ディボーション 2014年5月

5月1日(木)

いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。

ヘブル13:9

 

テレビや雑誌に欠かせないのが、食べ物を取材した特集です。毎日、日本中のどこかで珍しい食べ物やおいしいと評判の食べ物が紹介されています。一億総グルメの時代は終わらないようです。それどころか、ますますヒートアップして、進化すら遂げているように思います。私はグルメではありませんが、家内いわく、「あなたは食べ物屋があれば、必ず吸い寄せられている」と言われ、無意識に食べ物で心が強められているのでは、と心配になりました。というのも、御言葉は、「食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです」と教えているからです。私は食べ物で心が強められるのに、とどこかで思っているのでしょうか。さて、今日の聖句の問題は、「食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした」という箇所です。ユダヤ教はこの食物規定に厳格に縛られていました。アメリカに住んでいた時に、ユダヤ人町に行ったことがあります。町で一番大きくて立派な建物は学校でした。ユダヤ人が教育をもっとも大切にしていることが一目でわかりました。そのユダヤ人町にコーシャ料理店という、聖書の食物規定を遵守しているお店に行ったことがあります。そこの食べ物は、いかに?と大いに期待したのですが、実際には期待外れで残念な感じでした。キリスト教でも、食物のことを規定している所もありますが、健康のため以外でしたら、どうかと思います。「信仰による義」をどこまでも理解していない人たちは、食物規定までも「行いによる義」に変えてしまうのです。ですから、宗教上の理由で食べ物を制限したりするのはよくありません。それよりも健康のために、適度の運動とか、野菜中心の食事とかは加齢と共に必要なものの上位を占めてしまうのです。それにしても、人間は食物に弱いものですね。あなたも食生活を見直す必要はありませんか。救いは、主イエス・キリストからくるのですから、必要なものは全て主から恵みでいただくものです。食物規定も、規則にすると裁きの道具になってしまい、悲劇が起こります。そうならないように、聖書から調べてここでも律法からの自由を得るために、キリストの解放が必要です。主を信じて、聖書をしっかり読んでまいりましょう。(佐久間)

 

5月2日(金)

わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う/恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。

イザヤ41:13

(写真:Adrian Dreßler)

 

これほどはっきりと、神は「わたしはあなたを助ける」とおっしゃっておられるのです。神の御言葉は変わりません。あなたが神をよく知らないと言ったとしても、神はあなたを知っていて、わたしがあなたの神であると、神の側からおっしゃってくださいます。それでも、あなたは恐れを感じ、不安を口にするのでしょうか。脅かす者がいても、命すら狙うものがいたとしても、あなたを神は助けると決められたのです。誰が神に勝てるでしょうか。神に勝てる者などいないのです。その神がどうしてか、あなたを選び、あなたを助けると宣言されたのです。あなたはそれでも、恐れますか。あなたが主の助けを得る方法はただ一つ、恐れることをやめることです。方法は、神が助けてくださることを信じることによってです。これは、すべて「信仰による義」のことなのです。あなたが信じたとおりになるように。この時に、肉の思いで信じたとしても、その内容は何一つ神の理に適っていないのです。だから自分の思い通りにしようとする祈りは聞かれないのです。そうではなくて、内住する聖霊と一つになって祈るのです。あなたがクリスチャンになって、新しい命をいただいたはずです。それは、内なる人と呼ばれたりします。その内なる人と内住する聖霊がひとつになって信じることが祈りとなれば、自ずと良い結果が現れてくるのです。なぜならば、主の御心に適って求めるからです。そこに至るまでは、思い通りにいかないと思うだろうし、失望したり、時に不信仰に陥ることすらあるかもしれません。しかし、忍耐強く祈る続けることです。もし、祈らなくなれば、クリスチャンにとっては危険なことなので、それを解決する為に時には試練が待ち構えていることもあります。そんな時には、はじめは肉の思いで祈っていたとしても、ついにはそのようなことはどうでもよくなり、ただ神を求めることしかできないようになります。自分の思いを捨てて、ただ神にすがりつくでしょう。そこで、何かが起こるのです。勿論、良いことですが、はじめに自分の願った答ではないかもしれません。しかし、そうやって大切なことを学ぶこともあるのです。

さあ、神の助けがあることを信じましょう。恐れは、信仰の学びに必ず出てくる試験なのだと覚え、逃げるのではなく、最後は感謝の讃美になるように、神の御手にしっかりつかまり、主を一途に信ずる者となりましょう。(佐久間)

 

5月3日(土)

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

ヨハネ6:26

 

さあ、今日も信仰の学びを始めましょう。今日の聖句は、読んですぐに意味がわかるでしょうか。わかれば結構です。もし、わかりにくいと思うのでしたら意味を考えてみてください。

五千人の供食の奇跡がこの前に書かれています。それで、この奇跡の意味を群衆が理解していないために、イエスはこの話をなさっているのです。奇跡で自分たちの空腹を満たすことができたのは、彼らにとってイエスが自分の欲求を満たすことのできるお方と映り、それ故に追いかけてきたのです。これは、私たちがイエスに自分の欲を満たすように要求する祈りを献さげる時に同じことが起こっています。これでは、イエスは便利なご利益宗教になってしまいますね。五千人の供食の奇跡を経験した時に群衆は、イエスがキリストであると知る事の出来るしるしを見たのですが、悟れなかったのです。今日も同じ過ちを犯す危険はあります。キリストの意味が十分に分かっていないのか、偶像への祈りとかわらない精神があるかもしれないのです。神様に助けを求めたり、恵みを願うのは間違いだという意味では勿論ありません。でも、使徒パウロが伝道する時になぜ患難を味わったのか、そしてそれでも福音を伝えることをやめなかったのはなぜか、考えてみればいいのです。パウロは、ナザレのイエスがキリストであることを知ったのです。それから、180度人生を変えました。その人生の向きがクリスチャンの向かうべき方向なのです。イエスに仕えるのであって、イエスを自分の欲を満たすために仕えさせるのではありません。このことが整理されていれば、大丈夫です。イエスが与えてくださるパンの秘密を理解できればいいのです。明日も続きを考えましょう。(佐久間)


5月4日(日)

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

ヨハネ6:27

 

イエス様と呼べる幸いを感謝します。イエス様を信じることができる喜びを感謝します。この世で何が起ころうが、イエス様と呼べば大丈夫と信頼できる安心は何にも代えがたいものです。イエス様がキリストであるということの意味は、私たちを完全に救うことができるという意味です。死んでしまう命ではなく、永遠の命にあずかれる救いです。罪があるので人間は死ぬのですが、その罪をイエス様が解決してくださるので、死ななくてすむようにしてくださる、そうゆう救いです。永遠の命といえば、罪が無い、罪が無いから病気が無い、老いも無い、恐れや不安が無い、愛が満ちていて、愛を破壊するものが全く無い、それは自己中心の精神が存在しない世界なので、私が、私が、という利己心が無いのです。そのようなアガペーの世界が神の国です。神が支配している世界です。神の光の中で生きるので影が無い世界です。永遠に生きたいと思わせる命にあふれる世界です。コンプレックスも心の傷もありません。慕わしい神様と直接顔と顔とを合わせてお会いできる世界です。神様に愛されている喜びが深い感動を波のように起こします。自然と口が開き讃美があふれてきます。このような、神の国へ入るためにはイエス・キリストの助けが必要です。キリストの与えてくださる永遠の命に至る食べ物を得るために生きるのです。そのために働きなさい。そう主はおっしゃいました。(佐久間)


5月5日(月)

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

ルカ21:25~28

 

世の終わりがあると、はじめて聖書の預言を知ったのは、18,9才の頃でした。その時に、どれほど正しく理解したかは覚えていません。それから40年の月日が流れ、未だにこのイエスの預言が成就していないのです。しかも、イエスがお語りになられたのは2000年前のことだから、気の長い話です。それでも「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(Ⅱペトロ3:8)。そうです、神の次元と人間のそれでは全く異なっているのだからしかたないのです。それでも、再臨を持つことにはキリスト者の意義があります。これこそが希望だからです。同じⅡペトロの続きにはこうも記されています。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(3:9)。再臨遅延は、人間を一人でも多く救われようとする神の忍耐なのです。日本を見ればわかるでしょうが、優れたすばらしい民族なのですが国民の99%がクリスチャンではありません。これでは、ほとんど滅びてしまうことになります。そうならないように主は忍耐して待っていてくださっているというのです。日本人同胞の救いのために時間が延ばされていると理解してもかまわないでしょう。しかし、世の中はどうでしょう。まったく終末をしらないし、その意味を正しく理解しようとはしていないのです。日本のように天下泰平であれば人は、欲を満たすことを考え、そのために金を欲しがることになります。危機の時代には、食事にありつけるかどうかさえ不確かになります。だからどうすれば生きていけるか、その日暮らしの中で必死になり、キリスト者は試練を鍛錬へと変えていくのです。食べることを心配しなくてもよい時代は、グルメを追い求め、贅沢品を貪るだけで、品性を磨く人は稀になる。そのような時こそ危ない。「主の日は盗人のようにやって来ます」(3:10)。その日、「すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。」(3:11)。もうのんびりしている時の余裕は無いでしょう。それ故に、聖なる信心深い生活を送ることが問われます。皆が信心深くなるわけではありません。周りの人を見ても意味がありません。惑わされて、主の裁きの時に後悔するだけでしょう。そうならないように、あなたは神との関係を深め、祈りの質を考えて、神へ近づきましょう。聖書に書かれた通りに、聖なる信心深い生活を送ることを真剣に考え、信仰によって実践したいものです。(サクマ)

 

5月6日(火)

イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

ルカ19:40

(写真:Youharman)

 

不思議な事をイエス様はおっしゃいました。石が叫びだすというのです。ところが昔、私がまだ青年の時に、ある牧師が「クリスチャンが福音を伝えないのなら、石が叫びだす」と語りました。そして、「それは今日のカセットテープだ」と言われたのです。その時、とてもショックを受けたのを覚えています。主に申し訳ないという思いと共にですが。人間が主イエス様のことを人に伝えて嫌われると、次からは躊躇してしまうのです。それで、だんだんノンクリスチャンに福音を語ることをやめてしまいます。まるで、イエス様はそのことを予知されていたように、今日の言葉を語りました。一昔前の磁石の記憶媒体であるカセットテープも今のCDやDVDなども説教や讃美歌あるいは伝道メッセージや証しなどを未だ福音を聞いたことの無い人々へ伝えることができます。人が黙って何も語らなかったとしても、CDやDVDは、簡単に福音を伝えることができるのです。石が叫ぶとは、当時の人では想像もつかないことでした。しかし、現代の私たちは石が叫ぶという事自体が、必ずしもよいことでないと知っています。イエス様のお言葉には、「人が黙れば」と条件が付いているからです。それは、クリスチャンの怠慢であり、不信仰そのものを意味しているからです。誰でもいつまで生きる事ができるかわかりません。だから、今日の主イエス様の御言葉は、心に留めておかなければなりません。石が叫ぶ前に自分の口を開きたいですね。(佐久間)

 

5月7日(水)

彼は続けた。「日が暮れ、夜の明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る。」

ダニエル8:14

 

ダニエル書の預言は、今日の私たちにも大いに関係がある。それは、世の終わりに関わることであるし、また歴史上の大きな出来事を預言しているからだ。この14節は、2300年にわたる聖書の中でも最も長い預言と言われている。人間の歴史が長いことを私たちは知っているが、その歴史が神の関わりで見る必要があることを多くの人は知らないか忘れている。聖書の研究をする時に、ダニエル書のような箇所では、歴史を学ぶことが必須である。必ずしも歴史家と一致することはないだろうが、私たちの視点は神の告げている啓示にある。だから、聖書の形で残されたし、今も預言は目の前に開かれている。だからこそ、正しく理解したいと思うのだ。聖所を天の聖所と解釈すると、天を巻き込む一大事件が起こっていることが理解でるだろう。それが、罪の問題と直結していることも間違いないし、それだけではなく罪の問題が解決することも意味しているはずだ。それにしても一つの預言に2300年間も時間が必要であったとは、驚きである。そして、聖所の清めと回復がすでに天で行われたのであれば、あとはいったいどれほどの時間を必要としているのだろう。この2300年の終わりが1844年であれば、それから170年も過ぎたことになる。終末の深まりを感じるのは私だけではないだろう。東日本大震災が必ず来ると言われ続け、そしてあの3月11日を迎えたのだ。主のご再臨もそのように、間もなく来ることになるだろう。その時に備えることが大切だと気を引き締めよう。(佐久間)

 

5月8日(木)

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

ガラテヤ2:19~20

(写真:Chung Ho Leung)

 

あなたがクリスチャンであるのなら、今日の御言葉は理解しなければなりません。もし、理解できたなら、それ以前の生活に戻ってはいけません。それぐらい重要な箇所です。ですから、有名な聖句の一つなのです。聖書になじんだのなら律法のことを理解しているはずです。旧約聖書のはじめの五冊を読めば、およそのことは理解できるでしょう。それもおぼつかなければ、十戒(出エジプト記20章2~17節参照)をもう一度読んでみましょう。それで、この十戒を守れるかどうか考えてみましょう。意志の強い方ならば、守れるといえるかもしれません。しかし、新約聖書の中でイエスはうわべだけ律法を守っただけでは足りないと教えます。心の中の思いすら、厳しく見られたのです。それは同時に、心の思いを律することの難しさを教えたわけです。キリストの教えは愛(アガペー)で現すことができます。その愛を否定するものが罪となると教えているわけです。そのキリスト言うところの愛(アガペー)は、十字架上に示されたのです。そして、十戒あるいは広く律法は、愛(アガペー)の実践を言い表したものだったのです。そうであれば、律法を守るということは、キリストの十字架に一緒につくことに集約されます。いや、愛(アガペー)を実現した十字架につくこと以外に律法を守ることはできないのです。それは律法を本当に守っているか心まで問われてしまうからです。人間のように神をごまかすことなどできません。自分の罪が見えないうちは、自分の力で律法を守れると思ってしまうものです。それが守れないと思い知る日がやってきます。特に問題なのは、クリスチャンになってからです。罪人であったのが、悔い改め、キリストを信じて救われます。そこで、こう思うのです。「これからは、罪を犯さないように頑張ろう。律法をちゃんと守らなければならないから」とまじめに努力を始めます。ところが、やってみると、たちどころに罪を犯して驚くことになります。主に悔い改めての祈りをして、今度こそと頑張るのですが、連敗するのです。そうなると深刻になります。ここで、罪の恐ろしさにようやく気が付くのです。聖書でイエスやパウロの敵となった宗教家は、うわべをうまく取り繕うことができれば良いと思っていたのでしょう。宗教の罠ですね。だから、クリスチャンになっただけでは、まだまだ安心できないのです。どうすればいいのかわからないということになるわけですから、別の助け主が天国まで導くコーチのように、天から遣わされてきます。これは、マンツーマンの個人専用コーチであり、師であります。罪のせいで霊的な能力が極端に閉じられて使い物にならない人がほとんどなので、霊的に覚醒して、つまりを取り除くことが必要となります。それで、一般に聖霊のバプテスマと言われる霊的体験が用意されています。これを受けることは必須ですが、求めなければ与えられません。キリストの贖いによって、自由を得たために、神が強制的に与えることはなさいません。あくまでも本人が聖書を学んで理解して求めるとか、牧師のような霊的指導者に導かれたりして、神に祈って霊が降ってきます。この聖霊が、永遠にあなたの内に宿り、あなたを愛し助けます。パウロも経験しましたし、初代教会は全員聖霊のバプテスマを経験していたのです。それで、この聖書箇所はそうしたことを前提にして話しているのです。つまり、律法を犯せば、それは裁かれるべき罪となります。その律法は不変なので、罪人の私たちは裁かれてしまうのです。その私たちの罪の裁きをキリストは一人引き受けてくださり、身代わりに十字架で罪の罰を受けたのです。だから、私たちは、実際に十字架に架かるのではなくて、キリストが架かって死なれた十字架に霊的に共につけていただくのです。それは、実効性がなくては意味がありません。それで、実際に霊的に死ぬことが要求されます。どうして霊的に死んだことがわかるかと言えば、今までの誘惑に負けて必ず罪を犯すという事が無くなるからです。肉が生きていれば、どんなに頑張っても罪を簡単に犯します。しかし、霊が生きていれば、つまり肉が死んでいれば、はじめて抵抗できるのです。この力が大きいのです。だから、ペンテコステの聖霊降下があった日以降の弟子たちは見事に変わったのです。ただ、救いは自由にすることなので、聖霊に従うのか、肉に従うのか、選ばなければならなくなったのです。その結果は実となって必ず現れるのです。つまり、聖霊に従えば(キリストが私の内に生きている)、キリストの品性を御霊の実として結ぶと約束されています(5:22,23参照)。一方、肉に身を任せていると、ひどい罪の実を結ぶので天国に入る事ができなくなるのです。しかし、この世で生きるという事は、肉も共に生きることになるので矛盾が生じます。パウロはどうしたかといえば、「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」と語った。そこで、クリスチャンは、聖霊によって覚醒していただき、聖霊の導きに従う生き方を選ぶのだが、肉に関しては、キリストが自分を愛して十字架の犠牲を惜しまなかったことを聖霊の助けによって真に理解するようになるので神の愛に圧倒される。だから、この世の何よりもキリストを愛さずにはいられなくなるのだ。その愛とは、聖霊の内住によりはじめてアガペーを理解できるようになり、みずからもアガペーでキリストを愛することができるようになる時、もはや生きているのは私ではなく内住のキリストが生きているのだ。その状態によって生き続けることにより、肉が生きていても、霊的に死んでいるものとして生きることができる、ということだ。この霊的な目に見えない事を説明しようとすると、こんなにも面倒なことになる。しかし、読者の理解の助けに少しでもなれば感謝だ。(佐久間)

 

5月9日(金)

イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。

ヨハネ9:14

(写真:D.Ph)

 

イエスのお働きで良く出てくるのが、安息日に大きな奇跡を行ったことです。ユダヤ人にとってこれは大きなつまずきとなりました。それは、安息日にすべての労働を休まなければならないという戒があったからです。安息日は今のカレンダーでは土曜日のことです。これは、罪と関係あります。創世記の3章でアダムが最初に罪を犯したことが記録されていますが、その時に神が罪の呪いをかけたのです。それは、土を呪い、アダム(人)は「顔に汗を流してパンを得る」それも死ぬまで、という恐ろしいものでした。それゆえにいまだ人間は労働の苦労のもとにおかれているのです。それが、神の恩寵で一週に一度土曜にすべての仕事を休み、労働の苦労から解放される日を作られたのです。それが安息日でした。ところが、長いイスラエルの歴史の中で安息日の戒めも厳しく細則が作られて人間解放の日とはいいきれない状況になっていったのです。そこに、キリストが預言の成就として登場します。旧約聖書に預言されていたキリストのしるしをことごとく現すのですが、イスラエルの人々は心がかたくなでイエスをキリストと認められないでいました。しかし、病を癒し、悪霊を追い出し、貧しい人々に福音を語っておられたイエスは、安息日も癒しを行いました。今日の聖句もその一つです。イエスは、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と問いかけますが、「彼らは黙っていた」のです(マルコ3:4)。ユダヤ人にとって、安息日に土をこねて目を癒すなど、医療行為そのもので律法を破っているとしか思えなかったのです。どうして、イエスとユダヤ人のこうした違いが出てしまったのでしょう。私たちはどうでしょう。大丈夫でしょうか。もし、ユダヤ人に愛があれば、癒された人のことを思って喜んだことでしょう。しかし、安息日にいかなる仕事もしてはならない、という掟を守る事に目を向けて、困って苦しんでいる憐れな人には目がいかなかったのです。勿論、安息日を守る事は良いことですが、人を救う事や病を癒して解放することは仕事ではなかったのです。キリストの重要な救いの業だったのです。それこそが預言者がキリストのしるしとして教えていたことだったのです。すべてをキリストの愛のまなざしを通して見るようにしましょう。そのことを祈り願いましょう。この世の賞賛よりも、キリストの御心に適うことを喜びましょう。キリストは、あなたを助け、癒すことを躊躇しません。あなたの心をご覧になられる主は、あなたのために土だってこねてくださるのです。あなたの罪のために死んでいて見えなくなっていた目を開くためにです。霊的な目を開かれている者として、正しいこと、愛のあることを実行するものとなりましょう。主にならって生きる者となりたいですね。今日も主の祝福がありますように。(佐久間)

 

5月10日(土)

生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

詩編90:12

 

時代小説が流行っています。その妙味は、正義の味方が獅子奮迅の活躍をすることです。しかし、それだけならばすぐに飽きてしまうでしょう。そこで、権力闘争を背景にしているので人間の欲が露骨に現れるところに物語の面白さがあります。それが延々と続くのですが、それを見ていると人間が権力を欲しがり上から下までその競争に巻き込まれていく姿が恐ろしくなります。これは、現代でも変わらないことなので面白いと思うのでしょう。人によって欲の強さが何に向かっているか、実は異なっています。著名な精神医学者は、所属、力、楽しみ、自由の四つに分けて分析しました。これは生まれつきの特性であるばかりではありません。これらのどれにあなたが一番魅力を感じているか考えてみてください。そのどれでもよいのですが、ただあなたの人生で二番目に大切でなければなりません。なぜなら、一番は主であるからです。ここがクリスチャンの大切な点なのです。主が一番であれば、その人の人生は神と共に歩む祝福されたものとなります。そうでなければ後悔が残ることになるでしょう。ある雑誌でリタイアした方の後悔は何であるか調査したそうです。その第一位は、だんとつで「もっと貯金をしておけばよかった」というものだったそうです。これは現実的な答えなのでしょう。さて、今日の聖句を見てください。人の人生はいつか寿命が尽きます。それで、一日一日を大切に生きなければなりません。人は死ぬ者であることを覚えることが大切なのです。しかし、忙しい人生を楽しむこともできないで疲れている人たちがたくさんいます。いったい、ただ一度の人生をどのように過ごせばよいのか、「知恵ある心を得ることができますように」と祈らざるをえません。この人生をただ生きているだけでは、アンケートにでてきていない悔いが必ず残る事になります。自分が使うことのなかった貯金を抱いて死んでもそれは他の誰かが使ってしまいます。「人生悔いなし」と義父が言い残して天に召されていきましたが、このように言えたなら幸せですね。多くの人は死の先を恐れます。だから、死の宣告を受けるともろいものです。与えられた人生の年月をどのように生きてきたか。後悔するような失敗の人生であっても、主イエスを信じるなら救いがあるのです。神を知り、主を第一に生きていければ、この世の心配はみな消え去るだけです。最後に人生を振り返った時に主への感謝が自然と溢れてくることでしょう。決して難しいことではないのですが・・・。(佐久間)  

 

5月11日(日)

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

ルカ6:35,36

 

「クリスチャンは損だ、人に善くしても感謝されず、敵をも愛するのだから」といわれそうですが、どうでしょう。イエスのお言葉を聞けば、驚きます。だって、「敵を愛し、人に善いことをし、何も当てにしないで貸し」たら、「たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」と言われたのですよ。だから、この地上でイエスの教えを守ることは、すばらしい恵みなのです。勿論、これは簡単ではありません。心の葛藤もあるし、怒りが湧いてくるかもしれないし、悔しい思いや復讐心すら起こるでしょう。その中で、イエスのお言葉を守ろうと葛藤するのです。そのようなことをクリスチャンは皆、通って行きます。その葛藤の中で、はじめて心の何かが変わり、自分の変化に驚くことになるのです。他の方法ではできないことなので、聖書に書いてあるのです。損しているようで、実は永遠に耐えることのできる宝を得ているのです。罪の中にしか生きたことの無い者が神の国へと入って行くのです。容易な事ではないので、狭き門から入れというような表現をします。広き道は、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」(6:32~34)。このような生き方は教えられなくてもしてきたはずです。その正反対なので難しいと思ってしまうのです。でも、あなたには信仰があります。内住する聖霊があなたを助けます。なにより、神に愛され、イエスの恵みの中にすでに入れられているのです。だから、信仰を発揮するだけです。心配しなくても、ちょうどよく成長しているはずですから安心してください。主イエスはあなたのことをよく知っておられるのですから、大丈夫です。主を信頼して讃美していましょう。(佐久間)

 

5月12日(月)

あなたは仰せになりました/あなたの命令を固く守るように、と。わたしの道が確かになることを願います/あなたの掟を守るために。そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても/恥じ入ることがないでしょう。

詩編119:4~6

 

自動車のブレーキとアクセルを踏み間違えて、止まらずに事故を起こすニュースが毎年、何回かあります。残念なことに人間は間違うことがあるのです。自動車を運転する為に、自動車教習所などで自動車の仕組みと実際の運転操作を習い、練習します。さらに、安全に走るために法律を学び、試験を受けて合格してはじめて公道で自動車を運転できるわけです。それでも、事故や交通違反など何かしらアクシデントが起こらないと言えないのです。だから、車を運転する前には、神へ祈ってからスタートするべきです。神の律法を守ることも同じようです。信仰のことを教わり、聖書を学び、祈り、礼拝し、主のご命令に従って生きようと努力していても失敗することがあるのです。願わくは、「わたしの道が確かになることを願います」。自分の人生が波乱万丈でありたいとは思いません。平和で祝福に満ちているものであることを望みます。いつでも主の御前に立って、胸を張れるように信仰生活を送りたいのです。今日の詩編の祈りは、まさにそうゆう祈りです。試みられることなく、悪霊の攻撃にさらされることなく、主の御言葉に耳を傾け、喜びと共に祈りたいのです。そして、主のご命令に従いたいのです。さらに、人生で通るであろう、年齢に応じた節目も無事に通り過ぎたいのです。しかし、自分の努力ではどうすることもできないことが待ち構えていることがあります。何歳になっても、悟りの無い人のように失敗はするし、主を悲しませてしまうような失敗を犯すのです。人生が厳しすぎてもダメだし、甘すぎてもダメです。そこで、信仰者は、主の御力でわたしの道を確かにしていただきたいと祈るのです。信仰で満点になるように人生を助けてくださいと祈ってもよいのです。主の掟を守る事ができるように、守れる人生としてくださいと大胆に祈りましょう。(佐久間)

 

5月13日(火)

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

Ⅰコリント9:24

 

クリスチャン人生は、競技に譬えられることがあります。義務教育を受けた方なら皆、運動会や体育祭で走ったことがあるでしょう。走る事が運動の基本なのでしょうね。私が幼稚園の時の徒競走の写真があります。「位置について、ようい!」という時、まさにスタートラインに並んで、今にも走り出そうとしている瞬間を撮影さした一枚です。どの子供の顔も緊張して真剣な顔をしている時に、私だけがニコニコ笑っているのです。昔から、人と競わずに皆と楽しくいつも笑っていたいと思っていたのかと、あらためて思いました。人生が競技と同じならば、真剣に走るべきです。でも、ニコニコ笑っていてもいいかもしれません。そのかわり、一生懸命最善を尽くすという事は忘れてはなりません。私は目的を達成したいという気持ちが強いので、目標に一直線に行こうとするし、困難があってもあきらめずに粘り強く目的達成に努めるタイプです。でも、ニコニコしながらそうするのです。勿論人間にはいろいろなタイプがありますから、どれが良いとはいえません。それぞれでいいのです。そして、競技者は一等賞を取ろうとして、厳しいトレーニングを積んで、予選を勝ち抜き、決勝戦に臨みます。そこで満足して本番では適当に走る、ということはありません。勝利の栄冠を得ようとするのです。ですが、パウロが賞を受けるのは一人だけなのであなたも賞を得るように走りなさいと語るのは、信仰の道は厳しくて救われる人は一人だけだ、と言っているわけではありません。信仰者は手抜きをするなということです。いい加減に信仰しても結果が伴わないと言っているのです。勝利の栄冠を得る人は、他の人とは違っているものです。才能があって、そのうえよく練習に励む人は勝利の栄冠に近いでしょう。しかし、私のように才能の無い人はどうしたらいいでしょう。私は中学の時にテニス部でしたが、特にテニスの才能があるわけでもなく普通でした。それでも、大会に出て勝つためにはどうすればいいかは考えました。結論は、人の二倍練習する、という単純なものでした。それで、テニス部の練習が終わってから、残って練習し、朝も早く来て朝練をするのです。それから、試合に出て分かったのは精神的な部分が大きい事でした。それで、どうすれば精神的に相手よりも優位に立てるかを考えました。技術もいろいろ考えました。その結果、試合に勝てるようになり、試合に勝つと、精神的に強くなることもわかったのです。信仰生活も同じところがあります。洗礼を受けてただクリスチャンになって、おしまいというわけには当然いきません。なにしろ、パウロ先生は賞を得るように走りなさい、と教えているのです。ならば、あなたも工夫しなければなりません。天国までの長距離競技です。試練の時も信仰の鍛錬と思えばいいし、祈りのことも、ディボーションのことも、聖書を読むことも、聖霊に満たされることも、天才なら別ですが、当然工夫すべきです。車を運転していて、赤信号になった時も、「あっ!残念、損した」と思うのではなくて、「ハレルヤ!信号機まで支配していて私のために赤にしてくださり、感謝します。ありがとうございます。」と讃美するのです。こうやって、賞を得るように走れるようになるのです。あなたもオリンピック選手のように、信仰の勝利者になるのです。聖霊という一流のコーチがあなたにはついていてくださいます。賞を得るためにです。だから、ニコニコして挑戦しましょう。栄光の勝利者となれますよ。(佐久間)

 

5月14日(水)

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」

ルカ6:37

 

イエスの有名な教えです。クリスチャンなら知っていてあたりまえの聖句です。しかし、一番守られていない聖句でもあります。クリスチャンの一番の葛藤は、クリスチャンらしく生きることの難しさです。クリスチャンとして生きることが難しいというのならそれは大した問題ではありません。しかし、「クリスチャンらしく」ということなら気を付けなければなりません。「クリスチャンのふりをして見せる」ということだからです。クリスチャンなら「人を裁くな」と命じられれば、裁かないようにと自分を絶えず戒めていなければなりません。そうすると、その命令の真の意味を探るようになります。そして、気が付くのです。この教えは、人が救われる方法であるということに・・・。聖書によれば、最後に神の裁きがあるということですから人間にとって、神の裁きが本当に恐ろしいわけです。しかし、裁きを免れる方法があるのです。それが、人を裁くなという命令を守る事なのです。そうすれば、裁かれないと聖書に書いてあります。また、罪人と決められない方法もあります。それは、人を罪人と決めないことです。簡単ですね。赦して欲しい人は、まずその人自身が赦すことです。これは逆転の発想ですね。もし、あなたが人を裁くから、こちらも裁かれてしまうという順番で覚えているなら、逆にしてみるのです。「人を裁かない」「罪人だと決めつけない」「赦す」この三つをまずは聖霊の助けを求めて、実行する事です。そうすれば、最後に笑うのはあなたです。(佐久間)

 

5月15日(木)

ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

ルカ17:12~19

 

今日は、少し長い箇所です。算数が苦手な人でもわかるように、十人の人が出てきます。重い皮膚病に苦しむ人が十人いて、イエスに憐みを乞う場面から物語は始まります。イエスは彼らに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われます。これは、重い皮膚病が癒された時に、祭司の所へ行って体を見せ、全治したことを証明してもらうことが律法で決められていたからです。つまり、彼らがすぐに癒されるということを意味していたのです。そして、その通り彼らは祭司の所へ行く途中で癒されたのですが、気が付いた時に大喜びしてイエスの元へ引き返してきてひれ伏して感謝したのはたった一人だけだったのです。さて、この物語から何がわかりますか。きっといろいろなことに気が付いたことでしょう。今日は、こんなことに注意を向けてみましょう。イエスに祈って願い事をし、その願いが叶った時に、ふたたびイエスの元へ行って(祈ることを意味しています)感謝するのは、一割しかいないということです。感謝する人は十人のうち癒されて感謝しに戻った人が一人であったのです。信仰をもってイエスに祈ることは正しいですが、イエスに応えていただいたなら必ずすぐに感謝することです。これを忘れてしまう人が多いという教訓です。実は願うより、感謝することの方がよっぽど重要なのです。物語に戻って、よくご覧ください。最後に、イエスが「あなたの信仰があなたを救った。」とお語りになっています。この御言葉は、あなたの信仰があなたを癒したのですよ」とは言っていないのです。体の癒しは事実だったのですが、これでは半分の救いで不完全だったのです。イエスが与えたかったのは、「救い」だったのです。これは信仰によっていただくことができるものだったのです。信仰は、イエスに対する行為でわかったのです。だから、ご利益宗教にしないためにも、あなたの祈りがきかれたなら、まっさきにイエスの元へとんで行って感謝し、讃美することです。この時に、あと半分の救いを得ることができるからです。(佐久間)

 

5月16日(金)

しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

ヨハネ8:7

 

作家の伊集院静さんが、好評のシリーズの「大人の流儀4」を出された。その題が「許す力」なので興味を持った。早速、読んでみると新約聖書の「姦通の女」が引用されていた。ヨハネ8章の冒頭にある印象的な話である。この箇所を高名な作家は、次のように書いた。「・・・最後にマリアとイエス二人になる。そこでイエスは、誰も石を投げず、誰もいなくなったのなら、私はあなたを許します、と口にする。イエスとて許すという行動には逡巡があったのである」(『大人の流儀4許す力』講談社、14~15ページ)。さて、あなたはどう思うだろうか。この女は不義の現行犯であった。モーセの律法によれば石打ちの刑である。しかし、ローマの占領下ではユダヤ人に死刑を行うことは許されていなかった。重罪を裁く権はローマ当局にあったのである。だから、物語としては、律法学者やファリサイ派の人々が宗教のカリスマであるイエスが死刑を宣告すれば、ローマ当局に訴え出ることができ、ローマを恐れて石打ち刑を宣告しなければ、モーセの律法を破ったとして、偽預言者としてイエスを葬り去るつもりだったのである。その悪意をイエスはすぐに見抜いた。そして常人ではとうてい思い浮かぶこともない解答を用意した。「罪人を罪人は裁けない」という真理だ。イエスがキリストであることを見抜けない宗教指導者とは一体何か。イエスに対する宗教者としての嫉妬か、彼らの形骸化している律法主義を伝統として維持することへの執着か、キリストの革新的宣教に対する恐れがそうさせたのか、とにかく彼らはイエスへの敵意をむき出しにしたのだ。それが、この罠なのだ。しかし、イエスが訴える者の偽善をついてきた。地面に何か書き始めたのだ。訴える者はイエスが罠にはまり困っていると勘違いした。それで、追い打ちをかけるように、「さあ、どうなんだ。石で打ち殺すのか。早く答えろ」と声を大きくしたのだろう。彼らの手には石がすでに握られていた。この女を殺して、すべてイエスのせいにしたかったのだ。それほどイエスを憎くんだとは驚くばかりだ。しかし、イエスはその人たちに冷水を浴びせた。今日の御言葉である。「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。その場にいた人たちの隠れた罪が地面にはっきりと書いてあった。それを見て、まず年長者が気が付いた。もし、この女に石を投げるのなら、自分も石打ちにあわねばならない罪を犯していた、と悟ったのである。人を裁けるのは罪を犯したことのない者だけなのだ。そんな人はイエスしかいない。そして、結局全員がいなくなった。どうだろう、赦すということの意味を理解できただろうか。我々は皆罪人にすぎないのだ。だから、人が罪を犯したからといって無条件に人を裁けるわけではないのだ。少なくとも、キリストはそう教えた。いや、自分の罪を自覚したら人を裁くことができなくなるのだ。裁くと言うのは、石で相手を打ち殺すようなことだ。その石を握る手が汚れていては投げることなどできない。しかし、不可解なのは、イエスは唯一罪を犯していないので、律法を守ってこの女に石を投げつけることができたのに、「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃっていることだ。イエスはこの女を赦したのだ。さて、このイエス以外に、罪人であった私たちを赦すことのできるお方はいないのだ。あなたも罪を赦されたはずだ。ここで、イエスが罪に定めない、とおっしゃられなかったなら、誰も救われなかった。十字架も勿論無かった。キリストは、この女が罪を犯さざるを得ない闇を抱えている事を知られた。そして、その罪を赦すことは、身代わりにキリストが罰を受けることを意味していたのだ。罪を赦すというのは、その罪の罰を自分で引き受けるということなのだ。だから苦しむことになる。私たちの場合も同じだ。十字架はこの女を罪に定めないためのたった一つの方法だった。そして、あなたを罪に定めないためには、キリストが十字架に架かって苦しみを受ける以外に方法がなかった。主の深い憐みが奇跡を起こして、この女のように、私たちを罪の裁きの前にさらけ出すまで、罪を犯し続けていただろう。しかし、ようやく救い主キリストが罪を止めてくださった。いや、罪の奴隷から解放してくださったのだ。主の愛だけが、この奇跡を起こせる。それがイエスの赦しなのだ。そして、今あなたは主の愛の中に生かされている。ほめよ主の御名を、ほめたたえよ主の栄光を。(サクマ)

 

5月17日(土)

神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」

出エジプト3:4,5

 

神が声をかけられる時に、モーセの名を二度繰り返して呼ばれた。それは、神が愛を持って呼びかけ、励ましている時の呼び方なのだ。モーセは「はい」と答えた。神との出会いの場面である。神との出会いを求めている信仰者は少なくないだろう。聖なる神との出会いは、段階を踏んで始まる。神への信仰は畏れと従順から始まる、そしてさらなる啓示の段階へと進む。主は、人と神との距離を教えられる。それは聖というものが距離を意味しているからだ。それを破って近づけば死が待っている。聖なる方へ近づけるのは聖なる者だけなのだ。主は、モーセを召し出そうとしている。そこで、神の言われたことに注目してみよう。「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」。古代イスラエルでは、履物を脱ぐことは、相続権を放棄することを意味していた(ルツ記4:8参照)。そこで、主の言われたことは、モーセの主権を主に譲り渡すことを要求された、と理解することができるのだ。もし、あなたが神に近づきたいと願うのなら、あなたは自分の主権を主に渡す覚悟がいることになる。主へのへりくだりが無くては、主に近づくことができない。履物を脱いで、主の奴隷となることを意思表示することがここで行われているのだ。その場は聖なる土地である。いつでも自分を捨てることなしに、神の啓示に出会うことは期待できない。主を求める全ての人が、他の宗教のように自我を通して願い事をするのではなく、逆に自我を捨てて主の願いに従順に仕えることがキリスト教の特徴なのである。(サクマ)

 

5月18日(日)

モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

出エジプト記3:11,12

 

主の召命を受けた時に、人は驚き、たじろぐ。それは、自分に自信がないことと無力を感じるからだ。神の御言葉はモーセの身丈をはるかに超えていた。モーセはエジプトのファラオの権力をよく知っていたし、同胞イスラエルが奴隷として虐げられていることも知っていた。今の自分は貧しいただの羊飼いでしかない。そして、歳を取って老人になっていたのだ。そのような自分がなぜ偉大なエジプトの国の王であるファラオからイスラエルの民をすくいだせるというのか。たとえ、神の命令であっても無理だとモーセが思っても当然なのだ。しかし、神は驚くことを語られた。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。神自らが、モーセに一緒に働くのだとおっしゃっておられる。「しるし」は、神が共にいてくださることだというのだ。それは、モーセがイスラエルの民を強大なエジプトから救出して、今いるこの山で神に仕えるようになることそのものが「しるし」となっているのだ。神の召命に応える、という言い方をクリスチャンはすることがある。これは必ずしも牧師や聖職者に献身することだけではない。一般信徒も同じなのだ。神はあなたを召している。モーセのように、あなたがとてもできないとしり込みするほどの大事業をやらせようとなさる。あなたが、「無理、無理」と言っても、神は、「わたしがあなたと必ず共にいるから」と励ましてくださるだろう。聖書の偉大な聖人たちも、同じようだった。でも、主のお約束は真実だったのだ。だから、主の呼びかけに真摯に自我を捨てて、主権を神に渡し、ただ謙遜に主に従ってみよう。すべてを主に投げ出して従えば、神の御業を間近で見ることになる。そのような召しに応えるだけの信仰を日々養いたいものだ。(サクマ)

 

5月19日(月)

天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。

ヘブル1:14

 

クリスチャンになってから、天使に助けられたという人の証しを聞くようになりました。不思議な話ばかりです。そのうちに、クリスチャンは目に見えないことを信仰で見ようとしなければならないと気が付きました。目に見えることにこだわっていると、目に見えないものは無いことにしてしまうからです。誰かが、大切なことは目に見えないものだ、と書いていました。天使にあなたも知らずに助けられていたかもしれませんね。昔、関東連合青年会で千葉キャンプをしたことがありました。その時に、自然のコースを使って聖句を十個探すゲームをしました。ところが、その場所はマムシのたくさんいる場所だったのです。それを知らずに青年たちは次々にその自然道に入っていったのです。私は最後に、コースに残っている聖句を書いた紙をはがして回収する係だったので、もう一人の青年と一緒に聖句の紙を探しながら、コースをたどっていったのです。すると、コースの横にたっている大きな木の根元にとぐろを巻いたマムシがいたのです。細い道のすぐ横にいるのです。気づかなければマムシの真横を通ることになります。逆に気が付くともうその道を通る事ができません。この道を大勢の青年たちが、二人一組で間隔をあけて通っていったのに、全員無事でした。きっと天使を遣わしてくださって、マムシに襲われないように守ってくださったと思わずにはいられませんでした。千葉では、修養会を開いた時も会場の後ろに天使がたくさん来ていたのを見た人がいました。礼拝の時も講壇の両側に大きな天使が立っているのを見た方がいます。聖書研究会の途中で窓を開けたら、天使が入ってきたと証言する人もいます。教会の運営する幼稚園や小学校でも、イエス様や天使が入って来られたり、子供と出会ったり、子供が危険な時には、牧師を連れてきたりとか、天使の証言は多いのです。天使は「救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」と聖書に書いてある通りなのです。ですから、あなたはこの世にあっても、恐れることなく、信仰によってまっすぐに堂々と生きて行けばいいのです。あなたのためにも天使はいつも守っていてくださるでしょう。(佐久間) 

 

5月20日(火)

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。

詩編103:2~5

 

牧師一年目のインターンの時に、主任牧師に連れられてある難病専門の病院へお見舞いに行きました。患者さんは、珍しい難病に侵されて、筋肉が委縮していく恐ろしい病と闘っていました。治療法も難しく、だんだん動けなくなっていくのです。その日から、この患者さんのところへお見舞いに行くようになりました。聖書を読み、イエス・キリストのことをお話しました。勿論、この方の癒しのために祈っていたのですが、目の前ですぐに癒されるような奇跡は起こりませんでした。それから、一年後には東京に転勤になってしまい、その患者さんともお会いすることはありませんでしたが決して忘れることはありませんでした。ところが、ある時、この患者さんが癒されてすでに退院して、お元気になられたと聞きました。そして、その方と電話でお話しできたのです。その後、お会いすることもでき本当に癒されたことを確かめることができました。今までに、病人のために祈ると奇跡的に病気が癒されたことは何度もありましたが、この方のように、祈りの答が長い時間をかけて成ったこともありました。それぞれに意味があり、その人の為に最善を主が尽くしてくださっていることを見せられてきました。今日の御言葉は、覚えておいたほうが良い箇所です。人は、病気にかかり、死の恐怖に震えることもあるからです。その時に、この御言葉を唱えてください。主の御言葉を信じることのできる人は幸いです。その通りになるからです。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」。アーメン。(佐久間)

 

5月21日(水)

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

テトス3:4~5

 

今朝は雨なのに、うぐいすがいつものように鳴いています。被造物は創造された通りに生きるものなのですね。私たち人間も同じです。良く生きようとして、人生の雨降りの日でも何とかしようとします。私たちがありがたいと思うのは、救い主である神が慈しみ深く、私たちを愛してくださることです。私たちに誇れるような功績が無くとも、神の憐みによって私たちは救われました。さて、その救いを聖書はどのように説明しているかといえば、今日の御言葉のように説明しているのです。「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」と。罪人の罪を赦すだけでは救いは完結していないのです。新しく生まれさせなければ、罪人は何度赦されてもまた罪を繰り返すからです。新たに造りかえていただければ、以前の罪人とは異なり、罪に抵抗することが可能となります。しかも正しい信仰は、内住の聖霊と一つになって、同調することができるのです。それは難しいことではなく、内なる聖霊に心を向けることです。その時に、神の愛、御子イエスの恵み、聖霊の交わりを意識することも有益です。神の愛が心に満ちますように。新しく生まれた人として生きてみましょう。(佐久間)

 

5月22日(木)

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

ヘブル14:15,16

 

私たちが信仰を持っているのは、イエス・キリストによるものです。聖書は、このイエス・キリストを大祭司と呼びます。大祭司は、神と人の間に立ち、人間の罪の贖いと執成しの働きをします。その大祭司イエスが、人の弱さを同情できるお方であると聖書は証言しています。このことがあるので、私たちは安心できるのです。イエスが罪を犯さなかったことを私たちは知っていますが、それだけでなくあらゆる点において、試練に遭われていたことも覚えるべきです。私たちの実態を知り、私たちが経験するいかなる試練もご存じなのです。だからこそ、私たちが心配するあらゆることから主イエスに助けていただくことを期待できるわけです。それなので、立派な人にならなくても、ありのままの姿で今すぐに恵みの御座に近づくことが必要です。主は、時宜に適った助けを与えてくださるでしょう。(佐久間)

 

5月23日(金)

イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

マルコ9:33~35

 

キリストが見て、一番偉い人は、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者にな」る人です。はじめのイエスの弟子たちも、誰が一番偉いかと競ったのです。それで、イエスが大切な真理を教えられたのがこの箇所です。私たちは、自分の人生を感動させることができます。そして、自分の人生を台無しにすることもできます。どちらの人生を選ぶべきかは一目瞭然です。自分の人生を感動させるには、人に奉仕することが一番です。私がそのような人を目撃するたびに、深い感動と尊敬の念で打たれます。有名なところでは、アメリカで刑務所に入った受刑者が更生するために、ビジネスを教えている若い女性がいます。その指導を受けた元受刑者たちが会社を起こし、見事に更生して社会に復帰していく姿は感動的です。しかし、最も感動するのは、その女性が元受刑者たちの批判を素直に受け入れて、へりくだって自分を変えて行く姿勢です。これができる人を尊敬します。こうゆう人をイエスは偉い人と認めておられると思います。私たちは、人から(たいていは身近な人)批判されることが大のにがてです。腹を立てるかもしれません。怒ってやり返すかもしれません。そのような人は、一番偉いと認めてもらいたい人です。クリスチャンがそれでは、何もわかっていないと言われてもしかたがないのです。それでも、はじめから立派な人はいません。だから、大丈夫です。どうすることがイエスの評価を得ることか知るところから始めればいいのです。これから、何か批判されたら、ぐっとこらえて、「私は先頭にこだわらずに、すべての人の後になって、すべての人に仕える者です」と自分に言い聞かせます。それができるようになれば、あなたはそうとうすばらしいクリスチャンになっているはずです。ここから、キリストの眼差しでものを見るということを理解することができるようになるでしょう。そして、キリストが今日の御言葉の通りに生きられたことを知るようになるのです。(佐久間)

 

5月24日(土)

救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

Ⅱコリント2:15~16

 

我が家にラベンダーの鉢植えがあります。ラベンダーの香りは際立って良いものです。北海道の富良野にあるラベンダー畑は有名ですが、シーズンには大勢の観光客が見物にきます。景色の美しさや香りの良さだけでなく、良い香りは人の心まで浄化するものです。さて、今日の聖句は、クリスチャンが「キリストによって神に献げられる良い香り」であると教えています。これは、私たちを通じて「キリストを知るという知識の香り」をただよわせているというのです。それが、滅びる者と救われる者を分け、死と命に振り分けることになるというのですから、すごい話です。でも、良く考えれば、罪人はすでに滅びることになっていて、その罪人が救われるためにはイエス・キリストを信じること以外に無いわけですから、福音を伝えることのできるクリスチャンの存在は重要な役割を演じることに決まっているのです。もっとも、香り高いかあるいは香らないかは本人次第ということでしょう。だから、「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」という言葉が続くことにもなります。本当にイエス・キリストを信じてこの道を究めようと決めたのなら、キリストの芳香を身にまとって出て行きたいですね。香っているのか香っていないのかわからないような生き方は、後悔しか残らないと思います。道行く人が振り返るぐらいの良い香りになりたいものです。(佐久間)

 

5月25日(日)

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。

ガラテヤ6:15

 

クリスチャンにとって、大切なことは、新しく創造されることです。割礼が今日の聖句に出てきたのは、象徴的に律法を肉によって守ろうとすることを指しています。つまり、神の戒めを人間の努力で守ろうとすることです。新約聖書がはっきり示しているのは、人間の努力で神の戒めを守れないということです。ところが、割礼は体に傷をつけることなので、だれでもできるのです。それが、イスラエル民族の掟となって、男子は赤ちゃんの時に割礼を受けるために、全員割礼を受けていたのです。それがアブラハムの子孫であることを表し、神に選ばれた選民であることを示していたのです。もし、異邦人が改宗してユダヤ教に入ろうとすると、この割礼を受けることが必須条件となります。それは、ユダヤ教徒になる事と同時にユダヤ人になることを意味していました。初期のキリスト教は、ユダヤ人から迫害されることが宿命のように対立していました。そして、初期のクリスチャンの中にもユダヤ人を恐れて、異邦人クリスチャンに割礼を受けることを要求する人たちがいたのです。さて、今日の聖句が言いたいことは、どんな規則や教えを持ってきても、人は新しく創造されなければ、本質が変わらないということです。神の救いは、イエス・キリストを信じた人を再創造することで、まったく生まれ変わらせるというものなのです。問題は、そのことを信じるならばそうなるが、信じなければ罪人の弱さがいつまでも出てきてしまい、うまく生きられなくなることです。逆に神の再創造を体験することが何よりも重要なのです。これが理解できないと、罪人の時の自分とあまり変わらない、弱い面が克服できません。そうなると、聖なる者になろうとして、逆に肉なる罪人に逆戻りとなることが起こりやすくなるのです。クリスチャンがいつまでも聖なる義人になれない理由です。ですから、新しく創造されるように祈りましょう。そして、新しい創造が自分に起こったことを理解できるように、そして信じられるように祈るのです。そうすれば、あなたも聖徒であることがわかるでしょう。自分自身に主にある奇跡が起こる事を信じて神に祈るのです。(佐久間)

 

5月26日(月)

主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

詩編30:5,6

 

この書き出しの言葉は、胸にぐっとくる。「主の慈しみに生きる人々よ」・・・。そう、私たちは特別なのだ。神を知っている。しかも、味方として知っているのだ。どうしてそうなったのかは、よくわからない。でも、主を知ってはじめて、「慈しみ」という意味を知った。それが、どんなに心地よいものであるか味わい知るしか説明ができない。自分の生い立ちを考えてみよう。出生から長い人生をなんとか生きてきた。勿論、良い時も悪い時もあった。自分にとって、神を信じることは難しくなかった。そのように導かれたとしかいいようがないが、人並みに紆余曲折もあって、劇的に19歳でバプテスマを受けた。まったく考えもしなかった神学校へ、留学を餌に入学してしまった。しかし、牧師になりたくて入ってきた学生たちの中で、キリスト教を知らないノンクリスチャンの私は、異邦人以外のなにものでもなかった。実は、この時まで聖書も読んだことがなかった。そもそも、神を信じていなかったので、聖書を読む気にはならなかったのだ。授業を受けたが、宗教のことばかりで、まったく聞く気にもならなかった。そのうち、やはり入学したことを後悔し、やめることばかり考えるようになった。追い打ちをかけるように、土曜日の午後には伝道に行かなければならないと言われ、「冗談じゃない」と思った。その時に、子供伝道の責任者の友人が誘ってきた。私は子供と遊ぶだけという条件で引き受けた。そこで、思いがけず仲良くなった女の子から、思いつめたように「お祈りを教えて」と言われて、焦った。何しろ、祈りをしらないのだから。そこで、「来週教えるからね」とその場をごまかして逃げるように寮に帰ってきた。悩んだ末に、信頼できる先輩に恥を忍んで「祈りを教えてください」と頼むことにした。その結果、はじめて祈りはそれほど難しいことではないとわかった。そして、試しに祈ってみたのだ。それが自分の運命を劇的に変えた。なぜなら、その時に祈ったことがことごとく応えられたからだ。「まさか!本当に祈りが応えられたということは、神はいるということだ」と、とても驚き、同時に何とも言えない喜びが湧き起ったのだ。それで神を信じるようになったのだが、人生は一変した。不思議なことはその後も続いたので、短期間でクリスチャンになることができた。それから、40年の人生は主イエス・キリストと共にあった。それでわかったことは、主は私を慈しんでくださったということだ。いまだって、主の慈しみは変わらない。だから、主へ讃美の歌を歌いたい。この聖句の通りなのだから。ありがたいことだ。だから、あなたにも、安心して前を向いて生きていただきたい。主に愛されている者として、胸をそらして堂々と歩んで欲しいと思う。「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」から。主に栄光が永久にありますように。(サクマ)

 

5月27日(火)

律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

フィリピ3:5~7

 

さて、クリスチャンになって私たちは何を目指して生きているだろうか。人生の目的といってもいい。もし、クリスチャンになっても人生の目的が変わっていないのなら、何かが違っているかもしれないので、ちゃんと考えてみたい。今日の聖句でパウロはどうだったか、実例から学んでみることにしよう。パウロが最も優れた信仰者の一人であることは聞くまでも無い。しかもキリスト教会はこのパウロの書簡から多くを学び影響を強く受けている。パウロは、一人のクリスチャンとして、いったい何を目指していたのだろう。今日の聖句でまずわかるのは、普通の人が考える宗教の目標と真理として正しいパウロの目指した目標はまったく正反対であったということだ。パウロも当初、主イエスとの出会いがあるまでは、ユダヤ教の厳格なファリサイ派の一員であり、分派あるいは異端と思われていたキリスト教の迫害者となるほどの熱心な信仰者であり、自ら語っているように、律法の義については非の打ちどころのない者だったのだ。実は、クリスチャンのある人たちは、キリストに出会う以前のパウロのように信仰を自力で努力して義となれるように、自分の義を追い求めてしまっている。かくいう私もかつてはそうだったのだ。わからないからこそ、まじめにキリスト教信仰と取り組むと、自力の義を追及するしかなくなってしまう。それは、恐ろしいほどの罪との戦いになり、挫折に打ちのめされる結果しかない辛いものなのだ。そのうち、人間の弱さから、どこかで妥協やごまかしが入り込む。しかし、パウロのように意志強固ならば、律法から生じる自分の義をやり遂げることも可能なのだ。それは、傲慢で偽善的な人間を製造することになるだけで、依然と罪の解決にはなっていない。しかし、パウロはイエスと出会った。それで、すべてが変わった。パウロが今まで勝ち取ってきた宗教的有利は、メッキがはげ落ちたように、無残な姿をさらした。そして、悟りのように、主イエスによって突然に何もかもわかったのだ。すべては、やはり聖書に書かれていたのだが、イエスに出会うまで見えなかったのだ。後生大事にしてきた、自分に有利なことが全部損失にかわった。ゴミになったのだ。クリスチャンがどうしても知らなければならないことがここにある。この続きを明日また考えてみよう。(サクマ)

 

5月28日(水)

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

フィリピ3:8~9

 

信仰のために捨てたものがある人は、少なくないだろう。仕事、出世、お金、家、友人、家族など、普通ならばあり得ないものですらすててしまうのだ。一方、捨てたものなど何もない、という人もいるだろう。パウロが言いたいことは、イエス・キリストに人生の全てをかけてみたが、それは間違いではなかった、ということだ。パウロにとって、人生は宗教から見たものであった。それは、長い年月の間にいろいろないきさつがあって、その中で英知を傾けて真理探究に努めた結果を宗教の形にしたもので、人生をかけるだけのものなのだ。それに人生をかけて精進してきたのに、そのすべてをあっさり捨てることになったのだ。それどころか、原因となったイエス・キリストとの出会いは、それまで大切にしてきたすべてを塵あくた、とみなすほどの強力なものだった。キリスト教徒となって、真理を究めたいと思うのなら、このパウロの発見したもの、あるいは体験したことを見極めることは必須のことだ。パウロの言い方だと、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」となる。このことのために全てを失ったというのだ。このことは、瞑想課題となる。最後の文章を簡単に説明してみよう。読んでわかることは、二つの義があるということだ。一つは律法から生じる自分の義、律法を自分の力で守ったことにより義と自分で認める、宗教者の生き方。もう一つは、キリストへの信仰による義だ。これは、自分で努力して律法を守って、自分を義とするものではない。ありのままの姿でイエスの元へ行き、罪を悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じて、罪赦される義だ。神が与えてくださる義は、信仰によらなければならない。そして、神の義は、神の御姿の回復を可能にする。イエス・キリストの復活の命に新しく生きることができるように、聖霊が遣わされ、信仰者の内に宿ることにより、律法と調和した人に生まれ変わる。しかし、信仰によって義となったので、信仰で正しいことを選び続けなければならない。そのために、聖霊との交わりが欠かせなくなる。人間がどんなに努力してもできない義を、呼吸のように普通にできる義となる。これは、金で買えない、どんなに学んでも難行苦行してもできない。ただ、イエス・キリストを信じることで可能となる、恵みの世界なのだ。全てを捨てて、といった時に「疑い」とか「不信仰」とかもそこに含まれていることを忘れてはいけない。(サクマ)

 

5月29日(木)

夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる。

詩編55:18

 

祈りは興味深い、誰でもすぐに祈れるのに、「私の祈りは聞かれない」と言う人がいる。聖書を読んでみると、「聞かれる祈り」が書いてあるのに・・・。誰だって、祈りが聞かれて、応えられることを期待しているはずだ。それならば、聖書に書かれていることを調べる方が確かとなる。実際に、聖書に書かれたことを覚えていて、それを祈りにしている人もいるのだ。当然、それは聞かれる祈りなので、奇跡すら起こることがある。今日の聖句も、「聞かれる祈り」の一つだ。このように祈らなければならいほど、追い詰められることはなかなかないかもしれない。しかし、絶対ないとも言い切れない。だから、今日の聖句をよく読んで覚えておこう。だいたい、悩みが深刻になってくる時間は夕から夜が圧倒的に多い。長い間悩みの中にある者は、我知らず呻くものだ。もはや言葉にもなっていない。それが、夜だけでなく、朝を迎えても、そして昼になっても、その悩みが消えないのなら、我知らず呻いている。その祈りを主は聞きわけておられる。もはや、それは言葉にもなっていない声なのだが、主は聞いてくださる。こうゆう、「聞かれる祈り」もあるのだ。だから、どんなときにも希望はある。(サクマ)

 

5月30日(金)

実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。

ヘブル5:12~14

 

時々、聖書を読んでいるとどっきとさせられることがあります。例えば、今日の聖書箇所などです。クリスチャンになる前、クリスチャンになった時、クリスチャンになった後、と今まで知らなかったことを次々に教えられます。教理であったり、教会の慣習であったり、聖書であったり、と時間と共に成長する仕組みがあるのです。ところが、ただ、聖書を読んでいるだけではなかなか深い所までわからないことが多いのも事実です。信仰生活には無駄が無くて、本人が自覚していなくても目標目指して神の計画が進行して行きます。しかし、信仰の本気度が成長の進度を決めていることも否めません。バプテスマを受けて、クリスチャンとして赤ちゃんが産まれた時のように新しい人としてスタートします。赤ちゃんが乳を必要とするように、クリスチャンも初めは信仰の乳が必要です。しかし、何年経っても依然と乳しか飲まず、固い食物を食べれるようになっていないのなら、キリスト者として問題があると聖書は指摘しているのです。これは何も難しい神学を勉強しなさいと言っているのではありません。聖書を真剣に読んで学べば、自分の行いや具体的な生活習慣を変えなければならなくなります。聖霊の満たしのように、もっぱら信仰によることも重要になってきます。神との交わりがどのようになされるか、祈りの奥義とは、礼拝に参加する奥義とは、霊の賜物を受けるには、そして、それをどのように用いていけば正しいのか、キリストの証人となるという意味は具体的にどうゆうことなのか、異言や預言の意味とは、悪魔・悪霊の対応はどうするのか・・・・等。いくらでも出てくるのです。一番人が霊的に満足するのは、伝道した時ですが、クリスチャンになって何十年も経っても伝道をしたことの無い人もいます。できないようなことを無理してするように勧められているわけではありません。律法主義者のように、律法の行いを強調しているわけでもありません。今日の聖書箇所の先を読んで行けばわかりますが、我々が信仰の道を歩み始めたら、つぶやいたり、心をかたくなにしてはいけないのです。クリスチャンは未信者のように生きてはいけません。彼らは善悪を見分けることがうまくできないのです。しかし、クリスチャンは、固い食物を食べるようになります。それは、「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人となるためのものです」。中途半端なクリスチャンの生き方ほど、危険なことはないのです。それは、出エジプトの時に、荒野旅でイスラエルの民が失敗した通りです。彼らは目的地に着くことなく荒野で死んだのです。そのことを、「このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。」(3:19)とへブル書に書いてあるのです。ですから、祝福と恵みに満ちた信仰の道を全身全霊を傾けて進むべきなのです。律法学者などのイエスの敵対者たちは、モーセの律法をイエスが破っていると言って怒っていましたが、彼らはモーセの信仰態度は見ていなかったのです。まねすべきは偉大な信仰者の生き方だったのですが、彼らに欠けていたことだったのです。私たちは、イエスの信仰の生き方を模範としています。「キリストにならいて」、このことを考えないクリスチャンは、成長が遅く、悩みも絶えないので、とても損な生き方です。本当に、キリストの弟子となって、従順にキリストにつき従いましょう。それが固い食物を食べることになるからです。(佐久間)

 

5月31日(土)

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。

ヤコブ1:5,6

 

聖書を読んでいくと、面白い箇所を見つけることがあります。今日の箇所もその一つです。どうも人間には知恵の欠けた人がいるらしい。こうとぼけているのは、自分に心あたりがあるかです。どんなところで知恵が欠けていると思うか、なのですが、別に暗算が得意になって、何かの計算が必要になった時に手をさっと挙げてパッと答えを言えたら、カッコいいじゃないか、というような欲はありません。小学生低学年のような暗算が出来なくても気にならなりません。ではクイズ番組を見ていて、難しい問題をサラッと答えて、称賛の眼差しを受けたいのか、といえばそうでもない、たぶん答えても無視されるのがおちだから。かといって60歳を過ぎたので就職試験を受けなきゃ雇わないようなところとは縁がないだろう。そうそう、生涯牧師と決めているのだった。また、ギネスブックにのるために円周率を覚えるためでもない。孫たちが来た時に夜空を見上げて、やおら「あれが大熊座で、・・・」と星座を次々に教えて、「おじいちゃん、すご~い」などと尊敬のまなざしで見られたい、という願望もない・・・わけでもないが、むりっぽい。そもそも、乱視に老眼、そのうえ右目と左目の視力が極端に違っているし、ギリシャ神話は好きじゃないし、いくら見ても線を引いてもらわなければ星座に見えないし・・・。「それじゃ、知恵はいらないじゃない」ですって。いやいや、知恵はいります。そのような下世話なことでありがたい天来の知恵をいただこうというのではないだけです。実は、イエス様が教えられたことを実践するために必要なのです。例えば、「汝の敵を愛せよ」と言われても、敵は敵なのです。甘い顔をすればこっちがやられちゃうから敵なのです。「右の頬を打たれたら、左の頬もだせ」と言われても、左の頬を出したら、相手はバカにされたと思ってさらにきつい一発がとんできそうです。それで、なぜ?どうして?と疑問がでてくるじゃないですか。それがわからないのは、知恵がないからですよね。実は、信仰相談のほとんどが、知恵さえあれば解決してしまうのです。そこで、皆さまに勧めます。今日の御言葉を知っているだけではいけません。この通りに祈り求めてください。コツもちゃんと書いてあります。「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい」。これがちゃんとできれば、すごいことが起こると思いますよ。楽しみです。(さくま)