2015年12月

12月1日(火)

「悪に報いてやろう。」と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。

箴言20:22

 

この世の中には「悪」があります。できれば避けたいのですがそうもいきません。ただ、万が一「悪」に遭遇し、ひどい目にあったのなら大抵は復讐したくなるものですが、主は「悪に報いてやろう」と言ってはならい、と命じています。クリスチャンがそうでない人と決定的に違っているのは、この部分かもしれません。「目には目、歯には歯」と一定の復讐を認めていた旧約時代とは違って、イエス・キリストは復讐はしてはいけないと教えています。逆に祝福しなさいとまで言っているのですから難しいことを要求されていると思うはずです。しかし、復讐は神がなさるというのです。そこで、もしあなたが苦しむような時には主が救ってくださると約束されたのですから、主を待ち望みましょう。そして、復讐は神に任せましょう。私たちの一生は、人を祝福する一生なのです。私はこのみ言葉が真実であることを経験しました。ですから、今日のみ言葉を守ることの大切さを理解しています。そうすれば心配することもないし、いたずらに苦しむこともありません。ましてや怒ることもないし、悪いことを考えることからも守られるのです。祝福することばかりしていると、悪も寄り付かなくなります。今日も、気持ち良く1日を過ごしたいものです。誰かを祝福しましょう。失礼な態度を取る人がいたら、すかさず祝福しましょう。その人の人生が良くなるように祝福するのです。楽しくなりますよ。(佐久間)

 

12月2日(水)

かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。

申命記23:5

 

この世には「のろい」としか言いようのないことがあります。「なぜ」と聞きたくなるようなひどいことが自分の人生に影を落としていることがあるのです。しかも、それは家系を遡っている苦しみであるはずです。もし、イエス・キリストがいなければ、そうした悩みを解決する術がありませんでした。しかし、主は十字架にかかり、のろいを十字架に引き受けてくださったのです。私たちの身代わりです。それで、イエスを信じる者たちはのろいから解放されるわけです。クリスチャンの特権の一つは、のろいを祝福に変えていただけることです。もし、過去に不幸続きで苦しんでいたとしても、すでに救いは備えられていたのですから、主にすがるだけでよかったのです。ありがたいことに、のろいの苦しみを全て引き受けて十字架にかかってくださったキリストが同時に完全な救いを与えてくださるのです。なぜ、無償でこのような犠牲を払って救ってくださるのでしょう。それは、「あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである」と聖書は教えています。あなたの叫びはちゃんと神の耳に届いているのですから、祈りは聞かれると信じましょう。そして、祝福された人生を歩んでいけばいいのです。(さくま)

 

12月3日(木)

命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

詩篇23:26

 

私は、このみ言葉の通りに信じています。そして、振り返ってみれば、やはり信じたとおりになっています。ですから、この地上生涯が閉じるまで主の恵みと慈しみの中にあると思います。私が行こうとしている場所は、天の家です。他の人たちが私をどう思うかはわかりませんが、この小さな弱い者が主に頼って、信頼するときに裏切られることは絶対ないことを知っています。たとい悪魔がいて攻撃してきたとしても、主は私を放っておくことはありません。必要なときに必要なものは全て主が与えてくださいます。試練の道を通り抜けなければならないとしても、み言葉の約束は変わらないし、祈りは強められるし、この世から完全に目を離して神の国を信仰で見るようになれます。災いが全て益となるのです。イエス様は、驚くほど身近にいて助けを惜しみません。イエス様を通して神様の愛を知ることができます。聖霊のバプテスマを信じて求める人たちは、その過程で信仰を強め、祈りを覚えます。聖霊が注がれ内住すると心の友ができます。目で見ることのできない世界を聖霊を通して見るのです。心を励まし、楽しませてくださり、喜ぶことが力となることを体験させてくださいます。祝福することを覚え、人への愛が湧きあがることを知り、主のみ言葉を伝えたいと試みるようになり、平安の意味を知り、イエス様を模範とし、自分の賜物を使い、奇跡を目の当たりにし、神様にこんなにも深く愛されていると感動し、神様を讃美する感激を味わい、主の御用を務め、いろいろなことを経験して、この長い道のりを越え、とうとう最後に主の家にたどり着くでしょう。「なんと幸いだったか」と感激のうちに喜ぶ私。この私こそ、あなたのことです。これがあなたが主に召されて始めた信仰の旅なのです。主の保障付きですから安心して、ゴールを目指しましょう。ああ、祝福された人よ。(さくま)

 

12月4日(金)

神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

ローマ8:28

 

あなたが救われることは、実は決まっていたのです。そのことをちょっと考えてみてください。そもそも、なぜキリスト教と関係ができているのか、なぜ信頼して心を開ける人からイエス・キリストのことを聞いたのか、そして、全く関係ないと思っていた牧師と何かの形でちゃんと関係していることを不思議に思わないでしょうか。ある人たちは、今ではなく死ぬ前に信じるとか、世の終わりに信じると言います。世の終わりになって、天変地異が起こってから慌てて、神様信じますと言っても遅いのです。聖書がそう教えています。タイムリミットがあるのです。一方、神様に召された人は自分の意思で神様を知ろうとします。そして、人生が変わります。それは人生の目的がわかったからです。神様は、この召した者たちをイエス・キリストに似た者にしようとされます。それで、人生がそのためにあることを知るのです。ですから、神様との関係を深めるように導かれますし、何が起こっても「万事が益となるように共に働くということ」を体験します。そのためには神様を信頼する確かな信仰が必要がですが、だんだん謙遜にされ、それと比例して信仰が強められていくのです。ですから、クリスチャンは人生を楽観的に考えるようになります。悪くなるはずがないからです。一時、悪いことが起こっているように見えても、神様を信頼していると驚くほど良くなるようになっているのです。自分の性格や性質などを気にする人もいますが、それも心配することはありません。「万事が益となるように共に働くということ」を忘れないでください。「神は・・・御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」(29節)とはっきり聖書に書いてあるのですから、あなたが心配することはないのです。神様がちゃんと変えてくださるからです。それよりも神様に協力して、全部良くなることを信じて感謝していましょう。(さくま)

 

12月5日(土)

わたしはあなたを目覚めさせ 行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。

詩篇32:8

 

人生には必ず転機が訪れます。今とても苦しい状態であってもそれが長く続くわけでありません。神様を信じている人たちは、聖書の約束を確かめると良いのです。今日のみ言葉はあなたのものです。今まで見えていたなかったことが急に見えることもあります。自意識過剰で自分で自分の首を絞めていたかもしれません。否定的な言葉で暗示をかけていたかもしれません。今は本当は自由にしていただいているので、過去にとらわれることもないのです。本来、救われて神様が示す道をひたすら行けば良いのですが、それがまるで見えずにわからないのです。つまり霊的覚醒も神様の御業であって、人間の力ではできないことなのです。主は、あなたを目覚めさせようとしています。それは、あなたの行くべき道を教えたいからです。あなたに特別関心を持って、どすれば良いのか勧めを与えてくださいます。これも約束です。ですから、あなたのいろいろなこだわりを捨ててしまい、神様が教えさとしてくださる霊的な導きを待ちましょう。このみ言葉を信じて受け入れましょう。神様が身近に感じられるようにお祈りしましょう。(さくま)

 

12月6日(日)

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ヨハネ1:12

 

 

クリスチャンがすごいのは、イエス様を信じて神様のお約束どおりに神の子どもとなっていることです。その自覚がなかなか持てずに、この世の人のように過ごしている人たちもいますが、残念なことです。信仰によって生きるということは、神様を信頼して神様に喜んでいただくことです。つまり簡単なことなのです。だから、「自分の信仰が弱いからダメだ」というような言い方はおかしいのです。家族や愛する人を喜ばせることは楽しいことです。どうすれば喜んでもらえるでしょうか。考えてください。そして試してください。結局は、真心から信頼していることを伝えることです。そして、愛することです。愛は、どうやって学びましたか。親からですか。たいていの場合、親もただの人間だったと知ることになりますから、愛を学ぶことは親からでも完全ではないかもしれません。学校から学ぶことではないでしょう。愛は、神様から学ぶものです。イエス様が私たちのためにしてくださったことから愛を学ぶことができるのです。ですから、神の子どもになれるのです。(さくま)

 

12月7日(月)

わがたましいよ。なぜ、お前は絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

詩篇42:5

 

人は簡単に絶望してしまうことがあります。それは、まだ自分の力に頼って生きている証拠です。神を信じると言いながら、一方では心配し、自分の思い通りにいかないことを悩むのです。祈りにしても、願いがすぐに聞かれないと不信仰に陥りやすいのです。理性を働かせれば愚かなことだと思えるのですが、その理性も壊れてしまって感情の嵐に翻弄され自滅するばかりとなってしまうこともあるのです。信仰を持った人でも同じです。しかし、聖書の中に今日の詩篇の言葉を書いた人がいました。クリスチャンにとって最も大切なことは、「神を待ち望む」ことです。もう自分の力ではどうすることもできない絶望へと追い込まれても、それでも神を信じて待ち望むなら、神は必ず助けてくださいます。偶然とは決して言えない神のみ力をはっきりと認めざるを得ないことが起こります。救いは完全で徹底しています。そのことがいつでも起こる信仰の状態とは、自分を捨ててキリストに従い、神への信頼を一時も失わないでいることです。どんな状況でも神を讃美しているのは信頼の証なのです。あなたはこうして信仰により、新しい人となって希望に溢れた人へと変わっていくのです。(佐久間)

 

12月8日(火)

山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ契約が揺らぐことはないとあなたを憐れむ主は言われる。

イザヤ54:10

 

不思議なことにイエス・キリストは、あなたのことをよく知っていて、あなたがどのように苦労してきたか理解されている。そればかりか、あなたが滅んでしまわないように、時には厳しい親のようにあなたを正すこともある。それは試練となるので、その意味がわからずにあなたは、悲しみ、怒り、失望したかもしれない。ただ考えなければならないのは、私たちは本当に悔いの残るような罪を犯して心のトゲとなっていることがあるものだ。思い出せば恥ずかしく、消し去りたい記憶をいくつも持っているかもしれない。だから、キリストが自分を罰しても当然だし、怒るのも仕方がないと諦めているかもしれない。しかし、キリストはあなたを見捨てることができない。あなたを忘れることも、あなたと縁を切ることもできないほどに愛されているのだ。そして、キリストはあなたを慈しみ、大切にされる。あなたがどうしようもないひどい目に遭っていて、それも自業自得と自分で納得するような罪の生活を繰り返したとしても、それでもあなたがキリストの元に戻ってきて悔い改めるなら、驚くことにキリストは犠牲を払ってでもあなたを赦すだろう。キリストの契約は決して揺らぐことがないからだ。それほどクリスチャンになることは大きなことなのだ。つまりあなたはものすごい救いを経験しているということだ。あなたが、もしまだクリスチャンでなくても、このディボーションをお読みになっているのなら、キリストはすでにあなたの救いのために働いているはずだ。だから、救いの方法を教えておきたい。それは簡単でやさしい。ただ、過去の過ちや罪を神様に告白して悔い改めること。そして、その悔い改めた自分の罪の罰をイエス・キリストが身代わりに十字架で受けてくださったので、すべての罪が赦されたことを信じること。これからはイエス・キリストが自分の神であり、個人的な主であることを認め、信じること。さらに、牧師に洗礼を授けてもらえればクリスチャンになれる。慈しみ深い神様の招きに信じて応えてみよう。(サクマ)

 

12月9日(水)

悪者をうらやんではいけません。しょせん、草のようにあっという間に枯れ、消え失せる存在なのですから。神様を信頼して他人を思いやり、親切にしてやりなさい。そうすれば、この地に安住し、成功を収めることもできます。

詩篇37:1-3

 

この世の中に悪者がいるのも事実です。悪いことをして儲けたとか、得をしたとか、やりたい放題だとか、嫌だとか、そんなことで悩むことはありません。神様のおっしゃるところでは、そうした悪者は「草のようにあっという間に枯れ、消え失せる存在なのですから」。そのような悪に影響を受けることはありません。神様はちゃんと見ていてくださいます。祈りだって聞いてくださっているのです。ですから、私たちがすることは、「他人を思いやり、親切にして」あげることです。それが人生に成功を収める方法なのです。あなたの住むところは安住の地となると約束されているのですから、正しい方向を見誤らないことを心しておきましょう。(さくま)

 

12月10日(木)

幸福で正しい生涯を送りたいなら、舌を制し、くちびるからうそが出ないようにしなさい。悪から遠ざかって、善を行いなさい。平和な生涯を送りたいと願うなら、熱心に追い求めて、手に入れなさい。

1ペトロ3:10-11(リビングバイブル)

 

人が幸福な生涯を願うことは当たり前だと思うのですが、実はそうでもないのです。色々な人がいるからですが、それでも一般的に誰もが幸福を願うものです。聖書を読んでみると、幸福で正しい生涯の秘訣は、ただ舌を制すること。うそをつかないということなのです。ただ、それだけです。すると、幸福と感じていない場合は、大いに自分自身を反省する必要があります。一旦うそをつくと、とめどもなくうそをつくことになります。しまいには自分にもうそをつくようになるのです。自分の本心と違っていてもそれがわからなくなるかもしれないし、うそは軸が大きくブレることなので、つけばつくほどブレブレの人生となり、幸福感がありません。悪意がないうそだと言っても、意味がありません。ですから、幸福で正しい生涯を送りたいと思ったら、何でもかんでも言いたいことを言う舌を制し、うそをつかないと決めることです。はじめは辛くてもすぐにこの方がいいとわかります。悪は外に出さずに心の内だけにとどめていてもダメです。人間の力で素晴らしいものは「決心」です。だから、「悪から遠ざかって、善を行」うことを決心するのです。平和な生涯のために熱心に追い求めることを聖書は奨励しています。つまり、消極的では得られないのです。あなたは何かに熱心になったことがありますか。平和な生涯のために熱心に追い求めいていく人生をあなたは決心することができます。そして、実行した人だけが手に入れることができるのです。(佐久間)

 

12月12日(土)

キリスト様は、自分の体に私たちの罪を負い、十字架上で死んでくださいました。そのおかげで、私たちは、罪ときっぱり手を切り、正しい生活を始めることができたのです。キリスト様が傷つくことによって、私たちの傷が治ったのです。

1ペトロ2:24(リビングバイブル)

 

キリスト教の不思議がここにあります。かつては罪の中に生きていたとしても、今はイエス・キリストを信じて救われ、正しい生活を始めることができたのです。イエス・キリストの十字架の神秘が私たちの傷を治したのです。キリストが傷つかなければ決して癒やされることのない傷でした。私たちの力ではどうすることもできなかった罪の問題がイエス・キリストの愛の力で解決したのです。私たちができることといえば、ただイエス・キリストを頼って信じるだけでした。そして、それだけで十分だったのです。キリストは、あなたを救うために「自分の体に私たちの罪を負い、十字架上で死んでくださいました」。それほどの大きな犠牲を払って、はじめて私たちは罪を赦されたのです。主は、それを犠牲とは言わずに、恵みと言われたのです。受けて当然の恵みではありません。本当は、私たちが罪の罰を受けて当然なのに、私たちが罪の罰を受ければ死んで滅びるだけなので、罪のない神の御子が身代わりに罪を負って十字架上で罰せられたのです。これほどのことをなぜキリストはなさられたのでしょうか。ここに愛があります。主イエス・キリストの愛がここに明確に見えるのです。それほどまでに愛されているあなたがこの愛に応えて生きないはずはありません。だから、あなたはすでに生まれ変わっているのです。主を愛し、隣人を愛するために生きているのです。キリストのように愛に生きる人があなたなのです。(佐久間)

 

12月13日(日)

わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。・・・・わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

フィリピ4:11、13

 

人間の幸福度を何で測ったら良いのでしょう。パウロは、傍目から見ても決して幸福に見えなかったかもしれません。福音を伝えるために並々ならぬ苦労をしたことを聖書から知ることができます。ところが当のパウロは「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と書いています。人間は、どのような境遇でも生きていくことができるということです。ところが、私たちはちょっとでも困難が押し寄せると、途端に悲嘆し、自分を不幸だと決めつけてしまう傾向があります。これでは、戦う前からあきらめてしまっていることになります。困難が迫ってきたなら、驚いたり、うろたえたり、悲嘆にくれるかもしれませんが、いったん落ち着いたら、「神様はきっとこのことを通して私の可能性を引き出し、信仰を強め、私を大きく成長させてくださる」と信じよう。そして、立ち上がるのです。パウロはキリストと共に罪深い古い自分が十字架で死に、復活されたキリストの命に自分もあずかって新しい命に生きることができる、と教えています。その新しい命を頂いて生きているクリスチャンは肉の欲に死ぬことを知っているので、パウロの「どんな境遇にも満足することができる」という意味が理解できるはずです。誰もキリストの愛から引き離すことができないのです。だから、今の境遇に一人でいるのではなく、イエス様と共にいることを覚えたいと思います。イエス様が強めてくださるので、あなたにはすべてが可能なのです。(さくま) 

 

12月14日(月)

金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。

ヘブライ13:5

 

政府は景気が良くなるようにどんどん消費しなさいと言っていますが、日本人は明日の心配をして我慢してお金を貯めているようです。アメリカ人で驚いたのは貯金をしない人が多いことです。ですから、ある銀行では二十万円預金すると貸金庫を無料で使わせてくれたり、他の特典を与えたりしていました。もっとも、江戸時代には庶民は明日のお金を心配せずに楽天的に暮らしていたようです。なんでもして日銭を稼げばいいと考えていたのです。金銭に執着しないと精神的に楽になります。しかし、金銭についていい加減でいいということでもないのです。クリスチャンの場合は、神様が決してその人のことを忘れないという素晴らしい約束があるのです。ですから、神様がちゃんと自分のことを覚えてくださるので、生活に困ったり、必要なものも買えなくなるということにはならないと神様を信じるのです。お金に執着するといくら貯めても不安が増してきます。自分の力で安心するだけのお金を貯めることは難しいのです。世の中には神様を信じていないのに豊かな人もいます。何も困っていることはなさそうに見えるかもしれません。そのようなお金持ちを羨ましいと思ったり、嫉妬するかもしれません。しかし、あなたがクリスチャンであれば、地球上のすべての財産を集めたよりもはるかに大きな価値が有るイエス様を頂いていることを忘れてはなりません。この世の財産は増えれば増えるほどに不安が増しますが、神様のくださったイエス様という財産は、空しさを消し去り、平安と恵みによって豊かな満足感を終生与えることができるのです。ですから、余裕を持って「今持っているもので満足」するのです。そうすれば、何が本当の価値で大切であるか、よくわかるようになります。ある人たちは事業を起こしたり、手広く稼ぐかもしれません。しかし、今日のみ言葉の教訓を覚えれば、どんなに大きなお金を稼いでも道を誤ることはありません。もう一度、今日の聖句を読んでみましょう。(さくま)

 

12月15日(火)

何事においても、不平を言ったり、理屈をこねてはいけません。誰からも非難されないためです。心の曲がった頑固な人がひしめいている暗い世の中で、あなたがたは、神様の子供として、汚れのない、きよらかな生活を送らなければなりません。

ピリピ2:14-15(リビングバイブル)

 

クリスチャンの生き方は、本来キリストににたものであるはずです。しかし、この世の中の人たちはキリストを知りません。これほど愛に満ちた素晴らしい神様は他にはいません。確かに、神様無しにも立派に生きていけると思っている人は世に満ちでいるでしょうが、実際には心の空しさを抱えている人が実に多いのです。取り柄はお金儲けだけで、心が空しくてどうしたら良いか分からずにとうとうアル中になった人がいました。その人が有名な牧師に相談してみたのですが、解決は神様にしかできないと告げたので、怒って出て行ってしまいました。それから30分後に彼がまた教会へ戻ってきたのです。出て行った時よりももっと興奮していました。そして、彼が語ったとことによると、帰り道で起こっていたものですから、「神様、神様、キリスト、キリストって、奴らはそれしか知らないのだ。そればかりだ。・・・バカバカしい」と吐き捨てると、辺りは暗くなっていたのですが、目の前の通りが光に満ちてきたのです。人々の顔も光に照らされて明るく輝いています。そのうち道路が波のように上下に揺れてきて、光が降ってきたのです。彼は一体何が起こったのかわかりませんでした。でも心に平安が満ち、清らかな思いに包まれました。彼は混乱してしまい、それで牧師の元へ戻ってきたのです。自分に何が起こったのか知りたかったからです。牧師は、どうしてそうなったかは説明できないと言いました。しかし、「あなたが出て行った後で、あなたのために祈りました」と言ったのです。彼は、こんな不思議な方法で神様と出会いました。それからの彼の人生はもちろん、すっかり変わり、素晴らしい人生を歩むことになりました。神様を信じるということは、今日のみ言葉のようなものです。人間にとって自分を愛してくださる神様がいて欲しいのです。でも、その確証がつかめずに空しくなっているのです。でも、灯台のように光り輝いているクリスチャンがいれば、神様の確証を得ることがきっとできます。そして、神様を求めている人のためにクリスチャンが祈っていれば、神様がなんとかしてくださるのです。(さくま)

 

12月16日(水)

いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。

1コリント10:20

 

 

日本人にとって偶像を拝むことは古くから行われてきたことで、それがどんな意味を持っているかなど考えたことがないでしょう。そもそも、偶像という言葉で神仏を呼ぶことも馴染みがないはずです。クリスチャンになった人も聖書で知ったかもしれません。おかしなことに、誰かが作った像を見てありがたいと感じ、神様、仏様と呼ぶのは無神論の人でなくてもおかしいのですが、多くの人はそう思わないのです。本物の神様や仏様と思っていたら、実はそれは悪霊だった、というのではシャレにもなりません。それどころか、悪霊を神様として崇めてしまうとその奴隷になるので、とても厄介なのです。人生が幸福と感じることがほとんどなくても、それが当たり前だと思って、特に気にもとめていない人が、それが悪霊の仕業だと知ったらどうでしょう。なんとも酷い話です。とにかく、聖書にはっきり書いてあるので無視することはできません。そもそも、献げ物とか供え物というのは、その後でとり下ろしたその供え物を食べるのですが、それが「その供えてあった祭壇とかかわるものになる」(18節)という意味があるのです。それがとても怖いのは献げた相手が悪霊であるということです。悪霊は悪い力を持っていて、人を最終的に滅ぼしたいと願っているのです。自分の最後が地獄に投げ込まれることを知っているので、人間を道連れにしたいのです。悪魔はこの世の神であると公言してはばかりません。だから、騙されても仕方ないのですが、イエス・キリストが人となってこの地上に来られたので、真の神様がはっきりわかるようになったのです。この神様があなたを呼んでいるのならすぐに応えてください。そして、偶像と真の神様の両方に仕えることはできません。何の根拠もなくいたずらに偶像を恐れることはありません。イエス・キリストを信じて救われれば、悪魔に勝つ権威が授けられます。そして、「神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」(ローマ16:20)。本当に真の神様を見出して信じるならば、神様の恵みを味わうことができるのです。幸福な人生を歩めるようになります。(さくま)

 

12月17日(木)

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

1コリント15:51-52

 

人は誰でもいつかは死ぬことになっています。それですべてが終わってしまうのなら、わざわざ信仰を持つ必要はないでしょう。しかし、聖書には驚くことが書かれています。イエス・キリストを信じて救われた人は、たとえ死んでも復活することになっています。それは、もちろん天国へ行くためです。その時は、定められていてキリストの再臨の時です。キリストはラッパを鳴らします。それが合図となって死者は復活するのです。悪人や神に逆らい侮ってひどいことを言っていた人たちはこの時には復活しません。救いのチャンスは誰にでも与えられていたのですが自分の意思でイエスを信じるかどうかを決めたのです。さて、復活には人間には理解しがたい神秘があります。それは、生きていた時には、「自然の命の体」で生きていたのですが、死んで復活した時には新しい体が与えられます。それは「霊の体」と聖書に書かれたものです。もはやこの世と同じではありません。天に属する体です。その人たちは天に属するイエス・キリストと等しくなると書いてあります。これは本当に素晴らしいことなのです。わたしたちはあまりにもこの世に目を向けすぎて、聖書の約束を忘れ、自分が何者なのか自覚されていないように生きてはいないでしょうか。クリスチャンは神を信頼し、神のみ言葉を信頼しているのです。ですから、今日のみ言葉もそのまま信じます。天国がこの世の延長ならばがっかりしますが、全く異なった世界であり、私たち自身がそもそも変えられるのですから、ワクワクして楽しみにしていましょう。このように、クリスチャンにとっては死も恐れや絶望ではありません。一時の眠りのようなものです。しかも、目が覚めれば、変えられて天の家郷へいよいよ帰るのです。この特権だけでもありがたいことですね。(佐久間)

 

12月18日(金)

主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し わたしの恵みの業が現れるのは間近い。

イザヤ56:1

 

私たちは正義を守ることができます。それには勇気が必要だし、強い信念も必要となるでしょう。この世で正義を守ることは意外と難しいのです。悪に妥協してはいけません。人におもねることもしません。損得で物事を考えません。そうしなければ正義を貫くことはできなからです。同時に正義を守る人は、主がそうであったように「恵みの業を行」うものです。正義と恵みがセットになっているところが肝心なのです。「かわいそうだから、悪いことをしていても見逃してやろう」と言えば、正義は守られていません。聖書を読むと、実にイエス様は正義と恵みを両立しています。ヒューマニズムではこの点で難しさがあります。それでは、どうすれば、正義を守り、恵みの業を行うことができるのでしょうか。その答えは、イエス様が教えてくださった「アガペー(愛)」なのです。自己犠牲の愛がはじめて人を罪の世から超越させることができるのです。「打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頰を任せた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない」(イザヤ50:6、7)これはイエス様のお姿に見ることができます。本当は私たちが受けるべき懲らしめをイエス様が十字架で受けてくださったのです。イエス様はあなたのことを何も責めていません。ただ、黙ってあなたの罪が受けるべき罰である死刑を受けてくださったのです。あなたを愛していなければ決してできないことですね。だから、主が苦しまれたことによって、あなたに罪の赦しが与えられ、救われたのです。自分で自分を正しいとするのは簡単です。悪人でもやっています。しかし、神様は正しくあなたを裁かないわけにはいきません。イエス様によって罪の赦しがなければ、神様はあなたを正しいとは認められないのです。ありがたいことに、あなたはイエス様を信じています。だから、こそこれからは正義を守り、恵みの業を行なってください。そのためには、内住の聖霊の御力によって愛を原動力に生きてください。そのことを確かめることが実際に生活の中に出てくるはずです。神様は必ずあなたを助けてくださいますから信頼してください。くれぐれも自分の力で他人を変えようとしないでください。変えることのできるのは自分だけです。信仰がきっと助けになります。良いことが待っているのですから、元気を出してください。(さくま)

 

12月19日(土)

山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。

イザヤ54:10

 

どんなことが起こっても神様のあなたへの慈しみは変わることがありません。それは、主があなたを憐れまれているからです。神様と和解している今は、平和がいつでもあなたと共にあるのです。イエス様を知る前には、自分の力で生きるしかありませんでした。うまくいっている時には神様を必要とは思ってもいませんでしたが、一旦試練が襲えば、たちどころに自分の弱さに気がつきます。誰かにすがりつきたくなるほどの経験をしたならきっとわかりますが、人間では誰も助けることができないことがあるのです。そのような時になって、初めて神様にすがろうとするのも人間です。しかし、自分がどのように生きてきたか考えると罪責感で恐ろしくなります。後悔することがあるのです。こんな自分が死んだらどうなるのだろうと思うでしょう。死が近づけば恐れが襲います。自分の背負っている重荷が嫌でも重くのしかかってくるのです。そのような時に、ありのままに救ってくださる神様がいることを知ります。お名前はイエス・キリストです。重荷を降ろして休ませてあげよう、と優しく声をかけてくださるお方です。そして、自分の生涯で犯してきた罪をすべて完全に赦すことのできる唯一の神様なのです。ただ、イエス・キリストを信じることだけで、救っていただけます。このイエス様に自分の気持ちを話して聞いていただくのです。恥ずかしいことも、後悔も、罪深いことも、悲しいことも、辛かったことも、何もかも正直に話してみるのです。イエス様は黙って聞いていてくださいます。叱ることもないし、責めることもありません。最後に、イエス様は「私を信じるか」と聞かれるでしょう。その時に、あなたは心から「イエス様、信じます」と声を出すのです。イエス様は、「あなたの罪は赦された」とおっしゃってくださいます。そして、あなたの身代わりに、黙って十字架についてあなたの罪の罰を受けてくださるのです。あなたはようやく解放されたのです。主の慈しみの中に生きるのです。主への感謝が溢れて喜びとなるでしょう。(さくま)

 

12月20日(日)

誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

ヤコブ1:19

 

 

私たちは、自分のことを聞いて欲しいのですが、人のことを聞くのは苦手です。そのために人間関係がうまくいかなくなることがあるのです。人間関係で悩む人には、今日のみ言葉が助けになります。普通の人は聖書と逆で、「聞くのに遅く、話すのに早く、また怒るのに早い」のです。どうして、このようにしていると人間関係が壊れるかといえば、コミュニケーションがうまくいかないからです。愛と同じです。一方的に愛して欲しいと言われても困りますよね。愛されて、嬉しいから愛し返す、というのは自然です。愛し愛され、こうなっていれば満たされて幸せと思えるのです。しかし、私の話を聞いて、あなたの話は聞きたくない、ではどうでしょう。それに、私の話を聞いて、というその内容が聞いて楽しいものなのか、それともくだらないものなのか、人の悪口なのか・・・。「私の話を聞いて」という前に、相手は今どうゆう状態なのだろう。疲れていないだろうか、何か他のことをしようとしていたのではないか。そのぐらいの思いやりは必要です。ただ、何か楽しいことがあれば、それを分かち合いたいし、何か特別のことがあれば、それを聞いて欲しいものです。それをちゃんと聞いてくれる人がいることは幸せなのです。私たちが「イエス様・・・」と話しかけたり、「聖霊様、どうしましょう」と心の内で相談したりできることはありがたいことです。讃美歌に「友なるイエスよ♪」と歌うのは本当のことです。もし、主との交わりを深めることができれば、今度は人の話をちゃんと聞いてあげられるようになります。クリスチャンは聞き上手になることができるのです。そうそう、私はおしゃべりだから話すのを我慢するのは辛い、と思われたのなら、そうではありません。聖書には、「話すのに遅く」と書いてあるのですから、遅くすればいいのです。話してはいけないと言っているのではありませんから安心してください。今まで、すぐに話してしまっていたなら、今度からはちょっと遅くするのです。そすると、相手の話をちゃんと聞けるようになります。それに、怒ると損することを経験していると思うのですが、怒ってはいけないと言っているわけではありませんからこれもちょっと遅くするのです。漫才のツッコミのように怒ってしまうと、収拾がつかなくなる危険があります。今日のみ言葉を呪文のようにいつも唱えていると、良い人間関係がきっとできると思います。(さくま)

 

12月21日(月)

わたしを置いて神はない。正しい神、救いを与える神は わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。

イザヤ45:21-22

 

あるエリートの男性がいました。その人が病気で片足を切断することになりました。その人の奥様は熱心なクリスチャンでしたが、その人はクリスチャンではありませんでした。ところがストレッチャーに乗せられて手術室へ向かうとなんと、足元にイエス・キリストが立ったのです。実際には白い衣を着た光り輝く方が見えたのですが、すぐにキリストだとわかったそうです。それは、彼にとって大きな経験となりました。そして、片足が義足となって仕事に復帰しました。いつも行く食堂で変化がありました。そこには二人の女性店員がいました。一人はテキパキと仕事の早い人です。もう一人は、どうも仕事が鈍く見え、彼は嫌いでした。ところが、義足になって不自由になるとあのテキパキと仕事をこなす店員は、彼を邪魔そうに見ていることに気がつきます。そして、あのもたもたしているようで嫌いだった店員が彼に親切に接するので、驚くことになります。彼は、すっかり見方が変わりました。それまで、病院に付き添ってくる奥様が順番を待っている時も、体の不自由な人や具合が悪そうな人を見ると、親切にそばに行って助ける姿を見て余計なことをすると腹を立てていました。ところが、自分が不自由な体になって初めて、奥様の親切がどんなにありがたいことで、大切な思いやりだったかと気づかされました。そして、教会で聖書を学ぶようになりました。今までの自分の常識が聖書のみ言葉で変えられて行きました。神様は「わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」と今も呼びかけていてくださるのです。それが、聞けるようになるには時に試練があったり、目線を変えるようにへりくだることを教えられたりします。まことの神様が愛の神様であることもありがたいことです。彼は、やがて洗礼を受けてクリスチャンになりました。(さくま)

 

12月22日(火)

主がすべての災いを遠のけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。詩篇121:7、8

 

人間は誰かに見守られていれば、安心し、健全に生きることができます。それが神様であればなおさらです。すべての災いから守られます。小さな子供は、お母さんやお父さんに、自分を見てて、とせがみます。親は、それが可愛いと思います。同じように天の神様は、愛に富んだ保護者となり、いつでもあなたを見守っています。そして、人間の親や教師ではできないこともしてくださいます。それは、魂を見守ることです。心が傷つくことのないように、万一すでに傷ついているのなら主の愛を惜しみなく注いで癒してくださいます。それがありがたく、主をとても身近に感じるようになります。そして、主を幼子のように信頼して慕っているのです。良い心はそのようにしてできてきます。今日のみ言葉のように、あなたが今も、そしてとこしえに、どこに行くにも帰るにも、主に見守られていますように。(さくま)

 

12月23日(水)

神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

Ⅱコリント1:4

 

私たちは、時々とても辛くなって神様の慰めを必要とすることがあります。できれば、毎日がただ楽しく平和であればいいのですが、そうもいかないのが人生です。時には、なぜ自分がひどい目に遭っているのかさえわからないのに、ますますひどいことになることもあります。誤解されたり、誹謗中傷されることもあるかもしれません、自分が原因で怖い目にあうこともあります。その中で、人間は正しい選択をする必要があります。ただ、感情的になっているだけならば、何の益もありません。たぶん、同じことを繰り返すことになるでしょう。人間に与えられた能力で一番良いものは、正しい選択をする力だと思います。そこで、神様が私たちが苦難に遭っている時に放っておくことはしないで、慰めてくださることを味わっていただきたいのです。そうすれば、万が一苦難に遭遇しても主に慰めていただく選択ができます。こうして、主はいつでも生きて働き、私たちを愛されていることは本当だと納得することが大切です。このような経験をすると、誰かが苦難に遭っている時に慰めることができるのです。別にカウンセリングの勉強をしていなくても、特別な訓練を受けていなくても、聖霊が働いて不思議な力が働き愛が溢れてくるのです。このように主はクリスチャンを用いたいのだと思います。それぞれのクリスチャンが特有の個性を授けていただいているので、そのことをご存知の神様は適材適所でちょうど良いクリスチャンを選んで苦しみ悩んでいる人の元へと送ります。その時に、たとえその人にとって正しいことを発見しても、その人を批判することはしてはいけないし、その人を変えようとしてはいけません。そうではなく、慰めることを期待されているのですから、愛の泉を湧き出させるのです。慰めの力がどれほどのものかきっと驚くでしょう。いつか自分の出番がきます。その前に、あなたを主は慰めてくださるので、主に心を開いてください。主はお優しいので、心をゆったりと恵みで満たしていただきましょう。(さくま)

 

12月24日(木)

天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・・神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

ルカ1:35、37、38

 

毎年、クリマスの時期にはキリストご降誕の話が聖書から読まれます。いずれも美しい話ですが、その中でもこのマリアに天使が告げる受胎告知と呼ばれるシーンは不思議な感動があります。なぜ、エルサレムやベツレヘムではなく片田舎のおそらくまだ十代の娘が選ばれたのか。それは、マリアの讃歌と呼ばれる箇所(ルカ1:47~)を聖書から読めば明らかです。これだけの言葉が簡単に出てくるでしょうか。信仰に生きるということは、このような思いが心に作られていることを言うのでしょう。世俗の人たちは処女が聖霊で身ごもったことを揶揄します。神様を信じることができないのですから当然なのでしょうが、残念なことです。彼らは、聖霊を知らないし、聖霊がどれほどの力を持っているか知らないのです。天地創造が聖霊抜きにはできなかったことを覚えなければならないし、最初の人間を創造する時にも、鼻から神の息である霊を吹き入れて、はじめて生きた者となったのです。そして、クリスチャンは天使が語った「神にできないことは何一つない」という言葉に心をとめて信仰の核心としているのです。そして、にわかには信じられないことがマリアの身に突然起こったわけですが、彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と告白しています。この一事を見てもマリアが選ばれた理由がわかります。そして、信仰者が求められる主への従順の模範がここにあるといえるでしょう。私たちもマリアのような信仰を日々養っているなら、主のみ言葉をいただくことがあるはずです。その時に、従順に主に従い、み言葉をそのまま信じ受け容れる者となりたいものです。神様の偉大なみ業はこのように外見ではなく、信仰に生きる人の上に起こることを覚えましょう。つまり、あなたを通して主は大いなるみ業を行う可能性があるということです。この世に流されることなく、人に褒められることがなくても、美しい信仰に生きましょう。(さくま)

 

12月25日(金)

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

マタイ2:9-11

 

イエス様のご降誕の物語に欠かせない、東方から来た博士たちの話がマタイの2章に出てきます。彼らが実際には何人であったかは書いてありませんが、博士たちが持参した贈り物が、黄金、乳香、没薬の三つであったために三人の博士たちと言われています。このイエス様への贈り物には意味があります。①黄金は王様への贈り物です。しかし、実際のイエス様は王座につくのではなく十字架につかれました。そこから王として支配されたのですが、それは十字架の意味である愛で人々を支配したということです。私たちは、イエス様を身近に感じるもので気安く近づこうとしますが、イエス様が王様であることを忘れてはいけません。王様にお会いするには贈り物が必要ですが、それは黄金であるべきです。黄金は愛を象徴する意味があります。そこで、真心からの愛をお献げして王であるイエス様にお会いするのです。②乳香は、祭司が礼拝や犠牲を献げる時に使いました。そこで、乳香は祭司への贈り物なのです。祭司は、ラテン語で「ポンティフェクス」(橋をかける人の意)と言います。イエス様が真の祭司として神様と私たちを結ぶ架け橋となってくださったのです。③没薬は、死者への贈り物です。イエス様が十字架で死なれるために来られたことがここに示されています。私たち罪人を救うには、犠牲となってイエス様が死なれるほかに方法がなかったのです。このように、博士たちの献げ物は、イエス様が王の王であり、神と私たちの間に立たれる祭司であり、そして真の救い主であることを予告していたのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(さくま)

 

12月26日(土)

そしてイエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。

使徒言行録10:42、43

 

イエス様がすべての人を審判者として捌きます。生きていても、たとえ死んだとしても同じです。神様を知らなかったから、という言い訳は意味がありません。良心に従って正しく生きたかどうか、その責任は問われることになります。しかし、イエス様がどんなに憐れみに富んだお方であるかを私たちは知っています。愛に溢れて、同情することができるのです。だから、イエス様を信じるようにと招きがあったなら、躊躇せずに信じることが肝心です。聖書には、「イエスについて、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる」と書いてありますから、信じて罪の赦しを得れば良いのです。私たちは、自分で何か良いことができると考えがちですが、実はそれでは審判者の前に立てないのです。全く足りないからです。それは、過去の過ちや罪を帳消しにすることが自力ではできないからです。それが自分を責めてしまいます。それに、何か呪いを受けていると思っている人には、人間の力では限界があって解決できないと知っているはずです。かといってどこかでお祓いしてもらっても効果はないばかりか、もっと悪くなることがあるのです。つまり、呪いはキリストの十字架でなければ解放できないのです。世界中で昔から数え切れないほど大勢の人々がイエス様を信じることによって救われています。人生を変えることができます。信じて救われた人々は、その日からイエス様に似た者へと作り変える生活へと導かれていくのです。ここでも聖霊がお働きになるのであって、人間の力でどうかなるものではありません。ただ、信仰だけは本人の責任です。信じて始めたのですから、最後まで信じることで完結していくのです。これを恵みによる救いと言います。(さくま)

 

12月27日(日)

軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。

箴言12:18

 

言葉で失敗した人は多いでしょう。また、今日のみ言葉のように言葉が剣のように人を刺すこともあるので注意が必要です。もし、私たちが誰かから傷つくようなひどい言葉を浴びせられたり、侮辱されたりしたなら、どうしたらいいでしょう。感情が傷つけられれば、思わずやり返そうとするのが人の常ですが、クリスチャンは神様を知っているので、自分では復讐せずに、相手のことを神様にお任せすることができます。この方がずっと気が楽です。そして、結果も良いはずです。ただ、私たちも加害者になることがあるかもしれませんから、気をつけましょう。軽率なひと言で人を傷つけてしまうことがあるのですから、くれぐれも気をつけていたいものです。そして、知恵を祈り求めることを怠ってはいけません。聖書は知恵の大切さを繰り返し教えているからです。実は、信仰者は、知恵のある人です。そうでなければ神様を認めることができるわけありません。そこで、さらに知恵を祈り求めていくことが必要ですし、聖霊様との交わりも同じ意味で大切となります。その成果は、自分の言葉で誰かが癒されていくことに現れてきます。人を愛の眼差しで見ることができるようになると自然と言葉が優しくなります。相手を大切に思う思いが言葉に表れてきます。そして、その瞬間瞬間、何を語るべきか聖霊が教えてくださいます。そのようになるためには、やはり健全な信仰が必要です。(サクマ)

 

12月28日(月)

牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが 豊作をもたらすのは牛の力。

箴言14:4

 

面白いみ言葉ですね。人生には嫌だな、と思うことがいくらでもあります。避けて通る事もできますが、避けられない事も多いでしょう。また、一見めんどうに見える事も実はそれがあるからこそ良い結果をもたらしている、という事もあるのです。アメリカで大活躍したイチロウ選手が尊敬されるのは、素晴らしい結果を出すからですが、その裏で人一倍の徹底した準備や練習をしていることでも有名です。このように原因と結果に気がつくことが人生を分けています。目先の小さな困難が将来の大きな収穫をもたらすことにつながっているところまで見通せるようになりたいものです。そうそう、面倒な人やちょっと嫌な人が自分のそばにいることがありますが、否定的になっているとますます嫌気がさしてきます。しかし、もしかすると自分のために神様がその人をそばに置いてくださったかもしれませんよ。そうであれば、良い目的がそこにはあるはずです。見方を変えてごらんなさい。意外と今まで気づかなかったことが見えてくるものです。どんな小さなことでも忠実であれば祝福となって自分に返ってくるものです。(さくま)

 

12月29日(火)

主よ思い起こしてください あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために 主よ、わたしを御心に留めてください。

詩篇25:6、7

 

人間は若いときには未熟ですが苦労を重ね、いろいろなことを学んで成長し、やがて成熟していくことができます。しかし、心の中では厄介なことに、若気のいたりというか、恥ずかしくなるような昔の罪を思い出しては苦しむこともあります。それが時には自責の念となり、信仰に悪影響が出ることもあるのです。私たちが神様の愛によって、イエス様の恵みにあずかったからこそ救われたのであって、決して自力で救われたわけではありません。それも、何か神様に自慢できるようないいことをしたから救われたわけでもありません。強いて言うなら圧倒的な憐れみによって無知な私たちを逃れられなかった闇の世界からイエス様が力づくで救い出してくださったのです。それもイエス様が傷つき血を流して十字架に釘付けされて、ひどい仕打ちの中で死んでいかれましたが、その自己犠牲によって私たちは救われたのであって、実際に何も救われるためにしていないから恵みのみによって救われ、単純にイエス様を信じただけなので信仰のみによって救われたと告白しているのです。信仰者はそれがわかっているので今日のみ言葉をいつも唱えるのです。主によらなければ、罪に打ち勝つことはできないし、愛に生きることもできないのですから、主に頼り、御心に留めていただくことでしか平安がないのです。(さくま)

 

12月30日(水)

はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。

ルカ18:17

 

誰にでも子供時代はあるのだから、神の国に入る秘訣を知っていることになります。問題は、大人になると子供の心を失うと言われるところです。単純に何でもかんでも信じることはなくなり、逆に疑うことが多くなっているのが大人です。そうゆう大人は、聖書に書いてあることも全部信じるのではなく、信じることのできるものだけ信じていますし、信じることができるように読み替えたり、意味を変えてしまったりもします。その証拠に、書かれていることを全部信じてその通りになっていれば、聖なる者になっているし、何も思い煩うこともなくなっているでしょう。そこで、信仰とは子供のように神の国を受け入れるその心であると覚えましょう。神の国とは、神が支配することを意味していますので、聖書に書かれた通りに神が何でもできる力をお持ちであると信頼して疑わずに信じることです。神の支配に従順に従うというのは、神は愛であるので、神の愛の配慮に委ねて生きるということです。自分勝手に生きるよりもはるかに勝る生き方です。(佐久間)

 

12月31日(木)

わたしの証人はあなたたち わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ 理解するであろう。わたしこそ主、わたしの前に神は造られず わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしの他に救い主はない。

イザヤ43:10-11

 

この世の中にはたくさんの人がいるのに、どうゆうわけかあなたが選ばれた。それほどの不思議も感じないまま、なんとなくクリスチャンになり慣れるに従い、神様を主と呼び、自分をしもべあるいははしためと称している。それどころか、目に見えず、声も聞こえず、いるのかいないのかもわからないような神様を会ってきたように知っている。イエス様はまるで友達だ。祈りを覚え、そのうち祈りが楽しみになり、自分が神様に愛されていることを実感すようになる。病気になればすがるように祈り、困った時には助けてくださいと懇願している。うまくいっている時にはそれが当たり前のような顔をしていながらだ、まさに困った時の神頼みだ。それでも、不思議と祈りは聞かれ、祈りの力を実感する。自分にとって益となる祈りは聞かれるが自己満足のような祈りは聞かれない。そうやっていろいろなことが起こり、信仰が試され、だんだん「神は愛なり」という意味が心にしみてくるようになる。そして、イエス様が教えてくださったように神様を天の父と呼ぶことが嬉しくなる。偶像を拝むことの愚かさ虚しさがはっきりとわかり、私を救うことのできた唯一の神が私の主であると証言できるようになる。ありがたいことに、この神様が私やあなたを愛しておられるのでこの一年も恵みから恵みへと導かれたのだ。なんと感謝すれば良いのかわからない。見返りを求めない主の慈しみに穏やかな気持ちで委ねてゆこう。そうだ、私たちこそが神様の証人なのだから。(サクマ)