2014年12月

12月1日(月)

朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。

詩編90:14-15

 

神の民には、いつでも主の慈しみがあります。それは、朝毎に満ちたらせてくださるものです。彼らの祈りは、「生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」というものです。私たちの人生には苦難の時期があったかもしれません。その期間には喜びは無かったでしょう、それを主に返していただくことができます。この詩編記者はそのように祈っています。ですからあなたもこの聖句の通りに祈ってみませんか。私たちは、やはり、生きる限り喜び歌い、喜び祝う人生を生きることができるのです。朝、第一に思うことは、主の慈しみで満ち足りることです。そのようにして、素晴らしい人生を生きることが可能なのです。(佐久間)

 

12月2日(火)

この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」

黙示録7:9-10

 

救いは、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民」に及ぶのです。ヨハネが見せられた幻は、明らかに天国で救われた民が礼拝を献さげている光景です。同じ7章の前節では、イスラエルの部族の刻印を押された人数が記されていますので、救いはイスラエル人だけのように見えますが、総数が14万4千人と少ないので、黙示的な象徴数であると思われます。そして、今日の聖句を見れば明らかなように、世界中の人々が神の小羊イエスによって救われることが分かります。この世の生活だけに目をとめていると真理が見えなくなる危険があり、後で後悔することになりかねません。天国のことがよくわからないと心が向かないかもしれませんが、今日の聖句を黙想してください。白い衣は、この世でどのように生きたかの証しです。御霊の実を結んだと言うことです。つまり、キリストの品性を身につけたことを意味しています。手にしているものはお金で買ったものではありません。誰が王の王であるかを理解している者が王を迎える時に用意するものです。この人たちは、救いを完成させたのです。信仰のみでやり遂げたのです。聖霊と共に生き、体の働きを殺すことに成功したのです。主の御前に立つのは、主を知ったということです。主こそ讃美を受けるにふさわしい方であると、わかったのです。良いことは、すでに始まっています。あなたは主に選ばれ、召されたのです。あなたは、生き方を変えましたが、古い考え方をまだ残しているかもしれません。聖霊ではじめたことを肉で仕上げるようなことにならないように、十分気を付けるべきです。そうでないと肉は霊のことがわからないのですから。今日の聖句を読み祈ってみましょう。この場所に白い衣を着てあなたが立っていることができるように願いましょう。(佐久間)

 

12月3日(水)

いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

詩編84:6-8

 

クリスチャンのあなたにとって、人生はマラソン競技に参加している人のようです。快走している時もあれば、苦しくなってスピードを落としている時もあります。しかし、神のゆえに勇気を出して、いかなる苦難も乗り越えることができます。考え方を変え、否定的な思いを一掃し、「何とかなる」と肯定的な見方をするならば、事態は好転し難なく乗り越え、見事に勝利するでしょう。クリスチャンは、聖霊の導きを知っています。それは、祝福された人生の秘訣なのです。人生に起こるどのような事にも、信仰によって対処し、主への信頼を強くするならば、その人は力を増して前進するのです。そのようにして信仰者は、ついに神の元へたどり着き、永遠の命を得て天国で主にまみえることになります。それが、どんなにすばらしいことか、想像することもできません。ゴールである天国にたどり着いた者だけが知る祝福なのです。あなたは、そのような特権にあずかっている恵まれた人なのです。勇気を出して今日も生きましょう。(佐久間)12月4日(木)

一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」 召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

列王記下4:42-44

 

キリスト教の聖典は、旧約聖書と新約聖書であると教えられたでしょう。もう少し学んだ人は、旧約聖書はイエス・キリストの預言で、新約聖書はその成就であると教えられたはずです。今日の旧約聖書からの御言葉を読むと、新約聖書の中に同じようなイエスの物語があったことを思いだすはずです。そして、何か関係しているのだろうと思うでしょう。この物語の流れの背景は飢饉です。そして、飢えているものに神の人が食べ物を与え、満腹して残すという話です。さて、あなたは今日の聖句を読んで、何を学べるでしょうか。神への献げ物は奇跡を生み、大勢の人々の飢えを食べ飽きるほど満たす、とか、キリストの働きを預言していた、とか、五千人の給食にはイエスがキリストであることを明らかにするしるしの意味があった、などいろいろなことを発見することができるでしょう。あなたは、何を発見しましたか。主の祝福の大きさですか。まわりがどんなに困難であっても、常識を打ち破る信仰は、不可能を可能にするのです。霊的飢饉になったとしても、あなたが神を求めて主のもとへ行くならば、必ず主は満腹にしてくださるでしょう。主の祝福は溢れるほどだからです。そして、食べきれずに残すほど豊かに与えることのできる主をあなたは知っているのですから、不安を覚える必要はありません。主は、具体的に助けてくださり、必要を満たしてくださいます。だから、主の元から離れてはいけません。主の食卓に今日もあずかりたいものです。(佐久間)

 

11月5日(金)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

ローマ8:31-32

 

聖書にはすばらしい約束が書かれています。今日の御言葉もその一つです。この御言葉をよく考えてみてください。私たちが弱くてもそれが問題になることはありません。だれも私たちに敵対するこができないからです。たとえサタンであっても、私たちの味方が神であるとはっきりわかるはずです。だから、クリスチャンは誰も恐れなくなります。その必要がないのです。そうなると、人に対する見方もゆとりをもって見ることになります。精神的にもすごく楽に生きることができます。それに、さらにすごいことは、「御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と書いてあることです。いったい何が不足だと嘆くのでしょうか。その必要はないのに。心配することなどありません。あなたに必要なものは何か神はすでにご存じです。ですから、心を穏やかに安心して生きていけばいいのです。その恵みの意味がわかったなら、感謝をささげましょう。感謝は日ごとに増えていくことでしょう。それだけ、恵みが豊かに与えられているからです。喜んで今日も自信をもってすごしましょう。(佐久間)

 

 12月6日(土)

また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

ヘブル:27-28

 

イエスキリストがあなたの救いのために十字架におかかりになられたことは真実です。それだけではなく、あなたを救うためにもう一度現れてくださることが聖書に約束されています。それがどれぐらい確実かと言えば、人間が必ず死ぬことが決まっているのと同じだからだと聖書は説明しているのです。それだけではなく、死後に裁きを受けることも定まっているのです。それは、確実です。だから、救いが必要なのです。その救いは人間の知恵のおよばないほど神的なことです。教会にいけば、牧師が説明してくれるでしょうが、完全にはわからないのです。父なる神と御子イエスと聖霊だけが理解していることです。ですから、神と離れては理解できないので、この世の人たちは罪の世界であいかわらず罪の奴隷のままなのです。良い人とか悪い人といったレベルの話しではないので、ノンクリスチャンにはなかなか理解していただけなくて悔しい思いをしたことがあるでしょう。福音というだけあって、その人にとって良い報せとなる時にだけ信じることができます。もちろん、全部を完全に理解しているわけではありませんが、信じることができる時があるのです。その時だけ、良い報せだと理解できます。だからこそ、すがる思いで信じるのです。イエス様は、それでも救ってくださるのですから、ありがたいですね。そして、キリストが再臨されるのは、待望している人がいるから、と聖書は説明しています。そこで、わたしたちは主を待望しているわけです。(佐久間)

 

12月7日(日)

欲望は絶えることなく欲し続ける。神に従う人は与え、惜しむことはない。

箴言21:26

 

人の問題の大半は欲望からくるものです。今日の御言葉を読んで心当たりのある人は、少し時間をとって考えるべきです。欲望を満たそうとすると、際限がありません。小さな恵みでは感謝できなくなります。普通のことで神様に感謝したり、喜ぶことができません。人に与えることの意味がわかりません。いつも無意識に打算的になり、与えることは見返りがあるかないかで判断したりします。アメリカの教会で働いていた時に、事務所に見知らぬ黒人の女性が二人で訪ねてきました。そして、無料の食料をくれと言うのです。そのようなサービスはしていなかったので、あげる物がありませんでした。そのことを説明したのですが、この教会で給食サービスをしていると聞いてきた、のいってんばりで何かくれと迫るのです。以前にもここでもらったからまちがいない、と言い張るのです。残念ながら何も用意していなかったので、あげることができませんでした。しばらく騒いだ後で、ようやく彼女たちが納得して帰りましたが、誰から聞いたのか気になりました。他にも来たら困るからです。それで、わかったのは隣りのアメリカ人教会で以前に給食サービスをやっていたことがあるとのことでした。その時にはその教会もやめていたのですが、とにかく彼女たちが何かもらうまでは絶対に帰らない、という強烈な要求をして本当に困ったものです。別の日に今度は韓国人が訪ねてきました。彼はホームレスで、何も食べていませんでした。あいにく、食べ物がその時もなくて、お金を少しあげました。その人は、とても感謝して帰りました。その人と少しだけ話したのですが、不思議と友情を感じたのです。だから、その人が神様の助けを受けることができるように祈らずにはおれませんでした。牧師をしているとお金をあげるようなことがやたら多いのですが、それでよかったと思う時と、そうでない時があります。でも、自分が逆の立場だったらどうだろうと考えてみるのです。そこで、恥を忍んでお金を恵んでもらおうとしているのに、何ももらえなかったら辛いだろう、と思ってしまいます。それに、お金も神様からの預かり物ですから、上手に使いたいですね。聖書にもお金をどう使うか具体例がいくつも書いてあります。パウロも教会をめぐってエルサレム教会のために募金をしていました。困っている人や貧しい人を助けることは良いことです。与え始めたら、神様からそれ以上にいただけたという証しも真実です。自分はどうしているか考えてみましょう。(佐久間)

 

12月8日(月)

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、

フィリピ2:3

 

人はどんな時に見栄を張るのだろう。人生を台無しにするものはいくつかあるが利己心や虚栄心は、はなはだ悪性のものだ。クリスチャンが目指しているものは、キリストのような品性である。それなのに利己心や虚栄心を放置しているのなら、残念なことに実りの少ないクリスチャンとなるだろう。ゴシップが好きなのは虚栄心を満たせるからだ。哲学者のヴィトゲンシュタインは次のようなことを言っている。「自分の願望をよく見つめてみよ。ずっと願っていることの中身を凝視してみよ。ほんのささやかな願望だと自分では思っていたとしても、あるいは人並みの願望だと思っていても、その中に自分の虚栄心や見栄が一滴も混じっていないか。自分の願っていることを、じっくりと吟味してみよ」(『反哲学的断章』)。彼の言う事はもっともだ。御言葉を読めばそれがわかる。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」よ、と語っているのだからこの通りに考えれば、利己心や虚栄心から解放されるはずだ。ところが、願望はどうだろう。小さな願いと思って気にも留めていなかったことは大丈夫だろうか、信仰者は凛としているので、へりくだっても卑屈になることはない。隣人がひきたててくれることはあっても、卑しめられることはない。クリスチャン同士の人間関係は、「互いに相手を自分より優れた者と考え」て接している。このためには、自分に自信を持つことだ。それができないで悩む人も少なくない。信仰をもち、イエス・キリストを信じるようになったのは、なんのためだったのだろう。信仰は、聖なる自信を与えてくれるものだ。自分をほめて、ハードルを下げれば、自信は出て来るものだ。見栄をはっても、良い事は何もない。たとえ虚栄心を満足させられたとしても、空しさは消えることはない。油断せずに心を守ろう。(サクマ)

 

12月9日(火)

主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。

Ⅱペトロ3:10-11

 

主の日は必ずやってみます。聖書に書いてあるからです。東日本大震災に遭った時に、まさにこれが主の日なのかと思いましたが、そうではありませんでした。あの時も大きな音が聴こえましたが、その程度のことではないのです。なぜならこの世が終わるからです。「天が激しい音をたてながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし」とはどのようなことになるのでしょう。この世界が破滅し、壊れて行く様子がこのように預言されているのですから、とても恐ろしいことが起こるのでしょう。しかし、主イエス・キリストを信じて救われた人たちには別の期待があります。それは、滅びゆく此の世から救い出されて新天新地へと移されるからです。もうこの地上での苦労から解き放たれるのです。その日を待つ聖徒たちは、「聖なる信心深い生活を送らなければなりません」と書かれているので、そのようになるよう祈り続けなければなりません。聖霊の助けをいただき、神を追い求めることです。神を知れば、天にふさわしい生き方ができます。この世にありながら、そのように聖化されることは奇跡です。神へ心を向けましょう。神を追い求めるあなたが得るものは想像をはるかに超えたものです。あなたが神を追い求める者になれるように、すべてに主は働かれておられます。信仰はその主の恵みに答えるものです。この世の者で満たされることはないのですから、唯一の神、あなたの主を追い求めましょう。すばらしい体験が待っています。(佐久間) 

 

12月10日(水)

今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。

コロサイ3:8-10

 

ヴィトゲンシュタインはこう言います、「キリスト教とは、生き方を変えること。キリスト教の教えとは、結局これではないだろうか。即ち、自分の生活を変えるということ。生き方を変えるということ」(『反哲学的断章』)。確かに、今日の御言葉をみても生き方を変えることが書かれています。しかし、どうやって?というところが肝心な点です。理性的に考えて、これらなお命令を守ろうとすることはできますが、守れるかどうかは別です。だから、人間の努力では、この御言葉の通りになるかどうかはわからならいのです。面白いのは、「互いに嘘をついてはなりません」という御言葉です。一人では嘘をつけないということです。相手がいるということです。「自分に嘘をつく」という言い方もありますが、その場合も自分という相手に対して嘘をつくわけです。そして、人間関係の複雑さは、一方が嘘をつけば、他方も嘘をつくことになる、そうゆう人間関係をもってはいけないという意味も含みます。後半分にいたっては、もはや人間の努力の範疇を超越しています。霊的な事柄で、しかもクリスチャンにとっては、絶対的に重要な部分です。クリスチャンはある日、隣人から「変わった」と言われることになっています。勿論、良い意味で変わったということです。本人には自覚がありませんから、良くなったと言われれば驚くことになります。つまり、約束の聖霊がその人の内に宿り、内側から新しい人を再創造しているのです。そのようになることを本人も願い、すべての主の御目にかなう条件が満たされていると、聖霊は天地万物の創造の時のように人を神に似せて造り上げようとします。それは、価値観の変革となり、生き方を変えることになります。結果は同じように見えても、その内容は全く違っているのです。そして、生き方を変えてよかった、と本人が一番思っているのです。実は、生き方を変えることほど難しいものはありません。普通は、変わらないのです。それが、ものの見事に変わるのですから、ヴィトゲンシュタインほどの天才になれば、それを見抜き、言葉に表現できるのですね。ところで、あなたもだいぶイエスに似た者と変えられてきていることでしょう。(佐久間)

 

12月11日(木)

それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。・・・二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

創世記3:5、7

 

 

私たちは、心の内でいろいろ考えたり、感情が揺れ動く。そして、言葉に出さなければ心の内は秘密にしておけると思っているが、実際には、隠しておくことはできないのだ。どうしてそうなったかというと、今日の御言葉を読めば明らかだ。目が開けたからだ。禁断の木の実を食べることによっては、エバが望んだように神のごとく賢くなることには結びつかなかった。では、どんな結果になったのか。それは、自分たちが裸である事を知ったのだ。だから、隠すことにした。それで、心の内を隠そうとするのだ。しかし、目が開けてしまったのだから、心の内だって見えてしまうのだ。良く考えてほしい、人が自分の心の内を言葉で説明しなくても、何を思っているのか分かってしまうことはないだろうか。目は心の窓とはよく言ったもので、いつだって目は開かれていて、心の中を写しているのだ。ちなみに、裸を隠すというのは、嘘をつくということだ。はずかしいもの、都合の悪いものは見られたくないからだ。エバにとっては大誤算だったろう(そもそも神に似せて造られたのだから、はじめから賢かったのに。罪のせいでず驚くほど賢さは低下してしまったのは残念である)。そのままであれば、嘘もつかないで生きていけたのに。心の中を見られても平気だったのだから。さて、クリスチャンはどうだろう。主イエス・キリストを信じて救われたという意味の中に、嘘をつかなくても生きていけるということは含まれていないのだろうか。人類滅亡の危機であったノアの大洪水の時に、ノアだけが無垢であったので救われ、その結果人類は今日まで生き続けているのだ。そうであれば、嘘の無い馬鹿正直な生き方を目指すべきなのだろう。それは、心の中が見えても平気な生き方だ。はじめに戻れば、そもそも人間の意識していることは、黙っていても他人に見えてしまうということがあるのだから、自分だけ大丈夫だと思っているだけなのだ。そうならば、大切なことは、心の中が見えてもいい生活のはずだ。でも、他人は皆自分に優しいわけではなく、時には敵意剥き出しで傷つけようとする者だって現れるだろう。さらにやっかいなのは嫌いな人がいるということだ。だから、心の中に奇跡的な変化がなければ難しい。ところがクリスチャンにはその奇跡が起こるのだ。それが、人間の中に聖霊が宿るということの大きな意味だ。聖霊は人間の霊に触れ、その霊が魂に触れ、そして意識にまで上ってくる。だから、隣人に憐みすら感じるようになる。そのような奇跡がクリスチャンには可能なので、キリストの御姿を反映することが実際に起こるので、「裸の恥を覆うキリストを衣として生きる」という言い方があるのだ。だから、安心して堂々と生きて行きたい。(サクマ)

 

12月12日(金)

人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ。

コヘレトの言葉2:24、25

 

「食レポ」という言葉を聞いたことがあると思う。最近のテレビに良く出て来る、グルメ番組で使われている言葉だ。有名な飲食店の人気ナンバーワンの料理を食べてレポートするという仕事のことだ。それがやたらと多い。いかにも安直な内容だが、人気があるのかもしれない。視聴者にかわってレポーターが一口食べて感想やどんな味なのか上手に説明しなければならないのだが、その優劣が甚だしいのもこの「食レポ」なのだ。考えて、考えて、結局「おいしい」とか「うまい」しか出て来ない表現力の乏しい人は見ていて気の毒になる。そして、「超○○」と、何でも超をつける人がいる。かと思えば、「すごい」とか「うっそ~~!」「まじうまい」とか、日本の国語教育は失敗だったのかと思わせてしまいそうな人は、どう美味しいかを表現できないのだろう。哲学者が言うには、「残念なことに、そのような人は自分自身を上手に表現することもへたなことが多いようだ」。そうかな?そう言っているので、ちょっと「飲み食い」のことを考えてみようと思う。今日の御言葉を読んでいただきたい。なんと、人間にとって最も良いことは、「飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること」なのだ。もっとも、気の利いたレストランで食事をしなさいということでもない。毎食必ず食べることができるのは、神の恵みである。その一食一食を楽しく食べればいい。仕事の苦労も生活の大変なことも、楽しく飲み食いできたことで忘れることができる。仕事をまじめにしてきたので、こうして食べていける、そのことにも神への感謝を忘れてはいけない。食卓について、並んだ料理を前に、これが「神の手からいただくもの」だ、と喜ぼう。それにしても、「食レポ」しながらの食事では、うまいものでもまずくなりそうだ。でも、神へ感謝しての飲食は、不思議とより美味しくなるので、お試しあれ。(サクマ)

 

12月13日(土)

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。

コロサイ3:12,13

 

キリスト者という生き方があります。御言葉によって生きる人です。キリストを見続けている生き方です。肝心な点は、自分の思いや考え、あるいは感情に支配されないことです。信仰で生きることを意識します。そうすれば、今日の御言葉も驚くほどの力で、あなたを霊的高みへと引き上げてくれるでしょう。なにしろ、あなたが信じていることは、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」ということだからです。ですから、だれかに「あなたは聖なる人とされたのですね」と言われた時に、否定しないことです。いつも、御言葉の通りに信じる習慣をつけることです。たとえば、「責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」とあれば、相手に非があるということですから、簡単には赦せないはずです。それを可能にするには、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」なければならないのです。御霊の実を結ぶということです。それも、できるから聖書に書いてあります。というのは、あなたが神に選ばれたということは、注目され、気に入られているのです。神は、いつでもあなたの味方になってくださり、困った時の避難場所なのです。神はあなたへの祝福を惜しむ方ではありません。それどころか、あなたの考えも及ばないほどの大きな祝福を絶えず与えようとされています。なぜなら、聖書はあなたが「神に・・・愛されているから」だ、と断言しているのです。それだから、赦し合うということにも意味があるのです。それは、罪で失っていた愛の回復を実現するからです。そして、自分の罪が赦されたことの証拠になるのです。そのためには、いろいろ棄てなければなりません。特に、こだわり続ける自分を・・・。見る向きを変えてみたらどうでしょう。(佐久間)

 

12月14日(日)

そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。

ルカ5:36

 

イエス様は、古い服に、新しい服から取った布きれを継ぎ当てしてはいけないと譬話を語られました。それは、クリスチャンらしくみせながら、いまだ罪深い生活をしていてはいけないということです。やがて、破たんするからです。クリスチャンになっても、平安の無い生活をしているのなら要注意です。水と霊とから新しく生まれた人をクリスチャンと呼びます。それは、聖霊が内住している人のことです。しかも、聖霊との交わりを信仰によって実現している人です。聖霊は体の働きを殺すことができます。真剣に聖霊を求め続けるならば、聖霊に満たされ、霊的領域で生活を拡大することが可能です。ただし、肉と霊は相いれない関係ですから、時には理解されずに苦しむこともあるのです。でも、イエス様を信じて新しく生まれたのなら、もう古い人の生活に戻るべきではありません。中途半端はだめなのです。主と共に生きると決めたなら、それをどこまでも貫くことが祝福された生き方なのです。これから主の愛と不思議が日常生活に現れてくるでしょう。(さくま)

 

12月15日(月)

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。

ゼカリヤ4:6

 

小学一年生の数学の天才が現れたと騒がれていました。世の中にはいろいろな才能があふれています。自分は平凡で特に才能は無いと思っている人もいるでしょう。中には才能があるのに気づけないでいる人もいます。日本人は几帳面で器用と言われていますが、几帳面でもなく不器用という私のような日本人もいます。それでも、皆生きています。学びたいのに学べない子供がいるということが、今年のノーベル平和賞によって世界中に知らされました。それを世界に訴えたのは17歳のマララさんでした。勉強によって人生を変えることができると知っていれば、もっと勉強したと言う大人もいるでしょう。さて、今日の聖句は不思議ですね。この世の常識では、権力を得るためにしのぎを削る戦いをしている人たちがいます。能力によって富や名声を得ようとしている人もいるでしょう。だいたい、この二つが成功した人生に必要不可欠と思われているのです。それで、人生がうまくいかなくなると、自分には才能が無いから、とか権力がないからできないのだ、といった言葉を聞くことになります。クリスチャンは、今日の御言葉の意味を知っています。ですから「神の霊によって」と信仰によって勝利しているのです。それが続くと、信仰で何でもできると思うようになります。しかし、今日の御言葉は、私の力ではなく、聖霊の力によって、と言い換えることもできます。それは、肉の欲が出ると誘惑に負けやすくなり罪を犯す危険が高まるが、信仰によって聖霊が働き、肉の欲を断ち切ると自由になり、罪の危険を回避できるようになる、ということを教えているのです。この原則はどのような状況でもあてはまります。逆に、才能に恵まれない、権力も何の力も無い、と思っている人にとっては、生まれつきの才能が無くても、新しく生まれることによって、聖霊の賜物が与えられるので、それを生かして奉仕することです。霊の賜物は利己的に使うものではないからです。聖書の教える人生の目的は「愛すること」なので、真の愛である聖霊によって生きることがクリスチャンには不可欠なのです。そうであれば、あなたがどのような状況にあっても、内住の聖霊が働けるように、へりくだり、聖霊に祈り、ゆだねることが大切です。特に聖霊が働かれることを信じることです。どのような良いことが起こるか楽しみです。(佐久間)

 

12月16日(火)

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

マタイ22:36-40

 

宗教が嫌われる理由は、独善と排他的になることがあるからです。その理由の元は「信じなさい」という言葉です。信仰ということもあります。しかし、間違った信仰だってあるのです。歴史を通して宗教がひどい事を平気で行ってきた時には、「信じなさい」と言っていたのです。でも、今日のイエスの教えはどうでしょうか。どの掟が最も重要かと問われて、「神である主を愛すること」と教えています。隣人を愛することも含めて、イエスの教えは「愛すること」だったのです。もし、宗教が愛することを重要に捕えて、もっと愛することを教えていれば、歴史は変わっていたでしょう。今日も変わりません。重要なのは、全身全霊を尽くして、主なる神を愛し、自分のごとくに隣人を愛することです。これは、掟です。ですから、それ以外のことを考えてはいけません。現代人はストレスにさらされ続けていますが、それでも、愛することを一番にするなら、その人の周りは世界で最も生きやすい場所となります。まずは、神を愛する事の中に、人を幸せにする秘訣があります。そして、自分を神が愛するということをちゃんと知ることです。自分が神に愛されているなら、隣人を愛することは難しいことではなくなります。そこから始めるなら、失敗することはありません。心が満たされたい方は、今日の掟を守れるように、主に祈り、聖霊の助けを求めましょう。愛すれば、愛が帰ってきます。愛されていることが分かれば勇気が湧いて、自信が出てきます。人生を好転させる秘訣は、今日の掟を守ることにあります。(佐久間)

 

12月17日(水)

主よ、良い人、心のまっすぐな人を/幸せにしてください。

詩編125:4

 

聖書にこのように書かれていると、ほっとします。まじめに生きていて幸せになれないというのでは納得がいきません。悪いことを考えず、悪いことをしない。あたりまえのことですが、世の中ではこのあたりまえが捻じ曲げられることがあるのです。コヘレトの言葉には、そのような人間の世界の不条理がでてきます。なにかうまいことをやってこっそり一儲けするというようなことが身近に起こるとまじめに働いていることがばかばかしくなるかもしれません。それで、神様へ不平不満を募らせる人もでてくるのです。しかし、聖書を読むと、ちゃんと今日のような御言葉が書かれています。単純だけど、良い言葉です。それで、やっぱり、良い人になり、心のまっすぐな人になろうと、思えるのです。あなたのことも神様はちゃんと見ていてくださいますから心配ありません。神様を愛していれば、心のまっすぐな人でいられます。それほど、心に力を充満させた生き方はありません。寒い風が吹いていても、平気で歩いていけます。きっと神様はあなたを幸せにしてくださいます。(さくま) 

 

12月18日()

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

コロサイ3:23

 

先日、電車に乗ったらシスターがあのベールを被った姿で、携帯電話をかけていました。しかも、シスターは二人いたのですが二人とも携帯をかけていました。ちょっとがっかりしました。今や電車の車内で携帯電話をかけてはいけないというのは常識だと思いますが、どうしたことかこの日は、ほかにも年配の紳士が車内で携帯電話をかけているところに遭遇しました。車内アナウンスが携帯を切るかマナーモードにしてくださいと、放送しているのにどうなっているのでしょう。今日の聖句は、「何をするにも」とあるので、生活全般に関わっています。ですから、車内の携帯マナーも当然含まれるでしょう。「人に対してではなく」と聖書にあるのは、今回の場合で考えれば、車内で携帯電話をかけると人に迷惑がかかるから、ということがひっかかってきそうです。マナーを守らないというのは、自分の都合が優先するからでしょうか。それとも、人が迷惑してもかまわないと思っているからでしょうか。それとも、そこまで人のことを考えてはいないということなのでしょうか。人間は、意外と知らない他人には関係ないという態度で接することができるのです。しかし、クリスチャンはそうゆうわけにはいきません。それは、「主に対してするように、心から行いなさい」と命じられているからです。どんな人にも、主だと思って接すれば、態度や言葉遣いが変わってくるでしょう。クリスチャンはキリストに似た愛の人だから、と言えたらこんなことをいちいち言わなくてもすむのでしょうね。でも、今日の聖句は覚えておきましょう。(佐久間)

 

12月19日(金)

いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。

ヘブル13:9

 

書店で「おばさん辞典」という本を見つけました。何が書いてあるのかと思い手に取って読んでみると、なかなか面白いエッセーでした。女は歳を重ねると「微女」になるそうです。つまり、性別不明になるというのです。50歳ぐらいの奥さんが肩がこるようになって、急にご主人との仲が良くなったというのです。今までは夫婦仲は「中の下」だったのに、「中の上」に上がったというのです。今までは料理も奥さんの好みのものばかりだったのをご主人の好きなものばかり作るようになり、ことごとくご主人が喜ぶように変えたのです。そして、甘い声で、「肩がこったみたい」というと、ご主人は機嫌よくどれどれと肩もみをしてくれた、というのです。それで、二週間が経った頃、この奥様はまた「中の下」に戻ったと言います。もう肩が痛くなくなったから、と。今日の聖句はおばさんにはどのように理解されるのでしょうか。少なくともここに出てきたおばさんは、この聖書の原理を上手に使っているといえます。う~ん。さて本題です、宗教で食物規定を信仰に持ち込むと良いことがありません。御言葉の通り益を受けないのです。それよりも恵みによって心が強められる方が信仰者の益となります。健康問題は大切ですが、あくまでも健康増進のために食物に気を配ることであって、信仰と少しでも関係があるように扱ってはならないのです。そうしなかったために、どれだけ悲劇が繰り返されてきたことか、栄養学も分子栄養学も日進月歩で、昨日の常識が今日の非常識になることが繰り返されているのですから、これが絶対と言えないのです。そのようなものが、信仰を持ち出すと途端に絶対となってしまうのですから、悲劇が生れるのは目に見えています。悪魔に隙を与えてはいけません。信仰のことは、聖書に書かれた御言葉の通りにすることが肝心ですが、真理の御霊によらなければ、頭の良い人でも知性だけでは間違うこともあるのです。自分の見方が絶対と思うのは愚かしいことです。いろいろな見方が存在しているのですから、もっと謙遜にならなければなりませんね。それにしても「おばさん辞典」でもっと研究しなければならない気がします。一部のおばさんはうまく御言葉を実践しているのはどうしてか気になるからです。ちょっと自分に都合よくですが。おそるべしおばさん!(さくま)

 

12月20日(土)

わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。わたしのもとには富と名誉があり/すぐれた財産と慈善もある。わたしの与える実りは/どのような金、純金にもまさり/わたしのもたらす収穫は/精選された銀にまさる。慈善の道をわたしは歩き/正義の道をわたしは進む。わたしを愛する人は嗣業を得る。わたしは彼らの倉を満たす。

箴言8:17-21

 

「わたし」とは「知恵」のことである。この「知恵」は、「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って」(8:22)。これは主イエス・キリストと関わっている。主が知恵であるからだ。そして、知恵はそれゆえに尊いのだ。キリスト者でなければ到達できない、祝福の人生はこの知恵を抜きにしては語れない。祝福された人生を歩みたいと願う人は多いが、そのために聖書を研究する人はそれほど多くはない。見ても見えずという言葉があるように、信仰が整わなければ見えないようだ。イエスは、畑に隠された宝や高価な真珠の譬話をされたが、持ち物をすっかり売り払い、それを買うと教えている。宝と真珠を知恵と置き換えるとどうだろう。知恵が大切だと知っている人はいるが、その知恵をどうやって手に入れるか試行錯誤してでもなんとしても手に入れようとする人は少ないだろう。あなたはどうするだろう。今日の御言葉を読んで、何も感じなければそれまでだが、心の内に何かが起こっているのなら、あなたが今まで探し求めていたものはこれだと気がつくのではないだろうか。そして、主イエス・キリストを求めることが知恵を得る秘訣であることも理解できるだろう。あなたの倉を満たすのは、イエス・キリストの祝福によるのだ。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」(10:22)(サクマ)

 

12月21日(日)

あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。

エレミヤ15:16

 

あなたは「御言葉をむさぼり食べました」というような経験をしたことがあるでしょうか。エレミヤは敵がいて迫害され、苦しんでいました。そのような時に見出した御言葉は特別なものです。ただ目で文字を追っているような読書ではありません。主の御声を切望している時に、主の口から発せられた御言葉が魂に届いた時の表現です。御言葉に飢えていたと言ったらいいのでしょうか。前に説明したことのあるレーマ(言葉)を見つけたのでしょう。そのような御言葉には何かを実現させる力があるので、エレミヤは「わたしのものとなり」と言いました。それが今にも破滅しそうな不安の中で「わたしの心は喜び躍りました」と言わせる奇跡となったのです。このことこそ、多くの人が欲しがり、探し求めていることなのです。特に、クリスチャンはこの経験を平和の時にも出来るようになりたいのです。彼こそが、「わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です」と言える者なのです。大変なことが起こらなくても、いつも主の御言葉をいただけるものとなりたいですね。主の御名をもって呼ばれる者なのですから。(佐久間)

 

12月22日(月)

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

Ⅰペトロ3:9

 

クリスチャンは、祝福係です。この世の人たちは、主イエス・キリストを知りません。ですから、神の憐みも知りません。そこで、やられたらやりかえす、というようなことをして生きています。一方、クリスチャンは、どんな時にも相手を祝福することができます。これは、単なる言葉だけの祝福ではありません。実効性があり、相手を救う力があります。人は皆、この世でずいぶん傷ついているものです。ですから、愛とは全く逆の扱いを受けることがしばしばなのです。そのような世界で、誰が傷を癒し、本来の自分を取り戻させてくれるでしょうか。主がそうされたように、私たちも人を癒し、無条件の愛を現すことが出来ます。それは、祝福されている者だけができる大きな奇跡なのです。今日、誰かを祝福してください。それで、世界が変わるのです。あなたが祝福されているのなら、あなたの祝福も人を変えることができるでしょう。そして、その祝福はあなのもとへ帰ってくるでしょう。(佐久間)

 

12月23日(火)

心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。

Ⅰペトロ3:15,16

 

なぜ人は平和に暮らすことができないのでしょうか。毎日ニュースは悲惨な事件を報じます。身近にも嫌な事を目撃することもあるでしょうし、ひどい言葉を聞くこともあります。どうしてか、人は悪いことをしていなくても批判されるようです。誰かに困ったことが起これば、それをゴシップの種にしてしまうこともあるのです。それだけでなく、詮索好きな人もいます。それでいて、自分の評判を気にするわけです。人間の悲しさですね。罪は深刻なほど人を蝕み続けているのです。だから、そうした罪の蔓延した世界から抜け出したいと思う人はたくさんいるはずです。さて、今日の聖句を読んでみましょう。最後まで読んでみると、「キリストに結ばれたあなたがたの善い生活」という言葉に目が留まります。そこで、自分の生活を振り返ってみましょう。「キリストに結ばれた・・善い生活」となっているでしょうか。もしそうでなかったなら、大急ぎで生活を改善しなければなりません。まず否定的なことは考えることをやめましょう。言葉にしても良くないです。それだけではなく、良い言葉を声に出してみましょう。自分が願っていることをです。ただし、信仰によって行います。それは、イエス様との関係を良いものにしてからということです。あまり難しく考えてはいけません。つまり「「キリストに結ばれた私の善い生活」と言葉に出してみるのです。単純に、この言葉を繰り返し、否定的な気持ちを消し去ります。気分がよくなってきたら、それから、聖霊を求めてください。聖霊に満たされて、幸せな自分をイメージしてみましょう。正しいことを普通に行う。善いことを選ぶ。親切にする。どんな人でも良い面を探してみる。誰に対しても祝福する。善い言葉を声に出す。聖書を読み、瞑想する。理解できた御言葉は信仰によって実行する。そうしていると誰かに信仰のことを聞かれるでしょう。それは、あなたの態度から希望だと思われています。その希望について説明する機会が与えられるので、どうすればよいのか今日の御言葉に注意のポイントが書かれていますので、それを覚えておくことです。今までうまくいかなかったのなら、このポイントを覚えて再チャレンジできるように祈ってみましょう。(佐久間)

 

12月24日(水)

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。

ルカ13:10-13

 

あなたはこのお話しを読んでどう思われただろう。すばらしいハレルヤ、と叫んだだろうか。ここにはいくつかのポイントがあると思うが一つだけ考察してみよう。まず、病の霊が存在するということだ。聖書に書いてあるからのだから、今でも病の霊に憑りつかれている者がいるということは理解できる。さてこのご婦人は、腰が曲がって変形していたのだ。それがどれほど辛く惨めなことであるか、当事者にならなければわからないだろう。主イエス・キリストはこのような人を探して、見つけるとすぐに助けるお方なのだ。それがたとえ安息日であってもだ。もともと安息日も人間のためにあるのだが、このような規則は、その精神が一番重要なのに、たいていの場合は時間の経過と共に形骸化し形式的になるものだ。そうなると、神を愛し、人間を愛するという律法の本旨が抜け落ちてしまい、形式を守るために、人間が疎外されても何も感じなくなる。愛とは無縁の規則になってしまうことがあるのだ。この場合も会堂長は、「イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」。これでは、神は無慈悲と思われてもいたしかない。人間より大切な休みの日などあるわけがないのに。しかし、目の前に主がおられた。そして、こう答えられた、「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。これでキリストのお働きが何であるのかよく分かっただろう。キリストは人間を罪と死と悪魔から解放するために来られたのだ。これらは、人間の力や努力では逃れることができない。まるで奴隷のように支配されている。だから、私たちはキリストの救いが必要なのだ。キリストのやり方は権威に満ちている。癒しを宣言し、手をおいただけだ。それでたちどころに癒されたのだから驚く。それにしても、キリストがおいでにならなければ18年間も苦しんでいたこの婦人は、絶望的にサタンの犠牲者となってしまっただろう。その18年の苦しみを思いやれない人間の心とはいったい何だろう。私たちは、大丈夫だろうか。病の人や、困っている人、苦しんでいる人、サタンの犠牲者、こうした人が必ず身近にいるだろう。この人たちのことを見て、自分とは関係無いと思うことが問題なのだ。クリスチャンは、このところで愛の実践者なのだ。それは、癒しの賜物が無いことを嘆くのではなく、すでに自分に与えられた賜物を用いることだし、何よりも主と同じ憐みの心と、相手をいたわる思いやりが必要なのだ。そすれば、必要な力がその場で与えられる。信仰を発揮して、悪魔を追い出し、病を癒し、隣人を助け出したい。そのことで、神お一人があがめられ、讃美をお受けになられますように。(サクマ)

 

12月25日(木)

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

マタイ2:9-11

 

クリスマスが今年もやってきました。人々が優しい気持ちになれる特別の時です。今日の聖句は、東方の博士と言われる物語です。占星術の学者であったと新共同訳に書いてありますから、きっとそうなのでしょう。今日の占星術師と同じであるかは疑問ですが、古代の天文学者であったようです。彼らの知識では、明らかに新しい王が誕生することを知っていました。そのしるしの星が現れたというのです。エルサレムにやって来た彼らは町の人に聞き、そしてヘロデ王にまで聞いたのです。その結果、ベツレヘムでお生まれになることが分かりました。ミカ書5:1に預言されていたのです。さて、不思議なことに、この博士たちを星は導いて動いたことが記されています。それどころか、「星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」のです。もうこれは星とは言えないでしょう。この星は、実は万軍の天使の群れだったという説があります。それならば、動いたこと、そしてイエス様のお生まれになった場所で止まったこと、これらの説明がつきそうです。興味深いことには、イスラエル人の中にこの星の導きを受けた人はいなかったのです。外国のしかも東方の異邦人が天使に導かれて、長旅をしてイエス様を拝みにきたのです。彼らが選ばれた理由は、他に羊飼いが天使にイエス様の誕生を知らされて拝みに行きましたが、その羊飼いが選ばれた理由と同じだと思われます。それは、彼らが救い主メシアの到来を待ち望んでいたのです。ほとんどのイスラエルの人々は、イエス様のお生まれになることを期待していなかったかもしれないのです。天使は、メシア誕生の善き報せをふさわしい人に伝えたかったのですが、最も身分の卑しい羊飼いと東方の異邦人博士しか、その知らせを期待している人はいなかったのでしょう。キリストの再臨の時も同じようなことにならないよう、教訓としなければなりません。それにしても、東方といえば、いったいどのあたりのことなのでしょう。日本も含まれるのでしょうか。せいぜいアラビアあたりだったのでしょうか。やはり、ロマンがありますね。冬の夜空を見上げて、星でもながめてみましょうか。イエス様の到来を心待ちにしている人を探している天使の光を星のように見つけることができるかもしれません。そうそう、博士たちが「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とありますが、黄金はイエスの愛、乳香は天の祭司であるイエスのとりなしの祈り、没薬はイエスの憐みの癒しを象徴していますね。イエス様がお生まれになったことを感謝しましょう。イエス様を愛しましょう。この博士たちのように、王の王のであるイエス様を畏敬の念をもって礼拝しましょう。クリスマスの祝福がありますように。(さくま)

 

12月26日(金)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

マタイ6:33

 

外国に住むと、ビザがどれほど重要か身に染みてわかるものです。アメリカではビザの専門弁護士がいるほどです。ビザの種類も多くあります。多くの人が欲しがるのが就労ビザです。学生ビザの人は原則働くことができません。それを無視して飲食店などで働く学生が警察に摘発されることもあります。このように、外国に住むということはその国の習慣・風習のみならず法律などのルールも守らなければなりません。さて、今日の聖句を見てみると、イエス様は「神の国」と言っておられます。つまり、この世の国ではない別の国です。そこでは、価値観やルールが基本的に異なっているでしょう。それをこの地上にいながらにして、身につけることが求められているようです。イエス様の教えは、明らかに神の国のルール、生き方、価値観などの考え方です。だから、聖書から学んでいかなければわからないことだらけなのです。それをこの世に合わせようとすれば、まったく意味のないことになります。神様が支配している世界が「神の国」です。だから、私たちは、その支配に入るために神様に服従します。その服従のことを信仰と理解しても間違いではありません。そして、神の支配は聖なるもので、非常に良いものです。なぜなら天国に入るようなものだからです。神の義は、人を幸せにするために不可欠です。神は愛なので、神の義も愛なのです。それは、神と人が愛し愛される関係です。そのように、神の支配に服し、神を愛することを努めれば、天国にいる時のように、豊かに祝福されます。神の愛に応えることなく、お金や物だけをもらおうとして神の国と神の義を求めても成立しません。神と愛し愛される関係の中で起こる奇跡だからです。だから、神様の側とこの世とどちらにあなたの重心がかかっているかを確かめなければいけません。この世に気持ちがあれば、神の支配は当然ありません。だから、奇跡もありません。単純なことです。このイエス様の教えを自分のものとしましょう。そうすれば、この世に依存しない生き方ができるようになります。神様の不思議をもっと経験できますように。感謝があふれてきますよ。(さくま)

 

12月27日(土)

主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。

Ⅰコリント1:8

 

クリスチャンの悩みは、主のご再臨までに御心にかなった者となれるだろうかというものです。自分の足りなさにあきれてみても、すぐにどうこうなるわけではありません。日々の積み重ねであることは間違いありません。しかし、今日の御言葉を読めば、自分の頑張りにかかっているわけではないことがわかります。主が救うとおっしゃれば、完全な救いのはずです。ですから、主の救いの業がちゃんと間に合わせてくださるということです。それにしても、「非のうちどころのない者」という言葉に完全な救いなのだとあらためて感動します。信仰だけは、熱心に持ち続けることです。主を愛し、喜んで、感謝し、という楽しい信仰生活を目指しましょう。何があってもイエス・キリストを信じぬきましょう。仙台に赴任した時に、地震が必ず来ると聞いて、自分がいるうちは来ないだろうとたかをくくっていましたが、思いがけずすぐに来たので驚きました。それで、再臨もやはり思いがけず、すぐにくるのではないかと思うべきですね。そうであれば、そのうち信仰をちゃんとしよう、などと言っていられないでしょう。それに、中途半端ほど無駄な事はないのです。主から、褒められるほど、熱心に信仰したいものです。(佐久間)

 

12月28日(日)

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。

マルコ16:17-18

 

 

聖書にはこのように驚くようなことが書いてあります。使徒たちのような特別の人ではなく、「信じる者」と書いてあります。ですから、あなたがイエス・キリストを信じていれば、今日の聖句の約束はあなたのためのものです。悪霊の存在を信じない人もいますが、私の牧師として経験では確実に悪魔、悪霊は存在し聖書時代と同じように人々を苦しめています。イエス様は聖書の中で、「病気の霊」(ルカ13:11、口語訳)とおっしゃっています。つまり、病気の中には悪霊のせいで病んでいる人もいるということです。悪霊憑きを精神病だと決めつけている人もいます。勿論、精神病もありますが、悪霊憑きで苦しんでいる人もいるのです。クリスチャンの中にも無神論者のように、悪霊憑きは非科学的と決めつける人がいます。でも、悪霊憑きではなく精神病だということを科学的に証明できないのに、非科学的だということはどうなのでしょう。それよりも、精神病院に入院していて治らない人は多くいます。一方、悪霊を追い出していただいて、癒された人は存在しています。それも、決して少なくないのです。それよりも、深刻なのは普通の人にも、クリスチャンにも、悪霊は攻撃を仕掛けてくることです。それを祈りで解決したことのある人もいるでしょうが、今日の御言葉の約束を信じて、主イエス・キリストの御名によって悪霊を追い出してみるべきです。その結果が証しになります。「新しい言葉」は聖書に書かれている異言のことです。新約聖書時代は、毒殺が多かったそうです。それで、毒を飲んでも害されないことは重要だったのです。今日では有害な添加物かもしれませんね。一番、必要なものは「病人に手を置けば治る」ということではないでしょうか。クリスチャンのあなたが、導きをうければ、病人に優しく手を置いてあげましょう。癒されることを信じて、大胆な信仰を現してください。一度試してダメでも、あきらめてはいけません。信仰が追い付いていないだけかもしれませんから。主のように、相手への愛を意識して、主が自分を通して働かれることを信じて癒しを願いましょう。御言葉を疑うことなく、信じる者となりましょう。ワクワクする働きが待っています。(さくま)

 

12月29日(月)

主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

詩編121:7,8

 

この詩は、エルサレム巡礼団の巡礼詩といわれ、最も美しい詩として有名です。巡礼団の指導者が1節から歌い出し、それに応唱する形の詩です。主への圧倒的な信頼を信仰者の立場から歌っています。この最後の7,8節も主の保護の確かさを表明しています。そして、誰か大切な人を祝福する時にも使える詩です。「あなた」の部分にその人の名前を入れれば祈りにもそのまま使えます。勿論、自分の名前を入れて祈っても大丈夫です。「あなたの出で立つのも帰るのも」という言葉は、日々の生活のことを意味しています。ですから、新年にあなたの家族をこの詩をもって一年お守りくださいと、祈る事はよいことです。ご自分のためにお祈りに使うのなら、毎日唱えることができますね。それにしても、主を信仰することはありがたいことですね。確かな保護がいつもあるのですから、安心して暮らすことができます。今日も、早速あなたと家族のためにこの祈りをささげてはいかがでしょうか。(佐久間)

 

12月30日(火)

あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。

ガラテヤ3:5

 

大切なことは、聖霊を授けていただくことです。そうしなければ、何も始まりません。奇跡の経験の無いクリスチャンがいるとすれば、それはなぜだろうと不思議になります。そもそも、クリスチャンになるという経験自体が奇跡なのです。自分で自分を救うことなどできないからです。それほどの大きな経験をしているのなら、クリスチャンになった後にはもっと主が働かれて、奇跡が起こってくるというのは当たり前のことです。それなのにそうならないなら、その人はノンクリスチャンのように生きるようになるでしょう。つまり奇跡など無いという立場をとるようになるということです。どんな小さな奇跡でも自分のこととして経験すれば、信仰が驚くほど覚醒されます。信仰が単純で誠実ならば、奇跡を信じることは決して難しくありません。ところが、律法を守るようにと律法を行うように促す人たちは奇跡経験が乏しいはずです。神を制限しているので、「神には何でもできる」という御言葉も、信仰には影響していないようです。そして、このような人たちの影響力は大きいものです。聖書をよく読んで、自分の考えや人の考えに、振り回されたりしないように、まず聖書を研究すべきです。聖霊をいただく方法を聞かれることがありますが、その時には詳しく教えて励まします。しかし、聖霊を授けていただけるのは、「あなたがたが福音を聞いて信じたからです」。どうか、聖霊の満たしを求めて、福音を理解し、もう騙されない、という強い信仰を現しましょう。福音を信じたからこそ、霊の恵みを受け、奇跡を体験するはずです。そうならば、奇跡が人の助けや救い、癒しになるように祈って求めて行きたいですね。(佐久間)

 

 12月31日(水)

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

エレミヤ29:11

 

今年も大晦日となりました。一年間、よく頑張りましたね。色々な事があったと思いますが、主のお守りの中で助けられながら信仰にまた一歩成長したことでしょう。新年は果たしてどのような年になるのかと気にかかる人もおられるでしょうが、今日の御言葉は主があなたのために計画をちゃんと立ててくださるお方だと言うことがわかります。主を信じてクリスチャンとなったのですから、何の保証もなく生きているわけではありません。祝福された人生を喜んで生きていくことが定められているのです。そして、来たる2015年は平和の計画を主がお立てになり、将来と希望を与えてくださるのです。ですから、一年の締め括りに、悔い改め、身を清め、主への感謝をささげ、すがすがしい気持ちで希望の新年をお迎えください。(佐久間)


1月1日(木)

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

Ⅰヨハネ1:1-3

 

新年が始まりました。すべてを新しく始めることができる時です。その大切な時に、御言葉を読み、その預言の言葉を聞くことは特別の意味があります。今日の御言葉は、あなたがクリスチャンであるのなら、心をときめかせて聞くべき真理です。この世の多くの人は残念ながらまだ福音を知りません。だからこそ、早く伝えたいのです。しかし、伝えるためにはここに書かれている通りに主との交わりを持つようになる必要があります。勿論、「御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。それは、実態のあるものです。つまり、今も生きて働かれる主との交わりです。あなたが望めばそれはいつでも可能です。難しく考える必要はありません。「主はあなたを愛しておられます」という意味は、愛は交わりそのものだということです。だから、交わらないことには主の愛を知る事はできないのです。今年は、この交わりを理解し、体験するようにディボーションを作って行こうと思います。あなたが信じた主は、あなたの想像を超えてあなたを愛しておられます。それが、信じられるようになるまで信仰を高めていきましょう。そうすれば、あなたの心配は消え、不安は平安へと変わります。生活のことも、将来のことも、死のことも、家族のことも、人間関係のことも、仕事のことも、あなたが心に暗い影を感じることのないように、そして、圧倒的に愛されていることを知るために意を決して主へ向かいましょう。熱意をもって、主に近づきましょう。祈りを変えましょう。天国に響き渡るような熱心な祈りをささげましょう。熱いか冷たいかはっきりと信仰態度を決めましょう。そうでなければ、得ることのできない霊の世界があるからです。神の国の福音を信じたのですから、神の国に生きようではありませんか。今年は驚くべき神体験へと心を傾け集中しましょう。ひれ伏して主に祈りましょう。(佐久間)