2018年7月ディボーション

7月1日(日)

主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。

創世記8:21

 

人間の罪深さはどれほどのものか、クリスチャンは知っているはずだ。罪の報いが破滅であり死であると納得してしまうだろう。毎日聞かされる悪いニュースにうんざりしているかもしれない。罪人の問題がいかに深刻であるか想像もつかない。だから、ノアの時代に罪に満たされた世界が洪水で滅ぼされることは当然のように思えるのだ。しかし、神はノアとその家族からまた新しく人間の歴史を始めたのだ。ノアが無垢で神に従順だったからこその出来事だが、神の慈しみ深さがあってのことだった。そして、罪人の洗礼を思い起こす。罪びとが水を潜って死に、その水をくぐって出てきた人はすでに新しい人で人生が新しく始まることを象徴的に描いているように感じる。もっとも、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」と書かれている通り、洪水の後に始まった新しい人間の歴史は罪と無縁ではなく、完全に罪の問題が解決するには最後の神の裁きを待たなければならなかった。しかし、その前に救い主イエス・キリストが罪人を贖うために来られた。そして、やはり洗礼が出てくるのだ。一人でも多くの人がキリストを信じて洗礼を受けることができるように祈って行こう。(サクマ)

 

7月2日(月)

動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするが良い。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。

創世記9:3

 

人間の食べ物は、最初は菜食だった(1:29参照)。しかし、人間の罪が看過できないほどに堕落し不法が満ちて、ついに洪水で滅ぼされる事になった。そして生き残ったノアとその家族から新しく人間の生が始まった。それは、食べ物が変わったことからその変化が書かれているのは興味深い。人間の食べ物が変わるということは大きな変化だから。菜食でダメで、肉食になるが果たしてその結果は、というわけだ。食べ物が人間に及ぼす影響が人格形成にまで影響していることは指摘されているが、しかし、罪の問題で言えばやはり人間は堕落したのだ。もし、食べ物を変えて罪の問題を克服できていればどんなによかっただろう。さらに、「肉は命である血を含んだまま食べてはならない」とあるので、ユダヤ教やイスラム教の人たちは血抜きの肉を今でも食べている。これは、動物を食べるために殺すことを認めているが、むやみに命を取るべきではないことを意味している。たとえ動物であったとしても、命の尊厳は守られるべきで、いい加減に扱えるようなことではないのだ。神の創造された良い世界は、罪の侵入によってすっかり変わってしまったのである。(サクマ)

 

7月3日(火)

ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに息子が生まれた。

創世記10:1

 

洪水の後、ノアという一人の人から人間は増え広がった。あまりに大昔の話なので、ここに出てくる系図の人物の全てのことがわかっているわけではないが歴代誌上1:4~23に出てくる短縮形の系図と対照する必要がある。これらは、民族表と言った方がよくわかる。始まりはノアの三人の息子だ。セム、ハム、ヤフェトだが、イスラエルはセムの子孫から現れる。そして、彼らの子孫が「産めよ、増えよ、地に満ちよ」との主の御言葉の通りになったわけだ。そして、現在にまで至ることを考えると私たちはノアの子孫であると言える事になる。一旦は滅ぼされそうになった人間が、ノアによって敗者復活戦のように始まり、世界に満ちるまでになった。その人間が何をしてきたのか、そしてイエス・キリストが預言したように、終末の徴がノアの洪水の時のようになる、ということから私たちは壮大な歴史の最後の時に立っていることは間違いないだろう。いつ終わりが来ても良いように備えておきたい。(サクマ)

 

7月4日(水)

こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

創世記11:9

 

11章のバベルの塔の箇所を読んで、世界に多言語が存在する理由を知るわけですが、もともと一つの言語であったことを考えると、外国語を勉強したくない人にとっては残念な話でしかありません。さて、この箇所は実は色々なことを考えさせる箇所でもあります。それだけ、古い神話のように感じさせる箇所だからかもしれません。まず、高い塔を建てる話が出てきますから、高度の土木技術が発達していたと考えれば、専門用語が出てきたことが考えられます。誰にでもわかる日常語ではなく、専門家同士にしか通じない言葉が出来てきた、と考えれば、言葉が通じない説明にもなるわけです。さらに、バベルです。これは明らかにバビロンを背景とした物語なのです。人間が増え広がって行く過程で、神に対抗し、いや神から離れて人間中心の強大な力を求める強烈な欲求が描かれているのです。しかし、それは最後に破綻し、失敗する事になっています。さて、同じ国民でも方言があって、言葉が通じず混乱していたのですが現代はどうでしょう。情報化社会では、誰もが一つの共通語を語り、神を忘れ、強力な人間の力を誇示しようと始まるのです。しかし、バベルの塔の最後は失敗に終わりました。神への畏れや畏敬が必要なことなのに、その反対に進む時、人間は滅びへと向かう事になるのです。しかし、この後にアブラムが登場します。ここに、希望の光が灯ります。天にまで届く塔を建てて神を恐れなくてもいいように、自分の欲望のままに、したいように生きるための大きな企てが人間の救いとはならなかったのですが、小さな一人の男アブラムから、人間の救いの計画は動き出します。この章は、そのためのプロローグなのです。(佐久間)

 

7月5日(木)

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。・・・」 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

創世記12:1、4

 

いよいよアブラハム物語が始まります。クリスチャンは、アブラハムを信仰の父と呼びます。その理由は、アブラハム物語の中にあります。その始まり部分が今日の聖句です。主がアブラムに語り、その主の言葉に従って旅立ったのが75歳の時です。今ならとうに定年となり、のんびり老後の生活を送っている歳です。運転免許証を返納するかどうか迷っているような年齢になって、住み慣れた安住の地から未知の世界へと旅立ったのです。確かに後のモーセも80歳になって主に召されて出エジプトの歴史に残る大事業をはじめました。日本は高齢化社会になってしまい、少子化もあって、高齢者が多いいびつな人口ピラミッドになっています。地方では、若い人が少ないために定年が撤廃されて、本人が辞めると言わない限り、80歳になっても働いている会社も出てきました。いずれ東京もそういう時がくるでしょう。興味深いのはサライです。飢饉でエジプトに避難する時、アブラムの心配は奥さんが美しい事でした。その心配は的中するのですが、この時のサライの年齢は70歳と思われます。どうでしょう。70歳で美しくて心配だというのは。某国民的美人女優のような事なのでしょうか。サライが高級化粧品を使ったりエステに通っていたということはあり得ません。でも、私たちは、なんとなく高齢になると元気がなくなりがちですが、聖書は75歳で外国へ引っ越しし、80歳で歴史的大事業を始め、70歳になっても美して王様にプロポーズされたりするのです。皆さんは、彼らの歳になった時に、ようやく主の御用を任される年齢になったと思えるでしょうか。年金のことばかり気にしていると、せっかくのチャンスを逃す事になりかねません。天国に帰ったときに、アブラハムやサライやモーセにまじって、あなたは何を話すでしょう。アブラハムが100歳の時に子供をもうけました、と自慢したら、私は100歳まで生きて再臨を迎えました。主が雲に乗って来られたお姿をちゃんと見ました、と言えたらいいですね。(さくま)

 

7月6日(金)

アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。

創世記13:12、13

 

そもそもの発端は、アブラムとロトの羊や家畜が多くて同じ土地では共存できないことが牧童たちの争いの原因になった。賢明なアブラムの提言でロトと別れる事になった。そして、ロトに好きな場所を選ばせたのだ。その結果が今日の聖句という事になる。その当時は、まだ死海は存在していなかったようだ。そして、ロトの選んだ場所は低地一体で、見るからに良い土地だったのだ。さて、この物語からどんな教訓を得ることができるだろう。こうした物語では、主から召命を受けた人の信仰を学ぶ事になっているので、当然、アブラムの言動に注意を向けるべきだ。ロトの選択は、いかにも人間的なものだった。見た感じがいかにも良い場所だった。ところがアブラムは、どこでも良いと思っていたようだ。ロトとは正反対に進むことを決めていたからだ。これは主を信じる者の特徴でもある。主がアブラムを祝福してくださっているので、人間的に考えなくても良いというわけだ。事実、その後主はアブラムに語り、「さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」と言われた。だから、ここに信仰があることを覚えたい。それは、先に主の約束があって、つまり保証があってからロトに選ばせたわけではない。ロトは当然良い土地を選び、アブラムはその反対の土地を選ばなければならない。しかし、主を信じていると、それ以上の良いことが待っている事になる。自分の目に良いと思って選んだ、ロトは、さらに最悪な町へと自ら移動していく事になった。そこでの結末は最悪なものになるが、まだ気が付いていない。神の祝福は、アブラムにとっては不利と思われた選択の中にあった。信仰を理解するのはやはり難しそうに見える。そして、争いの解決方法として、先に相手に選ばせる、という知恵があることも覚えておきたい。「損して得取れ」と日本でも格言があるが、信仰者は、そもそも損得で考えていないのだ。主の御心を求めているだけだ。それは主の召命の内容になっている。その召命にいかに応えるかということが信仰なのだ。アブラムの物語からさらに学んでいこう。(サクマ)

 

7月7日(土)

アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。

創世記14:14

 

ゲマトリア(数値換算)と聞いてわかる人もいると思いますが、旧約聖書が書かれた原語がヘブル語でそのアルファベットには数字の意味を持たせていたため、旧約聖書は数字に置き換えることができるのです。そこに何がしかの霊的な意味が隠されていることが指摘されています。今日の聖句にも数字が出てきます。318です。親戚のロトたちを救出するために、318人の私兵たちを引き連れてアブラムは見事親戚たちを助けることができました。この時の私兵の長がエリエゼルといいます。彼の話はこの後出てきます。エリエゼルのヘブル語の意味は、「神は助け主」です。このエリエゼルのヘブル語のゲマトリアがなんと318なのです。つまりアブラムが318人を連れて行った、ということの中に「神は助け主」という信仰が隠されていたのです。だからアブラムは、神が助けてくださったことを証しするために、ソドムの王から戦利品を何一つ受け取らなかったのです。あなたにも神の助けが必要な時があるでしょう。その時には318という数字を思い出してください。きっと、あなたを主が助けてくださいます。(さくま)

 

7月7日(土)

アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。

創世記14:14

 

ゲマトリア(数値換算)と聞いてわかる人もいると思いますが、旧約聖書が書かれた原語がヘブル語でそのアルファベットには数字の意味を持たせていたため、旧約聖書は数字に置き換えることができるのです。そこに何がしかの霊的な意味が隠されていることが指摘されています。今日の聖句にも数字が出てきます。318です。親戚のロトたちを救出するために、318人の私兵たちを引き連れてアブラムは見事親戚たちを助けることができました。この時の私兵の長がエリエゼルといいます。彼の話はこの後出てきます。エリエゼルのヘブル語の意味は、「神は助け主」です。このエリエゼルのヘブル語のゲマトリアがなんと318なのです。つまりアブラムが318人を連れて行った、ということの中に「神は助け主」という信仰が隠されていたのです。だからアブラムは、神が助けてくださったことを証しするために、ソドムの王から戦利品を何一つ受け取らなかったのです。あなたにも神の助けが必要な時があるでしょう。その時には318という数字を思い出してください。きっと、あなたを主が助けてくださいます。(さくま)

 

7月8日(日)

「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

創世記15:1

 

生きていて大変だと思うことはしょっちゅうあるでしょう。もう逃げ出したい、とか不安に押しつぶされそうだ、という時です。それでも、前に進まなければならない時、あなたの名を呼んで、「恐れるな、◯◯よ。わたしはあなたの盾である」と神様に言われたらどうでしょう。クリスチャンは、このアブラムのように祝福されているのです。ですから、人間的に考え過ぎてはダメです。確かに信仰が試されていると感じるかもしれません。でも、よく考えてみてください。「あなた一人で頑張れ、わたしは天から見ているから」と言われているわけではありません。神様があなたの盾になるとおっしゃっているのですよ。これほど心強いことがあるでしょうか。あなたは、「これは神様がアブラムに言った言葉じゃないか」と思っているのなら、聖書をもっと読んだ方がいいと思います。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。・・・あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(ガラテヤ3:26、29)。ですから、あなたはこのみ言葉をご自分に当てはめて、信仰を大いに鼓舞してください。繰り返しますが、あなたはすでにキリストのゆえに祝福されています。目の前に何が起こっても、祝福されていることに変わりはありません。あなたが信仰で問題を解決しようとする時、あなたの受ける報いは非常に大きいのです。主を讃美しましょう。(さくま)

 

7月9日(月)

サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところ入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」 アブラムは、サライの願いを聞き入れた。

創世記16:2

 

この時代、子供ができないことがどんなに女性にとって大変だったかしれません。現代とは様子が随分違うのです。女性は収入源が無く、夫に食べさせてもらうほかには生きるすべがありません。夫は自分の財産が自分の子供に継承されて行くことを願います。そのためには跡取りとなる男子が欲しかったのです。当然、妻には子を産むことが至上命令となるわけです。家制度が確立していた日本でも同じことがつい最近まで続いていました。さて、神はアブラムに子孫が与えられることを約束していました。そこで、サライは子供が産めないのために自分の奴隷ハガルを側妻としようとします。奴隷の産んだ子をサライの子にすることが当時は可能だったのです。ところが、いざ、ハガルが妊娠すると女主人への態度が急変します。これがこの章の物語になっています。問題は、神の約束を信じることがサライにもアブラムにも難しかったことです。約束の子を自らの考えと行動で実現しようとしたことの愚かさが教訓として残ります。神を信じるというのはに人間の常識に縛られないことです。神にできないことはないからです。そして、神には時があるということです。その神の時を待つことも信仰なのです。自分の都合や考え通りに神を使うというようなことは勿論できません。サライは、もう少し待てば自分で男の子を産むことができたのですが、結果を見るまでは人間的に不可能なことだったのですから、サライが思い切った行動に出たことも同情できます。私たちも失敗することがあるかもしれませんが、神様の約束は変わりません。あなたは祝福されていることを忘れないでください。(佐久間)

 

7月10日(火)

わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。

創世記17:7

 

この章で、神はアブラムと契約を立てる。それは「永遠の契約」だ。しかも、アブラムだけではなく「後に続く子孫」との間にも契約を立てるというものだった。まだ見ぬ未来に及ぶ永遠の契約なのだ。契約は神が立てる関係のことだった。「あなたとあなたの子孫の神となる」とある通りなのだ。神の言葉に従順に従う、神が語り、アブラムはそれに応答する。まず、それは割礼だった。この契約の大きな意味は、1節にある。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」。「全能の神」はヘブル語で、エル・シャダイである。私たちが信仰においてアブラハムの子孫であるとするなら、間違うことのない愛の神に愛を持って従順に従うこと、それは神の御前に生きることを意味する。その結果が全き者となるのだ。それを私たちは忘れてはいけない。あなたがどんなに弱くても、主はあなたを聖なる者とし、義とし、全き者とすることができるのだ。そのことを信頼し服従することを信仰によって生きると言うのだ。(サクマ)

 

7月11日(水)

正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。

創世記18:25

 

これはソドムの物語の中の一節です。主にアブラハムが語り出します。内容は、罪を犯す者のせいで、潔白な者も一緒に滅ぼされなければならないのか、というものです。アブラハムは、神は全世界を裁くお方として理解しています。そして、その神が罪を犯す者が多いからと潔白な者までも滅ぼすべきではないのではないか、と交渉が始まります。それは、50人からはじまり、最後は10人潔白な者がいれば滅ぼさないとなりました。聖書にはレムナントという言葉が出てきますが、「残りの者」という意味です。この残りの者が持つ意味は大きいのです。数は少なくても、残りの者の故に滅びを免れることがあるからです。再臨の時にも、生き残る聖徒たちが生きたまま天にあげられることが預言されています。この聖徒たちもレムナントなのです。主が残しておく者たちです。あなたも、このレムナントとして召された者であると理解していてください。(佐久間)

 

7月12日(木)

主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」・・・ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。

創世記19:17、26

 

ソドムとゴモラの滅亡が描かれている箇所です。日本人にとっては、自然災害の度に聞くような言葉なので、つい連想が走ります。そして、実感できる言葉なのです。今年も大雨で災害が広範囲におよび、死者も大勢でました。恐ろしいことですし、悲しみが大きいです。この創世記の物語は、自然災害ではなく、罪に対する罰であるというところが違います。ロトの妻が塩の柱になったことは、「後ろを振り返ってはいけない」という主の命令に不服従であることが結果的に滅びを招く事を教訓的に教えています。ロトもそうでしたが、簡単には町を捨てて逃げる事ができませんでした。御使に連れ出されて初めて町を出ました。このことは、アブラハムの生き方と対照的です。アブラハムは主と共に歩もうとしていたのでこの世の繁栄や快楽とは隔たった生き方をしていたのですが、ロトはそのこの世の繁栄と快楽の象徴であったソドムによそ者として生きていたのです。クリスチャンがこの世でよそ者としていきているのに似ています。よそ者というのは、神の国に生きているはずだからこの世とは一線を画しているという意味です。でも、それ以上の神の国に生きていたのがアブラハムという事なのです。信仰で生きるという事は、アブラハムのように生きる事を意味しています。この世に多くの未練を残すと肉が出てくるのでろくなことになりません。ロトの妻は、主のみ言葉に従うということがよくわかっていなかったのです。クリスチャンは、そのため、ロトの妻が塩の柱になった事を教訓のように教会で度々語られ、振り返るような信仰にならないようにと自らに言い聞かせているのです。(佐久間)

 

7月13日(金)

アブラハムは答えた。「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。

創世記20:11

 

アブラハムの答えは、興味深い。現代の日本人は、「神を畏れることが全くない」と言えるだろうか。自分は無神論者だと公然と言う人も少なからずいることはわかるだろう。しかし、テレビの旅番組などで神社仏閣が出てくると、出演者はできるだけ正式に拝礼しようとするのである。そして、日本中に数多くのお寺や神社があっても、それらがどんどん潰れて廃れたという話は聞かない。面白いのは観光地と言われるところには必ず神社仏閣があるし、観光客は喜んで自ら訪ねるのである。さて、神の存在を信じないということは、美しい人妻を見て、その夫を殺して自分のものにしようとするような人のことを言っているのだ。だから、外国で神を信じないと平然と言えば、危険人物だと認識されてしまうわけだ。日本に外国人が来てみたら、治安の良さと宗教施設の多さに気がつく。それは、「神を畏れることが全くない」人たちではないと認めることになる。罪人が、神に背を向けて逃走している人として説明されるのは、神を全く畏れないというわけではなく、自分の欲望のまま思い通りに行動するには神の存在は都合が悪いのでつい背を向けたくなるし、罪を犯せば罪責感から逃げ出したくなることを意味しているのだ。それにしても、殺されるよりは自分の妻を妹だと言う、ということはどうなのだろう。当時の社会背景が現代とは想像もつかないほど異なっていたとしても、アブラハムの行為は簡単には納得ができないだろう。しかし、わしたちも人間的弱さで何べんも失敗してきたことを考えると、アブラハムを簡単に責められないだろう。神はこの非常時に介入してことなきを得ている。問題の解決はワンパターンではない。神がアブラハムを祝福するということは、ここでも現れている。神があなたを祝福することも同じように想像を超えたものだろう。主を信じて祝福された人生を全うしよう。(サクマ)

 

7月14日(土)

神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って皮袋に水を見たし、子供に飲ませた。

創世記21:19

 

ハガルがどれほど絶望していたか、物語を読んだ者には痛いほどわかるだろう。アブラハムに暇を出され、息子を連れて女が一人荒野に出て行くしかなかった。それは、生計を立てることもできずに、荒野で野垂れ死ぬことだと悲観しても仕方がない。そして、ついに死の時が来た。水が尽きたのだ。子供の死ぬ姿を見るのは忍びないと、息子を灌木の下に寝かせて大きく距離をとった。彼女は座り込み声をあげて泣き出した。それに気が付いたのか子供も泣き出した。ところが、ここで天使が語りかける。そして、将来の保証を与える。すると、彼女の目が開かれて、井戸を見つけるのだった。これは、人間の興味深い特質が見える。悲観すると死ぬしかないとまで思いつめる危険がある。同じ人間が将来に希望を持つと生きる方法が見えてくるということだ。悲観するほどの厳しい現実があると、人間は諦めてしまう傾向がある。しかし、信仰者は神の介在が必ずそこにあるものだ。神は、信じる者にとって希望そのものとなる。神は目を開かせて、楽観的に見ることを可能とするのだ。井戸はそこにあったはずなのに、見えなかった。皮袋の水が無くなると、それは死を意味していると決めつけていたのだ。このような悲観が生じたのは彼女が自分を憐れんだことが大きい。だから自己憐憫はいつでも現実を正しく見えなくする力なのだ。否定的になり短絡的な行動を取れば、取り返しがつかない結果が待っている。信仰は人間のそんな弱さを越えさせる力そのものなのだ。それは、自分中心に物事を考えないからだ。神を中心に考えることが身についていれば、普通に生きても自分に十分の恵みが備えられていることを知るだろう。自分の微力でもちゃんと生きていけるように主は道を備えてくださる。主を信じることがどんな時でもできるように訓練されていると思っていれば、何が起こっても、主が見ていてくださると精一杯生きていけるのだ。(サクマ)

 

7月15日(日)

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、主の山に、備えあり(イエラエ)と言っている。

創世記22:14

 

後世の人は、この舞台となったモリヤの山を後のエルサレムであり、神殿の場所であったとしています。信仰者にとっては、とても感慨深いものがあります。クリスチャンは、犠牲となった雄羊を私たちの身代わりに犠牲となって十字架にかかられた神の独り子イエス・キリストを象徴していると考えます。それだけでも瞑想課題になります。ところで、クリスチャンたちは、色々な人生の困難に直面する時も、「主の山に備えあり」とこの言葉を唱えては、困難を乗り越えてきました。ギリギリまで試みられるとしても、最後には「主の山に備えあり」だ、との信仰を受け継いで来ているのです。キリストの贖いの十字架を受けるに値するほどの信仰は、一朝一夕には生まれないかもしれませんが、後ろを振り返ってみれば、確かにモリヤの山を登って来たのです。そうやって、信仰によって生きていけば、ヤーウェ・イルエ「主の山に備えあり」だったと主の恵みを知ることができるのです。また、自分の罪を悔い改める時、なぜ神は赦されるのだろう、と思う日が来ます。それは、主イエスが十字架にかかって自分の身代わりに罪の罰を受けてくださったからなのです。だから、赦されているのだと心から知る日が必ず来ます。その時、「主の山に備えあり」と心から感謝があふれて唱えているでしょう。(佐久間)

 

7月16日(月)

こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている気を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。

創世記23:17、18

 

 

サラが亡くなった。127年の生涯であったから、現代から考えれば十分長生きをしたわけだ。しかし、夫のアブラハムは妻の死に嘆き悲しみ、辛い別れを経験した。残念なことに、どんなに仲の良い夫婦であっても、どちらかが先に亡くなる。長く生涯を共にして来た人生のパートナーの死は、自分の半分を失ったような喪失感があるものだ。神がアダムの助け手としてエバをアダムの一部から取って造ったことの意味が実感できるだろう。さて、その妻が亡くなって困ったのは、墓がないことだった。どこかに埋葬すればいいというわけにはいかなかった。アブラハムは寄留者だったのだ。つまり自分の土地を持っていなかったのだ。財産も増え、カナン地方の人々にも認められ、何よりも神の土地を与えるという約束が、未だ実現していなかったのだ。それが、妻の死により、墓を求めてヘト人から土地を法的に正式に購入することとなった。妻は失ったが、そのことでアブラハムは自分の土地を所有できたのだ。そこは、「ヘブロン」であった。この地名を聞くと、ダビデがユダの王になった場所であることを思い出す。このダビデがイスラエルの歴史上最も偉大な王であり、未だユダヤ人の心に生きる特別な王なのだ。そのダビデの末裔としてイエスがお生まれになった。サラが不妊であったのに神の約束でイサクが生まれたことが、後にイエスが生まれることの予型となっている。神の約束によって超自然的に生まれてくる約束の子、というわけだ。聖書の面白さがわかるだろう。(サクマ)