2014年4月

4月1日(火)

主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。

哀歌3:22~24

(写真:Fotoffigrafie)

人生とは思うようにいかないものです。親となれば子のことを心配し、一つ一つの節目に、心を悩ませるものです。ですから、安易に模範解答をするような信仰では成り立ちません。旧約聖書の知恵文学を読めば、絵空事のようなこの世の幸せなど書いてありません。「空しい、空しい、空しい」と言うばかりです。だから、この世で富を得ようとか、出世して権力を得ようとか、地位名声を求めれば、逆に罪を犯すばかりで気が休まりません。そのような、世界で、なんとか食べていければ良いと思っても、財布の中身が乏しくなれば心細くなるばかりです。しかし、クリスチャンは真の神を知り、信じて主と呼ぶようになりました。そして、聖書には、この世を超越できるほどのすごいことが隠されていることに気が付くのです。簡単に読み解けないので、聖書研究の必要があります。一朝一夕ですぐ聖書が分かると言うわけにはいかないのですが、真理は聖霊の助けによって理解できるようになるのです。それが、もっともわかりやすいのは今日の聖句です。どんな辛いことや、失敗や、悩みごとや、破滅するほどの出来事が襲ってきても、今日の御言葉を唱えて、「わたしは、主を待ち望む」と言い切りましょう。この信仰が奇跡を生むのです。主はあなたを愛しているので、大丈夫です。恐れの霊や不安の霊が襲ってきても、主イエスの御名で追い払いましょう。そして、今日の聖句を祈りとするのです。朝毎に・・・。(佐久間)

 

4月2日(水)

主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。

哀歌3:32,33

 

自由は何よりも貴重なもので、守らなければならないものですが、その自由には責任も伴います。ですから、聖書は自由と言っても放縦ではないとくぎを刺しています。さて、自由な信仰者であってもいつも順境ばかりとは限りませんので、嵐の日もくるわけです。その時に、キリストの道をどこまでたどったのかが問われます。正しい信仰は、人を良く変えるものです。ものの見方が良くなり、人との接し方も良くなります。それは、実は自分が見えてきたということなのです。自分が何者であるかを理解し始めると、安定してきます。それは自信といってもいいもので、他人によって感情を曇らせることが少なくなるのです。そればかりか、良いものをひきつけ、悪いものを遠ざけるようになります。ですが、そこに至るまでの道のりは、決して平たんなものではないでしょう。時に自らの過ちで(過ちばかりとは限らないが)、主の懲らしめを受ける事もあるでしょう。また、自分の中にできた既成概念で自分の信仰の成長を妨げている時に、それを砕くようなこともあるでしょう。罪の悔い改めを引き起こすために、主の懲らしめがあるかもしれません。また、人間には理解できないが神の御旨に適った懲らしめもあるでしょう。人間は弱くて、すぐに苦しみ悩みます。そのために懲らしめているのではないのですが・・・・。人間は、自分の思い通りにしたいので、そうならない時に苦しみ悩むことが多いのです。だから、クリスチャンはキリストの教え通りに自分を捨て、自分の十字架を負って主に従っていくことをどこかで覚えなければならないのです。最低最悪のことが起こっても、それがたとえ神から来たとしても、主を恨んではいけません。イスラエルの歴史を聖書に見て学んでください。国まで滅ぼされ、捕囚の悲惨な境遇に置かれても、神の民は今日の聖句の通りに告白できたのです。その信仰を自分のものとしたいものです。(佐久間)

 

4月3日(木)

そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。わたしが備えているその日に/彼らはわたしにとって宝となると/万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように/わたしは彼らを憐れむ。

マラキ3:16~17

 

この世の中には、正しい者と神に逆らう者がいる。神に仕える者と使えない者がいる。それが、主の日には区別を見ると聖書は預言している。つまり、本当に神を畏れ敬う者とそうでない者が明らかにされる裁きの日がくる。その日が「主の日」なのだ。主は、私たちの話を聞いておられる。そして、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が記録されている。預言者は昔から語ってきたのだが、多くの者が無視し、主の御言葉を軽んじた。そして、イエス・キリストがやって来られた。同じように、キリストはもう一度この地上に裁きと救いを携えて来られる。再臨だ。しかし、再臨が起こってからでは遅すぎる。それは、記録の書があることでもわかるだろう。神はすべてに計画的なのだ。預言者を通して語ってから事をなされる。それで、聖書をどう読むか、つまり読みっぱなしで何もしないのか、読んで主を畏れ主の愛に応えようとするのか、それぞれの信仰が測られ記録されるだろう。この地上で信仰を守るために忍耐が必要だが、主を待ち望んで耐えていた者には、想像もつかない報いがある。「私にとって宝となる」と万軍の主が言われたからだ。主に仕えよう。喜んで仕えよう。主は仕えるあなたを憐れまれるだろう。そして、主の備えられた日は確実に近づいていることを覚えよう。(サクマ)

 

4月4日(金)

人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ6:8

 

クリスチャンの生き方を今日は、少し考えてみましょう。預言者のミカは、「善」は何かと問います。「善」は神の求めていることを行うことです。そして、三つの事があげられています。「正義を行う」「慈しみを愛する」「へりくだって神と共に歩む」、この三つです。あなたは、この三つを心にとめて実現しなければなりません。神が社会に求めていることが正義です。それだから、信仰がなければ何が正義かもわからないのです。また、「慈しみを愛す」とは、イエス・キリストが模範を見せて下さった通りです。人が愛を知るのは、神との関係においてです。神に愛されて、人は愛することができるようになるのです。人を見る目を変えることにもなります。慈しみの目です。人を慈しむのは、自分が神から慈しまれているからです。そのことに気がつけば、決して難しいことではありません。「へりくだり」も神へのへりくだりであることを覚えましょう。己を神のごとくする危険から守らなければなりません。神抜きの愛は自分の欲望から出ているものです。クリスチャンは意図的に神への接近を図ります。そすると、神も近づいてこられるのです。聖なるへりくだりは、自己卑下とは違います。神と共に歩むことを可能とする信仰の姿勢なのです。生活の細部まで主への感謝と主に仕える喜びが信仰によってなりたっていることが大切なのです。主をほめたたえましょう。今日もへりくだって主と共に歩めますように。(佐久間)

 

4月5日(土)

わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」

詩編139:11

 

人生がいつも明るいとはかぎらない。暗くて不安でどうしようもない時もある。これから先どうなるのかと絶望することすらある。そんな闇の中でも主はあなたを見ておられる。あなたは、孤軍奮闘し、精根尽き果てているかもしれないが、あなたをちゃんと見ていて下さるお方がそばにいる。あなたを助けようと待ち構えている。誰もが夜の暗さを恐れる時も、あなたを照らす光があるのだ。不思議という主の助けがある。一人で堂々巡りの考えを続けるものではない。この先どうなるのかわからないのだから。ましてや、人のことなどどうすることもできやしない。しかし、闇を打ち破る光があなたを照らしているのなら、なぜ恐れるのか。あなたの力や努力ではないところから来る恵みがある。仕事のことも、人間関係のことも、お金のことも、老後のことも、結婚のことも、子育てのことも、健康のことも・・・。人間には次々に悩みの種が降って来るが、あなたには頼るべき神がいる。その神を知れば、この世の中は恵みに変わるのだ。奇跡でお金が降って来ないかもしれない。勉強しなくても難関校へ合格するという事もないだろう。怠けていて出世することもないだろう。不摂生をしていて健康でいられるわけもないだろう。だが、祈ればいつでも最善だけが与えられることは覚えていたい。それは、人間の知恵でははかり知れない不思議で、目先のことしか見ない人にはわからない。それでもわかることは、自分の良いと思ったことが必ずしもそうではないということだ。神はすべてをお見通しなので、間違うことがない。祈りは神の御心に適った事を祈ることなのだが、神を知らなければ、御心がわかるはずがない。御心にかなかった祈りを天の父は聞き入れてくださると聖書に書かれているので、ますます御心に適う祈りを理解しなければならない。さて、そのために、今日の御言葉を考えてみてはどうか。闇とは、見えないということだ。だから、前が、周りがわからないので不安になる。前へ進めなくなる。でも、小さな懐中電灯でもあれば、人は歩き出す。あなたは人生の道を立ち止まることなく歩けるだろう。同じように、神からくる、あなたを照らす光があるのだから。だから、どんな状況にあっても前に進めるはずだ。前途が明確に見えるということではないかもしれない。でも、あなたは光で照らされているのだ。つまり、あなたは光で満ち溢れ明るいのだ。光はあなたを満たしているということを覚えよう。周りの状況は変わらなくても、あなたは明るいはずだ。外を見るのではなく、内を見るのだ。そうすれば、そこに聖霊があなたを愛する思いにあふれて臨在しているはずだ。「大丈夫だよ!安心しなさい」と優しい声が聞こえるだろう。この方と生きているのだ。だから、あなたの人生は感謝することが多くて驚くことになるだろう。やがて人はあなたを神に祝福された者と呼ぶようになるだろう。主がそのように望まれておられるのだから。(サクマ)

 

4月6日(日)

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

コロサイ3:1~4

 

クリスチャンとは実に不思議なものです。なぜなら「あなたがたは死んだの」だと、はっきり言い切るからです。生きているのに、死んでいるという人とはどのようなものでしょう。そして、死んだあなたの命はどこにあるかと問えば、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」と答えるのです。でも、考えてもみてください。すでに死んでいるのなら、この世のことで思い煩ったり、怒ったり、損した得したと一喜一憂することもないのです。この世の欲も死んだらおしまいです。でも、「あなたがたは、キリストと共に復活させられた」と書かれてもいるのです。これはもともと罪のせいで死んでいた霊の私です。生きていた肉の私は死んでしまったのですが、死んでいた霊の私は復活しているのです。ですから、上にあるもの、つまり霊的なことに心を留めることで、罪人の古い自分に死んでいることを認めるのです。このような、二つの命があるので混乱するし、信仰を発揮するかどうかによってどちらか一つの命に生きることになるので、霊的にいい状態であるとか、悪い状態であるとかと波があるように感じるのです。いずれまもなく主イエス・キリストが再臨される時にあなたの命が復活した命であることがハッキリするでしょう。しかし、それまでの間に、信仰によって古き人に死に、新しき人に生きていることを明確にしたいものです。そのためにも、今日の御言葉の通りに信じて、霊的に復活の奇跡にあずかりたいのです。ここから先は、あなたがイエス・キリストとどのような関係を築くかで決まってきます。もう少し、目に見えないことを信じてみましょう。主のお導きを受けて霊的覚醒を受けることができますように。(佐久間)

 

4月8日(火)

しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。

創世記8:9

(写真:*christopher*)

 

鳩は平和の象徴であり、聖霊の象徴です。水でこの世界が滅ぼされた時に、安全であったのは箱舟だけでした。そして、雨はやみ、水は徐々に水位を下げて行きましたが、すぐには箱舟の外へ出ることはできませんでした。今日の御言葉はとても印象深い言葉です。「鳩は止まる所がみつからなかったので」とあるからです。水が象徴しているバプテスマを受けて、罪から救われ、洗われて清められたクリスチャンは、神と和解して平和を得ます。また、約束の聖霊を受けて新しい命に生きる者と変えられました。それ故に、今日の聖句に出てくる鳩に譬えられるのです。鳩が安全に止まる事の出来る場所は、箱舟、つまり教会でした。この世がいまだ安全な所と言い難いことは理解できることでしょう。しかし、神のもと以外に安息を得る場所があるといえば、それは危険なことです。神と共にいる以外に安全の保障などないからです。この世に何か楽しみを見出したなら、それは神とどちらが勝っているか問われるでしょう。クリスチャンには主イエス・キリストの愛に勝るものなどありえません。その愛の広さ、長さ、高さ、深さを知るために信仰の日々があるのです。自由があってどこへでも飛んで行けたとしても、イエスのもとに帰れば安息があります。クリスチャンにとって、主イエス以外に、他に止まるところは見つからないのです。もし、見つけたというのなら、もはやあなたにキリストは必要ないということになるのです。私の言っていることが正しいかどうか、再臨の日に分かります。しかし、その時に気が付いても遅いのですが。(佐久間) 

 

4月9日(水)

夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。

マタイ8:16

 

不思議な事に、イエスは病人を皆いやされた。その中には、大酒飲みや不摂生で乱れた生活がたたって病気になった者や罪深い生活を変えなかった者など、自分の罪の結果病気になったような人たちがいたかもしれない。それなのに「病人を皆いやされた」というのだ。何が気になっているかと言えば、現代でも癒しをする人たちがいる。癒しの賜物は聖書にも書かれていて、現代でも癒しの賜物を使って奉仕している人はいるのだ。しかし、ある癒しのミニストリーを行っている牧師が、癒し率を出していて、75%が癒されるが100%ではないと言っていた。私が気にしたのは、イエスは100%の癒し率だったのに癒しの賜物をいただいて奉仕している方が75%の癒し率という。では、この25%の差は何かということだ。もっとも、その牧師が言うには、医療では55%ぐらいしか癒せないと言うので、それよりは高い癒し率をあげていることは事実なのだが・・・。25%の癒されない人たちは何か特別に罪深い人だからだろうか?あるいは、何か別の理由があるからだろうか?イエスはなぜ100%癒せるのだろうか。それは、神の子だったから当然だということか。勿論、それもあるだろうが、実は今日の聖句には続きがある。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。』」(マタイ8:17)。預言者の語った神の言葉は、彼(イエス)は私たちの患い、病を担った、ということだった。彼(イエス)は、癒すと言っているのではなくて、自分で人の病を担うから、その人は癒されるということなのだ。それが、目に見えたのは、イエスの十字架のお姿である。十字架も罪の無い神の独り子イエスが罪人の救いのために身代わりに罰を受けてくださったお姿なのである。ここに愛がある。人間は、キリストのようにはいかない。人の分の罪やその罰を負うことなどできない。それが、25%の差を生み出しているのだ。(サクマ)

 

4月10日(木)

しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。

ユダ1:20-21

(写真:marfis75)

 

クリスチャンになるための洗礼を受けていながら、真の神ではないものを拝んでいる者がいます。本人はそのことに気づいていないようです。教会で一緒に礼拝しているのに、実は悪魔に騙されている者がいるのです。そこには、明瞭な理由があります。それは、心の傷がいまだ癒されていない時に、そこを悪魔に突かれてしまうことです。本物の神を信じていれば救われるだけでなく、その後の人生が豊かに恵まれるのです。勿論、罪人として生きてきた人ですから、新しく生まれ、新しい人として成長しなければなりません。それは、もっぱら聖霊がその人の信仰に応えて、イエス様に似た者へと造りかえていくことです。ですから、無条件の罪の赦しと信仰による義認と水と聖霊のバプテスマのように完全な救いの計画に必要なすべてが備わっていても、それでも、心の癒しがなされないなら、悪魔は情け容赦なく攻めたててくるでしょう。そうした攻撃はいつでも悪魔が勝利してしまい、ゆがんだ信仰が始まるものです。それゆえ、心の癒しを聖霊の助けを借りて、しっかりやることです。時には牧師の助けを借りることも必要でしょう。しかし、癒すのはイエス様です。神の愛、御子イエスの恵み、聖霊の交わり、という祝祷で聞くこの言い方の通りに、三位一体の神があなたを完全に癒してくださいます。それから、信仰のことを考えます。ここでは「最も聖なる信仰」とありますから、イエス様の信仰を分け与えていただけばいいのです。願えば、主はあなたをはかり、ちょうどよく信仰を分け与えてくださるでしょう。それで、あなたの生活を支えることができます。誰もが罪の世では幼い時ほど心に深く傷つけられることがあるのです。それを癒す方法は、神に愛されることです。これも、難しくはありません。何しろ、人間と違って神はその御言葉を変えないからです。私が先に愛した、と言われる神は、あなたがわかるように愛してくださいます。それは聖なる信仰によってはっきりわかるでしょう。この神の愛があなたを守り続けるのです。パウロのようにひどい迫害を受けても傷つかず、耐えれたのは、神の愛が迫っていたからです。そして、主イエス・キリストの憐みがあなたには必要です。どうしても必要です。それがあなたを助けるからです。あなたが人生の旅のゴールとして天国へたどり着けるかどうかは、この主イエス・キリストの憐みにかかっているからです。あなたの行いでは、難しいのです。確かに善行は、必要でキリストの憐みを引き寄せるでしょうが、あなたの功績では永遠の命を得られないことも事実なのです。だから、主イエス・キリストを信じているのです。そうすれば、やがてイエスを愛さずにはいられなくなるでしょう。そして、この世で多くを求めなくなるのです。今日の御言葉はあなたを戒め祝福してくれます。(佐久間)

 

4月11日(金)

そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。

マルコ7:34,35

(写真:t-miki)

 

昔、青年向けの月刊誌を創刊することになり、その時の雑誌名の候補に「エパタ」(口語訳)という題を考えたが、採用されずに別の名前になった。もっとも別の雑誌名も私が考えたのだが・・・。その後、しばらくしてよそのキリスト教機関が「エパタ」という雑誌を創刊したので、とても惜しい気がした。それは、このエパタあるいはエファタが、キリストの奇跡を起こした御言葉だからだ。神の御声が聞こえない人の耳をこの「エパタ」という言葉で開いてしまいたいという思いがあったのだ。どうだろう、私たちは本当に神の御声が聞こえているのだろうか。御声を聞いたことはないという人はたくさんいる。彼らは直接主の御声を聞きたいと願っているのに耳が閉じているのだ。ならば、主に「エパタ」と言って耳を開いていただきたいと願うべきではないだろうか。興味深いのは、聖書の中で耳が開いた人は、はっきり話すことができるようになったのだ。だから、主に霊的な耳を開いていただけるなら、私たちは、はっきり主の福音を語りだすのではないだろうか。確かに、聖書がだんだん分かるようになった人は他の人に聖書で学んだことを話している。罪の中で霊の世界のことがすっかり分からなくなり、霊はいないというような人ばかりになった現代に、目に見えないことを見、肉の耳に聞こえない細き御声を聞く者が必要であることは明らかだ。私は、生まれながら耳の聞こえない子供が霊的癒しを受けて、突然音が聴こえた時の驚きぶりを見たことがある。涙が出るほど感動したものだ。イエス・キリストがこの世に来てくださったので、このような奇跡が今も続いているのだ。人々に迷わされることなく、聖書に書かれた通りに信じる者になろうではないか。主は今でも「エパタ」と言って奇跡を行ってくださるのだから。(サクマ) 

 

4月12日(土)

わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。

詩編62:8-9

(写真:Fc Nikon)

 

この御言葉の通りです。そう私たちの人生のことです。何しろ、私たちの力は限りがあって、自分を助けることができないのです。ほんのちょっとのことでも、すぐに倒れてしまいます。頑張ってもどうしようもないことが起こったら、どうしますか。自分の力で解決できない事は、いくらでもあります。それどころか、自分が救われる存在かどうかは自分自身を振り返れば明らかです。誰かに頼りたいと思っても、それほど親切な人もいないし、助ける見返りを要求されます。天国へ行けるかどうかとなれば、もう人間の力の及ばない話になるでしょう。岩はキリストのことです。力と頼み、避け所とするキリストは神のもとにある。つまり、あなたが神さま助けてくださいと祈ると、天からの救いが来るのはキリストが助けてくださるという事です。もっとも、ダビデがこの詩を詠んだ時はキリストは天にまだおられたのですが・・・。さて最も大切なことは、「どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ」ということです。不思議な事に、このことができる人と、できない人に分かれてしまいます。たとえば、「どのような時にも・・・」というところが問題になります。怒りがおさまらない時には、この御言葉は守れないし、否定的な思い煩いが心を占めるとやはり御言葉の通りにはできないのです。不安も恐れも同じように大敵です。罪を犯したときですら神への信頼ということを実践しなければなりません。さて、「御前に心を注ぎ出せ」ということも考えてください。言葉を並べればいいと言うわけではありません。心を注ぎ出すというのは、言葉を越えたものです。うわべを装うようなことも、虚勢を張る事も、体裁をつけることも、言い訳することも、自分に都合のように言いくるめることも、すべてを捨てて、自分の本心を注ぎだすのです。人間相手には決してできないことですが、主の御前にはできるのです。それは、その注ぎだした先があなたの隠れ場だからです。神は必ずあなたを救います。神の御力でみごとに助けるのです。(佐久間)

 

4月13日(日)

はじめに神は天と地とを創造された。

創世記1:1

(写真:Mahin Fayaz)

 

 『現代作家と文章』という本があり、その中で杉浦明平は、「小説であれ評論であれ、難しいのは書き出しであろう」と言っているそうです。というのもこの本を読んだわけではなく、『読まずにいられない北村薫のエッセイ』という本の受け売りです。しかし、皆さんも何かを書こうとすると、書き出しに苦労するのではないでしょうか。特に、良いものを書きたいときなどは創意工夫を重ねるでしょう。それでは、聖書はどうでしょうか。聖書を買って初めて読む時に、最初の言葉が創世記1章1節の今日の聖句です。聖書記者は神の霊感を受けて自分の言葉で書いたと言われています。神のインスピレーションがどのようなものであるかは、説明しにくいものです。しかし、実物の言葉が日本語でしかも現代語で複数の訳で読めるのです。もし、名文などというような言葉を使ってよいのなら、間違いなくこの聖句は最高の名文です。たった十六文字で、神の御手によるこの地球の成り立ちも、人類がどのように生まれてきたのか、遥か昔の人類の記憶がよみがえるような、またロマンをも感じさせる、無限にも思える広がりのある言葉なのです。原語のヘブル語の単語は七つです。ここでは完全数の七が意図されているようです。つまり、完全な書き出しなのです。完全に創造したという意味です。そして、はじめがあるので、その後の全ての事が起こったのです。しかも、神が作られたのは天と地です。それなのに人間は地のことしか考えていません。地のことはわかっても天のことは理解できていないのです。これは、おかしなことです。神の被造物として人間は存在しているのだからです。創造された被造物世界の一部であるのに、全体が理解できないのです。それは、アダムの犯した罪の物語に説明があります。その罪の後遺症のように今日に至るまで、人間は罪の中に生き続け、その罪が天を分からないものにしているのです。あなたがこの地に生きているのは、はじめがあったからこそなのです。そして、さらに大切なことは、はじめがあるので終わりもあるということです。その終わりのことは聖書の最後のヨハネの黙示録に記されています。あなたは、この聖書の最初の書き出しをどのように理解するでしょうか。しばしこの御言葉からうかぶ真理の世界にとどまってみませんか。(佐久間)

 

3月14日(月)

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネ13:34

 

どのような世界ならば、私たちは幸せなのだろう。それはきっとこのようなものだと思う。その世界は、皆が親切で裏切らず、嘘を言わず、騙すこともないだろう。互いのことを思いやり、困った時には損得抜きに必ず助けてくれるだろう。一緒にいることを喜び、笑い合い、喜びも悲しみも分かちあうだろう。食べ物が無くなれば、一つのパンを分け合うだろう。こんなことを考えていくと結局人間関係がうまくいけば人は幸せであることに気づく。東日本大震災の後、風呂屋の脱衣場で隣あった人は体に入れ墨があった。何か気になって、その人に言葉をかけてみた。すると、たちまちのうちに親しくなった。震災で皆が傷つき、人を大切にする思いがあったからだ。一人ではなく一緒に誰かといたいという気持ちが人々の心にあった。貧しさは人の敵だが、富とか豊かさだけでは、やはり人は幸せになれない。しかし、この世にはいろいろな人がいて、自分と気の合う人もいれば、相性の悪い人もいる。社交的な人もいれば、無愛想な人もいる。だから、大きな教会を見ると大勢の人がいるのに親しい人が少なくて教会を去って行く人がいる。学者が調べた所7人の友達がいれば教会を去らないというデーターがあるそうだ。その点、小さな教会は家族的なので、全員が知り合いになるので去って行くことは稀である。でも、今日のイエスの戒めをどう理解したらいいのだろう。互いにい愛し合え、と言われているのにこの世と同じでは情けない。これでは、モーセ時代のイスラエルの民とかわらない。それに、もう一つ考えなければいけない事は、キリストが「互いに愛し合いなさい」と命じていることだ。創造物語を読めば、神が言葉を発するとその通りになったはずだ。「光あれ」と言えば、光があったのだ。ならば、キリストの発した言葉もその通りになるのではないだろうか。それが、そのようになっていないのは何か大きな問題があるということだ。それは、何だろう。勿論、創造の時のように、無から有を造るということと人間に命じるということでは本質的に違っている。人間はすでに神に似せて神の姿に造られた存在だ。だから、神が愛であるのだから、愛の神に似せて造られた人間は本質的に愛であるはずなのだ。愛とは、愛したり愛されたりするものだ。だから、キリストが「互いに愛し合いなさい」と言わなければならないことが、すでに人間は神の御姿を失っているということだし、その人間に創造主であるキリストが「互いに愛し合いなさい」ということは、キリストの御力で人間に神の御姿を回復するということになる。そうでなければ、神の御姿を失った者には神のように互いに愛し合うことなどできない。それが、命じることができたのだから、イエスを信じた人には何かしら、再創造するような大きなことが与えられているはずだ。それが、イエスの十字架であり、復活であり、約束の聖霊の降下、つまり聖霊によるバプテスマだ。この世の者は、一時の幸せを手にすることがあっても、それは永遠の幸福ではない。しかし、聖書に記されている福音を信じた者には、恵みが注ぎ、永遠の命が与えられる。創造の時、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:2)とある通りだが、罪人も地のちりで作られ、罪のせいで混沌としていて、罪の闇が覆っている。そして、水のバプテスマと聖霊のバプテスマがあって、人は新しい人となることができる。その新しい人に創造の時と同じ声が命じれば、罪のない神の御姿となる。それは、互いに愛し合うことを可能とした神の恵みなのだ。そこで、あなたも、この奇跡を体験できることを信じよう。キリストの互いに愛し合えという掟こそ、幸福を実現す秘訣なのだ。(サクマ)

 

4月15日(火)

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」

マルコ2:27

 

クリスチャンでも安息日のことをよく知らない人は多い。一方、安息日を守る事を遵守するクリスチャンもいる。安息日を厳格に守る人にとっては、守らない人は救われないと思えてしまう。不思議なことに頑張って守れば守るほど、守らない人が疎ましく思え、本物のクリスチャンとは思えなくなってしまうのだ。安息日を信仰によって遵守している人を律法主義と断罪するクリスチャンもまた、残念ながらいる。どちらの人も今日の聖句で主イエスのお語りになったことがよく分かっていないのではないだろうか。なぜなら、両者がこの聖句を使って相手を非難するからだ。できれば、そうした空しい議論に巻き込まれたくはない。人間の知恵や感情によって勝手に考えるようなことではないからだ。安息日を守ると言う人は、何のために安息日があるか忘れてはいけない。人のためなのだ。しかし、人が安息日を守ろうとすれば、人が安息日のためにあるという状態になりやすいのだ。ユダヤ教徒を見ればわかる。厳格に律法を守っているがイエス・キリストを主と認めることはない。創造物語を見れば、六日間人はあくせくとこの世でパンを得るために、つまり生きるために苦労して生きているが、七日目は安息が神によって恵みとして与えられている。人間の一生を七日間とすれば、七日目は人の人生の最後の時、人生のゴールと言ってもいい。そのゴールは人がもうパンのことを心配しなくてもよいのだ。ただ神との交わりを楽しむための安息に入ることができるということだ。そうゆうことが予型のように書かれている。だから、どんなに苦労多い厳しい人生を生きてきたとしても、信仰者は最後に安息が待っている。パラダイスに入る事ができるのだ。そう考えると安息日は、やがて天国で神と共に過ごす喜びの前味となる。そうであれば、安息日は人のためにあると言えるのだ。しかし、安息日をただ厳格に守ることだけを考えてきたのならば、さぞその人生は疲れたことだろう。しかもそれは、決して楽しい天国を現してはいないだろう。だから、人が安息日のためにある、と言わざるを得なくなるのだ。このように真理が分かれば、安息日の真の喜びを楽しむことを覚え、クリスチャンはもっと信仰を強められ、神の国の到来を力強く伝えることができるだろう。(サクマ)

 

4月16日(水)

主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

サムエル記上16:7

(写真:Kevin Wang Photography)

 

あなたがクリスチャンであるのなら、あなたは神に召され選び別たれた人、ということになります。あなたは自分をどれぐらい素晴らしい人と思っていますか。私はどうして選ばれたかわかりません。良いところもあるだろうが悪いところもあります。私より優れた人はいくらでもいるでしょう。それなのに私は選ばれました。あなたはどうでしょう。やはり選ばれたのですが、当然だと思うでしょうか。いえ、きっとそうは思わないでしょう。私と同じように思っているかもしれませんね。ビジネスマンも最近は身だしなみだけではなく、容姿も気にするようになってきて、男性でも整形美容に頼る人がでてきたりしています。それがビジネスでも効果があるからでしょう。ですから、この世にあって容姿や背の高さを気にする人がいるのは不思議ではありません。また、人を見て判断する時に外見の優秀さが基準でいろいろ選らんでいるのなら、神の選びとは著しく異なっていることになります。人を見ぬく人というのは、やはり、外見だけでなく、その人の内面を重視して見ているのです。ましてや、神は人を人間的方法では見ません。そうではなく、主は心によって見るのです。ということは、クリスチャンのあなたは、主に心を見られて合格したということですね。その主がご覧になって良しとされたあなたの心を大切にしてください。主は、ダビデがまだ少年の時に、兵役についている兄たちからみれば見劣りしていたのにもかかわらず選ばれたのです。そのダビデがやがてイスラエル最大の王となりました。あなたのことも将来を見通して、主は選ばれたことを覚えましょう。そして、あなたも人を外見で見るのではなく、心を見る人になりましょう。(佐久間)

 

4月17日(木)

もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。

創世記4:7

 

アダム、エバを通して罪が入り込んできてから、すぐに罪の恐ろしさが暴露された場面です。死は殺人から始まったのです。しかもそれは、兄弟殺しでした。兄弟姉妹の仲が良いのを見ると心が幸せになります。しかし実際は、人類の最初から兄弟の関係の難しさが現れたのです。さて、神は兄カインの捧げ物に目をとめられませんでした。しかし、弟アベルの捧げ物には目を留められたのです。二人の兄弟の上に一体何が起こったのでしょう。その時の神の対応に兄は激しく怒り顔を伏せました。当然、それを神にみとがめられることになりました。そして、今日の聖句へと続きます。少し整理して意味を取ってみましょう。カインは、神への捧げ物が不適切だったので受け入れてもらえませんでした。そもそも、ここにカインの神への誤った態度が見られます。そして、カインは、弟の捧げ物は適切で神に受け入れられたことに腹を立てます。自分は不適切なものを捧げていたにもかかわらずです。それで彼は、神に対して怒っています。しかし、かなうはずもない神を相手にはできませんから、神への怒りはライバルの弟アベルへ向かうことになります。神は「お前が正しいのなら」とカインに語っています。私たちが教訓とする事は、日々の生活の中で神は「お前が正しいのなら」と今でも聞いておられるということです。正しいのなら顔をあげられるはずなのに、どうして顔を伏せてしまうのか、それは正しくないからだろう。罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。気づくべきは、カインはまだ罪を犯していないことになります。罪の前段階があるということですね。その時点で、罪を支配するように神は告げています。では、罪は何だったのかと言えば、殺人だったことになります。死んでしまえば、もう愛することも愛されることもなくなります。赦してもらうこともできなくなります。会うこともできなくなります。究極の愛の拒絶なのです。それがどんなに痛手となるか、あとでわかるのです。クリスチャンは罪を知り、その罪の赦しと解決の方法を知っています。それがイエスの犠牲であり、命を投げ出すほどの愛であることを知ったのです。だから、罪を犯さにことを第一に考えるのです。そして、罪を犯す前に、罪を支配するようにとの神の御言葉が教訓となっているのです。(佐久間) 

 

4月18日(金)

すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。この神は生ける神、世々にいまし/その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い/ダニエルを獅子の力から救われた。

ダニエル書6:27,28

(写真:anieto2k)

 

あなたはどのようなクリスチャンになりたいだろうか。私はダニエルのような神の人に憧れる。たった一人の人の信仰の姿が原因で、ダニエルの時代の世界の支配者であるダレイオス王が支配するすべての地域の人々に命じた内容が今日の聖句に書かれている。たった一人でも、正しい信仰で生きるなら、困難さえも益に変え、すべての人々に神を畏れ敬わせることができるのだ。私は、聖書の登場人物で誰が一番好きかと聞かれれば、ダニエルと答えることにしている。ダニエルだけが、落ち度のない信仰を守り通したからだ。その絶対的な信仰にならいたいものだがあまりにもできが違うので、どちらかといえば憧れに近い感情をもっているのだと思う。今日の聖句を読むと、人間が自分の力でかなわない敵に脅かされる時に、その脅威から救ってくださる方が私たちの救い主イエス・キリストなのだ。実は、そのことをあなたも味わっているはずだ。今日も、神を讃美し、ダニエルの神を信じる幸いを感謝しよう。(サクマ)

 

4月19日(土)

イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。

ルカ11:14

(写真:J.D Chen ♂)

 

聖書を読んでいると「悪霊」という言葉が出てきます。今日の箇所もそうです。この悪霊は口を利けなくする悪霊でした。驚くことにイエスがこの悪霊を追い出すと、口のきけない人がものを言い始めたというのです。これでわかることは、悪霊はそれぞれ人間を苦しめる特別の能力があるようです。それにとりつかれると、すぐに症状が現れるのです。この人のように突然口が利けなくなれば、いっぺんに生活が破たんしてしまうでしょう。仕事もできなくなるでしょうからどれほどの苦痛を強いられるかしれません。このような悪霊が、聖書の時代だけにいたと思っている人がいるのですが、どうして聖書時代に限定されるのか合理性が感じられません。ただ、悪霊の存在をしらないからだろうと思います。しかし、牧師や宣教師などの現場で戦っている人たちは少なからず何かの形で悪霊と遭遇するのです。悪霊に苦しめられている人を単に精神病者のように「科学的」という金科玉条の言葉でかたずけられてはたまりません。もっとも、イエスの時代も同じで、宗教家が特に目の前に悪霊に苦しめられている人がいても、鈍感に気づきもせずに、助けることもしなかったのです。ところが、イエスが悪霊を追い出し、苦しみの中に縛られていた人を解放すると、喜ぶのではなくそれを非難したのですから今と同じだと思ってしまいます。悪霊が人を苦しめていると話せば、頭のおかしい人のように扱われてしまうこともあるのです。しかし、キリストがそうやって悪霊を追い出すことを、弟子たちに権能を授けて命じたことは特に注意する必要があります。今も、悪霊に苦しめられている人は、教会にはくることなく、いかがわしい霊能者のもとへ助けを求めに行くのです。教会は何のためにあるのかと思ってしまいます。神と悪魔の大争闘は今や終わりの時を迎えようとしています。人間はこの狭間にいるのです。ですから私は関係ないとはいえません。ただ、一人でむやみに悪霊と戦うことは危険ですから、神の御心である時にこそ戦い、しかも教会として戦うことが望ましいでしょう。皆で祈り支え合っての戦いである方がより安全です。また、霊を見分ける賜物を持つ人が活躍の場を与えられるでしょう。しかし、それぞれの賜物が霊の戦いでは役に立つのですから、自分に与えられた賜物にこそ忠実でありたいものです。初心者の人は、聖書の学びと牧師の指導や教会での修練が必要です。主が特別に召し出すならば、従順に従えばいいし、そうでなければ危険をおかしてはいけません。(佐久間) 

 

4月20日(日)

主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。主は渇いた魂を飽かせ/飢えた魂を良いもので満たしてくださった。

詩編107:8,9

(写真:Texture Time)

 

人の渇きや飢えを誰が満たせるというのだろう。不思議な事に、今まで順調に生きてきたはずが、急に何の前ぶれもなくつまづきの石が立ちはだかる。いや、それほどはっきりしていなくても、気がつけば飢え渇いていることがあるのだ。誰も自分に気づいてくれないと嘆くのはやめたほうがいい。主はあなたのことをちゃんと知っているのだから。あなたが言えない不安の理由も、主は理解している。驚くべきことに主はあなたをすぐにでも助けることができる。人には到底無理でも、主に不可能はない。あなたがクリスチャンであるのなら、そのことに気づいていているはずだ。主に感謝せよ。主は慈しみ深い。あなたの心を感動させる主の御業を見るがよい。あなたは恵まれた人なのだ。あなたの幸せは主イエス・キリストから来るのだから。主に感謝せよ。あなたが何も解決できない時も、あなたにできる一つのことを実行しなさい。主にすべてをゆだねきって、神に身を投げ出すことだ。主イエス・キリストを信じなさい。あなたは神の子なのだから、後ろを振り向いてはいけない。主への信頼は、魂の充足によって応えられる。主に感謝せよ。(サクマ)

 

4月21日(月)

主に感謝するのは良いことである、主の愛はとこしえに絶えることがないからである。主にあがなわれた者たち、主によって敵の力からあがなわれ東から西から、また北から南から、もろもろの地から集められた者たちは。

詩編107:1~3

 

主に感謝するのは、主の変わらない愛のためです。どこまでも優しく主はあなたを見つめておられます。あなたがかわいいとの思いが主のお心に湧いてくるのです。理屈抜きに主はあなたを愛しておられます。しかも、だれよりも賢明なお方なので、あなたが成長し、主の御心に適う者となることを願っておられます。私たちは自由に生きたいと思い、人生を生きてきました。自分の人生を振り返ってみたならば、良いことばかりだったとは言い難いかもしれません。失敗も多く、未熟で、愚かで、「もっとしっかりしなさい」と叱りたくなるかもしれません。または、自己憐憫に陥って悲しむかもしれません。人生に悔いなしと言える人がいる一方、悔いばかりが残ると思う人もいるかもしれません。あの時、こうであれば、ああであれば、と悔やんでも意味はありません。大切なことは、信仰をもって生きる者となったのですから「主の愛が変わらない」ことに目をとめるべきです。そうであれば、主の愛に応えて生きようと希望が見えてきます。人は心変わりすることがありますが、神の愛は変わらないのです。さて、今日の聖句はバビロン捕囚から帰還した人の詩です。最後まで読まれた方は、その後の文章が気になると思います。続きがあるように見えるからです。しかし、ヘブル語本文には、書いてありません。翻訳聖書では、「そのように言え」と補っているものがありますが、あくまでも推読です。もし、あなたがバビロン捕囚にあった人の気持ちがすこしでも推測できるのでしたら、罪の世界に生きる者がいつの日にか天国へ帰りたいと思う思いと似ていることに気がつくでしょう。クリスチャンは少なくとも天国への途上にあるのです。聖書でいえばバビロンから砂漠を越えてイスラエルに帰る、いやエルサレムを目指す帰還組の人達のことです。彼らが、感謝しているのは、国破れてバビロン捕囚にあったことは自分たちが神に罪を犯し続けた結果なのだと理解していたでしょうから、神を裏切った者をいまだ愛してくださることへの感謝なのです。クリスチャンも同様に、罪人であったのに、主の犠牲により罪からあがなっていただき、赦され、救ってくださった主の愛に感謝を献さげるのですから、自分とダブらせてみることができます。あなたのこともどこに住んでいたとしても、主が捜し出してくださったのです。そうして召された者の集りが今日では教会なのです。スクエアー・ジャパンもそうであることを覚え、主に感謝しましょう。(佐久間)

 

4月22日(火)

ある人びとは砂漠の荒地に道を見失った。彼らは住むべき町に至る道を見出さなかった。飢え、またかわいて、彼らのたましいは自らのうちに衰えた。それゆえ、彼らは苦しみのうちに主に叫び、主は彼らをその悩みから救い出された。主は彼らが住むべき町に行き着くまで、彼らをまっすくで楽な道によって導かれた。詩編107:4~7

(写真:Joe Parks)

 

人生の道のりを最後まで無事に行くことは、それほどたやすくはない。それどころか、子供から大人へと何事も無く順調に成長できるとも限らない。それどころか、未熟な子供時代や難しい思春期は危険に満ちているともいえる。はたして、社会人となり、いつの間にか自分の道が決まってしまう。その道が一番良いのかどうかもわからないのに、ただまっすぐに進んで行こうとするものだから、挫折もあれば、落とし穴もある。そこで、今日の聖句である。人は一体どこへ行こうとしているのだろう。区切りの年齢がある。20歳、30歳、40歳、50歳、そして60歳・・・、そのどの区切りにも、心がついていっていないと思うかもしれない。自分が歳をとることについていけないのだ。しかし、時は止まらない。だから、歳相応に成熟したいと願うが実際は、衰えたとか老いたという感情が勝っているかもしれない。今日の聖句は、バビロンからの帰還者の詩であると言われたり、出エジプトの後の荒野の旅のことだと考える人もいる。モーセは80歳でこの聖書でも最も重要な箇所に書かれた出来事の主人公となった。さて、あなたは80歳になった時にどうなっているだろう。神に信頼される偉大な人になるために80年の患難辛苦を経なければならなかったのだ。「私が、私が・・・」という思いがあるうちは、主の大事な御用を果たすにふさわしいとは言われないだろう。でも、クリスチャン人生ははっきりゴールが決まっていて、その目的地へ旅をしているのだが、肝心の旅路が荒野だということだ。それどころか、道を見失うことすら起こるのだ。その試練の中で神への強烈な祈りが献げられる、救いはただ主にのみあるとわかった人の祈りだ。その祈りにこそ主は力をもって応えてくださるのだ。それからの人生の旅路がゴールに「行き着くまで、彼らをまっすくで楽な道によって導かれ」るという約束がここにある。だから、信仰の道に精進しよう。信仰の熱意は良い結果を生む。主のかわらざる愛はあたに注がれているのだから、主を信じよう。主からこそ助けはくるのだ。(サクマ)

 

4月23日(水)

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。

Ⅱペトロ1:3

 

人間の悲しさは、愛する者が助けを必要とする時に助ける力が無いこと。お金で解決できることなのに与えたいお金が無いこと。何もできずにただ無力のゆえにじっと耐えていること。そのように人間の愛は力を伴わない時に何もできないのだ。ところが主イエスは違う。私がイエス・キリストをなぜ信じているかと言えば、主イエスの愛は力があるからだ。愛する者を最善に助けることができるのだ。聖書に書いてあるいかなる約束も果たすことができる力を持っておられるのだ。主イエスは、なんとすばらしいお方だろう。弱さの中で何度も倒れてしまうような小さな者の乏しい祈りに、主イエスはちゃんと耳を傾け、助けてくださるのだ。クリスチャンになってから、はたしてどんな生き方をしているだろうか。胸を張って主の御前に立てるだろうか。いつか立派なクリスチャンになるが今はまだ欲を捨てることなくこの世の楽しみにも参加しようと思っているのなら、それは明らかに誤りだとペトロは教えている。主イエスは、「命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」というのだ。だから、言い訳をしたり、悔い改めてばかりの人生をおくる必要はないということだ。「これこそが人生だ!」と、主は分からせてくださる、人の真の生きる道を教えてくださる。そして、主イエスこそが、それを実現させることができる力をお持ちなのだ。主は、あなたが罪から救われたことだけで立ち止まらないで欲しいと思われている。主イエスのような人になって欲しいと願っておられるのだ。だから、標準を下げてはいけない。主と共に生きることは、この世の誘惑や罪の魅力に抵抗する力を持つことである。クリスチャンは、ペトロのように反律法主義者に対抗すべきだ。反律法主義者とは、罪を犯しても主の恵みがあるので大丈夫だと生活を改めず、自分自身を改めて生きようとしない人のことだ。主は生きておられるので、あなたは、従順に主に従うことができる。世の汚れに一線を引いて生きることは、クリスチャンの当然の姿なのだ。そうでなければ、どうやって神を知るのだろう。人はどうであろうと、自分は聖書を調べて、主に教えられたとおりに正しいクリスチャンとなるべきだ。自力では無理でも、聖霊が助けてくださる。これも主の約束でイエスはそれを実現させる力あるお方なのだ。主に栄光が永久にあるように。(サクマ)


4月24日(木)

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。

Ⅰペトロ5:8,9

 

クリスチャンが気を付けなければならないことの一つに、油断があげられます。クリスチャンの本分は主に対して従順となることです。しかし、偶像礼拝にはしるイスラエルの民のことを旧約聖書で何回も目にするのは、主に不従順になる神の民がいることを警告しているのです。偶像礼拝というのは、自分の欲望に仕えることを意味しています。本物のクリスチャンはこの欲望に打ち勝つ主の力を知っているのですが、自分のことにばかり気を取られるクリスチャンは、どこかで神が偶像へとすり替わってしまいます。罪に対して甘いので、悪魔の誘惑に抵抗することがないのです。それで、一旦、誘惑に陥ると際限がないのでその人を打ちのめすようなことが起こります。とても大変なことが起こるのです。それは一番嫌なことです。それで、苦しいので悔い改めるのですが、しばらくすればまた同じ罪を犯します。何度も何度も同じことを繰り返すのは、とても大きな損失です。そうゆう人たちは、自分の思い通りに神を動かそうとします。祈りがご利益宗教のようになっているのですが、たぶん理解できていません。悪魔は見逃さないので、かっこうのエサとなってしまうのです。牧師をしていて、羊たちにこの危険を理解させなければならないのに、彼らにとっては理解しにくいことなのです。聖書に書かれた通りにしなければならないのに、聖書を学ぼうとしないのです。そうであれば、自分で考えた通りにするしかなくなるので、うまくいかなくなります。だから、そのような人たちの行き着く先を預言者でなくてもどうなるか言い当てることができるのです。今日の御言葉を読み返してください。クリスチャンは、自分を捨てて、自分の十字架を負って、主の後に従うことが求められています。この世で自分の思い通りになるように信仰しているのなら、期待はずれでしょう。自分を捨てていないからです。自分をすてていると、自分の外から問題解決が起こります。自分を捨てたので、あなたではなく主が働くことができるようになったからです。この世は、やがて滅びるものなのです。救われる人は、この世から天に挙げられます。だから、今日の御言葉をしっかり理解してください。曲がり角を曲がったら吠えたける獅子が飛びかかってくるかもしれません。悪魔にかみつかれると、おかしくなって平気で神を利用しようとします。神を畏れることなどなくなるのです。それがどんなに危険をおかしていることかは、理解できていません。自分の欲望が止められなくなります。自己正当化するので、隣人を責めることになります。大切なものをどんどん壊しているのにやめることができません。そうならないように気を付けましょう。霊に鈍感などとのんきなことを言っている場合ではとうにないのです。この御言葉は2000年も前に書かれたのですから。イエス・キリストを主人と認めるのなら、そのように生きなければなりません。この信仰に命を懸けた人たちが2000年の間にどれほどいたでしょう。あなたも神に召されたのですから、本物のクリスチャンになるべく信仰をはたらかせましょう。悪魔に抵抗するのです。そうすれば彼らは逃げて行きます。主に喜ばれる者になりたいものです。(佐久間) 

 

4月25日(金)

主に従う人の救いは主のもとから来る/災いがふりかかるとき/砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる/主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。

詩編37:39~40

 

クリスチャンになっても、人は今までと大して変わらない生活を送るかもしれません。別に仕事をやめるわけではないし、人間関係をいっぺんに断つこともないでしょう。ただ、いつの間にか主イエスを信じない人から遠のくことはあるかもしれませんが。よっぽどのことがない限り、信仰のために迫害されることもないでしょう。困ればいつでも自由に祈れるし、毎日だって祈ることができます。しかし、キリストのようになるということになると、急にトーンダウンしてしまいます。自分の中の罪の問題をきっちり解決したのでしょうか。罪はキリストの十字架につけることが良いのですが、どうもそう簡単にはいかないようです。少しでも隙があれば、生えてくる雑草のように罪がどこに潜んでいたのか湧いてくるのです。それは、神への関心が薄れているような時に起こります。ですから、主に集中していかなければ危険なことが起こる事もしばしばなのです。もし、突然ひどいことが我身に降りかかってきたのなら、まず、罪をおかしていないか反省してみましょう。それで罪を自覚したのなら、すぐに主に罪の告白と悔い改めを祈ります。もし罪を犯していないのなら、今日の聖句を思い出しましょう。あなたは主に救われるでしょう。人間の常識を遥かに超えた助けがあります。主を避けどころとする人を、主は救ってくださるのです。聖書に書かれた約束は契約なので必ず守っていただけます。だから、今、困っている人も、恐れている人も、救いをすぐに必要としている人も大丈夫です。イエス様の深い愛を知ることになります。主は必ずあなたを助けてくださるからです。(佐久間)

 

4月26日(土)

まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。

ルカ18:7,8

 

この地上では、平和は長く続かないようです。罪人の集まりなのでそれもしかたのないことなのでしょうが、自分の生活を脅かすようなことが起これば、そうのんきなことも言ってはいられません。クリスチャンであれば、困ればすぐに祈るでしょう。しかし、祈り方にも気を付ける必要があります。自分を正当化して相手を裁くような祈りはかんばしくありません。それよりも、聖書に書かれたことを思い出して、相手を赦し、時には祝福することも必要となります。しかし、悪魔が関わっていて、ひどい目にあっているのなら緊急性が高いです。そして、悪魔を赦す必要はありません。主がすでに裁いてくださったからです。それでも、地獄で完全に滅ぼされるまでの間、悪魔はキリストの弟子を苦しめることを考えています。弟子のクリスチャンが苦しめば、イエスも父なる神も共に苦しむだろうと思っているようです。それで、弱いクリスチャンに罠を仕掛けたり、苦境に陥るように隙を狙っているのです。公然と悪魔と戦うと挑戦すれば、いい結果は期待できないばかりか、ひどい目に遭うのがおちです。神が許された時、必要が生じた時、信仰をもって戦うこともあるでしょうが、慎重になることが肝心です。それでも、悪霊追い出しなど挑戦して、その結果、思いもかけない苦境に追い込まれたなら、昼も夜も絶え間なく天の神に助けを求め、悪を裁いていただく必要があります。これは勝利の秘訣です。この聖句の箇所の最初にはこう記されています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」(ルカ18:1)お語りになったのです。順境の時には楽しめばいいのですが、一旦逆境になれば冷静になって、祈り始めましょう。人間の力で助けることができなくても、神は速やかにあなたを助けてくださいます。しつこく祈りなさい。(佐久間) 

 

4月28日(月)

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

Ⅰコリント13:1~3

 

クリスチャンになって、何が一番良かったかと言えば、愛を知ったことだと思う。この世の中の人は誰でも愛を知っているというかもしれないが、私が知ったのはイエス様が十字架につかれたことの中に私への愛を見たということだ。そこまで愛されて、生き方が変わった。主のために生きることは楽しいことなので、いろいろなことがあったが、後悔することはない。聖霊の力を知った時には、自分が何か超能力者になったような気持ちがしたが、今となれば、今日のパウロの言葉通りに思える。結局、世界中でクリスチャンがすばらしいと言われているのは、この主の教えてくださった愛を実践しているからだろう。クリスチャンは全員、この愛に生きているかどうかが問われている。自分のことばかり考えれば愛は消えているし、人を自分の為に愛してもそれが愛でないことはすぐにわかってしまう。なにしろ、イエス様は自分の命を投げ出して、我々が受けるべき罰を全部一身に受けてくださったのだから、もとより自分の為の愛であるはずがない。静かにたたずみ自己主張するわけでも無く、褒められることも無く、感謝されることも無く、誇る事も無く、見返りを期待することも無く、ただ愛し尽くしてくださった主に、なんとお応えすればよいのだろう。愛がまだ十分わからないのなら、正直に祈ってみよう。主は今日も変わらずあなたを愛しておられる。その愛を理解できるようにと主に祈ってみよう。主に愛された者は、真の愛を知ることになる。そこから新しい人生が始まっていることを覚えよう。愛があるかないかではなく、すでに愛されていることに目をとめてみよう。(サクマ)

 

4月29日(火)

キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

ヘブル3:6

 

あなたが神の家であると理解していてほしい。罪人であった時には考えることもできなかった奇跡があなたに起こっている。実感があろうとなかろうと、あなたでなく、神の側で奇跡を行っているのだ。汚れ朽ちて行くだけの家が、キリストの到来により、その聖なる贖いによって、そして恵みによりキリストを信じる信仰によって、その人を清め、再創造することができるようになったのだ。それだけにとどまらずに、清めた人をさらに聖霊の宮として定め、約束を信じる信仰によって、ペンテコステの時と同じように聖霊を降らせ、住まわせることを実現したのだ。聖霊の内住しているキリスト者は、神の愛の泉を持っている。聖霊は力そのもので、その人を通して流れ出ることができる。そのような隠れた力を備えた聖霊の宮、あるいは神の家は、キリストによって忠実に治められるので主の御心に適った生き方ができる。「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」。聖なる者としていただいたことを信じて、神を信じる人の生き方を身に付けよう。それは、イエス・キリストが深く関わってくださる人生となる。普通の人では知る事のできない特別な世界だ。あなたは救われた時に、すでにその世界へ招き入れられていることを覚えよう。あなたは、神の家である。主をほめたたえよ。(サクマ)

 

4月30日(水)

わたしがアカシヤの木で箱を作り、石を切って前と同じように二枚の板を造り、それを手に携えて山に登った。主は、集会の日に、山で火の中からあなたたちに告げられた十戒と全く同じものを板に書き記して、それをわたしに授けられた。わたしは身を翻して山を下り、あらかじめ作っておいた箱に板を納めた。それは今も、主がわたしに命じられたとおりそこにある。

申命記10:3~5             (写真:Zach Dischner)

 

申命記の中にモーセが十戒の石の板を主よりいただく場面がある。大変感動的な場面であるが、ここにはまるで預言のように未来のことが背後に隠されている。はじめの十戒を記した石の板は、イスラエルの民が罪を犯して金の子牛を拝んだために、怒ったモーセの手により破壊された。その後、再度十戒を主より授けられるのだが、前の時と違って、モーセはアカシヤの木で箱を作り、その中へ十戒の石の板を入れた。さて、これをイスラエルの歴史に当てはめてみよう。旧約聖書でイスラエルの民は、はじめ十戒を遵守しようとしていた。しかし、結局十戒が守れず、その罰のように外敵に国を滅ぼされ捕囚になってしまった。そこで、預言者エレミヤを通して神が語ったのは、「新しい契約」を結ぶということだった。その内容は、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」(エレミヤ31:33)というものであった。それは、はからずもイエスの昇天後に、ペンテコステの日の出来事として成就した。聖霊が人の上に降り、心に律法を記したのである。預言者モーセが作った木の箱は、人の肉体を象徴していた。人の内に聖霊を降らせて、生きた律法が宿るようにしたのだ。だから、二回十戒が授けられることとなったのだ。人間の外に律法の石の板を置けば、人間の努力で律法を守ろうとするだろうが、それでは誰もうまく律法を守ることができなかった。しかし、生ける聖霊が人の内に宿れば全く違ったことになる。ただ、聖霊が人の内で自由に生き、働けるようにしなければならない。それは、信仰のなせる業なのだが、その信仰を呼び覚ますのには、霊的覚醒がやはり必要になる。そのためには、聖霊のバプテスマが有効となる。聖霊が人に代わって生きれば、律法と何ら矛盾なく調和することができるのだ。(サクマ)