2015年11月ディボーション

11月1日(日)

そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

ヘブル3:1


聖書はとても面白いのですが、聖所の記録を見ると至聖所に置かれる契約の箱と贖いのふた、それにケルビムのことが書かれてあって、次に聖所の中に置かれたパンの机と金の燭台が書かれていますが、もう一つある金の香壇は出エジプト記の30章に書かれていて、同じところには書かれていません。続きを読んでいくと、青銅の祭壇と幕屋の庭について書いてあります。しかし、そこにある青銅の洗盤はやはり出エジプト記30章に書かれているのです。これは、今日の聖句と関係あります。決して、聖書記者がうっかり間違えたわけではありません。そもそも、使徒とは、人間が救いに預かり、永遠の幸いを得るために、神を人に証言する役目です。他方、大祭司は人間が神を礼拝する時に神への仲保者として人間を神に執り成す務めです。契約の箱、贖いのふた、供えのパンの机、燭台、青銅の祭壇、これらはみな、キリストの使徒であることを示しています。キリストは神から遣わされた者であり、神と人間の間の仲保者であり、キリストの贖いの死こそ、罪人である人間の唯一の救いの道であり、永遠の幸福を得る方法なのです。他方、大祭司としてキリストを表しているのは、金の香壇と青銅の洗盤です。大祭司としてのキリストは、神のみ前で私たちのために執り成しておられることを示している。香壇から立ちのぼる香は、キリストがご自身を芳しい犠牲の香りとして神のみ前に献げられたことを示しているのです。聖所には多くの象徴が隠されているのですが、それらはキリストによってのみ私たちが救われることを示していたのです。(佐久間)


11月2日(月)

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたの天の父の子となるためである。

マタイ5:43-45


今日の箇所は、有名なイエスの言葉ですから、きっとご存知だろうと思います。そして、このみ言葉を読んだ者は、その厳しさに驚きます。「敵を愛する」ことが誰にとっても困難だからです。「隣人を愛」することだって、時には難しいものです。それなのに、なぜ「敵を愛し」なさいと命じたのでしょう。今日のみ言葉の最後の部分で、「あなたの天の父の子となるためである」とキリストがおっしゃっていますが、よく考えるとキリストご自身がこのみ言葉の通りになさったのです。それで、イエスが神の御子であったことがわかります。同じように、私たちにも要求されたのは、私たちの救いは単に罪からの救いだけではなく、究極的には被造物である罪人から、なんと天の父の子供とすることだったのです。そこで、きっとこのみ言葉を守ることにより、私たちの何かが変わり、大きな変化を経験できるはずです。そう考えると、今現在も敵に苦しんでいる方は喜んでください。またとないチャンスに遭遇しているのです。天の父の子となるために、あなたは奇跡的な特権に預かっているのです。ですから「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。あなたは人が見ている時だけ立派な偽善者やこの世の罪人と同じように考え振る舞うこのと虚しさから解放されるのです。イエス・キリストに倣う者にようやくなれるのです。そして、神の支配が始まるでしょう。思いもよらぬことがあなたに起こるでしょう。苦しみが喜びに変わることでしょう。祈りの中で勝利しましょう。(佐久間)

 

11月3日(火)

神様の助けを信じて公言する者を、神様はなんと大きな恵みで包んで下さることでしょう。信頼と敬愛を失わない者のために、神様はすばらしい祝福をたくわえてくださっています。

詩篇31:19(リビングバイブル)


人間は選択することができます。その選択するときに何が決めているのでしょうか。一般に肯定的な思考か否定的な思考か、この二つは選択するときに大きな力を発揮します。信仰者ならば、神様への信頼から選択しています。クリスチャンは自分に信頼するかそれとも神様に信頼するかを問われ続けています。それで、聖書を学び、信仰生活を通して神様に信頼することの大切さを身につけていくわけですが、テストが必ずあります。それは、自分の力に頼るのか、それとも神様のみ力に頼るのか、というものです。祈ったり、聖書を読んだり、苦しんだり、勇気を出したり、と神様への信頼を学んで行きます。そのような信仰の歩みを通して、気がつくと恵みの中にいつもいることに気がつけるのです。あまりにはっきりと恵みの世界に生きていることがわかるともう黙って入られません。その恵みの世界に生きていることが当たり前になってきます。神様に感謝が自然とあふれてきます。それは、たとえ必要がまだ満たされていなくても信頼が揺らがなくなるからです。あなたが神様を信頼している限り、「神様はすばらしい祝福をたくわえてくださっています」あなたのためになるように、絶妙のタイミングで天からの良きものを与えてくださるでしょう。「天から」というのは、神様が大きな恵みを与えてくださったと明確にわかるにしてくださるからです。あなたがいつも恵まれていることを当たり前とすることができますように。(さくま) 

 

11月4日(水)

わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことことを行わないのか。

ルカ6:46


これは、耳が痛いと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、実は人生を安全に生きる秘訣なのです。今年は、大雨で洪水になったニュースが人々の心に焼き付いていると思います。テレビで川の堤防が切れて大洪水になる様子が中継されていました。その時、家が流されていくのが恐ろしくて、いたたまれないない気持ちになりました。その洪水の後で一軒の家が残ったことが話題になりました。その住宅メーカーの家がその後売れたそうです。また、マンションの基礎工事の手抜きで傾いてしまったニュースもひどい話でした。実は、今日の聖句の続きは、イエスが「わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているか示そう」と言われて、「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」と続きます。さらに「洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」と言われました。今聞くと、二千年前の話なのに現代も同じなのでよくわかります。それと同時に、教訓も理解できることでしょう。たとえクリスチャンになっても、イエスの教えを無視して行なわなければ、人生の災厄の日に簡単に押し流されてしまうだろうと言っているのです。イエスの言葉が自分の人生の土台となるということは、実行するからこそ言えるのです。何が起ころうと、揺るぎない人になりたいものです。そのためには、聞いて行う人にならなければいけません。そのことを意識してみましょう。(さくま)

 

11月5日(木)

あなたがたは、主イエス・キリストを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

コロサイ2:6


あなたは「感謝しなさい」と言われると何を考えるのでしょうか。キリスト教会ではよく感謝しなさいと言われます。ですから、そのことは知っているのですが、実際の生活の中で意外なほど感謝することが少ないのです。うわべの言葉だけで「感謝」していると、それは長続きしません。祈りの場面でもそれは現れるでしょう。神様を讃美することがほとんどありません。では、どうしたらよいのでしょう。今日のみ言葉をよく見てみると、「キリストを受け入れた」「キリストに結ばれて歩みなさい」「キリストに根を下ろして造り上げられ」と何もキリストと信仰者の関係を示しています。ですからキリストとの関係によって初めてできる感謝のことをここでは語っているのです。そこで真剣にキリストとの関係を築かなければなりません。難しい、勉強も必要ありません。人間的な努力も関係ありません。信仰生活の時間の長短でもありません。自分の信仰を点検するときに、「あふれるばかりに感謝」しているだろうかと問えばいいのです。ちょっとぐらい感謝しても、それで良しとはなりません。キリストと結ばれて歩んでいるのなら、喜びが湧き上がります。それが感謝となっていくのです。立ち止まって自分の周りを見回してみましょう。どうでしょうか感謝することにあふれていませんか。分からなかったら、聖霊に助けを求めて祈ります。「目を開いて見えるようにしてください」と。きっと、今あなたが置かれている状況のすべてに感謝がわいてくるでしょう。一度、「あふれるばかりに感謝」してみてはいかがでしょうか。(さくま) 

 

11月6日(金)

その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。

マルコ13:32-33


キリストは「天地は滅びる」と言明しています。ですから、その日は避けることができません。問題はいつ起こるかということでしょうが、その肝心の日は天の父なる神様だけがご存知で御子イエス様も知らないというのです。当然、天使も知りませんから、悪魔も知ることはできません。ところが、その日を知ろうと、無駄な努力をする人は昔から今に至るまでいるものです。いい加減な日を勝手に決めて、それを脅しの道具にするかのようなやり方で会員を増やす人たちも後を絶ちません。聖書を神の言葉と信じている人ならば、そんな日が人間に分かるはずがないことぐらいすぐに気が付きます。それでも、誰かがそれらしい根拠を示すと、信じてしまう人が出るのです。私も今までに、そのような人たちを何人も見てきました。立派なチャートを作ったり、分厚い本にしたり、聖書の数字を日くりまわしたりと、あきれるほど一生懸命にその日を見つけようとしているのです。聖書は、「その日、その時は、だれも知らない」と書いてあるのにどうしてでしょうか。それでいて、肝心の「気をつけて目を覚ましていなさい」というみ言葉は無視されているようです。いつ主が来られても目を覚ましていれば良いということを第一に考えるべきです。どうすれば目を覚ましていられるか考えてみるべきです。再臨の日に後悔だけはしたくないですね。(さくま)

 

11月7日(土)

わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

ローマ8:12、13


クリスチャンは肉に対して死んでいる存在です。クリスチャンになる前は肉のみで生きていました。肉には恐ろしい弱点があって、欲があり、罪が潜んでいるということです。それは、悪魔の誘惑に弱く支配されやすのです。それで、苦しい人生を送ることになります。過ちも簡単に起こります。そのままでは滅ぶ以外にないのですが、幸いにキリストとに救われた人たちは、この肉に死んでいます。もちろん、信仰での話です。それだけに、悪魔にはまだ望みが残ります。つまり、クリスチャンに肉はまだ生きていると信じさせることです。そうすれば、また悪魔はその人を奴隷とすることができるのです。だから、決してあきらめずにクリスチャンを攻撃するのです。よく観察すれば、その人が何に弱いかわかります。それで、その弱さをついてくるのです。その時に、誤って自分の力で対抗すれば見事に罠にはまり、最悪の状態に陥ります。信仰が消えたようになるのです。問題は、悪魔の嘘に立ち向かわなかったからです。聖霊が生きてあなたのために働いてくださることを知っていながら、悪魔の嘘に耳を傾けてしまったら、肉は生きることになり、あなたは解放された罪に苦しむという愚かなことになります。断固、悪魔の邪悪で卑劣な嘘には、NOを叩きつけましょう。今は、内住のキリストが生きていくださるので、委ねて楽に生きていることを確かめてください。主を知ること、主を喜ぶこと、主を讃美することがあなたを守ります。聖霊が体の仕業を絶つことを許し、信じることです。そうすれば神の子として生きることができます。もういつまでも騙されるのはやめにして、悪魔を追い払いなさい。あなたはクリスチャンです。イエス様から権威を授けていただいた者であることを思い出してください。(さくま)


11月8日(日)

平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

ローマ16:20


パウロの時代から今に至るまで、霊の戦いは続いています。それは、具体的で決して迷信やおとぎ話の話ではありません。全て根拠もなくサタンのせいにして恐れるのは、間違っていますが、み言葉と聖霊によって見分けることが肝心です。あなたが何か悩んでいたり、頑張っているのに問題を抱えて困っていたり、不当な扱いをされて困惑してるのなら、主に祈って聞いてみましょう。あなたの信仰を誰かが攻撃しているのなら、敵はサタンである可能性が高いのです。信仰を捨てたくなったり、神様の事がどうでもよくなったり、自分で自分を裁き出したり、不可解なことが起こり始めたり、と通常の生活では起こりえないことが自分に向けて起こっているのなら、冷静に祈り、聖霊に見分けていただくことです。一人では心もとないならば、牧師の助けを頼むことができます。よく覚えていていただきたいのは、信仰は裏切られないということです。今は苦しみの時であったとしても、必ず主はあなたに勝利をもたらします。それも徹底的な完勝です。神様は、「サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれる」からです。これは聖書に書かれた約束ですから、信じていればいいのです。あなたの人生に影を感じているのなら、キリストが光をもたらしてくださったことを信じてください。自分のうちに光があるのです。だから、信仰を発揮すれば、影は存在できません。光によって消されてしまうからです。主への従順こそが勝利の力です。逆境の時こそ、神様があなたに何かを教え、成長させ、目を開かせる祝福の時と思いましょう。勝利の時は、刻々と近づいています。讃美して現状を喜んでいましょう。(さくま)


11月9日(月)

わたしは、この暗い世に輝く光として来ました。わたしを信じる人が誰も、もはや暗やみの中をさまようことのないためです。

ヨハネ12:46


嫌なニュースを見ているとこの世が暗いとおっしゃったイエス様のお言葉を思い出します。小さな子供が犠牲となる辛く悲しいニュースも後を絶ちません。警察につかなまらなければ人を騙してでも金を奪おうとする人の気持ちを理解することは容易ではありません。神を畏れる人とそうでない人に分かれていることが見て取れますが、聖書は悪に対する神の裁きが容赦なくあることをはっきりと書いてあります。もちろん、犯罪だけではなく罪の問題は人間の努力だけでは解決しません。人間には救いが必要です。その救いがイエス・キリストであることをクリスチャンは知っていますが、世の人々は知りません。すべての人がイエス・キリスト以外に救いの道がないということを理解しなければ滅びてしまいます。クリスチャンの人がまず光の中を歩むことが大切です。悪魔の悪だくみも暗やみの中だからこそ効果があるのです。光の中にあれば、落とし穴に落ちることもないし、噓いつわりも見破ることも容易です。イエス・キリストを信じることがあなたを守るのですから、なお一層の信心を心がけましょう。(さくま)

 

11月10日(火)

非の打ちどころのない生活を送りたい、と心がけている私ですが、神様のお助けなしには何もできません。ことに、おこころにそった歩みをしたいとせつに願う家庭の中でこそ、お助けいただきたいのです。

詩篇101:2


クリスチャンは正しい良い生活を送りたいと思っているものですが、なかなかそれが難しいことを体験することになります。その中で神様に祈り、何度も失敗して悔い改めることを繰り返します。そのうち、しかたがないと無力を認めて、あきらめてしまう人も出てきます。肝心なのは、神様のお助けなしには何もできません、と悟ることです。厄介なことに、家庭で人は気を抜きますし、家族の前では特に素の自分をさらけ出すものです。ですから、教会に行く時は立派に見せることができても、家庭では聖人を演じることはできません。そこで、矛盾した自分の姿を知ることになるのですから、困ってしまうのです。そこで、家庭こそが信仰を本物にして行く場となるのです。無理しても長続きはしません。かといって開き直っても問題の解決にはなりません。そこで、神様のお助けを一生懸命に祈ることになります。ここで、何かを悟らなければなりません。自分の生き方そのもを変えるような信仰経験が家庭でこそ体験できるのです。家族への愛も自己中心から生まれようなものではなく、自分を捨てて内住するキリストから出てくるものに変わることを求めて祈ります。ここでの祈りが大切です。祈りは祈りの中で学ぶものです。聖霊が生きて働く信仰の持ち方も祈りの中での聖霊との交わりから知るのです。それにしても、家庭での信仰のことを真剣に考える人と、教会の顔と家での顔が違っていても平気な人に分かれるのも事実です。あなたはどちらでしょうか。(さくま)

 

11月11日(水)

霊の火を消してはいけません。

1テサロニケ5:19


この霊は聖霊のことです。クリスチャンが神の約束として信仰によっていただいた内住の聖霊のことです。沖縄に昔のことですが、聖霊のバプテスマを受けて霊の賜物として癒しの賜物を受けた牧師がいました。その牧師が祈ると病いが癒されるのです。ところが、そのことが問題となり教区長から呼び出されました。牧師といえども聖霊の賜物が今もクリスチャンに与えられることを信じていない人は決して少なくありません。結局、癒しを行っていた牧師は、教区長から注意を受けて、癒しを自粛してしまいました。その結果、癒しの賜物は消え去りました。聖霊の火を消してしまったのです。後にこの牧師が後悔して、再び癒しの賜物を求めても与えられることはありませんでした。聖書の使徒の物語として読んでいるうちは、自分も癒しができればいいのにと思う人たちがいますが、実際に奇跡を起こせばたちまち攻撃されます。神の力で癒しの奇跡が起こっていても、人々は認めたくないようです。これは、ノンクリスチャンよりもクリスチャンの方が奇跡を認めずに批判する傾向があります。それで、イエス・キリストのことを思い出していただきたいのです。主でさえ、迫害されたのです。それに怯まないで主は哀れな病人たちの願いに応えて全て癒してくださったのです。ですから、聖霊の恵みを体験したなら、人を恐れずに主を畏れて信仰に生きることです。献身という言葉がこのような時にもぴったり当てはまります。神の国では奇跡が起きるのは当たり前です。しかし、この世では不信仰のせいで奇跡が起こることを妨げているのです。聖霊の火を消さないと心に決めて、キリストが始めた仕事を引き継いでいこうではありませんか。(佐久間)

 

11月12日(木)

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみがとこしえにあります。

詩篇16:11


 

クリスチャンには特権があります。それは、神様から「いのちの道を知らせて」いただけることです。つまり、人間の欲望のままに生きることから解放されているのです。人を恐れたり、争ったり、憎んだり、負の感情に支配される、そういう状態から解放される方法を既に与えられています。自己嫌悪も、自己憐憫も、自己中心もみな罪の産物です。長く生きていれば、人間関係で何かしら傷つき、思い出したくない感情を持っているものです。それが酷いものであれば、心の奥底に蓋をして見ないようにしているのですが、悪魔はそこを時々攻めせてくるので苦しみを再現してしまいます。しかし、イエス・キリストの救いは、何からの救いだったのでしょうか。わざわざ人間になって、十字架の道を歩まれたのはどのような意味があったのでしょう。十字架上でイエス・キリストはとても苦しみました。血を流しておよそ誰も耐えられないような恐怖と苦しみを味わわれたのです。そのキリストの味わったものこそ、あなたを苦しめていたものだったのです。ですから、あなたが悔い改めてイエス様を信じた時に、全てあなたを苦しめていたもの一切、呪い、罪、死、病、恐れ、自責の念、赦せない思い、怒り、邪悪な心、一切の悪い思い出、悲しみ、貧困、失敗、執着心、偶像礼拝、など全てから解放されたのです。もう、エデンの園で堕落したアダムの子孫ではなくなったのです。イエス・キリストと一つになって新しい人に生まれたのです。それは、神様が一緒に生きてくださる道です。いのちの道です。神様のみ前には喜びが満ちています。神様と共にあることは楽しみが永遠に続くことなのです。それが、あなたが受けた恵みなのです。信じましょう。見えるものではなく、見えないものにこそ心を向けるのです。悪魔が心を揺さぶってきても、イエス・キリストを信じる信仰はあなたをビクともしない岩の上に立たせてくれるでしょう。もっともいつでも喜ぶことが肝心です。全てのことに感謝することはあなたにとって非常に重要なことです。絶えず祈りなさい。あなたは聖霊によって、すでに変えられています。信仰で生きるのです。あなたは勝利者となるのです。主をほめたたえましょう。(さくま)

 

11月13日(金)

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

マタイ28:18-20


最近のアメリカ映画で、終末の出来事を題材にしたものがあります。黙示録の七つのラッパの成就を描いたものですが、まさに恐ろしい内容になっていました。日本と違い、キリスト教の国なので問題のポイントも異なっています。それは、日本では無神論者と公言する人がたくさんいますが、それらの人たちが世の終わりに救われないといえばそうだろうと納得できます。しかし、アメリカでは、教会に毎週通っている人の中で本当はちゃんと信じていなかった、というような人が出てきます。映画の中ではそうゆう人たちが主人公になっているのです。教派によっては、携挙(終末に神の裁きが下る前に天に引き上げられる人たちがいます。それが救われる人たちなのですが、その超自然的に空中に引き上げられることを携挙と言います)を教理として信じている人たちが大勢います。映画でもその携挙が起こって、突然周りの人たちが倒れて死んでしまいます。その人たちは携挙されたのです。そして、残された人たちはどうなるのかという内容です。とても恐ろしいことが待っているのですが映画としてはB級映画でしょうか。しかし、以前にも同じ携挙を題材にした本がベストセラーになり、それも映画化されました。キリスト教国の人々には、現代が終末であるという思いが強いのだろうと思います。そして、世俗化した社会の中で教会に通ういい人であるように振舞っている人たちが一抹の不安を感じているのです。キリストは、天にお帰りになる前に、弟子たちに今日のみ言葉を与えました。そのために、キリスト教は世界中に布教されました。今現在もジャングルの中であろうが、危険地帯であろうが、少数民族の異文化の中にも宣教師が犠牲を払って伝道しています。アメリカのようなキリスト教国の教会では、その宣教師を支え、さらに宣教師を送り出すことが使命だと考えているのです。アジア人のクリスチャンは宣教師をあまり送り出していないのですが、その中でも日本人は特に少ないのです。まずは、日本がいまだ宣教地であって、キリスト教が浸透していないということが一つあります。それで、明治以降、海外の宣教師が入ってきて伝道隊が作られ、日本各地で伝道が進められました。今は、そうした熱意がどの程度あるか反省が必要です。時があまり残っているとは思われません。自分の使命を祈って神様に聞くべきです。聖書ですら、新約時代の教会員が全員パウロのようではなかったことを教えています。しかし、自分の才能や情熱、霊の賜物は隠しておく宝物ではありません。使うためのものです。キリストの大宣教命令に私たちも何かの形で貢献したいものです。まずは、主に祈って志願してみることも良いと思います。(さくま)

 

11月14日(土)

わたしたちの神、主の喜びが わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを わたしたちのために確かなものとし わたしたちの手の働きを どうか確かなものにしてください。

詩編90:17


考えたことがあるでしょうか。私たちの神の喜びが、自分の上にあることを。自分のことばかり考えていると気がつくことはありません。主の喜びを私たちがいただけることを願いましょう。私たちは今日もこの地上で生きています。それぞれが生きるために働いています。それがうまくいけば喜ぶのです。自分の手で働くことは尊いことです。家庭の中にも、職場にも、学校でも、どんなところでも人は自分の仕事を持っています。それが悩みの種になれば落ち込みます。でも、誠実に働くことができればそれを見ていてくださる方がいるのです。人は誰も褒めてくれないことが多いと思いますが、主はちゃんと褒めてくださいます。喜んでくださいます。だから、人の目がなくても変わらずに一生懸命働きたいのです。主に喜んでいただきたいからです。面白いことに、そうやっていつも変わらずに働いていれば、誰かを通して喜びがやってきます。心に満足が広がります。ですから、私たちの手の働きを確かなものにしてくださいと祈りましょう。(佐久間)

 

11月15日(日)

あなたは人を塵に返し 「人の子よ、帰れ」と仰せになります。千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時に過ぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます。

詩編90:3-6


牧師になってだいぶ経ってから、人の最期を看取る仕事であることを理解しました。一体何人の人々の弔いをしてきたことか。新しい任地に赴くとその教会の信者さんの葬式をしなくてもよいように願います。すると、教会員以外の方々の葬儀をするようになるのです。ですから知らない方の葬儀も何人も司式しました。キリスト教では葬式も礼拝なので説教をします。一体何を語ればいいのか真剣に考えずにはいられません。そこで、ご遺族に亡くなられた方のことを聞くことになります。説教の中で、故人がどんな一生を送られたのか最後のお別れの場で語ろうとします。しかし、今日のみ言葉を読むと人間のはかなさを感じずにはいられません。その一生は、何と短いものでしょうか。朝に花を咲かせ、夕にはもうしおれて枯れていくほどのものなのです。そのような人間に神様はどうして、深く関心を持たれ、御子の命を犠牲にしてまで救おうとされるのでしょうか。神は愛なり。神の愛とは人間の理解をはるかに超えたもので、憐れみと慈しみに富むものなのです。あなたが神様に愛されているということは事実なのです。ですから、命の時間を無駄に費やすような生き方はいけません。生涯の日を正しく数えるように、知恵ある心を得ることができるように祈ることです。(さくま)

 

11月16日(月)

つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

ローマ6:16


聖書には、奴隷という強い表現があります。しかも、選択肢は二つ、罪に仕える奴隷か神に仕える奴隷かです。しかもその結果は、死か義です。奴隷は、主人に絶対服従を強いられます。主人が悪ければ地獄のような生活になります。聖書の説明だと、アダム以来人間は罪の奴隷ということです。そこからの救いが、福音なのです。罪を犯す人を罪人と言いますが、罪人は自己中心で物事を考えるので、自分が奴隷であることに気がつくこともありません。神を認めるか、律法を守ろうとするか、このどちらかで自分の罪に気がつきます。それも、罪を犯さないようにしようとしても無理であることを同時に知ることになります。そこで、罪に対する自由がないことから罪の奴隷という表現がぴったりなのです。罪の奴隷であるから罪に仕えていることになります。一旦、罪を知ると罪を犯さないようにしたいと思うようになりますが、自分の努力では到底無理であることを思い知ることになります。そこで、初めて自分には救いが必要であることを認めます。罪から解放してほしいという欲求です。そこで救い主であるイエス・キリストへ目を向けます。ここで、十字架の意味が理解できるように聖霊は働きます。クリスチャンは、すでにこの部分をクリアしました。そうすると、クリスチャンになってもまだ罪を克服できないとどうしてだろうかと疑問に感じるのです。そこで、聖書を調べて聖霊による罪と死からの解放を発見します。ここで、聖霊の助けにより罪からの解放を経験すると、次に目指すものが「神に従順に仕える」というみ言葉です。これこそがクリスチャンの信仰生活の目指すものなのです。これも、聖霊によらなければできません。そして、聖書の教えを受け入れ、心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになるのです。私たちはこの神に従順に仕える方を選択したわけです。(佐久間)


11月17日(火)

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない。だが、あなたがたの父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

マタイ6:25-26


イエス・キリストのお言葉を考えてみましょう。これは生活の最低限の必要を心配している人間へ語ったのですが、現代の日本のように豊かになった国でも、生活のことで不安を覚えたり、心配している人は決して少なくありません。将来のことを考え出したら不安で押しつぶされそうに感じる人たちが身近にいるのです。これは一流企業に勤めている人でも変わりありません。将来に対する不透明で不確実な保証が不安の元になるのでしょう。だから、考えないように生きているという人も多いわけです。また、テレビをつけてみるとグルメ番組がやたら多いのです。私が住んでいるところは田舎ですが食料品を扱う大型スーパーは近くだけでも8件、大きなドラッグストアーも7件以上あります。こんなに大量の食品を誰が買うのか心配になりますが、どこもつぶれることもなく繁盛しています。洋服の店もそれ以上にたくさんあるのですが経営ができているので驚きます。日本人が服を持ちすぎていると警鐘を鳴らす評論家もいます。フランス人よりもはるかに多くの服を持っているというのです。それに、毎日、違う服を着なければいけないのか?というのです。外国では同じ服を着ているではないか、と指摘していました。流行が作られ、ファッション雑誌が指導して、服を買い続ける、これで経済が成り立つ、と言われると複雑な思いになりますね。キリストは、何が大切か見失わないようにと教えています。本末転倒になっていないか、大切なものを見失っていないか、自分に問いかけてみなさいと語るのです。歳をとれば命のことを考え、体のことを大切にします。しかし、父なる神に生かされていることに気がつかなければ意味がありません。あなたのことを父なる神はちゃんと養ってくださいます。だから、思い煩うことはないのです。そのことを心に留めておきましょう。(佐久間)

 

11月18日(水)

戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。

ルカ21:9


イエス・キリストの教えの中に「終末の徴」があります。その一部が今日の聖句です。フランスでのテロが世界中に恐怖と悲しみを与えましたが、これですぐに世が終わるということでありません。ただ、終わりの前触れであると思われます。すでに世の終わりのスイッチが入ったと思っていていいでしょう。それに、偽キリストが現れることも預言されていて、ありえないと思っていたのにたくさんの偽キリストが出現しています。それについて行ってはいけないと警告が聖書に書かれていても、ついていく人たちがたくさんいるのです。さらに、迫害も予告されていますが、それは最後に証しをするチャンスとなります。しかも、何を話せばいいのかと心配する必要もありません。キリストが「対抗も反論もできないような言葉と知恵を」授けると約束しています。とにかく恐れることではありません。ただ、聖書の預言はことごとく成就していることを思えば、終末予言もまた成就することがわかります。私たちができることは、聖書に書かれたとおりにクリスチャンとして正しく生きていくだけです。恵みはあなたがたのものです。主の確かなお守りもあります。主を信頼することを深めていけば、主が喜んでくださり、素晴らしい恵みの道を歩むことができるのです。主が迎えに来てくださることを楽しみに待っていることにしましょう。(佐久間)

 

11月19日(木)

あなたの仰せを味わえば わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。

詩篇119:103


聖書を初めて手にしてからもう40年以上が経ちました。その間に色々な人の使っている聖書を見ることがありましたが、きれいなままの人もいれば、カラフルに線を引いている人もいます。書き込みをしている人もいれば、聖書を何遍も開いていたのでしょうすっかりふやけたように広がり、とても本とは思われないものもありました。牧師でも小さなポケット版の聖書を使っている人もいました。お風呂でも聖書を読んでいたのでワカメのようになってしまったものもありました。その中でも一番印象深く思い出すのは、札幌で文書伝道者に連れられて訪ねた家の若いご婦人の聖書です。この方は未信者でした。クリスチャンにまだなっていないのです。それなのに見せてくださった聖書は文語訳の大判で、確か立派な黒の皮表紙のものでした。驚いたのは、その聖書を読み込んでいることでした。口語訳聖書ですら言葉が古くて読みにくいと敬遠する人がいるのに、文語訳とはびっくりです。しかも年配の方ではなくてお若い方だったので、果たしてわかるのだろうかと思ったものです。しかし、しばらく聖書のお話を聞いているうちに、神様の不思議を思わされました。彼女は、文語だから神様の言葉を理解していたのです。聖書のことを話す様子はよろこびに満ちていました。そして、ご家族はもとより、友人知人にまでこの文語訳聖書をプレゼントしていたのです。それほど、素晴らしいと思われたからです。彼女にとって聖書のみ言葉とは、「口に蜜よりも甘い」と感じているものなのです。つまり、聖書味読という言葉がありますが、味わっているのです。日本人の特権で、書き言葉と話し言葉があることを感謝したいと思います。書き言葉は読むための言葉でもあるのです。ですからどれだけ多くのことを伝えることができる言葉であるかどうかに価値があります。そのように作られてきたものなのです。ですから、五感、六感を使って味わうことができる国民であるからこそ、文語訳聖書の味わいを楽しむことができるのです。そうそう、文語訳は声に出して読んでも美しいし、意味が広がるのです。一度、お試しください。(さくま)

 

11月20日(金)

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

ローマ8:32


クリスチャンになってよかった、いや救われてよかった。クリスチャンの人生は、特別なものとしか言いようがありません。生活や将来に不安を覚える必要がないのです。今をあるがままに生きていけばいいのです。クリスチャンの人生観を決めているのは、何と言っても父なる神が御子イエスを私たち罪人を救うために、十字架の死に渡されたことです。御子以上の高価な価値あるものは存在しません。その御子の命という価値と引き換えにあなたを買い取って救われたのです。つまり、それがあなたの価値です。どれほど高価であるか理解できるでしょうか。正しく理解できれば、父なる神があなたの必要を満たすことはたやすいと思いませんか。事実、あなたの一生の必要はすでに満たされているのです。主なる神を信頼してください。何が起ころうが、ビクともしないほどに父なる神を信頼していましょう。今日のみ言葉があなたの生涯に必要なものをすべて満たしてくださる保証書です。納得したら、ご自分の聖書に日付を入れておきましょう。万一、生活のことで不安になったなら聖書を開き、この日付を確かめて大丈夫であると安堵しましょう。あなたはすぐにはピンとこないほどものすごい恵みを受けているのです。だから、感謝することがあなたの仕事です。楽しく喜んで感謝しましょう。(さくま)

 

11月21日(土)

わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

ヨハネ8:31、32


あなたはイエス・キリストの弟子です。それは、イエスの言葉にとどまっているからです。イエスの言葉を何べんも唱え、その言葉を守っているからです。イエスは、ご自身のことを「真理」とおっしゃいました。あなたはイエスを知り、イエスの言葉の力を知るでしょう。誰に従うか、あなたははっきりと言うことができます。そして、イエスの弟子であると言われることを誇りにしています。イエスと出会うまでは、この世の様々なしがらみの中でがんじがらめに縛られて、決して自由ではなかったのです。ただイエスを信じて、その憐れみにすがった時、あなたは救われたとわかったはずです。洗礼を受け、罪の赦しを得た時に、新しく生まれることができたと悟ったのではないですか。それから、信仰を学ぶために時を過ごしてきました。そして、やはりイエスの言葉が鍵であったことに気がつくのです。十字架にどんな意味があるのか本当にわかった時に、自由になりました。イエスはいつでも変わらずにあなたを愛してくださるし、理解してくださるのです。そして、キリストへの思いが深まっていくのです。どこまでも主と共に歩んでいこうと一途な思いが湧いてきます。真理がわかるから偽りの中に生きることなどできないのです。あなたは気が付かないでしょうが、あなたはだんだんイエスに似てきたはずです。誰かに変わったと言われたら、それはイエスに似てきたということです。ただ主のみ言葉が我が身になりますように。(佐久間)


11月22日(日)

主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り 傲慢な者には厳しく報いられる。

詩篇31:24


私は転勤族だったので、いろいろな場所に住んでみました。外国も住んでいましたがやはり日本は住みやすい国です。どこも住んでみれば楽しい我が家となりますが、年齢とともに住みたい場所も変化しているようです。自由になれたら、どこか物価の安いアジアの国でロングステイをしてみたいと思っていました。しかし、現在は神様の用意して下さったところで十二分に満足しています。多分、自分にとっても理想的な環境に住まわせていただいていると思います。他の人にはどうかわかりませんが、ありがたいと思うことがしばしばあります。些細なことでも神様の愛を感じます。ですから、今日のみ言葉は本当にその通りと思います。自分の中に傲慢があれば、不満が途端に口をついて出てくるでしょうし、どんないい場所に住んでいても満足はしないでしょう。聖書で最も偉大な人物はモーセですが、彼が神様に評価されていたところは、謙遜でへりくだったところでした。それで、私も砕かれて、叩かれて、上へ上へではなく、下へ下へと人間の求めるところは反対方向へ向かわされたのですが、それがなんと有り難いことか、今ではよくわかります。結局、自分の弱さを誇り、弱さに主が本当に働いてくださることを当たり前のようにして生きているのです。ですから信仰なしには1日も過ごすことができません。稼ぐこともなく、計算しても合わないような神様のお恵みの中にいるだけの普通の人ならありえない生活を楽しんでいます。神様は最も小さな私のような者でさえ守ってくださるのですから、あなたのことはもっと大切に祝福と平安の中へと導いてくださるでしょう。それは、信仰があるからです。どうか主を愛して、幸せに生きてください。(さくま)

 

11月23日(月)

人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなた方は何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。

マルコ9:49


まず「火で塩味を付けられる」とはどんな意味があるか考えてみます。火は聖所で犠牲の動物を焼く時に用いられました。救われたクリスチャンは、古い自分に死んだとみなされます。しかし、それだけでは足りません。死んだ肉を火で焼く必要があるのです。つまり、クリスチャンになってイエスに似たものとなるはずが、再び罪の問題で悩むとしたら全く残念なことです。しかし、そのようなクリスチャンを清めるために火が用いられるのです。塩味は、クリスチャンの浄化する清さです。決して不正と妥協しませんから、この世の腐敗を防ぐ働きをします。そのような力は、肉の性質が消えていなかければ機能しないので火で焼くしかありません。ちなみに「火」はキリストの十字架の死を意味しています。パウロがこの十字架の死に結びつくことを教えているのは、このようにキリストの十字架に結びついて肉に対して死ぬほかに道がないことを示しているのです。「主への火によるささげ物を、自分で持ってこなければならない」(レビ記7:30)とありますが、これも十字架についた犠牲としてのキリストを通して一人一人が神へ近づかなければならないことを教えているのです。人は甘えるときりがないのです。塩気がなくなれば一体どうすればいいのでしょう。不信仰に歯止めが利きません。聖書のみ言葉も塩の役目を果たします。キリストの十字架も同じです。自分を守り、清め、腐敗しない力なのです。自分勝手な生き方は、塩を持たない生き方なので結果は甚だ悪いものです。キリストに倣っていきましょう。自分自身の内に塩を持てば、人と平和に暮らしていけるのです。(佐久間)

 

11月24日(火)

神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

1ペトロ4:19


苦しみは誰にとっても嫌なものです。できれば避けたいと思います。しかし、振り返って自分の信仰生活を見てみれば、乗り越えることができたのでその苦しみもまた益となったと言えます。私たちは自分がどのような者であるのかよく知っています。それで、やがて神のみ前に立つことも忘れて、その時々の目の前のことに煩わされ、神も忘れて自分の欲や自己中心なことをやってきたのです。肉を生かすことがどれほど危険であるか教えられているのに、それほど真剣には受け止めずに、結局、自分で自分を良くすることができないまま時を過ごしてしまうのです。ところが、それが過ぎると神は私たちの人生に直接かかわってこられます。古い人が死に、新しい人が生きるように、自分で頑張らずに、主を信頼してすっかり任せることができるように、主は火で汚れや罪を焼き尽くそうとされているのです。それが、見分けのつかない者には、ただ苦しみに映るのです。本当でしたら、主に協力して、信仰を働かせる場面なのですが。私たちの口から出るのは泣き言や苦しみを取り去って欲しいの一点張りであったりします。主はお優しいので、その祈りも聞いてくださることがありますが、問題の本質を解決したことにはならないので、いつかまた、魂を砕くようなことが起こったりします。できれば、せっかく聖書を読み学んでいるのですから、信仰を働かせて書かれた通りに信じ、主を信頼することです。そして、罪の温床となっている肉を聖霊によって死なせて欲しいのです。それが、クリスチャンの人生を祝福に満ちたものに変える方法です。祈りから始めるというのは、そもそも自分に頼っていないことを表しています。主を心から信頼しましょう。(佐久間)

 

11月25日(水)

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

ヨハネ15:9


イエス様はあなたを愛しているとおっしゃいます。そして、「わたしの愛の中にとどまりなさい」とあなたに語ります。あなたは、イエス様に愛されていると思っていますか。それをいつも思い続けていますか。人生は時に厳しく、予期しない災難や病気や事故にだって遭遇するものです。それでも、私たちはイエス様のお言葉を忘れてはいけません。どんな時にも決して忘れてはいけないのです。「私はイエス様に愛されている」ということを。イエス様の愛の中にとどもることも信仰です。人間が生きていく上で最低限必要なものがあれば良いのですが、それでも満足できるとかとなれば、やはり誰かに愛されていることが必要なのです。それがイエス様であれば、決して裏切られることはありません。また、そもそも神様の愛の中にとどまることの意味がしっかりわかっていたら、アダムは罪を犯さなかったでしょう。エデンの園を追放されたアダムには絶望しかなかったし、神様に見捨てられたという思いでいっぱいでした。そのことを子孫は代々受け継いできたのです。しかし、イエス様が助けに来てくださったので、信じる人は救われたのですが、同時にその人たちは十字架にかかられたイエス様に愛を見ているのです。自分のために命まで犠牲にしてくださる主の愛に応えていきたいという思いがまた愛になっているのです。そうであれば主の愛の中にとどまることができます。このことは大切なことですから、よく考えてみましょう。(さくま)

 

11月26日(木)

あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。

詩篇55:23


人生には何が待ち構えているかわかりません。この世は天国ではありませんから、思いもよらぬ災いが待ち構えているかもしれません。そのために、人々は不安をどこかに抱えて生きていく事になります。クリスチャンの場合は、やはりこの世に住んでいるので敵が待ち受けていることもあるでしょう。しかし、同時に神様の保護もあるのです。万が一重荷を負うような事態になった時には、冷静になってひざまずき祈ることです。その時に重荷を主にゆだねるのです。主はその重荷をあなたから取り去り、あなたを速やかに支えてくださいます。それは、はっきりわかるように問題の解決を図ってくださいます。そして、信仰を発揮するならば、不思議は起こり、心の平安が与えられるでしょう。主を信じて従うことは、あなたを守ることになりますから、主を信頼して全てをお任せしましょう。(さくま)

 

11月27日(金)

立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。

マルコ11:25


昔の悩みや苦しみを何度も思い出しては苦しむことが人間にはあります。それほど、消耗することはありません。なんとかしたくても勝手に苦しみが思い出されてくるのですから、辛いことです。悪魔はこのような方法で人を苦しめることが得意です。ですから多くの場合に背後には悪魔の存在が隠れているものです。では、私たちは全く無力かといえばそうではありません。悪魔とその都度戦うという方法もあるでしょうが、もっと良い方法があるのです。イエス様は、「誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」と教えています。思い出して苦しむようなことには、苦しめた相手がいるものです。その人を恨むのではなくて、赦してあげなさい、と言うのです。どうでしょうか、そう簡単ではないとお考えですか。当然ですよね。言葉に尽くせない苦しみの元がその人なのですから、恨んで当然です。でも、恨んでいる限りは、苦しみもまた続くのです。それほどの大きな問題であれば、相手が悪いというだけではなく、自分にも何かしら責められるところがあっても不思議ではありません。ですから、簡単に問題は解決しないのです。今日のキリストの教えは、かなり重要な真理です。もうこれ以上苦しみたくないと思っているのなら、すぐに赦すことです。そして、あなたの過ちも神様に赦していただくのです。これは約束なので、決して難しいことではありません。赦していただく必要のあったのは実はあなただったのです。人を赦せない心があなたを赦すことを困難にしていたのです。もう十分に苦しんだのなら、恨みから解放されるべきです。これで、主にみ前に立って祈ることができるようになります。(さくま)

 

11月28日(土)

ああ、神様。私の心を探り、その内面を調べ上げてください。もし、あなたを悲しませるようなものがあるなら、教えてください。そうして、永遠のいのちへの道からそれないようにお導きください。

詩篇139:23-24 リビングバイブル


私たちは、たとい信仰を持っていてもいつの間にか神様を悲しませるようなことを心の内に持っているかもしれません。それを放っておけば、知らない間に神様から遠く離れてしまうかもしれないのです。神様に頼ることをやめて、安易に自分の力でなんでも対処していることはないでしょうか。自分の計画が絶対となっているのなら、危険なことです。困ったことを取り去るように祈る前に、まず自分に問題がないかどうか神様に聞いてみる必要があるのです。どんな信仰者であっても、自分を過信してはいけません。巧妙に仕掛けられた罠に気づかずにひっかっかてしまうことだってあるのです。純粋な信仰を保つには、聖霊に点検していただく必要があります。気づいていないなら、教えていただくことが大切なのです。私たちは自分は大丈夫だとすぐに油断する傾向があります。ガンも発見が遅れれば手遅れになります。信仰も同じです。あなたは神様に愛されているのですから、すぐにみ言葉のように祈ってみましょう。主のみ前に静かな時を持つことは良いことです。(さくま)


11月29日(日)

神様は、私たちがどれほど弱い存在か、思い起こしてくださいます。その恵みは絶えることがありません。・・・ああ、天の神様に感謝しなさい。その恵みは絶えることがないのです。

詩篇136:23、26 リビングバイブル


私たちは人生経験を経て、自分がいかに弱い存在であるか思い知ることになります。それは決して悪いことではありません。人生からちゃんと学んだからです。神様の恵みを知るということはありがたいことです。きっと、自分の弱さを思い知ったときにこそ、神様を呼び、助けを求めたはずです。神様はどうされたでしょうか。見捨てることなく、力づくで助けてくださいます。神様が憐れんでくださるから、その優しさが頑なな自分を変えるのです。恵みを味わったなら、神様に感謝しましょう。驚くことに、神様の恵みは絶えることがないのです。あなたが今あるのは、神様の恵みによるものです。そのことが悟れますように。あなたの人生は、この恵みに満たされているのです。そのことに気づいて認めれば、人生は楽しいものとなります。神様に恵まれているあなたは、実に幸福な方なのです。(さくま)

 

11月30日(月)

かつて書かれた事柄は、すべて私たちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

ローマ15:4


「なぜ聖書を読むのか」と聞かれれば、このみ言葉を思い出してください。人間は確かに学校でいろいろな知識を教えてもらいますが、人間としてどうやって生きていけばよいのかと言うようなことは教えてもらいません。それで、社会人になると先輩たちからいろいろなことを学ぶことになるでしょう。でも、悩みは確実に追いかけてきます。些細なことでも悩みになります。楽天的に生きたいと思っても、それを実現させることが難しいのです。道に迷う時には、何か確かなものが欲しくなります。そんな時に、クリスチャンは聖書を読み始めます。神様の教えや導きを求めて聖書を読みます。何か、ズバリ答えてほしいと思うのです。私が牧師インターンの時の主任牧師が私に教えてくださったことは、彼が私と同じインターンになった夏に、彼の主任牧師が突然来られて、「実はある教会の牧師がある事情でお辞めになって困っているそうだ。そこで、教団はあなたをその教会に派遣することにしたいと言ってきた。まだインターンだが、よく祈って考えてください」と言うのです。そこで、新卒の何の経験もないインターンは無理だと思ったのですが、彼は聖書から神様の答えを与えてください、と祈ったのです。そして、聖書を開くとイザヤ書のある言葉が目に入ってきたのです。「あなたはわたしの僕 わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、私はあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。」(41:9,10)。どうでしょう、彼は驚き、同時に神様の御声を聞いたのです。それで、その教会へ行く決心ができたそうです。その結果もみ言葉の通りだったのです。主は、あなたにも聖書からいつでも語りかけてくださいます。驚くほど、はっきりとあなたに語りかけてくださるのです。祈って、聖書を読んでみましょう。(さくま)