2015年8月

 

8月1日(土)

今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。

使徒20:32

 

聖書の不思議は、「あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある」ことです。この聖書が今や書店で簡単に買うことができます。クリスチャンの方々は御言葉の不思議を体験されていると思います。必要な時に語り出すのです。その御言葉で心が変わります。難問の答を見出すことができます。傷ついた心を癒してくれます。勇気凛々となり再び立ち上がることができます。主の御声を聴くことすらできます。何が正しいことかわかり栄える人もいます。聖書を生涯読み続ける人たちは、徳を建て上げているのです。聖書と会話している人もいるでしょう。御言葉を実行しようと頑張っても頑張っても出来なくて、泣く人もいるでしょう。しかし、その人の眼は開かれて、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」(ローマ6:3)気づかされるのです。御言葉をそのまま信じることの尊さを体験する人は、神の御力を直接知るでしょう。大切なことは、聖書のみ言葉は主の「恵みの言葉」なのです。この一冊の聖書に中にあなたが御国に入るために必要なすべてが書かれているのです。それだけに祈りと信仰無しには読めないものなのです。約束の聖霊を求めて、真理を解き明かしていただきましょう。

(佐久間)

 

8月2日(日)

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

ヨハネ1:16

 

夏になると思いだすのは、十代の頃は何とか真っ黒に日焼けしたいと思っていたことです。それが、今やなんとか日に焼けたくないと思っているのですから、人間ってかってですね。同じようにクリスチャンになると正しく生きたいと思うようになります。それまでとは正反対な生き方を積極的に始めるようになります。ただ、救われたのは主イエス・キリストの十字架の贖いによるもので、決して自分の功績ではありません。それが恵みとわかるようになると、信仰生活はより良いものとなります。「恵みの上に、更に恵みを受けた」と書かれている通りに、あなたも恵みの上に、更に恵みを受けることができます。そのようにして生きていくことがクリスチャンの特権なのです。疑ってはいけません。また、その恵みを肉が働く機会にしてはいけません。貪欲の罪を犯すかもしれないからです。肉を満足させるために恵みを求めると、聖書のみ言葉に反してしまいます。肉は殺すものであり、すでに死んでいると認める必要があるのに、逆に生かすようなことをしてはいけません。恵みを上手に受けている人たちは、感謝する習慣が身についています。何事につけ感謝しています。災いと思えるようなひどい事が起こっても、しばらくすると立ち上がり感謝しているのです。私たちが今日のみ言葉を大切に思う理由はまだあります。それは、古い人が死に、新しい人が生れた、と信じているのですが、それが顕著に現実となるように信仰を働かせたいのです。そのためには、恵みが不可欠です。恵みが増し加えられるたびに、主イエス・キリストが私たちの内にはっきり現れてくるはずです。私たちが衰えていくことは、キリストが明瞭に現れてくることです。ですから、恵みを更に受けることは感謝なのです。そのようなクリスチャンの生活も信仰も何も不足することはありません。いつでも、神様の恵みを感謝して示すことができるのですから。思い煩うことなく、安心して毎日過ごすことができるのです。(さくま)

 

8月3日(月)

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。

コロサイ3:16

 

このディボーションをお読みなられている読者は、すべてがクリスチャンではないでしょう。もともは、クリスチャンのために書かれているために、きっとわかりにくい事が多々書かれていると思います。しかし、キリスト教入門書を読むよりは、ストレートにキリスト教徒がどのようなものか知ることができると思います。そして、確かに聖書には処世訓というよりは、もっと人間の本質に関わる深い話しが多いのです。人間は実に多様な人がいて、その好みも思考も何もかもが一人一人ユニークで異なっているのです。そして、生まれ育ちが大きく人間に影響していて、愛情深く育てることが非常に重要なのです。キリスト教を一言でいえば「愛の宗教」です。やたら愛という言葉が出てきます。そしてクリスチャンは愛の人になることを目指しているのです。ところが、それは努力に比例することもなく、空しい結果になることもあるし、偽善者にだってなるかもしれないのです。みせかけのクリスチャンになれば、良い事は何もありません。本物のクリスチャンになる方法は、自分の力で努力とか修行とか勉強というようなものとはかけ離れています。パウロは聖書の中で恵みという言葉で説明しようとしていますが、実感としてはまさにそうなのです。そして、一つよい方法をお教えするとするならば、今日のみ言葉にあるように、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」ということです。皆さんは本を読んで内容をよく覚えている方ですか。聖書を読んで、良い言葉を見つけることは簡単ですが、それを覚えているかというと結構すぐ忘れてしまうのです。せめてキリストのみ言葉だけでも覚えようとしていても、その御言葉の力が必要な時に出て来なければ意味がないでしょう。つまり、生活の場でキリストの言葉が現実となって現れるようになることが望ましいのです。そのために、聖書を一緒に学ぶ機会を作ったり、聖書研究会や教会での交わり、讃美歌を歌う讃美の時、祈りの会、そして「どんなことにも感謝する」ことを身につけることです。ただ、周りに教会も無く、一人で信仰を始めようとすれば困難が予想されますが、聖書はきっとあなたのメンターとなって、あなたを素晴らしい人へと建て上げることができるでしょう。それだけの力がキリストのみ言葉にはあるのです。(佐久間)

 

8月4日(火)

コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

コロサイ1:2

 

聖書を読んでいて気がつくことは、当時の教会員へ手紙を書く時にパウロは、クリスチャンへとか教会員へとは書いていないことです。ではなんと書いてあるといえば、「聖なる者」と呼んでいるのです。つまり、聖書的なクリスチャンとは、「聖なる者」と呼ばれる人のことなのです。そのため新約聖書には「聖なる者」という言葉が89回も書かれています。では、皆様はご自分を聖なる者と認識しているでしょうか。キリストの救いは完全ですから、皆様はすでに聖なる者なのです。事実、聖書には「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(Ⅰコリント6:11)と書かれています。さらに、「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント7:1)と勧めらえています。「このような約束」とは何か、ご自分で聖書を開いて確かめてみてください。皆様が聖なる者であるのは、聖霊が皆様の内に降って来られ、住んでおられるからです。その事もご自分で考えることですし、聖書で調べることです。

ヒントとして一つ聖句を引用しておきます。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(Ⅰコリント6:19)。あなたが聖なる者であるということは、どうゆうことか今日は考えてみることにしましょう。(佐久間)

 

8月5日(水)

さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。

使徒言行録17:30

 

この世界がどのようになってゆくのか、誰もが知りたいことでしょうが、どうもこの世界がおかしくなってきたと感じている人は増えているようです。気象のようなわかりやすいものからテロの脅威まで、また、時代が大きく変わり情報化社会の現実が見えてきたり、SF小説のような未来に既に踏み込んでいると思わせる驚異的な技術革新が身近にあります。それとは裏腹に貧富の格差が社会問題として世界各地で見過ごせなくなっています。終末には愛が冷えると聖書に書かれていた通りに、愛が冷え切っている事件が後をたちません。いじめ問題は依然として解決しないし、超高齢化社会の問題はどんどん深刻になるばかりです。そして、日本人の誇りであった礼節を重んじ、克己心を尊ぶ日本人像は大きくゆらいでいます。神をも恐れぬ社会は恐怖です。かといって偶像を拝むようなことも避けたいのですが、無神論と言う人が多い国でますます増え広がっているのです。ニュースが暗いことばかりで、心が冷えます。聖書は、そのようになることを見越していたように、預言の言葉を発しています。それが今日のみ言葉なのです。つまり、今は悔い改めの時代に入ったわけです。世界中のどこにいる人も例外無しに悔い改める時がきました。これは、「命令」という強い言葉で語られているのですから無視できません。これから、どのようなことが起こっても動じることなく信仰の道にとどまることができますように。そのためにも、悔い改めておきたいと思います。(佐久間)

 

8月6日(木)

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

ヨハネ6:63

 

言葉には力があります。しかし、人間はあまりにも言葉の力を考えずに軽視してきたので、大切なことを見失っています。それは永遠の命のことです。今や永遠の命の価値が分からなくなり、そのため、ますます聖書の意味が理解できにくくなっています。今日のような聖書箇所は、読み飛ばして良い箇所ではなく熟考するところなのです。問題は、「肉」とは人間的な力のことで、他の勉強と同じように学ぶような方法がは何がしかの人間的な意味を見出したとしても、それで永遠の命を得るわけではありません。だから、「肉何の役にも立たない」とはっきり断言されているのです。そうすると、聖書を読むこと自体、文字を読むというよりは、霊をあるいは命を得ることだと言わなければなりません。それは、人間の力では無理な事で、イエスの教えられた通りに、真理の御霊がやってきて教えてくださることなのです。つまり、聖霊が聖書のみ言葉の霊を呼び覚ますような感じです。そのために、聖霊のバプテスマを受けた時に、聖書を開くと文字が飛び出てきたと言ったり、聖書の中の物語の登場人物が抜け出してきて、目の前で演じて見せてくれた、という人もいました。まったく、不思議なことが起こるのです。今まで、難しいと言ってはなかなか読めなかった聖書が、聖霊の助けを得ると急によく分かるようになったり、目が良くなったように聖書の文字がはっきり見えるようになったり、普通ではないことが起こったりすることがあります。それよりも、大切なことは天の命を与えられて、自分が変わることです。勿論、良くなるということです。神との距離感がまるで違うわけです。霊的な洞察力も備わり、御言葉を読んでまずは自分を神の子として整えて行くことができます。そして、人の救いや癒しなど、御言葉の力を信じて使います。ここでも、聖霊の重要性が理解できると思います。(佐久間)

 

8月7日(金)

心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。

申命記4:29

 

神様に出会うことを求める人は、きっと出会うことになるでしょう。ただ、現代のように複雑で情報があふれかえっているような時代には、神様を求めにくいのかもしれません。聖書の物語は、モーセの物語の中で神の選んだ民が奴隷となって苦しんでいることが語られています。奴隷に自由はないので、苦役と貧しさの中で神様を求めることになったのです。だから、決して神様を求めるのに良い環境にいたと言えないどころか、最悪の状況で神様を求めていたことになります。それでも、神様はちゃんとその叫びを聞き届けてくださり、力づくで救出を成し遂げられました。その事を教訓にして、クリスチャンは静まって心を尽くし、魂を尽くして神様を求めるべきです。現代の常識をはるかに超越した神様との出会いがあることを知ることは御心です。そのために、自分の言葉で祈ることから始めてみましょう。私には霊感が無いとか、霊的感受性が無いと言って心配する方もいますが、それは全く心配いりません。人間には個性があるので、個々の理解の仕方は微妙に異なっています。しかし、それらを創造してくださったのは、神様ですからどのような人でも、その人に最も最適な方法で神様は出会ってくださるのです。ビタミンCを発見した科学者のように、顕微鏡をのぞいていて、神様と出会った人もいるぐらいです。すばらしい神様を知ることが私たちにとって必要なことは明らかですから、今日のみ言葉を瞑想して、信仰でこの幸いへと導いていただきましょう。(さくま)

 

8月8日(土)

わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。あなたが計らってくださいますから/とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます/あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い/あなたの御名に。

詩編52:10-11

 

田舎暮らしを始めて、つくづく人間は緑を必要としているということに気づきました。つまり、目に木々の美しい緑が映ると気持ちが落ち着き安息を感じるということです。そこで、近所の植木園に行っては、いろいろな木々を見ることも楽しみの一つとなっています。いくつかの木々が特にお気に入りですが、その一つがオリーブの木です。岡山の牛窓という風光明媚な土地に瀬戸内海を見下ろすように小高い丘の上にオリーブの木がたくさん植えられている場所に行ったことがあります。日本とは思えないすばらしい光景が今でも思い浮かびます。このオリーブはユダヤでは象徴的な木としてしばしば出てきます。このオリーブの実から取られた油は、宗教的にも用いられています。祭司や王の任職にも頭にオリーブ油が注がれます。それは、聖霊の象徴となります。この詩編記者も、神の家に植えられているオリーブの木に自分を譬えています。神の慈しみに依り頼む信仰をはっきりと告白しています。それは主がそのような者に恵み深いことを証言しています。事実、私たちもこの詩編が自分の信仰そのものであることを認めたいと思います。この世に生きていても、信仰によって神の家にとどまっていると信じたいものです。主は、すでにあなたの人生を祝福されたものとしてご計画されているはずです。そのことを疑わずに幸福に生きていただきたいと思います。そのような人は、感謝がいつも心からあふれてくるでしょう。御名をほめたたえましょう。(佐久間)

 

8月9日(日)

ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。

ダニエル書12:4

 

人間の歴史は、永遠に続くわけではありません。聖書は預言の書で、神の御言葉によってできていますが、特にこのダニエル書には時の預言が大胆に書かれています。事実、歴史によってダニエル書の正しさは証明されてきました。そして、不思議もあるわけですが、特に大天使長がダニエルに終末に至る預言を詳細に伝えるこの箇所は封じるように命令されています。しかし、終わりの時には開かれることになります。そして、今まさに終わりの時に近づいているわけです。人間の歴史始まって以来の飛躍的発展は知識が急激に増したことを示しています。長らく人類が歩んできたのは農業社会でした、それが産業革命で工業社会に変わり、人間は劇的に変わってきたのです。そして、さらに情報社会に変貌したのが現代です。世界中のどこに行っても個人用の携帯電話を持ち歩き、それがインターネットとつながり、人間が大きく変貌していく時代です。「多くの者が動揺する」、「知識が増す」という短い言葉は、本当に成就しているのです。目に見えない世界が激しく動いています。あなたも、聖書を調べることができます。ダニエルの時代には封じられていた預言が、今ならば解けるのです。世界史ももう一度勉強したくなるでしょう。そうして、あなたは自分が人間の長い歴史の最後に近い所にいると実感することでしょう。そして、ダニエル書を聖書を手にしている事の重大さをきっと理解できるでしょう。聖霊の助けがますます必要であると実感することでしょう。(佐久間)

 

8月10日(月)

愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。

箴言29:11

 

人間はいろいろな経験を積むことにより、人の器を大きくすることができる。しかし、やっかいなのは感情を上手にコントロールすることだ。これができないと、人生は不安に満ちている。たやすく失敗することになるからだ。感情のことを考えないといったいいつどこで感情を爆発させるかわかったものではない。とにかく感情をさらけだしていい事は何一つない。どうすれば感情を制し静めることができるのだろう。これが私たちへの課題となっている。知恵と関係がある。たとえば、箴言12:16には、「無知な者は怒ってたちまち知れ渡る。思慮深い人は、軽蔑されても隠している」とある。愚か者とは無知な者の意味であることがわかるだろう。そして、思慮深い人とは知恵ある人のことである。箴言には同じようなことが繰り返し書かれていて、言葉の違いからより深く理解できるようになっている。興味のある方はご自分でお調べになれることを勧めます。さあ、今日の課題が明確になった。感情をさらけ出すことなく、それを制し静める、これができるようになれば、人との関係で悩むことは少なくなるはずだ。問題は知恵ある人になるには多少の時間と強い信仰が必要となることだ。そして、信仰者はありがたいことに聖霊の助けを自由に得ることができる。これは、心強いことだ。早速、今日から取り組んでみてはいかがだろう。知恵を祈り求めることは御心であるので、霊的刷新があるように聖霊を求めて祈り続けてみよう。(サクマ)

 

8月11日(火)

あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。

詩編103:5

 

聖書に書かれている約束は信じる者の上に成就します。そして、この約束を信じるべきです。人間の欲を満たすためだけなら、結果は悪いものとなるでしょうが、信仰者は、幼子のような単純さで信じるので、生活の不安が無くなります。心配して生きることは健康にも悪影響を与えます。ある人は、何の根拠も無しに神の約束を信じるとができないでいます。一方、過去の信仰生活を振り返ってみて、このみ言葉は本当だな~と感謝が出てくる人は、一生を良いもので満たされる、と平安をいただくことができるのです。死ぬまで良いもので満たされる事を信じることができれば、元気になって、鷲のように、新しくなるのです。否定的な思考を締め出してしまいましょう。イエス・キリストを信じて、心を軽くしていただき、一生を良いもので満たされる人生を歩みましょう。もう一つ、健康も大切ですから、若返ってたくましくなり、新しくなったと思えるようにしていただきましょう。肯定的に考え、信じましょう。(佐久間)

 

8月12日(水)

わたしは愚かで知識がなく/あなたに対して獣のようにふるまっていた。あなたがわたしの右の手を取ってくださるので/常にわたしは御もとにとどまることができる。あなたは御計らいに従ってわたしを導き/後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。

詩編73:22-24

 

イエス・キリストは真の知識である。つまり、イエス・キリストを知ることなしに生きる人間の姿は獣のようだというのだが、振り返って考えれば、罪人とはそのような者でしかなかった。それがどんなに愚かなことであったかは、人が過去を後悔することから知れる。クリスチャンとは、そのような人間の事を神が見捨てることなく右の手を取ってくださるので神のものとに留まることのできる人のことだ。右の手とは、主の御目に正しい事の方を選ぶことだ。このようにして、神はクリスチャンの人生に深く関わってくださる。主はあなたのためにも既に良い人生計画を立てられているのだ。もちろん、あなたは自由意志があるので選ぶことができる。しかし、主を愛する者は主が導かれる方であることを知っている。出エジプトの時のことを思い出してみればわかるが、カナンというゴールへ導かれたのは主であった。我々は天の家郷へとたどり着くことを願っているが、それはこのままの姿でいくということではない。日々聖化が期待されているが信仰によって義となる道をたどることが期待されているのだ。そして、主はあなたや私のことをよくご存じなので、最後は栄光のうちに天国へ入れるようにとご計画を立てていてくださるのだ。それゆえ、主を愛する者がこのご計画を全うすることを覚えておきたい。それは、主への従順がなければ、すぐに道をそれてしまうからだ。主の恵みを感謝し、主への信仰を単純に持ち続けていけば、決して難しい道ではない。イエス・キリストはきっとどんな時でも助けてくださるから、心配することはない。主の温かい思いやりに触れて優しい心を持ち、今日一日を大切に生きよう。(サクマ)

 

8月13日(木)

見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。

イザヤ12:2

 

人間の性格というものを研究している人は、いくつかの性格に分類して大枠でグループ分けして説明することにしています。日本では江戸時代からそのような研究は進んでいて、12に分けて説明する方法がありました。そのような性格を見極めた人たちは、それが人相にまで関係して現れているというのです。面白いのは、どの性格にも良いところと悪いところの両方があるということです。クリスチャンになった方は、この良い方を選んで悪い方を呼び覚まさないようにしているように見えます。しかし、人間的な努力だけでは良い方だけというわけにはいきません。良い方に傾けば、バランスをとるように悪い方が頭をもたげてくるのです。そこで、クリスチャンは聖書からこのような場合どうすればいいのかを調べることになります。そもそもキリスト教の救いはキリストの救いに預かって、古き人に死に、新しく生まれることと教えています。悪の根源である罪は肉に宿っているとパウロは指摘していますから、キリストの十字架の死に信仰者が結びつくことで、罪の温床である肉を死なせることを教えているのです。実際にはどうすればいいのかと問う人たちがいます。答えは信仰によってとなるのですが、信仰と一口に言っても奥深いのです。人間は成長して振り返った時に、以前の未熟さを知るほどの者なのです。ですから、クリスチャンの日々の信仰生活が信仰を成長させていることを理解する必要があります。それはまた、主との関りを深める時間でもあるのです。そして、今日のみ言葉のように驚くべき信仰の高さへと昇って行くのです。何が起ころうが、たとえ災いや試練に遭遇して倒れることがあっても、このみ言葉のような信仰があれば、必ず立ち上がることができるのです。人間的に弱そうに見えても、力がないように見えても、主への信頼があれば、みごとに障害の山を乗り越えていけるのです。主は、絶対に頼りになります。信仰は楽しいものです。(佐久間)

 

8月14日(金)

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

ローマ13:8-10

 

クリスチャンの美徳は、人を愛することです。愛している者を害することはできません。神は愛なので、愛である神に似せて造られた人間も愛を受け継いでいたのです。だから、本来は神を愛し、隣人を愛することが人間の基本的な姿でした。ところが、エデンの園で悪魔の誘惑にあった人間は、神の禁じた禁断の木の実を食べてしまいました。神が「これを食べると死ぬから食べてはいけない」と言っただけで、柵も鍵もなく置いておいたのには意味がありました。神が人間を信頼していたことの証です。しかし、人間は誘惑されると途端に自分勝手に食べても大丈夫だと考え、神の禁じられた実を取って食べました。人間が神を信頼していたなら絶対食べなかったのですが、自分の思いを優先してしまいました。この神の信頼に人間が信頼で応えることが求められていたのに、裏切る結果になったわけです。これを罪と聖書は書いたのです。人間にとっての課題が生まれました。罪を克服することです。モーセの時代に律法が与えられました。この律法に書かれていることはすべて愛をまっとうするものです。神への愛、隣人への愛、この両方について律法が与えられたのです。しかし、結果はうまく行きませんでした。失敗したのです。この神との関係が正しく結ばれないのは

 

もはや人間の理屈や人間の努力では無理だからです。人間は愛することがどんなに頑張っても十分には理解できないのです。コヘレトの言葉にあるように、この世界を眺めれば空しいことばかりです。パウロはこのような問題を抱えた人間を肉と表現しました。罪はこの肉の中にあるのです。問題の中心が肉にあるということならば、もはや人間は死ぬ以外に罪を犯さない者になることはできません。神との正しい関係を作るには死ぬ以外に方法がないのでしょうか。もっとも、罪にまみれて死ぬのなら、天国へ行けるはずもありませんから、地獄に投げ落とされるだけです。しかし、神は永遠に愛なのです。だから、奇跡が起きました。神の独り子イエス・キリストが救い主(キリスト)として人間の救済のために地上に来られたのです。そして、誰もが予想もできなかった方法で人間の救いの道を作られたのです。それが十字架の救いでした。悔い改めてキリストを信じるだけで、罪人の自分に死ぬことができるのです。それは、キリストが十字架で死なれたその死に信仰で結ばれることによって実際に効力が発揮されるのです。そして、聖霊を天から与えらえて、新しい霊が新しい人を生み出すのです。これは、聖書のみ言葉に書かれているので、それを信じることによります。そのことの大きな意味は、神の愛がわかるようになり、神を愛し返すことができるようになるということです。そのことは、その人に大きな変化をもたらします。その現われが、今日のみ言葉なのです。もう一度聖句を読んでみましょう。(佐久間)

 

8月15日(土)

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

コリントⅡ9:8

 

今日の聖句をお読みになって、あなたはどう思われましたか。その通り、と喜んだでしょうか。調子いいことを言って、と気分が悪くなりましたか。人間には確かにその人の性質や個性があって、受け止め方は同じではありません。しかし、信仰者はどうでしょうか。同じ一つの聖霊を飲んだ者同士、信仰による一致はあります。そこで、聖霊の励ましを受けて、私たちは自分に対しても良いことをそのまま受け入れることが大切です。主のありがたい約束を子供のように喜んで受け取ることができるように訓練するのです。一番良いのは、信じることです。ご利益宗教のようになるのは肉を生かすことになるので、欲望を満たすようなことではいけません。悪魔はその欲に誘惑をかけてくるから、罪が結果として生まれてきてしまいます。しかし、だからといって消極的になり、信仰を発揮しないのもよくありません。神様を愛する気持ちが、自然と恵みのみ言葉をすっと受け取ることを可能にします。だからこそ、あなたの全力で、あなたのすべてで神様を愛するということを喜びとしてください。神様との関係が自然と深まって行きます。その時に、主がどれほど良くしてくださるか知るのです。小さい事の積み重ねが大きな主への信頼に結びつきます。事ごく信仰を押し出して、主の愛を感じることができるように求めてみましょう。そして、このみ言葉のようにいつでも考えることができるようになれば、あなたは主の恵みの中にいるでしょう。それが当たり前になるのです。すばらしいクリスチャンライフを満喫してください。(さくま)

 

8月16日(日)

主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。

イザヤ35:10

 

私たちの人生は、どこかへ向かって歩いているようなものです。その目的地を知らずに立ち止まることなく歩いているのです。キリスト教の救いは、方向を変えるという言い方ができます。ちょうど、神を知らない時には神から逃走する人のように背を向けていたのですが、キリストに救われた時に、神へと向きを変えたのです。回心というキリスト教の用語があるように、神から逃げていた者が神のもとへ帰って来るという意味があります。それは、自分の負いきれない罪をキリストが贖ってくださったことによって、可能となったのです。シオンは神の家のあるところです。つまり、神のもとへ帰って来る喜びを詩っているのです。そのように救いは、人を変えて喜びに満たす力なのです。行き先のわからない不安な人生が、神のもとへ帰るという確かな喜びへと変わるのです。そこには、嘆きも悲しみも入り込む余地はありません。この愛の神が自分の力強い主となり、また慈しみ深い父となるのです。あなたの人生はあなたが思っているよりも祝福に満ちているのです。恵み深い主を讃美しましょう。主は生きておられます。(佐久間)

 

8月17日(月)

すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」

黙示録14:15

 

まだ9月になっていませんが、もう稲は色づき刈り入れが始まっています。私の住んでいる所の周りには稲がすっかり刈り入れを待つばかりになっています。今日の聖句も刈り入れの話です。これは、主イエス・キリストの再臨の場面です。黙示録14章は特殊な章で、主の再臨前に何が起こるか啓示されています。その最後の警告が終わるといよいよ再臨なのです。しかし、この個所を続けて読めばわかりますが、今日の箇所の「穀物」の刈り入れは、正しい者の報いとしての救いですが、続く「ブドウ」の刈り入れは、不義なる者の裁きが書かれているのです。つまり、再臨は最後の審判で確実に起こるのです。しかも、その時がどんどん近づいていることは明らかです。だから、忠実な信仰をもって自己に信頼せず、神の前に自分をへりくだらせ、聖霊の助けにより真理に従うことによりその魂を清めることをもっと考えるべきなのです。神との交わる時間に気を付けましょう。(佐久間)

 

8月18日(火)

また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。

Ⅰヨハネ3:22

 

さて、あなたは何を神に求めるだろうか。何でも神からいただくことができるというのは、驚くべきことです。ただ、当然ですが条件が付いています。神の命令を守り、神に喜ばれることを行っていることです。「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです」(3:23)。どうでしょうか。これは、キリスト教の基本ですよね。そのことに注意を払う人はどれほどいるのでしょうか。興味深いことに、この世で生きているのですから、いろいろな問題が起こってきます。そのたびに、悩むのが人間です。そして、願い事が出てくるわけです。願い事がききとどけられるのなら何でもする、という気持ちになるのですが、23節のようには考えないものです。ひたすら祈ってお願いするということは誰でもすることです。しかし、「互いに愛し合う」ということを真剣に考える人はそう多くはないのです。なぜなら、好きな人しか愛せないのが人間だからです。それでは、聖書の中でこの手紙の受け手であったクリスチャンたちはどうしていたのでしょうか。この続きに書いてあるのですが、「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです」(3:24)。つまり、聖霊が内住しているということがここでのポイントなのです。そうゆう人だけが、「神の命令を守」ることができるというわけです。ですから、聖霊のことを学ぶ意味があるのです。聖霊が内住して生きているのなら、その人は「神に喜ばれることを行っている」のです。(佐久間) 

 

8月19日(水)

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。

Ⅱペトロ1:3

 

クリスチャンにとって、自分が目指すものは明確であるほうが良いのです。単純にすばらしいクリスチャンになりたいというのでもかまいません。問題は、成長実感がなかなか得られないとか、自分の足りなさを責めたくなることです。いつになったら胸を張れるクリスチャンになれるのだろう、と考えるとむりなような気さえしてきます。こうしたクリスチャンは少なくありません。原因は、今日のような聖句をよく読んでいないということが考えられます。恵みで救われたというのなら、どうして救われた後に「このままでは天国に行けない」

と救われていない人のように思うのでしょう。信仰は、だれでも信じることだとわかっていますが、その信じることの意味をよく理解していないようです。もともと救われる前は罪人であったということは聖書を牧師と学んで理解しているはずです。ですから、自分の考えが否定的であって、信仰には害があるのです。口で肯定的なことを言っていても、内心では「でもそれはちがうだろう」と否定していることがあります。無意識で癖になっているのです。それで、よほどの信仰体験がない限り、誰でも信仰を学ぶ必要があります。訓練と呼んでもおかしくありません。内心まで信じ切る訓練です。口先の耳から聞こえる言葉でごまかされないことです。声とは裏腹に内心は「全くそんなことはありえない」と否定しているかもしれません。ご自分のことなので調べてみたらよいでしょう。それに、動機が欲から出ていると、罪責感があって、願い事をしていても無意識に否定していることだってあるのです。だから、祈りが聞かれないといったことが起こります。そこで、幼子のようなものが天国に入ることを思い出しましょう。神様の御前には単純(純粋)に救われたものとして出ていくことです。そして、「命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」という事実を信じることに集中してみるのです。すでに神の御力で与えられているのに、それが自分の現実になっていないのはおかしいのです。妨げとなっているのは信仰の問題が一番可能性として考えられます。だれでも、等しく与えられているのです。今日の下の句は、瞑想課題です。イエスを知ることがどんなに重要なことか、聖霊がクリスチャンの内に住まわれていることからもわかります。この真理の霊が解き明かしてくださいます。すばらしいことはすでにあなたの内に始まっているのです。どうぞ祝福を受けてください。(佐久間)

 

8月20日(木)

主に従う人の救いは主のもとから来る/災いがふりかかるとき/砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる/主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。

詩編37:39-40

 

神様を信じることは実にすばらしいことです。人には自由意志が保証されているので、信仰については誰からも強要されることはありません。自分の意志で決めることです。私は神様を信じることによって、どれだけ助けられてきたかしれません。この世で生きることは大変で不安なことだらけですが、神様を自分の主と信じて生きるときに、平安をいただくことができるのです。これほどありがたいことはありません。万が一災いがふりかかってきても、主は確実に砦となって鉄壁の守りを与えてくださいます。絶対絶命であったとしても、不思議な方法で逃れさせてくださるのです。その敵が主に逆らう者であれば、なおのこと逃れさせてくださいます。主を信頼しましょう。そして、主を避けどころとしましょう。主の救いはあなたを安全に守ってくださいます。ハレルヤ!(さくま)

 

8月21日(金)

ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

マルコ6:17-20

 

バプテスマのヨハネのようにすばらしい神の人は特別です。預言者とはこのような人であると自信を持って言える人です。彼の使命は、イエス・キリストの登場のために道備えをすることでした。それは、イスラエルの国民に神の御前に悔い改めることを迫ることでした。神に近づきたい人はまず悔い改めが必要であることをここからも学ぶことができます。悔い改めはヨルダン川での洗礼を伴っていました。このような大胆な行為は、当局者の耳にも届くわけで、偵察に人を遣わしました。ヨハネは、そのような者たちを裁きましたから、当然怒りをかいました。しかし、ヨハネが本物の神に遣わされた預言者であったために全国から、そして外国からもヨハネのもとへぞくぞくと人が集まって来たので、大祭司たち当局者も手出しができません。当時の王であったヘロデもヨハネを恐れ、保護し、教えに耳を傾けていたのです。ところが、ヘロデの結婚には問題があり、ヨハネから律法違反であることを指摘されていたのです。ヘロデの妻であったヘロディアはそのことで恨みを持ちました。そして、ヨハネを殺そうと思ったのです。権力は時に恐ろしいものです。自分に都合の悪い人を殺そうとするからです。男と女の違いもこの物語からよくわかると思います。特に女は恨みを持つと恐ろしいということは、男以上なのです。結局、ヘロディアはバプテスマのヨハネを殺してしまうことになります。それも、宴会の座興に乗じてあっさり首をはねたのです。聖なる者を邪悪な者がもっとも卑劣で屈辱的な仕方で殺すということが聖書に記録されています。罪の恐ろしさが描かれているのです。罪人は罪を犯すので罪人なのです。その罪を神は裁かなければなりません。しかし、悔い改めることができるようにチャンスを何度でも与えて、恵みで救おうとされるのです。そこで、罪人は選択することになります。神の御前に罪を告白して許しを請うか自分の罪を認めずに隠そうとするか、どちらかを選択することになります。その結果はやがて明瞭にわかります。神の裁きがくだるからです。その時では遅いのですが・・・。預言者は神の口であり声なのです。罪人はそれに耐えられません。そこで、ヘロディアのように預言者を殺したくなるのです。それは、神の口を殺すということは神を殺すということなのです。そして、イエス・キリストが本当に十字架にかけられて殺されてしまったわけです。しかし、そこには神の深いお考えが隠されていました。罪とは神への純粋な反抗であり、己を神とするものだったのです。その末路は地獄が待っているだけなのに、いまだに罪人はなかなか自らの罪を認めて神に赦しを請うことができないでいます。時がいつまでもあると思っていたら大間違いです。残された時は短いのです。あなたも神に選ばれた神の声であり、福音を伝えるために立てられた神の人なのです。最後まで神に忠実でありましょう。そうすれば、おのずと自分の使命がわかります。ですから自分に与えられた使命に生きましょう。その報いはとても大きいのです。イエス・キリストに付き従った使徒たちのように生きたいですね。(佐久間)

 

8月22日(土)

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

ローマ10:17

 

福音を全世界のすべての人に述べ伝えてから主の再臨があります。そのため、キリスト教徒は、今のように交通機関が十分に整備される以前から世界中いたるとこに出て行って福音を伝えてきました。もうまもなくその働きも終わるでしょう。しかし、時間はまだあります。あなたにもチャレンジがあります。伝道の賜物のあるなしにかかわらず、クリスチャンは主のために奉仕することになっているのです。その自分の役割を理解して主にお仕えすることがどれほど尊いかはやってみなければわかりません。今までの人間を見る目が愚かに思えてくるでしょう。人間を救うと決めている主の決意は固いのです。そこで、日々の生活に主の訓練があります。出来事の中にも、試練や喜びの中にも無駄がありません。聖書を良く読める人は、み言葉を必要な人に聞かせることができます。霊的な賜物をいただいた人は、それを用いることによって普通では考えられないような伝道が可能となるのです。人間関係ができるとその人が抱えている問題や悩みを告白されるチャンスが巡ってきます。その時に、慌てないように準備をしておくのです。難しい事ではありません。今日のみ言葉の通りです。キリストの言葉を用意しておくのです。できれば聖書を一緒に開き、キリストの言葉を読んであげましょう。心の中では主に祈り続けるといいですね。聖霊は、このような時には必ず働いてくださっています。絶対他人には言えないと思っていたことをスラスラと話しだすでしょう。その言葉をよく聞いて、心に寄り添うのです。福音は良い知らせです。ですから、心の苦しみを告白した時に、クリスチャンは良い知らせを告げることができるのです。相手の様子をよく見ながら、祈りに導けるといいですね。イエスの言葉を信じる、ここから始まるのですから、難しい言葉はいらないですね。あなたには意外な力が隠れているはずです。試してみましょう。主に祈り、聖書を読んで、準備を整えておきましょう。自分が一番必要だったみ言葉や、助けになったみ言葉、大好きなみ言葉、これが他の人にも必要であることを覚えてください。主の不思議を経験すると、信じることが容易になります。つまり、信仰が飛躍的に大きく成長するのです。伝道以外には、このようなことはあまり起こらないのです。自分の信仰が弱ってきたら、伝道するのです。たちまち目が覚めます。主に伝道の機会が与えられるようにお祈りしましょう。大きな喜びはあなたのものなのです。(佐久間)

 

8月23日(日)

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

ルカ19:10

 

「人の子」はイエスが自分の事を指して使っていた称号です。つまり、イエス・キリストご自身が捜しているのです。それは、「失われたもの」をです。「失われたもの」とは、神を信じていないと言い、神に背を向けて生きている人たちのことです。罪人と言われることもあります。私も以前は罪人でしたが救われました。何か良いことをしたというのでもなく、み言葉の通りにイエスが捜し出してくださったのです。イエスが地上に来られた意味は、今日の聖句の通りです。ですから、あなたを探し出し、救うということが起こるのです。もし、あなたがまだクリスチャンでないのなら、イエスがきっと捜しています。そして、必ず見つけるでしょう。その時に、救いの御手を払いのけないでください。きっと、救われて楽になります。その救いは完全な救いです。何一つ強制されません。もっと、力を抜いて気楽に生きることができるようになります。古い自分が強く出ているのなら、それをどうにかしなければなりません。そのために、いろいろな用意されています。それに、選択も自由です。でも、イエスに感謝することができれば、あなたはイエスに従順になると思います。それがどれほどの恵みとなるかは、やってみればわかります。本当に、考え方も何もかも変えることになります。もちろん、良くなります。信仰で生きることを覚えて行きます。とにかく、イエスは、聖書に書かれている通りに働かれるのです。それが、ありがたくて、ありがたくてしょうがないほど、あなたの恵みとなるのです。毎日喜んで、感謝して、なんでも神に話して、すばらしい人生を生きていくのです。(佐久間)

 

8月24日(月)

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」・・・・イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

ヨハネ3:3,5

 

この聖書個所はニコデモとイエスの会話の中で最も重要なことを明らかにしている箇所です。上の句が3節で下の句が5節です。どちらも神の国のことが出きますが3節が「神の国を見る」とあり、5節では「神の国に入る」と動詞が異なっています。注意しないで読み飛ばしてしまうと同じ事を言い換えていると思ってしまうかもしれません。しかし、日本語で「見る」と「入る」は決して同じ意味ではありません。私たちが死んだ後に行きたいのは天国で、そのことを「天国に入る」ということができます。しかし、「天国を見る」だけならば、決して天国に入れないことになります。だから、ここは気を付けて意味を解釈した方がよいのです。クリスチャンは実は少なくとも二種類存在します。その二種類を分けるのが、ここに出てきた「見る」と「入る」なのです。福音を聞き、信じて水でバプテスマを受けると、今まで知らなかった「神の国を見る」ことになります。神を信じて祈り、み言葉を聞き、信仰を表すことで神の存在や神の愛に触れ、クリスチャンらしく生きようとします。一方、5節のように、さらに聖霊のバプテスマを受けると霊的覚醒が起こり直接神の支配に入ることができるのです。聖書では神の国は神の支配と言い換えることができます。それは、真理の御霊によって神の言葉が霊となり命となってその信仰者に働くようになるダイナミックな経験が伴います。人間の知性で考える神と聖霊の働きによって直接知る神とでは明らかな違いがあるのです。前者は人間の知識であり、後者は霊的な真の知識です。ヨハネの福音書にはそのような視点での記述が多くあります。こうした聖書の証言があるのですから、聖書を良く学び、自分の信仰の過程を点検してみる必要があります。信仰を持って聖霊の助けと導きをいただき、真理の探究者になることは楽しいことです。イエスは自分を捨てて従えとおっしゃったのですから、この世のことに忙殺されて疲れるだけの人生を歩むことは御心にかなっているか祈って吟味する必要があります。世のため人のために誠実に良い仕事をすることは正しいことですが、それ以上に神に仕えているかどうかを気にしなければなりません。聖霊が内住して共にいるのなら、相談してみることです。聖霊のバプテスマは霊的覚醒なので、このようなことができるようになるでしょう。自己を高めるためにこのようにするのは危険ですが、「自分を捨てて」と言われた主のみ言葉の通りにしていれば、聖霊の恵みに満たされてもへりくだって正しいことを行うはずですし安全です。神の国に入るためには、聖書に書かれた通りにするべきです。きっと、大いなる祝福が待っています。(佐久間)

 

8月25日(火)

「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と 

主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い 

国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。

詩編107:1-3

 

 

神様のお導きには驚かされることがある。先週の礼拝で忘れ物をした。それはキーボードで決して小さなものではない。なぜ、そんな大きな物を会場に忘れてきたのかと不思議に思ったが、今日、千葉から東京の会場まで忘れ物を取りに行って意味がわかった。せっかく東京まで行ったので、ついでに清澄白河という町に寄ることにした。この町は若い芸儒家が集まり、美術館があり、おしゃれなお店が増えてきたと最近話題になっている。テレビで清澄白河にできた新しいジェラードの店を取り上げていたので、そこに行こうとグーグルマップを開き、店を目指したのだがどうゆうわけか初めて迷ってしまい、道をぐるりと一周して戻って来た。それで、iPfoneを片手に道を探していると通りがかりの人から声をかけられた。それが、もう何年も会っていなかった大切な教会員の友達だった。普通だったら、絶対行かない所へ行き、まるで彼女が通りかかるまでの微調整のように道に迷い(ナビを見ているのに)ちょうどピッタリのタイミングで彼女に出会ったのだ。その上、目当てのジェラードの店は休みで、もう一つの深川江戸資料館も休みだったのだから、ただ彼女に会うためにわざわざそこにいったということになる。これは、もう神様としか言いようがない。そして、彼女に会ってよかったのだ。とても大切な話が聞けたのだから。そして、彼女の信仰のことも、新しい連絡先も知ることができた。神様は実にクリスチャンの一人一人のことをちゃんと心にかけていてくださり、その人生に驚くほどのタイミングで関わってくださることにあらためて驚かされた。主はとても忍耐強く、寛容に、そして何よりも頼りがいのある愛情豊かな天のお父さんとして私たちを助けてくださるのだ。この広い世界から、あなたのことを捜し出し、驚くほど恵みも愛も惜しむことなく注ぎ続けておられる。どんなに辛く大変な事が起こっても、ひどい病に伏したとしても、強い敵に脅かされても、どんなことがあっても、あなたの神様は絶対に救ってくださる。だから、主をほめたたえよう。「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と。あなたはすでに贖われているのだから、信仰をもって主をほめたたえよう。(サクマ)

 

8月26日(水)

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

ヨハネ4:23-24

 

今日は、このみ言葉から考えてみましょう。霊は聖霊を意味し、真理はイエス・キリストを意味するとしたら、どうなるでしょうか。イエス・キリストを掲げて礼拝する人たちはたくさんいます。しかし、聖霊をも前面に出して礼拝するということは意外としていないかもしれません。もちろん、理屈では理解しているので、霊と真理をもって父なる神を礼拝するという言い方は一般的なことですが、ここで意図していることはそれ以上のことです。人間は罪人であると聖書が示す通りの者なのです。どんなにすばらしく、良い人であってもです。そこに罪の恐ろしさがあるし、罪に対する不可能があります。パウロは罪の法則という強い言葉で、人間の単なる努力ではいかんともしがたいことを指摘しています。そこで、イエス・キリストの罪の贖いが救いには必要不可欠なことなのです。人間ができることは信じることです。ちゃんと信じるということも驚くほど難しいものですが、信仰の無い人間にイエスの信仰が分け与えられて、ようやく救いに必要な信仰が満たされるのです。だから、イエス・キリストをもって礼拝することが必要とされています。イエスはご自身の事を真理と言われました。だから、イエスに自分自身を照らして一つになるようにするのですが人間の力では到底かなわないことです。ところが、聖霊は人間の内に入り住むことができるのです。よく、あなたは聖霊の宮です、と聞くことがあると思うのですが、宮は建物で意思を持って自由に動き回ることができません。それと同じように、クリスチャンも聖霊が自分の意志となり、行動を決める主体となることが必要です。今までは私がそうしていましたが、聖霊が内住したなら主導権は聖霊に譲らなければなりません。そうすれば、聖霊が内側からその人をイエスのように新しく作り変えて行けます。ちょうどイエスの内にその人がとどまるように一つとなるのです。イエスは父の内にとどまり、一つとなります。そのようにしてその人は父なる神と一つとなるのです。それは、究極的に神を愛し、イエスを愛し、自分を愛することです。すべてが神に戻って行くような愛の流れが礼拝となります。ですから、言葉だけでは意味がないのです。自分自身の信仰を真剣に見直してみましょう。答えはすべて聖書に書かれています。解き明かしは真理の霊である聖霊がしてくださいます。あとは、聖霊を求めて祈るだけです。神は霊であるということは心にとめておきましょう。(佐久間)

 

8月27日(木)

人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。

ヨハネ6:12-13

 

フィリッピンにいた頃に、シランという町に買い物に行っていました。そこに、その場で揚げたてのドーナツが1個1ペソで売っていました。1ペソは当時のレートで4円でした。4円のドーナツを食べていたのですが、それが美味しかったのです。日本に帰ってくると、4円のドーナツなんてありえないと驚くのですが、世界にはいろいろな暮らしがあるのです。イエス様の当時にもパンは売っていました。今日の聖句の箇所では、男だけでも5,000人にいた群衆にパンを食べさせた話です。もとは、子供の持っていた弁当でした。それを探してきた弟子がいたのです。あなたなら大勢の人に食事を与えなければならない時に、わずかなパンをイエス様に持っていくでしょか。こんな少しでは、焼け石に水だとばかりに、あきらめていたかもしれませんね。イエス様はそのパンを裂いて皆に配らせたのです。一人で食べれば、一人分にしか過ぎませんでしたが、イエス様にパンを献げて分けていただければ、増えていったのです。ここから、人に分け与えると増えていくことを覚えたいと思います。人間の常識ではなく、信仰の世界の話ですね。ここでは、全員が5つのパンを食べることができたのですね。たぶん一万人を超える人がそこにいたと思います。さて、パンを象徴的にみ言葉と解釈することがあります。そうであれば、自分を満足させるみ言葉を独り占めしないで他の人にも分かち合うことが肝心です。それは、驚くほど増えていくはずです。人々を満腹させるだけでなく、まだ余るのです。尽きることのない恵みなのですね。福音は、このように飢え乾く者たちを満たし続けることができるのです。肉の糧は毎日食べていても、霊の糧は飢えている人たちが周りにいるはずです。その人たちに霊のパンを分け与えてあげたいですね。(さくま)

 

8月28日(金)

また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

マルコ4:24-25

 

世の中には実にいろいろな人がいるものです。あなたはどのような人でしょうか。親切ですか。いつも喜んでいる人ですか。悲観的な考えに縛られていますか。それとも誰かを批判することが常となっていますか。自分から出てくるものは自分が持っているものだけなので、自分をより良くしておく必要があります。聖書を全部読みました、という人がいました。だから聖書を知っているというわけです。それで、聖書はもう読まなくても大丈夫と思っているのならやがてその知識は頭から消え去ってしまうでしょう。聖書を原語で読みたいと思った人は、ギリシャ語文法やヘブル語文法を学ぶでしょう。それは、なかなか難しいことでかなりの努力を要します。牧師を志す神学生は、この難行苦行を避けることができません。しかし、試験を受けて単位を取れれば、それでようやく解放されたと思う人は、みごとに今までの努力が時間の経過と共に消えていくのです。数少ない努力家は、文法を学び終えると原語で聖書を読み始めます。そこから得られる喜びは、エベレストに登頂できた人が得られる喜びと同じようなものです。人は生まれた時に授かった才能があります。それに気づき才能を生かす人もいますが、才能を眠らせたままの人もいます。才能を開花させる人は、すばらしい高みに昇ることができるのです。運動する人は多いのですが、筋肉も鍛えれば大きく強くなります。しかし、同じ人がなまけて何もしなくなれば筋肉は消えていき脂肪になるのです。私たちは、自分の人生を自分の秤で量ります。そして、その通りの結果が与えられるのです。あなたは自分を過少評価していませんか。今日のみ言葉をいろいろな言葉で当てはめてみるときっとわかりやすいでしょう。初めの節は、信仰とか礼拝、人間関係など。後半の節は、知識、努力、訓練、責任、愛など。人間は年齢と共に刻々と変わります。高齢者となると、自分の人生をどう生きてきたか結果が見えてきます。人生の勝利者として、キリストの徳の高さに近づけたのか、そうではなく持っていたものまで取り上げられてしまったのか、すべての結果は必ず現れます、そしてその結果は今の信仰者の生き方にかかっているのです。今からでも決して遅くありません。クリスチャンのすばらしい人生は聖書から学ぶことができます。だから、あなたも最高のクリスチャンになれます。主に祈って道を開いてください。(佐久間)

 

8月29日(土)

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。

Ⅱコリント6:14-16

 

ある教会では、信者と未信者の結婚は認めていません。その根拠に引用されるのが今日の聖書個所です。しかし、今日は別のことを考えてみます。最近、信仰者でありながらこの世に妥協して信仰の道がわからなくなっている人に立て続けにかかわりました。それぞれ事情は違いますが、自分が受けた神からの恵みを味わったはずなのに、自分の都合が優先していました。この世でも成功し、自分のやりたいように生きたいのです。できれば、信仰とこの世の野望を両立させたいのでしょう。しかし、それはできないのです。今は、深刻な時代に生きています。クリスチャンは聖書を読むことが自由にできますから、重要な終末預言を知ることができるのです。日本もアメリカも古代のローマのようにバビロンです。神を恐れず、自分の力に頼り、神ではないものを拝んでいます。神を信頼することなく、自分の力を過信している状態をバビロンというのです。そのバビロンは必ず倒れることが預言されています。今は、悔い改めて主のもとに立ち返る最後のチャンスなのです。主に従順になり、自分を捨てて従う者だけが真理の言葉で整えられるのです。しかし、この世に執着したり、この世に妥協すれば、結果は悪いのです。残念なのは、聖書の話も、説明も聞いても理解できないことです。自分の考えや思いが優先されているので、聞けないようです。神に従順な者はさらに聖なる者へと整えられ、主に従順にならない者は、厳しい状況に自ら進んでいるのです。人間は自分の信じたいように信じてしまいやすいものです。主が自分を捨てて従えとおっしゃっているのは厳しい言葉ですが、実はそれこそが幸いの道です。二頭の牛や馬にくびきをかければ、同じ道を進むしかないのです。自分が聖霊の宮であることが自覚できると良いのですが。(佐久間)

 

8月30日(日)

人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

ガラテヤ2:16

 

パウロは、当時のユダヤ人よりも悲観的に考えていました。ユダヤ人は、悔い改めれば赦され律法を守って正しい生活を送れると考えていた。しかし、パウロはすべての人は罪にとらえられ隷属していると考えていた。だから、悔い改めと赦しでは十分ではなかった。罪からの解放こそが必要で、人間を支配するものからの解放を考えていた。罪とは何かを知ることも律法ではなく、キリストによるのだ。それは罪がキリストに反することのすべてであるからだ。それ故に、キリストだけが罪の解決を実現できる。キリストの力のみが人を罪から解放することができるのだ。パウロは、自らが律法を守って正しい生活を送っていたが、罪からの自由はなかった。彼が律法に熱心だったのでキリストの教会を迫害したのだ。キリストに反することが罪である、という意味がここでもわかるだろう。パウロは主の憐れみで実際に経験することで理解できたのだ。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」と。まず、イエス・キリストを信じて罪からの解放を得るところから始めるのだ。クリスチャンとなった人は、このところは理解しクリアできたはずだ。しかし、人にはまだ解放されなければならないことがある。罪からの解放と関係がある。それが何であるか、考えてほしい。聖書を調べるのもよい。確実に自分の信仰に益となるからだ。罪とセットで出てくるものは何か?よく考えてみよう。(サクマ)

 

8月31日(月)

神に従う人はその道を守り/手の清い人は更に勇気をもて。

ヨブ記17:9

 

終末の様相が深まってくると、ふるいの時があると言われています。神様を本当に信じる人と、そうでない人がはっきり分かれてきます。またクリスチャンの中でこそふるいが始まることが預言されています。私たちは自分の弱さを知っています。完ぺきとは言いがたい自分の姿もよく知っているのです。問題は、それよりも神様への思いです。今日の聖句では、「神に従う人」とあり、主への従順が問われています。この従順こそがクリスチャンに求められているものです。神様を第一にするか、しないか、日々試されています。神様に従うと決めてそのように生きている人は、いろいろな誘惑や妨害があることを知っているでしょう。だから、簡単ではないと思う時もあるでしょう。それでも、その道を守ろうとします。信仰に従って正しく生きようとすることは良い事です。そして、生活全般が清くなるように願い、できるだけの注意を払って信仰を守ろうとするはずです。初心者の人たちはそれがとても難しいことに驚きます。何度も失敗しながら、あきらめるか悟るかのどちらかになります。それでも、教会や牧師に励まされ聖書を学び、祈り、信仰を深めていけるのです。そうするうちに、聖霊の助けを受け信仰は確実に成長して行きます。そこで、前のようにこの世にさらされても迷うことがなくなります。気づけば神様の御前に歩むようになっているのです。これらは主のお恵みです。そこで、さらに勇気を出すようにとのみ言葉が与えられています。信仰生活で、勇気が必要であることは意外ではありません。あなたも勇気を出す必要があります。主がともにいてくださいますから、心配せずに勇気を出してください。あなたが賜ったのは臆病の霊ではありません。勝利から勝利へと進む勇気ある霊があなたに宿っているのです。万軍の主があなたの味方なのですから、勇気を出してください。(さくま)