2015年5月

 

5月1日(金)

ああ神様。賛美が私の口からあふれてきます。大喜びであなたへの歌をささげましょう。・・・神様の恵みは測り知れず、その真実は天にまで達します。ご栄光は、大空を突き抜くようにそびえています。目をかけていただいている私の叫びが、お耳に達したなら、どうか救いにおいでください。

詩編108:1、4-6(リビングバイブル)

 

毎日、真面目に頑張って生きていても試練の日が訪れることがあります。その時に、その人が測られているのですが、当事者としては自分をさらけ出すだけです。苦労の多かった人は忍耐心が身についているだろうし、自分を甘やかして生きてきた人はうろたえるだけで自分自身を守ることもできないでしょう。試練を乗り越える方法もいくつかあるでしょうが、信仰はその中でも最強のものなのです。今日の聖句を見てみると、この人は神様を讃美することが大好きで、大喜びしているのですから、きっと何か祝福されて幸福なのだろうと思えてきます。しかし、最後まで読んで行くと、「私の叫びが、お耳に達したなら、どうか救いにおいでください」とあります。つまり、この詩人は困っているのです。神様の御力で救っていただかなければならいような、困難な問題に直面しているのです。それなのに、なぜこの人は神様を賛美しているのでしょうか。そこに、信仰が見えてきます。神様を知ることは信仰から始まります。何か見返りを求めて神様を信じているわけではありません。神様は初めから存在されているのです。その神様が創造した被造物にしかすぎない人間なのに、神様は身をかがめて愛してくださいます。そうです、神様の愛はあまりにも大きくて想像を絶します。なぜなら、この詩人も、「目をかけていただいている私の叫びが、お耳に達したなら、どうか救いにおいでください」と祈っているのです。「目をかけていただいている私」と言っていますよね。この詩人はわかっているのです。神様が人間を愛すとおっしゃれば、「その真実は天にまで達します」。圧倒的に愛されているのです。その前提がよく分かっているので、この詩人は神様を賛美しているのです。それが嬉しくてならないのです。これが信仰の力なのです。神様を信じる人は誰でも味わうことのできる不思議です。人間にとって心配事は日々現れてくるでしょうが、その時小さな心を震わせて私たちは神様を求めます。そして、心配を振り払うように神様の御言葉を読み、主を讃美するのです。そして、泉の清水をくむように喜びを湧き上がらせるのです。そうそう、祈りの極意は叫ぶことです。もう神様しか救いはないと必死にすがる姿のことです。ただ、神様を自分のエゴのために動かそうとしてはだめです。エゴはみにくいですからね。清々とした無私の心で祈りたいものです。そうやって信仰はさらにねられて行くのです。(さくま)

 

5月2日(土)

さあ、神様を試してみたらどうですか。そして、どんなに神様が恵み深いお方か思い知るべきです。神様に信頼する人には恵みが雨と降り注ぐことを、自分で確かめてごらんなさい。あなたが神様のものとなっているのなら、恐れかしこみなさい。そうすれば、必要なものはいっさい与えられます。・・・神様を敬う私たちに、祝福が足りない時などありません。

詩編35:8-10

 

神様を信じることがよくわからないと言う人がいます。まじめに信じようと思っているようです。しかし、何を信じようとしているのでしょう。多分、神様を信じようとしているに決まっているでしょう、と言うでしょう。しかし、実感の伴わない抽象的な神様を信じるというのはどうでしょう。誰にとっても難しいのではないでしょうか。神様は生きてこの地上で働いておられるのですから、個人的に神様を体験することは可能なはずです。今日の詩編詩人の言葉を見てみると、信じろとは言わずに、「神様を試してみたらどうですか。そして、どんなに神様が恵み深いお方か思い知るべきです」と言っています。試すと言っても文字通りの意味ではありません。次の句のようにです。「神様に信頼する人には恵みが雨と降り注ぐことを、自分で確かめてごらんなさい」。そうです、試すと言うよりも恵みを「確かめる」と言う方がより正しいと思います。確かめた人はわかると思いますが、神様を敬う思いが強いと神様との関係を鮮明にし、神様へ近づくことができるのです。神様の圧倒的な愛は人をこの世の重荷から解放します。神様は涙が出てくるほどありがたいお方なのです。信じれば信じるほど、恵みが雨のように降ってくるのです。本来は罪深くてとてもそのような恵みを受けられないと思っていたのに、主は私たちを助け、再生し、ご自分の霊で満たしてくださるのです。このように恵みを限りなく注いでくださるのは、初めのアダムやエバも同じでしたが、悪魔の誘惑に負けて神の無条件の愛を疑ったのです。それ以来人間は自分勝手に生きるようになりました。だから、今、私たちが同じ過ちを犯してはいけないのです。正しく生きていれば子供たちも見習うでしょうが、親が間違ってばかりいると子供は反抗するようになります。ですから、神様を慕って愛して神様の恵みの中に生きる道を選び続けることです。そすれば、悪魔の誘惑に勝ち、正しく生きることができるようになり、子供も親にならうようになります。神様を理屈で愛するのではなく、好きな人と同じように神様を求め、愛することです。なにしろ、既に神様はあなたを選び救い、そして祝福と恵みで満たし続けることを決めているのですから。信仰で応えることができますように。(さくま)

 

5月3日(日)

穏やかに答えれば相手も気を静め、激しくやり返すとけんかになります。

箴言15:1

 

心あたりのある人は、是非今日の御言葉を暗唱できるようにしてください。今までの人生で後悔があるとすれば、たいていがこの箴言を知らなかったからです。そのために人間関係を壊し、しこりがいつまでも残って、心を重くしています。なぜ、人間はこんなにも愚かなのでしょう。もし、この御言葉の通りに失敗してしまったなら、すぐに謝ることです。そして、教訓とすることです。もし、相手が失敗したなら、すぐに赦してあげてください。その人が賢い人であれば、もう二度と同じ過ちを犯さないでしょう。愚かな人であれば、同じことをまた繰り返すだけですから、その人から離れることです。自分がいつでも正しいと思い過ぎていると、どっちが正しいかでこだわってしまいます。それは誰にでも起こりやすいことです。自分の中にまだ高慢が残っていたと知る機会とすれば、悔い改めることができます。つまらないプライドを捨てて、黙ることも争いを防ぐ方法です。ひどい言葉を聞いても聞き流すことができるぐらいになれればすばらしいのですが・・・。とにかく一番は、穏やかに答えることができるように自分を整えることです。聖霊はいつでもあなたを助けて、争いから守ってくださるでしょう。気の短い人は、少し努力がいりますが、習慣となるまで自分を訓練してください。ついに穏やかに答えることが出来た時には、大きな喜びを感じてください。あなたは平和を手にしたのですから。(さくま)

 

5月4日(月)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

Ⅰテサロニケ5:16-18

 

何べん人に教えてきたでしょう。この聖句を・・・。これは人が幸せになる秘訣なのです。クリスチャンにとっては、正しい信仰の道です。たった三つだけですから守れるはずです。しかし、相談者の悩みを聞かされるたびに、この三つがいかに簡単に忘れさられるれているのかと痛感します。信仰の意味が理解されていないでしょうか。御言葉は真理なので、信じることがあって初めて効力を発揮します。その不思議を体験すべきです。義務でやるのではだめなのです。神様はこの世の支配力から自由にしたいのです。つまり、悪魔の支配するこの世で、クリスチャンが調子がいいと言い出すと、私は安心するのではなく不安になるのです。何か良くない事が起こる前ぶれだと思ってしまうのですが、たいていはずれることはありません。彼らは今日の三つの宝を土中に埋めてしまったのだと思います。人は困っている時は、一生懸命に祈るし、正しい教えを守るものです。しかし、ゆとりが生まれると油断するのです。悪魔は一度成功すると、同じ誘惑を繰り返します。悪魔の誘惑に勝利するまで、それはいつまでも続きます。あきれるほど単純ですが、効果があるのです。でも、もし同じ人が「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という御言葉を守っていたらどうでしょうか。結果は明瞭に異なってきます。この三つを守る事で、何が起こってもそれが原因で敗北することはありません。どんなに不安になるようなことがあっても、勝利は約束されているのです。聖霊は、この三つの宝を開いて意味を教えてくださるでしょう。そすれば、神様の奇跡を体験できるはずです。忘れていたと今日思った方は、神様があなたに思い出させておられることを覚えてください。早速、心を悩ませていたことが祝福に変わりますように。(さくま)

 

5月5日(火)

“霊”の火を消してはいけません。

Ⅰテサロニケ5:19

 

イエス・キリストは20世紀にさんざん実在の人物であるかどうか世界中の最高の研究者たちにより科学的にも研究し尽くされて実在した歴史上の人物であることが確定しました。実際、聖書以外にも古代のユダヤの歴史書に名前がでてきます。そして、十字架、復活、昇天と聖書に書かれたことが起こり、イエス・キリストの預言の通りにペンテコステの祭りの時に約束の聖霊が120名ほどの弟子たちに降りました。これがキリスト教のはじまりです。バプテスマのヨハネは「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と語りました。実際に、ペンテコステの出来事を使徒言行録は、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と記録しています。聖霊が炎のような舌のように描写されています。その後ですぐに聖霊に満たされた弟子たちが「ほかの国々の言葉で話しだした」のです。ここから今日の御言葉を考えると、異言で語ることをやめないように警告されているようにも読めます。勿論、第一義には、聖霊のバプテスマを受けた者が覚醒されて神の愛にあふれている状態を想起できます。ですから、内側に生きる聖霊がはっきり自覚できるように聖霊に服従して生きるように勧めているのです。それが、聖霊に逆らい、自分勝手にすれば聖霊は黙り、働かなくなります。不信仰であれば、聖霊は去っていくでしょう。昔、聖霊のバプテスマを受けた牧師が癒しをしていたのですが、教区長から叱られたのです。そのように霊的なことに理解のない人はキリスト教でも多いのです。それで、その牧師は自粛してしまったものですから、癒しの賜物が消えてしまったのです。後で後悔しましたが手遅れでした。同じような話は、結構耳にします。私たちは人間の社会で生きているのですから、その中でうまくやろうとすれば、聖書と一致しなくなるかもしれません。しかし、その置かれた所だけの狭い考えで人は生きていることが多いので、真理に触れるとたちまち、そうした伝統や皆なの考えと同じではいられなくなるものです。そこで、知恵が必要となります。妥協は真理から逸脱することなので問題外です。神への真実で懸命な生き方をクリスチャンは通すべきですから、賢くふるまう必要があるのです。真理は人を自由にするのですから、本当は全ての人の益となるのです。歴史に残るような名作を読めば、そこには現代では考えられない因習にしばられて人間が不当に苦しむ姿を見つけることが容易です。私たちは幸いに民主主義の国で信仰の自由を得ています。それでも、世俗化は信仰を脅かしていますから、聖霊の火を消す危険に満ちています。どうか、クリスチャンの方々はこの御言葉を良く考えてみてください。そして、自分の信仰や生き方を顧みてみましょう。人の生きる一生はつかのまなのです。神へと向かうならば、はっきり心が良いものを感じ取るでしょう。不安も思い煩いも消えて、喜びに変わるのです。祈りがそのことを導いてくれるでしょう。(佐久間)

 

5月6日(水)

しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

ローマ7:6

 

霊的な真理を理解することは容易ではありません。イエスご自身がお語りになったように、真理の御霊が降り解き明かしてくださらなければ、結局自分勝手に解釈する過ちを犯してしまいます。今日古い友人が訪ねて来ました。その方は、真面目な方でずいぶん苦労してこられたのですが、何十年かぶりに会ったのですが、まるで何かの呪縛に縛られているように、結局過去の過ちから何も学んでいないのかと不安になりました。今日の聖句は、パウロを通しての説明です。このはじめに「自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり」とあります。「縛る」というのは強い表現ですね。つまり、ある思想に洗脳されてしまうと肉は自由を失うということです。これは、文化や伝統でも起こるし、風習や慣習というようなその土地の習俗によっても起こります。それが宗教であれば、もっと強烈かもしれません。なにしろ、パウロは律法に対して死んで、それで律法から解放された、と言っています。それぐらい大変なことなのです。先の友人も、キリスト教の伝統的な教理ではなく、ある教派の独特の教えから自由ではありません。それに、人の受け売りではいけません。なんのための信仰でしょうか。神への信心があるのなら、宗教体験へと導かれるものです。そうすれば、言っていることが想像上のものか、実際に起こることか理解できるはずです。宗教は、二つの道があります。一つは、「文字に従う古い生き方」です。もう一つは、「“霊”に従う新しい生き方」です。この中間はありません。必ず、どちらかになっています。そして、聖書は「“霊”に従う新しい生き方」こそが正しい道であることを示しているのです。本来、教会がそのことを指導していたのに、急激にキリスト教へ改宗する人たちが増えたために、対応できなくなったことからおかしくなっていったのです。そして、聖書の御言葉を使って理屈を述べてもその人自身を変えることができないことがあります。多くのクリスチャンが現在の自分の様子を見て、天国へ行けると確信が持てずにいます。まじめなクリスチャンは、なんとかしようと生活改善や律法遵守に努力します。例えば、安息日などは土曜日に仕事を休み教会へ行けば守ったと思っているのです。世の人と異なった生活を実践できれば聖なる生活ができていると思っている人もいますが、肝心な人間関係を見ればそれらが本物かどうかわかります。そして、自分自身が罪に勝利しているかで、「文字に従う古い生き方」の人達は偽善者になるか、苦しむかというジレンマに陥ります。実際にイエス・キリストを十字架につけた人たちは、律法の遵守者たちでした。それは、知識も実践も現代人の及ぶところではありません。それでも、イエスを十字架で殺してしまったのです。だから、弁明の余地はないのです。それが間違いであることをパウロですら、はじめは気がつかなかったのです。だから、人間の教えではなく聖書を調べなければなりません。聖霊の助けを求めて、聖書に書かれていることと自分の信じてきたことが矛盾していないか吟味する必要があります。悪魔はこのへんの事情に精通しているので、無知な人たちを騙しにかかります。自分も追い切れない重荷を人に押し付けることがあれば、それは「霊”に従う新しい生き方で仕え」ている先生ではありません。いまだ律法に縛られている古い生き方の人です。どうして、このように真理が分かる人と分からない人に明確に分かれているのか不思議になります。願わくば、今日のみ言葉の通りになりますように。(佐久間)

 

5月7日(木)

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

ローマ3:21-22

 

ローマ書は、新約聖書の中でも特に重要な箇所ですが、その中でキリスト教の救いが分かるように説明があります。例えば、現代人は学校でも家庭でも道徳を教えることが難しくなっています。倫理は当の昔に捨て去られてしまったように感じます。つまり、情報化時代に進化して、昔ではありえないような情報洪水が起こっています。そのため、高齢者ではなく若年層の人達が多様な価値観を無秩序に知ることになります。世界には多数の真理があると思わされているのです。真理は一つでなければならないのに、多数あるものなのだと思ってしまう環境なのです。それで、真理探究とか極まるような人が激減しているのです。宗教は、もっぱらそのようなことを専門として扱っていたのですが、社会の激変とスピードについていけなくなっていて、もはや骨董品あつかいされているのです。しかし、人間が変わったということではありませんから、人間特有の精神の問題、心や感情の問題、目に見えない深刻な問題の解決する方法が見えにくくなっているのです。それで、個人的に勝手に霊的なものを求めて様々なことをやるようになりました。人類の歴史という大きな時間をかけて探求して知った知恵は遠ざけられているものですから、想像以上の危険が身近に迫っている状況です。今日のみ言葉は、律法、つまり何が不変の正しいことか物差しのような基準のことです。そのような者が明確にあれば、人間は正しくなるには律法を守るしかありません。それで、守ろうとするのですが、肉(生まれたままの状態のこと)の中に罪が宿っていて、それがことごく守れないように働いています。自分の意思は律法を守ろうとしているのですが、肉には欲望が隠れていて、少しでも誘惑されるとその欲望をコントロールできなくなって、罪を犯してしまうのです。あまりの無力に驚くのですが、それが人間の一番の問題なのです。ここからの解放を救いといいます。旧約時代を通じてアブラハムの子孫に律法を与えることで試してみましたが、失敗の連続でついにこの方法では無理である事がはっきりしました。そこで、新しい契約が与えられました。それがイエス・キリストによる救いです。そのことは旧約聖書に預言されています。「律法とは関係なく、しかも律法と預言者(旧約聖書のこと)によって立証されて」という箇所がそうです。さらに、「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」とあります。それは、文字通り、人間が救いのためにできることは、イエス・キリストを信じることだけだ、ということです。しかし、どうでしょう。これほど簡単にしても、どれだけの人がイエス・キリストを信じているでしょうか。今は、これ以上難しいことを考えることはしません。この先、だんだん考えて行きます。ただ、救いというものはどのような形で与えられたかということは覚えていてほしいのです。つまり、「信じる者すべてに与えられる神の義」という言葉です。信じたら救われると聞くと安易な気がすると思うのですが、実はもう少し深いことを言っています。それが、神の義を与えるということです。これが何であるか明確に分かれば、キリスト教の救いは分かったと言えるでしょう。逆に言うと、このことが良く分かっていないので、クリスチャンになった人たちに問題が大きく存在しているのです。この点を正しく理解して行きましょう。(佐久間)

 

5月8日(金)

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。

イザヤ50:4

 

クリスチャンは聖書を読んでこう思う、「私もキリストの弟子なのだろうか」と。答えは、勿論、弟子です。ですから、イエス・キリストのように語り、行動します。それは、頑張ってするようなことではありません。クリスチャンになる前は、何事も頑張らなければならないと思っていたかもしれませんが、それは肉の古い私の考えです。それがたとえ良いことでも頑張ってはいけないのです。せっかくイエス・キリストを信じて救われたのに、それをだいなしにするからです。聖書を良く読めば明らかですが、古い私は信仰によって、十字架で死なれたイエスと結び合されることによって死ぬのです。そうしないと私の内に宿っている罪に勝利できないからです。勿論、霊的に古い自分、つまり肉に信仰によって死ぬのです。それができたなら、新しい命を受けて新しい人として生きることになります。そこで、古い生き方は捨て去り、新しい生き方を覚えて行きます。具体的に生活の改善が起こったり、主イエスの弟子になって、キリストの徳の高さまで成長して行きます。それは、信仰によって実現できます。そのために、悪魔はその人が強固な信仰を持つ前に攻撃して罪を犯させ、もとの肉の状態に戻そうとするのです。しかし、その試練を通して信じることが強められて行くために、いくつもの試みがやってきます。本当は天国まで無事にたどり着くように、助け手である聖霊がかたときも離れずに一緒にいてくださいます。しかし、すべては信仰によってのみ可能となるので、肉が出て来ると聖霊は沈黙せざるを得ません。その人の人生はその人自身が決めるからです。自分を捨て、古い自分に死んでいなければ、前には進めないのです。そこで、信仰の戦いが起こります。しかし、聖霊という助け手がいるのですから、一人で戦っているわけではありません。奇跡、しるし、不思議がクリスチャンの人生に現れてきます。神は何もしないのではなく、絶えず救いを完成させるために働いておられます。そして、信仰を現して力をつけてくると、弟子の舌をくださいます。それは、自分を高めるためではなく、自分に関わるように導かれてきた人たちを励ますためです。勿論、ただ頑張れということではありません。内住のキリストが語りたいことを自分の舌を使って語っていただくのです。それは、やはり奇跡なのです。そればかりでなく、神に聞き従うことができるように、霊的に耳を開かれるのです。古い私は神に逆らって、聞く耳を持たなかったのです。それなので、神を知ることができなかったのですが、今や神はあなたの不可能を可能にしています。あなたができないことを、神の御力で可能としてくださったのです。信じなさい。あなたの信仰の準備が整えば、すぐにあなたは語ることになります。何しろ、あなたは主の弟子なのですから。ペトロもヨハネもパウロも主の弟子です。そして、あなたも主の弟子としていただいたのです。疑わずに信じなさい。主の幸いがありますように。(佐久間)

 

5月9日(土)

私は神様の前に悩み事をさらけ出して、あわれんでくださいと祈ります。私は打ちひしがれ、絶望しています。どの道を進めば敵のしかけた罠にかからずにすむかは、神様だけがご存じです。ほら、右側の少し先に、罠が一つあります。だれ一人、声をかけて助けてくれる人はいないのです。私がどうなろうと、だれもおかまいなしです。そこで、私は神様に祈りました。「神様。あなたは唯一の隠れ家です。あなただけが、無事に守ってくださるのです。」

詩編142:1-5(リビングバイブル)

 

人の祈りを神様はどのように聞かれているのでしょう。それにしても、人生は毎日平和に過ごすことができそうでいてできないものです。この世で生きているかぎり、うまくいっている時こそ気をつけなければいけません。足元をすくわれる危険が迫っています。ねたみをかっているかもしれません。謙遜にふるまっているでしょうか。気を抜いて誰かの神経を逆なでしなかったでしょうか。気がつくと敵の攻撃を受けてしまっているかもしれません。敵とはエフェソ書によれば、人間ではなく悪魔だというのです。それでも、実際に人間を通してひどいめに遭うことがあります。悪魔は人を誘惑して罪にいざないことが得意なのです。それで、人に悪感情を持たせたり、誤解させたり、劣等感を刺激したり、欲に訴えたり、他人がうらやましいと心をじらしたり、自分に自信がもてない弱さに触れたり、とあらゆることをして争いと起こさせようとします。敏感な人は人の悪意をすぐに察知できるでしょうが、そうでない人は、ひどい事が起こってから気がつきます。それでは手遅れです。信仰者も例外ではありません。神様を信じているだけに、葛藤が大きくなります。「汝の敵を愛せよ」という看板も平和な時には堂々と掲げていますが、一旦敵に目をつけられてしまうと、とたんに看板を交換します。「目には目、歯には歯」という看板です。そして、嫌な目に遭うと、今日の聖句に出会うまで聖書をあっちこっち捜して、祈りまくるのです。ただ、神様はそのような人間の弱さを憐れまれるお方で、いつでも必ず助けてくださるのです。そのような経験を通して信仰者はだんだん成長できるのです。(さくま)

 

5月10日(日)

イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

ルカ13:6-9

 

日本人の好きな桜もすでにシーズンが過ぎて、桜の木も葉を茂らせています。我が家の小さな桜の木は、花の咲きはじめはきれいなのですが花が終わる頃はあまりきれいではないので、ソメイヨシノと植え替えようかと思ったのです。ところがその桜の木に毎日鳥がきて実を食べています。よく見ると赤いかわいいサクランボがたくさんできていたのです。取って食べてみるとこれがなんとも美味なのです。そのとたん、桜の木の見方が変わりました。これは良い木だ。かわいい!などとほめているのです。なんとも調子の良い話です。聖書に、ちょうど反対の話しがありました。今日の聖書箇所です。このいちじくのように神様は私たちに実を結ぶことを期待しています。しかし、いつまでも実を結ばないのなら、最後は滅ばされてしまうというのです。神様はあなたにどのような実を求めているのでしょう。イチジクの木からはイチジクの実を求められています。ですから、あなたに無理難題を要求しているわけではありません。あなたは、この地上であなたにしかできない使命があるのです。それをやり遂げるために生まれてきたと思ってよいのです。それはすぐにはわからないでしょうが、まっすぐに正直に生きて、神様に使命は何か問い続ければ、やがてはっきりと分かる日がくるでしょう。それまでに、必ずあなたは実をつけていくのです。それは、内住の聖霊があなたのために結ぶ実であり、イエス様のご品性です。正しく生きることは、人の教えを守ることではなく、神様に従順になることです。それは、神様を愛することなのです。この世のギブアンドテイクしか知らない人には、理解できない事ですが、神様がはじめにあなたを愛してくださったので、あなたは神様を愛することを知ったのです。ここからしか、はじまりません。そのことがまだよく分からない人は、ここから祈りはじめるとよいでしょう。すでに知っている人は、愛は深ることを覚えて、もっと主を愛しましょう。主との交わりの中であなたはまた新しい実をつけることでしょう。(さくま)

 

5月11日(月)

イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

マタイ14:29-33

 

この話しはクリスチャンなら知っているはずです。知らない人のために説明すると、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」たのです。湖は逆風のために舟はなかなか先に進めません。何時間もたち夜が明けようとしていました。そこに、イエスが水の上を歩いて近づいてきたのです。弟子たちは幽霊だと思って恐怖に叫び声をあげます。それがイエスがとわかると、ペトロが水の上を歩いてイエスのもとへ行かせて欲しいと願い、イエスがそれをゆるします。ペトロは水の上を歩み始めますが強風に気がつきすぐに沈み始めます。イエスがその手を取って助け、舟に乗り込むのです。この出来事は、弟子たちを変えました。数々のイエスが行った奇跡をまじかで弟子たちは見ていたのですが、それでも弟子たちは今回のような変化はなかったのです。その変化とは、「『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」ことです。この物語には、信仰の意味が書かれています。ペトロが沈みかけた時に、イエスは助け「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃいました。信仰とは水の上を歩くようなものです。イエスを信じているならば、それは可能です。しかし、イエスから目をそらして、風や波を見たら、きっと恐ろしくなります。それが不信仰です。現実にあなたにとっての風や波があるかもしれません。そのことで、不安になり、恐れると、水の上を歩いているはずなのに、あなたは沈みはじめるのです。勿論、たとえそのような不信仰に陥ってもイエスはあなたをすぐに捕まえてくださるでしょう。そして、あなたは、一生忘れることの無いイエスの言葉を聞くのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。私たちはすでに救われていますが、それは舟から出て水の上をイエスの方へと歩いているようなものです。不思議な事にイエスを見つめている時には、信仰があふれてくるのです。でも、イエス以外のものに心が向けられると、途端に不安が心に湧きおこってくるのです。もしかすると、強風が吹いて大きな波が起こり、イエスを遮って見えないようにしたのかもしれません。この世の常識が頭に浮かんできたのでしょうか、水の上を歩けるはずがないと、信仰ではないものが勝ってしまいます。ペトロ以外の弟子たちは、この一部始終を見ていました。それで、はじめてイエスの意味がわかったのです。このイエスこそが本物の神の子だ、私のそばに神の子がおられる。そこで、水戸黄門の印籠を見た人のように、地にひれ伏してイエスを神の子として初めて拝したのです。あなたにとっても、このような経験が必要です。象徴的には舟は教会を意味し、その中の人々は教会員です。彼らは、ペトロとイエスの出来事を通して悟ったのです。そして、イエスが救い主であるとわかり救われたのです。あなたも、同じようにイエスが神の子であると悟ることができ、救いの確信を得ることができます。(佐久間)

 

5月12日(火)

あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。

Ⅰコリント10:27

 

キリスト教といっても実はかなり幅があります。たとえば、食べ物のことを厳格に規制している教派もあれば、何でも自由に食べることのできる教派もあります。聖書を調べると、確かに食べ物のことをいろいろ記述しています。それぞれに正しい解釈が必要です。それは、それぞれが属する教会できっと正しい指導があるでしょう。今日の聖書箇所は、未信者に食事に招かれた時の対応について書かれています。何でも食べることができる教会の方はそのまま読めばすむでしょう。しかし、厳格な食物規定がある教会の方は、この御言葉から正しく学ぶ必要があります。本来は、このテーマはこの節だけではないので、全文読まなければなりません。しかし、それはこのディボーションの役目ではないので、この節だけで考えてみましょう。私が牧師になりたての頃です。主任牧師から、ある結婚式の披露宴に一緒に出席するように言われたので、その通りに出席しました。そして、豪華な料理が出てきました。その頃私が属していた教会は、菜食主義だったので出てきた料理が普通の肉や魚やエビなど普段は食べないものだったために、手が出ませんでした。ところが、困って主任牧師を見るとパクパクと美味しそうに何でも食べているのです。それで、なるほどと思い出したのが今日の聖句だったのです。「信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」。そうだ、せっかくお祝いの料理を出していただいたのだから、ありがたく感謝していただくべきだと思って美味しくいただきました。食事は宗教ではとても重要なことで、戦争だっておこるぐらいなのですが、パウロは「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と教えています。昔のことですから、肉も偶像の神にささげてから売っていたのです。そのことを気にして、食べることを控えているクリスチャンがいたわけです。現代は、それよりも添加物や農薬などもっと恐ろしい健康被害が心配されるようになってきましたから、予防医学の立場からもバランスの良い食事や、野菜を多く摂れるヘルシーな食事を心がけることが大切ですね。ただ、聖書を知らない人たちが用意した心づくしを大切にすることが、正しいことであることに間違いはありません。相手の気持ちをくむことのできる優しさや寛容さは、特に大切にしたいですね。(さくま)

 

5月13日(水)

わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。

箴言8:17

 

救いのために修行する人たちがいます。大変そうで、誰でもができそうにありません。ただ、修行するというのは、人間が救いを求めてすることで一番わかりやすいことなのでしょう。自分には救いが必要だとわかれば、次にではどうすればいいのかと考えてしまいます。宗教には、それぞれ救いの教えがあって、ありがたいお経を毎日唱えればよい、といった具体的な指導があるものです。さて、神様はなんとおっしゃっているのでしょう。今日の聖書のみ言葉を見てみましょう。神様は「愛する」ことを指摘しています。確かに人間が一番欲しい事は愛されることでしょう。人間は愛され、愛し返すことが本来の姿なのです。その愛が壊れて機能しない状態を罪と言っています。だから、それは元の罪で、そこから個々の罪を生み出し続けているのです。もし、すべての人間が正常な愛の関係の中にいれば、犯罪は無くなるし、病気も激減するでしょう。しかし、長い間罪の中にい続ければ、それが当たり前になってしまいます。愛を壊しながら、愛されたいと願うのは矛盾ですが、そうとしか言えないありさまで人間は生きています。そもそも、愛とはどんなことでしょう。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(Ⅰコリント13:4-7)。私たちクリスチャンは、毎日、この聖句を読む必要があるでしょう。ただ、神様を愛することは義務ではありません。心から湧き出るものです。理屈で愛しますと言い出しても、何の意味もありません。クリスチャンは、どこかの時点で、神様がはじめに自分を愛してくださったので救われたと悟ります。それで、神様を愛しているのです。これは理屈ではありません。神学でも、学びでもありません。不思議な経験なのです。神を愛する能力がはじめから人間の中にあったとしか言いようがありません。罪に妨げられていたのに、悔い改めて、福音を信じたのです。そこから始まりました。そして、神様が先に愛してくださったから、素直になれて、愛が溢れてくるのです。そうなると、神様を求めるようになるので、神様を捜しはじめます。それが信仰の醍醐味で、その人に必ず神様が約束された素晴らしい祝福を与えられるのです。失敗する人は神様を捜し求めるのではなく、自分の願いを叶えることを求めるので、うまく行かないのです。神様を知らなければ、何が正しい祈りであるかもわからないのですから。ただ、私たちがするべきことは、神を愛し、神を探し求めることです。そうすれば、素晴らしい経験へと導かれるでしょう。(さくま) 

 

5月14日(木)

人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

ガラテヤ2:16

 

どこの教会に行っても、信仰の義を唱えれば、必ず律法の実行が大切だと声を大にして主張する人がでてきます。その方々のお気持ちはわかりますが、聖書の教えと一致しません。今日の聖句をよく読んでください。「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」とあるからです。クリスチャンが問題にしなければならないのは、実に「義」されることです。「義」とされるという事は、罪から解放されて自由となることです。生まれたままの人は、罪に対して自由ではありません。そのために人生はなかなか楽には行かず、苦労の多いものなるのです。正しい心が養われると、人は限りなくすばらしい者へと成長できるのですが、ちょっとしたつまずきですぐに道を誤るのです。罪が何であるか、そして自分の内に確かに罪があると自覚できた人は、罪責感に悩まされます。なんとかしようとしても、どうしようもないのです。同じように、律法を守ることで罪を克服し、自ら義となろうとする人は、不可能なことをしているのです。それは、聖書時代から変わりありません。旧約聖書は、そのことを証明しているのです。律法を守ろうとすれば、自分の罪がはっきり示されてきます。勿論、罪人は自己中心なので、自分を何の根拠もないのに正当化し続けます。けんかをしても、失敗しても、誰かを傷つけても自分が正しくて相手がわるいと決めつけてしまいます。明らかに非が自分にあっても、何か言い訳をして決して自分の罪を認められないものです。ですから、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」ということになります。ところで、キリストの救いというものは完全な救いなのです。どうしてかといえば、人の罪をキリストが肩代わりして清算してくださいます。そして、罪による汚れを清めてくださいます。それは、水のバプテスマがよく現しています。汚い罪の汚れを水で洗い流すイメージです。実際には、イエスの流された血潮で罪の汚れを清めてくださるのです。これは、過去に犯した個々の全てを洗い清めるのです。もともとは、罪の大もとがあって、一つの罪がたくさんの罪を生み出しているのです。それは、キリストの十字架に古い自分を結び付けてキリストの死と一緒に死ぬことにより、罪も死なせることができるのです。ただこれらは、信仰によるのです。そして、聖霊のバプテスマで清められたクリスチャンに聖霊が注がれます。この聖霊は、アダムが生きたものとなったように、新しい神の子を生みだすのです。これも信仰です。ですから、イエス・キリストを信じるということが想像以上に重要なことなのです。人の救いの全てがここにかかっているからです。もっとも、水と霊から新しく生まれた人は、信仰によって聖霊の命に生きるのですから、神の愛が溢れてきます。それは、初めて人間が律法に調和する時なのです。悪魔は、すべてが信仰によることを理解しているので、信仰を揺るがそうと攻撃をしかけてくるのです。それでも、負けないのはイエス・キリストを信じているからです。聖霊に助けられてもっとイエス・キリストを知る事に努めましょう。そして、主を愛し、感謝し、讃美を献げましょう。(佐久間)

 

5月15日(金)

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

Ⅰコリント1:21

 

この世の人に伝道をしようと志を持つと、次にどうやって説明しようかと考えるものです。でも、聖書を読んでみると、この世の人達がどんなに賢くても、自分の知恵で神を知ることができないのです。そこに神の知恵があります。なぜなら、人が救われるのはイエス・キリスト信じることによってだからです。だから、理屈で神を信じるように説得することは賢明ではありません。信じるということがそもそも異なったことだからです。それが証拠に、キリスト教の中でさえ、教理の違いで論争が絶えないのです。神様は御子イエスを人間にすることにより、私たちが神を理解できるようにとされました。しかし、イエスが現れた時に、イスラエルの人々は、イエスをキリストだとなかなか認めることができなかったのです。12使徒ですら、寝食を共にして四六時中イエスのそばにいたし、奇跡を何回もみたのですが、なかなかキリストであるとわかりませんでした。ですから、現代人がイエスをすぐに自分の救い主として認めることは容易くないのです。それなのに、ある人たちはすぐに信じます。他の偶像を信じるように信じている人もいるでしょうが、明らかにイエスをキリストとして信じている人たちがいるのです。聖職者にでもならなければ、クリスチャンでも神学校に行くことはありません。つまり、聖書や神学を専門的に学ぶことはないのに信じているのです。それでこの人たちが聞いて信じたことは何なのかということです。それは、イエスは神の独り子でしたが、人間を救うために神であることを捨てて、人となりました。この世で、多くの病人を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせました。そして、最後は十字架にかかって死にました。それは、私たちが犯してきた多くの罪咎は死を持って償わなければならないからです。それで、イエス・キリストは私たちの罪を赦すために、自らを犠牲として身代わりに十字架に架かられて死なれたのです。しかし、預言通りに三日目に墓よりよみがえりました。それは、死を打ち破るために復活したのです。人間が呪いのように縛られていたものが、罪と死と悪魔だったからです。今や、キリストが十字架に死に、墓よりよみがえられたことによって、キリストを信じる者はみな救われるのです。だから、あなたもイエス・キリストを信じて救われなさい。このように話す宣教は、愚かですよね。しかし、クリスチャンは、このように話されて、イエスを信じて救われたのです。ここに神の知恵があります。勿論、一番は実際に救われた人の体験です。それを証しするのです。それが本当であることを生きて示すことが伝道なのです。いつも喜んでいなさい。魅力的な響きがあります。クリスチャンの生き方そのものですね。(佐久間)

 

5月16日(土)

あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

ルカ6:35,36

 

歳をとると忘れっぽくなると言われますが、クリスチャンは若いうちからすぐに忘れる人です。ひどい言葉も、ひどい目に遭ったことも、何かを貸して返してもらえないことも、悪意すら、時に心を乱されるようなことがあったとしても、それを根に持たないように赦すことにしているのです。勿論、簡単ではありませんが、イエス・キリストの命令であることと、敵を愛することが出来た時の信仰がベストな信仰なのです。常識で考えれば敵を赦して愛するなど出来るはずがありません。だから、常識の中に留まっていれば、ものすごく苦しむことになります。その上、よい成果もないでしょう。ただ、敵からの脅威に苦しみ、その敵を愛することができない自分に苦しむことになります。マーリン・キャロザースの唱えている「讃美の力」も同じことです。矛盾が生れるので苦しくなるのです。敵はやっつけてくださいだし、目には目です。ところがひどい目に遭っていることを感謝するとなると、常識はじゃまになるだけです。自分の中の常識は実はとても小さいものなのです。それで、狭い心でがんばってみてもその狭さの中から出ることはないので、「敵を愛しなさい」と言われても自分の心は納得しないし、そんなことはできるはずがない、という結論になります。それではどうすればいいのでしょう。「いと高き方の子となる」という御言葉がキーワードです。つまり、神の子になると言っています。それで、父と同じことができるというわけです。ここに人間の壁をぶち破り、超えることが示されているのです。クリスチャンは、聖霊が内住しているので、神が自分の内にいるという不思議なことになっているのです。それで、普通の人間ではありえないことが可能となるのです。それを可能とするのが、信仰です。苦しみの中で祈り、その祈りの中で神の御力を知ることです。そして、キリストが十字架の道をなぜ歩んで行かれたか知ることです。クリスチャンは、キリストの御足の跡をたどっているのです。それが天国へ通じる唯一の道であるからです。だから、聖霊に助けられながらキリストがなさった通りに生きることになります。初めはできないことも、信仰の階段を上るように、一段一段クリアーしていけばいいのです。肉の力で無理をすれば、倒れるだけです。そのような所を早く抜けて、イエス・キリストのお心に近づくことを目指すのです。キリストに似た者と呼ばれるようになりたいですね。(佐久間)

 

5月17日(日)

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

ルカ6:37,38

 

この世では、人が集まれば人のうわさ話に花を咲かせます。だんだん熱を帯びて来ると人の悪口が出て来るし、悪い言葉が次々に出てきます。だから、クリスチャンはそのような場所に居られなくなるのです。それは、真理を知っているからです。誰かの悪口を言えば、自分もどこかで同じように悪口を言われます。人はあなたの言葉を覚えているのです。一度口から出た言葉はもう勝手に一人歩きし始めますから、どうしようもなくなります。そして、問題なのはイエス様です。主の教えるところによれば、人を裁かなければ、自分も裁かれないというのです。人を罪人だと決めなければ、自分も罪人だと決められないのです。赦せば、赦され、与えれば、あなたにも与えられるのです。しかも、相手は人間ではなく、神様のことを言っているのですから、あふれるほど量りをよくして与えられるのです。この真理を知っていたらどうしますか。この通りにしようと思いませんか。私はこの通りにしたいです。しかし、不思議な事ですが、この有名なイエス様の教えを知っていて、守らない人たちがいるということです。ここで、クリスチャンは二つに分かれているのです。イエス様の教えを忠実に守っている人と、忘れて無視している人です。さて、あなたは人生でこれほどお得な神様のお約束を知っているのですが、どうしますか。世界中の三人に一人いるクリスチャンの全員がこのイエスの教えを守れば、世界は激変するでしょうね。戦争も無くなり、貧しい人もいなくなるでしょう。まずは、あなたの住んでいるあなたの周りからきっと良くなることでしょう。あなたの量る秤で神様はあなたに量り返してくださるのです。(さくま)

 

5月18日(月)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。

フィリピ1:9-10

 

この聖書箇所は面白いですね。クリスチャンの願いは愛の人になることです。それが意外と難しいのです。いたずらに愛さなければと頑張ると苦しくなりますし、愛が自分にないのではと悩んでしまうかもしれません。しかし、今日の聖句を新改訳聖書で読むと、「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり」とあります。確かにこの世の愛と神の愛は異なっていることをクリスチャンは教えられました。そこで、愛という言葉に気をつけなければ、ヒューマニズムの愛に変わってしまう危険があります。イエス・キリストは、決して人をうわべで判断しませんでした。その人の内面を見抜いていました。そして、本当のことを知る力があったのです。そこから出て来る愛は、人を癒し、助けることができたのです。愛はお涙ちょうだいのようなセンチメンタルなものではないのです。本当に人を生かすことなのです。収税人の頭であったザアカイは、町の人達から忌み嫌われていました。しかし、イエス・キリストはこのザアカイの本当に重要なことを見分けたのです。それで、ザアカイは、生まれ変わり素晴らしい人となれたのです。人の中には欲が有るので時に自分をもいつわることもあるのです。そのために、その人の真の姿がわからなくなっていることもしばしばあるのです。本人がどうしていいのかわからないのですから、その人の救いのためにもイエス・キリストが必要なのです。それで、クリスチャンはイエスのように真実を見抜く力と正しい知識を識別する力が与えられるはずです。それを受けた人は、人の見方がかわります。うわべに惑わされなくなります。そして、わかれば愛が湧いてくるものです。そこから、イエスの愛への道が相手に開かれていくのです。(佐久間)

 

5月19日(火)

あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。

ルカ6:21

 

人生は泣き笑いですが、本当に辛い時には泣いてもいいのです。あなたは誰から優しい言葉をかけてもらうべきです。でも、時には周りの人に誤解されたり、自分一人が孤立して皆敵になってしまったように感じる日もあるものです。だから、どんな時でも、あなたを好意的に見てくれる人が必要です。どうしても、周りにあなたのことを大切だと思っていてくれる人が見つからなければ、イエス様に心を注ぎだして祈りましょう。そして、誰かを自分を慰め励ますために遣わしてもらうのです。もしかすると、それは初めて会う人かもしれません。また霊的メンターがいれば、信仰の助けになります。さて、大切なことを覚えていましょう。イエス様の新しい掟は一つだけ、「互いに愛し合いなさい」でした。それだけに、この御言葉の意味は深いはずです。信仰をもって、うまくやろうとしても思い通りにはいかないものです。でも、たった一つ、互いに愛しあうことを心に覚えていれば、良いことが不思議と近づいてくるでしょう。そうそう、確かサリンジャーの小説「フラニーとゾーイ」には、最後に天才兄弟姉妹が太っちょのおじさんのことを思いだします。いつもそばにいて助けてくれたその人の事を突然気がつくのです。クリスチャンは、ここまで読むと、その太っちょのおじさんがイエス様で、なんと気づかなかったけれどいつも助けの必要な時にはそばにいてくれたのだと、思い至るのです。うろ覚えですが、すごく最後に感動したことを思い出します。とても良い話でした。ですから、今もしかするとあなたは泣いているかもしれませんが、イエス様はちゃんとご存じであなたのそばにいます。そして、イエス様の約束なので、あなたは笑うようになるのです。不思議ですが、イエス様が関わってくださった途端に、状況が悪いものから良いものへと一変するのですね。あなたが元気になって、いつも笑っていることができますように。(さくま)

 

5月20日(水)

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

フィリピ2:13

 

クリスチャンは人生を振り返る時に、神様が働いていてくださったと気がつくことがあります。それは、普通の人がしないようなことをみごとにやり遂げていたりするからです。もし、自分だけの思いだったなら、そんなことを望まなかっただろうと思うようなことがしばしば起こっているのです。人間の行動力は内側からきます。聖霊がその人に働きかけて、願いとなり、かつ実現に至らせてくださるのです。私が初めてそのことを知ったのは、バプテスマを受けた後のことです。神学校の先輩が沖縄の石垣島で伝道していたのですが、その人からハガキがきました。児童伝道のために沖縄に来て下さい、という内容でした。その頃、神学校で人形劇で児童伝道をしていたので、費用のことなど考えずに行こうと決めました。それから、12人分の旅費や移動舞台や運搬用の大型のカバンなどが驚く方法で次々に与えられていったのです。そして、沖縄本島と離島の石垣島で一生忘れることのできない伝道をすることができました。その経験が神様を信じる信仰をどれほど強めてくださったかしれません。「願いを起こりかつ実現に至らせる」この御言葉によって、その後のクリスチャン人生を歩んできたのです。この御言葉はいつでも裏切られることはありませんでした。皆様も、ご自分の心に聖霊が何を願いとして起こし、それを実現させてくださるか期待してみましょう。そして、この御言葉を唱えて祈ってください。きっと、ワクワクするような素晴らしい事が目の前に起こってくると思います。そうなれば、いつも主の御用を第一にしたくなるのです。

(さくま)

 

5月21日(木)

主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。

イザヤ58:11

 

クリスチャンの人生はこの御言葉のようなものです。ただし、10節以前の聖句を満たす必要があるでしょうが、今日はふれません。私が思うのは、神への自分の気持ちがどのようなものであるかが一番大切だと思います。神を愛している人が幸福に生きるのは当たり前です。しかし、実際にはクリスチャンにもいろいろな試練が起こる事はご自分の体験から明らかだと思います。それは、自分が人より劣っているとか、自分の信仰が弱いから、といったようなネガティブなことをすぐに考えて、まだまだ自分の信仰がダメなのでひどい事が起こっていると思う人もいるでしょう。私は人生に幸福な事だけでなく、いろいろな事が起こるのは、「主は常にあなたを導き」という御言葉があるので、神の子供として標準に成長させるための主のお働きだと思います。子供を育てると兄弟でも一人一人個性が違っています。その子供たちがはじめから立派であるということはありません。親のしつけや、教育、さまざまな経験、そして豊かな愛情で子供は育って行くのです。10代で問題を起こしていた人でも、やがて大人になった時にみちがえて立派に成長した人を見る事は容易です。ですから、天の父なる神は自分の子どもとしてあなたを育てているのです。何が一番大切か学ぶことができれば、あなたはこの御言葉の通りに主の御手の中を讃美しながら前進してゆくでしょう。あなたは、安心して主の導きにゆだねればいいのです。あなたは、想像を超えた主の奇跡を経験しているのですから。やがてあなたは、「水の絶えない泉のようになる」でしょう。その時に、その価値がわかります。(佐久間)

 

5月22日(金)

神様。私は思い上がったり、横柄な態度をとったりいたしません。知ったかぶりをしたり、他の者より善人ぶったりもいたしません。今こうして、乳離れした幼児のように、神様の前でおとなしくしています。もう、あれこれ願い事を並べ立てるのはやめにしました。

詩篇131:1-2

 

神様を信頼することがどんなに大切なことか、クリスチャンは教えられます。だから、知っているのですが困ったことになると、とたんにすっかり忘れてうろたえてしまいます。だから、祈りが信頼ではなく、脅迫のようになっています。力尽きてくれば、泣き落としです。どこまでも自分勝手で、耐えることが苦手だし、自分の思い通りにならないと落ち着かなくなってきます。否定的に考えることは誰かに教えらたわけでもないのですが、本が書けるぐらい得意で、一旦心配にとりつかれるとなかなか悪い妄想から離れられなくなります。それで、神様にお祈りするのですが、その祈りが神様を疲れさせる内容だったりします。もっとも、神様はお疲れるになることはありませんが。その中で、物事が祈っても変わらないと、不安もそのまま残ってしまいますから、なんとかしようとジタバタするのです。聖書もちょっと読んでみますが、なにぶんにも厚い本なので辞書みたいに知りたいところがすぐに見つかるようにはなっていないので、すぐに諦めてしまいます。それでも、さんざいろいろなことをやり尽くして、自分でようやく納得して、神様の前でおとなしくするようになります。そうなれば、あれこれ願い事を並べる必要も無くなっているのです。人間は一飛びにうまくやれるといいのですが、長い間罪人をやってきたので、急に神の子になったという実感がわかずに、どうしても古い生き方に戻りやすいのです。では、どうすればいいのでしょう。本当に神様の御心は幼子でもわかるように単純なのです。つまり、秘訣は「神様の前でおとなしくしています」ということです。毎日の生活を通して、クリスチャンはだんだん備えられ、変えられ、この世の人間の考えではなく、神様のお考えを理解するように導かれているのです。だから、教科書があるわけはないので、その人の個性の中で自分の全てをかけて神様へと向かうように導いておられるのです。願い事をもちろん聞いてくださいますが、はじめからそのようなことは神様がよく知っておられるのです。だから、自分で考えてこうしてくれ、というよりも主の憐れみにお任せしますという僕の生き方の方が理想的なのです。たいていは、自分が願うよりも主の方が良いご計画をお持ちだからです。それで、信仰経験を積めば主のみ前に静まっていくものなのです。そして、主のしてくださったことを感謝しているようになります。主に信頼して心が静まっているのなら、ずいぶん楽な生き方です。(さくま)

 

5月23日(土)

世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

Ⅰヨハネ2:15-17

 

今日はこの御言葉を考えてください。自分の言葉で納得する答えにして声に出してみましょう。あなたは、この御言葉を受け入れることができますか。もし、まだ葛藤があるのなら、正直に神様に告白しましょう。そして、ご自分の信仰を考えてみなければなりません。神を愛するのか、それともこの世を愛するのか。私たちの信仰は、この世で栄誉を受けるためのものではありません。イエス・キリストが教えた通りに神の国の到来を信じたのです。神の支配の世界へと自分の存在する場所を移動しました。そうすれば神様がはじめてわかるようになるからです。禁欲主義と間違えてはいけません。この世よりもはるかに良い神の国を体験したからです。今は、試食で味見をした程度ですが、やがてイエス・キリストが再臨されます。その日が、目に見える神の国に入る日なのです。とても楽しみです。そして、今も御父の愛を十分に楽しみむことができることも忘れてはいけません。(さくま)

 

5月24日(日)

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

詩編62:8

 

あなたは、どうしようもない危難に遭遇した時に神様はどうされると思いますか。アメリカで牧師をしていた時に、青年会でレイクタホという観光地に行くことになりました。そこで、ホワイトリバーのラフティングに挑戦しました。ゴムボートに乗っての激流下りです。その時、一つのボートに6人乗り込み、先頭に私が乗り、最後尾にガイドと家内が座りました。ところが、最大の激流を乗り越えて、振り返るとなぜか家内が全身びしょ濡れになっていて、川に落ちたと言うのです。激流の中に落ちたのにちゃんとボートに戻っていたのは、屈強なガイドの人が川の中へ手を突っ込んで家内を引っ張り出してくれたからでした。もう少しで家内は溺れ死ぬところだったのです。それ以来、いざとなった時に夫はあてにならないと悟ったようです。人生で死にそうになる時などそう度々あるわけではありません。しかし、無いともいえないのです。また、人間の弱さは、不安感や恐れからも気づかされます。どんな人でも、何か原因があって、そこから言い知れぬ不安や恐れ、それに孤独感や孤立感などに憑りつかれると長く苦しむことになります。クリスチャンでも例外ではありません。そこで、今日の聖句が大切になります。正直に神様へ自分の気持ちを全て言葉にしてみるのです。感情が高ぶっても制御しないで、ありのままに心を注ぎだすのです。これも祈りですね。「辛い」と思えば「辛いです」と言えばよいのです。「不安」ならば「不安です」と祈ります。もっとも、感情的になっていたら、文句を言ったり、もっとひどい言葉を使うでしょうね。パウロぐらいになれば、それでも喜んでいるのでしょうが、普通のクリスチャンは、涙だって鼻水だって大洪水にしてしまうかもしれません。それでも、小さな信仰だとか、弱い信仰だと、イエス様はお責めになることはありません。不思議ですよね、完璧な信仰でないから願いは聴かないというようなことは聖書に書いてないのです。それどころか、信仰をなんとかその人から引き出そうとしてくださいます。「神は、われらの避け所である」とは、神様が問題の解決のために、あなたに変わって出て行って戦ってきてくださるから、安全な所でその神様の結果を待っていればいいという意味です。これぐらいなら、なんとかできそうですよね。ここで、神様に信頼していることを信仰と言っています。(さくま)

 

5月25日(月)

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。

Ⅰヨハネ3:1

 

クリスチャンのいったいどれぐらいの人がこの御言葉を理解したのでしょう。この前の章では、反キリストが現れたことが記されています。それも、仲間の中から出てきたのですが、彼らは去って行きました。聖書に書かれたことをそのまま信じることの出来ない人たちが出て来るのです。「御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」(2:22)と聖書には書いてあります。つまり、あなたが自分の事を神の子だと認め、イエスが教えた通りに、神を天の父と呼んでいるのなら、あなたは反キリストの意味がきっとわかるでしょう。勿論、この時代の教会は全員が聖霊のバプテスマを受けていたのですが、現代のキリスト教会の多くが聖霊のバプテスマを正しくは理解していないので、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンと、そうでないクリスチャンの二種類のクリスチャンが存在しています。聖書に一致するクリスチャンでないと、少なくともヨハネの手紙は理解困難であることがヨハネの手紙から明らかです。「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」(2:20)とあるように、聖書の理解は、真理の理解だからです。そこで、御父の愛をぜひ考えていただきたいのです。そうすれば、自分を誇る事はできないし、御父の愛に応えて生きたいと思うはずです。それは理性を通した理屈ではありません。神学でも教理でもありません。自分の罪深い全てを知っているのに、それでも愛してくださる圧倒的な神の愛が優しく慕わしい天の父として示されたのです。地上に来られ人性をとられたイエス・キリストは、私たちの模範となりました。だから、イエスに倣うことが大切なのです。それを聖霊の御力によらなければ、できないことなのです。ですから、聖霊を求めて祈る事はいつでも必要なのです。そして、この世は父なる神を知りません。でも、あなたは知っています。ちょうどイエスがこの世に来られて、大勢の人に福音を告げ、救っていったように、あなたも同じようにキリストの働きを何かしら受け継ぎ成就していくことになります。それは、あなたも神の子と呼ばれているからです。(佐久間)

 

5月26日(火)

サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

ヨブ1:9-11

 

ヨブ記がお好きな方も少なくないでしょう。今日の箇所は、その冒頭の部分です。私たちが分かったことは、この世に人間以外に敵がいるということです。サタンと呼ばれる者です。どのような意味で敵なのかといえば、ほうぼうを巡り歩いているサタンに神が、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(1:8)と語られるとサタンが今日の聖句の通りに言うのです。つまり、神様がヨブの信心をほめているのに、サタンは余計なことを言い出して、難癖をつけ始めるのです。私たちは、神の祝福を求めて生きているのに、その祝福を決して受けることのできないサタンは、羨み、嫉妬し、人が真面目に信心深く生きていることを面白くないとばかりに、サタンの本領であるそそのかしを神に向けているのです。人間なら、誘惑されればすぐに罪を犯すでしょうが、さすがに神はそうはなりません。神は誘惑されるようなお方ではないからです(ヤコブ1:13参照)。人間は、自分以外の誰かが褒められることが嫌いです。自分が褒められたいと思う人が多いのです。自分と利害関係が生じなければいいのですが、身近な人はライバルと思ってしまうようです。サタンは、罪の生みの親なので、罪人はその性質を現すことがあるのです。人をねたんで足を引っ張る、とか、悪口や陰口もそうです。人のうわさ話、いじわる、人を困らせる、嘘をつくことなど、決してこの世の中で珍しくない事の中に罪が普通にあるのです。しかも、イエス・キリストに出会うまでは、自分の罪に気づくこともないのです。その事自体が不幸ですね。全員ではありませんが、多くの人が自分が一番症候群に侵されているようです。サタンの考えでは、それが愛される条件となっているからです。神の独り子イエスをサタンは自分のライバルと見てしまい、比べて劣等感を持ってしまったことが悪の始まりと思われます。サタンは、一番神に愛される存在になりたかったのかもしれません。しかし、イエスがいる限りそれは無理だと思い、心がおかしくなったのでしょう。それで、結局自分が神になるしかないと思うようになったのです。だから、神に愛されているヨブのような存在には、サタンは徹底的にいじわるするわけです。でも、最後までヨブ記を読めば、ヨブは最初にも勝(まさ)って神の祝福を受けていますね。(佐久間)

 

5月27日(水)

あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。

エレミヤ15:16

 

日本に来る外国人が増えていますが、若い人は上手に日本語を話す人が多いので驚かされます。どうやって日本語を覚えたのか、と聞いてみるとたいていが日本のアニメや漫画で覚えたというのです。それで、とうとう日本に来てしまうのです。日本人が英語を6年も12年も学校で学んでもこれほど上手にマスターすることができません。いっそのこと、英語の授業をアニメに変えたらどうだろうと思ってしまいます。だいぶ前に、日本人の牧師たちをアメリカの有名教会見学に連れていったことがありますが、その時、若い牧師がファーストフードの店で困っていました。テイクアウトと連呼しているのですがお店の人は困った顔をしています。店内で食べるなら、フォーヒアーだし、持ち帰るならテゥゴーです。こんな簡単な英語もわからない英語教育ってなんだろう?と思ってしまいますよね。もっとも、この若い牧師さんは、数年後にアメリカで牧会することになりました。アメリカに行って、実際に英語に触れたのが良かったわけです。さて、今日、チェコから電話がありました。何年か前にチェコ人留学生をバプテスマしたのですが、その人からの電話でした。この人もアニメで日本語をマスターした人です。チェコ人や中国人にもバプテスマしましたが、重要なことは神の御言葉を理解することだし、それは、「食べる」と表現できるような人の内側に入ってエネルギーになるような経験です。それが何よりも重要なことだったので、聖書を世界中の原語に翻訳してきたわけです。多くの人たちは、聖書を読むことはできます。しかし、エレミヤのように「あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました」というところまでいけるのでしょうか。願わくば、御言葉を食べて、心が喜び踊る人になりたいですね。そうなると、「万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です」と心から思えるのです。「私は、クリスチャンです」と表明することは、とてもすばらしいことです。その人は、何しろ御言葉を食べている人なのですから。(さくま)

 

5月28日(木)

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。

箴言4:23

 

いつでも肯定的に物事を考えて、言葉も否定的にならないように気を付けるようにすることが人生を良くします。たとえば、いつも笑顔を絶やさない、とかユーモアを養うことも大切です。こうしたことも自分の心を守っていることになるのです。もう少し説明すると、心を大切にすることを心がけるようにします。心に悪いことの一つは『悔いを残す』ことです。後悔するような生き方をしないように心がけるのです。過去については悔い改めて赦されることが肝心です。自分への自尊心が低いと、どうしても否定的になり、いじわるになりやすいので、楽しいはずの人間関係を壊してしまったりします。自分の自尊心が健全であれば、多少のことでくよくよしたり、大きく傷ついたりしなくてすみます。そこで、自分が正当にほめられればいいのですが、上手にほめてくれる人を見つけなければいけません。ありのままの自分を受入れてくれる人、良い所を見つけて気がつかせてくれる人、一緒に笑い合える人、自分の中の否定的な気持ちを粉砕して掃除してくれるような人がいるといいですね。もし、身近にいないと思うのでしたら、自分で自分をほめることもいい手です。「笑うとけっこう愛嬌があって可愛いじゃない」とか、鏡を見てほめてあげるのです。ただし、嘘はいけません。本当のことだけ褒めるのです。信頼できる人がいれば、「私の良い所はなんでしょう」と聞いてみてください。子供に聞いてみたり、親や兄弟姉妹に聞いてもいいですね。それでも納得しなければ、イエス様にお聞きしましょう。祈りの中で、自分を肯定するのです。そして、自分はすばらしい存在であることを認め、もうこれからは自分をあざむかないと決めます。イエス様に愛されて、主を心にお迎えしたのだから、心を大切に守っていこう、と決心するのです。きっと安定した平和がやってきます。いつも自分に自信があるので、否定的にならずにすみます。主への感謝がよく口をついて出てくるようになります。神様を大胆に愛しますと言えるようになります。人生がとても楽しく思えるようになります。(さくま)

 

5月29日(金)

「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

マタイ24:29-31

 

大学で聖書を教えていると言いながら、聖書は作り話だと思っている人がいます。不思議なことに、そのような人がイエス・キリストについて本を書いていたりします。何を信じても何を言ってもいいという時代なので、どんなことでも言えるわけです。もっとも、不幸なのはそうゆう人の書いたことだけで、聖書やイエス・キリスト、そしてキリスト教にまで誤った偏見を持ってしまうことです。福音は何としても人々に聞かせてはいけないと阻止する力があるのも事実です。そして、聖書でもっとも重要なイエス・キリストの再臨のことが徹底的に否定され、古代のキリスト教徒の作り話として片付けることは、とても恐ろしいことです。それでも、あなたのように主の再臨を待っている人もいるのです。これも不思議です。この世俗化した世の中で、無神論が普通と言われる時代に、どうしてイエス・キリストを神と信じ、聖書をそのまま神の御言葉として受け入れ、再臨を待望しているのでしょう。それは、「彼に選ばれた」からです。だから、理屈では説明できません。でも、疑う人には決してわからない、神の国が存在します。聖霊を求めれば、与えられ、いのちの水が自分の内側に泉となって湧き出すでしょう。不思議な力もあらわれるかもしれませんが、それよりも主の愛が心を満たすことの方が、よっぽどすばらしいのです。主に導かれて、誰か人の助けになる事は大切なことです。主の愛が自分を通して人に流れていくことを願いましょう。それにしても、この世の終わりは来ると預言されているのです。それは意外と早く来るでしょう。転変地変が起こり、万軍の天使が空中を飛び交う光景を目の当たりにするでしょう。そして、あなたのもとに天使が迎えに来るでしょう。深い感動が全身をつつみます。天使の歌声やハープの演奏も聴こえるでしょう。その讃美は、大滝のとどろきのようだと預言されています。最後まで主に忠実でありますように。(佐久間)

 

5月30日(土)

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

ローマ2:19-21

 

私たちが生きている世界は、すでに終末なので愛が冷えている世界です。そこで、思いもかけない災いに遭遇することもあり得るのです。他人からあんまりにもひどい目にあえば復讐してやりたくなることだってないとは言えないのです。傷つけられた時に、感情的になることは自然なことですが、失敗したり後悔したりはしたくないので、まずは自制が大切です。そして、今日の聖句を覚えておくことです。そうだ、私が復讐するのではなく、主が復讐されるのだ。この世が愛の冷えた世界でも、私の役目は主の愛に生きることだから、「善をもって悪に勝」つことだけを目指したいのです。ここが、本物のクリスチャンか見せかけのクリスチャンかを分ける見分けのポイントとなります。これは、人間の努力ではできません。聖霊が内住して、主の愛であるアガペーが自分に宿っていることがなければできないのです。キリストが十字架につけられた意味を神の愛(アガペー)と捉えることは大切です。神の愛とは、自分を十字架につけたローマ兵やイエスを見捨てて逃げ出した弟子たちをも、赦して愛しぬかれる主のお姿にあるということです。私たちもそのキリストに倣って、自分で復讐しないで、敵を愛せるか試されているのです。自分がまだ大切なら、自己中心のままなのです。キリストに従うことは厳しいと感じますか。それなら、もう一度、十字架のところまで戻ってみましょう。十字架の主を見上げて見つめてみましょう。これが、自分を愛する神の姿なのですから。あなたは、この愛にどう応えるのですか。(佐久間)

 

5月31日(日)

私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。

詩編34:4

 

クリスチャンは知らなければなりません。主は答えてくださるお方であることを。牧師になる前も、牧師になってからも、いろいろな問題が襲いかかってきました。自分の力でなんとかしようと悪戦苦闘の日々を送ったこともありました。しかし、自分の力がおよばなければどうなるでしょう。考えただけでも恐ろしいですね。神様は、私たちに信仰を教えようとしています。なにしろ、ふだつきの罪人なので、考えることが何でも自己中心で、神様のお考えと正反対なのです。人はごまかせても神様をだますことはできませんから、神様は忍耐強く正しい道を教えようとされます。しかし、罪人は悔い改めて、イエス様を信じて、水と霊とから新しく生まれなければなりません。御言葉を信じることができるかどうか、何べんも訓練されます。そして、祈りが重要なことであると悟るように導かれます。聖書を古代の単なる資料のように考える学者もいますが、彼らは「霊であり命である」御言葉の秘密を知りません。しかし、単純な信仰があれば、聖霊は御言葉を働き解き明かしてくださいます。そうなると、聖書は神の言葉である、と心から言えるようになります。そして、御言葉に信仰を養われて、信仰生活で練られて、クリスチャンは成長するのです。そうなれば、今日のみ言葉の意味も分かってきます。人間は自分の力で自分を守れないと思った時に恐怖にとらわれるのです。その原因がいかなる恐怖であっても、主はあなたを救い出してくださいます。自分の力で何とかできると思っているうちは、信仰は必要ではないのです。恐怖に遭遇したとたんに、すべてを捨てて主を求めているでしょう。大変な目に遭う前に、自分を捨て、自分の十字架を負うて、主に従う信仰を持ちたいものです。(さくま)