2015年9月

9月1日(火)

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。

Ⅰテモテ2:4-6

 

人間のことを知れば知るほど何ともいえない気持ちになる。いつの時代にどこに生まれるか、誰の子供として生まれるか、こんなことは自分では選ぶこともできない。今も毎日飢えと戦っている人たちがいる一方で、毎日グルメ番組をテレビや雑誌で取り上げ、膨大な残飯が問題となり、ダイエットのことが大人の大きな関心事になっている国もある。世界で最も豊かな国と言われる国に生まれてきても、極貧の生活を余儀なくされている人もいる。しかし、最も心を痛めることは、人の心が踏みにじられることだ。悲惨なことがやむことがない。一見幸せそうな人たちも、心の中は地獄であることもある。テレビは、残酷なニュースを毎日詳細に語るし、暗い気持ちになることが多すぎる。クリスチャンは一体どうすればいいのだろうか。今日のみ言葉は、一つの光を投げかけている。このように罪深く、悲しみが尽きない世界でも、希望はまだ残されている。人間ではなく神が人間をあきらめていない。まだ、救おうとしてくださっている。神は人間の理解をはるかにこえて、命を犠牲にしてまで全ての人を救おうとしている。正しいことは何かということは人にはわかるはずだが、それでもどうしようもないことが起こるのだ。しかも、誰にでも起こる可能性がある。人の心を思いやって人を慈しむ心で生きている人もいる。でも、それが相手に伝わらないことだってある。これほど、罪の恐ろしい結果がはっきり表れて、もはやサタンの言葉がいかに偽りに満ちて悪意でしかないと全宇宙は納得しているだろう。その中で、神の愛は光っている。イエス・キリストは、あなたを贖い、救い、犠牲となられた。あなたは知らなかったから恩知らずに生きていたかもしれないが、良い知らせを誰かが伝えたので、神に愛されていることを知ったはずだ。そして、どうやって罪と死から救い出してくださるか知ったのではないか。手には一冊の聖書が置かれ、イエスは約束を果たして天の父に嘆願して約束の聖霊が送られてきたはずだ。この聖霊が不可能を可能としてくださる。あなたは新しく創造されるのだ。あなたにとって、重要なことはこの世のことではない。それは、神の愛に応えることだ。油が絶えないように、注ぎ続けていただけるように祈り続ける必要がある。油である聖霊は、あなたに真理を教え、どうすればよいのか個人的に教えてくださる。あなたの意志が尊ばれ、その中でこれほどの救いが完結していくのだ。主の御名をほめたたえよ。(サクマ)

 

9月2日(水)

「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

ルカ5:4

 

イエス様は楽しいお方です。一晩中漁をしても何も取れなかったシモンに漁師の常識では絶対獲れるはずがないのに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたのです。私たちも常識にしばられているとイエス様のことを忘れてしまうかもしれません。あなたが何かやってもうまくいかずに成果があがらないとしても、がっかりしないでください。あなたは主イエス様の弟子です。頼もしい主の御顔を見上げていれば、輝く御顔を向けて「さあ、沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたれるでしょう。あなたは、主の言われた通りにするでしょうか。それとも自分の常識にしばられて「主よお言葉ですができません」と言うでしょうか。もし、あなたが常識を打ち破らないのなら何も起こらないでしょう。しかし、あなたは主の命令を待っていればよいのです。あなたが主に期待すると、主もその信仰に応えてくださるはずです。普通ならば漁師が仕事を終えて帰港したところにイエス様がもう一度沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさいと言われたら、どうするか考えてしまうでしょう。「そんなことをしても無駄だ」と否定的になれば、もう何も起こることはありません。せっかく、イエス様を知ったのですから、「主のおっしゃる通りにいたします」とチャレンジしてみましょう。あなたは、主の言う通りにした時にすでに信仰の道を踏み出しているのです。神様が支配する世界に入れば、大いなる御業を見ることができます。何かを迷っているのなら、主に祈りましょう。何とおっしゃるか、ひざまずいて聞くことです。シモンは、イエス様のお言葉だったので、常識を打ち破り大漁を経験しました。あなたも、信仰を表してください。常識を超えた大漁を経験するでしょう。(さくま)

 

9月3日(木)

わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

ヨハネ6:39-40

 

イエス様がご自分の使命についてお語りになった箇所です。イエス様が2000年前にイスラエルに現われ、その公生涯に触れて直接イエス様を見た人たちが大勢います。その中でイエス様を信じた人たちが永遠の命を得ることはこのみ言葉で明らかです。そして、今日はイエス様は天の父の御座の右の座におつきになっていますが、このみ言葉が聖書に書かれたので、今日でも有効となります。では、現代の人々はどうやってイエス様を見ていると思いますか。それは、クリスチャンを通して見ているのです。確かに霊的にはイエス様はクリスチャンに内住するのですから、その人を通りして現れることは可能なはずです。それに、私たちはイエス様の弟子でもあるのです。わが師に学び、倣うのは弟子の常です。聖書もイエスに似てくるように聖霊も働き、信仰によって義となるように導かれ、イエス様の徳の高さに届くように整えられることが示されています。イエス様に似たものになる最も良い方法は、イエス様を愛することです。大好きになると、なんでも真似したくなるものです。イエス様との生きた関係を作り、深めていけるように信仰を考えてみましょう。あなたを通してイエス様を発見し出会う人がきっと出てきます。その人がイエス様を信じるならば、その人と共に天国の門をくぐることになるでしょう。もし、眠りについたとしても、イエス様が必ず復活させてくださるので心配することは何もありません。聖書に書かれたことは必ず実現します。ですから、復活を約束された者として希望をもって今日も元気に過ごしましょう。(さくま)

 

9月4日(金)

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

マタイ13:44

 

クリスチャンになると恵みが約束されています。しかし、そのことを信ることが必要なのです。何か大変なことをするのではなく、恵みを信じて受け取ることが肝心なのです。ひどい事ばかりが続けば誰でも嫌になり、自暴自棄になるものです。この世は不公平に満ちていると文句を言うこともできますが、何の益にもなりません。それよりも、聖書をよく読んで研究してみるのです。聖書は宝の埋まっている畑のようなものです。もし、畑に宝が埋まっているとわかれば掘り返すのではないですか。その作業が大変だからやめようとは考えないのです。宝を発見することを考えて興奮して穴を掘ることが重労働だということも忘れるのです。そのように人間は考えて行動するのに、クリスチャンですら聖書に宝があると思っていないかもしれません。一度読んだ本を本棚にしまい込んでいるように、聖書は一度読んだからもういいかな、と聖書に手が伸びなくなっていないでしょうか。確かに聖書には恵みの約束が書いてあったような気もするけど、あの膨大な文章の中からそれを見つけるのは大変すぎるし、見つけても何も起こらないかもしれない。このように考えているか、何ももう考えていないなら、誰かが宝を掘り出した話を聞いてうらやましく思うだけでしょう。もったいない話です。もう畑は手にしているのに、宝を見つけることを怠っているとは。皆さんはどうでしょう。私は牧師インターンになった時、主任牧師が、「私は聖書に祝福や恵みの約束がどれだけ書いてあるのか、調べてみたんだ・・・」という話をワクワクして聞いたものです。それで、想像以上に聖書には祝福が約束としてたくさん書かれていることを知ったのです。それを一つ一つ信じて自分のものにしてみたいと思いませんか。あなたは、恵まれた人なのです。すでに聖書をいつでも読む準備ができているからです。しかも、あなたは、宝探しのチャレンジを受けているのです。どうか、祝福でいっぱいになったあなたを見せてください。さあ、スコップを手にして、宝探しの始まりです。(さくま) 

 

9月5日(土)

正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。

アモス5:24

 

この世界は失望することもあるけれど、まだまだ良い人たちがたくさんいます。普通の人たちは、犯罪を犯すこともなく一生懸命に生きているのです。その中でクリスチャンはただの良い人では物足りないのです。預言者は、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」と命じています。この世の中で正義を貫こうとするには自己犠牲が必要になります。人間の中には損をすることがとにかく嫌いな人たちがいます。その人たちは、正義を洪水のように・・・と言われると困るかもしれません。一年に一二度、良いことをして自己満足しているようでは、このみ言葉には達することができません。これでは一方的に人のために尽くしているようで無理だし、大変すぎると思いますか。信仰者はこう考えます。人の救いのために奉仕していることは、楽しいし、満足感がある。しかし、それは、うまくいっている間だけのことです。相手が自分の思い通りにならないと、また予想外の悪い反応が返ってくると、途端に重荷に感じてくるのです。だから、今日のみ言葉を実行しなければなりません。常識の範疇で中途半端にちょっと伝道や奉仕をするのではなく、常識を超えた洪水や大河のように、しかも尽きることなく流れさせるようにしなさいと書いてあるのです。もちろん、自分だけの力でこんなことをすればたちどころに燃え尽きてしまいます。復活のキリストに出会った後、ペンテコステの聖霊降下を受けてすっかり変えられた弟子たちのように、我々は変えられる必要があります。何のために聖霊に満たされたいのかと問われた時に、自分の満足だけのためとしか答えられないのなら、不十分なのです。人間が大きな喜びや生き生きとした満足を感じるのは、正義を貫いた時や惜しまず恵みを与え続けた時です。自分にだけ仕えていては満足が得られないのです。この世界は、あなたしだいで良くも悪くもなります。なにしろあなたは神の子なのですから。すばらしいことが起こりますように。(佐久間)

 

9月7日(月)

イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

ルカ22:46

 

これは、イエスが十字架を目前とした緊迫の場面です。オリーブ山で祈った時に弟子にも祈るように命じたのですが悲しみと疲れで眠りに陥ってしまいました。その時に主がかけられた言葉が今日のみ言葉です。イエスがどのように祈っていたのかも興味深いですが、イエスが愛した弟子たちが主の願いを聞いて離れた場所で共に祈るという重要なことができなかったのです。イエスは、この弟子たちに天に帰ったあとのことを託すことに決めていたのです。その弟子たちがこんなにも情けなく、弱い者だったのです。私たちも、同じです。すぐに眠ってしまうような者だと思います。それでも主は、「誘惑に誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」とおっしゃられるのです。祈ることは誰でもできることですが、その祈りができなくなることだって起こるのです。誘惑があるからです。これを防ぐ方法が起きて祈ることなのですね。信仰が停滞したり、聖書が読めなくなったり、祈ることを忘れたり、私たちはそのようにして眠ってしまうのですね。そうならないように、信仰を奮起したいものです。弟子たちは主の十字架の意味をこの時にはまだ十分理解できていませんでした。しかし、この弟子たちもペンテコステの日に聖霊が降ってきてからは、すっかり変わることができました。私たちも聖霊の恵みを受けて、起きて祈る者となりましょう。主のお恵みが今日もありますように。(佐久間)

 

9月8日(火)

主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし 主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。

詩編145:18-21

 

神様を信じてから40年以上の月日が流れましたが、主の慈しみは変わることなく、愛は深く真実です。主が生きて働かれることは信仰者にとってありがたいことです。その恵みは限りなく、その御計画は変わることなく聖書に書かれた通りです。この世で人間の弱さからなぜ私ばかりが苦労するのだろうと嘆くこともあるかもしれませんが、それすら喜びに変え、驚く御業を見せてくださいます。もし、この世界だけが現実で天国はないのだとしたら、私たちはずいぶん間抜けな者と笑われてもしかたがありません。しかし、私たちの信仰はいつでもちゃんと報われていますから、神様は現実に生きて働くお方なのです。その神様が聖書という契約書に永遠の命の保証と救われて天国に行くことが書いてあるのです。ただ、悔い改めてイエス様を信じたからこそ得られた真の幸いです。人生を振り返って見る時イエス様を信じて歩んできた道のりは感謝しかありません。主を愛するという喜びが無上のものであることを知りました。主を讃美することがこれほど大きな喜びであるとは驚きです。主のお守りは徹底しているので平安を得ることができます。私たちの望みもかなえてくだるので、不満はありません。この救いにすべての人があずかることができますように。(さくま)

 

9月9日(水)

くじは膝の上に投げるが/ふさわしい定めはすべて主から与えられる。

箴言16:33

 

旧約聖書の中にさいを投げて神の意志を求めることは出てきます。しかし、ここに出てくることはそれとは関係ないようです。戦利品や略奪物を分ける時に使っていたものがわかりやすいですが、今でいえば、占いをするようなことでしょうか。占いが好きなのは世界共通のことのようです。日本でも本屋には占いを扱った本が一角を占めていますから、売れているということでしょう。高校生の時に、文化祭でお祭りの出店のようなことをやったことがありました。焼きトウモロコシが一番儲かりましたが、元手がほとんどかからなかったのに儲かったものがありました。それが「おみくじ」でした。生徒が適当なもっともらいしいことを考えて紙に書いたものを折りたたんで並べておくだけですが、そんなものでも大勢の人が買っていくことに驚きました。高校生たちは遊びのつもりでいましたが、買った人はどう思ったのでしょうか。また、神様の御心を求めてくじをひいた人もいました。大学受験で入学する大学をくじで選らんだのです。三校の名前をそれぞれ一枚毎に紙に書き、祈ってからそれを引いて、三度続けて同じ学校名が出たら、それが神の御心であるとしたのです。そして、その通り三度連続で出た大学に入学したそうです。このようなことはお勧めできませんが人間はこのように自分で決められないとくじに頼ったりする傾向があります。しかし、「ふさわしい定めはすべて主から与えられる」と聖書は語ります。そのことがわかれば、いたずらに迷うこともないし、どうすればよいかわからなくなった時でも祈ってゆだねることができます。正しく誠実に生きれば、その人の人生は祝福されます。この世の基準とは異なることもありますが、神の祝福を受け続ける人生は信仰者の特権です。あなたは神様の定めた道を感謝して歩むことができます。良い人生を歩むように神はすでに定めていてくださいます。将来を心配するのではなく、主がちゃんと良いことを定めていてくださることを信頼して楽しみにしていましょう。(さくま)

 

9月10日(木)

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

Ⅱコリント2:14

 

皆さんは行進をしたことがありますか。スポーツで金メダルをとったり、優勝すると祝賀パレードというのがありますね。それは誇らしいものです。沿道にいる大勢の人から盛大に祝福を受ける栄光に満ちたものです。聖書にも「キリストの勝利の行進」という表現が出てきます。この晴れがましい勝利の行進に連なっているのがあなたです。キリストの勝利の行進は一時のものではありません。あなたがこの世界で信仰者として生きている限り続くものです。ですからあなたは胸を張って堂々と笑顔で日々キリストの行進に参加するのです。あなたはキリストにある勝利者としてどこにでも出て行きます。この聖句には、「わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」とある通りに、あなたは人々が気が付く存在です。あなたのことを良い香りと思うのです。ですからあなたはもう普通の人と同じではありません。この世は多くの知識で混乱していますが、人に必要な真の知識はキリストだけです。なぜなら、人が必要な真の知識がキリストだからです。この世界でどのような境遇にあろうと、罪に苦しみあえいでいても、病気の苦痛から癒されることを願っている人にとっても、本当に必要な知識がキリストなのです。それは、多くの人が考えてもみなかった隠された知識です。本心に立ち返って求める人だけが知ることのできる知識なのです。それに気づかせるためにあなたを良き香りとしたのです。文字ではなく、生きた香りです。さて、どんなすてきなことが起こるでしょうか。楽しみですね。(さくま)

 

9月11日(金)

主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

Ⅰテサロニケ5:10

 

あるテレビ番組で、ご主人が奥さんに電話して、「わたしのことをどう思っているか?」と聞かせて、「愛している」と言うかどうか確かめてみよう、という実験をやっていました。さて、わたしたちは神様に電話することができたなら、「わたしのことをどう思っているか?」と聞くでしょうか?もし、聞いたなら神様はなんと答えてくださると思いますか。「もちろん、愛している」というに決まっている、と答えるでしょうか。「う~ん、わからない」と答える人はいないでしょうか。もっと深刻なのは、「愛している」とは言わないだろう、だってわたしは・・・・・だから」と答える人でしょう。今日の聖句をよく考えてみてください。すごい言葉ですよね。圧倒されてしまいます。これほど強烈に愛を訴えている言葉は知りません。あなたは死ぬほど愛されているということです。主が十字架で死なれた本当の理由を、あなたは理解しましたか。では、あなたは「目覚めていても眠っていても、主と共に生きるように」なりましたか。あなたは、主を横に置いて自分のことばかり考えていませんか。このみ言葉は真理なので、あなたはイエス様を信じて救われた時から、「主と共に生きるようにな」ったのです。だから、この世で困ることがあっても、大丈夫なのです。孤独だと思う必要はなくなったのです。あなたが受けた救いは、漠然としたあるかないかもわからないような頼りない救いではありません。信仰によって義となる、と教わったはずです。信じたら、信じたとおりになる、ということです。主に愛されるという意味は、わかりましたか。主の思いはあなたに対して真実です。熱烈に主に愛されているのですから、あなたも「愛している」と伝える必要がありますね。(さくま)

 

9月12日(土)

この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

詩編34:6-7

 

この世界で生きることは決してたやすいことではありません。問題は複数の人間が一緒にいると起こってきます。人は性格の違いや人格の違いがなかなか理解できません。どちらかと言えば主観でいつも見ているのです。だから、自分だったらしないことをしたりするとイラついてきたりします。ある教会で教会の活動資金を集めるためにブドウジュースを作って売ることになりました。そこで家庭主婦たちが一同に集まり、ブドウジュース作りが始まりました、するとすぐに緊張感が高まってきました。きつい言葉もポンポン出てきます。他人のやり方が気に入らないと、わざわざやり直しているのです。ビンのふき方一つでも気に入らないと見過ごしにできないのです。決して誰も妥協しないのですから大変です。家庭の主婦恐るべし、と震え上がりました。このように、どんなに立派な人が集まってもそこに社会ができると悩みが起こるのです。それが神をも恐れぬ者たちの集まりであれば、ひどいことも起こります。今でも、オレオレ詐欺のような、善良なお年寄りをだまして老後の大切なお金を盗むような人たちが後をたちません。ゆるせないのは孫や子供を心配する心に付け込んでだます手口です。良い社会は年を取っても安心して生きていける社会です。でも、この世界には罪の問題を解決する術がありません。罪の問題は深刻なのです。クリスチャンになってもまだ続く問題です。そのために、敵が現われて時に苦しめられることも起こりうるのです。しかし、自分を捨てて主に従う人には徹底的な主の守りがあります。何しろ、天使の軍勢があなたの回りに陣を張り、あなた助け出してくださるのです。そのような保護があるのですから、主に信頼して生きることを選びましょう。(佐久間)

 

9月14日(月)

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。

ルカ18:35-38

 

これは盲人に奇跡が起こる話です。彼は、群衆が騒いで通って行くことに気が付き、その理由を聞きました。彼は目が見えないのですから当然ですね。すると、どんな病でも癒すことのできる神の聖者と噂のナザレのイエスが自分のそばをお通りになっていることがわかったのです。次の瞬間、彼は叫んでいました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。周りの人たちが叫んでいる盲人をとめようとしましたがますます大声を上げるのです。その結果はこの先をご自分でお読みになることをお勧めいたします。今日、考えてみたいことは、おびただしい数の病人が癒されたのに、この取るに足りない盲人の癒しが聖書にのっていることです。つまり、大勢の人にとって意味の深い教訓があるということです。私たちのことを振り返ってみても、まだ罪人出会った時には霊的な盲人であったといえます。この世の多くの人たちと同じく神様がいるのかどうかもよくわかりませんでした。せいぜいが困った時の神頼み程度のことでした。神様が教えたいことは、この盲人のようにイエス様が来られたと知ったら救っていただけるようにすぐに叫び出せということです。つまり、福音を聞いたら躊躇せずに「イエス様、私を憐れんでください」と具体的に助けをいただくまで叫ぶことなのです。だから、福音を聞いて「いい話でした」と去っていくようなことではいけないのです。しかし、神様はこの方法を通して宣教することにされたのです。皆さんのよかったことは、すぐにイエス様に信仰の告白をしたことです。祈って、ご自分のことをイエス様に聞いていただいたのではないでしょうか。そこから、奇跡が始まったのです。上手に未信者に話して伝道しようと頑張らなくてもよいのです。ただ、イエス様があなたのそばをお通りになっていると伝えられたらよいのです。それで、その人がどうするかですね。もっとも、その前にイエス様の評判を伝えておくことも重要です。我々の使命は、イエス様を紹介することだからです。それにしても、あなたはこの盲人のように大胆にイエス様を呼び求めているでしょうか。試してみてもいいですね。あなたには願い事があると思います。信仰は大胆であってよいのです。主はきっと足を止めて優しくあなたの願いを聞いてくださるでしょう。ハレルヤ(さくま)

 

9月15日(火)

わたしはお前に昔から知らせ/事が起こる前に告げておいた。これらのことを起こしたのは、わたしの偶像だ/これを命じたのは、わたしの木像と鋳像だと/お前に言わせないためだ。

イザヤ48:5

 

ある求道者に祈りについて教えていた時のこです。その人が何も無いと祈れないと言い出したのです。「せめて十字架に祈ってはいけないでしょうか」と聞かれました。厳格な保守派の教会では、偶像礼拝を恐れて十字架すらおいていません。まさに何もないところで祈っているのです。それにしても偶像とは不思議なものです。世界中に存在しているのですから、人間は偶像を拝みたいものなのでしょう。それがもとはただの石や木であろうが絵であろうがいったん偶像神の肖像が彫られたり描かれると途端に拝みたくなるのです。鎌倉大仏の小さなプラスチックできた金色のミニチュアが外国人観光客に大人気でお土産にたくさん買っていくというのを聞きました。一個何百円かで買える偶像。それに手を合わせる人もいるかもしれません。しかし、神様は偶像を禁じています。しつこいぐらいに偶像のことを問題にされているのです。新約聖書になると偶像が人の心の欲の現われであることが書かれています。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)。他にも、「わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません」(Ⅰコリント10:20)。つまり、気が付けば悪霊を拝んでいた、ということになりかねないのです。それなのに偶像の魅力は今なお多くの人を惹きつけてやまないのです。今日の箇所で、神様は神の民であるイスラエルですら偶像を拝む罪を犯したので、そのことを問題にしているのです。彼らはあろうことか神がなさった事を偶像が語って教えてくれたと言い出す危険があったのです。それで神様は事前に預言者を通して起こることを語っていました。私たちにとっては、聖書はやはり預言者で今も神様の起こそうとする事を事前に語っています。目に見えない神を拝むのは、偶像のように自分の外に離れているものではなく、私たちを神殿にしてくださってその中に住まわれる神を拝むからその性質が全く異なっているのです。キリストの内にとどまるならばキリストもまたあなたの内にとどまってくださるのです。そのような神との交わりの中に生きる宗教なのです。今日も生ける神様があなたを祝福してくださいますように。(さくま)

 

  9月16日(水)

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

ルカ6:43-45

 

ここでは木にたとえて人のことを語っています。木も人もそれぞれ実を結ぶというのです。その実を見ればその木がわかるというのです。確かに木のことなど何も関心がない人でも、栗ができれば栗の木とわかるし、ブドウがなればブドウの木とわかります。ですから、人間はその人が結んでいる実でその人を理解することができます。しかし、主は「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出」すと語ります。そして悪い人はその逆に悪いものを心の倉にためているので、心から悪いものを出すのだ、と説明しています。あなたは、どうでしょうか。あなたの知っている人のことを思い出しているかもしれません。会社やご近所に友人・知人あるいは家族の中にも実例があります。否定的で消極的なことばかり言う人もおれば、肯定的で積極的なことばかり言う人もいるのです。「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と主は教えておられます。自分の心の倉に良いものをためることを考えてみなければいけません。自分の心からいったい何が出ているのか、気を付けて注意していましょう。そして、悪いものを決して心の倉にため込まないように意識的に努力することが必要です。世の流行りに振り回されないようにし、愛の冷えたこの世に迎合しないことです。神様は農夫だと言われるので、木の手入れを良くしていただき、豊かに最良の実を結ばせていただきたいですね。(佐久間)

 

9月17日(木)

主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます

詩編8:2

 

夜空を見上げて月星を眺めると、人間は不思議な感動を覚えます。この地球も宇宙も神の御手の業であると知るならば、その感動の正体を理解することができます。いにしえの昔、イスラエルの夜空を仰いだダビデ王は、深い神の摂理を思い、神の威光に圧倒されるのです。大都市に住む人たちは、夜空を見あげても星をわずかに見るだけでしょう。どこか田舎に出かけて、空気のきれいな場所で夜空を見上げて子供のように深い感動を味わいたいものです。しかし、どこにいても主の御名の御威光は力をもって全地に満ちているのです。あなたの上にも神の力は働いています。この世の目に見える目先のことにとらわれていては決してわからないでしょうが、神へ心を向けて静まってみるならば、途端に神聖な御力が満ちていることに気が付くでしょう。もし、何も感じないと思うのなら、主への讃美をささげてみましょう。そして祈りましょう。主を求めて祈りましょう。あなたは主に愛されている存在ですから、きっと天に輝く主の御威光をたたえずにはいられなくなるでしょう。(佐久間)

 

9月18日(金)

わたしがアカシヤの木で箱を作り、石を切って前と同じように二枚の板を造り、それを手に携えて山に登った。主は、集会の日に、山で火の中からあなたたちに告げられた十戒と全く同じものを板に書き記して、それをわたしに授けられた。わたしは身を翻して山を下り、あらかじめ作っておいた箱に板を納めた。それは今も、主がわたしに命じられたとおりそこにある。

申命記10:3-5

 

これはモーセの記録です。モーセは山に登って神から十戒を授けられましたが山を下ると民は偶像を作って踊り狂ていたのです。それで、モーセは怒って十戒の石の板を投げつけ破壊してしまいました。そして、二回目に山に登って再度十戒を授けてもらいました。ところが、今回は木で箱を作りその箱に十戒を収めたのです。これは、一回目はイスラエルの民が石の板に書かれた律法を守ることができずに失敗してしまい、国も敗れバビロンに捕囚となってしまったことで、ちょうどモーセが初めの十戒の板を壊してしまったことに符合します。そして、二度目に十戒を受けた時は、板の箱に十戒をいれましたが、アカシヤの板は人性を表していて、人を象徴しているのです。つまり、人間の中に神の律法を入れるようになることを預言していたのです。そこで、キリストが時満ちて現われ、十字架で神が義を表しその神の義をキリストを信じる者に恵みで与えたのです。そうやって、キリストによって罪の贖いを受けた人に真理の御霊、聖霊を授けたのです。これが人の内側に神の品性を表す生ける律法として聖霊を入れたのです。人間の外側に置かれた文字は罪の自覚を生じさせただけでしたが、内側に置かれた聖霊は愛を生じさせたのです。出エジプトの出来事はクリスチャンに多くの示唆を与える預言と言えます。あなたの内にも生ける聖霊がいてくださいます。愛は律法を全うするものですが、内住する聖霊がその愛をあふれさせてくださるでしょう。(佐久間)

 

9月19日(土)

「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」

Ⅰペトロ3:10-12

 

幸福に生きたいと願うことは良い事です。毎日が幸せであればそれが一番です。その秘訣がここには書かれています。まずは「言葉に気をつけなさい」と教えています。それは、自分が悪いことを言ったり、嘘をついたり、人を傷つけるような言葉を言わないということです。人間関係で悩む人は、実は自分の舌や唇を制していなかった人です。不注意に人の感情を害することを言ってしまうことは誰にでも起こります。しかし、クリスチャンは聖書に注意が書いてあるので、うっかりミスを犯さないのです。それから、悪いことはしない。善いことを行う。平和を願うならば、その実現をはからなければなりません。あなたがいる所には平和があると信じていましょう。たとい問題が起こっても、慌てずに主に祈り、最善を尽くせばよいのです。主は喜んであなたに目を注がれるでしょう。あなたがなんと祈るのか聞くことを楽しみとしてくださるでしょう。悪事を働くと主が敵となることも覚えておきましょう。(佐久間)

 

9月20日(日)

皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

Ⅰペトロ3:8-9

 

 

クリスチャンの生き方というものがあります。これは、言葉にすれば、今日のペトロの教えのように生きることなので簡単そうに見えますが、真に悔い改めて心を変えた人にしかできないのです。聖霊の恵みが注がれていても、その人自身の心が変えられていなければ、ごまかして決して御言葉通りにはできないのです。そこで、本物のクリスチャンになることが求められているのです。しかし本当に生まれ変わっていなければ問題が生じているはずです。以前の自分がいかに自己中心で、罪を犯すことにためらいがなく、クリスチャンになってからも悔改めの実を表すことができずに、聖書に書かれたようなクリスチャンの生き方ができないばかりか、同じ罪を繰り返し犯し続けているはずです。そのような自分が嫌でキリストの救いにすがったはずです。それならば、覚悟を決めて徹底的にクリスチャンとして生きることです。言い訳の多いクリスチャンは、本当の意味では悔い改めていません。悔い改めは驚くような力を持っていて、人を変えることができるのです。まったく別人のように変えることができるのです。それは聖霊がようやくその人に働けるようになり、内側から変えるからです。そして、自分が祝福された者となっていることに気が付くでしょう。あなたは多くの人を祝福できるのです。あなたの存在が周りの人を祝福するのです。すぐにちょっとのことで頭にきていたのに、気にならなくなります。それよりも、問題を抱えた人のことを同情して祝福しだすでしょう。それが、たとえあなたに意地悪したり、悪口を言いふらしていた人に対してでもです。不思議なことがあなたの内側に起こっているのです。ですから、このようなみ言葉には心を向けて、主にこの通りにすることができるようにお祈りしてください。それでも、できなければ、まず悔い改めをすべきです。主は助けてくださいます。善いことがあなたに起こります。だから心配いりません。すばらしいクリスチャンとなってください。(佐久間)

 

9月21日(月)

ハレルヤ。いかに幸いなことか/主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人は。彼の子孫はこの地で勇士となり/祝福されたまっすぐな人々の世代となる。彼の家には多くの富があり/彼の善い業は永遠に堪える。

詩編112:1-3

 

クリスチャンが子供たちに残す遺産とは何だろう。今日の聖句を読むと、その答えが見つかる。自分の信仰が子孫に残すべき遺産なのだ。聖書は、神との契約書なのでここに書かれた約束は必ず実現する。それに比べ、知恵ある人なら知っていることだが、金銀財宝や不動産などどんな財産も子孫の将来を保証するものではない。親が一代で築いた巨万の富を子あるいは孫の代には全部失ってしまったという話はごまんとあるのだ。権威や地位あるいは名声も、その人本人のもので子孫に継がせることはできない。それを無理やり継がせることが良い事なのか疑問が残る。しかし、このみ言葉はどうだろう。一代の信仰が子孫を豊かに祝福することになるのだ。これは神のなさる御業であるが、一人の人の主を畏れ、主の戒めを深く愛する信仰の結果であることは大きい。それ故に、このみ言葉を心にとめて子や孫たち子孫に神の祝福を残してあげられるように信仰の道を歩んで行こうではないか。

(サクマ)

 

9月22日(火)

まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。

詩編112:4

 

生き方は人それぞれですが選択することができます。狭い心で物事を見ることは判断を誤らせることがあります。何より自分の心に振り回されて感情の奴隷になりやすいのです。人にとって本当に嬉しいことは、困った時に助けてもらうことです。誰も自分の事を忘れて、たとえ困っていても見向きもしないで助けてくれない。こんなことが起こるのがこの世界です。しかし、不思議なことに偉大なことをやり遂げた人たちは、同じように困難が押し寄せてくる時に必ず予期しない助けが現れるのです。それは、今日のみ言葉の通りです。つまり、神は人間を見ているのです。そして、その人がどう生きているのかを注視しています。だから私たちは普段から正しい心で生きることを心がけていく必要があります。小さなことにいちいち心を煩わせることは賢明ではありません。正しい心で生きているのなら、人から誹謗中傷されたとしても、まっすぐに生きていけばいいのです。大きな試練に陥ったとしても、いつかは終わりがきます。そこで神への信頼心が鍛えられるでしょう。それまでのまっすぐな歩みは暗闇を通る時に真価を発揮するのです。「闇の中にも光が昇る」という約束は真実です。イエス・キリストが光であることを忘れてはいけません。「憐れみに富み、情け深く、正しい光」これこそ私たちが知っているイエス・キリストです。イエス・キリストはあなたを必ず助けてくださいます。ですから、いらない心配をするよりも正しく生きることを喜びとしましょう。(佐久間)


9月23日(水)

わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが/あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで/人々は知るようになる/わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。

イザヤ45:5

 

今日のみ言葉は現代人にとっても意味深いものです。主は自ら「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない」と告げておられるからです。真の神を知らない人たちは生きることだけでも大変だろうと思います。そこには良い人も悪い人もいます。愛を十分に受ければどのような人も豊かな人に成長するものですが、反対に愛を受けずに育てば怒りがその人を育てることになりかねません。神はいないと明言する社会は愛が欠乏しているものです。そして、それは終末の特徴として社会に現れることを預言者は告げています。「愛は冷える」と。しかし、クリスチャンがいればまだ希望があります。彼らは神を信じて愛を失わない人たちだからです。神は黙って何もしないわけではありません。時を計っているのです。そして時は満ちます。その時に、日の昇ところの国である日本から世界中に真の神はただおひとりで、他の偶像はむなしいものであることが明らかになります。主は、声をあげて「わたしが主、ほかにはいない」と告げるからです。その時が近づいています。ですから、のんびり構えていないで、あなたも主の証人として勇気を出しましょう。自分を主の御用のために用いていただけるように志願してください。主はあなたにすでに力を与えましたが、あなたは気づいていないのです。だから、普通の人のようにしか生きていません。あなたは神の子と変えられているのです。信仰を使いましょう。もっと主を信じましょう。主からお言葉をいただければそれで癒されると信じた聖書に出てくる人達のように奇跡を起こしましょう。そうすれば、主こそ生ける真の神であることが誰の目にも明らかになります。主は待っておられます。そして、主の日は近づいています。主のみ言葉は必ず成就します。世界はいよいよ厳粛な時を迎えようとしているのです。主の御声が聞こえてきます。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない」。(佐久間)

 

9月24日(木)

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

Ⅰコリント15:51-52

 

イエス・キリストは聖書で再臨の時の様子を教えています。たとえば「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マタイ24:31)。今日の聖句はまさにこの世の終わりに起こる再臨の時の復活について語っています。これは、神秘なので簡単に理解できることではないでしょう。しかし、何も知らないままでよいと神は思わなかったので聖書にこのような記事を残されました。聖書は、はっきり「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」と教えています。このことは真実です。ですから、クリスチャンは復活後に目を向けているのです。この世界で死はもはや恐ろしいものではなくなりました。キリストの到来により、人間を縛っていた死から解放することができるようになったのです。キリストは十字架により死に勝利し、自ら復活することにより救われる者に復活の約束が真実なものであることを証明したのです。ですから、いつかは眠りについたとしてもそれで終わるわけではありません。私たちはその時に変えられるのです。もちろん、「朽ちない者とされ」とあるように、今とは全く異なった者となります。永遠の命を与えられたものにふさわしく変えられるのです。一瞬のうちに変えられるのです。それがあなたの本当の姿なのです。ですから、この地上生涯を悔いのないように信仰によって生きましょう。広い心で、キリストを信じ、愛を実践できるように聖霊にゆだねて生きて行くのです。神の祝福を喜んでいただき、平和を実現させながら、信仰によって恵みから恵みへと進んで行きましょう。(佐久間)

 

9月25日(金)

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

エフェソ3:20-21

 

この聖句は、あなたの祈りであり信仰告白です。何度も唱えるべきみ言葉です。あなたがどのようなクリスチャンであるかはあなたが一番よく知っているでしょう。この讃美の祈りはあなたが聖書に書かれた通りの信仰で生きていることを証明してくれます。あなたの神様はとても良い神様です。あなたにとって最高の神様なのです。あなたは神様がどのようなお方かイメージを持っているでしょう。そのイメージが大切です。自分の中の否定的な思考がイメージをゆがめていないでしょうか。もし、そうであれば今日の聖句の通りに祈ったことはないでしょう。正しい信仰は神様が自分に善いことをされるのを疑いません。試練が来ようが、涙を流す日があったとしても主への信頼は変わることがありません。その信仰が裏切られることは決してありません。だから、ありがたくて感謝があふれてきます。上手に讃美できなくても、感謝の思いは主への言葉となります。そして、それは今日の聖句の通りなのです。私たちの神様に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(さくま)

 

9月26日(土)

「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

へブル10:37-39

 

クリスチャンはひるんで滅びる者ではありません。世の終わりには、人間が考えることもできないような大変なことが起こるでしょう。そのような時に、クリスチャンであることすら危険となることもあるのです。だから試みられる人も出てくるでしょう。しかし、イエス・キリストを信じる人は神が義とされた者です。たとい誇れるような功績が無くても、心配することはありません。私たちを救われるのはイエスであって、そのための功績もイエス・キリストがすでにたてたのです。それはまさに奇跡なのです。私たちの身分がイエスを信じた時に救われて変わったのです。自覚症状が何も無くても関係ありません。それは、私たちが何もしないのに救われるからです。ただ、私たちの責任はイエスを信じることです。「信仰によって生きる」ということは、救われたことを信じる、キリストのおかげで罪に死んだことを悟る、罪と死と悪魔の支配から解放され恵みの支配に移されていることを信仰で現実にすることです。罪の支配から自由になっているのなら、それを本当にするのは、信じる力ということになります。それも、人間だけでは心もとないので内住の聖霊が助けてくださいます。聖霊に従順であるようにしましょう。実は悪魔からも解放され、もう奴隷ではありません。それなのに、何しないでただ恵みで救われたものですから、奴隷である時と同じように生きてします危険があるのです。聖霊のバプテスマのような大きな覚醒が必要だというのはこのことがあるからです。しかし、悪魔は狡猾なので大声をあげて、いまだに悪魔の奴隷であるかのごとくに脅しあげてくるのです。早く奴隷根性も十字架にくぎ付けにしてしまいたいものです。それで、悪魔は罪の奴隷であるかのごとくにクリスチャンを扱ってくるのです。そこで、信仰によって生きていないと、だまされてひるんでしまう危険があるのです。そうならないように本物のクリスチャンとなる必要があります。本物はみ言葉を良く調べ、聖霊の助けを求めて、真理を見分けます。そして、信じる信仰を大胆に使うのです。だから、神の支配に従順に入ることが容易となります。そのような聖徒がひるむなどありえないのです。そのような本物のキリスト者となりましょう。(佐久間)

 

9月27日(日)

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。

Ⅰペトロ5:8-9

 

世の終わりには、最も激しい霊の戦いが繰り広げられます。それは、家から出て外を歩いていくと、檻から解き放たれたライオンがほえ猛りながらだれかを食い尽くそうと探し回っているところに遭遇するようなものです。聖書は、はっきりと悪魔があなたの敵であることを教えています。敵のイメージがライオンであるとすれば、これは真剣にならざるを得ません。油断していてはだめです。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」と、み言葉ははっきり命じていますから、従いましょう。悪魔の誘惑があれば、信仰で打ち勝つ必要があります。それは、常日頃からイエスを信頼し、神の子として生きることです。霊の賜物を生かして、互いに奉仕することも重要です。「悪魔に抵抗しなさい」と命じられているのですから、しっかりと抵抗してください。負けることはありません。「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(Ⅰヨハネ3:8)とある御言葉を信じましょう。なにしろ、あなたこそがこの「神の子」だからです。(佐久間)

 

9月28日(月)

それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

マタイ21:4-5

 

マタイはイエスのエルサレム入場の場面でゼカリヤ書を引用しています。もともとはヘブル語で書かれていたものをギリシャ語に訳したものです。イエスが乗る子ロバのことの話から旧約預言をメシアとしての王がエルサレムへやって来るというようにイエスと結びつけています。ところで、この聖句の中で柔和(ギリシャ語のプライース)が使われているのですが、元のヘブル語では「貧しい」「悲惨な」「苦しむ」という意味のアニーが使われていました。それは実際にイエスがエルサレム入場した場面を想像すればわかると思いますが、王の入場という時には勇ましい馬にまたがり、大勢の軍隊を従えて凱旋するものです。ところがイエスはロバにそれも子ロバといういかにも貧しい人を連想させる乗りもので、みすぼらしい姿でエルサレム入場を果たしたのです。ここにはいろいろな人々が大勢いました。その人たちがなんと熱狂してイエスを歓呼のうちに迎えたのです。「バルーク・ハッバー・ベシェム・アドナーイ」(ヘブル語の意味は、「主の御名によって来る人に祝福を」)こう、彼らは叫んだのです。イエスは私たちの罪のために、この後数日後に十字架におかかりになられたのです。イエスのお姿は、私たちの貧しさやみじめさそのものでした。「彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった」(イザヤ53:12)。それだから、十字架には私たちを贖う力があるのです。しかし、私たちは十字架にかかられたイエスを誇りにし、唯一の王としてお迎えする者なのです。イエスが王であることがどれほど大きな喜びでしょうか。そして、聖書の預言通りにメシアはわれわれのもとへ来られるのです。主が預言通りに再臨されるのはもうじきです。必ず主は来られます。その日、あなたは歓喜に震えて主を仰ぐことでしょう。あなたはそのような主の聖徒なのです。(佐久間)

 

9月29日(火)

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

ヨハネ14:15-17

 

このみ言葉が理解できる人がクリスチャンです。この真理は、クリスチャンの生き方に大きな影響を与えます。そもそもイエスを愛している弟子であるのなら、イエスの掟を守るはずです。それは互いに愛し合うことです。弟子たちはそれまでだれが一番か競っていました。それだから互いに愛し合うことは彼らが変わることを意味していました。そうでなければ、これから世界に福音を広める大きな働きはできなかったでしょう。イエスという求心力を失えば、彼らは消滅して今う危険がありました。でも、へりくだって愛し始めた時に奇跡が始まったのです。今日の聖句の冒頭の言葉はイエスを愛しているならば、イエスの掟を守る、というものです。そこで、はじめてイエスは重要な約束を語ります。「わたしは父にお願いしよう」。これこそがキリスト教の秘密なのです。この世でどんなに努力してもそれではいかんともしがたいことがあります。人が聖化することです。それでいたずらに教会の規則を増やしても、何かの善い行いを奨励しても、それでは変わることができません。律法の遵守をかかげても、一つでも犯せばだいなしなのです。そのようなやり方は行いによる義と言われ、古いものです。そして、旧約聖書を見れば明らかですが成功できなかったのです。そこで新しい方法が示されました。それは恵みと言います。その実態はイエスの到来でした。イエスが救い主として助けに来られたのです。そして、どうしても克服できない罪の問題を解決してくださったのです。ですから私たちが罪に勝利したのではなく、イエスが罪と死と悪魔に勝利されたのです。それが十字架の意味なのです。ただ、ただ私たちは何もしなかったので、罪に勝利した事実を実感として理解しにくいのです。それで、クリスチャンになっても変わらないままでいる人たちが出てきます。そこで、今日の聖句をよく読むと、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と書かれています。この別の弁護者は「真理の霊である」。そこで、私たちはイエスの約束を信じて、この真理の霊を求める必要があります。この真理の霊がすべてのカギになるからです。私たちを聖化するのも、私たちを指導するのも、聖書を解き明かすのも、友となっていつも共にいてくださることも、執り成して天の父なる神に祈ってくださるのも、この真理の霊の働きなのです。しかし、残念なことにこの世の人々はこのことを理解しないのです。そのことが教会の世俗化に伴って、教会にまで影響を及ぼしています。でも、あなたは聖霊のことがわかりますよね。あなたと共にいる真理の霊です。この方はどんな時にもあなたの味方です。あなたと永遠のパートナーとなってくださいました。この恵みがどれほどありがたいことかあなたはこれから十分に理解することでしょう。このみ言葉の通りに真理の霊を受けた人は福音がわかるはずです。信仰がなければ何もはじまりません。義人は信仰によって生きるからです。どうか、勇気をもって今日も元気にハレルヤと讃美して行こうではありませんか。(佐久間)

 

  9月30日(水)

それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

ガラテヤ3:21-22

 

聖書が読んでも難しいと言われるのは、このような箇所があるからです。でも、実際にはそれほど難しいことを言っているわけではないのです。当時のユダヤ人にとっては、律法の遵守が絶対だったのですが、それが人を義とすることはできませんでした。今日も同じことです。人を義とするのはイエス・キリストを信じる信仰です。それだけですから、イエスを信じる信仰をもっと真剣に考えることは大変良い事です。「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」という箇所は、聖書が悪者のように見えますが、聖書の代わりに律法と言葉を置き換えれば、それまでの話の続きとして理解しやすくなります。そして、これはパウロ流の言い方ですが、言い直せば「聖書の律法に照らすと人は皆罪人であることがわかる。聖書がなければ罪の自覚も生じなかったのに、律法が自分の罪を指摘するので、罪の自覚が生まれ、その罪を犯さないように努力しても全く無駄であることが明らかになる。これでは罪に支配されている奴隷のようになものだ」と言っているのです。それで、イエスを信じる道が備えられ、その信仰が神の約束を受けることを実現させたのです。興味のある方は、ガラテヤ書を読み直してみてはいかがでしょうか。(佐久間)