2014年8月

8月1日(金)

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

マルコ4:35-40

 

クリスチャンの人生にも嵐の日は来るだろう。不思議なのは、この物語でもイエスから「向こう岸へ渡ろう」とお誘いになられたことだ。キリストを信じている者の人生には、行先があるということだ。キリストが示す目的地は、「向こう岸(天国)」だった。舟は教会をあらわし、キリストと共にクリスチャンは運命共同体の一員となったのだ。だから、教会は天国へ向かう舟に乗っているということになる。しかし、突然の嵐に見舞われることがあるというのだ。クリスチャンは人生の試練に遭遇しても、ただ恐ろしい目に遭っているだけだと考えてはいけない。クリスチャンは普通の人ではないことを覚えよう。風が暴風となって吹きつけ、波は逆巻き、生きた心地がしない、そのような状況でも舟は絶対に沈まない。その理由は、キリストが一緒に舟に乗っているからだ。あなたの人生は、絶対に沈まない。それなのに一旦人生の嵐が襲ってくれば、恐れて震え上がるのは不信仰のせいだと、教えている。クリスチャンが一番聞きたくない御言葉は、「まだ信じないのか」というイエスのお言葉だ。そうだ、いい加減に学ぼう。聖書の約束を信じよう。御言葉は、実にすばらしい約束に満ちている。嵐をたちどころにしずめた御言葉は、あなたの人生を狂わして悩ませている原因をたちどころにしずめることができるのだ。キリストに倣いて、信仰を発揮することが普通になるように、自分を戒めよう。嵐をしずめる力はキリストからくるが、信仰によって実現することを覚えよう。(サクマ)

 

8月2日(土)

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

コロサイ1:13-14

 

今日の御言葉によると、父なる神は御子イエスの支配下にクリスチャンを移してくださったというのです。「神の国」は神の支配を意味しているので、キリストが公生涯のはじめに「神の国は近づいた」という第一声は、大きな意味を持っていたことになります。そして、事実、今はキリストの支配下にあるので、そのことを特権と理解できるなら、信仰の世界に生きていることになります。神は愛なので、愛が自然法則になっているような世界です。この世では、残念ながらアダムの堕罪より愛は堕落しています。それでも、友情や家族愛、人類愛とこの世でも愛の尊さは尊重されています。しかし、イエス・キリストがこの世界においでになるまでは、神の愛は正しく理解されていませんでした。それが、イエス・キリストが人間になって現れたおかげで、神の誤ったイメージは払しょくされ、多くの人びとが「神は愛なり」と言われる意味を体験したのです。そして、今もあなたのように神様に愛されて、救われた人たちがいます。イエスが犠牲を払ってあなたが罪赦されて救われることを信じましょう。あなたがよっぽどひどい事をして、罪を犯したとしても、神の愛は変わりません。神は変われないのです。本質が愛なので、正しい行いをしたので愛します、といった何かの条件を必要としないのです。たといあなたが失敗したしとしても、神はあなたを愛しているはずです。この愛が分かった時に、あなたは自分が神の子になっていることに気が付くことでしょう。神の支配は、愛の支配です。どのような境遇にあっても、あなたは今もこれからも主に愛されています。自信をもって、雄々しく生きましょう。(佐久間)

 

8月3日(日)

軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。

箴言12:18

 

いったい何歳になれば、人を癒すような言葉が語れるのでしょう。何十年も生きていながら軽率なひと言で人を深く傷つけてしまうことがあります。聖書は、その理由は知恵が無いからだと諭しています。若い時には、人生経験もありませんが、知恵も無いのです。だから、失敗することもしばしばあります。やっかいなのは、自分の軽率な言葉の失敗に気が付かないことすらあることです。それが、社会でもまれて、たびたびの教訓を学び、人生経験を積み重ねていくうちに、知恵ある者の舌を手に入れて誰かを癒すようになる、これが理想ですが、多くの人を見ていると知恵を身に付けないうちに歳をとってしまった、という人が結構いるのです。では、知恵とは何だろう、例えば人への正しい思いやりを身に付けること。心の内に優しい想いが養われると、言動に知恵が現れるものです。神を愛し、御許に近づくならば、神を知ることは容易になるでしょう。そこではじめて得ることのできる知恵もあるのです。へりくだり、謙遜になってはじめて手にいれることのできる知恵もあります。隣人を愛してはじめて現れる知恵もあります。人を言葉で癒すような知恵を身に付けたいものです。(佐久間)

 

8月4日(月)

主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」

エレミヤ6:16

 

クリスチャンとしての生き方は、何を基準に考えているだろうか。私たちも幸福への道をみつけ、その道を歩むことこそ主の御心にかなっているのだ。私たちは自分の将来のことを知らない。それだけに、何を選ぶべきか、何を正しい基準とするか、自分の拠って立つ確かなものが必要なのだ。今日の御言葉は、それこそが律法だと教えているのだ。私たちは律法主義者の失敗を知っている。だから、律法と聞くと腰が引けてしまうが、イエスが律法を成就するために来られたことも知っている。そこで、真理の御霊、つまり聖霊に助けていただいて、律法に調和して生きることができるように、心に働いていただこう。今の時代の難しさは、何が正しいことかわかりにくいことだ。それ故、人間はより確かなものを求めている。それが聖書であることをこの世の人びとは残念ながら理解していないだろう。そもそもクリスチャン自体もどこまで理解しているだろう。なぜ、聖書を読んでいるのか考えるべきだ。もし、信仰をもって聴こうとすれば、聖書は魂に語りかけてくる。祈って聖書に向かえば、答えが与えられるだろう。「昔からの道」とは、この古い聖書のことだ。「さまざまな道に立って」とは、通読のようになにかノルマになって、急いでそのノルマを果たすために読むというようなことではなく、よく御言葉を観察してみたり、御言葉を瞑想してみたり、あるいは、さまざま注解書も御言葉の解釈でいろいろな考え方があることを示している。また、人に聞いてみるのも良いだろう。そして、一番良いのは、祈りながら聖書を読み、繰り返し集中して読んでみることだ。しまいには、「幸いに至る道」を見出すだろう。そうしたら、その道を歩めばよいことになる。ところが、イスラエルは、「その道を歩むことをしない」と言ったのだ。その結果がいかに不幸なものであったかは、聖書に記され、歴史に記録されている。だから、クリスチャンである私たちは、同じ過ちを犯したくない。聖書には幸福に至る道が書かれていることの価値が正しく理解されますように。(サクマ)

 

8月5日(火)

主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。

哀歌3:31-33

 

人生がうまくいっているのなら楽しめばよい。しかし、一旦災いが押し寄せてきたなら、良く考えるべきだ。主は、神の子たちを苦しめることを良しとはしないが、その人の救いの為に必要な時には、試練もまた必要なこととなる。さて、ひとつ覚えておきたい人間の問題はストレスを上手にコントロールすることだ。最上は、主との交わりによってコントロールすることだ。しかし、ストレスは自分の欲求が満たされない時に増幅するため、罪ともかかわっている。それだけに、欲求不満をおこさせない工夫がいる。聖なるものは、欲求を静めることができるので、礼拝や讃美、祈りなどの宗教行為は有効だ。しかし、肉で無理をすれば聖なることも精神のバランスを欠くことになるので、肉への揺り戻しがある。だから、聖霊にゆだねた中で自分の力で努力をしないことだ。ストレスを解消することの下手な人は、人間関係を壊しやすいので注意が必要となる。そのストレスをつきつめれば、きっと自分の中の深い問題に行き着くだろう。目を背けても苦しみの泉のように勝手に湧いてくるものだ。それを止める方法を人間は持っていないので、キリストにすがる事だ。あまりに、自分でどうすることもできない苦しみを持っていると、自暴自棄なることすらある。だから、神は何もしてくれないと言いたくなるかもしれない。しかし、今日の聖句を注目してみてほしい。「主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない」と、はっきり書いてある。だから、希望はあなたのものだ。真の幸いは決して遠いものではない。むしろ、あなたの中にすでに置かれているのではないだろうか。(サクマ)

 

8月6日(水)

二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

使徒言行録8:15-17

 

私たちの信仰の始まりが、今日の聖書の御言葉で証言されています。ペンテコステの日に聖霊の大降下があり、キリスト教の幕は切って落とされ、目指しい働きが始まりました。ここだけでも、人間の肉の努力などまったく入り込む余地はありません。聖霊が神の御力を大胆に制限なく現したことが知れます。そして、使徒たちは伝道を進展させ、決して忘れることのできない事が起こったのです。それは、イスラエル人が忌み嫌い、避け続けてきたサマリア伝道が大成功したことでした。ただ、問題は、ペンテコステの日のように聖霊が降っていないことでした。エルサレム教会からやってきた使徒ペトロと使徒ヨハネは、すぐにサマリア人の上にまだ聖霊が降っていない事を見ぬいたのです。これは、ヨハネ3章に出て来る、「水と霊から生まれる」、というイエスの教えに従えば、水のバプテスマしか受けていない異常な状態でした。それで、すぐに彼らに使徒たちは手を置いて、聖霊のバプテスマを施していったのです。その方法は、頭に按手(手を置くこと)することでした。ここでも、聖霊のバプテスマが必須のものであったことがわかります。それに、サマリア人への水と霊のバプテスマは異邦人伝道に道を開く、大きなきっかけとなっていきました。このように、使徒時代には水と聖霊のバプテスマが著しい特徴として記録されています。そのまま、今日まで継承されなければならない大切なことが、途切れていくのですから、驚きます。しかし、聖書は昔も今も変わっていません。つまり、真理は変わっていないということです。それなのに、人間の知恵で、聖霊のバプテスマを簡単に否定しています。奇跡も霊の賜物も信仰で起こるのですから、悪霊の大胆な攻撃もはねのけるほどの疑わない信仰が大切なのです。聖霊に満たされるように祈りましょう。(佐久間)

 

8月7日(木)

わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。

ヨハネの黙示録14:2

 

この世の終末に、いったいどのようなことが起こるのか、聖書は預言していました。その長い預言は、歴史の中で確実に成就してきたのです。そして、クリスチャンにとっての関心事は、神と悪魔の大争闘がどのように決着して行くのかということです。今生きているクリスチャンがこれから経験する出来事は個人のレベルでは勿論、聖書に書くことはできませんが、世界レベルでは預言されています。そうは言っても、預言のほとんど全部がすでに成就していますから、残されたものはわずかで、しかもクライッマクスの部分です。悪魔も自分の時が無いことを知り、激しく怒り狂っていますが、クリスチャンはキリストの権威をいただき、決して後には引きません。そして、今日の御言葉を見ますと、悪魔とその手先となっている人間の集団あるいは教団に、そして反キリスト、迫害者として名を残すほどの者にも勝利を収めることが決まっているのです。預言者ヨハネは幻のうちにその勝利の姿を見たのです。彼らの勝利は崇高なものだったのでしょう。勝利者は「神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた」というのです。この世は終わります。それが最終的な神の裁きの結果です。そして、神の都の描写が黙示録に描かれていますので、ガラスの海の描写は、新エルサレムに勝利した聖徒が入れられたことだと分かるのです。つまり彼らは天国に入ったのです。彼らは、いよいよ生ける神にお目にかかることがかなうのです。彼らは、竪琴を手にしています。聖徒らが神をほめたたえる者であることが明白です。その讃美をぜひ聴いてみたいものです。そして、その列に加わっていたいと思います。あなたと一緒に・・・。(佐久間)

 

8月8日(金)

主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」

民数記11:23

 

今日の箇所は教訓です。信仰者でも、時々人間的になって物事を判断してしまうことがあります。今日の聖書箇所の話では、モーセが登場人物です。モーセの仕事は普通の人ではとうていできないものです。エジプトで奴隷だった人たちをファラオと争って、みごとに連れ出したからです。勿論、すべて神の御業ですが、モーセがその最前線で戦ったことは事実です。そして、もっと恐ろしいことが出エジプト後にでてきたのです。それは、人間の数が多すぎたことと、彼らは奴隷だったので立派な聖人ではなかったために、すぐに不平を言いだしたのです。神への感謝や信頼とは無縁の彼らの振る舞いは、モーセを幾度も苦境へと追いやりました。今回は、荒野で肉を食べたいと言い出したのです。そこで、神は肉を食べさせるとお語りになりました。それに、モーセは信仰で応えることができませんでした。どうでしょう、みなさんだったら信じられたでしょうか。モーセによれば、男だけでも60万人もいるというのです。それに女子供を入れれば、大変な数になります。元旧約学会の会長は、300万人いたのではないか、とおっしゃっていました。それはとほうもない数です。荒野で何もない場所です。もし砂漠でも走る特別なトラックで肉を運んだとして、いったい何台必要になるのでしょうか。その料金は、と考えていけば、モーセでなくとも「無理」と言いたくなるでしょう。でも、相手は神だったのです。我々はどうでしょうか。自分でもなんとかなると思うようなことは、比較的信じられるでしょうが、とほうもないことが目の前に突き付けられると、信仰よりも、心配や否定的な思いの方が急激に膨らむでしょう。そこで、聖書に素晴らしい祝福の約束がたくさんあって、神の子である皆さんが困る事はないはずなんですが、はたして、問題が自分に突き付けられた時にどれほど神の言葉を信じて、信仰で解決することができるでしょうか。神がなんとおっしゃっておられるか、今日の聖句をよく読んでみましょう。あなたの神はすばらしいお方で、口から出た言葉は必ずその通りになるのです。あなたの神が全能であることを決して忘れてはいけません。だから、あなたを助けることができるのです。(佐久間)

 

8月9日(土)

悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。

詩編40:13-14

 

人間の悲しさは、やはり罪に尽きます。油断していると、悪がひたひたと忍び寄ってくるのです。自分の罪に捕えられると、「何も見えなくなる」と詩編記者は言います。だから、やっかいなのです。罪を甘く見るとひどい目にあいます。なにしろ「その数は髪の毛よりも多い」のですから。そして、罪の背後にはいつでも敵の姿が見え隠れします。あなたが滅んでしまうことを願う敵がいるのです。悪霊です。目には見えませんが、しつこくつきまとい、罪にいざない、罪を犯せば神に訴えるのですからしまつにおえません。いったん、敵の攻撃が始まれば、苦戦するかもしれません。すぐに悪霊の存在に気づけばイエス・キリストの権威で追い出すこともできるでしょうが、油断していると気づきそこないます。そこで、信仰のことを考えるべきです。自分の力では自己を救うことができないのなら、自分を救うことのできる方に頼るしかありません。それが、主イエス・キリストを知って、はじめて自分を救うことのできるお方がいたのだと確信できたのです。ですから、子供が危険な目に遭っている時に、なりふり構わずに助けようと走ってくる母親のように、主に急いで走り寄り、助けていただくことを祈るのです。そのことを覚えてください。敵は消えていなくなっているはずですから。(佐久間)

 

8月10日(日)

天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」/また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように。」/四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。

黙示録5:12-14

 

これは、すばらしい光景です。地上の誰も見たことの無い神の真実の光景です。聖なる預言者に示された幻のおかげで、私たちも間接的に神を礼拝するということを見ているのです。天使が、すべての被造物が、天上の四つの生き物が、そして天上の長老たちがこそって、神を讃美し、礼拝をささげているのです。これが、神と小羊なるイエス・キリストのあるべき姿です。私の願いは、この讃美に加わることです。やがて、目の前でこの讃美と礼拝を体験できることを願うのです。この地上で聴いたことの無い荘厳な讃美が万軍の天使によってなされると、救われた聖徒たちがあとに続き歌います。聖なる方々が唱和します。それは、歌ではなく、神への畏敬と歓喜が感動となって湧き起る不思議な経験です。その讃美を受けるにふさわしいお方が目の前におられるのです。優しいまなざしで見ておられます。讃美が不思議なほど増し加わっていきます。それと共に、神と小羊の栄光が輝きを増していきます。聖なる喜びが全身から溢れ出て讃美となっていきます。そうです、ついに罪の世は終わり、新エルサレムに移された聖徒の群れにあなたのいるのです。周りを見回せば、そこが天国であることがわかります。全ての聖徒の頭上には輝かしい冠が載せられています。宝石の数や大きさは異なっていても、誰もが深い満足を感じています。聖徒たちは、ついに小羊が勝利を露わにして、永遠の御国へ我々を連れ帰ってくださったことを実感するのです。この日を待ち望み、聖徒の忍耐となすべき使命を成し遂げる決意が必要なのです。(佐久間)

 

8月11日(月)

朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。

詩編90:14

 

今日はどんな日でしょうか。また、主に祝福された一日が始まります。クリスチャンになっても、修道僧のようにただ禁欲の中に生活するというものではありません。今までと同じような生活環境に置かれ、仕事も身分も何も変わらないかもしれません。外から見ると、何も変わっていないように見えますが、実は、驚くほどの変化が起こっています。今日の御言葉の通りになるからです。たとえ困難が押し寄せてきたとしても主を信じることができるのです。それは、不安や恐れを克服する力となります。そして、祈りは聞かれたので大丈夫との思いが起これば、静かな平安が心に満ちます。主が一旦、立ち上がれば山は動きます。山の上に御足を置けば、山は真っ二つに裂けてしまいます。どんな困難、障害も主への信仰で克服することができます。もし、今平和な日々を過ごしているのなら、主の慈しみを思いましょう。そして、確かに、主の慈しみが満ちていることがわかったなら、喜びを信仰で現しましょう。讃美も感謝も喜んで献さげるものです。あなたが祝福されていることを信じましょう。(佐久間)

 

8月12日(火)

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

Ⅱコリント2:14,15

 

クリスチャンの特殊性がここに描かれています。どんな仕事をしていても、どのような生活をしていても、もはや昔のようではないのです。私たちは「キリストによって神に献さげられる良い香りです」。香りは、すぐに気づきますよね。だから、良い香りでありたいのです。くちなしの花や金木犀、それにライラックもとても良い香りがしますね。良い香りは、ストレスを消して、清々しい気持ちにするし、甘い香りはうっとりさせるでしょう。花がそれぞれの香りを持っているように、私たちの固有の香りもあるのです。聖書には、「わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」とあります。ですから、私たちを通してキリストを知るようにと神はご計画されたのです。あなたもクリスチャンを通してキリストを知ったのではないですか。今度は、あなたの番です。花は足がないので、動くことができませんが良い香りを放つことで、蜂などを惹きつけているのです。同じように、あなたもキリストの良い香りなので、誰かは気が付いています。きっと、あなたに近づいてきて、キリストを知る人が出てきますよ。そのためにも良い香りを放つ者となりたいですね。それにしても、私たちはキリストの勝利の行進に加えられているのですね。喜んで堂々と歩んで行きましょう。(佐久間)

 

8月13日(水)

ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」

創世記32:27

 

これは族長ヤコブの物語に出て来る名場面の有名な聖句です。この時、ヤコブは家族と家畜や使用人を連れて、長年離れていた生まれ故郷へ帰ろうとしていたのです。しかし、そもそも生まれ故郷を離れた理由が、双子の兄弟エサウの怒りを買ったことによります。そして、長い月日が流れ、帰郷を決めて長旅をして、今まさに兄エサウの住む土地に近づいた時に、恐れにさいなまれ始めるのです。そして、とうとう、財産と家族を先に進ませ、自分ひとりが残ったところで不思議なことが起こりました。何者かとヤコブは夜明けまで格闘したのです。そして、その人がヤコブに負けそうになったので、ヤコブの腿の関節を打ってはずし、去ろうとした時に、しがみついて離そうとしないヤコブが言った言葉が、今日の御言葉です。これを祈りに見立ててみましょう。祈りは時に神との格闘なのです。たぶん、ヤコブのように人生には試練の時があるでしょう。その時に、クリスチャンは祈るのです。それが通りいっぺんの祈りであるはずがありません。徹夜で祈ることだってあるのです。その時に、肝心なことは、ヤコブがやってみせたように、「祝福してくださるまでは離しません」という信仰です。兄に殺されるかもしれないと思っていたヤコブは、この一事で命びろいします。そのように、祈りで勝敗が決してしまうようなことがしばしばあるとすれば、祈りを考え直さなければなりません。この時に、ヤコブは「イスラエル」と名前を主によってかえられました。人生が大きく変わる時にはいつでも神との格闘のような祈りがあるものです。(佐久間)

 

8月14日(木)

あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。

申命記2:7

 

ひとりの人の人生で40年とはとても長い時間だ。おそらく、その人の人生の最も力に満ち良い時の全てを含んだ時間だろう。若い人ならば、まだ40年も生きていないだろう。だから、その重みが理解できないかもしれない。古代のイスラエル人は、エジプトで奴隷として苦役を課せられていたが、その叫びを聞かれた主はレビ人のモーセを指導者に選びエジプトを脱出させた。それから、彼らは荒野の旅を実に40年間も続けることになったのだ。これは、神に救われた人間が辿る人生の縮図と見ることができる。クリスチャンになった人の人生は、この世の人のそれと一見同じように見えるが、実は大きく異なっているのだ。なぜならば、クリスチャンはこの世ではなく神の国にすでに入っているからで、目に見える姿ではまだしばらく先に神の国が待っているが、イエスの到来により、信じた者は水と霊とから新たに生れ、神の息を持って生かされている。だから、彼らには神の不思議が伴う。出エジプトしたイスラエルと同じように、悪魔の支配するこの世を脱出したクリスチャンは、聖霊の導きを受けて、荒野つまり試みの場へと出て行ったのである。その信仰生活は、かなり長く続くことが多い(何にでも例外はあるが)。その生活の中で、刻々と時は刻まれ、実にいろいろなことが起こっていくのだ。その中で、自分の信仰の弱さに泣きたくなる日もあるだろう。いつまで経っても信仰に成長していると思えなくて、なさけなくなることもしばしばだろう。何か予期せぬことが起これば、すぐに心配し、不安にさいなまれる。感情の弱点を突かれれば怒り、落胆し、恨んだり、憎んだり、と忙しい。古き人に死んだ、と教えられても、どうも死にきれていないのか、やすやすと起き上ってくるのだ。こうして、出エジプト記に出て来る愚かなイスラエル人とまったく同じように、不平を言っては主を悲しませてきただろう。そうやって、罪のために荒野で死んでいったイスラエル人は多数にのぼった。モーセはいったいどのような気持ちでそれらを見ていたのだろう。気が付けば40年間という長い時間が過ぎていた。そして、その40年間がどのようなものであったのか、今日の聖書箇所が教えている。あなたのクリスチャン人生は40年をやがて迎えるだろう。その日に、今日の御言葉は、心に深い感動を与えてくれるだろう。自分にも神は同じようにしてくださったことが分かるからだ。振り返ると、主の恵みばかりが残る。あなたの旅路ももうしばらく続くが、きっとあなたはそれを最後まで歩み続け、勝利の栄冠を手にすることができる。(サクマ)

 

8月15日(金)

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

ローマ12:9-10

 

ここで冒頭に出て来る「愛」はアガペーです。今日の聖句の前には、霊の賜物を用いることが書かれていたので、その後に続く箇所でアガペーが出て来るのは重要です。霊の賜物は超自然的神的力ですから、奇跡と結びついています。まるでイエスの力を受けたように、神の力が現れるのです。そこには、いつでも危険がもろ刃の剣のように付随します。あまりに力が大きいので、超能力者になったように感じることもあります。そうなると、だんだん気がつかないうちに高慢になってしまうことが起こりやすいのです。一旦そうなると、まるで自分が神のようにふるまうことだってありえるのです。それを恐れて、聖霊の賜物を使わないことはさらに良くないことなのです。それでは、どうやって聖霊の賜物をもって主に仕えて行くかと言えば、アガペーの愛をもつことによりはじめてうまくいくのです。そのために、ローマ9~16(使徒や聖徒たちへの愛)、17~21(すべての人間への愛)とアガペーをテーマに書かれているのです。本物の愛のことから始まります。偽善でない愛のことです。クリスチャンが陥りやすい間違いを戒めています。クリスチャンどうしの関係を「兄弟愛をもって互いに愛し」とキリストの新しい掟に従って勧めます。それにとどまらずに、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と教えます。この教えもアガペーでなされれば、どんなにすばらしいものとなるでしょうか。人間は人を見ると必ず値踏みします。自分よりも上か下かと瞬時に判断しようとします。それによって、自分の相手に対する態度や姿勢を決めるのです。ところが、クリスチャンの間にそれを持ち込むことはよくないのです。誰に対してもいつも変わらずにへりくだり、愛をもって接することがクリスチャンのあるべき姿とされているわけです。その時に、「尊敬をもって」「互いに」「相手を優れた者と思う」この三つを習慣とすれば、クリスチャンはキリストの証人となれます。そして、人は聖なる者へと変わって行くことが容易になります。アガペーは神の愛と言われますから、内住する聖霊の愛が自分の中から現れてくることを意味しています。自分の努力では最後は偽善に行き着くので、聖霊との関係を正しくすることが求められます。聖霊の覚醒が必要なのです。そのために、熱心に祈ることは大変良いことです。主の愛を求めて祈りましょう。(佐久間)

 

8月16日(土)

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。

ローマ8:33

 

驚くことに、神は私たちが何か良いことをしたということも無しに義としてくださったのです。信仰の父と呼ばれる旧約聖書のアブラハムも、実は良い行いによって義とされたわけではありませんでした。ただ、神を信じたことによって義とされたのです。その素直な信仰が大切だと言っているだけです。そうであれば、誰が私たちを訴えることができるでしょうか。たとえ他人が批判し、中傷したとしても、その背後には敵である悪魔がいます。悪魔は、はじめから間違っているのです。神の選ばれた者たちを訴えているからです。この世の支配者だと自認している悪魔は、旧約聖書のヨブ記でも、神が義としているヨブを試してみるようにと神に進言します。そして、ヨブに対する攻撃を自ら行ったのです。それも二回も。ヨブを苦難に遭わせ、ヨブが神を呪うようにと願ったのでしょう。しかし、結果は被造物と創造主が対等ではないということがはっきりします。陶工と粘土ぐらいの違いがあるのです。だから、アダムの末裔である人間がいくら正しいと言ってみても、神の御目には罪人として見えているのです。しかし、愛である神は、イエス・キリストを犠牲にすることによって、信じる者の罪を赦すことにしていました。そして、義と認めることに決めていたのです。だから、直接は良い行いによって義とすることを想定していません。神が罪の問題を解決し、義とするのです。でも、悪魔はそのことが理解できないのでしょう。だから、ヨブが良い行いによって義とされていると思っていたのです。それで、神に罪を犯させれば、義でなくなると考えたのでしょう。悪魔の考えは、今も変わらないのです。だから、選ばれた者、召されて信じて救われた者たちを誘惑し、罪にいざない、人が罪を犯すと神のかたわらで訴えるのです。しかし、救いの仕組みは、神を信じる者にしか通用しないのです。悪魔には、理解できないでしょうが、神が愛であることがすべての答えなのです。神を信じて信仰によって生きるなら、神はあなたを義とすることができるのです。(佐久間)

 

8月17日(日)

神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

ローマ14:17

 

 

神とご利益を結びつけて考えるのなら、それは空しいと、クリスチャンは教わりました。それは偶像を拝むことと同じだと。そして、偶像は自分の中の欲望を反映したものなのです。「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:15)。ですから、キリスト教を信仰していると思いながら、実は勘違いしている場合があるのです。食べ物の宗教上の規定が自分を支配しているのなら、すぐに悔い改めて祈るべきです。その事と救いは直接には関係ないからです。キリストの救いは、神の国に入る救いです。しかも、キリストを信じて救われたなら、すぐに入ることのできる神の国です。神の国を神の支配と説明することがありますが、それは、具体的には聖霊の内住による支配です。しかし、その支配に服従するかしないかは、本人の自由なのです。それでも、神に服従するのは、神を愛しているからにほかなりません。そこに、はじめて律法が守られる不思議があります。神を愛し、神に愛されたように自分を愛し、自分を愛したように隣人を愛することが、自然にできている奇跡です。聖霊は、人の内に住み、その人が聖霊に服従すると義と平和を与えます。そこからあふれる喜びが、神の子の特権なのです。だから、救いの過程を間違わないように聖書を調べ、キリストを信じるという最も尊いことから始めるのです。聖なるお方に近づけば、罪は汚れであることの悲しさが胸を突きます。そこから真の悔い改めへと聖霊は正しく導いてくださいます。この世のさまざまな欲望の虜になって犯してきた罪のすべてをキリストの十字架の血で清めるのです。罪を生み出し続けた、肉の内にある罪の大元をキリストの十字架の御力で死なせることこそ、大切な救いの鍵なのです。これも、信じる信仰によります。心配することはありません。聖霊が助けてくださいます。だから、聖霊を求めて祈るのです。自分が何者であるのか聖霊に覚醒していただいて、はっきりと理解する必要があるます。毎日、何を食べるか、何を飲むか、と思い煩って生きることの中には、つまり日常生活に心を煩わせて生きることはやめます。もっと、わくわくする神と共に生きる生活があるからです。それこそ、神の国に生きることです。どうぞ、イエス・キリストのお語りになったことを調べてください。広い門から入ってはいけません。狭い門があります。そこから入るようにとイエス・キリストは教えられました。その通りにすれば、そこにあるのは、「聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」。(佐久間)

 

8月18日(月)

その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

出エジプト記2:10

 

モーセの生い立ちから今日の聖句を選びました。モーセが産まれた時、両親はレビ族でエジプトの奴隷でした。しかも、エジプトの王は、「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた」と考え、男子が産まれたら殺すように命じました。そのような状況で生まれたモーセを、両親がアスファルトをとピッチで防水したパピルスのカゴに入れてナイル河畔の葦の茂みに隠したのです。そして、ファラオの王女が川で水浴びをしようとやって来て赤ちゃんモーセを見つけるというお話です。実の母を乳母として育てさせ、今日の聖句へと続きます。この新共同訳で読めばわかる事ですが、モーセの名は水の中から引き揚げたことを意味するマーシャーからきているのですね。ヘブル語の発音はモーシェですから、言葉遊びのようになっているのです。でも、この話しは、バプテスマのことを思いださせると思いませんか。バプテスマの時に水の中から引き揚げられた経験をされた方には、特別の感情があるはずです。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネによって洗礼をお受けになったことも考え合わせると、モーセの話しも偶然ではないわけです。神の摂理の中でなされた出来事だったのです。そのモーセが40年を一区切りにして、王女の子として、逃亡し荒野で羊飼いとして、そして最後に出エジプトを成し遂げる神の偉大な預言者として、各々40年ずつ、三段階に進化を遂げています。私たちも、洗礼を受けてから、信仰の進化を遂げているはずです。ですから、モーセから多くを学ぶことができます。みなさんもモーセから学んでみませんか。(佐久間)


8月19日(火)

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず・・・。

Ⅰコリント15:10

 

80歳を超えたクリスチャンの方から、しばらくぶりに電話をいただきました。この方とお話しすると、いつも神様への感謝が自然と口をついて出て来るのです。試練に遭われたことを笑って話せる数少ない方です。どんなに困っても必ずイエス様がなんとかしてくださると信じているのです。「困った」と言っても、すぐに「でも、イエス様が助けてくださる」とおっしゃいます。とても自由で、ものの見方が大きいのです。でも、謙遜なので、誰からも好かれる方です。このように、クリスチャンは、歳を取った時にどうなっているかが大切です。若い時からの信仰生活が歳を重ねて磨かれていくのなら、今日の御言葉と同じことを言うようになるでしょう。勿論、若い方も、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と言っていいのですが、何十年もこの世に生きて、そのうえで「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」というのではやはり重みが違います。神の恵みは、イエス・キリストであり、またイエス・キリストがあなたを助けて働いて下さったことも含みます。その神の恵みが無駄にならなかった、と言えるように悔いのない人生を歩むべきです。人それぞれに使命は異なっていますが、主に試みられても、信仰のみで勝利し、自分の弱さの中に神の恵みを味わう時に、私たちは確実に変えられていくのです。パウロもひどい困難ばかりに苦しめられたはずなのに、主イエス・キリストへの信仰で乗り越え、「神の恵み」がわかったのです。神の恵みが無駄にならない生き方こそ、私たちが学ぶものです。キリストの十字架の贖いも復活も、決して無駄にならなかったと、告白できるように生きたいものです。(佐久間)

 

8月20日(水)

主は言われた。・・・神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。

ルカ18:6-8

(写真:Riley Samuelson)

 

今日、よい話を聞きました。それは、朝示されたことの答えです。示された事とは、以前にある依存症で苦しんでいた方のために祈ったことがあったのです。しかし、その方のその後を知る機会がありませんでした。そして、いつしか忘れていたのですが、今朝主は思い出させてくださったのです。その消息をその日の午後には知る事になりました。今は、依存症を克服して、立派に働いているとのことでした。ご家族もようやく平穏な生活を取り戻しておられる様子でした。人は、豊かな愛情の中で安心して生きていくものなのです。天の父も、主イエス・キリストも執成してくださる聖霊も知らない方々は、この世で簡単に孤独になることがあるのです。その方々がその中で更に不幸になることがこの世界の無常さです。イエス・キリストは、だからこの世を救おうと犠牲となる覚悟で人となり、助けを必要とする人を探してくださったのです。今でも、主は生きておられます。だからこそ、助けが必要な時には昼も夜も叫び続けるのです。正しい裁きがなされるように祈るのです。それができるのは、神を知り、イエスを信じている人です。日本人のほとんどの人が救い主イエス・キリストを個人的に知りません。それでは、どうやって助けを呼べるでしょうか。先に召された私たちの役割を覚えて、主に用いていただきましょう。人が救われた喜びを見ることは、何よりも尊いものなのです。(佐久間)

 

8月21日(木)

神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み/足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み/奔流がわたしを押し流します。叫び続けて疲れ、喉は涸れ/わたしの神を待ち望むあまり/目は衰えてしまいました。

詩編69:2-4

 

いったい、どのような時にこのような祈りをするのでしょうか。神が助けに来て下さる以外にもう望みが無くなった時の祈りですね。このような苦境に立ちたくはないです。しかし、不思議なことに、人間にはいろいろな道を辿る人がいるのです。皆同じような人生を歩んでいると思いがちですが、実は様々な人生があるものです。病気や辛いことがあったとしても、人並みに生きていけたらそれで良しとしなければ・・・、という人生観もよく耳にしてきました。しかし、この詩編69篇を読んで行けばナザレのイエスのことだと気が付きます。主がどれほどの苦しみの道を歩んでいたのか、少しわかります。何しろ全ての人を救うために来られたのですから、罪の闇を避けることができないのです。私たちを救い得る唯一の方法は主が犠牲となるということだったのですから、壮絶な戦いがあったはずです。主は、あくまで犠牲となりきることにより、信じる者を救う道を開いたのです。長い間、苦しみの下にあった人は、なぜ?と神に聞きたいでしょう。怒りがおさまらないはずです。そして、もう、大水がのど元に達している状態かもしれません。祈りは、すでに叫びとなり、その叫びもやがて喉が涸れてしまいました。神を待ち望むことの現実は、長い長い忍耐なのです。いつの間にか歳まで取ってしまい、いつ来られるのかと主を探す目も衰えてしまうのです。しかし、主イエス・キリストは、十字架で勝利しました。敗北のように見えましたが、三日目に墓より復活し、十字架の贖いが勝利であったことが判明したのです。つまり、待望していた主は期待通りの勇姿では現れませんでしたが、あなたが初めて祈った時にはすでに来ていたのです。あなたの望むような救いではないかもしれないが、あなたが降伏して主のやり方で良いと認めれば、救いはすでに自分のものであり、祈りはちゃんと聞かれていたことがわかるのです。信じることを誰かが助けてくれたらいいのですが。(佐久間)

 

8月22日(金)

どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

Ⅰテサロニケ5:18

 

クリスチャンが教えられることの一つが、今日の御言葉に出て来る「どんなことにも感謝しなさい」ということである。ところが、どんなことにも感謝するということは、はなはだ難しい。それで、未信者のように感謝できることだけ感謝するということになる。これがどんなにもったいないことなのか、残念ながら知ることがないのだ。そこで、不思議になる。クリスチャンのすべてが御言葉にあるので「感謝」しようと思うはずなのに、実際には「感謝できないものは、感謝できない」というような者がでてくる。それならまだ意識的なのだが、何も考えずに良いことが起こっても「感謝」しない者が多くいるということだ。聖書が「どんなことにも」と書いたのには、必ず良い意味があるはずだ。それはやってみないとわからないだろう。ところが、ここでも「感謝」という言葉をことあるごとに言うことだと思っている人がいる。呪文ではないので、心のともなわない言葉だけならば意味がない。言葉だけで、本当に感謝するのでなければ、聖書の意味を理解したことにはならない。どんなことでも感謝するとなれば、嫌なことも、困ることも、時には病気ですら、「どんなことにも」に含まれるのだ。神の支配が完全に自分の上におよぶために、自分の力で頑張らないことが信仰者には必要なのだが、それが意外と難しいのだ。そして、宗教上の頑張りが、どれほど悲劇を生んできたかを考えれば、「感謝」の意味がわかるはずだ。頑張っている人は感謝はしない。しかし、頑張ってできることとできないことがある。では、できない時にはどうしたらいいのだろう。絶望するだけだ。自分の力でできなくても神にはできるのだから、頑張る事をやめて、神の支配の中に入ればいいのだ。神が自由に働くために、自分で頑張ることをやめる方法で一番簡単なのが、「どんなことにも感謝」することなのだ。まあ、ためしにやってみたらどうだろう。口先だけの感謝では、神にゆだねて任せることにはならないので、神は働けない。だから、神への感謝を神への全き信頼、あるいは神への完全な従順と理解できれば、未知の領域に昇華できるだろう。(サクマ)

 

8月23日(土)

あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者もありません。

イザヤ64:3

 

 

聖書には「待つ」、「待ち望む」、という言葉が多くあります。私たちの信じた神は、誠実なお方なので、「待つ」ことが裏切られることはありません。主が「待て」とおっしゃれば、待つことも信仰になります。しかし、ただ待つことは時に辛くなります。ですから、何か自分に問題があるのではないかと考えます。その時に、信仰とは逆のことをしてしまう人は多いのです。信じて待てばいいのですが、苦しければ待てなくなるので、自分でいろいろと手を尽くすわけです。確かに人間の分と神の分がありますから、怠け者のように怠惰でなにもしないというのは問題外ですが、努力して自分の義を立ててもいけないのです。あくまでも信仰による義認でなければなりません。そこらへんが信仰者にとっては難しい問題です。しかし、今日の聖句を見てください。救いは神からきます。しかも確実に救ってくださいます。どれぐらい確実かと言えば、この世を本当に終わらせて信じた者を天国へ連れていってくださるというのです。この世を終わらせてしまうのですよ。この世だけならば、苦労ばかりで、希望が消えていきます。でも、天国へ連れ帰るためにイエス・キリストが働いてくださっているのです。神は、一人一人をちゃんと見ておられます。そして、イエスを信じて待てる人を探しています。人間には考えもつかないような、最高の方法で信じた者を救う神は、信じる信仰を測っています。それは、信じたら商売繁盛、良縁に恵まれ、家内安全、願いが叶う、というようなことを意味しません。事実、信仰者の生活を見れば、いつも良いことだけというわけではありません。それなのに、信じることのできる神がいるのです。そして、その信仰は決して無駄に終わる事はないし、不思議と喜びが内から湧いてくるものです。イエスの福音は、聞く者を嬉しくさせるのです。ご利益というような次元で生きることがもうできなくなる、そんなイエスとの出会いがあり、そのイエスが復活したので、今も生きていてくださる。だから、待つことができるのです。必ず来てくださるから。そして、待っていた者のために、すばらしい計らいが用意されていることを知っているのです。そのような神は他にはいないのです。あなたの信仰は必ず報われます。ありがたいですね。(佐久間)

 

8月24日(日)

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30:14

 

 

主の御言葉を守り行うことが聖書に出てきます。勿論、自力だけでは難しいでしょう。しかし、今やイエス・キリストは預言の成就として人の救いを果たしました。それは、キリストを信じた者を清め、聖霊を送り、新しい命に生かすことでした。そればかりか、神の子となるように、信仰者の成長が可能となる道を作られたのです。それは、もっぱら聖霊の御業で、たとえ私たちが寝ていても休みなく働かれる霊の働きです。そこで、聖書に書かれた通りに成長を続ける人は、御言葉の御力に気が付くようになります。信仰が理解されない日にも、迫害された日にも、病気に伏せる日も、孤独を感じて淋しくなる日にも、災いの日であっても、あなたは倒れることなく、負けることもない。あなたは、主の御言葉が必要になるだろう。聖書に向かい、御言葉を祈り求める時、確かに主はお語りになる。たとえ、手元に聖書がなくても、御言葉が浮かんでくるだろう。忘れていたはずの御言葉を思い出すに違いない。必要なら、肉の耳でも神の御言葉を聞くだろう。ある人は、祈ると主の御声が聴こえ、それが不思議でならない。まだクリスチャンでもない時にすでに聞こえていたのです。そして、聖書を初めて手にして、読み始めると、あっ!と驚きました。そこに、自分が聞いていた御声の言葉が書いてあったからです。このようなことが本当に起こっています。聖書が本でしかなくなっていないでしょうか。開かなければ読めない御言葉か、それとも、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にある」でしょうか。よく考えてみましょう。御言葉の通りにできれば、どれほど祝福されたクリスチャンとなれることでしょうか。そして、御言葉は、あなたのごく近くにあるのです。御言葉を行う恵みがあります。主イエスは、旧約聖書に書かれた通りに行動しました。つまり、御言葉の通りに行えたのです。口と心に御言葉がある、そうゆう人になりましょう。信仰の大きな飛躍がここにあります。(佐久間)

 

8月25日(月)

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられた。主は御言葉を遣わして彼らを癒し/破滅から彼らを救い出された。主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。

詩編107:19-21

 

 

何か良いことがあったので、嬉しくて牧師のところへ行った、というような人はほとんどいません。どちらかと言えば、切羽詰ってとか、何か悩みを抱えて相談に来るという場合がほとんどです。それで、世に悩みの種が数え切れないほどあることに驚かされます。神様はありがたいことに、そうした多くの難問にもちゃんと解決を与えてくださいます。たいていの場合、人の内に問題を解決する力があるものですが、何か困難な問題が起こったりすると、恐れに取りつかれてしまうことがあります。スポーツなどを観ていればわかりますが、相手を恐れると勝つことはできなくなります。相手をのんでかかれば、優位に戦えますね。だから、高度の戦いになれば精神戦が大きな意味をもつことになります。同じように、対人関係も愛の関係なら心配いりませんが、緊張を強いられる関係や、自分を恐れさせる関係では、悩みに陥ることになります。そこで、精神的にまいってしまうのです。だからこそ、精神的に支えてくれる存在や、自信を回復してくれる存在が必要なのです。本来はイエス様に頼ればいいことですが、恐れはイコール不信仰と言われるように、イエス様を見失うのです。それで、信仰者は、イエス様や聖霊様との関係を日々築いていく必要があります。そして、聖書から語られる主を知ることです。今日の御言葉も、力ある御言葉です。万が一、苦難に遭遇することがあっても、あなたは救われるでしょう。あなたが、この御言葉のように主を信頼して信じているならば、あなたは救われます。救われたなら、主をほめたたえましょう。感謝を讃美にしてあらわしましょう。・・・・時々、信者さんから良い報せを聞くことがありますが、牧師は自分のことのように一緒に喜んでいます。たぶん、小躍りして喜んでいます。(さくま)

 

8月26日(火)

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。

イザヤ60:1-2

 

人は倒れても起き上る事ができる。それも、何度倒れても起き上れる。その人があきらめない限り。さらに、キリスト者はどうだろう。信仰をもっているのなら、もっとすごいはずだ。主の御声がおごそかに告げる、「起きよ、光を放て」。あなたがどのような状態でいたとしても、たとえ暗黒に捕えられていたとしても、主の時はやってくる。その時、あなたは立ち上がる。主の栄光が自分の上に輝くことを想像してみよう。この世は、最後に滅びることがきまっている。ソドム、ゴモラのように、この世への神の裁きは必ず起こる。だから、最期までこの世には闇が覆っているだろう。それにもかかわらず、イエス・キリストを信じて救われたあなたには、主が輝き出で、主の栄光が輝くのだ。だから、この世のくびきにつながれていてはいけない。イエスが語られた通りに、重荷をおろし、主の解放を経験することができる。ただ、イエス・キリストを信じて口で告白することによって、あの重荷から解放され自由を得ることができる。中途半端な者は、一途にイエス・キリストを求めて近づくことだ。祈りが必要となるから、祈る事ができるようにまずは主に願ってみよう。悔い改めと清めは主の憐みにすがってなせばいい。主が今も生きていて、あなたの救いを完成させるために休まず働いていてくださることを信じよう。この世に目を向けている時には、心配事が起こり、自分の力で何とかしようと思っていると思い煩いで心をいっぱいにすることになる。何度も繰り返せばいいかげんに分かってもよさそうなものだ。キリストの十字架の贖いと神の恵みでただで義とされることを信じよう。あなたは神の栄光を現すために選ばれたのだ。そのことを信じることがあなたの仕事なのだ。喜んでいよう。主は休んではいないのだから。(サクマ)

 

8月27日(水)

イエスはお答えになった。「・・・わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

ピラトは言った。「真理とは何か。」

ヨハネ18:37,38  

 

 ここは、イエスがピラトから尋問を受けている緊迫した場面です。イエスは、ご自身のことを説明しています。イエスのお言葉を聞いて、ピラトが思わず発した問いは、「真理とは何か」というものでした。真理とは、キリストの人格とその救済の行為を示します。ですから、「キリストに属する人は皆、キリストの御声を聞く」と言い換えることができるのです。キリストは復活したので、今も生きておられます。ですから、御声を聞くことができるのです。そして、真理を見極めるためには、イエスの証しを知る必要があります。それで信仰をもって聖書を調べているのです。ヨハネ1:17には、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」と書かれています。人の救いは、律法の行いではなく、キリストの恵みと真理によるのです。ここまでくれば、イエス・キリストが何と語られたのか、もう一度読み直してみたくなりませんか。夏休みももう終わりますが、夏休みの最後に福音書を調べてみるのも面白いと思いますよ。前に読んだ人も、今度はもっと深く理解できるはずですから、再挑戦してみてはいかがでしょうか。(佐久間)

 

8月28日(木)

わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。あなたが計らってくださいますから/とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます/あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い/あなたの御名に。

詩編52:10-11

 

岡山の牛窓というリゾート地に知り合いがペンションをやっていたことがあって、一度訪ねたことがあります。その時に、オリーブ畑に連れて行ってくれたのですが、美しい瀬戸内海を眼下に眺める小高い丘の上にオリーブの木が茂っていました。それは、日本とは思えないほど穏やかで美しいものでした。聖書ではよくオリーブの木が出てきます。おいしい実を結ぶし、良質の油もとれます。オリーブ油は献げ物にもなります。その油が聖霊を象徴していることでもわかるように、聖霊を内に宿す神の民はオリーブの木で象徴することができます。この聖徒は、神の家にとどまります。神の支配よりももっと神に近い関係です。このような人は、神の慈しみに依り頼み、よく神にゆだねるとい言いますが、神が自分のためにすべてを良くはからってくださると信じています。それは、信じた通りになりますから、感謝の讃美を献さげるのですが、それがこの地上だけではなく永遠に続くのです。それほどの喜びを他に見つけることはできません。あなたは、主の御名に望みを置くことができます。それは、あなたが主の慈しみに生きているからです。主はあなたに恵み深いのです。ハレルヤ!(佐久間)

 

8月29日(金)

恐れをいだくとき/わたしはあなたに依り頼みます。

神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。

詩編56:4,5

 

笑って過ごせる人生は楽しいだろうが、涙の日も不安で押しつぶされそうになる日だってあるだろう。それでも、人生は笑い飛ばしているほうがいい。年齢によって人生は刻々と変わっていくものだ。正直に一生懸命生きる方が結果は良いだろうが、置かれた状況でそうもいかないかもしれない。一番、まずいのが恐れることだ。これは相手のいることなので、自分がどうすることもできないかもしれない。しかし、クリスチャンはとっておきの奥の手がある。それは、今日の詩編を読めばわかるだろう。恐れると、何も考えられなくなるのだが、まあ、それでも心配のあまりかなり否定的なことをあれこれ考えて、どつぼにはまる。どんどん、否定的エネルギーが全身に毒をまいていくから、へたをすれば病気にだってなりかねない。そこで、クリスチャンは信仰を考えることになる。苦しい時の神頼みは、どうしても神を私的に利用している感がぬぐえない。でも、聖書に出て来るヒーローたちは、そのようには感じないのだ。ここらへんが信仰の肝心なところだと思う。困って牧師に相談に訪れる人は多いが、クリスチャンとそうでない人ではやはり違っている。たとえ、言葉で神を信じますと言われても、信仰の質が違うのがいやでも見えてしまうのだ。悔い改めて、イエス・キリストを信じ、全てを委ねて洗礼を受けるということは、そうとうすごいことなのだ。そうゆう実感がなくとも、実際に大きな変化が起こっているのは確かだ。問題は、キリストの花嫁と言われることだ。救いを結婚に譬えているのだ。そこで、信仰の質の問題は、いかにイエス・キリストの良い花嫁であるかどうかということにかかっているように思う。それはどれほど愛しているかと言い換えることができるだろう。キリストの頭に香油を注いだ女のことを考えてみればわかる。まわりで非常識だと非難していた人たちにはわからない。あの非常識なほど大きな信仰の女に近づきたい。もし、同じように主を愛しているのなら、ピンチの時にも頼れる方がいることを覚えよう。所詮、相手は人間だから、神に依り頼む者は恐れることがないのだ。主は、あなたのために素早く動き出すだろう。神にかなう相手などいなのだから、勝利は決まっている。主を讃美しよう。今日も、元気に笑って生きよう。(さくま)

 

8月30日(土)

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

ローマ15:13

 

信仰はとてもすばらしいものです。クリスチャンはこの世のことに目や心を奪われてはいけません。信仰が失われるかもしれないからです。生まれながらの自分の力では限界があり、人に頼る事の愚かさも知っているはずです。この世の支配者は悪魔です。だから、この世に魅力を感じるのは危険なのです。信仰は、あらゆる喜びと平和を得させてくれます。この世のものはやがて朽ちていくものですが、信仰で得るものは永遠なのです。比べることのできない価値があります。日々、この信仰を使うことです。神を仰ぎ礼拝し、讃美を献さげることも信仰の力です。創造的な力も、泉のように湧いてくる愛も、聖霊との交わりも、キリストの御名によって祈る願い事も、永遠に耐えるあらゆるよいものが神から直接あなたへとそそがれるのです。今日は、主の祝福を感謝して受けてください。信仰を通して得られるものがあらゆる喜びと平和であることを体験できますように。聖霊があなたに理解できるように力をもって現れますように。その聖霊が希望にあふれさてくださいますように。恵みの一日となりますように。(佐久間)


8月31日(日)

その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。

マタイ24:36-37

 

ノアの箱舟の話をファンタジーかなにかのように考えている学者は少なくない。だから、今もアララト山の上に箱舟があると、探検隊を派遣し、木片でも持ち帰ることを試みることは、バカバカしい話だ、と公言する。確かに、旧約聖書のはじめのほうに(6章)ノアの話しは出てくる。しかし、新約聖書にもノアのことが出てきているのは、考慮しなければならないことだと思う。ノアの洪水物語が架空の作り話という証拠はない。それよりも、貴重資料でもある新約聖書に書かれてあり、何よりもイエス・キリストがお語りになっているということは、ノアの話しは本当のことである証拠ではないだろうか。しかも、この世の終わり、終末に起こる再臨のことを話している文脈で出てきていることが何よりも重要だ。なぜなら、ノアの洪水物語は、人間の罪に対する神の裁きであった。そして、キリストの再臨も神の裁きの日なのだ。そして、再臨の日がいつとはわからないが、前兆が明確に教えられ、しかも、ノアの時代の裁きの徹底ぶりは、人類の生き残りがノアの家族だけだったことにはっきりと示されている。終末は、誰もが神を信じず、自分の欲望のままに生き、罪を罪とも思わず、多くのひどい事が起こっていくだろう。反キリストが現れ、人々は騙されていくが、そのせいで滅びてしまう結果となる。神の御言葉は必ず成る。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだから」とイエスは預言された。世の中が堕落し、罪が普通となり、悲劇が繰り返される。そして、クリスチャンの語る福音に耳を傾けずに嘲笑や侮辱するものがたくさん現れるだろう。無神論だからと言えば、それが正しいことのように受け入れられる世界で、「神の裁きが迫っている、世は終わる」と言えるだろうか。バカにされることはあっても、褒められることはないと思っているだろう。しかし、この後に、忠実な僕の話しがでてくるのだ。「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」(マタイ24:46)とある。あなたは、はたしてどうであろうか。突然、終わりはくるだろう。それも、遠い将来ではなく、近未来に。その時、あなたは主にみられているだろう。忠実な僕のように。(サクマ)