2015年6月

6月1日(月)

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

詩編23:1

  

ある時、蔵王に教会の青年たちを連れていったことがありました。その時、牧場に羊がいました。青年たちは喜んで羊のところへ走って行きました。羊はまるまると太り、青草の上で幸せそうでした。今日の聖句は、明らかに私たち神を信じる者が羊として描かれています。もともとはダビデの詩ということですから、ダビデの信仰が描かれているのですが、私たちは共感することができます。羊を見てみると何も持っていないのです。お箸やお茶碗も無いし、スプーンすらないのです。ソルジェニーツインの本の中で、シベリヤの収容所ではスプーン一本が自分の持ち物で、それは大変貴重であったそうです。それが誰かに盗まれると補充されることはないので、盗まれないように気を遣い、命よりも大事に思えてくるそうです。作者は、神を認めようとしない恐ろしくも悲しい世界を見せているのです。イエス・キリストが2000年前に地上に来られた時に、ユダヤ人たちを見て、飼う者のない羊のようだ、と嘆かれました。しかし、私たちはイエス・キリストこそが私たちの羊飼いであると信じたのです。その結果、主が羊飼いとなって、神を信じる人をお世話してくださるので何も欠けることがないのです。私は、何十年もイエスを羊飼いとして、従ってきましたが、何も欠けることがありませんでした。信仰を試される事は何度もありましたが、いつでも喜びに変えられて、主の御業を見せられてきました。ですから、今日の聖句を読むと、何ともいえない安堵感というか、主への信頼で心がうるうるしてくるのです。自分の人生がただ生きているのではなく、目的を持ち、ゴール目指して確かな道を歩んでいると確信できるのです。それは、イエス・キリストが羊飼いだからです。あなたも、一人で歩んでいるのはありません。羊飼いがちゃんと安全で良い道へと導いてくださっているのです。(佐久間)

 

6月2日(火)

神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。

テトス3:5-6

 

これだけ明瞭に救いについて書いてあるのに、驚くほどこの真理が理解されていません。つまり、第一に、キリスト教の救いは、人間が行う義の業によっていないということ。神の憐みによって救ってくださったのです。第二に、「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ」とあるのは、新生のことです。悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われるというのはこのことです。人間の力で正しくなったので救われたということではありません。聖霊の神秘の力で新しく生まれる経験をすることができるのです。しかし、ここで止まっているクリスチャンが多いことが問題なのです。御言葉は続いています。「新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」と書いてあるのは、聖霊のバプテスマのことです。初めの新生が信仰により、その証しの水のバプテスマであれば、第二は聖霊のバプテスマによって新たに造りかえられる奇跡の体験なのです。この聖霊のバプテスマを授けるためにキリストは来られたのですが、「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました」とある通りにペンテコステ以降、今に至るまでこの御言葉は有効なのです。確かに、罪人である人間がこの方法以外に罪から解放されて、義となり、天国に入れる者に変えられることはありえないのです。ただ、聖霊の恵みをいただいたのなら、「良い行いに励もうと心がける」べきなのです。それは、この世の人と自分を比べたり、競ったりしないことでもあるのです。この世でうまく生きて行こうなどと考えていれば、落とし穴は幾つも出てきます。キリストだけが道であることを忘れないように自分を戒めて生きることを心がけましょう。聖霊はあなたのために働いてくださいます。(佐久間)

 

6月3日(水)

イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

ルカ8:1-3

 

イエスの公生涯は、神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせる、巡回伝道の日々でした。そこには12使徒たちだけではなく、婦人たちも大勢一緒にいました。キリスト教会が今でも大勢の女性たちによって支えられているのは、初めの時から変わっていません。イエスと共に伝道旅行にもついて来た婦人たちは、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と書いてあります。こうやってイエスを支えていたのです。さて、この中に「マグダラの女と呼ばれるマリア」が出てきます。彼女は7章36節以下の「罪ある女」として言われることが多いのですが、この作者はまった暗示すら書いてありません。この文脈では、悪霊を追い出して病気をいやしていただいた婦人として紹介されています。その悪霊も七つの悪霊ですから、難病であったと思われます。その絶望的な状況からイエスが救い出してくださったのです。ですから、イエスに徹底的な献身を現して慕っていったのです。このマグダラのマリアとヨハンナは、受難物語と復活物語の中にも現れます。彼女らが復活の朝に、イエスの墓が空であることを見た女たちの中に含まれていました。その時、男弟子たちは恐れて隠れていたのですから、献身的な信仰を現すのはやはり女性の方であると言われてもしかたありません。今日もこうした婦人たちの主への献身が教会や伝道を支えているのです。(佐久間)

 

6月4日(木)

理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。

コロサイ2:3

 

キリストの名は誰でも知っていますが、その意味を知る者は限られています。クリスチャンになっただけでは、まだ不十分です。「理解力を豊かに与えられ」という御言葉がそのことを物語ってします。超自然的な方法で理解力が求める者に与えられます。それは、キリストが神の秘められた計画であるからです。教会に通うようになって、聖書を学び、説教を聴き、キリストの意味を教えられます。しかし、御言葉は「悟るようになるため」とあります。ですから、単なる学習を超えています。みなさんは「真理の御霊」という言葉を聖書を読んでいて見つけたと思います。つまり、約束された聖霊が信仰者に送られてくるのですが、その聖霊の解き明かしによらなければ、わからない真理があるということです。キリストのすごさは、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」という点です。だから、キリストご自身が、13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13:44)と、譬えで教えています。今までのことから考えれば、畑はキリストということになり、その中に知恵と知識の宝が隠されていると解釈できます。この畑を買うために、持ち物をすっかり売り払っています。古い自分を捨てているのです。人間的な欲や自己中心的な価値観など、捨てるものだらけです。今まで価値があると思っていたものとキリストを交換するわけです。神無しの人生を捨てて、本物の宝を手にして、人生の目的を知り、罪からの救いの方法、新しく生まれかわること、神との新しい関係、聖霊との交わり、霊の戦い、愛、キリストの内にとどまること、聖化、栄化、聖霊の賜物、聖霊の実、キリストの品性、新しい掟、内面の癒し、このように全く新しい知恵と知識が自分のものとなっていくのです。それは、キリストに愛され、キリストを愛し返すという愛の中に起こっていくものです。聖霊による覚醒は、キリストを知るために不可欠です。初代教会の教えは、今も生きているのです。そして、主の恵みによる救いにあずかったのであれば、中途半端なクリスチャンになってはいけません。あなたは、キリストの教会の一部となったのですから、キリストから宝を見つけ出してください。穏やかな日々をおくれますように。(佐久間)

 

6月5日(金)

イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」・・・・・イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。

ルカ8:50,54,55

 

 

この物語は、会堂長ヤイロの娘が死にそうになった時に、イエスをヤイロ自身が呼びに来て、イエスはヤイロの家に向かったのですが、途中で、娘は亡くなったと伝えられます。その時のイエスの言葉とその後で起こった奇跡物語です。もう一度イエスの言葉を初めから見てみましょう。娘は亡くなったと聞いたのですから、「生き返る」とか「よみがえる」といった言葉であるべきが、なんとイエスは「娘は救われる」と言われたのです。そして、実際に亡くなった娘のもとへ行くと、娘の手を取って、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられました。すると娘は生き返ってすぐに起き上ったというのです。これはイエスがキリストであることの証拠であるのですが、キリストの使命が私たちを救う事であったことも思い出させます。私たちが生きて主の再臨を迎えるのか、眠りについてから再臨の日に目覚めるのかは定かでありませんが、もし再臨が遅れて眠りについていたら、復活するかどうかが究極の救いであることは明らかです。すると、キリストがヤイロの娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられたのは、再臨の時に死んで眠りについている聖徒たちを主が呼び覚まし、復活させることを暗示しているように思えます。たとえ死んでも生きると言われた主のお言葉のように、信仰者に大きな希望を与える証拠となるのです。この世で死んでいくことは人間の定めですが、その人をよみがえらせ、天国へ連れ帰ることのできるお方は、「救われる」という言葉を意識して使われたのです。重要なことは、「恐れることなく、ただ信じる」ことが救いの奇跡を起こす条件なのです。まだ救われていない家族のために、信じることのできるあなたがただ信じるのです。そこには恐れがあってはなりません。なぜならイエスが「恐れることはない」とおっしゃったからです。ただ信じましょう。(佐久間)

 

6月6日(土)

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

フィリピ2;13

 

 

数十年のクリスチャン人生を振り返ると、面白いことに自分では予期していなかった事をやろうと決意し、それらをことごとく実現してきたことに気がつきました。それは、クリスチャンになってからすぐに起こり始めていました。そのように神様の御心にかなったことは、普通ではきっと無理だと思うか、初めからやろうとは思わないだろう事ばかりです。なぜ、「御心のままに望ませ」られたのか、どうやってわかるのか、と問われれば、願いが起こってきたから、としか答えられません。実際は、「行わせておられるのは神であるから」と聖書に書かれた通りで、何も困らなかったし、今考えると大変なことばかりだったように思いますが、その時には何という事はなかったのです。それよりも、自分の内側に聖霊が働いていて、それをやりたいという熱意が湧いてくるのです。出来ないのではなどという不安は湧いてくることはありませんでした。必ず出来るという確信しかなかったのです。あなたにも神様は同じように働いています。あなたの内側に働いているのが分かるはずです。願いを起こしているのは神様なのです。そして、それを実現に至らせるのも神様なのです。それを体験してクリスチャンは信仰を学び、力をつけて、御言葉に従順に従うようになれるのです。それがどんなに尊いことか、そうやってイエス様に似た者へと変えられていくのです。自分に固執していれば、滅びるだけです。何年経っても変わる事ができません。悩みは愚かなほど付きまといます。イエス様のようにへりくだる事ができなければ、救いを達成できるかわかりません。もっと、神様が自分に働きかけていることに敏感になりましょう。そして、勇気をもって、従うことです。ワクワクするようなクリスチャン人生を送りましょう。(さくま)

 

6月7日(日)

信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

ヘブル12:2-3

 

クリスチャンであることは大きな喜びです。神様を知ることの恵みは驚くばかりです。それは、主イエス・キリストを通して神様を正しく理解できたことによります。神は愛なり、とは真実です。しかし、クリスチャン人生は、喜びばかりではなく、それなりに大変なこともあります。そして、時に悩むことも心配することもあるのです。もっとちゃんとしなければ、と思っていても、落ち込むようなことが起こることだってあるのです。信仰の力がどれほどすばらしいか体験から理解していても、それでも目の前に暗雲が垂れ込めてくれば、急に不安になり、恐れに感情がかき乱されることもあります。クリスチャンであることを快く思わない人がいたり、ひどい扱いを受けたり、迫害されることだってあるのです。これらの試練を思いがけないことが起こったように受けとめればパニックになります。しかし、そもそもクリスチャンはキリストのような人のことを意味しているのですから、キリストに似るようにもっとキリストのことを知る必要があります。そうすれば、キリストがなぜ、十字架で死なねばならなかったのか分かってきます。その御足の跡をたどっていくことがクリスチャンの道なのです。そうしなければ、罪人が神の子に変えられたり、キリストの品性を身につけたり、キリストの徳の高さに近づくことなどできるはずがないのです。勿論、聖霊の圧倒的な力によって変えられていくのですが、クリスチャンには信仰が要求されます。その信仰がキリストの内にあるのです。そして、キリストを見つめるならば、キリストの信仰がよく分かるようになるのです。そこから学びます。そして、クリスチャンは十字架のキリストを見上げれば、「気力を失い疲れ果ててしま」うことはなくなるのです。自分ひとりで頑張る必要はありません。周りの人達は理解してくれないかもしれません。それどころか、ひどい言葉で中傷したり、裁いたりするでしょう。この時に、自分だけがひどい目にあっていると考えないことです。イエス様ならどうするだろう。イエス様の弟子なのだから、誤解され、ひどい目にあっても、イエス様のお苦しみにはくらべようもないと考えます。だから、すべてを主に御手にゆだねて、平安を得よう。主は勝利されたのだから、主によって私も勝利を得よう。忍耐できるように祈り続けよう。主は私の分も苦しみを引き受けてくださったのだから、私は大丈夫だと、信仰の告白をしましょう。事実、主は急いで働き、問題を解決してくださるのだから、信頼して待つことにしましょう。(さくま)

 

6月8日(月)

いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

詩編84:6-8

 

この世で、辛い事や悲しい事に遭遇することは残念ですがあるものです。もっとも、それ以上に喜びや楽しみの方が断然多いものですが、一回でも嫌な事は避けたいものです。そこで、神様にお祈りすることは悪い事ではありません。むしろ主の祈りを毎日唱えることは正しいのです。信仰が安定しているなら、勇気を出すことを覚えましょう。イエス様と一緒に人生を歩んで行くと心に決めて、どんなことがあってもへこたれないことです。失敗したなら謝り反省すればいい。けんかしてしまったなら、すぐに仲直りすればいい。人を傷つけるつもりでなくとも傷つけてしまったなら、言い訳せずに謝ればいいのです。しかし、どれも勇気がいると思いませんか。だから、イエス様は、「勇気を出しなさい」と優しく励ましてくださいます。仕事でも、人間関係でも、どんなことでも、勇気を出して進むのです。正しい道は勇気がいるものです。それが普通にできる人は心に広い道を見ているのです。どんなにひどい事になっても、たとえ愛する人を失ったとしても、「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」。イエス様に正直に祈る習慣をつけるのです。ただ愚痴を言ったり、同じことを繰り返し祈り続けても、かんばしくありません。心が何か大切なものを失ったなら、その心の傷は癒えるのに時間がかかるのです。だから、無理することはありません。お優しいイエス様の御手を求めて、弱い自分をゆだねればいいのです。そして、勇気をいただけるようにお祈りしましょう。祈ったら、信仰を持って勇気を奮い立たせるのです。すっかり縮こまってしまった心にイエス様の光りを満たしていただくのです。人生が続いているのは、シオンへの道がまだ残っているからです。神様にお会いするために、人生は続いているのです。イエス様が神様へ通じる道なのですから、日々、イエス様の御名を呼んで前に進みたいですね。勇気が心に満ちてきますように。聖霊の雨が降ってきますように。いつも祝福で覆っていただけますように。日々、力に満たされて進み、ついに神様にお会いすることができますように。あなたは、幸いな人なのですから。(さくま)

 

6月9日(火)

ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

ヨハネ16:22

 

イエス様が何かしてくださった時、そして、そのことが分かった時に、この世のものとは違う大きな喜びが湧き起ります。クリスチャンは、そうやって信仰を幼子のようにしていくのです。理性的で分別のある信仰は大人としてりっぱなことですが、人間の常識が限界を作り「人にはできないが神には何でもできる」というような疑わない信仰をもつことがなかなかできなくなるものです。ある時、ミッションスクールのお母さんたちのための集会で講演をしました。その時に、聖書を学びたい人は申し出てくださいと言ったところ、お二人のお母さんが聖書を学びたいということで、それぞれ個別に聖書を定期的に学びました。そして、お二人とも洗礼をお受けになり、クリスチャンとなりました。人間には誰しも何かしらの悩みがあるものですが、彼女たちも重荷を負っていたのです。Aさんは、ご主人様が家に帰らなくなりました。いろいろ考えて大きな悩みになりました。それで、クリスチャンになり、イエス様にすがるようになったのです。Aさんは、とても素敵なすばらしい方でした。忍耐して、主に祈り待つことにしたのです。そのような中で養われる信仰はとても強いものだと思います。そして、ある日、ご主人は家に帰ってこられました。信仰の勝利だと思います。私たちの主は、使徒言行録によると、二千年前に弟子たちの目の前で天に昇られ、天国にお戻りになられたのです。しかし、聖書を読めば明らかですが、主ご自身が迎えにこられると約束されています。その時の喜びは人生最大の喜びとなるでしょう。そして、そのまま空中に引きあげられて新天新地へ向かうのです。ですから、イエス様と直接会うことになります。そして、もう二度と離れることはなくなるのです。その喜びは永遠となるのです。もう少し、忍耐して、時の満ちるのを待ちましょう。主のお約束は必ず実現するからです。(さくま)

 

6月10(水)

見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。

イザヤ48:10

 

クリスチャンになれば良いことばかりだと思っていましたが、実際はそうではありませんでした。意味も分からずに人生の荒波を超えてきたと思っていましたが、御言葉は主が私を練ったと語るのです。純度の高い価値ある銀を作るように練ったのではないとも語ります。人を練るというのは、「悩みの炉であなたを試みた」と言うのです。そこで、クリスチャンが神の御目にかなうようになるためには、そのままで良いというわけにはいかないのです。それは、私たち自身が一番よく理解しています。何年何十年経ってもまだまだダメなクリスチャンなんですと言い続ける人はいくらでもいるでしょうが、それでも、練られていることには変わりありません。事実、試練が襲ってきたことは何度もあったと思います。悩みの中でクリスチャンをやめてもよかったのに、ますます祈り、主に頼ったのではないでしょうか。そして、自分の力で生きることの困難を悟り、主に自分自身を投げ出して委ねることを経験してきたのではないでしょうか。それでも、人間は自分を捨てきることができずに、自分の目に良いと思うことを選択してしまうものです。だから、その結果は自分で刈り取ることになります。悩むことは、難しくありません。どんな些細なことでも悩めるのです。しかし、悩みの炉の中であなたを試みているのは主であることを忘れないでください。悩みの時こそ、信仰で乗り切るのです。自分ではなく主を信頼するということです。聖書に書いてある以上、誰もこの道を避けることができません。そうであれば、悩みの炉で試みられた時に、どうすればよいのかを考えてみる必要があります。聖書には様々な実例が書かれています。そこから学ぶこともできます。悩みの中で祈ることしかできなくなる時に、その祈りの中で真のクリスチャンがキリストに倣う者であることを悟ることです。そうすれば、光は見えてくるのです。いずれにしろ、クリスチャンは悩みの時に試みられていると思いだし、良く練られていけばいいのです。(佐久間)

 

6月11日(木)

イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

ヨハネ8:10-11

 

人間にとって罪の問題は、いつでも深刻な問題です。まさに罪の奴隷としか言えないほど罪に縛られてしまうのです。誰かが何とかしてくれなければ自力では無理だと思うような問題なのです。罪の厄介さは、罪の中におぼれている時には何も感じないのですが、後になってから罪責感が生じるとどうしようもなくなるのです。もし、イエス・キリストが救いに来て下さらなかったら希望はなかったでしょう。今日の話しは、罪を犯した女が人々から責められ、イエスに裁くように迫った時の出来事です。人が人を裁くことはできない、それは皆だれしもが罪人だからです。罪人が誰かの罪を裁くなどこっけい以外のなにものでもないのです。人を裁けば、自分が人を裁いたように、自らも裁かれることを覚えなければなりません。イエス・キリストのすごさは、人が人を裁くということができないようにすることです。人を裁けば、逆に自分をも裁いてしまうことになるとわかるからです。そのような哀れな罪人をキリストは裁かなかったのです。罪の事をよく理解していたからです。そして、その罪から人を救うために来られたことを知っていたのです。キリストの役目は、人間が苦しむ原因である罪の問題を解決し救うことです。そのためには、キリスト自らが身代わりに犠牲になって十字架に死ぬことでした。その覚悟がなければ、決して「わたしもあなたを罪に定めない」とは言えないのです。そして、この徹底的な赦しをクリスチャンは受けたのです。だから、「これからは、もう罪を犯してはならない」という主のお言葉をちゃんと受けとめなければならないのです。もう古い生き方はできません。キリストの後についていくことでしか罪を犯さない生き方などできないのです。それは、罪の正反対である愛に生きることなのです。愛するために主に赦され、召されたのです。あなたは、きっとキリストが愛してくださったように隣人を愛するでしょう。キリストを愛するように人を愛するでしょう。(佐久間)

 

6月12日(金)

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

イザヤ746:4

 

私たちの神様はなんとありがたいお方なのだろうか。人は、必ず歳をとることになっている。それ自体はなんら悪い事ではない。ただ、若い時のようにはいかない。体力も衰えさっさと出来なくなってくる。それをゆっくり受け入れていかなければならない。しかし、最近は年配の方々が若いのには驚かされる。昔とは大違いなのだとつくづく思わされることが多いのだ。だから、早々と老け込むことはない。私の住んでいる田舎にも大きなユニクロがあるが、午前中に行けば大きな駐車場は満車で、店内にはお年寄りがご夫婦で買い物を楽しんでいる。ユニクロは若者の店だと思っていたが、店内がお年寄りでいっぱいという光景は、珍百景に登録してほしいぐらいだ。それで、田舎のお年寄りもちょっとかっこいいカジュアルな服を着てキャップをかぶっている。実に若々しい。しかし、いろいろなお店をめぐってみると、本当にお年寄りばかりなので異様な感じがしてくる。日本の少子高齢化をリアルタイムで見ている実感がわく。さて、高齢者が人口の四人に一人という社会で、クリスチャンは考える。お年寄りは不安ではないのか。私たちは、今日のみ言葉のように絶対最後まで面倒をみてくださる最高の神様を信じているが、そうでない人たちはさぞこれからが心配だろう。聖書には、神様が自ら背負うとおっしゃってくださる。「わたしはそうしてきたのだ」とちゃんと語っているし、最後の聖句は実に感動的な箇所なのだ。日本語では煩雑になるので書いていないが、ヘブル語では、「私こそが運ぼう。私こそが背負い、私こそが救い出そう」と、「私こそが」と連呼しているのだ。それほどまでに、主はあなたを愛されているのだ。熱情の神であるから、あなたがどんなに歳をとって弱っても、主がかならず背負っていくから心配ないとおっしゃっておられるのだ。なんとありがたいことだろう。だから、あなたは安心して主がどんな良いことをしてくださるか楽しみに毎日を過ごしていただきたい。幼子のように天の父の背中に背負われ安堵して、幸せをかみしめるように生きていこうではないですか。(サクマ)

 

6月13日(土)

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。

詩編103:2-5

 

神様を信じてよかったとつくづく思います。今日の詩編のみ言葉の通りだと実感します。ですから、主をほめたたえます。テレビをつけてみると、毎日のように健康番組をやっています。高齢化が進んでいる証拠ですね。歳をとっても健康ならば、結構楽しいものです。でも、最大の恐れは、認知症や介護の必要な身体になることです。ですから、健康番組をみて、いろいろな知識を聞いて少し安心するのですが、番組が終わると、内容のほとんどを覚えていないのです。それでも、運動が必要だということぐらいはわかります。だから、ジョギングやウォーキングが出来る人は楽しく継続すればいいと思いますが、続かない人も大勢いることでしょう。それで、考えるのです。そもそも、神様が人間をお造りになった時に、すべてが完璧に造られたので、メタボになるはずはなかったのです。初めは菜食主義で、リンゴ狩りやブドウ狩りのような、楽しい仕事が与えられていました。エデンの園は、本当の楽園だったのです。美しいだけでなく、美味しい色とりどりの果実がたわわに実っていたのです。でも、罪を犯して楽園から追い出され、土地までもが呪われ、雑草や茨に覆われてしまいました。それで、農業は大変な肉体労働になったのです。それでも、生きるためにはやめることができませんでした。このようなことが古い記録として聖書に記されているのです。そこで、創造の原初に戻ってみると、創造の秩序は、やはり人間は楽しく労働することにありました。そこで、人間の健康の法則は、健全な精神を養うために宗教を持ち、健康のために楽しく労働することが一番良いことなのです。体を自然の中で動かすと、全身運動をして、その中に老化を防ぐ働きもあるのです。このように、神様が創造された世界に生きることが、神の国に生きることにつながり、健康で幸せに楽しく暮らす秘訣となるのです。この世の神様を無視した世界は、たくさんの病気が人の幸せを奪って行きます。愛することが心身の健康に一番よいことなのに、いかに愛の少ない世の中になってしまったことか。せめて、クリスチャンの間では、互いに愛し合う生き方をつらぬきたいですね。(さくま)

 

6月14日(日)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:13

 

大きなダイニングテーブルを買ったのですが、高さが高くて、椅子の座り心地も今一つで、結局倉庫にしまってしまいました。それから、数か月が経って、模様替えをすることになり、ダイニングテーブルが欲しいけれど、なかなか手ごろなものがないと思っていました。ところが、倉庫にしまったままの大きなダイニングテーブルをまた使えないかと考えて、倉庫から引っ張り出して置いてみると、高さが高くてやはりだめだとあらためて気づきました。家内は、インターネットで調べ始めました。そして、女性がダイニングテーブルの脚を自分で切ったというブログを見つけたのです。しかも、彼女は妊婦で臨月なのに、ホームセンターに行って糸のこを買ってきて、見事に切りそろえたと写真入りで出ていたのです。もう陣痛が起こってもいいと思ってやったそうです。そこで、不器用な私が果たして妊婦でも臨月でもないのに、そんな大胆なことができるだろうか?と考えました。今まで物差しできっちり測り、のこぎりで切るとどうしてか曲がって切っていたのです。何のために測って線を引いたかわからないぐらい、芸術的に切ってしまうのです。だから、すぐによしやろうとうはなりません。おそらく、切りそろえて見ると、ガタガタでもう一回切り直すと、さらにガタガタでまた切るとどうしようもないぐらい不揃いに切れて、気がつけば座卓になっているだろうというイメージが浮かびます。「テーブルの脚はまっすぐだけど、椅子の脚はカーブしているからこれは天文学的に難しいよ」と、すでに逃げ腰になっています。すると、家内が今度はYouTubeで、椅子の足を切る方法をというのを見つけて、それも見てみると、いとも簡単に切りそろえているのです。そこで、今日の聖句です。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」という極めつけのみ言葉です。忘れていました。「どんなことでもできるのです」。それならば何を躊躇しているのだろう、そうだ、ホームセンターへ行って必要な道具を買ってこよう。ということでホームセンターを二件回って、同じ長さに線を入れる道具を捜しましたが見つかりません。そこで、神様は、そのお店の年配の店員さんを通して、そんなものいらない、難しくないからゆっくりのこぎりで切れば大丈夫と励ましてくださいました。それで、その気になって即実行です。なんとかに刃物、というのは最も危険なのですが、のこぎりを握りしめ、熟練の大工のように渋い表情を作り、いざ挑戦です。まず上手にテーブルと椅子の脚を切るために正確に測ります。どうやって正確に切るか試行錯誤です。そして、とうとうやり遂げたのです。不思議なことにテーブルも椅子もガタつくことも無く、ちゃんと適正サイズになったのです。自分ではとうていできないと思っていたのですが、御言葉の通りでした。こんな生活の中の些細なテーブルの高さのことまで、主は私を強くして、できる者へと変えることができるのです。ですから、あなたも「どんなことでもできるのです」。これは、信じる者の特権です。わくわくしてきませんか。何かためらっていることがあるのなら、勇気を出して挑戦してみましょう。(さくま) 

 

6月15日(月)

にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。主があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように、守ってくださるからだ。

箴言3:25,26

 

 

安心はとても大切なことです。もし、今の時代心配しようと思えばいくらでも心配の種はあります。ニュースはいつも同じような恐ろしいことを告げています。何かに頼りたくなるのですが、どれも本当に頼りになるかそれもまた不安になるのです。何の前ぶれもなく恐怖や不安に襲われることすらあるものです。では、忙しくしていれば大丈夫かといえば、何の保証もありません。さて、そのような現代人の様子はあなたが一番ご存じでしょう。ところが、今日の聖書のみ言葉を読むと、おやっと思います。予告も無く起こる恐怖もあなたにとって敵となる者が悪意を向けて襲ってきてもおびえるなと命じています。その理由は、主なる神の鉄壁の守りがあるからだというわけです。クリスチャンはこの御言葉のように主イエス・キリストが決して離れずにいてくださり、なにか災いや困難に陥ることの無いように守っていてくださると信じています。だから、いつも守られているのです。自分の知らないうちに敵の攻撃は退けられ、悪意をもってわなを仕掛けられていても、あなたの足がわなにかからないように守られているのです。不思議なことに、信じる人と、信じない人に分かれてしまいますが、それは信じる者が実際に災いから守られるというだけでなく、実はもっと切実な恐怖や不安から守られることのメリットに計り知れない価値があるのです。これは、体験するしかありません。願わくば、あなたが信じることができて、この御言葉の通りになりますように。(佐久間)

 

6月16日(火)

口の言葉が結ぶ実によって/人は良いものに飽き足りる。人は手の働きに応じて報いられる。

箴言12:14

 

何を言うか自分の言葉に気を付けているでしょうか。「口の言葉が結ぶ実」と聖書に書いてあります。言葉が結ぶ実とはなんでしょう。たとえば、日本のことわざに「口は災いのもと」というのがありますが、これなどは不用意に語った言葉が災いの実を結んでひどいめにあわないように戒めているのです。おせじはいけませんが正直にほめるというのはよいことです。何か失敗したために悲観している人がいたら、共感して率直に励ますことも必要です。いつも批判的な人は癖になっているので要注意です。人のうわさ話はいけません。誰かから信頼されて相談されたり、悩みを聞かされたら、決してそのことを他の人に語ってはいけません。否定的な言葉を聞いても、すぐに肯定的なことばに変えて明るく笑いかけてくれる人がいます。それが、どんなことが起こってもいつもそうだと感心してしまいます。何か、明るい気持ちになれます。気が重いと思っていても賢明な言葉で、「大したことでない、なぜこんなことで悩んでいたのだろう」と気持ちを変えることができます。笑顔の絶えた人に笑顔を取り戻すのも「口の言葉が結ぶ実」なのです。できれば肯定的で積極的な良い言葉を毎日聞きたいのですが、それを期待できないのなら、なおさらあなたが元気に明るくなる言葉を話してみましょう。それが習慣となれば、どんなすばらしい実を楽しむことができるのでしょうか。自分のしたことが自分の報酬であるというのも、同じことを言っています。だから、どんな仕事も嫌々やる事は損な事になります。誰かのために良い働きをすれば、それが自分の報酬になるのです。人生は目に見えることだけがすべてではないのです。目に見えないものこそ人生に価値を与えてくれるものです。(さくま)

 

6月17日(水)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

ガラテヤ5:22,23

 

クリスチャンのすばらしい経験は、聖霊が内住してくださること。聖霊の導きに従うのなら聖霊は内側から品性を整えてイエス・キリストのそれと同じになるように働いてくださいます。愛が大切であることは知っていても、愛の実践は意外なほど難しいのです。そこで、人間の努力ではできないと知ります。実は、今日の聖句に出てきた御霊の実のリストは九つありますが、そのどれ一つも聖霊のお働き無しには達成できないものばかりなのです。そして、クリスチャンは、この一つ一つをよく考えるように導かれています。九つの言葉の前に「イエスの・・・」とつけてみるとよいでしょう。そして、いかに聖霊の実を結ぶかということがクリスチャンの課題となっているのです。信仰に基づいた生活を通して聖霊は訓練し、キリストの徳の高さへと引き上げて行こうとします。実際にはへりくだる事を教えているので、この世の人が見たら、さえないと思うかもしれませんが、隣人が困って悲しんでいる時に、最もそばにいて欲しいと思う人がクリスチャンです。なぜなら、このクリスチャンは九つの言葉で言い表せる人だからです。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、この九つが美しい品性としてその人から現れてくるのです。それは、ラベンダーやバラの良い香りのように、周りの人に届くのです。今日の御言葉を暗唱しましょう。(佐久間)

 

6月18日(木)

憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

マタイ5:7

 

人間の幸せを考えてみましょう。あなたはどんな時に幸せと感じるのでしょう。たとえば、欲しかった物が手に入った時とか、頑張った結果みごとに目的をやり遂げた時とか、大切な人が喜んでいる姿を見た時とか、自分を必要としている人がいると分かった時とか、自分が誰かから好かれていると知った時とか・・・・。いろいろな場面を思い出し、想像してみたでしょうか。しかし、イエス・キリストは今日のみ言葉の通りに教えました。「憐れみ深い人々は、幸いである」と。人の真心は、とても驚くような力を持っているのです。ですから、ここ一番と言う時には、誠実に真心を尽くすことです。そうすれば、奇跡だって起こせるものなのです。その真心の中で「憐れみ」という部分は決して上から見下した時の言葉であってはなりません。イエス様がどうして、大勢の病人を毎日毎日癒し続けたかと言えば、憐みの心からそうしたのです。私たちの場合は、だれか知り合いが困っていることや悩みを打ち明けてくれた時に、湧き起る感情です。なんとかしてあげたい。でも自分には力がない。それでも、神様に嘆願して友達のために助けを求めることはできる。そして、そばにいてあげることも必要かもしれないし、もしかしたら、何か解決のためにできることがあるかもしれない。そんなことを思って、聖霊の導きを頼りに動くこともあります。さて、もう少し考えてみましょう。友達を必要とする人に二種類いて、自分の満足のために友を必要とする人と、友の満足のために自分があると考える人です。どちらが幸いを得るでしょうか。一時の幸いならば前者の人でも起こるでしょうが長続きしません。後者の人は幸いを得る可能性が高いです。そして、後者の方が今日のみ言葉に近いと思いませんか。幸いというのは、後者の人は見返りを求めていないのに真の友を得ることになるので、損得抜きに「憐れみを受ける」ことになります。あの人は元気かな、大丈夫かな、という優しい気遣いとなって現れてきます。そこに幸いがあります。ここにも、互いに愛し合いなさい、という主の掟が生きていますね。現代人が切に欲しているのは、この「憐れみ深さ」を自分に向けてもらうことではないでしょうか。社会がどんなに悪くなろうとも、憐み深い人でいたいですね。(さくま)

 

6月19日(金)

それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。

創世記3:5

 

世の中には何かを知ろうとすれば、考える人と行動する人がいます。考える人はオセロゲームや将棋で次の一手を考えている人のようにじっとしているので静なる人です。一方、行動する人は、まず体当たりして跳ね返されて痛いと感じて、なるほどこれが壁か、固いし、ぶつかれば跳ね返されるものだ、と理解したりしますから、結構大変です。ですから動なる人です。相手が人間だと壁もいろいろあるように、固い人もやわらかい人もいるので、とにかくぶつかってくだけろの精神で体当たりしてみるのです。時には本当にくだけてしまうこともありますから、まさに体を張っているわけです。私の住んでいる町の図書館は、ちょっと貧相で魅力に乏しいので、本屋に行くことが多いのですが、今は椅子に座って買っていない本を自由に読めるような本屋があるのでありがたいわけです。そこには、膨大な本が置かれていて自由に買うことができます。だから、たいていのことは本から知ることができます。ところが、今日の聖句は「善悪を知る」という言葉がでてきました。不思議なことですが、人間が創造されてエデンの園に置かれて、この日に初めて善悪を知る者となったのです。それは、神の言いつけを破ったことで起こりました。その結果が今なのです。キリスト教では、「罪」という言葉を使って、その結果を説明しようとします。これは、人間が善いことも悪い事も分かって行うということですから、悪い事をしながら知らなかったとは言えないのです。善悪を知ることにより、罪の意識や罪責感で苦しむということも起こります。あなたは、楽しい思い出よりも罪意識を持っていることを思い出して心を悩ませることはありませんか。今日、罪が蔓延した社会に生きていますが子供たちも例外ではありません。罪が増せば愛は冷える、という仕組みがあります。そうなると善悪を知ることができていたはずなのに容易に悪を選択することができるようになるのです。クリスチャンでもイエス・キリストに似た者となる以外に罪に対して勝利し続けることはやはり難しいのです。この世にばかり心を向けていると、この危険がわからなくなります。世が終わるまで、あるいは寿命が尽きるまでと時間制限があるのですから、知るべきは神であり御子であり聖霊であると自覚しましょう。(佐久間)

 

6月20日(土)

子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

ヘブライ2:14-15

 

人にとって恐ろしい事は、やはり死ぬことです。若い頃は気づかないかもしれませんが、40歳ぐらいになると健康診断を受ければ、何かしらひっかかってきます。私も健康診断の結果を医師から聞いて、薬を飲むように言われました。それで、薬局に寄ると同僚が神妙な顔をして不安そうに椅子に座っていました。それでも、まだ心にゆとりがありました。それから50歳、60歳と節目になる年齢を重ねて衰えを感じるようになるのです。死の時が近づいていると感じるようになるのです。私は牧師なので、人の死を看取る仕事であると思ってきました。そう思うだけの人の死に接してきたのです。信仰を持った人も、そうでない人もいました。同じように死を迎えるのですが、その両者には大きな隔たりがあります。死の恐怖のために実に奴隷としての一生だったと思わせる人と、イエス・キリストを信じた故に死に勝利し、勝利の凱旋を果たすことを知っている人です。パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(ピリピ1:21)と言いましたが、その通りだと思います。今日の聖句を読んでください。イエス・キリストがどうして人間になって、私たちと同じになってくださったか、その理由を説明しています。つまり、イエスの十字架の死は、悪魔と死を滅ぼして、その奴隷であった私たちを解放するためだったのです。だから、イエスを信じた人たちは、イエスの十字架の故に死から解放されているのです。そのような者の生き方は、そうでない者の生き方とは根本的に違っているのです。それで、いざ死を目の前にした時に明瞭にその違いが分かるのです。この神秘を人間の知力で理解することは難しいでしょうが、人となって十字架の死という犠牲をいとわなかったイエス・キリストの圧倒的な愛はわかるのです。だから、パウロのように思えるのです、「死ぬことも益です」と。死は天国への入り口でしかないのです。ようやく、この地上の大変だった人生から解放されるのです。自分の救いのために死んでくださったキリストのために生き抜いた、とその時思うでしょう。恵みから恵みへと導かれた人生だったと。(佐久間)

 

6月22日(月)

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

Ⅱテモテ4:2

 

皆さんは決して良い時代に生きているわけではありません。日は傾きこの世は終わりを迎えようとしているのです。そのような時には、世の中は悪くなります。愛は冷え、まさに毎日のニュースのような心が寒くなるようなことがあたりまえとなってくるのです。そして、人々は耳触りのよいことしか聞きません。自分に都合のよいことだけ聞こうとします。しかし、聖書はそのような時にも御言葉を宣べ伝えるように命じています。この命令は、特に重要でクリスチャンは厳粛に聞かなければなりません。おそらく、主の導きを受けると誰かに福音を伝えることになりますが、相手はまったく理解していません。自分の中心の考え方で生きてきたのですから、福音が理解できないのです。ありえないイエスの恵みだからです。しかし、簡単にあきらめてはいけません。期待し過ぎてもがっかりするので、洞察力をつけることです。一度、誰か一人でも救いへと導くことができれば、やり方が分かってきます。それで、主の訓練を受けていると思い、イエスの人への愛を共感できるように願い、一喜一憂したとしても根気よく続けることが肝心です。何しろ、世が終わるともう救いのチャンスは無くなってしまうのですから。後悔の無いように、御言葉に従いましょう。牧師の経験から、キリスト教に感心ないとか、聖書は読みたくないとか、救の必要はない、と言う人たちが実に多いのですが、そう言っている人ほど救われるので、相手の言葉に惑わされないことです。主は、福音を宣べ伝える人を大いに祝福してくださいます。霊的にも成長できます。何よりもこの世で一番の感動を経験できるのです。人間は、やっぱり優しい思いやりを持って、相手のために益となるように行動するべきです。見返りを求めないで何でも与えることは、御心にかなっています。それが、たとえ大きな犠牲を払うことになったとしてもです。それが主イエスの十字架の道を辿ることなのです。キリスト者として御心に適うものへと成長を願いましょう。そして、御言葉を宣べ伝えましょう。(佐久間)

 

6月23日(火)

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

Ⅱテモテ4:7-8

 

 

昔、神学校の男子寮でこの御言葉を聞きました。その頃、寮では朝夕に礼拝がありました。宗教委員がいて、その人が毎日の説教者や祈りの当番を決めたりしていました。この御言葉を説教で語った先輩が何を話したかはもう覚えていません。しかし、まだ信仰初心者の耳には、印象深く残りました。ここは、パウロが前の節で、「世を去る時が近づきました」と、死を覚悟して語っている場面なのです。主イエス・キリストに出会い、クリスチャンとなって始まった生涯は、苦労の連続だったかもしれません。少なくともパウロにとっては危険な毎日を通って、命がけの伝道旅行が続き、福音が人を二つに分けることを見てきたのです。一方はクリスチャンになり、他方は迫害者になってパウロを苦しめる側にまわったのです。私も牧師になってはじめてわかりました。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(Ⅰコリント2:14)とある通りでした。はじめての神学校の同窓生で牧師になった人は次々とやめて行きました。皆優秀な人でしたが、厳しいものです。人間の力では、一日も牧師を務めることはできないのです。ですから、パウロが「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」と語るのをうらやましく思います。「今や、義の栄冠を受けるばかりです」と最後に語ることができたのですから。パウロのように偉大な働きはとうていできませんが、慰めと希望の言葉が最後に語られています。「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」。そうです、伝道ができなくても、教会を建てられなくても、何か大きな貢献ができなくても、平凡でもいい、目立つこともなく、たとえ寝たきりであったとしても、「主が来られるのをひたすら待ち望む人には」勝利の栄冠を主が授けてくださるというのです。だから、最期までこの信仰を守りぬきましょう。(佐久間)

 

6月24日(水)

愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。

Ⅱテモテ2:23

 

私たちは、救いの喜びを感動をもって経験することができたので、この人生がひっくりかえるようなすごいことを誰かに教えたくなります。クリスチャンになりたての頃は、聖書の知識もほとんどないし、上手に説明できるかといえばそうでもないのです。それなのに、やたら誰かに話したくなります。自分の人生で一番の大きな出来事だったからです。人が救われるなど考えたこともなかったのです。それが、本当に救われたのですからビックリです。そこで、まずは友人に話します。私の場合は、読んだ本の内容をかなり覚えていることができるので、そのまま友達に伝えました。最後まで話を聞いてくれたのは、お寺のお坊さんの息子で跡取りでした。そのかわり仏教の話を聞かされました。次に学生運動をしている活動家の友達に話しました。彼は、私がいつのまにかクリスチャンになっていたことに驚き、興味を示しましたが、社会主義の頭には理解できないようでした。そして、難関の父親に話しました。というよりは、力づくで説得しました。あえなく撃沈することになるのですが・・・。もし、今日の聖句を知っていたら全く違っていただろうと思います。それから、何十年も経って、人が救われるのは神様の愛と力によることを理解しています。聖霊が直接その人に触れ、恵みで救ってくださるのです。私は、目に見えない神にかわってその人のそばにいるだけです。もし、気の利いたことを言えたなら、それは聖霊の働きです。もう頑張らないのです。救霊の情熱は必要ですが(ほうっておけば滅びることがわかっているから)、その人の心は主でなければ理解できないのです。人間はうわべだけしか分からないかもしれないのです。特に、罪の問題となれば深刻過ぎるのでイエス様に頼らなければ、どうにもなりません。十字架に架かられた主の愛無しには、人は悔い改めて救われることができないのです。それでも、私たちを通して人を救いに導きたいと思われているのです。キリスト教を馬鹿にされたり、関係ないと言われたり、怒られたり、嫌われたり、無視されたり、するかもしれませんが、目の前で「絶対にクリスチャンにはならない」と言った人が、洗礼を受けて救われることは珍しくないのです。クリスチャンの奥様が主人だけは救われないと思います、と言われることがありますが、私は経験から心の中で「そうゆう人が救われるんだよね」と、ほくそ笑んでいます。しかし、一人の人が救われるまでには、涙と祈りは欠かせないですね。期待が大きいとがっかりすることがありますが、そこであきらめるのはもったいないことだし、今日のみ言葉に書いてあるように、「悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう」。だから、「私のとりえは忍耐強いことです」と言えるようになりたいですね。そういえば、難攻不落の父も、最後は神様のすご業でみごと救っていただきました。それも家内の父親まで。ハレルヤ。(さくま)

 

6月25日(木)

どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。

Ⅱテサロニケ2:17

 

あなたがクリスチャンであれば、必ず誰かがあなたのために祈っているでしょう。もし、あなたにクリスチャンの友達がいれば、その人があなたのために祈っていると思って間違いありません。クリスチャンにイエス様が残した掟は一つでした。それは、「互いに愛し合いなさい」というものでした。ですから、クリスチャンはこの掟をいつでも心にとめているのです。失敗することはあるかもしれませんが、ノンクリスチャンの場合との違いは、たとえ喧嘩をしたとしても、あとで悔い改めて、相手のために良い祈りを主にささげているということです。クリスチャンは、誰か心にかかる人がいると祈りたくなります。また、大切な家族や友人のためにも、正しい祈りができるようにと願っているものです。今日のみ言葉は、そのまま祈ることができます。特に、クリスチャンが誰かに伝道している時には必要な祈りですから、ぜひ祈ってください。もし、あなたが絶好調で、なにもかもうまく行ったと喜んでいるのなら、きっと誰かがお祈りしていたのではないでしょうか。もし、人間が誰もお祈りしていてくれなかったとしても、イエス様はあなたのために祈っていてくださったと思います。なにしろ、あなたのことが大好きだからです。今日も、あなたは心が励まされ、強められ、良い働きをし、良い言葉を語るでしょう。そのように祈られているからです。(さくま)

 

6月26日(金)

主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。

歴代誌下16:9

 

 

今日のみ言葉はチャレンジに富んでいます。主は、探しているのです。主と心を一つにする者を。そして、その人を力づけようとしているというのです。どうでしょうか。私たちは日々の生活に追われて、つい自分の事ばかり考えてしまいがちです。ゆとりがあれば、弱い者のことを少しだけ考えるかもしれませんが、自分への強い執着心が邪魔をします。主のお心とは何だろう、自分の心と主の心が一つになるような人とはどんな人だろう。少なくとも、自分に都合よく生きる事に心の大半を費やしている人ではないだろう。自分も御言葉に該当する者となりたい、と願うような人こそ可能性があるでしょう。実は、人の幸せとも関係があります。自分のことにばかり心を向けると、人への不満が強くなります。そこから、人間関係を悪化させる危険がいつもあります。そうなっても、悪いのはいつでも相手であって自分ではないと思ってしまい、反省することができないので、さらに人間関係は悪化して行きますが、それは自分が発信源です。残念なことに、そのような人は自分に自信をもっていません。そのために、否定的な考えに陥りやすく、自らを傷つけてしまうのです。クリスチャンが陥ってはいけない姿ですが、正しい信仰を持っていなければ、クリスチャンでも罠にはまってしまいます。一旦、ネガティブな考えを赦すと、悪魔が働いているとしか思えないことが起こります。その状態に触れた人は被害妄想だと思うでしょう。それほど、ひどい状態になる人は、福音を正しく聞く必要があります。イエス様は、過去にさかのぼり癒すことができるのです。信仰が必要です。自分から目をキリストへ移す必要があります。イエス様に圧倒的に愛されることを求めて祈るとよいと思います。このように、自分のことから心をイエス様へ向けることができれば、主からの働きかけを大いに期待できるのです。すでに、人生をキリストに開け渡した人は、主と一緒に働くことができます。主がなさりたいことを一緒にやれるということは素晴らしいことなのです。そのために、主はそのような人を探しています。救われたなら、なんども逆戻りしている場合ではありません。もっと素晴らしいことが待っているのです。良いことを信じることができないと、否定的な自分の考えている通りになっていきます。どちらが良いかは誰でもわかりそうなものですが、現実はなかなかそうはなっていません。今日のみ言葉にヒントがありますから、より良い道へと進んでください。(さくま)

 

6月27日(土)

いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。

詩編13:2-3

 

聖書の不思議は、この聖句のようにとても苦しんでいることをストレートに神へ訴えている言葉があることです。祝福とか恵みとか喜びや平和などに満ちているのが聖書と思いきや、実はそうではないのです。そうでなければ、本物の人間のことなどなにも分かっていないと言いたくなります。実際に、どんな人でも悩みはあるし、いじめ問題ではないですが敵もちゃんといるのです。そのために、祈りも深刻になる時があります。ダビデは戦国時代の武将でしたが、大変苦労しました。天下を取るまでは命を狙われ続け文字通りに命がけの日々でした。イスラエル統一王国の王になってからも、思い煩わないではいられないことが次々に起こりました。だから、ダビデがこの詩を書いたと言われても驚きません。そうだろう、人生は戦国武将だけではなく、どんな人にとっても厳しいものだ、と言いたくなります。そして、忍耐の日々は長く感じるのです。恐怖は健康をも害してしまいます。それは肉体だけでなく精神も病んでくる危険があります。だから、祈りは急を要するのです。神への直談判です。私のことを忘れているの?と声も髙くなってしまいます。そのようにして、ダビデは神に訓練されていったのです。ダビデは人間として優秀だったし、力もあったので、神に従順であるよりも自分の力に頼る危険があったのです。古い罪人を砕いてしまうまで、ダビデは神の御目にかなう義人とはならないのです。試練でテストされると、本性が現れてきて、口先で良いことを言っていた人とは別人になってしまうのです。それで、キリストが模範であると聖書は教えます。キリストの生き方は当時のユダヤ人ですら理解できなかったのですから、キリストから学ぶには時間が必要ですし、へりくだりを身につけるまで、主に従順な者よ、と認められるまで続きます。しかし、それは同時に私たちの本当に深刻な問題を解決し、癒し、清め、徳を高める主の恵みにほかならないのです。聖書の聖人もキリスト教会史に生きた聖徒も、現代の私たちも例外ではないのです。主は、決してあなたを忘れることはありません。愛すると言えば、永遠に愛すると言う意味です。主の誠実に変化はないのです。主を信じましょう。主の平和がありますように。(佐久間)

 

 6月28日(日)

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

Ⅰコリント10:13

 

人間の一番良い所は、可能性に満ちていることです。人は成長できるのです。その過程で、確かに試練と呼びたくなるような大変厳しいことが起こってきます。ここをどう乗り切るかが実は勝負どころなのです。たとえば、筋トレが流行っていますが、筋肉をノンビリ放っておいて強くすることはできませんし、筋肉が大きく成長することもありません。しかし、正しく筋トレをすれば、立派な体型になったり、ボディービルダーのように筋骨たくましい体を作る事ができます。同じように、クリスチャンも信仰を鍛えることにより成長を促進するのですが、それは、もっぱら試練を通して実現して行くのです。それで、今日の聖句をよく読んで覚えてください。そして、耐えられない試練は来ないと断言するのです。今、何かの形で試練にさらされている方は、嫌だと思うとどんどん否定的になり、乗り越えて成長できるチャンスをつぶすことになりかねないのです。それどころか、主は逃れる道すら備えていてくださるのです。だから、試練の時には、ダメだと思わずに、すぐにこの試練を乗り切れた時には、きっと自分は成長しているはずだ、と期待を込めて自分に言い聞かせることです。これ以上はもう無理ですという時には、不思議と逃れ道が備えられていますから、大丈夫です。将来、いつか自分の人生を振り返る時があるでしょうが、その時に試練があってよかったと思えるように、これから試練が来た時には信仰を発揮して試練にみごと勝利してください。ただ、無理をして倒れるようなまねはしないことです。できるだけ、力を抜いて頑張らずに、主を信頼することに思いを傾注してください。そして、主の故に、試練を讃美し、さらにその試練を感謝してください。今は分からなくても、やがて私の人生に大きな意味があることだったとわかるようになります。そして、試練だと思っていたことが、実は益となり、主の恵みであったと理解できる日が来るでしょう。言葉は口から出るともうどうすることもできません。ですから、試練の時の言葉に特に気を使ってください。さて、あとは、あなたがどのようにみごとに成長を果たすか、それが楽しみです。(佐久間)

 

6月29日(月)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

ローマ8:28

 

「神を愛する者たち」、なんという響きの善い言葉でしょうか。彼らは神の導きを受け、召されてクリスチャンになった人たちです。このディボーションを読んでおられる方でまだクリスチャンになっていない方も、実は神のご計画に従って召されている方だと思います。そうでなければ、このホームページを開いて、さらにこのディボーションにたどり着くはずがありません。たぶんあなたは神を知っているのではないですか。神を信じていないと言っていたかもしれませんが、あなたは何かを感じていたはずです。そして、今、不思議な招きを受けているのです。イエス・キリストとの出会いがあると思います。すべてはそこから始まっているのです。そして、やがて確信にいたるのです。クリスチャンの生涯は、万事が益となるように共に働きます。人生を振り返る時にそのことを納得するでしょう。問題は、信仰によるということでしょうが、そのことも聖霊の導きがあるので、やがて明確になります。だから、心配せずに楽観的に考えましょう。すべてが益となるように働いていることを信じてみましょう。(佐久間)

 

6月30日(火)

わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。

エレミヤ33:3

 

神様を信じていない人でも、困れば神様と呼んでいます。ましてや神様を信じている人は、今日の聖句の約束を覚えていましょう。そして、実際に神様を呼んでみましょう。これはクリスチャンの特権です。人知を超えた神様の啓示は驚くべきものですが、あなたは隠された大いなる事を知る事ができるのです。それでなくとも、日々の暮らしで、あなたは神様の御名を呼びたくなる時がきっとあると思います。預言者は歴史に残るような重大事を神様から聞かされて、それを民に伝える役割を担っていました。それは、厳しい使命でした。そのような預言者がいなくなって久しい現代の教会にも神様は変わらずに語りかけ、重大なことを啓示しようとされています。今日のように教会にまで世俗化の波が押し寄せてくると、預言者や預言の意味すらわからなくなってきていますが、説教や奨励を通して、あるいは信徒の声を通して、神様の生ける言葉が語られることがしばしばあります。確かに、信頼できる預言者がいる教会はほとんどなくなってしまいましたが、それでも、神様は私たちに隠されている大切なことを告げようとされているのです。聞く耳のある者は、信仰をもって主を呼ぶことです。そして、主の御声を聞ける者となりたいものです。一体、主はこれから何をなさるかあらかじめ預言者を通してお語りになると約束されています。それゆえに、主のみ言葉が頻繁に聞くことができれば、主の御心をもっと実現し、備えることができるでしょう。個人的なことでも、主によく祈り、へりくだって聞くことができますように。主のみ言葉に耐え得る信仰を見につけましょう。(さくま)