ディボーション3月

3月1日(日)

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

ヨハネ5:39

 

自分は何歳生きることができるのか知る事ができません。明日にも死ぬかもしれないのです。そこで、人間は大昔から死んだ後のことが知りたいと思ってきました。そして、死んだら天国へ行くか地獄へ落ちるということを知りました。もちろん、そのために生きている間は正しく生きなければなりません。その行いによって裁かれるからです。ところが、聖書を学ぶと人間の罪の問題が出てきます。これは想像をはるかに越える大問題です。なにしろ聖書には「正しい者はいない、一人もいない」(ローマ3:10)と書いてあるのですから、自分は正しいと言ってみても神の目にはそうは映っていないのです。そもそも罪の問題ということすら、正しく理解していません。聖書を学んで始めて罪というものを理解し始めるのです。まさか自分が罪人とは、と思わせることが書いてあるのです。それだけならば、全員絶望してしまいますが、実は、今日の聖句のようにイエス・キリストのことを証言しているのが聖書なのです。それは、罪の問題を解決することのできる唯一の救い主がイエス・キリストだからです。そればかりか、罪の問題の解決だけでなく、救われてから新しい人として天国にふさわしい者へと成長していくのですが、そのこともイエス・キリストにかかっているのです。つまり、キリスト抜きには天国へ行くことができないということです。それで、クリスチャンになっても聖書を学び、イエス・キリストを知る必要があるわけです。子供が大人になるまで長い月日が必要であるように、クリスチャンも新しく生まれてからイエスのようになるまでに長い時間を必要とするのです。聖書が手元にあることを感謝しましょう。ここにすべてが書いてあるからです。さあ、聖書をあちらこちら調べてイエスを証ししているか確かめてみましょう。きっと、すばらしい経験が待っていますよ。(佐久間)

 

3月2日(月)

イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。・・・すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。

ルカ24:15-16,31

 

せっかくクリスチャンになったのに、自分はまだイエス様と出会っていないのではないか、と

心を悩ませる人たちが結構います。聖書を見てみると、イエス様が十字架におかかりになり、墓に葬られて三日目に復活しました。そして、その後のことエマオへの途上で弟子たちが歩いているとそこへイエス様が追い付いてきて一緒に歩いた話が書かれています。面白いことに彼らは一緒に歩いているのが、復活されたイエス様であることがわからなかったのです。すでに出会っていたのに気がつかないということがあるのです。現代の私たちでも同じです。聖書を文字通りに信仰で受け入れることと目に見えなくともイエス様を信じること。このことが目を開くのですが、どうゆうわけかもっと特別な信仰体験や奇跡が必要だと思っている人も少なくないのです。確かに、神秘体験や聖霊による特別な体験もあるでしょうが、それよりも大切なことは、「義人は信仰によって生きる」ということです。その信仰をイエス様は与えてくださっているのですから、使うことです。義人はいつでも信仰を使っているのです。「イエス様、あなたは私と一緒に歩んでくださるのですね」と信仰の言葉を言ってみるのです。悪魔がいくら信じることのないように攻撃を仕掛けてきても、動ずることなく、聖書にこう書いてあると信仰をあらわしましょう。イエス様の十字架を仰ぐことがあなたを守り、信仰によって生きることを可能とするでしょう。何よりもクリスチャンはイエス様とすでに出会っていると信じることから始めるべきです。そのような信仰の過程で、きっと目が開け、イエス様は共にいてくださるとわかるでしょう。(さくま) 

 

3月3日(火)

主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

Ⅰテサロニケ5:10

 

主と共に生きることなど考えたこともなく、多くの人々は生きています。孤独になる事を恐れて、誰かと共にいたいと思うのですが、人は皆自分と同じような価値観を持って生きているわけではないし、個性がそれぞれにあるために一緒にいればぶつかりあうかもしれません。強い人は弱い人が理解できず、弱い人もまた強い人を理解できません。ですから、孤独は嫌だけれど他人と近すぎるのもストレスとなるのです。どのような人でも良い所があるのですが、それがいつでも外に出ているということはほとんどありません。よほど自分を好きになってくれる人でも現れないかぎり、良い所見つけてほめられることも無いのです。だから、生きるのは大変だと思ってしまうことが多いわけです。ところが、イエス・キリストの支配の中に入ると、まったく違ってきます。いつでも愛されていることがわかります。そこのことが自分の中に変化を起こすのです。それは隣人への気持ちが変わることで確かめることができます。批判的に人を見なくなります。問題を起こすような人でも、その心を見ようとします。そのような人には、他人から嫌われているような人でも、自分をさらけ出して弱さをも見せてくることがあるのです。人には伝わるのです。そして、大変な思いをすることも無く、その人の心の底にある問題を発見してすぐにイエスに祈っているでしょう。「主がその人を助け、問題を根本から解決してください」と。それは驚くほど効果がある祈りなのです。そして、主が祈りを聞いてくださって、問題を解決してくださることがしばしば起こるのです。そのようになれば、生きることは楽しくなってきます。まるで、イエスと二人三脚で走っているようです。ですから、主が一緒にいてくださるという確信が増していくのです。そのような心でいれば、良いことが向こうから近づいてくるようになります。ただし、これは肉の目でしか世界を見ていない人には難しいことなのです。イエスを見ることすら出来ないでしょう。努力や勉強、修養の生活、断食や長時間の祈り、こうしたことではいつまでも主を見ること、つまりイエスと共に生きるということはできないのです。聖霊が目に見えないけど、風のように力があり、何を動かすことができるので知る事ができるように、目で見ようとしなければいいのです。目で見えないお方を目でみようとしても見えるわけがないのです。だから、それを捨てしまうことです。義人は信仰によって生きる、と言いますが目で見て生きるとは言わないのです。信仰者はその単純なことで初めからつまづいている可能性があるのです。主が死なれたのはわたしたちのためです。そうやって、救ってくださったのだから、私たちも主のために肉の命を惜しんではいけません。主と共に生きることがクリスチャンの課題なのです。主はそう願ってくださっているのです。(佐久間)

 

3月4日(水)

そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。・・・恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。

歴代誌下20:17

 

クリスチャンがどうしても学ばなければならないことは、この世には戦いがあるということです。霊的戦いといえばいいでしょうか。実際には人間が関係してきますが、本当の敵はサタンです。勝てると思えば、慌てることはないのですが、自分の理解を超えて異常な人や恐れを感じる人が出て来ると、その恐れに負けてしまい戦う前から勝負が決まってしまいます。クリスチャンは、基本的に人と争うことはありません。それでも自分を守らなければならない状況が生じることはあります。たいていは、信仰の歩みと関係しています。つまり、サタンだけではなく神も関係しているということです。平和な時なら人を恐れてはならないと言われても大丈夫自分は恐れないと思えるのですが、実際に自分を困らせる人と嫌な体験をすると、その人を避けたいという思いが生じます。それどころか、時々、その人との嫌な出来事を思い出して苦しむことすらあります。でも、こうしたことがすべてサタンの仕業であったらどうでしょうか、信仰で勝利できるはずの相手に負けているではありませんか。サタンに勝利しないと、これからもささやき続けるでしょう。苦い記憶を思い出させたり、「信仰が弱いから勝てない」とか、「聖霊をまだ受けていないのでサタンに勝てない」とか、「自分の信仰はまだまだ弱い」とか、「自分はダメだ」「あの人にまたひどい目に遭うにちがいない」とか、あらゆる否定的な言葉を浴びせてくるのです。イエス様はそのような悪魔の攻撃に、御言葉をもって対処したのです。つまり、こうゆうことです、悪魔の言葉を信じるのか、それとも神の言葉を信じるのか、ということです。自分の力などを根拠にしてはいけません。そんなことをすれば、いつまでたっても「まだまだ信仰が弱いから」と言い続けることになります。私が罪の償いに十字架で死んだので罪を赦されたのではありません。イエス・キリストが十字架であなたのために死んでくださったから、罪が赦されて救われたのです。ならば、今だって同じです。神の言葉を信じるから力があるのです。悪魔がささやいて来るたびに、信仰をなえさせていれば、自分が思っている通りにひどい目に遭うかもしれません。しかし、主に祈り、聖書のみ言葉のみを信じたなら、サタンはすでに敗れているのです。「そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ」と御言葉は語ります。気が楽になりますね。誰がなんといおうとイエス・キリストを信じて「堅く立つ」と信仰を表明しましょう。「恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる」とイエス・キリストは言われるのです。(佐久間)

 

3月5日(木)

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

Ⅰコリント15:10

 

今日は、使徒パウロの言葉から考えてみましょう。冒頭の神の恵みはクリスチャンが一番よく知っていることです。その恵みが信じられないならば、救いの確証は危ういのです。つまり、福音というのは神様がどれほどの恵みを施してくださっているのかを示しています。神様の救いの約束と言ってもよいものです。そのために、それがわかって信じられた時に感謝が出て来るというわけです。しかし、実際には多くの人から「なぜ感謝しなければならないのですか」という言葉を何回も聞いてきました。そして、感謝するようなことがないと感謝を忘れてしまう人も少なくないのです。これは福音の意味がやはりよく分かっていないからだと思います。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23-24)、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」(ヨハネ10:9)、「あなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主があなたを愛されたからにほかならない。」(申命記23:5)、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロサイ1:13)。どうでしょう、少しの引用でもいかに神様が恵みを与えておられるかわかるでしょう。問題は、その恵みを受ける方法です。それこそ、神様のお約束なのですから、すでに与えられたと信じることです。その信仰は、「感謝します」という言葉で表すのです。もし、あなたがいつでも「感謝します」と言う人だと他の人から思われたなら、あなたの人生はすでにキリストの支配の中にあり、呪いは祝福と変わり、恵みのみで義とされています。あなたは感謝の中で、恵みを十分に享受しているようになるでしょう。振り返れば神様のために働いてきたと驚くのですが、実感としては「感謝します」と神様の恵みを日々受けたてきただけだと思えるはずです。私たちの口癖は「神様、感謝します」でありたいですね。(さくま)

 

3月6日(金)

ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

使徒言行録5:29-32

 

これは、大祭司に尋問された時の使徒たちの答です。命がけの答です。イスラエルの最高の権力に対してキリスト者として対抗して証言している場面です。社会的な地位では国家の最高権力者と地方のただの漁師です。普通なら話にもならない対決ですが、状況は圧倒的にペトロたちの方が勝っているのです。イエスを殺した張本人に、「あなたたちが殺したイエスこそがキリストである、救い主であることは復活したことであきらかだ。私たちはその証人なのだ」と、恐れることなく語ったのです。終末には同じような事が起こると言われています。はたして、その時にこの使徒たちのように大胆になれるのでしょうか。それは、最後の「神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」という御言葉が鍵となるでしょう。人がこの世の迫害者に恐れることなくイエス・キリストへの信仰を告白できるのは聖霊の力によるのです。だから、何をそのような時に語ろうかと心配することはないし、一人ではないので、聖霊が共にいらっしゃるのですから、恐れることはないのです。そして、今すでに私たちはキリストの証人なのです。信仰生活はキリストと共にあることのリアリティなのです。キリストと共にあることを信じている人と、何も考えていない人では差が生じます。初代教会のキリスト者と現代のキリスト者の間に違いはないはずです。イエス・キリストを慕い、従うことを願い、喜び、楽しみ、愛することがキリスト者であるはずです。この世の労苦もキリストにあって勝利できます。主に召されて従ったあなたも、この使徒たちと一緒に主の側に立っていることを覚えましょう。(佐久間)

 

3月7日(土)

イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

マタイ20:32-34

 

文字通りのハンディキャップのある人は、それを自覚してイエスに憐みを乞い、周りの人々が黙らせようとしてもますます大きな声で叫びました。でも、霊的な目が見えない人は、見えていると思っていたのでイエスに憐みを乞うことはありませんでした。イエスはそのような宗教家を見て、盲人が盲人を手引きしていると嘆息されました。行く先に穴があれば、共に落ちるというのです。なぜ、私たちは見えないと言わずに見えると思ってしまうのでしょうか。見えると思っている人と見えないと思っている人の元へイエスがおいでになられたら、憐みを乞うのは、見えないと思っている人の方でしょう。そこで、罪の自覚ということがポイントになってきます。罪とは犯罪のことではありません。より良い人になれるのにならないことです。良い親、良い子、良い教師、良い夫、良い妻、良いサラリーマン、良い経営者、・・・学生なら、勉強に励み両親に親孝行を忘れず、教師を尊敬し、何でもまじめに努力することができるのにしないこと。自分はイエスの前で恥じることの無い者だろうか、自問自答してみることです。愛でないことをすればそれは罪です。愛するために生まれてきたからです。そのように、罪を理解できると自分の姿は今までとは違ってみえるのです。その時に本当は何も見えていなかったと思えれば、「主よ憐れんでください」と素直に言えるでしょう。人間にとって、後悔は苦しみでしかありませんが、イエスはその後悔する人間を憐み、罪を赦すことができる唯一の救い主なのです。主はいつでもあなたを愛し、あなたを憐れむことができるのです。罪から解放されることは新しく生まれ変わり、幸福に生きることになるのです。(佐久間) 

 

3月8日(日)

人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ6:8

 

神を信じる人の生き方はとてもシンプルな原則によります。それは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」です。このことを忘れないで生きることができれば、ぶれることなく道であるキリストを歩めます。人生は複雑に見えますが、それは人間が複雑に考えるからです。神の道は明快なのです。初代教会の信者は、「この道」の者と言われていました。イエス・キリストだけの一本道です。余計なことを考える必要はありません。聖書を読む事でも人間は複雑にして難しくしてしまいます。でも、聖書にはイエスの教えとして、真理の御霊が来れば御言葉の解き明かしをしてくださることが書かれています。この世での生き方や考え方は捨て去り、単純にイエス・キリストを信じればいいのです。そうすれば、難しいと思える御言葉も聖霊の解き明かしがあります。もし、信仰がまだ弱ければ、少し時をかけて待つことも必要ですが、ちょうど良い時に真理は明瞭に理解できるようになります。主が求めておられるクリスチャンの生き方がわかれば、祈ってこの御言葉のように生きることが可能となるように求めます。聖霊の助けがあって、あなたは変わるでしょう。聖霊を受けて変わったペンテコステ以降の使徒たちのように、すばらしい歩みができますように。(佐久間)

 

3月9日(月)

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

エフェソ4:32

 

「神はいない」と言う人たちがこの世に満ちています。だから、神様を信じる人は肩身のせまい思いをしなければならいということはありません。神様はなぜ黙っておられるのでしょう。そう思う事だってあるでしょうが、聖書にだって同じような事が書かれています。本当ならば人間は互いに愛し合って生きるように創造されたのです。それなのに愛するどころか憎むことも、嘘をつくことも、傷つけることも、そして殺すことすらするようになりました。愛とは反対のことをかたっぱしから行っているようです。とにかく、十戒(出エジプト記20章参照)を全部破るのです。もし神が生きていると言えば、それは恐ろしいことになります。でも、神がいないと言えば、十戒の全部を破ろうが恐れる事はありません。好きな事をすればいいことになります。ところが、それで幸せになれないのです。誰もが自分勝手に生き始めると、とたんに困ることがどんどん起こります。それで、神様を信じないと言っている人が偶像を頼り信仰したりするのは、まったくあきれる話です。しかし、神様を知らないという人にも憐みをかけなければいけません。だって、彼らは神様を本当に知らないのですから。だから、知っている人が教えなければなりません。やっかいなのは、そうした神様を知らない人がしたひどい事を赦してあげなければならないのです。それはクリスチャンでもとても難しい場合があります。自分が深く傷ついていれば当然赦すことが難しくなります。しかも、相手がまったく自分は悪くないと思っている場合は、特に赦すことが苦痛に感じるでしょう。しかし、考えてみてください。あなたの罪を赦すためにイエス様は、十字架にかかるほどの苦しみを経験したのです。それが、イエス様があなたを赦したということです。あなたがまだ悔い改めて謝罪していない時に、そう、「神なんかいないよ、神を信じる奴は馬鹿だ」と思っていた時に、イエス様はすでにあなたを愛していたので、黙って十字架であなたの罪のすべてを引き受けて、あなたの罰を受けてくださったのです。だから、こんどはイエス様の御足の跡をたどるあなたが、あの人のために赦すのです。一人では難しいでしょうから、イエス様に一緒に赦してくださるようにお願いするのです。へりくだり、弱くならなければ、決して無理かもしれません。イエス様は、「おのれをむなしうして僕のかたちをとり」(ピリピ2:7)と、おっしゃいました。クリスチャンのスタート地点はここにありますね。勇気が天より与えられますように。そして、ゆるすことが愛することとなりますように。そうそう、どうしても赦せないという時は、そっとイエス様に相談してみましょう。きっといいことがあります。(さくま)

 

3月10日(火)

しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

コロサイ1:22

 

キリスト教には「自己義認」という言葉があります。良い意味の言葉ではありません。イエス・キリストに出会って救われる前の人間の普通の状態を言っています。それは、平たく言えば、「私は正しい」という思いのことです。この思いがあるかぎり、対の言葉が一緒にでてきてしまいます。「私は正しい」、「あの人が間違っている」と言う具合にです。この状態を自己義認と言うわけです。これが克服されなければ、いつまでも人間関係で悩まされてしまいます。だからといって自分の力でどうにかなるようなものではありません。自然と自分の内側から湧き出てくる思いなのですから。それで、イエス様に助けていただかなければならくなります。イエス様が私たちの救いを成し遂げられたと聞いていますよね。十字架で罪の贖いとなって死んでくださったことですが、それでおわりではありません。罪が神様との断絶を生んでいたのですが、その罪が解決したら神様との和解が成立することになります。それは、神様とお会いできるということです。そのためには聖なる者となることが必要なので、それもイエス様がなんとかしてくださるのです。その方法が、「自己義認」を消し去ることだったのです。「自分が正しい」と言い張る気持ちが消えてしまうのです。そうなれば、「あの人が間違っている。私は正しいのに、赦せない」というような感情に苦しめられることから解放されます。どうすればそうなるのかと言えば、イエス様の御前に立つことです。よく「古い自分に死ななければならない」と言われたと思いますが、イエス様の御前に出て行けば、主の憐みの光の中で「自己義認」が消えてしまうことを指しています。努力して自己義認を克服するのではなく(できませんが)イエス様を信頼してゆだねるという信仰の中でできることなのです。そして、その時に罪の自覚ができるので、こんな自分のためにイエス様は十字架におかかりになられたという真実が心に迫ってくるのです。その心から素直に溢れ出る感謝がクリスチャンの生命となっているのです。(さくま) 

 

3月11日(水)

主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。

申命記31:8

 

聖書に励まされることはありますが、なぜこのような御言葉があるのでしょうか。やはり、クリスチャンの人生は天国への旅路ということなのでしょうか。さまざまな苦労があって、ようやくゴール直前になっても、「恐れてはならない」と、まだ言われるのです。肝心な点は、人生には戦いがあるということです。節目、節目に挑戦者は現れます。もし、自分の信仰が成長しているのなら、今度は今まで以上に強い敵でしょう。だから、恐れるのはしかたがないように見えるのですが、主のご命令は「恐れてはならない。おののいてはならない」と、単純明快です。何かスポーツをしたり、真剣勝負をしたことのある人ならわかると思いますが、技術や技能も当然勝っているべきですが、何よりも大きい勝利の要素は、精神的な強さです。勝負は、戦う前から始まっています。中学の時に他校にライバルがいました。新人戦で初出場した時に決勝で戦った相手です。それから毎回、決勝で戦う相手でした。初めは実力の差があり勝てませんでした。それがだんだん追いつき、いよいよ次の大会では勝てると思えるとこまできたのです。それは団体戦でした。一試合目でチームメイトが奇跡的に勝利してしまいました。それで、コーチは急に作戦を変えたのです。いつも対戦しているライバルではなく、ナンバー2の相手に私たちをぶつければ優勝できると思ったのです。この時に、コーチの心にはすでに否定的な思いが入ってきていました。いわゆる逃げたということです。それは当然選手にも伝染しました。ライバルに決勝で勝つことのために頑張って練習してきたのに、ここで相手を恐れて格下と戦うほうが有利だと思った時に、もう負けてしまっていたのです。スポーツだけではなく、仕事でも、どんな人間関係でも、初めに恐れたら、もう負けていることを聖書は教えています。スポーツでも、必ず苦しい場面はやってきます。その時には精神力が強いか弱いかで局面が大きく変わるのです。信仰も同じことで、困難が押し寄せて来る時に、今日のみ言葉を思い出してください。戦う前に勝敗は決するのです。クリスチャンの精神の強さは、主が共にいて戦ってくださることを信じている強さです。御言葉は信じた通りになる不思議な力なのですから、負けない秘訣を信仰で身につけましょう。(さくま)

 

 3月12日(木)

しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

ヨハネ4:14

 

時々、地方の名水に出会うことがあります。山から湧き出た清水を求めて大勢の人が集まるので、綺麗な水飲み場が出来ているところもあります。ポリタンクをいくつも車に積んで水汲みに来るのです。その光景を眺めながら順番を待っていると、地元のおばあさんといつしか親しくなり、どんな生活をしているのかまで教えていただくこともあります。たくさんのポリタンクに水をつめると重そうに運ぶので手伝って車に積んであげます。そのおばあさんがにっこり笑って車で帰って行きます。こんな水汲みを何年も続けているのです。今日の聖句は、サマリアの井戸のそばでサマリアの女にイエスが語りかけた言葉です。イエスが与えることのできる水、それは「生きた水」です。水なしには人は生きていけません。働けばのどが渇く、そして何もしなくても乾きを覚えるのです。肉体の乾きは水を汲みに来たら飲んでいやせますが、では心の乾きはどうでしょう。どんな水が心の乾きをいやすというのでしょう。それは、もちろんイエスの与える「生きた水」です。イエスに求めれば与えていただけるというのです。その水は、ヨハネ7:37からのイエスの言葉から明らかに聖霊のことであることがわかります。ちなみに、サマリアの女は評判の良くない女で、ユダヤ人からみたら見下された汚れた女ということになります。つまり、イエスは人間が普通考えるような立派な人だけに聖霊を授けるというお考えではなかったのです。乾いた者にこそ与えようとされていたのです。失敗や失望で人生に傷つき、落ちこぼれのように思っている人だって、イエスは探し出し救いの御手を述べてくださるのです。その救いは圧倒的で、人は生まれ変わって人生をやり直せるようになります。逆に立派に生きなければといった自分の考えにこだわる人は、それがあだとなって生きた水を飲もうとしない傾向があるのです。でも、多くを失った人や人として自慢できるものの無い人は、主の憐れみに素直に応じることができるものです。不思議ですね。イエスは正しい人を探しているのでなく、罪人を探して助けようとしているのですから。ありがたいと言うべきでしょうね。それでは、「生きた水」を私にも飲ませてくださいと主に願ってみましょう。(佐久間)

 

3月13日(金)

神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。

使徒言行録19:11-12

 

聖霊のバプテスマを受けて2年目のことでした。その頃は、教会に青年も多く集まるようになり、いろいろな人が訪ねてきました。その中に、外国在住の女性が訪ねてきました。この方はユングフラウの山の上で神様に呼ばれて淋しい所へ導かれ、そこで聖霊のバプテスマを受けた人です。この方のいとこが悪霊憑きであったために、このご婦人は悪霊を追い出したのですが、その後の経過が良くなくて、帰国する時に空港から電話でこのいとこの家族がおかしいので助けてやってほしいと言われました。そして、土曜日の午後、教会にその家族がやって来ました。以前に教会に来た時とはまったく違った印象を受けました。それで、いとこの女性がハンカチを取り出して、これは癒しの祈りをしたものだから、病人にあてれば癒されると言い出したのです。そうです、今日の聖書箇所のようなことを言い出したのです。それで、話していても様子がおかしいので、明らかに悪霊憑きだと思いました。それで、教会員に危害が及ばないように、礼拝堂に彼らを連れて行きました。そこで、悪霊と対決しようとしたのです。この頃はまだ、悪霊のこともよく分かっていませんでした。ですから、悪魔が嘘をつくことを実感として理解していなかったのです。それで、まんまと騙されてしまいました。その手口が中世から続く悪魔の常套手段であるということは、後で神様に教えていただきました。聖書が真理の一部しか書いていないと言うものです。しかし、その人の内縁の夫が神様が自分に降り真理の全てを教えてくれたので、聖書で話しても無駄だ、というものです。実は、聖書は神の武具の霊の剣なのです。それで、唯一の攻撃の武器である聖書を封じるための嘘だったのです。イエスも荒野の試みの時に悪魔にすべて聖書のみ言葉のみで完勝しました。それがお手本です。だから、相手が聖書はやくにたたないと言っても嘘なので気にせず、御言葉だけで応酬していけば勝てるのです。もっとも、その前に主イエス・キリストの御名で追い出してやればいいのですが、時にこのような戦いの場面に遭遇したなら、慌てずに冷静になって、御言葉の剣が使えるように心の内で祈るのです。自分の言葉や、感情的な議論では、敗北します。また、主のお導きがないのに勝手に悪霊と戦ったりすればひどい目に遭う危険があることもあるので注意しましょう。ただ、この世では想像以上に悪霊が暴れていることも事実です。そのことに気がついている人はほとんどいません。本物のクリスチャンが目覚める必要があります。初代教会のようなダイナミックな神の勝利を現代でも見ることができるように、クリスチャンは聖書に向かって書いてあることと、自分が教えられてきたことや信じていることが一致しているか調べてみましょう。その時に祈って聖霊の助けを得ることが肝心です。悪魔はこれから奇跡をどんどん起こしていくでしょう。それに騙される人たちがたくさん現れます。聖霊に満たされたクリスチャンがますます必要になります。(佐久間)

 

3月14日(土)

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

ヤコブ5:13-14

 

クリスチャンの生活はとてもシンプルなものです。今日のみ言葉はそのことを教えています。信仰をもって祈ることが大切です。苦しめば祈り、喜べば讃美する。病気の人は牧師を呼び、油を注いで癒しの祈りをささげてもらう。聖書時代の長老とは現代の牧師のことです。そこで、病気の人から油を塗って祈って欲しいと頼まれれば、牧師はオリーブ油を持って出かけます。アメリカで、信者さんが助かりそうもない友人を見舞い、今日の聖句を思い出したのです。それで、油を注いで癒しの祈りをしようということになり、スーパーに油を買いに行き、知識がなかったのでサラダ油を買ってきました。それを病人にどれぐらい注げばいいのか分からずに、多い方がいいだろうと一本全部頭に注いだのです。それで、癒されると信じて祈りました。すると奇跡的に癒されたという証しを聞いたことがあります。この場合は、信仰によって癒されたのですね。私もオリーブ油を塗って祈ったことは何度もあります。ただ、頼まれた時だけそうしてきました。この祈りは、実は罪の赦しの特別な機会でもあるのです。付き添っている家族をも遠ざけて、死を迎えようとしている人が人生最後の罪を告白して主より赦しを得る大切な時なのです。ですから、ただの癒しの祈りとは意味が違っていると思います。それで、牧師が呼ばれて行くのです。このように、人生には主の憐みが最後まで備えられているのです。天国への門がこうして開かれるのです。(佐久間)

 

3月15日(日)

イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

ルカ9:28

 

クリスチャンといえども日々の生活でストレスを覚えることは当然あります。時には、傷つくこともあるし、頭にくることだってあります。それがいけないということはありません。クリスチャンだから、いつでもいい人でなければと怒りも飲み込んでばかりいれば、おかしくなります。一人で思い煩えばいいことはありません。危険なぐらいです。そこで、このようなことを上手に乗り切る方法を聖書に見てみましょう。イエス様はいつでも私たちの模範ですから、知恵が隠されているはずです。今日の聖句をご覧ください。イエス様は祈る必要がありました。そうです、イエス様でも祈られたのですから私たちならもっと祈る必要があります。さらにイエス様は、神様にできるだけ近づいて祈る必要がありました。そうです、山に登られたのはそうゆう意味もあってのことです。さて、今日注目したいのは、イエス様は一人で祈るために山に登ったわけではなかったということです。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子を伴って山に登ったのです。この三人はイエス様が特に大切な時、辛い時、苦しい時などに御側に呼び寄せた人たちです。12使徒の全員を呼ばなかったのです。つまり、イエス様に倣うのであれば、クリスチャンは何でも安心して相談し、自分のために心から祈ってもらえる人を二人か三人持つことが大切です。自分は一人でも大丈夫と思わずに、やはり信仰の友を持つことが大切なのです。何かあった時に共感してもらう人がいるだけで、心の健康は守られるものです。自分のために誰かが祈っていてくれるということは、ありがたいことですよね。そのような信仰の友を持つことは心の満足を与えることになります。(さくま)

 

3月16日(月)

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

コロサイ3:3

 

キリスト教の一番不思議なことは、聖書のみ言葉を信じたらその通りになるということです。今日のみ言葉もその通りなのです。一度死んだ人が死んだことが分からずにこの世をさまよっていたら、おかしなことです。聖書は、イエス・キリストを信じて救われた人はすでに死んでいると言っているのです。死んでいるといわれる理由があります。生まれたままの人は罪人と呼ばれ、いろいろな欲望に悩まされて生きています。「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」(3:5)と、書いてありますからクリスチャンになった後も死んだことを認めないと欲望を満たそうとして偶像礼拝に陥ることだってあるのです。神様は誰でも救われるように単純な方法を与えてくださったのですが、それが信じる信仰で生きることだったのです。義人は信仰で生きるのです。つまり、信じ続けることです。なぜ、イエス様を目の前に置くと言っているかと言えば、そうすることが信じ続けることを容易くしているからです。死んだ者はこの世のことで煩わされることはありません。だから、私はすでに死んでいると信じていれば、楽になるはずです。(さくま)

 

3月17日(火)

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。

Ⅰペトロ3:9-11

 

聖書で理解しにくい話の一つが祝福です。創世記にアブラハムが神に祝福されることが書かれています。その祝福を息子のイサクが受け継ぎました。そして、さらにイサクの子のヤコブが祝福を受け継ぎました。目には見えない祝福ですが、確かに受け継ぎました。それは、彼らがすべての面で恵みにあふれたからです。ヤコブにいたっては父を騙して祝福を受けましたがそれは有効でした。とにかく、ヤコブが家畜を飼えば子供がどんどん生まれてたちまちひと財産ができました。しかし、最大の祝福は主と共にあることでした。この世の財産はいくら貯めても死の向こう側へは持っていけません。しかし、主と共にあるという事実は永遠のことなのです。さて、族長物語に出て来る祝福の継承が新約聖書でまた出てきたのがこの箇所です。なんと、イエス・キリストの救いは祝福を受け継ぐことを意味していたのです。それ故に、生き方はなんでもいいというわけにはいきません。祝福を受け継ぐにふさわしい人になることが大切なのです。悪に悪を報いるためには悪を受けなければなりませんし、侮辱する為には侮辱を受け継ぐ必要が生じるのです。だから、同じ原理で、祝福を祈ることに徹すれば、当然祝福を受け継ぐことになります。どちらがいいか、良く考えてみましょう。祝福を受け継いだ人の生き方が後半に書かれていました。これは意識して守る必要があります。油断していたらすぐに破ることになるでしょう。ですから、この聖句を覚えてしまいましょう。そして、習慣としてしまうのです。なにしろ、あなたは祝福を受け継ぐ人なのですから。(佐久間)

 

3月18日(水)

主に従う人に向かって/主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが主は彼を笑われる。彼に定めの日が来るのを見ておられるから。主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り/貧しい人、乏しい人を倒そうとし/まっすぐに歩む人を屠ろうとするがその剣はかえって自分の胸を貫き/弓は折れるであろう。

詩編37:12-15

 

不思議なことはいくらでもあります。神がいるとしなければ説明がつかないことが実に多いのです。そして、これもまた真実なのですが、クリスチャンはとても恵まれています。クリスチャンとは、主に従う人のことです。どこかの教会の名簿に名前があるだけではいけません。主に従順であるという人のことです。この詩編でも明らかですが、クリスチャンに向かって敵が悪だくみをする場合があります。「主に逆らう者」とはサタンのことです。もちろん、そのサタンに操られている悪人も含みますが、純粋に神に逆らえるほど偉大ではありません。サタンにそそのかされて罪を犯すだけです。真のクリスチャンは聖書の御言葉を自分の都合に合わせて読むような人ではありません。文字通りに真理の御霊によって神の御言葉を知る人であり、信じる人です。そのクリスチャンにサタンは、たくらみ、牙をむきますが、「主は彼を笑われる」のです。父なる神は、最後の日、主の日、そうです再臨の日を知っています。それは裁きの日なのです。そして千年の期間が過ぎると、悪魔に待っているのは「火と硫黄の池に投げ込まれた。・・・そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる」(黙示20:10)ことだけです。神はそのことを知っているので、悪魔の愚かさを笑っておられるのです。クリスチャンは、サタンの攻撃を恐れてはいけません。信仰によって勝利することが決まっているからです。悪魔の攻撃は聖徒には届かず、逆に悪魔の元へと向かってくるのです。弓も無力で折れてしまいます。ですから、誰か悪意を向ける者が立ちはだかっても恐れてはいけません。主を信頼して祈りなさい。そして、今日の聖書箇所を声を出して読んでサタンにも聞かせるのです。あなたが、この御言葉を信じるなら、その通りになります。そうやって、敵に打ち勝つのです。神の御力は絶大なのです。あなたが主に従順であるのなら、あなたは必ず守られます。そうれが分かっているのなら、勝利宣言をして主を大いにほめたたえましょう。奇跡は起こります。

(佐久間)

 

3月19日(木)

またエリシャは、「矢を持って来なさい」と言った。王が持って来ると、エリシャはイスラエルの王に、「地面を射なさい」と言った。王は三度地を射てやめた。神の人は怒って王に言った。「五度、六度と射るべきであった。そうすればあなたはアラムを撃って、滅ぼし尽くしたであろう。だが今となっては、三度しかアラムを撃ち破ることができない。」

列王記下13:18-19

 

この物語は考えさせられるお話しです。詳しく知りたい人は14節から読んでください。エリシャは大預言者エリヤの弟子です。「神の人」とあるのはエリシャのことです。エリシャはイスラエルの王ヨアシュに弓と矢を使って預言します。預言と言ってもいろいろな方法があるのです。さて、あなたなら預言者エリシャが「地面を射なさい」と言ったなら、果たして何回地を射たでしょうか。エリシャはあとから敵であるアラムを王が矢を射た数だけ打ち破れると教えました。しかし、はじめは何も教えずにただ「地面を射なさい」と言っただけでした。もし、はじめに意味を教えていたなら王はもっとたくさん射たでしょう。そこで、あなたなら、同じ状況で何回射たか考えていただきたいのです。実は、人生で幸運と呼べるようなチャンスが訪れることがあります。その時にチャンスをつかむ人と逃す人がいます。あなたはどちらでしょうか。この場合は、王は矢を一回目に射た時に意味が分からずに、エリシャの顔を見たかもしれません。エリシャはやめよとは言わないので、二回目の矢を射ました。そして、またエリシャはやめよとは言わなかったでしょう。そこで、三回目の矢を射ました。この時も当然、エリシャは黙っていたのでしょう。しかし、王はどうすればよいのかわからずに、矢を射ることをやめたのです。この王の気持ちが分かる人は、王と同じように考え、王のように三回以下でやめてしまうでしょう。しかし、世の中にはエリシャがやめるように命ずるまで矢を射続ける人もいるのです。この王の結果は、エリシャの預言通りに後にアラムを三度破ります(25節)。ですから、神様との間で重要なことは何かと問えば、従順であるということです。従順であれば、やめろと言うまで矢を射続けるのです。その結果は大きく後に現れてきます。チャンスを生かす人は従順な人です。主に対して絶対的服従が出来る人なのです。なぜなら、神様が将来何をなさるのかは人間にはわからないのですが、主を信頼して理解できなくても、たとえそれが単純なことであっても忠実に従う者が報いを得るわけです。やがてあなたにも矢を射るチャンスが来るでしょうが、その時今日のみ言葉を思い出せるといいですね。(さくま)

 

3月20日(金)

主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。

詩編145:14

 

人生うまくいっている時はよいのですが、何もかもうまくいかずに行き詰まる時があるものです。そんな時に、いろいろなことを学びます。まず、自分には力がないと思い知らされます。時には自業自得と自分を責めはじめることもあります。誰かに助けを求めても助けてくれないか、助けられないかのどちらかで八方ふさがりになります。困った時に誰が友人かよくわかります。また、自分が選ぶ男や女がどうしようもない者ばかりで、その人といれば決して幸せになれないと嫌になるほど思い知らされるのに、その愚かな事を繰り返すことだってあるのです。頑張っても、頑張ってもうまくいかずについに倒れてしまう人もいるでしょう。運がないとかツイていないと嘆いてみても、何もはじまりません。悩みを深めるだけで、とうとううずくまってしまう時に、一体誰が起こしてくれるというのでしょうか。驚くことに、聖書は神様こそがうずくまっている人を起こしてくれるし、倒れそうになればその人を支えてくださると言うのです。ありがたいと思いませんか。自分に非がまったくないわけじゃないのに、なぜ神様は見捨てることなく助けてくださるのでしょうか。それは、神様から見てあなたにすごーく魅力があるからです。失敗ばかりして、弱さを露呈することもありますが、そんなあなたをいとおしいと神様は思えるのです。頑張った時は、手放しに褒めてくださるし、泣きたい時には一緒に泣いてくださるのです。あなたが淋しいと思う時には必ずそばにずーっといてくださるのです。見返りを求めずにあなたのことばかり思っていてくださる方があなたにはいるのです。それがあなたの主です。人間の一生がどのようなものであるか神様は良く理解されています。それだけに、あなたを応援し励まし続けているのです。あなたの助け主であるイエス様は、今日もあなたを生かし、何をするか楽しみに見ていてくださいます。だから、自分のために生きるのではなく、生かしてくださる主のために誠実に生きたいのです。(さくま)

 

3月21日(土)

愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。

エフェソ5:15

 

人の一生の間に、愚か者として生きることも賢い者として生きることも可能です。どちらも選択することができます。しかし、どうしてか愚か者として生きることを選ぶ人もいます。これは頭の良し悪しとは関係ありません。大きな失敗をした後で後悔する時に、自分の愚かさに気がつくこともありますが、もう取り返しがつきません。高慢や貪欲は、愚か者の特徴です。愚か者は隣人を愛することをしません。それが大切なことであると思わないからです。そのくせ、自己愛は強いのです。そのために人間関係で失敗することもしばしば起こります。クリスチャンになったからといって油断してはいけません。なにしろ、今日の聖句にこのように書いてあるのですから、心のどこかで自分は正しいという思いが強いと、細かく気を配ることができなくなります。クリスチャンにとっての大敵がこの「自分は正しいのに」という思いです。難しい言葉でいえば自己義認です。この思いが捨てきらないと、いつまでたっても「あの時のことは自分が正しかったのに」と苦い思いを繰り返し心によみがえらせてしまいます。まあ、そのような見方はあまり価値がありません。つまりどうでもいいのです。肝心なのは、神様の目からみてどうかということです。正しいかどうかは神様が決めればいいことです。だから、人に裁かれた時も、嫌でしょうが気にせずにうけいれましょう。その時、自分の方が正しいという思いで苦しんでいたら、「そうか、まだまだ自分が正しいという思いで生きていたのか。気づかせていただいてありがたい」と思うことにします。これぐらい十字架におかかりになったイエス様のことを思えばなんてことありません。クリスチャンのあなたに誰かがひどい事を言ったり、したりすれば、神様はそのことを覚えているでしょう。その時に、あなたが復讐すべきではありません。我を忘れてやりかえせば、みごとな愚か者になるわけです。感情のままに生きている人に比べれば、クリスチャンはこんなことでも気を使っているわけです。そうしているうちに、ものの見方が変わっていくでしょう。そうすれば感情をコントロールして、周りにも気を配る賢い者になれます。だんぜん、生きやすくなり、悩みも少なくなくなるでしょう。(さくま)

 

3月22日(日)

イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。・・・イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

ルカ22:40,46

 

クリスチャンが問題をかかえて悩んでいる時があります。そのような時には、この御言葉を思い出し、自己吟味しましょう。信仰者が一番耳に痛いのは「眠っている」と信仰のことを批判される時です。日々の生活に気を取られ、忙しいと言っていると思わぬ誘惑に負けることがあります。敵もクリスチャンをねらっているのです。誘惑に陥らないようにする、一番の方法が祈りというわけです。さて、教会では時々徹夜祈祷会をすることがあります。徹夜で祈る時は、やはり祈っているうちに寝てしまうのではないかという心配があります。そこで、睡眠祈祷会にならないように工夫をします。まずは、教会の方々から祈りのリクエストをカードに書いていただくのです。それをそろそろ眠くなる頃に、車座になって一人一人にそのリクエストカードを渡して、祈ってもらいます。全員が渡されたカードを祈り終わると、そのカードをお隣に回します。そうやって、一枚の祈りのリクエストを参加者全員が祈るのです。50枚あれば50回一人の人が祈ることになります。寝ている暇がありません。それから、深夜になると、また全員を集めて車座になり、一人を真ん中に入れて、その人のために祈ります。たいていは私がリードして祈ります。ある徹夜祈祷会の時に、そのように祈ることになって、一人の青年が真ん中に座り、自分の心の中にしまっていた苦しみを打ち明けました。父親が母親に暴力をふるうという重い話でした。そのために、子供の時から父親が母親に暴力をふるわないように父親の機嫌をとるようになったというのです。それで、父親が喜ぶので勉強を一生懸命がんばり、良い成績で国立大にもはいり、父親のいうままに有名企業に就職も果たすのですが、ついに心を病んで倒れてしまったのです。さらに彼によると、父親の父親、つまり青年の祖父も祖母に暴力をふるっていたというのです。それで、自分もやがて暴力をふるうようになるのではないかと恐れているというのです。なんともやるせない話です。それで、聖霊にとりなしを頼み、異言でも祈り、癒しと呪いを説く祈りもしました。勿論、悪霊も追い払い、出来ることのすべてをしたのです。祈り終わると、青年は起きあがりませんでした。周りの人が心配して声をかけると、ようやく気がついて、「ここはどこですか」と言いました。周りにいた人たちはとても驚きました。そして、彼がここは教会であるとわかると、「ああ~、僕はとうとうこんなところに来るようになったのか」と驚いて嘆息したのです。祈っている間に彼の意識がとんでしまったようでした。神様が何かをこの青年にされたことは明らかでした。主の不思議な癒しが起こっていたのです。このような事がいろいろ起こりました。祈りは不思議です。つたない言葉で祈っても、主はちゃんと聞いておられるのです。普通ではなんともならないことでも、祈りによって解決することはよくあるのです。祈りは大きな力です。それなのに祈れなくて、誘惑に負け、あなたの信仰が寝ているといわれないように、目を覚まして祈りたいですね。祈りの醍醐味を味うことは主の御心にかなっていますから、主に祈りを教えてくださいと嘆願してみませんか。(さくま)

 

3月23日(月)

あなたの戒めは/わたしを敵よりも知恵ある者とします。それはとこしえにわたしのものです。わたしはあらゆる師にまさって目覚めた者です。あなたの定めに心を砕いているからです。長老たちにまさる英知を得させてください。わたしはあなたの命令を守ります。どのような悪の道にも足を踏み入れません。御言葉を守らせてください。あなたの裁きから離れません。あなたがわたしを教えてくださるからです。あなたの仰せを味わえば/わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。

詩編119:98-103

 

聖書を学ぶことは、人を知恵ある者にかえる力があります。ですから敵よりも知恵ある者となれるのです。神の戒めは、石の板に書かれてモーセに渡されたのですが、それは歴史を通じてイスラエル人に罪の自覚を与えるだけで、うまく行きませんでした。そこで、神は、石ではなく肉に戒めを記すと言われました。つまり日本流に言い直せば、血の通ったものにするということです。形式だけの戒めは人を良くしませんでした。戒めは「愛すること」だったので、心が愛することを知らなければなりません。そして、広い意味で聖書は戒めなので聖書を毎日読み、考え、自分の生活に適用しようとすれば、知恵が増すのです。それどころか、生活が良くなり、人間関係も仕事もうまく行くようになります。そして、御言葉を味わうということができるようになります。それは、あなたの口に蜜よりも甘いことでしょう。(佐久間)

 

3月24日(火)

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

ヨハネ1:16-18

 

ヴィトゲンシュタインは、言葉で表現できないこともあることを指摘しました。言葉で表せるものはそんなに多くはないと言うのですが、その通りです。親と子の間、夫と妻の間、師と弟子の間、さまざまな大切な人間関係の中で「どんなに相手を大切に思っているか」一体どんな言葉で表現すればいいのでしょう。言葉で表現できないので、誤解が生まれることもあります。なんと本当の気持ちが正反対に理解されてしまうのです。どんなに愛しているか伝えるのは言葉では足りないものです。だから、神様はご自分が人間をどんなに愛して大切に思っているかを伝えるために、ひとり子のイエス様を与えてくださったのです。聖書は、イエス様を言葉と呼んでいます。そして真理とも呼びます。ですから、本当の言葉は「愛」なんです。その愛は人間の言葉を超えているので、思いそのものを伝えるしかないのです。たとえば、イエス様の十字架は、「愛」という神様の言葉なのです。神様は罪には怒っていますが、あなたには怒っていません。人間の肉に宿る罪は甚だ悪性のものです。罪とは死に至る病なのです。本当に愛しているのなら、いつまでも一緒にいたいはずです。だから、どんなことをしても神様は罪の問題を解決すると決意されたのです。それなしにはあなたと一緒にいることができないからです。大好きな人と永遠に一緒にいたいと願う気持ちはわかりますよね。イエス様は、そのためにどうすればいいのか知っています。それで、この地上にやってきたのです。それだけでなく、私たちを救うためにどうしても必要なこととして人間になることを選ばれました。人間にならねば死ぬことができなかったからです。そして、私たちの身代わりとなって罪の罰を受けて十字架におかかりになられたのです。あなたのために死んでくださる方が一人いるということです。誰が何と言おうと、あなたを信じて愛してくださるお方が一人いるのです。その方は、人間の言葉では表現できない「神様の愛」を十字架という言葉で語られたのです。だから、イエス様の思いを直接受け取りましょう。人間でさえ、言葉以上の大切な思いを沈黙で伝えることができるのですから、イエス様の真実な思いを受け取ることもできはずです。すぐにイエス様に心のセンサーを向けて、愛の思いを感じ取ってください。そうすれば、何が一番大切なことかわかるはずです。(佐久間)

 

3月25日(水)

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ヨハネ1:12

 

この方とはイエス・キリストのことです。あなたがイエス・キリストを信じているのなら、神の子どもとなっていると認めましょう。それにしても、驚きですね。これほど恵みを受けているのですから、堂々と生きてください。悪魔の嘘に惑わされてはいけません。聖書の御言葉こそが真理なのですから、神の子であることを信じた生き方をしましょう。自分の過去に縛られているはずはないし、イエス・キリストを信じた時から自分は変わったと告白しましょう。そうです、神の子へと変えていただいたのです。すべての始まりは、ここにあります。信仰が大切であるとはわかっていても、何を信じることになって信仰が強められるかは気づいていないかもしれません。もう、おわかりだと思いますが、自分が神の子であると信じることから始まるのです。クリスチャンになっても、神の子であると認めていない人はいます。だから、神の子として生きることができないのです。これらは自分の功績ではありません。むしろ功績どころか罪科しかなかったのです。そのような者をイエス・キリストは探し出してくださったのです。完全な救いを与えるためです。それは、信じた者が神の子とされる特権を得ることができるということでした。ですから、この特権まで信じて受け取る必要があるのです。その上で、まだ学ぶことがありますが、また明日のお楽しみです。(佐久間)

 

3月26日(木)

彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。

列王記上11:3-4

 

人間の不思議は説明することが難しい。男女のことだ。天下を取った大王は世界のどこでもハーレムをもうける。その一番の目的は世継ぎを産むことだ。しかし、聖書の著者が少し水増ししてソロモンの偉大さを誇示しようとしたとしても、合計1000人の女性とはいかにも多すぎる。外交のための政略結婚であったとしても、やはり多すぎるし、その経費は莫大なものだったろう。知恵で世界一と言われたソロモンがなぜと頭をかしげてしまう。江戸時代の将軍も大奥を持っていたが、その費用に頭を痛めていたのは事実だ。とかく女は金がかかる、といえば世の女性を敵に回すことになるが、歴史はそのことを記録している。ハーレムの女性はすべて王のものなのだ。だから、外に出ることもままならい。そこで、衣装や化粧品・美容そして食べ物などに大金をかける。良く考えれば千人の女性が美しさを競うわけあるから、行事ごとに衣装を新調し、そのお付の女官たちも位に応じてその衣装をそろえるわけだ。もちろん一流高級店の商人を呼び寄せてのことで、装飾品から化粧品まで小物も含めて買うわけだ。それが千人が競い、そのお付の者までとなると何千人ものかかりがいることになる。もちろん、給料以外の出費となる。さらに、王の子を産めば、とたんに身分が上がるわけだ。そこでいやでも政治にも関わるようになる。出世を望む家来が王の寵愛を受けている王妃にさまざまな便宜をはかる事により、王にとりなしてもらい自分を売り込むわけだ。そこで、問題となったのはもっと深刻な宗教上のことだった。それは、出エジプトの時代にさかのぼるが、カナン人たち先住民をことごとく追い出し、イスラエル人の純血を守ることが主のご命令であったが、イスラエル人は結局それを守らなかった。そして、さまざまな問題を持つようになったのだ。そして、ソロモン王の時代に、王が結婚した王妃たちは、異教の神々を嫁入り道具のように持ち込み、王をとりこにして異教の神を拝むことをイスラエルに行なったのだ。ダビデ王とソロモン王の決定的な差がここにあった。神と一つ心であったダビデ王に対して、ソロモンは主に従い通さなかったのだ。確かに知恵は大切だが、人間は歳をとるものだ。衰えが人を変えることもしかたがないことだ。しかし、ダビデ王は老境になって体の震えが止まらなくなっても、主への従順は変わらなかった。なぜ、ダビデ王を神が自慢するのか、それはこの信仰を見ていたからだ。誰でも、自分のことを考えるものだが、それ以上に神のことを考えることができたのがダビデ王だった。信仰の違いは、最後の最後にはっきり出て来るだろう。神を愛そう。神を愛そう。そのことがわかれば、きっと最後まで大丈夫だろう。(サクマ)

 

3月27日(金)

わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

ヨハネ15:14-15

 

クリスチャンは、イエスの友である。確かに讃美歌でも「友なるイエスよ」と歌っているが、驚くべきことである。なぜならば、私たちは主の僕と公言してはばからない。イエスが神の独り子であることを知ったので、イエスが人であり、神であることを信じたのだ。そこで、主イエスの僕と思っていたわけだ。ところが、イエスご自身が今日のみ言葉の通りに「友と呼ぶ」とおっしゃった。そこで、あなたがクリスチャンであるのならイエスの友であることを忘れてはならない。ところで、クリスチャンなら自分の聖書を持っているだろう。それは、真理の御霊によって解き明かされ、神の言葉となる。だから、十二使徒のようにあなたもイエスが父から聞いたことをすべて知る事ができる。それは、僕やはしためには無いことなので、あなたはその特権をよく理解しなければならない。イエスはあなたに命じるだろう。あなたはそれを理解した時に、それを行わなければならないと思うはずだ。そして、それはあなたがイエスの友だから実行可能なのだ。もっと、自分に自信を持って、小さなことに一喜一憂していてはならない。第一のことは、あなたがイエスの友であるという事実なのだ。それがどれほど大きな力となるか、あなたのその特権がこの世でどれほど魅力に満ちているか、理解できるように主に祈ろう。イエスを偶像を拝むようにしか理解していなかった人は、ここで軌道修正をするべきだ。イエスは、あなたを友と呼んでおられるのだから。(サクマ)

 

3月28日(土)

私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

詩編4:1

 

詩編4編は何かせつなくなる詩です。詩編記者はきっと悩んでいます。誰かがひどいことをするからです。自分の尊厳が辱められていると感じています。この世に生きるなら誰もが味わう嫌な経験です。神を知る人は、困ったときはいつでも祈ります。何しろ、自分の持てる最高の力は主なる神にあるからです。自分を困らせる者は自分だけでなく、自分の信じる神をもあなどっているのです。だから、祈りにも力が入ってしまいます。「ゆとり」とかかれた箇所の口語訳は、「あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました」となっています。クリスチャンは、知っています、悩んで、苦しんで祈る時、主は不思議な助けを与えることを。それを言葉で言い表すのが難しいのですが、「苦難から解き放ってくださ」ったような(新共同訳)、心が急に悩みを忘れてしまったような感覚です。そう、もう大丈夫、といった平安を感じさせてくださるのです。それで、誰かにひどい目に遭った時にどうやって祈ればいいのか分からない時には、詩篇4篇を自分の祈りとしてみたらいかがでしょうか。この詩人は、最後の節で、「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます」(新改訳)と言っています。眠れぬ夜も、こうして信仰者は祈りの中で問題を主にゆだねて安心して眠りにつくのです。

(佐久間)

 

3月29日(日)

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており

ローマ5:1

 

クリスチャンが決して忘れてはいけないことが今日の聖句に書かれています。義とは神の目に正しいということです。もう少しいえば、神との間が罪のせいで断絶していたのに、イエス・キリストの功績で罪の贖いが成立し、神との和解も成立したのです。それが自分のものとなったのは、ただ信仰によるというわけです。だから、クリスチャンの最も大切な事が信仰なのです。ところが、どうしてか人はいろいろと聖書に書いていない事を勝手に付け加えて、救いの意味を複雑にしています。つまり、信仰などという頼りないものではなく、もっと確かなことを必要とするとハードルを勝手にあげて納得しているのです。それは、何の意味も無いことなのですが、何か自分も努力して罪に勝利し、律法を守って見せるべきだ、と息巻くのです。不思議なのは、実際に律法を守り行うことなどできないのに、まるで簡単に守れるかのごとくに律法を守り行うべきだと思ってしまうことです。それは、罪の深刻さをまだ十分に理解していないことから起こります。聖書は「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)とはっきり書いてありますから、罪を宿しているので誰も律法を守れないのです。それは、自分がひどい事をしてもすぐに正当化する罪の性質にもよります。色々な人を見ると、問題を感じる人に気がつくでしょう。そでも、その人は堂々として人々の中に姿を現します。なぜ、そんなみっともないことになるかと言えば、罪が自分を正当化しているからです。それがクリスチャンにも起こります。どうしてそのようなおかしなことが起こるのでしょう。聖書を読んでもわからないからです。聖霊の助けがいります。別の助け主である聖霊が聖書を解き明かして、悔い改めに導かないなら、自分の問題に気がつかないでしょう。罪のために自分の状態が悪いことは感じていても、それをどうすればよいのかわからないのです。そこで、行いによる義を説き始めるのです。自分ではできないことを人に要求し始めるのです。それは、自分の不調の原因が周りの人たちのせいだと言いたいからです。自分の存在を正しく認識できないと、不安や不幸を感じてしまうのです。だからこそ、今日の聖句を瞑想して、しっかり自分のものにしておくことが大切です。自分の状態をチェックするのに、「神との間に平和を得て」いるかどうかを調べる方法があります。静まって自己吟味してみればわかります。そうやって、いつでも健全なクリスチャンの姿を保つことです。そうすれば悪魔に騙されることはありません。(佐久間)

 

3月30日(月)

しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。

Ⅰコリント6:17

 

聖書は、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(Ⅰヨハネ1:3)と教えています。そして、今日の聖句を読めば、「主と交われば、一つ霊となるのです」と記しています。キリスト教は、このことが重要なことなのですが、読んでもわかりにくいと感じたのではないでしょうか。「交わる」という言葉が問題です。しかし、Ⅰコリント1:9を読むと、「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」とあります。つまり、何かこれから修行のようなことをしなければならないということではありません。もうすでに、あなたが神に招かれた時に主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。もっとも、この手紙の受取人は初代教会の人々で、使徒言行録を見る限り、ペンテコステの聖霊降下を受けた後、救われた人たちは全員聖霊のバプテスマを受けていました。ですから、聖霊との交わりという意味は体験的に理解しやすいことだったと思われます。そして、今日も聖霊のバプテスマを求めて受けることは正しいことです。現代人は世俗化の波に洗われているので、霊的な感受性も聖書時代の人より鈍化しているかもしれませんが、それでも聖書にはいまだ聖霊のバプテスマの約束が書き残されているのですから、有効なので求める者は誰でも聖霊でバプテスマしていただけるのです。そすれば、今日の聖句はすぐに納得がいくはずです。霊的感受性に乏しいから難しいのでは、と思っている方も心配いりません。一番大切なことは、聖書に神の約束として聖霊を与えることが書かれていることと、信じる信仰でいただくのですから、これは単純な信仰の問題です。その信仰のことは、祈りによると思っていれば、祈りの中で信仰が高まって行く経験に導かれるでしょう。今日のみ言葉がすべて神の恵みであることを理解し、クリスチャンとしての確信が深まりますように。(佐久間)

 

3月31日(火)

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

Ⅰコリント6:20

 

世界は広く、自分の知らないことだらけです。ほとんどの牧師は金持ちではありませんが、それでも日本人の私が開発途上国へ行けば、私に子供の奨学金を出して欲しいとか、何かを買って欲しいとか、雇って欲しいとか、何かしらお金を求められます。そのような国では、持っている者は持っていない者を助けることが正しい、という理屈はそのまま生きているので、何かを買ってあげたり、人を雇うことになりました。その結果、洗濯機を見たことの無い人を雇うことになったりします。そのような人は何もできないので家内はいろいろ教えました。その人の姉がもともと家で働いていたのですが、姉を頼ってどこかの島から妹が来たので雇って欲しいと頼まれた結果です。その姉は、大学で営繕の仕事をしている人と結婚しました。彼は、新居は自分で建てるというので驚いていると、もうできたというのです。そして、赤ちゃんが産まれたというのでお祝いにその家を探して訪ねてみると、配材で作った小屋でした。玄関というよりは入口というような開口部があって、扉は無くカーテンが扉がわりです。その中に入るとすぐ横にベットがあって、そこにお母さんと赤ちゃんが寝ていました。窓は無く、屋根の形に上部が三角になっている部分に壁が無く外が見えています。これが明かりとりなのです。電気も水道もありません。家の広さが全部で四畳半ぐらいなのです。日本人からみれば、圧倒的な貧しさに言葉がでてきません。それなのに、この若夫婦は幸せそうなのです。私はこの家に生まれてきた女の赤ちゃんの将来が見えてきそうで、心が重くなりました。この家からちょっと歩けば、すぐに国道に出ます。その道は高級リゾートに向かう道でもあります。そこをお金持ちたちが高級外車で通るのです。不思議ですが、人間は平等ではないのです。しかし、その人がどう生きたかで、人生はまったく違ったものになります。アメリカにはホームレスに生まれた黒人の女の子が博士になり、やがて大成功をおさめた牧師となった人がいます。どれだけ、努力をしたのでしょう。人生は不公平だと言って、あきらめていたらホームレスのままだったのでしょう。クリスチャンとなった人は、どのような境遇で生きてきた人でも、人生は不公平だと叫びたくなった人でも、イエス様がご自分の命の代価で買い取ってくださったので、それまでの人生から解放されて自由となったのです。だから、人生を変えることができます。そして、面白いことに人生は不公平だと思わなくなるのです。それは、自分がイエス様のものになったことがわかったからです。主のために生きたいと思えるからです。今やあなたは特別な存在です。もはや否定的な考え方をしなくなり、積極的に肯定的に考えることができます。そして、そのように正しく信じるようになるので、人生が良くなるのです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」。だから、あなたは幸福な人生を歩めるのです。(さくま)