2014年11月

11月1日(土)

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

エフェソ5:1-2

 

大切なことを確かめてみましょう。「あなたがたは神に愛されている子供です」。信じていますか。事実、神に愛されている子供ですか。もし、あいまいであるのなら、聖書をよく学ぶ必要があります。御言葉は真理です。ですから、聖書に書かれたことを信じるのは正しいのです。それで、あなたがどのように自分のことを思ってもいいのですが、信仰によって生きると決めているのなら、聖書に従うべきです。そうであれば、あなたは、「あなたがたは神に愛されている子供です」。なんと素晴らしいことでしょう。それなのにこの世の子供のように生きていませんか。過去に縛られていませんか。それで、現状に満足していないなら、不平不満があるのなら、あなたは信じることが間違っているのではないですか。あなたは、「神に愛されている子供です」。だから、この世を超越して幸せに生きることができます。この世の常識が自分を不幸にすることはできません。あなたにとって、この世の力は無力なのです。さて、生き方を変えて、「神に愛されている子供」として生きることを決めたなら、信じることから始めてください。そのためには心にイメージを作る必要がありますが、それが聖書では、イエスのように、というように書いてあります。それも、キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも愛によって生きればいいと、教えています。その愛は、自己犠牲の愛でしたが、ここでは、「御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」と書かれてあります。つまり、ここまで徹底した愛で生きることが、神の子どもの姿だというのです。愛に生きることを考えてみましょう。「無理、無理」という前に、まずイエスがあなたをどうやって愛してくださったか、考えてみましょう。その愛がわかれば、その愛に応えるだけだと気がつきます。聖霊はあなたを助けてくださいます。心配することはありません。神への香り良き献げ物であるキリストに倣うことができるように聖霊が導いてくださいます。不思議が待っています。(佐久間)

 

11月2日(日)

わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。

詩編62:8-9

 

若い頃は、人は努力するから報われると思っていた。しかし、実際は努力しても報われない人のほうが多いかもしれない。努力だけでなく才能や知性、あるいは富や力、さまざまな人間的な資源があっても、それだけで成功したり、大きな業績や名声あるいは富を残すわけではない。聖書をみると、名も無き人が神に祝福されて他の人とはくらべものにならないほど繁栄する話がいくつも出てくる。例えば、ダビデのように民の中でもっとも小さな貧しい者がやがて偉大な王となる、というような話だ。人にはそれぞれ役割がある。もちろん、神がわりふった良い役割だ。それが何かは知らされていない。それで、自分が何になればよいのか悩むことになる。貧しければ職業を選ぶことはできないだろうが、豊かであれば自由に選べる気がするものだ。しかし、豊かであれば、子供時代から働かないので働くことが分からない者も出てくる。農業社会では、皆が農民だったので他に考える必要がなかった。それが産業革命が起こり、農民の多くが工場で働く労働者になった。それから今のような情報社会に変化してきた。その中で人間は阻害されていると感じ続けてきたのだ。どんどん社会が変化していくのについていけないからだ。一人の人間の社会で働き始めてから引退するまでの間に変化してしまうので、加齢と共についていけなくなる。それはプライドを著しく傷つけることになる。このような世界で、当然人間関係で問題が発生して行くことは明らかだ。それを相談したり解決する指導を受けるような仕組みが無いのだ。そのような状況で、今日の聖句は光明となるだろう。人は、神との関係で人生をみていくべきものなのだ。「わたしの救いと栄えは神にかかっている」。このことをゆめゆめ忘れてはならない。(サクマ)

 

11月3日(月)

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

エフェソ2:8-9

 

クリスチャンになりたての頃、友達や父親をなんとか説得してクリスチャンにしようとしたことがありました。それはまったく、うまくいかずにがっかりしたものです。それでも、誰かをキリストへ導きたいと思っていましたが、だんだん消極的になって行きました。教会の伝道講演会では、チラシを配ったり街頭で通行人に声をかけたりしましたが、人を救う働きは牧師の仕事と思っていたかもしれません。全日本青年大会では、ミュージカル伝道を考えて実行したりしましたが、誰もキリストへ導くことができませんでした。結局、自分が牧師になるまで一人もバプテスマに導けなかったのです。何がいけなかったかと言えば、自分の言葉や努力で人を説得しようとしていたからだと思います。牧師になった一年目に9人の人が救われました。それは、聖書研究をしたからです。御言葉に力があったのです。まだまだ未熟で知識も乏しかったのに、人がどんどん救われていったのは、聖書の御言葉に驚くほどの力があって、人は改心しイエス・キリストを個人的な救い主として信じるのです。救われた人が何か修行をしたり、善行を積んだり、特別聖人のような良い人だったというようなことはありませんでした。普通の人が恵みで信仰により救われたのです。このことを覚えましょう。あなたにも聖書研究を授けることができます。やってみればわかります。聖霊が助けてくださるのです。あなたがたくさん良いことを語らなくてもいいのです。ただ、聖書にこう書いてあると御言葉を示せばいいのです。それだけです。試してみる価値はありますよ。ぜひ、神様に誰かに御言葉を語るチャンスを願い求めてみましょう。心配することはありません。人が救われるのを目の前で経験できるのです。どんなに感動するかわかりますか。あなたにもできます。やるきになってきましたか。きっと成功します。(さくま)

 

11月4日(火)

彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。

ルカ24:31

 

「クリスチャンになっただけで足りるか」と問われれば、「いえ、それだけでは足りません」と答えるしかありません。洗礼を受けた後の喜びや情熱も時の経過と共に冷めて行きます。そして、何かが足りないと思いながらも、それが何かはなかなかわからないのです。聖書を読み、定期的に礼拝に出席しても、昔の自分との違いがよくわからなかったりします。洗礼を受けた時のような霊的な喜びをもう一度味わいたいのに、なかなかそうはならないのです。そこで、なんとかしなければと何かすればまだ良いのですが、こんなものだろうとあきらめる人もいるのです。では、どうすればいいのでしょう。多くの場合、クリスチャンは主の取り扱いの中で目が開かれて行きます。それはたいてい試練です。あるいは、飢え渇きを覚えることです。これではいけないと心が叫んでいる時に、熱心に主に向かうならば、聖霊が働き始めます。初めは外側から働きます。それで、大切なことは「救いは聞くことから」という言葉の通りだということです。キリスト教会史に名を残した偉大な聖人たちは、真理を聴いていた時に目が開かれたという経験を証ししています。実は、目が開かれないとイエスが目の前にいてもわからないのです。その状態は、この世の罪人とかわりありません。クリスチャンは霊的覚醒が必要です。それは、もっぱら神の御力によることですが、その御力を受けるために聖霊はあらかじめ働いて霊的足りなさを自覚させるのです。そして真理に耳を傾けるように導かれます。求めれば与えられ、探せば見つける、この単純な神の約束も信じて実行しなければ何も起こりません。「イエス様がおられれば、それで十分」という信仰に達することができれば、この世に負けることはありません。そして、その信仰に至るには、「目が開けて、それがイエスであることがわかった」ということを経験できるように求めるしかありません。あなたの目が開かれますように。(佐久間)

 

 11月5日(水)

愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。

Ⅰヨハネ3:21-23

 

「神に願うことは何でもかなえられます」・・・この真理は重要です。クリスチャンが何もであるかがわかるからです。キリストが2000年前に到来した時に、新しい掟を残されました。それが十戒ではなく、たった一つだけの掟だったのです。それは、互いに愛しあう、というものでした。これがどれほど重要であるかは、あまり理解されていないかもしれません。というのも、「互いに愛しあう」という新しい掟は、ヒューマニズムにとらえられてしまい、人間的に互いに愛し合うという理解にとどまってしまっている傾向があります。互いに愛し合うというのは、「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(3:18)と聖書に書かれている通り、掛け声だけではだめなのです。この18節の御言葉の通りに信仰生活をおくっているならば、「真理に属している」こととなり、神に御前に安心できるというのです。そして、今日の御言葉に続くのです。「神に願うことは何でもかなう」のは、「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです」。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」。また、5章3節では、「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」とあります。神を愛すること、兄弟姉妹を互いに愛すること、このことに尽きるのです。神の神秘について語っているのです。人間的な説明をしているのではありません。信仰者が求める大切なことに「神を知る」ということがありますが、2章3節には、「神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」。また、「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(4:12)。どうですか、ここで出て来る愛は神の愛をあらわすアガペーが使われています。律法は神の愛が全うされることを意味しています。ですから、ここで出てきた聖句だけでも、クリスチャンは罪がキリストによって贖われ、神の霊を分け与えられたもので、神の内にとどまり、神も私たちの内にとどまってくださる。そして、神は愛なので、神を知るとは愛を知るということになるから、律法の要求を満たすことができる。昔、ユダヤ人が失敗したように律法という箇条書きの文字ではなく、律法の本質である神の愛を知るので、キリストの与えた新しい掟「互いに愛し合う」という一事に努めれば、神に願うことは何でもかなえられる。クリスチャンは、「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」を守っているかどうかで、はかられることになります。自分の力ではとうていできませんが、聖霊を送っていただき、内住しているのなら可能です。この部分を抜きにしては、クリスチャンとして完成していくことはありません。ただ、説明しても理解できないかもしれませが、このような聖書に記された通りにすすんでいくことになります。(佐久間)

 

11月6日(木)

あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。

ルカ11:34-36

 

「目は心の窓」、とか「目は口ほどにものを言う」といった言葉を聞いたことがあるだろうが、聖書にも「目は体のともし火」と「目」について書いてある。しかも、イエスがお語りになったのだから特に注意しなければならない。物事の本質が見える、善悪が正しく見分けられる、人の心を思いやる事ができる、精神が正しく健全である、これらはみな「目が澄んでいれば」というイエスがお語りになった言葉の意味となる。私が気にすることはクリスチャンの中に光が消えていないかということだ。今日の聖句にもそのことが語られている。イエスは、「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と命じている。同じような御言葉がⅠテサロニケ5:19に書かれている。「御霊を消してはいけない」。つまり、クリスチャンの信仰生活において、聖霊の光を消すことがある、ということになります。それは、Ⅰヨハネ1:5から読むと、「神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」と書いてある。つまり、内住する聖霊と交わりをもって生きるなら、目が澄んでいるので、見通せるが、闇を選べば光は消え、全身が暗くなるというのだ。だから、点検してみるようにと命じられている。イエスを信じて、聖霊との交わりを常とし、御言葉を学び、神との祈りを絶やさず、いつも喜び、すべてのことを感謝する生き方が身についているかどうか、すぐにチェックしてみよう。(サクマ)

 

11月7日(金)

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

ヨハネ15:11

 

キリストの愛の中にとどまること、そのことを話したのです。それが、喜びがどんなときにもある秘訣なのです。この世にどうして生まれてきたのか、なぜこのような環境で試練ばかりが続くのか、自分はやっぱりついていない、皆に嫌われている、と嘆くことを聞くことは珍しくありません。しかし、今日の御言葉を良く理解すれば、イエスの喜びがあなたの内にあり、あなたの喜びが満たされるために話したのだよ、とイエスはお語りになっています。だから、ここで御言葉を悟った人は、災いの真っただ中でもその喜びを発見することがあるのです。喜ぶことがなければ喜べないのはあたりまでしょうが、水と霊から新しく生まれた人には不思議なことに、自分の内側から喜びが起こるのです。だから、悲観的に考えることをやめることになります。主の喜びが自分の内に確かにある、そうなりたい人は、キリストの愛の中にとどまる、ということを真剣に考え、御言葉を読み、祈り、求め、信じなければなりません。主は生きておられるので、主とあなたは「我と汝」という人格的な交わりができるのです。そうやって、イエスの御言葉を読んでみましょう。そして、話しかけてみましょう。イエスの愛がきっとわかるはずです。(佐久間)

 

11月8日(土)

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

ヨハネ8:12

 

イエスに従うこと、これだけでどれだけ人は幸いを得ることだろう。幸福の秘訣は何かと聞かれれば、この御言葉を教えたい。イエスを信じるということは、従うことを意味する。イエスは世の光だから、暗闇の中を歩くことがないというのは当然のことなのだ。暗闇というのは、心にやましいことや不正、悪意といった、罪を生かすことを意味する。恥ずかしいことも闇のなかでは平気でいられるのだ。この暗闇を通して悪霊は攻撃をしたり、だましたり、罠をしかけたりしてくるのだ。心の中が光で照らされると罪や汚れが見えてしまう。自己正当化することができないし、自己中心が見えてしまうので、とても辛くなる。だから、悔い改めることになる。それが、清めにまで進むので、とても元気になる。心は見えないのでどうしても抽象的な説明になってしまうが、自分に自信が持てない人、劣等感から抜け出せない人、悲観的な人、罪に苦しむ人、何をやっても上手くいかない人、すぐに否定的な言葉が出てしまう人、これらの人々は、暗闇の中を歩んでいるのです。それで、困っているのですが、どうしていいか分からなくなっています。それがクリスチャンであれば、神を見失っています。暗闇の中では悪魔の声と神の声の区別がつきません。ですからもう一度、イエスの御声を聞いてください。今日の聖句を読んで考えましょう。イエスを信じることは決心することなのです。イエスに従うというのなら、徹底的にしなければなりません。それで、初めて知ることがあるのです。イエスに従うことは、楽しいことです。生まれ変わることができるのです。人生を祝福に変える秘訣なのです。イエスを信じるなら、肯定的に信じることも容易くなります。光に満たされ、命の光をもった人になるのです。(サクマ)

 

11月9日(日)

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

イザヤ40:28-31

 

あなたの信じた神は、人間の想像をはるかに超えたお方です。世界中のすべてのものを造られた神です。神はあなたを助けるのに疲れたのでできないということがありません。神を理解しようとしてもあまりに壮大でその英知は究めがたいのです。あなたが疲れたとため息をつくならば、主は力を与えてくださいます。この世の荒波にもまれ、落ち込み勢いを失っているならば、大きな力を与えてくださいます。すばらしいことに、あなたは神を信じる人です。ですから、天から新たな力を得ることが出来ます。あなたは弱り果てても、何もかもうまくいかずに、自信を無くすようなことがあったとしても、イエス・キリストを信じる信仰で、鷲のように翼を張って大空を上ることができるのです。人間の力で努力したり、頑張った時には、弱り、疲れてしまったのに、主にゆだね、自分を明け渡し、主の御言葉を信じるので、「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」のです。あなたの神を小さくしないでください。神があなたを愛しているとおっしゃったのなら、何を思い煩う必要があるでしょうか。本当に神に愛されていると信じることです。それだけでいいのです。(佐久間)

 

11月10日(月)

主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

詩編37:4

 

あなたは自動車を運転するだろうか。運転できる人が助手席に座り、誰かの運転に身を任せることはそれなりの覚悟がいるものだ。ブレーキをかけるタイミングが微妙に違うので、思わず床に足を踏ん張ってしまうことだってある。平静を装っていても、心の中はハラハラしていることだってあるものだ。人は自分の思い通りに運転したいのだ。だからといって自分で運転すれば、割り込んでくる車もあれば、乱暴な運転をするドライバーにヒヤリとさせられることもあるし、疲れる。渋滞にはまればイライラするだろう。主に自らをゆだねるというのは、運転をイエスに任せるようなことだ。ドライバーがハンドルを握るわけだから、助手席に座る者は、すべてをゆだねることになる。今日の聖句は、別の訳では、「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」となり、「主に自らをゆだねよ」というところが「主をおのれの喜びとせよ」となっている。だから、ゆだねるということが主のはからいを喜ぶ、つまり積極的に主にまかせ、主が私のためにしてくださることを全て受入れて喜びとする、という意味になる。そのような信仰であれば、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」というのだ。あなたは、どうだろうか。少し、このことを考えてみてはいかだろう。(サクマ)

 

11月11日(火)

わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」と王に言っていたからである。そのためにわたしたちは断食してわたしたちの神に祈り、祈りは聞き入れられた。

エズラ8:22-23

 

私たちの人生の旅路は、誰によって守られていると思いますか。そうです、神様によって守られているのです。ハレルヤ!ですからその守りは鉄壁です。いかなる強敵も困難も、なんのそのです。聖書を開くとエズラ記に危険に満ちた旅の間、王に願って歩兵や騎兵で護衛してもらえたのに、王に頼むことを恥として、神に保護を求めたことが書かれています。つまり、とても危険な長い旅路をなんと護衛もつけずに行くことにしたのです。そのために断食して祈りました。その結果「祈りは聞き入れられた」のです。皆さんは、自分の信仰を表明して生きているはずです。消極的か積極的かは違いがあっても自分がクリスチャンであると胸や背中にプリントしているのです。甲子園球場で大きな伝道集会が開かれた時に、私も歴史に残る大会に行ってみたいと思いましたが、東京にいたので任地を離れることができませんでした。ところが神様の不思議な導きで、神戸で行われる修養会の講師に招かれたのです。それがちょうど日程が重なっていて、修養会が終わった後で甲子園へ行くことができました。駅から甲子園球場へと歩いていくと、ハンドスピーカーを抱えた人が何か叫んでいるのが見えました。何と言っているのだろうと耳をそばだてると、「この中に牧師さんはいませんか」と言っていたのです。「ゲッ!どうしよう。いや、きっと主催者の関係の牧師を探しているのだろう」と知らん顔をしていました。ところが、大勢の人が球場へと向かっているのですがその中からその人は私を見つけ、まっすぐに私の方へ向かってきたのです。そして、とうとう私の目の前に立ち、「牧師さんですね」と声をかけられたました。「そ、そうです!」と驚いて言うと、「いや、一目見てすぐにわかりました」とその人はいうのです。それで、その場で拉致されて、その日のスタッフとして奉仕させらることになりました。それにしてもどうして分かってしまったのでしょう。そうゆう時には、きっとマンガのように上から矢印が出てきて、この人です!って見えてしまうのでしょうか。それとも、わたしの頭が光っていたのでしょうか。その時には髪はまだふさふさでしたが・・・。さて、みなさんもクリスチャンなのできっと助けを必要とする人は見分けるだろうし、神様が働いておられるので助けを求める人がみなさんのお顔を思い出すはずです。ですから、あなただけに魂の話をするはずです。でも、自分のことばかり考えていると、そのような事は起こりません。イエス様の生き方を思い出しましょう。今日のポイントは、人生の旅路は危険がいっぱいなので、普通の人たちはいろいろな方法で身を守っていますが、クリスチャンはそのような方法は使いません。祈って、時には断食して、神様に信頼を置き、守っていただいているのです。ありがたいですね。(さくま)

 

11月12日(水)

それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」

ヤコブ4:5-6

 

クリスチャンになりたての頃に、謙遜という言葉をよく聞いた覚えがあります。実際、クリスチャンが謙遜を求められていることは真実です。今日のヤコブ書を読めば、もっと切実なことも分かってきます。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」と書いてあるからです。神様があなたを愛しているといわれれば、それは徹底しているのです。人間のように気分しだいということはないし、途中であきてしまうということもありません。驚くことは、あなたの内の聖霊にすら、「ねたむほどに深く愛しておられ」るというのです。もし、すこしでもそのことが実感できればいいのですが、信仰が深まらなければそれも容易ではないのです。それに、神様はただ愛していると言っているわけではありません。「もっと豊かな恵みをくださる」と約束されているのです。しかし、貪欲な者に恵みを授けることはできません。罪に堕落させてしまうからです。信仰生活も慣れてくると、聖書も教会生活も、キリスト教そのものも自分は良く知っているという気持ちになるかもしれません。確かに初心者の頃に比べれば随分知識も増し、経験も積み、だいぶ信仰に成長したような気になるものです。でも、それは気を付けるようにと危険を告げる警報が鳴っているようなものです。クリスチャンは、罪の温床である肉を十字架につけて、体の働きを聖霊によって殺してしまうようにと導かれている存在です。ですから、イエス様のお言葉を信仰によって守れば、古い自分に死んでいくことになります。それが謙遜を生みだしているのです。もっとも、死ねば生きるという真理もあります。古い人が死に、新しい人が生きる、というわけです。この延長線上に聖なる者となる、完全な者となる、という御言葉の成就があるのです。また、謙遜であれば、聖霊の実が結んで、キリストのご品性が現れくるようになります。信仰によって生きる決心をすれば、謙遜が自然とついてくることになるのです。(さくま)

 

11月13日(木)

主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

詩編25:4-5

 

今朝、メガネが無くなり大騒ぎをしました。朝、パソコンに向かい、仕事をしていた時には確かにメガネはあったのです。階下に用があって降りて行ったところで気がつくとメガネがどこにいってしまったかわからなくなりました。先週から、スクエアー・バイブル・カレッジの冬学期のために授業の準備を始めていたのですが、クラスの内容がいつも難しくなっているのではないかと気にしていたので、今回はどのようにクラスを用意するかで迷いに迷って、「キリスト教信仰概説」というクラスの準備を始めてみたのですが、これはきっと難しいと思って挫折する人が出るかもしれないのでやめることにしました。その前は、「パウロの福音理解」というクラスですが、これもオタクのようなクラスかもしれないと、やめて、持っている資料やクラスノートをみたり、すべての蔵書を調べたり、易しい面白いクラスとは何かと、完全に煮詰まってしまったのが、今朝でした。朝もベッドでいつもより早く目覚め、机に向かいました。それで、祈ったのです。示されたのは、イエス様が「あなたの網を反対側に投げなさい!」という御言葉でした。つまり、こうゆうことです。あなたのはじめた教会も聖書学校も、みな私のもので、あなたのものではない、ということでした。「あなたのやり方でなく、私のやり方でやってみなさい」ということです。それで、メガネが取り上げられて、本や資料を勝手に読まないようにされたのです。夜まで、いくら探しても、祈ってもメガネは出てこなかったのです。ようやく、夜遅くに家内が本棚の下に落ちていたと見つけてくれました。えっ!なんでそんなところに?と驚きましたが、神様のおっしゃりたいことはわかりました。私たちは、今日の詩編のように祈るべきなのですね。ついつい、自分の思い通りになんでもやってしまい、神様の御心を聞くのを忘れてしまうのです。「主よ、・・あなたに従う道を教えてください」と祈りましょう。神様はいつでもあなたのために最善を尽くしてくださいます。不調になったら、神様のものですら自分のものだと言い張って、勝手に生きていないか、振り返る必要があるということです。それにしても、メガネがみつかってよかったです。きっとディボーションを書くためにメガネを返してくださったのですね。皆様もくれぐれもお気を付けください。(さくま) 

 

11月14日(金)

あなたたちは一人で千人を追い払える。あなたたちの神、主が約束されたとおり御自らあなたたちのために戦ってくださるからである。だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。

ヨシュア記23:10-11

 

人生はあっという間に過ぎて行くものです。気づけばヨシュアも月日を重ね老人となったのです。それで、はじめて語れることもあるのですね。振り返れば実にいろいろなことをしてきたのですが、それは私たちも同じです。苦労もあったし、未熟で失敗したことだってあります。自分の欠点を克服すのにはとても多くの時間が必要だったでしょうし、神様の秩序の中に生きるすべが分かればいいのですが、それまでは癖のある生き方をして、損なことをたくさん経験することになったのです。それでも、あなたは神様に選ばれていたので、ちょうど良いタイミングで神様に出会えたのです。あなたには選択する権利が与えられていたので、自分で神様を信じる決心をしました。洗礼を受けるという大きな経験をされたのです。それで、新しく生まれ変わったのですが、今日の御言葉を読むと驚きですね。「あなたたちは一人で千人を追い払える」と書いてあるからです。普通こうゆうのを無敵というのでしょうね。そのような力があれば、人生は困難であるはずがありません。この力に気づかなければ、弱い自分がいつまでも居座って、心を悩まし続けているのでしょうが、いいかげん気づかなければいけません。この力は秘密があって、その種明かしが御言葉にはっきり書いてあります。「あなたたちの神、主が約束されたとおり御自らあなたたちのために戦ってくださるからである」と。なんてありがたいことでしょう。良く考えてみてください。あなたを悩ます敵はいったい何人いますか。千人はいないのではないですか。それならば何を恐れる必要があるでしょう。ヨシュアがそうであったように、勇気ある者となってください。勇気があれば、決して人を恐れることはありません。そこには神様への圧倒的な信頼があります。そして、そのような人は、神様のそばに近づくことができるのです。モーセがシナイ山で十戒の石板を主からいただいた時にも、民は全員山にも近づけなかったのにヨシュアは山にいたのです。神様と共に戦い、この地を勝ち取ることが私たちの使命ですから、遅れをとってはいけないのです。ここまであなたを信頼し愛を惜しまない主へあなたは何をするでしょうか。聖書は、「心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい」と命じています。この御言葉の通りになりますように。(さくま)

 

11月15日(土)

そこでマノアは主の御使いに、「お名前は何とおっしゃいますか。お言葉のとおりになりましたなら、あなたをおもてなししたいのです」と言った。主の御使いは、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えた。

士師記13:17-18

 

聖書には実に面白い話が多く書かれています。その中でも出色なのがサムソンの話しです。実に面白いのですが、そのサムソンも不妊の女から生まれています。その婦人のもとへ御使いが現れ、「身ごもって男の子を産むであろう」と告げます。そして、母の胎にいる時から聖別されたナジル人であることが明かされます。それは、「彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」という預言でもあったのです。今日の聖句は、その時に、夫が主の御使いであることがわからずに名を聞いた場面です。その答えが面白いのです。「不思議と言う」と答えたからです。さて、私たちは神様を時々小さな神様にしていることがあります。しかし、神様はとても大きな存在なのです。それで、私たちは神様がなさることをはかりかねて「不思議をなす」と驚くわけです。ですから、自分の身に起こる事でいちいち不満を言ったり、文句を言うのは賢明ではないのです。たとえそれが大変な試練に襲われたような時にでも主を信頼しなければなりません。現代でも不妊症の方々は決して少なくありませんが、そのことにも何かしら神様の意図があるはずです。ですから、あるがままに生きる方が賢明なのです。神様が不思議をなすお方であることは、今日の聖句ではっきりわかります。主の命令を受けて、御使いが急いで地球に飛んでくる時になそうとしていることが不思議であるということですから、クリスチャンは自分の人生にも主の不思議が起こると期待してよいのです。今、自信を失っている方がいたら、自分のうちに既にすばらしい力が隠されていることを覚えてください。そして、信仰を現せば、主は不思議を行ってくださるでしょう。まずは、自分に自信を復活させることです。神様がお造りになる時に失敗することは決してありません。神様は人を創造された時にも最高傑作を造られました、ですから基本的にあなたも最高傑作なのです。それが自信を失って、あるいは自分を嫌って、内なる力を出せないでいるならば、損な話です。静まって神様に祈りましょう。自分にも不思議を起こしてくださいと。最悪な時にこそ、不思議がやってきて最高のことを起こすという実例を聖書はハッキリ書いてありますよ。あなたを生かして、主は失われて行く魂を救いたいのではないでしょうか。できないと否定的な言葉を使わないで、主の御心ならなんでもできると言った方が聖書的ですね。それに、あなたの生活はどんどん良くなるはずです。主は大いなるお方です。偉大な主を信じるて最高の人生を実現してください。(さくま)

 

11月16日(日)

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

マタイ6:8

 

神様にどうしてもお願いしなければならないことが人生にはあるものですね。その時に、この御言葉を思い出して欲しいのです。天の父は、あなたのことをいつでも見ていてくださるのです。ですから、何が必要かご存じです。それならば、祈る前にどんどん必要を満たしてくれればいいのに、と思うかもしれませんね。でも、それでは賢明な父とは言い難いのです。人間の親でも子どものために過保護になってはいけないことを知っています。人間にとって一番大切な自由意志が関わってきます。神様になんでも自由に祈れるのですが、高きにいます聖なるお方ですので畏敬の念をもって砕けた魂を献さげるべきお方でもあるのです。それゆえに、祈る時に考えなければならなりません。その上、自分の信仰の大きさも反映されることになります。自分の信仰以上には祈れないという事です。また、よく考えないで思いつくままにお願いする人もいますが、それらはたいていその人の益にならないか、害になる事すら祈ってしまうリスクがあります。聖書を学んだり、礼拝を献げ、信仰生活を大切にするのは、神様の御心にかなう生き方を求めているからで、それは必ず祝福されていくでしょう。信仰は、困った時にも主は願う前から必要なものをご存じだから、安心して祈ろうと思わせます。あせって言葉を出す必要はありません。うまく祈れないのなら、内住の聖霊が代わりに執成して祈ってくださいます。だから、クリスチャンはうまく生きていけるのです。将来のことは誰にもわかりませんが、過ぎたことを振り返れば、驚くほどの祝福と助けがあったことを発見できます。ですから、今まで大きな危機も奇跡的に乗り越えてきたのです。自分の主への信頼を込めて、必要を言葉にして今日も祈ってみましょう。祈りは叶うものです。(さくま)

 

11月17日(月)

今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。

ルカ6:21

 

笑うことは人間にとってとても良いことです。いつも笑って過ごせればどんなにいいでしょう。しかし、笑いたくても笑えない時だってあるものです。ところで、今日の御言葉はイエス様のお約束です。良い言葉ですよね。今、とても不安なことや大変なことで悩んでいる人は、思いつめてしまうと否定的な考えに縛られてしまいます。かといって急に肯定的に物事を考えたり、見たりすることは結構難しいことなので無理しなければなりません。でも、イエス様は今泣いている人に、「幸いである」と言われました。それどころか、「笑うようになる」とさえおっしゃったのです。この約束は確かです。ですから、心配することはないですね。天のお父様は地上の子供たちが泣いているのを見過ごしにはされないのです。そして、その問題を最も賢明に解決されるのも神様なのです。クリスチャンのすることは、自分の思いを全て祈り、神様の解決にゆだねることです。なにしろそれしかできないのですから。でも、その時に信仰が試されています。主への信頼で心が平安になれば大丈夫です。やがて笑うようになるからです。そう断言できるのは、多くのクリスチャンがこの御言葉を実際に経験したからです。もう一度、御言葉を唱えてみましょう。(さくま)

 

11月18日(火)

あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

ルカ6:36

 

さて、今日与えられた御言葉を考えてみましょう。あなたは、この御言葉をどうとらえましたか。ここでも、神との対比で考えられています。まず、「あなたがたの父が憐れみ深いように・・・」となっています。そうであると、父が憐れみ深いとはどのようなことか知らなければなりません。それと同じようにあなたも憐み深い者となるようにというのですから、知らないでは、はじまりません。知らないことをするわけにはいきませんよね。でも、クリスチャンは天の父の憐みによって救われているのですから、憐みを知っているはずです。それで、今日の御言葉が書かれた意味がわかります。知らなければ、命じられないはずです。憐みを知っているからこそ、命じられたのです。では、ちゃんと気がついていないということでしょうか。それならば、今日、父が憐み深いという意味を自分の信仰生活に見つけてみましょう。どのように憐みをかけられているのかを書き出してもいいですね。このように、立ち止まって、考えることは良いことです。そして、大切なことを発見することになるでしょう。自分中心で他人のことをいろいろ考え、詮索しても、ストレスが増すだけです。でも、憐み深い人になって、他人のことを考えると相手から違った印象を受けると思います。あなたが憐み深い人になれば、あなたに接する人たちは、心を開いてくるでしょう。そして、神が人をどのようにみているのかその一端に触れるような経験をすることでしょう。人を助けるということが、ヒューマニズムではなく、神の愛によって起こることを目の当たりに見るはずです。それに、ストレスは無く、感動と心地よさが残るでしょう。主が愛の業をなされるからです。主を愛する人は、隣人も愛するようになります。聖なる愛が深い憐みから流れることを覚えましょう。(佐久間)

 

11月19日(水)

あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人/わたしはこのような人の友となります。主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。あなたの掟をわたしに教えてください。

詩編119:63-64

 

神に忠実な者を友とするということは良いことです。正しい神への信仰態度は、畏れること、命令を守ることです。勿論、しいられてすることではありません。主への真心から起こる信仰にねざしていなければなりません。しかし、人は自分に都合よく生きたがります。ですから、友を選ぶときにその自分に都合よくという基準で選ぶと、後でトラブルが起こる危険を避けることができません。大切なことは、クリスチャンとは主の御心を求めて生きる人だということです。そのために、主への忠誠心が強いのです。しかも、主を知ることが何よりも重要なこととなるので、そのことに努めると世界が主の慈しみに満ちていることに気がつきます。そのように広い見方ができてくるので、主の創造された世界で生きる人間に与えられる掟を教えて欲しいと思うようになるのです。あなたも、信仰が成長する歩みを続けているのなら、主を知ることへと導かれているはずです。それは、信仰によって周りの世界が違って見えてくることでもあります。すべてに創造の法則が働き、主の筆あとがあるのです。ですから神の天地創造は、慈しみに満ちたものであったし、今もそれは確かめることができるのです。それ故に、創造の法則に調和して生きることを願う者は、主の掟を教えていただこうとするわけです。そうやって、主の創造秩序に被造物である人間も服して行きたいと願うようになるのです。しかし、キリストの到来によって、大きな救済の業が十字架、復活と確実に起こりました。それ故に、キリストの救いは、罪人を十字架で死なせ、キリストを信じる信仰によって義とし、水と霊から新しく生まれさせるという、驚くべき救いを実現されました。それは、とりもなおさず、信仰者を神の子へと生まれ変わらせる奇跡となったのです。(佐久間)

 

11月20日(木)

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。

ヘブル1:1-4

 

少し長い聖書箇所を読むことにしましょう。旧約聖書を読むと、多くの預言者に出会うことができます。しかし、新約の時代になるとイエス・キリストが人として現れました。これ以上の福音はありません。そもそもイエス・キリストはどのようなお方であるかということは、キリストが私たちの救い主であることから重要なこととなります。御子イエスが万物の相続者であると定まっています。この世界は御子によって創造されました。かつて主イエスが、私を見たものは父を見たのだと言われたことは本当でした。はじめて人間は神を正しく知る事ができたのです。そして、この世界は、御子イエスの力ある言葉によって支えられています。また、御子は十字架の贖いを学んだ通りに、人々の罪を清めてくださいました。その後昇天し、父なる神の右お座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた名を受け継がれて、天使たちよりも優れた者となられたのです。聖書には、私たちが知りたい事が書いてあります。あまりに古い時代にさかのぼって、アダムが創造された時にまで戻る必要があるのです。確かに創世記の初めに書かれた簡潔な言葉は、多くのことを少ない言葉ではっきりと書き残しています。よっぽどの注意がなければ読み飛ばしてしまうでしょう。そのような言葉は霊感された預言者を通して語られ、やがて書き物になりました。しかし、誰もがすの暗号のように短い文章で、すべてが分かるわけではありません。その後も多くの預言者が語り、書き残し、旧約聖書ができましたが、選ばれた民イスラエルですらうまくいきませんでした。そこで、時満ちて、イエス・キリストが人となって現れたのです。神を啓示する為に。神は愛であり、罪を憎み罰するが人を憐み救うお方であることがイエス・キリストの生涯を通して示されました。それこそが、人間に神を誤解することなく、正しく知り、そのことを通して自分を知るようにされたのです。少しずつヘブライ人への手紙を読んで行きましょう。(佐久間)

 

11月21日(金)

天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。

ヘブル1:14

 

天使は存在します。霊的なことを知る能力が著しく退化していても、今日の御言葉の通りに「救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされ」ました。しかも、「天使たちは皆、奉仕する霊で」す。聖書を読めば天使が聖徒のために遣わされて、人間と会うように会話している場面を見つけることがあります。つまり、その人たちは天使を見ているということです。しかし、天使は霊であると聖書に書いてあるので、霊的存在であると言えます。このように書けば難しく感じるでしょうが、平たく言えば、あなたのためにも天使は奉仕されるということです。しかも、多くの場合気がつかないうちに助けられていると思います。天使を見たという人たちに会ってきましたが、よく絵画に描かれているような背中に羽の生えた天使に出会ったという人もいれば、普通の人であったり、立派な身なりの紳士であったり、といろいろです。また、目には見えなかったが天使に助けられたという人もいます。家に天使が現れたと言う人もいるし、礼拝の時に講壇を見たら、両側に大きな天使が立っていたのを目撃したという人もいます。さて、あなたはどうでしょう。決して天使を見なければいけないということではないです。信仰の優劣で見えるというものでもありません。しかし、大切なことは、神が必要と認めた時には天使が助けたり、神の啓示を携えたてきたり、救われる人のために何かをしようとやってきたりする、ということです。それで、あなたは安心してほしいのです。神はあなたの救いのために、最善を尽くしておられ、その中に天使も関わっているということです。目に見えなくても必要な時には助けてくださっているのです。あなたも天使に会っているのにすっかり忘れている可能性が高いです。不思議はあるものです。(佐久間)

 

11月22日(土)

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

申命記6:4,5

 

この御言葉は、霊的イスラエルであるクリスチャンも守るべきものです。これは律法と調和しています。律法そのものです。この世で生きる時に、さまざまな誘惑に遭いますが、この御言葉を忘れずに守るならば、あなたは勝利者になれます。驚くほどの恵みを得ることができます。その恵みと豊かさの中で神を見失わないように、この御言葉を目から離してはいけません。万が一にも欲望を満たすという他の神々や偶像へ心を向けるなら、偶像は確かにあなたを滅ぼすことができない無力な木や石や金属であっても、あなたの神は熱情の神なので、怒りがあなたに向かって燃え上がります。ご注意申し上げます。しかし、あなたが真の神に忠実であなたのすべてをもって主を愛するならば、あなたは超越した世界に生きることになります。まさに信仰の世界です。そのためには、まず「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛」するということから始めてみましょう。(佐久間)

 

11月23日(日)

翌日、戦死者からはぎ取ろうとやって来たペリシテ軍は、サウルとその三人の息子がギルボア山上に倒れているのを見つけた。彼らはサウルの首を切り落とし、武具を奪った。ペリシテ全土に使者が送られ、彼らの偶像の神殿と民に戦勝が伝えられた。彼らはサウルの武具をアシュトレト神殿に納め、その遺体をベト・シャンの城壁にさらした。ギレアドのヤベシュの住民は、ペリシテ軍のサウルに対する仕打ちを聞いた。戦士たちは皆立って、夜通し歩き、サウルとその息子たちの遺体をベト・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに持ち帰って火葬に付し、彼らの骨を拾ってヤベシュのぎょりゅうの木の下に葬り、七日間、断食した。

サムエル記上30:8-13

 

 

場面は、激戦のあった次の日の戦場に死人から金目のものをとろうとしてやってきたペリシテの兵隊が、敵であるイスラエルの王と三人の王子が戦死しているのを発見するところから始まります。旧約学者の左近淑先生が息子さんと映画「地獄の黙示録」を見た時の話しをされたことがありました。その映画で戦場に累々と死体が放置されている場所に兵隊がやってきて、死者から金品を盗む場面が出てくるのです。それを見た時にサムエル記の今日の御言葉と同じだと思った、とおっしゃっていました。ペリシテの兵隊たちは、敵の王様と王子たちを卑しめ、遺体を城壁にさらしものにします。さて、この話しを聞いて「遺体を取り返そう」と思った人たちがいました。昔(サムエル記上11章)、サウルに助けてもらった恩があったギレアドのヤベシュの兵士たちは、すぐに決死隊をつくり、夜通し歩いて敵の城壁からみごとサウル王たちの遺体を奪回してきたのです。遺体は火葬に付し、骨をひろって葬り、七日間の断食をもって喪に服したのです。人間として正しく生きるということは、このようなことです。王が死んでしまえば、何の恩恵にもあずかれないから知らん顔することもできました。しかし、死んだために何のお返しもできないからこそ、損得勘定抜きにサウル王の遺体奪還に出かけるというヤベシュの兵士たちの心意気は素晴らしいものです。「夜通し歩き」という言葉も、まるで生きているサウル王を取り返しに急いでいるようにさえ見えます。戦死したサウル王がさらしものにされる屈辱を自分のことのように思って、一刻も早く屈辱をそそぎ、遺体を奪還して丁重に葬ることを願ったので道を急いだのです。このように、命をも顧みずにサウル王の遺体を取り戻そうとするギレアドのヤベシュの住民たちは、サウル王への恩をこのようにして返したのです。心意気で生きる男たちの姿はかっこいいですね。(佐久間)

 

11月24日(月)

ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。

ヘブル2:3,4

 

私たちがイエス・キリストを信じて救われた事は恵み以外のなにものでもありません。私たちはこの救いがどのようなものであるか、いつのまにか理解していました。個人的に牧師の話を聞いたり、聖書研究会に出てみたり、礼拝説教を聴いたり、キリスト教の書籍をいろいろ読んでみたり、クリスチャンの証しを聞いたりして、さまざまなことを通してこの救いを理解したのです。もし、本当にこの救いがわかったら、何もしないでいることはできないでしょう。この救いは主が最初に語られ、それを聞いた人々が他の人たちに伝えたのです。更に神も、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、そして霊の賜物を御心に従って分け与えることによって、証ししておられるのです。それは、神様があなたを用いてこの救いを誰かに伝えたいと思われているということです。神様が証しをすると言う場合には、理屈を述べるようなことではなくて、超自然的なことを起こすということです。あなたの証しも、実際に主が何をしてくださったかという内容になっているので、見えない神様が実在し、生きて働いておられるということがわかるのです。主は、奇跡を起こすことを躊躇しません。無神論だと公言する人も、奇跡を目の前でみれば、一変で変わります。信仰で神の奇跡が起こります。ですから、あなたに与えられた賜物も信仰を用いた時に奇跡的な力を発揮します。主が救いたいと思っている人があなたの眼の前で神はいないと思っています。そこで、あなたが心の内に祈ると、何か思いがあなたの内に起こされるでしょう。信仰をもって、なにかをしたいと思いだします。祈るのか、証しするのか、聖書の御言葉を教えるのか、手を当てて癒しを祈るのか、その人の心の声に主が自分の声を使って答えるとか、主の預言をするかもしれないし、この人が助けを求めているか、困っているか、誰にも話せずに悩んでいたりすることが、分かってしまったり、・・・とにかく、この大いなる救いを知って、何もしないなんってできるはずがありません。主に用いられるときには大胆に信仰を発揮すればいいのです。自分になんの力がなくてもいいのです。主に力があるのですから、心配する必要はありません。あえて心配がるとすれば、それは、何もしないということです。今日は、あなたにも奇跡のチャンスが与えられるよう祈ったらどうでしょうか。そうすれば、きっとスクエアー・ニュースに証しの記事を送る事ができますよ。その記事は、教会の人だけではなく、会ったこともない人にも届くでしょう。不思議ですがその証しを読む必要のある人が読むことになるのです。とにかく、主は、あなたを用いたいのです。主はあなたが大好きなので、あなたを驚かせ、喜ばせたいのです。ワクワクしながら主の御用に用いていただきましょう。(さくま)

 

11月25日(火)

愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。

エフェソ5:15-17

 

クリスチャンが気を付けることがあるとしたら、今日の聖句ははずせません。クリスチャンは堂々と明るく笑って生きていけばいいのですが、自分勝手や独りよがりになってはいけません。賢い者として、細かく気を配って生きていかなければなりません。神に仕えるように隣人にも仕えるという原則があるからです。愚か者とは、独りよがりで独断的なことをさしています。賢い者は、隣人のことを詮索しませんし、うわさ話にものりません。思いやりがあって、時にひどいことを言われても耐えています。正直なので、相手のことも良く見えます。決して人を恐れないので、ぶれることもありません。凛としています。正しいことのためには命を犠牲にすることすらあります。その覚悟をいつも持っているのです。今は悪い時代ですが、それでも賢く時を使えます。みんながやっているから、というような考え方はしません。「神の御心は何か」という事だけに心を向けています。そして、御心を悟れるように絶えず祈っているのです。それだから無分別な者にはなれません。なにしろ、私たちは主イエス・キリストの弟子なのですから。その誇りを大事に生きたいですね。(佐久間) 

 

11月26日(水)

それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

イザヤ30:18

 

福音を伝えるということは、どうしてか難しいことのように言われる傾向があります。私は牧師なので、出会う人たちは自分の抱えている問題や悩みを相談しようとするのです。それで、聖霊がその場で働かれるともっと本当に深刻な問題に目が開かれることがしばしばあります。そして、結果的にイエス・キリストを信じることがどんなに良いことか知るのです。たいていの場合、はじめの相談していた問題が解決へと導かれて行くので、キリストを信じることが確信となって行きます。一人の人が幸せの道を見つけたわけです。さて、クリスチャンの場合はどうでしょうか。今日の御言葉は、約束です。今、どのような厳しい境遇にあったとしても、主を待ち望む人には幸いがまっているのです。「主が恵みを与えようしてあなたを待」っているというのです。主が立ち上がられるというのは、いよいよ行動を開始するということです。主の憐みを期待してよいのです。もうダメと、勝手にあきらめてしまうことは感心しません。主を待ち望むと決めたら、その先の幸いをも主を信じて期待したいですね。今日も良いことがありますように。(佐久間典臣)

 

11月27日(木)

あなたの僕への御言葉を思い起こしてください。あなたはそれを待ち望ませておられます。あなたの仰せはわたしに命を得させるでしょう。苦しみの中でもそれに力づけられます。

詩編119:49,50

 

クリスチャンの特権は、神様から御言葉をいただくことができることです。方法は人によっていろいろでしょうが、神様からの御言葉があなたに届くと、あなたははっきりそれが神様から個人的に語られたとわかります。それがどれほど素晴らしいことか、たとえ打ちひしがれていてもすぐに立ち直ることができます。それどころか、喜びでいっぱいになり、困難を乗り越える力が湧いてくるのです。人の悩みは、いくらでもあります。数え切れないほどの悩みが毎日、神様のもとへ祈りとなって昇っていくでしょう。しかし、御言葉を賜れば、問題がまだ目の前にあったとしても大丈夫と確信がもてます。祝福の約束かもしれないし、何かが成就するのかもしれません。でも、たいていの場合待たなければならないのです。信仰とは忍耐して待つことだ、とまたしても思わされるのです。だから、この祈りのように、催促することだってできるのです。あなたのために、今日も主は口を開かれ、御言葉をお与えになられます。祝福を豊かにいただけますように。(さくま)

 

11月28日(金)

ああエフライム/なおも、わたしを偶像と比べるのか。彼の求めにこたえ/彼を見守るのはわたしではないか。わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。

ホセア14:9

 

クリスチャンになるということは、人間の作った組織の一員になるということではありません。神との契約の当事者になるということです。イエス・キリストを信じて救われたという事実が重要なのです。しかし、救われるまでの人生が長ければすでに「人生とは何か」を自分の中で作り上げています。それだけ、個人の歩んできた人生は大きな影響力を持っているということです。勿論、生まれつきの才能や資質というものも無視できませんが、それがうまく個人の人生で生かされていて、幸福に結びついているということは意外と少ないものです。重要なことは、本人が何を信じているかということです。聖書に出会った人は、幸いです。はじめて信じるにあたいするものを見つけたからです。それでも、古い書物でもある聖書は簡単に理解できるものではありません。信仰の成長に比例して理解されるからです。つまり、時間がかかるということです。さて、今日の聖句から学びたいことは、神を信じて生きるという事の意味です。神を偶像と比べるということは、自分の利益を求めるために神にを利用するというぐらいの意味です。偶像は、一方的に人間の側から利益を求める存在です。その代わりに、献げ物などの対価を払うわけです。しかし、聖書の神は、愛の対象なのです。裏切ることなく誠実に愛し愛され、という相手が神であるわけです。だから、対価を払うから私の願いを叶えてくれ、というのは偶像のことであって、神のことではないのです。それが証拠に、今日の聖句では、「彼の求めにこたえ/彼を見守るのはわたしではないか」とあります。神の優しさを感じますか。あなたの祈りに、主はいつだって応えてくださいます。賢明な愛と知恵のある親のように見守ってくださるのです。常緑樹の糸杉は、神の民にとって神とは何かを現しています。それは、命の木です。外的には生活のすべてを守ることですが、内的には神との関係です。そして、神によってのみ実を結ぶことを教えているのです。自分の人生を振り返って、悔い改めるべきことがまだあるならば、すぐに悔い改めることです。偶像の話しはそのことを意図しているからです。そして、自分が信じる神をこのように正しく知る事です。そうすれば、あなたの心配は消え去っていくことでしょう。(佐久間)

 

11月30日(日)

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

ヨハネ5:39-40

 

私が不思議に思っていることに、「永遠の命」を現代人が欲しがらないことです。私が子供頃は、「永遠の命」はとても価値があったものです。この世が豊かになると人は「永遠の命」を欲しがらなくなるのでしょうか。それとも、この世がだんだん、人間らしい生き方ができにくくなっているからでしょうか。教会ですら、「永遠の命」という言葉をほとんど聞かなくなってきたように思います。はたして、「永遠の命」を得ようとして聖書を学ぶ人がどれほどいるのでしょうか。現代人も決していつ死んでもいいと思っているわけではありません。げんに病院はいつも人であふれています。多くの日本人は死後の世界は無いと思っているのかもしれません。「永遠の命」がわからないので、人々はイエス・キリストのところへ来ないとも言えます。だから、今日の御言葉は意味があります。罪によって死ぬなら、人は地獄が待っているだけです。しかし、イエス・キリストを信じて罪を贖っていただければ、天国へ行けるのです。しかし、現生利益を求めているだけでは、キリストに向かうことができません。現生利益と永遠の命とどちらが真の価値があるでしょうか。前者は朽ちていくもの、後者はもちろん永遠に続くもの、どちらが真の価値かすぐにわかりますね。そして、重要なことは、「命を得るために」キリストのもとへ行くことです。そのことが正しく理解されれば、大きな恵みの中で生きることになります。(佐久間)