2014年7月

7月1日(火)

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

ヨハネ8:12

 

人が迷っている時とは、悩んでいる時のことです。なぜ人は迷うかといえば、キリストという一本道を歩んできたはずなのに、他の事を考え始めると枝道がいくつも出て来るのです。それが迷いです。そんな時は、イエス・キリストを見つけてください。それが正道です。イエスを探してもわからなくなった、と言う人は今日の御言葉をよくよく考えてみましょう。私は聖霊で祈ると、ビジョンが見えるのですが、クリスチャンの人は、たいてい光の中を歩んでいます。暗闇が深く濃く見えても、光の道はくっきりと明るく光って見えるのです。心がくじけそうな時は、うつむかないで天を見上げ、イエス・キリストを探しましょう。あなたはきっと見つけることができます。そうすれば、枝分かれしていた道が不思議と一本道になっています。それはあなたがクリスチャンになった時に、歩み始めた光の道です。この世のことで思い煩えば、暗闇に足をとられてしまうでしょう。あなたは、この世の栄達のために生きているわけではありません。でも、高い目標をもって、あたかもマラソン競技に出場したランナーのように、勝利の栄冠を目指して走り出したのです。どこを走ってもいいということではなく、ちゃんとコースは決まっているものです。それはゴールにつながる一本の正道なのです。だから、競技者が迷わないように、白バイが先導してくれます。それと同じように、キリストが先導してくださるのです。この世の暗闇に光の道が一筋天に向かって伸びているのです。その道をあなたは歩んでいるところです。このことを覚えていれば、暗闇を歩くはずがありません。困難があっても、あなたは「命の光」を持つ光の子ですから乗り越えていくことでしょう。ゴールでお会いしたいものです。(佐久間)

 

7月2日(水)

わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。

イザヤ48:12

 

私たちの神は、他の神々とどう違っているのか、その答えはここにあります。物事には必ず初めがあるのです。辛いことや嫌なことが起こっても、必ず終わりがあります。だから、耐えることができます。無期懲役という刑がありますが、終わりのない刑です。しかし、死をもって終わることができるし、その前に釈放になることもあります。人間は生まれて、生きて、そして死にます。すべてに初めがあり、終わりがあるのはなぜか、それはその創造者が初めであり、終わりであるからです。つまり、すべてのことが創造主によって支配されているということです。悪魔が天に背こうと、攻撃を仕掛けようと、神の支配の中にいることは絶対で、その支配を逃れることはできません。だから、クリスチャンになって、救われた人たちは、この世の偶像と真の神を一緒に考えてはいけないのです。木や石、金属など人の手によって作られたものや、自然物を神としている考え方と聖書の神とでは、全く異なっているのです。人間が造り出して拝む偶像は、生きていないので何もできません。そのために初めがないのです。それゆえ、終わりもありません。つまり拝んでも何も起こらないということです。だから、ぐるぐる回る堂々巡りのようです。そして、重要なことは、私たちが天地創造から始まる物語を知っているように、初めがあり、またイエス・キリストが再臨することを預言されたように、この世の終わりがあるということです。それを実現させるのが生ける神なのです。クリスチャンにとっては希望である再臨が起こる理由として、神が「初めであり終わりである」ということがあげられます。つまり、神はこの人間の物語を完結させられるということです。その神が、あなたの成長と完成を実現させるべく導いておられるのです。安心して今日も元気に生きましょう。(佐久間)

 

7月3日(木)

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。

エレミヤ17:7,8

 

人間に信頼を置く人と主に信頼する人の違いを聖書は明確にしています。上記の聖句の通りです。人間は、少しの困難でもすぐに気落ちして、否定的にふるまう傾向があります。その時、何かよりどころのある人と、無い人では雲泥の差があります。クリスチャンにとっては、勿論、イエス・キリストをよりどころとし、絶大な信頼を寄せるわけですが、そこがどの程度徹底しているかどうかを考えてみてください。この信頼が信仰のことを意味しているわけです。不思議なことですが、人間は樹木を見ていることがすこぶる良いことなのです。都会に住んでいると、木を見て感動するといったことに乏しいでしょう。でも、季節ごとにうつろう木々の様子を意識して観察してみると、自分の心と体に良い影響を与えてくれることにそのうち気が付くでしょう。そして、木々が植えられた場所でずいぶんと様子が違っていることや成長にも差が出ていることにも気が付きます。そして、聖書を読むと、人間がどうすれば祝福される人生を送れるかをちゃんと書いてあって、そこには、今日の御言葉のように「水のほとりに植えられた木」として描かれているのですが、それは、主に信頼する人を意味していると教えているのです。不況になろうが、どんな困難な時代にろうが、ふりな条件で挑戦しなければならなくても、主に信頼する人は、祝福されるのです。この一つのことを心に覚えて、実行してください。あなたは、祝福された人生を手に入れているはずです。(佐久間)

 

7月4日(金)

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ 

主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。

詩編91:1,2

 

隠れ家という言葉には、なにかワクワクさせるものがある。人は時にこのような場所が必要なのだろう。「○○の隠れ家」といった名の雑誌まである。たいていは、気の利いた居酒屋や寿司屋のような飲食店だが、ひなびた旅館や秘湯など、男のロマンを刺激するような所を選んでいるようだ。さて、聖書で隠れ場と出て来るなら、それはかなりシリアスな場面での話になる。命の危機であることも珍しくない。また、人生の大きな試練のただなかで八方ふさがりになった場合などにキリスト者は神にすがって祈るものだ。その時に、天の助けを得ることができるのだが、その場面で主の隠れ場が登場するのだ。だから、キリスト者は行き詰らない。困窮しても助けが届くのだ。悪魔が攻撃してきたとしても、主が逃れ場なのだから、悪魔もどうすることもできない。また、「全能の神の陰に宿る」というのは、決して困難から逃げると言う意味ではない。恐れや不安に混乱していた人が、主のもとへ逃げ込む(祈る)時に、賢明な主は、第一にその人の成長を考えておられる。だから、身体的危機などの緊急避難はあっても、いたずらに甘やかすことはしないものだ。その人に乗り越えていく力があると見極めたなら、突き放すことだってあるだろう。しかし、弱り果てて倒れそうになっているのなら、すぐに労り、休ませてくださることだろう。心の嵐を静め、落ち着いて考えることができるようにしてくださる。時に、信仰を励まし、主にゆだねることを促す。自分でするべきことは、励まし、力を与え、助けてくださる。自分ではできないことは、主がなさってくださる。この主の隠れ場は、恵みの座なのだ。主の愛のふところへ飛び込むことだからだ。これには敵も何もできるわけがない。あなたが、この世で勝利できる理由がここにあるのだ。(サクマ)

 

7月5日(土)

あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。

ルカ12:25,26

 

人間は悩むことが好きだ、といいたくなるほど何でも悩む。友人と一緒に食事に行けば、まず店選びで悩む。レストラン街などに行ってしまえば、一巡りして全部の店に目を通す。そのあげく、決まらずに二周目にはいる。もしかしたら、一周したので、はじめの方の店のメニューを忘れたのかもしれない。三周目に入ると、陸上競技のような気がしてくる。いいかげんに決めようと言えば結局、蕎麦屋に入ったりする。「そうか、君はベジタリアンだったんだね」と、冷たい目をして言う。「それならば、はじめっから蕎麦屋に入ればいいじゃないか。二周しようが三周しようが、メニューはかわらないよ」といいそうになり口を押える。とにかくいつもの事なのだ。何で学習しないのだろう。きっと悩みたいのかもしれない。そんなことを考えながら、メニューを手にするが、ここでも悩む。あまりに迷って、店を替えようかと立ち上がりかけるが大人の自制心を働かせてかろうじて踏みとどまる。何が問題なのかと思えば、彼は老眼の目を細めたり、見開いたりして、メニューのシミのように見える細かな字で書かれたカロリーを調べている。食べたいもののカロリーが高いので、カロリーの低いものを見ているらしいが、それは食べたくないようだ。このように、人間は何でも悩むことができるが、たいていのことはどうでもいいことなのかもしれない。それでも、深刻な悩みというものもあるだろう。例えば寿命だ。若いうちは全く考えない。勿論、例外もいる。小学生で死を恐れている人もいる。僕のように。入院している大学病院の病室にうっかり医者が来ると、「やぶ医者」と言っていた。それだけ寿命と戦っていたのだ。まあ、健康な人は寿命という字すら書けないかもしれない。しかし、年齢がすすみそろそろ成人病の心配が出て来るころから死の陰が気になりだす。医者が難しい顔をして「ガン・・」とでも言おうものなら、めまいを起こし、たちまち20キロぐらい痩せてしまうだろう。「先生、死にたくありません」と泣きつくと、医師は「いやいや、がんばれ」と言いたかっただけですよ」と言うが、一度芽生えた疑いは容易には消えないのだ。「隠している、次にきっと奥さんに話がある、と言い出すにちがいない。いったい寿命はあと何年、いやあと3か月かもしれない。テレビドラマではそうなっている。どうしよう」と、うなって悩むのである。しかし、イエスは一番大切だと思った寿命の事すら、「ごく小さなこと」と言ってみせる。そうだ、世の中命にまさるものなどないじゃないか。つまり、どんなに頑張ろうが悩もうが、寿命を延ばせないのなら、他の事も悩んでもしょうがない、だから悩むなと言っているのだ。結局、悩むよりイエスを信じよう。いつだって、イエスは信頼にみごとに答えてくれるじゃないか。イエスにできないことなどないのだ。僕たちを救うために命すらも惜しまなかったのだから。そして、驚くべきことに死んだのに墓からよみがえってでてきたのだ。それを見たら、たぶん、心臓発作で倒れて死んでいただろうから、縁起でもないので、僕は2000年後に生きることになった。イエスは、死を打ち破り、「イエスを信じれば、死んでも生きる」ということを証明してみせた。もう寿命なんて本当に小さなことだ。死はイエスによって破られたのだから。そうだ、こんなに心強い味方がいることを忘れてはいけない。イエスの恵みに生きよう。感謝して、すべてのものを楽しもう。今日は、良い日だ。(さくま)

 

7月6日(日)

あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

ルカ12:29,30

 

現代の若い女性はスリムでスタイルのいい人が多い。どんな食生活を送っているのか気になるが、私の娘もスリムな体型を維持しようと食生活に気を使っているようだ。できるだけ健康的な食生活を守っているので、何でも食べるというわけにはいかない。子供も生まれたのでそれは大いによいことだと思う。それが、先日、娘の家に行った時に夕食をごちそうになったのだが、なんと宅配ピザだったのだ。それに、おかずも出来合いのものを買ってきたので、ふ~ん、と思った。もっとも、娘は二番目の子供を授かり、つわりだったのでしかたなかったのだが・・。さて、昨日のディボーションを読まれた方は、食べ物で悩むことの話を読まれただろう。ビジネスマンで成功したければ、意思決定が速やかにできることが大切となる。しかし、すぐに決めるという習慣を日ごろから訓練していないと優柔不断と思われ、決していい事ではないのだ。それで、レストランでメニューを渡されたなら、すぐに注文する品を決める訓練をする。毎回するのだ。あれにしようか、これにしようかなどと迷っていられない。メニューを開いたら電光石火、「これ」、となにか指さして注文してしまうのだ。運が悪くても、シェフおすすめプチサラダ(量が少ないので前菜に最適)かなにか食べられるものがあたると思う。表紙と裏表紙を間違うとデザートを注文してしまうかもしれないので、注意しよう。瞬時に判断できる力がつくはずだ。しかし、つい迷ってしまったらどうしよう。その時には罰を与えるのだ。手首に輪ゴムをはめておく。そして、注文で迷ってしまったなら、その輪ゴムを思いっきり引っ張って、離すのだ。バチ~ン!この時、声は出さないように。それと、一切の責任は負いません(でも、これは専門家が考えた方法なのです)。もし、イエス様がこう教えていたなら、クリスチャンはみんな手首に輪ゴムをつけていたはずだが・・・。「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」とイエスは教えられた。家庭の主婦はこれをどのように聞いたのだろうか。毎日、「今晩は何を食べる」と聞かれるからだ。スーパーに妻のお供でカートを押していきようようと進むと、あの言葉を聞くことになる。「今晩は何を食べる」、すると、目をつぶり何か手近な物をつかみ、「これ!!!」っと言って・・・みたい。本当にそんなことをしたら、数日間は絶食の憂き目にあうだろう。さて、天の父はあなたに一番必要なものを毎日ちゃんと備えてくださる。だから、心を天に向けて「ありがたい、ありがたい」と感謝して生きよう。最高の恵みの中であなたは生きることになっているのだから。思い悩んで天からの恵みを台無しにしてはいけないのだ。(さくま)

 

7月7日(月)

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。

ヤコブ5:7,8

 

今、田んぼの稲がどうなっているかご存知ですか。梅雨の雨を受けて大きく育ってきました。晴れ間には、緑のジュータンといいたくなるようなよく伸びた美しい葉が太陽の光に照らされてワクワクする光景を見せます。雨が降りすぎるのは困りますが、やはりこの梅雨時の雨も稲には必要なのです。実際のところ、農夫は実りを待っています。その期間は決まっているので、時を見ています。聖書は、現代人に預言します。「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」と。雨は聖霊降下を意味し、秋の雨は前の雨とも言われ、ペンテコステの聖霊降下を指しています。これはヨエル書の預言の成就ですが、大切なことは、秋の雨が降り始めて雨季が始まったということです。それは、春の雨、つまり後の雨が雨季の最後を知らせる雨であるように、現在に至るまで聖霊の雨は降り続け、再臨直前まで聖霊は降り続けるということです。そして、春の雨が降れば、つまり最後の聖霊降下が終われば、あっという間に主の再臨が成就するのです。そして、それは迫っているはずです。皆が油断している時に再臨が起こるからです。そこで、備えをしなければなりません。裏表なく、正しく生きることです。主に心を向けていることをいつも確かめて、聖書に書かれていることを調べ、聖霊の豊かな交わりを求めて祈り、主の愛に生きることを努めるのです。それが「忍耐しなさい」と言っている意味です。「尊い実り」とは、キリストの徳の高さに成長したクリスチャンであり、救われた人の尊い魂のことです。ですから、聖霊を通して神の愛を知ることに信仰を用い、人への思いやりや親切を心がけること。また、自分の使命を見極め、献身していけば、天からの助けも期待できるのです。キリストの弟子として、今日も元気に生きましょう。(佐久間)

 

7月8日(火)

主がそのとき、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは。」

民数記22:28

 

我が家のプリンターは、よく重労働に絶えている、と思っていたら、最近、話すようになってきた。たとえば、バイブル・カレッジの授業DVDのレーベルを印刷すると、「ななこ、ななこ、・・・」と言っている、かと思えば、「ななちゃん、ななちゃん、・・・」と言い出し、今度こそ、良く聞いてみようと新しいDVDを印刷してみると、「ななちゃん一緒、ななちゃん一緒、・・・」と言い出すしまつだ。いよいよ幻聴まで聞こえるようになったのか、と疑うが、本当にしゃべっているので驚く。よく、インコや九官鳥が何か話しているが、家のプリンターも負けてはいない。これで、朝、印刷したら「おはよ~・おはよ~・・・」とか言い出したら、どうしよう・・・。いやそれよりも、「お前の人使いが荒いから、ガタがきてしまった、慰謝料よこせ」とか言い出しかねない。そういえば、聖書にもロバが話し出すところがある。基本的に動物は話さない(動物語が話せるという人はいるが・・・)しかし、もし人間の言葉が話せたらなんと言うのだろう、と思わせるのが今日の御言葉なのだ。この時、ロバは抜身の剣を持った御使いを見たので、恐れて道をそれようとしたために、主人に叩かれたのだ。もちろん、その主人には御使いが見えなかった。私たちも主の御心に反したことをしようとすると、それを止めようと御使いが現れるかもしれない。その時、見えなければ、最悪の結果が待っていることになるが、どうも見えそうにない。聖なるものが見えるには、自らもまた聖なるものとなる以外にないだろう。それに、人間の言葉が話せない動物などにも愛情深く気を付けて接する必要がある。窓の外では、鶯がホーホケキョと鳴くのをやめて、「ピーちゃん、ピーちゃん、ピーちゃん・・・・」といつまでも自己アピールを繰り返している。思わず、「わかった、わかった、ピーちゃんがなんだっていうの?」とつぶやいてしまう。いつか、昔話のおじいさんのように、可愛い小鳥に「親切なさくまさん、いつもありがとう」とか言われてみたいなぁ。(さくま)

 

7月9日(水)

思慮深い人は災難が来ると見れば身を隠す。浅はかな者は通り抜けようとして痛い目に遭う。

箴言22:13

 

思慮深い人になるか、浅はかな者になるかは、実は選択できます。そうでなければ、聖書の箴言に書く意味がありません。箴言を読んで、人間の正しい生き方を身に付けようとするのは大切なことです。しかし、自分の価値観を優先させて読むと、正しい意味を理解することができません。こう考えてみましょう。今までに遭遇した災難は事前に避けられなかったか。もう少しいえば、身を隠して逃れられなかったのだろうか。災難が襲って来る時に、逃れてはいけないとどこかで思っていなかっただろうか。そして、なんの勝算もないままに、正面突破を決行して痛い目に遭わったのではないか。聖書の面白い所は、災難が来るとわかれば、一目散に身を隠すことが良いと教えていることです。そして、災難に敢然と立ち向かっていけば当然痛い目にあうことになるが、それこそ浅はかな者のやり方だ、というのです。なんとなく、桜の散り際を潔いと評価する日本人としては、納得がいかないかもしれませんが、特別警報が発令されて、いち早く避難することは人命にかかわることであると理解すれば、聖書の御言葉の正しさが分かると思います。この知恵は、自分の人間関係にも仕事のことでも適用できます。さて、過去に痛い目に遭ったことのある人は、知恵を得て思慮深い人として生きることにしましょう。(佐久間)

 

7月10日(木)

王はツァドクに言った。「神の箱は都に戻しなさい。わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように。」

サムエル記下15:25,26

 

偉大な王ダビデも、罪と無縁というわけにはいかなかった。クリスチャンになっても、罪と関わりなく過ごせるとはかぎらない。ダビデは、子供の事で苦しむことになった。父と息子の問題であり、腹違いの兄弟の問題でもあった。聖書は、およそ人間が遭遇する深刻な問題を明明白白にさらけだす。その役者として今日はダビデ王が登場した。ダビデは息子のアブサロムにクーデターを起こされたのだ。今や、勢いに乗ってアブサロム軍が都エルサレムに近づいている。一刻の猶予も無い。ダビデは歴戦の勇者に囲まれていたが、息子の謀反を聞くと城を明け渡すことを選択した。そして、今まさに忠実な兵士と共に都落ちしようとしていた。この時代の内閣に祭司も入っていたために、祭司ツァドクも聖所から神の箱を持ち出し、ダビデ王に同行しようと兵士たちの通り過ぎるのを待っていた。そして、今日の聖句に続くわけだ。この時のダビデの言葉が書かれているが、これは見逃せない大切な言葉である。ダビデは神を信頼していたが、クーデターが起こった。それも息子のアブサロムが引き起こしたことだった。そのアブサロムの参謀はアヒトフェルだった。アヒトフェルはバト・シェバの祖父であり、ダビデ三十勇士の一人でもあった。その勇士の仲間に年若いウリヤがいた。そして、ウリヤはバト・シェバと結婚したのだ。しかし、ダビデはウリヤが戦地で戦っている間にその妻バト・シェバと姦淫の罪を犯してしまった。それがそもそもの不幸の始まりとなった。性の罪はダビデ一人への天罰ではすまなかった。バト・シェバとダビデの間にできた子は、死ぬこととなった。それで罰が終わったということではなかった。ダビデが一番愛した長男が異母妹を力づくで自分のものとし、汚してしまった。その彼女には同じ母の兄がいた。それが今回クーデターを引き起こしたアブサロムだったのだ。ダビデの苦悩が目に浮かぶ。アブサロムをここまで追いつめたのは自分だと思っただろう。だから、無血落城をいち早く決めたのだ。しかし、時は戦国時代、いくつもの修羅場を勝ち抜いてきた兵どもがダビデの周りを囲んでいた。決戦を望めば、勝機はダビデにもあっただとうが、ダビデはすべてを明け渡して逃げ出した。その真意は、今日の聖句に出ている。彼は、アブサロムと戦いを避けたが、神とは違っていた。神が自分を王とされた。そして、その期待に応えてイスラエルを平定し、統一王国を築き、イスラエルの歴史に残る最大領土を手にすることになるのだが、小さな心の緩みから犯した罪は、大きな罪となり、罪は際限なく野火のように燃え広がってしまった。ダビデは思う、「神は私を捨て去ったのか、それともまだ私に望みはあるのか。それを見極めよう。そうだ、いずれにしても主の御心がなるように、それを受入れることの覚悟をしよう」。「主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」。この信仰がダビデを逆転勝利へと導くことになったのだ。ただし、もっとも辛い息子の死をもって。あなたは、神を信頼しているだろうか。身に起こるいかなることも、神を信頼して受け入れられるだろうか。主は、あなたが思っているよりよっぽどあなたを愛しておられる。だから、主はあなたの道を祝福するご計画をちゃんと用意されていることを信じよう。(サクマ)

 

7月11日(金)

「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

ルカ14:34-35

 

もし、あなたが乗っていた飛行機が亜熱帯のジャングルに不時着したとしよう。奇跡的に生きていたあなたは、救援隊が来るまで飛行機の中で待つことにした。しかし、いくら待っていても助けが来ない。食べ物は飛行機に残っていたわずかなビスケットとペットボトルの水だけだった。いつ来るかもわからない救助隊を待ちながら、あなたはいったいこんな時には何が一番必要か考える。エアコンの動かない暑い機内で、熱中症予防には塩が欠かせない、とテレビで言っていたことを思い出す。それで考える、「塩と金ではどちらが価値があるだろう」。「今までの私なら迷うことなく、金だと答えるだろう。だが、文明の無いジャングルの中では、生きるために価値が本当にあるのは、塩だ」。「待てよ、日本の社会でもやはり、生きていくために必要なものは塩の方だ」。「同じ重さでお金に換算すれば金の方がはるかに価値があるだろうが、人間が生きるためには無くても困らない。しかし塩は無くては困る」。「こんな重要なことにも気が付いていなかった」となにかとても大切なことが分かったと思った。塩はあってあたりまえ、だれでも簡単に買えるだろう。このありふれた塩こそ、私たちを象徴していないだろうか。塩は、普段はその価値を軽視されているが、本当はとても大切なものだ。その役目が命にかかわる重要なものであるから塩は貴重なのだ。そして、あなたも塩のような存在であることを覚えてほしい。間違っても金と比べて嘆くようなことは愚かだからしてはいけない。他のものと比べてもしかたがない。あなたがユニークなのは意味があるのだ。もっと自分に自信をもとう。イエス様は、きっとそのことを言いたかったのではないだろうか。自分の個性を大切にして、自分の役目を忠実に果たせば良い。しかし、自分がほかの人と違っているから、ダメだと嘆いていては、あなたの個性が生きないどころか死んでしまう。「塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか」とイエス様も言っておられるじゃないか。塩だからいいのに、自分は塩辛いからダメなんだと嘆き、違うものになろうとすれば、それは塩でなくなるので捨てられるということだ。あなたの塩気がいいのだ。「確かに塩は良いものだ」とイエス様も認めておられる。だから、あなたはすばらしい存在であることを認めよう。そして、塩であることに誇りを持とう。塩に徹すれば、「良い塩だ」と皆が褒めてくれるだろう。それがあなたの真の姿なのだ。だから、自信を持って自分の個性を生かそう。(佐久間)

 

7月12日(土)

主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。

詩編14:2

 

この詩編14篇のはじめの言葉はこうだ、「神を知らぬ者は心に言う/『神などない』と」。この箇所を読めば、クリスチャンは妙に納得してしまうだろう。自分の周りの人にクリスチャンになって、理解を求めると意外な反応が起こるからだ。つまり、冒頭の言葉と同じような反応が返ってくるからだ。神を知らないということと、神を知るということの間は深淵の淵があるようだ。だから、それらの人びとを救うためには淵の梯子をかける必要がある。それがキリストの十字架なのだ。『神などない』と言っていた人が、今はクリスチャンになっているとすれば、そこには何かがあったはずなのだ。実は、その答えが今日の御言葉にある。神は探しておられる。「目覚めた人、神を求める人はいないか、と」。ありがたいことだ。そのおかげで、救われたのだから。では、神を知らぬ人が、目覚めたり、神を求めたりするようになったのはどうしてだろうか。理由の一つを確信をもって応えられるが、神を知る人と出会ったからだと思う。つまり、それはクリスチャンとの出会いという意味だ。そこで、あなたも神を知る人であることを覚えていてほしい。あなたの存在が、奇跡を起こし、『神などない』と思っていた人を目覚めさせ、神を求める人へと変えることになるかもしれないのだ。考えればワクワクする。目先の事にとらわれることなく、天から見下ろすような目を持つ事だって必要なことなのだ。この先、何が起こるか楽しみにしていよう。(サクマ)

 

7月13日(日)

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。

ルカ1:5~7

 

このような書き出しが好きだ。祭司ザカリアとその妻エリサベトは、「非のうちどころがなかった」。聖書にこのように書かれることが如何にすごいことかわかるだろうか。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守」っていたというのだ。主の掟と定めがいかに多かったか、そしてそれを完全に守る事がいかに大変だったか、しかも、非のうちどころがない、といわしめるほどのものであるとは驚く。今日、「信仰による義」が強調されて、「信仰による行い」が軽視されたり、律法があたかも廃止されたように思っているクリスチャンは少なくない。キリスト自らが「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17-18)と告げられたのだ。しかし、律法主義者のようになれとは言っていない。ここに出てきた、祭司夫妻のようになりたいと思うだけだ。この夫妻こそがやがてバプテスマのヨハネの両親となる人物なのだ。今日の御言葉をもう一度見て見よう。「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」と、ある。人間的にみれば、少し辛く淋しいこのようにも思える。しかし、聖書の他の箇所にも同じような夫婦が出て来る。信仰の父アブラハムの妻サラも不妊だった。だから、神の奇跡で生まれた子供が約束の子イサクだった。このイサクはイエスのひな型で、イエスが生まれるはずもない乙女から聖霊の力で生まれた奇跡を預言していたのだ。また、最後の先見者、偉大な預言者サムエルの母もまた不妊の女だったが、神への心を注いだ嘆願がかない奇跡的にサムエルを産んだのだ。だから、不妊は悪いことではない。何かしら神の特別の計らいがあるのだ。ただ、人間にはわからないだけだ。同じように、人間の常識では残念ながらもう希望が無いという状況になっても、クリスチャンは神を知っているので、何か超自然的なことが起こる可能性が残っている。そこで、信仰を失わない事が大切だ。信仰は、いつでも人にへりくだりを生む。神に対する絶対的な信仰だ。そこには高ぶりは全くない。自分の願いどおりにという思いも消え去る。ただ、あるがままに主にお仕えしたいとの思いだけだ。そうなるまでに、ずいぶん時間がかかるかもしれない。気が付けば年寄りになっているかもしれない。しかし、「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがない」という、ところまで到達しているなら、なんとさいわいなことだろう。あなたは、その道を究めるために信仰によって歩んでいるのだ。そして、やがてあなたも主の御心のままに、奇跡を生み出していることだろう。(サクマ)

 

7月14日(月)

高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

Ⅰテモテ6:17

 

富の問題は、不確かなことだ。億万長者が一生そのままで過ごせるかどうかはわからない。お金に執着する人は一生お金で苦労するものだ。それでもお金は人の思いを惹きつける。クリスチャンにとって、このお金の問題をちゃんと学ぶことぐらい重要なことはない。しかし、驚くぐらい、聖書で学ぶことをしない。それならばと信仰者のための富について教えている最高の教科書を配っても、その価値がわからないのか学んだ形跡がない。信仰の父アブラハムは富を追及しなかったが神への畏れをいつでも持っていて、人間に神が介入した時にだけ起こる奇跡を信じた。それ故に義と認められたのだが、彼の人生は何をしても富が増え続けたのだが、それで神と富に兼ね仕えるということはなかった。もし、大きな富を手にした時に神ではなく富に頼ってしまったなら、聖書に名を残すことはなかっただろう。つまり、富を数え、計算し始めたらということだ。クリスチャンは、この世の人と同じ感覚で富を考えていてはいけない。それは信仰ではなくなるからだ。今日の御言葉で大切な所は下の句の方だ。「すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」。なんと肯定的な言葉だろう。信仰者が人生を幸せに生きてもなんら不思議ではない。その根拠がこの世の成功や富や単なる幸運ではなく、信じる神によるのなら、実にその生涯は恵まれたものになる。何が起こっても慌てる必要がない。神を信じると言っても、100パーセント信じるのか、それとも50パーセントなのかでは当然違ってくる。アブラハムは100パーセント信じたので義と認められたのだ。あなたはどうだろう。「すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神」を信じているだろうか。望みを置いているだろうか。まずは、ここから正しく理解できるように祈っていこう。(サクマ)

 

7月15日(火)

何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。

フィリピ2:14

 

耳に痛いことが聖書に書かれていると、その通りと言って素通りするか、少し心を痛めて苦い顔をするか、まったく無反応に過ぎようとするか、いずれにしろ従いたくない事には関しては無視をするのだ。これはすごいことだと思う。なぜなら他の事には守るようにと力説するからなのだ。キリスト者の中には聖書の通りに生きることを公言する者もいる、またパウロの「信仰による義」だけではだめだと正しい行いを強調をする人もいて、そのような人は不思議と教会の中ではよく問題を起こし、困った人と思われていたりする。人間とはなんともやっかいな存在なのだ。では、今日の聖句を見てみよう。短い聖句だが、実は聖書の中でも極めつけの重要聖句なのだ。なぜならば、この聖句の続きに理由が明かされている。「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(2:15,16)。どうであろう、すごいと思わないだろうか。クリスチャンが目指しているゴールそのものではないだろうか。江戸時代には、商家には、丁稚がいた。そこで、子供時代からしつけが始まるのだ。そのしつけはとても厳しい。だから、それに耐えると、すばらしい商人が出来上がる事になる。つまり、目指すものになるには、しつけが必要なのだ。それは小さな子供から始めなければ身につかない。そこで、聖書もクリスチャンになるということを新しく生まれるといったりするのだ。新生した小さな神の子供になって、一からしつけていただき、キリストのような人に成長することを目指しているのだ。そこで、信仰で歩むことのできるようになった人は、ぜひ、今日の御言葉を覚えて実行しよう。昔の丁稚も同じようにしつけられたので、一人前になれたのだ。クリスチャンも同じだ。この課題がしつけられたなら、清い者と呼ばれるだろう。その価値が達成したらよくわかるだろう。(サクマ)

 

7月16日(水)

あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。

Ⅰコリント10:27

 

牧師になって一年目のことである。インターンの私を主任牧師が連れてある人の披露宴に出席することになった。その披露宴で、和洋中のごちそうが次々に運ばれてきた。その頃所属していた教会では、菜食主義を奨励していたために、精進料理のような魚や肉を使わない食事をしていた。それは厳格にしつけられていたので、この披露宴の豪華な食事にとまどった。主任牧師はいったいどうされるのだろうかと、料理に手を付けずに主任牧師を見ると、なんとパクパクと食べているではないか。普通の人が聞けば、ばかばかしい話なのだが、牧師は聖職者で信徒の模範となるべきと教えられているので、なぜ野菜だけを食べないのかと思ってしまったわけだ。しかし、今日の聖書箇所も勿論知っていた。そこで、この披露宴が未信者のものであることを思いだし、「自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」という教えを実践しているのだと考えた。それで、納得して食べた食事はどれもとてもおいしいものだった。その後、正式に牧師に任命されてもしばしば未信者と食事する機会に恵まれて、その時に相手がつまづかないように相手の良心のことを考えて食事をいただくようになった。しかし、信者さんからもいろいろなものをごちそうになってきた。ウナギも寿司も、なんでもありだ。昔から日本人が食べてきたものをあたりまえに食べることは悪いことではない。食文化の歴史は軽視してはいけないからだ。お隣の韓国のクリスチャンもキムチを食べる。フィリピンに住んでいた時に、6棟のアパートに実にたくさんの韓国人牧師の家族が住んでいたが、シーズンになると、白菜を山ほど市場で買ってくる。そして、大きなカゴになにやらいろいろと干しているのだが、それがキャンパスの芝の上に所狭しと並べるのだ。一体ここはどこかと思ってしまうほど、自国の生活をそのまま行っているのを見ると、文化ということをとても興味深く感じた。アフリカの人達の食生活も、中国の人の食も、ヨーロッパの人の食事も、アメリカの人の食べ物も、南米の人達の食文化も、それぞれ違っているのだ。だから、刺激物が体に良くないと言っても、韓国人はキムチを沢山たべるし、フィリピンの人は、魚を食べるのだ。それなら、いっそのこと、伝統的な食事をもっと尊重していいし、健康的な食事であれば、自由でいいのではないかと思える。今日の御言葉を読まれて、あなたはどのように感じただろうか。(サクマ)

 

7月17日(木)

彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。

詩編112:7

 

残念だが、どんな人もでも悪評を立てられることがあるものだ。つまり平たく言えば、悪口のことだ。不思議なぐらい人は他人を悪く言う傾向があるし、それを聞くことも好きなようだ。ちっとも楽しくないことなので、やめたほうがいいに決まっているが、人が誰かの悪口を言い始めると、それに追従してしまう人もでてくる。とにかく、誰かの悪口を言うか、うわさ話をし始めると、結局、自分もまったく同じことを誰かにされることになる。自分で散々人の悪口や批判をしていても、いざ自分のいないところで、自分も同じようにいろいろの悪評を立てられると、冷静ではいられなくなるだろう。頭に血が上り、攻撃的になるかもしれない。ましてや、会ったこともない人に悪口を言われたりすると頭にくるだろう。もっとも悪い噂は広がりやすく、真偽などどうでもよくて、誰も誠実に本当のところを確かようとすることもないのだ。ゴシップ好きは恥ずかしい。人のことをうわさしたり、悪口を言うのも悪いことだ。もし、自分が悪評を立てられたら恐れないことだ。恐れると、自分の正当性を伝えたくなり、勢い悪評を立てた人を悪く言ってしまうことになる。クリスチャンは、聖書通りにと考えるので、「悪評を立てられても恐れない」という御言葉を守る。その根拠が「その心は、固く主に信頼している」からだ。恐れれば、主への信頼は消え去る。不信仰が得るものは、悪評のダメージだけだろう。しかし、主に信頼して固く動かされないならば、後で必ずあなたの正しさが証明され、あなたを悪く言った人たちが恥じ入ることになる。しかし、このように信仰を現すことは、それほど簡単ではない。日ごろから、信心を深め、主への信頼を高めていく必要がある。さあ、あなたへのチャレンジがここにある。今日の御言葉を覚えよう。(サクマ)

 

7月18日(金)

もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。

歴代誌下7:14

 

リバイバルという言葉を耳にすることがあるだろう。教会に在籍するようになれば、何度もリバイバルという言葉を見聞きすることになる。リバイバルとは一体何だろう。良いものであるからこそ、繰り返し聞くことになるのだが、その内容を具体的に説明できないかもしれない。私たちが聖霊に満たされて、最高の信仰生活を送り、伝道も熱心になされて救霊の実がいくつも結ぶというようなことがリバイバルだろうか。今日の御言葉は、そのリバイバルを表す聖句の一つである。キリスト教史において、リバイバルを調べてみると、そこに共通するものがある。それは、「悔い改め」だ。例えば、ある集会でメッセンジャーが神の力が足りないのは悔い改めていないからだ、と迫る。その時、聖霊が激しく降り、一人の人が立ち上がって、自分の罪を告白し始める。それを聞いていた別の人も立ち上がり、同じように罪の告白と悔い改めを始める。それが引き金のようになって、次々と会衆が立って悔い改めが始まる。・・・このような悔い改めが、○○リバイバルと歴史に名を遺したところでは同じように起こっているのだ。ここ2,30年の間に起こったリバイバルでも同じだ。それまでも悔い改めを説教者が会衆に迫ることはあっても、皆が悔い改め始めるということは普通は起こらないものだ。しかし、一旦聖霊が降ってくると、心の隠された罪や自分の内に罪があることに気づくこともなかった人の良心が責められて、火で焼かれたようになって、黙っていることができなくなるのだ。さらに、リバイバルが起こるためにはもう一つ大切なことがある。それは、祈りによるということだ。天に叫ぶなら、御座から主は必ず聞かれるだろう。終末に生きる私たちも、リバイバルを求め、待っている。しかし、祈りが天に届くほど祈り続けているだろうか。出エジプトの時も天に民の叫びが届いたので助ける、と神は言われる。私たちは、祈って主の御力が降る事を期待できる。聖霊の現れは遠いものではないのだ。聖霊の風に吹かれてリバイバルが始まることを祈ろう。(サクマ)

 

7月19日(土)

わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

ローマ12:6-8

 

あなたは自分の賜物が何であるか知っているだろうか。聖書のこのような箇所を読むと、なんとなく読み飛ばして終わってしまうかもしれない。しかし、聖書が神の言葉であると告白しているのなら、やはり真剣に考える必要があるはずだ。幸い、今は自分に与えられた霊の賜物を調べることが容易になったので、知る事はそれほど難しくない。もっとも、聖霊のバプテスマを受けて、顕著にこれらの聖霊の賜物が現れていたらすでに知っているだろう。すくなくともパウロの時代の教会では、皆が賜物を持っていてそのことを知っていただろうが、現代の教会はあまり賜物には触れることがないようだ。しかし、そもそもキリストを頭とした体の肢体としてクリスチャンが描かれているのだから、自分の働きが期待されていることは明らかだ。それが、何であるのかはやはり知る必要がある。クリスチャンになってからの自分の傾向を振り返れば、それが何であるか分かるかもしれない。キリストはあなたを誰よりも知っておられる。よって、あなたへの霊の賜物はあなたの個性をもっとも生かすものであるはずだ。肉の思いを捨て、静かに主に祈り、聖霊の賜物について聞いてみよう。主の恵みはすでにあなたに与えられているのだから、キリストの良きものがあなたの内にあるはずだ。それは、きっとあなたの信仰を強め、あなたの愛が惜しみなく現れる時となり、主の奇跡が目の前で起こるだろう。(サクマ)

 

7月20日(日)

強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。

申命記31:6

 

勇気を出しなさい。あなたを悩ます者がいても、脅かす者がいても、あるいは困難なことがあなたを苦しめていても、「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。」と主は言われる。あなたは、自分ひとりで何とかしようとしていなだろうか。そして、自分の無力を嘆いていないだろうか。霊の目を開きなさい。あなたは、決してひとりで困難に直面しているわけではない。「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる」。あなたが、ひどくがっかりして、ひとりぼっちで、みじめに感じることがあっても、主の御言葉を信じてほしい。「あなたを見放すことも、見捨てられることもない」。このようなありがたい御声を主はあなたにかけているのだ。あなたに届くように語られているのだ。だから、大丈夫。最高の結果が待っている。あの、貧しい羊飼いの少年ダビデを見習おう。彼はこの御言葉の通りに強敵の巨人ゴリアトを倒したのだ。信仰はいつも発揮した者の勝だ。さあ、元気を出して、万軍の主が心強い味方であることを覚えよう。(サクマ)

 

7月21日(月)

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。

民数記6:24-26

 

 

教会生活に慣れてくると、教会の専門用語にも気が付くようになる。その一つに、「祝祷」という言葉がある。礼拝の最後などで牧師が会衆に向けてこの祝祷を献さげることがある。教会によっては、毎回礼拝でこの祝祷をささげるところもある。その祝祷は聖書から取られた御言葉で、今日の聖句もその一つだ。実にすばらしい祈りが主によってモーセに教えられた。そして、主は、モーセに祭司のアロンとその子らにこの祝祷を教えるように、イスラエルを祝福してこのように言いなさいと今日の御言葉を教えた。そこで、今日でも教会では霊のイスラエルであるクリスチャンを祝福するために、この祝祷を大切に守っているのだ。心に染み入るまで今日の御言葉を味わっていただきたい。主はあなたを今日も祝福してくださるから。(サクマ)

 

7月22日(火)

友人の家に足を運ぶのはまれにせよ/飽きられ、嫌われることのないように。

箴言25:17

 

箴言は何度も読み返す必要のある書です。そして、箴言は意味がすぐわかるものと考えてもすぐには意味がわからないものとがあります。今日の聖句はいかがでしょうか。もしかすると、すでにこの通りの経験をしている人もいるかもしれません。もっと早く読めばよかったのに、と反省することはよいことです。しかし、仲の良い友人ならいいのではないか、とお考えならば、その友人を失うことになるかもしれませんのでご注意ください。さて、別の訳でも見てみましょう。「むやみにあなたの隣人の家を訪れるな、彼があなたをうんざりして見ると、彼はあなたを憎むようになる」。これも、わかる気がしますね。同時代のエジプトの「アニの知恵」にも次のような教訓があります。「あなたの隣人の家に気ままに行くな。ただあなたが招かれた時にだけ入れ」。実は、箴言の前の16節とこの17節二つが「節制」の教訓になっていることは、注意が必要です。「蜂蜜を見つけたら欲しいだけ食べるがよい。しかし食べ過ぎて吐き出すことにならぬように」(16節)。何事にも節度をもって処すことが身についているかどうか、自己吟味してみる必要があります。日本にはそのような節制のしつけが昔から家庭でなされてきたはずなのですが、最近はしつけそのものが危うい状況で、節制を身に付けていない人が増えてきているのです。でも、クリスチャンになったあなたは、そのような風潮の中でも聖書から学んで、ぜひ何でも自由に考え無しに行うことはやめて、節制する心がまえを忘れないようにしましょう。それだけで、ストレスを減らせるものです。(佐久間)

 

7月23日(水)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

ローマ8:31-32

 

信仰は、何を信じるかが大切です。今日の聖句を信じたなら、あなたはすでにこの世の勝利者です。そして、絶対信じるべきなのです。ある人は、この世は敵ばかりと信じていました。そうすれば、その通り、周り中の人びとが敵対している気がしてきます。しかし、一旦真理がわかれば、今日の御言葉の通りに信じるようになります。ですから、誰も敵対できなくなります。なんとも平和なものです。神が味方であることがどんなに心強いことか実際に味わい知ることになります。そして、今日の下の句も信じるなら、生活の脅威も消えてしまいます。クリスチャンはイエス・キリストが神の御子で、私たちを救うために十字架の犠牲となってくださったことを信じています。そして、天の父なる神が独り子イエスを死に渡されたので本当にイエスが贖いとなってくださったのです。このことを疑うクリスチャンはいないはずです。そうであれば、私たちへの神の愛がどれほど大きいかを知るはずです。ですから、イエスを賜った父なる神が、「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。ここがすっかり理解されているのなら、何かお金や物やこの世で必要な物に欠けることがあるはずがありません。全部神は惜しみなくくださるのです。イエスの命より高価で貴いものはありませんから、どんな必要でも満たしてくださることが聖書から保障されているわけです。だから、恐れずに、心配せずに、感謝して、喜んで生きるべきです。

(佐久間)

 

7月24日(木)

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

ヨハネ14:27

 

人生は、不公平だと思う人は少なくありません。まだ子供の時に、人生を狂わせるようなことが身に降りかかることも珍しくはないのです。そこで、なんとかきっかけがあれば、いわゆる普通の生き方ができるのですが、それも黙って待っていてもなかなか得ることができないものです。どこかで勇気を振り絞って、自分の人生を切り開くことが大切ですが、その勇気がなかなか出てことないことも現実なのです。しかし、時はどんどん動き、やがて子供時代は過ぎ去り、思春期から大人へと嫌でも進んでいくのです。しかし、一旦人生につまづいて、歯車がどこかで狂ってしまうと、悪い方へ悪い方へと転がって行く気がしてきます。それは、小さな小川で遊ぼうとして、足を滑らし、川に流された子供のようです。なんとかなると思っているのに、なかなか岸にたどり着けず、そのうちにもっと大きな川に流れ込み、自分がおぼれているのかただ流されているのかわからなくなり、だれも助けてくれず、遠くから声をかけ、「自分で泳ぐのだ」とか、「何をしているのか、早く岸に上がって来なさい」とか、なかにはロープを投げてくれる人もいるのですが、届きません。そのうち橋が見えてきて、必死にその橋脚につかまると、辛うじて流されることはなくなりましたが、そこから動くこともできません。しばらくすると、自分のように流れてきた人が次々に自分につかまるものですから、また川の流れに負けて流され始めます。最悪なのは、そのままもっと大きな川に合流してしまい、もうはやどうすることもできなくなっていくのです。これは、ただの譬話ですが、まるでこのように人生を生きてしまう人がこの世界にはいるのです。人間は、どうやって生きていけばいいのでしょうか。ちょっと前まで日本でも、毎日食べて行けるかどうか心配しながら生きていた人がとても多くいました。今でも世界には同じような生き方をしている人は大勢います。一日働いて、その日をなんとか食いつなぐ、もし、病気になればどうしようもなくなる。そんな時代の人生観と今ではずいぶん違っています。しかし、考えて欲しいのは、人生は決まりきっていないということです。皆と同じでなければならないというわけでもないのです。人がその日食べることが出来るかどうか心配しなければならない時代には、食べられる方法を身に付けた人にならって、皆と同じがいい、そうすればなんとか生きていけるだろう、と大人は子供たちに教えたかったのです。確かに、人並みにという言い方もあるので、今でも他の人と同じにと考えて頑張るのも悪くはないですね。でも、個性が違い、才能が違い、好きな事が違っているのに、なんでもかんでも同じにというのは今の社会では、どうかな?って思ってしまいます。大切なことは、人生はやり直せるということです。何を大切と思って生きるのか、それが肝心です。相当変わっている人でも、それでうまく生きられないということではないですよね。その人の生き方で、人さまに迷惑をかけずにやれるのなら、そして、それで楽しいってどこかで思うことができればいいんじゃないかなァ。見栄を張って生きるのも、疲れるだけですよね。自分の生きてきたことを評価して、ずいぶん苦労して大変だったけど、それでもここまできたのだから、大したもんだ、って褒めてもいいと思うのです。それから、人生はリセットできるので、やり直したいと思っている人は、リセット・ボタンを押しちゃえばいいのです。それは、良い子であることをやめたり、人のことばかり考えて、自分を責めたり、コンプレックスを持って、自信を無くしてしまうような、愚かなことをバカバカしいからや~めた、と言っちゃうことです。イエス様を信じると言うことは、自分に不正直に生きてきたことをやめて、神様が自分をせっかくすばらしく造ってくださったのだから、自分に正直に生きようって決めることなのです。それに、誰かのせいでこんな自分になったって、文句を言って生きてきたのもやめてしまいまいます。何の益もないどころか、せっかくの人生を台無しにしてしまうからです。今日の聖句を読んでみてください。イエス様はこれから十字架に架かってご自分を信じる人を救うために犠牲となろうとしているのです。その前に、このように語っていたのです。世が与えるような平和ではない、とイエス様はおっしゃいました。この世の平和は、良い家族や友達に恵まれて、困ったこともなく、健康でお金にも困っていない、そうゆうことでしょうか。イエス様の平和は、自分をだめにしてしまう否定的な考え方からの解放や悪魔に弱みを見せてつけ込まれてしまう肉の欲からの解放、あるいは死、罪、悪魔からの解放です。それだけではなく、神様との和解です。神を知ることが出来るようになります。神は愛なので、神を知る事は無条件に愛される経験なのです。イエス様の残された平和は、どんなに惨めな人生を送ってきたとしても、そこから救ってくださり、本当の自分を取り戻して、自分を愛するように隣人を愛することができるようになる、すごい平和なのです。周りで何が起ころうが心にはしっかりと平和がある人生は、勝利の人生と呼べるでしょうね。(さくま)

 

7月25日(金)

あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

コロサイ3:3-4

 

クリスチャンがすごいのは、今日の御言葉の通りに「死んだ」とされているからです。では、命はどうなったのかというと、「キリストと共に神の内に隠されているのです」。ということは、今、この世でクリスチャンになる前と同じように生きていると思っていることは間違いであることになります。あなたの命は、神の神秘で、神の内に隠されているのです。その命が現れる時も決まっています。キリストの再臨の日です。その時に現れるあなたの姿は、「栄光に包まれて現れるでしょう」。それが、クリスチャンになったあなたの本当の姿なのです。しかし、それだからといって今は、私たちは幽霊のようなものであるということではありません。実際に、仕事をしたり、生活をして自分の役目を果たしているはずです。では、どうゆうことかといえば、クリスチャンになる以前とすっかり変わっていることに気が付くべきで、以前の私は古い私で、クリスチャンになった私は新しい私であると、信仰でとらえなければなりません。自分の意識は、以前の延長線のように感じていても、しだいに信仰によって生きるように聖霊が導いていかれます。そればかりか、死んでも生きている理由が、「キリストと共に復活させられた」(3:1)からだと説明しています。それは、キリストが復活した時の命と同じように、新しい神の息が与えられたことを意味しています。その神の息とは、聖霊のことです。しかし、ちょうど心臓が停止してしまった人に電気ショックを与えて蘇生させるように、聖霊の激しい電気ショック(聖霊のバプテスマ)で、新しい命を覚醒させる必要があるのです。その経験が無いと、さらにバプテスマ以前の自分との違いが分からずに人間的な努力に走る傾向があります。聖書は、そこで現れる宗教行為を肉の欲望を満足させるだけのものだと教えています(2:20-23参照)。使徒言行録2章のペンテコステの出来事が聖霊の大降下であったように、そして、その時に弟子たちが大きく変わったように、現代のクリスチャンも同じ体験が必要です。その中で、「上にあるものを求めなさい」(1節)。そのように聖霊に従って信仰によって生きていくのなら、キリストの品性が聖霊の恵みによってクリスチャンに現れてくるようになります。それを聖霊の実と言っています。ですから、主の再臨が来る時までに聖霊の実を結すべるように信仰生活をおくっていくのです。それで、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(2節)、と聖書に書かれているわけです。自由意志で信仰により、自分で決めることです。そうそう、最後に救われる人の数を十四万四千人と言う人たちもいますが、いかにも少なすぎて、ピンときません。それよりも、人類の三分の一という方が説得力がありそうです。このように、三人に一人と言われると、聖書に書かれた通りに生きようと思えるかもしれませんね。とにかくクリスチャンは自由なので、聖霊の導きに従うことを意識していなければなりません。正しい選択がいつもできますように。(佐久間)

 

7月26日(土)

はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。

ルカ21:32-33

 

この御言葉は、イエス・キリストが終末の徴を語った最期を締めくくる時の御言葉です。そして、この時に語られた事のすべてと言っていいほど、成就しているので、いよいよ世の終わりが近いと思われている箇所なのです。注目すべきは、下の句です。「天地は滅びる」と主が言われるので、その通りになるでしょう。東日本大震災がこの言葉を裏づけているように思います。そう考えると、私たちが大丈夫と思っている世界は、今日のように明日もあるという保証は何もないのです。つまり、人間が築き上げているものの土台が砂のようだということです。雨が一旦降り始めるなら、その時になってはじめて危険だと思っても遅いということです。では、人間は何を土台に人生を築いていけばいいのでしょうか。その答えが「わたしの言葉は決して滅びない」と語られた通りに、キリストの御言葉を土台として生きることなのです。確かなものがあるとすれば、聖書である、というのもこのことから来ているのです。そこで、聖書を正しく理解することが大切になります。理解したなら、その土台の上に何を築くのか考えるようになるでしょう。時がいつまでもないように、日々の生活を御言葉に一致させることができるように考えなければなりません。聖書を研究しましょう。(佐久間) 

 

7月27日(日)

日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。

ルカ4:40

 

「日が暮れると、・・・」、ただ一日が暮れて行くというなんということのない言葉なのに、なぜか心に残るのです。日暮れは淋しいものです。すべてが闇に閉ざされていき、危険なにおいすら感じる時間です。人々は急ぎ足になって家に帰るでしょう。夕餉の良いにおいも、家々にあかりが灯るのも、早く家に帰りたいと思わせるでしょう。しかし、今日の箇所は少しへんです。よく考えてみてください。普通なら、「日が昇ると・・・」と、朝になったので病人をイエスのもとへ連れて行こう、となるのではないでしょうか。わざわざ夜になるのを待ってから病人を動かすのは、いかにも危険で不自然です。しかし、ここはユダヤです。今日が安息日だったのです。イエスは、この安息日に人びとを教えられました。人々はその権威にとても驚いたのですが、会堂に悪霊憑きの人がいて、騒ぎ出したのです。イエスはその悪霊を叱って追い出しました。その後、シモンの家に行って、シモンのしゅうとめの熱病を癒しました。そして、休む間もなく、日没を待っていた人びとが押しかけてきたのです。安息日には、何の仕事もしてはいけないので、癒すことも医療行為として禁じられていたのです。そこで、日没まで待たなければならなかったわけです。この話を聞けば、もしかすると、暗い夜道は危ないから、明日の朝まで待てばよいのに、と思われるかもしれませんね。しかし、病は辛くて、いっときも待っていられないのです。家族に病人がいれば、家は暗くなります。心配が人から人に伝染するのです。病人を抱えて途方にくれている人たちがある日、驚くべきことを聞きました。「神の預言者が現れた、いや今までの誰よりも偉大な預言者だ」。「その方は、たちどころに病を癒し、汚れた霊すら叱ると、恐れて逃げ出すらしい」。「この世の暗闇に希望の光が灯ったのかもしれない」。それを聞いた人たちは、口々に「安息日が終わったら早速行ってみよう」と言ったのでした。

イエスは、その人たちの気持ちを知っていました。だから、一日中働いて疲れていたのに、「明日にしてくれ」とは言わなかったのです。それどころか、親切にひとりひとりのうったえる言葉を「うん、うん」と聞いてくださり、優しいまなざしで安心させてくださるのです。そして、「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」のです。何人も何人も、どこからこんなにたくさんの人が出てきたのだろうと思うほどです。きっと、遠くの村からも何時間もかけてやってきたのでしょう。ただイエスに癒していただきたくて。大切な家族を抱きかかえたり、熱病で熱くなった体を背負ったりしながら、励まし、励まし、やってきたのです。「イエス様にお会いできさえすれば、もう大丈夫だから」と。私は、日が暮れなければ癒していただけない宗教ではなく、イエス様のように、その人の必要な時に癒される教会を作りたいと思います。それにしても、イエス様はどんなにお疲れになったことでしょう。(さくま)

 

7月28日(月)

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

マタイ9:35-38

 

「イエスは町や村を残らず回って・・・」。この書き出しの言葉を読むと、イエスがすべての人に福音を伝えようとしていることがわかります。ですから、今も同じように全世界の全ての人々へ福音は伝えていかなければなりません。そこに、あなたや私のような人が待っているからです。このような御言葉を読めば、私たちが救われたのは偶然ではないと気が付きます。だって、イエスは残らず探し回ってくださるからです。イエスは、福音を宣べ伝えただけではありませんでした。イエスは「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」のです。つまり、どんな病気でも、どんな心の病でも、癒されたのです。主は変わることの無い神なので、今日もイエスがなされた働きは弟子たちのよって継承されています。それでも、「収穫は多いが、働き手が少ない」とのイエスのお言葉は、今も変わっていないようです。主の語られた通りに祈ってみましょう。(佐久間)

 

7月29日(火)

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

ヨハネ10:14-16

 

私たちは、イエス・キリストを良い羊飼いとする一つの羊の群れです。この羊の特徴は、イエスを知っているということです。また、イエスの声を聞きわけるのです。私が不思議に思うのは、たくさんの人々がいるのに、ある人だけがクリスチャンとなり、またキリストに倣って生きようとすることです。律法主義の群れは、イエスを知る事はないでしょう。逆に心をかたくなにして、頑固に自分の考えに固執するでしょう。何かが分かったと思えば、思いは高慢になり、隣人を裁くことに早く、何年経っても霊的成長を見ることができません。しかし、良い羊飼いのもとに集まってくる羊は、何かが違っているのです。隣人とは、あなたが助けたり、愛したり、奉仕することのできる人のことです。聖書を自分勝手に解釈してはいけないと言われていても、独善的に解釈する傾向がありますが、人の言葉を聞く耳がないので誤りに気づくことができません。そして、悪霊はこの人が大好きなのです。教会を困らせたり、混乱させたりするための手先となるからです。さて、良い羊飼いの群れには、あなたがいます。しかし、良い羊飼いは、休むことなくまだ見ぬ羊を探しているのです。あなたは羊飼いに忠実ですから、彼が羊を探しに行くときには、必ず一緒に出かけるでしょう。鳴き声を響かせて、まだ見ぬ仲間を探しているのです。(佐久間)

 

7月30日(水)

すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。・・・神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。神は、全地の王/ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。

詩編47:2,6-8

 

 

神が全地の王として、自分のもとへ来られるなら、はたしてあなたはどうするだろうか?古い日本人ならば、かしこみひれ伏していただろうが、現代人は、この詩編の御言葉を理解できるのではないだろうか。伝統的な教会では、礼拝の最中に讃美歌を何度か歌う。その時には、決してこの詩編に書かれたようには歌わないだろう。静かに、起立して、うつむき加減に歌うはずだ。もし、礼拝堂で手を打ち鳴らしたり、叫んだら、大問題になってしまうはずだから。でも、良く考えてみれば、聖書に書いてある通りにした方がいいに決まっていると思うのだが・・・。この詩編の光景は、イギリスのロイヤルウエディングの時のパレードやプロ野球の優勝パレードなどで、沿道に人が溢れて何万人もの人が拍手、喝采し、喜びの叫びをあげる光景に良く似ている。一昔前のヨン様ブームの時に、空港で待っていたおばさまたちの喜びの叫び声も、少し似ているのかもしれない。しかし、我々の神、主の主、王の王がおいでになる礼拝の場で、もっとも厳粛な時に、はたして主を迎える会衆はどのような思いで主をお迎えするのだろうか。主を心から喜び、あふれる歓喜が讃美となって、全身からほとばしり出る。そんな感じだろうか。伝統的な礼拝に対して、新しい礼拝が世界に広がって行くときに、それが肉を満足させるだけのものならば、堕落になるし、詩編記者の書いた情景の再現であれば、それこそ真の礼拝となるだろう。できたら、角笛を吹き鳴らしてみたい。それは、「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる」と書いてあるからだ。クリスチャンの歌は、主に向かって歌うものなのだ。その歌は全地の王である我らの主をほめ歌うものである。主に栄光が永久にあるように。(サクマ)

 

7月31日(木)

どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。

詩編60:13-14

 

人生には敵が現れてひどい目に遭う時があるものです。旧約聖書を読んでみると、戦争がたびたび出てきます。そして、ダビデのように、主に助けを求めることがいかに切実であったか、それこそ命がかかっていたのです。ある人たちは、聖書には戦争が書いてあって、おかしいと言うことがあります。たぶん、神の愛だけが書かれていればいいのにと思われたのかもしれません。しかし、現実の人生では、敵の攻撃にあって痛い目に遭うことが避けられません。その真の敵とはサタンです。私は、そうしたサタンの攻撃で傷ついた人たちを見てきました。悪霊なので目には見えません。それで、すっかり騙されて、自分の身に起こった不幸は、何が原因だったのか理解できていないまま時間だけが過ぎて行ったということが起こります。そこで、クリスチャンなら聖書に書かれたことを神の御言葉と信じているはずですから、悪霊も悪魔の実在し、イエスも弟子達も悪霊追い出しを度々していたことを注目すべきです。時には病の原因が悪霊であることもあるのです。ですから、今日の詩編の祈りの言葉は、私たちの祈りとなる必要があります。油断大敵です。何しろ再臨の日まで、我々は霊的戦争状態なのですから。一人で悪霊に立ち向かうのではなく、「神と共に我らは力を振るいます」。ですから、勝利は約束されているのです。あなたの人生を苦しめてきた悪霊は、その正体が暴かれ、「神が敵を踏みにじってくださいます」。信仰で勝利しましょう。(佐久間)