2014年3月

3月1日(土)

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

ローマ3:23~25

 

米国のキリスト教系調査会社バルナグループが最近、「誘惑とアメリカ好みの罪」と題した世論調査を実施したそうです。調査の結果、大半の米国人が誘惑に負けて犯してしまう罪のトップ3は、「やるべきことを先送りする」「食べ過ぎる」「メディアに時間を使い過ぎる」の3つだったそうです(CNNより)。さて、皆さまはこの記事を読まれてどう思いましたか。現代の罪のトップ3が、予想していたもの違っていたのではないでしょうか。それどころか、自分にも心当たりがありませんか。アメリカ人はこれら新しい罪を認めているのです。同じような文化になった日本人にも同じような誘惑があるのではないでしょうか。神を裏切ったり、隣人を傷つけるようなことではなくて、まったく自分の問題です。罪は時代を反映することがよく分かりますが、結局、罪を表すギリシャ語のハマルティアの意味通り、「まとはずれ」で自己中心な姿がそこにあります。このように、いつになっても人間は罪の誘惑から逃れることができないのですが、救いはすでに用意されているのです。それは、イエス・キリストを信じることです。イエス・キリストだけが、この罪の誘惑から救いだし、罪の決着をつけてくださるのです。罪深い人生を過去に過ごしてきたとしても、イエス・キリストはあなたの罪をきれいに解決してくださいます。神の恵みによりただで、あなたを罪人から義人へと変えることができるのです。勿論、あなたの信じる信仰が無ければできません。でたらめに生きいて、それでも自動的に救われるというのではありません。あなたが、イエス・キリストを信じたからこそ、奇跡が起こって救われているのです。さて、あなたはイエスとの関係をより良いものにしていかなければ、現代の誘惑と罪から自由にはならないでしょう。罪がどれほどみじめなものかあなたは知っています。イエスを信じることの素晴らしさもあなたは良く知っているのです。だから、誘惑に勝てるはずです。もっと、イエスとの関係を深いものにしたいですね。聖霊に話しかけてみましょう。静まって、聖霊の存在に神経を集中してみましょう。イエスを感じてみましょう。あなたは、特別な存在なのです。イエスを喜び、讃美し、祈りましょう。(佐久間)

 

3月2日(日)

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

マタイ7:13~14

 

あなたは考えたことがあるだろうか。人間が進む道には二つの門があって、一つは広い門、もう一つは狭い門である。聖書に書いてあるように、広い門は滅びに通じているが、狭い門は命に通じているのだ。当然のように広い門から大勢の人が入っていくが、狭い門は見出すこと自体が難しい、なにしろその道も細いからだ。さて、聖書の御言葉を真理と言ったり、神の御言葉と言ったりするのを聞いたことがあるだろう。そうであるのなら、今日の御言葉の教えていることは、とても恐ろしいことであると気が付く。何も考えずに、自分の心のままに好き勝手に生きてしまうと、後で後悔が待っていると言ってよい。それどころか、クリスチャンになっても、この狭き門を見出し、その門をくぐらなければ意味がないことになる。そもそも、クリスチャンになること自体が日本では、とても難しいことになっている。しかも、宗教がなんであるか分からないような人たちによって、いい加減なことがなされて、カルトのようなものが起こったり、拝金主義の金儲けにはしる宗教などが、日本人の心を宗教離れへと向けてしまった。東日本大震災の時に、日本では暴動や強奪などが起こらなかったことに世界は驚き、日本人への賞賛が相次いだ。しかし、その日本人のすばらしい精神は何によって作られたか考えて欲しい。現代の教育がこの高い精神性を生んだとは言えないだろう。高齢者の人達が知っている日本人の高潔な精神は、かろうじて若い世代へと受け継がれているといいたいが、心もとない。学校はとうに道徳や倫理のような心の教育をやめてしまったようだ。知育と体育に特化してしまい、徳育はどこかへ行ってしまっている。勿論、内村鑑三の時代から、知育は学校で、徳育は教会で、と分かれてしまっていた。内村鑑三は、人間を教育するということは知育も徳育も一緒に教えなければ人物が育たないと考えた。それは、日本の藩校が実践していたことで、内村はそれこそが理想だと考えていたようだ。つまり、今日もその藩校の教育の余韻があるので、世界が日本人の精神性の高さに驚いたということのようだ。さて、私の考えは、キリスト者は道を求めていくもので、自分をキリストの徳の高さへ高めていくものであると考える。そのために教会に牧師や預言者、教師、伝道者、使徒、といった五役者が備えられている(エフェソ4:11)。彼らはあなたのために奉仕するだろう。こうしたキリストに似た者へと造りかえられる道を辿る先に狭き門がある。だから、クリスチャンになっても何もこの世の人と変わらない生き方をしているなら、それは滅びに至る広き門を大勢の人達と一緒に通っているようなものなのだ。聖書を学ぶこと、そこで学んだことを実践すること、自分を捨て、へりくだってキリストの御足の跡をたどるような生き方が求められている。霊の賜物を理解し、伝道のためにそれを使うことも、信仰の業である。一年経っても自分が変わらないのなら、悔い改めて生き方を点検すべきである。勿論、人間の努力でどうかなるものではない。聖霊との関係が如何に深められるかでずいぶんと変わっていくはずだ。祈りに主は答えておられるが、人はそれが聞こえないのだ。預言者がいれば、勿論主の御声を聞くことができる。また、聖霊に満たされた聖徒がいれば、その人も主の御言葉を伝えてくれるだろう。そのような、神の国の不思議に接することも、狭き門への細い道なのだ。あなたは、どんなクリスチャンだろうか。(サクマ)

 

3月3日(月)

なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。

エフェソ6:16

 

クリスチャンは戦いの中に身を置いています。それは、この世の支配者を気取る悪魔を敵としているからです。多くの人は、いまだ悪魔の奴隷です。神が人間に自由意志を与えてくださっているので、自由だと勘違いしている人も多いのですが、霊の目を開けば奴隷なのです。それらの被害ははなはだ大きいのですが気が付くこともありません。イエス・キリストと出会うまでは己の真の姿に気付くことはありません。イエス・キリストの十字架での勝利は、私たちの救いのためでした。救いとは、罪と死と悪魔の奴隷からの解放のことです。それで、自分の状態を信仰によって知る必要があります。聖霊が信仰によって自分に注がれ、内住することを知れば、自分の状態が変わったことを理解しやすいのです。そして、エフェソ6章にあるように、神の武具を身に付けることをしなければなりません。さて、そのように、クリスチャン生活を送っているあなたに、敵は攻撃を仕掛けてきます。それは、悪い者の放つ火の矢です。悪意、皮肉、陰口、悪口、うわさ、無視、このような感情を混乱させるような攻撃が火の矢です。信仰は自らの意志で成立しています。それだから自由意志が重要なのです。それで、信仰の盾で火の矢をことごとく消すことができると教えているのです。つまり、挑発にのらないことです。何を言われても、クリスチャンになる以前の自分に戻らないということです。感情の暴走を自由にしてはいけません。敵の罠にまんまとかかれば、ひどい目に遭うのは自分だからです。冷静に、罪人も背後の悪霊もすでに主の十字架に敗北しているのですから、火の矢はまったく無力なのです。相手と一緒に頭にきても得るものはダメージだけで、益がありません。でも、信仰の盾を使えば、何をされようが、何を言われようが、まったく影響がないのです。記憶にも残りません。頭にもきません。逆に憐みの情が湧いてきて、執成して祈りたくなるでしょう。祝福さえするようになります。悪魔は怒り狂って、さらに心に直接悪感情を送り込もうとしますが、これも信仰の盾で防戦すればいいのです。間違っても、敵の手にのってよからぬことを考え、深みに足を入れてしまわないことです。気づけば相手以上に罪を犯してしまうかもしれないのです。ですから、自力で戦うのではなく、あくまで信仰で戦います。右の頬を打たれたら、左の頬を向けるのです。相手は恥じ入るしかありません。さあ、あなたは信仰の盾を手に入れましたか。それなら早速使ってみましょう。クリスチャンの勝利の仕方が分かってくるでしょう。(佐久間) 

 

3月4日(火)

知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。短気な者は愚かなことをする。悪をたくらむ者は憎まれる。

箴言14:16,17

 

人間の面白さは、知恵ある者にも愚かな者にもなれるということです。アニメのサザエさんがいつまでも国民に愛されているのは、このことと関係があるでしょう。バカだな!そそっかしいなぁ!と笑って見ているうちはよいのですが、実は、自分も同じようなことをすることがあるのに気が付かないのです。さて、今日の聖句を良く見てみましょう。悪を避けることは、用心深くなければならいほど難しいことなのでしょう。知恵ある者は、それができる人のことです。愚かな人は、妙に自分に自信があるので用心をしないで痛い目に遭うのです。それでいて愚かなので、すぐに怒るのです。用心しなかった自分が悪いのに、いったい何に怒っているのでしょう。また、短期はやはり損です。武道を志した者ならば、いかに冷静であることが重要か知っています。時には生死を分けることになるからです。オリンピック選手が競技を楽しむと言っていました。それは、緊張を知っているから出てきた言葉であるように感じました。楽しむ心があれば、適度の緊張も力に変えてしまう利点があるのでしょう。今日の御言葉で最も心に残るのは「短気な者は愚かなことをする」という御言葉です。感情のコントロールが効かないと、平常心では絶対ありえないことをしてしまったり、言ってしまったりします。これは後で相当落ち込む原因になります。ソロモンなら「それは、狂気だ!」と言いそうですし、悪魔なら「私にそっくりでビックリしたけど、すごく嬉しい」などと言われそうです。自分の家系が短気の家系であるからしかたがない、とあきらめている人は、イエス・キリストの救いが良く分かっていない、と言われてもしかたありません。十字架に架かって死なれたのは、あなたの短気が死ななければ治らなかったからです。それでイエス・キリストが身代わりに死んでくださったのです。あなたが救われたと信じているのなら、短気も死んでしまいました。信仰で克服できることは多いのです。知恵のある者として生きることができるように、少し反省してみましょう。(佐久間)

 

3月5日(水)

そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

マタイ15:28

 

イエス・キリストから信仰を褒められた人がいます。この人は、自分のためでなく娘のためにイエスに近づきました。この女はカナン人でイスラエル人ではありませんでした。この女はイエスに叫びながらついてきました。そして、イエスと短い問答があり、最後に今日の聖書箇所の通りになりました。ここから、何が学べるでしょうか。お母さんは娘のために、ここまで必死にイエスにすがるものなのだ、ということでしょうか。ここで、イエスはカナンの女に「小犬」という言い方をしたのですが、この時の女の返答が素晴らしかったのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(27節)。普通、「小犬」呼ばわりされたら怒るでしょう。否定的な感情が頭をもたげてくるでしょうね。しかし、少し気の利いた人ならば、クリスチャンは何でも肯定的に考えるという、良い考え方をするべきだという教えを思い出すかもしれません。可能思考とか、積極思考とかいうような考え方ですね。しかし、信仰はもっと素晴らしいのです。自分を高めていないのです。自分を誇る気持ちがありません。そこで主のお言葉をありのままに受けました。つまり、主の憐みによって生きる者である、と認めたのです。だから、主は褒められました。これが聞かれる祈りの極意ですね。この境地にいつでも立っていたいものです。(佐久間)

 

3月6日(木)

同胞の牛または羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない。

申命記22:1

 

聖書時代の人々は、財産が家畜でした。今でも、羊一頭を買おうとすれば、相当のお金が必要です。ましてや牛ともなれば、桁がはねあがります。ですから、家畜がいなくなれば大変なことだったのです。現代なら銀行帰りに貯金通帳を落としたとか、どこかで高級腕時計を忘れてきたとか、決してしかたないと簡単にかたずけることができないで、大騒ぎをして探すようなもののことでしょうか。イエス・キリストも100匹の羊を飼っている人が1匹いなくなったら、99匹を置いて、いなくなった1匹を探しに行く人の話をしました。それほど、大変なことなのです。それで、同胞の牛や羊が迷っているのを見て見ない振りをしてはいけないと定めているのです。もし、見かけてもめんどうだから、他人のものだから、と見なかった事にすることは大きな罪だったのです。もし、持ち主を知っているのなら無事に連れ帰ってあげなければなりません。誰のものかわからないのなら、家に連れ帰って持ち主が探しにくるまで預かっていなければならないのです。これは家畜だけに限られていませんでした。同胞の持ち物すべてに同じことが要求されます。さて、あなたは何か大切なものを落としたことはありますか。財布とか、携帯とか、無くして困ったことがあったのではないでしょうか。そんな時に、誰かが親切に交番まで届けてくれて手元に戻るということもありますね。とても嬉しいものです。息子が高校の時に、サッカーの練習をする公園のような広い練習場がありました。ある日、息子が携帯を落としたようだと言ってきました。しばらくして、息子の友人から携帯を拾った人から電話があったと連絡がありました。それで、その人に連絡して、車で拾ってくださった方の家へ行きました。親切そうな老夫婦が出てきて、サッカーの練習をしていた広い公園を散歩していたら、落ちている携帯を見つけたと話してくださいました。アメリカでの話なので、近くに交番があるというような事はありませんので、携帯のアドレス帳から誰かに電話したら分かると思って、電話してくださったのです。そのおかげで、息子は携帯を取り戻すことができました。めんどうだからと見て見ぬふりをすることもできたのですが、落とした人はきっと困っているだろうと思って、親切に助けてくれたのです。クリスチャンの私たちは、今日の御言葉を忘れないようにしましょう。手間がかかることを惜しんではいけません。誰かを助けることは、気持ちの良いことです。人に親切にすることをモットーにしたいですね。(佐久間) 

 

3月7日(金)

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。

マタイ23:23

 

玉川大学教授の前島誠先生が自著の中で面白い話を書いている。引用してみよう。「先生がエルサレムに滞在している時に、前方から近づいてきた少年が、右手をさしだしてこう言うのだ。「そのボールペン、一本おくれよ・・・」。言われてみれば、先生の胸ポケットにペンが二本さしてある。彼の目はじっとそこに注がれているが、顔つきはきわめて明るい。「ダメだね、これは大切な商売道具。旅先だし、とてもあげられないよ」。先生はそう返事をした。すると彼は言った。「あなたには二本ある、俺はゼロ本。だから一本くれるとジャスティスじゃないか」。ジャスティス(義)?とっさに何を言われたのかわからなかった。だが、相手の堂々とした態度に圧倒されたのか、ボールペンの一本は少年の手に渡ることになった。宿に戻って考えているうちにハタと気づいた、(そうだ、これが義だったのか・・・)。先生は、ヘブライ語のツェダカー(義の意)を思い出したのだ。ユダヤ教の言う施しは、「持てる者が持たない者へさし出す当然の義務」なのだ。つまり、すべては神の所有物であるから、人間は本当は物をもっているのではなく、使わせていただいているだけだ。そうであれば、少年の言うことは義となる。キリスト教の施しが善行であるのとは、そもそも違っている。そういえば、私もフィリピンで暮らしている時に、同じようなことが何度もあった。日本人は世界では金持ちなのだ、だから、沢山持っている者から持ってない貧しい人がもらうのは義なのだ、と彼らは考えていた。そこで、タクシーに乗るにも、他のアジア人とは値段が初めから違っている。それを高くふっかけられたと憤慨していたが、多く持っている者から取るのは正しい、と言われて妙に納得してしまった。そういえば、次々にねだってくる現地の人達に、「日本人でも私は金持ちではない、日本では貧しいのだ」と言い訳をしていたと思う。それが、どんなに説得力のないものであったかは、あとで振り返った時に分かった。世界中から留学生が集うキャッパスで、どこの国から来たかで、アパートの中の家財道具が違っているのだ。がらんとして何もないアパートの人もいれば、免税店で電化製品を安く買えるからとテレビ、洗濯機、冷蔵庫、オーディオ、と高級家電を買いまくる国の人達もいた。来た時はスーツケースで来たのに、帰りには大型コンテナで荷物を送る人達もいた。学校は国による経済格差があることを考慮して、すべての学生が生活費を一月三万円として、学校の口座から引き出せるようにしていた。それが一か月生活するわけだが、日本人はそれでは生活できずに二倍はかかる。でも、三万円で普通に暮らせる人もいるし、贅沢だと感謝して生活している人もいるのだ。生活レベルの格差があることを痛感した。どの国のどのような境遇に生まれてくるかは神のお決めになることだが、そこでどのように生きているのかを神は全てご覧になっているのだ。今は、聖書時代とはまったくかけ離れた文明生活を送っているとはいえ、真理や原則が変わるわけではない。だから、「正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」と言われないように生きたいものだ。(サクマ)

 

3月8日(土)

あなたが隣人に何らかの貸し付けをするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい。もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう。

申命記24:10~13

 

人間としてやっていいことといけないことを聖書は示している。原則は愛の実践だ。人間の世界では、どうしても立場の弱い人と強い人が出てきてしまう。理由はあるのだろうが、弱者が存在することは事実だ。その弱者に強い立場の人はどうすればよいのかと考えることが大切だ。なぜならば、人を卑しめることになるかもしれないからだ。人の尊厳を冒してはいけない。弱い立場の人は、時に隣人に頼らざるを得ない事がある。その時に担保を取ることになるだろう。ここで、強い立場を利用して家に入り物色してはいけないと教えている。最も貧しい人の担保にできる持ち物は上着だった。この上着は夜には毛布がわりにして使うものだ。そこで、担保として取った上着を夜には返してあげるようにと教えている。日本なら、こんな考えは人が良すぎる、と一蹴されてしまうかもしれない。しかし、自分を愛するがごとく隣人を愛せよ、と教えられたイエス・キリストの御言葉を考えれば、隣人を愛するが故の行為として納得できる。これは、強者、弱者の違いはいつでも逆転できるもので、たまたま今は自分が強者で弱者を助けることのできる立場にいるだけで、いつまた対場が逆転するかわからない。それならば、弱者として助けを乞うこともあるかもしれない。その時にどうしてほしいだろうか。もちろん、貸してほしいだろう。それも、辱められることなく貸してほしいだろう。このように考えて相手を自分と見て貸すことがある。聖書は、さらに上をいっているが、それは愛の本質を学ぶ以外に理解することができない。さて、ここから先はあなたの生活での応用編だ。あなたにもテストはあるだろう。あなたは、賢明に人を見分けることができるだろう。中には人を騙すことを平気で出来る人もいるのだから。お人よしになれ、と言っているのではない。人の心をおもんばかる人になるようにと教えているのだから。

あなたの行為によって、相手があなたを祝福する。すると神の御前に立つあなたに報いがある。今日はこのことを考えてみよう。(サクマ)

 

3月9日(日)

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

ヨハネ1:16,17

 

恵みの宗教とでも呼べばいいのだろうか。勿論、私たちが信じているイエス・キリストの宗教だ。神の独り子が私たちの罪のために身代わりに罰を受けて死んでくださる、しかも、私たちは何の功績もないのだ。このように主が私たちを愛してくださったので、犠牲を払われたというような宗教は他には無いのだ。この自己犠牲の愛のことを恵みと言っているのだ。現代の特徴は、何が真理か全くわからなくなってしまったことだ。多様性を認めると言えば聞こえはいいが、何でも自由になって、大切なものをずいぶん失うことになった。それで、真理という言葉も聞かなくなった。声高に真理という者があれば、カルトのようなものばかりだ。どこに行けば真理はあるのかと、嘆く声すら聞くことはない。聖書は、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた、と語る。そうそう、ユダヤ人は五感の中で聴覚を一番大切にし、日本人は視覚、つまり見ることを大切にしている、というのだ。そこで、聖書をユダヤ人は聴き、日本人は見るということになる。旧約聖書の預言者は主イエス・キリストのことを預言し、語った。しかし、ユダヤ人たちは、モーセの律法を大切だと思った。それは、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4,5)と聞いたのだ。しかし、日本人は、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)、つまり、イエスを見ることが神を見ることになる、と理解するのである。さて、あなたは神の恵みを手に入れたであろうか。神はすでに、あなたに恵みを惜しむこともなく豊かに与えておられる。問題は、その恵みをあなたがうまく受け取る事ができるかどうかだ。もう一度、イエス・キリストを見てみよう。恵みはそこにあるはずだから。(サクマ) 

 

3月10日(月)

「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。

Ⅰコリント10:23

(写真:Nisa Yeh)

 

私たちの教会は自由度が高いと思う。しかし、だからと言って聖書の原則に反する事を認めているわけではない。逆に聖書を良く学んで御言葉の通りに生きたいと望んでいるぐらいだ。それでは、なぜ自由度が高いと言っているかといえば、律法主義になることを警戒しているからだ。クリスチャンになる人は本質的にまじめな人が多いので、信仰の意味が十分に理解できるまでは律法を戒律のように遵守しようとしてしまい、すぐに挫折することになる。しかし、それは自分の信仰の未熟さの現れであると理解し、何べんでも再挑戦することになる。それだけならば、どこかで正しい道を見出すかもしれないが、聖書に描かれた律法学者やファリサイ派の人々がそうであったように、律法主義になる。そもそも、律法は愛の掟なのである。いろいろな人生の場面で愛を実践するということはこうゆことなんだと、教えているのだ。それなのに、律法主義は愛を実践するということに焦点を合わせずに、書かれた規則を心は問わずに規則通りに行ったかどうかという行為が重要になってしまっている。本来、律法は、自分を捨てなければ守る事ができないことなので、自分をへりくだらせ低くなっていくことを目指している。一方、自分を高めるために悟りを開こう、立派な行いを褒めてもらおうというようなこととはずいぶん異なっている。聖書が面白いのは、神がこの地上に降りてきたらどんな人間になるのだろうかと思っていたら、もうその通りに神の独り子が人となっていた。神の御子イエスは田舎の貧しい家で労働者となっていた。決して、この世の王になりはしなかった。人に仕えるために来られたとおっしゃるように、人の益となることをお考えになって生きたのだ。イエスは罪を犯さなかったと言われている。それは律法を守ることができたということだ。その律法はひたすら人々を助け、癒し、愛されたイエスの姿に現れている。これが、律法を成就することだったのだから、現代でも変わる事はない。現代でも愛情欠乏症のような人たちがかなりいるので、愛の律法はとても重要なのだ。そのような中で、律法主義の対局が何でも自由で好き放題というような放縦であったら、自由が泣いている。ガラテヤを読めばわかると思うが、キリストの十字架による贖いは、人を自由にすることを目的としていたのだ。罪、死、悪魔の奴隷であった人が解放されて自由になる。そこで、その自由を肉のために使うなと諭す。結果が悪いからだ。だからそうではなく、聖霊に従うことのできる自由として使うのだ、と教えている。聖霊に服従することのできる自由なのだ。だから、すべてのことが許されていても、聖霊によって良し悪しを判別することが大切となる。クリスチャンは、キリストの身丈へと造りあげられることを目的としている。そのために、何をすればいいのか、何を選ぶべきかが重要となる。それを間違えずに教え導くことのできる方が聖霊だ。このことをよく覚えておけば大丈夫だ。(サクマ) 

 

3月11日(火)

わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。

Ⅱコリント1:12

 

クリスチャンとは何かと問われると、なんと答えたらいいでしょうか。今日の聖句はその答えになっているように思えます。クリスチャンとして恥ずかしくないように、立派に生きようというのとも違っています。聖書では人間の知恵ではなく、と書いてありますから、人からどう思われるか気にしているようなことではないはずです。そして、人間の知恵ではないという時は、信仰の問題なのです。つまり、信仰で「神から受けた純真と誠実」ということになります。これが有るか無いかということです。救われて自分が一番変わった事といえばこの御言葉の通りの経験をした事です、と言えればいいですね。そうした前提で「神の恵みの下に行動してきました」と続けば最高です。神は変わる事がないので、恵みを与えるとおっしゃれば、あなたがよっぽど神を裏切って偶像を拝むようなことでもしないかぎり、あなたは神の恵みの下に生きているのです。だから、あなたの人生で起こるさまざまな場面で、あなたは神の恵みの下にいる者として行動していけばいいのです。それができるのは、勿論、はじめの「神から受けた純真と誠実」を信仰でいただいているからです。こうしてクリスチャンの生き方をすれば、パウロがそうだったように、クリスチャンではない人たちに福音は自ずと伝わっていくでしょう。クリスチャン像が見えてきましたか。人間的に考えてクリスチャンらしくしても、それはダメです。神との関係の中で生まれる、神への純真と誠実がでてくれば、隣人への関係も同じようになるということです。何でも人間の常識で決めつけないことにします。神の支配の中にあると信じて信仰による世界を広げるのです。そこには、イエスが生きていて、その姿に純真と誠実を見るのです。それが神から受けるものです。この姿でいきることにすれば、奇跡すら珍しくなくなります。そして、人と人との関係もクリスチャンとして恥じるところがなくなります。そうした人間関係をもつことに慣れることです。その時、自分の隣人への真心は人の救いへと発展することでしょう。たとい相手からの見返りが何もなく失望するようなことになったとしても、誇りは消えることはありません。神の恵みの下に留まりましょう。(佐久間)

 

3月12日(水)

愛には偽りがあってはなりません。・・・・喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

ローマ12:9a,15

 

クリスチャンとして生活することには、明確な指針があります。このローマの信徒への手紙12章9節以下にもそのことが書いてあります。その初めの言葉が「愛には偽りがあってはなりません」です。偽りの無い愛、偽りが入り込むこともできない愛、つまり、クリスチャンはキリストの「互いに愛し合うように」という新しい戒めを守らなければなりませんが、その愛に偽りがあってはならないということです。愛は「私とあなた」という関係の中で成立しています。愛は一方通行であってはならないので、「互いに愛し合う」と言う言葉は生きてきます。ところで本来の愛は、相手を愛したら、相手はそれがわかると愛しかえしてくるというようなものです。愛し、愛されといった関係が生まれるものを真の愛と呼ぶならば、神が初めに人間を創造された時に、この真の愛が成立していたのです。そもそも、人間を創造する時に、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記1:26)と神はおっしゃっいました。神は愛であるので、人間もまた愛にかたどって造られました。だから、人間が堕落し、罪人となって神の憐みなしには救いの望みが消えた時、救済計画がたてられました。預言の成就として来られたキリストに罪を贖っていただき、救われたクリスチャンは、創造の時の神にかたどって造られた姿、つまり愛し、愛される者に刷新されたのです。それで、神を愛し、隣人を愛する者に変えられたのです。ですから、クリスチャンが正しく愛するならば、相手は愛し返してくることができるのです。できると言うのは、愛し返さないことも可能だということです。それでも、相手を愛しぬくことができるかどうかを問う言葉が、「愛に偽りがあってはなりません」という言葉なのです。愛には打算がありません。だから、キリストのように罪人が恩知らずで罪を犯し続け、裏切り、神の愛にも応えずに悪意すら見せていても、その人を愛する愛が変わらないということが必要なのです。これは人間にはとても難しいことです。感情がじゃまするでしょう。そこで、古い自分(洗礼前の自分)が死に、新しい自分(洗礼後の自分)が生きることが重要になってきます。新しい自分とは、キリストの十字架の贖いによって罪を清めていただいた私が、キリストの復活の命にあずかって新しく生まれることです。それはペンテコステの日に聖霊のバプテスマを通してはっきりと現れました。今日も同じです。このように、聖書に書かれたことが現代も起こっています。そこで、クリスチャンは自分の力で愛するのではなく、内住している聖霊の愛の力で愛することを覚えていきます。相手の外側ではなく内側を見るようになるからです。そこに、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」との御言葉が生きてきます。それがどんなに、人を慰め、励ますことでしょうか。偽りの無い愛は力があるのです。その人が初めてイエス・キリストの愛に触れる時となるでしょう。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く人になりたいですね。(佐久間)

 

3月13日(木)

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

ローマ12:15

 

イエス様は今日の御言葉を実行したお方です。そして、今日もこの御言葉の通りになさっておられるのです。あなたと一緒に喜び、泣かれるのです。この世界には、あなたを待っている人がいます。考えてみてください。何か嬉しい事があって、それを喜ぼうとする時に一人だったらどうでしょう。盛り上がる事は無いですね。でも、もう一人誰かがいて、その人にどんな良い事が起こったか話したらどうでしょう。きっと、その人も一緒に喜んでくれるでしょう。その人があなたを愛していたら、あなたのために大喜びしてくれるでしょう。それから、悲しいことがあった日だってあるでしょう。失望し、がっかりして、悲しみがこみあげてきたら、きっと泣き出すでしょうね。そんな時に、一人なら本当に辛いですねよね。でも、イエス様はそんなあなたのすぐ横にいて、あなたと一緒にただ泣いてくださるのです。あなたがその時イエス様を見ることができればいいのですが・・・・。それだから、私たちは今日の聖句の意味がわかりす。それで、誰かの隣人になりたいと思います。泣く人と共に泣くことにします。それ以外に何をしてあげることができるでしょう。一緒に泣いたら悲しみも半分になるでしょう。辛い事だってきっと耐えることができるでしょう。それに、一番悲しい時に、慰めてくれる人もなく、誰も自分のことを知らないなんて考えたくないですよね。だから、ちゃんと自分の事を思ってくれる人がいて、泣いてくれたら、どんなことでも乗り越えることができると思います。あなたも隣人の心に寄り添うことが出来るといいですね。そこには必ずイエス様がいてくださいます。(佐久間)

 

3月15日(土)

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

Ⅱコリント2:14,15

 

私たちはどうやって、キリストを伝えようとしているでしょうか。多くの人が、言葉を通してだと思っているでしょう。伝道講演会やラジオ・テレビ伝道、伝道トラクトに伝道用の本や雑誌、それにCDやDVDもあります。いずれにしろ言葉でキリストを伝えようとしているのです。人が情報を得る手段としては五感があります。そのうちの視覚、聴覚に訴えているわけです。盲人の方々には点字があるので、触覚もありますね。キリスト教に欠かせない聖餐式を考えれば、パンとブドウ液をいただくのだから味覚もはずせないでしょう。では、臭覚はどうでしょう。実は聖書は伝道について、五感のうちこの臭覚に関わる「香り」という言葉を使っているのです。「キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださる」というのです。もちろん、それは私たちを通してなのですが、この言い方だと、相手を説得するというようなニュアンスはありませんし、壇上から声を大にして語るというようなことでもなくなります。それよりも、もっとソフトな感じがします。その人がいるだけで良いものが感じられるといったようなものでしょうか。その人が聖書からイエスの教えを学び、それを深く心にとどめていると、だんだんその人の考え方が変わってきます。イエス様がそこにいらしたらきっとこうするに違いないというような事を行ったり、語ったり、黙ったりします。イエス様がそこにいたとしたら、虐げられた人々、みじめな人々を見て見ぬふりはしません。病人を無視することもありません。それを私たちは知っているのです。イエス様がどのようなお方であるか、あなたは知っています。それが嬉しいのです。イエス様に特別の愛を感じるのです。ですから、大好きなイエス様のまねをして生きるのです。それが、だんだん周りの人に伝わるのです。芳香剤のコマーシャルのように、良い香りでみんな笑顔になります。今度コマーシャルを見たら、あの良い香りが私なんだな~と、イメージしてみましょう。そうそう、今日、我が家の小さな桜の木が開花しました。六輪だけですが、小さな花びらを開きました。桜はどんな香りがしたでしょう?桜餅の香しか思い浮かばないなぁ。(佐久間)

 

 3月16日(日)

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

ルカ7:47

 

さて、あなたはどれぐらい主イエスを愛しているだろうか。主の御言葉によれば、多くの罪を赦された者こそイエスを愛する愛が大きいという。それならば、あなたの愛はどれほどだろう。罪を犯すには理由がある。その元をたどれば愛の欠乏に行き着く。人は愛情をエネルギーに生きているようだ。だから、愛情を補給する必要があるが、それは人から人へと流れていくものなので、愛され、愛し返すという関係が必要になる。大抵は親の無条件の愛が人を支えているのだが、必ずしもうまくいくわけではない。昨今のニュースで一番悲しいのは親から子供が虐待を受け続け、とうとう死に至るというものだ。子供は親を愛し、愛情を求めてるがそれに親が応えてくれないならば、「天の父があなたを愛している」と言っても空しく聞こえるだろう。そして、子供は愛でつまづき、そのまま成長してくと、それが大人になっても心の傷になって苦しみ続けることがある。不思議なことにこのような人間の悲しみを解決するために、この地上に来られたのは父なる神ではなく、御子イエスであった。イエスは、隣人愛を説いた。「自分を愛するごとく、隣人を愛せよ」と。そして、イエスはあなたの隣人になられたのだ。あなたの固くなった心に寄り添って、あなたが一番信じることのできる方法で、愛してくださった。あなたは、はじめて安心して愛された。それは、自分でも説明できない怒りで愛情の欠乏に抗っていた心を落ち着かせ、安心で満たすことでもあった。自分が愛される存在であることがハッキリわかった。だから、コンプレックスも消え、ようやく神の御前に立てる信仰が芽生えたのだ。キリストは、私を見た者は、父を見たのだ、と語った。つまり、罪を犯したアダムの末裔でしかなかった者が、そのアダムのもともとのモデルである、神を父とする者に変えられる道が見えたのである。なにしろ、イエスを通して父を見たのだから。それで、隣人から愛され、また愛し返すことのできる喜びは、さらに父に愛され、父を愛し返す喜びへと到達した。この愛が回復させられたのは、自分の罪の重さだった。人から罪を責められても、言い返せないほどの罪深さを知っていたからこそ、愛されなくて当然と思っていた。それをイエスはあっさり覆して、深く愛してくださったのだ。この時に、自分を取り戻すことができた。他の誰も自分が愛してくれなくても、イエスが愛してくださればそれでいい、と思えたのだ。キリスト教の不思議だ。人は、誰か一人でも信じて愛してくれれば生きていけることをキリストは教えてくれたのだ。罪赦され、愛された者は正しく生きることができる。ただ、自分を正しいとする思いが少しでもあるうちは愛ではないことが出てくる。これが愛を少なくさせている原因だ。罪は自己中心・事故の正当化、と何遍も教わってきた。それなのに、自分が正しいという思いが消えないのなら、隣人へも父なる神へも文句がでるだろう。それが罪だと認められれば、全面降伏できれば、大きな赦しを経験するだろう。道を踏み外してしまった罪人は、その負い目にあえいでいるので、キリストの御前に全面降伏できる。自分を正しいと言えないのだ。だから、赦されたキリストの愛を大きく受けることができた。たぶん、この文章を読んでいる人たちは、この多いな愛をイエスから直接受けているはずだ。つまり、あなたの罪はすでに赦されていることをあらためて覚えよう。勇気を出しなさい。イエスを大きく愛することのできる人よ、あなたはすでに問題から救われています。(サクマ)

 

 月17日(月)

地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。

 創世記8:22

 

(写真:Murtaza Mahmud)

あなたにとって、神は信頼できる存在だろうか。そうだと言うのなら、何をもってそう言うのか。神は人間すべてのためにこの世界を守り続けておられる。それは、止むことがない。春夏秋冬は必ず巡るが、それは神の存在抜きにはありえないのだ。大昔から、人間は生きるために苦労してきた。つい最近まで人間のほとんどの人が農夫だった。彼らにとって切実なる問題は、いつ種を蒔けばいいのかということだ。そこで、暦は古代の昔から必要だったので早くから出現した。もっとも、太陽暦は時を待たねばならなかったが。古代人にとって、満ち欠けのある月は神秘だったろうが、暦のしるしとしてはわかりやすいものだっただろう。こうして、いまだ暦と天候で食べ物を得ているのだ。この時を司る神の存在無しには、はたして人間は生き延びることができるのか疑問だ。ノアの時代から今日に至るまで、そして世の終わる日まで、神は人が生きるのに欠かせないものをすべて守るだろう。あなたが夜眠りにつくときに、ちょっと考えてみよう「明日の朝は来るのだろうか」と。もし無事に明日の朝を迎えて目覚めることができたのなら、これが神の誠実さなのだと覚えよう。主は約束を果たしているのだ。これほど信頼できるお方は他にはいない。あなたは、このことを心に覚えて生きるだろう。だれもが気づくことのできないほど巨大な力が宇宙を動かし、小さなあなたのために益となるように働き、また完璧にあなたの生を支えていてくださるのだ。主に感謝しよう。神をほめたたえよう。

 

3月18日(火)

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

Ⅱコリント4:8

(写真:Hsuhanyin)

人生の長さはどれだけ生きればちょうど良いのかよくわかりません。ただ、神を信じる人は、ちょうど良く生きたと最後に思えるはずです。その人生のどこかで、八方ふさがりと言いたくなるような状況に置かれることがあるかもしれません。その時に、この御言葉を思い出してください。あなたがもうどうしようもないからダメだ、と思ったとしてもこの御言葉の通りになります。そして、普通ならこのような状況では、苦しかったことしか想い出に残りませんが、クリスチャンはここから大きな益をもらうはずです。信仰を働かすことができればですが。「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ」です。人生がうまくいっているのなら楽しく暮らせばいいのです。しかし、一旦、すべてがうまくいかなくなったのなら、考える時がきたのです。私たちが一番必要で、なおかつしないことが反省です。でも、人生のことを聖書は教えています。自分を反省してみると、破たん原因が時分にあることに気が付けるのです。認めがたいことですが、そんなことを言っていられないほど途方にくれているのです。だから、人生のゆがみを修正するチャンスがきたのです。問題山積みで、次々に困難が襲ってきても、それが自分を追いつめているのは、自分の中の問題をなかなか認めないからです。そう思って、とにかく思いつくことをあげていくのです。それを神に向かって悔い改めるのです。一人で難しいのなら、まず聖霊様と祈って一緒に問題解決の為に手伝ってほしいと願いましょう。しかし、これがキリストを信じる故の迫害であるのなら、恐れてはいけません。勝つためには恐れてはいけないのです。敵は、あなたを攻撃しているでしょうが、あなたの中には聖霊が内住しているのです。だから、敵意は神を攻撃してしまったのです。敵に勝ち目がないことをあなたは知っていますよね。でも、あなたが出てきて自分で戦えばそれは結構大変なことになるでしょう。ならば、主を信じることで勝負をしたらどうでしょう。きっと、思いがけない勝利を目の当たりにすることでしょう。それも、たいていすぐに勝負がつきます。オセロゲームでほとんど敵の駒の色になっていて敗色濃厚であるのに、最後の一コマを置いた途端につぎつぎに裏返ってみごとな逆転勝利となるように、あなたの人生はたとえ途方にくれても、行きづまることはないのです。主に感謝します。(佐久間)

 

3月19日(水)

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

マタイ7:1,2

(写真:mulgae26)

先日、新しくできた巨大ショッピングセンターへ行ってみました。普段の運動不足を解消するにはもってこいの広くて良い所ですが、広すぎて足が痛くなり駐車場まで無事に帰りつけるか心配になりました。その広い駐車場でようやく車を駐車し、入り口を見つけてあと一歩と言うところで家内が車止めにつまずいたのです。そこで、私はすかさずこんな見通しの良いところでつまずくなんて考えられないと注意を通り越して、さんざんバカにしてしまいました。その帰り、その同じ場所の同じ車止めになんと今度はバカにしていた私がつまずいたのです。家内の信じられない、あんなにバカにしていたのに、という思いは大爆笑になって、二人で大笑いしました。とめどもなく笑い続ける二人を見て周りの人たちは、この頭のおかしな人たちには関わらないようにしよう、と言う感じで逃げて行きました。でも、家内が車止めに足を取られて転びそうになった時に、どうして「大丈夫」と優しく声をかけられなかたのでしょう。「歩いて来れば、誰の目にもあきらかなように黄色く塗られた車止めが、見えているでしょう」というあきれた思いがあったのでしょう。その後で、自分がつまずいてはじめて、足元は気づかないことがあるので危険なのだ、と反省できましたが、神様は、「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と教えてくださったのです。裁かないということが身についていれば、すぐに「大丈夫」といたわることができたのです。まあ、一緒にその場にいたら大爆笑できたのに残念でしたね。(佐久間)

 

3月20日(木)

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

マタイ7:7,8

 

みなさんは、物を無くした時にはどうするだろうか。私は、多くのクリスチャンがするように祈ることにしています。ある時、修養会でこれから講師として講演をするので、さあ部屋から出て講演会場へ向かおうとした時です、聖書が無い事に気がつきました。慌てて、部屋中を探しても聖書が見つからず、他の人も一緒に聖書を探してくれたのですが見つかりません。会場に行ってみると、もう満席で今にも講演がはじまろうという雰囲気になっていましたが、肝心の聖書が無いのです。それで、もっと多くの人が聖書を探してくれたのですが、見つかりません。それで、みんなで輪になって祈ることにしました。聖書を無くしたので見つけてくださいと必死に祈ったのです。それで、アーメンと目を開けると、目の前に聖書がありました。その時に祈った皆で驚いたものです。そのようなことが今までに何回かありました。だから、探しても見つからないと祈ることにしています。さて、今日の聖句は、求めたら与えられる、と教えていますが何を求めているのでしょう。マタイはイエスの御言葉として「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(7:11)と書きました。でも、その次の言葉がつながらないのです。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(12)。これだと、良い物をあげるから、人にも良い事をしなさい、と言っているように聞こえるかもしれませんね。しかし、ルカによる福音書の並行記事を読んでみると、最後が違っているのです。「良い物」ではなくて、「聖霊」になっているのです。これならば納得できます。聖霊はあなたの助け主です。聖霊は三位一体の神です。聖霊は神ですから、「神は愛なり」ですから、アガペーの愛なのです。ここまで書けば、わかりますよね。自分の力ではできないことも、聖霊を求めて与えれれば、キリストと同じように愛の業ができる、というわけです。良い物とは、自分を利する物ではなく、他人を喜ばせる愛の行為を実現させる力のことだったのですね。(佐久間)

 

3月21日(金)

愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな/あなたが彼に似た者とならぬために。愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。彼が自分を賢者だと思い込まぬために。

箴言26:4,5

 

いつも行くセルフのガソリンスタンドでガソリンを入れようとした時のこと、はじめに静電気除去シートに触れることにしているので、その日も触れた。それも何度も。すると、車内にいる家内が何か言っているのが見えた。声は聞こえないが静電気除去シートに触れと言っているらしい。「もう触ったよ」と答えながらもう一度触れた。すると、さらに家内が何か身振り入りで言っている。もっと、しっかり触れと言っているのかと思って、今度は強く触った。「ちゃんと何度も触っているよ」と言いながら。ところが、納得しない家内が、とうとうドアーを開けて言ったのは、「なにやってんの、さっきからインターホーンを押して!」というのでよく見ると、そこは静電気除去シートの斜め上にあるインターホーンと書いたシートでそこにボタンがあった。見ないで触っていたのでインターホーンを押し続けていたのだ・・・・。こんな間違いはだれにでもあるさ、と言ってみたが恥ずかしかった。さて、今日の聖句である。わかるようで、わかりにくいと思ったあなたは、もう一度、はじめから読む必要があるだろう。(サクマ)

 

3月22日(土)

蜂蜜を食べ過ぎればうまさは失われる。名誉を追い求めれば名誉は失われる。

箴言25:27

 

聖書の中に美味いものとして出てくるのが蜂蜜です。それだけでなく、サムエル記の中に王子ヨナタンが森で見つけた蜂蜜を一口食べたら目が輝いた(サムエル記上14:27)、とある通り滋養強壮の薬としても知られていたのです。今日のところは、自分にとっての蜂蜜とは何かと考えてみる必要があります。聖書は、それは名誉だと教えています。あなたがこの教訓を生かすには、しばし時間をとって、自分にとっての蜂蜜は何かと考えてみることです。そして、適度の大切さを知る事です。結局、欲張ると損をするということですね。あなたの中にまだ欲があるのなら、その欲を知ることが肝心です。ある学者は、所属・力・楽しみ・自由の四つをあげています。それぞれに10点満点で欲の強さを点数でつけてみるのです。そうすると、自分の蜂蜜を見つけやすいでしょう。適度に満たさなければならないでしょうが、過度に過ぎれば災いとなることを覚えましょう。(佐久間)

 

3月23日(日)

イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

ルカ12:54~56

 

天気予報は、昔から重要でした。テレビでもお天気おねえさんと呼ばれる気象予報士が活躍する時代です。昔のイスラエルには当然テレビ・ラジオ・新聞など情報を得る方法がありません。しかし、自然観察で経験則から天気を予報することができました。これは、漁師など今でも天気を知ることの必要がある人たちには共通するものがあります。イエス・キリストは、そのことを引き合いにして、「どうして今の時を見分けることを知らないのか」とおっしゃったのです。そのまま、現代の私たちにも語りかけています。それゆえ、時を見分けることを考えなければなりません。キリストが到来した時、多くの者が時を見分けなかったのです。もう一度、キリストは地上にお出でになられます。それは、裁きをたずさえて来るのです。その時、誰が時を見分けているでしょう。聖書を研究して、時を見分ける者となりましょう。(佐久間)

 

3月24日(月)

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

ガラテヤ5:13,14

(写真:Tambako the Jaguar)

 

「ゆっくり食べて。よく噛んで食べて。・・・・ゆっくり食べて。・・・よく噛んで食べで」と隣のテーブルにいる女性が向かい合っている男性に声をかけている。独特の言い方で、ゆっくりと諭すように話している。「ゆっくり食べて。よく噛んで食べて」。なぜ同じ言葉を繰り返しているのかは分からない。でも、もう10回ぐらいは言ったのではないか。場所は混んだフードコートでのことだ。隣り合った席の女性が向かいに座っている男性に話かけているのだ。いったいどうなっているのだろう、と気になる。「ゆっくり食べて。・・・ゆっくり食べて・・・」。向かいに座っている男性は、黙ってゆっくり、何度も咀嚼している。この女性は、いったいなぜ何回も同じことを言っているのだろう。男性はなぜ、「いい加減にしろ」とか「同じことは聞き飽きた」などと言わないのだろう。これがこのカップルの愛の姿なのだろうか。私ならばとても耐えられない気がする。今日の聖句は、私たちクリスチャンが、「自由を得るために召し出された」と教えている。「自由」は、罪人には無い言葉だ。罪を犯さないではいられないのが罪人の特徴だ。それは、愛を壊すことであり、愛は愛でも利己愛しか出て来ない。ところが、キリストが命を犠牲にして信じる者を恵みで救ってくださる時、自由が訪れるのだ。その自由は、互いに愛し合うこと、愛によって互いに仕えることのための自由なのだが、ただ文字通りの自由なので、肉に罪を犯させる機会を与えることもできる。聖霊は愛するようにとは強制しないだろう。ただ、真摯に愛してくれるだけだ。それだけ、私たちはどうしたら良いか考えて選択する必要が生じる。相手のことを思いやり、愛をもって互いに仕えるということを選択することをもっと真剣に考える必要がある。それにしても、あの隣にいた女性は、何をしていたのだろう。あれも、愛だったのだろうか。「ゆっくり食べて、よく噛んで」。この声がまだ耳に残っている。あの男性はどうなってしまうのだろうか。やはり、愛は相手に自由を保障することではないだろうか。「ゆっくり食べて」・・・。その反動か、隣の席にいた私は、いつもより早く食べ終わってしまった。「隣人を自分のように愛しなさい」。また、この御言葉を考えてみなければならない。(サクマ)

 

3月26日(水)

「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。」

ヨブ記42:7

 

祈りについて聞かれることがよくあります。そこで、ヨブ記から学んでみます。ヨブ記をぜんぶ読んでみたことがありますか。ヨブは信仰者として模範的な正しい人でしたが、大きな苦しみを与えられました。今日の聖句に出てくるヨブの友人たちは、ヨブが苦しむのは罪を犯したからだ、と決めつけます。「しかし、神はあなたを愛しているから罰しているのだ」と追い打ちをかけます。ところが、ヨブは、そのような友人の考えを認めません。神が何も答えない中、ヨブは叫び、反抗し、神をののしります。そして、神が現れる・・・というような話です。今日の問題は、一般に人間が正しいと思っている考えは神に通用しないということです。ヨブのように正しい者の信仰は神を絶対信頼しているので、忠実です。そのヨブの祈りが苦しみの中で、時に反抗やののしりとなっても、それは祈りとなるのです。一方、ヨブの友人は、「あなたは罪を犯しているので苦しんでいる、だから、○○をしなさい」という言い方をしていたので、神に非難されたのです。彼らは、人間の基準を設けてそれで裁くということをして、「自分を神のように」してしまったのです。彼らは敬虔を装っていました。教訓にしたいと思います。(佐久間) 

 

3月27日(木)

愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。

Ⅰペトロ2:11

(写真:mrhayata)

 

人は住む場所で生活を変えるものです。私は転勤族であったために、いろいろな場所に住みましたが、着る物も履物も持ち物も食べ物もやはり少しずつ変わるものです。引越しは大変なので好きではありませんが、新しい任地で神が一体何を用意されているかと思うと、期待感が膨らみ引越しに伴う困難を忘れさせます。牧師になってからの人生を振り返れば、まさに旅人であったと実感します。ペトロは「仮住まいの身」と語りますが、この言葉こそ、今に至るまで自分の人生そのものと思えてきます。今は、あてがわれた牧師館ではなく、自宅に住んでいますが、残りの人生をここで終えるとはどこかで思っていないのです。やはり仮住まいの身でしかないのです。では、どこが終点かといえば、それは天国です。約束の地、神の国です。地上だけの生涯ならば、どこかで羽目を外して生きるかもしれません。希望がないからです。でも、私たちは救われて国籍が変わったのです。神の支配の中に生きる者となれたのです。周りの景色に騙されてはいけません。罪の世界は一見楽しそうですが、その実、死の世界です。どんな人も神の恵みで救われる必要があります。そして、私たちはその神の恵みの体現者なのです。だから、生き方が変わったわけです。それを正しく理解してクリスチャンとしての生き方を身に付けなければなりません。「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。まず、はじめに自分の問題から勝利していきましょう。聖霊はあなたを助けてくださいます。でも、あなたが何もしないでも自動的に肉の欲を避けてくれるわけではありません。あなたの信仰がここから試されます。より良いクリスチャンライフを望まれるのなら、ここははずせないのです。すばらしい神の恵みの世界で生き続けましょう。正しく生きる者を神は決して忘れることはありません。(佐久間)

 

3月29日(土)

預言者の仲間たちがエリシャに言った。「御覧のように、わたしたちがあなたと共に住んでいるこの場所は、わたしたちには狭すぎます。ヨルダンに行き、梁にする材木を各自一本ずつ取って来て、わたしたちの住む場所を造りましょう。」エリシャは、「行きなさい」と言った。一人が、「どうぞあなたもわたしたちと一緒に来てください」と頼んだので、「わたしも行こう」と言って、エリシャも彼らと共に行った。彼らはヨルダンに来て、木を切り出した。そのうちの一人が梁にする木を切り倒しているとき、鉄の斧が水の中に落ちてしまった。彼は、「ああ、御主人よ、あれは借り物なのです」と叫んだ。神の人は、「どこに落ちたのか」と尋ね、その場所が示されると、枝を切り取ってそこに投げた。すると鉄の斧が浮き上がった。「拾い上げよ」と言われて、その人は手を伸ばし、それを取った。

列王記下6:1~7

 

今日は安息日なので、少し長い物語を読んでみました。さて、あなたはこの箇所を読んでみて何を感じ、何がわかりましたか。霊的教訓はありましたか。預言者エリシャのエピソードはどれも、ワクワクしますね。しかし、今日の物語はどうでしょうか。預言者仲間の宿舎が手狭なので、増築しようというのです。それで、山に行って適当な木を伐り住む所を作ろうと言うのです。山にエリシャも言って欲しいと言われ、エリシャもついて行きました。早速、斧をふるって木を伐り始めたのですが、一人の人が鉄の斧を誤って水の中に落としたというのです。子供の頃に読んだ童話に同じような物語がありました。そこでは、水から女神が出てきて、金の斧、銀の斧、鉄の斧、と順番に示してどれが本人のものかと問われる話でした。聖書の話は、当然、女神はでてきません。その代わり霊的教訓が隠されています。たとえば、エリシャをキリストの型として見ると、この鉄の斧を無くした貧しい人は、罪人を象徴していて、鉄の斧は命としてみましょう。すると、罪人が命を失うのですがそれは水が出て来るので洗礼が思い浮かびます。それで、罪人の命が水をくぐってキリストによってよみがえる。それも、枝が出て来るので十字架の象徴としてみると、洗礼が十字架と関わっていることもわかります。このようなことを考えて、楽しむことができますね。さて、もう一つ想像をたくましくしてみましょう。この鉄の斧を誤って水の中に落としてしまった人のことです。この人は貧しくて自分の斧を持っていません。山に行くのだからちょっとホームセンターで買って行こう、というほどのお金も持っていません。それで、隣人に借りにいくわけです。ていねいに扱うので貸してください、と頭をさげて借りてきました。でも、自分のものではないので、扱いが慣れていません。それで、はじめは慎重に斧を使っていたのですが、だんだん、慣れてきて力が入ります。汗も流れてきて、手が滑ります。そして、思わぬ事が起こったのです。渾身の力を込めて振った斧がなんと手から滑って飛んでいったのです。それも悪い事に深い水の中に落ちたのです。顔面が真っ青になりました。この鉄の斧を弁償することが出来ないからです。お金がなんとかなって弁償できそうなら、まだ心の中にゆとりが残っているでしょう。しかし、そのようなお金はまったくありませんし、友達も預言者仲間でお金を持っていません。このように、お金がなくて弁償できない時の気持ちがわかりますか。神様はこのように名も無い人の心の中までご存じなのです。そして、エリシャの登場です。エリシャは勿論人間ですが、預言者なので神を現す者です。それで、この哀れな人は「ご主人様」と憐みを乞うのです。これは、言い換えれば「主よ」という言葉になります。あなたも使っているなじみの聖名です。私なら、「バカだな、ちゃんとしっかり斧を握っていないからダメなんだ」ぐらいのことは言って、叱ったかもしれませんね。しかし、神の人エリシャハ違っていました。叱らないばかりか、冷静に「どこに落ちたか」と聞きます。そうですね、祈りもこのように祈ると良いのでしょう。大切なポイントを知らせることです。学者の中には、夢の無い人もいて、「枝」と訳した原語が本当は「木の棒」と言う意味になるから木の棒で水中をかき回して斧を見つけて引き上げたんだ、と言うのです。それよりも、原文通りに枝を投げたら浮いてきた、と言う方がよっぽどいいじゃないですか。たぶん、この場面に私と学者が一緒にいて見ていると、エリシャが枝を切り始め、それを持って水辺に向かいます。すると突然、動物かなにかの鳴き声のような大きな音がして、学者はそちらを振り返り、気を取られている間に、鉄の斧が浮いてきて貧しい男がそれをつかむのです。私はバッチリ見て、感動していると、学者がようやく水辺の騒ぎに気が付いて何があったのかと聞いてきます。「奇跡が起こったんだよ」と私が言うと、学者は「信じられない。なにしろ見ていないのだから」と言うに違いありません。そうです、奇跡は信じる者にはしばしば見えるものなのですが、信じない者には、奇跡が起こっても気が付かないかもしれません。さあ、次はあなたの想像を語ってください。妄想ではありませんよ。(佐久間)

 

3月30日(日)

わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

Ⅰコリント10:33~11:1

(写真:Nicole Weihmann)

 

クリスチャンとノンクリスチャンの差は、自分の益ではなく、他人の益を求めることです。それは、人々を救うためだと教えられているからです。パウロにいたっては、『すべての点ですべての人を喜ばそうとしている』と語っています。あなたは、どうでしょうか。時々、知らない人から嫌な思いをさせられることがあると思います。昨日も家の前に犬がフンをしてそのまま飼い主が片づけなかったために、自分で後始末をさせられた話を聞きました。私にも同じような経験があったので、その時の嫌な気持ちが理解できました。さて、このようなことは、犬を飼う意図のモラルやマナーの問題ですね。でも、多くの犬の飼い主はマナーを守っているのに、マナーを守れない人がいるのです。その結果、誰かに自分の嫌な事を押し付けて知らん顔していることになります。もっと、悪い事にそれをすぐに忘れることです。なんとも思っていないかもしれません。これって、罪人の姿そのものだと思いませんか。罪は愛の行為の正反対の行為のことです。他人への愛があれば、人に迷惑をかけることはありません。しかし、人間は時に罪を犯すのです。ちょうど、よその人の家の前で飼い犬がフンをした時に知らん顔して立ち去るようなものです。その後どうなったかは知りません。考えることもありません。その家の方が後始末をしたことも知りません。では、あなたの罪はどうなったのでしょう。誰かが後始末しているのです。それがイエス・キリストです。あなたの罪の後始末はイエス・キリストがしてくださったのです。それが分かったなら、キリストに倣う者になるべきです。パウロはその事に気づき、人生を変えました。キリストに倣う者になろうとし続けたのです。そして、今、私たちにパウロに倣う者になるようにと促しているのです。ちょっと、考えてください。キリストは嫌々あなたの罪のために十字架に架かられたと思いますか。決してそうではありません。あなたを愛していたからです。それで、汚い仕事や他人の嫌な事を助けてあげることは、キリストに倣うことで、愛の業だというように思うことは間違っていません。へりくだる事がなければ、決してできないことなので「イエス様、感謝します。私の罪の後始末をしてくださって、ありがとうございました。犬のフンの片付けをさせていただいて感謝です。今日も主にお仕えします」と言ってみてはどうでしょう。大変な仕事もササッと終わらせてしまいましょう。ハレルヤ、主をほめたたえます。イエス・キリストの愛はいつでもあなたに注がれているのですよ。愛されていることに目をとめましょう。心から感謝すれば、不思議な事が起こりますよ。(佐久間)

 

3月31日(月)

マリアは墓の外に立って泣いていた。

ヨハネ20:11

 

イエスを信じると言っていますが、どのように信じているでしょうか。マグダラのマリアは、イエスが死んだ後もイエスを愛し続けました。だから、墓の外に立ってイエスのために泣いていていたのです。自分が困った時に助けていただくためにイエスを信じているのではないのです。愛しているから、泣くのです。そのような信仰をイエスは放っておくはずがありません。だから復活して最初にマリアに姿を現しました。本当はまず天の父の元へ上って行かれることになっていたのです。それから、復活の姿を現すことになっていたのでしょう。しかし、イエス様の墓の前でマリアだけが泣いて立っていたのです。このように一途にイエスを愛してみませんか。自分の全てを注ぎだすように愛するのです。イエスに愛され、イエスを愛す。このために救われたのです。イエスのことをもっと深く知りましょう。そのために、イエスに近づきましょう。そうすればイエスはあなたに近づかれます。あなたの人生はイエスのものですか。それともまだあなたのものですか。イエスを信じましょう。そして、完全にあけわたしましょう。イエスと共に喜びましょう。イエスと共に泣きましょう。イエスとはそのようなお方なのです。このような交わり無しには私たちは変わることができないのです。今日は、マグダラのマリアの気持ちになってイエスの墓の前で泣きましょう。(佐久間)