2014年6月

6月1日(日)

だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

ヤコブ1:19,20

 

聖書を読んでいると、時々「あ~あ、これはダメだ」といきなり反省しなければならない箇所が出てきます。今日の聖句は、私の場合は、「聞くには遅く、語るには早く、怒るには超早く」と書き直してしまいそうです。日本人はとにかくせっかちな人が多いのです。外国に暮らしてみると日本人のスピードの速さに気が付きます。何でも早いと思います。東京に外国からしばらくぶりに帰ってくると、まず、電車に慣れるまで大変です。駅に着いてようやく降りると、大勢の乗降客がホームにひしめき合い、超スピードですれ違っていきます。気が付くとホームに取り残されている自分に気が付きます。もたもたしていると、次の電車が来てまた大勢の乗降客が殺到してきて、押し倒され、踏みつけられ、トムとジェリーのアニメみたいにおせんべいのようにひらべったくなっている自分の姿が想像されて恐ろしくなります。マニラで国際会議があった時に、日本からきた牧師先生がデパートに行きたいというのでタクシーで案内することになりました。ところが、マニラの中心部は大通りでも大渋滞なのです。しばらくすると、お客様の先生がイライラしてきました。もう少しだからとなだめるのですが、もうタクシーを飛び降りて走り出しそうなのです。この時は本当に大変でした。大先生は、「タクシーの運転手に何とかしろと言え」と怒っているのです。それで、しかたなく、タクシーの運転手に「脇道とかもっと早く行けないか」と聞くのですが、フィリッピン人の運転手は、なぜ急ぐのか意味が分からないようで、しかたがない、と笑うだけなのです。運転手の反応が悪いと思ったのか、大先生の様子が険悪になってきて、どうやら腰を浮かせて、もはやイスに腰掛けていないようです。それで、運転手に「何とかしてください」と再度頼むと、運転手は笑って何か言い出すのですが、大先生はもう聞いていません。自分で話さなければと思ったのか、猛然と日本語で話しだします、「この運転手はダメだ、本当にプロの運転手なのか?えっ、お客が時間がないから頼んでいるんじゃないか、プロなら脇道に入って近道をするとか、中央分離帯を通るとか、対向車線を走るとか、飛ぶとか、とにかくあと3分でデパートの前に着かせなさい。会議中に抜け出してきたんだから渋滞しているわけにはいかないんだ、いないとわかったらどうなると思っているんだ。みんな長いトイレだと思っているんだよ。わかる・・・早く戻らなければいけないの。わかるでしょう。私はお土産が買いたいんだ。家の家内は怖いんだよ。それこそ渋滞でお土産を忘れました、何って言ってみろ、どうなると思う、あ~めまいがしてきた。それにね、餞別をくれた人がいるんだよ。それも山田さんと、佐藤さんの奥さんと鈴木一郎さんだ。マリナーズ(その当時)のイチローじゃないよ。おい、ぜんぜん動いてないじゃないか。これだけ、私が頼んでいるのに・・もう、頭にきた、限界だ、歩く!」。聖書は、何でも正しいことが書いてあるのですが、それを知っていても、いざとなるとすっかり忘れることが多いのです。今日の御言葉も身に付けて、いざという時に聖書の教えの通りになればいいですね。くれぐれも、怒りは神の義を実現しないことを覚えておきましょう。(さくま)

 

6月2日(月)

人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。

マタイ12:34、35

 

今日の御言葉はわかりやすいが、どうだろう。努めて心に良いものを貯めていかなければならないということだ。なぜならば、心にあふれるものが口から出て来るからである。いったい、私たちは毎日口を開いて、何を語っているのだろう。てきとうに考えもなしに口を開けば、危険なことをしているのだろう。ゴシップのようなものにつきあうことは、恐ろしい。そのことばの 一つ一つまで記録されていて、「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」(36節)と聖書に書いてあるからだ。これは、かなり厳しい事のように思うが、聖書の御言葉が変わることはない。そこで、頑張って悪い言葉を話さないようにしようとしても、すぐに失敗するだろう。今日の御言葉をよく読んでみればわかるが、心にあるものしか出て来ないということだから、心の倉に良いものを入れることが肝心なのだ。それだけを特に気を付けてみよう。何が良いものかと言えば、「愛であるもの」と覚えておけば大丈夫だ。祈りの言葉も、だんだん良くなるはずだ。(サクマ)

 

6月3日(火)

あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人/わたしはこのような人の友となります。主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。あなたの掟をわたしに教えてください。

詩編119:63,64

 

周りを見渡せば、神を信じないと言ってはばからない人たちが大手を振って歩いています。仕事先でも、子供の学校のPTAでも、町内会でも、食事に入った店でも、どこでも神を知らない人たちが大勢います。でも、考えてみればイエス様のことを証し出来る人がその中で一人いるのです。それが、あなたです。あなたがその人たちの間にいるので、その人たちは祝福され、罪から贖われて神の子になった人を見ることができるのです。悪魔がどんなに悪だくみをしても、弱そうに見えるあなたが勝利することになっています。あなたの心はどんどん神へと向かいます。あなたの隣にあなたの信仰の通りの人が現れるでしょう。神を畏れ、神の命令を守る人です。あなたは、信仰に欠かすことのできない忍耐を今、きっと学んでいると思います。この鍛錬は辛く感じる時もあると思いますが、あなたは確実に神の国の住人へと変えられているのです。あなたの上に神の不思議が働いています。あなたが嫌だと思ったこの地は、実は神の慈しみに満ちているのです。あなたはそのことを知るでしょう。そして、さらに神を畏れ敬う思いから主の掟を知る者となろうとしていくことでしょう。(佐久間)

 

5月4日(水)

主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

詩編121:7,8

 

何にでも不安を感じてしまう人がいます。人の言動や、ちょっとしたしぐさにも敏感に反応するのですが、人間関係に自信が無い人に多いようです。そのような人は、自分に自信を持っている人ならおよそ考えつかないような否定的なことを考えてしまいます。さらに、進むと、人から自分が嫌われていると思うようになります。そして、普通に話そうとするのですが、なかなかうまくいかないので、自分は話が苦手だと思いこんでいます。そのように話が苦手であまり人に話さないのだと、訴える人が息つく暇も惜しんでいるかのようにとめどもなく話し続ける姿を見ることは珍しくありません。どんな人も、ちゃんと話を聞いてくれる人がいれば、自分のことを一生懸命に話すことができるのです。私たちは、いろいろな性格や性質を持っているので、自分をちゃんと愛して理解してくれる人を必要としています。そうすれば、人生は楽しいのです。でも、罪の世界には愛ではない事が溢れています。愛を破壊してしまうほどの力が身近に働いていることだってあるのです。今日はいい日であっても、明日は何の保証もないのです。しかし、クリスチャンは、聖書を読んで今日の聖句のような御言葉に出会います。主が見守ってくださるというのです。CMで家の防犯のために仮面ライダーたちに家を守るように頼むというものがあります。クリスチャンの場合は、主が24時間365日、見張ってくださり、災いを退け、魂を見守り、安全を守っていてくださるのです。それも永遠にです。幼子を温かいまなざしで見守る優しい親のように、神はあなたを見守り続けてくださるのです。ありがたいですね。(佐久間)

 

6月5日(木)

目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。

Ⅰコリント16:13,14

 

 

クリスチャンとして御心にかなった生き方をしたいと思いませんか。そのような方に、今日の御言葉は意味があります。ようは「カッコよく生きよ!」と言っているのです。クリスチャンの規準がはっきりしていれば、どんなことがカッコ悪いかわかります。それが、あいまいだと、結局自分の弱さに負けてしまいます。自己中心的になって、言い訳して生きるのは、かっこ悪いです。立派なことを言いたいなのなら、その前に黙って行動する方がいいですよね。正しい事と悪い事ぐらい誰でもわかるのに、自分に甘いとそれが狂ってくるのです。辛いことも世の中には、いくらでもあります。でも、辛い時ほど、笑ってみるぐらいの方がカッコいいけど、正直に生きるのも強さになるので、主に辛いことを訴えてみるのは悪くないですね。一番カッコいいのは、何事も愛をもって行うことです。自分に都合よく生きようとすれば、そのつけを払うことになります。人の心の中まで覗こうとしてはいけません。思いやりはさりげなく、相手を尊重して認めることがなにより大切だし、大事な人だと思うなら、黙って信頼し続けることもカッコいいですよ。神様は生きておられるので、あなたのことは口から出たことも、心の中の思いも、すべて知られています。その中で、あなたが最後に何を決断するかが一番大切なことです。また、聖書の律法を読み返して、どうゆうことか考えてみることはクリスチャンの成長に役立つのです。そうそう、律法を読む時は、愛を学ぶつもりで考えて読むことが大切ですね。我々はキリスト者と呼ばれているのですから、霊の戦いの中にいます。いつでも臨戦態勢にあるのです。だから油断していけません。そして、キリストの十字架の道を辿ることができるかどうかが問われています。魂の救いの為に十字架の道を辿れるかどうか。実際には、イエス・キリストが十字架に架かってくださったのですが、魂の救いのためには、犠牲が必要なのです。自分の力ではとうていできないことです。しかし、内住のキリストがあなたと一緒に働いてくださることも事実です。牧師として働いてきた過去を振り返ってみると、救霊の働きは大変だったとは思いません。それよりも楽しかったと思えるのです。聖霊の不思議がいつもあって、自分がはらった犠牲はとても少なかったように思えます。それすらも、喜びに変えられたからです。だから、キリストの弟子として、カッコよく生きましょう。人からみれば、カッコ悪いと見える時もあるかもしれないけれど、聖霊はきっといつでも褒めてくださるでしょう。キリストのために生きたいですね。(佐久間)

 

6月6日(金)

わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。

ガラテヤ5:5

 

クリスチャンの救いは、恵みによりました。自分の功績や努力の賜物ではなかったのです。そのために、なぜ自分が選ばれ救われたのかという疑問を感じることがあるでしょう。特に、信仰生活がだいぶ進んだと思っていたのに自分のことで失望するようなことが起こった時や、簡単に罪を犯した時には、落ち込むでしょうね。それに、罪とはいえないかもしれないが信仰がパッとしない停滞期に入ったり、神様の臨在を感じなくなったとか、祈らなくなったとか聖書を読まなくなったとか、やる気が起きないとか、そのような時もクリスチャンは乗り越えていかなければならないのです。しかし、もっともやっかいなのは、信仰生活がとりたてて不調ではないのに、停滞しているように感じる時です。今日の御言葉を見てみると、「義とされた者の希望が実現することを・・・」と書いてあります。皆さんの信仰が救いに届いているのですが、完成していない、いや完成に向かってはいるのですが、いつゴールするのかよくわからない。たしかに天国に入る時に栄化されると言われているので、主の再臨の日までは終わりはきません。しかし再臨は裁きを伴うものなのでそこで結果がわかります。その日は、クリスチャンにとっては希望となります。そうした再臨への希望というものがありますが、それとは別に神様から一人一人が使命を受けていることも理解していなければなりません。その使命が希望となるのです。2000年前のガリラヤの漁師たちのように、使徒に任命された弟子もいました。しかし名前も記されていない忠実な弟子たちの数の方が圧倒的に多いのです。彼らも使命を果たすことを希望としていたはずです。私たちの希望は、啓示のあった500万人救霊です。人間の力ではなんとも無理な数字であるとしか言いようがありません。しかし、昔の聖徒もそうであったように、聖霊により、信仰に基づいて切望する、待ち望むことが正しいことなのです。少しでも、救霊の数が増えて行けば自分たちの手柄のように高慢になる危険があります。だから、自分が無力になり、聖霊と信仰によって神の御業を見届けることを心に決めていなければ、誘惑に負けるでしょう。モーセやヨシュアのような信仰を持てるように祈ることが肝心です。そして、モーセがそうであったように、謙遜になるまで主は待っておられるのです。(佐久間)

 

6月7日(土)

では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。

フィリピ3:1

 

聖書には面白いことが書いています。「主において喜びなさい」というのもその一つです。クリスチャンになると、必ずこの「喜ぶ」ということを教えられます。ところが、喜ぶというのは感情なので、喜ぶようなことがなければ喜べないという声が聞こえてきます。それはそうなのですが、聖書は繰り返し「喜びなさい」と教えています。ということは、喜ぶことに何か意味があるわけです。今日の聖句では、「あなたがたにとって安全なことなのです」とあります。喜ぶことが安全につながっているというのです。どうゆうことでしょうか。パウロの言いたいことは、「主にある喜び」ということです。どのような状況に置かれても、主にある喜びがクリスチャンにあれば、心配ないということです。主にある喜びは、主との親しい交わりの中にあります。そのような交わりがあれば、安全なのです。主に敵するいかなる勢力も主の御力の前には無力であり、主は圧倒的な力で敵を退け、信仰者を守ってくださいます。この罪の世界に生き残っているクリスチャンがいつでも危険な状況に遭遇することはあり得るのですが、主との生ける交わりから生じる喜びはそのような危険からも十分守る事ができるのです。聖書に「喜べ」と出てきても、少なくとも気分の問題ではないと覚えていましょう。そうすると、主との生ける交わりの重要性が理解できるはずです。一人になって、主との交わりを求め、主にある喜びをいただくことを常としたいものです。(佐久間)

 

5月8日(日)

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

コロサイ1:21,22

 

イエス様がこの地上に降りてきてまで、私たちのためにしてくださったことは、人間の考えでは理解できないほど、圧倒的な神の愛でした。罪人の最も残念な事は、自己中心なので愛が自己の中で完全な愛になれないということです。どこかでゆがんでいるのです。気分しだいで愛したり、憎んだりと風に揺れる葦のようです。神を信じることができずに、むしろ神に敵対していたのです。そのような者を救うためにイエス様は人間になり、聖書に書かれている通りに十字架で犠牲を払って、私たちの救いの為に死んでくださったのです。その死によって、私たちは神様と和解できました。そればかりでなく、聖なる者、傷の無い者、とがめるところの無い者としてくださったのです。このことをあなたは信じますか。信じれば、この御言葉の通りにあなたの身になり、信じないのならこの御言葉は空しくなります。人が水と霊のバプテスマから新しく生まれ、神の国へ入る事ができるのも、この御言葉を信じる者が聖書に書かれた通りになるからです。誰がなんと言おうと、主を信じ、御言葉を信じるなら、その結果が伴います。どんなに力が弱くても、何のとりえが無くても、一途にイエス様を信じることはできるのです。この地上では、イエス様の憐みにすがって生きていけばいいのです。そうすれば、イエス様のお優しい御声が聞こえる日がきます。あなたのために主は立ち止まり、御顔を向けて願いを聞いてくださるでしょう。その時、主が知りたいことは、「わたしを信じるか」という一言なのです。(佐久間)

 

6月9日(月)

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

マタイ23:37

 

今朝、家人が窓の外を見て、「見て、見て」と興奮して呼ぶので窓からのぞくと、なんと雌のキジが可愛い雛鳥を7羽ぐらい連れて、挨拶に来たのだ。少なくとも私にはそう思われた。我が家の裏の林に住んでいる隣人のキジが結婚し、無事に子供を産んだということだ。なんとめでたいことかとお赤飯でも贈りたくなった。それにしても、キジとは思えぬ律儀さに感心してしまった。「子供たちが無事に生まれ、よやくお披露目できるようになりました。おかげさまでありがとうございます」と挨拶しているようにしか見えないのだ。母鳥は、雄よりは小柄で地味に見えたが、芯がしっかりしているようだった。まあ、キジではないのでよわくわからないが美人であったように思う。しかし、見ていると多くの雛鳥は母親にくっついているのに、一羽だけ離れて置いてきぼりをくって慌てて母鳥を追いかけた雛がいた。「あれは、私だ!」と思わず思ってしまった。さて、今日の聖句だが、エルサレムはイスラエルの民のことと思って間違いないだろう。旧約聖書の時代も、新約聖書の時代も、神はわが子のようにイスラエルの民を可愛がった。そして、同じ譬えを使ってイスラエルの民に神の愛のもとへ帰れと促している。神は、今日も同じだ。ご自分で選んで召し集めた神の民に、わが子のように接する。愛情を惜しむことはない。それは、めんどりが危険が迫る時に雛を翼の下に集めるように、神も自己犠牲を払ってでも愛を貫いて神の民を守ってくださっていることを示している。神は、あなたにもっと近づいてほしいと願っている。もし、問題があるとしたら、我々が神から自分勝手に離れることだけだろう。自分の思い通りに生きたいと思う時にそうなる。神の愛がどうして分からなくなるのか不思議だ。めんどりの側にいる雛は安全であるが、勝手に離れていけば、蛇も猫も敵が待ち構えている。あの雛たちが皆無事であるようにと願うばかりだ。なにか、父なる神のお気持ちが少しわかった気がする。(サクマ)

 

 6月10日(火)

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

マタイ7:7,8

 

ケセン語訳聖書というものがあります。医師の山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)さんが岩手県気仙地方の言葉で福音書を訳したものです。聖書翻訳というものはなかなか難しいもので、言語学者の領域であると思いますが、聖書学者が中心で作る事が多いかもしれません。日本語聖書にしても、新しい訳が出るたびに批判が多く寄せられることになります。国語学者まで動員して国語辞典のような正確な日本語に訳しても、これで完璧とはなかなか言えないもどかしさがあります。日本語の文法が特殊で、原典のギリシャ語のような文法が無いので、訳に限界があるとか、言えばいろいろ出て来るのです。しかし、その中で最高の翻訳で聖書は作られていると言えるのですが、方言で訳してみるという方法は言葉の可能性を広げると思います。今日取り上げたケセン語訳「イエスの言葉」も、そのことを実証しています。たとえば、翻訳していくために山浦さんは聖書ギリシャ語を学ばれました。そこで、今日の聖句を翻訳したのですが、ギリシャ語の命令形には、「現在命令」と「アオリスト命令」の二種類あり、現在命令はその動作を継続して実行することを要求する命令形で、アオリスト命令はその動作をひとくくりにして一回性のものとして要求するものでした(P156参照)。では、マタイのこの聖句はどちらの命令形で書かれていると思いますか。日本語で読む限りは、一回性のものと読めますね。しかし、正解は、継続して実行することを要求している形で書かれているのです。そうであれば、一回求めて与えられなくても、与えられるまで求め続ける、ということができますね。私たちはご利益宗教ではないので、ただ神頼みというのではなく、求めるもののために人間が自分を正していく努力をする余地があるのです。最後にケセン語で今日の聖句をどういうのか見て見ましょう。

願って、願って、願(ネゲ)ァ続げろ。そうしろば、貰うに可(い)い。

探(た)ねで、探(た)ねで、探(た)ね続げろ。そうしろば、見付(めッ)かる。

戸ォ叩(はで)ァで、叩(はで)ァで、叩(はだ)ぎ続げろ。そうしろば、開げでもらィる。

(P154参照)。なんとも温かみがある言葉ですね。心に簡単に入ってくるから不思議です。さて、あなたは何を求めているのでしょう。(佐久間)

 

6月11日(水)

モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。

Ⅱコリント3:13

 

モーセがシナイ山から十戒の石の板を持ち帰った時に、モーセは神と会ったために顔の肌が光をおびていて、光り輝いていたためにアロンやイスラエルの民は驚いて逃げたと記録されています。その後も、モーセは神と会見して、そこで聞いた御言葉を民に告げていたです。しかし、告げ終わるとモーセは神の栄光である顔の光を覆いで隠していました。そのことから、パウロが語ったことが今日の御言葉です。これには、すこし文字通りの意味以上のことが含まれています。モーセは古い契約、あるいは旧約聖書を象徴しているのです。やがてキリストが預言の成就として到来する新約聖書の時代を迎えます。モーセの古い契約は、キリストによって与えられた新しい契約によって消え去ったのです。そして、キリストによって与えた新しい契約は、消え去る栄光ではなく、いつでもキリストと交わる事のできる永遠の栄光だったのです。そのことは、内住の聖霊が保証となっているのです。古い契約の元では、神への従順は、石に刻まれた十戒や文書となった律法への遵守の事でしかなかった為に、心からの従順にはなれなかったのです。しかし、キリストの贖いにより神の愛がわかり、約束の聖霊が遣わされて心に宿ってくださった時、心の中から主への愛が溢れるようになり、心からの主への従順が実現したのです。少なくとも、パウロはそのように体験したのです。ここが明快にならなければ、信仰者は楽にならないので大切なことです。内住される聖霊の愛に心を向けてみたらどうでしょうか。あなたの内にも神の栄光が輝いているはずです。(佐久間)

 

6月12日(木)

金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。

ヘブル13:5

 

不思議なことに、豊かな国の人ほどお金を欲しがる傾向があります。買いたいものが沢山身近にあるからでしょう。生活苦に陥っている人にとってはお金の必要は切実なものがあります。フィリッピンに住んでいた時に、車でマニラに出かけると信号で車が止まるたびに、大勢の人が車道に飛び出してきます。そして、車に乗っている人にガムやキャンディーを売る人、おもちゃを売る人、きれいな南国の花で作った15センチぐらいの花輪(車内の芳香剤になる)を売る人と、新幹線の車内販売よりも華々しく売り歩くのです。それに混じって、小さな子供たちが施しを求めて、車の窓ガラスをノックするのです。たいていの人が窓を少しだけ開けて、コインを渡します。ある日、赤ちゃんを抱っこして、小学生高学年ぐらいの女の子が向こうから歩いてきました。次は私の番だとコインを引っ張り出して渡す用意をしていました。ニコリともせずにその女の子が窓ガラスを叩きました。それで、用意していたコインを渡すと、すぐにそのコインを返してきたのです。そして、コインじゃなく札をくれと言うのです。驚き、あきれましたが札を渡しました。車の中は冷房が効いていますが、外は猛暑で汗だくです。この子供たちは、貰ったお金を元締めにすべて巻き上げられるそうです。そのかわり、そこで生きていけるというのです。複雑な気持ちになりますね。その一方で、日本のような恵まれた国もあります。しかし、そこでもお金のことで心を悩ませている人は沢山いるのです。さて、クリスチャンの金銭に対する考え方は、ここに書いてあることが基本です。お金はいくら持っていても満足することはありません。というのも、お金のことを本当によく知っている人は少ないのです。何のためにお金が欲しいのかと言えば、安心のためかもしれません。そもそも、お金があれば安心だと思う人は愚かな人です。クリスチャンは、お金ではなく神が安全の保障なのです。これは、お金が必要な時も神が守ってくださるという意味です。人のお金の管理能力はさまざまで、分相応が一番楽でいいわけです。多くのお金を神が預けてくだされば、それはそれだけどのように使うかを神に見られているということになります。管理責任がともなうわけです。そこで、金銭に執着しない生活を送る事を考えてみてください。金で何でも買える、と思っている人は聖書を読んでみましょう。大豊作で慌てて倉庫を作ろうとしている人の話(ルカ12:13~21)をイエスがしました。イエスは、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と言われ、財産ができたから将来は安心だと言った人が「今夜、お前の命は取り上げられる」と神に言われるとしたら、なんと空しいことでしょう。イエスの教訓は、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(12:21)ということです。それで、クリスチャンは、神の御前に豊かな者となることを考えなければならないのです。そのためには、まず神を知りましょう。そうすれば、今日の聖句の意味を理解し、身につけることができるのです。(佐久間)

 

6月13日(金)

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

ヨハネ6:63

 

さて、この御言葉をどのように理解すればいいでしょう。命を与えるとキリストが語っています。それだけでなく、イエスはその真理を説明します。それは、キリストがお語りになった御言葉は霊であり、命であるというのです。そして、命を与えるのは霊であると言えば、これは信仰の話をしていることに気が付きます。この当時にイエスの語られた御言葉を聞いた人はたくさんいたでしょう。しかし、十字架、復活の後に残った人の数はわずか120名ほどだったのです。「肉は何の役にも立たない」とは、人間的に考えても、努力しても、正しいと自分が思ったことを選んだとしても、それが人に命を与えるわけではないということです。律法学者も祭司もファリサイ派の人も、キリストの御言葉をはっきり聞いたのに、キリストの敵に回って、命を奪うためにひどいことをしました。でも、生まれも、育ちも、年齢も性別も、国籍も関係なく、イエス・キリストを信じた人は、救いを受けて、聖霊と一つになる経験へと導かれたのです。この聖霊は真理の御霊で、イエスの語ったことを教えてくださいます。この経験によって、人は神の子に変えられ、キリストの身丈まで成長することが可能となるのです。そして、この“霊”の歩みが信仰者に命を与えることになります。霊的な命を注ぐ秘密が御言葉の中に隠されているのなら、これは信仰がなければ受けることができません。だから、祈り、御言葉に向かい、聖霊との交わりを求め、聖書を読み、神の口からでるひとつひとつの御言葉を食物として命に変えるのです。キリストを信じる者ならば、だれでもできるように単純にできています。ただ、聖書にあるように人間は複雑に考えたがるのです。だから、目の前にある恵みを見逃してしまうことが起こります。もったいないことですね。世俗の事に心を奪われているうちは、肉の思いが強く出て来るので、うまくいきません。悪魔だって、見張っているのですから見逃すことはありません。誘惑をしますし、攻撃だって容赦ないでしょう。敵はクリスチャンを堕落させたいのです。だから、肉で何とかしようとしていると、祈りも検討違いなことを願ったりしてしまいます。神は気づかせようと働いてくださいますが、人の方で神に向かっていなければ、気づくことが難しいのです。信心深いことは、得はあっても損はありません。ですから、霊性を高めることを第一に考えて実行しましょう。神は、あなたが“霊”に満たされて、命を受ける者になって欲しいのです。肉ではなく霊に満たされているのなら、悪魔・悪霊にすら打ち勝つ権威をあなたは受けています。イエス・キリストの御名の権威です。キリストの御言葉の通りに命をいただく者となりますように。(佐久間)

 

6月14日(土)

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

ヨハネ15:7

 

願いがかなう祈りについて聞かれることがあります。一般にキリスト教はご利益宗教ではないと聞いていると思いますが、それでも願いをかなえていただきたいと思っている人は少なくありません。ところが、自分でいくら祈ってもきかれないので、牧師に祈って欲しいと言って来る人もいます。そうゆう人には、ぜひとも聖書を調べていただきたいのです。祈りの極意のようなものを探している人もいるかもしれませんが、まさにいろいろ書いているのです。ですから、聖書を調べてみてください。聖書を無視してやみくもに祈ってもきかれないのはあたりまえだと思うようになると思います。今日の聖句もそのような聖句のひとつです。望むものは何でも願っていいというのです。しかもかなえられると保障付です。では、無条件にきかれるのかと言えば、そうではありません。やはり条件がありました。それは、①イエスにつながっていること。②イエスの御言葉がその人の内にいつもあること。この二点です。たった二つの条件を満たせば、願ったことは全てかなえられるというのです。この二つの条件にチャレンジするのは、正しいことです。というよりは、正常なクリスチャンであれば、皆、この条件をクリアーしているはずです。もし、この条件を満たしていないのなら、そのことに気が付いてよかったのです。まずは、この二つの条件について祈り、考えてみてください。そして、どうすれば良いのか分かれば、実践してください。この取り組みは、あなたの想像以上の恵みをもたらすでしょう。信仰に成長することがこれほど大きな喜びとなるのか、驚きを実感してみてください。そして、その時には祈ることの内容が大きく変わっているでしょう。(佐久間)

 

6月15日(日)

つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。・・・肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。

 

女子アナ、ナンバー1に輝いた方は、司会者なのに食いしん坊で、テレビで良く食べることで人気が出た。個人的にはこのアナウンサーに共感するところがある。家内いわく、「あなたは食べ物が出て来ると必ず反応している」そうだ。人間にとって食べ物飲み物、口に入るものはみな重要である。健康のために食事も十分に気を付けるのはもはや常識になった。しかし、救いとは直接には関係ない。ただ食事に関して、宗教としては聖書にもかなり指示が出ている。その中で、「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」というのは相当強い勧告となっている。我が家でもダイエットに挑戦して何度も失敗を繰り返している。その挫折の一番の理由は、チョコレートなどのお菓子類が決して家から消えてなくならないことだ。買わなくても、誰かが送ってくるし、くれたりするので、誘惑となるのだ。昔、すばらしいご夫妻がおられた。奥様は穏やかな方だが、芯の強い信仰をお持ちで、ご主人様は未信者であったが立派な方で一緒にいても楽しい方だった。そのご主人が、奥様の長い期間の祈りの成果で、バプテスマを考えるようになった。ところが、その当時私が所属していた教派は、酒・たばこを禁じて、菜食を奨励していたのだ。このご主人は酒がめっぽう強くて、酒豪の家系だった。また仕事柄、酒をよくもらうので、家にある酒が無くなればやめようということでは、いっこうに酒をやめる事はできなかった。そこで、神に祈ったのだ。酒を飲まない日は、500円硬貨を献金として貯金箱に入れます、という約束だった。そして、貯金箱に手作りのカレンダーを貼り、飲まなかった日は○、ちょっと飲んだら△、飲んでしまったら×と、印をつけることにした。そして、カレンダーが○でうまったら、バプテスマを受けさせてください、と神に願った。銀行の支店長だったので、毎日のように接待があり、それは酒席であった。そこで、どうやって酒を飲まないようにすればいいのか、悩みになるはずだった。ところが神は、彼を助けた。この方には嫁いだ御嬢さんがおられたが、赤ちゃんが授からなかったのだ。そのために、治療もうけたのだが妊娠しなかったのだ。ところが、お父さんがバプテスマを考えだし、神に祈り、酒を断つ約束をしたところ、奇跡的に御嬢さんが妊娠したのだ。そこで、お父さんは、酒席に出て、「まあ、一杯」とお得意様に酒を勧められた時に、「実は、娘が不妊だったのが奇跡的に妊娠したのだが、まだ無事に産まれるかわからないので、娘と赤ちゃんのために酒を断って無事に産まれるように祈願したので、申し訳ないが酒は飲めません」と言うのだ。そうすると、皆、深く感動して、そうゆうことならばと、逆に酒席にいる人たちに支店長に酒を飲ませるな、とお得意様が言ってくれるようになったので、接待がちゃんとできるのです、と教えてくれた。「神様はすごいですね」と感心しきりだった。さらに、家で晩酌もやめてテレビを見ていると、ビールのコマーシャルが始まる。すると、もうビールが飲みたくてしょうがなくなる。するとこの方は、あの貯金箱を引っ張りだしてきて、お財布からお金を出しては貯金箱に入れるのだ。不思議な事にお金を入れるたびに、あんなに飲みたいと思った気持ちが嘘のように消えてしまうのだそうだ。・・・そして、とうとう貯金箱に貼ったカレンダーに○がみごとに並んだのだ。とうとう、酒を断つことができた。私は家に呼ばれて、行ってみるとその貯金箱のカレンダーを見せてくださった。そして、バプテスマを受けても良いかと聞かれたのだ。勿論、OKした。なんとも、その時の感動は今でも忘れることができない。そして、北国の3月のまだ寒い日に冷たい水でバプテスマをお受けになられた。(サクマ)

 

6月16日(月)

だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。

Ⅱペトロ1:10~11

 

私たちが知りたいことは、クリスチャンになった後に、どのように生活していけばよいかという事です。聖書には、ちゃんと書いてあります。今日の聖書箇所もその一つです。内容は決して難しくありませんが理解することが結構できていない人が多いのです。大切なことは、自分の功績で救われたわけではないので、神の恩寵によっていることを忘れてはいけません。そうであれば、「選ばれた」とか「召された」ということの意味をもっと慎重に考える必要があります。考えるのが苦手な人は、信仰を発揮することです。神に召されて、選ばれた人は、それなりの生き方をしなければいけません。それをすれば、「決して罪に陥りません」と聖書に書かれています。それとは、Ⅱペトロ1:5~8に書いてあります。このことにより、イエス・キリストを知る事ができます。そして、神を知る事になります。これが実践されるなら御国へ入れると書かれています。これだけわかってもすごくありがたちですね。勿論、肉の力でどうこうできる問題ではありません。聖霊のお助けなしにはできることではありません。ですから、聖書かに書かれた通りに、順番に信仰で前に進むことが大切です。勿論、回り道もあるし、遠回りも近道もあります。それらは、あなたの個性と信仰にかかっています。だれでも、間違いのない道は、ここに書かれた方法だと思います。お互い、聖書をあちこち調べながら、御国へと確実に入って行きたいですね。(佐久間)

 

6月17日(火)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

ローマ8:28

 

私たちは創造主にかたどって造られたので、創造性があるようだ。もっとも、美術の時間に絵が上手だったとか、何か工作が得意だったというようなことだけではない。作文でいつも褒められていたという人もいるだろうが、皆がこうした創造的なことで褒められるわけではない。それでも、創造性はある。どこにあるかと言えば、人間関係にあると思う。知らない人の前に出ると緊張するという人が多いだろうが、その程度はずいぶん違っている。しかし、結婚を考えてみれば、知らない人同士が生涯をこの人と一緒に生きると決めるというのだからすごいことなのだが、問題は結婚した後の方だろう。結婚してみると、相手のことで驚いたり、とまどったり、時には結婚を後悔したり、といろいろなことが起こるのだが、それに対して最も適切に適応しようと努める。そして、子供も生まれるし、さらに仕事もするかもしれない。そうした人生の刻々と変わる変化に万能の対応をすることが創造的といえる。もう少しいえば、成長することができるということだ。創造性を拒否すれば、成長することはできない。何しろ成長とはより良く変化すること、いや進化すると言ってもいいだろう。そのように、成長する仕組みが人間にはある。だから上手に成長することが大切なのだ。しかし、大人になると成長が鈍化したり、やがて止まってしまう人も出て来る。もったいないことだ。その中でクリスチャンは、聖書によると神のご計画で召された人なので、「万事が益となるように共に働く」と言うのだ。そこで、クリスチャンに起こる事が時に困難であったり、試練であったりしても、時が立てばそれが大きな恵みに変わり、気が付けば霊的成長を遂げて、キリストに似た者となっているという仕組みがあるのだ。ただ、自由意志があるので、信仰によって聖書に一致するような行動を取らなければならない。もっとも、人間は個性があるので、それをキリストの徳の高さに至らせるには、やはり万事が益となるように共に働かなければできないことなのだろう。そこで、私たちはどんなことがあっても益となると信じて、正しく信仰を発揮していくことが肝心だ。メンターがいれば遠回りしなくてもすむだろうが、聖書が自分の信仰の導き手であり指導者であると思えるようになれば幸いだ。(サクマ)

 

6月18日(水)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

ローマ8:31

 

生きているといろいろなことがあるものです。頑張っても報われないこともあるし、せっかくうまくいっていると思っていても、思わぬつまづきが待ち受けていることもあります。でも、人生は良いものです。自分がどうであるかが肝心です。せっかく信仰を持ったのなら、いつでも正直に、愛情を惜しまず、優しい思いやりを持って生きることが大切です。そうすれば、一生懸命に生きる姿を見ている人が必ず出てきます。そして、損得抜きに目をかけてくれるものです。まだ起こらぬ先から心配や思い煩いで顔を曇らせることはありません。それでも、万が一辛いことが襲ってきたら、今日の聖句を思い出して唱えてください。敵が脅してきても、あなたの味方は一番強いお方です。あなたを優しい眼差しでいつも見守っておられるので、あなたが本当に困る前に助けてくださいます。そして、賢明な神は、あなたの本当の素晴らしい力を引き出すために、時に突きはなし、倒れたあなたがもう一度立ち上がるかどうか見ているのです。そのために、元気になるように最高の贈り物をくださって、勇気を与えてくださるのです。もう一度、言いましょう、あなたには神が味方しています。だれがあなたに敵対できるでしょうか。そうです、だれもあなたを困らせることなどできないのです。「神がわたしの味方だ!」と声を出して、勇気100倍で前に進みましょう。(佐久間)

 

6月19日(木)

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

マタイ10:29

 

人が立派に生きるには、誰かが見ていてくれることが必要だと思う。しかも、愛情深くいつでも味方になって、困った時には必ずそばにいてくれる頼りになる人だ。だれよりも自分のことを期待していてくれて、声に出さなくても「がんばれ、無理するな」と声援していてくれる、そんな人がいてくれれば、人はひどい境遇でも右にも左にも曲がらずにまっすぐ進んでいける。あなたにとって、それはイエスだ。イエス・キリストがどれほど愛情深いお方であるかは一生かけて理解していくだろう。今日の聖句では、安すぎて二羽でなければ値のつかない雀の話がでてきた。雀がとるに足りないものの代表で出てきたが、その雀さえ父なる神は目に留め、心をかけているというのだ。それならばなおさら、我々は簡単には倒れるはずがない。大変なことが押し寄せてきても、へこたれない。信仰を与えられ、祈ることを教えていただいたから神にすがろう。キリスト教の信心が無力であるはずがない。逆にゆとりがあれば、祈らない、御言葉を求めない、ということも人の弱さだ。逆境を跳ね返す力は、祈って、祈って、立ち上がり、決してあきらめい時に身につくものだし、そうやって祈って上より力をいただいた時に道が開けるものだ。幸せに生きるために、隣人を愛そう、自分に関わる人の心をちゃんと見よう。まごころは、いつでも人を癒し、その人の美しさを引き出す奇跡の力だ。まごころとまごころが互いを思い合う時、美しい涙をみることになる。心をほっこりさせることは、あなたの近くにきっとある。(さくま)

 

6月20日(金)

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

マタイ10:42

 

自分を小さなとるにたりない者だと思っている人は、今日の聖句をよく考えてみる必要があります。この聖句は、よく自分が小さな者に親切にすれば報いがあると考えがちですが、キリストの弟子がどのように守られているかを教えています。子供の頃、友達と商店街を通っていた時に、大判焼きを売っている店の前を通ると、その店のおばさんが出てきて、「あなたは○○さんのお子さん?」と母の子供かと聞かれました。それで、「はい」と答えると、優しく微笑んで「ちょっと待っていて」と店の中に戻り、すぐに売り物の大判焼きを持ってきました。そして、私と友達に大判焼きをくださったのです。その方が、母を知っていたからのお恵みでした。母はそのことを報告すると、後でそれ以上のお返しをしたと思います。イエス・キリストも弟子であるということで、あなたに何か親切にしてくれたのなら、その人に報いるというのです。水一杯というのは、わずかのという意味でしょう。しかし、「冷たい」という言葉がついています。そのわずかな親切にも思いやりやまごころがあることを意味します。クリスチャンであるあなたに、誰かが心遣いをしてくれたなら、そして、助けてくれたなら、しかもまごころから良くしてくれたなら、主はその人に必ず報いを与えてくださるのです。だから、あなたは普通の人とは違っています。特別な存在なのです。クリスチャンであるあなたを助けたり親切にするとその人たちは皆祝福されていくのです。そうであるとわかれば、自分がクリスチャンであることを隠す必要はありませんね。キリストの弟子であることに胸を張りましょう。(佐久間)

 

6月21日(土)

恐れをいだくとき/わたしはあなたに依り頼みます。神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。

詩編56:4~5

 

人の悩みの多くは、人間関係からきています。本来は、神によって愛し合うように造られた人間が愛することだけではなく、恨み、羨み、嫌い、憎み、嫉妬、カインのようにしまいには殺してしまいたいとさえ思えるのです。これが罪のせいだと教えられても、それじゃ罪を捨てればいいじゃないかと言えないのです。物ならば捨てることもできますが、目に見えないもので、自分の内側から勝手にでてくるものなのですから簡単ではないのです。幸い、クリスチャンは、イエス・キリストを信じて罪から解放されたはずです。しかし、この世の人々が全員罪の赦しを得たからというとそうではありません。そのために、クリスチャンといえども、人から迫害されたり、脅されたりすることは起こり得るのです。たしかに、自分の周りを見ても、自分の人生を振り返っても、人には「恐れをいだくとき」があるものです。それも、本当に不安で一日中悩まされるような「恐れ」だってあるのです。安直なミステリードラマなら、殺人の動機が「恐れ」であるということが多いようですし、さまざまな「恐れ」が健康まで害することがあるのです。豊作を左右する天候、商売では景気の先行き、そのようなことでも、「恐れ」は生じます。だから、偶像に拝むこと人はあとをたちません。本当の生ける神を知らないからです。あなたは、万が一「恐れ」にとりつかれる事態になったなら、今日の聖句を唱えましょう。心が納得するまで唱えるのです。そして讃美し、祈ってください。神の不思議を味わうことができるでしょう。神が味方であることがわかるでしょう。だから、心配しないで心を強く持ちましょう。信仰で心を強くして困難を乗り越えることができます。弱さが出ても心配いりません。その弱さに主の御力が働くからです。うつむかないで天を見上げて生きましょう。踏みつけられても、ひどい目に遭っても、落ち込むことがあっても、祈って、主により頼み、立ち上がりましょう。そうやって心正しく一途に頑張って生きる人を周りの人は応援したくなるものです。もちろん、主もあなたを信じて応援しているはずです。(佐久間)

 

6月22日(日)

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。

箴言4:23

 

 

自分を見失う、という言葉があるように、人間には感情があるので激してしまったり、ショックを受けたりと、冷静な時にはおよそしないことをして後で後悔することがある。これも、「自分の心を守れ」という戒めを大切にしていれば防げるようになる。また、つまらないこだわりは、意地になり、時に命を落とすことすらある。また、情に流され、何が一番大切なことかを良く考えないで失敗することもある。こうした、人が後で後悔することの原因は、今日の聖句を守らないからだ。「貧すれば鈍する」と言っても、皆が皆そうなるわけではない。自分の心を守る者がいるからだ。そうそう、傷つきやすいと思っている人も、自分の心を守れば、傷つかなくてすむようになるだろう。そうゆう、心を守るということを主に祈って考えてみよう。これは、とても大切なことなので、知恵をいただいて理解したいものだ。ここでは肉の命というよりも、人格の命のことを意図していると理解すれば、もう少し見えてくるだろう。キリストが病人の癒しをされた時に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたことがあったが、それは人格の命のことだった。(サクマ)

 

6月23日(月)

主よ、あなたは必ずわたしを助け/力づけてくださいます。

詩編86:17c

 

人の器量とか器の大きさという言い方があります。小さなことでいつまでも恨んでいたり、怒っていると、器が小さいと言われたりします。クリスチャンも器が大きいか小さいか考えなければいけません。器が大きければ大きいなりの信仰を現し、器が小さければ小さいなりの信仰を現すことになります。器の大きな人間になりたいと思っている人は、赦すということと格闘することになるでしょうし、困難がやってきてもそこでどれだけ辛抱できるかが問われることでしょう。クリスチャンにとって何が正しいことか、ちゃんと考えて行動することを心がけなければなりません。感情の浮き沈みで右往左往するようでは、信仰を発揮することができません。心が動揺するようなことは、めったに起こらないものですが、それでもそのような時に、どうするか問われることもあるかもしれません。そこで、今日は信仰の表し方を一つ学びましょう。それが、今日の聖句です。この御言葉を一途に唱えて信じましょう。自分の言葉となるまで唱えてみるのです。どこかから力がでてくるのではないですか。くよくよしてもつまらない。人生は、主と共にいれば良いものです。主と共にいるというのは、主を信じているということです。何があってもゆらぐことなく信じているということです。大切な事は、主が必ず助けてくださるということと、もう一つ大切なことは、あなたが弱って涙をこらえてうつむいている時に、優しく背中に手を置いて力づけてくださる方が主であるということです。ずいぶん苦労してきたと思っているのなら、あなたはそれらを乗り越えてきたのですから、器も大きくなっているのではないでしょうか。試される時に、せいいっぱい信仰を奮い立たせて、良い余韻の残る生き方をしましょう。(佐久間)

 

6月24日(火)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。

フィリピ1:9~10

 

クリスチャンになったその時から、私たちの人生目標は明瞭です。今日の御言葉を読めば、何が期待されているかわかります。甘えた愛ではなく、甘やかす愛でもない、その人に今何が一番必要なことか見抜くことができてはじめてできる愛があります。人間は一人で生きていないので、自分では想像もつかない色々な事が起こります。良いこともあれば、悪い事もあります。そして思うのです、どうすればいいかと。そんな時、知る力も見抜く力も必要です。本当に重要なことを見分けられるように。神の御目に適う者になるというのは、自分一人だけで清くなろうとするようなことではないと思います。大切な人のことを心配したり、思いやったり、自分の力では助けることもできないかもしれないけれど、祈ったり、想い続けることはできるでしょう。人が本当に欲しいのは、ただ黙って一緒にいてほしいとか自分の思いを聞いていてほしいといったことなのです。時には黙っていてあげることも愛なのです。そうゆうことが自然とできる人になりたいですね。それを聖書は「愛がますます豊かになり」と語っているのです。それなのに、私たちはそれ以上のことをしなければとつい思ってしまうのです。それは余計なことなのに。それで、理解されなかったと相手が怒るかもしれません。だから、本当に重要なことを見分けられるようになりたいのです。そのために祈ることが必要なのですね。祈りましょう。(佐久間)

 

6月25日(水)

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

ヨハネ4:14

 

人が生きるのに必要なものはパンと水、しかし、どんなに腹いっぱい食べてもまた飢え渇きが起こる。そこで、飢えないように、渇かないようにと人間は働くことをやめられない。しかし、アダムの罪の呪いのために、働くことの困難が与えられているために、生きることの苦しさがある。だから、なにかしらの楽しみを見つけようとしてきた。ここには、永遠の命は無い。残酷なことになるからだ。昔は、伝染病の薬が無かったのでいったん伝染病が流行るとたくさんの人が亡くなった。豊かになった現代では多くの病気を治すことができるようになってきたので、長生きする者も増えてきた。しかし、どんなに良い薬が作られても、永遠の命に至る薬は無い。今日のイエスの御言葉は、水をイエスの御言葉と置き換えるとどうなるだろうか。荒野の試みの時も、悪魔に石をパンに変えてみよ、と言われたイエスの答えは、『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(マタイ4:4)だった。水も同様に御言葉なのだが、水をもらうように御言葉をイエスに求めることが必要だし、水を飲むように、御言葉を自分の中に流し込むような経験が必要だ。それは、御言葉の意味がはっきりと分かることだ。聖霊の助けによって超自然的に神に語られることなのだ。そこ神が語られた御言葉は、天地創造の時のように力をもって人の内に創造的な働きをするのだ。そのようなことがあって、人の信仰は飛躍的に成長し、信じることの質が変わり、信じる力が増す。それは、神を知る事に直結しているので、神を愛し、服従する信仰が生まれる。その延長線上に永遠の命があるのだ。霊の命が飢え渇かないように気を付けよう。(サクマ)

 

6月26日(木)

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

ローマ6:11

 

信仰の世界で面白いのは、今日の聖句にみられるように、「○○だと考えなさい」というところです。巷では可能思考とか積極思考とか何事でもポジティブに考えることが流行っていますが、聖書は人間が考えることが重要であることを教えています。クリスチャンになりたての人にとって、パウロの言葉は抽象的に聞こえ難しくてわからない、となりやすいのです。たとえば、今日のところだって、「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」というのです。「罪に対して死んでいる」とはどうゆうことですか?説明するのが容易ではないでしょう。肉欲を避けると言うことですか?やってみた人は、すぐ挫折しているはずです。マジメであれば何度も挑戦するでしょうが、結果は決まっています。なぜうまくいかないかといえば、聖書に書いてある通りにしていないから、ということです。大切なポイントは、①「○○だと考える」、②考える内容は、「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」と。考えるは思うでも認めるでもよいのですが、信仰と結びつけることが肝心なのです。そうすれば、ただ、考えたというより、その件に関しては真理としてゆるぎないものとなった、というような確実性が必要なのです。それにしても、こう考えよ、というのは何も考えなかった人にとっては目からうろこが落ちる経験となるはずです。御言葉の不思議を味わってみましょう。(佐久間)

 

6月27日(金)

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

ヘブライ2:18

 

どんな人の人生にも試練がある。自分があまりに辛い人生を過ごしていると心がいじけてくるかもしれない。そんな時に、周りにだれか一人でも自分のことを思ってくれる人がいれば心を強くすることができるものだ。つくづく人間は愛されて生きるものであると思わされる。しかし、試練の時に本当に救いとなるのは、イエス・キリストをおいて他には無い。子供時代にとてもひどい目にあってそれが人生を狂わせ、障害が残り苦しみの記憶ばかりの人がいる。その人が年頃になり、人並みの幸せをと思うのだが、無残にも苛酷な日々だけが待っていた。この人を救えるのはイエス・キリストしかいない。主イエスの話を聞くとき、受難物語という十字架への恐ろしい道がある。王として生まれてきたはずなのに、そして、天の王子であるのに、罪人を憐み、命がけで救おうとこの地上に人としてお生れになられた主が、どのような試練に遭われたか。クリスチャンは十字架の主を見て、そこに神の無限の愛を発見したのだ。慈しみ深い主の御手が、辛い人生に苦しむ人に伸べられる。主は試練の苦しみをご存じなので、助けることができるのだ。だから、うつむくことをやめて、顔を天に向けて試練に打ち勝とう。信じる者に勝利は近い。(サクマ)

 

9月29日(日)

優しく語る唇は説得力を増す。・・・・親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。

箴言16:21,24

 

さて、やっかいなことですが、人を説得することになったらどうしますか。聖書の教えはわかりやすいです。「優しく語る」ということです。私たちはついつい熱が入り、なんとか説き伏せようとしてしまう傾向がありますが、決してうまくいかないでしょう。力関係が明確にあれば、上の者の言葉に下の者は従うそぶりをみせますが、本心はまったく納得していないでしょう。そこで、クリスチャンは、説得したければ「優しく語る」と自分に言い聞かせておかなければなりません。もっとも、箴言は「知恵ある者」のなせる業としているので、知恵を神に求めることも怠ってはならないのですが・・・。もう一つ、大切なことですが、「親切な言葉」の素晴らしさを聖書は教えています。魂に甘い言葉とはどんな言葉でしょう。思いやりにあふれた言葉でしょうか、愛情がにじみ出ることばでしょうか、それとも心にしみいる言葉でしょうか。結局、イエスのように人の心によりそうことのできる覚悟がある人の誠実な思いのことでしょう。時には相手の心情を察して、無言の言葉で愛を語ることもできる人になれたらいいですね。「優しく語る」、「親切な言葉」、この二つを大切にすることにしましょう。(佐久間)

 

6月30日(月)

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

ローマ12:2

 

クリスチャンになり何が一番変わったかといえば、それは心だと思います。はからずも今日の聖書の御言葉にも、「心の一新」ということばが使われています。いつも悲しんでいる心、いつもおびえている心、いつも心配している心、いつも貧しい心、いつも自分に自信のない心、こんな心でいれば、その人生がどのようなものであるか、想像がつきます。日本人の心は不安の傾向がとても強いそうです。そのために、新しいことが苦手です。今までのやり方を新しく変えることには反対したくなるのです。人間関係もそうです、はじめに他人への不安があると否定的にしか心は反応しなくなるのです。人生には良いこともありますが、悪いこともあるものです。順境の時には楽しめ、逆境の時には考えよと聖書は知恵を語ります。でも、恐れの心や不安の心があれば、逆境に負けてしまうでしょう。「考えよ」とは、逆境に負けずに勇気を出して乗り越えるのだ、と教えているのです。さて、今日の聖句へと戻れば、クリスチャンがこの世と一線を画していることに目が行きます。皆と同じというわけにはいかないこともあるのです。今の世の中では、「何が良いことで、神に受け入れられ」るのか、だんだん分からなくなってきています。小さな世界にいて、そこだけの知識で聖書の真理とはこうであると、いってみてもしれているのですが、広く学ぶことがなければ知る事はかないませんから、知らない事は全否定で、自分だけが正しいとするような愚かなことが簡単に起こります。だからと言って、正しい知識を広くまなぶということは容易ではないのです。そこで、神の方法を考えてみると、ここに書いてあるように、「心の一新によって自分を変えなさい」ということに尽きます。人は自分を他人にさらして生きているので、他人はその人を見ています。その人の意見や立派な主張ではなく、その人のようになりたいと思えるかどうかを見ているのです。それを忘れて、自分は正しいといえば、いきおい、自分を認めない者を裁くしかなくなるのです。キリストの愛とは全く違うものがそこに生じているのに、気がつかなくて淋しい思いをすることになるでしょう。足りないのは、「心の一新」であると、素直に認められるのなら、御言葉の力を知る事ができるのです。人はキリストのおかげで変わることができます。その人は、もう迷わなくなるのですが、へりくだることからはじめられたらきっとうまくいきますね。(佐久間)