ディボーション2月

2月1日(日)

しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

ヘブル7:24-25

 

聖書の約束は、いつでも私たちに希望を灯してくれます。聖書の福音を正しく理解することはそれほどたやすくありません。福音は難しくありませんが、それを信じる私たちがちゃんと信じないのです。自分勝手に解釈して、見当違いなことをしてしまいます。人の救いは、恵みによるのです。もっぱらイエス・キリストを信じることから始まり、信じることで救いは完結できます。それは、「完全に救うことがおできになります」と書かれていることからも明らかです。主イエスは、あなたのために執り成しておられます。イエス・キリストの十字架という完全な犠牲をもって贖いを完成されましたから、イエスを信じる者は救われるのです。あなたが救われていることを信仰で確信しましょう。(佐久間)

 

2月2日(月)

わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。

エレミヤ31:25

 

心底疲れるということがある。人生のどこかで遭遇する危機の時期だ。人それぞれだろうが、その人にとっては、頑張っても何をしてもうまくいかない、すべてが裏目にでる、しまいには自分を責めてしまう。そんな時に、誰も助けてくれない、いや助けられないのだ。それでも、生きていかなければならないし、とりあえずなんとかしなければならない。泣きたくなるが、泣いてもはじまらない。万策尽きたと思える。それでも、まだあきらめきれずにもがいている。そんな時に、聖書の中に今日の御言葉を見つけたら驚いてしまう。「そうか、魂が疲れ果て、衰えてしまったのか」・・・・。しかし、私の場合はどうだろう。もうにっちもさっちもいかない状況で、いったいどんな救いがあるというのだろう。人間にはできないが神ならできる。そんな言葉を牧師が言っていた。もう一度、読んでみよう。そうか、これは神の約束なのだ。神の言葉は絶対だ。何度も読んでみたら不思議と落ち着いてくる。まだ見捨てられていないということだ。もう力などないと思っていたのに、気のせいか元気になった気がする。救いは身近にあるものだ。まだやれる。神の御声が聞こえる。「わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」。大丈夫だ。(サクマ)

 

2月3日(火)

主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

使徒4:29-31

 

キリストの弟子たちは、はじめから脅されていました。それは、イエス様のお名前によって癒しや奇跡を行い、イエス様をキリストだと証言したからでした。この時も、迫害された弟子たちを囲んで仲間が集まって祈っていたのです。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」のです。これは地震が起こったということです。私も、同じようなことを三度経験しました。一度は、教会で夜の証し会をした時でした。すばらしい証しが続き、霊的にも満たされていたのですが、最後にある長老さんが出てきて、この教会を建てた時の自慢話をされました。いっぺんに場の空気が変わり、霊的なものが消えて行くのがわかりました。どうすることもできないので、自分の席で一生懸命に祈りました。主に助けを求めたのです。そして、なんとか証し会は終了しました。その後、時間のある人は残って茶話会をしようということでした。朝早いパン屋さん一人を除いて全員が残りました。何かが起こる予感がありました。軽食を食べながら、様子をみていると、先ほどの長老さんが、急に霊的なことを話し出したのです。さっきとは別人のように聖霊のことを話し出したのです。とても驚き、ああ、神様がお働きになっているのだと思いました。そして、とてもすばらしい霊的な雰囲気になっていったのです。最後に私が祈ることになり、祈り始めると「一同の集まっていた場所が揺れ動き」、驚きましたが、聖霊が働いておられると思いました。そして、「皆、聖霊に満たされて」家路についたのです。私の住まいは教会から離れていました。家に帰るとすぐに「さっきは大きな地震だったね」と家内に話しますと、「地震?地震は無かった」というではありませんか。それで、やはりあれは聖霊のお働きだったとわかりました。あと二回は、同じ場所で起こりました。一回目は、聖霊セミナーが開かれてそこに私も呼ばれたのです。そこで、いろいろあったのですが、集会後に盛り上がって、私のキャビンに十数名の参加者が集まりました。そこで、私が祈ったら、地震が起こったのです。一年後にも牧師会で同じ会場が使われました。そこに、聖霊のことを理解している牧師と同じキャビンになりました。そこで、聖霊の話をして、一緒にひざまずいて祈り始めたところ、地震が起こりました。聖霊が力を持って望まれることを知っています。現代人がすっかり忘れてしまった、霊の世界は存在し、神様は今でも聖霊の現れをもって、クリスチャンを励まし導いておられるのです。「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。このようなるために私たちも献身を新たにしたいものです。(さくま)

 

2月4日(水)

あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

マタイ7:9-12

 

昔の人は、(旧約)聖書のことを「律法と預言者」と言っていました。ですから、今日の御言葉の最後にイエス様がお語りになったのも旧約聖書を指しています。つまり、聖書とは何を教えているのか、それは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということが書いてあるというのです。勿論、旧約聖書はイエス様のことを預言しているのですが、そのイエス様が新約時代に預言の成就として現れた時に、この教えの通りにふるまったのです。そこで、私たちにも、同じようにしなさいとおしゃられたわけです。クリスチャンにとっては、神様は天の父です。その父がどのようなお方であるかは、あなたが知らなければならいことです。地上の悪人ですら、自分の子が求めれば良いものを与えるのなら、天の父はなおさら求める者に良い物をくださるにちがいないのです。その関係があるのなら、自分が人にしてもらいたいことを、犠牲をはらったとしても人にしてあげなさい。この教えは、イエス様だけの教えです。自分が人からして欲しくない事は、人にするな」というような消極的な教えは他の宗教や教えの中にもありますが、つまりは何もしなければ守れるわけです。ところが、イエス様の教えは積極的に自分からしなければ成立しません。ここが良い所です。あなたも、自分がだれかららこうされたら嬉しいと思うことを、人にしてあげましょう。これを愛といいます。イエス様が愛のお方であったことがこれでよくわかりますね。あなたも、同じ愛の人になるように招かれているのです。愛は積極的なのです。(さくま)

 

2月5日(木)

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」・・・・「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

ヨハネ3:3、5 

 

この箇所は、イエス・キリストがお語りになった奥義です。とても不思議な響きがあります。イエス・キリストの宣教は神の国運動と言われることがあります。お弟子たちにも権能を授け、二人一組で伝道に遣わします。その時に、「神の国は近づいた」と宣べ伝えさせたのです。その神の国について語った別の箇所がここです。ポイントは、明らかに「新たに生れる」ことです。それは、別の言葉でいえば、「水と霊とによって生まれる」ことです。キリスト教会でクリスチャンになるには、洗礼を受けることになります。これは水で新しく生まれることを意味しています。しかし、今日の聖句では、水だけでなく霊も含まれています。そこで、聖書を調べれば、同じヨハネによる福音書で「『わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。』・・・・『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』」(1:33)とバプテスマのヨハネがイエスについてこのように証言しています。つまり、イエス・キリストこそが聖霊のバプテスマを授ける方なのです。この二つを通して、人は新しく生まれ、その新しい命に生きるようになります。しかし、ただ生まれただけでは、正しい成長は望めません。逆に言えば、新しく生まれてからが大切であるということです。中途半端な生き方は最後に後悔します。神の支配の中に留まるべきです。信仰によって生きることを学びましょう。しかし、新しく生まれる恵みは感謝しても感謝しきれないものです。求める者に与えられる恵みです。聖霊に満たされていたいですね。(佐久間)

 

2月6日(金)

またヤベツがイスラエルの神に、「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。

歴代誌上4:10

 

今年に入って何人かの人に「ヤベツの祈り」を始めたと聞きました。以前にこの「ヤベツの祈り」が流行ったことがありました。これほど興味深い祈りはありません。この祈りが流行ったのは同名の本が出版されたからです。大変優れた作者によって書かれたもので、ブームが始まると類似の本も出版されました。その後、「女性のためのヤベツの祈り」という本も出版され、この祈りを女性がこのんで祈っていることがわかりました。それから、洗礼を受けた方々に小さなプレゼントをする時には、よくこの「ヤベツの祈り」の本を贈りました。それが、今年に入ってまた読まれているのは良いことです。というのも、信仰に入って間もない方には難しい本だからです。聖書に親しみ、祈りを喜びとし、信仰に成長してきた時にこのヤベツの祈りに向かう事は、意義があると思います。一つ一つの言葉をよく吟味して、考えながら読んでみることです。クリスチャン初心者の時には、ご利益を得る呪文のようであったこの短い祈りが、やがて、信仰が本物になってきた時には大きな広がりのある祈りに思えることでしょう。私の場合は、このヤベツの祈りを祈った後に領土が広がりすぎてアメリカに移住することになりましたが、この経験も大きな祝福となりました。クリスチャンは祝福されているのですが、それが信仰によって実現していることが理解しにくいようです。それで、このようなチャレンジのある祈りを通して、神様の訓練を受けることは何らかの成果を伴うので、意味があるのです。本棚にしまい込んでいた「ヤベツの祈り」の本を引っ張り出して読んでみることも良いのではないですか。(さくま)

  

2月7日(土)

イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

ルカ19:9-10

 

罪を犯して生きる人間には一見希望が無いように見えますが、実はイエス・キリストが希望をもたらしました。それは、罪を犯す人間は確かに神と断絶しているように見えますが、イエスはそれを失われた者と言いました。そして、イエスは実際にその公生涯のすべてをかけて失われた者を捜されたのです。それだけではなく、救われたのです。神の独り子であるイエスが地上に来られた理由がそこにあります。救いは目に見える形で罪人を変えました。その人のもっともこだわっていた罪が解放されてしまったのです。この19章にはザアカイの物語が書かれてありますが、徴税人の頭で守銭奴のようにお金にこだわっていたザアカイがイエスに見つけられ救われると、たちまち財産の半分を貧しい人たちに与え、不正にとりたてたお金は四倍にして返すと言わせたのです。お金に執着しなくても大丈夫になったのです。あなたもまだ罪人であった時に、イエスが探しに来られたので信じて救われました。その時に、何から解放されたのですか。言葉で言えますか。何がすぐに変わりましたか。忘れたのなら、ぜひ思い出してください。そこからすべてが始まっているのですから。(佐久間) 

 

1月8日(日)

イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。・・・・さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。

ルカ19:12-13、15

 

さて、今日は面白いイエス様の譬話から考えてみましょう。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」という箇所は、イエス・キリストが天に帰られて、王位を受けてから再臨される、と読めそうです。それに先立って、「僕」つまり、弟子たち(クリスチャン)に賜物を授け、そして、再臨後にその賜物をどのように使ったかを調べられる、というように読めます。これは、現代の読者である我々にも関わりが出てきます。ただ、クリスチャンであればいいというわけではないわけです。イエス様から預かった賜物を用いなければならないということです。うまく聖霊の賜物を用いれば、きっと人助けや救霊の働きができるでしょう。あるいは、クリスチャンとして新しく生まれた自分を一ムナと考えれば、その一ムナである自分を成長させることは、一ムナを十ムナにすることになるかもしれません。特に、聖書の他の箇所にも出てきますが、自分の賜物を知る必要がありますし、忘れていれば、思いだす必要があります。そして、何よりもそれを用いることを考えましょう。どのように賜物を用いたか精算する日が来るというのですから、賜物をもらいっぱなしで何もしないと言う訳にはいかないのです。そうであれば、せいぜい楽しく用いることを考えましょう。救霊の情熱を持てば自ずと聖霊の賜物を使う機会が訪れるはずです。そして、賜物を使えば使うほど、増えて行くのですからやりがいがあります。それは、自分自身の霊的成長を願う事とも大いに関係あります。そして、御霊の実である品性を備えて行くということでもあるのです。ボケの心配をしている暇があれば、奉仕や伝道のことを考えて実行してみたほうがよいようです。尚、譬話の全部を知りたい方は、ルカ19:11-27を読んでみましょう。(さくま)

 

2月9日(月)

彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」

列王記上18:21-24

 

夢を見ました。それは、死人をよみがえらせる夢です。そのことが起こると、教会はたちまち大勢の人が集り、「そうかこうやって500万人救霊ができるのだ」と言っている夢です。明らかに、土曜日の朝に教会にかかってきた電話が原因だろうと思いました。その人は、「亡くなった父親をよみがえらせることができますか」と真剣に聞いてきたのです。予想もしなかった言葉にとても驚きましたが、それから考えていました。死んだ人が生き返ったという話しは聞いたことがありますが、実際に起これば恐ろしいと思うでしょう。でも、聖書を見てみると、イエス様だけではなく、使徒やエリヤなど結構死人を生き返らせているのです。必要なことであれば起こるし、そうでなければ起こらない、あくまでも神様の領分のことです。それにしてもエリヤの物語はとても面白いですね。ぜひ、読んで考えてください。神様はあなたにも奇跡を起こすことができます。クリスチャン人生はすばらしいものであると、信じて神様の恵みを十分に味わいましょう。(さくま)

 

2月10日(火)

すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。

使徒9:15-19

 

ディボーションの日付が2月ではなく1月になっていたことをはじめにお詫びいたします。風邪のせいにしてはいけませんが、ようやく風邪もぬけてきたようです。今回は頭が回らなくなる風邪だったのか、ただ老化現象だったのか不明ですが、ぼーっとしていました。さて、今日は、今までの分を取り戻そうと張り切っているわけではありませんが、パウロの回心の場面を取り上げました。本当は、使徒言行録9章1節から読まれる方が話がすっきりとわかるでしょう。ここでは、パウロはヘブライ的な意味で「回心」を経験しています。つまり私たちのように新しい教えを教義として受け入れたのではなく、「より正しい生き方に立ち返った」(レジス・ピュルネ)のです。それは、パウロにとって異端者であるイエスを弟子たちを通して迫害していたのですが、なんとそのイエスこそがユダヤ民族が待望していたメシア、キリストだったと理解したのです。パウロがこれからどんなにすばらしい宣教の働きをするかは、まだ誰も知りませんでした。そして、イエスのために大変な迫害と困難が待っていることも知る由もありませんでした。パウロは、アナニヤに按手して祈ってもらうと、「たちまち目からうろこのようなものが落ち」た、と書いてあります。その前に「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」とありますから、まるでイエスが十字架の後、死んで三日間墓にいたことを思い出させます。新約聖書の手紙で古い人に死ぬことと新しい人に生まれることをパウロは教えるようになりますが、パウロ自身がここで確かに新しく生まれたのです。ユダヤ人はキリストを待望していながら、ナザレのイエスがキリストであることを分からなかった。イエスは、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」(マタイ13:13)と語られましたが、パウロもイエスをキリストと理解できたのはダマスコへの途上でイエスと出会ったからであり、アナニヤの祈りで聖霊に満たされたことによるのです。まさに目からうろこが落ちる思いだったのでしょう。さて、あなたは古い思いにまだ死んでないということはありませんか。イエス・キリストを正しく理解していますか。目からうろこが落ちるような経験が必要だと思っているのなら、ぜひ、そのことをお祈りしましょう。柔軟にものごとを見ることができるようになりたいですし、なによりも主イエスが見える者になりたいですね。(佐久間) 

 

2月11日(水)

すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

使徒2:38-39

 

救いの仕組みがペトロによって説明された箇所です。悔い改め→イエス・キリストの名によって洗礼を受け→罪の赦し→賜物として聖霊を受ける。この順番が基本となります。今日、世界はグローバル化し、インターネットのおかげで情報が同時に伝わるようになり、どこも同じようなことが起こるようになりました。二千年前のイエス・キリスト時代とは大きく変化しました。しかし、人間は変わっていませんし、罪の結果が明瞭に世界をのみ尽くしています。それでも、キリストの初臨により救いの道は開かれ、それ自体は今も変わっていないのです。この救いの門が閉ざされるように悪魔は攻撃を続けてきました。勿論、イエス・キリストと万軍の天使はそれに対抗して聖徒を守り、あらゆる人間を救おうと奮戦しているのです。そこで、聖徒たちの働きが期待されています。聖徒たちとは、賜物として聖霊を受けて、信仰に生きている人たちのことです。この救いは、約束であなたに、そしてあなたの子供にも与えられています。神が招いてくださる者すべてに与えられるものなのです。神への感謝を忘れてはいけません。声に出して神様をほめたたえましょう。私たちの主こそ、栄光を受けるにふさわしいお方だからです。この救いにすべてをかけましょう。(佐久間)

 

2月12日(木)

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

Ⅰコリント1:21

 

最近の事件が日本人にも宗教とは何か考えさせるようになりました。現代の先進国である日本では、宗教がすたれたということはありませんが、宗教に無関心の人は増えています。社会の仕組みが変わってきたことも影響しています。家庭崩壊がアメリカに次いで日本でも起こると言われてその通りになりました。そのために一番犠牲となる子供の問題は多義にわたり増えています。子供時代に親から捨てられる子供たちが結構います。悲しいことに、愛を無条件に受けるはずの家族からの愛を受けられないことで子供がしかたなく非行に走るようになることもあるのです。子供が食べる物が無く、どこにも帰る家がないとしたらどうでしょう。このような悲劇は神の喪失と無関係とは思えません。神はいないと平気で言える社会は、愛じゃない事をしてもかまわないという社会なのです。人々が互いに愛し合って、安心して暮らせる世界を平和といいます。すべてはお金次第、お金をかせぐのに競争させ、貧富の差を認めるような社会は、人間を幸せにはしないのです。人間の欲望のままに勝手にさせていたら、権力や大きなお金を持った者が弱い者を阻害する危険がいつでも生じるようになります。愛していたら、絶対しないひどいことを平気でやれるようになるのです。今の社会では、「勝ち組か負け組か」と、聞こえてきます。日本でも多くの若者の給料が低くなってしまい結婚も将来の夢もあきらめている人たちが出てきたのです。どのような経済の仕組みを作っても、結局理想通りにはいきません。人間にとって幸せは、金持ちになったり、権力者になることではないと考える人たちも現れ、次の仕組みを考えています。しかし、人間自身に問題があって人間がいくら考えてもうまくいかないことの連続だったので、人間の力ではもう難しいのではと、今までの考え方ではだめだと苦慮しているのです。ではどうすればよいのでしょう。人間の根本問題は聖書に書かかれてある通りに「罪」なのです。「罪」とは、神の愛を裏切り、隣人の愛をも裏切ることです。その罪が人間の内にあることから、自分で自分を救うことができません。自分を絶対愛して、裏切らず、自分が失敗したり、たとえ裏切るほどのことをしたとしても、悔い改めに導き、罪を赦し、新しく生まれ変わらせてくださる愛の神が人間には必要なのです。勿論、甘やかせていいかげんに罪を何でも赦すというのではありません。神が罪の罰を引き受けるのです。つまり、神の独り子イエス・キリストを私たちの身代わりに罰したのです。それが十字架の意味です。そのことが本当に起こったので、私たちは赦されたのです。そこまでして救ってくださる理由は、神が私たちを愛しておられるからです。あなたが誰かを愛しているのなら、愛するための理由など必要ないですよね。人間にとって愛されることの意味は想像以上に大きいのです。このように、神は十字架によって人間を救うのです。そのことは、賢者や知恵ある者には愚かなことと映るでしょうが、十字架の意味を伝える宣教によって信じる者を救おうと神はお考えになったのです。(佐久間)

 

2月13日(金)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

コロサイ3:23-24

 

この聖句は、奴隷に対して書かれたものですが、私たちにも良い示唆を与えています。社会人として何かの仕事に就けば、必ず上司がいてそこに人間関係ができます。主婦でも地域の町内会や子供会、PTAやボランティアなど、社会に触れ、いろいろな人との関係があります。そこで、今日の御言葉をよく考え、そして守る人は、きっと信頼を勝ち取り、良い人間関係を築き、仕事ならば出世するかもしれません。たとえ、出世に結びつかなくても、「御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています」。そうであれば、どのような仕事でも最高の仕事をしようと思うでしょう。万が一どうしようもない上司や、いつも威張って怒る上司、あるいは無理難題を言っては困らせる人にでも、ただ嫌な感情をもってストレスを溜めることからは、解放されます。「主キリストに仕えている」と考えれば、まったく違った感情が生れるし、自ずと仕事にも誠意が現れてくるのです。それは、相手にも良い影響を与えますから、他の部下と同じような扱いにはならなくなります。これは、教師と学生でも、夫と妻でも、どのような人間関係でも、同じようにできます。人は相手を見るのです。値踏みするというか、相手次第で対応を変えるものです。誰の前でも堂々とできるのは、いつも主に仕えている自覚のある人の特徴です。あなたもクリスチャンとして御言葉を守り行えば、信頼の厚い魅力的な人として認識されるようになります。そのような人の人生は荒野に道を作るようです。その道をキリストは歩まれるようになるでしょう。主イエスに仕える幸いを味わいましょう。(佐久間)

 

2月14日(土)

イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

マタイ24:3

 

今、終末という言葉を思い出している人は少なくない。世界で次々に起こる事件は普通ではないと思わずにはいられないからだ。そして、今日の聖書箇所の弟子たちのように、イエスに世の終わりはいつか、ひそかに聞きたいものだ。今日の聖書箇所では、イエスは弟子の質問に答えて、重要な時の徴を示された。それは、「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」(マタイ24:4-8)どうだろう、確かに昨今のニュースそのままではないだろうか。これを時の徴として考えることは決しておかしなことではないだろう。神が決めたタイムスケジュールは確実に動いているのだ。だから、怠惰なクリスチャンでいるわけにはいかない。自分の役割を知り、それを果たさなければならないだろう。最後までイエス・キリストを信じぬくことを考えれば、イエスとの関係をより深いものとする必要がある。キリストの言葉は、このように結ばれていた、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(24:12-14)。再臨前には、患難が立ちはだかると預言されているが、耐えられない試練はないということも真実なのだから、いたずらに恐れたり心配することはない。信仰者には助けが備えられている。それよりも耐え忍ぶことのできる信仰や勝利する信仰の方がもっと大事なこととなる。今からでも遅くない、この世の誤った流れから離れて、イエスと共に歩む道へと歩みを確認しよう。自己中心的な人生の追及や、自分たちだけが平和で何不自由なく安逸をむさぼるような生活を追及していけば、必ず滅ぶと聖書に書かれているし、歴史上も実際に滅ぼされた人たちがいたのだ。今の世界の様子は、そのようになっているので、クリスチャンは目を覚ます必要がある。永遠の命か地獄で滅ぶのかどちらかが待っていることを知っているのだから。(サクマ)

 

2月15日(日)

「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

マタイ24:29-31

 

私の住んでいる所のそばに防災無線の鉄塔が立っています。何かあれば、そこから緊急放送が流れるわけです。先日も、枯れ草に火がついて火事になったので、消防団員はすぐに集まるように、とさかんに放送していました。ロサンゼルスに住んでいた時も毎年山火事が起こり、ニュースになります。そして、焦げ臭いにおいが風に乗って我が家にまで届くと、不安になったものです。もっと、不安になるのは、朝テレビを観ていると、突然画面が赤くなり不気味なアラームが鳴り響くのです。画面には緊急のテロ対策としてテスト放送していると出ています。このような事がしばしばありました。日本でも東日本大震災の後に、地震を知らせるアラームが携帯から流れるようになって、人が集まっている所では一斉にそれぞれの携帯が鳴りだしてとても怖くなります。何か恐ろしいことが起ころうとしている、という不安が世界中に満ちてきたようです。そして、もうすぐ聖書の残りの預言も次々に成就して、苦難の日々がはじまり、クリスチャンは信仰が試されることでしょう。それでも、互いに励まし合って、この厳粛な時を乗り越えて行きます。平和な日には考えられないような祈りがたくさんささげられます。万軍の天使は目には見えないでしょうが、完全武装でクリスチャンを守っているでしょう。そうやって、人類史上最悪の時を乗り越えると、今日のみ言葉の通りになります。ありがたいことに想像もつかない感動が最後に待っています。とうとう、イエス様を自分の目で見る日です。おびただしい天使が空中を飛び交い、眠りについていた聖徒たちが復活し、空中に引き上げられていきます。荘厳な光景です。そして、気がつくとあなたも天に昇っていることに気がつくでしょう。大滝のような天使の讃美の声に圧倒され、思わず大声で主を讃美しているでしょう。主の御姿は麗しく、王の王であることがはっきりわかります。その威光と尊厳は、聖徒たちを深く感動させます。救われるべき聖徒の数がそろうと、王なるキリストは聖徒たちを導き天の都へと移動します・・・・。これらのことがもう少しで起こるのですから、信仰に固く立って、天国へ帰りましょう。天の父が待っています。(さくま)

 

2月16日(月)

それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。

ルカ11:42

 

不思議な事に、無神論と公言する人だけでなく、宗教を持っている人でも神への愛をおろそかにしている人がいます。今日でてきたファリサイ派の人々もイエスご自身がそのように指摘しています。そもそも、ユダヤ人はバビロン捕囚の反省から、律法の遵守を徹底することにしたのですが、そのために律法を学ぶ施設としても機能していたシナゴグを作り、律法を徹底させるために専門家として律法学者をうみだしたのです。彼らは決して世俗化して、怠惰になったのではありませんでした。それどころか、律法の解釈から数多くの規則を作りだして、それを守っていたのです。では、ここでイエスはなぜ厳しくファリサイ派の人々を叱責しなければならなかったのでしょう。それは、自分たちが正しいと思ったことを自由にやっていたからです。それは、やがて神を愛する行為ではなく、自分たちの規則を守るかどうかが重要なことに変質していったからです。それは、現代でも同じです。無神論者が神がいないので何でも自由だと放縦に走って自滅してしまうのと同じように、神の律法は人間の全てを尽くして神を愛することであり、自分を愛するように隣人を愛することであったのに、ファリサイ派の人々はその愛することを見失ってしまいました。それは、神へ背を向けているのと同じことでした。だから、クリスチャンは教会生活を送る中で気を付けるべきです。主イエスの要求は、ファリサイ派以上であることだったので、聖書の中の律法を遵守することはどうでもいいことではありません。ただ、人間の力では守れないので、聖霊の力でやっていくのです。もちろん、神を愛し、隣人を愛することをです。そのために信仰が大切になります。どうでしょうか、自分の信仰を顧みて、「正義の実行と神への愛」は大丈夫でしょうか。正義を実行し神を愛して、それで批判されたり迫害されたのなら、それはしかたがありません。私たちの主も同じような目にあったのですから、むしろ喜ぶべきです。(佐久間)

 

2月17日(火)

ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

ルカ15:8-10

 

礼拝が始まる前に一人の姉妹が祈って欲しいと言ってきました。事情を聞くと、T姉妹が郵便局でお金をおろしてきたのに、家に帰ってみたらお金も通帳も無くなっていたというのです。いくら探しても見つからないと言うので、牧師にも祈って欲しいということでした。それで、その姉妹と家内と私の三人で、その場でお祈りしました。そして、その翌日にT姉妹から電話がありました。落としたと思ったお金がみつかりました、という喜ばしい知らせでした。その時、神様はいつでも誠実に祈りに応えてくださるといういつもの感謝の気持ちが湧き起ってきました。そして、T姉妹は同居しているご長男や娘さんにお金を紛失したことを正直に話したそうですが、だれもお母さんを責めなかったそうです。それどころか大変優しくされたのでありがたかったと話されました。私はすぐに、これはT姉妹の信仰の賜物だろうと思いました。信仰者が子供にどのような姿を見せてきたかということが、このような時にはっきり表れるのだと、思わされたのです。さて、今日の聖句は、神様から見た一人の罪人の価値を説いています。それはとても高価で貴いから貴重な金貨のようだと言っているのです。罪人とは、神様から見るとなくしもののようなものなのですね。だから、神様に背を向けて好き勝手に生きてきたとしても、その失われた者を神様の方から探してくださるというのです。それこそ、徹底的に探すのです。神様が探すのですから、見つかるまで探してくださいます。良く考えれば、神様は全能なので、どこに行ってしまったとしてもすぐに見つけることができるだろうと、思うのならそれはちょっと違っています。創世記3章に人間が初めて罪を犯す場面が描かれていますが、その結果彼らは神様が近づいて来ると木の間に隠れてしまったと書かれています。つまり、罪人とは神から隠れている人のことなのです。断絶しているのです。だから、探すのは大変なわけです。なにしろ、神の独り子イエス様が人となってこの世界に降りて来て捜し出さなければならないほどだったのです。それだけに、一人の罪人が悔い改めて救われる時に、天は大きな喜びに包まれるのです。あなたは、そうやって神様が一生懸命に捜し出してくださった貴重な尊い方なのです。そのことを決して忘れてはいけません。あなたが救われた時に天では大喜びする大歓声があがったはずです。ありがたいことですね。(さくま)

 

2月18日(水)

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

マタイ18:19

 

願い事がどうすればかなうのか知りたい人は、今日の聖句をよく読んで考えてみましょう。ポイントは一人で祈っていないということですね。二人が地上で心を一つにして求めるなら、かなえていただけるというのです。つまり、自分の独りよがりの祈りではなく、もう一人自分以外の人と一緒に祈る時に客観性が生れます。利己的な祈りはできなくなります。心を一つにするためには、自分以外にもその願いに同意する人が必要ということです。クリスチャンとしてその願いがおかしければ、決して心から同意することはできません。そうやって、独善的な願い事が修正されるわけです。しかし、二人が心を一つにして求めることができれば、願いがかなうということは大きな励みとなります。聖書をよく学んで、正しい考え方を学び、身につければ、願いは御心にかなったものとなって行きます。誤った願い事は、悪い結果に終わります。それを見とおせる主はその人のためにならない願い事はかなえられないのです。もちろん、一人で祈った祈りがかなわないという意味ではありません。「祈り」を意味するヘブル語の「ヒトパレル」が自らを裁き、点検することを意味する再帰動詞なのです。ですから、祈りとは自分自身を点検していることであり、時には自らを裁くことになるのです。詩編をよく読めば、そのことがわかります。信仰者個人は、神の支配の中に服して生きようとして、信仰によって生きるのです。だから、基本的には何が起こっても神の支配の中で起こっていると認めています。その中で、苦難のことを考え、試練に立ち向かい、時には悪人が立ちはだかることだってあるのですが、肉で対処せずに信仰だけで解決しようとします。そして、祈ることになるのです。この時には一人で祈っていますね。だから、祈りは人にとって必要なのです。神は全部わかるので祈りを必要とはしていないのですが、祈りをちゃんと聞き届けてくださるのです。ただ、神をいたずらに煩わせ、疲れさせるような祈りだけは避けたいものです。(佐久間)

 

2月19日(木)

いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。

コロサイ4:6

 

人の印象は、話した時にすぐに伝わります。見た目の印象よりもその人の語る言葉の方がより強い印象を与えるのです。そこで、あなたは人にどのように語っているでしょうか。あまり意識しないで、良く知らない人には黙っていて、逆に気心の知れた人には気を抜いて饒舌に話しているという人は多いかもしれません。先日、東京の聖書研究会の会場まで道を歩いていると前を行く二人のご婦人が気になりました。このご婦人方は驚くことに駅から会場までの約15分の道のりを途切れることなく話し続けていました。そして、帰り道にもどうゆうわけか私の前をさっきのご婦人方が歩いているのを発見しました。そして、駅までの間、途切れることなく話し続けていました。時折笑い合っていましたから、楽しい会話だったのだろうと思います。このような時に、クリスチャンだったらどのような言葉を語るのだろう、と考えると今日の聖句が頭をよぎります。塩で味付けされた快い言葉で語る。つまり、なんでもかんでも言いたいことを言ってよいというわけでないのです。たぶん、大切な人との会話や会社の上司などに語る時には気を使って言葉を選ぶでしょう。でも親しい間柄では、時には言葉で心を傷つけてしまうこともあるのです。よく考えずに思ったことをすぐ言ってしまう人は、一呼吸置くだけでも違ってきます。それに、料理も塩でおいしくなるのでしたら、おいしい言葉も必要ですね。感謝の気持ちを素直に伝えるとか、相手をちゃんと褒めるとか、少なくとも文句はできるだけ言わない方がいいですよね。楽しい会話も笑い合っていいものです。こちらが構えていると、会話はぎこちなくなりますから、ゆったりした大きな気持ちで誰とでも話したらいいですね。相手に好意を持っているオーラが出ていたら、相手もそれに応えてくれるものです。相手に好かれようとか、良く思われようと考えていると、会話はつまらないものになります。聖書に親しんでいれば、会話には独特の味付けがきいているはずです。味のある言葉を語れるように心がけましょう。(さくま)

 

2月20日(金)

わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と 

人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。

コヘレト3:12-13

 

秘密の県民ショーというテレビ番組があります。これが面白くて見るのですが、地方のご家庭の食事風景がよく出てきます。そこには、食卓を囲む大勢の家族がいつでも登場しています。比較的ひろい和室に10人前後のお年寄りから小さな子供まで、楽しそうな家族の姿を見ることができます。もっとも現代は核家族と言われるようになり、大都会では小家族となってしまいました。もちろん、一人で暮らしている人もたくさんいます。それでも、聖書で「人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ」とあり、そのすぐ後に、「人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ」と続きます。人間の幸福とはこのようなことだと書いてあるのです。幸福になることが、勝ち組になることとか成功者になること、あるいは地位や名声や富を得ること、などとは書いてありません。誰もが自分の仕事をして、時には苦労もあるでしょうがそれに満足をおぼえ、ちゃんと飲み食いできること、これだけで幸せを感じるわけです。これが毎日続くのであれば、それはやはり人間の幸福となるのですね。仕事でも家事でも勉強でも、頑張ればその報いはたいていすぐに現れます。それがやりがいになることもあります。大変な仕事ほどやり遂げた時の満足は大きいからです。仕事や家事、あるいは勉強でも怠けてサボっていては幸せとは感じないし、満足するはずもないのです。どのような生き方も人間は選択できますが、「喜び楽しんで一生を送ること」も選択できるのです。驚くことに、楽しんではいけないと思っている人もいます。あなたはどうですか。「そうしたいけど、世の中そんなにあまくはない」、そのような声が聞こえてきそうです。どんなに困難であっても、やり遂げる価値があるのなら、頑張ることです。ありがたいことに、主は「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)と教えられました。だから、一日一日で考えていけばよいのです。このように飲み食いしたり、その労苦によって満足することは、あたりまえと思っていたことかもしれませんが、実は神の賜物なのです。そう思うと、今までの堅実な生き方でよかったと、感謝できるのではないでしょうか。すくなくとも、主はあなたに「喜び楽しんで一生を送る」ことを教えておられるのです。(佐久間)

 

2月21日(土)

議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

ヨハネ12:42-43

 

神からの誉れと人間からの誉れの両方があるとしたら、はたしてどちらを選ぶでしょうか。困ったことに、神からの誉れを得るには、人間からの誉れを犠牲にしなければならいのです。ロサンゼルスにお住いの書道家の名人がその功績を認められて、日本政府から勲章を与えられるということがありましたが、なんとこの方はそれを断ってしまいました。そんなことが何回かあったのですが、みな断ってしまいました。この先生のお考えは、人間からの誉れよりも、神からの誉れの方を好んだということでしょう。この世の中にはなんとしても勲章が欲しいという方々の方が多いかもしれません。私は下さると言うのならいただいたらどうですか、と言うでしょう。勲章をいただいたから即堕落だとか、人間の誉れを優先しているとかいうようなことはないという考え方をしているからです。つまりどちらでもいいものでしかないのです。博士号をいただいた時はさすがに嬉しかったです。神学をあらわす赤いフードをかけていただいた時にちょっと皆に見せたいと思ったかもしれませんが、それも卒業式に参列する時ぐらいにつけるものでもうどこかにしまってずいぶん見ていません。その程度のことです。勿論、この先生の信仰態度は立派です。なかなかできることではないからです。さて、問題は神の誉れか人間の誉れか、と迫られた時です。神の誉れを選んだために、自分の地位を失うかもしれません。大きな不利益をこうむり、ひどいめにあうかもしれません。でも、イエス様と比べることのできるものなど、この世には無いのです。神様はいつでもちゃんと見ていてくださいます。最も難しい時に試みられたとしても、イエス様を公然と信じる信仰を表明しないならば、一生後悔することになるでしょう。イエス様を信じて、万が一不利益をこうむったとしても、それは一時のことです。ナチスが台頭し、ヒットラーが独裁者となった時も、そして非情な教会の迫害者になった時にも、恐れずにイエス様の側に立ち続けた人たちがいるのです。投獄されたり、獄死した人もでました。それは永遠につづくように思える恐怖の時でしたが、けっして長くは続きませんでした。この世の名誉では、天国へ行けないことを覚えていましょう。イエス様だけが天国への道なのです。(さくま)

 

2月22日(日)

イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。

ルカ9:1

 

私の母が脳告梗塞で倒れたと連絡があり、急いで母が運び込まれた病院へ行くと、院長先生が母は危険な状態であとどれぐらい持つか分からないから今の内に会わせたい人を呼びなさいと言われました。それで、病室に行ってみるとぐったりした母がベットに横たわり、口も利けない状態でいました。そこで、母に話しかけ、癒しの祈りをしたのです。すると、急に母が起き上ろうとするので驚くと、トイレに行くというのです。今にも死にそうな人が一人で起きてトイレに行くと言い出したのです。そして、本当に起き出してトイレに行きました。その後、再検査があり、また院長先生に呼ばれて行くと、さかんに首をひねって、CTを撮ったら、初めの脳梗塞が消えてしまったというのです。それで、母が元気になってしまい、入院する必要がないので退院して良い、という事になりました。ただ、CTではわからなかったかもしれないからMRIで検査するように言われました。その頃、MRIは大学病院ぐらいにしかなかったので何か月も順番待ちでした。するとありがたいことに知り合いの紹介で河口湖の日赤に最新のMRIが入り、そこへ検査入院することができました。そこでの検査結果を私が聞きに行くと、大学から派遣された医師は、脳梗塞ではなく脳腫瘍があると言い出したのです。その画像を見るとピンポン玉ぐらいの大きな影がはっきり見えるのです。それで、難しいところにあるが、良性か悪性か調べるためにとにかく手術をしなければならないというのです。またまた、大変です。そこで、病室の母のもとへ行き一緒に祈りました。この時も癒しの祈りをしました。そして、再度MRI検査をすると、きれいに腫瘍は消えていたのです。医師も驚いて、おかしいと首をひねり、何かの機械の不備があったかもしれないと言っていましたが、再検査でも脳腫瘍は消えていて、結局母は元気になったので、すぐに退院できました。お医者さんには申し訳ないことでしたが、イエス様がたちどころに癒してくださったのです。神様はありがたいことに、このような時に憐みをかけてくださり、母を助けてくださいました。ですから、私は癒しは今日でもあると信じています。聖書時代だけのことではないのです。もっと多くの癒しが現代にも必要だと思います。母はそれから20年ぐらい生きて、主の不思議なお導きで信仰告白をして救われ、静かに天に召されて行きました。主の御名はほむべきかな、ハレルヤ。(さくま)

 

2月23日(月)

親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。

箴言16:24

 

最近親切な言葉をかけられたことがあっただろうか。もしかすると無いかもしれない。では、反対にあなたは誰かに親切な言葉をかけただろうか。もし、すぐに思い出せないのなら、今日、誰かに親切な言葉を贈ろう。直接では恥ずかしと思う人は、メールでもかまわい。手紙ならなおよいかもしれない。どんなに科学が発達しても、人間は機械ではないので魂が疲れたり、渇いたりすることがあるものだ。こればかりは、甘い物を食べてもあまり効果がない。でも、親切な言葉には魔法の力があるのだ。正確には沈んでいた魂が立ち上がり、元気が満ちて来る感じだ。そればかりか、骨まで癒す。心身共に元気にする特効薬なのだ。しかも、副作用無しで安全なのだ。どうだろう、誰かに親切にして欲しいと願っているのなら、まず自分から親切にしてみよう。誰かが困っていたり、沈んでいたら、親切な言葉をかけるようにしよう。骨粗しょう症だと誰かに言われたら、その人のために特効薬を差し上げよう。そうだ、親切な言葉をかけるのだ。きっと、楽しくなるだろう。落ち込んでいた魂が、生き生きとしてよみがえるのを見ることができるからだ。主イエスは、いつでもどんな人にも親切な言葉を惜しまなかった。そして、目を閉じてイエス様と呼べば、きっとあなたにも親切な言葉が返ってくるだろう。今日は、この聖句を覚えて、会った人に親切な言葉を語ることにしよう。(サクマ)

 

2月24日(火)

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

ローマ12:15

 

いろいろな人がいます。イエス様と出会ってからは、そうした人たちの外面ではなく魂の声が気になるようになりました。クリスチャンはキリストに似た者という意味の通りにイエス様に似た者になろうとしているし、イエス様に近づこうとしています。愛することの尊さを知り、実践することを課題としているのです。だから、愛ではないことをしたり、言ったりして失敗すると結構落ち込みます。立派な人になろうとすれば、せいぜい偽善者が出来上がるだけなので、ただ正直に生きようとします。聖書を読んで、考えて、真理を知ろうとします。心にとまる聖句を見つけると、それを覚えようと何度も暗唱します。そのようにして、クリスチャンとして恥じないように生きようとしていても失敗することは何度もあります。自分の力の限界を思い知るようなことが繰り返され、主にゆだねることを教えられ、信仰で生きることを学びます。なにか壁を乗り越えるような経験へと導かれていることも事実です。そうゆう信仰経験から自分の次の課題が見えてきます。何べんもそのような過程を通り抜け、さぞ立派なクリスチャンに近づけたかといえば、どうもそうゆうことではなく、低い人間になっているようです。腰が低いというよりも、本当に低いとしか言いようがない者になっていて、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と言われたことが、以外と難しいことであったのに、人よりも低くなったので自然とできるようになっているのです。目の前の人に問題があれば、それが何かを知るようになります。その時に、信頼されて相談を受けたなら、偉そうにこうだああだと教えてあげられなくなります。誰かが喜んでいれば、手放しで一緒に喜ぶことができます。誰かが泣いていたら、共に泣くのです。しかたがありません。それしかできないのですから。でも、相手と自分ともう一人の泣き声が聞こえます。それは優しいイエス様のお声なのです。おかしいですよね。神様なら、泣くほどの問題も瞬時に解決してしまえばいいのに、イエス様は子供のように一緒に泣いてくださるのです。不思議なことですが、主がそうされることで癒されるのです。確かに、その人の問題はその人が解決しなければなりません。人のせいにして後悔しながら生きることになってはいけないので、苦しくても自分でどうするか決めるのです。本当にとほうにくれるほど自分の力ではもうできないとなれば、主は必ず助けてくださいます。主の救いは完璧ですから心配することは何もありません。何か楽しくなってきますね。(さくま)

 

2月25日(水)

五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

ルカ12:6-7

 

雀の値段がいかに安いかを示している言葉です。ところが、そんな雀ですら、神はお忘れでないというのです。ならば、あなたのことを神がお忘れになるわけがないのです。あなたの方がよっぽど価値があるに決まっています。それならば、なぜ明日のことを思い煩うのでしょう。何を恐れているのでしょう。神を過小評価していませんか。神はあなたの髪の毛の数ですら知っているのです。あなたは自分の髪の毛の数を知っていますか。数えられるでしょうか。自分の髪の毛の数を知っている人などいません。でも神は知っている。つまり、あなたより深くあなたのことを知っていて下さる神が、あなたの心配するようなことを考慮して、心配しなくてもすむようにちゃんと手当して下さることを信じているべきです。私たちの神は遠くからただ見ているだけのお方ではありません。天から降りてきてくださる愛の神なのです。私たちを救うために十字架についてくださったのに、一体誰がそのことを感謝しているのでしょう。ところで、雀は将来を心配しているでしょうか、明日のことで思い煩っているのでしょうか。お金を稼ぐこともしないし、畑をたがやすことすらしていないのに、どうしてそんなに楽しそうに木の枝にとまって歌っているのでしょう。とても自由に見えます。それにくらべ人間は誰もが不自由に見えます。やはり、「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」という御言葉のとおりです。それがわかったのなら、この世のものを恐れることはやめよましょう。地獄に投げ込む権威を持っている方こそ恐れるべきなのです。(佐久間)

 

2月26日(木)

自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

ローマ12:16-17

 

私たちは自分のしていることを他人からとやかく言われるのを好みません。一生懸命にやっていることを非難されたり、批判されると怒ってしまいます。それがたとえ、神様のためにやっていると思っていたことでも、自分が責められたように感じ怒るのです。それは自分の考えが一番であるとの自負があるからです。これはクリスチャンのやり方ではありません。クリスチャンは「悪に悪を報いることをせず」と戒めています。ですから、批判されたりすれば、頭をたれて「すいません」と言える人なのです。「すべての人が良いと思うことを図る」ということは、簡単ではありません。忍耐がいります。でも、そのようにしていると、だんだんイエス様のように変えられていくのです。今日の聖句は覚えておきましょう。きっと役に立ちます。(さくま)

 

2月27日(金)

わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え/あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と/主は言われる。

イザヤ43:10-12

 

クリスチャンは主の証人であることを理解しているでしょうか。なぜ、この世にイエス・キリストを信じる人がいるのでしょうか。それは、今日のみ言葉で明らかです。主は証人としてあなたを選んだのです。どうゆう基準なのかはわかりませんが、主の目にとまったわけです。そして、一番肝心なことは、「主を知り、信じ、理解する」と言われていることです。

すでにあなたがクリスチャンであれば、「信じ」までは達していますが、その次の「理解する」というところはどうでしょうか。あなたが経験した宗教上の体験は、すべて神理解となっているはずです。そのために、聖書が与えられ、主イエス・キリストが与えられたのです。そして、現代の私たちは聖霊をそそがれたのです。「理解する」ことはもっぱら聖霊によるのです。あなたには主の目にとまる美点があります。あなたがどのような生き方をしてきても、それでも選ばれているのなら、あなたが理解していない個性が眠っているかもしれません。あるいは、優れた個性を押しとどめて生かし切れていないかもしれません。自分のためにと考えると、遠慮や高慢がでてくるかもしれませんが、主のためにと思いを定めれば神の子としての姿が開花して出てくるでしょう。主のご品性が自分の内に形成されてくることを目標に、主の証人としての働きをそれぞれが使命と覚えましょう。主は、あなたをご自身の証人としてくださったのですから、もっと理解できるように働かれるはずです。(佐久間)

 

2月28日(土)

もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。

出エジプト記22:25-26

 

上着は、夜寝る時の夜具となりました。それを質にとったのに、日没には本人へ返せと神は言われます。この考え方から学ばなければなりません。学生時代に旧約学者の船水衛司先生のクラスでのことです。先生はこのような話をされたまし。戦時中に夫が出征し、残された若妻が質屋を訪れます。風呂敷から着物を出していくばくかのお金にかえるのです。生活が大変だったのです。質屋の主人は、その奥さんの事情を察してすぐにお金を貸しました。恥ずかしそうに帰ろうとするその女性に質屋の主人は声をかけます。「あの~、すいませんが、お預かりしたこの御召物は高価なものですから、当店では管理できません。大変申し訳ございませんが、奥様にお預かり願えないでしょうか」と店の主人は言いました。この相手を思った心遣いがこのお願いという言葉になったのですね。この若い奥さんはもちろん感謝して質草に持ってきた着物をまた持ち帰ることができました。船水先生は、これが聖書の律法だと教えてくださいました。なるほど、人間は何のために生きているのか、金のためならばここで質草はあずかっておしまいだったでしょう。しかし、クリスチャンはこう考えます、「人は神のためキリストのために生きる」と。そしてキリストは、「このもっとも小さな者にしたことは私にしたことなのだ」と諭しました。ですから、もうけることよりも時には大切なことがあることを忘れないのです。それはどんなことを基準に人は生きるのかということです。隣人を自分のように愛することです。神を愛し、隣人を愛すことをいつでも第一にしようと戒めて生きているのです。あなたもわたしもこのような者になりたいですね。(佐久間)