2015年4月

4月1日(水)

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

Ⅰコリント12:27

 

私がまだ牧師になる前に社会人として働いていた時に、取引先の会社の担当者が、私がクリスチャンであることを知って、個人的に相談をしてきたことがありました。その人もクリスチャンだったのです。とても、普通では話せない内容だったのでクリスチャン同士の関係の不思議を味わいました。同じ教会に所属しているわけでもないし、教派も異なっていたのに、クリスチャン同士の信頼感は特別でとても良いものでした。この関係を考えると、今日のみ言葉が思いだされてきます。普通は一つの教会の中で考えられているキリストの体が、実はクリスチャンという一つの体も存在するのだと思わされたのです。そして、クリスチャンであるあなたは、キリストの体の部分であることをもっと考えるべきです。一人で体全部の働きを担うわけではありません。自分の役割に忠実であればよいのです。それははじめから持っている自分の特徴や特技あるいは才能と言っても良いでしょう。そして、もっと霊的にはそれぞれがキリストから与えられた霊の賜物であるということもできます。一人で、あれもこれもと思わなくてすむのはありがたいことです。そして、自分を補い助けてくれる仕組みが備えられているということです。また、一人ではなく互いに愛し合う関係の人が複数いると言う意味でもあります。クリスチャンになってから、自分のために必要な時にはいつでも献身的に祈ってくれる人がいるので

す。何か問題があれば、一緒に痛み、心配し、主に取り成し、喜ばしいことがあれば、一緒によろこび、愛することを惜しまない人がいるのです。その愛は、主イエス・キリストからきています。目に見えない主を、そのように見える兄弟姉妹を通しても知るようになっているのです。神がいるのかいないのかわからなくなる日にもあなたを支えて、主の愛を通りよき管のように流してくれる人たちが周りに置かれているのです。罪の後遺症がだんだん癒されて、疑いが消え去り、主を信じることの意味がよくわかるようになってくると、主をはっきりと知るようになります。そこまで、もう少し辛抱していましょう。主にぬかりはありません。必ずすべてがうまくいきますか。主に期待して楽しみにしていましょう。あなたはもうキリストの体なのですから。(佐久間)

 

4月2日(木)

神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。

エフェソ1:1

 

エフェソの教会へ書いた手紙のはじめの部分が今日のみ言葉です。神にたてられた使徒パウロは、教会員のことを「聖徒」と呼んでいます。このことからもわかるように、クリスチャンは「聖徒」なのです。あなたはそのように自分のことを考えたことがありますか。キリスト教信仰は、一途な神への愛と言えます。それは、罪深い世界に生きて、決して自分のせいだけではなく生まれた時から理不尽な扱いを受けるような悲しいこの世界で、初めて無条件に自分を愛してくださる神に出会ったからです。自分の価値がわからずにただ大人になって、生きることに一生懸命であったから、不本意な生き方をしてきたかもしれません。その中で、心の中に何か良く無いことが起こってもちっとも不思議ではありません。刹那的な快楽を求めてもそれで幸せになるわけではありません。ただ惨めになるだけです。だからといって日々のストレスに負けずに生きるにはどうしたらよいのか分からずに、やはりその場をやり過ごし、一時でも現実を忘れることを求めて生きているかもしれません。しかし、それではずいぶんつまらないことです。東京の山手線でパチンコ屋の無い駅は原宿だけだと聞いたことがあります。おそらく、大きな都市だけでなく、田舎でも大きなパチンコ屋が唯一の娯楽という場所もあるでしょう。仕事をして疲れ、何かつかのまの楽しみを求めて・・・ということがコヘレトの言葉にも出てきます。しかし、それだけの人生はむなしい、と賢者は語っています。結局人間は、生きる意味が分からないから、健全な楽しみすら堕落させてしまう傾向があるので、だれもが幸福を求めながらも悩みの絶えない人生になってしまっているのです。イエス・キリストはそのような暗闇の世界にやってきた光です。そして、人間の現実をつぶさに知り、救済者として偉大な救いの道を開かれました。誰もが、主イエス・キリストを信じるだけで救われる道をつくられたのです。それは、驚くべき恵みでした。なぜなら

イエスを信じて救われた人を神の力で「聖なる者」に造り変えるからです。クリスチャン自身がそのことを信じなければなりませんが、確実にそのことは起こるのです。だから、「聖徒」と呼んでいるわけです。ただ、自分が「聖徒」であると信じる人がどれだけいるか心配になります。今日のみ言葉を読まれた方は、ぜひ自分は主イエス・キリストにあって聖徒であると信じましょう。それも、エフェソの人たちのように、忠実な聖徒でありたいですね。(佐久間)

 

4月3日(金)

イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

エフェソ1:5

 

この箇所は、他の宗教と一線を画すキリスト教固有の真理です。あなたがクリスチャンであれば、この御言葉はあなたへの約束です。そして、すでにあなたのものなのです。ただ救われたということだけではないのです。神に造られた被造物でありながら、しかも神に背を向けて愛ではないことをたくさん行ってきた者を神は愛し続け、赦し続け、ついには神の独り子であるイエスを十字架にかけ、自己犠牲を払って究極の罪の贖いをやり遂げて、恵みのみで、つまりイエス・キリストを信じるだけで救ってくださいました。それ以外に人間が救われる道は無かったのです。神が憐み深く私たちを見てくださったから救われたのであって、何も救われる理由を私たちは持っていなかったのです。それで、救われた喜びは大きく、救われたことがはっきりわかりました。そうすると、こんどこそ立派に生きようとするのですが、かなり頑張ってみてもイエスのようにはなれないのです。それどころか、また罪を犯してしまうのです。それも、何度も何度も繰り返して罪を犯すのですから、律法を守ることなどできないと悲しくなるのです。ところが聖書にはもっと違った事が書いてあったのです。よく、家電製品を買ってきて、箱を開けると取扱い説明書を読まずにいきなり動かそうとして失敗するようなものです。聖書を注意深く読んでいないのです。思い込みで勝手に立派なクリスチャンを演じようとしていたのですが、そのようにせよとは書いてないのです。そうではなく、「神の子にしようと」・・・神が決めていたのです。それで、キリストを信じるということは、何かをして立派なクリスチャンになるのではなく、神の子にしていただけると信じることなのです。その信仰が正しければ、そのように神の御力で神の子になっているのです。ちょうど、救われたのがイエスを信じただけだったのと同じです。神の子の特徴は、神の御心を求め、その通りに生きることです。ちょうどイエスが人となった時に、自分の思いではなく父の御心だけを行っていたのと同じです。まずは、神の子にしてくださったことを感謝して、信じてみましょう。一番大切なことは、神の子になるために頑張るのではなく、すでにもう神の子であると信じることです。信仰はここでこそ使うのです。良いことが起こりますように。(佐久間)

 

4月4日(土)

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

コロサイ1:13-14

 

この世の中にはいろいろなおかしなことが起こっています。テレビのニュースにならないような出来事ですが、その当事者にはとんでもない大変なことが襲いかかってくるのです。悪魔のやり方は、いろいろですが陰湿なものが多いので、とてもダメージが大きかったりします。そもそも、クリスチャンが悪魔にひどい目に遭っているという事自体、本来はナンセンスなことです。すでに、キリストによって勝利しているはずなのに、実際は闇の力にいまだ翻弄されているクリスチャンは少なくありません。特に、弱い者いじめは得意なので、主に会って強くなる必要もあります。聖書が神の御言葉であるという信仰は正しいことです。それ故に、御言葉で強くなる必要があります。それは、何が書いてあるかを正確に知ることです。自分の先入観や自分の好みで聖書を勝手に解釈してはいけません。そうなれば、もはや真理ではないので自由が奪われてしまいます。聖書に書いてないことを勝手に言い出すことも、聖書の勝手な解釈も、共に自滅行為です。悪魔は聖書を良く知っているので、クリスチャンが間違うと、そこを責めてきます。だから、聖書に書かれたことを注意深く見る必要があります。つまり、神は何と言われているのか、それは現在進行形なのか過去形で言っているのか、など日本語で読めるのですから間違わずに読みます。自分にとって都合が悪くでも、読み飛ばして無視したり、もっともらしい言い訳をして聖書に書かれたことを守らなくても良いと言わないことです。聖書に書かれたことが神の御言葉であるのなら、そのまま読んでそのまま信じることです。それがクリスチャンの力となります。そうすれば、御言葉の剣を抜いて、悪魔に勝利するでしょう。つまり、悪魔がひどい事をしてきたとしても、落ち込む必要はありません。イエス・キリストがあなたを贖ったのですから、誰にも文句を言わせません。闇の主権者がさも自分こそがこの世の支配者と言わんばかりに脅してきても、すでに、あなたは御父によって闇の力から救い出されています。そればかりか、イエス・キリストの支配下においてくださったのです。それは、イエスこそが王であるということです。その愛と栄光の王こそが、あなたを神の国の入れてくださったのです。だから、元気を出してください。悪魔の脅しに屈しないでください。聖書のみ言葉で勝負してください。必ず、あなたはキリスト故に勝利できます。天国に帰りついた時に、恥じることのないように、信仰の勇者になりたいものです。(佐久間)

 

4月5日(日)

預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。

申命記13:2-5

 

日本人の心情を考える時に、海に囲まれた島国であることや皆が助け合って農業をしていたりといったこともあって、争いを好まない穏やかな民族であると思われている。実際には二度に渡って世界大戦に参加しているし、近隣諸国と争った歴史もある。だから日本が特殊とは言い切れないが、それでも海に囲まれて多民族と極端に触れることが少なかった。それでいて、仏教を輸入したり、キリスト教が短期間に全国に浸透したりと、新しいものが好きな国民だと思う。無神論者であることを公言する人が増えているのに、宗教は無数にあり、正式に登録している宗教団体の信徒数だけで、かるく2億を超えているのだから日本国民は宗教が大好きだと言える。それでも、他の先進国と同様に伝統宗教は衰退しているように見える。信仰宗教は次々に現れ、ビジネスと化しているものも少なくない。そのために数々の問題が起こり、宗教離れの一因にもなっている。あまりにもいいかげんなものが結構な数の信者を集めているのには頭を傾げたくなる。その中には、カルトと言われて危険視されているものすらあるのだから、どうなっているのかと不思議に思われている。聖書の今日の箇所は、こうした様々な神々の危険について警告している。聖書を理解している人にはその意味がわかると思うが、聖書もキリスト教もよく分からない方には、意味が理解しにくいだろう。つまり、この世の中には、摩訶不思議な神々と呼ばれているものが存在している。何の実体のない迷信の類も含まれるが、確かになにか目に見えない力があることを知っている人もでてくる。そして、口寄せや占い師、霊媒のような霊能者の類も、どうどうと看板を掲げて商売している。その人たちは、特殊な霊能があると主張している。そこで、それらを信じる人が現れる。それが、神の民であれば最悪である。今日の聖書箇所で言いたいことは、エジプトで奴隷であった者を救いだしてくださった神を自分の神として愛するはずなのに、なぜ、助け手もくれない神々に改宗して拝むのか。それは、罪である。それどころか、身を滅ぼすことになる。神はそもそも唯一で、他の神々というものは存在しない。それでも、霊の者が存在するというのであれば、それは悪霊である。聖書を知っている人は、悪魔がこの世の王であると公言していることを知っているだろう。イエス・キリストにさえ、悪魔は自分を拝むのならこの世の富や名声や権力でも何でも与えようと誘惑している。その悪魔はもともと神の造られた天使であって、堕落して天を追放されたものである。天使は神に仕える霊なので、本来は見えないものなのだが、人間より不思議なことができるので、人の姿をとって現れることもある。悪魔は、純粋に神に反抗している霊で、神に愛されている人間を滅ぼそうと陰険な策謀をめぐらす存在で、多くの人々は悪魔の奴隷だと思われている。そのために、悪魔に支配されている可能性さえあるのだから恐ろしい。クリスチャンは、キリストの権威で悪魔に対抗することができる。しかし、霊的なことを知るクリスチャンは減少してきている。そのために、教会やクリスチャンも悪魔の餌食なることがあるのだ。そのこがわかっているのに、異教の神々を装っている悪霊に帰依して崇めるなら、その奴隷となって最後は地獄にいくことになるのだから、真の神ならばそれを許すはずはないのだ。そして、悪霊に心を明け渡すと、悪いウイルスに感染したように、次々に真の神を裏切って異教の神々にはしる人を増やしてしまうので、死に至る伝染病のように異教を危険視している。そして、これらは神への愛が本物であるかどうかの試金石となった。偽りの預言者や夢占いをする者に耳をかしてはならないのは、人間がそのような奇跡や不思議がすきだからだ。悪魔にとってはたやすいことなので、大きな力で誘惑してくる。あなたも、試みられていないだろうか。悪魔だとは思わないでいたのに、神から心を離した途端に騙されてしまわないように気を付けたい。終末預言で、偽預言者がたくさん現れ、悪魔は大きな奇跡をおこなって大勢の人を騙すことが預言されているのだから。占いが身を滅ぼす原因とならないように心しておこう。(サクマ)

 

4月6日(月)

それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

エフェソ2:18

 

聖書は旧約聖書と新約聖書との二つから成っています。この聖書には、イスラエル人が出てきます。神は彼らを宝の民と呼んでいます。選ばれた民です。それで、聖書は彼らを神の子として記録しているのです。私たちは聖書では異邦人と呼ばれていますが、主イエス・キリストを救い主と信じた人たちはクリスチャンと呼ばれるようになり、クリスチャンも神の子となったことが書かれているのです。今日の聖書箇所もそのことを証言しています。「両方の者」とはイスラエル人とクリスチャンのことです。この両者が一つの霊、聖霊に結ばれて、直接父なる神に近づけるようになったことが書かれているのです。日本人は、朝鮮半島から渡ってきた人のもたらしたさまざまな知識を受け継いでいますが、大きな影響を及ぼしたのは仏教と儒教です。それが混じったものが日本人の精神に影響を及ぼしていると思われています。そのために、死んだ者に対する思いは儒教的です。そして、先祖崇拝も根強く残っています。しかし、本当のことはどうなのでしょうか。架空の意味のないことを守っているとしたら、空しいことですね。日本人は優しい民族で、人の情を大切にします。しかし、それだけに裏切りを許さないし、敵か味方というような自分に対して良いか悪いかで区別するところもあります。だから、情緒的な人間関係の持ちかたをします。そこで、自分にとって大切な人を失うと死んだ人にまでいつまでも思いを残すことになります。実は死んだ後のことはまったく分かっていません。なんとなく、死後の世界もあると思っていますが確証はありません。人間にとって大切なことは生きているうちに後悔のない人間関係を持つことです。ですから生きている今、どう生きるかを考えることが大切なのです。日本人はキリスト教の神のことをあまり知りません。聞いたことがないのです。それで、神に対する先入観を勝手にイメージしています。良い神のイメージはヒューマニズムに満ちています。人間に都合良い神を思い描いてしまうのです。それは、本当の神ではありません。甘やかすだけの神が人のためになるわけがないのです。キリスト教のすごさは、神は今も生きている、と信じていることです。それは、自分の為にこの地上で働いておられるということです。そのような神をどうやって知るかといえば、分かりやすいのはやはり聖書ですが、それだけではあまりうまくいかないでしょう。聖書自身が証言しているように、聖霊が働いて文字が解き明かされ、生きたものとなるのです。それだけはありません。子供のような信仰で神に近づくことができるのです。その方法が聖霊によるというのです。人間の力ではどうすればよいのかわかりませんが、聖霊が働かれることによって神に近づくことができるのです。その時、神も近づいてくださることも聖書に約束されています。そのように、直接神を知ることが永遠の命となっていくのです。(佐久間)

 

4月7日(火)

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

マタイ5:3

 

中国ではキリスト教が広がっているというニュースをみました。経済的に豊かになった中国人がいる一方、農村部の人々は貧しさの中に取り残されているといいます。その貧しい人たちのよりどころがキリスト教会というわけです。一方、豊かな先進国ではキリスト教から離れて行く人が大勢いると言われ、いくつもの大聖堂が閉鎖され、本屋やパブになっているというのです。日本も豊かさの中で目に見えない大切なものを失ってきたと思いますが、自由と豊かさの中で教会は不要なものとなってきているのでしょうか。私は、そうではないと思っています。問題は、教会が現代人にあった形態になっていないことが問題なのだろうと思うのです。経済的に豊かになっても、心の豊かさを保証するものではありません。人間の尊厳は心の豊かさと関わっています。日本には美しい言葉がたくさんありましたが、今ではほとんど使われていません。色を表す言葉も非常に繊細に多くの美しい言葉を持っていますが、クレヨンや絵の具の12色ぐらいしか使われていないかもしれません。俳句のように、最少の言葉で詩を表現することに長けていた日本人は、心の豊かさを持っていたのではないでしょうか。さて、今日のみ言葉は不思議に満ちています。日本語の感覚では、心は貧しくてはいけません。心が豊かな人こそほめられるはずです。では、イエス様は何を語っているのでしょう。それは、何か徳目一覧表を掲げて、立派に行動しなさいと言っているわけではありません。そうではなく、うまく生きられずに、霊的にも乏しい人、現実にも貧しい人、人から踏みにじられているような人、何か後悔ばかりの人生だったけど、それでも一生懸命生きてきたのに、それほど誇れるようなものは何ものこせていないと憂いをもっているような人は幸いだ、と言っているのです。「天の国はその人たちのもの」とは、天国にそうゆう人たちが入れるからだ、というような意味です。本来なら、希望のあまりもてないような人たちに、イエス様は救いをもたらすと言っているのです。だから、ありのままに救っていただければいいのです。ありがたいですね。心の豊かな立派な人だけが救われると思っていましたが、そうではなくて、心が貧しいとうつむいていた人こそイエス様を信じて救われるということです。(さくま)

 

4月8日(水)

ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

マタイ5:15,16

 

イエス様はクリスチャンを光の子と言いました。イエス様が光であったように、クリスチャンも光の子として輝くことが期待されています。今日の聖句を見ればそのことは明らかです。神様はあなたの上にも豊かな恵みをお与えになっています。それは天からの恵みですから、地上にある恵みとは異なっています。魂を救いに導くことだってきるほどの力に満ちています。恵みを自分だけのものにしようとすれば、それは大した働きをしないで終わってしまうでしょうが、できるだけ必要とする人たちに分け与えようとすれば、その人たちを満たすだけの恵みがあふれてきます。だから、小さく自分の幸せだけを考えることは賢明な考えとはいえないのです。信仰生活においても満足がなくなってくるでしょう。さて、あなたの光とはなんでしょうか。あなたの長所や才能、あるいは得意なことや好きなこと、あなたが信仰で自分に神様が与えてくださったものはすべて良いものだ、と認めるならばそれらは光となります。あなたは、キリストに仕える方法がこの世の小さな者に水一杯与えることも、キリストに与えたことと同じになることを学んでいるはずです。そこで、困っている人や、弱い人など、身近にそうゆう人を見つけたなら、助けてあげましょう。勿論、自分ができることをするだけです。無理をする必要はありません。コップ一杯の水はあなたにとってどれほどの負担になるでしょうか。これぐらいの目安です。だから、あまりおおげさに考え過ぎてはなりません。やりすぎれば、トラブルが起こりやすくなりますから、注意が必要です。善い行いは見返りを求めないものです。それは、主に仕えるように仕えようとすることから生じます。クリスチャンが主に豊かに祝福されていることを信仰によって認めるなら、その祝福はあなたのものとなります。それをどのように他の人に還元するかは、あなたの楽しみとなります。楽しみであれば、義務ではなく喜びとなるはずです。光は、隠すものではなく、誰もが分かるように照らすものです。あなたの存在が周りの人たちを助けることになるでしょう。そのようにしていると、気づけばあなたが一番幸せであると思えるはずです。(さくま)

 

4月9日(木)

柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

マタイ5:5

 

ここを読むと、なんとなく柔和な美徳を身につけるように言われている気になります。しかし、イエス・キリストが語りかけている人たちは、現代の日本人には理解しがたい貧困の中にあえいで生きていたのです。だから、そのようにみじめな思いをしている人に主イエスがのんきに柔和の美徳を説教するはずはないのです。そして、事実原語の意味も「権力の無い」「卑しい」「取るに足りない」という意味の形容詞が使われています。人間が一番悲しいのは惨めな思いをすることではないでしょうか。ユダヤ人は財布にお金が無いこと、とすぐに言うでしょう。ひどい扱いを受けても立場が弱ければさからうこともできません。将来のことも何の保証もなく、自分の力で何とかしようとしても何ともならない、給料の格差や、自分のことを取るに足りない者と見下されることなど、疎外感を感じさせることがこの世にはあるのです。その人に、主イエスは、今日のみ言葉をお語りになられたのです。つまり、そうゆう惨めに思っている人は幸いだ、そのあなたがこの地を受け継ぐのだから、とおっしゃったのです。その御言葉を聞いた人たちがどのように思ったからわかりますか。心に何か温かいともし火が灯ったのです。不思議と「そうだ、イエス様がお語りになった通りになる」

 

と思えたのです。それは、すごい力で信じる信仰となったのです。あなたはどうでしょう。心淋しく思ったことはないですか。将来が不安で怖くなったことはないでしょうか。頑張っても這い上がれないとがっかりしたことはないでしょうか。もし、そのような気持ちになったとしても、大丈夫です。主イエス・キリストはあなたのために来られたのです。あなたが何の希望も無いと思っていたとしても、主はあなたに信仰を与えます。あなたは何を信じたらよいのか分からなかったでしょうが、それは自分で勝手に何か良いことを信じようとしたからです。そうではなくて、救い主があなたのもとへ来られて、あなたに約束した言葉を信じるのです。自分勝手に信じると言っても意味がありません。そうではなくて、イエス・キリストの約束を信じるのです。そこから奇跡が生れるのです。だから、聖書を調べることです。人間的にはありえないほどの素晴らしい約束は、信じた人だけのものなのです。だから、私は信じます。あなたは、どうしますか。イエス・キリストを信じましょう。そのお約束と共に信じましょう。神の祝福は信じたあなたのものです。(佐久間)

 

4月10日(金)

憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

マタイ5:7

 

クリスチャンでも「憐み深い」ということを誤解している人がいると思います。弱者や自分よりも恵まれていない人を可愛そうと思う心だと思っていないでしょうか。これも肉の思いで、上から見ているのです。自分より弱い者への優越感が潜んでいそうです。聖書の教えは、そうではなく、赦すことと関係があります。どれだけ赦すことができたか。生きていれば、未熟な人はいくらでいます。人間は20年も生きれば誰でも大人になってしまうのです。しかし、人格者になるわけではありません。そればかりか、恵まれた環境で両親から愛情を豊かに受けて成長する人ばかりではありません。いろいろな事情をもって大人になったのです。そこで、人からひどい仕打ちを受けることがあるのです。それも傷つけられて痛手を負うこともあるのですが、それでも赦すことができるかどうか。たいていの場合は、もう絶対に赦さない、金輪際口も利かない、絶交だ、といつまでも心の中で裁き続けるのが肉の人間のすることなのです。しかし、怒りや失望に負けないで相手の弱さを蔽ってしまうことが「憐み深い」という御言葉の意味なのです。そうやって裁くことなく赦して行ける人の支えは、主イエス・キリストがそうやって、自分を赦し続けている事実があるからです。そして、この御言葉は、そのことを主自らが保証している箇所なのです。たった一度の人生が恨みだらけではつまらないことです。傷ついたと認めてしまうからいけないのです。傷つかないと自分に優しく言ってあげましょう。主がそうしてくださったから、私も赦してどんどん忘れてしまおうと、ささやいてみましょう。イエス様を信じたのですから、清々しく生きなくてはいけませんね。(佐久間)

 

4月11日(土)

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

ルカ13:10-17

 

今日は少し長い引用です。このお話を読んであなたはどんなことを思いましたか。イエス様の神癒がすごいと思いましたか。会堂長の冷たい言葉に憤慨しましたか。それとも、この病気がサタンによるものだということに驚いたでしょうか。人は、他人には冷淡になれるものです。病気が癒されることを一緒に喜ぶよりも、規則が破られた事の方が許せなかったのです。さて、現代の教会で癒しを行っているところはどれぐらいあるでしょう。自分の教会でも癒しがあったらいいのにと思うことはありませんか。誰か身近に病人がいると祈って癒しができたならよかったのに、と残念に思ったことはないでしょうか。イエス様は聖書時代だけ奇跡が必要で、現代は医学も発展したので癒しはいらないとおっしゃるでしょうか。それよりも、病気で苦しむ人を憐れんで助けたいのではないでしょうか。それも、教会を通して、勿論教会とはクリスチャンのことですが。私は、病人が奇跡的に癒されたことを何度も見てきました。だから、今日も主は働かれて、病人を癒してくださると信じています。しかし、教会で癒しが起こるとそのことで責められたり叱られたりしてきたのも事実です。不思議ですね。聖書に書かれたことをなぞるように今でも同じように癒したことが問題となり、責められたりするのです。今は、スクエアー・ジャパン・チャーチが与えられたので、聖書に書かれたことは現代でも主が働かれて起こることをどうどうと告白できます。そのようなところでは、主が自由にお働きになるので「イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜」こぶことができます。あなたも疑わずに信じる信仰を表明しましょう。(さくま)

 

4月12日(日)

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。

ルカ14:1-6

 

またしても長い引用です。今度も癒しの話しです。共通項は安息日に癒したことです。安息日を知らない方のために説明すると、モーセの十戒の第4条に安息日を守る規定が書いてあります。これは律法なので遵守しなければなりません。そのために、ユダヤ人は安息日(太陽暦では土曜日)にはいかなる仕事も休んでしませんでした。それは、バビロン捕囚後にイスラエルに帰ってきたユダヤ人によってさらに徹底的に守られるようになりました。ユダヤ人は神との契約である律法を破ったので罰が降り、国破れて捕囚になったと思ったので、今度こそちゃんと律法を守ろうとしたのです。そのための律法の専門家である学者もこの時に誕生します。そして、その律法を厳格に遵守するファリサイ派が出現します。今日の聖書箇所にそうした人たちが出てきます。安息日に病人を癒しても良いかどうか、という問題提起がイエス様からなされています。安息日が形式化してしまうと、ただの規則になってしまうのです。神の律法は愛することを定めています。まず神をそして主が愛してくださったように自分を愛し、同じように隣人を愛することが律法です。これだけが物差しなのです。ところが、ここにでてきた律法の専門家のように、本末転倒になってしまうことは教訓なのです。人間の行いでは守りきれないのです。そのもっぱらの原因は肉を持っていることです。肉の愛では律法の要求を満たすことはできません。つまり、完全な愛がなければ律法を守ったことにならないからです。その愛は、聖霊がもたらすことによって得ることができます。それで、ペンテコステの聖霊降下が必要だったのです。それ以来、聖霊のバプテスマは求める者に与えられてきました。イエス様に聖霊でバプテスマしていただけるように、求めて祈り続けましょう。(さくま)

 

4月13日(月)

悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

マタイ5:4

 

自分が悲しむ時とはいったいどんな時だろうか。現に今すでに悲しみの中にいる人ならば、その意味を知っているのでなんとか言葉にできるかもしれない。あるいは、自分の人生を何年生きてきたとしても引きずる悲しみというものだってあるものだ。何度も思い出して悲しみに引き戻されてしまう経験だ。笑って生きて行きたいと願っていても悲しみは訪れるものだ。その悲しみもいろいろある。相手のある悲しみも、一人痛みに耐える悲しみも、叫びだしたくなる悲しみもある。特にいけないのが自分一人頑張っているのに愛する者がちっとも助けてくれないと嘆く悲しみがある。その相手を愛しているのか愛していないのかわからなくなる悲しみだ。おそらく、あなたにも思い出したくない悲しみの記憶があるだろう。クリスチャンの場合は罪と関わるどうしようもない悲しみがある。こんな自分では天国へ行けない、罪に汚れている、と嘆いて悲しんでいる自分がいて惨めになる経験をしたことがあるだろうか。悔い改めるたびに悲しくなる弱い人間に、イエス・キリストは近づき、もう大丈夫だと声をかけてくださる。どんな悲しみの中にいても主は慰めてくださる。私たちが悲しむしかない存在あることを知っている主は、どこまでも憐み深いのだ。だから、素直に主にすがってみるといい。慰めを受けるべきだ。主は、今日もあなたを招いておられる。もう、心配することはないと。愛を込めて主は、もう悲しまないで慰めを受けよと語っているのだ。だから、主よ私を憐れんでくださいと、声を出してみよう。(サクマ)

 

4月14日(火)

木材の半分を燃やして火にし/肉を食べようとしてその半分の上であぶり/食べ飽きて身が温まると/「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り/ひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と。彼らは悟ることもなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず/心もふさがれていて、目覚めることはない。反省することもなく、知識も英知もなく/「わたしは半分を燃やして火にし/その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。残りの木で忌むべきものを造ったり/木の切れ端を拝んだりできようか」とは言わない。

イザヤ44:16-19

 

今日も長い箇所で申し訳ありません。しかし、人間の愚かさをまるでコントを見るように描いているものですから、つい長い引用となりました。この人間の愚かさはどこからくるのでしょうか。現代は宗教離れがささやかれていますが、信仰宗教はそうでもなさそうです。ある人たちは私が牧師であると知ると、すかさず「実は、私は無宗教で・・・ええ、無神論なものですから、すいません」と名刺を渡すようにきっぱりとおっしゃる。言外に「だから、間違っても私に宗教を勧めたり、勧誘しないでくださいね」と見えないバリヤーを張っているようです。そして、私が抵抗しないとわかるとようやく安心して、もう安全地帯にはいったからねと、顔がそう言っているのです。面白いことに、そのような人たちも今日の聖句に出てきた人と同じ性質を持っているのです。真理はどのように外見を変えても一つなのです。つまり真の神がただお一人いるだけで、他は偶像ということです。そもそも偶像は存在しない神なのです。だから、神ではありません。人間の心が生みだすものなのです。偶像は、人間の心からはみ出てきたものでしかありません。聖書は目がふさがれていて見えないのだと語ります。おそろしいことに目が見えていると思っている人も、真理に対しては見えていないこともあるのです。他人のことはいがいと見えているものですからわかると思いますが、人の心は複雑で、不安がいつも潜んでいます。それだけでなく、欲も大きな部分を占めているものです。何かしらコンプレックスを持っていることも珍しくありません。そこで、目に見えない心の中の問題が時に偶像となって出て来るのです。何かにすがりたい衝動もありますが、ストレスにさらされるこの多い現代人は特に真の神を知らないので、何に頼ればいいのかがわかりません。まさか、自分を助けようとする良い神がいるなどとは思えないのです。自分勝手に生きたいので、都合の良いランプの精のような自分の命令を聞く偶像が良いと思ってしまいます。真の神は自分を制約し、少しでも悪いことがあれば裁く恐ろしい存在で、なんとか逃げだしたいと思う相手でしかありません。本当は、真の神だけが罪を赦し、愛しぬいてくださるのに、何の実体もなく空しい偶像を自分で作って拝む愚かさを神は嘆いているのです。目が開かれて、何が真実であるか知る事ができるといいですね。クリスチャンは、目を開いていただいたのですから、人々に伝えることが求められているのです。(佐久間)

 

4月15日(水)

エリシャが、「何をしてあげられるだろうか。あなたの家に何があるのか言いなさい」と促すと、彼女は、「油の壺一つのほか、はしための家には何もありません」と答えた。

列王記下4:2

 

今日の箇所は、新共同訳ではエリシャの奇跡と見出しがついています。もしお時間があるようでしたら、聖書を開いて4章1節から7節までをお読みになると良いと思います。とても面白い箇所です。話のあらすじは、エリシャの元へ預言者仲間の妻がやってくる場面からはじまります。夫が亡くなり、債権者が来て子供を奴隷として売ると言うのです。そこで困って妻はエリシャを頼ったのです。今日のみ言葉は、その時にエリシャが語った言葉とそれに答えた女の言葉です。いくら貧しいといっても家に残ったものがただ油の壺一つということにまず驚かされます。小麦と油があればパンが焼けるのですが、あるのは油だけです。聖書をよく御存じの方ならば、油が聖霊の意味を持っていることをご存じでしょう。ここには、教訓が秘められているようです。亡くなった預言者は、負債だけ残したように見えながら、実は聖霊の器を残した。そして、エリシャの命じた事は、子供たちに外に出て近所から器を借りてこさせることでした。その借りてきた器にこの女が油を注ぐと油が湧いてくるので尽きることが無いというのです。そして、もうこれ以上は器が無いとなって油は止まったというのです。これは、伝道のことを言っているのではないかと思われます。器はもちろん人間です。その器である人間に油で現している聖霊を注いで一杯にすることが奇跡物語として書かれているのではないか、と見るのです。空の器は、まだ聖霊の恵みをしらない未信者の人達です。聖書の物語は、この油を売って負債を返済し、残りのお金で子供と生計をたてるようにということで終わっています。人間の問題は実は聖霊の満たしによって解決することが多いのです。やがて、新約時代を迎えてペンテコステを経験した聖徒たちは、この物語のように聖霊を空の器に注ぐように、伝道を展開して行きました。そして、終末時代に私たちはそのペンテコステから始まった伝道を完結させて、油を注ぐ器はもうありませんと言う日が来ると思います。その日が早く訪れるように油を注ぎ続けたいものです。(佐久間)

 

4月16日(木)

さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。

使徒10:1-5

 

聖霊のバプテスマという現象は本当にあります。聖書自身がそのことを証言しています。そして、実例として使徒言行録にはペンテコステ以外にも少なくとも三ケ所の記述があります。パウロ個人の経験などは含んでいません。その中でも、私たちと関係のある個所は、異邦人にも聖霊のバプテスマが降ったという記録です。それが今日の聖句箇所です。主人公はコルネリウスと言うローマの百人隊長です。驚くべきは、彼はイスラエルに派遣されて、そこでキリスト教に触れ改宗するわけです。そのいきさつが、ユダヤ人に始まったキリスト教が世界の全ての人の宗教になる大きな契機となったのです。特に心にとめることは、彼が天使に会ったことです。天使は、「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」と告げます。つまり、私たちの祈りや施し、あるいは献げ物や奉仕が神の御前に届くものだということがここからわかります。自分のことだけ考えた人生はつまらないものです。仕事に多くの時間をかけているとそれだけで人生は過ぎて行くので気がつかないかもしれませんが、クリスチャンは奇跡を起こすことができるのです。そして、神様にいろいろな方法で届くことができるのです。必要ならば天使が現れて、あなたに神様からのメッセージを伝えることだって起こり得るのです。神を信じる人と信じない人の間には実は大きな隔たりがあります。信じない人に奇跡はまず起こりません。だから、よけいに信じなくなります。一方、神を信じる人には奇跡は普通に起こります。それに気がつきます。祈りは聞かれるので、慎重になります。ここぞと言う時には聞かれる祈りをささげることもできます。このように祈りは信仰と結びついているので、信じることが関わっているのです。信じて祈り、それが見事に応えられると、もっと信じるようになります。そのようなことを繰り返して信仰は高い所へ昇っていくのです。もっとも、疑り深いクリスチャンもいます。信じることに熱心でない人もいます。それに、神様を自分の願いを叶えるためだけに信じている、異教徒のような考え方をする人もいるのです。そのような祈りは聞かれません。その人のためにならないからです。そのような判断がうまくできないのは、神をまだ正しく理解していないからです。聖書を読んでも意味がちゃんと理解できていないのです。それは、自分に都合の良い読み方をしている人に見受けられます。この世にしがらみを持ったままでは、神の道を進むことが困難になります。イエス様はとても厳しいことをおっしゃっていますが、別の時にそれは話しましょう。何からも自由になることが信仰の道なので、自分を捨てることが求められています。コルネリウスは、神への傾注が祈りとなり、施しとなって、それが自分を捨てることにつながっていったわけです。そうやって、神様を懸命に求めて行った時に天使が現れたのです。この先は、ご自身で聖書をお読みください。面白いですよ。(佐久間)

 

4月17日(金)

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

コロサイ3:12-14

 

クリスチャンとはどのような人ですか?と聞かれれば、今日の聖句を思い出しましょう。これらは徳目と呼ばれるような品性を身につけた、人として理想的な姿ですが、このようなことが良いと誰でもわかります。しかし、なんのためにこのような徳を身につけていくべきかと言えば、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」からです。そこで、この部分がしっかり理解されていないと、徳を身につけることがうまく行きません。クリスチャンにとっては、イエスの徳の高さを目指すことが目標ですからこの箇所も重要となります。そして、ガラテヤに出て来る御霊の実がイエス・キリストの品性であることからも、聖霊の働きによらなければ達成できないことと、今日の聖句にある通りの信仰の動機づけが肝心なのです。私たちは、クリスチャン品性と言えばすぐに愛と答えますが、愛の実践が難しい事も知っています。それは、今日の「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」という部分がまずはじめにあることをよく理解していないからです。今日の聖句を瞑想してみましょう。(佐久間)

 

4月18日(土)

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。

詩編32:5-7

 

親は子供のために最善を尽くします。そうでないと子供はちゃんと育っていかないからです。それだけではなく、自分の子供は特別に可愛いものです。その子どもがどんな子供であっても可愛いのです。だから、親は子供に正しい道を教えて立派な大人に育ってくれることを願い続けます。そして何よりも子供の幸せを願うものです。ところが、子供は成長過程では親の言う事を聞かずにいたずらをしますし、たくさんの失敗をします。親は子供のために考えます。時にしかり、罰を与えることすらあるでしょう。しかし、親が一番子供に願うことは何でも正直に親に話してもらいたいということです。悪いことをした時でも、素直に謝ってほしいのです。それは、人さまに何かひどいことをしてしまったなら、なおさら悪かったことを認めて謝ることが大切だと教えます。私が子供の頃、父親の大切にしていた高価な花瓶を壊してしまったことがありました。いけないと言われていたのに、部屋の中でバットを振っていたのです。それがみごとに花瓶にあたり、こなごなに砕いてしまいました。なんとか、接着剤でくっつけてごまかせないかと試しましたが、難しいジグソーパズルより細かなかけらとなってしまい直せませんでした。その日は、父親が帰ってこなければいいのにと思っていましたが、残念ながら夜になって帰ってきました。普段なら嬉しいはずなのに、この日に限っては逃げ出したい気分でした。そして、父親が家に入ってきたのです。母親がうながすのでしかたなく、正直に花瓶を割った事を告白しました。そして謝ったのです。すると、父親はあっさり赦してくれたのです。しかることもありませんでした。すぐに謝ってよかったと思いました。それまでの重い気持ちが一気に晴れました。父は寛容だったのです。天の父も同じです。いやそれ以上です。なぜ、クリスチャンが幸せでいられるのかは明らかです。それは、気が重くなるようなことをいつまでも心に貯めていないからです。神様に何でも祈って、自分の過ちや後悔を悔い改めているのです。それは、親が子供に隠し事をしないで、いつでも正直にいて欲しいと願うのと同じように天の父なる神様も私たちに正直であってほしいのです。そして、心を悩ませていてほしくないのです。神様と笑顔で呼んで欲しいのです。でも、何か罪を犯せば、とたんに神様を避けて背を向けてしまうものです。だからこそ、そのような時は、イエス様に謝るのです。気持ちよく生きた方が良いに決まってます。神様に赦される喜びは、全身に命がみなぎってくるようです。神様はあなたを愛してくださる絶対的なお方なのです。(さくま)

 

4月19日(日)

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

マタイ18:12-14

 

誰が迷子の羊なのでしょうか。私がまだ幼稚園児の時に、引っ越しをすることになりました。日曜日の朝、私は誰よりも早く目をさまし、今日が大切な引越しであることなどすっかり忘れて、家を出て近くの公園に行きました。すると、近所のお兄さんたちに出会いました。彼らは今日は遠くまで冒険に行くところでした。それで、私も連れて行ってもらうことになりました。今まで来たことも無い知らない道をどこまでも歩いていくのです。そのうち、パトカーがやたら走りまわっていました。私はお兄さんたちからお弁当のパンを分けてもらい、すっかり引越しのことを忘れて、楽しくてしかたなかったのです。そして、夕方ちかくに戻ってくると、何やらパトカーがとまり、警察の人がたくさんいるのです。走っていくと、なんとそれは私の家だったのです。母親も玄関前に立っていました。それから大変でした。もし、聖書に100匹の内、一匹ぐらいはいなくなってもしかたがないから探さないでもよい、と書いてあったなら、今頃私はどうなっていたかわかりません。私の家の人たちは帰ってこない私が誘拐されたと思ったのです。警察まで必死に探してくれたのです。刑事さんや家族にも叱られましたが、無事に帰ってきたので家族は涙を流して喜んでくれました。イエス様は、私のような小さな者でも捜し出してくださいます。世の中には素晴らしい人はたくさんいるでしょうが、そうでない人もいるのです。イエス様はこの小さな者を軽んじ無いように気をつけないさいとおっしゃいました。そして、もし道を迷ってしまったとしても、自分で戻る事ができなくなっても、ちゃんと探しに来てくださる方が一人だけいます。それがイエス様です。だから、イエス様について行きたいのです。自分の価値をイエス様はちゃんと分かってくださるので、自信をもって生きて行けます。イエス様が見ていてくださればそれでいいと思えるのです。ありがたいことです。(さくま)

 

4月20日(月)

人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても/聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことを/あなたの心はよく知っているはずだ。

コヘレト7:21-22

 

人の悩みの大半を無くすには、「人の言うことをいちいち気にするな」という知恵の言葉を実践することです。誰かが、人が自分のことをこう言っている、あー言っていると気に病む事はおそらく誰にでもあることだろうが、いいかげんもうそうゆことからは卒業したいものです。上司は部下に悪口を言われ、上司もあたりまえのように部下の悪口を言うかもしれません。人から不当なあつかいをうければ、怒るだろうし、頭にきて呪うことだってあるかもしれない。このようなことは、当事者だけにとどまる事はまれで、たいてい誰かに話して一緒に悪口を言って憂さを晴らしたり、自己を正当化したりするものです。自分が同じことをしているのに、自分のことは棚に上げて反省することもないのです。聖書は、このような愚かしいことを素通りすることはありません。この御言葉を知恵として身につけたいものです。そうすれば、あなたは器の大きな人になります。精神的にも強くなり、強靭な精神力も手にすることになります。自分のことを人がなんと言おうが、それが中傷や悪意ある嘘であったとしても、聞き流してしまえる人になることができた最高です。つまり、人に左右されない生き方です。主の御目に正しい生き方をすれば、人に脅かされることはありません。たとえ、誹謗中傷されて、孤立したとしても、信念をもって正しく生きぬくことです。人間は誤解して悪者扱いするかもしれませんが、神は公平な裁判官なので、神御自身が正しさを証明し、祝福をもって報いてくださいます。だから、信仰者はこの世の人のように右往左往したりしないことです。主に自分の苦境を伝え、助けを求めればいいのです。詩編にはそのような祈りが多数書かれています。この世界が本当に必要としているのは、そのような正しい人です。自分の弱さを知っていれば、人のことを赦せるでしょう。今日覚えることは、「人の言うことをいちいち気にするな」という言葉です。それがどのように恵みとなるか、早速試してみましょう。(佐久間)

 

4月21日(火)

いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。主よ、その人を守って命を得させ/この地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください。主よ、その人が病の床にあるとき、支え/力を失って伏すとき、立ち直らせてください。

詩編41:2-4

 

人生には困った時が存在します。災いがふりかかる時、病に侵されてしまう時、最も自分の弱さを痛感する時があるものです。その時に、クリスチャンは聖書にすばらしい約束が書かれているので、その約束を信じて困難を乗り切ることができるのです。内住する聖霊もあなたのために執り成してくださいますが、どのように天の父の御座に祈りを昇らせているのかと言えば、今日の聖句のように最も適切に執り成してくださるのです。ですから、これらの約束を自分のものにするためにも、あなたのするべきことを覚えましょう。それは、「弱いものに思いやりのある人」となることです。簡単そうに思えますが、実はそうたやすくはありません。人間関係を考えてみればわかります。いじめを受ける人間はいつでも一人です。その一人を守ろうとすれば、自分がその人に代わっていじめの対象になったりするものです。だから、イエス・キリストがなぜ十字架についたのか理解できるのではないでしょうか。そこで、クリスチャンはキリストの弟子であることを自覚している必要があります。自己犠牲の愛という言葉を聞いたことがあると思いますが、中途半端な愛などなんの助けにもなりません。ただ、今日の聖句をよく読めばわかりますが、この祈りには「この地で幸せにしてください」という言葉もちゃんとあるのですから、結果はいつでも幸せになります。そこで、あまり心配することなく、堂々と正しい事を実行する事です。特に弱い人に思いやりをかける時には、上から目線ではいけません。どんな人も対等で、その人を認めていなければなりません。その人の本当の良い所を認めてあげることです。その事により、その人が正しい道に立つことがきっとできるようになります。それは、自分を幸福にするでしょう。どんな困難が生じようが、クリスチャンは必ず乗り切ることができます。前向きな気持ちを忘れないようにしましょう。それでも心配になれば、イエス様、イエス様と連呼しましょう。不思議な事がきっと起こります。だから、今日も元気に始めましょう。(さくま)

 

4月22日(水)

そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

ルカ7:21-23

 

バプテスマのヨハネが二人の弟子をイエスの元に行かせて、イエスこそがキリストであるどうかを確かめさせます。その時のイエスの返事が今日の聖句です。そのイエスのお言葉を聞けば驚くばかりです。これは、ただの言葉ではなく実際に見聞きしたことなのです。このようなしるしを現した者が今までにあったでしょうか。このうちの一つでも行えば大したものです。現代でも癒しをする者はいますが、これほどの力を持っている人はいません。過去にもいません。ただイエス・キリストだけがこのような奇跡を圧倒的に行ったのです。これは、神の御業であって、人間にはとうていできるものではありません。しかし、この聖句の最後の言葉が気になります。「わたしにつまずかない人は幸いである」と主は言われました。どうしてでしょう。これだけの奇跡を目の前で見ても信じられない人がいたのでしょうか。実際に当時のほとんどの宗教家たちや支配者たちは信じなかったのです。人間の不思議ですが、自分のこだわりや思い込みが強いと、目で見たことですら信じないのです。相手がイエス・キリストであってもそうなのですから、私たちが正しい事をしたり行ったりしていてもそれを否定されたり拒否されたりすることは起こり得ることなのです。ですから、あなたが人から不当なあつかいをうけてもがっかりしないでください。主も同じように人から拒まれ否定されたのですから、しかたがないのです。問題は、主イエス・キリストにつまずく人がいることです。そういう意味でも、主イエスは人を分ける試金石のような役割を担っているのです。主イエスを見て見分けるということは、今日のみ言葉で見れば、これだけの奇跡を行って無償で人を救っておられる主のお働きを見て、どう反応するかということです。心が問題になります。自分の心がキリストのお働きを見て、心の通りに反応するのです。そこが問題です。どのような心を作ってきたのかということです。つまり、自分のこだわりに固執したり、頑固になったり、弱い人を受入れることができなかったり、ひがんだり、ねたんだり、高慢だったり、貪欲だったりすれば、キリストを見極めることなどできないのです。謙遜であればきっとキリストを見分けます。貧しくても心をいやしくしないことを守ることです。誰に対しても偏見を持たないで、真実を見る心が大切です。人の心の声は聴こうとする人にだけ聞こえるものです。聖書を学び、キリストを知ろうと努めれば、人の正しい生き方が自ずと身についてきます。それが嬉しいのです。あなたが信じた主イエスは、すごいお方なのですよ。決して大昔の人ではなく、今もちゃんと生きて働かれるお方です。力ある主を讃美しましょう。主の栄光をほめたたえましょう。ハレルヤ!(佐久間)

 

4月23日(木)

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

マタイ11:28

 

疲れたら休めばいいのですが、それが意外と難しいのです。疲れていても倒れるまでは休めない人がたくさんいます。休むことが効率を上げることも科学的に分かっているのですが、それを制度にして徹底してくれないと休めないのです。もっとまずいのが、人生に疲れてしまうことです。よく考えてみれば、小学生の頃クラスの中にはいろいろな子供がいたはずです。それが大人になると、まるで子供の頃の自然な姿が見えなくなり、皆外見は同じような社会人になります。しかし、人の本質は変わる事は無いので、精神的にしっかりと成長していなければ、驚くほど疲れてしまい、また見えない重荷を負ってしまうことになりやすいのです。目に見えるものならばまだなんとかなるのですが、見えないものはどうすればよいのかとほうにくれてしまいます。誰でも、心を暗くし心が沈んで重くなることがあります。何度も思い出しては苦しむことも解決が難しかったりします。クリスチャンになった人たちの中には、今日のみ言葉にであって、イエス・キリストを信じた人たちがいます。その人たちは、人間の力では下ろすことのできない重荷をようやくおろしていただいたのです。心配事から解放されて、安息をようやく得ることができるのです。もし、あなたが何か心に悩みがあるのなら、今日のみ言葉が自分に語られたと救いの言葉と思って、イエス・キリストに重荷をおろしていただきましょう。精神を休ませることなく悩まし続けていた見えない力を取り去り、本質的に問題の解決を主イエスはやり遂げてくださいます。あなたの周りにはいろいろな問題が無いとはいえないかもしれませんが、あなたを絶対助けてくださる救い主がいます。だから、気がつくと悩むことがなくなります。状況が変わっていなくても、平気でいられるようになります。主を信頼しているので、主は決してその信頼を裏切りません。期待以上の結果が待っているだけです。ですから主のお言葉に従ってみましょう。主のもとに行ってみましょう。良い事が待っています。(佐久間)

 

4月24日(金)

若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。

イザヤ62:5

 

結婚式の司式を何度も行ってきましたが、それはどれも大変すばらしいことでした。花婿の緊張と花嫁の緊張は異なっているように見えます。式の途中で花嫁は感極まって涙を流すこともあります。ですから、花嫁のそれは感動と喜びから来る緊張感なのです。花婿は花嫁を迎えるために先に登壇します。その時の顔は緊張そのものです。そして、いよいよ花嫁が入場すると花婿の表情は一変するのです。花嫁の姿を見ると大きな喜びが全身に広がるようです。そして、うっとりと花嫁に見とれてしまうのです。そのために、花嫁を迎えに行くタイミングを忘れてしまうほどです。会堂の一番後ろで係の人が花婿に気づかせようと必死に手を振って合図しているのに花婿はなかなか気づかないのです。イエス様はあなたと結婚しました。聖書はそうやって一番わかりやすい方法で神様があなたをいかに愛しているか、そして、人生最大の喜びである結婚式の花婿の気持ちを譬えにあなたと結婚することがどんなに大きな喜びであったか、そのことを理解して欲しいのです。もうあなたに夢中ですっかり見とれてしまったのだよ、と伝えたいのです。ですから、あなたほど主に愛されて幸せな方はいません。主は愛そのものなのです。さて、今日の聖句はエルサレムに対して神様の愛を預言している箇所ですが、敵に破壊されたエルサレムを主が再建することが触れられています。ここも、罪に破壊された人間をイエス様が救い、再建してくださるという意味で理解することが可能です。新約聖書の記述にも一致します。何しろ、クリスチャンは聖霊の宮と言われているぐらいですから。このように、あなたは主に愛されている特別な方であることを忘れないでください。あなたは、洗礼を受けてから再建が始まりました。まだ完成していないでしょうが、着々と出来上がって行くのです。主の愛に応える良き伴侶であることを覚え、今日も元気に過ごしましょう。(さくま)

 

4月25日(土)

わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。

詩編62:6,7

 

人生のピンチの時に今日の聖句は、きっと励ましとなるにちがいない。でも、平和だと感じている平凡な日々にはどうだろう。たとえば、今日だ。特に人生が破たんするほど困っていることはないだろう。それでも、考えれば小さな悩みぐらいは見つけられるかもしれない。残念ながら世の中には善人ばかりが住んでいるわけではないから。それで、重要なことは私たちの祈りが、くだくだと神様への注文や命令になっていないか、ということだ。私たちが考えた通りに神様がするように、こうしてください、あーしてください、とか、私がこんなに困っているのに何をさぼっておられるのですか、もうがまんできません、なんて祈っていないだろうか。信仰の極意は、「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている」ということに尽きる。神様にゆだねるように教えられたはずだが、古い自分が生きている限り、ゆだねることはとっても難しいはずだ。聖霊は、私たちを悔い改めに導き、回心させ、罪の清めへと導いてくださった。おかげで、洗礼を受けてクリスチャンになることができた。しかし、それで聖霊の働きが終わったわけではない。水のバプテスマが古い人が死ぬことであったように、聖霊のバプテスマは新しい人として生きることだった。つまり、聖霊が私たちの内に入り命となってくださったのだ。それは、神様を知り、御言葉を正しく理解することになり、何と言ってもイエス様の命じられたことを守れるようになるということなのだ。そして、聖霊は聖化のために働き続けてくださる。それで、これらが可能となるために必要だった信仰は、今日の聖句がよく表現しているので、ここから自己診断することも益となるだろう。最後の「わたしは動揺しない」と同じように言えるだろうか。古き人に死に、神様にゆだねきることができたなら、きっと自分の魂は同じ言葉をつぶやいているだろう。(さくま)

 

4月26日(日)

わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。

詩編139:14

 

私は、クリスチャンに、自分のために神様が与えてくださった才能を認めるように手助けすることがある。驚くほど、人々は自分のかけがえのなさにまったく気がついていない。ただ、人と比べて不満を募らせたり、落ち込んだり、自信を失ったりしていることが多い。多分、才能は芸術のようなものとかスポーツのようなものが分かりやすいので、そのようにわかりやすい分野でないとあとは、才能無しと決めつけてしまう傾向がある。そこで、聖書はなんと書いてあるか調べてみれば、今日の聖句のように書いてあるのだ。「わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている」と。つまり、神様はあなたを適当に造ったのではない。人間など想像もできないような卒倒しそうなものすごい御力で、創造の力の限りを尽くして、最高の人間として造り上げてくださったのだ。しかし、そのことを自分の魂が知っているということを覚えてほしい。どのような環境で育ったかはしらないが、たとえ恵まれない環境の中で育ったとしても、それが神様が造られたあなたの本質にマイナスをおよぼすことなどないのだ。ただ、古い私はいじけていたり、不当なあつかいに降参して傷ついたままでいることはあるだろう。そして、残酷な悪魔はあなたの耳元で、あなたには何の才能も無いからあきらめるようにとささやき続けたかもしれない。しかし、この世界を神様が創造したので、あなたにはちゃんと立派な役割があるのだ。それは、他の誰も代わることのできない特別な役割だ。あなたにしかできないことがあるということだ。それは、速く走ったり、遠くまでボールを投げたり、上手にダンスを踊ったり、歌ったり、上手に絵を描いたり、美味しい料理を作ったり、一口食べたら幸せにさせるお菓子を作ったり、人を元気にさせるエッセーや、感動させる小説を書いたりすることかもしれないし、そういった人の目につくことではないかもしれない。ただ言えることは、自分を通してでなければ神様はこの世界で果たせないことがあるということだ。だから、私たちはこうすることにした。神様のために何でもやってみよう。その時に、神様から与えられた才能を最高にまで生かそう。そうしなければ、神様が成し遂げようとされたことができなくなってしまうから。あなたには神様のためにできることが必ずあるはずだ。それは、ワクワクするほど最高に楽しいことだと思う。そろそろ目覚めて最高の働きをしてもいいころじゃないだろうか。(さくま)

 

4月27日(月)

いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

詩編1:1-3

 

紅シャラという木を買いました。人生とは思うようにはいかず、運動不足解消に今日こそウォーキングをしようと決意して家をでたのですが、途中で植木園があり、ちょっとのぞいてみようと旺盛な好奇心のために入ってしまったのです。そこで、いろいろな木を見ているうちに気がつけば木を購入していたのです。紅色の実をつけると言われたからか、同種の他の木よりも形がよかったからか、はたまた隣の柿の木が二万円もしたので紅シャラが超お得に感じてしまったのか、ただウォーキングをしようと思っただけなのに、木を買ってしまいました。だから、たかがウォーキング、されどウォーキングなのです。おかげで家に戻って愛車ヴォクシーの荷物を全部降ろして植木園に戻り、自ら木を運んだのです。みなさん、うっかりウォーキングなどでかけないことです。しかし、その紅シャラがペットのように可愛く思えるのは不思議です。そういえば、植木屋さんが「可愛がってやってください」と言ってました。都会に住んでいると木のことなどすっかり忘れているかもしれません。しかし、聖書には木のことがちゃんと書いてあります。それも、人を象徴するものとして出てきます。木を育てれば、人間の成長のこともわかるのです。そして、今日の聖句は人に繁栄をもたらす成功原則が書かれています。神様が「なんと幸福なことでしょう」、とおっしゃられる人の姿が書かれているので、私たちはすぐにその通りにすればいいのです。それが幸福の秘訣です。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」とあるように、詩篇第1篇を暗唱しましょう。たぶん、ウォーキングの時に聖書を暗唱していれば、木を買わなくもすむかもしれません。私の場合は後悔はしていません。それどころか喜んでいます。念のため。

(さくま)

 

4月28日(火)

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

エレミヤ29:11

 

 

萩本欣一さんが大学に合格して入学式に出席しているニュースが流れていました。すごいことです。暗いニュースばかりを聞いてきた人々に何か喜びや希望を与えた良いニュースでした。人間、何歳になっても夢をもってそれを実現させようと努力する姿はすばらしいものです。クリスチャンも同様に、肯定的に物事をとらえ、将来に希望を持つべきです。それを裏づける聖句が今日のみ言葉です。神様はあなたのために計画を立てておられます。この地上の何十億と人間がいても、あなたのための良い計画は神様のお心から忘れ去られることはありません。あなたがもっと成長するように試練を沢山用意しようというようなことはないのです。神様の計画は話材の計画ではありません。あなたが心から喜ぶことができるように希望にあふれた計画なのです。あなたは、毎日の生活に流されてはいませんか。同じような事の繰り返しで、すでに将来に心躍らせるような事が起こるとは思っていないのではないですか。もし、将来のことを不安に思っているのならそれは賢明ではありません。もし明らかに不安が見え隠れしていたなら、それに立ち向かえばいいのです。簡単に音を上げるような情けないことにならないように、信仰を現しましょう。聖書には、私のために神様が平和の計画を立ててくだっていることが書かれている。それは、「将来と希望を与えるものである」と主は語られる。それゆえに、たとえどんな困難が待っていても、必ず良い面に目を留めることにしよう。神様のお言葉を疑わないで、信頼をいつでも現すことにしよう。それにしても、ありがたいことです。主の恵みは具体的なのです。そして主は約束を必ず実現させられるお方なのです。だから、ニッコリ笑って明るく生きることにしましょう。(さくま)

 

4月29日(水)

イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

マルコ5:34

 

イエス様のお言葉は不思議です。でも、重要なことを教えていることは確実です。このお言葉をかけられた女の人は、12年間も病気に脅かされてきた人です。治らない病気ほど辛いものはありません。だから当然、なんとか治りたい一心で良い医者を捜して高額な医療費を払い続けて、財産をすっかり失ってしまいましたが病気はそのまま治りませんでした。これがこの世の現実です。ところが、救い主がある日目の前に現れたのです。この人がもし病気でなかったら、果たしてイエス様に救っていただいたかどうかわかりません。彼女は病気で何もかも失ったので、イエス様に癒していただきたくても何もお礼ができなかったのです。それで、せめて衣の裾についている房に触れさせていただければ、奇跡が起こって癒されるに違いないと信じたわけです。負い目があって自分には資格がないと思っていても、それでもイエス様にすがるしか救いはないと確信すれば、直接治療していただかなくても、お体のどこかに触れることがなくても、その衣服の飾りであっても、きっと触れば癒されると信じたのです。牧師になって良く分かったのは、本当に信じたら奇跡は起こるということです。信じた気になるぐらいではだめです。そして、よっぽど困らなければ人はイエス様のもとへ行って、信じる信仰をふりしぼらないということです。一途に信じる信仰をイエス様は無にしません。この女性は、長年苦しんできた病気が治りたい一心でイエス様を頼ったのでしょうが、肉体の命だけでなく霊の命も救っていただいたのです。その霊的命こそ、「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様がお語りになった内容だったのです。イエス様はお優しいので、身体のことも気にかけて「もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」とおっしゃいました。だから、生活習慣病のように、何か生活を変えなければいけないことだったかもしれません。癒された人が注意する点です。生活を正しく健康的に変えないと、同じ病気にかかる危険性があるのです。でも、イエス様にお言葉をいただけば、心強いですね。このように、イエス様のもとへ行って、問題を解決することは最も正しい賢明な方法なのです。自分が意識している以上の完全な癒しと救いがそこにあるからです。すぐにイエス様のもとへ向かいましょう。へりくだって、イエス様が癒してくださると信じましょう。(さくま)

 

4月30日(木)

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください

ローマ15:30

 

あなたは誰かに自分の為に祈ってもらっていますか。クリスチャン同士では、祈って欲しいと願うことは良いことです。特に、何か問題が生じた時には一人で悩まずにその時に示された人に祈りを願うことは賢明なことです。主もまた、「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:19-20)とおっしゃっておられます。ですから、そのような祈りの願いをしたことの無い人は、聖霊の導きを求めて、必要な時にはちゃんと誰か信頼できる人を祈り手として与えてくださるように願うことです。牧師も喜んで祈ります。一緒に祈ることで、心を強めることは正しいことです。パウロも真剣に祈ってくださいと頼んでいますね。ですから私たちも何か問題を抱えたり、天の助けを必要としたり、悪魔の攻撃から守って欲しいときなど、誰かに祈ってほしいとお願いすることが大切です。祈りの力は絶大なのです。天の父を動かすことができるほどすごいことなのです。このように聖書に書いてあるのですから、一人で途方に暮れていないで勇気を出して、祈ってくださいとお願いしてみましょう。すばらしい奇跡と助けとは天からきます。(佐久間)