2015年7月

7月1日(水)

おもり石を使い分けることは主にいとわれる。天秤をもって欺くのは正しくない。

箴言20:23

 

体重計にのると奇跡が起こりました。なんと4キロ近く体重が減ったのです。そういえば数日前から○○○ダイエットを始めたところでした。すぐに家内に「大変だ、体重がすご~~く減っている」と告げると、そんなバカな、と懐疑的眼差しを向けてきたので、家内の目の前でもう一度体重計にのってみるともとの体重に戻っているではないですか。なんとわずか1分でリバウンドしたのかと驚きましたが、単純に体重計ののりかたが悪かっただけだっようです(がっかり)。昔は、どこの町にも商店街があり、量り売りをしていたものです。そこで、量りを店主がこっそり実際より重くなるように調節して、ごまかして利益をあげていたことがありました。もちろん、そのような不正はしてはいけないことです。さらにここでは、人を見て量りのおもり石を使い分けているこが問題となっています。現代の私たちは大丈夫でしょうか。というのも、人によって態度を変えたり、見下したり、媚をうったりしていないでしょうか。人の外見が立派なら、へりくだって親切に対応するのに、外見がみずぼらしいと横柄に態度を変えるということがあってはならないということです。貧富の差で対応を変えることも良くない事です。人が信頼するものを不正を働いて欺くことも正しくないのです。人の心の弱さで、このような誘惑にあうことがあるかもしれません。決して、不正に手を染めてはいけません。人の好き嫌いが激しい人は自分を戒めて用心しましょう。「主にいとわれる」ことは心して避けることです。(さくま)

 

7月2日(木)

信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。

ローマ14:1-3

 

神学校に入学して間もない頃、私は不思議にもクリスチャンではありませんでした。神学校は神様の召命を得て聖職者の道を選んだ者の学ぶ場所です。それなのに、キリスト教を知らずになりゆきで、まさに間違って入学してしまった、としかいいようがないのですが、神様の成せる不思議な御業ですね。その教団は、菜食主義を奨励するところに特徴のある教派でした。ある時、東京にある教団の病院を訪れることになりました。駅からその病院のあるところまでを教会通りと名称がついているように、明治時代から続く伝統的な教会が病院と並んで建っているのです。ですから、教会通りは危険で?必ず教会関係者に会ってしまうのです。その通りで、まだ何も知らない私は友人と中華料理店に入りました。普段は、全寮制の神学校で菜食ばかりだったこともあり、ようやく肉が食べられるとばかりに、酢豚を頼んだのです。しばらくするとその店に女子寮の舎監が入ってきました。そして目ざとく私たちを見つけて、目の前に座ったのです。ちょうど、絶妙のタイミングで「酢豚、おまちどおさまでした」と店員が運んできました。思わず、これは私のではありません、と声を出しそうになりました。友人は、極度の偏食で肉や魚が食べられないのです。だから、彼の食べられるものは菜食なのです。そこで、犯罪者はお前だ、と断罪されているようなばつの悪い経験をしました。もっとも、その舎監はさすがに立派な方で、何も言いませんでした。今日の聖句は、実は食べ物のことで教会が揺れた時に、パウロの信仰では感謝して食べるなら何でもありがたく食べることができると思っていたようです。しかし、食べることは人間にとって異常に重要なことなのです。そして、人間にはいろいろなタイプがあり、多様な性質があるのですから、食べ物にも当然様々な考えがあるのです。それは、宗教では強い人、弱い人と言われかねないのです。それが救いに少しでも関わっているのなら、厳格な規定を守るべきですが、イエス・キリストの十字架の贖いによって救われたのですから、いかなる規定もキリストの贖罪と比べられないのです。規定を守って義となるということはありません。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(ローマ3:28)。しかし、このことでもわかるように、キリストの功績以外で、人間はこだわりをもって救いの条件にしてしまうことがあるのです。食べ物や特定の日などです。自分にこだわりがあって、キリストのみによる救いがどうしても徹底できないのです。そこから、解放されることも恵みなのですが、自分を捨てるということが一つの試金石のように課題となっているのは事実です。ただ、私たちは人を偏り見ない、どんな人の尊厳も尊び、その人を尊重することを忘れてはいけません。自分と違ってもいいということです。そのためには、人の考えを尊重してその人に倣うことすらできるようにしたいわけです。この方が、人間関係は格段によくなり、いろいろな友達ができるでしょう。(佐久間)

 

7月3日(金)

そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

マタイ20:9-14

 

日本にも日雇い労務者が仕事をもらう場所があります。日払いの日当をもらって活きている人たちが朝からたくさん集まっています。ロサンゼルスに住んでいた時にも時々通る道沿いに大勢の男たちが集まっていて何をしているのだろうと思っていましたが、日雇いの労働者を雇う場所だったようです。その通りを午後に通っても何人かの男たちがボーっとして立ち尽くしていました。仕事を与えられて、一日働いてようやく一日に必要なお金を受け取る生活は、やはり厳しいものです。そこに行けば、必ず仕事にありつけるというわけではありません。誰かが雇ってくれるまで、ただ立ちつくすしかないのです。なぜ、その人がそのような境遇になったのかはわかりません。でも、今のような世の中になると、だんだん歳をとったら生きていけるのかどうかと心細くなって、心配する人も少なくありません。若い人でも将来に不安を抱いている人は珍しくありません。不安定な収入に、いつも不安を抱えている人たちが世界でも有数の経済大国である日本にいくらでもいるということは、だれでもそのような境遇になるかもしれないということです。貧富の差が大きくなると社会には不満が充満し、やがて戦争が起こったりします。さて、イエス様の譬話は日雇い労働者を朝から何度かに分けて雇った主人が、最後に来てわずかしか働かなかった者に一日働いた労働者と同じ日当を渡した話です。当然、朝から働いた人は夕方来て少ししか働いていない人と同じ賃金ということで不平を述べます。その時の主人の話しが面白いのです。譬話では、主人は神様を表しています。そうすると、神様のお考えがわかるので面白いということです。神様の視点がどこにあるかを知ることができます。もし、あなたが仕事にあぶれて空しく一日中立ち尽くしていたら、その日は食べ物にもありつけず、夜に宿泊所に泊まることもできません。惨めな気持ちになるでしょうね。空腹で、自分の不甲斐なさを責めたくなるかもしれません。こんなことが何日も続けば、生きていてもしかたがないと思えてくるかもしれませんね。世の中で普通に暮らしている人は、そんな人のことなど知りもしないし、気にも留めないわけです。世界から見捨てられてしまった、自分でも愛想を尽かしている、何の希望も無いし、孤独で淋しい。こんなことに人間は耐えることができません。せめて、何か食べ物があったり、僅かでもお金があればいいのですが、お金も何もなくなるとホームレスになるしかないし、すでにホームレスかもしれません。神様は、だから、その人が夕方になっても立ち尽くしていることを見ているのです。一日に必要なお金は、朝から働いた人も、夕方から来て働いた人も同じだけ必要なのです。だから、夕方から来た人にも一日分の日当をはらいたいのです。それも、朝から働いていた人を差し置いて、一番初めにそのお金を払ってあげるのです。それを受け取った人はどう思うでしょうか。恵みと思うでしょう。きっと、神様に感謝するでしょう。自分が見捨てられていないと思えるのではないでしょうか。朝から働いていた人は、もっともらえると思っていました。一日の日当は、恵みではなくて自分で稼いだものだ、と思っています。しかし、今日は朝から仕事をもらえたから良かったけれど、明日はどうかわからない。夕方まで立って待っていても、誰も雇ってくれないかもしれない。そのことが考えられるのなら、夕方来た人は、明日の自分かもしれないのだから、一緒に喜ぶべきではないだろうか。その人に、よかったね、と声をかけるべきだったのではなかったか。主は、あなたがどうなろうとも、あなたを見つけて働きが無くてもちゃんと日当を払ってくれるのです。だから、不安を抱えて生きている人は、主の名を呼ぼう。そして、主を信じよう。ここに私がまだ立って待っています、と主に呼びかけてみましょう。主は、必ずあなたの名を呼んでくださいます。(さくま)

 

7月4日(土)

さあ、喜んであなたのパンを食べ/気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。どのようなときも純白の衣を着て/頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々/愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの/人生と労苦の報いなのだ。何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には/仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。

コヘレトの言葉9:7-10

 

新法則を発見しました。新しいレストランやカフェが出来ると、体重が増えるという法則です。わが町にも、パスタで有名な○右衛門が出来ました。そこが面白い事に、一階は☆野珈琲なのです。両方連日満席で大人気です。それで、確か数日前にダイエットのことを書いたと思うのですが、そんなことはすっかり忘れて視察?に出かけてみました。夜にお風呂に入った時に恐る恐る体重計にのってビックリです。玉ねぎ酢にむせながら涙目で頑張ったあれはなんだったのだろうと、・・・すごろくでいえば(古い!)ふりだしに戻る、です。人のダイエットの話しなんてどうでもいいですね。さて、聖書の知恵の書には、普通に人生を楽しんで生きるように書いてあります。「さあ、喜んであなたのパンを食べ」とあるので、つい食べに行ってしまいました(アダムの責任転嫁の遺伝子がつい・・・)。聖書の知恵は、正しく生き、聖霊に満たされて、伴侶がいれば共に楽しく生きるようにと諭しています。ところが、人間はそれがなかなかできないのです。この世は、理不尽なことも、悪人もいます。オレオレ詐欺も一向になくならないような世なのです。テレビをつければ情報番組で、不安をかきたてるような事や空しいと思えるようなことが次々に発信されています。それで、信仰をもって、正しく普通の生活をし、聖霊に導かれて生きることこそが幸せなのです。さらに、知恵は「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい」と語ります。だから、何もしないという生き方は後悔します。死んだらおしまいだ、陰府には何も無いというのです。新約聖書の時代にキリストがおいでになり、救いは約束から現実になりました。それで、復活という道が開かれました。つまり、陰府でおしまい、というのではなくキリストを信じて救われた者はたとえ死んでも復活して天国へ行けるというものです。これが福音です。もし、キリストの救いがなければ、この旧約の知恵の通りに、死んだらすべておしまい、となってこの世のすべてが空しくなってしまうわけです。キリストは私たちに希望を与えてくださいました。感謝ですね。神様は今日もあなたが幸せに生きるようにと恵みをおしみません。ですから、すべてのことに感謝して楽しく生きたいですね。(さくま)

 

7月5日(日)

あなたが信じたとおりになるように。

マタイ8:13

 

これはイエス・キリストの言葉です。このように語られて、喜べる人と喜べない人とに分かれるでしょう。それは、信仰によって良いことを信じている人には、ありがたい言葉ですし、反対に否定的な不信仰に陥っているのなら恐ろしい言葉となるでしょう。ただ、この場面は、相手の信仰に感心してお語りになられた言葉ですから、不信仰の時にはどうかわかりません。

 

それで、この話しのポイントは、主イエスに願い出た人は、自分のためでなく僕のためにわざわざ主イエスのもとへ来てお願いしたことです。勿論、この人は主イエスが言葉をもって命じれば、その通りになると信じて疑わなかったのです。それで、主はその人の信仰を見て今日のみ言葉を語られたわけです。おそらく、私たちは自分のために願い事を主にするでしょうが、それはどれぐらい叶えられているでしょうか。それに対して、誰か他の人のためにお願いした時はどうでしょうか。日本人の文化は、自分を卑下する文化なので、自分のために正しく願うことが下手なのです。そのうえ、家族は自分のもので自分の延長と考えるので、他人に対して「愚妻とか愚息」などと言ってしまいます。本音は違うわけですがこうした考え方が、信仰にもあらわれることがあるわけです。そこで、日本人は本音と建て前を上手に使い分けるように訓練されてしまっているので、「あなたが信じたとおりになるように」というのは、他人のためには容易くても、自分の為にはどこかブレーキがかかってしまいます。そもそも信仰に本音と建て前ではいかにもまずいわけです。ですから、信者さんには正直にしましょう、ということにしています。そして、まじめすぎないで、とも言います。それは、ちゃんとできない、と自分を責めはじめるからです。聖書のみ言葉をそのまま信じて、守りましょう、ということは大変重要なことなのですが、聖霊のバプテスマを受けて、聖霊の覚醒を受けて、自分の力ではなく聖霊の御力ではじめて御言葉の真理を行なえることを覚えなければなりません。正しいからと、まじめに自分の力で守ろうとすれば、守れないと現実を突きつけられて、きっと自分を責めて苦しめることになります。それをずっと続ければ、やがてニヒルで皮肉な人間になるでしょう。ですから、はじめは無理することなく、ただ神の憐みにあずかることです。イエス・キリストの恵みをはっきりと味わい知る必要があります。そうすれば、イエス・キリストが無条件に愛してくださっていることを納得できるようになるでしょう。それは、主が愛してくださったように、自分を愛せるようになるからです。それ無しに、隣人を愛することはやはり難しいのです。でも、希望はあります。聖霊を求めれば必ず与えていただけることです。それから、今日のみ言葉です。主は、単純に主を信じることを求めています。主に頼って良いのです。主は、「あなたが信じたとおりになるように」とあなたにもおっしゃってくださいます。奇跡は、すでにあなたの前に備えられているのです。信仰者なのですから、大胆に信じましょう。(佐久間)

 

7月6日(月)

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

Ⅰコリント1:21

 

牧師インターンの頃、主任牧師が一人の求道者と聖書研究するようにと指示されました。その方は、教団の小学校に長男を入れているお母さんでした。とても快活で素敵なお母さんで、ご自宅で早速聖書を学ぶことになりました。当日、お宅を訪問すると、そのお母さんの友人が一緒に待っていました。その友人の方は、お付き合いで頼まれて聖書研究に参加してくださったようです。それから約一年間、毎週聖書を学び続けて、ついにバプテスマを受けるようにお誘いすることにしたのです。というのも、他の求道者の方が洗礼を受ける決心をされたので、このお母さんにも勧めてみたのです。すると、驚いたことに付き合いで聖書研究を受けていた友人の女性が、私は洗礼を受けたいと言い出したのです。それで、肝心のお母さんはビックリしてしまい、本人は決心がすぐにできませんでした。すると、友人の女性が今度は励まして、そのお母さんに一緒に洗礼を受けましょうと説得し始めたのです。その結果、そのお母さんも自分の心を確かめて、イエス様を信じてクリスチャンになろうと決心されたのです。不思議ですね。神様の方法はいつもユーモアを感じます。本命ではなく、お付き合いで来ていた人が先に救われたのですから。そして、その人が誘ってくれた本命の方をバプテスマの決心へと背中を押したのです。今日のみ言葉は、「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おう」と神様がお考えになったことが書かれていますが、牧師を長く務めてきてこれが最も正しい方法であるとわかりました。これならば、クリスチャンなら誰でも伝道できると思えるからです。あのお母さんは、お友達を聖書研究に誘ったことで、お友達を救いへと導いたことになります。面白いですね。(さくま)

 

7月7日(火)

ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだ・・・弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。・・・人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。

使徒言行録9:36-39

 

この物語は、この後でペトロがドルカスを生き返らせる奇跡を起こす。そのことにより、大勢の人が主イエスを信じることになる。さて、大勢の人が亡くなっていくなかで、なぜこのドルカスが生き返ることになったのだろうか。聖書の記録を注意深く読んでみると、「彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた」主の女弟子であった。彼女が亡くなると、大きな悲しみが起こり、使徒のペトロを呼びに行くことになった。使徒が来ると、やもめたちが「泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた」のだ。これにはペトロの心も動かされたはずだ。ここまで読んでキリストの弟子とは何だろうと考えた。伝道して回ることだろうか。説教することか。病人を見舞い、慰めることか。それとも癒しの賜物を願い奇跡をおこなう事か。ある作家が、「憂い」に「人」が寄り添うと「優しい」という漢字になる。だから「優」という漢字が好きだと言っていた。なるほどと思う。このドルカスもやもめの憂いに寄り添った人だったので、やもたちは泣いたのだ。そして、使徒に「ドルカスが作ってくれた下着や上着を見せた」のだろう。ここに主の弟子の答があるように思う。派手な奇跡を起こしたようなことも、伝道講演会でたくさんの魂を救った話も出て来ない。しかし、主は「互いに愛し合え」と戒められた。ドルカスはやもめの暮らしを心配したのだろう。食べ物は消えていくが、着る物は残った。ドルカスの手作りの着物を身にまとった時のありがたさが今涙となってあふれて、ペトロにドルカスが作ってくれたと言わずにはおれなかったのだ。この世で憂い無しに生きることは誰にとっても難しい。しかし、誰かがその人を思って寄り添うことができれば、その人は何とか生きていけるものだ。クリスチャンが「私は主の弟子である」と思っているのなら、このような優しさを心がけたいものだ。見返りを求めない愛が人を救うと主が教えてくださったから。(サクマ)

 

7月8日(水)

わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。

詩編27:13,14

 

人生いろいろ、と歌にまで歌われるように実に人生はいろいろ起こるものです。勿論、いろいろな個性の人々が生きているのですから、それだけでもいろいろ起こるわけです。もう何でもありという感じですね。ですから、あなたの人生にも良い事も悪い事も起こるでしょう。ただ、あなたが他の人達と違っているのは、生ける神様の恵みを受けることが約束されていることです。敵がいて、あなたを困らせようとしていても、災いがみるみる近づいてきても、家族からも見捨てられてしまったとしても、あなたには主がついていてくださり、必ず助けてくださるのです。あなたがどうして主に望みをかけることができるかといえば、それはあなたの信仰がゆるがないからです。主を待ち望むことができます。何があっても、「雄々しくあれ、心を強くせよ」と言われているのですから、顔をあげて堂々としていればいいのです。人間ができることなどしれています。そして、主はそれをちゃんと見ていてくださいます。だから、あなたは最後は生きているうちに最高の恵みをいただくことになっているのです。主を待ち望め。主は必ずあなたを助けにやってきます。ハレルヤ!(さくま)

 

7月9日(木)

わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

ヤコブ3:9-12

 

私たちが困ったことになるのは、たいてい自分の舌が暴走するからです。何気ない一言で人生を破たんさせた人は決して少なくありません。口は災いのもと、と古くから言われている通りです。そこでクリスチャンは舌で失敗しないように、今日の聖句のように聖書には勧告が書かれています。私たちがクリスチャンとして新しく生まれたのなら、聖霊が内住し、キリストに結ばれて一つになっているはずです。それならば、なぜキリストの実でないものを舌で生み出すのでしょうか。神様を讃美し、美しい信仰の言葉を語り、言葉を極めて神様を讃美したとしても、同じ舌で人間を呪うというのはありえないことなのです。ところが、私たちはすっかり油断して、舌に注意を向けないで、大した考えも無く悪い言葉や人を傷つけることを言ってしまうし、困れば嘘もつくし、自分すら偽ることができるのです。最もまずいのは、人の事を批判的に言いたくなることです。人の良いことだけを言えるといいうのですが、感情的になると抑制が利かなくなるところがあるのです。これは、もっぱらイエス様のことをまだまだ理解していないからこそできることだ、と思うと悲しくなります。主の十字架が迫ってきたら決して言えないことはもう言うまいと決心したいですね。イエス様と二人三脚で生きていることをいつも忘れないようにしましょう。主はいつでもあなたを慰め、励まし、愛しぬいてくださいます。感謝の言葉がいつも口から出て来ると、人生は途端に好転します。信仰の言葉は、必ずその通りになっていくのです。主の恵みを数え喜んでいれば、舌は心地よい言葉を語りだすでしょう。私たちの人生を幸福で素晴らしいものにする方法がこの舌にかかっているということを覚えておいてください。いつも心に思っていることが口をついて出て来るのですから、まず心から改革することが必要かもしれません。すぐに積極的な讃美の生活を始めましょう。(さくま)

 

7月10日(金)

我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。

ホセア6:3

 

聖書は面白いと思います。神様を知っている人だけが読むわけではありません。クリスチャンでない人も、誰かから聖書をいただいて、どんなものか開いてみるのです。そして、わからないところが随所にあるのですが、自分に何かを語っているようなのです。しかし、わからないことだらけだとあきらめて読む事すらやめてしまいたくなります。そすると、何か起こるのです。それで、また聖書を開きます。そんなことを繰り返しているうちに、とうとう今日の聖句に出会います。「主を知ろう」。そのように聖書を読んだことはなかったのに、「主を知ることを追い求めよう」と言われます。主を知ろうと追い求めるならば、朝になれば朝日が昇るように、必ず主はその人のもとへ訪れてくださるというのです。不思議なことです。でも、本当に試した人たちは主に出会っているはずです。その人が分かるような方法で、恵みとして圧倒的に主はご自身をその人に現されるのです。疑いながら求めてもだめでしょうが、自分の神様として、心を込めて、「神様が生きておられるのなら、どうか、私を憐み、神様を知る事ができるように分からせてください」と祈ってみるのです。これは、効果的な祈りです。このようにして、神様を知る人たちがいます。また、すでにクリスチャンの方々は、この御言葉をよく考えてみてください。そして、納得できたならこの御言葉を信じてお祈りしてください。何が起こるか楽しみです。主は生きておられます。そして、あなたを愛していることを疑わないでください。あなたは、神様を信じて幸福に生きることができるように定められているのです。ですから、主を知ることを第一にしましょう。とても素晴らしい体験があなたを待っているでしょう。(さくま)

 

7月11日(土)

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

ローマ13:8-10

 

 

できることなら誰とでも仲良くしたいと思っている人は多い。しかし、実際にはそうもいかないのだ。相性の悪い人もいれば、嫌な人もいるからだ。「無理、無理、あの人は生理的に受けつけない」とか言うのを聞いたことがある。世の中には、実にさまざまな人たちがいるので、自分の理解を超えてしまう人たちがいるのはあたりまえだ。しかし、孤立しているシングルマザーというのを知っているだろうか。現在、シングルマザーで収入が120万円以下の人が60%もいるそうだ。それぞれに事情があるだろうが、それらの人達の中に親兄弟とも疎遠になり、友人すらいない孤立しているお母さんが増えているという。だから、誰とも相談できずに苦しんでいる。生きていくことの不安がいっぱいで将来を考えるゆとりがまったくないのだ。こうした人たちが身近にいるかもしれない。こちらから声をかけてあげたい。誰とも相談出来ない人たちの相談相手になれたらいいな、と思わないだろうか。私たちの主は、歩き回ってそうゆう人たちを探し続けたのだ。そんなことをするイエスを快く思わない人たちもいた。それでも、イエスはやめなかった。そのイエスが、「隣人を自分のように愛しなさい」と語っている。大それたことは出来ないし、無理は続かないだろうから、自分にできることをさせていただこう。助けを必要とする人の話を聞いてあげて、一緒にお祈りできるなら、それは十分意義のあることだと思う。相手を思いやる気持ちは尊いものだ。現代はそうゆう簡単なことができない社会になってきたが、クリスチャンは愛を必要とする人が身近にいる時に何もしないで、借りを作らないようにしよう。あなたが愛情を示せば、必ず相手も愛を返してくれるものだ。だから、きっと嬉しくなるだろう。「互いに愛し合う」ということは見返りを求める愛ではないが、無条件の愛の力が相手の心に自然と愛を生み出すのだ。この人間関係が今も一番必要なことで、まずは愛を与えることから始まると覚えていたい。(サクマ)

 

7月12日(日)

平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。

詩編4:9

 

 

ある幼い女の子がお母さんと車で寝ていたと語りだします。今は一間だけのアパートに暮らせるようになったそうです。人が生きていくということは日本のような豊かな国でも大変なことです。夜、寝る時に、あなたはどう思っているでしょうか。疲れ切って何も考えずにすぐ寝てしまうでしょうか。それとも、疲れているのになかなか寝付けないでしょうか。クリスチャンは夜寝る前に祈る人が多いのです。この詩編記者は、「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります」と書きました。一日の内にいろいろな事が起こります。良い事も悪い事も、平凡なことも、心配なことも、そして罪を犯すこともあります。しかし、夜眠る時に、神様に悔い改めて罪の赦しを乞うことがゆるされているのです。だから、平和のうちに身を横たえることができます。それだけではありません。イエス様はあなたのことを守っておられるのですから、夜の間も徹夜であなたを見守っておられます。だから、安心して眠りにつけるのです。今の住まいも主のお働のおかげです。あなたの命を支え、生活を気遣い、ちゃんと生きて行けるように、すべてを支配しておられるのがイエス様です。人には自由意志が神様によって保障されているのです。しかし、罪を犯す人は罪の奴隷で自由がありません。本当の自由はキリストが勝ち取ってくださるものです。イエス様はあなたのために十字架に架かられました。あなたの罪を赦すには罰がなければ正義がなりたちません。その罰は死です。人間の最後は死んでおしまいではないのです。イエス様が最後においでになり、この世を裁きます。そして、誰でも天国と地獄のどちらかに行くことになっているのです。だから、その裁きの前に救われるようにとイエス様は天から来て下さったのです。その救いは、身代わりに私たちの罪の罰を受けることでした。ムチ打たれ、手と足にくぎを打たれ、十字架で死んでいかれました。本当は、私たちが受ける罰を罪も汚れもないイエス様が身代わりに受けてくださったのです。そして、墓に葬られて三日目に復活しました。死も陰府も打ち破られ、勝利されたのです。新約聖書に書かれたこれらの出来事が、主があなたを救ってくださる証拠です。あなたにできることは、イエス様を信じて、すべてをまかせてみることだけです。まだ、信じる事が難しいと思っている方は、自分の言葉で、「イエス様、あなたを信じる事を助けてください」と祈ってみることです。あなたは、自分がなぜ毎日今いる場所に住んで、そこで安心して寝ているのか、その理由がきっとわかるようになります。自分の居場所が与えられていることがどれほどの恵みであるか覚えて感謝しましょう。あなたはすでに主に恵みをいただいています。その事に気がつくだけも、心が明るくなります。主の御手の中に憩う自分の姿を想像してみましょう。何があっても、心配することはありません。あなたの主は全能者で、あなたを深く愛し、慈しみ深いお優しい神様なのです。イエス様があなたを大好きであることを信じてください。それで、気分を良くして、笑顔になりましょう。あなたの幸せは、イエス様の幸せなのですから。(さくま)

 

7月13日(月)

はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

ヨハネ16:20-22

 

 

今日の聖句は、イエス・キリストと弟子たちの間でなされた話しです。私たちはこの後何が起こるか知っています。だから、主イエスの言葉の意味がわかります。ただ、それだけではないのが聖書のみ言葉のすごいところです。今日、この御言葉を読まれた方はそれぞれにこの御言葉が何を語っているのか考えることになります。もちろん、無理やり解釈する必要はありません。すぐわからなかったなら、意味がわかるように主にお祈りするのです。主は、あなたを慰め、励ましたいのです。あなたのことが心配で、身をかがめてあなたの顔をご覧になっているはずです。あなたが泣いているのなら、その理由があるはずです。主はいつでもあなたの為に最善を尽くしておられます。今日の聖書箇所では、主イエスがたどる屈辱と目を蔽いたくなる十字架の出来事が弟子たちを挫折させ、心をくじくことになると、主は弟子たちのことを思ってあらかじめ心の備えをさせているのです。弟子たちが味わう悲しみは心からの喜びに変わると言われました。主は、弟子たちに再び会うと約束しています。そして、今度はその喜びを奪い去る者はいないと預言されたのです。この同じ主イエスが、あなたのことを十二使徒たちと同じように愛情豊かに見ていてくださるのです。生みの苦しみは後で喜びに変わることを主は譬えにしました。その通り、主はあなたのためにやって来て、憂いを喜びに変えてくだるのです。主があなたのためになされることに間違いはありません。だから、一時の試練を信仰で乗り切ることができますように。たとい自分の思い通りにならなくても、それでも主イエスを信じましょう。(佐久間)

 

7月14日(火)

どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

Ⅰテサロニケ5:18

 

神様の御心とは何ですか、と尋ねる方がいます。今日の聖句は、まさにこれが答えですと言いたくなる箇所です。人間の不思議な事は沢山ありますが、その中でも信じる力という点で人は優れているのです。ただ、罪のためにだいぶその能力は損なわれてしまっているので、リハビリが必要です。たとえば、今日の聖句は「どんなことにも感謝しなさい」と命じています。ですから、クリスチャンは積極的にこの命令を守らなければなりません。ところが、「感謝します」と表面的な言葉で終わってしまうことがよくあるのです。呪文でもあるまいし、何かの御利益を期待して感謝していますと言っておけば大丈夫らしい、というようなものではありません。信仰は一見、静的に見えるのですが、実際には動的なダイナミックな力が働きます。それは、信仰により神の支配が及ぶ神の国に存在できるからです。私たちが救われる前は、この世の暗闇にいました。それで、暗闇の中にいたからこそできた恥ずべきことがたくさんありましたし、辛い事も、悲しいことも、嫌な事もいろいろあったのです。その時の人間は、欲によって生きていたので、悪魔の誘惑にあうとひとたまりもありませんでした。罪の量産機械のようなものだったのです。しかし、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」(エペソ2:8)と聖書は証言しているように、信仰があなたを救ったのです。その信仰は、イエス様にすべてをまかせて水の中に全身を浸けて洗礼を受けるほどだったのです。その時と同じように信仰を働かせて、「感謝します」ということです。これが奇跡を起こすのです。心と言葉が一致するまで祈ります。何が起こっても感謝するのです。災いと思えることにも神様の何か深い意味が隠されているはずなので、大胆に感謝します。背後に悪魔が働いていたとしても、悪魔は信仰の言葉に負けて退散することになります。イエス様の栄光が讃美の中であがめられことは御心にかなっています。神様の望まれることを行うことこそ御心を行うことになります。だから、どんなことでも感謝するようにしましょう。祝福と喜びがなだれをうってあなたのもとにあふれて来るでしょう。(さくま)

 

7月15日(水)

あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

Ⅰペトロ1:23

 

聖書に書かれた御言葉を比喩で表すことがあります。その一つが今日の聖書箇所に書かれてある朽ちない種です。朽ちないというのは、神の御言葉が不変であることを表しています。種は小さなものですが、発芽して大きく成長すると花が咲き実を結ぶものなので、新しく生まれることを表しています。創世記のはじめに書かれた創造の場面は、言葉を神様が発するとその通りになります。「光あれ」と言えば、光ができる、というようにです。それが御言葉の本来の姿です。ですから、聖書のみ言葉には特別の神秘があります。文字だけの意味ではないのです。キリストの言葉には、真理の御霊が来れば、御言葉の解き明かしがあるというのです。そこで、御言葉にできるだけ接して、聖霊の解き明かしを受けることができるように、願うことが良いのです。御言葉はどんなに難しく感じても、超自然的に意味を理解させていただけることがあります。特に、神様の口から出た一つ一つの御言葉で生きるという経験を期待してみましょう。あなたと聖書の関係がどのようなものとなるかは、あなたしだいです。あなたの心に御言葉の種をまいて、実を結ばせることを願いたくはありませんか。聖書のみ言葉によって、キリストの御姿へと変えていただけるのなら、ぜひ聖書を読んでいただかなければなりません。祈ってから聖書を読めば、ずーっとよくわかると思います。生ける主のみ言葉を聞くことができますように。(さくま)

 

7月16日(木)

しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。

ルカ12:48

 

先日、クリスチャンにならなかった人でも救われるか、と問われました。私たちは、たとえ自分がクリスチャンになって救われたとしても家族のことを気遣って心配したりします。願わくば、愛する人たち全員が救われることを祈ることでしょう。もちろん、一人一人が自由意志を神様から保障されているので、最後は自分で自分の運命を決することになります。しかし、信仰者が祈った祈りは無駄にはなりません。だから、祈るべきです。さて、初めの問題に戻りますが、今日の聖句はイエス様がお語りになった譬話の最後の部分です。主人が僕に管理を命じて出かけますが、僕は主人の帰りが遅いと思って下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだりと酔っぱらいます。すると、思いがけずに主人が帰って来て、その僕を厳しく罰した、というお話です。私たちは、信仰者として聖書もあるし、説教も聞きます。聖書研究会にも出たし、信仰書も読んだでしょう。だから、主の御心を知っているのです。それで、どうするかを主はご覧になり、そして、聖書にはっきり預言された通りに再臨されるのです。その日が、忠実な僕にとっては喜びの日となり、不忠実な僕には最悪の恐ろしい日となるのです。そして、クリスチャンにならなかった人でも、正しく生きた人にはその行いによって報いがあるでしょう。クリスチャンの中には、多くの霊の賜物を主に求める人もいます。また、様々な恵を求めて得る人もいます。そうやって、「多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」と書かれていることは覚えていなければなりません。要は、「忠治な僕よ」と主がお帰りになった時に言われるように生きていればよいということですね。臆病になることなく、積極的に明るく信仰生活を送りましょう。(さくま)

 

7月17日(金)

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

ルカ6:17-19

 

 

今日の聖句に出て来るお方がイエスだ。イエスは今も生きておられる。神の独り子であったイエスは、約2000年も前にパレスチナに現れた。いつの時代も病人は溢れている。また、現代人は理解できなくなってしまったが、悪霊が人を苦しめている。悪霊は、存在しないかのようにふるまっているが実在し、説明不能な苦しみを訴える人たちが多くいるように悪霊は人にも憑りつくし、人の中に入ることもできる。それで悪霊に支配されている人もいるのだが、誰が助けると言うのだろう。この世で生きることが喜びであれば良いが苦しみの連続だと思っている人も少なくない。人間の力ではどうすることもできない困難に直面してはじめてわかる感情がある。本当に困っている人は救ってくださる方を探している。いつそんな人が現れるかひたすら待っているのだ。そして、ついにナザレのイエスが登場した。それは劇的だった。はじめにバプテスマのヨハネという預言者が現れた。彼は昔の偉大な預言者エリヤのようだった。聖なる権威があり、世の権力すら恐れることはなかった。驚くことにイスラエル中の人々が彼のもとに集まってきた。悔い改めの洗礼を受けるためにだ。それは、旧約聖書で預言されていたキリストが到来する時の前ぶれであり、しるしであった。ヨハネも待っていた。そのお方が誰であるか見極めようとしていた。そして、ついに天が開けて聖霊が鳩のようにその人の上にくだった。その時に天から神の御声が聞こえたのだが、人々には雷鳴のようにしか聞こえなかった。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。彼の名はナザレのイエスといった。その働きは圧倒的だった。どんな病気も癒すことができた。貧しい人々の希望となった。悪霊もイエスが誰であるかすぐに見抜いた。そして震えあがった。悪魔の支配するこの暗闇の世に、ついに光が来たのだ。イエスを信じる者は誰でも救われた。過去にどんなひどい罪を犯してきても、悔い改めてイエスを信じる者は、確実に救われた。重荷を負って苦しんでいた人たちは、イエスを信じて重荷をおろしていただき、休ませていただいた。この世の支配者にとってはイエスは脅威に映った。特に宗教家たちからは恐れられた。そして、イエスの教えを理解することはできなかった。その結果、イエスへの怒りが燃え上がっていった。そして、十字架への道が始まったのだ。それが、私たち罪人を救うためであったことをその時には誰も分からなかった。キリストが復活し、約束の聖霊が聖徒たちに降って彼らは、はじめて神の救いのご計画がイエスの出来事であったと悟ることができたのだ。旧約聖書に初めから預言され書いてあったことだった。そして、エルサレムの神殿がそのことを教えていたのにユダヤ人たちは悟らなかった。人間の救いのために、罪を贖う犠牲として、残酷にイエスを十字架の上にはりつけにしたのだ。ムチ打たれ、釘づけにされて、流された血で私たちの罪とがを洗い清めてくださる主イエス。あなたはこのように神に愛され、イエスに愛されているのだ。今、あなたの方から主を求め、なんとか触ろうと近づく時ではないだろうか。主を見ていなければ生きることのできない人生があるのだから。なぜ、後ろを振り返るのか。主は、十字架からあなたの名を呼んでいる。主を見て、なんと言われているのかちゃんと聞こう。その小さな御声をあなたはきっと聞きわけることができるだろう。その主の口から出たみ言葉によって正しく生きることができるから。(サクマ)

 

7月18日(土)

彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

ルカ10:39-42

 

 

私が牧師になる前、教会の忠実な信徒であった頃、毎年教会役員の選出がありました。その教会の礼拝には250人ぐらい出席者がいましたが、私はいつも10ぐらいの役職に選ばれていました。毎週土曜日に教会に行くと朝から夜まで忙しく働きました。土曜日は聖書で安息日と呼ばれ、仕事をしてはいけない休みの日でしたが、私にとっては最も忙しく働きまわる日でした。それが何年も続きました。教会のため、主のためにと働いていても、疲れるだけでしまいには土曜日に教会に行きたくなくなるありさまでした。そして、不思議に思ったものです。クリスチャンの成長ってどうすればいいのだろう。教会では何も教えてくれないし、自分で良いと思ったことではそれほど成長しているようには思えない。教会でいろいろな役員になって、教区の理事にもなって、忙しく奉仕していても霊的に満たされることはないし、疲れ切ってしまった。いったいどうすればいいのだろう。こんなことを考えていたと思います。今日の聖句でいえば、完全にマルタ役でした。大勢の教会員がいるのに、なぜ自分ばかりがいろいろな仕事をしなければいけないのだろう。「主よ教会の仕事を何もしない人にガツンと注意してやってください」と、まるでマルタのような状態だったと思います。しかし、主のお言葉はショックです。「必要なことはただ一つだけである」と、おっしゃったのです。これがキリストの真理です。クリスチャンは主の元にいることです。そうすれば、自然と主の御用ができるようになるのです。マリアは恵みということを理解していました。でも、マルタは恵みを理解していなかったのです。行いによって義となるのではなく、恵みで義としていただいたのです。その原則は、クリスチャンになってからも変わらないのです。どんなに神学や聖書学を勉強しても、努力して得ることはたかが知れているのです。主から直接いただく恵みの中でしか人は変わる事ができないし、満たされることもないのです。クリスチャンとして成長したい、聖霊に満たされたい、主の真理を悟りたい、と願っているのなら、マリアを見習うことです。イエス様はこれしかないとはっきり言っています。それだけです。信仰をもって主の御側近くに近づき、主から離れないことです。まったくこの世とは逆ですね。(さくま)

 

7月19日(日)

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

エフェソ2:10

 

クリスチャンになるということは、当然ですが神様が大きく関わっています。生まれたままの人達は罪の中にあって、それを償うことが完全にはできないのです。それで、放っておけば滅んでしまうことになります。そのような者を憐み、主イエス・キリストが救いの道を作ってくださしました。そして、本当の悔い改めと洗礼を受けて、古い人に死に、新しい人に創造されて生まれたのです。だから、「神の作品」であると言えるのです。その方法は天地万物の創造と同じです。神の息である霊を救われた人に注ぎ、新しい命に生まれさせるのです。その内住する聖霊に力があり、人を内側から作り変えて行くのです。だから、クリスチャンは、聖霊のバプテスマを受けて聖霊漬けにされて、一度活性化する必要があるのです。神的なことを理解できるように、その人の霊と聖霊を一つにして神の命に生かすわけです。そのように、水と霊から生まれた者は、古い生き方を捨てて、新しい生き方を身につけて行きます。それが、良い行いです。そのことが神様の救済計画に含まれているので、「その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」と書かれているのです。ですから、悪魔のささやきに騙されて、古い自分の生き方を生き返らせてはいけません。過去は過ぎ去ったのです。肉はすでに死んでしまいました。それなのに、サタンの嘘に従うのは愚かです。内住するキリストが生きたいように、あなたは生きるはずです。人間的に努力して良いことをしてはいけません。必ず反動が出て悪い事をするからです。そうやってバランスをとる仕組みになっているのです。だから、あなたではなく内住する主が生きて働くように、信仰を働かせます。そうすれば、キリストが生きて働いたようになります。それだから恵みと言っているのです。死んでしまった人間が力いっぱい頑張っています、とは言わないでしょう。生きているのはキリストなのです。これが信仰の奥義です。(さくま)

 

7月20日(月)

あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人/わたしはこのような人の友となります。

詩編119:63

 

 

夜、牧師館の電話が鳴り出しました。出てみると冬の札幌からの電話でした。公衆電話からかけてきたので、テレホンカードが切れそうになると音がして、慌ただしく入れかえている様子が伝わります。一体、何の電話かと言えば、札幌で牧師をしていた時に導かれた青年からの電話で、今夜祈祷会に出たら、教会の○○さんが病気で苦しんでいるそうで、先生と一緒に祈りたいと思ったので電話しました、といった内容でした。雪に覆われた夜の街で相当寒そうで震えているのがわかります。彼はこのように祈祷会で祈りの課題となったことを一緒に祈りたいと言っては電話をしてきました。その教会は大きな教会でしたが、祈祷会には人が来ないのです。牧師と彼、それに日によっては一人か二人くるぐらいのものです。彼は、目立つような人ではないのですが、真面目で信仰も素直で優しいのです。だから、教会員の誰かに何か問題が起こると心配するのです。そして、神様に一生懸命祈ります。それだけでなく、私と一緒に祈りたいと思ってくれるので、教会の様子もわかるのです。彼が、イエス様の御力で救われたことは、驚くようなことでした。まさに霊の戦いがありました。勿論、イエス様の大勝利で彼は自由になったのです。それで、イエス様を全面的に信頼し、神を畏れているのです。だから、いつも誠実です。神様に対して誠実に生きているのです。決して、人間的に得しようとか、物事をいい加減に考えないのです。土曜日の安息日を守るために、彼はアルバイトを続けています。会社から正社員になるように言われるのですが、そうすれば安息日を守れないと知っているので、アルバイトのままでいるのです。神様はその様子をちゃんとご覧になっていますよね。私は、そうゆう人の友でありたいと思います。(さくま)

 

7月21日(火)

神を礼拝する頂上の場所に着くと、アルキ人フシャイがダビデを迎えた。上着は裂け、頭に土をかぶっていた。ダビデは彼に言った。「わたしと一緒に来てくれてもわたしの重荷になるだけだ。都に戻って、アブサロムにこう言ってくれ。『王よ、わたしはあなたの僕です。以前、あなたの父上の僕でしたが、今からはあなたの僕です』と。お前はわたしのためにアヒトフェルの助言を覆すことができる。

サムエル下15:32-34

 

 

さて今日はダビデ王物語から学んでみましょう。実に人生に役立つ知恵がサムエル記には書かれています。今日の聖句は、息子のアブサロムが謀反を起こして兵をあげ、エルサレムのダビデに迫る、緊迫の場面です。勇猛果敢で知力に富んでいたダビデ王が、息子のアブサロムの気持ちを察したのか、いつものように敵に向かうようなことはなく、無血で城を明け渡すことにしたのです。そして、ダビデは敵前逃亡をはかる惨めな王となります。その時に、ダビデの周りにいた人たちがいろいろな反応をするのがとても興味深いのです。その一人がフシャイです。彼はダビデ王の側近中の側近で参謀でした。当然、ダビデと一緒に行こうとしたのですが、ダビデはアブサロムのもとに送り込むために留めます。アブサロムは王子ですから、フシャイは父の親友であると認識しているのです。でも、ダビデは敵を打ち破るために知恵のあるフシャイを時限爆弾のように敵のもとに送ったのです。ダビデが考えていたのは、これは父と子の問題だと思っていたらしいことです。そして、アブサロムを失いたくなかったのです。しかし、厄介なことにアブサロムの参謀は、最も恐ろしいアヒトフェルでした。アヒトフェルはダビデが不倫を犯したバテシバの祖父でありました。そして、バテシバの夫は、ダビデ三十勇士の一人ウリヤで、アヒトフェルもそのダビデ三十勇士の一人であったのです。アヒトフェルは武士の中の武士として認めたウリヤと孫のバテシバを結び合わせた張本人の可能性があります。そこで、むごいことをしたダビデに恨みを持っていたのです。だから、アヒトフェルは恨みでアブサロムを味方し、アブサロムは父への不満がいつしか恨みになり、恨みで結びついた二人であったのです。この謀反が野心ではなく恨みが動機で起こった事件であることが問題でした。罪の恐ろしさがここにはあからさまに描かれています。一つの罪が次の罪を生み、その罪が人を傷つけ恨みを生み、それがさらに罪を引き起こすということです。最後は死によってしか終わりません。ダビデは罪の罰を受けただけでなく、こうしてもっと恐ろしい愛する者の死を経験することになります。しかし、フシャイは結果的に神の神託のごとしと言われていたアヒトフェルの策を破ります。アヒトフェルは、アブサロムのためではなく、アブサロムを利用してダビデを討ち果たしたいという思いだけで神がかりのようになって迫ったのですが、その恨みが最後でアブサロムを差し置いて自分がダビデを殺すという策になってしまいました。アブサロムの気性では自分で恨みを晴らしたいと思っています。しかしこれでは、ダビデ王を討って次の王になるのが誰なのかわかりにくいことになります。アヒトフェルが最後の最後でアブサロムを出し抜いて王となる可能性のある策になっているのです。そこを突いて、フシャイはイスラエル全土から兵を集め、アブサロム自らが大軍を率いてダビデを討つことを提案したのです。それは、大変時間のかかる策で、良く考えればダビデを逃がす時間を与えることになるのですが、アブサロムも他の者もこの案の方が良いと思いアヒトフェルの策が退けられてしまいます。人間の運命のようなものを感じるでしょう。しかし、これは神のお決めになったことだったのです。油注いだ者を殺すことの難しさと言えばいいのでしょうか。ダビデは生き残り、王として復帰しますがさらに辛い人生となりました。(佐久間)

 

7月22日(水)

わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。

箴言8:17

 

クリスチャンになる人とそうでない人がいます。チャンスが同じようにあっても二つに分かれてしまいます。人間的に考えれば、神様が人を選ぶ基準は道徳的に正しい人であるか、善行を積んでいるような立派な人といいたくなります。しかし、イエス様が選ばれた人たちは、漁師や取税人に娼婦から世捨て人までいました。実は、旧約聖書の知恵の書に預言された今日のみ言葉の通りに、イエス様を愛する人、キリストを探し求める人、これが基準になっているのです。その自覚のある人は少ないかもしれません。しかし、明らかに自分の周りにいる大勢の人ではなく、自分だけがクリスチャンになっているということはありませんか。イエス様を愛するどころか何も知らなかった、と言ってみても、今は主を愛していると自然に思えることでしょう。大切なことですが、あなたはイエス様を探し求めていたはずです。それは、イエス・キリストという名前では探していなかったかもしれません。心の深い所でずいぶん前から神様を探していたはずです。だから、御言葉の約束通りにイエス様を見出したのです。なんとなくクリスチャンになったと言う人も、よく考えてみてください。きっと、何か思い出すはずです。あなたがクリスチャンになることは決まっていたのです。その日、その時までも、主はご計画されていたはずです。あなたが神様を愛することがなかったら、クリスチャンにはなっていません。それに、神様が愛してくださっていると分かったからクリスチャンになられたと思います。そして、日ごとに主の愛がわかるようになったはずです。あながたが主を愛すれば、主もあなたを愛します。それが人生をすばらしいものへと変えるのです。この世の空しい価値では比べることもできない、永遠に朽ちることのない価値へと導かれているはずです。信仰がなければなりませんが、愛し愛されという関係を主とあなたの間に回復しているのなら、大胆に主に近づきましょう。あなたが祝福された存在であることをあらためて感謝いたしましょう。(さくま)

 

7月23日(木)

主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。

エレミヤ6:16

 

 

私たちは時々どうすればよいのか分からなくことがあります。その時に、この聖句を思い出してください。私たちの人生でなかなか思うようにいかないと思うような時は、今までのやり方を変えたり、見方を変えてみるとうまくいくことがあります。私たちの考えがいつでも正しいとは限らないのです。良いと思ってやってきたことが本当はそうでもなかったりすることがよくあります。たとえば古いものより新しいものの方が良いとは一概に言えないのです。そこで、神様は知恵を授けてくださいました。「さまざまな道に立って、眺めよ」と。そして、「昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と」。あなたに心当たりがあれば、すぐに実行してください。神様があなたに願っていることは、あなたが幸福に生きることです。そして、人生は変えられないという思い込みで辛い人生を歩まないで欲しいと願っているのです。人生はより良くすることができるのです。悪い事を人のせいにすると、自分が無力であることを宣言しているようなものですから、まず自分を変えることに心を向けることです。自分は良く変えることができるのです。それから、人生には選択肢があります。若いうちはなかなか分からない事ですが、大人になれば、今日の聖書のみ言葉を生かすことができます。ちなみにこの御言葉に逆らったイスラエルは自分の選んだ通りに不幸になりました。私たちは教訓を学べるので、同じ過ちを犯す必要がないのです。魂に安らぎを得る道、その人生を見つけ、選ぶことです。(さくま)

 

7月24日(金)

今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。

ルカ6:21

 

深刻な問題を抱えて悩んでいる人が力尽きて途方に暮れ、涙があふれだすことがあります。人はいろいろな時に泣くものです。私のところにも相談に来る人たちがいますが、ほとんどの人が泣きます。それほど、心が張りつめて苦しんでいたのですね。それで、ティッシュの箱を用意しているのです。どうして涙が出ると鼻水も出てくるのだろう、と思うのですがこれらは一人で抱え込んでいた悩みが外に流れ出した証拠です。だからティッシュの箱が必要なぐらい悩みが流れ出した方がいいのです。でも、一緒に抱えている深刻な問題を共感できれば、イエス様に嘆願して人間の手から神様の御手へと問題を引き受けていただけます。そうなれば、あとは解決を待つだけです。事実、「あなたがたは笑うようになる」という結果を何回も見てきました。そして、その人の笑顔を見て心からよかったと神様に感謝せずにはいられません。それから、心の深い所にしまい込んでいる誰にも言えないような事を一人で抱え込んでいるのは、大きな重荷です。かといって誰でもいいから話して楽になろうとしても、それも現実的ではありません。親友といえるような友達を持っていない人の方が圧倒的に多いでしょう。それに、親友にすら話せないこともあるのです。自分の秘密をさらけ出したら、幻滅して嫌われるのではないかと恐れます。人の口は簡単に開くものです。一人に話せば皆が知ることになるかもしれません。そこで、イエス様に話すことができれば一番よいのです。イエス様は黙っておられるのではなく真剣に聞いておられるのです。そして、最善を尽くしてくださいます。不思議ですが泣くほどの経験が人を成長させ、時にはその人を生まれ変わらせることにもなるのです。ただ、傷ついて泣いている人は、イエス様が放ってはおかれません。イエス様はご自身の血潮をもって傷をいやしてくださるお方です。罪を悔いて泣いているのなら、悔い改めへと導いてくださいます。イエス様の御前では素直な気持ちでいられます。ありのままの自分を受け入れてくださるからです。責めることもありません。優しくされることがあまりない世の中で、経験したこともないような慈愛に触れることができるのです。だから、最期はニッコリ笑顔になれるわけです。そうなることが分かっているので、私たちはあまり心配しないでいられるのです。今日も笑顔を忘れずに過ごしましょう。(さくま)

 

7月25日(土)

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

ガラテヤ3:26-27

 

 

聖霊の恵みを受けて、はじめてわかった真理は、私を変える力がありました。聖書に書かれている奇跡物語は、聖書の中の出来事でしかありませんでしたが、今やそれは今日でも起こる現実でした。信じることによって実現していくことを知ると、もっと信じることが重要になってきました。自分の目の前に奇跡が起こると、次にはもっと大胆に信じることができます。霊的な知識は、ほとんどありませんでした。それが一つ一つ示されて理解し、それらがさらに信仰を強めました。はじめて聖霊のバプテスマを受けて、数か月後には教区の役員から注意さました。危険だということなのでしょうが、何の弁明もさせてもらうことなく、ただ叱られたという残念な結果でした。ところが、神様はもっと大きな計画を持っていました。私は、まもなく転勤になり、東京に戻されたのですが、後で知ったのですがそれは監視できるようにとのことでした。ところが、転勤するとすぐにキャンプミーティングがあり、そこで青年会の集まりに参加するように指示され、関東の青年たちと交わりを持ちました。そこでも、主が働かれて霊的なことを証しすることになりました。その話を聞いた青年たちの中から数名が、後に私の教会に集うようになりました。ある安息日に二人の青年が訪ねてきて、聖書研究を頼まれたのですが、その内容は聖霊についてだったのです。私の教会は、青年が一人しかいなかったので青年が集まるのは嬉しいのですが、聖霊のことを話さないように圧力がかかっていたので、リスクがともないました。ですから、消極的になっていたのですが、熱心に頼まれて、第二と第四安息日の午後四時からなら教会員も帰っているだろうからとしぶしぶ承諾しました。それが、大きな働きになっていくとは、その時はまったく気がついていませんでした。その変わった聖書研究会は始めてみると次々に青年が集まってきました。色々な人がやってくるのです。しかも、へたなギターで新しい讃美歌を歌い、聖書を学び、祈るという内容でしたが、夕食をはさんで深夜まで続くのです。誰も帰ることもなく、毎週、毎週、このような集会が続きました。そして、夕食後は輪になって、一人の一人のために祈ったりすることも始めました。すると、不思議なことが起こるのです。そこで、参加者はさらに他の人を連れてくるようになりました。終電車だからと家に帰すのですが、参加者は教会に泊まりこんで集会を続けたいと願うようになって、寝袋を買いました。そして、教会に泊まり込んでの修養会を開くことになったのです。さらに大勢の人が集まるようになり、次からは旅館や青年の家などの施設を借りて行いました。そこでも、不思議なことが起こり、聖霊は大いに働かれたのです。そのような聖霊が実際に参加者に触れてくるような経験が普通の教会ではないので、自分の教会に帰るとその時の喜びや奇跡を話すことになります。すると、そこでも問題になり、教区に呼び出されては詰問されたものです。しかし、主は、さらにこの聖霊の真理を伝えさせようと、沖縄教区のキャンプミーティングや合同礼拝、全日本青年大会や西日本長老会など、大勢の人に語る機会を与えてくださいました。聖書に書かれた真理を正しく理解し、信じるなら、書かれた通りのことが現代でも起こるのです。しかし、一番重要なことは、キリストを着ているという事実であり、そのような生き方です。これは、信仰によらなければできないことなのです。どうか、キリストを着ているということを考えてみてください。正しい理解が与えられますように。(さくま)

 

7月26日(日)

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

ガラテヤ6:2

 

これはクリスチャンの生き方です。私が牧師一年目の時に神様は本当の人の救いについて教え始めておられました。そんな時に、イギリスのバプテスト教会から来られたトム・チッパー師と出会いました。彼は毎週聖霊のバプテスマの説教をする牧師でした。彼の講演を聞いたのですが、いや見たと言った方が正しいかもしれません。というのも、今日のみ言葉を教えるために、聴衆から数人の人を前に呼び出して丸く円をつくらせました。それから、目の前に大きな思い袋があるので、それを方に担いで持ち上げて欲しいと言いました。実際には何も置かれていないので、大きな袋があるように演じなければなりません。そして、皆、重そうに袋を担ぐ演技をしたところで、右を向かせて「目の前の人の重荷を後ろから片手を伸ばして下から持ち上げ、前の人を楽にしてあげましょう、と言われました。それで、全員が一斉に自分の重荷はかついだまま、目の前の人の大きな重荷を下から手で支えてあげたのです。すると、うまいぐあいに全員が目の前の人の重荷を支えたので、全員が自分の重荷を軽くしてもらえました。この一目で分かるパフォーマンスを見せて、これが「互いに重荷を担うことです」とチッパー先生は語りました。なるほどと聴衆は感心していました。実際に見るとすごくよく分かるのです。それで、教会で私もこのパフォーマンスをやって、教会員に見ていただいたことがあります。教会とは、主に召し出された者たちが、隣人の重荷をそっと後ろから支えているようなものなのです。そして、自分も誰から重荷を支えていただいているのです。だからといって、安易に自分の重荷を全部人に押し付けるようなことはいけません。「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」(ガラテヤ6:5)と聖書に書いてあるのですから。この世の中では、自分の重荷は誰も担ってくれません。しかし、クリスチャンの関係では、誰かが苦しんでいたり、困っているのに無関心でいることはできません。何か助けることができないか祈り求めて、そっと手を伸ばすものです。できたら気づかれずにそっと助けたと思っているのです。その人はきっと、自分の重荷も誰かに担われているかもしれません。そのようにすれば、重荷は軽くなるのです。だから、不安にならなくても大丈夫です。あなたのことをちゃんと見ていてくれる人はいるものです。一人で頑張らないでください。これは、互いに愛し合いなさい、というキリストの新しい掟と同じことですね。(さくま)

 

7月27日(月)

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

ガラテヤ6:15-16

 

割礼は、もともとはアブラハムと神様の間で約束されたものです。ユダヤ人はアブラハムの子孫であるために、この割礼を受けることになりました。それから、イエス様の時代になると、ユダヤ人は自分たちだけが救われると思うようになっていました。その根拠が割礼でありました。異邦人は無割礼の者で救われないと信じていたのです。ところが、イスラエルで最高の学びをしたパウロは、イエス様との出会いによってすっかり人生を変え、キリスト教の使徒として大きな足跡を残しました。そのパウロが今日の聖句箇所で、明確に言っているのは「割礼の有無は問題ではな」いということです。この割礼は、律法主義の象徴として理解されることがあります。つまり、大切なことは律法主義になってはいけないとうことです。律法は良いものですが人間がそのままでは守ることが出来ずに罪の自覚を生じるだけなのです。それなのに、律法を厳格に守って完全になるというのは無理があります。しかし、イスラエル人のように、割礼を守っているから自分を義と考えるのもおかしなことで、福音書にそのこっけいさがイエス様との問答で描かれています。だから、私たちは何か良いことをして神様に認めていただこうという発想を持っていません。聖書に書かれたことを見ても、悔い改めてイエス様を信じ、口で告白して救われるというようにどのような人でも信仰によって救われるように書かれているのです。そして、さらに信仰者にわかるように霊的なことも書かれています。多くの真面目なクリスチャンにとって、自分がいつまでも不完全で成長がみられないと感じているのも事実でしょう。それは、聖書に書かれた通りにしていないからです。律法はいろいろな規則を作って守るのですが、聖書に書かれた聖霊のバプテスマはほとんど無視されています。水と霊から新しく生まれたら神の国へ入れるとイエス様が教えていても、どうすればいいのか戸惑うのです。牧師は水のバプテスマまでしかしてくれないからです。でも、初代教会では使徒たちが頭に手を置いて祈ると聖霊が降ったことが記されています。これは今日も同じです。使徒はいないかもしれませんが、聖霊のバプテスマを受けた人が頭に手を置いて祈ってくれるでしょう。それが前提になって、聖書は書いています。「大切なのは、新しく創造されることです」。これこそが奥義なのです。聖霊が人の内に入り、その人を再創造するのです。イエス様に似た者へと造りかえてくださるのです。それを可能にするために信仰が要求されますが、決して難しいことではありません。ただ、古い肉を完全に死なせるために、いろいろなことを経験することでしょう。しかし、教会に結びついて、時には助けを受け、謙遜に信仰の道を歩むことです。その時、いつでもイエス様と一緒に行くことだけを忘れないでください。イエス様の愛に満たされ続ける人生となりますように。(さくま)

 

7月28日(火)

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

黙示録3:20

 

この聖句を題材にした美しいイエス様の絵があります。それは、玄関の戸をイエス様がノックしている絵です。その絵をよく見ると、戸にはドアーノブがついていません。つまり、外からは戸を開くことができないので入れません。中に入るためには家の内側にいる人が戸を開ける以外に方法がありません。そこで、この扉は、人の心の扉であろうと言われています。イエス様はあなたのもとに来て、心の扉を叩いています。あなたが内側から開けない限り、イエス様は入ることができないのです。ですから、イエス様を信じて心の戸を開けてイエス様を内側に迎え入れましょう。もしかすると、知らないうちに戸を閉じてしまっていませんか。気がついたなら急いで戸を開けてください。そうすれば、イエス様の恵みが突然降り注いでくるでしょう。人間的にはありえないことだって、あなたを祝福するためにおしみなく与えられます。イエス様はあなたと一緒に喜びたいのです。あなたの笑顔をみたいと思っているのですよ。あなたには祝福を受ける特権があります。ですから遠慮なく、祝福されてください。今日は、良い日になりますね。(さくま)

 

7月29日(水)

一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

マタイ26:7-11

 

イエス・キリストの価値とは何だろうか。イエスの周りには実にたくさんの人がいたのです。この時も思い皮膚病の人シモンの家にいました。そして、高価な香油を惜しげもなくイエスの頭に注いだ女も登場したのです。さて、イスラエルの宗教は、多くの規則で人々を縛っていました。その規則が人をすばらしい愛の人へと整えていけるのでしたらよかったのですが、愛は愛されて育つものなので、規則では守れなかった人を裁くことしかできなかったのです。そのような中で、イエスに召された弟子たちはイエスが十字架への道を歩み始めた時にもまだイエスの価値が何であるかわかっていなかったようです。それがこの物語を読むとよく分かります。弟子たちは、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」と言って憤慨したというのです。復活した後のイエスに出会った後、いやペンテコステの経験の後ならば、このように言わなかったでしょう。彼らのイエス理解は、せいぜいイスラエルの王になるお方と言った程度のものでしかなかったのです。まさか、本当に神の独り子であるとは理解がおよばなかったのでしょう。そのイエスが十字架にかかり、死んでしまうとはどうしても理解できないことだったのです。それにくらべて、高価な香油をイエスに注いだ女は、イエスの価値を弟子たちよりもはるかに高く見ていたのです。それだけ、主に罪を赦され、その分愛を受けたのでしょう。だから、私たちはイエスとの関係によって、イエスへの愛の価値が違っているのです。ですから、同じようなテストを受ければ、この時の弟子と同じような結果になるかもしれません。最後にイエスのお言葉で気になるのは、一時の金よりも、いつも一緒にいることの価値です。イエス様ならば一緒にいたであろう人のかたわらにいつづけることができるのは、その価値を知っている人です。イエスがあなたと一緒にいてくださるように、あなたも必要のある人と一緒にいることができるでしょう。できれば、イエスの頭に高価な香油を注ぎかけるような人になりたいものです。(佐久間)

 

7月30日(木)

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

Ⅰテモテ2:4-6

 

この御言葉によると、神様はとてつもないお方です。なぜなら、すべての人が救われることを願っているからです。私たちは、この世にはいろいろな人が住んでいることをしっています。良い人も悪い人もいます。それなのに、善い人だけではなく、悪人をも救おうとされているというのです。もっとも、自分は正しいと思っている人でも、神様の規準に照らせば問題ありと言われてしまうでしょう。だから、今日のみ言葉はありがたいのです。どんな人にも救いの希望があります。それから、大切なことは神様は唯一であるということです。日本のような国に住んでいると八百万の神々がおられるという文化の中で育ちましたから、いろいろあって良いと思っているかもしれませんが、神話以上のことはありません。聖書の預言通りなら、この世の歴史は終わりの時代に入っていて、最後の時が来るということです。その終わりに日に神様が誰であるのかということがはっきりします。神様は唯一で、他にはいないのです。ただ、霊的存在としてはサタンがいますし、その手下である悪霊がいます。これらが、世界各地で自分を神としているので、心霊現象を伴う神々という悪霊たちがいるのです。だから、そうした神々を信仰している人たちが苦しんでいることはよくあるのです。また、神様と罪人の関係を考えればわかることですが、罪と神様は相いれないものです。神様は聖であり、罪は汚れですから、神様の正義が罪を裁かざるを得ないのです。私たち人間が罪を犯しているというのは、神の律法を犯したらそれは罪だからです。わかりやすく言えば、愛を踏みにじるようなことが罪です。それで、罪を犯した人というのは神様に背を向けて逃げているのです。救いと言うのはそのような人が仲介者の助けをかりて神様に向き直り、近づいて正しい関係になることです。その仲介者がイエス・キリストです。イエス様は神の独り子ですから、もともと神様なのです。それが、人の救いのために、自己を犠牲にして、人となったのです。神様では、人を裁かざるを得ないからです。人は神様に性を向けて逃げているので、人にならなければ人は振り向きもしないのです。そして、イエス様を通して初めて「神は愛なり」ということがわかったのです。自分がどんなに深く神様から愛される存在であるか、気づかせてくださったのです。イエス様は十字架におかかりになって、私たちの罪の贖いとなりました。「罪の支払う報酬は死である」と聖書に書かれている通りです。私たちが罪を犯したことに当然の罰があるのですが、それが死です。この世でただ死んでおしまいというわけにはいかないのです。地獄が待っているのです。だから、神様と人との間に立って下さるイエス様に助けていただくことがただ一つの救いの道なのです。(さくま)

 

7月31日(金)

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

コロサイ3:1-4

 

クリスチャンには信仰によらなければ理解できないことが多くあります。クリスチャンになりたての頃は、聖書は難しいと思っているものです。聖書を初めから終りまで通読しようとしても、結構難しくて挫折しやすいのです。理解できないことが多くあるからです。何年も教会に所属していても一度も聖書を通読したことがないという方は珍しくありません。問題は、聖書に書いてあることがクリスチャンにとっては恵みそのものであることと、御言葉には不思議な力があって、クリスチャンの成長には欠かすことができないことです。なにしろ人間の常識が通用しないので、人間的に勝手に解釈しても良い結果は望めません。そこで、イエス様のお言葉の通りに、約束の聖霊を求めることが肝心です。この聖霊は、真理を解き明かすことができるからです。一旦、このような恵みにあずかると霊的なことに目が開かれて行きます。そこで、今日のみ言葉のように自分が霊的に大きな体験をしていることに気づかされるようになります。「上にあるものを求めなさい」とは、命令ですから無視できません。「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」。つまり、信仰にはこつがあって、この地上のことをいつも考えていれば、やはり誘惑にも遭うし神との距離感も生まれてくるものです。この世のものは肉に関わるものなので、魅力があります。しかし、「キリスト共に復活させられた」と聖書が語っているので、クリスチャンは新しく生まれているという特殊な信仰を持っている必要があります。それで、信仰の上では、「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」となります。クリスチャンがジレンマを抱えるのは、立派なクリスチャンになりたいのに、努力してもうまくいかない、それどころかかえって罪を犯してしまうという問題です。これは、聖書に書かれていない勝手な思い込みです。私たちに求められているのは、このような御言葉を単純に信じて、聖霊が働きやすくすることです。「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」。ここまでくれば充分神秘です。でも、この御言葉の通りに信じてみましょう。生き方が変わることは決して悪くありません。いよいよ素晴らしい信仰の世界の扉が開けてくることでしょう。(佐久間)