2018年5月ディボーション

5月1日(火)

それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。

マルコ13:34、35a

 

アメリカで牧師をしていたい時に、不思議と道を聞かれることが多かった。それも、自動車を運転していて、信号で停まっている時に対向車線の車の人が窓を開けて道を聞いてくるのだ。日本でもそんなことはなかったし、アメリカでもそんな光景は見たことがなかった。まだアメリカに行って間もない頃、日本ではまだガソリンスタンドがセルフをやっていなかったので、自分でガソリンを給油してどうやってお金を払うか不安案内だった。そんな時に、初めて行ったガソリンスタンドで給油していると、すごいスポーツカーが入って来た。運転手が降りて来て、しばらく戸惑ったようにしていたが、私のところまでやって来て、どうすればいいのか聞いて来た。その人はフランスからきたのでやり方がわからないと言うのだ。その時も思った、なぜ皆んなアメリカ人に聞かないで、外国人の私に聞くのだろうと。そこには、ちゃんとお店の人もいるのに!私だって外国人で良く知らないのに。そんな時は、いつでも神様が何かを教えているものだ。今ではわかる。私たちクリスチャンは、道を教える者なのだ。油(精霊)が切れたら、どうやって油を注いていただくか教える者なのだ。だから、普通ではあり得ないようなことが自分に起こり、主は私に気づかせようとされたのだ。イエス・キリストは、はっきりと言っている。「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」た、と。だから、目を覚ましているようにと、自分の割り当てられた仕事に責任を持って、忠実に果たすようにと命じられているのだ。あれもこれもやる必要はない。あなたは自分の仕事が何であるか気がついているはずだ。主は、何度もあなたが気がつくようにしるしを与えていたのではないだろうか。まだ、わからないと思っている人は、すぐに主に祈って確かめるべきだ。とにかく、目を覚ましていよう。私たちの主人はもうすぐ帰って来るから。(サクマ)

 

5月2日(水)

誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。

マルコ14:38

 

「ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』皆の者も同じように言った。」(14:31)。その結果はどうだろう、三度イエスを知らないと言ってしまった。また、イエスが捕えられる直前、ゲッセマネで苦しみながら祈られた。その時、弟子たちは眠っていた。何と情けないことだろう。こんな大事な時に、弟子たちは眠っていた。イエスに頼まれていたのにだ。情けないと思うだろうか。しかし、この弟子たちこそ、実は私なのだ。都合が悪くなれば、イエスを信じているなどとはおクビにも出さない。知らん顔している。「全ての人に福音を」と威勢のいいことを教会ではいっていながら、だれにもイエスが救い主だと言わない。変な人だと思われたくないから。全てはイエスのために、とカッコよく誓ったはずなのに、気がつけば自分のためにしか考えていない。どうなっているんだ!と叱られそうだが、主は黙っておられる。なぜだろう。ペトロの時と同じよに主は、私たちの弱さを良く知っているのだ。それでも、愛想を尽かさずに愛しておられる。主があなたを愛していると言えば、何があっても変わらないのだ。だから、今日の聖句を忘れてはいけない。目を覚まして祈っていよう。(サクマ)

 

5月3日(木)

イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。・・・昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

マルコ15:25、33、34

 

イエスを十字架につけたのが午前九時だった。そして、午後三時には亡くなったことが聖書からわかる。わずか六時間でイエスは息を引き取ったことになる。十字架刑はローマに反抗する者たちへのみせしめ刑だったので、残酷にも十字架の上に架けられて一週間以上苦しませて殺す方法だった。それが、何とたったの六時間で死んでしまった。総督のピラトは、そのことに大変驚いた。問題は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とイエスが叫ばれたことだ。イエスと天の父はいつでも密接に繋がっていた。その繋がりが三時に急に切れたのだ。天のどこにも父を見つけることができなかった。一番苦しみの中で父を必要としている時に、父なる神との交信が途絶えたのだ。ある人たちは、「イエスはこの時、詩篇22篇を暗唱し始めたのだ」と言う。しかし、この詩篇はメシア預言だったのだから、預言が成就したと取る方が良い。それならば、イエスの身に何が起こったのだろう。それは、私たちの一人となったと言うことだろう。もう、神と繋がる特別な存在ではなかった。私たち罪人をたった一人で代表し、その刑罰によって死ぬ必要があったから、イエスは罪を犯してはいなかったが、私たちの罪がイエスの上に全部おかれたのだ。だから、神と断絶した。イエスにとっては見捨てられたも同然だった。それで、突然、復活する希望が絶たれてしまったのだ。それだけではない。アダム以来の呪いがイエスを苦しめ、呪いの全てがイエスのものとなったのだ。彼が癒した全ての病気も結局イエスが引き受けただけで、イエスの体を蝕んだ。とても耐えることのできない恐怖がイエスに襲いかかった。罪を贖うということがどれほどの残酷で恐ろしい代償を支払うことになるか、イエスだけが味わい知ったのだ。そうでなければ、たったの六時間で死ぬことはなかった。イエスに救われた者は全てこのことを忘れてはいけない。主の十字架によって、生き方も、心も変えて生きなければならないくなった。最後に、イエスが叫んだ時、父はどこにいたのだろう。それは、イエスの十字架の下にいたのだ。天の父も私たちを救うために、イエスと共に十字架の苦しみをお受けになったのだ。神が犠牲となって、あなたへの愛を示された。この愛にあなたは応えて生きて行くのだ。(サクマ)

 

5月4日(金)

イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えないさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

マルコ16:15~18

 

この聖句が私たちにどれだけ大きな意味を与えているか、考えたことがあるでしょうか。ここで重要なことは、①全世界に福音を宣べ伝えること。②信じて洗礼を受ける者は救われること。③信じる者に伴うしるし。この三つです。この中で、三番目のしるしは、現代の教会ではなかなか見ることがありません。それが大きな問題だと思いますが、まったく失われたわけではありません。いかに、現代人が信仰を求められているかということです。世界宣教は二十世紀に大きく拡大しました。何しろ、世界中に簡単に行けるようになり、今では携帯電話が世界中で普及しました。そしてわずか十年でスマートフォンが革命的に世界のコミュニケーションを変えたのです。そして、AI革命が始まりました。これからは人類が経験したことのない世界が展開されて行くのです。その中で、アダムから始まった人類の歴史が最終ステージを迎えるはずです。私たちは、今も大昔に書かれた聖書を手にしていますが、それが神の言葉である事を知っています。だから、自分が聖書に一致しているかどうかが気になるのです。そして、イエスの最後の言葉は今も有効である事を覚えましょう。(佐久間)

 

5月5日(土)

この四人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた。

ダニエル1:17

 

神学生の時に、旧約聖書のクラスに船水先生とおっしゃる名物先生がおられた。このクラスは、はじめから緊張を強いられる。出席を取る時に名前を読んだ後に、意地悪い?質問をするからだ。厳しい質問に、泣き出す学生もいたほどだった。ある日、私に船水先生は、「旧約聖書の預言者で誰が好きか」と聞かれた。つまり、その書から質問されると思って、一番得意なダニエル、と答えた。そこで、「ではダニエル書から質問します」と先生は、次のように聞かれた。「ダニエル書には復活思想が書かれているか。書かれているなら、何章何節にあるか」。答えは12章2節だ。しかし、残念なことに私はわからなかった。預言に関しては答えられたのに、復活とは気にもとめていなかった。しかし、今もダニエルが一番の好きな預言者だ。ダニエルは頭も良く、信仰にも優れていた。政治的にも秀でていて、歴史上の新バビロニア帝国とペルシャ帝国の宰相となった。本来あり得ない話だ。そして、彼はどのような幻も夢も解くことができたのだ。それこそ、預言であり、神の目で見ることができたということだ。実は、クリスチャンも神の目で見ることが求められているのだ。肉の目は自己中心の象徴だ。だから、ダニエルが自分を捨て、神に服従して生き、神が見るように見る人だったのだ。神は私たちも同じように神の目で見る人にしようとしていることを知ってほしい。(佐久間)

 

5月6日(日)

ダニエルは王に答えた。「王様がお求めになっている秘密の説明は、知者、祈祷師、占い師、星占い師にはできません。だが、秘密を明かす天の神がおられ、この神が将来何事が起こるのかをネブカドネツァル王に知らせてくださったのです。王様の夢、お眠りになっていて頭に浮かんだ幻を申し上げましょう。

ダニエル2:27、28

 

人間は困ると占いに頼りたくなる。様々な種類の占い師がいつの世にも存在し、その時代の権力者と結びつくことも珍しくなかった。さて、これは占い師の物語ではない。人類の歴史に、世界を支配する帝国が現れ、どのような順番でそれらの帝国が興ってくるかを神がネブカドネツァル王に知らせたということが始まりだった。ただし、王といえども夢や幻を解き明かせるわけではなかった。当時の識者は占い師や魔術師と呼ばれる人たちだったが、当然夢を言い当てるようなことはできなかった。夢占いはできただろうが、夢そのものを言い当てることは不可能だった。それができるのは預言者だけだ。神のお立てになった預言者が夢の内容を言い当て、さらに解釈するのだ。ところが、ダニエル書を読み進めると色々わかるだろうが、完全に全容を解き明かしているわけではない。そこで、現代に至るまで研究者が調べてきた歴史がある。それが主の御心だったからだ。それでも、やはり完全にわかったとは言えない。時が来ていないからだ。世界の人々が知る必要のあることなのは明瞭だが、まだ隠されているように思う。しかし、それも今だけだろう。もうすぐ、完全に解明する日がくるだろう。そしてその時には、世の終わりのカウントダウンが始まっているだろう。もしかすると、あなたが、ダニエル書を解き明かす人かもしれない。(サクマ)

 

5月7日(月)

わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくても、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。

ダニエル3:17、18

 

私が青年の頃に、安利淑著「たといそうでなくても」という本がありました。これは多くの人々に深い感動を与えた信仰の証です。そのタイトルが、今日の聖句の「そうでなくても」から取られています。私たちが考える信仰とは、迫害のただ中でも「私の神は、私を救うことができ、必ず救ってくださる。たといそうでなくても、この神以外に仕えることも拝むこともいたしません」と言えることです。救ってくださるから信じる。これならたやすい信仰でしょうが、たとえそうでなかったとしても、それでもこの神を信じるという信仰、神への真心のことが問われているのです。いざ、このような非常事態に陥ったなら、果たして彼らのようにカッコよく堂々と同じことが言えるかどうか、自信が持てないかもしれません。だから、信仰が弱いとか自分はダメだと悲観することはありません。イエス様がその時に、勇気を与えてくださるし、聖霊が見事に信仰の言葉を語らせてくださるでしょう。だから、余計な心配をするべきではないし、それよりも単純に、ワクワクしながら、神様の側に立って、この世の王にも屈しない聖徒たちに拍手を送りたいですね。野球解説者の張本さんなら、「あっぱれ」をあげてくださいというでしょうね。そんな信仰の勇士に励まされて、この地上で信仰を全うしたいと思います。(佐久間)

 

5月8日(火)

それゆえ、わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、その御業は誠、その道は正しく、驕る者を倒される。

ダニエル4:34

 

真の神様を信じる者は、おごり高ぶることはありません。それがどんなに危険なことであるか知っているからです。人間の特性で、何もかもうまくいき地位を得たり、出世したり、富を築くなど、良いことが続くとそれはすべて自分の力であると、自分を誇りおごり高ぶるのです。そうならないと思っていても、神様を知らなければ、やがて気持ちが変わり己を神のごとく思ってしまうものなのです。人間にとって一番怖いことは全能感です。気持ちが高ぶって何でもできない事はないと思えてきます。こうした心に沸き起こる思いこそが、悪魔が初めに経験した事でした。そして、私たちが覚える教訓は、キングリーパワー(王のような権力)はいつでも危険をはらんでいるということです。神様に背き、自分を神のようにするからです。世界中の指導者はそのことを知るべきです。大きな権力を手にする者は、いつ爆発するかわからない爆弾の上にいるような危険に足を乗せているのです。だからこそ、クリスチャンは謙遜を学び、キリストのようにへりくだって生きることを選ぶのです。(さくま)

 

5月9日(水)

さて書かれた文字は文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。意味はこうです。メネはかぞえるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。テケルは量を計ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、メディアとペルシャに与えられるのです。

ダニエル5:25~28

 

これは、壁に文字を書く指の幻の話の最後の部分です。実に面白い話です。お父さんのネブカドネツァル王は絶頂の時に野の獣のようになり、この世界を支配しているのは真の神であることを悟りますが、その子は、その教訓をいかせずに神を軽んじて高慢になり、そこでこの指が壁に字を書く幻を見たのです。ダニエルによって解き明かしを受けた内容は、神が数えるお方であり、人を秤にかけて計るお方であることです。とても厳粛なことです。私たちは神様に見られているのです。それは悪いことではありません。むしろ良いことです。守っていただけるし、祝福していただけるからです。しかし、神を畏れずに不遜な態度で肉の思うままに振る舞えば神に罪を犯すでしょう。それを見ている神がおられるのですから恐ろしいですね。金にも例えられ栄華を極めたバビロニア帝国も二分され、メディアとペルシャに与えられました。この世界はやはり、神の支配の中にあるのです。ここでの教訓は、やはり高慢は罪であり、いかにへりくだって主を畏れて生きるかが問われているということです。(佐久間)

 

5月10日(木)

ダレイオス王は、全地に住む諸国、諸族、諸言語の人々に、次のように書き送った。・・「わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。この神は生ける神、世々に今し、その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い、ダニエルを獅子の力から救われた。」

ダニエル6:27、28

 

メディア人のダレイオスが王権を継ぎました。そして、ダニエルは王国が代わっても、高い地位を得たのです。政府高官の中でもダントツに優れていたために、王の信頼を勝ち取っていました。しかし、ダニエルを妬む者たちが陰謀をめぐらして、ダニエルを陥れたのです。そして、そのことがきっかけで、大逆転が起こり、ダニエルの神を帝国内のすべての民が恐れかしこまなければならなくなったのです。たった一人の人が信仰を守ったことにより、すべての民が真の神を拝むようになるというのは、驚きですが、可能なことなのです。あなたが、神を恐れかしこむ人であれば、その信仰ゆえにひどい目にあったとしても、神は御使を遣わしてその人を守り、敵を排除されるのです。当時の世界を支配した王がなんと言ったか、それが今日の聖句です。ダニエルのように、今、自分のできることを精一杯行い、神を第一にして、人間関係でも誠実であれば、それが大きな伝道になるのです。ダニエルの神と言われたように、あなたの神、と言われたいと思います。(佐久間)

 

5月11日(金)

その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。

ダニエル7:8

 

ダニエル書7章は中心となる章です。内容は預言的パノラマで、歴史の最終段階の審判が描かれています。はじめに世界帝国が登場順に四つ描かれ、四番目はローマ帝国です。ところがゲルマン民族が侵入することによりローマは滅び、その後ゲルマンの部族国家を、十の角として表したと思われます。そして、「一つの小さな角」が登場するわけです。つまり、ローマ帝国の領土内に一つの新しい勢力が出てくることを預言しているのです。目は知性の象徴です。口はそれまでの軍事的政治権力ではない、宗教的なものであることを示しています。「三つの角が抜け落ちた」というのは、キリストの神性を否定するアリウス派の主張を採用した三つのゲルマン国家が、ローマ教会を支えた東ローマ帝国によって討伐されたことを指しています。この聖句だけではまだわかりにくいのですが、七章全体あるいは後半も含めて見ると、ローマ法王ととるか、終末に現れる反キリストと見ることができます。このように、聖書は最後の裁きに向かって進んでいるのです。今は、その最後の審判に向けての調査審判の期間であると見えてきます。聖書の預言は必ず成就しますから、聖書を研究することはとても大切なことなのです。(佐久間)

 

5月12日(土)

その上、天の万軍の長にまで力を伸ばし、日ごとの供え物を廃し、その聖所を倒した。また、天の万軍を供え物と共に打ち倒して罪をはびこらせ、真理を地になげうち、思うままにふるまった。

ダニエル8:11

 

さて、八章は重要な箇所です。すべての注解はできませんが、一つ覚えておきたいのは、ローマ・カトリックのことが預言されていることです。それは、私たちの救いに重要な意味がある天の聖所での主イエス・キリストの祭司としての働きをローマ・カトリックが阻害したということです。つまり、カトリック教会が法王制度を作りキリストの代わりとしたこと、キリストを信じる信仰による義ではなく、カトリック教会の定めた業を行うことによる義に代えたこと、そして、キリストの執り成しではなく、司祭や聖母マリア、聖人たちによる執り成しを教えていることです。それによって、キリストの天における絶えざる祭司の働きから目をそらさせることに成功したのです。そのことによって罪がはびこることになりました。これらの背後にはサタンとその軍勢がいます。これはまさに善悪の大争闘なのです。しかし、これにも終わりは定められているのです。終末のタイムスケジュールは刻々と時を刻んでいるのです。(佐久間)

 

5月13日(日)

わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください。わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。あなたの都、あなたの民は、御名をもって呼ばれているのですから。

ダニエル918、19

 

執り成しの祈りのお手本がここにあります。祈りがうまくできずに困っているという人は、聖書から学ぶことができるので、このような箇所は覚えたいです。最後の部分に「あなたの民は、御名をもって呼ばれている」と出てきます。これは、あなたも同じです。あなたは救われて、キリストに似た者と呼ばれているからです。さて、9章には、70週の預言があります。起算点がわかれば特に難しくはありません。また、8章の2300年の預言と同じ起算点ですから、両者は関係しています。メシアの到来と十字架の犠牲が預言された通りに成就しました。私たちの救いが父なる神とキリストと聖霊によって確実に成就することはこの長い歴史を通して検証すれば、明らかです。そして、預言がことごとく成就することから、神の民が世の終わりに、天に入るにふさわしいかどうか一人一人調査されているのが今なのです。私たちは聖書を学ぶことによって、その確実なことを知るのです。(佐久間)

 

5月14日(月)

ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。

ダニエル10:12

 

10章の話は、紀元前535年頃のことです。「ダニエルは、三週間にわたる嘆きの祈りをしていた」(2節)のですが、それに応えるように、一連のことが起こりました。10章は最後の預言(11、12章)の序章です。この10章からいくつかの学ぶべきことがあります。一つは、祈りは私たちが思っている以上に聞かれていることです。二つ目は、悪の勢力、サタンとその軍勢が働いていることです。そして、それと共に神の天使たちも戦っておられるということです。善悪の大争闘とは、霊的世界だけではなく、現実の世界においても同時に起こっているのです。そして、キリストが神の民を助けるために万軍の天使を従えて戦っている事実です。だから恐れてはなりません。私たちがダニエルから学ぶべきは、いつも祈り、神様と共に歩み続けることです。そのような人には主の鉄壁の守りがあるのです。(さくま)

 

5月15日(火)

自分の神を知る民は確固として行動する。民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される。・・・終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。まだ時は来ていない。

ダニエル11:32、33、35

 

11章は難解な箇所で、聖書注解者も避けたい難しさがあります。その中で、一つ押さえておかなければならないことは、最終時代の神の民の特徴です。これは、私たちと関係があるからです。その第一は、「自分の神を知る民」であること。第二は、「多くの者を導く」、つまり、伝道するということです。第三は、「ねり清められ、純白にされるため」試練に遭う、ということです。この三つは、実は恵みとなることなのです。普通の人がどんなに優秀で力があっても、それだけで義となることはできないのです。主イエス・キリストへの思いが、時には試みをも成長に変え、普通の生活では決して達成できない霊的な義人へと人を変えるのです。さらに、イエス・キリストの贖いを人々から取り除けようとする者や聖霊の働きを無にするように圧力をかけたり、聖書と違った考えが神の民を脅かしているのです。ダニエル書からも、このような状況は避けることができないと知ることができます。だからこそ、真理を知る人たちは、キリストから目を離してはいけません。聖書を研究するべきです。歴史を学ぶことも役に立つでしょうが、歴史は解釈なので、時間の経過で変わってしまいます。それだけに、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え」る(ヨハネ14:26)、とのイエスの言葉を大切にしたいのです。終末の時は刻々と流れています。どうなるかよく見ていましょう。(佐久間)

 

5月16日(水)

終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりに当たり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。

ダニエル12:13

 

ダニエルは、主に「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい」と言われました。終わりに何があるのか、ダニエルには理解できませんでしたが、主と共に日々歩み、祈り、仕え、自分の仕事をこなし、信仰者の生き方を続けるようにと言われたのです。何年に何が起こり、何がしるしであり、この聖句はこの出来事に当てはまると、19世紀以降、色々な人々が預言解釈に熱中していました。それも、大切なことなのでしょうが、個人的には、ダニエルのように自分の道を行き、そして眠りにつくまで主に忠実であることが最も大事なことだと思います。ダニエルも、復活することが約束されていますが、私たちも復活することを信じています。全てが主の憐れみであり、恵みなのです。主の御手が絶えず共にあり、たとえ試みにあっても、慌てずに主への信頼を忘れないでいればいいのです。主に忠実であることは、感謝を知る生き方そのものです。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』(ヨハネ11:25)」。あなたはこれからも主に愛されて自分の運命を行きていくでしょう。(佐久間)

 

5月17日(木)

あなたがたは、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

Ⅰペトロ1:23

 

クリスチャンになって、人はどうやってキリストのように変えられていくのでしょうか。もちろん、内住の聖霊が内側から変えてくださいますが、具体的にどうやってかと言えば、「神の変わることのない生きた言葉によって」なのです。どれほどのクリスチャンが気がついているかわかりませんが、聖書を読むことがクリスチャンにとって不可欠なのは、その御言葉が種のようなもので、人の内に入り、聖霊がそれを発芽させ、成長させるのです。最後には聖霊の実が結びます。それこそが、クリスチャンがキリストのようになること、キリストの品性を身につけるということです。この世の物は、どんなものでも朽ちるものです。それでは、永遠である神の国に耐えることができません。ですから、この世のもので、天国に入ることができるようにするものはないのです。この世には、人間(肉)も含まれます。だから、人間が肉のままでは天国に入れないのです。そんな人間を救うためには、朽ちない種を心の畑に蒔くしかないのです。そのために、聖書があります。聖書は自由に読めるのですから、種を蒔き続ければいいのです。コツは、心に種を蒔くと意識して聖書を読むことです。肉は、変えられてしまうので、拒絶反応が出るかもしれません。聖書を読みたくないと思うかもしれないということです。そんな時には、イエスの「種を蒔く人の譬え」(マルコ4:1~9、13~20)を読んでイメージします。そして、祈りましょう。素晴らしいことがきっと起こります。(佐久間)

 

5月18日(金)

そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

Ⅰペトロ2:24

 

フィリピンで大学院のアパートに住んでいた時に、シャワーしかなくて困った。しかも水しか出ない。教団の大学院は高原にあった。冬は水シャワーでは冷たく仕方なく鍋にお湯を沸かす。なんとかならないかとテレビを見ていたら、電気温水シャワーのCMが流れた。これだ!と思って、早速、買いに行った。それをアパートに取り付けるには、工事が必要で、学内の営繕課で働いている青年に頼んだ。彼は喜んで引き受け工事に来た。あっという間に工事は終わり、少し後悔した。それは、電気シャワーに取り付けた電線は、どこかで拾ってきたものだったからだ。触ると熱い。大丈夫かと心配になる。他の材料も水道管も何もかもが拾ってきたもので、日本だったらゴミのようなものだった。だけれども、文句を言わずにお金を払った。彼が悪意でやったわけではなく、それは普通のことだったのだ。その彼が結婚した。お相手は、我が家のお手伝いさんだった。彼は、また木やブリキを拾い集めて、倉庫ぐらいの小さな小屋を建てた。それが新婚の新居だ。玄関ドアはカーテンだった。窓は無い。貧しい者同士が結婚し、赤ちゃんが生まれた。女の子だった。出産祝いを持って訪ねると、その小屋の小さなベッドに若い母と小さな赤ちゃんが寝ていた。この子は、どうなるのだろう? 希望があるとすれば、両親には信仰がある。そして、イエス様は彼らの主である。イエス様は、彼らと同じような人たち、貧しい人たちを訪ね歩き、人間を理解し、貧富の差の激しさや、病気の人の悲惨な状況を知った。そして、それらが罪によるものであることも知っていた。イエス様は、そうした人たちが救われるには、十字架にかかって、彼らの罪を担うしか無いことをわかっていた。そして、イエス様は私たちの救いのために十字架を選ばれたのだ。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒された。イエス様がなされたことがどんなにありがたいことか考えてみよう。(さくま)

 

5月19日(土)

悪を持って悪に、侮辱を持って侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

Ⅰペトロ3:9

 

人間の価値は、品性で計られます、それがクリスチャンの場合は、さらにひどい扱いを受けた時の反応によっても計られるのです。悪意にさらされ、侮辱されたなら、大抵の人は怒ってやり返したくなるものです。感情的になりやすい人は、あとで後悔するほどやり過ぎてしまうかもしれませんので注意が必要です。ところが、聖書は、そのような感情が害されるような状況で、「かえって祝福を祈りなさい」と命じています。それで、一つ覚えておかなければならないことは、私たちがクリスチャンになるように召された目的が、祝福を受け継ぐためである、ということです。創世記を読んだことのある方は、アブラハム、イサク、ヤコブの族長たちが祝福を受け継ぎ、それがどれほどすごいものであったか知っていると思います。もし、あなたがクリスチャンとして祝福を受け継いで生きたいとお考えなら、今日の勧告を守りなさい。ひどい目に遭われても、冷静になり、自分が祝福係であることを思い出し、急いで相手を祝福するのです。それで、あなたの役目は果たせたので、後のことは神様が担当されます。あなたは信仰があるので分かると思いますが、悪意を向けてくる者やあなたを侮辱する者は、どのような育ち方をしてきたと思いますか。成人してからも、どんな扱いを受けてきたでしょう。その人の精神はどうでしょう。到底恵まれていたとは思いません。深く傷ついている人かもしれません。生まれてから、一度も祝福されたことがなかったかもしれません。だから、あなたがそのことに気づいて、祝福を祈るのです。その人はそれで救われるかもしれません。祝福する人はいつでも祝福に満たされて生きることができます。人を恐れることもなくなります。そして、サタンも去って行くでしょう。一番難しい状況でも祝福を祈る人にサタンが勝てるわけがないのです。(さくま)

 

5月20日(日)

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。

Ⅰペトロ4:10

 

肉の力で善い業を行おうとしても、うまくいかないことはわかると思います。だから、行いによる義はないのです。律法の功績によって神様に義と認めさせることはできないし、間違っているのです。正しく福音を理解できていれば、クリスチャンになって聖霊の賜物を恵みとしていただいています。それを放置しないで、善い管理者にならなければなりません。つまり、与えられた霊的能力を生かすのです。それは、どうすればいいのかと言えば、主に従順に従うことです。特にクリスチャンの人に愛を持って奉仕すると良いのですが、未信者であってもかまいません。その場合は、愛の奉仕が伝道になって、イエス様のなさる救霊に一緒に立ち会うことになります。聖書を読むと、家令とか僕とか主人に仕える者がよく登場します。ですから、私たちも天の主人にお仕えしているのです。自分のことを喜ばせようとして、主を忘れたり、二の次にしているとクリスチャンでも色々問題が出てきて、うまくいかないことが多くなります。しかし、主から「忠実な僕よ」とほめられる人も出てくるのです。主に喜んでいただこうと一生懸命で自分のことを忘れている人です。私たちは、クリスチャン同士で互いに仕え合うように、薦めらえています。そのように願って祈ってみることは良いことです。(さくま)

 

5月21日(月)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

Ⅰペトロ5:7

 

いきなり「思い煩うな」と言われると、そんなことを言われても難しい、と言いたくなるかもしれません。しかし、これは、クリスチャンの特権なのです。イエス様が約束しておられるし、自分一人であれこれ悩まなくてもいいのです。思い煩うのは、自分ではどうしていいかわからないからだし、自分の力では問題を解決できないからです。しかし、実際にはまだ問題が起こっていないか、勝手に妄想しているだけかもしれません。そうでなければ、緊急を要する問題があなたを苦しめているのかもしれませんが、神様があなたのことをちゃんと覚えて、困らないようにしてくださることを思い出してください。夜も眠れないほど思い煩っていたなら、お祈りしましょう。そして、自分ができることだけしましょう。何もできないのなら、それでもかまいません。心配しないでください。神様がなんとかしてくださいます。それで、今日の御言葉です。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」。この御言葉を口に出して言ってみましょう。心配が消えなければ、七回言ってください。そして、最後に「私の思い煩いを何もかも神様にお任せします」と言うのです。「神様は私のことを心にかけていてくださるから大丈夫」と宣言して、終わります。これは効果があり、簡単です。(さくま)

 

5月22日(火)

ペルシャの王キュロスはこう言う。天にいます神、種は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。

エズラ1:2、3

 

これは、紀元前538年ペルシャの王キュロスの治世元年のことです。バビロンを倒したキュロスがユダヤ人に捕囚解放の布告を出したのです。ここで、ユダヤ人たちはエルサレムに主の神殿を建てるためにエルサレムへ上るようにと言われている。このような箇所を読むと、先頃のアメリカ大統領の命によりアメリカ大使館をエルサレムへ移転したことを思い出すかもしれません。そのために、大変なことになっていますが、このペルシャ時代にも同じようなことが起こったわけです。捕囚でいなくなった土地に住み着いた人たちがいたのです。その人たちとこの先、争いが始まるわけです。同じようなことを紀元前からやっていたわけですから、テレビで映し出される、パレスチナ人とイスラエル人の治安部隊の衝突は、タイムマシーンで聖書の歴史を見ているような気になります。もし、イスラエルが罪を犯すことがなければ、預言者の言葉を素直に受け入れて悔い改めていたなら、バビロン捕囚はなかったはずです。そして、エレミヤの預言のようにユダヤ人たちは捕囚の地から帰還することになりましたが、簡単に戻れたわけではありませんでした。それに、ユダヤ人たちは、一度に全員がエルサレムへ戻ったわけではありませんでした。段階的に帰還したようです。エルサレムに神殿を建てるのは、捕囚の間にサマリアにすでに神殿を立てていたことから、それに対抗してエルサレムが正統であると言う意味合いがあったのです。異教の王ですら心を動かすことのできる神が歴史を動かしていることを理解しておくことが大切です。(佐久間)

 

5月23日(水)

レビ人。イエシュアとカドミエル、ビヌイ、ホダウヤの一族七十四人。詠唱者。アサフの一族百二十八人。門衛。・・・

エズラ2:40、41、42

 

2章はエルサレム帰還者の人名表です。カタカナの名前ばかりで挫折しないでください。注意深く読むとそれなりに面白いものです。例えば、レビ人が出てきます。並んで詠唱者と門衛が出てきます。この三者は、後に区別が無くなります(エズラ3:10、歴代下34:9参照)。これらの三者の人数を合計しても341人とレビ人の数が少ないことがわかります。それに対して祭司の人数は、4289人です。レビびとの人数が以上に少ないことがわかります。エズラがアハワに向かって流れる川のほとりにユダヤ人を集めて、エルサレム帰還の人員を調べたが、祭司はいてもレビ人が一人もいないので各地で探し、ようやく38人を見つけたことが記されています(8:15、18、19参照)。これは、当時、祭司以外のレビ人が少なかったことを意味します。神殿の使用人とは明確ではないが奴隷のような存在であったようで、ソロモンの使用人と共に、神殿の側で男娼、女娼をしていたとする説もあります。こうした人口調査の表はネヘミヤ記7章にも出てきます。祭司の名は、歴代誌上24:7~18に出てくる二十四家の祭司の名の表に出てきます。天では、命の書にあなたの名前もきっとあることでしょう。(佐久間)

 

5月24日(木)

昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられたのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。民の叫び声は非常に大きく、遠くまで響いたからである。

エズラ3:12、13

 

帰還したユダヤ人たちは、献げ物を主にささげ始めた。それはモーセの律法に従ったものだった。聖書によるとその主への献げ物は徹底していた。数がものすごい。危険が去ったわけではなく、敵が周りにいるのに、彼らは恐れても献げ続けたのだ。これは、単なる義務ではなく、主への圧倒的な民の思いだった。その時はまだ神殿は基礎すら作られていなかった。簡易的な祭壇を破壊された神殿の基礎の上に築き、主への礼拝が続けられた。それにしても、彼らの献げた物は驚く。平和な時ならまだしも、バビロン捕囚から帰って来て間もない時期であったことを思うと、神の民の信仰がどのようなものであったのか想像がつく。そして、彼らはいよいよ神殿建築作業に取り掛かったのだ。神殿の基礎が作られると、起工式のようなことを行なっている。ここで、祭司たちは「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和して、主を讃美し、感謝した。そして、感動的なことが起こった。民も皆、主を賛美し大きな叫び声をあげたのだ。破壊される前のソロモン神殿を知っていた老齢の祭司たちやレビ人、家長たちは、大声をあげて泣いた。民は喜びの叫びをあげ、その叫び声は驚くほど大きかった。私たちも主を信じて生きることがどのようなことか、この場面からわかる。現代でも変わることはない。教会組織の式典や教会堂の起工式、献堂式など、同じような喜びがある。しかし、バビロン捕囚から帰還した人たちの主の神殿を建設するという思いは、いかばかりであったことだろう。私たちは、この時のユダヤ人の気持ちを察することができる。そして、私たちも神の民であることを思う。(サクマ)

 

5月25日(金)

ユダとベニヤミンの敵は、捕囚の子らがイスラエルの神、主のために聖所を建てていることを聞いて、・・・その地の住民は、建築に取り掛かろうとするユダの民の士気を鈍らせ脅かす一方、・・・参議官を買収して建築計画を挫折させようとした。

エズラ4:1、4、5

 

「ユダとベニヤミンの敵」これは、4節の「その地の住民」と同じくサマリヤ人のことです。福音書を読まれた方は、サマリヤ人を忌み嫌うユダヤ人を不思議に思ったかもしれませんが、このように古い時代からの確執があったのです。サマリヤ人の協力の提案は、クロス王の命令を理由に拒絶されていますが、実際にはもっと広く深い問題があったと思われます。4節の「その他の住民」は、「アムハアレツ」で、「律法を知らぬ」呪われた民のことです。彼らは、サマリヤのゲリジム山の神殿が正当であると考えていました(ヨハネの福音書4章20節でもサマリアの女がイエスにそのことを語っています)。そのために、エルサレムの神殿再建には反対だったのです。ですから、露骨に妨害を始めたのです。現代の中東での紛争が日本人にはわかりにくいのもこんな大昔からやりあっていたからです。根が深いのです。ところで、エルサレム神殿がこのように建設が妨害され、工事が中断することになった記事を読むと、クリスチャンはユダヤ人のように憤慨すると思います。これは、同じ土地に異民族が一緒に住むために起こる問題ですから、海に囲まれている日本では理解しにくいことですね。それにしても、主の神殿はどうなるのでしょう。気になる方は、聖書通読を続けてください。(佐久間)

 

5月26日(土)

預言者ハガイとイドの子ゼカリヤが、ユダとエルサレムにいるユダの人々に向かってその保護者であるイスラエルの神の名によって預言したので、シェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアは立ち上がって、エルサレムの神殿建築を再開した。神の預言者たちも彼らと共にいて、助けてくれた。

エズラ5:1、2

 

なぜ、この章を読むとワクワクしてくるのだろう。サマリヤ人に妨害されて中断していた神殿復興工事が預言者たちの働きで再開される。それが、どんなに勇気のいることであったっか想像に難くない。ユダの人々は、中断が長引き、やがて放置していることが当たり前になって行った。その時、預言者が声をあげた。「万軍の主はこう言われる。この民は、『まだ、主の神殿を再建する時は来ていない』と言っている。」(ハガイ1:2)。「主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。『今、お前たちは、この神殿を廃虚のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。・・・山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると、主は言われる。」(ハガイ1:3、4、8)。「主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。」(ハガイ1:14)。私たちが神よりも自分のことを優先すると、それは芳しい結果にはならない。まず、第一に神の御心を実現する者になりたい。彼らは、自分の家を建てながら神殿は廃墟のまま放置していたのだ。だから、彼らの生活は祝福されなかったことが預言書からわかる。主を第一にしてから、天の恵みにあずかりたい。(サクマ)

 

5月27日(日)

この神殿は、ダレイオス王の治世第六年のアダルの月の二十三日に完成した。イスラエルの人々、祭司、レビ人、残りの捕囚の子らは、喜び祝いつつその神殿の奉献を行った。

エズラ6:15、16

 

この記事を読んで行くと、教会建築のことを考えさせられます。教会建築は主の御心に従ってなされ、教会員の信仰と献身によるからです。設計図が出来てからも長い時間がかかります。何度も挫折しそうになりながら、主の助けを得て、栄光の教会が建つのです。それが、主のご計画でなければ、決して完成するとは思えません。神殿の完成は、紀元前515年太陽暦の2~3月でした。この神殿が完成するまでには、敵による妨害のために中断したこと、人々の信仰の弱さと、まずは自分のことを先にしてという自己中心による遅延がありました。それでも、主は彼らを見捨てることなく、目的のゴールへと導いたのです。これは、信仰者が覚えておくべきことです。それぞれに主の目的があり、主の御手は離れることなく、信じる者を励まし、支え、時には試練を乗り越えさせて、忍耐して待つことがあっても、信仰を強め、祝福された喜びへと導かれるのです。今日の箇所で「ユダの人々と」書かれていたのが「イスラエルの人々」に変えられています。それは、神殿完成と共に、再び彼らが祝福された選びの民とされたことを意味しているのです。私たちもなすべきことを成し遂げたいですね。(佐久間)

 

5月28日(月)

エズラがバビロンから登ってきた。・・・エズラは、イスラエルの神なる主が授けられたモーセの律法に詳しい書記官であり、その神なる主の御手の加護を受けて、求めるものをすべて王から与えられていた。

エズラ7:6a、6b

 

 

ようやくエズラの登場です。神殿は20年かかって再建されました(6章)。その後、ペルシャ王アルタクセルクセスの治世の7年(紀元前458年)の第5の月にエルサレムに到着したとあります。実に6章と7章の間には56、7年の時間の経過があります。ここで、エズラが祭司長アロンの直系の子孫であり、祭司であり書記官であることが紹介されています。エズラは、ペルシャの国でも高級官僚の地位を得ていたのですからいかに優秀で抜きんでていた存在かわかります。彼は、「主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した」とあります。神殿ができたなら、次には信仰覚醒です。新しいスタートでは、二度と主の律法をないがしろにしないで、偶像に心を向けないことが求められたのです。そのために主が与えられた人がエズラだったのです。時間の経過は人に多くのものを失わせるのですが、それが宗教であれば、復興は神との関係を新たに結ぶための修復係のような人が必要だったのです。それがエズラだったのです。忠実な信仰者にはこの世にあっても主の御手の加護があるのです。それがどのようなものであるかエズラは証しているのです。(佐久間)