2014年1月

**1月1日(水)~5日(日)*(中村透)

 

1月1日(水)

主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。

創世記 3:9

 

新しい年を迎えて気持ちもリフレッシュしておられることと思います。今年もよろしくお願いします。

さて、罪が入るや神の目から隠れようとしたエバとアダム。罪によって神と人との親密なつながり、愛の絆が壊されてしまったんですね。そのとき神は本当に悲しくさびしい思いをされたと思います。だって、愛する人間が神の足音を聞いて隠れてしまったんですから。。。

そのときに神が発せられた言葉が、今日のところです。「あなたはどこにいるのか」と神は訊かれたのです。旧約聖書はこのことばから始まっているのだ、と書いた人がいます。その通りだと思います。神は、罪によって失われてしまった神と人とのつながりを回復させようとしておられるんですね。罪によって失われてしまった人を探し求める神の姿がここにあります。

では、神はひとが「どこにいるのか」ご存じなかったんでしょうか?そんなはずはない。全知全能の神が知らないはずはない。そうではなくて、神はひとが自分から出てきて、罪を犯したことを認め、赦しを乞うことを求めておられたんです。人に悔い改めのチャンスを与えておられたんだと思います。

ところで、旧約聖書はこの「あなたはどこにいるのか」という神から人への質問で始まっていると書きましたが、では新約聖書はどんな質問で始まっているか知っていますか?

「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたはどこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」(マタイ2:2)これです。

ひとが神を探し求めている。旧約聖書は失われたひとを神がさがしもとめ、新約聖書はひとが神を探し求めている。

聖書は一貫して、失われ、破壊された神とひととの関係を回復していくことを主眼点としているんです。神はあなたを求めています。新しい年、わたしたちも神を求めていきましょうね。(あけましとる)

 

1月2日(木)

彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

創世記 3:10〜11

 

ひとは神の足音を聞いて恐れて身を隠したんですね。自分でそう言っていますから。

かれは「恐れ」たんです。それまで「恐れ」という感情は存在しませんでした。神の似姿に造られた人間には恐れというものは不必要であったからです。ところが罪が入るや否やひとは「恐れ」るようになってしまったんです。

余談になりますが、聖書の中で神は「恐れるな」というような意味の言葉を何度も何度も使っています。「こころを騒がせるな」とか、「怖じ恐れるな」とか、いくつものことばを使い分けていますが、根本には「恐れるな」という強い神の願いが込められているんです。ひとは主と共に生きているとき、おそれは必要なくなります。イエスが神とひととの橋渡しをしてくれたので、恐れる必要がなくなったんです。

でも、罪が入ったこのとき、ひとは恐れました。それで隠れたんです。

それに対して神は、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」と問いかけられますが、これもまたひとが自分から自分の犯した失敗(罪)を告白して赦しを乞うのを待っていることのあらわれです。

神はあまりひとに強制するということをなさいません。ひとが自発的に行動するのを喜ばれるようです。

神はひとに信じることも強要されません。自分から神に心を開いて受け入れるようになることを待っておられます。

そして、このときもエバとアダムが自分から罪を認めて赦しを乞い、ふたたび神との親密な関係に戻ってくることを待っておられたんですね。(正月とる)

 

1月3日(金)

人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。

創世記 3:12

 

罪はもうひとつ、こんな形であらわれてきました。

神が、「あなたは取って食べたのか」と問われたとき、神の意図されたことはひとが自分の罪を認めて赦しを乞うことだったのに、ひとはそれをごまかしてエバに罪をなすりつけようとしたんですね。

こんなことは今更めずらしくもないですよね。わたしたちのまわりにもいくらでも見られることです。いや、わたしたち自身の中にそれを見いだすことができます。

なにか失敗したとき、即座にそれを自分の失敗と認めて謝ることって難しいですよね。わたしたちがまず初めにしようとすることは、言い訳を考えることであり、だれか他の人のせいにしようとすることですよね。あんまり認めたくありませんけど。。。

ある人が出かけることになり、子供に「このお菓子はお客様のためのものだから、絶対食べちゃダメよ」と強く言い渡してから出かけました。家を出たとき忘れ物に気づいて部屋へ戻ると、いままさに子供が戸棚を開けてその禁断のお菓子に手を伸ばしている瞬間でした。まだお母さんがなにも言わないうちに、この子が口を開いて言いました、「だって。。。」

おもしろいでしょ?でも、これが罪というものの現れなんでしょうね。

ですから、アダムが「取って食べたのか」と問われたときに、まずエバのせいにしようとしたのも、罪の力があらわれ始めているからでしょうね。

エバが造られて自分の元に連れてこられたとき、アダムは、「これぞこそ、ついにわたしの骨の骨、肉の肉」と言って、一心同体であることの喜びを歌ったのもつかの間。罪が入ると、今度は自分の「骨の骨、肉の肉」を、「あの女」と呼んだんです。「あの女」ですよ!しかも、「わたしと一緒にしてくださった」と言うことによって、一緒にしてくれた神をも責めようとしている。醜いですね。見ていて恥ずかしいくらいですね。でもね、これが罪に汚れた人間の姿であり、わたしたちの姿なんですね。(お雑煮食べすぎとる)

 

1月4日(土)

そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。

主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。

創世記 3:13〜14

 

つぎに神は女(エバ)に語りかけます。それに対するエバの答えはアダムと同じように他人に責任転嫁をしようとするものでした。「へびがわたしをだましたのです」と。確かにその通りです。エバは嘘を言っているわけではない。しかし、へびはエバに強制的に罪を犯させることができたわけではない。たしかにへびはウソをつき、エバをだましましたね。でも、最終的に「食べてしまおう」と決めそれを実行に移したのはエバ自身でした。しかし彼女はそれを認めようとはしなかった。

大変おもしろいと思うのはその次です。次に神はへびに語りかけられるんですが、へびは沈黙を守ります。へびだけなんです、言い訳もしないし、他人のせいにしようともしなかったのは。

それはへびが潔白だったから?もちろん違います!!!ただ、へび(というか、その背後にいる悪魔)は、神の前で責任逃れをしたってムダだっていうことを、よ〜〜くわかっていたんでしょうね。神はすべてをご存じであって、わたしたちの浅知恵でごまかせるものではない、ということを知っていたんでしょうね。だから、他人に責任転嫁をしようとしたりしなかった。でももちろん彼は有罪でした。アダムやエバ以上にそのことをよくわかっていたんです。だから言い訳さえもしてもムダだとわかっていたんです。

で、このときからへびは(悪魔は)呪われた存在となりました。「腹で這い歩き」と言われましたが、この時まではどうもへびは腹で這い歩いてはいなかったらしいです。翼があって飛び回っていたらしい、と専門家は推測します。自由に飛び回っていたものが、これからは「腹で這い歩く」ようになる。こういう呪いをうけたようですね。(ヘビ年とる)

 

1月5日(日)

わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

創世記 3:15

 

おどろくべきは神の愛とめぐみの大きさです。ひとが罪を犯した直後であるこのとき、神はもうすでに救いの方法を預言しておられます。「かかとを砕く」のはある程度のダメージをあたえるでしょうが決定的なものにはなり得ないのに対して、「かしらを砕く」ことは相手に致命傷を与えます。「おまえ」すなわちへびはその背後にいる悪魔(サタン)のことならば、悪魔は「女のすえ」である「彼」にある程度のダメージを与えるが、「彼」は悪魔に致命的な、決定的な敗北を与えるであろう、というわけです。

いろいろな解釈があるようですが、これは後のキリストの十字架を表わしていると思われます。悪魔はひとびとを煽動してキリストを十字架につけさせることに成功し、「かれのかかとを砕く」わけです。実際、十字架では受刑者のかかとに釘を打ち込んで磔にしたようですから、まさに「かかとを砕く」という表現は的確ですね。悪魔はこのとき「しめしめ」とでも思ったんでしょうね。

ところが、十字架こそ、人類の罪をあがなう身代わりの死であり、このことによって罪ある人間の救いが達成されたんですから、悪魔の企みは粉砕されたんです。十字架は悪魔の勝利どころか、彼の決定的な敗北であったわけです。

だから、悪魔はキリストの「かかとを砕く」ことには成功するが、しかしそれは悪魔の「かしらを砕く」ことを意味した。

キリストの十字架、つまり罪におちいってしまった人類の救いは、罪が入り込んだときから、いや本当はもっとずっと昔から神によって計画されていたんですね。神の愛とご計画の深さには驚かされますね。

そう言う意味ではこの部分は聖書の中でももっとも驚嘆すべき預言である、と言えるでしょうね。(おせち食べ飽きとる)

 

**1月5日(月)~12日(日)*(佐久間典臣)

 

1月6日(月)

荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」

出エジプト記16:2,3

 

遠い昔、エジプトで奴隷だったイスラエルの人々は、神の手によって救出された。モーセをリーダーとして兄のアロンが補佐になった。奇跡の連続で世界一の超大国、最強の敵から逃れて、とうとう奴隷から解放されたのだ。神が助けた理由も奴隷の叫びが御座に届いたからだった。神の憐れみによって救われたイスラエルの人々は、神の示された約束の地、先祖の地イスラエルを目指して旅していた。しかし、成人男子だけで60万人、女、子供すべていれれば最大300万人ぐらいいた可能性がある。それだけの大群衆の移動は困難を極めたであろう。現代でも見られる難民キャンプのような有様だったと想像できる。今なら、国連が入り食料の配給や医薬品や最低限の援助があるだろうが、この時代には他からの援助は皆無だった。それで、一体どうなったかといえば、不平を言いだしたのだ。神の立てられた指導者に文句をいったのだが、それは神への不平でもあったのだ。状況を考えていただきたい。周りは荒野だ、畑を作るわけにもいかず、宿場のような泊まったり、食事をとれるところさえ無いのだ。見わたす限りえんえんと不毛の地が続く。日中は炎暑に悩まされ、夜は寒さに悩まされる。腹は減るが食料は無い。このようなところでの不平だ。この人たちを責められるだろうか。さて、この出エジプトの物語には、実は救いの青写真が描かれているのだ。エジプトはこの世、ファラオはこの世の王と称するサタンを現し、モーセはキリストを、海が分かれてその中を渡ったところは洗礼を通して奴隷であったこの世と悪魔・悪霊の支配からの完全な解放を、そして、荒野の旅路はクリスチャンになってからの信仰生活のことを表しているのだ。すると、今日のところはどうだろうか、クリスチャンが信仰の試みの時に不平を言うだろうか、という問題なのだ。クリスチャンは神に頼って、信頼して生きている。目の前が真っ暗でも、前途が全く見えなくても、困難が押し寄せてきても、神を信じきれるか、と問われているのだ。それに一つ一つ誠実に答えて行かなければならない。しかし、このように試みてみると、いかに我々の信仰が弱いかがすぐにわかる。イスラエルの人々が腹がすいたぐらいで不平を言うなど情けないと非難できないのではないだろうか。自分の信仰生活で不平の言葉は聞かれないだろうか。食べ物は命に直結しているので、ゆとりがなくなるのだ。でも、ここで不平を言ってしまえば、この世の人たちとなんらかわらないただの人だ。この後、聖書には天からのマナの話になる。つまり、クリスチャンは神の与える食物で生きることを教えているのだ。新約聖書になって、イエス・キリストが本物の天からのパンであることが示される。我々が毎日食事をとって生きているように、クリスチャンはイエス・キリストを毎日必要としている。そして、食物が体になっていくように、クリスチャンもイエス・キリストと一つに交わることが奥義として教えられていることなのだ。(佐久間)

 

1月7日(火)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

ローマ8:28

 

人間は二つに分かれる。神を愛する者とそうでない者に。日本のような国では、本人がキリスト教徒の一代目である場合が多いので、神に召されたという言葉の意味を何得する者が多いだろう。こうして、ディボーションを読んでいるあなたもクリスチャンであるなら、神に召された人というわけである。それも神のご計画によってなのだ。私が導かれた教会は比較的大きな教会だった。そのため、多くのクリスチャンと接することができた。その多様性には驚くが実にいろいろな人が救われていった。その導かれ方も同じではなく、ユニークなものである。ある男性は自分の店のポストに一枚のトラクトが入っていた。それに興味をもって裏面に書かれた教会を訪ねてみた、一体誰がポストにトラクトを入れていったのか、その教会で聞いてみても誰も知らなかった。つまり、その教会の人でトラクトをポストへ入れて行った人はいなかったのだ。では、一体誰が入れたのか?彼はやがて教会の忠実なメンバーとなって執事として活躍するようになった。このような不思議な話は決して珍しくはない。昔、福島県の山奥に一人の青年がいたのだが、その人のもとへハガキが届いた。それがおかしなことに、宛先の住所が間違っていた、というかありえない住所だったのだ。それなのに青年の手元へハガキは届いた。不思議に思った青年は、それが遠い町の教会からの招待状であることに気が付いた。それで、行ってみようという気になったのだ。彼は、最近できた鉄道で汽車に乗って行かなければ着けない町へ向かって出発した。生まれて初めて汽車に乗るのだから、どうやって汽車に乗ればいいのかすらわからなかった。すると、突然一人の紳士が近づき、親切に汽車に乗せてくれた。そして、青年が問われるままにわけを話すとその駅に着いたら教えてあげると言ってくれたので、安心して汽車の旅ができた。目的の駅に着くとその紳士は、一緒に降りてきて、なんと目的の教会まで一緒に連れてきてくれたのだ。青年は教会に入っていった。教会には数人の人がいて、自分の名前とハガキをもらったので訪ねてきた旨を話した。そして、初めての汽車の旅が親切な紳士によって助けられ、ここまで連れて来ていただいたことを話すと、教会の人がそれでは御礼をしなければとすぐに外に出てその紳士を探したが、見当たらなかった。その道はどこまでも一本道で、すぐに出て来たので絶対に見えるはずなのに、姿はどこにも見えなかった。青年は御礼すらしていなかったことに気が付いた。そして、あの紳士はきっと天使だったのだろうと思った。それから青年はクリスチャンとなり、戦争中の弾圧も経験しながら一生を多くの青年に信仰を教える者になった。私が信仰を教えられた尊敬する先生の実話である。あなたも、神様のご計画により召されてクリスチャンになったのだ。あなたの良い所は、その招きに応えたことだ。それから、決して楽な信仰生活ではなかっただろう。試練も経験し、自分の罪深さに初めて気が付き、さぞ落胆しただろう。困った事も起こり、何度も失敗しただろう。どうして私ばかりがと思いたくなるほど、辛いことも少なくなかったはずだ。人の言葉に深く傷つき、また傷つけてきた。それでも、まだクリスチャンでいる。いつかは信仰の高みに上り詰めて、聖なる人の仲間入りをするはずが、逆に下へ下へと落ちていくだけではないか。このように、思えるのなら、あなたは今日の聖句を読んでみるべきだ。キリストの弟子であるのなら、へりくだるべきだ。人から侮られるぐらいでちょうどいい。それどころか、万事が益となるように共に働いていることを認めよう。事実そうなのだから。信仰というものは、目の前のことを肯定することだ。御言葉が「万事が益となるように」と語れば、そのように信じるので、神の不思議が起こるのだ。神は優しい。あなたは信仰によってその神の優しさを知ればいい。そこに生きればいいのだ。(サクマ)

 

1月8日(水)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

ローマ8:31b

 

あなたの味方はとても強いお方で、誰一人勝てる者はいないのです。その方は、あなたの信じる神です。どうしてだかわかりませんが、あなたが神のおきにいりなのです。あなたのために賢明に自由意志を保障してくださり、あなたがどのように生きるかいつもご覧になっています。時には誘惑に遭い、また敵に攻められ、誰にも理解されずに孤独を感じる時にも、あなたの味方は神なのです。神に対抗できる者がいないのなら、神が味方しているあなたに対抗できる者もいないのです。この意味をよく考えてください。一体、あなたは何を恐れているのでしょう。怒ってばかりいる上司でしょうか、ねたんでいじわるする人ですか、それとも悪魔でしょうか。聖書は、「だれがわたしたちに対抗できますか」と語っているではないですか。不思議なことに、神が味方だということを忘れてしまうことがあるのです。ヨブのように、神は正しい私の敵になったように感じることもあるかもしれません。しかし、信仰の人ヨブでさえ、神が現れるまでは人間的に考えて自分が正しいのにひどい目に遭うのは神のせいだと思ってしまったでしょう。しかし、一旦神が現れると圧倒されました。想像をはるかに超えて神は圧倒的に超越したお方だったのです。だから、人間的な理屈など何の意味もありませんでした。世界を造ったお方がいたずらに人間を苦しめるはずがありません。それどころか、神の子として天国へ迎えようとしているのです。それには、本来の神の創造された神の御姿に似せて造られた、その姿を回復する必要があるのです。今しばらくはこの世で、神の再創造の働きがいろいろな形でやってきます。聖霊がすべてうまい具合に働いてくださいます。その過程にあるあなたは、神が自分の味方である、ということを絶対に忘れてはなりません。その信頼は裏切られることがないのです。恐れることは、神が味方であることを疑うことなので、不信仰と言われてしまうのです。クリスチャンとして堂々と生きてください。(佐久間)

 

1月9日(木)

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

フィリピ4:6,7

 

思い煩うことは、程度の差こそあれ人間の習性ともいえることですが、聖書は「思い煩うのはやめなさい」と書いてあります。人間のすごさの中に入れてもおかしくないほど、私たちは何にでも思い煩うことができます。朝目覚めてもまず考えることが思い煩いなら、その一日は決して楽しいものにはならないでしょう。些細な事にでも思い煩うことはできますが、大きな問題で悩む時もあるでしょう。そんな時に、クリスチャンは解決策を知っています。それは、悩みの原因が何であっても、「感謝を込めて祈りと願いをささげ」ます。つまり、感謝することがポイントなのです。思い煩うと冷静に考えることができません。否定的な思いに任せると、どんどん悪いことばかり考えてしまい、恐れや不安で正常な考えが出来なくなります。

そこで、とうてい感謝できないことであっても、聖書に書いてあるのですから感謝してみましょう。感謝は積極的な肯定ですから、気持ちが落ち着き、冷静さを取り戻すことができるのです。そして、悪い思いが良い思いに変わってしまいます。気持ちが楽になってきたら、そこでやめてはいけません。そこでやめてしまうと時間の問題で思い煩いが再び心を占めてきます。そうならないために、「求めているものを神に打ち明けなさい」。あなたが神に聞いていただいたのでもう大丈夫だと確信するのです。そうなると、神的力が働き、不思議な平安が心も考えも支配します。だから、あんなに心を悩ましていたはずの問題も気にならなくなります。それよりも、神を讃美し主の良くしてくださったことを感謝しましょう。この秘訣はいつでも裏切られることはありません。あなたの人生が豊かなものであることを信じて感謝しましょう。(佐久間)

 

1月10日(金)

七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

ルカ10:17-20

 

イエスは初めに12弟子に、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」(ルカ9:1)。その後、ほかに72人の弟子を任命しました。その弟子たちが帰ってきて報告した場面が今日の聖書箇所です。読まれてどう思いましたか。イエスの御名を使うと、悪霊も屈服するというのです。イエスの宣教は、神の国を宣べ伝え、病人をいやし、悪霊を追い出していたのです。イエスは、弟子と集め、権能を授けました。それをもってイエスの働きを拡大していくためです。それは、2000年経った今でも続いています。世の終わりまで続く戦いでもあるのです。現代の教会は世俗化し、霊的なことが理解できなくなってきました。現代人特有のすべて科学で、理性で、人間の力で解決したいのです。そして、人間自体が霊的存在であることを忘れたのです。いや、実際には忘れることなどできないので、知識が無くなり、戸惑っているのでしょう。偽りの霊や反キリストと言われるものが預言通りに出没して、正しい霊的知識ではなく、サタンの偽りの知識の中で翻弄されているのです。宗教は、残念ながら伝統的な宗教が力を失い人々の宗教離れが進みました。反面、操霊術を行う新興宗教が台頭しているのです。しかし、深刻な問題はクリスチャンが聖書に書かれた弟子としての使命を理解していないことです。霊の戦いは実際に身の回りに起こっているのです。終末特有の善悪の霊の大戦争が起こっているのに、当事者でもあるクリスチャンが気づかずにいることの方がどうかしているのです。今日の聖句に出てきた通りに現在のクリスチャンが働けばどうなるでしょうか。神の国は瞬く間に拡大していくはずです。もし、悪霊の攻撃を受けている方がいれば、この箇所を読んで祈ってください。そして、自分にあらゆる悪霊に対抗できる権能を授けてくださるように主にお願いしてください。そして、疑わずに大胆に主の御名によって悪霊を屈服させてください。マルコには次のような御言葉があります。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る・・・」(16:17)。こうした聖書の御言葉は真実です。信仰がなぜ必要かわかりますね。信仰なしには、このような御言葉も効果がないのです。信仰の足りない者は主に求めなさい。祈りなさい。主の弟子であることを知りなさい。そして、大切なことは、悪霊が追い出せるからと喜ぶのではなく、命の書に名前が書かれていることこそ喜ぶのです。目的は永遠の命を頂くことだからです。(佐久間) 

 

1月11日(土)

神の子イエス・キリストの福音の初め。

マルコ1:1

 

マルコ福音書の初めの部分が今日の御言葉です。マルコは、この福音書を誰の為に書いたのかが明らかになります。イエスをメシア、キリストと信ずるキリスト教徒が読者として書いたのです。ナザレのイエスは誰であるかということは重大な問題です。マルコは初めから「神の子」とはっきり書いています。それで、この後の記事はすべてそのことが前提で書かれているということがマルコを読む時の視点なのです。そして、ナザレのイエスが神の子でキリストであることがどのような意味を持つのか、それを福音という言葉で表現したのです。福音はイエス・キリストが十字架で死に、墓に葬られて後三日目に復活することです。その意味が分かるように、はじめから明らかにしている書き出しなのです。クリスチャンであるなら、この御言葉が特別の意味を持つに違いありません。現在、どのような境遇にあろうともこの世でのことにすぎず、大したことではないのです。それどころか、どのような境遇であっても喜ぶことができるのです。なぜなら、神の子イエス・キリストがあなたの救いの為に何をしてくださったかをあなたは知っているからです。そして、事実、あなたは救われたのです。それは同時にあなたもキリストの十字架、復活への道を後に従って行くことを意味しています。その覚悟を信仰と呼んでいます。それ故に、キリストはあなたを弟子として召し出し、認めておられます。あなたが信じるなら、あなたは神の子となります。信じることにより、完全になり、聖なる者にもなるのです。そのような敬虔な信仰があなたにあるか、今自己吟味してみましょう。この1節から先へと進めるか考えてみましょう。主のお恵みがありますように。(佐久間)

 

1月12日(日)

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

ローマ8:32

 

クリスチャンが何かに不足するようなことは考えられません。イエス・キリストを私たちの救いのために十字架で犠牲となることを許された神は、他に何を惜しむでしょうか。イエスに勝る宝はありません。神の愛は、純粋で何よりも強いのです。イエスは神の愛の現れなのです。それで、考えてほしいのです。クリスチャンは欠乏することがありません。もし、欠乏で苦しむなら、もっと根本的な問題を抱えていることに気づくべきです。神は、正しい信仰に生きる者を困らせることはありません。今日の御言葉は真理を教えています。御子が十字架におかかりになられたのは真実です。そうであれば、御子と一緒にすべてのものをあなたは賜ったのです。すべてのものをです。だから、あなたはその真理を悟ることです。目が開かれますように。(佐久間)

 

**1月13日(月)〜1月19日(日) (なかむらとおる)

 

1月13日(月)

つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。

創世記 3:16

 

前回読んだ15節で、「彼(女のすえ)はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」とあるので、ヘビ(悪魔)に対する人間の最終的な勝利は明らかにされています。しかし、罪を犯したことの結果、つまり自分で播いたものを刈り取ると言う意味での出産の苦しみが描かれているんでしょうね。

わたしは出産したことがないのでよくわかりませんが、出産が大きな苦痛を伴うものであるのは間違いないでしょう。しかし、その苦しみのゆえに母の子に対する愛情の深さは、男性の立ち入れない聖域であるかのように思われるほどです。

そのなかで、男と女は愛しあい、慕いあい、治めあっていくんでしょうね。

大いに増し加えられた産みの苦しみの中に、希望の灯が与えられているのはすばらしいことですね。まことに神は恵み深い。この苦しみもまた、人間に必要な訓練として与えられているんでしょうね。

でも、男に生まれてよかったあ。。。なにしろ痛みに弱いもんで。(ビビりとる)

 

1月14日(火)

更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。

地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。

あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

創世記 3:17〜19

 

罪が入り込んだ結果として、女性には産みの苦しみが与えられましたが、同時に罪は地にのろいを与えたようです。地がのろわれるとはどういうことなのか、具体的にはわかりませんが、罪を犯したひと自身にではなく、地、すなわち彼が置かれている場所に与えられたというのは神の人間に対するあわれみであったのかもしれません。ただ、その結果、ひとが食物を地から得るのに苦しんで得なければならず、いばらやあざみに阻まれるという苦しみが増されるので、その意味において人は自分自身に災いを招いたということができるでしょうね。

このことによって労働自体が祝福から苦痛に変わったのかもしれません。苦しんで食物を得なければならないのですからね。

そして、これも罪の結果でしょうが、人は「ついに土に帰る」ことになりました。死んで土に葬られ、やがては土に帰っていく、ということですよね。ということは、罪が入るまでは人は死ぬ必要がなかった、ということでしょう。このときから死が入ってきてしまった。まさに、はじめから神が厳しく警告しておられたように、「それを食べるときっと死ぬ」ということが現実となったんでしょうね。(労働があまり好きでないとる)

 

1月15日(水)

さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。

創世記 3:20

 

この部分は日本語で読んでもなんのことやら意味が分かりませんよね?創世記はもともとヘブライ語で書かれているんですが、この単語は「ハゥワー」という言葉なんですね。意味はと言うと、「いのち」という意味なんです。いや、むしろここでは「いのちを生み出す者」「いのち屋」というような言葉と考えられます。そう考えると、「彼女がすべて生きた者の母だからである」という言葉とピッタリ符合しますよね。

わたしが感動するのは、罪が入り込んで、「死」が宣告された後であるにもかかわらず、アダムがこのような「いのち」の意味を持つ名前を彼女に付けたということです。

神が初めから警告しておられた通り、罪を犯したときに死が入り込んでしまいました。しかし、神はもうその時点で、「彼(女のすえ)はおまえ(悪魔であるへびのこと)のかしらを砕」く(3:15)とあるように、十字架における人類の罪の贖いのことをつげていましたし、明日読む部分には、「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」とあります。これもまた、罪に陥ったひとを救う神のわざに関係ある言葉なんです。すなわち、神は人が罪を犯すや否や、かれらへの救いを提供しておられる、という驚くべき恵みについて書かれているわけです。

アダムはそのことをかなり深く理解していたんでしょうね。だからこそ、死の宣告の後に、「いのち」に関わる名前を付けることができた。いのちがさらに生み出されていくという神の恵みに、ある意味でアダムは応答している、ということでしょうか。(どうなるとる知事選)

 

1月16日(木)

主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

創世記 3:21

 

ここです、驚くべき神のご計画があらわされているのは!昨日も書いたことですが、罪が入るや否や、神は罪に陥った人間を救う方法を示しておられるんですね。

ひとが、食べてはならないと言われた木の実を食べたときのこと。「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」(3:7)とありましたよね?裸の恥というのは、罪の恥の象徴なんだ、ということも以前に書きました。その恥を隠すためにひとはいちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いたんです。でも、いちじくの葉では隠せません。すぐにダメになってしまうでしょうしね。これは、罪をなんとかしようという人間の努力、人間の方法を表しているんです。人間は罪に対してなんの力も持っていないんです。だからこの方法ではダメなんです。

そこで、神は神の救いの方法を示されたんです。裸の恥(つまり罪のこと)を覆い隠すには皮の着物が必要でした。では皮はどこから得るのか?当然、動物が殺され、血が流されて初めて皮が得られます。罪を犯したふたりの目の前でこのことは行われました。つまり、かれらは、自分たちが犯した罪のために、罪のない動物がかれらの身代わりのように殺されて、血が流されて、それによってかれらの罪が覆い隠されるのだということを、目の当たりにしたんですね。かれらは自分たちの犯した罪の深さを思い知ったことでしょうね。もうしわけない、と心から思ったでしょうね。

この血を流した動物は、やがて来るべき救い主、イエス・キリストをあらわしていたんです。キリストがあなたの罪のために、その身代わりとして十字架に架けられ、血を流して死んでいく。そのことのゆえに、わたしたち罪人の罪が赦される。このことを象徴していたんです。こういう実物教訓を通して、アダムとエバは神の救いを学んでいったんですね。(寒さがうれしいとる)

 

1月17日(金)

主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

創世記 3:22〜24

 

あわれみ深い神は、罪に陥ってしまった人間に皮の着物を造って与えられました。それによって、やがてきたるべき救い主キリストの十字架による犠牲の死をあらわしていました。

そのようにして救いの可能性を明確に示された神は、人をエデンの園から追い出しました。その理由は、罪を知ってしまった人が今度は命の木からも取って食べてしまうかもしれないからでした。永久に生きるようになる。それ自体はいいことなのかもしれませんが、いまや人は罪ある者ですから、罪という悲惨の中で永遠に生きることは、苦しみが永遠に続くということになります。

あなたは、誰かが「不老不死の薬をあげよう。それを飲めば永遠に生きられるのだよ」と言ってきたらどうしますか?わたしはごめん被ります。だって、この罪のはびこる世の中で永遠に生きるとしたら、罪による痛み・苦しみ・悲しみが永遠に続くっていうことでしょう?病気、憎しみ、犯罪、いじめ、自殺、差別、搾取、暴力、不正。。。こんなものでいっぱいの世界に永遠になんて生きたくありません。今の寿命でけっこうです。

神が、人が命の木から取って食べ、不死を得ることがないようにエデンの園から追い出したのは、人がそういう苦しみを永遠に味わわなくてもいいようにする、神の愛の現れだったと思うんです。

「エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」ということばは、なんとなく回復、復帰の希望を暗示しているように思われてなりません。神はすべてのことを愛とあわれみのゆえに行われるんですね。ありがたいことですね。(雪を待つとる)

 

第4章

1月18日(土)

人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。

彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

創世記 4:1〜2

 

「人はその妻エバを知った」とありますが、聖書におけるヘブライ語では、「知る」というのは単に知識として知る以上の、全人格的な関わり、また肉体的な関わりをも表す言葉です。ですから、夫アダムが妻であるエバと関係を持った結果、彼女はみごもり、男の子カインを産んだわけです。「カイン」とは「得られたもの」という意味です。アダムとエバは、この子が生まれたとき、約束された救い主キリストを得た、と思ったようです。間違った理解ではありましたが。

次にまた男の子アベルが生まれました。ずいぶん性格、気性や考え方、また神さまへの信仰も違った二人だったようです。長男カインは農業に従事し、次男のアベルは羊飼いとなりました。

二人の子供を授かって、この夫婦はささやかな幸せをつかんだかのように見えました。しかし、これが大変な悲劇の序章になろうとは思ってもみなかったでしょう。まもなく彼らは悲しみのどん底に突き落とされてしまうんですが、それはまた後日。(カゼっぽいとる)

 

1月19日(日)

日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

創世記 4:3〜7

 

さて、ここが非常にわかりにくいんですよ。カインも弟アベルもどちらも神に供え物を持ってきたんですね。で、神はアベルの供え物は受け入れたんですが、カインの供え物は顧みられなかった、とあります。どうしてなんでしょうね?えこひいき?いや、神さまですからそんなことはないでしょうね。

「カインは大いに憤って、顔を伏せた」って書いてありますけど、怒る気持ちもわからないでもないですね。でもね、よく読んでみるとカインが怒る筋合いはないことがわかります。

神はカインに問われます、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう」と。カインが顔をあげなかったのは正しい事をしていなかったからです。供え物の種類が間違っていたとか、質が良くなかった、とかいうことよりも、彼のこころの問題だったようですね。間違っている事をしている、そのことを自分でもわかっていた。正しいささげものをしていなかった、動機が悪かったのかもしれません。

ともあれ確かな事は、カインは自分が正しい事をしていないことがわかっていた、ということでしょうね。神が彼の供え物を顧みられなかったとき、彼は正直に告白して赦しを乞うべきだったんですね。しかしかれはかえってこころを頑なにして、神に対して「大いに憤って、顔を伏せた」んです。神に対してだけはすなおな気持ちでいたいものですね。(銀のとる)

 

1月20日(月)

感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。

詩編100:4

 

祈りについて考えてみましょう。多くは願い事が祈りの内容になっているものです。しかし、祈りをさらに深めたいと思われたなら、工夫が必要になります。今日は、聖所の祈りを紹介しましょう。聖所の祈りとは、聖書に記録されている聖所が祈りを導いていることに着目した祈りです。はじめに①「入口の門」(東)、ここから聖所に入ります。祈りの最初です。感謝・讃美し関心を自分から神に移します。②祭壇、罪と罪から来る思い、悩み、重荷も神様に差し上げます。③洗盤、聖霊によって罪から清められます。清めの祈りをします。④燭台、聖霊の力を受けます。ランプに光を灯すように聖霊を受けます。⑤パンの机、キリストのご臨在とみことばの力を日々いただきます。⑤香壇、執成しの祈りをします。⑦至聖所、全き者として受け入れられる。以上。今日の聖句は、祈りがこの世から聖なる神の領域へと入っていくことであることを教えています。この世では、自分のことを守らなければならないので、いつも自分のことを考えているのですが、聖域では神の支配の中にあるので自分ではなく、神へと意識を移します。その方法は、神への感謝をすることです。また、神殿の門をくぐると庭があります。そこもこの世と切り離された世界ですから、讃美を献さげるに相応しいお方へと気持ちを高めていくのです。スクエアーの礼拝で讃美が多いのは自分から神へと関心を移していることと関係しています。それでは、実際に祈ってみましょう。エルサレムの神殿や聖所を思い浮かべて神へと近づくことをイメージしながら祈ってみましょう。(佐久間)


1月21日(火)

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。

 

神はあなたをどのように思っているのだろうか。あなたはこの世のなかで苦労しながら生きてきただろう。その中には、深く心傷つくこともあったはずだ。そのまま立ち止まって嘆いてばかりもいられないので、また歩き始めて今日に至ったのではないか。さて、そのようなあなたを癒すのは誰か、と問われれば、あなたは「それは、私の主です」と答えるだろうか。いや、そう答えることができるかどうかが重要なのだ。つまり、あなたを癒すことができるのは、神だけだから、神があなたを癒したことがはっきりしていなければ、あなたの理性が何と言おうと、魂は納得していないだろう。そこが問題なのだ。主はあなたの全てを知っている。それは、あなたの過去も罪も失敗も後悔も怒りも悔しさも・・・・、何もかもだ。結果には必ず原因が伴う。だから、相手がいればその人だけが悪いとは必ずしも言いきれない。自分にも何がしかの負い目があるかもしれない。でも、自分の受けた心の傷が大きければ後遺症が残ることがある。悪魔は人の心の傷を必ずと言っていいほど攻撃してくる。心の問題は肉体にも症状を伴って現れてくることがあるので深刻なのだ。それほど、辛い思いをして生きてきた人が、クリスチャンになったなら、救われたので癒しが伴うことになる。ところが、症状が消えない人も中にはいるものだ。今日の聖句はイスラエルの民のことを言っている。ここでは、救い、癒しの方法は、「あなたの造り主があなたの夫となられる」という夢のような方法だった。その神の意気込みはすさまじく、続くご自身の自己紹介がそのことを物語っている。これが絶対確実な裏付けで、これ以上確かなものはないのだ。そして、この話は今日のクリスチャンにも当てはまる。神は、あなたを同情して憐み、あなたの良き伴侶となって守り支えるという事以上に、夫としてあなたを愛しぬくと語っているのだ。神はイスラエルの背信に怒り一度は離縁して離れたのだが、イスラエルを愛することを止めることはできなかったのだ。そして、罪を悔い改めて、主の御もとへ立ち返る者を贖ってくださるのだ。また、何よりもあなたにとって大切なことは、過去の罪の痛みを癒す主の真実の愛に包まれて、愛漬けになることだ。主に愛されて癒される心の傷もあることを知ることは、救いに欠かせないことなのだ。それにしても、あなたを愛し一生責任を取ってくださるために、ご自身のお名前を「その御名は万軍の主」と言われた方は、本当にあなたの夫となられたと信じてみよう。(サクマ) 

 

1月22日(水)

信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

へブル12:2,3

 

クリスチャンにとって、学ばなくてはならない重要な事は「信仰」です。救いの根拠が「信仰」だからです。信仰といっても神が義とお認めになる信仰のことです。どうやって学ぶかと言えば、イエスから学びます。それは、信仰の創始者また完成者がイエスであると聖書に書いてあるからです。イエスがなぜ十字架に向かわれ、逃れることなく十字架に架かられたのか、祈りつつ考えてみましょう。この世はアダム以来罪に堕落し、全ての人が罪人と呼ばれています。罪人は自分で自分を救うことができません。それで、神の憐みにより、救いの計画が立てられたのです。イエスは、罪人を救うために自己犠牲を決意されました。このことを愛(アガペー)と呼んでいます。箴言に「愛を求める人は罪を覆う」(17:9)と書いてある通りです。あなたがこの世で信仰によって生きる時、決して楽しいだけの毎日ではないでしょう。サタンの攻撃や罠にも警戒しなければならないし、イエス様の恵みや神の愛をしったのですから、誰かに伝えたいと思うのが普通です。しかし、罪の世界でそうたやすく人はイエスを信じるというわけにはいかないでしょうし、反発されたり、敬遠されたり、時には迫害されることもあるのです。信仰を守ろうとするだけで、辛い目に遭うことだってあるかもしれません。試みに遭えば、ひたすら助けを求めて逃れたくなるでしょう。そうして、気力を失って疲れ果ててしまうことをサタンは狙っているのです。しかし、私たちの主イエスは、そのことを知っていました。だからこそ、イエスは十字架の道を選んで進まれたのです。そして、みごとに勝利されたのです。イエスの忍耐に倣って従順に信仰の道を進んで行きたいですね。(佐久間) 

 

1月23日(木)

しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。

ユダ1:20-21

 

聖徒の生活とは一体どのようなものでしょうか。クリスチャンになった当初は、聖書の知識も無く、教会生活にも慣れていません。しかし、聖なる生活を目指さなければならないと思うものです。今までの生活を改め、クリスチャンとして正しいと思われる行動を心がけるわけです。でも、間もなくそのような生活に失敗することになります。罪を犯すかもしれません。最もまずいのは律法主義に陥ることですが、大抵の場合はそこまでも聖書を知っていませんから、自分の目に正しい生活を心がけ、その中で罪を重ねることになります。まだ、信仰について理解が不十分なのです。行いではなく恵みによって救われたということが、頭の中で空回りしています。このような時期に、牧師などの助けを借りることは賢明なことなのですが、忙しい牧師に遠慮して一人孤軍奮闘する人も珍しくありません。こうなると、時間の問題で、クリスチャンになっても自分は聖なる者に変わっていないと思い始めるでしょう。そして、教会の先輩たちが自分が思っていたほどには聖人でないことに気が付いてきます。そこで、自分のこともしかたがないと努力してクリスチャンらしく振舞うことをあきらめます。ここであきらめないと、裏表のあるクリスチャンになってしまい、教会の内と外では違う人を演じることになります。では、クリスチャンはこのようなものでしかないのでしょうか。実際は、聖書に書かれたことを注意深く学べばこのような自分勝手な解釈で益のないことを繰り返したり、そもそも信仰によって義となるということも理解しないままでいることはないのです。聖書は初めから、人間は神が創造したとはっきり書いてあります。しかも、神にかたどって造られたのです。それが、罪を犯して堕落したために、悲惨なことが後を絶たないありさまになっているのです。そのような人間が救われるというのは、ただ罪の赦しを受けたというだけはありません。救われた人を本来の神が創造した神のかたちに回復する必要があるのです。それは神が見て良しとされた完全な姿です。それをキリストの犠牲に現れた圧倒的な神の愛と赦し、そして聖霊を恵みとして注ぐことにより、新しい人に生まれさせ、聖霊がその内なる人を日ごとに新たにしていく再創造の奇跡が聖なる者へと変えていくのです。それを文字通りに実現する方法が信仰なのです。偶像教の人が語る信仰とは異なった、聖なる信仰です。天で神であったイエス・キリストが人となって生きて見せた聖なる信仰です。つまり、キリストに倣って生きることなのです。この世を愛する心が信仰を鈍らせます。神との交わりに入れられるという幸いを知る聖なる信仰をよりどころに生活する人がクリスチャンなのです。祈りを聖霊にゆだねなさい。聖霊はあなたの祈りを導きます。その感覚を知る事です。この世にいれば、嫌な事も誘惑も迫害もあるのです。しかし、そうしたことの全てから守る神の愛があるのです。神に愛されていればそれで十分だと思える信仰があなたには備わっているはずです。その神の愛に守られて、永遠の命、つまり御国へ移される勝利の日を待望しましょう。キリストの憐みはあなたを永遠の命へと導くのです。信仰によって生きましょう。(佐久間)

 

1月24日(金)

主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。

Ⅰペトロ2:13-15

 

今日の御言葉の大切なポイントは、冒頭の「主のために」というところです。私たちは主のために生きているのです。それで、私たちは神の御心を行うことを望んでいます。行動指針が神の御心に適うことと信仰によって自分に定めているからです。クリスチャンは、住んでいる社会の模範的な人です。キリスト教社会でなくても、正義を行おうとたてられた法律を遵守します。社会で善を行い、選ばれた首長にも従順に従うことが聖書に書かれているのです。もっとも、反キリストには従うことはありません。ドイツにおけるナチスのようなものには従うことはないでしょう。歴史の中でクリスチャンはさまざまな状況下で厳しい選択を迫られてきましたが、聖書の指針からそれることはないように、戦ってきたのです。勿論、裏切る者もいました。キリスト者としての本当の強さを理解できずに、弱さゆえに背信した者もいたのです。聖書に、このようなことが書かれていることに不思議を覚える人もいえるでしょう。政教分離が声高に言われているからです。しかし、キリスト教が生き残ってきたのは、時の支配者に反抗しなかったことが大きかったかもしれません。勿論、妥協すれば堕落するのですから、本物と偽物の信仰が問われ続けてきたのです。私たちは、幸いクリスチャンであることの不利益を受けることはほとんどありません。それ以上に利益があるでしょう。しかし、ほんの60,70年前にはキリスト教徒も教会も弾圧されていたのです。宣教師は説教するだけで逮捕され、手錠をはめられ、国外追放となりました。ただ、このような時にも不思議な方法で神に守られて無事だった人たちはいたのです。それは、神への信仰を言い表すことを恐れなかった人たちです。迫害するものに妥協していった人たちの中には逮捕され投獄された人もいました。また、立派な信仰を持っていても厳しい目に遭った人もいたのです。私たちのことを覚えてくださる主は、正しい信仰、御言葉に対する従順な態度、神への愛、隣人への愛、神に仕え、人に仕えるキリスト者を見捨てたりしないのです。クリスチャンは血の塩、世の光りです。その働きを自ら放棄してしまえば、捨てられるだけでしょう。だから、聖書を読んで、主の御言葉の通りに生きていけるように、主の憐みを願い求めましょう。(佐久間)

 

1月25日(土)

いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

詩編84:6-8

 

あなたはクリスチャンですか。そうであるのなら、この聖句はあなたのことを語っています。私たちが勇気を必要とする日は実に多いのです。自分だけを頼りにしているのなら、みじめになるでしょう。でも、あなたは違います。自分を捨ててしまいました。それはイエス様に出会ったからです。「私に従え」と声をかけられた主にすべてを捨ててついて行ったのです。主と共に歩むことの喜びは格別です。主が共にいれば、不思議なことも起こります。そして、主はあなたに権威を与えました。信仰をもってそれを行使すれば、サタンにも勝てるのです。あなたは、聖書を読んで弟子たちが主から権威を授けられたことを知りました。それで、確信するのです。この世で起こるいかなる災いも苦しみも勝利できると。心に主の愛が流れています。悩みが襲っても、そこでたとえ苦しんだとしても、あなたは主に祈り続けるでしょう。主はあなたのために現れ、嘆きの谷を泉に変えるのです。恵みの雨が降ってきます。あなたはいつでも祝福で覆われているのです。あなたの人生は主の宮へ帰ることが目標となり、ただ行先も知らずに刹那的に生きている人たちとは違っているのです。あなたは、こうして試練を見事乗り越えて、苦難をも讃美と喜びに変え、信じた通りに主の住まいである神の国の神殿へたどり着くでしょう。そして、ついにあなたの神に顔と顔をあわせて会うことができるのです。祝福された者よ、信仰によって喜び生きなさい。(佐久間)

 

1月26日(日)

彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

ヨハネ9:30~33

 

この話はヨハネの福音書9章に出てくる大変興味深い出来事です。生まれつきの盲人がイエスに目を開けていただくということが、当時の宗教家であるファリサイ派の人達によって大問題に発展します。それは、これまでにイエスがファリサイ派の人達の偽善を痛烈に批判したからです。そのためにイエスは憎まれたのです。ところが、安息日に生まれつき目の見えない者がイエスに目を開けたていただいたということから、驚いた人たちによって騒動とななりました。ユダヤ人は旧約聖書のメシア預言を信じていました。メシアのしるしに目の見えない者の目を開けることも含まれていたのですが、その奇跡を行った日が安息日(土曜日)で、モーセの律法によればすべての労働を休まなければなりませんでした。その労働に癒すことが含まれていたので、イエスの盲人の癒しは律法違反で罪を犯したことになる、とファリサイ派の人達は判断したわけです。もし、罪人であればメシアであるはずがないということにしたのです。ところが、生まれつきの盲人のために、当時は物乞いをするしかなかったために、辛い人生を歩んでいた人がイエスに出会い、思いがけない奇跡を体験して目が見えるようにしていただいたのです。その彼が語ったファリサイ派の人たちへの言葉が今日の聖書箇所です。イエスがどこからきたか知らないとファリサイ派の人は言いました。目が見えるようになった人は、「イエスは神のもとから来られた」と語り、自分に起こった奇跡こそがその証明になると言っているのです。神は、罪人の言うことを聞かずに、神の御心を行う人の言うことを聞くのだから、イエスは罪人ではない。そうであれば、イエスはメシアである、と明快に証言したのです。身分であれば、ファリサイ派の人達の方が社会的ステータスは高いはずですし、宗教の専門家で律法にも明るいのです。一方、ついさっきまで盲人であった男は、物乞いだったので社会の最底辺に生きている人です。ハンディキャップのために恵まれていなかったこの人の方が、イエスがキリストだと正しい判断ができて、目の見えると思っていたファリサイ派の人の方がイエスは罪人だと間違った判断をしていたのです。ここには、象徴的な教訓が隠されています。目が見えると言っている者が見えずに、目が見えなかったがキリストに目を開けてもらった者は見えるようになる、という真理です。ヨハネはこのような見方をしています。他にも、ファリサイ派の人はイエスがどこから来てどこへ行くのか知らないと言い、イエスは、どこから来てどこへ行くか知っていると言います。弟子たちは、初めはイエスがどこから来てどこへ行くか知らなかったが知るようになる、と三者三様の説明をしています。私たちも弟子と同じであるべきです。イエスが誰であるかを明快に知っている者として、誰にもひるまずにこの盲人のようにイエスを弁明して、イエスに目を開けていただき、今では見えるようになった証人であることを公にしていくのです。興味がわいて来たなら9章を通して読んでみましょう。(佐久間)

 

1月27日(月)

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。

ヨハネ6:63,64

 

命を与えるのは聖霊です。人間的な力は何の役にも立ちません。イエスは実に多くの御言葉を残されました。このヨハネの福音書に書かれた御言葉も霊であり命なのです。この箇所の少し前に、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」とイエスはお語りになりました。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と説明されたのです。わたしたちが生きるために食べるということをどれぐらいの人が覚えているでしょうか。お腹がすいても食べ物が無いと言う人も世界には少なくないのです。ありあまる豊かさの中では生きるためのパンが無いということがありません。大量に捨てるほどに食べ物がある国で、この話はどこまでピンとくるかわかりません。新しくできた巨大ショッピングモールへ行ってみると、広さも驚きましたが、食べ物屋の数の多さに圧倒されました。週末の食事時に行ったせいもあるのでしょうが、どこの店も行列ができていました。とにかく、人は食べなければ生きていけないのです。そこれも、一年一度食べられば生きていけると言うわけにはいかずに、毎日毎度食べていかなければ生きられないのです。人にとって生きるという事は大事なことです。しかし、命がなんであるかも実は正しく説明することが難しいのです。ましてや、肉体の命のことだけでなく、霊的な命のことになれば大人でも説明が困難でしょう。「生ける屍」という言葉もあるのですから、肉体は生きていても霊的には死んでいる、という人が存在するのです。それで、イエスの話は天からのパンの話でしたが、「永遠の命に至る食べ物」という言葉を使います。それが、天からのパンであるイエスであると教えています。問題なのは、パンは食べなければ意味がないということです。そして、イエスは、ご自身の肉を食べ血を飲めと迫ります。そうすれば、終わりの日に復活させると言うのです。これが永遠に生きるということにつながっています。今日のキリスト教会ではこのことを聖餐式で現しています。聖餐はイエスの十字架を思い起こさせます。その意味を知り信じます。十字架の力が自分を贖い、救う事を体験するのです。ただ、それだけにとどまらずに、イエスの御言葉が霊であり命であるということも忘れてはなりません。真理の聖霊がイエスを信じて救われた者のもとへと遣わされます。その聖霊の助けをいただき、イエスの御言葉が霊であり命であることを露わにしていただくのです。そして、文字ではなく霊の御言葉によって生きるのです。今日の聖句に「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」という御言葉があるので、人間は二つに分かれます。信じる者と信じない者です。パンを食べて生きるというのは、イエスをキリストと信じることです。人が何と言おうともイエスを信じて永遠の命に生きましょう。(佐久間) 

 

1月28日(火)

「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ/(命令に命令、命令に命令)/カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ/(規則に規則、規則に規則)/しばらくはここ、しばらくはあそこ」と/彼らは言う。確かに、主はどもる唇と異国の言葉で/この民に語られる。主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。それゆえ、主の言葉は、彼らにとってこうなる。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ/(命令に命令、命令に命令)/カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ/(規則に規則、規則に規則)/しばらくはここ、しばらくはあそこ。」

イザヤ28:10~13

 

聖書は難しいという声は多い。今日の聖句はどうだろう、理解できないかもしれない。ここが引用される時は、異言についての説明をする時に使われたりしている。聖霊のバプテスマを求めて祈り続ける人は少なくない。その人たちは異言を聖霊のバプテスマを受けるしるしと考えている人が多い、しかし、聖霊のバプテスマのしるしとして異言があるとは聖書に書いていない。そうではなく、聖霊の賜物としてのリストに出てくるものの一つだ。そして、聖霊のバプテスマを受けても異言を語らない人たちがいるのだ。とは言え、異言で祈りたいと思っている人も多いだろう。パウロのように理性だけでなく、霊でも祈りたいと願うのはキリスト者にとって必要なことなのだろう。本当は超自然的に神から与えられるのがよいのだろうが、信仰者自身の心の障壁があるかもしれないので、信仰の壁を越える意味でも異言を語ることを願う思いが与えられている人に役立つ情報を提供しよう。それは、「確かに、主はどもる唇と異国の言葉でこの民に語られる」という箇所だ。これが異言のことだと指摘する人たちがいるのだ。私たちに約束の聖霊を遣わしてくださるのだから、聖霊が私たちに内住し語ってくれる時に、異言となることがあるのだ。聖霊が語る言葉であれば安全で良いものとなる。神が「安息を与える」と語っても、人は「命令に命令、規則に規則」と聞いてしまう。これは、律法学者やファリサイ派の人達とイエスの問答を見れば明らかだろう。ここに不思議がある。神が恵みを語っても、人はそれが聞こえず、まったく違って理解してしまうことがあるということだ。異言はそうした神の言葉を聞いても理解できないことを戒めている。何でも自分の考えで、自分の力で、自分の思い通りに、というのは肉の思いだ。クリスチャンは「私ではなく主の御心がなりますように」と、へりくだって物事を考える。心をキリストに明け渡すこと、キリストを信じること、これらは初めて水泳を覚えるような難しさや困難がある。それでも、必要と思うのなら主に嘆願し続けよう。聖霊に満たされる喜びを求めることは良い事だ。主の平和があるように。(サクマ)

 

1月29日(水)

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

フィリピ3:13b

 

過去に縛られ、忘れたはずの過去に繰り返し苦しめられる、という人たちがいます。また、過去に未練を残す人もいます。昔の栄光を思い出して口にするといったこともあるかもあしれませんが、それは成功の原則からはずれています。人に与えられた時を正しく有効に使えば成長することができます。しかし、誤ればそこで成長はストップするのです。私たちは一時の快楽のために生きているわけではありません。ですから人生には目的があるのです。聖書をみると人生の目的がわかります。今日の聖句を見てください。著者のパウロは、なすべきことは「一つ」と言っているではありませんか。天国で賞を得るために、目標を目指してひたすら走る、と言っています。イエス・キリスト無しには天国へ入る事も望めません。そして、聖書に記されたことを学びましょう。クリスチャンであるのなら、聖霊に満たされることを願い祈りましょう。聖霊に覚醒していただき、聖書を明瞭に理解しましょう。そすれば、あなたの人生の目標がわかります。目標がわかれば、それを目指してひたすら走る、これがパウロ流のやり方です。パウロはクリスチャン人生をマラソン競技に参加いしてる者のように考えているのです。競技であるので、ひたすらゴール目指して走ることになります。そこで、沿道で応援している人のようになってはいけません。すでに、バプテスマを受けているので、あなたは競技に参加している競技者なのです。目標、つまりゴールがまなわからないのなら他の競技者(クリスチャン)についていくしかありません。脱落する者もいるのですから、十分気を付けて走ります。給水所では水をもらいましょう。テレビでマラソン中継をみていると、白バイが先行して道を誘導していますね。聖霊はこの白バイのように先導してくださるのです。だから、目が見えなければなりません。良く見て、コースをはずれないように力走しましょう。あなたの人生の目標は、主に聞けば自ずと分かってきます。そうすれば、なぜ今の境遇に置かれているかも理解できるはずです。選ばれた者であることを自覚して、すばらしい走りを見せましょう。順位はともかく完走することに意義があります。後ろなど振り返るゆとりはありません。体を前に伸ばしてひたすら走りましょう。勝利の栄冠が待っています。(佐久間)

 

1月30日(木)

わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。

ホセア6:6

 

聖書が書かれたのは、想像することも難しいぐらい遥か古代のイスラエルでのことです。現代語に翻訳されているので現代に起こった事のように錯覚してしまうこともあるでしょう。しかし、現代に生きている聖書の読者は古代人の世界を垣間見ているだけです。しかし、クリスチャンになり、信仰をもって神を求め、神を知ろうと努めると、聖書は一変して人生を変えるほどの力を見せるのです。今日の箇所は、十二小預言書と呼ばれるものの一つホセア書からの御言葉です。預言者を通して神はイスラエルの民に語り、またそれが聖書となって今日の私たちに語りかけているのです。神は、形式的な儀式など求めておられません。ましてや古代イスラエルの民が行ったようなおびただしい清い動物の犠牲を喜んではおられなかったのです。なぜならその犠牲の本体はイエス・キリストの犠牲であったからです。自分の子供が罪人を救うために犠牲となることを喜ぶ親などいるわけがないのです。だから、罪を犯さずに生きて欲しいと神は思われるはずです。罪は神の愛に応えずに背くことです。だから、神の民に主を愛してほしいと願ったでしょう。罪を犯さないとは愛を実践することだからです。神を愛すること、これ以外に罪に勝利する方法がみつかりません。神を愛するには、神を知らなければできないのです。だから「神を知ること」を私たちに求めているのです。父なる神は、御子イエスをこの世界へ遣わしました。人間は罪のために神を理解できず、目に見える人間しか理解できなかったのです。それで、イエスが受肉して人間となってくださったことにより、神の本質が愛であることを見たのです。そして、「私を見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)とのイエスの御言葉の通りに神を知ることができるのです。イエスを求めましょう。イエスを知ることを求めましょう。そして、神を知り、神を愛するという真理を全うしたいと思います。(佐久間)

 

1月31日(金)

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

ルカ22:31~34

 

主イエスを愛するとはどうゆうことだろうか。シモンの言葉は理解できる。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」。全てを捨ててイエスについてきたシモン・ペトロの気持ちに嘘はなかっただろう。人生のすべてをかけた者の言葉だし、3年以上の年月をイエスに従って、試練を一緒に乗り切ってきたのだ。師と仰ぐイエスは、実に誇らしい偉大なお方で、数々の奇跡を目の当たりにしたペトロはイエスをとうとう「神の子」と認めたのだ。ペトロにとってイエスは、待望のキリストなのだ。そのイエスを国家の権威者たちはキリストと認めないばかりか、憎しみを露わにして殺そうとまで考えていたのだ。そのような、事態に直面して弟子の覚悟が問われたと思ったのだ。シモン・ペトロの言葉は悲壮感が漂っている。イスラエルの王になるはずのお方が、志半ばで捕えられ、へたをすれば殺されるかもしれないと考えざるを得ない所まできていたのだろう。だから、死をも覚悟して最後までイエスに従うと心に決めていたのだ。その思いがここで言葉となってシモンの口から出たのだ。ところが、シモンに答えたイエスの言葉は耳を疑うものだった。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」一度ではなく三度もイエスを知らないと言うと予告されたのだ。一体何が起こるのだかろうか。とてつもない恐怖が襲ってきた。今日中に悪い事が起こる。言葉にできないような恐ろしいことが起こるのだ。弟子たちのいいしれぬ不安は増すばかりだった。それにしても、サタンは神にイエスの弟子たちを激しく試みることを願って許されたというのだ。順境の日に信仰を守ることは容易だが、逆境の日には難しい。もはや、イエスにできることは信仰が無くならないように祈ることだけだった。もし、イエスがこの時執成して祈ってくださらなかったら誰も残る事はなかったかもしれない。今日、キリスト教は無かったろうし、人間の歴史も続いていなかったかもしれない。さて、この歴史もいよいよ終わりを迎えようとしている。普段通りの生活を過ごしているある日、突然、世の終わりがくると預言されているのだ。当然、その前触れのように世界は終わりに向かって異常が起こってくる。そのような中で現代の弟子であるクリスチャンたちは、同じようにふるわれることになっている。気づいているだろうか、洗礼を受けてから今に至るまで信仰の訓練がずっと続いていることを。それに聖書に書かれた弟子たちのように、失敗しながらそれでも、イエスを愛し、神を信じて歩みを止めなかったはずだ。だから、ここまできたのだから最後までイエスというこの道を歩んで行こう。イエスは、最も辛い時にこそあなたの信仰が無くならないようにと祈っていてくださるのだから。(サクマ)