2014年10月

10月1日(水)

イエスは、・・・言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

ヨハネ8:31,32

(写真:Jonathan Babb )

 

本物の信仰とそうでない信仰のことが語られている箇所です。イエスの周りにもこのように二種類の人たちがいたということです。彼らの問題は、不自由であることでした。何かがその人の信仰を妨げているのです。それから自由ではありません。ユダヤ人にとっては、アブラハムの子孫だから義となっているという思い込みとか、系図とか、祭儀を厳格に守るとか、律法の遵守とか、イエスの教えがまったく耳に入らない思いがあったのです。イエスは、真理なので、イエスに信仰をもって聴けばそのことにより安心して心を縛っていたものから自由になるというのです。あなたは、自由ですか。イエスの言葉にとどまりましょう。真理を知り、自由になれます。そのような信仰を真剣に求めましょう。(佐久間)

 

10月2日(木)

サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。それをサウルに告げる者があり、サウルは好都合だと思った。サウルは、「彼女を与えてダビデを罠にかけ、ペリシテ人の手にかけよう」と考え、ダビデに言った。「二番目の娘を嫁にし、その日わたしの婿になりなさい。」

サムエル記上18:20-21

 

策略、というものがどうして起こるのかサムエル記はよく描いています。イスラエルの王は聖職者で、他の国の王とは異なった存在だったのですが、サウル王は世俗の王と変わることはありませんでした。自分の王としての地位に執着して、権力を守るために自分の娘まで道具として使いました。サウルは自分より優れ、国民に英雄としてもてはやされていたダビデが何よりも恐ろしかったのです。現代でも会社や何かの組織で序列を脅かす新人が現れると落ち着かなくなる人たちが出てきます。それが宗教でも同じことが起こる場合があります。ここで、サウル王の神との関係が正しければ、ダビデを恐れることはなかったでしょう。しかし、サウル王は神よりも自分の王としての力に目を向けていたのです。もし、私たちも自分の力を頼みとしていたなら、自分よりも力のある者の出現は脅威となるでしょう。そして、そうゆうものを敏感に感じ取って、心を波立たせることが自分の状態を悪くしていくのです。サウルは、考えるのもおぞましい策略を用いて罠にはめ、ダビデを殺そうとしているのです。聖書が「恐れてはならない」と繰り返すのには理由があるのです。サウルが恐れないためには、悔い改めて主との関係を正し、主にのみ信頼し、服従することだったのです。クリスチャンは自分と他人を比べないのです。比べると悪い感情を持つ可能性が高くなるし、恐れると罪を犯すかもしれないのです。そして、罪は愛を踏みにじることをなんとも思わないのです。しかし、主への正しい信仰と愛は策略をも打ち砕くことができるのです。(佐久間)

 

10月3日(金)

サウルは言った。「では、ダビデにこう言ってくれ。『王は結納金など望んではおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだ』と。」サウルはペリシテ人の手でダビデを倒そうと考えていた。

サムエル記上18:25

 

子供たちに人気の「トムとジェリー」というアニメがありますが、サウルとダビデの物語もそれに似ていると思わせるところがあります。サウルがこの手でいけば相手をやっつけられるとほくそ笑むのですが、ダビデはやすやすとその期待を裏切り大手柄に変えてしまうのです。今日の御言葉の背景は、ダビデの身分が低く、王様の娘を自分の妻にするということはありえないことだったのです。そのように躊躇するダビデにサウルは無謀な要求をしてみせるのです。ペリシテ人の陽皮百枚を得るには100人を倒すことを意味しています。それも訓練された兵隊をです。無理をすれば確実に死を招きます。常識のある人ならそのような無謀なことはできません。ところが、ダビデは王の要求の倍である200人のペリシテ人を討ち取ってしまったのです。その結果、殺したいと思ったダビデに約束通り娘を妻として与えることになりました。神のテストに不合格となったサウル王と神の御目に適ったダビデではまったく勝負にならなかったのです。クリスチャンも神に従順に従い信仰で何事も恐れずに進むならば、たとえ悪意ある者が立ちはだかって罠を仕掛けようとも、神に守られてそれを祝福に変えてしまうことができるのです。もし、サウルが結納金とか貴族の身分とか要求したら、ダビデはいさぎよく身を引いたでしょう。しかし、サウルは戦国時代の王として武勲をたてることにこそこだわっていたのです。ですから自分よりも武勇に優れていると民の評判を取っているダビデが許せずにその武勇で誘惑し罠をかけたのです。クリスチャンも自分の得意分野や才能、技能を生かして生きれば道は開かれていくものです。不得手な分野で勝負することは賢明ではありません。第一楽しくはないでしょう。好きなことで考えてみればきっと自分の才能に気がつくことでしょう。主がくださった才能を生かすように工夫しましょう。(佐久間)

 

10月4日(土)

王に対し、婿となる条件である陽皮の数が確かめられたので、サウルは娘のミカルを彼に妻として与えなければならなかった。サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。

サムエル記上18:17-29

 

サウルの悲劇は、自分の策略が何の巧も奏さずに逆に、主がダビデと共におられること、娘御狩留家ダビデを愛していることを思い知らされる結果となった。悪魔に一旦足元をすくわれると早く罪を悔い改めて主の元へ急がなければ、どこまでも堕ちていくことになる。それは、主の敵になることだから恐ろしいことなに、人のプライドは容易にそのことを認めない傾向にある。一方のダビデは、主の御前に生きている。神を信じる者の一日は楽しい。今日は良い日だと毎日言えるのだ。そのような者は、困難を困難と思えないものだ。主が共にいるのだから、主が味方して下されば恐れる者などあるわけがないのだ。主が共にあれば死ぬことなどないと分かっているダビデが勇気凛々で120%の力で戦う時に、味方の兵士は大将の姿を見れば自ずと勇気づけられ、負ける気がしない。如何に手柄を立てるかだけを考えるようになるからとても強い。敵をのんでかかるダビデ軍と飲まれて怯えるペリシテ軍では話にならない。敵は恐れと緊張で体が硬くなり、普段の訓練の成果を出すことができない。戦う前から、勝負ありなのだ。これは、クリスチャンの正常な姿を映している。クリスチャンがダビデから学ぶことは多いのだ。そのダビデを慕っていたサウル王の娘ミカルは、父の圧力にも関わらず、父よりもダビデを愛したので、サウルの落胆は大きかった。このようにいわくつきで結婚したダビデとミカルは、この先大きく運命を分けることになる。このサムエル記上はダビデ王台頭史と言われ、サムエル記下の2章からダビデ王物語が始まる。そこでまた、ミカルが登場することになる。(サクマ)

 

10月5日(日)

サウルは、息子のヨナタンと家臣の全員に、ダビデを殺すようにと命じた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデに深い愛情を抱いていたので、ダビデにこのことを告げた。

サムエル記上19:1,2a

 

妬みや嫉妬がどうしてよくないか、サウルの憐れな姿を見ていればよくわかるだろう。ダビデが王のために戦いに出かけると必ずだれよりも武勲を立て、名声を得た。それがサウルには耐え難いものとなっていったのだ。ダビデが自分に代わって王となるという恐れだ。そこで、彼はダビデを殺すようにヨナタン王子と全家臣に命令してしまう。ところが、息子のヨナタンは、娘のミカル同様にダビデを愛したのだから皮肉だ。それほどダビデは人を魅了する魅力の持ち主だったのだ。それにしても、ヨナタンの素晴らしさは特筆すべきものがある。サウルが王に選ばれたのは、若い時にヨナタンに似ていたからだった。だから、サウルはヨナタンを見て自分の初心を想いだせればよかったのだが、一旦悪魔に心を開くと悪い感情ばかりが起こってしまい、自分では収拾がつかなくなってしまう。だから、サウルがダビデを殺すように命じた時に大義名分は無かった。それは王権を危うくするものだった。サウル王が悪感情を持ち始めてから悪霊は働くことが容易になった。そしてついには、悪霊に憑りつかれダビデを自ら殺そうとしたのだ(19:9-10)。自分を愛するごとくに隣人を愛するという戒めがいかに重要なことであるかがわかる。クリスチャンもこの掟を破るように悪霊は誘惑してくるだろう。その誘いに負けると、底なし沼のように転落すると思って戒めておかなければならない。どんなときでも愛する者は美しい。(サクマ)

 

10月6日(月)

アビガイルはダビデの妻となった。ダビデはイズレエル出身のアヒノアムをめとっていたので、この二人がダビデの妻となった。サウルは、ダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えた。

サムエル記上25:43,44

 

はじめにヴィトゲンシュタインの言葉を引用しよう、「愛されると嬉しい。愛されないと淋しい。愛されなくても、愛することができれば満たされる。愛が欲しくて見つめる。少しでも愛が感じられれば、胸が暖かくなる。愛するものがあれば夢中になれる。そういう愛の代わりになるものはこの世に何もない。幸福と呼ばれるものの中には必ず愛が含まれている。いや、愛こそが幸福そのものなのだ」(『超訳ヴィトゲンシュタインの言葉』p95)。

 サウル王にダビデが殺されることがわかった妻ミカルは、ダビデを密かに逃がした。そこからダビデの逃亡生活がはじまることになる。それは同時にミカルとの別れを意味していた。劇的ないきさつがあって逃亡者となったダビデはやがてサウル王朝に不満をもつ者たちの棟梁となった。それから時が経ち、ナバルの妻アヒノアムと出会った。ナバルが死んだ後ダビデの求婚に答えてアヒノアムは妻となった。この物語はとても面白いので、25章を読んでいただきたい。戦国時代に武将の妻としてふさわしい女性がアヒノアムだった。「ダビデの妻たち」という題で本を書きたくなるようなぐらい魅力的な女性が出て来るが、ダビデの出世に合わせるように新しい妻を迎えていった。ダビデを継いだソロモンはもっぱら政略結婚が多かった、いや多すぎた。それに比べダビデは天下取り物語の主人公にふさわしく、ダビデの状況にふさわしい女性が妻となっていった。さて、ダビデのはじめの妻は王女ミカルだった。そのミカルはダビデを深く愛していた。ダビデもミカルを愛していたのだ。そのことは後に天下を統一した時にダビデに深い傷を残すことになる。さて、サウル王はダビデが逃亡するとすぐに、「ダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティ」に嫁がせてしまったのだ。ヴィトゲンシュタインは、愛をなんと言っていただろう。ダビデもミカルも、もうはじめの愛に戻る事はできなくなった。愛する幸福、愛される幸福、この両方がもろくも手から零れ落ちていったのだ。なぜ聖書は、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4,5)と命ずるのだろうか。実はここにこそ確かな人間の幸福があるからだ。あなたはイスラエルであることを忘れてはいけない。そして、「聞け」との御声を魂で受け止めて聞いてほしい。聖書は愛を学ぶ教科書であること覚えておこう。(サクマ)

 

10月7日(火)

ダビデは答えた。「よろしい、契約を結ぼう。ただし、一つのことをわたしは要求する。すなわち、会いに来るときは、サウルの娘ミカルを必ず連れて来るように。さもなければ会いに来るには及ばない。」 ダビデは、サウルの子イシュ・ボシェトに使者を遣わし、ペリシテ人の陽皮百枚を納めてめとった妻ミカルをいただきたい、と申し入れた。イシュ・ボシェトは人をやって、ミカルをその夫、ライシュの子パルティエルから取り上げた。パルティエルは泣きながらミカルを追い、バフリムまで来たが、アブネルに「もう帰れ」と言われて帰って行った。

サムエル記下3:13-16

 

愛する夫ダビデから無理矢理別れさせられ、他の人へところへ嫁がされたミカルはいったいどうなったのだろう。父のサウル王も兄のヨナタン王子もみな戦死し、それを契機にダビデはユダの王になった。しかし、イスラエルはサウル王家を守るために障害者のイシュ・ボシェト王子を王に担ぎ上げたが、実際はアブネル将軍が実権を握っていた。戦国時代に戦えない王ほどみじめなことはないだろう。それが、アブネルがあることからダビデに寝返ることになった。その時の契約で名実ともに全イスラエルの統一王国を無血で実現することができるのだ。ところが、なんとダビデは条件をつけた。それがミカルを自分の元へ戻すということだったのだ。すでに何人もの妻を持っていたのにだ。時が経てば人の心は変わるものなのに、初めての妻のことがダビデは忘れられなかったようだ。ミカルは、たぶんとうにダビデのことを忘れていたのではないか。それは、再婚相手が良い人で愛してくれたからだろう。「イシュ・ボシェトは人をやって、ミカルをその夫、ライシュの子パルティエルから取り上げた。パルティエルは泣きながらミカルを追い・・・」とバルティエルがミカルをどんなに大切に思い、愛していたのかがわかる悲しい場面だ。

 さて、女性の皆さんは、ダビデの心、ミカルの心、それぞれわかるだろうか。ミカルは、一度目はダビデから取り上げられ、バルティエルの元へ行かされ、今度は、そのバルティエルから取り上げられ、ダビデの元へ行かされるのだ。二度の悲しみがもたらすものはなんだろう。人生の難しさがこの後に待っている。ミカルは呪われたサウル王の娘であったのが悲劇の原因だったのだろう。このように、数奇な人生がある。あなたはどうだろう、平凡でも幸せなほうがいいと思うだろうか。愛しても一旦壊れた愛は、昔のようには戻らないのかもしれない。もし、イエス・キリストが私たちを救ってくださらなかったなら、愛は壊れれば戻る事はないだろう。でも、傷ついた葦を折らず、くすぶっている灯心消さないお方がいてくださる。真実のキリストの愛が私たちの心を癒し、神との間の愛の関係を回復させてくださるのだ。さて、気になる事がある。女は男の助け手として造られたのだが、ダビデはミカルに何を求めていたのだろう。(サクマ)

 

 10月8日(水)

ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」

ダビデはミカルに言った。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」

サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。

サムエル記6:20-23

 

いったいこれはどうしたことか、何が起こったのだろう。ここまでのいきさつを知りたい人は6章を初めから読んでいただきたい。事の始まりは、ペリシテ人に神の箱(契約の箱)を奪われて、それがあるべき場所(聖所)にないまま時が過ぎていった。それから、いよいよダビデが王となり、都もエルサレムへと移し、その新しい都へ神の箱を運び入れることをもって民にダビデ王朝が名実ともに始まった事を示したかった。それ故に神の箱を運ぶだけのためにイスラエルの精鋭3万を招集し、ダビデ自らが先頭に立って厳かに奏楽と共に神の箱が移動し始めた。しかし、事故はその時起こった。牛車に運ばせた神の箱が落ちそうになった。それで、ウザという者がうっかり神の箱を押さえようとして触ってしまったのだ。ウザは即死だった。ダビデの晴れの日がいっぺんに災いの日と化した。ダビデは怒り、移送は中止になってしまった。ダビデの思いはいかばかりか。この時の問題は、律法の規定を守らずに神の箱を運ぼうとしたことにあった。牛車で運んではならなかったのである。レビ人の選ばれた人たちがお神輿を担ぐように担ぎ捧を使って運ばなければならなかった。一時神の箱を預かった人が祝福されたことを聞いて、ダビデは再度万全を期して神の箱を運ぶことになった。そして、今度はうまくいったので、「主の御前でダビデは力のかぎり踊った」(14)。その様子を窓から見おろしていたミカルは「心の内にさげすんだ」と書いてある。それが、今日の聖句につながっている。ダビデの気持ちを考えれば、長年の辛苦の果てにようやく天下を取り、大事業の仕上げの晴れの日に、お祝いの言葉を聞くことは予期していたが、よもや自分の喜びの姿をさげすまれるとは思ってもみなかったのだ。確かにダビデは最もいやしい身分の羊飼いの出身であったが、妻ミカルは王家のお姫様だった。おとぎ話のように、勇者であったダビデは出世して、王を守る近衛隊の隊長となり、王の食卓に連なり、王の二女ミカルに愛され、結婚するために武勇を示してついに結ばれたのだ。それなのに、二人の心はすれ違い、愛とは程遠い関係になってしまった。ミカルは、言ってはいけないことを夫に言ったのだ。それは、二人の関係を断つほどダビデを傷つける言葉だった。ダビデはミカルとの復縁を求めるべきではなかった。人は年月が経てば変わるのだ。昔のミカルのままでいるはずもない。人妻となり、それなりの幸せを生きていたはずだ。それを無理やり別れさせられ、しかも泣きながら追いかけてきた夫の姿をミカルは心が張り裂けるような思いで見ただろう。そして、今日の冷えた目で見たダビデは、王の威厳も無く、思慮に欠けた愚かな人にしか見えなかった。ミカルは恨みを言えなかった分、今日は意地悪い言葉をダビデにぶつけた。そして、ダビデは父親ではなく自分を助けてくれたあの愛しいミカルではなく、自分の知らない憎しみのこもった目をしたミカルを見た。結局、このことがあってミカルはダビデと疎遠になり、夫婦としての交わりを持つことは二度と無かった。孤独で淋しい一生を送ることになったのだ。一体誰が悪かったのだろう。これも、サウル王の呪いだったのだろうか。サウル王の王子たちは戦死し、最後に王となった息子も昼寝をしている時に守る護衛もなく、褒美ほしさの傭兵の剣にかかった。そして、ミカルである。まるで、神に不服従であったサウル王が神に見捨てられ、神に従順であったダビデがイスラエル最大の王となるように祝福されたことと関係があるように見える。これで、サウルの子供の問題はダビデから消えるが、まだヨナタン王子との約束が残っている。それがもう一つの物語を生むことになる。(サクマ)

 

10月9日(木)

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

ヨハネ14:1

 

あなたがクリスチャンであるのなら、何も心配することはない。クリスチャンでないのなら悔い改めてイエス・キリストを信じなさい。そうすれば救われる。この世で生きることは教科書がないので大変だと思うことがあってもしかたがない。誰もが人間関係で悩んでいる。自分の思い通りにはいかないものだ。家庭の主婦が集まって、何か料理を作ることになれば、それぞれのやり方があって、たちまちぶつかりあうことになる。若者に簡単な仕事をさせてみると、その人がはっきり出て来るのですぐにどうゆう人かわかってしまうものだ。その中でも、積極的な人の方が受けがいいので、会社でも出世するだろう。仕事を待っている消極的な人は大した出世は期待できないと言われる。単純でつまらない仕事だから頑張る気になれないと言う人は、大きな仕事もできないものだ。仕事は自分で見つけて、どうすればうまくいくか考えて積極的に動いた方がいい。しかし、自分に合った仕事というものもあるのだろう。それを見つけることは簡単ではない。一般に好きな事というが、そのことすら見極められない人は多い。好きだからと言っていたが、気がつけばただの逃避行動でしかなかった、というのは辛い。では、何が大切なのだろう。キリストは「心を騒がせるな」と言われた。我慢だけの人生は辛い。人間はうまくできているので、ストレスをある程度上手にコントロールするし、大変な仕事でも力を出してやり遂げることができる。しかし、自分が解放されていないのなら、考えが消極的になってしまい、内にこもるような状態が続くだろう。人間はキリストによって自由にしていただけるのだ。それなのに、自由に自分を解放していない人は、キリストを信じているというところが弱くて、その分自分を信じているので、すぐに行き詰まる。もし、あなたが心を騒がせているのなら、すぐに悔い改めて、主の御言葉に服従しなさい。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。とても簡単だ。これだけで、大丈夫。何度でも自分に言い聞かせてみよう。(サクマ)

 

10月10日(金)

主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。・・・

ルカ19:26

 

イエス様はよく譬話をお語りになりました。「ムナ」の譬話もその一つですが、いったい何を教えているのか、自分で考えてみることは大変良いことです。自分で祈って考えると自分にとって益となることが天啓のように分かるからです。さて、今日の聖句は、そのムナの譬話の最後の所に出て来る言葉です。何か意味深長なことばですね。でも、これがイエス様の御言葉となると、人生を変えかねない真理であることは間違いありません。今日は、一つだけヒントを与えておきます。ただ、ご自分の今の時に必要な真理が現れてくると思いますので、今日は祈りつつこの譬話の意味を考えてみてください。主人はもちろん、神様ですね。譬話では金を渡したとなっていますから、価値あるものが神様から与えられたということで考えてみましょう。文字通りの金かもしれないし、才能かもしれません。霊の賜物である可能性も高いですね。その他何でも考えられます。自分かもしれません。問題は、その価値あるものを神様からいただいていたのに、使わなかった人がいたということです。それに比べて一ムナを十倍にした人もいたのです。当然、主人から褒められて、褒美まで頂戴しました。反対に何もしなかった人は、預かった一ムナも取り上げられてしまいました。さあ、神様との関係で考えます。自分は神様から何を預かっただろうか。そして、それは使って増やしただろうか。それとも、結局何もしていないのではないだろうか。主人が帰って来る日があります。つまり、精算の日が来るということです。だから、何もしないでいることは避けたいのです。あずかったものを知り、それを生かしているかを検討し、神様自らが精算することを覚えて、褒められるようにすぐ行動したいですね。聖書に書いてあることからわかるように、何事にも法則のようなものがあります。だから、その法則をしり、その仕組みを理解することは大切です。パウロもそのことに気がつき、ちゃんと説明しています。だからこそ、聖書を読んで、祈って、信仰を現し、主から預かっているものを生かすことに努力を惜しまない事です。法則のように正しいことは決まっているので、一旦それがわかれば、難しいことではないと理解できるでしょう。何しろ聖霊が助けてくださるのですから、楽しんで十倍にすることを目指しましょう。それでは、考えることスタートです。(さくま)

 

10月11日(土)

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

マタイ7:3-5

 

「他人のほんの小さな傷やささいな誤りを望遠鏡で見て、かなり大きいと言ってはならない。自分の誤りを逆さまにした望遠鏡で眺め、とるにたりないものと言ってはまらない。」(超訳ヴィトゲンシュタインの言葉、p91) 他人は気になるものだ。どうしてだろう。そのうえ、人の欠点や失敗はすぐに目につく。一旦気がつくと言いたくてうずうずする。そして親切に指摘してあげると、なぜかすーっと気分がいい。「あの~、失礼ですが目のところに何かゴミのようなものがついていますよ」。「あ、そうですか。ありがとうございます。あの~」「何か」「ええ、あなたも目に丸太がついていますけど・・・」。というようなことは、笑い話のようであるが、イエスの洞察力は人の内に潜む大きな問題を劇的に指摘している。人のことは見えているのに、自分の事はまったく見えていない。それは、やはり滑稽なことなのだ。このへんで、イエスの指摘を他人事のように笑っていないで、自分のこととして振り返ってみてはどうだろうか。人の問題を解決できるのは、自分の問題が解決している人だけなのだ。親子のことや、夫婦のことも、上司と部下でも、師弟関係でも、どこにでも適用する必要があることだし、人間関係を良くする秘訣となるだろう。問題は、実践するかしないかだ。試しに他人のことを望遠鏡を逆さまに覗いてみたらどうだろう。もちろん、自分には元通りにして見なければ効果はないけれど。(サクマ)

 

10月12日(日)

自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。

Ⅰコリント8:2

 

「知らない」というのは勇気がいる。だから、安易に「知っている」と言いたくなるものだ。しかし、「知っている」という言葉ほど、恐ろしい言葉はない。なぜならば、「知っている」と言った相手に教えようとは思わないだろう。謙虚に「知らない」と言われれば、相手が理解できるように説明したり、教えたりするだろう。本人も「知っている」と言ってしまったとたんに、それ以上の探究やめてはしまうだろう。すごく損なことだ。この世界には、教えることを仕事としている人も数多くいる。だから、何を知っているのか聞いてみたい。知るためには、知らないと言える勇気がやはり大切なのだが、クリスチャンは聖書を読んでいるので、やたら「知っている」とは言わない。気を付けているからだ。それに、「知る」という言葉一つでも「真理」であり、キリストと深く関わっている。なによりも「神を知る」という目的を持って生きているのだから、知ることに貪欲なはずだ。謙遜でなければ知る事は難しいし、キリストの教えを守らなければ、知ることはたちまち暗礁に乗り上げてしまう。例えば、敵が知っていて、敵に教えてもらうにはどうすればいいだろうか。キリストは、「汝の敵を愛せよ」と教える。なるほど、キリストの教えは全てに通じているとわかるだろう。(サクマ)

 

10月13日(月)

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」

マタイ3:1-3

 

キリストの到来に先立って、洗礼者ヨハネが現れた。主の露払いというか、信仰を整える係と言えばよいのか、この前例があるので、主の再臨の前に同じようなことが起こると思われている。だから、この箇所はよくよく注意してその意味を探る必要がある。はたして現代の教会は主の再臨の先触れとして、洗礼者ヨハネの使命を継承して実行しているだろうか。勿論、自分勝手にやればよいというものではない。主のご計画に基づいていなければ、すぐに失敗するだけだ。ただ、ヨハネが「エリヤの霊と力で主に先立って行き」(ルカ1:17)、その使命を達成したことから、エリヤのことも学ぶ必要がある。それと、ヨハネの宣教場所が都市ではなく荒野であったことも注目にあたいする。教会を建てる場所は、好立地、好条件が考慮されるべきであるが、宣教は必ずしもそうではない。荒野は信仰者にとっては試みの場を意味している。それゆえにクリスチャンは試練を経験することになる。それを越えてこそ信仰が本物になってくるのだ。古い自分が生きる余地がまったくなり、この世の常識が通用しない信仰の世界に生きるようになることは大切なことなのだ。そして、主の道を整えることが使命なら、霊的力をいただけるように祈ることだ。そして、そのために悔い改め、清め、聖霊の満たしをまずは求める必要がある。我々メッセージは単純だ。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というものだ。洗礼者ヨハネがエリヤの霊と力を受けて、このように行ったところ、全国各地から人々が集まって来た。エルサレムではなく、ただの荒野に来たのだ。キリストのことも、聖書のことも、ましてやイエス・キリストのことすら知らない人が多い日本では、荒涼とした荒野のような世界に人々は住んでいる。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』との声は、今こそ必要だと思う。その声を響かせたいものだ。(サクマ)

 

10月14日(火)

恐れるな/力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。

ゼファニヤ3:16,17

 

この世で生きる時に、正しく考え行動することは極めて大切なことです。歴史をみれば明らかですが、人は幸福を求めているはずなのに、不幸への道を走り始めることがあります。止めることができればいいのですが、まず不可能なことで、破たんするまで止まる事がありません。そのような時にどうすればいいのか難しいものです。平和な国でキリスト教信仰を守る事は困難なことではありませんが、ついこないだあった戦争時は、クリスチャンは迫害されたのです。宣教師は手錠をかけられ連行され、国外追放に遭いました。そのような時に、どうすればいいのかは、個人個人が考えることになります。怖いと思う人もいるし、迫害されれば信仰の炎を燃やす人も出てきます。何が一番良いのかと答えを出すことができません。信じることの力をキリストは教えています。信じて疑わないなら山をも動かすことができるのです。だれが山を動かせるでしょう。正しい信仰を持っている人です。山を動かせるのなら一体何を恐れる必要があるでしょう。戦争が終わった後で、クリスチャンを苦しめた人たちは、正しい人を迫害したことに恥じ入ることになりました。謝った人もいたでしょう。今日の聖句は、分かる事は正しい信仰者は恐れなくてもいいということです。そして、弱くてちゃんと信仰を守れない人も悔い改めれば赦され、回復していただけるのです。私たちが弱くっても内なる主は勇者であって勝利を与えられるのです。主はあなたが好きなのです。だから、主はあなたのゆえに喜び楽しむと言われます。主があなたを愛しておられるので、あなたは新しく再創造されます。それは、神に愛され、神を愛するために生きることができるためにです。讃美は特別なものになります。主ご自身が歌われるのです。それはあなたのゆえに喜んでおられるからです。讃美は喜びの歌となり、楽しいものとなります。だから、何かあったとしても、うなだれないでください。元気を出して、主の喜びとなってください。この世のことは大したことはありません。信じる力を身につければ大丈夫です。御言葉を瞑想してみましょう。(佐久間)

 

2014年10月15日(水)

主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。

サムエル記上15:22

 

クリスチャンにとって一番重要なことは、「主の御声に聞き従うこと」です。信仰に入って教えられたことの中に、「服従」ということがあったはずです。服従とは何かと問われたら、主の御声に聞き従うことです、と答えればよいのです。同じような御言葉が詩編51:19にあります。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」とあります。サウルが王になって主の御声に聞き従わなかった時に、預言者サムエルを通して語られた御言葉が今日の聖句です。サウル王の問題は、霊が打ち砕かれていなかったこと、打ち砕かれた悔いる心をもっていなかった事があげられます。サウルも油注がれて、預言し、聖霊を受けたにも関わらず、砕かれてへりくだる心を持っていなかったがために、不服従というありえない罪を犯してしまいました。クリスチャンの教訓として、服従のためには、「打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心」を抜きにしてはありえないのです。サウル王に代わって立てられたダビデ王は、失敗はしましたが「主に絶対服従」を貫いたところが主に認められたのです。あなたへのチャレンジは主の御声に「聞き従う」と「耳を傾ける」ことです。そのもたらす祝福は想像以上のものでしょう。(佐久間)

 

10月16日(木)

「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」

ヘブル13:5

 

神の愛とは何だろう。これほど愛されているとは、驚きである。人は時に孤独を感じることがある。自分が周りから理解されずに、批判されることだってある。人生は思い通りにいかないとくよくよすることだってあるだろう。自分は正しいことをしていると思っていても、良く評価されるどころか悪く誤解されることもある。そのような時に、神御自身があなたに語っておられる。それが今日の御言葉だ。主のために生きることはすばらしいことだ。もっとも社会的には馬鹿な生き方だと言われるかもしれないが、それでも信仰に大胆に生きることほど喜び多い人生もないだろう。だから、クリスチャンは周りの人のことばかり気にして気を使うよりも、自分に気配りを忘れないことだ。世に迎合していないか、人目を気にして正しい事も言えないでいないか、人を恐れていないか、聖書に書かれた通りに生きているか、イエスの教えを守っているだろうか、と自分のことを気にしているだろうか。たとえこの世で何があろうが、主が決して離れないと言ってくださったのだから、堂々と生きればいい。主はあなたを置き去りにはしないのだから、安心して生きればいい。自分のことをちゃんと気を使えば、クリスチャンとしての祝福はあなたを通して周りに流れ始めるだろう。結果的に、隣人が喜ぶことになる。それはクリスチャンとして生きる上で最も大切なことの一つだ。(サクマ)

 

10月17日(金)

あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。

ローマ13:11-12

 

クリスチャンはただ生きているわけではありません。人生のゴールを知っているのです。人々が神はいないと信仰者を嘲笑していても、なすすべなく悔しい思いをしているのがクリスチャンではありません。あなたは目覚めているでしょうか。寝ているクリスチャンは当然、何の力も無い人のように見えるでしょうが、目覚めて主と共に働くキリスト者は大いなる業を行うでしょう。自分が主によって砕かれ、私が、私が、という思いが消えて行けば、それだけ主の恵みに生きることができるようになったということです。主が義であって、その義を与えられるという信仰が身に着けば、楽になります。主は必ず共にいてくださるので、心配することはないのですが、眠っている信仰では肉ばかりが生き続け、不安と重荷をいつも引きずることになります。しかし、主の十字架が分かれば、人はじたばたしなくなるのです。人に頼ることなく、主に頼り、信頼を曲げません。また、眠りから覚めるというのは、内住の聖霊が生きて働くようになるので、聖霊がわかるようになり、御力が必要な時には必ず現れ出てくるようになります。さて、信仰に入った日から何年の月日が流れたでしょうか。そのことは、再臨の日がそれだけ近づいたことを意味しています。夜明け前の暗さは一番深いですが、それこそが夜明けがもうすぐそこまで来ている証拠です。「夜は更け、日は近づいた」のです。(佐久間)

 

10月18日(土)

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

ヨハネ15:9

 

神に愛されるとはどうゆうことだろうか。クリスチャンは知っているはずだ。それを説明すると証しになる。人の罪は、愛されているのにその愛から離れて行くということだ。聖書を初めて読むと、すぐにそのことが書いてあった。キリストは天の父から愛されたように、あなたを愛してきた、と語る。それで、キリストの愛にとどまれというのだ。これがクリスチャンの生き方を決めることになる。毎日毎日、朝目覚めるとキリストの愛がそこにある。この世で失敗し落ち込むことがあるかもしれないが、キリストに愛されていることにかわりはない。何があってもキリストの言葉は変わらないのだ。人は愛されてはじめて本領を発揮することができる。主に愛されていることをもっと考えてみよう。気分よく、元気に生きよう。自分の価値は主に愛されていることで十分わかる。主の愛に応えてみよう。主を愛することを真剣に考えてみよう。今日は、主に愛され、主を愛し返す、そんな楽しい一日となると信じよう。(サクマ)

 

10月19日(日)

味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。

主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。

若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。

詩編34:9-11

 

日曜の朝は、その日何も仕事が無いとどうしてか早くに目が覚めます。そして、パンケーキを焼きたくなるのです。どうしてかわからないのですが、日曜日の朝はパンケーキを食べたくなるのです。アメリカに住んでいた時に、新聞を読んでいるとサンタモニカに新しいパンケーキの店ができて朝から行列ができていると写真入りで出ていました。これは私しにとってとても大きな誘惑でした。アメリカ人はパンケーキが大好きなんです。パンケーキのレストランチェーンもあるぐらいだから、私にとっては環境がよかったのです?しかし、パンケーキが大きすぎてその上にかけているソースがフルーツなど満載でおいしそうなんですが甘すぎて全部食べることができないのです(味覚の問題がある)。ん・・・?すいません、ディボーションでした。パンケーキをちょっとだけ書こうとしたのに・・・・。さあ、今日の御言葉を読んでみましょう。あなたがクリスチャンであれば、ここに書かれた通りに生きることができます。つまり、良いものに欠けることがないということです。自分の信仰以上には良いものを得られないかもしれませんが、それでも思わず喜び感謝したくなるような人生となるはずです。この約束の恵みを受けている人は、主の御もとに身を寄せている人で、主を畏れ敬う人です。しかも、疑うことなく、主に求める事が出来る人です。アメリカから帰って来た時に、自動車を買わなければならなかったのですが、予算は100万円でした。しかし、それでは必要なミニバンが買えないことがわかりました。それで、主に求めるとアメリカで乗っていた車と日本の車を交換することができました。それが「牧師」と聴こえたのですが「ヴォクシー」というミニバンでした。この車も教会の働きのために大活躍しました。いつも不思議に思うのですが、お金がなくても良いものが与えられる人生を長年過ごしてきましたから、この御言葉は真実であると断言できます。このようなすばらしい約束を聖書にちゃんと書いておいてくださる神様になんと感謝すればいいでしょう。ハレルヤ。あなたも驚くほど祝福されていることを信じてください。「味わい、見よ、主の恵み深さを」。(さくま)

 

10月20日(月)

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

ローマ5:8

 

「牧会とは、信徒をして、自分の罪に気づかしめることです」(金田福一)。牧師になりたての頃、薦められて読んだ本が金田福一先生の書かれたものでした。私たちがキリストの福音に一途に生きるなら、きっと御国にたどり着くでしょう。しかし、クリスチャンになっただけではどうなるかまだわかりません。日々の生活の中で、いろいろな事が起こり、時には災いといいたくなるようなことすら起こります。そればかりか教会の中でももめごとが起こることがあります。まだ若くて理想に燃えていた頃には気がつくことはありませんでしたが、やがていやでも見えてきました。クリスチャンが罪に死んでいくことがいかに大切なことかということを痛切に感じたのです。これほど、人間は自分の罪に気づくことができないとは、情けなくなりますがこれが現実なのです。それで、今日の御言葉を何度も読んで考えなければなりません。神は愛なり、と言われるのは、罪人の私たちが自分の罪を認めていなくてもキリストが十字架に架かってくださったことを意味しているのです。その時のキリストのあなたを見つめる目はどんなでしょう。なぜ、キリストはまだ罪人であったときに、私たちのために死んでくださったのでしょう。命がけで愛してくださったのですね。それで、クリスチャンになると、罪を認めることをキリストの十字架の下まで行ってしなければなりません。悔い改めるなら必ず赦されます。そこに行けるかどうか、罪を認められるかどうか、悔い改めることができるかどうか。キリストの十字架の下へいけるかどうか。こんなことを普通に生きながらやっていかなければなりません。そのことがちゃんとできるように牧師はいるのです。だから牧師は信徒のことを愛することができるように、手がかかってもキリストの十字架に連れていけるように、一緒に天国の門をくぐる事ができるように、福音を正しく理解できるように、いつでも真剣なのです。(佐久間)

 

10月21日(火)

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

哀歌3:22-24

 

私たちは何を願っているのだろう。神への祈りが何かをただ願うばかりならば、まず自分の信仰のことを吟味すべきだ。私の計画通りに神に要求してもそれが叶うことはまず無いだろう。それは危険だからだ。自分を砕いて主の御前にひれ伏す者になっていないのなら、肉の欲望を満たすことをひたすら神に願っているかもしれないのだ。それは罪そのもので滅びに一直線に転落する危険をはらんでいるのだ。そもそも神との関係は、神が正義で、自分は罪人でしかなかった。それでは、神に裁かれて滅ぶだけのことだったはずだ。それなのに、こうしてクリスチャンとして生きているのは、主の恵みによるとしか言いようがない。それは、私たちがどんなに罪深くても、主の憐みは尽きないので、見捨てられることがなかったということだ。罪からの救いに主は最大の努力を傾注してくださる。それはキリストの十字架にはっきり表されている。あのキリストが苦しまれ、血を流された十字架を見ても、願うことのできることだけが祈りとして意味があるだろう。正しい信仰を目指さなければ何も始まらないのだ。基本ができていなければ、信仰の歩みは行きあたりばったり、といった感じになる。自分で何かできると思っているうちはまだまだ信仰の醍醐味は味わえない。自分がこうもする、あーもするという思いが砕かれるまで、そして主の憐みと恵みによって、主の望まれる通りになれば感謝だと思えるようになれるまでは、信仰の世界に生きることは難しい。だから、クリスチャンは試練に遭うし、思い通りにならずに悩んだり、苦しんだりする。そして、イエス・キリストを見るように言われる意味がわかってくるのだ。主イエスが自分の思い通りに生きていなかったことが、見えてくるはずだ。父の御心を行っていた、という主イエスの生き方こそが、クリスチャンの倣うものなのだ。そう、キリストはクリスチャンが生きる模範となってくださったのだ。さて、このように砕かれて、へりくだって生きるようになると、キリストに倣って生きていると隣人が気がつくだろう。そのようになってくると、今日の御言葉が生き生きと心に満ちてくる。自分の信仰の告白となるだろう。イスラエルの民も戦争で何もかも失ったが、それが自分たちの罪の結果であることを知る。そして、自分のプライドも宗教のプライドも何もかも人間的なものを砕かれてしまったが、それではじめて御言葉の通りであることを発見したのだ。それだから、朝毎に受ける新しい恵みをいただいて、主を待ち望もう。(サクマ)

 

10月22日(水)

すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。

Ⅰテサロニケ5:21-22

           

ちょっとしたことで、人生は変わります。今日の御言葉もあたりまえのような気がしますが、はたしてどれだけ真剣に気を付けているでしょうか。まず、自分の生活にあらゆるものが関わってきますが、そのすべてを吟味しているでしょうか。どうすればいいかと言えば、これは良いものかどうかと考えて良いものを大事にするという習慣をつけるということです。そうやって、気を付けるようになると、悪いものが結構あることに気づくでしょう。あらゆる悪いものですから、健康に悪い、霊的に悪い、世俗的で悪い、時間を浪費させるから悪い、神を忘れさせるから悪い、悪意あるもの(ローマ1:29-32)、聖書に反する悪いもの、神を認めないという悪、自分を聖なるものとしようとされている神に背くような悪いこと、こうした悪は、いつでも簡単に近づこうと待ち構えているものです。人間にとって大切なことは、自由意志を神が与えていることです。ですから、すべて自分で選択できるのです。その選択が良いものか悪いものか、どちらかであるのです。そして、神はその自由意志を尊重しているので、それをさまたげることをなさいません。ですから、自分の選択がすべてを決めていることになります。幸福な人生も不幸な人生も選択の結果です。そうであると理解できたなら、今日の御言葉を守ることで祝福された人生を選び通しましょう。悪を選べば神の怒りは避けられません。しかし、良いものを大事にすれば、驚くべき神の恵みを味わうことになるのです。簡単な原則ですから、あなたはやり遂げることができます。慣れてくれば、生活の中に確かな恵みを実感し始めるでしょう。とっても楽しいことですよ。(佐久間)

 

10月23日(木)

どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

Ⅰテサロニケ5:23-24

 

キリストが再臨されるということは、クリスチャンの希望です。そして、重要なことはその日までに全く聖なる者としていただくということです。これは人間の力ではできないことですが神御自身がしてくださることです。あなたがクリスチャンになられてから、今日までこの御言葉のように主は働かれています。あなたの考え方や、物事の価値観、あるいは生き方まで、変わってきているはずです。その間にいろいろなことが起こっているのですが、神の特別な方法でこの御言葉が実現しているのです。それは、当人には分かりづらい事かもしれませんが、特に聖霊の恵みを受けていれば自覚できることです。目標はとても高いのですが、自分に頼らずに主に頼ることを信仰で体得すれば、無理な目標ではなくなります。御言葉の通りに言えば、あなたは再臨の日までに非のうちどころのない人になります。それが、あなたの努力によるものではなく神の恵みによるもので、あなたは非常にへりくだった人となっているでしょう。どうしてこれほどまでに恵まれているのかといえば、それはあなたが神に招かれたからです。それゆえに、完璧な救い、完璧な聖化、完璧な栄化が用意されているのです。あなたはクリスチャンライフがどれほどワクワクするすばらしいものか体験できるのです。否定的な考えは一掃してしまいなさい。主を信頼する気持ちを前面に出して、明るく生きましょう。何が起こっても自分のためになることが分かっているので、主に感謝しましょう。やがてその感謝することにも大きな力があることを知ることになります。クリスチャンは本当に祝福されているのです。(佐久間)

 

10月24日(金)

しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

ヘブル7:24-25

 

子供を育てることはとても骨の折れることです。特に2歳ぐらいになると分別がつかないのに行動する能力は驚くほど増してきます。次々にすることがことごとくいけないことや危ない事で、少しもじっとしていません。親はそれに根気よく、それはいけません、危ないからだめです。それもダメです、それもだめ!何度言ったらわかるの、それは絶対にだめです。こんな感じで毎日毎日過ごしているのです。どうしたらいけないことばかりたてつづけにやれるのだろうと、感心してしまいます。さて、天のお父様もきっと私たちを見ていて、同じように思うのではないでしょうか。イエス様は、あきれ果てることもなく、忍耐強く私たちに付き合ってくださっているのです。少しは成長したかと、胸をそらしたらその勢いのまま後ろに倒れて奈落の底に落ちるような失敗をするのがおちです。自分でもなんでと思うぐらい同じような失敗の中で右往左往しているのですが、それが不思議なぐらいイエス様は変わらずに愛し続けてくださっているのです。それで、だんだん気がついてくるのです。何が正しいか、何が悪いかという基本的なことがです。自分の感情や欲望のままにしていると、何べんでも同じ過ちに陥るのです。どんなにひどい目にあっても、こりないのです。でも、イエス様が執成してくださってなんとか最悪の結果から救ってくださっているのです。そして、自分勝手な生き方をして、当然の結果としてひどい目にあって、イエス様に泣きついて、都合よく助けてほしいと祈るのです。イエス様は、なんとか諭して、何がいけないか教えようとされます。そして、自分で気がついて、悔い改めることができるようにと導いてくださいます。そして、イエス様の方法で対処するととても具合がいいのです。新しい生き方を学ぶのは良いことです。イエス様が絶対救うと言うのは、最後に一気に救うというよりは、日々の生活を通して100メートルも走れないような人をフルマラソンができるまでに指導して下さるコーチのように、信仰をたて上げてくだるということです。人生につまずいている方は、やり直せますよ。イエス様が祭司なので、救ってくださいます。だから、単純にイエス様を信じてください。よけいなことはしないで、ただイエス様に助けていただきましょう。きっと、生きることが楽しくなります。自分の思い込みも捨て去って、イエス様のルールにおまかせしましょう。すぐに良い結果がでてきます。(さくま)

 

10月25日(土)

まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。

アモス5:4

 

 

預言者は、今日なんと語ったのでしょうか。なぜ、主は「わたしを求めよ」と言われたのでしょうか。アモスの時代は政治的には脅威であったスリアがアッスリアの西方への侵攻により忙殺されるようになり、その間隙をぬってイスラエルは奪われた土地を回復していきました。国はダビデ時代を思わせるまで興隆をみました。しかし、それと反比例して真の信仰が衰退していったのです。彼らは聖所に詣で形式的には盛んになるのですが、神を真に礼拝し主に服従することはなくなり、堕落が広がっていきました。そのような時に、主は神の民を正さなければなりません。神の切なる呼びかけが今日の御言葉にも読み取ることができます。信仰者はどのぐらい宗教のことに関わるかと計算している人のようになってはなりません。自分の思うままの生活の一部に宗教を少し入れているというようなやり方では、後悔することになります。キリスト者の生き方は、主を求めて、生きる、この二点に尽きるのです。主を求めるように神は命じています。そこには、想像を超えた神との交わりがあります。そこで、回復されたなら初めて生きることができるのです。ただ生まれたままの人生とはまったく質も次元も違うのです。裁きの日を迎えてから慌てても遅いということは、クリスチャンならよく分かっているでしょう。それは、自分の霊的成長が思いのほか時間がかかるということです。それにしても、主の御声が気になりませんか。この世に同調して生きて行けば、滅びが待っています。罪人は、罪の問題に悩み続ける存在ですから、中途半端ではクリスチャンになったとしても解決できそうにありません。しかし、信仰の道は一途に専心して進めば、恵みが待ち構えています。その恵みとは、自分の罪によって当然受けるべき罰からの赦しと、罪からの解放のことです。これは人間には全く不可能で、どんなに努力してもできないのです。それが、ただ、主イエス・キリストを信じるだけで、救いが始まるのです。「生きよ」、とは神の霊をいただき、新しい命に生きることです。聖霊の現れは、驚くべき恵みです。本来のあるべき姿を人間が取戻し回復する方法がこうして、神によってすでに備えられていることを覚えましょう。主の御声が今日、あなたに語られました。その意味を考えてください。わかったら、それがレーマです。(佐久間)

 

10月26日(日)

イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

ルカ8:48

 

今日の箇所は、どうもおかしな言葉に聞こえます。「あなたの信仰があなたを救った」とは、いったいどうゆうことだろう。ここで起こった出来事とは、長血を患った女がイエスの御衣の裾についている房に触れたことで、病気が一瞬にして癒されたことです。この女のこの行為が信仰として認められたということだ。この女の心の中で起こったことが、イエスに信仰ありと認められたといってもいいでしょう。このようにイエスに癒していただいた人の共通項は、一途にイエスを信じたことだ。もう人の目も気にならない、だれが何と言おうと、たとえ力づくで止められても、主イエスに会って、癒していただきたいと強烈に願っていたのです。興味深いのは、この女の病気はすぐに癒されたのだが、イエスは女をそのまま立ち去らせようとはしなかったことです。誰かがさわった、と言ってきょろきょろ周りを見回しはじめるものですから、女は観念して、地にひれ伏したのです。これは、礼拝行為と同じです。礼拝に出席するということは、ただ歌を歌ったり、お話しを聞くことだけではありません。主にただひれ伏すことなのです。この時、女は信仰告白をしています。自分の身に起こったことをありのままに話し、なぜイエスの御衣の裾を触ったか理由と長血が奇跡で癒されたことを皆の前で告白しました。血は命を意味していたので、命が漏れて行くということと同じだったのです。当時の人にとっては、この女は汚れていて罪深い者と映っていたのです。それが、聖なる神の人イエスによって何かしていただいたのではなく、ただ着ている着物の裾についている小さな房に触れただけで、誰も治すことのできない恐ろしい病がたちどころに癒されたというのですから、イエスの力に驚き、この方はいったい誰だろうと思ったことでしょう。ここで、イエスは肉の命を救ってくださいましたが、それだけではなく霊の命をも救おうとして、黙って女が立ち去ることの無いように触った者を探し始めたのです。そのかげで、霊の命も救われたのです。さて、最後にポイントは、やはり「あなたの信仰があなたを救った」ということです。この信仰のために、クリスチャンは求め続けてイエスに向かっているといえるでしょう。「イエス様は私を救うことができる」という絶対的な信仰をかたときも手放してはいけません。ただ、信じましょう。(佐久間)

 

10月27日(月)

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

ローマ15:13

 

今日からまた仕事が始まると言う人に、とびきりの聖句をお知らせいたします。私たちの信仰は、希望から始まります。イエス様を信じた日から、どんなに悲観的な人もどんどん楽観的な人へと変えられて行きます。それは、神様がすべてを支配しておられることが分かってくるからです。私たちの人生の歩みは荒野を旅しているようです。今いる場所がゴールではないのです。ゴールはもちろん天国です。それは、イエス様の再臨によってこの世が裁かれ、救われる人たちは空中にひきあげられ、イエス様を自分の目で見ることになります。それから、万軍の天使に護られながら天の都へと向かいますから、再臨をゴールとする人もあるでしょう。いずれにしろ私たちは、大きな希望と目標を共有しています。その希望の根拠は、もちろん神様です。そこで、私たちは信仰で生きることを学びながら再臨を待っているのです。信仰の利点は罪と死と悪魔から救っていただけるということですが、それだけにとどまりません。自分の経験する人生のすべてに関わってきます。人生には大変なことも、時には災いすら避けられないかもしれませんが、この世の人たちと同じように生きているからには同じようなことが起こる可能性が否定できません。それでも、信仰があるので、ノンクリスチャンとは、大きな違いが生じてきます。勿論、信仰によって得られるものはいつでも良いものです。それは、今日の御言葉のように、「あらゆる喜びと平和」という言葉で現すことができます。どんなことが起こっても喜びがあり、平和があれば、理不尽な事やひどい扱いを受けた時にすら、感謝が溢れでてくるのです。それにあなたには内住する聖霊がおられます。聖霊は、必ずあなたを助けてくださいます。いつも一緒にいてくださり、心強い味方です。ユーモアもあって、心を楽しませてくださいます。聖霊はあなたの永遠のパートナーなのです。それで、あなたの心に不思議な希望が満ちてきます。希望があれば、あなたは何でも成功できます。希望があるので、隣人を励まし、勇気づけ、愛することができます。悪魔がどんなに否定しても、聖霊は御言葉の通りにあなたに希望を与え続けるでしょう。ですから、今日も明日も、そして毎日が、あなたにとって希望の日となるのです。(さくま)

 

10月28日(火)

「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。

ローマ4:17

 

神にとって不可能はない、とは、今日の御言葉では、「死人を生かし、無から有を呼びだされる」、ということだ。「死人を生かし」とは、私たちと関係がある。私たちは罪を知った者だ、しかも罪人が霊的にはすでに死んでいる者で、肉的にも死をただ待っている状態であることを知っている。それだけでなく、神の罪への怒りは最後に裁きをもって決着をつけることになっている。つまり地獄へ投げ込まれてしまうとうことだ。私たちのみじめさは、罪を犯したくなくても罪を犯さざるをえないことにある。しかも、とめどもなく続くのが罪の法則だ。決して自力では止めることができない。自分で自分を正しく裁くことすらできない。罪を犯しても自分を正しいとし、人のせいにするからだ。聖霊が働き律法を目の前に突き付けられなかったなら自分が罪を犯していることはわからなかっただろう。その罪人を、つまり死人を生かすことが救いなのだ。神にしかできないことだ。罪で死んでいるのだから、罪から解放されていなければ生かされたとは言えない。アブラハムは老人になり、子供をもうけることができなくなっていたが、神は「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と語ったのだ。つまり、神は人間とは違っていることを明らかにしている。神の御言葉はすべて創造的であるということだ。天地創造の時と全く変わらない、言葉がその通りに創造されていくのだ。だから、私たちに何か少しばかり自分の救いのために努力をしなさいと言う訳がない。創造的な言葉が実態となって、救いを必要とする人の外で救いの業がなされて行くのだ。旧約聖書の預言者が神の言葉を伝えた。それが、創造的な命令なので、その通りになるのだ。そうやって時満ちて主イエス・キリストが来られたのだ。それは、人間の理解を越えていた。神が罪人に代わって罰を受け、呪われ、死を一身に受けることで、義が成立して死んでいる罪人が救われて生きるようになったのだ。それは、新しい人の誕生で、無から有を呼びだす神の業だった。だから、あまり自分にこだわってはいけない。聖書に書いてあることをそのまま受け入れ信じよう。神の御言葉が創造的であることを理解し、救いは自分の努力ではなく、神の恵みであり、外からの救いであることを覚えよう。聖霊は、あなたのために救いを完成させようと休みなく働いておられる。だから、肉の生活をやめて、霊の生活をはじめよう。それは、神の恵みを理解する信仰だけで成立する世界であり、新しい人だけが留まれる場なのだ。この不思議を味わってみよう。(サクマ)

 

10月29日(水)

ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。

ガラテヤ3:1

 

 

恵の世界はすでに開かれているのに、その外側に留まる人たちがいます。あなたはどうでしょうか。毎日が恵みの世界になっているでしょうか。恵みの世界とはキリストが十字架におかかりになったところから始まっています。それは、クリスチャンの目の前にずーっと置かれ続けるものなのです。どうしてかといえば、それまで人間はユダヤ人のように律法の行いで義と認められると思っていたのです。ところが、律法を守り行うことが困難であることに問題がありました。つまり、人間は自分を正しい者にするために努力しても到達できないのです。自分の力で義とすることができないのなら、自分の内には希望がありません。しかし、福音はイエス・キリストを信じることによって、義となることを教えました。それは、だれでも、信じることだけでよいのですから、恵みというのです。こうして、福音を聞いた人でイエスを主と受入れ、信じた人たちはクリスチャンになりました。それなのに、恵みではなく、自力で神に義と認められるように頑張る人たちが出てきたのです。これはどうしたことでしょう。彼らにはイエス・キリストが十字架におかかりになっている姿が見えていないのでしょうか。御子イエスが犠牲になる以外に罪人の救いはなかったのですから、この主の十字架によらない生き方はできないはずです。しかし、人間的な権威や圧力に簡単にガラテヤの人たちは負けて行きました。今日も、権威ある人が聖書に書いてある聖霊の真理を公然と否定することがあります。それに対して、個々のクリスチャンは自分が何によって救われ、恵みの中に移されているのか、表明しなければなりません。信仰が試されるのです。不思議なことですが、イエスの十字架の後にイエスの弟子であることを選び続けた人たちはたったの120人でした。イエスに病気をいやしていただいたり、悪霊から解放していただいた大勢の群衆はどこへ行ったのでしょうか。今の時代も同じです。振るわれて、残る者は少数でしょう。その人たちだけが天国へ行くのです。その人たちはキリストの十字架の姿を決して忘れないのです。そこに原点があり、そこに愛を見出しているのです。その愛に応えて生きようと決心しているのです。恵みはいつでもあなたのものです、・・・信じるならばですが。(佐久間)

 

10月30日(木)

この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。・・・・。恐れてはならない。気落ちしてはならない。主はあなたがたとともにいる。

Ⅱ歴代誌20:17

 

人生に戦いは避けることのできない出来事です。勿論、文字通りに戦争をするというわけではありません。ただ、時には戦争状態だ!と言いたくなる状況に陥ることもあるのです。罪人は自己中心が特徴だと言われますが、そのような人間がこの社会にはたくさんいるのですから、人間関係の中で戦いが起こることは必然なのかもしれません。もっとも、私は平和主義なので戦いは好みません。きっと、クリスチャンの多くはそう思っているのではないでしょうか。クリスチャンの戦い方は、信仰により主が戦ってくださる戦いです。今日の聖句はそのように書いてありませんか。あなたを苦しめる者がいたとしても、「あなたが戦うのではない」と主は諭します。私たちは、弱そうに見えますが、信仰は何よりも強いものなので負けるはずがありません。あなたは信仰を現さなければなりませんが、「しっかり立って動かずにいよ」という聖句の通りに、主が勝利してくださることを確信して、おどおどしたり、びくびくしていてはいけません。ただ、しっかり立っていることです。つまり、主がどのように勝利されるかを見届けるのです。「恐れてはならない。気落ちしてはならない。主はあなたがたとともにいる。」この約束は絶対確実です。ですから、気持ちをしっかり保って、もう勝利したかのように良いイメージを心に作っていきます。あなたが悩んでいたことが嘘のようにきれいに消え去り、圧倒的な勝利と問題解決が実現するのです。主にハレルヤと讃美しましょう。あなたは、どんな時にも主によって救われるのですから。(佐久間)

 

10月31日(金)

イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

ヨハネ8:11,12

 

人は主イエス・キリストに救われるまで暗闇の中を歩いてきたのです。どんなに優秀な人でも暗闇から逃れることはできません。しかし、暗闇の中を歩む生き方とはどんなことを意味しているのでしょう。それは、「自分はダメだ」とか「自分は劣っている」だとか、「自分は赦されるべきではない」といった、自己を否定するようなことを決して手放さない生き方です。コンプレックスというような言葉では言い切れない深刻なもので、イエスはそれを「暗闇の中を歩くのをやめなさい」というような言い方で諭しているのです。自分を否定するものだから決して幸せにならない生き方といえばよいでしょうか。そのような方がイエスに出会うなら、今日の聖句のようにキリストは罪から解放してくださるでしょう。これからは、キリストが命の光となって、心を明るく灯します。それで、私たちも心が変わり、人生が変わってきたのです。それなのに、また過去の私に戻ろうとするような否定的な心を主は戒めています。「これからは、もう罪を犯してはならない。」そうです、あなたを否定する考え方はやめなければなりません。あなたの内にはすでに命の光が灯っているのです。それは、あなたが主のご命令を守って、イエスに従っているからです。神を信じるのなら、神はあなたを愛して、あなたをすばらしく創造されたと信じるべきではないですか。あなたが信じた通りになりますように。(佐久間)