2014年2月

2月1日(土)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

Ⅰペトロ1:3,4

 

私たちは、天の父を知っています。それは、イエス・キリストの父であり、同時に私たちの父でもあるのです。それは、罪人の時には考えられないことでした。でも、イエス・キリストを信じて救われたために、この奇跡が起こったのです。それは、もっぱら父なる神が慈悲に富、憐み深いからです。創造主は、完全な人間を造ったのですが、愛の対象だったので自由を与えました。その結果は、誘惑に負けて神を裏切る結果となりました。それいらい現代の子孫に至るまで、罪は人を蝕み支配し続けてきたのです。神が人を救うといえば、広範な意味がありますが、罪の問題を解決する事無しにははじまりません。しかし、罪の問題の解決だけで救いを終わらせることはなかったのです。つまり、イエスの十字架の贖いで信じた者の罪は赦されたから救いは終わったよ、ということではなかったのです。現に、クリスチャンになっても、過去の罪人の記憶は洗礼で葬ったはずの古い自分をたびたび呼び起こすのです。聖書には古い私は死に、と書いてあっても現実には死んでいないのではないかと苦しむのです。これでは、完全な救いとは言えないのです。しかし、今日の聖句を見てください。「わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」とありました。神の救いの完全さは、私たちを新たに生まれさせる所にあります。イエスは死んだのでよみがえったのです。その同じ復活の命を神は下さるのです。だから、古い私が完全に死んでいることがなければ、新しい命によみがえることもないのです。クリスチャンにとって、重要なポイントです。つまり、信仰によってイエスの死に結びつく必要があります。それは、「イエスの死」なので、イエスが死んだ場面を思い出してください。どこで死にましたか。そうです、十字架で死んだのです。だから、私たちもイエスの十字架の死に結びつくことが奥義なのです。そうやって霊的領域で古い罪人の自分に死ぬことができれば、イエスの復活の命と同じ命を神はくださるわけです。そして、これらはすべて信仰によって実現します。その先は、天国へ入って栄化されることです。ここまで完全な救いなので、わき目も振らず聖書の御言葉を研究して、完全な救いを実現させましょう。罪に死なせていただける十字架の力、そして、新しく生まれることを可能にするために死を打ち破ったイエスの復活が希望になるのです。あなたが安心して罪人の古き自分に死んだのは、イエスが復活して道を開いたからです。私たちは新しく生まれることできるのです。自己嫌悪に陥って自分を嫌いと言わずに済むし、孤独ではなくなるし、神に愛されていることがはっきりわかるし、昔のコンプレックスはすでに消え去っています。天に目を向けましょう。やがて天に行った時に、自分のために天の父が蓄えていてくださった財産をいただくでしょう。「これがあなたのために蓄えておいたものだよ」と言って、父がくださるものがあるのです。どれほどの感動と喜びが待っている事でしょうか。それを楽しみにしていましょう。(佐久間)

 

2月2日(日)

あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。

Ⅰペトロ1:5,6a

 

面白いミステリー小説は、最後まで読んですべてに納得がいく快感があります。アガサ・クリスティのエルキュール・ポワロがまさにそれで、名探偵が普通の人では思いもよらない天才的な観察力と推理力で、最後にすべての謎を完璧に答えて見せる爽快感は得も言われぬ満足を読者に与えます。さて、私たち人間の歴史も終わりがあります。その終わりにイエス・キリストは再び現れます。それも、万軍の天使を従えて王の王として来臨されます。それは同時に長い人類の歴史に裁きを与え、何が真に正しかったのか、人間の救済のためにイエス・キリストのなされた贖いの業が信じた者にどのような効果があったのか、罪の謎も最後にすべて解き明かされるでしょう。神はいないと豪語していた人も、悪人も、福音を聞いても故意に拒んだ人も、自らの罪の故に裁かれるのです。誰の目にも公明正大な裁きをもって人は二つに分けられるのです。天国へ行く者と、地獄に落とされる者です。死んだらそれでおしまいと思っていた人には悔いても悔やみきれない恐ろしい結末が待っています。さて、クリスチャンになればもう大丈夫ということでもありません。霊的な力を得て、力ある業を行ったとしても、それで天国行が保障されたわけではないのです。聖書を良く学び、書かれたことを理解し、聖霊の助けをいただき聖なる者へと変えられていくことが肝心です。肉の欲を持ったままのクリスチャンなど、何の意味もありません。聖書を良く読んで神に忠実な信仰を現して仕える者こそが、神の力により、信仰によって守られているのです。勿論、最後に救いを得るためにです。悪魔・悪霊は最後まで敵として攻撃をやめることはないでしょう。それ故に、神の力で守られていなければどうなるか分からないのです。だから、今日の聖句はとてもありがたいもので、喜ばずにはいられないのです。あなたのために、神の力づくでの救いがあるのですから、終わりまで信仰で生き抜こうではありませんか。(佐久間)

 

2月3日(月)

今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

Ⅰペトロ1:6b~7

 

クリスチャンは生活でイエス・キリストを証ししなければなりません。これほどやっかいなことはありません。説教者は講壇を降りてからが説教だと言われたりするのはこのためです。それで、まるでさらし者のように自分の信仰を接する人に見せて生きているのです。言葉など必要ないのです。そして、もっと困るのが自分の姿が見えないということです。立派なクリスチャンを人前で演じて見せようとすると、本当の姿と矛盾が生じるのでどこかに破れが生じます。人はそうゆうところを見逃さないのです。それで、私たちはとほうにくれるのです。それは、自分の信仰の姿を知っているからです。ここまで読んで思い当たる人は、今日の聖句の意味がわかるはずです。なぜ、クリスチャンになっても試練があるのかと首をかしげていた人は、自分がクリスチャンであることを隠していたかもしれません。裏と表の顔を持っているのは、よくありません。クリスチャンもあるところまで来ると本物を追及するようになります。聖書の御言葉が分かってきたのです。そして、どこまでも深く愛して下さるイエス様に気づいてきたからです。そして、いい加減なクリスチャンには成長も確かな手ごたえも無く、空しくなります。しかし、悔い改めて祈ると必ず主の愛が迫ってくるのです。そこで、本物のクリスチャンになろうと決心します。それは、試練と思う事にも遭遇することになることを意味しています。しかし、試練は信仰を鍛錬しますので、心の中の愚かな考えや自己本位の思い、そして自分を苦しめる想い出、物や権威・名声への執着、こうした否定的な肉の思いをきれいに始末していくことになります。聖霊はいつでも助け、励ましてくれます。ゆだねれば、内側から新たに造りかえてくれます。こうしたことは、神に近づこうと信仰をはたらかせなければできないことなのです。試練はそれすらも自発的にできるようにしてくれます。「神様助けてください」という言葉からすべてがはじまったのですから。(佐久間)


2月4日(火)

これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

創世記15:1

 

聖書の中で、信仰の模範とされる人のまず第一に出てくる名がこのアブラム(後に神によってアブラハムと改名する)です。このアブラハム物語は、とても古い時代の話ですが、一つ一つのエピソードに霊的な知恵が隠されています。今日の15章の前にアブラムが親族のロトを救出した話があり、無事凱旋したアブラムをいと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクが迎えて祝福します。このメルキゼデクは王であり祭司でした。そして、主イエスと関わりがあります。ユダ族出身のイエスが王であることはわかりやすいのですが、祭司であると言う時にイエスはレビ族ではないとの疑問がでます。しかし、新約聖書のヘブライ人への手紙の中でこの「メルキゼデクと同じような別の祭司」としてイエスが祭司であることを説明しています(7章参照)。そのメルキゼデクがアブラムを迎えた時、「パンとぶどう酒を持ってきた」と書いてあるのです。これは、イエスの十字架と聖餐を象徴しているとわかるので、アブラムは神の民の象徴であると見ることができます。そこで、アブラムを信仰の模範として聖書を読んでみることが意味をなします。つまり、今日の聖句が聖徒にも与えられる祝福でしょう。すると、その前にアブラムは何をしたのかというところが気になります。敵を打ち破り、分捕りものを沢山持ち帰ったのですが、その中にはソドムの王もいて彼がアブラムに感謝して取り返した財産の全てを差し出すと申し出ます。ところがアブラムはそれを拒否して何一ついただかないのです。それは、アブラムを祝福して裕福にしたのは、人ではなく信じている神による、という信仰の表れだったのです。この信仰を見て、神が幻の中から語ったのが今日の聖句です。私たちはどうでしょうか。人から儲け話を受けて富んだとしても、それは神からの祝福によって生きる姿ではないのです。何が正しいのかは、神によるのです。それは、無から有を生む祝福へとつながります。信仰でなければ、人の誘惑に勝つのも一苦労でしょう。神を絶対として信じるアブラムの姿こそ、私たちが学ぶものなのです。常識の範疇で豊かになる人はいるでしょう。しかし、信仰によって祝福される人は常識をはるかに超越したものを主より賜るでしょう。ご利益信仰というものもありますが、それとキリスト教の信仰は全く違うものなのです。なぜなら、敵に大勝利し、主が盾となってくださり、信仰を認めて大いに報いてくださるというものです。その信仰は肉欲と完全に切り離されているものであり、ご利益を願っていただくものではなく、神への従順な信仰に対して主が大いに報いてくださるものだからです。目に見えることに一喜一憂するのは人間の常ですが信仰ではないのです。5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人を満腹させ、余らせることのできるお方を信じる生き方が、どれほど大きな報いを得るか、あなたも実践してみてください。(佐久間)

 

 

2月6日(木)

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

マタイ7:12

 

これは、黄金律と呼ばれるものです。「律法と預言者」はユダヤ人が旧約聖書のことを指して言う言葉です。つまり、旧約聖書全体は、この言葉で言い表せるというのです。律法を守るということは、この聖句を実行することで達成できるということです。律法は神の愛を現しています。そこで、この聖句は愛を現すことのわかりやすい実例を挙げていることになります。一方、この世は罪の世ですからこの反対を行っているはずです。たとえば、相手に何かを要求します。しかし、相手はそれをしてくれないのです。それで怒るわけです。では、どうすればよかたったのでしょうか。人の気持ちになってまず考えるということです。たとえば、夕食を作ってくれた奥さんは夫に何を願うでしょうか。後片付けや洗い物をしてもらいたいと願うでしょう。もし、自分が奥さんの立場ならきっとそう思うに違いないと考えられれば、進んで自分から後片付けや洗い物をすればよいのです。でも、なぜそうするのでしょうか。それは、相手を思いやってそうしたいと思うからです。それを愛というのです。ここで、愛がでてきたから律法と結びつくわけです。さて、皆がこの黄金律を守れば、世界は幸福に包まれるでしょう。しかし、皆が、ということは難しいですね。そこで、皆はこの黄金律を守らなくても自分だけは守ることができるでしょうか。家庭だけにとどまらず、職場でも、どこででもです。これを人間的に頑張って実行しようとする人もいますが、そのような人は少ないし、いつも実行できるかどうか怪しいものです。では、ただの理想ということでしょうか。ここで、主イエスは命令しているのです。「できたら」、とか「思い出した時には」というようなことは言っていませんね。では、どうしたらいいのでしょう。ヒントは、この前の文章をよく読んでみることです。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。だから・・・・と続いています。ルカによる福音書では、「良い物」が「聖霊」になっています。聖霊を求めていただければ、真の愛は心にとどまるのですから、心から愛が溢れるでしょう。今日の御言葉のように「黄金律」を守りたいですね。(佐久間)

 

2月7日(金)

主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞窟、崖の裂け目に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。

イザヤ2:21,22

 

昔、修養会で出会った一人の女子が、「おばあさんが鼻に息のある者を信じてはならない、と言っていた」と語っていたのを思い出す。あなたは、災いの日に誰に頼るだろうか。困った時に頼るべき方がいるだろうか。確かに、あなたを助けてくれる人はいるだろう。しかし、その人の力ではあなたを助けることができないとすればどうだろう。主は、この世界を放置しているのではない。理解できないような悲惨なことが起こっていても、神が何もしないお方ということではない。世界に数え切れないほどの人間がいても、あなたのことを忘れるようなことはありえない。しかし、罪に対しては寛容ではないことも事実だ。全宇宙の正義を守っておられるのは神だから、罪は裁くことになる。ただ、神は短気ではない。忍耐強く人が罪を悔い改めることを待つことができる。それでも、限度があるので、裁きの日は必ずやってくる。聖書の歴史をみてもそうだったように、聖書の預言にある終末の裁きも必ず成就する。あなたを救うことのできるお方は、人間ではない。それは唯一の神、我らの主である。今日の聖句の文脈で言うならば、この前に18節で「偶像はことごとく滅びる」とある。そして、20節に「その日には、だれもが/ひれ伏すために造った銀の偶像と金の偶像を/もぐらやこうもりに投げ与える」と書いてある。人間の愚かさは、ひれ伏して拝むために偶像を作っているということだ。そのようなことの無意味さは、裁きの日に明らかになるがすでに手遅れだ。このような偶像礼拝の愚を犯す人間を頼ることもまた愚かなことなのだ。なぜかと言えば、神以外にあなたを救えるお方は存在しないからだ。神よりも自分を大切にする者は、偶像を拝んでしまうだろう。そうでなければ、この世界は不透明で不確か過ぎる。ストレスが増すばかりの日々を、不安を抱えて生きている人が大勢いる。だから、人間や偶像に頼りたくなるのだろうが、神を知らなさすぎる。神に愛され、神を愛するために生まれてきたのに、その目的すら罪のために失ってしまった。神は変わらないのでまだあなたを愛することをやめていない。それどころか熱情の神はあなたが神を愛することを待っている。あなたの価値を一番知っていてくださるお方が、あなたを正しく評価していてくださる。あなたは非常にすばらしく造られている。そのことをあなたに正しく理解してもらいたいと主は願っている。そして、信仰を発揮させることにより、神の創造した通りのすばらしいあなたに再創造しようとされているのだ。古い自分へのこだわりを捨てて、新しく生まれよう。いつでもあなたはやり直せる。イエスがあなたを助け導くから。聖霊は、あなたと一心同体になって聖なるセルフイメージを作ってくださる。祝福と恵みは信仰によって生きるあなたのものだ。主に感謝しよう。(サクマ)

 

 2月8日(土)

人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ6:8

 

人間として、どう生きて行くのか考える必要がある。そうでなければ、流されて生きるだけだ。どのような境遇にあろうとも、どう生きるか決めるのは自分だけだ。自分の弱さを人のせいにして生きる人もいるが、つまらない人生を刈り取ることになる。クリスチャンは神の御心のままに生きると言うが、実際はどうなのだろう。自分の心のままに生きているのではないか。さあ、真理である聖書に聞いてみることにしよう。今日の聖句を読んでみよう。驚くことは、神を信じる者に神はすでに「何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている」と語る。それでは、それは何であるかと問えば、答えは明らかだ。「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」。今日は、安息日なので、日常の忙しさから離れて静まり、この御言葉を熟考してみよう。本物のクリスチャンとして生きたいものだ。(サクマ)

 

2月9日(日)

若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。

詩編34:11

 

若獅子は獲物を狩ることが最も力強く上手であることから、人の力の強さを若獅子になぞらえることがある。ここでは、人間的に力があり、努力を惜しまず優れた者の象徴だ。しかし、人間の力だけに頼るならば、どんなに努力しても報われないことがあるし、また何をしても上手くいかない時もある。一方、神に求める人には、良いものの欠けることがない。この違いがわかるだろうか。今まで学んできたようにご利益を求める話をしているわけではない。それは、自分を神としてしまう行為になる。自分の願いを叶えるだけの神など、人間の僕になっている。しかし、神は、人間よりも高く何でも知っている。主に求める人に何を与え、何をすれば良いのか知っているお方こそが主イエスであり、父なる神であり、内住する聖霊なのだ。信仰者の益になること以外はなさらないのが神だ。だから、クリスチャンは主を絶対的に信頼し、その信仰を現すのだ。正しい信仰を持つことは、良いものに欠けることの無い人生を送ることを意味している。ここで、良いものとは、肉欲を満たすためのものではない。主の慈しみに生きる時に与えられるものだ。主に愛されたなら、へりくだって生きられる。「主に求める人には良いものの欠けることがない。」との御言葉を信じるなら、どのような境遇に身を置いても処することができる。だから、安心して生きよう。あなたは飢えることがないから。(サクマ)

 

2月10日(月)

主は激しい流れのように臨み/主の霊がその上を吹く。

イザヤ59:19b

 

聖霊は風に例えられている。目には見えないが人々は風が吹くと言う。自分の体に風があたって分かるときもあるが、家の中から窓越しに木々が風に揺れているのを見ると、「風が強い」などと言ったりする。これほど、はっきり分かるのだから聖霊も同様にわかるわけだ。多くのクリスチャンが聖霊の恵みにあずかりたいと願っているが、すぐに忘れておよそ聖霊とは無縁に生きているかもしれない。しかし、信仰は聖霊を認識する。聖霊に話しかけ、自分の内に住まれる聖霊を意識する。聖霊の愛は深く、人間のそれとは比べられない。私たちが臨むことは、この聖霊を通して神を知ること。聖書の御言葉を真理として正しく理解すること。「主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く」。長い間待ち望んでいたリバイバルはこうして起こる。このことを信じる者が、待望する者がいるからだ。その時は、近い。私たちは祈ろう、主が来てくださるように。日本人を救ってくださるように。500万人救霊のために。聖霊の風が吹き抜けるように。(サクマ)

 

2月11日(火)

あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。

ガラテヤ3:2,3

 

ある時、教会で聖書を皆で学んでいると、一人の男性が意見を述べた。それは、「信仰と言うけれど、行いも重要でしょう」、というものだった。あなたは、どう答えるだろうか。キリスト教の奥義に触れることだと思う。霊的体験無しにこの答を述べることはできないだろう。人間の常識では答えることはできない。しかし、現代の教会から霊的なことが消えて久しい。だから奇跡が大変少ない。霊的体験について知らない聖職者も珍しくない。教会にも科学に基づく見えるものだけを信じる考え方が浸透しているのだ。だから、聖書に書かれていることも理解できないままに合理化したり、無視したりしていることがある。最悪なのは、新約時代は古代世界で迷信深い人たちばかりだったから、そこでは奇跡が必要であったので神は奇跡を与えたが、現代では科学が発達し医学も発達してきたので、奇跡が必要無くなったのだ、と語る牧師や神学者も珍しくなくなった。科学がやはり、信仰を曇らせているのだ。本来、科学は信仰や宗教と対立するものではない。信仰が対象としているのは神であり、神の御業である。御業は神の創造した被造物や自然の法則などを説明する。だから、信仰が道徳や倫理にすり替えられることは正しくない。我々の目指す信仰は、神を知ることなのだ。それは、この世界を知ることであり、人間を知ることであるから、つきつめて己を知ることになる。それで終わるならば人間の救いは無いが、救済のために御子イエス・キリストが人となったので、初めて人は神を見たのだ。そのキリストがなさったのは、罪人を救うための十字架の贖いに復活、昇天だけではなかった。別の救い主である真理の御霊、聖霊を遣わすことだった。それは、祭司や王に預言者という特別な聖職者だけに限定されたものではなかった。イエス・キリストを信じて主と告白する者は皆、聖霊のバプテスマを受けて、内住の聖霊が外なる人を滅ぼし、内なる人を新たにすることを実現するのだ。聖霊が充満した人は奇跡を行うことができる。勿論、人を救うために弟子たちがしたことの延長なのだ。聖霊を授けられなければこのような奇跡は決して起こらない。それは、立派な行いをしたから資格を得て聖霊のバプテスマを自動的に受けたというようなことでない。そのような例が新約聖書には全く書いていない。勿論、信仰の結果良い行いをすることは当然あるが、それが理由で聖霊の注ぎを受けたわけではない。だから、聖霊のバプテスマを受けることが信仰によることを何よりも理解しておかなければならない。「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」というパウロの質問自体が、当時のクリスチャンは聖霊のバプテスマを誰でも受けていたことを物語っている。そうでなければ、罪人が神の子に変わることはやはりできないだろう。人間的に立派な人になることはできても、神の子になることはできない。聖霊が天地創造の時に現した御力によらなければ、イエスの徳の高さへと人を変える事は不可能なのだ。人を刷新して新しく生まれた人のように、イエスに似た者へと変えることは、人のすることではなく神のすることなのだ。ところが、聖霊のバプテスマを受けてもすぐにイエスのようになるわけではないので、人は失敗するかもしれないのだ。その最たる危険は、聖霊によって変えられるのに、聖霊に逆らう、自分の思い通りにする、律法は自己犠牲の愛を実行することなのに、反対の自己愛による自己満足に陥る人が出てくるのだ。それと、正反対に信仰と言うだけで、何もしない人も出てくる。これもまずい。聖霊で始めたのなら聖霊で仕上げるべきなのだ。聖霊との関わりを深めるのだ。聖霊は何をすべきなのかを教えて助けてくれる。祈りが知りたければ、内住の聖霊に教えていただければいい。御言葉の奥義を知りたければ、聖霊に頼めばいい。聖霊に酔いたければ讃美をすればいい。聖霊が誰かを憐れめば、一緒に共感すればイエスがそうだったように奇跡が起こるのだ。それを人間的に考えて何かしようとすれば、あなたの力だけで頑張るしかない。うまくいくこともあれば、そうでないこともある。ただそれだけだ。しかし、聖霊があなたと一つになって働けば、神の国で起こる事がそこに現れるのだ。大いなる驚きと感激が待っている。聖書に書いてあることを聖霊によって知ろう。あなたも神の国に生きることができるのだから。(サクマ)

 

2月13日(木)

モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

民数記21:9

 

出エジプトの時にイスラエルの民は、荒野の旅に耐え切れずに主とモーセに逆らった。「パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」(5節)と言ったのだ。現代の日本に住む人はこの民と同じ反応を示すのではないだろうか。豊かな生活の中にいては、理解できない事もあるのだ。「こんな粗末な食事」とは、天から降るマナのことだ。霊的にはイエス・キリストを象徴している。実際、イエスがおいでになった時に、イエスを軽んじたり、見下したりした人たちがいた。しかし、荒野で何もない所で命をつないだのはこのマナのおかげであった。天からくだってきたマナは、命のパンとなり、人に命を与えた。勿論、無償である。だから恵みなのだが、その恵みに文句を言いだしたのだ。それで、主は炎の蛇を送ったと聖書に書いてある。その結果、多くの死者が出た。それで、主はモーセに命じて青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げ、青銅の蛇を仰がせた。すると命を得たというのだ。ここまで聞けば、旗竿に掲げた青銅の蛇は、十字架に架かったイエス・キリストの贖いを象徴していると見ることができる。「蛇がかむ」を悪霊の誘惑や攻撃によって、罪を犯す人を象徴しているととれば、私たちがたとえ失敗して罪を犯しても、十字架を仰ぐことにより、罪の赦しがあることを暗示している。クリスチャンがスランプに陥るということはありえないのだが、実際には落ち込むこともあるし、信仰から離れたくなることもあるかもしれない。最もまずいのは、イエス・キリストの価値を理解せずに不平を言うことだ。人生の困難なときにこそ、救い主は必要なのに人の望んだ姿では現れないのだ。イエス・キリストはあなたを死から命に移す力を持っている。あなたができることは、十字架のイエスを信じて、仰ぐことだ。そこがちゃんとしているかどうかが全てを分ける鍵なのだ。あなたが今苦しんでいるのなら、すでに蛇にかまれたからだろう。急いで十字架の主イエス・キリストを仰ぐことだ。そうすれば救われる。(サクマ)

 

 

2月14日(金)

あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。

申命記8:5,6

 

クリスチャンになってからの人生は、単調で平凡のように見えたとしても、実はそうではない。神の訓練が始まるからだ。あなたが賢明な親で子供を育てる時に、子供のことを思うと野放しにしておこうとはおもわないだろう。大人になって困らないように、立派な大人になって欲しいと願い、それ相応の訓練を始めるはずだ。何でも子どもの言いなりになっている親は子供をダメにする危険を冒しているし、だからといって親の都合だけで感情的に怒ったり、可愛がったりしてもだめだ。知恵がいる。親の過ちや不注意で子供の心を傷つけてしまい、それが原因で大人になってからも苦しむ人は少なくない。それ故に、子供をどうやって訓練するかは想像以上に難しく大変な責任を伴う事なのだ。神はクリスチャンとなった人を子供として認め、訓練を始められる。それ故に、クリスチャンの人生にいろいろな事が起こってくる。牧師としてそれらを乗り越え、信仰を整え、信仰で乗り越えることを勧め、励ましてきた。また、その様子をコーチのように見て来たので、日々刻々と訓練が進んで行くことを知っている。それが理解されていないと、当事者は混乱したり、苦しんだり、ただ逃れようとするだろう。しかし、この訓練自体が良いことで、祝福であることを知るべきだ。

主に愛されている者は誰でも経験することなのだ。そして、その過程を通して、古い人から新しい人へと明瞭に変わっていくことになる。これが、主のご計画のままに行われることこそ正しい歩みであるから、クリスチャンになったのになぜこのような試練が起こるかと不思議に思うことはない。あなたは、雄々しく堂々と主の道を歩めばいいのだ。自分の知恵や力で乗り越えるのではなく、どんな時にも信仰で問題を解決していこう。主を信頼して、それを態度にも言葉にも現そう、あなたは、聖霊の助けを得て主の戒めを守らせていただき、霊的に覚醒されて主の道を歩み、畏敬の念をもって主を礼拝し、主に服従しよう。はじめはできなくても、このように信仰を持ては、知らぬ間にあなたは神の子として整えられていくだろう。クリスチャン人生はやはり楽しいものだ。これほど感動的な人生は無い。主の奇跡が自分の内にある。それは信仰という扉を開ければいつでも飛び出してくる。主の慈しみのもとに生きる人よ、主の名をほめたたえよ。主に栄光を帰せよ。(サクマ)

 

2月15日(土)

レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた。ヤコブはラケルを愛していたので、「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます」と言った。・・・ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。

創世記29:17~20

 

世の中はバレンタインデーと騒がしかったが、今日は愛について考えてみよう。聖書の中にも男女の愛の話は出てくる。ヤコブは族長で神からイスラエルと改名を命じられた人だ。その彼がどのように結婚したかが聖書に詳しく書かれている。ヤコブは、叔父のラバンのもとで働いていた。叔父には二人の娘がいた。姉のレアと妹のラケルだ。ヤコブは妹のラケルを愛した。そして、自ら叔父に七年間のただ働きをするからラケルと結婚させて欲しいと願った。さて、ヤコブの愛がどれほどのものであったかは、「ラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた」と聖書に記されている。七年とはとほうもなく長い時間だが愛すると数日のように感じるというのだから驚く。愛の強さは、時間で測れるということだろうか。好きな人と結婚できるのなら七年間のただ働きも頑張れるというのが愛の不思議だ。世界には無数の男女がいて、誰でもよさそうだが、まったくそうではない。たった一人の人を終生の伴侶として選びたいのだ。それなのに、結婚に失敗する人たちは後を絶たない。愛は何だろうとまたしても考えてしまう。ヤコブは、レアとラケルという毎日顔を合わせる二人の女性から妹のラケルを選んだ。聖書はわざわざ、「レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた」と書いてある。「優しい目」というのは、心の優しさを現しているのだろう。事実、レアは夫が自分を愛していないことを知っていた。そして、自分の妹を愛していることを思い知らされる。それでも、夫の愛を得ようとレアの献身は続く。「主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。」普通、跡取りの息子をみごと産んでくれれば、夫の寵愛を得るものだが、そうならなかった。そのために、女奴隷まで差し出してまるで出産競争のようなありさまになる。結果、十二人の子供が与えられた。だが、ヤコブは最後まで自分の選んだ人ラケルに愛を注いだのだ。それは、子供にまで及んだ。そのラケルの子がヨセフだ。聖書の物語の裏には、はかり知れない人間の真理が隠されている。あなたが結婚しているのなら、ご自分の配偶者を愛することをどこまで考えているだろうか。12部族で始まる神の民の物語は、もとをただせば一人の夫と二人の妻の愛の物語であった。それが、円満な夫婦の話ではないので、イスラエルにいざこざが起こっていくことになる。ラケルとだけ結婚していたら、イスラエルに十二部族はなく、果たして聖書はどのようになっていたのだろう。聖書が神と人間の物語になっていることを少し理解でただろうか。(サクマ)


2月16日(日)

実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。

伝道の書5:19

 

神は生きて働いておられます。クリスチャンであれば、神を知っています。ですから、聖書に書かれたことは神の御言葉であると信じているでしょう。今日の箇所を見てください。人生はどうなっているかがわかりますね。「すべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し」たので、ほとんどの人が給料をもらい、それを自由に使っています。昔と違って、今ならお金で何でもできます。ですから、お金が欲しいと願う人は多いのです。中にはお金などいらないと言う人もいるので、いろいろですね。それでも、クリスチャンとして今日の御言葉は、考える価値があります。なぜなら、「神はすべての人間に富と財産を与え」るとはっきり書いてあるからです。しかも、それを楽しむことも許されているのです。ちゃんと自分の分があります。それを受ければいいのです。社会で働くことは時に苦労を伴います。それなのに、それを乗り越えることもできるのです。やがて、人はそれを生きがいと言い出します。一度困難を乗り越えると、次に困難がやって来ても、以前のようにうろたえることはありません。また乗り越えられるだろうと、はじめに思えるからです。心に確信をもてば、ほぼそれはやり遂げていることになります。それよりももっと強いものを信仰と言っています。人生の労苦も喜べる人にされたと信じましょう。お金で不安や心配している人は、神の御言葉の約束を信じましょう。そして、不平、不満を決して言わないようにしましょう。神様の口から出た御言葉はその内容以上にすばらしいことをやり遂げるのです。自分の労苦を喜べるようになることも、神の賜物であることを覚えておきましょう。これらの賜物を信仰でいただきましょう。感謝します。(佐久間) 

 

2月17日(月)

人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。

箴言10:22

 

今日の御言葉は大変わかりやすいですね。神を信じていない人にとっては理解できないことでも、信仰者にはこの御言葉が真理であることは明らかです。神のお考えをすべて理解することはできませんが、神が愛にねざしてすべてを行っておられることはわかります。その愛があまりにも深く大きいので人間ではとらえきれません。しかし、主を愛するということは、心から自然に湧いてくる感情です。それは、主の愛に触れているからこそ起こる奇跡なのです。それで、主を信頼することが普通になっているのです。でも、自分の人生を振り返れば豊かではないと思っている人もいるでしょう。それで、一生懸命に働いて収入を増やそうとしたり、投資をして増やそうと勉強しているかもしれません。そうゆう人の考え違いは、神はあなたに無関心で何もしてくれていない、と思っていることです。主はあなたを祝福してくださいます。というか、祝福したいと熱望しているのです。アブラハムもイサクもヤコブもヨセフもダビデもヨブも、「人間を豊かにするのは主の祝福である」というこの御言葉の証人が幾人もいます。彼らの特徴は信仰が深く、貪欲ではなく、霊的な祝福を受けていた、ということです。さらに、箴言に出てくる知恵を持っていたことです。あなたは聖書を自由に調べることができます。そして、祈って考えてみることです。あなたは神によって祝福されるのです。神はあなたを祝福したいし、豊かにしたいのです。ありがたいですね。ハレルヤ!(佐久間)

 

2月18日(火)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

Ⅰペトロ5:7

 

クリスチャンになってから何度も聞いた言葉に、「思い煩うな」という言葉があります。そこで、「思い煩わない」ように努力することになります。ところが、頭ではわかっているのですが簡単にはできません。そうなると今度は「自分には信仰がないのではないか」と悩んでしまうことになります。やっかいですね。さて、イエスの弟子ペトロは、ちょっと違った言い方で「思い煩わない方法」を教えています。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という言葉です。つまり、自力ではどんなにがんばっても思い煩わないようにはできないのです。勝手に心に浮かんでくることなので、コントロール不能に思われます。では、「神にお任せする」ことはできるでしょうか。これは「ゆだねる」ということです。残念ながら自分を神にゆだねるということが普通ではできないのです。それで、クリスチャンは祈りの中で解決しようとするでしょう。その時に、重要なことは、「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」という後半の御言葉です。このことが信じられるなら神に全てをゆだねることができます。どうでしょう。あなたは神があなたのことを心にかけていてくださると信じられますか。ここが解決していないのなら、ここから始めるべきです。神を信頼できるのなら、今度は、自分を捨てることです。自分の思い通りになるよう神をコントロールしていませんか。自分の考えが絶対だと思い込んでいないですか。この問題は無理だからと信じていませんか。「人間にはできないが、神にはできないことがない」と聖書はハッキリ書いてありますよ。神を信じるということはすばらしいことなのです。神があなたを愛していることを知っているのなら、もっともっと愛される喜びを確かめたらいいのです。イエスはあなたのかたわらにいて、ゆだねることも助けてくださいます。いつの間にか思い煩いが消えているはずです。そのうち、思い煩うことができなくなっているでしょう。(佐久間)

 

2月19日(水)

そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

Ⅰペトロ2:24

 

私の信仰はまだまだダメだとおっしゃる方がいます。また、自分のコンプレックスをいつもでも引きずる人もいます。自分の足りなさをいつまでも嘆く人もいます。福音を信じて救われたという意味をまだ理解していないのでしょうか。「自分は本当に救われているのだろうか、いやまだまだだ!」とため息をつく人は、どうすればいいのか、ととほうにくれるでしょう。しかし、あなたが信じたイエスはどこにいますか。目をあげて主を仰ぎなさい。イエスは、ほら、十字架の上にいるのです。あなたの足りなさも罪も欠点も何もかもあなたを苦しめてきたものを贖うために十字架で苦しんおられます。そして、聞こえるでしょう主の最後の御言葉が、「すべてが終わった」と。つまり、あなたはそのまま何もできなかったでしょうが、主はあなたの贖いをすべて終わらせ、やり遂げたのです。なんと、ありがたいことでしょう。このことがわかれば、あなたの信仰を働かせなさい。あなたが納得するまで十字架の主を仰ぎ続けるのです。あなたが自分の罪や欠点を贖うのではなく、この十字架の主があなたのために贖いすべてを終わらせてくださるのです。あなたは、そのことを信じたので、今やすべてが新しいのです。あなたの病んでいたところは、イエスの打たれた傷によって、すっかり癒されたのです。ハレルヤ。主をほめたたえましょう。そして、どうどうと自信をもって生きてください。あなたは輝いて生きることができるのです。主はあなたをご覧になって、「素晴らしい、私の愛する子。わたしの創造の傑作」と叫ばれるでしょう。だから、そのように生きてください。主が十字架上で成し遂げられた義によってあなたは生きるのです。(佐久間)


2月20日(木)

何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。

フィリピ2:14

 

人の器の大きさを測るのに、今日の御言葉はぴったりです。いつの世も世界が必要としているのは器の大きな人物です。心を平らかにして、寛容を身に付け、何事も、不平や理屈を言わずに行う人になりたいものです。クリスチャンが歴史の中で認められた一番の美徳は、今日の御言葉を実践したことです。人がいかに不平を言っているか、今度客観的に周りの人を観察してみるとよくわかります。ある時、大きな病院の事務室から大きな声で言い合っているのが聞こえてきました。あまりのことで、聞いていると、どうやら事務員の人が病院の電話をたびたび私用で使っているのを事務長からとがめられたようです。ところが、事務員はあやまるどころか、へりくつを言って自分の事を正当化しようとしているのです。それが聞くに堪えない理屈なのです。あきれてどんな顔をしている人か見てしまいました。この病院がどんな病院かこの一時で患者さんたちは理解したでしょう。興味深いのはこの病院は、宗教を否定している思想の病院だったのです。一方、キリスト教の病院では、どうでしょうか。患者さんは他の病院との違いをすぐに感じます。スタッフが優しく親切なのです。勿論、人間ですから時には不平を言ったり、トラブルもあるでしょうが、本質が聖書に根ざしているので、うわべだけの親切ではないものを感じさせるのです。世の中には、クリスチャンでなくても立派な人は大勢いるでしょう。しかし、自分の行動規範を聖書のように長い年月の風雪に耐えてきたしっかりしたものに置いている人はどんなに小さな人でも愛を感じるのです。無名で地位も権威も富もとりたてて無くても、器の大きな人になることはできます。あなたの置かれた場所で、今日の御言葉を信仰で実践してみましょう。聖霊はきっと助けてくださるでしょう。イエス様、と呼びかけることのできるあなたは、弟子としてこの御言葉を受け止めることができるでしょう。主の御目に美しく生きたいですね。(佐久間) 

 

2月21日(金)

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

マルコ10:45

 

「仕える」ということを考えてみましょう。イエス・キリストの教えは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ10:43,44)というものです。クリスチャンとは、一度罪人の命を捨てた者です。それ故に、新しい命に生きるキリストに似た者であることを求めます。キリストは私たちの模範となられたお方です。主ご自身が「仕えるために・・・来た」とお語りになられました。その通りに、毎日毎日休む間もなく人々に仕えました。王の王であられるお方が、身分にかかわらず、貧しい人でも、罪人とさげすまれている人でも、生きて行くために物乞いになっている者でも、重い皮膚病にかかり世捨て人になった人にまで、仕え続けたのです。私たちは、どうでしょうか。ボランティアで困っている人や弱い人を助けて、「自分は仕えてあげたぞ」と誇らしく思うならば、それはキリストの教えられたこととは違っています。「仕える」が誰かからの評価を期待したり、価値にしてしまうことはやはり罪なのです。自分がまだ生きているので「仕える」を「価値」にしてしまうのです。キリストが「仕える」と言われたのは、究極的には、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」ことだったのです。ですから、罪人の自分が人に「仕える」といってもだめなのです。キリストの十字架の上に死ぬ以外、私たちは人の目に自分が価値あるよう見せようとしてしまうのです。「仕える」というへりくだりの中にまで、まだ罪を持ち込んでしまう愚かさを人間は犯してしまうのです。だから、この部分で、自分を捨て、罪人の自分に死ぬことを確認しなければなりません。そうでなければ、いつも人に振り回されて、怒ったり、不平・不満を言ったり、泣いたりすることになるのです。最悪は、高慢になってしまうこうとですが・・・。それでは、正しく「仕える」ということはどういうものであるかと言えば、「仕えてあげた」と思うのではなくて、「仕えさせていただいた」と感謝できることです。目の前の小さき者が実はキリストであるかもしれない、とクリスチャンは考えて行動しているのです。だから、仕えることの背後にいつも信仰が働いているのです。神の国はこのような者のいる所なのです。(佐久間)

 

2月22日(土)

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。

詩編130:2~8

 

今日は安息日なので、少し長い聖句を選びました。心を静めてゆっくり味わって読んでください。罪の世に生きる者は、深い淵の底にいるようなものです。何が希望か分からなくなります。目の前のことにしがみつき、損得で生きようとしたりします。人のために自分が犠牲になるというようなことは嫌います。人は二十歳を過ぎればだんだん歳をとります。肉体が歳をとっても精神が成熟するなら意義があります。しかし、それは容易くありません。衣食住の順番で欲求が強く働きます。では、それらが満たされたらどうするのでしょうか。愛する者がいても、自分の思い通りにはなりません。それで悩むならそれも空しいことです。さて、もしあなたの心が晴れずに何か悩みがあるのなら、この詩編の御言葉を考えるべきです。神を信じる者は主の慈しみが保障されているのです。そこに生きなければなりません。主に立ち返る必要を認めたら、心を悩ませていたこの世のものが薄れ消えていきます。主に集中して「わたしは主に望みをおきます」と祈るでしょう。「主が来て下さるのなら、主の御言葉が与えられるのなら」と主を待ち望むのです。すべての罪が贖われるので、希望があるのです。あなたの不安や心配は、主があなたのもとを訪れた時に喜びと平安に変えられるのです。ただ一つ、主を求めましょう。(佐久間)

 

2月23日(日)

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

ヨハネ15:9

 

イエス様はあなたに語りかけます。「私はあなたを愛しました」と。あなたは今日の御言葉を読んでどう思ったのでしょか。イエス様に愛されたとは気が付かなかった、と思われたでしょうか。人に愛されても私たちは嬉しくて有頂天になります。それが神様ならばどうでしょうか。夢中になって神様のことばかり考えるかもしれません。どん底のセルフイメージも針が振り切れるほど高く跳ね上がるはずです。神様が愛するとおっしゃるほど価値があるということですから。父なる神様が御子イエス様を愛されたように、主イエス様はあなたを愛しておられるのです。あなたがバプテスマを受ける前からです。なんと2000年も前からです。主イエス様は十字架に架かるほどにあなたを愛していたのです。あなたの救いの為に命を捨てるほどの愛があなたに今も注がれています。そして、ここからが大切なことなのですが、イエス様は「わたしの愛の中にとどまりなさい」とおっしゃったのです。あなたにとっての主の十字架の意味が分かれば、あなたはハッキリと主の愛がわかるはずです。その愛の力はあなたをみちがえるほどすばらしく変えることができるのです。あなたは一度神の愛を知って、それであとは自力でがんばるようにとは言われていないのです。主があなたを愛するとおっしゃれば、それは永遠に変わらない愛を注いでくださるということです。あなたは、その愛をエネルギーにして生きているのです。愛されている人は強いのです。たとえいじわるをされても愛で返すことができるのです。それは、はじめは信仰がいることで、忍耐が試されるでしょうが、そのうちに自然になります。それは、主の愛がどんな時でもあなたに注がれているからです。あなたが困って泣きそうになっていたら、信仰で「私は主の愛を疑いません。あなたが愛してくださるので愛の中にいることができます。それを信じているかぎり、あなたの愛の中にとどまり続けることができます。あなたを愛します。主よ、あなたを愛します」と祈ります。人間の力で努力したぐらいでは主の愛の中にとどまることなどできないでしょう。でも、主が愛し続けてくださるので愛の中にいることができます。それを信じて疑わないならば、愛の中にとどまることができるのです。瞑想しましょう。イエス様に愛されていることを。(佐久間)

 

2月24日(月)

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。

Ⅰヨハネ4:1

 

クリスチャンは信仰を持っていきています。彼らは目に見えないことを信仰で見る人たちです。その原動力は神の愛にあります。罪人として生きてきた自分がどんな者であるか神はよく知っているにもかかわらず、罪を贖い、清め、新しく生まれさせてくださるのです。ですから、自然と神への感謝が湧いてきます。神を讃美すると力がみなぎり、聖なるご臨在が満ちてくるのです。それですから、神を人間の知識だけで知っているのではなく、信仰によって霊的にも知っているのです。そのことが人を神の子へと変えていくのです。さて、少し、霊的なことを理解して、大丈夫と思っていると汚れた霊が騙そうと現れることがあります。狂信に走る時にはまずこのような霊が背後にいるものです。また、平凡なクリスチャン生活に満足しない人たちは、汚れた霊、偽りの霊の誘惑の罠に陥ることもあります。神の御声と思っていたら、実は悪霊の声だった、というような笑えないことが起こったりします。宗教の霊と言われたりすることのある霊ですね。そして、ヨハネの手紙は偽預言者を警戒するように警告しています。現代のような非常に科学が発展し、高度の学校教育を受けるようになっても、偽預言者が消えることはありません。逆に増えているように見えるし、実際、誰でも預言者になれると言う者も現れ、預言者の学校やセミナーを開くことも起こりました。こうした偽預言者はだいたいキリスト教会を中心に現れてくるのでアメリカでは教会で預言のミニストりーと呼ばれる働きが広がって問題となっていたります。また、日本のような国では信仰宗教の形をとることもあります。操霊術、つまり霊能者がいる宗教です。不思議なことに、偽預言者はばかばかしい事を語ることがあるのですが、洗脳されているのか、霊的な縛りのせいなのか、正常な大人なら気が付く偽りを見抜けなくなってしまいます。横浜に大地震がすぐにも来ると預言して大騒ぎをした人たちがいましたが、結局来ませんでした。このような事は日本でも意外と多くあるのです。世界に目を向けたなら驚くほどあるのです。このようなことも気を付けていなければなりません。すべての基準である聖書を良く理解しているのなら、騙されることを防げるでしょう。信仰によって生きることは自分を守ることになることも覚えていたいものです。(佐久間)

 

2月25日(火)

あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。

マタイ6:32~34

 

あなたは信じるだろうか、あなたが必要とするものの全てを天の父がご存じであることを。そして、それをすでに与えることは決まっているのだ。しかし、普通の方法で与えることはできない、天の父のルールに従う必要がある。それは難しくない、とても簡単だ。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。それだけなのだから。これならば、あなたにもできるだろう。いや、あなたはおそらくこの御言葉を知っていて、試しに祈ったのではないだろうか。その時に、もしかしたら神様は私の必要を分かっていないかもしれないので、教えておこうと思ったかもしれない。それで、「何よりもまず」と書いてあるのに、他のことを付け足してしまったのではないか。神様との関係が信仰によって自分の全てになれば、この世の必要を満たすことなどたやすいことなのだ。しかし、神の国と神の義を求めるのは一時のことになって、あっという間に忘れてしまうかもしれない。そして、自分で自分の必要を満たそうと、自分の力で頑張る事になっていないだろうか。あなたは、もともと罪人だったのだ。自分の力ではなんともならないほど汚れていたのだ。それなのに、主イエス様は、あなたを憐れみ、傷ついているあなたを抱きかかえて救ってくださったのだ。あなたは、何もできなかった。それなのに、主はあなたに優しかった。あなたを癒し、新しい命を与えるために、十字架で死なれた。これが神の義だ。決してあなたの罪を見逃したのではない。厳しく裁き罰したのだ。ただ、その罰を受けたのはあなたではなくイエス様だった。ここに愛がある。あなたにもこの愛がわかったので、この世を捨てて神の国に生きることを選んだ。そのためには、イエス様の十字架に現れた神の義が不可欠だった。だから、あなたは神の国と神の義を求めるというわけだ。そのことがちゃんとできるのなら、明日のことまで思い悩むことはない。イエス様から目を離してはならない。あなたはすでに祝福されているのだから。(サクマ)

 

2月26日(水)

そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。

コロサイ1:11~12

 

キリスト者になってから、人生は大きく変わります。イエス様を個人的に知ったからです。大きな変化は、天からの力が自分に働くようになったことです。何のための力かと言えば、それはどんなことにも根気強く耐え忍べるようになる力です。だから、自分の力に頼って耐えるようなこととは大違いです。恨みがましい思いも、弱音も、怒りも、嫉妬も、妬みも、そうした否定的な思い一切から完全に切り離されて生きているのです。この世の望みもないことはないでしょうが、些細なことに思えてきます。イエス様に生きたお方として出会っていなければ、思いがこれほど変わることはなかったでしょう。せいぜい、戒めを自力で頑張って守ろうと言う程度のことでしかなく、それを信仰と見誤っていたでしょう。しかし、喜びの根源が「光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかれるようにしてくださった」ことにあります。この世での栄達や少しばかりの良い生活などに望みをかけるのではなく、神の国の中にすでに生きている者として、天国での望みを持って雄々しく生きるのです。大切なことは、イエス様を生きて働かれるお方として知ることです。そこから、すべてが始まるからです。あなたの救われたことが本物であることを確信しているのなら、イエス様との時間を求めていくことです。イエス様と一緒にいて否定的な思いや、消極的な考えに陥ることはできません。逆に肯定的、積極的な考えが普通になり、へりくだりのなかにも力強い信仰が身につくでしょう。そして、天の御父に感謝が溢れるでしょう。そのようになったあなたの姿を想像してみてください。良い信仰が身につきますように。(佐久間)

 

2月27日(木)

──【主】の御告げ──わたしがあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかった。

エレミヤ7:13

 

この世で生きることは容易くはない。一生苦労しないということはないし、病気や好不調もあるし、災いの日もくるだろう。人々は一体何を考えて生きているのだろう。とりあえず衣食住が足りていれば、あまり考えずに生きているのだろうか。日本の歴史を見ても、戦国時代が終わり、徳川の時代となって天下泰平が長く続くと商人が台頭してきた。金が力を持つ世の中になった。人々は贅沢をしたくなり、武士も例外ではなかった。収入は変わらないのに支出は増えていったのだ。そして、権力を得るためにも、出世するためにも、金が必要となった。その仕組みは、今も変わらない。さて、私たちはこの世のどこかに自分の場所が決まる。そして、少しでも今より良い地位や良い境遇へと自分を進めたいと思っているかもしれない。現状に対する満足度が低いほど、この欲求が強く働いているだろうが、満たされることはほとんどないだろう。そして、そのような人たちのグループに属する人が一番多くなる。さて、キリスト者と呼ばれる人たちはどうしているだろうか。もし、イエス・キリストに出会ったのなら、このような世界からすでに出てしまっているはずだ。しかし、生けるキリストに出会っていると思っただけならば、この世にまだ属しているだろう。どこで見分けるかといえば、福音が分かっているかどうかということだ。イエス・キリストに出会ったのなら、大喜びしているはずだし、自分の深い罪の問題から、助け出してくださる主イエスを感謝せずにはおられない。なぜなら、何も良い事をしていないのに、恵みで救ってくださったからだ。さて、次の問題は、救われたあなたが主の御声を聞いているのに答えないという問題だ。キリスト教もただの知識や道徳・倫理にしてしまえば、御声を聞くなどという事はできないだろう。でも、聖書に出てくるイエスに救われた人たちは皆イエスの御声を聞いて生まれ変わった。つまり、御声に応えたのだ。自分の幸福の追求だけに神を利用しようとする人は、みじめな結果を待たなければならない。この世の理不尽な災難や艱難が自分の上に襲ってきた時にこそ、主の御声を聞いて感謝する者へと変えていただきたいものだ。イエスに似た者へと変えられることはクリスチャンの願いだから。あなたが、心が淋しくなって、不安の中ある時にこそ主の御声を求めよう。主は、お語りになるだろう。その御声を悩みの日に聞けるなら、あなたは困難すら感謝しているだろう。そうやって、あなたは主の徳の高さへと変えられていくことになる。(サクマ) 

 

2月28日(金)

しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。

出エジプト記19:17~19

 

神の民とは神と会うことを許された特別の人びとのことです。神はここでモーセに語り、二日間聖別し、衣服を洗わせました。そして、三日目に神の民と会うために神はシナイ山へ降り立ったのです。いったいどのようなことが起こったかと言えば、三日目の朝にそれは始まりました。雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので民は皆、震えあがりました。モーセは、そのような状況の中で神の民を連れ出してシナイ山のふもとへ立たせたのです。目の前でシナイ山は全山煙に包まれていきました。その時、主は火の中を山の上に降りたったのです。そのために山全体が激しく震えました。角笛はますます鋭く鳴り響いていました。その時、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられたというのです。フィリピンにいた時に、雨季になって、ある日今までで一番激しい雨が降りました。全く前が見えずに天の水桶がひっくり返ってしまったような恐ろしい雨でした。大きな音がして、考えられないような激しい雨でした。地面はたちまち洪水のように水かさを増していきました。その時雷鳴がいきなり聞こえました。まるで、爆撃されているように次々と落雷が近くで起こったのです。地響きがしてさすがに恐ろしくなりました。神の民は、それ以上の恐怖を味わったと思われます。神を目の前に見たからです。私たちは、普段は神を目の前に見ることはありません。もし見たら、即死でしょう。聖書の民も、煙の中に神を見たのであり、シナイ山のふもとと頂上という距離もありましたが、それでも、はっきりと神の臨在を体感したのです。聖書の大切なことは、この出エジプト記から始まります。モーセの五書の中で一番ページをさいて伝えたいことがこの出エジプトの出来事だったのです。ここに、すべての原点があります。その物語の中でも、この場面はドキドキする箇所です。神の民は、自分を救ってくださった神と間接的であったとしても、会うことが必要なのです。そのような特別な経験があることも覚えておきましょう。また、毎週の礼拝はこのように神の民が招かれて、御そばに近づき、降り立った神を拝むこと、そして御口から出る一つ一つの御言葉を聴くことが大切だと教えているのです。ちなみに、この時に与えられたのが十戒です。興味深いですね。(佐久間)