-5

 

クリスチャンの生き方というものがあります。それは、御言葉を宣べ伝えるということです。生まれて初めて誕生日に聖書の御言葉をくれたクリスチャンの友人がいました。私は、その頃はまだクリスチャンではありませんでした。聖書の言葉だとわかったので、聖書のどこに書いてあるのか調べてみました。そして、聖書の余白に友人の名前と誕生日にいただいたと書き込みました。聖句には線を引きました。その聖句が私には特別のものに思えたのです。聖書に書かれた神の御言葉には不思議な力があるのです。クリスチャンでもないのに、その御言葉が私に迫ってくるのです。そして、私の心の中で何かが起こっていきました。それから数ヶ月後に洗礼を受けて私もクリスチャンになりました。あなたは、誰かに聖書の御言葉を贈ったことがありますか。その人のことを思って祈ってみるのです。神様がその人に与えたい御言葉を教えていただくのです。そして、その御言葉をカードに書いて大切な人に贈りましょう。それも、宣べ伝えることになるのです。そして、私のように救われる人が現れるのです。教会にクリーニング屋さんがいました。その人は、家のポストに一枚のトラクトが入っていたことから、教会を訪ねてきたのです。その人は、その教会で誰が自分の家のポストにトラクトを入れたのか聞いて回ったのですが、誰も該当者がいませんでした。それで、すごく不思議に思って、御言葉を学ぶようになり、救われてクリスチャンになりました。黙ってポストにキリスト教のトラクトを一枚入れることでも、御言葉を宣べ伝えたことになるのです。別の人は電車を降りるときに座席にトラクトを一枚置いておくのです。電車ならそれを手にとって読む人がいるだろうと考えたのです。趣味でギターを弾くクリスチャンがいました。彼は、教会のロビーを借りてロビーコンサートを行いました。好きなことで主の御言葉を伝えたのです。ドワイト・ムーディーは靴屋の店員でしたが、後に歴史に名を残す大伝道者となりました。公衆伝道者のように人々の前で大胆に御言葉を語らなくても、自分でできることがあるはずです。あなたもキリストの看板を背負って恵みの中を生きているのですから、主の言われるように福音宣伝者なのです。これは聖なる主の仕事です。報酬は神の国でいただきます。なんとか、自分の務めを果たしたいですね。(佐久間)

 

9月28日(土)

時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

ガラテヤ4:4-7

 

さて、今日の聖句の意味を考えてみましょう。イエス・キリストがこの地上へ来られた時は決まっていました。イエスは人間として生まれることになっていました。そして、その通りになりました。それは、律法があるために人の罪が明らかになり、律法によって裁かれることになっていたので、そこから救い出すために律法の罰を十字架で私たちの身代わりに支払ってくださったのです。それは、神の救いが何であるかを理解すればよりわかりやすいので次に簡単に説明します。まず人間は諸霊(悪霊のこと)の奴隷であったとガラテヤでは説明します。罪とは神に反抗した悪魔の性質のことです。その罪には自己中心という性質が強力に働いているために、自分の罪深さに気づくことが難しいのです。自己を正当化し責任転嫁して人のせいにしてしまうところがあります。ところが、モーセの時代に律法が与えられました。勿論、律法は普遍のものですから石の板に書かれる前からあったのですが、新約聖書でもモーセの律法が出てくるように、この律法に違反することで罪を犯すということが明確になったのです。そして、この世の支配者である悪魔は神の律法が守れないものであると、あたかもそんな律法を与えた神が悪いと言うわけです。そこで、イエスが人間を救うためには、まず人間になって律法は守れるものであることを証明する必要がありました。そして、イエスは見事に罪を犯さなかったのです。そこで、十字架にかかったのはご自分の罪のせいではなく私たちの罪を負って刑罰を受けてくださったということがわかるのです。こうして罪の問題を解決し、次にイエスは私たちを神の子とするために御子の霊を送ってくださったのです。ですから、私たちの内で御子の霊は神を「父よ」と呼びます。この霊が私たちの新しい命なのです。この命で生きるから、私たちは神の子なのです。そして、「相続人」とは天国の相続人、つまり天国へ帰ることができるという意味です。神の子であることを自覚して今日も喜んで生きましょう。(佐久間)

 

9月29日(日)

わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。

エゼキエル3:18

 

ある人から預言者について聞かれました。この箇所は、預言者について語られている聖句です。つまり、預言者になると、主のご命令のままに主に代わって語るのですが、時にはこのような厳しい場面に直面することがあるのです。特に悪人に預言することは容易ではありません。危険を伴うこともあります。事実、主の言葉を伝えたがために殺された預言者は少なくないのです。では、もし、相手が悪いからと黙っていたなら、主の預言通りに悪人は自分の罪のために死にますが、その死の責任を預言者が問われるというのです。では、悪人に主の警告をちゃんと伝えたとします。その結果、悪人はその警告を無視して死んだとします。その責任は勿論、悪人にあります。ですから、預言者は彼の死の責任を問われることはありません。面白いのは、聖書には悪人だけではなく、正しい人のこともちゃんと書いてあるというところです。何が違うかというと、正しい人が不正を働いた場合に預言者が警告しなくて、彼がその罪を問われて死んだ場合、預言者は責任を問われるのです。これは同じですね。違いは、預言者が正しい人に過ちを犯さないように警告した時です。正しい人が過ちを犯さなければ、彼は警告を受け入れたのだから命を得ます。勿論、預言者も死ななくてすみます。つまり、悪人は警告しても過ちを犯すと書いてあり、正しい人は警告すると、過ちを犯さないと書いてあるところです。勿論、その反対もあるとは思いますが、悪人と正しい人の二者に分かれているということは大切な人間理解です。預言者は、このように、非常に特殊な仕事をする人のことです。さて、あなたは預言者になりたいですか。神の口になりきることができるかどうかです。実は、あなたも預言者の仲間であると思っていたほうがよいかもしれません。必要な時に、主はあなたを通して語りたいと思われるからです。そして、もしかすると、すでにあなたを通して誰かに預言を語ったかもしれません。自分でも思わない言葉がかってに出てしまった、といったようなことがあれば可能性があります。少なくとも、「主はあなたを愛しています」とか、「主はあなたの重荷をおろして休ませてくださいます」といったようなことを伝えていたら、それは聖書に一致するので神の御言葉、つまり預言となっています。私たちの場合は、人を裁くなと戒められていますから、安易に人を非難してはいけません。ただ、聖霊に霊感されて唇が動かされるのなら、それは誰も止められません。主の愛の言葉を伝える役が与えられるといいですね。(佐久間)

 

 

**9月30日(月)〜10月6日(日)(中村透)

 

9月30日(月)

イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。

あわれみと平安と愛とが、あなたがたに豊かに加わるように。

ユダの手紙 1〜2

 

今週からご一緒にユダの手紙を読んでいきましょうね。新約聖書中もっとも短い書物ですが、学ぶところの多いクリスチャンへの手紙です。

新約聖書には、ユダという名のひとが数人出てきます。最も有名なのは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダでしょうが、この手紙を書いたユダは、マルコ6:3でイエスのことを、「この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」と記してある、その兄弟であるユダであろうと思われます。

今日読むところははじまりの挨拶ですが、主の兄弟であるユダが、わたしたちにこう語りかけているんです。「父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ」とね。ここでユダはわたしたちを3通りのことばで呼んでいます。これを読むと自分という人間を神がどのように見ておられるのか、ということについて、改めて感慨深く思わされます。

まずこうです。「父なる神に愛され」。父なる神とは、この大宇宙を朝メシ前に造ってしまう、驚くべき全能の神、無限の神、絶対の神のことですよ。この大いなる方がわたしを愛していてくださる。宇宙よりもはるかに大きな方が、このちっぽけな星、地球の片隅に住む最も小さな者であるわたしを、です。そして、この偉大なる神は同時に不変の方です。つまり、変わらない。神の愛もです。決して変わることのない神の絶対の愛(これをアガペーの愛と呼ぶんですが)で愛されていると知るとき、あなたのこころは動かされませんか?(中村とおる)