ディボーション2014年9月

9月1日(月)

主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。

詩編37:23,24

 

私たちはクリスチャンになり人生を大きく変えることになりました。それからの日々をどのように生きてきたのか振り返れば、主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださっている方であることを知ることができるでしょう。恵みと祝福がたくさんあるからです。しかし、クリスチャンはたとえ自分勝手に生きてきたとしても、困ればすぐに神に泣きつき、悔い改め、御言葉に答えを求め、祈るのです。もし、信仰がなければ決してそうすることはなかったのです。長い人生の中では時に、倒れるほどの試練を経験するかもしれません。それでも、クリスチャンは考えるのです。いったいこれはどうしたことか、何がいけなかったのか、自分の罪か、呪いか、悪霊の攻撃か、信仰の持ち方がいけなかったのか、とあれこれ考え、なんとか逃れようとします。しかし、しまいには疲れ果て、主の御もとへ戻ってくるのです。そして、自分が打ち捨てられたのでないことをはっきり知るでしょう。なぜなら、御言葉の通りに主がその手をとらえていてくださるからです。あなたはそうした意味で特別な存在なのです。主を信頼し、讃美しましょう。(佐久間)

 

9月2日(火)

わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」

この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。

 

預言者イザヤは天の御座に主が坐しておられる光景を見た。それがどのようであったのかは写真かビデオでもなければ正確にはわからないが、この預言者の言葉で十分な気もする。本来人間が見ることのできない神の御姿を天の玉座に認めたのだし、私たちの想像を超えているのは、「衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた」と描写されていること一つとってもわかる。しかし、天国にみごと辿りつければ、イザヤの見たものがなんであったのかははっきりするだろう。六翼の天使セラフィムは、直接神に仕える高位の天使である。その聖なる天使であっても、顔と足を二つの翼で隠さなければならぬほどの神の栄光を拝みたい。神の聖に圧倒されても御側近くに留まり続けるセラフィムは特別なのだろう。その聖天使が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」と、唱えざるを得ないほどの聖なる主の栄光があるのだ。その声は、神殿の入り口の敷居が揺れ動くほどの力があった。そして、神殿は煙に満たされた。主の臨在により栄光が満ちあふれている光景である。この地上でも、ソロモン神殿の落成式の時に神殿は煙に満たされた。そして、現代でもこの煙が満ちたという証しを聞いた。大いなる主の栄光を讃美することは、主の聖なる臨在に触れる方法の一つである。主を求め、心から讃美を捧げて、主を礼拝しよう。(サクマ)

 

9月3日(水)

主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

詩編136:1

 

主を讃美することは、すばらしいことです。なぜなら、自分がいかに神に愛され、恵まれているかを知ることになるからです。人間が本当に欲しいことは、無条件に愛されることです。

それは私たちの神のように慈しみ深く、しかもとこしえに絶やすことのない慈しみでなければなりません。感謝なことに、クリスチャンはみなこの慈しみ深い神に愛されて生きる者となりました。罪によって死んでいたのに、その意味すら悟る事ができなかった者を見捨てることなく、御子イエスの犠牲をもって罪と死と悪魔から解放してくださったのです。だから、今はなおさら主の慈しみの中に生きていることが実感できるはずです。そうであるのなら、今日の詩編のように讃美するとよいでしょう。ある時、教会成長を学ぶセミナーに参加していた時に、有名な伝道者のA先生が詩編136篇を全員で交読させたのです。上の句をA先生が、下の句の「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」を会衆が唱えるのです。26節すべての下の句は同じ言葉です。だから何も見なくても唱えることができました。そして、A先生は、初めは弱く、だんだん強く、最後は大声で唱えましょうと指示を与えました。そして、会衆は100名程いたと思いますが、全員で交読しました。だんだんと声は大きくなり、不思議な喜びも広がっていきました。主を讃美することの大きな喜びが湧いてきたのです。人は主を讃美するために生まれてきた、と言われれば、そうなのだと納得したでしょう。交読が終わった時の大きく深い感動は今でも忘れられません。讃美することが分からないなら、「慈しみはとこしえに」と唱えましょう。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」、これが讃美の意味です。すべての聖徒と共に、やがてこの御言葉をもって讃美する日がやってきます。その時に、どれほどの感動が待っているか言葉になりません。クリスチャンのみなさん、ことごとく主に感謝しましょう。そして、信仰をもって、「慈しみはとこしえに」と讃美いたしましょう。(佐久間)

 

9月4日(木)

その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

Ⅱコリント5:15

 

クリスチャンの信仰は、人間の弱さを無視しませんが、甘やかすこともありません。それは、罪が100パーセント人を死に至らしめるからです。すこしでも油断すれば、人は簡単に堕落します。そこで、その罪の恐ろしさを理解させるためにも、救いの方法は神の御子を十字架で死刑にすることだったのです。これほどのショッキングなことはないでしょう。しかもイエスの死は、すべての人のためだったのです。罪の贖いとして私たちは十字架の意味を教えられました。しかし、聖書にはそれだけではなく、イエスを信じて救われた人がどのように生きるようになったか、ということまで教えています。それが今日の聖句です。日本人の神理解は、ご利益と結びついていることはよく知られています。そのためにキリスト者になっても、自己の利益のために神を使うということをしてしまう傾向があります。しかし、今日の聖句を見ると、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく」と書いてあります。そうならば、ご利益を得ようと信心することはありえないことになります。自分のために生きるのでなければ、誰のために生きるのか、それはイエス・キリストのために生きるのだ、というのです。そのことを今日は瞑想してみましょう。一日15分の瞑想や祈りは、健康に長生きする秘訣のひとつだとアンチエイジングの本に書いてありましたが、日々のストレスに目を向け続けるのではなく、まったくこの世を離れ神との交わりに入ることはやはり必要です。そこで、得るものは今日の御言葉の意味を悟らせてくれるでしょう。言葉では説明できなくても、知る事のできるものもあるのです。(佐久間)

 

9月5日(金)

しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

ルカ11:8,9

 

イエスの教えは一貫している。神の国の到来を告げていた。今もイエスを信じる者は、神の国に生きることになる。それはダイナミックなもので、観念とは違う。今日の聖句は、主の祈りを教えた後に続く譬話の結論から、核心部分に一気に進む場面だ。祈りの極意がしつように求める、とするならば、求める内容が御心に適っている前提がある。それは、人が神の国へ入り生きることを実現するものに違いない。答えは、13節に出て来る通りに「聖霊」を求めるということだった。これほど、明確に書かれていても聖霊をしつように求める、ということがなかなか実行されていないことは明らかだ。そもそも、譬話は、夜中に友が来て食べ物がないから隣人に求めるというものだった。問題は、この人は何も持っていないから友の必要を満たすことができないことだ。しかし、人間ですらしつように頼めば与えられるとするならば、神に対しても同じように聖霊を求め続けることが必要なのだ。もらえるまではやめないというしつようさが重要なのだ。罪人を神の子へと造り変えることに必要なことは、造り直すことだ。それは、創世記の創造物語と同じ要領で再創造するしかない。そこで、神の御言葉と聖霊が不可欠になる。勿論、罪の処理は、キリストの贖いによる。だから、徹底的な悔い改めと清めをキリストの十字架と血に求めることだ。そこで、聖霊を求めて祈る。それは、信仰に集中していくことで、この世に気持ちを残してはできない。この過程で、信仰が清まっていく。その信仰で聖霊をうけることになる。(サクマ)

 

9月6日(土)

あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。

ユダ1:24-25

 

神を讃美するということは、知っていても、どのように讃美するかはわからないと思っている人はすくなくありません。祈りの中で讃美は大切であるのに、どう祈るのかわからなければ、「主よ讃美します」で終わってしまいます。もっと主を讃美したいのに、むずかしい。そこで、聖書から具体例を見つけることにします。今日の聖句はユダ書ですが、ここにも最後に讃美の祈りが書いてあります。ゆっくり読んでみましょう。驚くことにこの短い讃美の祈りの中に信仰を奮い立たせる真理が輝いています。私たちが罪に陥らないように守っていてくださる神。私たちが喜びにあふれて非のうちどころのないものとして、栄光に輝く御前に立たせることのできる神。私たちの救い主である唯一の神。こうして並べると、感謝が湧き起ってきます。そして、弱い私でも大丈夫と思えるのです。それがどんなにすごいことかわかるので、思わず主を讃美したくなります。このように、聖書を読んで学んだ真理を確かめることです。自分が救われるために主がどれほどの犠牲を払い、愛を込めて救いの道を切り開いたか、そして、現実にどのように自分の生活に関わり恵みを賜ったか。すべては自分の功績ではなく、ただ主イエス・キリストの愛の業によって救われ、天国に入れるように日々守られ、整えられ、導いてくださっていることを確認するのです。今いまし、昔いまし、やがて来られる方。現在、過去、未来に在る方、「わたしはある」と言われた唯一の神にキリスト・イエスを通して栄光が永久にありますように。(佐久間)

 

9月7日(日)

アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。」 こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。

ユダ1:14-16

 

エノクは聖書の登場人物の中でも特別な存在です。彼は生きて天に挙げられた聖なる人でした。そのエノクの名が出て来る貴重な箇所が今日の聖句です。ユダは、当時の教会に入り込んできた教会の破壊者と闘うようにこの手紙を書いています。そして、それは今日の教会まで続いています。しかし、確かな事はこの世は裁かれることになっているということです。不信心な者には苛酷な裁きが待っているのです。クリスチャンは人に惑わされないように気を付けなければなりません。影響力のある人は信仰を破壊します。方法は不平不満、欲望、大言壮語、こびへつらい、など身近に見ることのできるものです。クリスチャンは感謝して生きる人たちです。どんな境遇にも感謝できる信仰が与えられているからです。イエス・キリストが生きて働いていてくださるので、道を知っている人です。内住の聖霊は人生のパートナーです。聖書の御言葉に書いてある通りにまっすぐに生きていけばよいのです。その子との正しさはやがて裁きの日に分かります。悪を恐れたり、妥協したり、なびいてはいけません。正直に正しい生き方を貫けば、心はいつも強いのです。あなたには心強い味方がついています。だから勇気をだしなさい。主に愛されている人よ。(佐久間)

 

9月8日(月)

人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。

ヤコブ4:17

 

罪を犯さないことだけが罪ではない。なすべき善を知りながら行わないのなら、それも罪なのだと聖書は教えています。これは結構やっかいです。罪を犯さないように気を付けることはあっても、消極的罪があることに思い至らない人は結構いるはずです。たとえば良きサマリア人の譬話を思い出してみれば、災難にあって倒れている旅人を避けて通ったレビ人や祭司は、おそらくこの「なすべき善を知りながら、それを行わない」罪を犯したことになるのでしょう。何もしないのだから、特に問題は無いと思おうとしても、そのことが気になって後で後悔してしまうような場合も該当しそうですね。それで、クリスチャン信仰は決して消極的なものではないということがわかります。何をなすべきか、それは善か悪か、このようなこともちゃんと考えるのです。謙遜であっても善に対しては積極的であることがクリスチャンの特徴なのです。さて、あなたは今日の御言葉を読んで、どう思ったでしょうか。何か心当たりがあるのではないですか。しばし、祈って考えてみましょう。主の御心がなりますように。(佐久間)

 

9月9日(火)

イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

ヘブル7:25

 

イエス・キリストがどれほどあなたにとってすばらしい存在であるか、瞑想しましょう。人間の限られた常識ではとらえきれないほど大きな愛であなたを愛しています。人間が幸福になることを妨げるものは罪です。罪は必ず裁かれなければなりませんが、その罪を裁くことのできるお方は神だけなのです。しかし、罪の裁きは死なので、神は罪を犯した人間を死刑としなければなりません。でも、神は愛が本質のお方なので、あなたを愛すると言えば愛をつらぬくことになります。ここに矛盾があるのですが、神は独り子イエスを犠牲とする道を選びました。つまり、あなたの罪を罪の無いイエスに負わせて十字架で裁かれたのです。すべてあなたを愛していたから起こったことです。イエスは自ら進んであなたの罪と呪いの一切を引き受けて、身代わりに罰を受けて死なれたのです。しかし、それで終わる事はありませんでした。三日目に墓から復活したのです。死すら打ち破られたのです。敗北と思われた十字架の死は、勝利となりました。旧約聖書で聖所の奉仕が書かれていたのは、人の罪を贖うために犠牲をささげることが必要であることを教えていたのです。その犠牲の本体はイエス・キリストでした。そして、神と人間の間で仲保の役を行った祭司はイエス・キリストの働きを象徴的に表していました。つまり、天の聖所の祭司こそイエス・キリストで今もあなたの救いのために奉仕されているのです。「イエスは永遠に生きている」ので、天の祭司として、あなたのために執成しておられるのです。「御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」という御言葉は、あなたの救いの保証なのです。イエスこそが、あなたを完全に救うことがおできなれるのです。主をほめたたえましょう。(佐久間)

 

9月10日(水)

悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、・・・・。

詩編37:1-5

 

今、机に置いていた聖書が落ちてゴミ箱に入ってしまった。なんということだろうと、慌てて聖書を取り出し、安全なところへ置いたのだが、しばらくして倒れたままのごみ箱をおこしてみると、中に何か入っている。よくよく見るとなんと聖書のページが抜け落ちてそこにあるではないですか。それは創世記1:1から、つまり1ページから4ページまででした。気づかなければ、私の聖書は「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」という言葉から始まっていました。こんな聖書を持っていたら、食べるものにも事欠く極貧生活になっていたかもしれなかった、と震え上がりました。やれやれ。さて本題です。クリスチャンになれば、日々の生活が平和で安楽で、おまけにリッチです、と言えればいいのですがそうでもないのです。やるべきことはあるし、主のお導きは時になぜだろうとその意味がすぐにはわからないことだって起こります。そこで、あまり関わりたくない人とも会うことになるかもしれないし、好き嫌いは言ってはいけませんが、それでも嫌いという人とも話さなければならないことだってあるものです。時には、人をうらやむこともあるし、悪いことをしてお金を儲けている人が身近にいたりすると、なぜか腹を立てていたりしますが、良く考えるとうらやんでいたりします。本当は、悪事や不正を働いて一時良い想いをしたとしても、末路は破滅が待っているものです。ましてやそのような人たちの心の中は幸せであるはずがありません。それなのに、人というのは不思議で、内実を知らないのにうわべでうらやましいと思うと、わけもなく自分がみじめで悲しくなるものです。それがクリスチャンであっても淋しく感じるのなら、今日の聖句を読んでみましょう。実は、先日アメリカ人の友人が私のために祈ってくれたのですが、その祈りの中に、「主がいままでに与えてくださった恵みを全部、佐久間牧師に思い出せてください」という言葉がありました。一瞬ドキッとしました。そして、優しい主の恵みが流れ始めて、人生で一番辛い時のことが目の前に見えてきたのです。その時、主がどれほど良くしてくださったか、絶対絶命のピンチで人生が破滅すると思った時に、人間業ではできない方法で次々と助けてくださったのです。それも、約一年間の長きに渡る出来事でした。そこで、得た最大の恵みは聖霊のバプテスマだったのです。そのことを忘れてはいけないと主は、友人を通して思い出させてくださったのです。「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ」。この主の御声を聞いたら、どうやって生きたらいいか分かるのではないですか。私たちはすでにこの世のものではないのですよ。あなたは神の子なのです。(佐久間)

 

9月11日(木)

だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

マルコ11:24

 

祈りについて学ぶことはたくさんあるでしょう。しかし、それが信仰と密接に関係していることは理解されていなければなりません。今日の聖句は有名な聖句で、クリスチャンなら知っていて当然というような御言葉です。それだけに、これだけはっきり書かれているのに、なぜこの祈りができないでいるのか不思議になります。間違った祈り求めは、当然聞かれません。そこで、どうゆう祈りならば聞かれるかと考えることになります。そこで、信仰の不確かさが見えてくるので、先へと進めなくなったりします。正しいことで、主の御心に適った願いは聞かれるはずです。では、自分が求めていることは正しいことだろうか、神の御心に適っているだろうか、このように疑問が湧いてくるのです。貪欲は罪だと教わりました。それで、これは貪欲で祈っているのではないか、といったような心配すらします。信仰は、放蕩息子の譬話でわかるように、父の財産を生きているうちにくれと息子が言い出し、その通りに財産を分けてくれたところから話がはじまりました。これでわかることは、息子だからもらえたのです。つまり、あなたが財産を分けてくれと言い張れば、天の父はくれるでしょう。問題は、そのお金を全部失ってしまったことです。それでようやく自分の罪を理解しました。それで、悔い改めて父のもとへ帰ったところ、父は喜んで息子として受け入れてくれたのです。彼は、初めは父ではなくお金を求めたのですが、放蕩の後で父の愛の価値がはじめてわかったのです。彼が求めるべきは、お金や財産ではなく父だったのです。この愛の関係を信仰というのです。そうであれば、どうすればよいのか自分で考えることができます。今まで、うまくいかなかった人は、もう一度天の父のことを考えてみましょう。その愛が信じられますか。父と共にいることができれば、それがベストだと喜んでみましょう。天の父の愛を十分いただき、味わいましょう。どうすればいいか?ですって、今日の聖句に書いてあるではないですか。(佐久間)

 

9月12日(金)

わたしを愛する者に宝を得させ、またその倉を満ちさせる。

箴言8:21

 

神の民は安心して人生を歩むことができます。信仰心は正しいことを選び、勤勉に生きることを容易にします。人に対しても親切です。物事を神の目で見ようとします。貪欲を警戒し、高慢を嫌い、謙遜を常とします。神を第一とし、神を畏れるだけでなく、愛します。イエス・キリストへの敬慕は強く、讃美することを喜びとします。聖霊の内住を信じ、時には友のように話しかけ、何でも相談します。祈ることを知り、特別な時にどう祈るかも知っています。受けるより与えることを良しとして、貧しい人への配慮をおこたりません。困った人を見ればすぐ主に執成します。自分に与えられた賜物を上手に用います。主がすべてを支配し、偶然はないと信じているので、目の前に現れる人に主がどうされたいのかを考え、直接主に聞きます。主の御心をなす時には大胆に行います。愛と呼ばれるものに心を向けます。まず、神の国と義とを求めています。聖書に親しみ、御言葉を愛しています。そして、今日の御言葉を信じています。だから、一生涯、困ることはありません。豊かになっても信仰で豊かになったことを覚えて、ますます主を信じることに熱心になります。生活の隅々まで主への信仰で気配りをおこたりません。だから、この生涯は喜びで満ちているのです。どのような境遇でも、主を喜ぶことをやめません。自分にあった最良の人生を主はくださると信頼し、讃美を絶やさないのです。感謝は義務ではありません。主が良くしてくださったことを想いださせてくださいと祈りましょう。この世にどっぷりつかってはいけません。私たちは寄留者であって、国籍は天にあります。神の国に生きることを信仰で確かめてください。主を愛しましょう。愛しましょう。今日の御言葉の通りになりますように。(佐久間)

 

9月13日(土)

今、よく考えよ、主は聖所とすべき家を建てるためにあなたを選ばれた。勇気をもって行え。

歴代誌上28:10

 

M・バジレア・シュリンクをご存じだろうか。霊的指導者として有名な人です。この方が、マリア姉妹団を作り、はじめは礼拝堂も無く、シュリンクの両親の家に26人ものシスターが住んでいたそうです。当然、彼女はこれではいけないと思ったのだが、主は礼拝堂が無いことよりも礼拝者が少ないことで心を痛めたことを彼女に教えたのです。多くの人は、教会とは十字架の立っている建物だと思っています。その礼拝堂が満席になることはほとんどの教会でないことです。それを主がどう思われているかということは意外と考えられていないのです。神を礼拝する者が少ない事を主が心を痛めていると知ったら、信徒はどうするでしょう。聖書は聖徒の家よりも先に神の家を建てる必要があることを教えていますが、バビロンから神殿を建て直すために帰還したイスラエルの民も自分たちの家を先に建てたので主にそのことを示されました。聖書の神は、神の家を建てるように促しているのです。日本中に教会がもっとたくさんあるべきです。目立つ一等地に立派な教会が建つだけではいけません。本当に必要なことは、主を礼拝する人が増えることなのです。シュリンクたちは、お金も無い、土地も無い、スポンサーもいない、何もない所から神に祈って、祈って、祈りによって神の御力に頼って、広い土地を無償で得、建物も建築許可もはっきり主の業だとわかる方法で手にいれました。更に広大な土地を得てカナンと名付けて伝道奉仕に使えるようにしたのです。このような話はたくさん聞いたことがあるのではないでしょうか。主は、このようにして祈ること、信じること、忍耐すること、人にできなくても神には何でもできることを教えたのです。スクエアー・ジャパン・チャーチも主を礼拝する人増やすために祈り、信仰を現さなければなりません。皆で祈るのです。神の家、祈りの家が与えられるように、礼拝堂が与えられるように祈りましょう。(佐久間)

 

9月14日(日)

わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。

出エジプト記25:8

 

神のための聖なる所を造ることを、神は命じました。それは、神が彼らの中に住むためだと言うのです。不思議なことに神は人を選ばれます。召された人が集められ、教会ができます。そして礼拝堂が建てられ、そこは聖域となるように聖別されます。目に見える建物と目に見えない聖所がそこにはあります。主の内に私たちがとどまり、私たちの内に主もとどまる、一見わかりにくキリストの説明は、教会を正しく理解するなら実感として体験できます。また、新約聖書では、人を聖霊の宮として説明していますから、究極的には聖霊が内住する人こそ神殿なのです。そのような人がたくさん集まって、キリストを頭として、一つの聖霊によって結び合うことを真の教会としています。それはまるで一人の人の身体のようだと聖書は教えます。信徒相互が互いに愛し合うという掟が全うされている状態です。そのような教会を造ることこそ私たちが求めていることなのです。そのために、一人一人が聖霊によって訓練を受けています。古い自分がだんだん滅んでいき、それに代わって新しい聖徒が出現してきているのです。悪魔の誘惑もそのうち、全く効力が無くなるでしょう。神が私たちと共にいてくださる聖なる教会が与えられるように祈りましょう。(佐久間)

 

9月15日(月)

万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。

Ⅰペトロ4:7-8

 

聖書がはっきりと「万物の終わりが迫っています」と語ると、すごみがあります。「思慮深くふるまい」と書かれているのは、クリスチャンがこの世の人と同じように生きてはいけないということです。漫然と生きないで、信仰で物事をとらえてよく考えて行動することです。自ら身を慎まなけれなりません。すでにあなたは自由ですが、霊の導きに従って生きるように勧告があります(ガラテヤ5:13,16参照)。祈ることは個人差があります。いくらでも祈れる人もあれば、ほとんど祈れない人もいます。義務で祈れば、長続きしません。祈りの方法が何かあるのではと祈りのことを書いた本を調べる人もいます。一時間祈れるように努力して、方法を身につけた人もいます。人のために執り成して祈る人もいます。祈りは課題です。祈りから目を背けていけません。祝福と霊性向上のまたとない方法が祈りなのですから、祈りを研究するのは益です。キリストの新しい掟は、互いに愛し合うことでした。この知識を知っているだけのクリスチャンは多いのです。実践しなければ意味がありません。しかし、ヒューマニズムで愛することではなく、内住する聖霊から出るアガペーの愛で愛することができるように祈りましょう。今日の御言葉にあった通りに「愛は多くの罪を覆うからです」。罪を裁くことは容易いのですが、その権利は主のものです。私たちは、イエス・キリストが模範を示したように愛に徹します。それは罪を見逃していいかげんに扱うことを意味していません。私たちはキリストが罪を負ってくださり、十字架で勝利してくださったことを知っています。その贖いの覚悟をもって主は罪人を悔い改めに導き救ってくださったのです。その方法が愛することでした。だから、私たちは人の罪を贖うことはできませんが、主の十字架へ導くことはできるのです。その方法が愛することです。自分のことを第一に考えればとてもできません。「自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従え」とおっしゃられたイエスの後についていこうとするなら、このことは避けて通れないことですね。でも、主に愛された弟子たちは、この道を辿って行ったのです。私たちも主に愛されて、御心に適う者へと変えられていくのです。この世は一見良さそうに見えますが、終わることが定められているのです。そのために、イエス・キリストはこの世に来られたのですが、二度目に聖徒を救い天国へ連れ帰られるために来られる時こそ、この世は裁かれ、万物は終わるのです。そのことを忘れないでください。主は必ずあなたを迎えに来られます。(佐久間)

 

9月16日(火)

正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。

アモス5:24

 

さて、アモスのこの箇所は、神がイスラエルの民の祭や献げ物、讃美を受けつけないと告げる箇所です。形式的に礼拝しても意味がないというわけです。献金も讃美もただささげているだけではいけない、なぜならば彼らは偶像を拝んでいたからです。それは、今日も同じで、神との関係を正しくするならば、正義を行い、恵みの業を続けるはずです。それが、神以外に心を向けるものが出て来る時に、止んでしまいます。この世が必要としているのは、正義と恵みです。それが枯渇してくると、悪くなるのです。今の世界は、急激におかしな方向へ向かっていると危機感を持っている知識人は多いのです。真の神を拝むのでなく、偶像を拝み始めると、その世界は戦争や疫病、そして大きな自然災害のように大勢が死んでいく方向へ進み始めるのです。正義と恵みの正反対に進むことがないように、選ばれたクリスチャンは、「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ」という預言の言葉を実行しなければなりません。勿論、信仰により、聖霊の御力で行うのです。神と和解し、愛の関係に入る人がどんどん増えるならばよいと思いませんか。私たちには力がありませんが、しかし神に祈ることはできるのです。そして、正しく生きることも、恵みを惜しまずに生きることができます。勇気を出して、明るく、楽しく生活しましょう。終末の戦いはとうに始まっているのですから、キリストの勝利の御旗のもとに集まりましょう。(佐久間) 

 

 9月17日(水)

次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」

Ⅱテモテ2:11-13

 

この聖句とても大切な箇所です。これは、キリスト教会最初の讃美歌だからです。この時代は迫害の時代でした。パウロは殉教の思想を内に持っていたのです。ルターは、「教会は十字架の世継ぎである」と言いました。クリスチャンはキリストの十字架の継承者なのです。そればかりではなく、主の復活を継ぐ者でもあるのです。恥も栄光も主と共にすることを選んだのがクリスチャンだからです。さらに、「耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる」とあります。「キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる」という言葉は、キリストも同じように語っています。「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」(マタイ10:32-33)。この世で、キリストを受入れない人たちをイエス・キリストは天国での永遠の命を保証することはありません。その一方で、イエス・キリストを信じ受入れた者は、たとえ何度も失敗したとしても信仰から離れずに主に真実であろうとすれば、イエス・キリストも驚くほどの忍耐をもってその人を愛し真実であろうとされるでしょう。それが神のご性質だからです。民数記に「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。」(23:19)とあります。神がご自身を否定することはありえないのです。だから、あなたが神に誠実であろうとするなら、神は決してあなたを失望させることはありません。ただ、神を故意に拒否する者を助けることはやはりできないのです。ですから、私たちは、キリストを信じた者がどうなるのか自らをさらし者にして、主の愛を証しするわけです。もしかすると、そのことで誰かが悔い改めてイエス・キリストを信じるかもしれないからです。キリストは、この地上に降りて来られ、罪人を救うために十字架の道を選ばれました。そこに主の憐みと愛が溢れています。ですから、私たちも主の道を辿ることを喜びとしているのです。イエスは神の意志に従順であったために十字架で死にました。そして、クリスチャンも主と同じように、何が来ても神の意志に従わねばならないのです。(佐久間)

 

9月18日(木)

蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。

ルカ10:19

 

この御言葉は、イエスご自身が弟子たちにお語りになった御言葉です。これは、現代のキリストの弟子である、あなたにもあてはまることです。水と霊から新しく生まれ、聖霊に満たされることを真剣に願い求め、聖書を学び、信仰によって生きることを選び、主との交わりを求める人が、人間の敵であるサタンと闘うことは当然のことなのです。人間自体には何の対抗する力がありませんが、イエス・キリストが与えてくださる権威が圧倒的な力を放つのです。これには、サタンも簡単に破れてしまいます。イエスの弟子たちも未熟だった初期からすぐに伝道に遣わされ、そこでは悪魔に支配されている人たちが大勢いたのです。その悪魔の束縛を主イエス・キリストの御名の権威で砕き、解放へと導くことができました。実は、この働きは現代でも重要な聖徒たちの働きです。主は、「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」とおしゃっています。ですから、敵は、あらゆる力を駆使して人間を苦しめているのです。しかし、クリスチャンは敵のすべての力に勝利できます。勿論、自分の力ではなく、あくまでも主イエス・キリストの御力によってです。それなので、悪魔を過剰に恐れてはいけません。自分の力に頼らず、悪魔・悪霊に勝利できても高ぶらずに、勇気をもって、信仰を現し、主の権威で相手を破り、囚われ人を解放するのです。悪霊に苦しんでいる人は身近にも沢山いると思って間違いありません。この世は悪霊の働きを知らない人たちが大勢いるのです。クリスチャンですら、いや牧師や学者ですら、悪霊と闘ったことの無い人は多くいるのです。でも、あなたが身を守るためにも、家族を守るためにも、そして友人、知人を助けるためにも、あなたが戦わなければならない時があるのです。それがわかるように、主との関係を深めてください。自分勝手に働くと思わぬ落とし穴があるかもしれません。でも、戦う時には大胆に、イエスの権威をもって、敵を追い出してください。主は、あなたを遣わすでしょう。その時こそ、与えられた権威を使う時です。(佐久間)

 

9月19日(金)

主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。・・・・主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。詩編34:9、10b

 

どうゆうわけか、私のカレンダーは9月はじまりなのです。それで、8月が終わってカレンダーを9月にしようと一枚破るとなんと何も無かったのです。瞬間パニックに襲われましたがすぐにはどうして???と理由がわかりませんでした。予定は忘れないようにカレンダーに書くので、書き込み式の大きなカレンダーを使っていました。ですから、すぐに困り始めたのです。とにかく、9月はじまりのカレンダーを買おうとあちらこちら探し回ったのですが、どこにも9月はじまりのカレンダーは売っていませんでした。それで、そもそもどこでこの9月はじまりのカレンダーを買ったのかと家内に聞くと、すぐに「アマゾン」でインターネット注文したとのことでした。早速、アマゾンに注文したのですが、どうゆうわけか未だに届きません。9月も19日になったのにカレンダーが無い状態が続いています。それで、いろいろな予定が決まるたびに、メモ帳に書いているのですが、このような時に限って、予定が次々に入るし、肝心の予定が変更になるので、さらに混乱しています。もし、予定の日に現れない時には、カレンダーのせいだと赦してください。こんなことを書くと心配する人が出てきますね。さて、今日の聖句をご覧ください。主を恐れる聖徒には乏しい事は無いと教えています。また、主を尋ねも求める者は、良いものに何一つ欠けることがない、とありますね。生活に不安を覚えたり、足りないと思うことがあれば、今日の聖句を覚えましょう。この通りに信じましょう。結局、この世の金や富を追い求めるようにとは書いていません。そのような言葉が出て来ない代わりに、神を畏れる事や、神を尋ね求める事が重要であることがわかります。安全な利殖があるとすれば、聖書に書かれたこのような教えこそが確実なのです。主は、主を信じる者を幸せにするために働いて下さるお方です。そのことを信頼して、主の愛にいつも心を向けてください。自分の信仰が主に向かっているのか、それとも他のものに向かっているのか、吟味してみる必要がありますね。(佐久間)

 

9月20日(土)

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

マタイ6:14,15

 

さて、この聖句をお読みなってどのように感じたでしょう。怖いと思いましたか。それとも、そうだろうと納得しましたか。肝心なことは、あなたをいつも見ている方がおられるということです。子供ではないし、神様の操り人形でもありませんから、自由に選択できます。世の中には悪い人もいるし、自分を苦しめる人だっているかもしれません。ひどい裏切りや、詐欺まがいのだましに遭うかもしれません。その全部をただ赦せと言っているわけではありません。ここで赦すことは「過ち」です。そして、ここが肝心なのです。「若気の至」という言葉を聞いたことがありませんか。これは、若さのために未熟で過ちを犯しました、と謝るときの言葉ですよね。これなどは赦していい範疇に入っているでしょう。もう少し、よく読めば、あなたも過ちを犯すことが前提になっています。人間が過ちを犯すことは避けられないのですね。それならば、あなたも人の過ちを赦してあげなさい、ということです。それが、赦せないと意固地になってはいけないのです。いつまでも怒っているのは、みっともないですよ。寛容に赦してしまいなさい。スッキリするはずです。もし、もやもやしているならば、まだ赦していることにはなりません。自分を知ることができれば、人のことを寛容に見ることができます。自分も過ちを沢山犯してきたことがわかるからです。それに、御霊の実の一つが寛容であることも覚えておきたいですね。それほど、大切なことなんです。こうして、赦しつづけていると、イエス様のお心に近づいている気がしませんか。人を見る目が優しくなっていると思いますよ。(さくま)

 

9月21日(日)

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

詩編16:11

 

一人の人が産まれてきて、それからどうすればよいのか「人生取扱いマニュアル」も「人生地図」といったようなものも一切渡されることはない。同じ家に生まれた兄弟でも一人一人の人生は異なっている。そして、人間には選択する自由はあるので、いろいろな道から選択しながら進んでいくことになる。クリスチャンは、イエス・キリストを信じることを選んだ。そこから、普通の人たちとは全く違う道を歩むことになる。なぜなら、今日の御言葉に書かれているように、神はいのちの道を知らせてくださるからだ。それは、ありがたいことに神と共に生きる道なのだ。主の御前には喜びが満ちている。楽しみがとこしえにあることが約束されているのだ。だから、道をそれてはならない。自分勝手に考えて好きな道を選んでもその行き着く先は後悔だけだろう。イエスを私たちは道としているのだ。主が教えてくださったから。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と。さあ、主に命の道を聞いてみよう。そこに導いていただき、喜びも楽しみも味わってみよう。(サクマ)

 

9月22日()

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

マタイ6:8

 

信仰をもってよかったと思うことはしばしばですが、今日の御言葉もしっかり覚えておきたい箇所です。天の父は、あなたの必要なものを知っていてくださるというのです。ですから、つたいない言葉で祈ったとしても信仰者の祈りは聞かれると確信でるわけです。祈りについては昔から大きな課題でした。祈る事の難しさを感じると祈らなくなるし、ただ異教徒のようにくだくだとご利益を求めて祈るのでは意味が無くなりますから、どう祈ればよいのかと聖書から学び、実践から学んできたのです。そして、やっぱり神を知っているかどうかが一番重要であると気がつくのです。そこで、はじめて自分のことではなく神を知ろうと祈りを変えることになります。祈りが楽しくなればいいですね。さて、自分が思っている必要なものと神様が見分けた必要なものは一致しているでしょうか。私の経験から言えば、必要なものは過分に与えられています。恵みとしか思えないので、感謝ばかりしています。ですから、天のお父様と親しみをこめて祈ってみましょう。思いやりのある返事がきっとあると思います。(さくま)

 

9月23日(火)

イスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。

エゼキエル18:29,30

 

人間と神との間には断絶がある。遠い昔のアダムの時からのことだ。イスラエルは神の民のことだが、キリスト教徒は自分たちを霊的イスラエルだと主張している。つまり、神を信じる者たちは自らをイスラエルと認めているのだ。ところが、聖書はそのイスラエルが「主の道は正しくない」と言っていると言うのだ。そこで、主なる神は、お前たちこそ正しくないのではないか、と迫る。それは、一人一人をその道に従って裁くという結果を招くことになった。神を信じる者にとって、自分の道が正しいと主張すれば、それは神の道が間違っていると言っていることになってしまうのだ。そうすれば、神が一人一人を裁かねばならならいことになるのだ。クリスチャンが理解しなければならないことは、自分勝手に生きてはいけないということだ。主のために生きることが正しいと理解できるかどうかは、信仰にどれだけ真剣に取り組んでいるかどうかで決まるだろう。自分の思い通りに生きようとすれば、苦労は増すし、予期しない試練が待っているものだ。それは、たいてい神の道は間違っていると主張することになるからだ。秋になって、ゆっくり神のことを考えるには良い季節となったから、ちゃんと真理について学んでみよう。古い自分がまだ生きていて、信仰の成長を阻んでいないか。キリストの十字架の意味を正しく理解しているかどうか調べてみよう。聖書をじっくり読んでみることで、御心に適った悔い改めへと導かれるだろう。何が正しいことかきっとわかるようになるだろう。それこそが、祝福への入り口となるし、神との距離を縮めることになるだろう。祝福を受けることになっているのは、あなただから、どんな御言葉もおろそかにしないで、ちゃんと取り組んでみよう。「罪がお前たちをつまずかせないようにせよ」。アーメン。(サクマ)

 

9月24日()

あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。

詩編8:4-7

 

あなたは考えたことがあるだろうか、聖書の語る人間の意味を。都会を離れて見る美しい夏の夜空に輝く星、秋だとはっきりわかる清みきった青空、季節ごとの木々の色の変化、絵葉書のように黄金に色づいた稲穂の情景、いつも人間が心を動かし、感動するのは神の御手の業を見たときだ。人間が創造した都会の姿は、刺激的だがストレスを生みだす。自然が癒すのとは正反対だ。創世記にもアブラハムが甥のロトと分かれる場面で、ロトが都会を選び、アブラハムが荒野に向かうシーンがある。荒野は、試みの場でもあるが、神と人が出会う場所でもあったのだ。詩編記者は、神を感じて天を見上げます。そこには人間の力がまったくおよばない月星があった。それが神の御手によって配置されたものであることを理解すると、心に畏敬の念が湧いてくる。そして、これほどの大きな宇宙規模のスケールの前で人間はいかにもちっぽけな存在でしかないのだ。それなのになぜ神は人間に目を留め、特別な関心を示すのだろうか。詩編記者でなくとも不思議に思う。そして、読者はこの詩編の後半部分で、人間の秘密を知る事になるのだ。本当の人間の姿は、「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。」と書かれている。それなのに、人間のしていることは「御手によって造られたものをすべて」を破壊し続けているように映る。治めているといえるのだろうか。この御言葉に書かれた通りに生きることができるように主イエス・キリストは完全な救いを与えてくださったのだ。だから、あなたは聖書に書かれた通りにすばらしい者として再創造されていることを覚えなければならない。あなたの頭には「栄光と威光」の金に輝く冠が置かれていることを自覚しよう。それほどまでに神は人の子を高い者として創造されたことを今日は瞑想したい。(サクマ)

 

9月25日(木)

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30:14

 

クリスチャンはいったい何を基準として正しく生きているのでしょうか。聖書は面白い言い方をしています。それが今日の御言葉です。正しい事の規準は聖書の御言葉であるということは、すぐにわかるでしょう。しかし、そのように知っているということだけでは、主の御目に正しく生きることは難しいでしょう。その人が生きるということは、行うということです。「御言葉があなたの口と心にある」ということは、暗唱しているということです。しかも、ただ暗唱しているのではなく、意味を正しく理解しているので覚えているということです。そうであるのなら、考え方や価値観が聖書と一致するようになります。それは、主の御心がわかるようになるということでもあります。もっとも、御言葉の解き明かしは聖霊によってなされるのです。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16:13)とあるのですから、御言葉に込められた真理が超自然的方法で理解させていただけるのです。ですから、必要な時に御言葉として心に浮かび、言葉となって口から出て来るようになるのです。そのような人は、自然と御言葉に調和して生きるようになります。それが律法であっても偽善者のようにではなく、模範を示された主イエス・キリストのように守ることができるのです。書かれた文字にこだわって人間の力で行おうとするのとは異なっているのです。聖霊によって新しくされた人というのは、霊の人と呼ばれることがありますが、まさにこのような人こそが御言葉の真の力を知る人なのです。ですから、日ごろから聖書を読み、真理を求める姿勢が大切なこととなるのです。早速、聖書を読んでみましょう。(佐久間)

 

9月26日(金)

どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ/言葉をもってわたしを打ち砕くのか。侮辱はもうこれで十分だ。わたしを虐げて恥ずかしくないのか。

ヨブ19:3

 

ヨブ記に興味を持つ人は昔から多いのですが、内容は難しく感じるかもしれません。議論が延々と続くのです。現代でも、何かの不幸に見舞われると、たちまちよってたかって苦しんでいる本人を批判し始めるのです。ヨブ記と同じです。たとえ悪意が無くても魂を苦しめるような結果になることはめずらしくありません。特に宗教を持っていると、罪を犯したのではないか、神の罰ではないかと責められてしまうことすらあるのです。親子のように近い関係でも気を抜いてはいけないのです。子供が小さいとぞんざいに扱ってしまう親もいるかもしれませんが、傷つければどんなに小さな子供でも大人になっても忘れることなく恨んだり、怒ったりしているものです。子供も親を傷つけることがありますから、言っていい事と悪いことをわきまえなければなりません。朝の連ドラを見ていたら、子供が「お母様、お父様」と言っているのです。十戒にも「あなたの父母を敬え」とあるように、子供は、父母に敬意を払うことを教えなければなりません。昔、まだ牧師になっていない頃に、子供のお受験をしたことがあります。その時に、面接で子供が「お父様、お母様」と言わなければ落ちると言われ、我が家も子供たちは「お父様、お母様」と呼ばせたのです。その効果は良い意味で大いにありました。優しい言葉、思いやりのある言葉、ていねいな言葉、愛のこもった言葉、美しい言葉はたくさんあります。でも、愛し合うべき家族の中でさえ、そうした言葉が少なくなっているかもしれません。「愛している」という言葉は、どれぐらい家族に伝えているでしょうか。相手の目を見て「あなたがとても大切です」という思いを込めて「愛している」と伝えることはやはり大切なのです。そうですね、言葉が多ければいいと言う訳でもないですよね。まごころをもって、相手に接することが、時には百万の言葉よりも愛を伝えることがあります。アメリカ人のようにハグができればいいのですが、日本人は恥ずかしがり屋なので、何も言わなくても「以心伝心」で伝わっている、と便利な言葉で逃げてしまうかもしれませんね。子供は、何歳になっても「あなたを愛している」と言われると幸せになるのです。私たちは、断固として人を苦しめるような言葉をださないように自嘲したいものです。イエス様のお優しい言葉が聞きたいですね。できれば「あなたを愛している」と聴こえればどんなに嬉しいことでしょう。(さくま)

 

9月27日(土)

主よ、良い人、心のまっすぐな人を/幸せにしてください。

詩編125:4

 

聖書の中に、今日の御言葉のようにまっすぐな祈りがあることを知る事は楽しいことです。この世の中では、ただ良い人では損するばかりで、つまらないと考える人たちがいますがそれは、人生を幸福にすることを本当には知らない人たちです。幸せになろうと自分の目によいと思ったことを選択してきた結果はどうでしょう。最後にはいつも空しさがあるのではないでしょうか。人を幸せにできるのは神だけなのです。しかも、その方法が聖書にはちゃんと書いてあるのです。誰かが、あなたのために祈っています。「主よ、良い人、心のまっすぐな人を/幸せにしてください」と。この良い人、心のまっすぐな人は、あなたです。それは、あなたがクリスチャンだからです。もっとも名前だけのクリスチャンではだめですが・・・。あなたは、良い人というのはどんな人か考えてみるべきです。心のまっすぐな人とは何か、聖書を研究してみましょう。そして、祈って願ってください、「私を良い人に、心のまっすぐな人にしてください」と。これは、聖書に書いてあるので御心に適った祈りです。御心に適った祈りは聞かれるので、あなたは信じるだけでよいのです。あなたは、幸福になることになっているのです。聖書の中で何千年も前からあなたのために祈っているのですから。信仰の不思議を味わってください。他人がなんと言おうと、私たちは御言葉の通りに信じて、幸福になるのです。(さくま)

 

9月28日(日)

わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

ヨハネ6:40

 

天の父の御心は、恵みに満ちています。だって、私たちに無理難題を押し付けることもなく、厳しい修養の生活を強いるわけでもなく、イエス・キリストを信じるだけで永遠の命を得させてくださるというのです。もっとも、永遠の命が欲しいからイエスを信じようというのとは違っていると思います。なぜなら、「子を見て信じる者」と書いてあるからです。当時の人たちはイエスを見ることができました。それで、二つに分かれてしまったのです。信じる者と信じない者に。では、現代でイエスは人として生きてはいませんので見ることができません。それならば、この御言葉は昔の時代に限定されているのでしょうか。不思議なことに現代もイエスを信じる人たちが出現しています。彼らは、イエスを直接には見ていないのですが、クリスチャンを通してイエスを見ているのです。すくなくとも、イエスを信じている人がいる。その人は、いったい何を考えているのだろう。聞いてみると、必ずイエスが自分をどうやって救ってくださったか、どうしてイエスを信じているのか、といった内容の証しをするのです。それだけではなく、その人の内にイエスがいるというのです。そして、祈ってくれます。すると、確かに何か不思議なことが起こってくるのです。あった事もないイエスをいつの間にか信じて、考えられないことですが自分でイエスに祈っているのです。このようなことがあるので、人は今でも救われています。しかも、2000年前にはイスラエルにしか存在することの出来なかったイエスに代わって、世界中どこにでもクリスチャンがいて、その人を通して、やはりイエスを見て信じる人がいるのです。こうして救われた人たちは、たとえ死んでも終わりに日には復活します。ですから、終わりの日が楽しみに思えるのです。(佐久間)

 

9月29日(月)

イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

ルカ21:1-4

 

聖書にはともて面白いことが書いてあります。その一つが今日の箇所です。イエスが献金するようすを見ておられたというのです。そして、貧しいやもめが、だれよりもたくさん入れたと言われました。しかし、金額はとても小さなものでした。ほとんどの人がこのやもめ以上に入れたと思われます。それなのに、イエスがあえて発言したのは、神の見られる観点があるということです。やもめは持っている生活費を全部入れたというのです。今の時代ならば、突撃リポーターがマイクを突き付けて、やもめになぜ生活費を全部入れたのですか?と聞いていただろうにと思うのですが、想像するしかありません。金額が問題ではなく、その人が神へと献さげる気持ちが(信仰と言った方がいいのでしょうが)測られているようです。だから、すぐに生活費の全部を献げなければならないと考えてはいけません。もっと、このやもめの気持ちを考えてみてください。そすれば、献金の意味が今まで以上にわかるかもしれません。ただ、イエスがあえて話されたのですから、重要な箇所であることはまちがいありません。これは、献金だけのことではないのです。神への信仰が問われているはずです。自分がどうゆう信仰をもっているのかは、やはり考えてみる必要がありますね。今日は、時間を取って考えてみましょう。(佐久間)

 

9月30日(火)

あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。

フィリピ4:5

 

クリスチャンになって一番変わる事は、広い心になることだ。以前ならすぐに頭に血が上っていたとしても、気がつけば穏やかになってくる。人に対する見方が変わるので、人の心に触れるようなことも起こる。それどころか、今一番必要とされているのは広い心であるということを知るようになる。否定的な見方をすれば、人生は暗くなるだけだ。神を知る事は、これから先の未知の人生に希望を灯すことになる。そこで神から受けた恵みは、自信となり、神を信頼していけば大丈夫という確信を生む。そのような個人的な神との宗教体験を通して、たいていのことはそれほど心配することはないし、たとえ災いが襲ってきても、害することなく信仰者を通り過ぎて行くことを目の当たりに見るだろう。物事には必ず良い面と悪い面の二つがあるものだ。そのどちらを見ることが出来るかで人生は幸福にも不幸にもなるのだ。だから、クリスチャンは良い方を見ることの天才になればいい。そうすれば、心は安心して広く解放される。人を責めるのは容易いが、キリストはそうせずに十字架の上でさえ、罪人を執り成したことを覚えておかなければならない。ペトロも主に7の70倍赦すように諭された。主に降伏してへりくだる事ができれば、それだけでも広い心が備わっているだろう。主がそこにおられたら、絶対しないことをしないようにしたい。主ならばするであろうことは、信仰で大胆に行いたい。それは、主の業をする時に、主はそこにおられるからだ。自分が罪人なのに、他の人を見て罪人だと裁いても意味がない。大切な事は主は罪人である自分に何をされたのか、そのことをよく理解しよう。主が愛されたように、愛する人になりたいと願うならば、その願いは聞かれる。愛の心は広いので、皆そうゆう人を求めている。あなたは、心の広さを意識して生きることができる。無理すると続かないので、内住のキリストの愛がこの奇跡を起こしてくださるように祈ればよい。まずは、自分に対して広い心をみせてみよう。(サクマ)