2015年10月

10月1日(木)

すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

マタイ14:28-31

 

今日は信仰のことを考えてみましょう。教材となってくれるのはペトロです。この物語の面白いところは、やはり水の上をペトロが歩くところにあります。どうやったのかと問われれば、「イエスの支配の中に入ったから」と答えればよいでしょうか。この世界の法則は私たちの経験からよく知っています。水の上を人間は歩けないということです。しかし、イエスが許可すれば、ペトロは確かに歩けたのです。ところがここで問題が生じます。せっかく、この世界の法則を破ってイエスの支配の中に入ったのに、ペトロは強い風に怖気づいて沈みかけたのです。強い風はこの世界の経験でいえば恐ろしいものです。しかし本当は、そうしたこの世界からイエスの支配の中に入ったのでこの世界を超越できたはずです。ペトロは、残念なことに恐れたことから、また逆戻りしてこの世界の法則通りに沈みかけたのです。ペトロはイエスに助けられて溺れずにすみましたが、イエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。ここで、私たちは「ペトロ、ダメじゃないか」と言いかけるのですが、よく考えれてみれば自分と同じじゃないかな?とか、いやペトロは舟から出て水を少しだけど歩いたじゃないか、自分はそもそも舟を出ようとは思わなかったかもしれない、とペトロにダメ出しできなくなります。しかし、一つわかったことは、信仰はこの世界の常識を超越する力であるということです。だから、罪に死ぬとか、新しく生まれた、とか聖書に書かれていても常識を持ち出してしまえば、やはり理解できないのでしょう。ですから、ペトロみたいにイエスを信じて舟を出て水の上を歩いたような信じ方が必要だということです。少なくとも、イエスは「来なさい」とおっしゃてくださったのです。あなたは、どうしますか。まだ舟の中にとどまりたいですか。それとも、信仰をためしてみますか。舟を出て水の上を歩くような大きな決断をしてみましょうか。主を信じて、イエスが水上歩行されているように私たちも水の上を歩きましょうか。きっと、そのような経験が今までにもあったかもしれません。しかし、ペトロと同じようにこの世界の常識に目を向けてしまったのではないでしょうか。信仰でしか入ることのできない世界。イエス・キリストの支配する世界へ入る方法が信仰というものであるのなら、そのような信仰をぜひとも実践したいですね。これはあなたへのチャレンジです。(佐久間)

 

 10月2日(金)

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

ローマ6:11

 

「人間は考える葦」と言ったのはパスカルですが、まさに人間のすごいところは考える能力です。世界にはいろいろな国があり、文化がありますが、外国へ行かれた方がは少なからずカルチャーショックを受けるものです。それは、同じ人間なのに異なった考え方をしていることに驚くわけです。そこで、狭い社会に閉じこもっていると視野の狭い人間になると反省すら出てくるのです。そして、考える力はいろいろなものを生み出し、発明してきましたから考え方が人間に及ぼす力についても多くの人々が研究してきたのです。考え方は精神にも影響を与えるので、スポーツ選手はメンタルトレーニングを大切な要素として取り入れるようになりました。さて、今日の聖句にも、最後に「考えなさい」と書いてあります。何を考えるかと言えば、もちろん前に書いてあることです。これが重要なことであるのは間違いありません。よく考えてください。私たちは考えた通りに生きています。そこで、神様が作ってくださった能力である考えることを使うのです。このみ言葉を実際に使って考える力が何を起こすか試してみましょう。信仰の世界はこのようなちょっとしたことにあります。余計なことを加えずに考えてみましょう。(さくま)

 

10月3日(土)

さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。

使徒18:24-26

 

原始キリスト教には幾人ものすばらしい伝道者が登場します。その中で雄弁家と言われている伝道者アポロがここで登場します。キリスト教はキリストの大宣教命令があったために早くにアフリカにも福音が伝わります。その中で北アフリカのアレクサンドリアは、一時はキリスト教の中心地となるほどでした。そのアレクサンドリア生まれのユダヤ人がアポロでした。福音を大胆に伝えることができるというのはうらやましいかぎりです。キリスト教徒たちにとって、ユダヤ人は伝道すべき相手でもありましたが、同時にキリスト教の迫害者にもなりました。そこで、パウロとかアポロのような信仰の英雄豪傑とでも言えそうな人たちの登場はワクワクするのです。この聖句の続きには、プリスキラとアキラによって神の道、今日的な言葉で言えばキリスト教神学あるいは教理を学んで武装し、アカイア州に宣教に行きました。そこでは、「彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せた」のです(18:28)。そうやって、「既に恵みによって信じていた人々を大いに助け」ました。私たちも聖書をよく学んで、宣教したいですね。(さくま)

 

10月4日(日)

アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」 人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。

使徒19:1-5

 

これは貴重な初期のキリスト教伝道の様子ですが、現代のクリスチャンにとっても必聴の問答がここにあります。使徒言行録で「弟子」というのはクリスチャンのことなのです。つまり、クリスチャンとはイエスの弟子のことなのです。エフェソでパウロはその弟子たちに出会いますが、何かおかしいと感じました。そこで「『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言った」のです。彼らは、あの洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼を受けただけでした。そこでパウロはイエスの名による洗礼へと彼らを導きました。そしてさらに、彼らに手を置いて聖霊のバプテスマへと導きます。これが正しいキリスト者になる方法だったのです。しかし、宣教する者がいなければ知ることのできないことなのです。聖書には明確にはっきりと聖霊のことが書かれているのですが、これが驚くほど理解されないのです。どんなに頭の良い学者でもわからないのは不思議なほどです。ですから、ご自分で聖書を研究して何が真理か祈りのうちに探究してください。パウロたち使徒の献身は、今日の弟子たちにも受け継がれているはずです。ですから、人の言葉ではなく、聖書に書かれたことを根拠に信仰を立て挙げてください。聖霊が働いてくださらなければ、福音は成立しないし、救いは完成しません。その聖霊をキーワードにして学ぶのも簡単な方法ですね。(佐久間)

 

10月5日(月)

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

Ⅰコリント1:21

 

なぜクリスチャンが伝道しているか考えると、主の大宣教命令のほかにも今日の聖句が出てきます。書店に行ってもキリスト教の本は何冊も売られていますが、自分の知恵で神を知ろうとする人たちは、結局神を知ることができないのです。パウロもギリシャの哲学者たちと議論しましたが、彼らは真の神を見出すことはできずに、まるで暇つぶしに話を聞いていただけといった態度をとりました。あの偉大なパウロ先生でもこのようにあしらわれたのですから、私たちが誰かに「キリスト教?宗教なんて愚かなものだ」とバッサリ切られてもしかたのないことです。それでも、聖書に書いてある通りに、「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1:24)。私はそうやって何十年も宣教してきましたが、多くの人たちが主の召しに信仰で応えて救われてきました。そこには、ユダヤ人の求めるしるしも異邦人が探す知恵もありません。ただ十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えているのです。ですから、あなたも宣教のチャンスを主に求めて、ただイエス・キリストを証ししてください。聖霊は一緒に働いてくださいます。誰が召された人かは私たちは知りません。それだからこそ、あきらめずに根気よく宣教していくのです。ただ、皆がパウロになることはできないし、なる必要もありませんが、自分の大切な役割は必ずあります。それを忠実にやり遂げましょう。無理なことや自分のできないことを主が求めることはありませんから、それは安心してください。ただ、何もできないと決めつけないでください。あなたは、主の手足になれるし、大切な神の御用をやり遂げる力が与えらえています。使ってみればわかります。感情にも変化が現れるのできっとわかると思います。まずは祈ってみましょう。(佐久間)

 

10月6日(火)

まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。

申命記30:14

 

神様を知ることほど大きな幸いはありません。私たちは神様を見たことはありませんが信じています。信じない人からみれば愚かなことのように映るでしょうが、実際の生活では全く逆転しています。神様を信じている人の方が人生の確かさがあり、品性が向上し、困難に強いのです。それらはみな信仰の賜物と思われていますが実際その通りです。私たちはみことばを信じています。その証拠は、みことばを行っているからです。それは今日の聖句の通りです。あなたにはあたりまえのこととなっているでしょうが、みことばはあなたの「ごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあ」るのです。それで、みことばが行動の原動力になっています。愛と一口に言っても抽象的過ぎて、良いものであるとはわかっていても無視することもできるし、自己愛の変形であったり、ギブアンドテイクの愛であったりするものですが、クリスチャンはみ言葉を知ったおかげで愛の本当の意味を知っているのです。それは、神様に愛されていることがわかったからです。イエス様が十字架に書かれた意味を悟ったのです。そこから人生が変わり、聖霊があなたを日々変えているのです。あなたはもっとイエス様のような人に変わりたいと思っているのなら、み言葉の助けがいるでしょう。み言葉があなたの近くに置かれているのは、このみ言葉を信じて変わっていくからです。本の活字のことではありません。あなたの口、あなたの心にある御言葉のことです。不思議はすでにあなたに起こっているのです。(さくま)

 

 10月7日(水)

実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわなければならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。

ヘブライ5:12

 

教会をいくつも見てきましたが、今日の聖句の通りと思わずにはいられない現実があります。なぜそうなるのでしょうか。私たちに向上心がないからでしょうか、聖書は難しいものだとどこかで思い込んでしまっているからでしょうか。教理を知ることはいろいろな助けにもなるので大切なことですが、聖書をあちらこちら調べて読むことはとても大切なことなのです。初歩にとどまったままのクリスチャンと言われるのは嫌ですよね。それならば、信仰者らしく、聖書をよく読む者になりたいですね。祈って、聖書を調べ、また祈る、というような熱心さは称賛されることなのです。クリスチャンになったはじめこそ聖書を読んだかもしれませんが、そのうちにだんだん聖書を読まなくなる人が教会にもいます。人間の赤ちゃんの成長ぶりは、目を見張るものがありますが、同じようにクリスチャンも洗礼を受けた生まれたてから、その人の信仰の度合いに応じた成長があります。誰でも、信仰を健全に働かせて、成長したいものです。もちろん、順調に信仰に成長している人たちもたくさんいます。彼らは、聖書教師にだってなれるのです。そうでなければ、聖書に書かれた真理をどうやって身に着けていけるでしょうか。完全な救いについてだって理解できなければ、意味がありません。すべてが自分次第であることを覚えて、すぐに挑戦しましょう。(佐久間)

 

10月8日(木)

わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。あなたが計らってくださいますから とこしえに、神に感謝をささげます。御名に望みをおきます あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深いあなたの御名に。

詩編52:10-11

 

神様を信じて本当によかった、と何度も思いました。長く生きてみて神様の真実がいかに尊いものか実感します。人間はなかなか難しい存在です。たいていのことは何でもできます。自分の思い通りに生きたいという思いが強く、個性は千差万別です。しかし、面白いことに、人は相手次第というところがあるのです。相手が厳しい言葉を言えば、悲しくなるし、批判されれば反発するし、ひどい言葉を聴けば怒りがわいてくるでしょう。相手の出方に対して反応するようにできているのです。ですから愛されると嬉しくなって、相手を愛するようになります。これは、神様が私たちを愛する者として創造されたからです。本当は、愛し愛されだけだったのですが、罪が入り込んでその愛の関係が壊れてしまったために、今のような世界になったのです。その中で、神様の救いは今もあるのです。完全な救いです。アダムのような失敗する生き方から、キリストのような愛に満ちた生き方に生まれ変わることのできる救いです。その救いに与る人たちは、今日のみ言葉の意味がよく分かります。このみ言葉の通りなのですから。日々の生活は主の計らいの中で祝福されています。弱く小さな私たちでも、主の慈しみに依り頼んで幸福に生きることができます。感謝が自然とわいてくるのです。人間的には将来のことを心配することがあるかもしれませんが、私たちは「御名に望みをおきます。あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深いあなたの御名に。」と信仰だけで告白する者なのです。ありがたいことです。(さくま) 

 

10月9日(金)

口の言葉が結ぶ実によって 人は良いものに飽き足りる。人は手の働きに応じて報いられる。

箴言12:14

 

人は良い言葉と良い行いの両方から報いを受けることができる、というみ言葉です。皆さんは日々言葉を語っているでしょうが、それは良い言葉ですか。自分がどのような言葉を語っているか注意してみましょう。何も考えずに何でもいいたい事を語っていても大丈夫といった考えは賢明ではありません。人の徳を立て上げるような言葉を語る人もいます。慰めの言葉、励ましの言葉、正義の言葉、愛の言葉、恵みの言葉、勇気を与える言葉、癒しの言葉、心が軽くなる言葉、ユーモアのある言葉、命の言葉、自信を与える言葉、思いやりの言葉、親切な言葉、知恵の言葉、このように良い言葉はたくさんありますが、あなたはこのような良い言葉を選んでいるでしょうか。売り言葉に買い言葉、とは喧嘩するときの言葉を連想させます。愛情深い言葉をいつも選ぶことができればどんなにいいことでしょう。きっとその人の周りにはそのような愛情深い人が増えていくでしょう。そうそう、人は言葉で変わることができるのです。人はその人が使う言葉のような人になっていくからです。また、人への思いやりは行動に現れます。時には、黙ってそばにいることが一番の愛であることもあるのです。中学生の頃にいとこの父親が亡くなりました。その時に、一人っ子のいとこのそばにずっと一緒にいたことがありました。悲しみは一人よりも二人で耐えた方がよいのです。それから勤勉に働けば、その結果は必ずに報いとなって自分のもとへ帰ってきます。クリスチャンはこの地上ではなく、天に宝を積むことをいつも考えています。天国にたどり着いた時に、そこにどれだけの貯金があるのか考えると楽しくなります。さて、今日も良い言葉、良い行い、この二つを意識して良い日を過ごしましょう。

(さくま) 

 

10月10日(土)

わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。

ヨハネ17:15,16

 

これは、イエス・キリストの祈りです。天の父に祈っている言葉は、私たちにも関わりがあります。あなたがキリストの弟子であるのなら、あなたのための執り成しの祈りなのです。主は、あなたをまだこの世から取り去ることをお考えではありません。あなたには使命があるからです。それは、キリストの与えてくださる使命です。それでまだしばらくはこの世にいる必要があります。そのかわりに、「悪い者から守って」いただけるように父なる神に祈ってくださったのです。ですから、あなたは主を信じて恐れてはいけません。この世には当然、悪い者がいますがあなたは神によって守られるのです。そして、大切なことですがイエスは、「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」とお語りになりました。つまり、イエスと同じようにこの世に属していないというのです。それは、すばらしいことです。この世には悪魔という支配者がいますが、その悪魔の支配の中にはいないのです。この世は滅びてしまうことになっていますが、当然、この世に属さない者は滅びないのです。クリスチャンがいかに特別な存在であるか驚くほどです。そこで、あなたは信仰によって、自分は世に属さない者であると信じる必要があります。感覚に頼らずに、み言葉に信頼を置きます。聖化が始まる前に、すでに世に属していない存在であることを喜びましょう。これは、奇跡です。あなたが何かしたから起こったのではありません。キリストの言葉がすべて成るので、キリストの功績によって、私たちは滅びる罪と死の世界から関係を断っているのです。この世に属していない存在があなたなのです。不思議に思うでしょうがこれは救われた者の現実です。まだ聖化が必要ですがその前提に、自分がこの世に属していないことを認めてください。主の御力がさらにあなたに働き奇跡が起こります。楽しみにしていてください。今日も、イエスと同じ世界で生きていけるのです。(佐久間)

 

10月11日(日)

心に湧き出る美しい言葉 わたしの作る詩を、王の前で歌おう。わたしの舌を速やかに物書く人の筆として。あなたは人の子らのだれよりも美しく あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしに神の祝福を受ける方。

詩編45:2,3

 

今日の詩は王様の結婚式に使用されたものとされています。しかし、ダビデ王のようなすばらしい王様は紀元前6世紀中葉以降は出なかったために、この詩はメシア的に解釈されるようになったのです。私たちにとっても、メシアであるイエス様への思いは特別なものがあります。この詩篇記者のようにイエス様を讃美したいのです。自分で讃美歌を作ることのできる人をうらやましく感じたことはありませんか。王であるイエス様の御前で心に湧き出る美しい言葉で讃美することができたらどんなにすばらしいことでしょうか。ただの日常の言葉ではなく、王としてのイエス様にこそふさわしい特別の言葉。それはイエス様を見事に描写することのできる文学の才能にあふれた人の筆のように舌が言葉を創るのです。その讃美を受けるにふさわしい王様は誰よりも美しく、語るのも優雅で、神の祝福をとこしえにうけるお方なのです。あなたのイエス様像はどのようなものでしょうか。イエス様を讃美する言葉を今日は考えてみましょう。極めつけの美しい言葉は、イエス様を愛するあなたの心から湧き出てくるはずです。率直に心の詩を主にささげましょう。(さくま) 

 

10月12日(月)

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

ローマ4:3

 

NHKの朝の連続ドラマが広岡朝子の生涯を扱っていることを知りました。この人のことが小説にもなっていて、明治維新により女性実業家が誕生して活躍する話になっているのですが、それは今日の聖句のような人生でした。七転び八起きでは足りずに、九転び十起きを気概にして幾度も試練を乗り越えていく人生でした。炭鉱を買い、銀行を作り、大同生命保険会社を作り、日本女子大学を創立する働きに献身しました。今と違って女性の地位は非常に低かった時代に後の女性人権運動につながる偉大な働きをされた方です。それにしても、人にはそれぞれの特性があるものです。家庭を守ることの得意な人もいれば、実業の世界で活躍する人もいます。どちらが良いというものではありませんが、今日の聖句はどちらにも覚えていて欲しいものです。人生は何もしなければ、つまらないものです。信仰者は中途半端に生きないことが肝心です。この終末時代には熱いか冷たいかでなければいけません。なまぬるいのは吐き出されてしまいます。聖書が希望と言えば永遠の命です。この世界ではなく、神の国で生きる希望です。それだけはなく、この世でも絶望の淵で希望を見出すことだって起こるのです。誰でもこの地上生涯を信仰に生きていけば、このみ言葉の通りになっていくでしょう。日本人のよく言う皆と同じという生き方では苦難の時には一緒に倒れるだけです。信仰は忍耐を生むから偉大なのです。忍耐できる人は練達の域に達します。そこで初めて希望を生むことができるのです。つまり、苦難は嫌な事ではないのです。ひ弱な者が強くなり、何かを学ぶことができます。そこにはマイナスではなくプラスも必ずあります。苦難から逃れることばかり願う人がいますが、苦難を乗り越えられるように力や知恵を求めることだってできるのです。信仰者は弱そうに見えるけれど実は強いのです。人間は苦労に負けると意地の悪い人になるかもしれません。何でも人のせいにする人にはなりたくありません。いいわけしたくなることもあるでしょうから苦しければそれもしかたありませんが、そこで黙って忍耐すれば練達が生まれるのでもったいないですね。神様を頼らなければ生きられないというのは、熱いか冷たいかの生き方をしなければ経験できません。あなたも、主に選ばれたのですから器の大きなクリスチャンになりましょう。自分のためには頑張れなくても主のためならばやれるものです。(さくま)

 

10月13日(火)

香油も香りも心を楽しませる。友人の優しさは自分の考えにまさる。

箴言27:9

 

 

今日のみ言葉の後半は、難解で訳が定まらない難しい箇所です。七十人訳聖書では、「気苦労はまさしく人の魂を苦しめる」となっています。確かに良い香りは人を癒す効果も期待できます。クリスチャンがキリストの良き香りと表現されることにも通じます。日本人は良い香りにも敏感です。香道というものがあることからも香り文化を持っています。さて、後半部分が前半部分と全く関係がないということはありえないことから、後半部分はこのように考えてみましょう。「友人の優しさ」は、親切とか思いやりとか信頼など、受けるとありがたいと思えることです。そして、「自分の考え」とは、人は友人に対しての接し方が子供レベルから成熟した大人レベルまで幅があるために、大人になっても精神的には成熟していない場合があるのです。そのような時には、友人に過度に甘えてしまいやすいのです。そこで、自分だけを見てほしいとか、独占したくなったりします。しかし、相手がそれに答えてくれないと急に自信を失ったり、悪い考えをもったり、否定的な考えに陥りやすくなります。また、自分にきびしい人は友人に自分の弱さを分かち合うということができません。それで、賢明とはいえない選択をすることがあるのです。しかし、友人の優しさは自分の気持ちを和らげ安心させることができます。それ以上に喜びで心を満たすことができるのです。私たちがもっと成熟して器を大きくすることができれば、友人関係から得る恵みは格段に増えるでしょう。一人で心が暗くなるようなことを考えるよりは、友人に相談してみるほうが賢明なのです。ありがたいことにイエス様は友人であると讃美歌でも歌うように、イエス様の優しさに期待したいものです。(さくま)

 

10月15日(木)

知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。

詩編4:3

 

クリスチャンになっても、昔の習慣からなかなか抜けられない人がいます。たとえば、それは考え方であったりします。自分が何者であるかをなかなか実感として正しく理解できないでいると、信仰を働かせるべき時にそれができないのです。ですから、結果が良くないのですが、それはクリスチャンになる前と変わらないことなので、当然のように受け入れてしまったりします。そのようなことをいつまでも続けるべきではありません。そのような人は、聖書を何のために読んでいるのか立ち止まって考えるべきです。これは神と聖徒の間にある契約書なのです。クリスチャンになった時に、「信仰による義」ということを教えてもらったのではないでしょうか。教会生活ではたびたび聞く言葉です。神様を信じること、と答えれば、その通りになのですが、契約書である聖書のみ言葉を信じることも含まれているのです。信仰の父であるアブラハムの物語には、彼の信仰を神様が義と認めた、という記事があります。それは、たいてい人間の常識では無理と思うようなことを神様のお言葉なので信じます、という内容の時に彼の信仰を義と認めた、というように表現しています。そこで、もっと大胆に信仰をもって生きることにしましょう。今日のみ言葉をまずは、信じてみましょう。そうです、あなたは聖徒であり、主はあなたを特別に扱われるのです。ですから、あなたが呼べな、主は聞いてくださるのです。すごいことですね。素直に信じる人にだけ、この通りになります。(さくま)

 

10月16日(金)

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。

イザヤ60:1,2

 

あなたがどのような境遇に置かれていても、あなたにはすばらしい主の約束があります。心配事も、悩みも、コンプレックスもあなたを暗闇の中に閉じ込めることはできません。あなたは主を信じたのです。自分の神様を知り、イエス・キリストを主と告白しているのです。ですから、あなたはいつまでも闇の中にいる必要はありません。それどころか、苦しみを通った人には、あなたを照らす光が昇るのです。あなたは「起きよ、光を放て」というみ言葉を聞いたのです。主の栄光があなたの上に輝くというのです。信じて、光を放ちましょう。暗闇の中で光は希望となります。すばらしいことがきっとあなたの人生に起こってきます。ですから、今日も元気に笑顔で始めましょう。(さくま)

 

10月17日(土)

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

ルカ6:37-38


神様の定めた法則があります。自分がした通りに自分もされるというものです。それが、多くの人は気が付いていません。それで、「自分はついていない」とか、「自分は損ばかりで運がない」と言ったりしますが、実は神の法則を知らないために悪い結果を自分で作っているかもしれません。アメリカはキリスト教国ですが、同時に慈善にお金を献さげる人が多い国でもあります。日本人も災害など人が困っていると慈善の献げものが多く集まります。実は、神様は慈善の働きには二倍の祝福を与えるのです。クリスチャンの場合ならば、忠実に献金をささげている人には祝福が約束されています。特に十分の一献金は、神様の分なのでそれを出さないと神様から奪うことになる、と預言者は告げています。ただし、自由に喜んで献さげる人にだけ祝福があります。今日のみ言葉をよく考えてみてください。これは法則ですから、自分の量る秤で量り返されることを覚えていれば大丈夫です。(さくま)

 

10月18日(日)

 わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。

エレミヤ31:25

 

人間を悩ませる根源は、罪です。愛してほしいのに愛されない。愛を裏切る。条件付きの愛。エデンの園でアダムは、神様から無条件に愛されていました。それなのにアダムはその神様を裏切ってしまったのです。愛を壊した結果はとても重いのです。アダムの子孫である私たちは、その結果を嫌でも味わわされているのです。厄介なことに、多くの人々が親から子供の時に傷つけられて、それを引きずって生きているのです。今日のみ言葉は、癒しの約束です。この世で頑張って生きているすべての人に知ってほしいみ言葉です。長く生きればそれだけ魂は疲れ果て、衰えてしまうのです。だから、神様の癒しを必要とします。神様はあなたのことをちゃんと知っておられます。だから、あなたを癒したいのです。神様の慈しみはあなたの魂に初めて味わう平安と解放を与えるのです。神様は生きておられます。真実なお方が、あなたを愛していることを明らかにしてくださいます。過去に縛られることも、苦しめられることも、もう無くなるのです。無条件に愛されている事実を知ることになります。イエス・キリストを信じたその時から、癒しは始まっていたのです。あなたは、力に満たされて、堂々と自信をもって生きていけます。苦労と思っていたことは、実は大したことなかったと思えるようになります。赦すことも、愛することも、自然とできるようになります。聖霊はあなたを励まし、決して一人ではないことを明らかにしてくださいます。こうしたことが、あなたを変えることになります。人生が楽しくなります。主は、今日の御言葉の通りにしてくださるからです。主を信頼してお任せしましょう。(さくま)


10月19日(月)

わたしは、この暗い世に輝く光として来ました。わたしを信じる人がだれも、もはや暗やみの中をさまようことのないためです。

ヨハネ12:46(リビングバイブル)

 

今も暗やみの中をさまよっている人は少なくありません。誰かが悪いからと人のせいにしたくなるかもしれません。しかし、もし人のせいにしているなら、問題はいつまでも解決しないでしょう。自分でももっとうまく自由に生きたいと願っているのに、現実は悪い方へ向かってしまい、呪われているのだろうかと嘆いている人がいます。そういう人は表には出にくいので誰にも理解してもらっていないかもしれません。でも、今日このディボーションを読まれたのなら、誰を信じればいいのか気づいていただきたいのです。今日の御言葉をよく読んでみてください。イエス・キリストは約束しています。イエスを信じる人が、「もはや暗やみの中をさまようことがない」と断言されているのです。キリストは光なのです。あなたが否定的な気持ちになるのは暗やみの中にとどまることです。ちゃんとイエス・キリストを信じましょう。あなたはだめな人間ではありません。それどころかすばらしい人に神様は創造されたのです。あなたの人生にすでに希望の光がさしています。誰にも左右されません。道は必ず拓かれて行きます。イエスはあなたを裁くために来られたのではありません。あなたを救うためです。だから、イエス・キリストを信じましょう。光があなたを照らすでしょう。過去にとらわれる必要はもうないのです。新しく生まれ変わって生きるのです。ただキリストを信じるだけで大丈夫です。(佐久間)

 

10月20日(火)

世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。

使徒17:24-25

 

京都に行くと、立派なお寺や神社の大きな建物に驚かされます。しかし、キリスト教の建物は日本の場合、多くが貧弱な建物ばかりです。しかも、そこには偶像が祀られていません。そして、今日の聖書個所を読んでみると、なるほどと納得するものがあります。それは、「この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」と書いてある通りだということです。どんなに巨大な建物でも天地の創造主の家には小さすぎるのです。ましてや人の手によって大掃除してもらわなければほこりまみれになり、クモの巣が張るというようなことがあるわけがないのです。私たちの神様は生きておられるからです。そして、生きて働かれるからこそ、「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださ」っているのです。どこかの建物に納められて動くこともかなわない偶像とは次元がまったく違っています。人間が息をしていられるのは、神様のおかげなのです。空気も水も何もかも人間が生きるために必要なものはみな神様の恵みで与えられているのです。そのように圧倒的なスケールで存在しておられる神様を私たちは信じているのです。今日もあなたのために恵みを惜しまず注いてくださる神様に感謝して、元気に一日を始めましょう。(さくま)

 

10月21日(水)

さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。

使徒17:30-31


旧約聖書の中で「主の日」が来ると預言者が語ると、民は皆恐れたものです。それは、主の日とは、神の裁きの時だったからです。主がこの地上へやって来ることは誰にとっての喜びか考えればすぐわかります。信仰を持って正しく生きている人にとって、そして信仰者であってもこの世で苦しんでいる人にとって、神が正しく裁いてくださるというのは、救いそのものだったのです。実際には二千年前にイエス・キリストが来られて、十字架におつきになられました。それは、人間の理解を超える裁きとなっているのです。しかし、主は昇天し、もう一度、今度はこの世の終わりに来られます。この時の裁きは、はっきりと天国へ行く人と地獄に行く人を分けるものです。それは主イエスが譬話などではっきりお話しになっていました。そうなると、いつ主が来られるか気になりますが、その日は聖書には書かれていません。ただし、世の終わりの時の兆しは弟子たちにイエス・キリストが説明しています。いずれにしろ、大切なことは、今日のみ言葉が「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」とあるように、悔い改めて正しく生きることが急務であるということです。そして、極めつけが「この世を正しく裁く日をお決めになったからです」というみ言葉です。そこで、世の終わりはいつかすでに決まっているのです。主の再臨される日も決まっているということです。それがわかっているのなら、そのうち悔い改めてちゃんとしよう、などとは言っていられません。いつ突然にこの世が終わるかわからないのですからすぐに悔い改めるべきです。そして、クリスチャンとして堂々と生きてください。この世に惑わされることなく、聖霊の助けを受けて、主の愛の中に生きていくことです。あなたは、すでに主によって祝福されています。ですから、喜びと感謝の中でクリスチャンであることを誇りに思って、光り輝いて生きることができます。あなたの存在が身近な人々に良い影響を与えるでしょう。愛することのありがたさや何にも勝る尊さを理解してくれるようになるでしょう。世が終わると決まっているのに、この世に迎合することは愚かに見えるでしょう。イエス・キリストを信じて生きるという意味は、愛と恵みの中に生きることです。よく考えてみればわかると思います。(佐久間)

 

10月22日(木)

彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。

列王記上11:3-4

 

ソロモンの栄華は有名ですが、彼は知恵があるということで繁栄を手に入れました。そして、その知恵は外交にも力を発揮して小国イスラエルを守ることになりました。それは外交の手腕が優れていたのですが、そこには政略結婚も含まれっていたのです。そこでこのように多数の王妃を持つことになりました。しかし、そのソロモンが老境に入った時には妻たちが持ち込んだ外国の神々を信仰することを許し、そのための礼拝所がつぎつぎに建てられていったのです。そうなれば、異教の祭司も現われ、王の心は主から離れて行きました。今日のみ言葉を読むと聡明なソロモンがなぜダビデと異なった道を歩んだのか不思議に思います。何が二人を分けたのか、それは「主への絶対的な愛」だと思います。それを信仰と呼んでも間違いではありません。人間的にはダビデにも弱さがあり、失敗もしましたが主への心はいつでも誠実だったのです。ソロモンは、誰よりも知恵があったがために栄華を極め慢心したのでしょうか。問題は異教徒を妻に持ったことだったと聖書は教えています。若いうちは得意の知恵で異教徒の妻たちをコントロールできたかもしれませんが、老境になると知恵も力を失います。だから、主なる神と一つであるということが何よりも大切だったのです。主と一つであれば自分が衰えても道を踏み外すことをさけることができたはずです。列王記はこのソロモンの犯した大罪からどのように大変なことが起こるか克明に記録しています。敵が次々に現われ悩みがまして行くのです。私たちは、人に左右されない信仰を表して神との関係を深めて行くことが必要です。神をどこまで信じるか、神を主として仕える献身があるか、神への絶対的な服従があるか、それらが愛とよべるものであるか、こうしたことを考えてみることは意味のあることです。より良い道を選びたいものです。(佐久間)

 

10月23日(金)
善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
ルカ6:45
 
私たちは他人を見て、あの人は良い人、この人は悪い人、と見分けています。それはおもにその人の語る言葉を聴き分けているのです。今日の聖句を読んでみると、「良い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し」とあるように、心の倉に何を入れているかということが善し悪しを決めているとわかります。毎日の生活の中でいったい何を心の倉にためているのでしょうか。良い言葉をいつも聞いているでしょうか。くだらないうわさ話に付き合ってはいませんか。ゴシップ好きは危険ですらあります。私たちは誰かと一緒にいる時に何かを語っています。問題は、「人の口は、心からあふれ出ることを語る」ということです。どうも、私たちはこの世の中ではよっぽど気をつけないと心の倉に悪い ものでも入れてしまうかもしれません。それに対して、聖書は「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22,23)は人の内に入った聖霊の結ぶ実だと教えています。つまり、良いものとは聖霊のことなのです。もちろん、見るもの聞くものすべてに気を配るべきです。自分を過大評価してはいけません。過信も禁物です。悪は油断したら簡単に入ってきます。そして、それは隠すことができません。今日の御言葉をよく考えてみることはあなたの益となります。(佐久間)

10月24日(土)
酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
エフェソ5:18-19
 
聖霊に満たされると酒に酔ったようになる人がいます。酒に酔うのと聖霊に酔うのでは全く違うのですが、なかなか理解されません。イタリア在住の友人がスイスのユングフラウに登山電車で登り、駅から出ると神様の御声が聞こえ、導かれるままに人のいない場所に連れて行かれると、突然に聖霊のバプテスマを受けたと言うのです。それで異言が与えられて、人生が変わりました。彼女はオペラ歌手なので日本に帰って来ては方々でコンサートをして回るのですが、その時に聖霊によって自由に霊歌を歌っています。それも異言で歌っているのですが、誰も観客はわからないで聴いているのです。私も何度か聴きましたが、ああ異言で歌っていると思って周りを見回すのですが聴衆はうっとりと聴き惚 れているだけでした。彼女はこれも伝道で、聴いてる人たちにとっても祝福になると信じているのです。聖書に出てくる「霊的な歌」というのはこのような歌のことです。普通の教会では聴いたことのない歌です。聖霊が音楽を作り歌わせているのですね。だいぶ前に日比谷公会堂で開かれた1000人規模の聖会でも、会衆讃美を歌っている時に、聖霊が働いてその場を支配しました。舞台で讃美している歌手の人たちのいる方から波のように聖霊が押し寄せてきました。何度も何度もそのようになって、聖霊のことを知らなかった人たちも初めて聖霊の波を経験したのです。すると、今度は誰か美しい声の女性が会衆席の方から異言で歌いだしたのです。これは、会場の1000人を天へと引き上げて深い感動を 与えました。このようなことが新約聖書の教会で普通に起こっていたのです。今日も、聖霊は変わらずに働いています。ですから、霊の歌を教会でも歌いたいものです。(さくま)

10月26日(月)
主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
詩篇37:4

主を喜ぶことは力である、と言われる通りにクリスチャンは信仰生活でこの不思議なみ言葉を実感しているはずです。自我が強ければ自分の思い通りになることばかりにこだわるものですが、それはうまくいくはずがありません。そうなるとイライラしたり、失望したりと感情面で悪い状態になります。そのように神様を信じているのなら、今日のみ言葉は理解できないでしょう。しかし、主のために生きるという人たちには今日のみ言葉は当たり前です。あまりにも良い神様なので、ありがたくてしょうがないのです。自分の周りには主からの恵みが満ち溢れています。感謝してもし尽くせない恵みなのです。ただ普通の人たちはその恵みに気づいていません。もったいないことです。これは、神様のことがわかってくることによって理解できることなのです。人間の常識は通用しません。何が本当の価値か見分けることができるようになります。そうなるように、毎日の苦労があるのです。目に見える苦労に心を奪われないことです。目に見えない主があなたにどれほど良いことをしてくださっているか、見えるようになりたいですね。謙遜な心が身につけば、主を自分の喜びとしているでしょう。あなたは主によって心に願いを起こされ、主がそれを実現に至らせてくださることを体験するでしょう。ワクワクして主を喜ぶのです。楽しい信仰の日を過ごせますように。(さくま)

10月27日(火)

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

詩篇34:7

 

神様を信じる者には良いことがたくさんありますが、その中でもこの約束は格別ですね。万が一困ったことが起こったとしても目に見えないお守りがあるのです。危険を跳ね返すだけの確かな守りが約束されています。天使がどんなに強いのかわからないかもしれませんが聖書の登場人物でみ使いに会ったことのある人は、地にひれ伏すほど恐れ、ダニエルなどは病気になって寝込んでいました。そのような特別な存在の天使が万軍と呼ばれているのですから、おびただしい数で救出に来てくださいます。ですから、勇気百倍で今日も元気に生きて行くことにしましょう。

(さくま)

 

10月28日(水)

ナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。・・・ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

使徒4:12 


もうだいぶ昔の話になりますが、ジェリコジャパンという7年間続いた大きな讃美のイベントがありました。ある会で、このみ言葉が使われていました。Tシャツにこの聖句が描かれていたのです。そのTシャツを着た人が続々と集結するのです。すごいことですよね。テニスの試合に使われる有明コロシアムで開催された時には、教会の青年が地下鉄を降りたら大勢の人たちが皆この集会に向かって歩き出し、すごく感動したと言っていたことを思い出します。私の息子はまだ幼稚園児でしたが、金色で描かれた十字架のデザインTシャツを気に入って着ていました。その頃から青年たちとプレイズを歌い、祈りを覚え、ジェリコジャパンに一緒に行っていました。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と、しっかり心に刻まれてクリスチャンになりました。息子が高校生の時に、ロサンゼルスの海で同級生2人と一緒に洗礼を受けました。それから数ヶ月後に息子の友達が同じ海で洗礼を受けました。イエス・キリストという名によって本当に人間が救われるのです。他にはありません。今日は、そのことを心に留めて1日を過ごしましょう。(さくま)

 

10月29日(木)

あなたの慈しみは大きく、天に満ち あなたのまことは大きく、雲を覆います。

詩篇108:5


秋の快晴の青空は吸い込まれそうです。それだけでも神様に感謝したくなります。旧約聖書の時代、青は天にあるものを象徴する色でした。ですから、祭司の服装にも青が入っています。雲ひとつない青空を見るとそのことを思い出します。その天には私たちの神様がおられます。その神様がどんない慈しみ深いお方であるか、私たちはもっと知る必要があります。神様の慈しみが天に満ちていると書いてあるので、辛い時や悲しい時、神様の慈愛に癒されたい時は空を見上げてみましょう。たとえ、曇り空の日でも「神様のまことは大きく、雲を覆います」。つまり、あなたを愛しておられる主は、あなたに対していつでも、どんな時でも誠実に愛を貫いてくださるということです。そこで、あなたには主の慈しみの中にいつでもとどまっていて欲しいのです。たとえ、自分に落ち度があって、失敗してしまっても、疑うことなく、主を信じていて欲しいのです。あなたは主の慈しみの中にいつでもいることを覚えてください。(さくま)

 

 10月30日(金)

あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

1ペトロ2:5


聖書時代のイスラエルは国民が三つの階級に分かれていました。それは、一般国民とレビ人と祭司の三つです。一般人は神のみ前に清く聖なる者として生きなければなりませんでした。レビ人は、聖所の組み立てや解体、運搬などの聖なる仕事を専門に行う人たちです。祭司は、季節ごとの祭りを司り、犠牲を捧げたり、聖所の金の燭台、パンの机、香壇での聖なる務めを主に行う人です。今日、クリスチャンはこの三つの階級の全てを一人の人が受け持っている存在です。今日のみ言葉を読めば、その意味はわかるとおもいます。つまりあなたも祭司ということになります。「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。」(ヘブル10:19)それは、罪を犯す前のアダムと同じように、神のみ前に進み出ることができるということです。イエス・キリストが犠牲となって十字架にかかって下さったのには、ただ罪を赦すためということだけではなく、父なる神のみ前に聖く立てるようにする意味もあったのです。聖所には聖なる者以外入ることはできなかったのです。罪の赦しの力がイエスの血には明確にあったのです。イエスが十字架に自らをいけにえとしとなられたように、私たちもイエスの十字架の死に結びついて、古い自分に死ぬことが信仰によって要求されています。もうこの世に左右されることのない人生を生きることができます。イエスが捨てられた隅の頭石であったように、私たちも生きた石として霊的な家に造り上げられて行くのです。あなたは自分勝手に自己評価を低くしてはいけません。選ばれた特別な存在であることを自覚してください。信仰を働かせれば、ますます霊的な意味が理解できてくるでしょう。素晴らしい恵みを楽しんでも良いのです。明日も、聖所から学んでみましょう。(佐久間)


 10月31日(土)

この方こそ、あなたがたの先頭に道を進み、あなたたちのために宿営を探し、夜は火、昼は雲によって行く手を示された方である。

申命記1:33


とうとうモーセは聖所を作り上げた。その時、雲が聖所を覆った。主の栄光がこの聖所に満ちたのだ。この不思議な雲は神が聖なるご臨在をあらわにする時に出現する不思議な現象だ。今日でも、この不思議な雲の話を聞くことができる。事実、教会で長く働いていると主の聖なるご臨在が感じられる時がある。ある時には、うっすらと雲がかかったように白い靄がかかったように見えることもあった。聖なるお方がそばにおられるという厳粛さがある。モーセ時代の神の民たちのように、神自らが先頭に立ち、確かな導きを与えておられた。その道は、完璧に用意周到で何も心配する必要のない道であった。当然、今日の聖徒たちにも同じ神が同じ導きを与えてくださるのだ。信仰は主への信頼である。その信頼が揺るぎないものであるのか、それとも頼りないものなのか、出エジプト記の記事のように今日も問われているのだ。火の柱、雲の柱とは、誰でも明瞭にわかる主の導きを意味している。ですから、あなたにも同じように主の導きは必ずある。必要は満たされ、歩けなくなれば、父が背負って運んでくださるのだ。あなたは、それを見てきたのではないか。それならば、主への信頼をもっと確かなものとすることができる。(サクマ)