2015年1月

1月1日(木)

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

Ⅰヨハネ1:1-3

 

新年が始まりました。すべてを新しく始めることができる時です。その大切な時に、御言葉を読み、その預言の言葉を聞くことは特別の意味があります。今日の御言葉は、あなたがクリスチャンであるのなら、心をときめかせて聞くべき真理です。この世の多くの人は残念ながらまだ福音を知りません。だからこそ、早く伝えたいのです。しかし、伝えるためにはここに書かれている通りに主との交わりを持つようになる必要があります。勿論、「御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。それは、実態のあるものです。つまり、今も生きて働かれる主との交わりです。あなたが望めばそれはいつでも可能です。難しく考える必要はありません。「主はあなたを愛しておられます」という意味は、愛は交わりそのものだということです。だから、交わらないことには主の愛を知る事はできないのです。今年は、この交わりを理解し、体験するようにディボーションを作って行こうと思います。あなたが信じた主は、あなたの想像を超えてあなたを愛しておられます。それが、信じられるようになるまで信仰を高めていきましょう。そうすれば、あなたの心配は消え、不安は平安へと変わります。生活のことも、将来のことも、死のことも、家族のことも、人間関係のことも、仕事のことも、あなたが心に暗い影を感じることのないように、そして、圧倒的に愛されていることを知るために意を決して主へ向かいましょう。熱意をもって、主に近づきましょう。祈りを変えましょう。天国に響き渡るような熱心な祈りをささげましょう。熱いか冷たいかはっきりと信仰態度を決めましょう。そうでなければ、得ることのできない霊の世界があるからです。神の国の福音を信じたのですから、神の国に生きようではありませんか。今年は驚くべき神体験へと心を傾け集中しましょう。ひれ伏して主に祈りましょう。(佐久間)

 

1月2日(金)

主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。

エレミヤ6:16

 

学生の頃、歴史を学んでいろいろな教訓を得ました。そして、同じような失敗をしない、と思ったり、自分だったら同じような状況でどうするだろうと、よく考えたものです。今日の聖句を見ると、主の預言の中にもそのようなことが書かれていました。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ」とあります。人生経験を積んだ年配の方々は、若い人の言動に知恵を働かせることがありますが、ただ叱ったり、文句を言うだけのこともあります。それが若い時には理解できません。しかし、賢明な人はやはり真理を求め、先人の知恵に学ぼうとする謙虚さがあります。私たちクリスチャンの場合は、聖書があるので幸いです。聖書から幸いに至る道を知る事ができるのです。ところが利得の道を求めると、うまくいきません。それは、主の目的があなたを救うことだからです。救うと言ってもバプテスマを受けることではありません。勿論、それも含まれますが天国に入ることを言っています。永遠というスケールでも見ているのです。人間の眼には人生の寿命でしか物事を考えることができません。しかし、主の救いは永遠の命です。だから、物差しが違うのです。もっとも、わずか80年90年、長寿でも100歳という長さと永遠という長さでは、比べることなどできないのです。それで、主イエス・キリストは神の国という言い方で教えようとされました。旧約時代には預言者を通じて教えています。しかし、人は永遠を考えようとしないのです。もっと短いほんのわずかな人生の些細な事で悩むのです。うまくいかなければ、自分を反省すべきなのに、人のせいにしたり、それが難しいと神のせいにさえしてしまうのです。主イエスは、もっとわかりやすい言葉を使いました。「私が道である・・・」と。「その道を歩み、魂に安らぎを得よ」ということです。しかし、預言の通りに、「彼らは言った。『そこを歩むことをしない』と。なぜなのか私にはわかりません。二つに人間は分かれてしまうのです。主に従う人と、主を疑い従わない人に。主イエスも譬話で何度もこのことを示唆しています。主はそれを二つに分けるとはっきり明言しています。まさに天国と地獄です。だから、信心深く生きようと決める方がよいのです。主イエスの真心を疑わずに、たとえ望まない事が起こっても、何が起こっても主を信頼し続ける生き方には、必ず報いがあります。そして、そうしたところを通り抜けて初めて信仰が本物になるものです。もう一度、今日の御言葉を読んでみましょう。あなたは何を悟りましたか。(佐久間)

 

1月3日(土)

シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」

ルカ2:28-32

 

シメオンはイエスの到来を待っていました。メシアに会うまでは死なないとのお告げを聖霊から受けていた人です。そして、律法の定めの通りに宮参りに連れてこられたイエスとこのシメオンは聖霊に導かれて出会いました。その時のシメオンの言葉が本日の聖句です。シメオンはイエスがメシアであることをすぐに見抜きました。なぜわかったのでしょうか。聖書はシメオンのことを、「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」と記しています。私たちもメシアをこの目で見たいと願っているはずです。そのためには、正しい人で信仰があついクリスチャンになる必要があるでしょう。聖霊がとどまるような信仰者となりたいはずです。シメオンはイエスを見て、「あなたの救いを見た」と言っています。イエスがたとえ赤ちゃんでも神の救いだったのです。それも万民の救いです。そのイエスは異邦人をも救う啓示の光なのです。イエスを通して、罪人である人間の救済の真の意味が明かされ、すべて本当の事がわかるということです。とても大切なことですが、神の救いは見える形ですでに来られたということです。それは人となられた主イエス・キリストのことです。そして、現代、私たちもこのキリストの証人なのです。イエスの中に救いがあるのですから、信仰者はイエスを求めて生きるはずです。イエスの恵みを味わいましょう。(佐久間)

 

1月4日(日)

「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」

創世記16:13

 

神様にはお名前がいくつもあります。たとえば、その一つが今日の聖句にあります。このような神様がどのようなお方かよくわかる名前がいくつも聖書に出て来るのです。今日は、その一つであるエル・ロイについて考えてみましょう。実に良いお名前ではないでしょうか。この言葉を語ったのは、アブラムの妻サライの女奴隷です。物語をご存じの方は、女主人がハガルにつらく当たったので逃げたことをご存じでしょう。そして、荒野の泉で神様の配慮を知って、言った言葉がこれです。あなたも人生ではいろいろな苦しみや試練にあうことがあるでしょう。もう生きていることも辛くなって死にたくなることだって人間にはあるものです。でも、自分のせいで人からも見捨てられたような状況になっても、神様は見捨てないものです。それどころか、どうすれば良いのか教えてくださいます。ちゃんと将来のことまで神様は考えていてくださるのです。自分の過ちは悔い改めてやり直せばよいのです。教訓を学べば、同じ過ちを犯すことはありません。それに、神様は憐み深いので、ちゃんと先々のことまでお考えになり恵みを用意しているものです。女奴隷のハガルでさえ、忘れなかった神様です。あなたのことをちゃんと顧みてくださるはずです。自分のマイナスなことばかりに目を向けてはいけません。神様が顧みていてくださる自分を見てください。節度をわきまえ、謙遜に生きていけば大きな間違いを犯すこともないでしょう。そして、自分の信じている神様がいつでもどこでも、ちゃんと顧みておられることを忘れないでください。必要なら万軍の天使ですらあなたのために遣わしてくださるでしょう。そのことを覚えて勇気百倍で生きて行きましょう。(さくま)

 

1月5日(月)

わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。

コヘレト12:12,13

 

推理小説の最後から読む人がいます。そんなことをすれば本代を損した気になります。でも、そうゆう人は決して少なくないのです。今日は、私たちもそのような大それたことをしてみたいと思います。つまり、知恵の書の最後から読んでしまうということです。昔から、真理を極めて、知恵を得ようとした人たちは、勉強するわけです。万巻の書を紐解くのです。しかし、聖書の面白い所は、本はいくら作ってもきりがないし、学び過ぎれば体が疲れる、とはっきり書いてあることです。ドラえもんののび太君には絶対教えたくない箇所です。勉強し過ぎて体を壊したと言う人は昔からいるのです。ですから、健康のために勉強はしないというのも極端ですね。「過ぎたるはなおおよばざるがごとし」ということでしょう。真理を理解したと思って、それを他人に説明しようとして書きものにしようと頑張ってみても、すぐに目に見え真理を他人に説明することの難しさを覚えるものです。書いても書いても説明しきれないのです。あげくのはてに理解不能な難解文章ができあがりますが、だれがわかるというのでしょう。さて、ここに人間の歴史上一番の知恵ある賢者として名をあげられるソロモンが探求した結論として、「『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」と書きとめたのです。ですから、この一言こそが、あなたが心に刻んで置く言葉なのです。きっと、あなたを助けることになると思います。何かあるごとに、繰り返し声に出してみてください。これで、たくさんの本を買って読まなくてすみます。体を壊すほど、勉強しなくてもよくなりました。やはり、最後から読むというのはいいのかもしれません。でも、楽した分すぐに忘れてしまうのなら意味がありませんね。なんでもほどほどが良いということでしょうか。(さくま)

 

1月6日(火)

肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

ヘブル12:10-11

 

 

人間ですら、人というものは鍛えなければならいものであることを知っています。ですから、父親は子供をどうやって鍛えようかと考えるのです。であれば、天の父なる神様は、なおさらクリスチャンを鍛えようとお考えになるはずです。そうしなければ、一人前になれないのですから、これは愛の働きということになります。そのために、クリスチャンが鍛えられている場面によく遭遇します。本人は災難と思っているかもしれないし、悩み事が発生したと思っていることもしばしばです。ですから、およそ見当違いな見方をしているので対処の方法も間違っていたりします。たとえば神様はクリスチャンの人の側にその人の嫌いな人やなにかと煩わせる問題の人を置くことがあります。クリスチャンの人は当然、この世の人と同じ反応を示します。つまり、神様に文句を言い出すのです。しかし、神様は、肉の古い人を砕いて取り去ろうとしているのです。クリスチャンの正常な状態が神様への服従だからです。罪人は、自己中心のなので誰かに服従したくありません。たとえそれが神様であってもです。自分の思い通りにならないと腹を立て、文句を言い、相手に復讐したくなります。これは神の子の姿ではないので、クリスチャンの大問題となります。しかし、勉強しても知識だけではどうすることもできません。努力もしてみるかもしれませんが、基本的に肉の人が残って生きているので、効果はありません。そこで、神様が砕くことになるのです。そこでも、攻防戦が繰り広げられます。すんなり神様に膝を屈することはありません。しかし、神様は何とか理解させようと助け舟を出します。そこで、悟れないようでは問題は解決せずに災いに発展していくでしょう。素直に神様の諭しを聞けるようになりたいものです。そうでなければ困ったことになるだけです。主の鍛錬を信仰で受け止めて、鍛え上げられたクリスチャンは神の人と呼ばれるでしょう。主への従順な姿が圧倒的な力を生むからです。今年は、一味違った、グレードアップしたクリスチャンに成長しましょう。(さくま)

 

1月7日(水)

人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。

マルコ9:49-50

 

あなたは味のある人でしょうか。クリスチャンとして、自分自身の内に塩を持っているでしょうか。今日の聖句は、面白い言い方をしています。「人は皆、火で塩味を付けられる」というところです。火は厳しい事を想像させます。突然、ある日とんでもないことが起こります。それは、自分にとって嫌なことです。きっと、心を悩ませることでしょう。その時のあなたの対応はどのようなものでしょうか。主に助けを求め、悪い人が関わっていれば、その人を取りのけて欲しいと願うことでしょう。そこで、神はその願いを聞かれないでしょう。なぜならば、それこそが「火」だからです。これを生かす人と、ただ嫌がっているだけの人とでは、大きな差が生じてしまいます。聖書は、「自分自身の内に塩を持ちなさい」と命じていますから、やはり「火」が来たなら、否定的な気持ちを吹き払い、肯定的に捉えることです。ここでは、人を恐れずに、神を畏れることを忘れてはいけません。そして、神に仕えるように、隣人にも仕えることを実践すべきです。聖書から学び、正しいことを敬虔に行います。祈りも、嫌な人を訴えるよりも、その人をまず祝福すべきです。心の葛藤が起こります。口先だけの祝福では意味がないので、心からの祝福を与えなければなりません。そうすれば、主が相手に対処してくださいます。このようなことをやり遂げた時には、自分の内に塩ができているはずです。「塩は良いものである」と書かれた通りです。不思議な主のやり方に従いましょう。(佐久間)

 

1月8日(木)

あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩編55:23

 

クリスチャンの強みは、重荷を主にゆだねることができることです。あなたは何か重荷を負っていますか。もしおろせない重荷と思っているのなら、イエス様にすがればよいのです。主があなたの重荷をおろしてくださいます。主はあなたを支えることができます。人生にはその時々に心を悩ませることが起こりますが、そのたびに心を動揺させていては大変です。主に従う者を支えることは聖書の御言葉が約束しているので信頼できます。問題は、主に従うことです。自分の思いのままに生きることはそれだけ不確実な人生となり、不安は尽きないのです。主に従うことは、信仰者の一番の課題となります。それほど簡単ではありません。人間の常識を超えるような超越した生き方となるからです。この世への執着を捨てなければなりません。自分が頼っているものをことごとく捨てるということです。たとえば、キリストの弟子たちが伝道に遣わされる時も、旅には杖一本のほか何も持たずに金さえも持たせていただけなかったのです。でも、伝道旅行から帰ってきた彼らは喜んでいました。このような体験が主に従うことの意味を教えていたのです。イエス様以上に大切なものがあるのなら、主に従うことはできないのです。ですから、心の動揺する経験にさらされることになります。主より大切なものがいつしか重荷となって、苦しめることになるのです。信仰を旅路に譬えることがありますが、信仰の旅に必要なものは履物と杖一本と身軽なものなのです。必要なものは主がすべて備えていてくださいます。こんなに楽な旅はないのです。もっとも主を信じて従う従順が身についていればのことですが。このように身軽になれるように、主はあなたを訓練しているのです。天国へ行くのに大きなスーツケースを持っていくような愚かなことはしたくないですね。(さくま)

 

1月9日(金)

あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。

コロサイ2:20-23

 

クリスチャンの前提は、「キリストと共に死んで」いることです。ところがその意味が今一つよく理解できないものですから、問題がいつまでも出てきます。なぜ問題で悩まされるかといえば、「世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き」と書いてあるように、世に属しているのでこの世の問題をそのまま受けてしまうのです。しかも、世は敵である諸霊が支配しているので、攻撃されてしまうのです。聖書時代の教会では、そのような人をどのように見分けていたかといえば、「『手をつけるな。味わうな。触れるな』などという戒律に縛られている」かどうかで見分けていたのです。これらは、「肉の欲望を満足させるだけなのです」。肉が生きているからこそ、規則や戒律というものに縛られてしまうのです。それが「実は何の価値もな」いと聖書がはっきり書いてあるので、決して間違ってはいけません。宗教らしいといえば、誰でもが戒律を厳格に守っている姿を思い浮かべるでしょうが、ファリサイ派の人たちがそうであったように、肉を満足させるものでしかなかったのです。大切なことは、「キリストと共に死んで」いることです。それだから諸霊は何もできないのです。もし昔と変わらず肉で生きていれば、諸霊は支配を始めようとするでしょう。それは、誘惑してみればすぐにわかります。主イエス・キリストが肉で生きていなかったのは、父に従順であったことから明らかです。悪魔の誘惑に自分の言葉で反論せずに、聖書の御言葉だけで対抗したのは、私たちに模範を残すためでもあったのです。自分の思い通りに生きようとすれば、欲望が出て来るでしょう。そこで誘惑されたなら聖書と一致した考えからそれていくでしょう。最後は罪を犯しているわけです。実際に死ぬということではなく、霊的に「キリストと共に死んで」いるということを真剣に信じていかなければならないのです。その効果が現れると納得できるのでしょうが、油断すればまた肉が蘇えって罪が出て来るのですから、やっかいなことです。でも、この戦いの中に人を変える力があることも事実なのです。イエス・キリストのようになりたいものです。(佐久間)

 

1月10日(土)

イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。

Ⅰヨハネ5:1-2

 

聖書を読めば読むほど、クリスチャンはこの世の者ではないとのだとはきっきりと思わされます。信仰によらなければ、存在することすら難しいと思われてきます。いい加減に生きることが生れたままの古い人にとっては可能でも、クリスチャンにはそうではありません。クリスチャンがだからといって、歯を食いしばって我慢ばかりしている人というわけではありません。そのような考え方からすれば、おどろくほど力を抜いている人です。この人の考え方は「キリストと共に死んだ」と信じることにこだわりがあります。死んでいるから、力を抜いたように見えるわけです。しかし、実はクリスチャンはもっと驚くほど次元が高いところに目を向けて生きているのです。それは、今日の御言葉をみても明らかです。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」・・・・これをどう考えたらいいのだろう。「神から生まれる」とはどうゆうことでしょう。クリスチャンが皆「イエスがメシアであると信じる人」であるのなら、昔のままに生きているクリスチャンは、どうなっているのでしょう。神から生まれた者といえるのでしょうか。神から生まれた者は、生んでくださった方を愛し、その方から生まれた者をも愛するのです。ユダヤ人たちは気がつかなかったのですが、神の掟を守るということは、神の子供たちを愛することだったのです。でも、宗教に熱心だったはずのユダヤ人は、同じユダヤ人であるナザレのイエスを愛さなかったことが聖書に書かれています。だから、イエスを愛するのか、愛さないのか、そこがはっきりしていなければなりません。イエスを愛するというのなら、神の子たちを愛するはずです。いつでも、問題になるのは、神の子の中に自分が入っていることを信じているかどうかということです。それは、言葉を変えると、自分を愛せるようになったのかということです。自分の中に罪があった時には、自分を愛せなかったのです。自分の中に嫌いな部分があって、それが他人の中に見えるとどうしようもなく嫌悪して感情的になってしまうのです。たいていは親族の中にそれがあることが多いのですが。逃れることができないのです。しかし、その自分ではどうすることもできないこの問題を恵みで解決して下さることのできる方をメシアと呼びます。だから、イエスをメシアを信じるとは、自分を愛せない原因を解決して救ってくださることのできる方がイエスであると信じることができて、本当に解放されることなのです。このことがなければ、古い人のように生きるクリスチャンが存在してしまうのです。あなたは大丈夫ですか。本当の自分の問題と向かい合ってイエスがメシアであると分かるように救っていただくことです。そうすれば、新しく生まれたことがはっきりわかるでしょう。(佐久間)

 

1月11日(日)

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

Ⅰヨハネ5:3-5

 

世に打ち勝つ必要があります。世に翻弄されて生きているのなら、なんと不確実な人生でしょうか。この世の支配者は、人をも支配したいのです。高慢にも人間を奴隷と考えているのです。イエスが荒野で誘惑された時にも、「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」(マタイ4:8-9)のです。つまり、悪魔はこの世を自由にできる支配者なのです。そこで、人が救われるにはこの世に打ち勝ち、神の国に生きなければなりません。Ⅰヨハネでは、「神から生まれた人」という独特の言葉を使って、本当に救われた人を現しています。この人だけが本物のクリスチャンなのです。そして、神から生まれた人が世に打ち勝つのは、信仰によると明言しているのです。世に打ち勝つ驚異的な力をいただく方法が、「イエスが神の子であると信じる」信仰なのです。これはだれでも救われるための神の恵みなのです。そうであれば、「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」。つまりそれは、あなたのことです。ハレルヤ。(佐久間)

 

1月12日(月)

柔らかな応答は憤りを静め/傷つける言葉は怒りをあおる。

箴言15:1

 

今日の御言葉は、心に刻むべき真理です。人の幸不幸は、このような些細なことから起こります。感情的になる前に、自分の言葉の責任を考えなければなりません。自分が正しく、相手が悪いと決めつけると大きな苦しみを引き受けることになります。相手が悪党ならば別ですが、普通の人であるのなら、相手が怒っている時には理由が必ずあります。それを無視して、一緒に怒ると後で大きな後悔が待っていることになります。そこで、知恵を身につけたいものです。それが、今日の御言葉です。「柔らかな応答」このことを考えてください。どうすればいいのか、得心がいくまで考え切るのです。そすれば、実際に役立つ時が訪れるでしょう。そして、「傷つける言葉」は腹立ち紛れでも、感情的になっても、言っては負けです。取り返しのつかないことになるかもしれません。ついつい、怒りにまかせて言ってしまうのが、この「傷つける言葉」なのです。今年は、この二つのことを肝に銘じて、一回り大きな人間に成長したいものです。この知恵が無いばかりに、家庭を壊した人もいるし、仕事を失ったり、大切な人を疎遠にさせたりした人もいるのです。ですから真剣に取り組むべき知識なのです。(佐久間)

 

1月13日(火)

国々の偶像は金銀にすぎず/人間の手が造ったもの。口があっても話せず/目があっても見えない。耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。

詩編115:4-8

 

 

聖書を読んで、偶像が神に忌み嫌われ、決して拝んではならないものであることを知りました。日本にはそこらじゅうに偶像があふれています。信心深い人は、道端に立つお地蔵さんでも、何の神が祭られているのかもわからない小さな祠でも手を合わせ、拝礼しています。なぜでしょう。その偶像が誰か人間の手によって作られたものであることを知っているのに、そこに心を寄せるのは不思議なことです。世間の風が冷たく感じ、何か困ったり、苦しいことがあると、偶像に手を合わせてしまうという心情を誰でも持っているのかもしれません。勿論、石や木に何か神的力があるわけはありませんから、気休めと言えばそれまでですが、向かい合う神を必要としているのでしょう。そして、なによりも真の神を知らないということです。多くの場合、願いを満たして欲しいという思いから偶像を拝んでしまいます。だからご利益があるかないかが重要となります。しかし、今日の御言葉はもっと本質をついています。それは、最後の言葉にあります。「偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる」。その偶像は、「口があっても話せず/目があっても見えない。耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない」というのです。それと同じになるというのです。どうゆうことでしょうか。偶像を拝むことで人の可能性を摘んでいるというのでしょうか。そういえば、イエス・キリストは人を解放するお方でした。盲人の目を開き、もの言えない人の舌をもの言えるようにし、歩くことのできない足を癒して歩かせ、萎えた手を癒して動かせるようにし、あらゆる病を癒したのです。これが神です。あなたの不自由を解き放ち、全き自由を与えるかたなのです。偶像は何もできない死んだものなので、そこにすがれば死んだ石や木と一つになってしまうのです。しかし、主イエス・キリストは憐み深く、恵みに富み、あなたのことを思いやることができます。しかも、自由にしてくださり、その自由を用いて聖霊に従うことを教えてくださったのです。そうすれば、すばらしい品性を得、人生の意味を知り、正しい事を行う力を得るのです。神との自由な交わりを楽しみ、愛されている喜びと愛する幸福を得ることができるようになります。朽ちるものに望みをおかずに、永遠に続くものに心を向けるべきです。主は、生きて今日もあなたのために働いてくださいます。だから、主を信じ、愛を受けてください。恵みと平和があなと共にありますように。(佐久間)

 

1月14日(水)

主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。

詩編116:5-7

 

憐みという言葉すら、自分には関係ないと思っていた。しかし、牧師になった途端に、いや牧師に採用され、任地の辞令が出た途端に試練が押し寄せてきた。誰にも頼る事ができずにただ神に祈り、すがった。そこから始まり、何十年も過ぎたがいまだに生かされ、なんと祝福されている。決して自慢できるほど立派な人間ではないが、一つだけ誇れるのは、「主は憐れみ深く、正義を行われる」お方であることを信じて、信頼していることだ。そして、それは裏切られたことがないのだ。牧師になって、この世で大切な事と思われているものを次々に失っていったと思う。しかし、それがいかにどうでもよいものか知ることができた。人からどう思われるかということを気にするのが人間だろう。私は聖霊によって覚醒されて以来、不当な批判や中傷を受けてきたが、それで人からどう思われるかより、神からどう思われるかという事の方が大切になった。この世の人から見れば、哀れな人と映るのだろうが、「哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる」という御言葉は本当だった。「わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる」。こうやって、幸せに生きてきたのだ。だから、キリストの御足の跡をたどることができるのだと思う。主を見よ。主の足は十字架に向かう。あなたを憐み、正義を行われるために。ああ、なんと私たちの神は情け深いのか。信仰者は、この神の愛によって生かされているのだ。だから、元気をだしなさい。堂々と胸を張って生きていこう。誰がなんと言おうと、キリストを信じて。(サクマ)

 

1月15日(木)

万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら。〔セラ

詩編84:2-5

 

詩編84篇は大変すばらしい主への告白です。この箇所を読んで、あなたはどのような情景を思い浮かべるでしょうか。この詩の中に小鳥がでてきます。弱いもの、小さな者の象徴ですね。驚くことに、主の祭壇に、鳥は住処を作り、つばめは巣をかけて、なんと雛を置いているというのです。それを見て、主を慕う信仰者はうらやましいと思うのです。主の家に住むことが出来る幸いをうらやましいと思うのです。自分の信仰を考える時に、主を慕う思いがどれほどであるか測る必要があります。神殿に住まう鳥が美しくさえずると、主をほめ歌う声のように聴こえます。すると、信仰者は心の内に願いが起こり、主の御側近くお仕えし、いつでも主の栄光を讃美したいと願うのです。今、もしソロモン神殿がシオンに残っていれば、そして、そこに主がおられれば、「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます」と言わずにはおられません。主を慕う信仰、この世ではなく、主の住まいに共に住み、そこで生きることを願うことは、正しい信仰なのです。神殿に住む鳥がどのように飛んで、鳴いているか、この御言葉を読み、瞑想してみましょう。もし、その鳥が見えたなら、きっとそれがあなたです。(さくま)

 

1月16日(金)

リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。

使徒言行録14:8-10

 

ここには、パウロの奇跡物語が書かれています。生まれつき足の悪い男が癒された話です。ここには、癒しについての基本的で大切なことが記されています。それは、「パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」というところです。癒しを受ける人自身が、いやされるのにふさわしい信仰があるかどうかということです。人生で足が不自由ならば、どんなに大変だろうと思いますよね。足は丈夫でも他の部分が不自由だったり、何かのハンディキャップを持っている事もあります。そうしたことが、人生に影をつくるものです。だから今日も癒しが必要です。イエス様が助けにきてくださり、奇跡を起こしていただきたいのです。だから、私たちは癒しを祈る者になりたいし、癒しを望む人にイエス様を信じる信仰を教えてあげたいのです。さて、この聖句は、もう一つ象徴的なことを教えています。それは、人生をうまく生きていない人へのエールのようなものです。生まれつきの性格や性質、才能や劣等感を生むもの、家庭事情や環境など、つまり自分の力ではどうすることもできないことが、人生を暗くしていることがあるのです。それが原因で人生がうまくいっていない人に、希望を与えている箇所です。パウロの言葉は、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」というものでした。「すると、その人は躍り上がって歩きだした」というのです。つまり、人生が障害によって滞っていたのが、その人の信仰を引き出すことによって、障害を取りのけ、力強く生きていけるようになる、ということを読み取らなければなりません。人生は年齢で測るよりも、何歳になってもパウロに癒していただいた人のように、信仰により、キリストによって、癒しを受けて踊りあがり人生を歩き出すことができるのです。

あなたはどうでしょうか、もしパウロがあなたを見たなら、癒されるのにふさわしい信仰があると認めてくださるでしょうか。小手先の癒しは対処療法です。でも、信仰による癒しは、人を生き返らせる完全なものなのです。いままでうまくいかないから、これからもそうだろう、という考えは不信仰な考え方です。イエス様を信じるということは、自分の身にも奇跡が起きると信じることなのです。そして、イエス様にその信仰の通りに実現していただくのです。だから、あなたには、すばらしい希望があります。ハレルヤ!(さくま)

 

1月17日(土)

ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。

エフェソ4:13

 

人間は成長することができます。しかし、何もしないで成長するのは体の大きさぐらいなものです。そして、神様は人が成長できるように導いておられます。それでも、成長は個人差があります。人間としてすばらしい人物へと成長したいのですが、それほど容易くありません。この世でも成長した人たちが何もしないで易々と安楽に富や名声を得たり偉大な事業を成し遂げたわけではありません。そうした人たちの書いた本を見ても波瀾万丈が書かれているし、試練や失敗がつきものです。そこで、どうしたかがその後の人生で大きな差となっているのです。クリスチャンも例外ではありません。はじめから完璧な人間はいないのですから、人生の訓練は必要となります。クリスチャンも信仰の訓練が必要となります。それは、神様がお考えになられて一人一人特別プログラムがあります。同じ教会に通って同じ日にバプテスマをうけたとしても、個性や生まれ育ちが違っていますし、才能や好きなことも異なっていますから、その人にあった訓練があるのです。親に勉強しろと言われるといやなように、信仰も何か強制されるといやになります。例えば、聖書通読も一日1時間読むようにと言われると、嫌になるでしょう。でも、面白いと思えば、三日で読み通す人も出てきます。祈りも、義務になるとつらくなるし、礼拝も行かなければならないからという理由で出席するとつまらなくなります。そして、主の訓練が始まると、もっと個人差がでてきます。そこで、どうすればいいのか今日の聖句から考えてみると、「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり」とあるので、主イエス・キリストへの信仰と知識が問題になっています。ここがクリスチャンの一番力をいれるところになります。必ず、自分の人生で自分の力ではどうすることもできないことが起こってきます。本来、自分の力でなんとかしたいのにできません。頑張っても、考えても、何をしてもうまくいきません。そこで、信仰の場面になります。信仰のみで解決できるかどうかが課題です。こんなことはしたことがないので、とまどうのです。なかなか昔のやり方から抜けられないと苦戦しますし、長引きます。イエス様を信じるだけで問題を解決するにはどうすればいいのか、試行錯誤しなければなりません。「知識」は聖書ですから、自ずと聖書をあちらこちら読んで理解しようとします。難しいので参考書も読みますが、求めている答えとはいえないことが多々あります。それで、祈り始めます。それも、答えを直接得ようとしているので、一生懸命に祈ります。聖霊が内住しているという感覚が無かったのに、内から答えが飛び出してくることを経験したりします。そなると、自分の感情よりも御言葉が語っている生きた声に従うようになり、試練には自我が砕かれ、自己中心にしか物事を見られなかったはずなのに、いつでもイエス様に仕える者としてのへりくだりが身についてきます。愛が自分には無いと嘆いたのに、いつのまにか自分を犠牲にしてもおしくないと思える人への愛が芽生えています。時には単純に信じる信仰が、大胆な行動を生み、奇跡を起こしたりします。人も好き嫌いがあったのに、どのような人の中にも良いものを見つけるようになり、いつでも勇気を出して、人と良い出会いをするようになります。そして、たいていのことには動じない優しいまなざしで、周りをみるようになります。いつでもイエス様ならどうするだろうと思っていたのに、イエス様の思いが自分の内にあるようになります。自分が小さくなり、自分の内にイエス様が大きくなるのです。それが心地よいのです。あなたはこうして成熟していくでしょう。(さくま)

 

1月18日(日)

今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

Ⅰペトロ1:6,7

 

失敗するとすぐにあきらめる人がいます。どんなに努力しても負ける時もあります。しかし、あきらめるのはどうでしょうか。そこからが本当の勝負がはじまっています。なにかをやり遂げようとすると、必ず壁が立ちはだかってきます。それを越えないと前進できません。そこで、人の力を借りることも必要になります。一人の時には気づけないことが他人から指摘されて目が開かれることだってあります。一番いけないのは、やる前にあきらめる人です。情報化社会では特に要注意です。正しくない情報もあるし、他人の感覚と自分のそれとは違っている事が多々あるからです。田舎の人の住んでいない古い日本家屋を、ダメだと決めつける人もいますが、それを最高と喜ぶ人もいるように、何でも試してみなければわかりません。神様は、信仰を試されますが、それは意地悪をしているのではなくて、希望の光はその向こう側にあることを教えてあげたいのです。魅力のある人は、多くの試練を乗り越えてきた人です。試練を通して自分を磨くことが可能なのです。試練は乗り越えるためにあるのです。信仰を持った人は、年月をかけて信心を深めているのです。でも、試練を前にたじろぐひとや逃げ出す人は、いつまでたっても何もかわらないのです。試練は、神様へのアプローチの仕方を学ぶことができます。祈りも力あるものへと成長します。北海道の大雪山にはロープウェーがあって、一気に高い所まで上ることが出来るのですが、そのせいか、ハイヒールを履いている女性がいました。重装備の山登りの人たちの側に軽装でハイヒールの女性は以下にも場違いでした。信仰も、決してあなどれるようなものではありません。自分が受けた洗礼は天国までのロープウェーではありません。ロープウェーを降りると自分の足で厳しい山道を長時間登っていかなければなりません。嫌々なら誰も登れないでしょう。ゴールに楽しみが待っているので、きつい登山道を登っていくのです。信仰も同じです。そして、この世の中でも成功したかったら、正しい道を歩まなければ、頂上へは辿りつけません。そして、何よりも試練を乗り越えることができるかどうかで、成功できるかどうかが決まるのです。すでに、あなたは挑戦者になっているのですから、見事に試練を乗り越える者となりましょう。(さくま)

 

1月19日(月)

何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。

フィリピ2:14

 

何事も、不平や理屈を言わずに行う人をみたことがあるでしょうか。もし、そうゆう人を知らなければ、ちょっと想像してみてください。この人は、信頼できるいい人だと思いますよ。きっと誰からも認められる人です。不平や理屈を言っている人は、いくらでもいるでしょうね。それが習慣になって、何かを頼まれれば、まず不平や理屈を言ってしまうかもしれません。嫌な事があれば、また不平や理屈を言っているでしょう。そのうち、何もなくても不平や理屈を言っているでしょうが、自覚していないかもしれません。聖書で書いてあることを守りたいし、実行したいですよね。でも、いろいろたくさんあるようで、結局覚えられないからとか、忘れてしまったからと、言って何もしないかもしれません。でも、それでは信仰に変化がみられません。そこで、一つだけ、守ってみたいことが、今日の聖句なのです。このディボーションを読んだのですから、自分の信仰や人生に良い変化起こすためにも、決心してみてはどうでしょうか。うまくいかない事もあるかもしれませんが、そんな時にはお祈りして、聖霊の助けを求めます。とにかく、この一つの課題に挑戦してみるのです。きっと、よいことがついてきますよ。人生に何か良い奇跡が起こるかもしれません。すぐにやってみましょう。(さくま)

 

1月20日(火)

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。

ヤコブ1:22-24

 

 

今日の聖句は、とてもおもしろい箇所です。自分の顔を正確に覚えていますか。鏡の前にいて自分の顔を鏡に映して眺めていれば、明瞭に自分の顔がわかりますが、その場を離れてしまうとたちまち自分の顔がおぼろげにしか分からなくなります。たいていの場合は、写真などの同じイメージを覚えることはできるのですが、今見ていた顔を思い出すと写真のように正確に思い出せなくなってしまいます。これと同じように、御言葉を読むだけでそれを行わないと、すぐに忘れてしまうというのです。これは、大切な教えですよね。これはいろいろなことで試せば同じ原理が働いていることに気がつきます。例えば、成功法則のようなものです。リーダーシップでも、ビジネスマンとして成功するための方法とか、スポーツ選手で一流になる方法など、人間として成長して夢をかなえるために必要なことが、今日の聖句に書いてあるということです。問題は聞くだけでは忘れる、という人間の仕組みです。たとえば、語学学習も、もともとはコミュニケーションのために必要なものであって勉強のためのものではありません。誰かとコミュニケーションを取ろうと外国語を使う時に必然的に身についてくるものですよね。だから、教科書を読んだり、聞くだけではだめなので、実際に外国人と話すとか外国に住かなど外国語を使うとより良いわけです。学んで、実際に使う、こうやって身につけていくことができます。同じように、聖書の御言葉もただ読むだけではなく、実際に実行してみることで大きな成果を期待できるのです。ゴールデン・ルールのようなものが聖書には書かれているのですが、それを実行しなければ何も変わりません。実行して身につけることでそのすばらしい効果が期待できるのです。一つずつ試してみましょう。(さくま)

 

1月21日(水)

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

詩編23:1

 

私たちは自分の力で生きていると思っているところがあります。だから努力もするし、逆に自分の足りなさを責めたくなることもあります。生活の不安は、無いにこしたことはりませんが、時に不安が心を支配することもあります。でも、お金が有っても無くても人は生きていけるものです。フィリピンにいた時に、路上生活者の人たちもちゃんと生きていました。日本でも戦後の復興期を過ぎて高度経済成長が始まっても貧しい人たちはいました。夏の夕方、掘立小屋のような小さくて粗末な家がいくつもあるところを通ったことがあります。暑いので開け放たれ戸の向こうで家族がちゃぶ台を囲んで食事をしている光景が目に入りました。お父さんらしき人がランニング姿で背を向けていました。見るからに貧しさが感じられて何とも切ない気持ちにさせられました。それから何十年も経ったのにその光景がいまだに心に残っています。豊かな生活も見ましたが、貧しい生活も見ました。そのものにどんな意味があるのか、若い時には貧しさを無くすことにこそ意味を見いだそうとしていました。しかし、歳を重ねて今は、貧しさが必ずしも悪であるというわけでもないと思えるようになりました。勿論、まじめに努力して生活が良くなることは良いことです。しかし、どちらの側にいるとしても、信仰が伴わなければ意味がないと思えるのです。パウロはそのどちらにも信仰で生きられると言っています。実際に貧しいクリスチャンが世界にはたくさん存在することからも、人間はそこに生まれてくればそこで順応して生きていくということなのです。そして、そこで信仰をどうあらわし、どのような人になっていくかが神に問われているようです。そして、どのクリスチャンも羊と呼ばれ、羊飼いであるイエス・キリストがいてくださいます。聖書は、そこではっきりと「わたしには何も欠けることがない」と書いてあります。ですから、どのような境遇に置かれていたとしても、困ることはないのです。人間はすぐにダメだとあきらめて否定的になりますが、クリスチャンは悩むことがあっても、羊飼いを信頼して頼ることができるのです。その結果はいつだって良いものです。悩みを減らす方法は、羊飼いから離れないということです。自分勝手にどこか道をはずれて行けば羊飼いから離れるので、困ったことになるのです。そのことをクリスチャンは知っているのですから、主を疑ってはいけません。圧倒的な信頼が奇跡を生むのです。羊飼いを信頼してすべて任せてみましょう。それから羊飼いが何をしてくださるか見ていましょう。(さくま)

 

1月22日(木)

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:11-13

 

これは、パウロの言葉です。パウロは使徒としての使命を成し遂げるために危険をも顧みずに福音を伝えて新しく教会を立ち上げながら旅を続けました。それは困難を伴う使命でしたが、その働きを通して「あらゆる境遇に対処する秘訣を」身につけていったのです。それは、「どんな境遇にあっても満ち足りることを学」ぶ、という結果になったのです。できれば私たちもパウロのようにあらゆる境遇に対処する秘訣を身につけたいものです。しかし、誰もが使徒の賜物や使徒として召しをうけるわけではありませんから、同じようにできるわけもありません。しかし、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」という言葉は、真実であなたにも真理なのです。今おかれた生活の中で、満ち足りることもできるし、さらに向上しようという願いが起こされれば、それも可能でしょう。つまり、どんなことでもできるということは信じてよいのです。勿論、これは信仰の話しです。主が強くしてくださるので、可能だという意味です。ただ、肉欲を満たすためには効果がありません。へたをすればそれで滅んでしまうからです。主に心を向けていくことの中に自分の使命がわかり、そのために強められ、使命を達成する為にどんなことでもできるということになっていくのです。天命を聞ける信仰を求めましょう。(佐久間)

 

1月23日(金)

世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

Ⅰヨハネ2:15-17

 

世を愛さない生き方とはどんなものでしょう。聖フランチェスコやマザーテレサのような人たちのことが浮かびますが、だれもが真似できるものではありません。標準的なクリスチャンにとって、仕事をして、子供を育て、教会に通い、まじめに生きていくだけではいけないのでしょうか。教会によっては、何でも自由という教会もあれば、何でも不自由という教会もあります。不自由とは、禁じられていることが多いということですが。そのどちらの極端な教会だって、今日の御言葉を読みます。それで、自分たちが正しいと納得できるのです。神様でなければ、とうてい理解できません。人間の「正しい」にはやはり限界があります。神様の正しさが必要です。いろいろな教派や教会があるのは、この世だからです。天国には○○教団などと看板を掲げる教会はありません。でも、この世では数え切れないほどの教会が生みだされてきました。たいていの人は、身近な教会に導かれてその教会の教えを受入れることとなります。選択の余地はほとんどありません。神様はその中で、その人を見ています。つまり、どのような教会であっても、その中で個々の信仰は自分の責任で成長して行きます。中には、争いがあったり、非常識な人や心を病んでいる人もいるでしょう。およそ、教会とは思えないひどい事もあるかもしれません。それでも、その中で耐えて信仰を成長させている人がいるのです。善い教会に導かれた人は恵まれているかもしれませんが、神様は一人一人に一番良い教会を選んでくださっていると思います。あるいは環境を考慮してくださっているはずです。そこで、重要なことは、神様への愛が本物になってきているかということです。それは、逆説的に言えば、この世を愛することがなくなってきたか、ということです。この世と言うのに、聖書は「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです」と語ります。クリスチャンが聖なる者となろうとしているのに悩むのは、もっぱら肉の欲、目の欲、生活のおごりのように自動的に罪に誘っていくものが存在しているということです。それが世を愛するということだというのです。神を愛することによって克服するしか方法がありません。そこで、自分の人生をかけなければできないことで、片手間でなんとかなるようなことではないのです。この世を愛する生き方と神を愛する生き方は、相いれません、正反対です。そこから生まれるものも正反対です。しかし、長い時間、永遠と聖書は書きますが、そこでようやくわかることなのです。信仰を真剣に考えてみましょう。神様はあなたを見ておられます。境遇や環境に負ける必要はありません。強さ弱さも関係ありません。神様へ集中しましょう。良いことが起こると信じましょう。(さくま)

 

1月24日(土)

イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

エフェソ1:5

 

これは、あなたのことです。どのような境遇に生まれてきたとしても、どのような生き方をしてきたとしても、この御言葉は変わらないのです。私たちクリスチャンは、イエス様の恵みを知っています。自分がどのような人間であったか知っているからです。たとえ、正直でまじめであったとしても、それで天国へ行ける資格を満たしたと胸をはることなどできないし、だいたい負い目は必ず誰の胸の内にもあります。山ほどの後悔もあるだろうし、いつまでも過去を悔いて生きている人もいるでしょう。困ってはじめて後悔する人もいます。とにかく、いろいろあって時が来るのです。神様の御心は、はかりがたく、しかも愛に満ちているのです。完全なイエス様が私たちを救うために、天から降りて人間になるということは、人間の理解力をはるかに越えています。それ以外に、私たちを神の子にするなどということは不可能でした。どんな人の中にも良いところがあります。驚くほどの魅力が隠れているのです。最高の才能は愛することができるということです。これは、神様の被造物にそれぞれみられるものですが、人間のそれははるかに秀でて特別です。そして、この愛がすべてです。結局、クリスチャンはこの愛を極めていくことになります。罪によってすっかり傷つきくもってしまった愛をイエス様に愛されて、回復していくことが重要なクリスチャンのつとめなのです。そこで、問題になるのがイエス様に愛されていることがわかることです。ここに、信仰が必要になってくるのです。聖霊は、聖なるものを理解させるように霊的覚醒を起こすことが出来ます。しかし、人間も神様を信じることが必要なのです。ただ、聖書を読むのではなく、考えて、研究するのです。同じようなことをほかの箇所でも書いています。それらを見比べてみましょう。そうすれば、何を言いたいのかはっきり分かるでしょう。そうやって、神様へ向かっていくのです。神の子への歩みはすでに始まっています。御言葉を信じましょう。自分は関係ないなどと高慢な言葉を言ってはいけません。神秘は目の前にあるのです。霊の目が開かれますように。(さくま)

 

1月25日(日)

主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。

哀歌3:31-33

 

神に願ってもかなわないと、「なぜ?」、と不信をあらわにすることがある。それを主は、子供を慈しむ親のように見ているのだろう。親は子の幸せを思って先を見通し、最善を考えるものだ。しかし、子はまだ、未熟で目先のことしか考えない、だから後で後悔したり、痛い目にあうことすらあるだろう。そんなこども言いなりになったら大変だ。だから、賢明な親は、子供のいいなりにはならないし、いたずらに甘やかすこともない。神は人間の親以上だから、間違うことがない。願いがかなわず、クリスチャンたちがそのことを理解できない時にも、賢明に沈黙を守る。安易に答を教えるべきではないからだ。それは、クリスチャンをイエスのような神の子へと育てているからなのだが。だから、神の訓練を軽んじてはいけない。自分の都合を優先させるのも賢明ではない。この神とクリスチャンの関係は、その人にとって、自分の子供との関係を暗示している。だから、冷静になって信仰を働かせることが正しい。そうすれば、見えなかったものが見えてくるし、自分の悩みに既に神は答えておられることにも気がつくだろう。神は、決してクリスチャンを苦しめたいと思っているわけではない。自分は、捨て置かれていると思うならば、忍耐して待つことだ。必ずや主の憐みはあなたを慰めることだろう。主の訓練は、あなたを神の子にするために必要なことなので、避けることができないのだ。あなたは、だんだんと変えられていることに気がついていないかもしれない。しかし、主はご計画通りに、間違うことなくあなたの益となるように今日も働いておられるのだ。慈しみに富む主よ感謝します。(サクマ)

 

1月26日(月)

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

ルカ6:35-36

 

主イエス・キリストの教えは、すばらしい。しかし、簡単ではないだろう。確かに、主の教えを守るならば、クリスチャンはたちまちキリストのように変わる事ができるだろう。ただし、心から主の教えを守ることが重要となる。いやいや形だけ守るのなら、意味がない。そこで、たいていは心の中で葛藤が起こる。好きな人のためならば喜んでできるが、嫌いな人のためとなると、どうしてもがまんがならなし、やる気が起きない。この御言葉は間違っているのではないだろうか、とすら思えてくる。では、問題は何かと問えば、それは自分の心の中で自我を捨てきれないことが問題なのだ。そのために、いくら良い教えでも実行しようとすれば苦しむことになる。それをごまかせば、ただの偽善になってしまう。それでは意味がない。そこで、最後の聖句を考えてみよう。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という命令だ。確かに、善人のためだけに太陽が昇るわけでもないし、悪人だからと雨が降らなくなるわけではない。神が人を見るのは、その人の本心を見ているのだ。そこには、孤独や深い心の傷など、辛い思いが詰まっているかもしれない。親に捨てられて、恨んでいるかもしれない。愛されたいのに誰からも愛されていないと思っている人もいるだろう。助けてもらいたいのに、誰も助けてくれなかったので怒って世間を恨んでいる人だっている。そうゆう人たちは、正しいことを勇気をもって行う人を見たことがないかもしれない。この世には、それこそいろいろな人がいて、皆、信じられる人に会いたいのだ。自分がどんなものであっても愛してくれる人を必要としている。イエス・キリストならきっとその人によりそって、心の傷を癒し、願っていた以上に愛してくれるだろう。しかし、イエスは天に帰ってしまった。あなたを残して。そして、あなたに使命を託したのだ。イエスに代わって敵を愛し、「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」と。あなたは自分には無理と言うかもしれないが、聖霊はあなたを励まし、チャンスをあたえてくださるだろう。そして、あなたの心から愛が溢れだし、驚くべき奇跡を生むだろう。そして、あなたは大いに報われる。それだけでなく、あなたは天の父のように憐み深い者となれるだろう。あなたを助けるために、神は別の助け主を送ってくださっているから、あなたはきっとうまくやるだろう。イエスがみごとやりとげたように、あなたもきっとうまくできる。(サクマ)

 

1月27日(火)

主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。

詩編71:1-3

 

私たちは、いつもうまくいっているわけではありません。良い時もあれば、悪い時もあるものです。そのようになっているので、謙遜に生きる知恵を身につけたり、調子にのることなく、慎重により勤勉になったりできるのです。それでも、何か困ったことが起こると、不安に圧倒されたり、イライラして人間関係を壊してしまったり、あとあと後悔する禍根を残したりすることすらあるのです。困った時の神頼みをとはよく言ったもので、普段は忘れているのに、困難が押し寄せると、とたんに何かにすがりたくなります。しかし、実は何にすがるかということが一番大事なのです。何の力もないものにすがっても意味がないからです。聖書の神は、非常事態が生じた時の避難場所です。困ったと泣きつけば、いつだって助けてくださいます。調子がいいと思われるかもしれませんが、主は憐み深いのです。そして、今日の聖句は、何べんも神に救われてきた人の信頼の詩です。この詩人と神との関係をよく見てください。祈りはこのように、神との良い関係が反映されると心に響くものになります。「主よ、御もとに身を寄せます」という初めの言葉は、あなたの祈りのために覚えておくとよい言葉です。救いを必要としている時、しかも自分自身に力が無く、危険が迫っているような時に、どうすればよいのか。それは、なにもかもかなぐり捨てて、身一つで神ににじり寄って行くことです。神のみもとへ近づくことができれば、主の憐みに訴えることができるからです。そして、主はいつだって、この期待を裏切ることはありません。信仰者はそのことを体験的に知っています。だからこそ、自分の信頼を込めて祈ればいいのです。主をどれぐらい確実な救いと信じているかを表明することです。「大岩」や「砦」も自分を救うことのできる神への信仰告白となっています。あなたは、どのように神の救いの確かさを表現するでしょうか。少し考えて自分なりの言葉を探してみましょう。(佐久間)

 

1月28日(水)

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

Ⅰヨハネ4:10

 

キリスト教は愛の宗教です。愛を貫くことはとても厳しいことです。私たちの中には利己愛があって、自己を犠牲にしてまで愛をつらぬけないのです。そのような者ですから、私たちが最初に神を愛するということはありませんでした。自分の願いを何とかかなえていただきたいと思う対象が神だと思っていたのです。ところが、自分を犠牲にしてまで愛そうとする神が真の神であると知ったのです。それは、イエス・キリストが十字架にかかった意味を聞いたからです。それは、今日の聖句にも書いてある通りです。私たちの罪の償いとして犠牲になられたのです。私たちの罪とは、何だと思いますか。それぞれが自分の罪は何か知る必要があります。どんなふうに生きてきたか。嘘はついたか、人を傷つけたか、人のものを盗んだか、人をねたんだろうか、人のものを欲しいと思っただろうか、情欲をもって人を見ただろうか、姦淫しただろうか、愛でない事をしてきただろうか、神をも恐れぬことをしただろうか、人を心の内で殺してしまただろうか、はずべきことをしただろうか、・・・・・・もし、思いだせないというのなら、「神様、私の罪を示してください」と祈ってみてください。自分の罪を思い出し、恐ろしくなります。後悔しても、もはや自分でどうすることもできず、罪を赦されることを願わずにはいられなくなるでしょう。罪を赦すことのできるお方は、神しかいません。でも、神は正義を守るお方ですから、罪を裁かなければならないお方なのです。聖書には、罪の支払う報酬は死である、と書かれています。ですから、私たちの運命は死をもって罰を受けることしかないのです。ところが、神は愛なので、あなたを惜しみます。あなたを最後まで愛しぬきたいのです。でも、罪を罰しなければなりません。そこで、独り子のイエスをあなたの身代わりにして、あなたの罪を罰することにしたのです。イエスは神の子なので、罪がありません。それで、あなたの身代わりに罰を受けるいけにえとなったのです。それが十字架の意味です。だから、イエスはあなたのために十字架に架かり、あなたの罪の代償として、ご自分の命を犠牲にされたので、あなたの罪は赦されるのです。なぜ、イエスはそのようなむごい犠牲をいとわなかったのでしょう。そこに、愛があるのです。あなたを愛する真実のお方がおられることを覚えてください。そして、今度はあなたが神の愛に応える番なのです。イエス・キリストを信じて、愛に生きるのです。(佐久間)

 

1月29日(木)

天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくてもその響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。

詩編19:2-5

 

真の神様を知るまでは、漠然と神様はいるかもしれない、といった程度のことでしたが、初詣や旅行で立ち寄る神社仏閣にお参りすることも特に抵抗はありませんでした。では、それで人生にどのような良い影響があったかといわれれば、何もありませんでした。それどころか、神様はいないとさえ思うようになってしまったのですが、神様がいないという世界の空しさを感じていました。どこかに、本当のことを教えているものがあるのではないかと、図書館の本を片っ端から読んでみましたが、見つけることはできませんでした。それでも、真理が知りたいと思ったし、考えていました。そのような時期を通して、やがてキリストへと導かれて行きました。今振り返ると、実は今日の御言葉の通りに、自分の周りには神様の存在を示すもので満ちていたのです。それを上手に言葉で説明できないのですが、今日の聖句はそれを上手く言葉にしているのです。「話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくてもその響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう」。だから、誰でも神を知る事ができるし、はじめから知っているのです。不思議ですが、目に見えないから、声が聞こえないから、だから神様はいないとは言えないのです。なぜならば、私たちは目に見えないものを見ることができるし、耳に聞こえない言葉を聞くことができます。それを普段から自由に使っているのですが、残念な事に見えるものや聞こえる言葉ばかりに心を向けるので、聞いても聞こえず、見ても見えず、と聖書にも書かれている通りになってしまうのです。本当に大切なことを第一にすべきです。自分が生れてきた意味を求めて知るべきです。そのためには神様を抜きにしては知る事ができません。神様はあなたを愛しているとはっきりおっしゃっています。人とは違うので、心変わりはありません。神様があなたを大切に思っていてくださるのは、あなたの側にいてくださることでわかります。見えると思っているので、見えないものがあるのです。目を閉じて、心の目が開かれるように願い、心の耳が開かれるように求めてみましょう。神様の慈しみに触れさせていただきましょう。それらを上手くやる方法が信じることです。神様を信じて、心の声で語りかけてみましょう。すばらしいことが起こりますように。(さくま)

 

1月30日(金)

あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちに御自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる。

歴代誌下15:2

 

考えたことがあるでしょうか。神を必要とする時に、そばにいて欲しいと願うから神はあなたと共にいるのではなく、あなたが神と共にいるなら、神もあなたと共にいてくださることを。主を求めれば、主はご自分を示してくださる、というのです。そして、あなたが、もし主を捨てるなら、その時主もあなたを捨て去るのです。そうです、すべてあなたが決めることなのです。だから、「神はどこにいるのか」と言う必要はないのです。あなたが信仰で、「主はいつでも私と共にいてくださる」と認めれば、その言葉の通りに、主はあなたと共におられるのです。信じることなしには決してわからないことですね。ですから、あなたはとても恵まれています。そう認めてください。そすれば、恵みが実感されるはずです。ですから、どのように生きるかよく考えて選択を誤らないようにしましょう。主の方からあなたを捨てることはありません。ただ、あなたが主を捨てない限りですが。そうわかれば、勇気100倍で積極的に生きることができます。人生は、信仰者にとっては良いものです。どんなに辛いことがあっても、主が共にいてくださるので恵みに変わるからです。今日も、信仰を働かせて恵みを受けましょう。(佐久間)

 

1月31日(土)

「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」

詩編91:14-16

 

この聖句を読んで、なぜ神様がこの人を助け、名誉を与え、満ちたらせ、救いを与えてくださるのかわかるでしょうか。一番初めに書いてある通り、「彼はわたしを慕う者だから」とあるように、神様が大好きで、いつも一緒にいたいと思い、慕ってやまない者だからです。そればかりか、「わたしの名を知る者だから」と書いてあります。つまり、真の神は誰か知っているということです。ほんとうの神様は愛と呼ばれるお方で、創造主です。愛を実現させる完全な世界を創造されましたが、人間が神を裏切り罪を犯してしまったので、神との愛の関係が断絶してしまいました。それは人間同士の関係も同様で、愛の反対の自己中心な自分さえよければいいという精神が起こっていったのです。それでも、人間には選択する力が与えられているので、正しい方を選ぶことができます。どのような環境や境遇に置かれても自己責任で選択していかなければなりません。しかし、人間の弱さがいつも罪を犯す選択となってしまうのです。罪は法則のように強烈で、人間の努力では克服できません。それで、自分が罪を犯している自覚すらなくなってしまいます。そのような人間を神様が預言者を通して与えた律法に照らしてみれば、たちまち死刑に決まってしまいます。それで、救い主イエス様が来て下さり、罪人を探し救ってくださいました。人間には、そうやって救われる道が備えられています。自分を救うことができない人間には恵みで救っていただくしか方法がありません。その恵みがイエス・キリストなので、イエス様を信じることで救われるのです。そうやって救われた人は、キリストを通して神様を知ることができるので、神様を慕うようになります。この神様ほど善い神様はいません。幸せの道は今日の聖句に書いてある通りです。祝福された人生を歩んでください。(さくま)